2018年03月

春の恒例となりつつあります。智恵子の故郷、福島二本松市での智恵子顕彰イベント「高村智恵子生誕祭」。智恵子の誕生日は5月20日ですが、4月、5月と2ヶ月かけて、さまざまな企画が予定されています。

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まずは4月7日(土)から、「智恵子の生家2階特別公開」。平成27年(2015)に始まり、春と秋の観光シーズン、年によっては夏休み期間などに、通常は非公開の、智恵子の生家の2階部分――智恵子の居室があった――に上がれます。

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当方、なんだかんだで5回くらい上がらせていただきましたが、襖を開ければそこに智恵子が座っているような、そんな感じでした。


それから、4月の二本松といえば、桜。『広報にほんまつ』の4月号がこちら。

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智恵子の生家/智恵子記念館周辺にも、見事な桜が点在しています。

そこでこの時期、「二本松の名所旧跡を巡る春さがし号(市内循環臨時バス)」が運行されます。

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ぜひご利用下さい。

それから、「高村智恵子生誕祭」としては、他にもいろいろ企画されていますが、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

深遠な思想と不惑の意志とのある処にのみ芸術はある。

散文「彫刻に就て」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

必死の思いで考えに考え抜き、精魂傾け尽くして制作されたものでなければ芸術の名に値しない、というわけですね。

この文章、本来は文部省美術展覧会(文展)と、国民美術協会展覧会の評ですが、そうでない出品作の多さを嘆く一節です。

昨日のこのブログで、光太001郎作の「今井邦子像」(大正5年=1916)に、ちらっと触れました。

最終的には大理石像にするつもりで、粘土原型を作っていたものですが、結局、未完のまま終わり、現在、現存が確認できていない彫刻です。

光太郎曰く、

私は智恵子の首を除いては女声の肖像をあまり作つてゐない。はるか以前に歌人の今井邦子女史の胸像をつくりかけたのに、途中で粘土の故障でこはれてしまつたのは惜しかつた。幸ひ写真だけは残つてゐて女史の随筆集の挿画になつてゐる。女史の持つ精神の美と強さとが幾分うかがはれるかも知れない。あの首は大理石で完成するつもりで石まで用意してあつたのである。
(「自作肖像漫談」 昭和15年=1940)

モデルとなったのは、今井邦子(明23=1890~昭23=1948)。島木赤彦の『アララギ』や、長谷川時雨の『女人芸術』に依った歌人で、のち、自ら歌誌『明日香』を主宰しました。

夫の健彦は、衆議院千葉四区選出の代議士。当時の千葉四区は、銚子や、当方自宅兼事務所のある香取市を含む区域でした。そこで今井夫妻、居住はしていなかったようなのですが、たびたびこの地を訪れています。また健彦は、銚子漁港の整備や、現在のJR成田線の敷設に力を注ぎ、そのため、銚子の名誉市民に認定されています。

ちなみに健彦は静岡出身。父親は、何と、坂本龍馬暗殺に関わったとされる幕臣・今井信郎です。邦子は四国の生まれで、幼少期に信州諏訪にうつり、北海道に住んでいたこともありました。それがなぜ千葉四区なのか、当方、寡聞にして不分明です。

その健彦の顕彰碑、そして邦子の歌碑が、香取市の名前の由来となった香取神宮に建っています。昨日、久しぶりに邦子の名を思い出し、さらに、香取神宮は桜の名所としても有名なので、思い立って行って参りました。

香取神宮は、自宅兼事務所から車で10分ほどの所です。しょっちゅう脇を通るのですが、めったに立ち寄りません。境内が非常に広大なので、気軽に立ち寄れる場所ではないもので。昔は子供達のお宮参りや七五三、初詣によく行っていました(子供達が屋台のジャンクフードを目当てにしていました(笑))し、かつては薪能も開催されていて、拝見に伺ったりしました。

門前の駐車場から。

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茶店、土産物屋、蕎麦屋などの並ぶ参道を抜けると、大鳥居。

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大鳥居をくぐってふり返ると、こんな感じです。

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大鳥居から50㍍ほどで、左手に奥宮方面へと分かれる分岐点があり、そこに今井夫妻の碑が経っています。いつも横目に通り過ぎていて、ちゃんと見るのは実は初めてでした。

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健彦の頌徳碑。事績の紹介の中に、邦子の名も。

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邦子の歌碑。

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達筆すぎて判読に苦労するのですが、

いつきても 胸すかすかし 神宮の しつけき森に いろつく楓     邦子女史作紫草の中より


とあります。濁点が使われていませんので、「すかすかし」は「すがすがし(清々し)」、「しつけき」は「静けき」、「いろつく」は「色づく」でしょう。「紫草」は、昭和6年(1931)、岩波書店刊行の第三歌集です。

そういえば、香取神宮、桜と共に紅葉の名所でもあります。

碑陰記。それに依れば、碑の建立は昭和39年(1964)でした。

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せっかくですので、久しぶりに本殿に参拝すべく、歩きました。ソメイヨシノ以外にも、しだれ桜や山桜系もみごとです。また、邦子が歌に詠んだ楓は、この時期、爽やかな新緑です。

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楼門。元禄年間の建立で、国指定重要文化財です。

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こちらも重要文化財の本殿。楼門と同時期の建立です。

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この黒い社殿が珍しい、クール、ということと、広大な境内全域が原生林に囲まれ、マイナスイオンが溢れていることなどから、最近はパワースポットとしても人気です。昨日も、平日にもかかわらず多くの参拝客の皆さんがいらしていました。また、昨今は、少し離れた旧市街とセットのバスツアーなども組まれているようです。そちらは江戸~昭和戦前の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

本殿の右側を通って、禁足地を横目に、裏手へ。穴場のスポット、鹿苑があります。一時、鹿さんたちにとってあまりいい環境ではなかったのですが、最近はボランティアの方々のご努力で、改善されています。

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鹿苑わきの茶店の展望台から。

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昔は遠く利根川が見えたのですが、樹木が伸び、展望はきかなくなってしまっていました。しかし、桜はやはり見事でした。

来た道を引き返し、大鳥居をくぐって参道へ。このあたり、昔は旅館が何軒かあったそうで、その名残も。

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これなどは、おそらく各地から仲間同士で参拝に来ていた講の札ではないかと思われます。

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大正10年(1921)、歌人の柳原白蓮が、夫である福岡の炭坑王・伊藤伝右衛門の元から出奔し、宮崎滔天の息子・龍介と駆け落ちしました。その逃避行の際、ほんの一時期ですが、このあたりの旅館に潜伏していたそうです。手引きをしたのが、今井健彦だとのこと。残念ながら、その旅館は残っていないらしいのですが。

また、光太郎の師であり、同じ歌人同士、今井邦子とも多少の関わりがあった与謝野鉄幹・晶子夫妻も、明治44年(1911)初夏、銚子から船で利根川を遡上、香取神宮に参拝しています。その船着場があった津宮(つのみや)地区にあった旅館に夫妻は宿泊。そこには晶子歌碑も建立されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は私の製作する他の芸術が若し彫刻的に傾いて来る様な事があつても驚きはしないだらうと思ふ。又悲しまないだらうと思ふ。私の思想、私の性格、私の想像、私の欲望にかなり粘土のにほひのする事は、うすうす私自身でも感づいて居る。
散文「大正博覧会の彫刻を見て所感を記す」より
 大正3年(1914) 光太郎32歳

夙に光太郎の詩は「彫刻的」と評されてきました。語を立体的に構成し、一つの作品として仕上げていく手法などに対してです。

この短い一文にも、同様の手法が使われているように思えます。まるで塑像に粘土を貼り付けていくように、正面から「私の思想」、サイドには「私の性格」、後ろに回って「私の想像」、下の方に「私の欲望」……というふうに。

一昨日の横浜行レポート、続きです。

神奈川近代文学館さんでの特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」拝観後、車をみなとみらい地区に向けました。次の目的地は、横浜美術館さん。お目当ては、「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展




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さらにお目当ては、この展覧会の目玉、ロダン作の「接吻」の大理石像。

これのみ、写真撮影が可でした。

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想像していたより大きく、見上げるような高さでした。後で調べたところ、パリのロダン美術館にあるオリジナルは180センチほどだそうで、レプリカであるこちらもほぼ同じでしょう。それがさらに展示台に乗っています。

ブロンズの「接吻」は、平成24年(2012)、上野の国立西洋美術館さんで開催された「手の痕跡 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描」展などで拝見したことがありまして、そちらは高さ90センチほど。

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「接吻」というとその大きさ、とい003うシナプス回路が脳内に出来上がっていましたので、意外でした。

それから、ブロンズにはブロンズの量感の良さがありますが、それとは異なる大理石の質感もまた魅力的だと思いました。

光太郎は、明治43年(1910)の散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」中で、次のように述べています。

RODIN の胸像の青銅(ブロンズ)の色は色ばかり見てゐても快感を与へられる。そして、その材料の色と彫刻の内容とがぴたりと出合つて居る。 ST.JOHN は青銅で、接吻は大理石であつた。

「ST.JOHN」は聖ヨハネ。おそらく明治13年(1880)作の「説教する洗礼者ヨハネ」でしょう。たしかにこれが大理石だと、かなりの違和感があるように思えます。

ちなみに光太郎も、大理石彫刻を手がけています。

残念ながら、現物の現存は確認できていませんが、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)がそれです。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

そのドラ息子(笑)に宛てた書簡も残っています。

まず、大正6年(1917)3月31日付。

拝啓 先日は大変懇ろな御手がみ頂戴いたし小生も稍心を安んじ申候 あれ以来石屋に再三の催促をいたし漸く両三日前石が到着いたしました 今度の石は材質殊の外よろしく 一寸パリアンマーブルの面影あるような気がいたします 全く東京では求めがたき品と信じます それで大変嬉しくおもつて居ります 職工は三日から参りまして點模(ホンダン)にかかります 其を督励して出来るだけ早くしかし充分に心を尽して私が仕上げます 今月中には大てい御手許にさし上げられるかと思つて居ります 今日は他の近作と同時にあの原型も一緒に写真にとりました 写真が失敗でなかつたら御覧に入れます (写真の技術が小生は大下手故心配して居ります) 
(略)

さらに同年4月28日付。

(略)
例の大理石はあれから仕事いたして居りますがも少し運びました上自分のアトリエに持ち来りて最後の仕上げをいたす心算で居ります 今月も最早三四日になりましたが完成はいま少々御猶予をねがはねばならぬ事まことに御気の毒に存じます 
(略)
今少し仕事の運びたる上アトリエに持ち来り 貴下に一度見て頂いてから最后の仕上げをいたしたく存じて居りますゆゑ其節は一寸御報告申上げるつもりでございます よろしく御承知置き下さるやうお願ひ申上げます
(略)

光太郎、粘土で原型を作り、その上でそれを大理石に写すという手法で制作していたようです。荒削りには職人さんの手を借りていたようで、そういうこともやっていたんだ、と興味深く感じました。

おそらくその粘土での原型が左下。写真のみ現存しています。

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右は、前年から取り組んでいた歌人の今井邦子の像。こちらも大理石に写すつもりでしたが、やはり実現しませんでした。こちらも現物は現存が確認できていません。どこからか、ひょっこり出てこないものかと思っているのですが……。

閑話休題。

「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」を拝観した後、同時開催の同館コレクション展も拝見しました。藤田嗣治、岸田劉生、河野通勢ら、光太郎と交流のあった作家の作品も含まれており、ラッキーでした。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

「来るべきところへ来た。行くべきところへ行かないでは居ないだらう。」 これが正直な、私自身の現状に対して私の有つてゐる心である。

散文「文展第二部に聯関する雑感」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

この後、延々と自分が歩いてきた道について、こうであった、そして今後はこうなるだろう、といった言が続きます。どうも翌年に発表した詩「道程」の原形(初出形)102行ロングバージョンのさらに原型のような気がします。

今日は長くなりましたので、もう引用する気力がありません(笑)。いずれまた何かの機会にご紹介します。

昨日は横浜で2箇所を廻りました。

横浜ですと、公共交通機関で行くより自家用車の方が手っ取り早いので、昨日もそうしましたが、首都高湾岸線その他がかなりの渋滞で、しかたなく途中から京葉道に入って南下、遠回りになりますがアクアライン経由で行きました。

途中の海ほたるPA。数年ぶりにアクアラインを通りました。ちなみに帰りは普通に湾岸線を使いましたが、やはり大渋滞。それもそのはず、東京港トンネルのど真ん中で、大型トレーラーが故障で停車していました。

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横浜に入り、まずは港の見える丘公園内の神奈川近代文学館さんへ。自宅兼事務所のある千葉の桜は9分咲きといったところでしたが、こちらは満開でした。




晶子の一生を時系列で追う展示が基本で、非常にわかりやすくまとまっていました。「プロローグ 乙女となりし父母の家――故郷の町・堺」、「第一部 『みだれ髪』の歌人――新しい時代を拓く」、「第二部 晶子の「源氏物語」――古典と現代をつなぐ」、「エピローグ 冬の夜の星君なりき――激動の時代の中で」。合間に「スポット 晶子のまなざし(①女性たちへ/②子どもたちへ/③若者たちへ)」、「スポット 旅を詠む/晶子と神奈川」。

個人的には、明治44年(1911)、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を添えた屏風紙二点を、特に興味深く拝見しました。その存在自体は、平成23年(2011)に、大阪の逸翁美術館さんで開催された企画展「与謝野晶子と小林一三」の図録を入手して存じておりましたが、実物を見たのは初めてで、大興奮でした。

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途中で展示替えがあるということで、前期展示期間が4月15日(日)まで、後期展示期間は4月17日(火)~5月13日(日) だそうです。後期になったらまた行くつもりでおります。

図録も充実しています。歌人の尾崎左永子氏、今野寿美氏、さらに連翹忌にもご参加下さったことのある、山梨県立文学館館長・三枝昻之氏(ちなみに山梨県立文学館さんといえば、平成25年(2013)に、「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」が開催され、行って参りました。)などの玉稿が掲載され、図版も豊富です。

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これで600円は、超お買い得(笑)。

皆様もぜひ、足をお運び下さい。

その後、みなとみらいの横浜美術館さんに移動、「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展を拝見して参りました。そちらのレポートは明日。


【折々のことば・光太郎】

私は生(ラ ヸイ)を欲する。ただ生(ラ ヸイ)を欲する。其の餘の贅疣(ぜいいう)は全く棄てて顧みない。生(ラ ヸイ)はただ一つである。「無くて叶はぬものはただ一つなり」と言つたクリストの心は私の心である。
散文「文展の彫刻」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

造型でも詩でも、光太郎芸術の根幹をなす「生(ラ ヸイ)」が語られています。「生(ラ ヸイ)」は、仏語の「La Vie」。一般に「生命」、「命」と訳されます。

毎月ご紹介しています、日本絵手紙協会さん発行の月刊誌『月刊絵手紙』の4月号が届きました。昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

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今号は大正9年(1920)に書かれた評論、「彫刻鑑賞の第一歩」から、かなり長文で抜粋されています。

過日のこのブログでご紹介いたしました、横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展の紹介記事「高村光太郎も尊崇したロダンの彫刻――「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」(横浜美術館)――」が、併せて掲載されています。画像は同展の目玉出品物、ロダン作「接吻」の大理石像です。『月刊絵手紙』さんで、この展覧会を取り上げるとは、意外といえば意外でした。

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後ろの方のページにも、同展の案内が。

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これはもう、「同展を観に行きなさい」という、泉下の光太郎からの啓示と捉え(笑)、今日、観に行って参ります。同じ横浜ですので、神奈川近代文学館さんで開催中の特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも、併せて足を運んで参ります。

皆様も、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

何にしろ、もつとしつかりした作品が出来て来なくてはならない。どうも為方がない。画くより外はない。そして画くといふ事について幾度も血の出るまで思ひ返さねばならない。画くといふ事は言ふまでもなく命に外ならないのだから。
散文「光風会の一瞥」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「光風会」は、上野竹之台陳列館で開催された「光風会第二回洋画展覧会」。留学仲間だった有島生馬、山下新太郎、南薫造、柳敬助、津田青楓、師にあたる藤島武二、「パンの会」での盟友・石井柏亭らの作が並び、光太郎は誉めもしていますが、批判もしています。友人知己だからと言って容赦せず、「血の出る」思いを込めて制作した作品でなければ認められないという、光太郎の芸術感がよく表されています。

NHK文化センターさんによるカルチャースクールの情報です。 

佛像彫刻入門

期 日 : 2018年4月7日(土) ・ 4月21日(土) ・ 5月19日(土) ・ 6月2日(土) ・ 6月16日(土)
       ・ 6月30日(土)

会 場 : NHKカルチャー横浜ランドマーク教室
       横浜市西区みなとみらい2-2-1ランドマ-クプラザ5F
時 間 : 13:00~17:00
料 金 : 40,435円
講 師 : 高村晴雲氏

彫刻刀の扱い方から、地紋彫り、線彫りの天人像、立体佛へと進みます。各人の進度にあわせてじっくりと指導していきます。

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講師の高村晴雲氏は、三代目晴雲。光太郎の父、高村光雲の師である高村東雲の末裔にあたられる方です。したがって、江戸から続く高村一派の木彫の正統な系譜を嗣いでいます。ご自宅は鎌倉です。

NHKカルチャーさんの会員限定の講座のようですが、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

私はやつぱり歩んで行かう。何処へ、何処へ。何処へと問ふのは間違つてゐる。歩む事を歩むのだ。

散文「西洋画所見」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

やはり文部省美術展覧会(文展)の評で、『読売新聞』に掲載されました。

『高村光太郎全集』には、11月1日から16日にかけての11回分が掲載されていますが、最終回に当たる第12回(17日掲載)が脱落しており、今回引用したのはその第12回の一節です。

文展等のアカデミズムには与しないという主義主張を再確認する一文です。

昨日開会した企画展です。直接的には光太郎に関わりませんが……。

ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより

期 日 : 2018年3月24日(土)~6月24日(日)
会 場 : 横浜美術館 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1
時 間 : 10時~18時 *ただし、2018年5月11日(金)、6月8日(金)は、20時30分まで
料 金 : 一般 1,600円(1,500円)   大学・専門学校生 1,200円(1,100円)
         中高生 600円(500円)   
65歳以上 1,500円   ( )内団体料金
休館日 : 木曜日、5月7日(月)*ただし5月3日(木・祝)は開館

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ヌード――人間にとって最も身近といえるこのテーマに、西洋の芸術家たちは絶えず向き合い、挑み続けてきました。美の象徴として、愛の表現として、また内面を映しだす表象として、ヌードはいつの時代においても永遠のテーマとしてあり続け、ときに批判や論争の対象にもなりました。

本展は、世界屈指の西洋近現代美術コレクションを誇る英国テートの所蔵作品により、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで、西洋美術の200年にわたる裸体表現の歴史を紐ときます。フレデリック・ロード・レイトンが神話を題材として描いた理想化された裸体から、ボナールらの室内の親密なヌード、男女の愛を永遠にとどめたロダンの大理石彫刻《接吻》[日本初公開]やシュルレアリスムの裸体表現、人間の真実に肉迫するフランシス・ベーコン、さらにはバークレー・L・ヘンドリックスやシンディ・シャーマンなど、現代における身体の解釈をとおして、ヌードをめぐる表現がいかに時代とともに変化し、また芸術表現としてどのような意味をもちうるのか、絵画、彫刻、版画、写真など約130点でたどります。
2016年のオーストラリアを皮切りにニュージーランド、韓国へと国際巡回する本展。待望の日本上陸です。

本展のみどころ
1. テーマは「ヌード」。西洋の芸術家たちの挑戦の軌跡を追う。
「ヌード」は西洋の芸術家たちが絶えず向き合ってきた永遠のテーマです。しかし、「ヌード」をテーマにした大規模な展覧会は前例が少なく、挑戦的な試みです。本展は、この難しいテーマに意欲的に取り組み、ヴィクトリア朝から現代までのヌードの歴史を辿ります。

2. 近現代美術の殿堂、英国テートからヌードの傑作が集結。
1897年の開館以来、世界屈指の近現代美術コレクションと先進的な活動で常に美術界をリードしてきたテート。その至高の作品群よりヌードを主題とした作品が集結します。ロダンの大理石彫刻《接吻》をはじめ、ターナーが描いた貴重なヌード作品や、マティス、ピカソ、ホックニーなど19 世紀後半から現代まで、それぞれの時代を代表する芸術家たちの作品が出品されます。

3. ロダンの大理石彫刻《接吻》が日本初公開!
ロダンの代表作であり、男女の愛を永遠にとどめた《接吻》。情熱に満ち、惹かれ合うふたりの純粋な姿が、甘美な輝きに包まれています。「恋愛こそ生命の花です」*、こう語るロダンにとって、愛することは生きることそのものであり、また制作の原点であったといえるでしょう。ブロンズ像で広く知られる《接吻》ですが、高さ180センチ余りのスケールで制作された迫力の大理石像は世界にわずか3体限り。そのうちの一体がついに日本初公開です。 *高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』より



光太郎が敬愛したオーギュスト・ロダンの代表作の一つ、「接吻」の大理石像が目玉です。



出品されているのは、英国テート・ギャラリー所蔵の優品からセレクトされたもので、ロダンは「接吻」のみ、あとは、ターナー、ドガ、ルノワール、マチス、ピカソ、ジョルジュ・デ・キリコ、ヒンリ・ムーア、ジャコメッティといったあたりが一般的なところでしょうか。出品目録はこちら

関連行事も色々充実しています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は私の狂疾である。私にとつて、世の中で一番魂の誘惑者となるものは彫刻である。私の眼には、彫刻は、諸芸術の中でも、最も神秘的に見え、最も魅力に富んで見え、最も作者の全人格の内秘を語り出すもののやうに見える。
散文「彫刻に関する二三の感想」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

おそらく、ロダンにとってもそうだったのではないでしょうか。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、毎年光太郎の忌日・4月2日に花巻としての連翹忌を開催して下さっています。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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当方、当会主催の連翹忌の集いを東京日比谷松本楼さんでで開催する都合上、そちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。

例年、終了後に地元紙やテレビのローカルニュースなどで報道されています。



『広報はなまき』といえば、今号の表紙は、やはり戦後に花巻で暮らした僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観を主人公とした「第42回花巻市民劇場公演 多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」の様子でした。

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等観は、同時期に隣村にいた光太郎と交流があり、お互いの草庵を行き来したりもしていました。

そんなわけで、光太郎も登場。

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おそらく中央の恰幅のいい方が光太郎でしょう。

となると、メインの写真で、等観の後ろにいる右の方も光太郎のようです。

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平成16年(2004)初演の再演のようで、さらなる再演、さらには等観ゆかりの千葉での公演などもしていただけるとありがたいのですが……。

それにしても、連翹忌にしてもそうですが、花巻の皆さんの地元愛には頭が下がります。地方都市はそうあるべきですね。


【折々のことば・光太郎】

今の日本では、空碧くして水白き自然の緻密な写生画を目して真面目な作と為すのである。してみると、其の真面目な作といふものは私等の魂の切に欲求する所と非常に違つたものになるわけである。

散文「文部省展覧会第二部私見」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎が求めているものは、作品に表される個々の作家のやむにやまれぬ衝動――その絵をどうしてもそう描かざるを得なかった作家個人の内面の表出、自然に対する見方――とでもいったものでしょうか。

文展に並ぶ作品には、黒田清輝ら一部の例外を除いて、そうしたものが感じられない、というのです。

3件ご紹介します。

まず、今月15日の『沖縄タイムス』さんから。

[記者のメモ]/教え子の質問にドキリ

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○…市長選の応援で訪れた石垣で、八重山高校赴任時代の教え子と再会した赤嶺政賢衆院議員(共産)。当時の生徒らは62歳になっていた。「先生の声が大きくて眠れなかった」などの思い出話もあり、懐かしかったという。「高村光太郎の詩はまだ暗唱しているよ。先生も覚えてる?」と聞かれドキリとしたエピソードも。初めて教壇に立った時の生徒たちを前に「教員として未熟な自分を受け入れてくれた。生徒の人生に何かしらを与えられてたらうれしい。エネルギーをもらった」と、英気を養った様子。


赤嶺氏、おそらく教員時代、教え子の皆さんに光太郎の詩を暗唱させたのでしょう。「当時の生徒らは62歳」とありますから、少なくとも40数年前のことですね。

光太郎の代表作「道程」などの短い作品であれば、40数年経っていても記憶に残っているとしてもおかしくありません。


「道程」といえば、当方にとっては実にショッキングな報道がありました。昨日の『デイリースポーツ』さんです。 

サンプラザ中野くん 卒業生への言葉が名言と話題「皆さんの前に道はありません!」

 歌手・サンプラザ中野くん(57)が、00321日放送のTBS系「CDTVスペシャル!卒業ソング音楽祭2018」(午後7・00)に出演。番組内で今春に卒業する若者たちに向けて発した言葉が名言だと、ネット上で話題になっている。
 中野くんは番組で「大きな玉ねぎの下で」を歌唱。その後に、新たな世界に出発する若者たちにメッセージを求められると「卒業おめでとうございます」と祝福し「皆さんの前に道はありません!皆さんの後に道ができます」と伝えた。
  「無限のフィールドを思い思いのスピードで、方向へ駆け抜けて行ってください。いつまでも応援し続けます!Runner!」と拳を突き上げた。
  この言葉にネット上が反応し「これは名言すぎる」「ぐっときた」「何気にめっちゃいい言葉やん」「校長先生顔負けの名言」とのコメントが相次いでいる。


当然、中野くん氏は「道程」を念頭にこの発言をなさったはずなのですが、この記事を書いた記者さん、それから中野くん氏オリジナルと思って賞賛したネット住民の皆さん、それに気づいていないというわけです。

実際、一昨日のtwitterのツイート(つぶやき)を見てみると、記事にあるような賞賛の言葉が見受けられます。同時に、さすがに「道程」からの引用だと気づいた方もたくさんいらっしゃり、少し安心しました。

曰く、「まさか引用でこんなこと言われるとは、中野くんさんも苦笑いだろうなwww」、「高村光太郎が泣いてるわ。」、「高村光太郎の言葉を自身の言葉として称賛されてしまったサンプラザ中野くんが困っています。」、「有名な言葉やんって聞きながら思ってたけど、オリジナルみたいになっててびっくりするわ。」……。

一般的な国語の教科書には、もはや「道程」が載っていないようなのですが、それにしても……と思いました。この調子でいくと、数十年後には「高村光太郎? 誰、それ?」、「「道程」? 何じゃそりゃ?」という時代がほんとにやってきてしまうのかも知れません。当方、そうなることを最もおそれているのですが……。

ちなみに「道程」、大正3年(1914)の詩集『道程』に収められたショートバージョン(決定形)、それからそれに先立つ雑誌掲載時の102行ロングバージョン(初出形)ともに、先月のこのブログでご紹介しております。ご覧下さい。


もう1件、『東京新聞』さんから。ただ、紙面に載ったのか、web上だけのものなのか、当方、購読しておりませんし、地元の図書館でも置いていないので、わかりません。 

日々チョウカンヌ 3月13日

1883年の今日は、彫刻家で詩人004の高村光太郎さんのお誕生日。妻への気持ちをつづった詩集「智恵子抄」は映画化もされ、多くの人に愛されたわ。


「チョウカンヌ」というのは、ツイッターによれば「身も心も新聞でできている」、「今は東京新聞の公式キャラクターになるために、毎日がんばっているところ」だそうです。

イラストでは「詩人として有名な高村光太郎さん」とリスペクトして下さっていますが、先ほどのサンプラザ中野くん氏の記事を見ると、「有名な」の一語はもはや風前の灯火かも、と心配になってしまいます。

そうならないよう、光太郎智恵子の啓発に、今後とも取り組む所存であります!


【折々のことば・光太郎】

僕等の欲する画は真を模(うつ)したものではない。美しい生命をうつしたものである。眼に見える所謂真をうつした絵画は古来飽きあきするほど見せつけられてゐる。醜(きたな)い真の再現はもう沢山である。

散文「ENTRE DEUX VINS」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

そして光太郎、ヒユウザン会(のちフユウザン会)などで発表した自身の絵画は、大胆な色遣い、烈しいタッチのフォービズム(野獣派)風のものを実作していきます。

光太郎の本格的な文学活動の出発点ともいえる、雑誌『明星』がらみで2件。どちらも明星研究会さんの関連です。

まずはイベント情報です。 
会  場 : 武蔵野商工会議所・市民会議室 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
時  間 : 午後1時30分~午後4時30分
参  加  費 : 1,500円 (含資料代  別途懇親会費) 
申し込み : 下記画像参照

プログラム
  総合司会:芹澤弘子
  第1部 : ミニ講演
   「馬場孤蝶と薄田泣菫~与謝野夫妻との関係性について」 江田浩司(歌人)
   「平出修と平野萬里~与謝野夫妻が最も信頼した2人」 平出洸(平出修研究会主宰)
  第2部 : 対談 「極上のライバル、最上の知性~登美子・雅子・鷗外・敏」
   松村由利子(歌人):山川登美子・茅野雅子/松平盟子(歌人):森鷗外・上田敏

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「高村光太郎」の文字はありませんが、名前程度は出ることと思われます。


もう1件、雑誌の新刊情報を。 

『短歌研究』 4月号 

2018年3月21日 短歌研究社 定価1,000円+税

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「再録 明星研究会講演 松平盟子│『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩~」ということで、昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、やはり明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での、歌人・松平盟子氏による第一部講演の筆録が掲載されています。

今後、第二部シンポジウムの筆録も掲載されるそうで、そうなると、やはり松平氏による光太郎の稿も出るはずです。ただし、次号には、上記の「第12回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 We Love Akiko ~晶子を愛した「明星」の綺羅たち」での講演、対談の筆録が載るようですが。

追記 次号は松平氏による「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での光太郎に関するご発表の筆録が掲載されるそうです。

ぜひお買い求め下さい。


ちなみに、先の話になりますが、5月には朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室において、松平氏と当方による講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」が開催されます。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

現代の日本人にも現代の世界の思想と情緒とが脈をうつて漲つてゐる。日本の此の自然を此の日本人の本当の頭脳で了解して、広重歌麿があの当時の空気を遺憾なく訳出した如く、それ以上の自然の新しい美しさを発見したい。

散文「AB HOC ET AB HAC」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

題名は「手当たり次第に」という意味のラテン語です。前年秋の文展西洋画の部の評ですが、「日本初の印象派絵画」とも称される、山脇信徳の「停車場の朝」に焦点を当てています。

この絵は賛否両論を巻き起こし(光太郎は「賛」)、その論争から、光太郎の有名な評論「緑色の太陽」が生まれました。

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この画の現物は残って居らず、モノクロの写真で見ることができるだけです。

毎年この時期に福島市で行われている少人数合唱のアンサンブルコンテストです。光太郎詩「あどけない話」の一節から採られ、福島では復興の合い言葉となっている「ほんとうの空」(光太郎詩では「ほんとの空」)の語が、サブタイトルに使われています。 

第11回声楽アンサンブルコンテスト全国大会2018 感動の歌声 響け、ほんとうの空に。

声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名の少人数編成の合唱団によるコンテストです。   
全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第11回目を迎えました。

平成30年3月22日(木)~25日(日) 福島市音楽堂大ホール 福島県福島市入江町1-1

主 催 福島県 福島県教育委員会 声楽アンサンブルコンテスト全国大会実行委員会

共 催  全日本合唱連盟 全日本合唱連盟東北支部 福島県合唱連盟 福島市 福島市教育委員会

スケジュール
 3月22日(木) 中学校部門
 3月23日(金) 高等学校部門
 3月24日(土) 小学校・ジュニア部門、一般部門
 3月25日(日) 本選

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当初は単なる合唱アンサンブルコンテストでしたが、平成23年(2011)のやはりこの時期に計画されていた第4回大会が東日本大震災によりやむなく中止となり、平成25年(2013)の第6回大会から、震災からの復興を祈念する意味もあって「ほんとうの空」の語がサブタイトルに盛り込まれるようになりました。

合唱王国として名高い地元福島の諸団体をはじめ、全国、そして海外からも出演団体が集まります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

箇人箇人の作家の展覧会を早く見て十分に夫々の作家の真面目を楽んで味ふ事のできる日の来るのを待つてゐる。公設展覧会はもう御免だ。

散文「一夕話(文部省展覧会の西洋画及彫刻に就て)」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

明治末、欧米では当たり前だった作家の個展というものが、日本では未だに開催されていませんでした。そうした現状を憂いた光太郎は、翌年に神田淡路町に我が国初とも言われる画廊、琅玕洞をオープンさせます。

信州安曇野の碌山美術館さんから、館報第38号が発行されました。光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館ということで、毎年、光太郎がらみの企画を開催して下さっており、館報にそれが反映されています。

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表紙は最近同館が寄贈を受けた斎藤与里の絵画。斎藤は守衛や光太郎ともども、中村屋サロンに出入りしていた画家です。のちにはやはり光太郎ともども、ヒユウザン会(のちフユウザン会)に参加しています。

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手前味噌で恐縮ですが、昨年12月2日に同館で開催された、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」の筆録が掲載されています。同館学芸員の武井敏氏と、当方の対談形式でした。

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それから、やはり昨年4月22日の第107回碌山忌での研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」でのご発表を元にされた、彫刻家・酒井良氏の「ロダンと荻原守衛」。

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さらに、これもやはり昨年7月から9月にかけて開催された夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」にからめ、同館館長・五十嵐久雄氏の論考「荻原守衛のロダン訪問の考察」。 明治44年(1911)の、与謝野寛・晶子夫妻のロダン訪問にも触れられています。

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その他、今年が同館の開館60周年にあたるということで、その関連記事と、来年度の予定表。

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また近くなりましたらご紹介しますが、やはり企画展で軽く光太郎に関わるようです。

毎号充実の内容で、今号は52ページ、カラーを含め、図版も多数収録されています(当方のまずい顔も(笑))。4月2日の第62回連翹忌にご参加下さる方には、館のご厚意で無料配布いたします。そうでない方は、館の方にお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

作の力といふのは生(ラ ヸイ)の力の事だ。作つた像が力のあるべき形をして居てもこの力が無ければカルメラが膨れ上つて居る様なものになつてしまふのだ。
散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

前年秋に開催された文展の評です。「生(ラ ヸイ)」の有無が、光太郎にとっての彫刻の善し悪しとして語られるようになります。非常に観念的、主観的な見方ですが。

それがある作品として紹介されているのが、守衛の「北條虎吉氏像」でした。曰く「他の作と根を張つてゐる地面が違ふやうにちがふ。」「此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラ ヸイ)がものめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」。

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ついでですので、上記の碌山美術館さん館報から画像をお借りしました。

ミステリー作家の内田康夫さんの訃報が出ました。

内田康夫さん死去、83歳=推理作家、浅見光彦シリーズ

 名探偵「浅見光彦」シリーズで知られる作家の内田康夫(うちだ・やすお)さんが13日、敗血症のため東京都内で死去した。
  83歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会は行わず、3月23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館に献花台を設ける。喪主は妻で作家の早坂真紀(はやさか・まき、本名内田由美=うちだ・ゆみ)さん。
  コピーライター、CM制作会社経営を経て1980年、「死者の木霊」で作家デビュー。82年の3作目「後鳥羽伝説殺人事件」で初登場した浅見光彦は、警察庁刑事局長を兄に持つ33歳のルポライターというキャラクターが広く愛され、全国各地を舞台にシリーズ化。99年「ユタが愛した探偵」の沖縄県で47都道府県を網羅した。
  作品は相次いでドラマ化され、2008年には日本ミステリー文学大賞を受賞。15年夏に脳梗塞で倒れ、療養を続けていた。
  遺作となった未完の小説「孤道(こどう)」を含め計160冊余りを刊行。これまでの累計発行部数は約1億1500万部という。
(時事通信 2018年3月18日) 

作家・内田康夫さん死去 83歳 「浅見光彦シリーズ」

 名探偵・浅見光彦シリーズを生んだ作家の内田康夫(うちだ・やすお)さんが13日、敗血症のため東京都内で死去した。83歳だった。葬儀は002近親者で営んだ。喪主は妻の作家早坂真紀(はやさか・まき、本名内田由美〈うちだ・ゆみ〉)さん。23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館(火、水休館)に献花台が設けられる。
  34年東京生まれ。東洋大中退。コピーライターなどを経て、80年に3千部を自費出版した「死者の木霊」が、翌年の朝日新聞の書評で取り上げられたことが機となり、作家になった。
  名探偵・浅見は82年の「後鳥羽伝説殺人事件」に初めて登場。警察庁刑事局長の兄を持つ、ハンサムなルポライターが事件を解決するシリーズとして人気を集め、辰巳琢郎、中村俊介らが演じて映像化されてきた。
  事前に構想を固めずに書き進める作法をとり、旅情ミステリー作家として各地の風景や人々の心情を描いてきた。内田康夫財団によると、残された著作は163、累計発行部数は1億1500万部という。
  08年に日本ミステリー文学大賞を受賞。14年には永遠の33歳だった浅見が34歳になり、転機を迎える物語「遺譜 浅見光彦最後の事件」を刊行した。しかし15年、毎日新聞で浅見シリーズ「孤道」を連載中に脳梗塞(こうそく)で倒れ、執筆を中断。17年3月には休筆宣言をし、同作は未完のまま刊行され、今年4月にかけて続編を公募して完結させることになっている。
(朝日新聞 2018/03/19)


未完の「孤道」を含め、116作ある「浅見光彦シリーズ」の中の10作目、『「首の女(ひと)」殺人事件』(昭和61年=1986)が、光太郎の贋作彫刻をめぐる事件を描いたものでした。

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同年、当時、銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「the光太郎・智恵子展 高村光太郎没後30年 智恵子生誕100年」が事件の発端という設定でした。

内田氏は他にも、『「萩原朔太郎」の亡霊』(昭和57年=1982 萩原朔太郎)、『津軽殺人事件』(昭和63年=1988 太宰治)、『横浜殺人事件』(平成元年=1989 野口雨情)、『イーハトーブの幽霊』(平成7年=1995 宮沢賢治)、『遺骨』(平成9年=1997 金子みすゞ)、『砂冥宮』(平成21年=2009 泉鏡花)、『汚れちまった道』(平成24年=2012 中原中也)など、文学者をモチーフにした推理小説をたくさん執筆されましたが、モチーフと作品全体の関連度でいえば、話の枕にそれらの文学者が扱われる程度の作と異なり、『「首の女(ひと)」殺人事件』は、ほぼ全篇、光太郎智恵子にまつわる内容でした。智恵子の故郷・二本松の安達太良山が事件現場になったり、事件の重要人物が宿帳に光太郎の住所である「駒込林町二十五番地」と書いたりと。

余談というと失礼ですが、準レギュラー的に後の作品にもたびたび登場する野沢光子(浅見の幼なじみ)がヒロインとして初登場したり、それまで「スポーツタイプ」としか記述がなかった浅見の愛車がトヨタソアラリミテッドであることが初めて明かされたりした作品でもあります。


映像化も2回されています。

平成18年(2006)にはフジテレビさんで、中村俊介さん主演、ヒロインは紫吹淳さんでした。

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原作に即した作りで、二本松ロケも行われ、東京セントラル美術館の代わりに、岩手花巻の高村記念館(リニューアル前の)が使われました。残念ながら、販売用DVD等は発行されていませんが、年に数回、BS放送で再放送が繰り返されています。

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TBSさんでも、平成21年(2009)に、沢村一樹さん主演で「浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編」として映像化。ただし、物語の舞台が大きく変わったりしています。

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こちらはDVDボックスが発売されています。

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それにしても内田氏、ミステリー作家として、ある意味、見事な最期でした。『遺譜 浅見光彦最後の事件』(平成26年=2014)で、余韻を持たせながらも、浅見光彦シリーズの終末を描ききり、その直前の事件という設定で『毎日新聞』さんに連載を始めた『孤道』が体調不良のため未完にならざるを得なくなると、続きは公募するという、前代未聞の措置をとられています。来月〆切だそうで、おそらく、熱烈な浅見ファンの方々が、それぞれの物語を執筆なさっているのではないでしょうか。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

小生にとりては此所に挙げたる好きなものに属する作品の外はすべて土塊敗紙に等しく何らの Raison d'être を有せざる作品とより以外に如何にしても感ぜられず、其の中にて嫌ひなものと申すは、特別に小生の神経を害し、見るたびに不愉快に感ぜられたるものを申すのに候。

散文「文部省美術展覧会評」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

このコーナー、筑摩書房さんから刊行された『高村光太郎全集』の第一巻からはじめ、光太郎の言葉を拾っています。今日から第六巻に入りまして、当分の間は展覧会評です。

この年、3年半にわたる欧米留学から帰朝した光太郎、世界の最先端の芸術を観てきた眼に、日本の美術家の作品は、一部の例外を除き、西洋美術の猿真のような根柢のないものにしか見えませんでした。

新刊情報です。

文字に美はありや。

2018年1月12日  伊集院静著  文藝春秋  定価1,600円+税

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文字に美しい、美しくないということが本当にあるのだろうか、というきわめて個人的な疑問から歴代の名筆、名蹟をたどっていくものである。(本文より)
歴史上の偉大な人物たちは、どのような文字を書いてきたのか。
1700年間ずっと手本であり続けている”書聖”の王羲之、三筆に数えられる空海から、天下人の織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、坂本龍馬や西郷隆盛など明治維新の立役者たち、夏目漱石や谷崎潤一郎、井伏鱒二や太宰治といった文豪、そして古今亭志ん生や立川談志、ビートたけしら芸人まで。彼らの作品(写真を百点以上掲載)と生涯を独自の視点で読み解いていく。2000年にわたる書と人類の歴史を旅して、見えてきたものとは――。この一冊を読めば、文字のすべてがわかります。
「大人の流儀」シリーズでもおなじみの著者が、書について初めて本格的に描いたエッセイ。

目次
 なぜ文字が誕生したか/龍馬、恋のきっかけ/蘭亭序という名筆、妖怪?/桜、酒、春の宴/
 友情が育んだ名蹟/始皇帝VS毛沢東/木簡からゴッホの郵便夫へ/
 紀元前一四〇年、紙の発明/書に四つの宝あり/猛女と詩人の恋/弘法にも筆のあやまり/
 美は万人が共有するものか/二人の大王が嫉んだもの/我一人行かん、と僧は言った/
 素朴な線が、日本らしさへ/信長のモダニズム・天下取りにとって書とは?/
 数奇な運命をたどった女性の手紙/秘伝の書、後継の書/
”風流”とは何ぞや/
 芭蕉と蕪村、漂泊者のまなざし/ユーモアと葛藤/戯作者の字は強靭?

 水戸黄門と印籠と赤穂浪士の陣太鼓/平登路はペトロ、如庵はジョアン/
 丁稚も、手代も筆を使えた/
モズとフクロウ/親思うこころ/一番人気の疾馬の書/
 騎士をめざした兵たち/
幕末から明治へ、キラ星の書/苦悩と、苦労の果てに/
 一升、二升で酔ってどうする/
禅と哲学の「無」の世界/生涯”花”を愛でた二人の作家/
 山椒魚と、月見草の文字/
書は、画家の苦難に寄り添えるのか/書は万人のものである/
 困まった人たちの、困まった書/
文字の中の哀しみ


月刊誌『文藝春秋』さんの平成26年(2014)1月号から昨年の4月号まで連載されていた、「文字に美はありや」の単行本化です。

平成26年(2014)10月号の「第十話 猛女と詩人の恋」で光太郎に触れて下さいまして、同じ題で収録されています。ちなみに「詩人」は光太郎ですが、「猛女」は智恵子ではなく、同じ回で光太郎と共に取り上げた光明皇后です。

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雑誌初出時の図版はカラーでしたが、単行本化されたものはモノクロ写真となっており、その点は残念ですが、オールカラーにすると定価を跳ね上げざるを得ないので、いたしかたないでしょう。

光太郎の書は、画像にもある木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の鉛筆書きと見られる草稿が取り上げられています。また、光太郎の書論「書について」(昭和14年=1939)も紹介されています。

通常、雑誌連載を単行本化する際には、加筆がなされるものですが、光太郎の章では逆に連載時の最後の一文がカットされています。曰く「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」おそらく伊集院氏、連載中にはもう一度光太郎智恵子に触れるお考えもお持ちだったようですが、それが実現しなかったためでしょう。どこか他のところででも、がっつり光太郎智恵子の書について語っていただきたいものです。

他に、光太郎智恵子と交流のあった人物――夏目漱石、中村不折、熊谷守一、谷崎潤一郎ら――、光太郎が書論で紹介した人物――王羲之、空海、良寛ら――についても触れられており、興味深く拝読しました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

書などといふものは、実に真実の人間そのもののあらはれなのだから、ことさらに妍を競ふべきものでなく、目立つたお化粧をすべきものでもない。その時のありのままでいいのである。その時の当人の器量だけの書は巧拙にかかはらず必ず書ける。その代り、いくら骨折つても自分以上の書はかけない。カナクギ流でも立派な書があるし、達筆でも卑しい書がある。卑しい根性の出てゐる書がいちばんいやだ。

散文「書についての漫談」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

光太郎最晩年、最後の書論の一節です。彫刻に関しては、壮年期を除いて個展開催に興味を示さなかった光太郎ですが、最晩年には書の個展を本気で考えていました。それだけ自信もあったのでしょう。

2日続けて都内に出ておりました。

まず一昨日、光太郎の母校である荒川区立第一日暮里小学校さんへ。この春卒業の6年生に、ゲストティーチャーとして光太郎の話をさせていただきました。同校では代々6年生が、「先輩 高村光太郎に学ぶ」というテーマで、光太郎に関する調べ学習を行っています。

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1月にも同校に参りまして、やはり6年生の図工の授業を拝見しました。光太郎のブロンズ代表作「手」にちなみ、卒業記念に自分の「手」を粘土で制作するというものでした。

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その際の作品が完成しており、廊下に展示されていました。

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力作ぞろいでした。いい記念になるでしょう。

それから、「先輩 高村光太郎に学ぶ」ということで、やはり一人一人が作成したレポートも完成していました。

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ざっと拝見しましたが、それぞれに異なる切り口で調べたことをまとめていて、こちらも力作ぞろいでした。これだけのものを作るとなると、指導に当たられた先生方も大変だったろうと思われました。

来週22日が卒業式だそうで、最後に光太郎についての話をしてくれ、とのことで、前述の「手」の制作の際にもゲストティーチャーを務められた、太平洋美術会・高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんともどもお招きを頂きまして、6年生の教室で、児童の皆さんの前に立たせていただきました。

まずは当方。持ち時間が15分くらいということでしたし、既に児童の皆さんはそれぞれに光太郎について詳しく調べてレポートも完成しているので、今さら光太郎は何年何月に生まれ、こんな業績を残し……といった話をしても仕方がないと思い、パワーポイントの短いスライドショーを作り、クイズ形式で進めさせていただきました。題して「知ってトクする 光太郎クイズ」(笑)。

光太郎の偉人らしからぬ意外な一面、子供にも親しみを持てそうなエピソードなどを問題にし、最後は同校の校訓でもある「正直親切」――元々は、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外太田村の山口小学校に校訓として贈ったものですが――にからめてまとめました。児童の皆さん、なかなかに食いついてくれました(笑)。

続いて、坂本さんにバトンタッチ。坂本さんは、以前に智恵子の母校、二本松市立油井小学校さんでも披露なさった自作の紙芝居を使われました。

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その後、児童の皆さんから、光太郎に関する質問を受け付ける時間。すると、小学生と侮るなかれ、鋭い質問が出ました。例えば、光太郎木彫の「白文鳥」(昭和6年=1931頃)の「解釈」。

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こちらは光太郎が「作品」としてきちんと制作した木彫のうち、ほぼ最後のもの。このころから智恵子の心の病が顕在化し、その看病に追われたり、危なくて彫刻刀を出しておけなかったりといった理由から、木彫の制作が途絶します。そこで、「文学的」解釈として、この一対の文鳥は、光太郎智恵子の「肖像」でもあるのでは、という説が唱えられています。児童の皆さん、何かの資料でそういう話を読まれたのかも知れませんし、逆にそういう予備知識なしの直感的な感想かも知れませんが中々鋭い意見が出て、たじたじとさせられました。

「片方が片方をにらんでいるように見える」とか「片方が片方をうらやんでいる、またはねたんでいるように見える」だそうで、どうでしょうか、と。なるほど、そういわれてみると、そうも見えます。

光太郎は、この時期の彫刻では「物語性」を可能な限り排除し、純粋な造形美のみを表現する方向で取り組んでいました。学生時代に手がけた塑像などでは、いわくありげなポーズや謎めいた題名で、「物語性」を前面に押し出していましたが、それではいけない、と方向転換しています。

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しかし、心のどこかでは、この白文鳥一対は自分たち夫婦、という意識はぬぐえなかったのではのではないでしょうか。だから、児童の皆さんが感じたように、「片方が片方をにらんでいるように」とか「片方が片方をねたんでいるように」見えてしまうのかもしれません。

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ただ、この「白文鳥」、二体をどう配置するかによって、見え方がかなり異なってきます。昨今は、小さい雌を左、大きな雄を右に、上記のように配置することが多いのですが、それが正しいのかどうか、何とも言えません。

光太郎生前唯一の彫刻個展、昭和27年(1952)の中央公論社画廊での「高村光太郎小品展」図録ではこんな感じ。左右が逆ですね。こう配置すると、2羽がしっかりと寄り添っているように見えませんか。

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それから光太郎が歿した翌年(昭和32年=1957)の「高村光太郎遺作展」図録では、こうなっています。

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この配置だと、大きい方の雄は、たしかにあらぬ方を向いているように見えますね。これが無意識のうちに表された光太郎自身の智恵子へのスタンスという見方、あながちこじつけともいえないかもしれません。児童の皆さん、そこまで理論的に考えているわけではなさそうでしたが、逆に感覚的にそう捉えていたのでしょう。そういう見方も有りだよ、という話はしておきました。

来週卒業していく6年生の皆さんですが、光太郎智恵子への関心、これで終わってしまうことなく、今後とも持ち続けていってほしいと思いますし、彼等から学んだなにがしかを、今後の人生行かして行ってほしいものです。


つづいて昨夜、錦糸町のすみだトリフォニーホールさんで開催された演奏会「第29回 21世紀日本歌曲の潮流」を拝聴して参りました。

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以前から光太郎詩に曲をつけた作品を発表なさっている、名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏の「樹下の二人」が演奏されました。

この曲は、昨年、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」において、メゾソプラノの星由佳子さん、ピアノで倉本洋子さんによる演奏で初演されましたが、今回は以前から野村氏の「連作歌曲 智恵子抄」を演奏されている、バリトンの森山孝光さん、ピアノで森山康子さんご夫妻による演奏でした。

女声と男声の違いもありましたし、それからおそらくキーも変えてあったようで、またかなり違った印象でした。現代音楽というと、他の作曲家の方の作品でそういうものがありましたが、ひねった和音構成や変拍子などを多用し、めまぐるしく転調させたり、あえて無調にしたりするなど、先鋭的な作品が多い印象ですが、野村氏のそれはメロディーラインの美しさを前面に出す、いわば直球勝負。素人の当方には、そちらの方が心地よく感じられました。もっとも、いつも安心して聴いていられる森山ご夫妻の力量に負う部分も多いのですが。

野村氏、体調を崩されているとのことで、昨夜は会場にはいらっしゃらず、森山ご夫妻もお二人の出番の終了後にすぐお帰りになったとのことで(岐阜にご在住です)、終演後にお会いできなかったのが残念でしたが、野村氏、何とか連翹忌には復調して参加したいとおっしゃっていましたので、そうなることを願っています。


【折々のことば・光太郎】

強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出てゐるものがあるが、さういふ厭味がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思ふままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入した書で、実に立派だ。

散文「黄山谷について」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「黄山谷」は中国北宋時代の書家・黄庭堅。光太郎が最も愛した書家の一人です。書に限らず、詩歌や彫刻でもそうですが、光太郎の芸術評は同時に自らが求めるそのものの在り方を端的に示しています。まさに光太郎の書も、このようなものでした。

また、昨夜聴いた野村氏作曲の「樹下の二人」にも通じるところがあるように思われました。

『岩手日報』さんに、彫刻家・深沢竜一氏の訃報が出ました。

深沢 龍一氏ふかざわ・りゅういち=画家の故深沢省三・紅子夫妻の長男)

 10日午後8時12分、肺炎のため都内の病院で死去、93歳。東京都出身。自宅は東京都練馬区南田中。葬儀・告別式は家族らのみで行う。喪主は妻トシさん。
 盛岡市紺屋町の深沢紅子野の花美術館に深沢夫妻の絵を寄贈し、高窓のステンドグラスのデザインに携わるなど開館に尽力した。


昭和18年(1943)、氏は東京美術学校在学中に学徒出陣となり、3人の上級生の皆さんと共に、本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、大先輩・光太郎から激励の言葉を頂いたそうです。同年、それをモチーフにした「四人の学生」という光太郎の詩が書かれています。

  四人の学生

 けふ訪ねてきたのは四人の学生。
 見しらぬ彫刻科の若い生徒。
 非常措置の実施によつて学窓から
 いち早く入営するといふ美の雛鳥。
 彼等はいふ、002
 「さとりがひらけたやうに
 はつきり心がきまりました。」
 私はいふ、
 「どんなときにも精神の均衡を失はず、
 打てば響いて
 当面する二つなき道に身を挺するこそ
 美を創る者の本領、
 美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
 四人の学生のうしろに
 いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
 君、召させたまふ時、
 顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
 まことに千載にして一遇の世に生き
 若き力として名乗り得る者は幸である。
 四人の学生は多くを語らないが
 眉宇すでに美しい。
 「先生もどうかお元気で、」と
 この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
 学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
 聖業成りたまふの気
 氤氳として天に漲るを覚える。

海軍の特攻隊に配属されながらも、幸い、無事に復員できた氏は、モンゴルから引き揚げてきたご両親(深沢省一・紅子ご夫妻)と合流、郷里岩手に帰られ、雫石郊外で開墾、牧畜を始めたそうです。ご両親は岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授にご就任、その関係で花巻郊外旧太田村にいた光太郎と親しく交わりました。氏もたびたび光太郎の山小屋を訪れたとのこと。

昭和22年(1947)11月29日の光太郎日記に、氏の訪問の様子が記されています。

午前テカミ書のところへ深沢氏来訪。雫石よりとの事。焼パン、つけものいろいろ、イクラ、牛乳三合ほどもらふ。めづらし。雫石にての開墾生活の話いろいろ。横カケといふところの奥(雫石町より一里程)に新しく家(三十坪)を建てられ、全家すでに移住されし由。風景絶佳の由。ひる弁当を持参此処でくふ。余は汁をつくり進せる。もらつたパンを余はくふ。シユークルートも出す。午後三時半辞去さる。今夜は盛岡泊りの由。

同じ年の8月9日には、やはり太田村の山小屋を訪れたお母様に、氏が頼んでおいた書の揮毫を渡した旨の記述もありました。

午前九時頃分教場行、十時頃盛岡婦人之友友の会の女性達四十人ばかり分教場に来る。深沢紅子さんも来てゐる。(略)深沢さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。竜一氏よりたのまれゐしもの。竜一氏より半紙をもらふ。

「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。おそらくこの時のものと思われる書を、当方、3年前(平成27年=2015)に氏のご自宅で拝見しました。

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ちなみにその年の連翹忌にもご参加下さいまして、スピーチをお願いしました。上の方の画像がその時のものです。スピーチの前に、光太郎の遺影に深々と頭を下げられ「先生、ご無沙汰しておりました!」と大きなお声でおっしゃっていたのが忘れられません。

昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。残念ながら、この年の光太郎日記は大半が失われていますが、賢治の主治医で、光太郎の花巻疎開に一役買い、さらに終戦直後に約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせた佐藤隆房編著の『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に、父君・省三氏からの聞き書きが掲載されています。

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心温まる交流の様子がよくわかります。

太田村に帰った後、光太郎は佐藤隆房にあてた書簡に、「西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。」としたためています。

その後、氏は彫刻を志し、たびたび作品を持参して光太郎の山小屋を訪ね、アドバイスしてもらったそうですが、やはり残念ながらそのあたりの光太郎日記が失われています。

またお一人、生前の光太郎を知る方が亡くなられ、誠に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書を見てゐるのは無條件にたのしい。画を見るのもたのしいが、書の方が飽きないやうな気がする。書の写真帖を見てゐると時間をつぶして困るが、又あけて見たくなる。疲れた時など心が休まるし、何だか気力を与へてくれる。
散文「書をみるたのしさ」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

光太郎最晩年の言ですが、実際にこの時期、終焉の地となった中野の中西家アトリエで、書の写真集を見る光太郎の姿が、たびたび写真に収められています。

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新刊情報です。

2018年4月1日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

日本近代芸術の扉を開いた巨人の生涯に迫る

西欧留学体験、『智恵子抄』には描かれなかった智恵子との壮絶な愛、太平洋戦争とその後の独居生活…。その魂の軌跡をとおして生涯と作品に迫る、画期的にして、決定的な高村光太郎論。

目次

第一章 西欧体験
第二章 疾風怒濤期――「寂寥」まで
第三章 『智恵子抄』の時代(その前期)
第四章 「猛獣篇」(第一期)の時代
第五章 『智恵子抄』(その後期)と「猛獣篇」(第二期)
第六章 アジア太平洋戦争の時代
第七章 「自己流謫」七年
あとがき


詩人として、昭和42年(1967)、詩集『鵜原抄』で高村光太郎賞を受賞され、弁護士としては、不幸にして起こった光太郎作品をめぐる著作権裁判で原告側代理人を務められた中村稔氏の書き下ろし最新刊です。
明治末、光太郎20代の海外留学期から、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活までを追った評伝で、全534ページの大作です。根底には光太郎への限りないリスペクトを持ちつつも、批判すべき点は批判し、その上一貫してブレない光太郎観が展開されていて、534ページですが、当方、ほぼ一気に読み通しました。そのすべてに首肯できるわけではありません(戦後、花巻郊外太田村の粗末な山小屋で送った7年間の蟄居生活を「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとしている点など)が、「なるほど」と思わせる部分が多い好著です。

特徴として、氏自身も本書中で言及されていますが、光太郎詩文の引用部分が多いことが挙げられます。引用の切り貼りだけではどうにもなりませんが、どういった作品を引用するかの適切な判断と、引用部分に対する的確な評において、本書は成功しています。

評伝というもの、やはり、本人の言にあたるのが一番です。しかし、それをそのまま文字通りに鵜呑みにするのでなく、行間を読み、裏側を読むことも必要です。また、本人の言だけでなく、周辺人物のそれにも目を向ける必要もあります。中村氏は、光太郎実弟・豊周や、太田村に光太郎を呼び寄せた佐藤勝治らの回想も効果的に引きつつ、論を展開されています。

驚くべきは、中村氏、失礼ながら昭和2年(1927)のお生まれで、御年91歳。それでいて、同じ青土社さんから、一昨年には『萩原朔太郎論』(548ページ)、『西鶴を読む』(313ページ)、昨年には『石川啄木論』(528ページ)、『故旧哀傷: 私が出会った人々』(286ページ)と、次々に新刊を刊行されています。おそらくこれらも書き下ろしでしょう。

一昨年、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際にも今回の光太郎論を含む新著をご執筆中で、一気に刊行なさるというお話でした。失礼ながら、「無理でしょう」と心の中で呟いていたのですが、本当に実現されてしまいました。脱帽です。

さらに驚くべきは、「あとがき」によれば、第7章の部分はもっと長かったのを、他の章との均衡を図るため圧縮、さらに本書に収録されなかった、光太郎最晩年の再上京後についても既に書き上げられていて、本書とは別に刊行するおつもりだということ。

そちらにも期待したいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。
散文「書の深淵」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

昭和20年(1945)から7年間の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎は彫刻らしい彫刻は作りませんでした。その代わりに(ただし、「代償行動」という意味に非ず)書を多く書きました。もともと能筆だった光太郎の書が、太田村での7年間でさらに進化を遂げ、書家の石川九楊氏に「「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」と言わしめました。

思うに光太郎にとっての書とは、詩歌によって追い求めてきた言語の美としての部分と、彫刻によって成し遂げんとした造形美の部分とを併せ持つ、究極の芸術だったのかもしれません。

まずは、今週末から始まる企画展情報です。 

特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」

期 日 : 2018年3月17日(土)~5月13日(日)
会 場 : 神奈川近代文学館 第2・3展示室 横浜市中区山手町110 港の見える丘公園内
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
料 金 : 一般600円(400円) 65歳以上/20歳未満及び学生300円(200円) 高校生100円
      中学生以下無料 *( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(4月30日は開館)

2018年は、歌人・与謝野晶子(1878~1942)の生誕140年にあたります。20世紀の幕開けの年、22歳の晶子が高らかに恋愛を謳いあげた第一歌集『みだれ髪』は、近代日本の文学界に大きな衝撃を与え、新しい詩歌の時代を切り拓きました。文学史上に燦然と耀くその魅力は、今なお褪せることはありません。本展では、現在も多くの読者に親しまれている晶子の2作品-『みだれ髪』と、晶子訳「源氏物語」を軸に、さまざまな晶子の貌を紹介します。
師であった与謝野鉄幹への恋を貫き、情熱の歌人として知られる晶子は、5男6女を育てた母親でもありました。一家の家計は晶子の筆が支えていたこともあり、歌人としてのみならず、詩、評論、小説、童話、古典研究など、さまざまなジャンルで幅広い執筆活動を行っています。明治、大正、昭和にいたる激動の時代のなか、文学者として、また一人の女性として、常に先駆的な立場で生き抜いた人生は、現代の私たちにも強いメッセージを投げかけています。
本展は、堺市博物館・さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館をはじめ、多くのご関係の方々、団体にご協力を仰ぎながら、数々の貴重資料とともに、晶子の波瀾の人生を辿ります。

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関連行事

生誕140年 与謝野晶子展 記念イベント
 4月 7日(土) 講演会Ⅰ「『恋衣』そして晶子と古典」 講師:尾崎左永子
 4月21日(土) 講演会Ⅱ 「近代を創る―鉄幹晶子の五十年」 講師:三枝昻之
 5月 5日(土・祝) 講演会Ⅲ 「『みだれ髪』―もうひとつの読み方」  講師:今野寿美
 4月14日(土) 朗読会 与謝野晶子「新訳源氏物語」から「桐壺」「若紫」  出演:竹下景子

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ギャラリートーク
 会期中毎週金曜日 各日14:00~ 参加無料・申込不要(要展示観覧料)
 会場=展示館1階エントランスホール


光太郎に関わる展示や、関連行事の講演等でも光太郎がらみのお話などがあるかと存じます。ぜひ足をお運びください。


いろいろ紹介すべき事項が重なっておりまして、もう少し。続いてはラジオ放送の情報です。 

NHKカルチャーラジオ 文学の世界 「詩と出会う 詩と生きる」  【今を生きる詩~高村光太郎と柳宗悦のまなざし】

NHKラジオ第2放送003
 2018年3月15日(木) 午後8:30~午後9:00(30分)
 再放送3月22日(木) 午前10時00分~ 午前10時30分

講師 : 若松英輔

彫刻家・高村光太郎(1883~1956)は言葉によって生気を写し取ろうとした詩人だといえるかも知れません。戦後7年間、岩手県花巻の郊外で独居生活中、彫刻を作りません。彼は触覚を超えるものと静かな対話を続けたのでしょう。一方、民芸運動を率いた柳宗悦(1889~1961)は優れた宗教哲学者でもありました。彼は詩人の作品に刺激されながら詩作を独特に進化させます。


テキストが既に発売されており、過日のこのブログでご紹介しました。

批評家・随筆家の若松英輔氏による「詩と出会う 詩と生きる」。毎回一つのテーマで近現代の「詩人」の作品を取り上げ、その背景に迫ります。

若松氏の定義では、「詩人」の幅が広く、今回光太郎とともに取り上げられる柳宗悦などは、通常、詩人の範疇に入りませんが、「広い意味での「詩」の作品を残している人々」だそうです。


続いて、訃報を1件。

国文学者の平岡敏夫氏死去

 平岡 敏夫氏(ひらおか・としお=国文学者、詩人)5日午後0時27分、肺不全のため東京都内の病院で死去、88歳。
 香川県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻豊子(とよこ)さん、長男可奈之(かなし)氏。
 筑波大教授、群馬県立女子大学長などを歴任。北村透谷や夏目漱石をはじめとする日本近代文学研究で知られ、著書に「日露戦後文学の研究」「佐幕派の文学史」など。詩集も多く残した。


かつて至文堂さんから発行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」に「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という論考を発表されるなど、光太郎に関するご著作もありました。平成27年(2015)に思潮社さんから刊行された『平岡敏夫詩集』にも、光太郎論が掲載されていました。


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連翹忌にも、5回ほどご参加下さっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興つて悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。

散文「書について」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳

昨日と同じ文章から、今日は末尾の部分です。通常、このコーナーでは同一作品から2箇所以上採ることはしていないのですが、今回は例外。書の世界でも大きな足跡を残した光太郎の書論が非常に鮮明に表されていますので。

日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏で、先週7日(水)、8日(木)掲載分で、昭和20年(1945)8月10日(実に終戦5日前です)の花巻空襲について書かれ、その中で、光太郎についても触れられていました。

その後、10日(土)、11日(日)掲載分で、何と、やはり花巻で、既に郊外旧太田村の山小屋に逼塞していた光太郎と遭遇されたご体験が記されていました。

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光太郎、肉屋で買い物をしていたそうです(笑)。時折、花巻町に出てくることがありましたので、有り得る話です。さらに、光太郎歿後、氏が旧太田村の山小屋に行かれた際の印象なども書かれていました。


そして昨日掲載分。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がらみでまた光太郎。

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しかし、これには閉口しました。

「雨ニモマケズ」、最初に賢治が手帳に記した際、後半の一節に、「リノトキハナミダヲナガシ」と書いた部分が、後世、「リノトキハナミダヲナガシ」と改変され、現在もこの形で流布している出版物等も数多く存在します。


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以前から山折氏は、この「書き換え」を光太郎の仕業として、あちこちでそう発表されていました。

確かに、昭和11年(1936)、光太郎がその碑文を揮毫し、花巻に建立された碑には、「リノトキハナミダヲナガシ」と刻まれています。

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しかし、光太郎はあくまで送られてきた原稿を元に揮毫しただけであって、「」→、「」の改竄には関わっていないはずです。

光太郎が揮毫する以前、昭和9年(1934)9月の『岩手日報』に「雨ニモマケズ」が掲載された段階で、既に「」→、「」の改竄が行われています。つまり、少なくとも光太郎が碑文を揮毫した時点では、この部分、世上では「ヒデリ」として流布していたわけです。

それを、いくら碑文を揮毫したからといって、光太郎の仕業にされてはたまりません。

山折氏のこの決めつけに関しては、いろいろと反駁も出ているのですが、それらを眼にされていないのか、あるいは一度こうと思い込んだらもはや修正できないのか、しようとしないのか、何とも言えませんが……。

このブログでは、あまり批判めいたことは書きたくないのですが、『日本経済新聞』さんという、かなり影響力の大きいメディアに載った記事ですし、実際、いろいろな方のブログ等で、既に昨日の記事をもとに「そうだったのか」的な記述が散見されます。

困ったものです。


【折々のことば・光太郎】

この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行してゐる。なまじつか習つた能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。

散文「書について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

書においても独特の、しかしすばらしい作品の数々を遺した光太郎の、最も有名な書論、冒頭部分です。

ひっくり返せば、自分は決してこういう書は書かないぞ、という宣言ですね。

昨日は3.11でした。

午後、地上波フジテレビさんで放映された「FNN3・11報道特番 その避難は正解か!?」を拝見しました。その中で、光太郎ゆかりの宮城県女川町の、七十七銀行さん女川支店の件を取り上げていました。津波到達直前から、一気に18㍍の津波が押し寄せ、さらに引き波となって町を呑み込んでていく動画が流れ、涙を禁じ得ませんでした。

あの中に、貝さんが居たのか、と。

貝(佐々木)廣さん。当時、女川光太郎の会事務局長を務められていた方です。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を執筆するため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、光太郎文学碑が女川の海岸公園に建てられたのが、平成3年(1991)。その中心となって活動され、その後は碑を建てて建てっぱなしでなく、毎年、光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催し続けられたのも貝さんでした。

連翹忌にも20数回ご出席下さり、平成18年(2006)には、東京日暮里で開催された「高村光太郎歿後50年記念 高村智恵子生誕120年記念 光太郎・智恵子・フォーラム」で、女川での光太郎顕彰の取り組みをご紹介下さいました。記念講演は当会顧問・北川太一先生、司会は当方でした。

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「こーんなでっかい文学碑を建てたんですよ」と、ステージを走り回っていた貝さん。

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7年前の昨日、その貝さんは、津波に呑まれ、還らぬ人となってしまいました……。

その貝さんを含む、町内で亡くなられた方々854名(実に当時の人口の1割です)すべての名が刻まれる慰霊碑が建設されるそうで、テレビ朝日さん系のニュースで報道されていました。 

東日本大震災から7年 宮城・女川町 復興への思い

 東日本大震災から11日で7年です。宮城県女川町では、新たに建立が進む慰霊碑に地元の中学生が復興への思いを書いた石のプレートを積み上げました。
  女川町では、高台に建設中の新庁舎の敷地に町で犠牲になった854人の名前を刻んだ慰霊碑を建てる予定です。10日は、卒業式を終えた女川中学校の3年生46人が慰霊碑が建てられる場所を訪れ、復興への思いを書いた石のプレートを積み上げていきました。
 家族4人を亡くした鈴木翔さん:「身内が亡くなっているんです、震災で。1人見つかっていない。悲しいという思いもありながらも、自分はしっかり生きていかないといけない。それを置く瞬間に(感じて)慰霊碑を全国のみならず、世界の皆さんに見てもらって、我々の思いを見てほしい」
 東日本大震災による死者は1万5895人で、今も2539人が行方不明のままです。

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ローカル局、仙台放送さんでも、一昨日、報道されました。 

震災犠牲者思い 石板を慰霊碑に 宮城県女川町

東日本大震災から11日で7年です。
女川町では、地元の子供たちが復興や鎮魂の思いを書いた石版を慰霊碑の一部として積み上げました。
 女川町では高台に建設中の町役場の敷地内に震災により町内で亡くなった約850人の名前を刻む慰霊碑を建てる計画です。
10日は、午前中に卒業式を終えたばかりの女川中学校の卒業生46人が参加して、復興や鎮魂の思いを書いたブロック状の石版を慰霊碑の周りに積み上げていきました。
 石版には、
「安らかにお眠り下さい」、
「女川は今復興の道をたどり始めています」
といった町民や子供たちのメッセージが書かれています。
 男子 「見守ってほしいと、石に思いを込めました」
 男子 「亡くなった方々が天国で安らかに休めるようにと気持ちを込めて石を積みました」
 女川町では、11日に訪れた人たちにも石版へのメッセージの書き込みを受け付ける特設ブースを設ける予定です。

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女川中学校さんの卒業生諸君が、石版を積んだそうですが、来年度成人を迎える代の彼等の先輩たちは、このブログでたびたびご紹介して参りました、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトに携わってきました。

その当時(当時は統合前で女川一中)の先生が、木曜日にNHKさんの番組で紹介されます。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」

NHK総合 2018年3月15日(木) 10時50分~10時55分  

宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。

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5分間番組ですが、これまでにも、「いのちの石碑」がらみで女川中の生徒だった勝又愛梨さん、毎年の女川光太郎祭の際に厄介になっている宿泊施設・EL FARO(エル ファロ)さんを経営されている佐々木里子さん が取り上げられました。

今回取り上げられる阿部一彦さんは、昨年『朝日新聞』さんでも大きく紹介されました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

飛鳥朝の仏の魅力は多くの人のいふ如き調和温恭の境にあるのではなくて、実は不協和幽昏の美に根ざしてゐる。この釈迦像の仏らしからぬ眼を見、口を見、顎を見れば、しかもその胴体が平然と北魏の衣紋に包まれてゐる不思議を見れば、われわれ後代の造型家は、上代作家の大胆と自由とに驚く。

散文「法隆寺金堂釈迦三尊像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

美術出版社刊行の『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』のために書き下ろされた文章です。

そちらに載った法隆寺釈迦三尊像の写真がこちら。

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今気が付きましたが、この像は右手が「施無畏(せむい)」の印になっています。光太郎ブロンズの代表作、「手」(大正7年=1918)、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の左手の形がそれです。

「施無畏」とは、仏・菩薩が衆生(しゆじよう)のおそれを除き、救うこと。当方、仏教徒というわけではありませんが、東日本大震災で亡くなられた皆さんのみ魂が、彼岸で釈尊や観世音菩薩から、「何も畏れることはない」と、救済されていると信じたいものです……。

ちょうど今日は3.11。「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に 毎日出てゐる青い空」(「あどけない話」 昭和3年=1928)を思い浮かべながら書いています。

で、演奏会情報です。

第29回 21世紀日本歌曲の潮流

期 日 : 2018年3月16日(金)
会 場 : すみだトリフォニーホール 小ホール  墨田区錦糸1-2-3
時 間 : 18:30開場 19:00開演
料 金 : 3,500円(全席自由・税込)
申 込 : JILAチケットセンター Tel :03-3356-4140

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曲目
 金藤 豊
   『万葉集 巻十五』 より 「狭野茅上娘子」 《初演》  Ⅰ.あしひきの Ⅱ.君が行く
  アルト:大和久萠  十三絃箏:髙橋澄子
 前田正博
  Vocalise Ⅱ for Mezzo soprano and three Clarinets  メゾ・ソプラノ:星由佳子
  クラリネット橋田はるな 大和真弥 角野由枝
 服部萬里子
  室生犀星の詩による4つの歌曲 《初演》 1.詩の一つ 2.朝の歌 3.我永く都会に住まん 4.雨の詩
  バリトン:中川俊広  ピアノ:新 弥生
 浅井和夫
   現代詩人によせる歌三題 《改訂初演》 1.根 2.紅葉幽玄 3.わかるかい
   バリトン:中川俊広 ピアノ:浦田由里子
 野村 朗
  歌曲「樹下の二人」  詩集『智恵子抄』 より (詩/高村光太郎)
  バリトン:森山孝光  ピアノ:森山康子

 鈴木 聡
  「さざんか」(詩/永井和子) 《初演》
  『宮田滋子の詩による3つの子どものうた』 より 「ボッチャン ぼっちゃん」 「しーっ」
  『秋の空に』(詩/二瓶 徹) より 「綿の実の」 「ほっかりと」
  ソプラノ:砂崎香子  ピアノ:浦田由里子


昨年、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」において、メゾソプラノの星由佳子さん、ピアノで倉本洋子さんによる演奏で初演されましたが、今回は以前から野村氏の「連作歌曲 智恵子抄」を演奏されている、バリトンの森山孝光さん、ピアノで森山康子さんご夫妻。ちなみに星さん、他の方の作品でご出演なさいます。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の写真は人の思ふよりも困難で、大ていは彫刻の真を伝へない。彫刻的立体性が写真レンズのきびしい工学性能で歪められる。一個の彫刻全体から来る彫刻的生命はまづ殆と写真によつては捉へられないやうだ。

散文「夢殿救世観音像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

光太郎、いったいに写真にはあまり価値を見いだしていませんでした。ただし、部分の拡大写真的なものには意味を見いだしています。鑿の痕跡などからどういう手法が使われているのか、といった点は、現物では見極めがたいというのです。

今日、3月10日は、73年前に東京大空襲があった日です。同じ昭和20年(1945)、東京ならぬ花巻空襲関連で。

著名人の出生から連載時までの半生を描いた、日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏です。

氏ご自身は昭和6年(1931)、米国桑港のご出身ですが、お母様のご実家が岩手花巻の中心部にある専念寺さんという寺院で、戦時中には花巻に疎開、旧制花巻中学(現・花巻北高校さん)に通われていたとのこと。

そして昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲。7日掲載の第7回、8日掲載の第8回で、その日のこと、そして終戦の玉音放送について語られています。長いので引用はしませんが。

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第7回では、花巻空襲の証言集『花巻が燃えた日』(平成11年=1999 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部)を紹介する中で、光太郎の名も出して下さっています。

ちなみに同じ加藤氏の御著書で、姉妹編とも言える絵本、『花巻がもえた日』(平成24年=2012 ツーワンライフ)にも光太郎が登場します。空襲があった時、光太郎は宮沢賢治の実家に疎開していました。

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当日の光太郎日記。ただし、あとで落ち着いてから書いたものと思われます。

八月十日 金
晴 午前五時サイレン、空襲。花巻町に爆弾落下、銃撃あり。館あたりと思ふ。艦載機なり。九時半頃なり。(花巻町初爆撃)。 (中略) [午后一時過より空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まはり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、校長さんかけつけ来らる<(千代田さん火傷)>]

町中心部への本格的な攻撃は午後でしたが、午前中から郊外の飛行場は空襲を受け、町内でも小規模な機銃掃射があったそうです。「校長さん」は、元花巻中学校長・佐藤昌、「千代田さん」は光太郎と同じく宮沢家に厄介になっていた千代田稔という青年です。

逃げ遅れた賢治実弟の清六は、敷地内に作った防空壕に避難しますが、家屋の燃える熱で壕内でも発火、たまたま壕に入れてあった一升瓶の醤油で消し止め、九死に一生を得たそうです。そのおかげで、というと何ですが、やはり壕に入れておいた賢治の遺稿は無事でした。清六が逃げ遅れなかったら壕に入ることもなく、壕もろとも灰になっていたことでしょう。不思議な縁を感じます。

山折氏の母方の実家・専念寺さんもかろうじて無事だったそうでした。

それにしても、当方寡聞にして、山折氏と花巻とのつながりは存じませんでした。「私の履歴書」、このあともしばらく続きます。賢治に関するご著書もおありの山折氏ですので、また賢治がらみで光太郎への言及があるかもしれません。注意しておこうと思いました。


追記 早速今日、花巻で光太郎と遭遇した思い出を書いて下さっていました。後ほどご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

美は小味となり、本格的な美そのものよりも、むしろそれを作り出す方便であるところの手腕技倆の方に関心が払はれ、「うめえもんだ」といふやうな感嘆の声を人は求めるやうになつたのである。人にはとても出来ないやうなものを工夫して作り出す競争が始まつた。細工の意識である。

散文「江戸の彫刻」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

江戸期の「細工」の考えが、明治の「超絶技巧」につながるのでしょう。そういったものに光太郎は積極的な価値を見いだしてはいませんでしたが……。

地方紙二紙、岩手の『岩手日報』さんと、福岡の『西日本新聞』さんが、相次いでそれぞれの一面コラムで光太郎智恵子と光雲に触れて下さっています。

まずは『岩手日報』さん。

風土計 2018・3・1

 3月がまためぐってきた。7年前から、この月は春を迎える以上に重い意味を持った。東日本大震災を振り返り再生を祈る月。傷跡が少しずつ癒えていく様子が、ゆっくりと訪れる東北の春と重なる
▼津波に洗われた陸、原発事故で汚された空を取り戻す作業が続く。「ほんとの空が戻る日まで」は復旧・復興を支援する福島大の合言葉。福島の現状を知らせるため、このタイトルのシンポジウムを全国各地で開く
▼「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」。高村光太郎「智恵子抄」から。中井勝己福島大学長は「安達太良(あだたら)山の上の空がほんとの空でないと思う県民はまだ多い」と語った
▼「ほんとの空」とは古里のことだ。病弱の智恵子は、時々田舎の空気を吸わなければ体がもたない。光太郎は「智恵子の半生」に「彼女の斯(か)かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった」と書く
▼避難を余儀なくされている福島の人々は、今なお5万人を超える。懐かしい古里をひたすら思う姿は智恵子と共通するものだろう。福島だけではない。宮城でも岩手でも、古里につながる道を人々が歩み続けている
▼春がすみの言葉のように、その視界はまだぼんやりしているかもしれない。けれど、信じて進みたい。その先にきれいな空があるはずだ。


先月ご紹介した福島大学さん主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで--震災の記録と教訓を残し、未来に活かす」にからめています。 同じ東北同士、福島の皆さんに対するあたたかな励ましに溢れています。


続いて『西日本新聞』さん。

春秋  2018.3.5

 きのうは「ミスコンの日」。1908年3月5日、日本で初めて一般女性を対象としたミス・コンテストの結果が発表されたことに由来するそうだ
▼ミスコンといっても、当時は写真だけで審査した。新聞社が主催し、審査員は洋画家の岡田三郎助や彫刻家の高村光雲、歌舞伎役者の中村歌右衛門らそうそうたる顔触れ。約7千の応募の中から1位に選ばれたのは、福岡ゆかりの女性だった
▼旧小倉市(現北九州市)の市長の四女で、学習院女学部に在学中の末弘ヒロ子(16)。実は、義兄が本人に無断でコンテストに写真を送ったのだった。優勝の知らせに彼女はずいぶん困惑したという
▼今ならスターへの登竜門だろうが、良妻賢母が女性の美徳とされた時代のこと。「美貌を誇示するなどけしからん」「美人投票など校風にそぐわない」と批判され、ヒロ子は退学させられた。その時の学習院院長は、名高い陸軍大将、乃木希典だった
▼一説によると、乃木は後に、ヒロ子が自ら応募したのではなく、義兄をかばって事実を告げなかったのだと知り、退学させたことを後悔した。彼女の幸せを考えた乃木は、良い結婚相手を見つけてやろうと、八方手を尽くして探した▼それを聞いた旧知の陸軍大将、野津道貫が長男との結婚を申し出た。ヒロ子は侯爵家に嫁ぎ、良き妻、良き母として義父や夫を支えたという。110年前のミスコンにこんな逸話があった。


明治41年(1908)、『時事新報』が主催しての日本初のミスコンテスト。光雲も審査員だったというのは、意外と有名な話です。

その後に刊行された応募写真の写真集がこちら。

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第一位となった末弘ヒロ子がこちら。

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第一位ということで、他のカットも掲載されています。第二位と第三位の女性は2カット、他は1カットだけです。

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たしかに美人さんですね。

これが元で学習院を退学になったというのは存じていましたが、その後の乃木とのエピソードは存じませんでした。いい話ですね。


ところで、以前にも書きましたが、光太郎もミスコンの審査員を務めたことがあります。父・光雲に遅れること約20年、昭和4年(1929)のことでした。

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この際は『朝日新聞』さんが主催で、『アサヒグラフ』誌上の企画でした。やはり審査は写真のみ。審査後の座談会が『アサヒグラフ』に掲載されました。

光太郎以外の審査員は、藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、村山知義など。やはり美術関係者が多いのは、その審美眼を買われての事だったのでしょう。


明日は『日本経済新聞』さんの記事からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

仕事が巧妙になるほど俗になつてゐる。

散文「天平彫刻の技法」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

室町以降、江戸時代の木彫に対する評です。非常に便利な丸鑿という道具が開発され、平鑿や切り出ししかなかった頃より楽に木を彫れるようになり、かえって堕落した、というのです。

この話、いろいろな分野に当てはまるような気がしますね。

秋田から企画展情報です。 

平成29年度新収蔵資料展

期 日 : 2018年3月11日(日)~5月20日(日)
会 場 : 小坂町立総合博物館郷土館  秋田県鹿角郡小坂町小坂字中前田48-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

 今年度も町内外を問わず、多くの資料を寄贈いただきました。誠にありがとうございました。
新収蔵資料展と題して企画展を開催し、寄贈資料を町民の皆様にご覧いただきたいと思います。
 特に今回、小坂大地出身の編集者 澤田伊四郎さんが創業した株式会社龍星閣からの寄贈資料が最も多く、注目の寄贈資料となっています。
 寄贈資料には、高村光太郎(彫刻家・詩人)、棟方志功(版画家)、武塙祐吉(元秋田市長・随筆家)をはじめ、小坂町出身の福田豊四郎(日本画家)・小泉隆二(版画家)からの書簡や書籍やメモ類があります。書簡だけでも約3,000点近くあり、書籍・メモ類を合わせると5,000点を超えます。
 現在整理が進んだ中でも高村光太郎の書簡に多くの未刊行書簡があることがわかりました。整理と分析が進めば、日本文学界にとって大発見があるかもしれません。今後の進展を楽しみにしてください。
 また、今年度、教育委員会が購入した福田豊四郎の資料を展示します。こちらも連載小説等の挿絵の原画や実際に使用ていた画材を含めると約2,000点を超えます。こちらも福田豊四郎研究に大きく貢献できそうな資料群となっています。
 見応えのある展示になると思います。ぜひご来館ください。

関連行事 担当学芸員による展示解説
 第1回目 3月17日(土) 13:00~ 第2回目 4月21日(土) 13:00~ 
 第3回目 5月19日(土) 13:00~


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一昨日、『朝日新聞』さんの夕刊で報道されました。 

智恵子抄の続編「ものにならない」 高村光太郎の未公表書簡公開へ

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の全集に収録されていない未公表書簡34通が、11日から秋田県小坂町の博物館で無料公開される。代表作の詩集「智恵子抄」を出版した龍星閣(東京都千代田区)の編集者に宛てたもので、智恵子抄の続編について「ものにならないと思います」と記したはがきが含まれている。
 34通は1942年から55年に書かれたもので、はがき32通、封書2通。いずれも小坂町出身で龍星閣の元社長の澤田伊四郎氏宛て。昨年5月、澤田氏が残した書簡や書籍が遺族から町に寄贈され、その中に高村からの書簡が全集収録分も含め約70通あった。
 高村は41年に、愛妻を題材にした「智恵子抄」を出版。戦後、続編の「智恵子抄その後」も出版された。書簡を読んだ高村の研究者小山弘明さん(53)=千葉県香取市=は「(高村の書簡が)一挙に70通も出てくるのは珍しく、『智恵子抄その後』の出版に乗り気でなかったことが裏付けられた。澤田氏の物資援助へのお礼など、高村の律義な性格や、作家と編集者との濃密な人間関係も伝わってくる」と話す。
 これらを一般公開する「新収蔵資料展」は、小坂町立総合博物館郷土館で3月11日から5月20日まで。問い合わせは郷土館(0186・29・4726)。(加賀谷直人)

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先月には共同通信さんの配信による記事が『日本経済新聞』さんや、全国の地方紙に出ました。

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朝日さんは独自に取材、当方にも電話取材がありました。その結果、より詳しく報じられています。

当方、やはり先月、現地に参りまして現物を手にとって、『高村光太郎全集』未収録分については筆写して参りましたが、光太郎の息づかいが聞こえてくるようなものでした。

それから、そちらは拝見してこなかったのですが、チラシ裏面には『智恵子抄』をはじめとする龍星閣の刊行物もいろいろ。どうもその中に、光太郎の識語署名入りがあるようです。チラシの表面に2箇所、光太郎の筆跡があしらわれています。

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左の方は、『智恵子抄』所収の詩「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてにあふれこぼるるものあれ われらつねにみちよ」。光太郎、この一節を好んでけっこう揮毫に使っています。

当方、来月にはまた現地に参り、拝見して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は今、東北辺陬の地の山林にあり、文字通りの茅屋に住んでゐて、文献の渉猟すべきもの一冊も座右になく、ついて校覧すべき一葉の写真すらない。それゆゑ、今ここで古彫刻について語らうとしても、年代の考證、造像の由来等に関しては危くて一語も述べがたい。ただ語り得るところは、脳裏にあるその映像への所感のみであり、それに連関する雑然たる想念ぐらゐのものである。
散文「新薬師寺迷企羅像」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

と言いつつ、光太郎、この後「脳裏にある映像」だけで、新薬師寺さんに今も遺る国宝の塑像「迷企羅大将像」(薬師如来の眷属・十二神将の一人)について、原稿用紙5枚ほどの稿を書いています。

瞬間記憶能力(カメラアイ)という、見たものを画像として記憶し、瞬時に引き出せる能力を持つ人間がいるそうです。光太郎、そこまでは行かなくとも、それに近い能力を持っていたのではないかと思われます。

このブログ、なるべく早くご紹介したい件を先にしています。イベントやテレビ放映情報等は時宜を見て、早すぎず遅すぎぬ時期に。新刊情報、新聞雑誌で光太郎智恵子光雲の名が出た場合などもなるべく直後に、という感じで。逆に速報性の必要ない件は後回しにすることがありまして、今回の件がまさにそうです。

ひと月ほど前、埼玉の大宮で大学時代の同窓会があって参加して参りました。大宮ですと、公共交通機関の場合、夜9時過ぎには出ないと千葉の田舎にある自宅兼事務所に帰れません。翌日は朝からまた別件があり、泊まるわけにも行きません。となると、一次会しか参加できない状況で、それも惜しい気がし、自家用車で参りました。当然酒は飲めませんが、当方、もともとあまり酒は好きではありませんし、最近とみに飲酒の習慣が無くなっていますので、それは苦になりません。

そこで、その同窓会の前に、会場の大宮からそう遠くない、同じ埼玉県の北葛飾郡杉戸町に立ち寄りました。前々から一度行ってみたいと思っていたところでしたので。なぜなら、ここが光太郎のルーツに関わる地だからです。

どういうことかというと、光太郎の父・高村光雲の実母(つまり光太郎の祖母)・すぎ(通称・ます)が、かつてこの地にあった東大寺という寺院(ただし、神仏混淆の修験道のそれ)の出なのです。

光雲の父・中島兼吉(通称・兼003松)は、江戸で香具師(やし)を生業としていました。明治32年(1899)に82歳(おそらく数え年)で歿していますので、文化14年(1817)頃の生まれ。最初の妻との間に、巳之助という子がいましたが、程なく離縁、嘉永3年(1850)頃にすぎと再婚し、同5年(1852)に光雲が生まれています。巳之助は光雲より7歳年上だったそうです。後に腕のいい大工となり、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏が作られた際、光雲ともどもこのプロジェクトに参加しています。くわしくはこちら

明治になって徴兵令が布かれた際、長男は徴兵免除だったのですが、光雲は次男。そこで、師匠の高村東雲の姉・悦が独り身で居たそうで、その養子となって長男といういわば免罪符を得ました。そのため、高村姓となったわけです。

閑話休題。兼吉とすぎの結婚については、おそらく、香具師だった兼吉が、各地の神社仏閣などの祭礼、縁日などに関わっていたために知り合ったのではないかと思われますが、いろいろわからないことだらけです。光雲や光太郎、それから光太郎実弟の豊周の回想にいろいろ書かれていますが、どれもあやふやな伝聞にもとづくもののようです。第一、すぎ自体、東大寺住職・菅原氏の血縁であることは確かなようですが、何年何月に誰の子として生まれたのかなど、今ひとつはっきりしません。光雲の回想には「東大寺の菅原道甫という住職の娘」とありますが、年代がまるで合わないのです。菅原氏は明治になって東氏と改姓、その後裔の方の書いたものによれば、すぎは道甫の娘・ますの子となっています。すぎの通称「ます」は、母の名を継いだということでしょう。当会顧問の北川太一先生もこの説を採られ、『高村光太郎全集』別巻収録の家系譜はそうなっています。

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ところが、埼玉の郷土史家の方が書かれたものでは、また違う説が唱えられています。

いずれにせよ、光太郎の祖母・すぎ出生の地ということで、行ってみました。

事前の調査では、東大寺という寺院はもはや残っていないそうでしたが、当時の住職等の墓所が残っているということでした。また、隣接していた永福寺さんという寺院は今も健在とのこと。そちらが東大寺の法燈を嗣いでいるそうです。

さて、永福寺さん。杉戸町の下高野地区です。

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山門やら鐘楼やら、そして本堂も、なかなか立派なたたずまいでした。

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本堂には「高村」の千社札。「まさか、関係ないよな」とは思いましたが……。

敷地の一角に、「西行法師見返りの松」。

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源平の争乱により焼失した奈良東大寺の大仏再建勧進の途上、西行法師がこの地で行き倒れ、村人に手厚く看病されたという伝説が残っています。のちに東大寺の重源上人もここを訪れ、その話を聞きいて感動し、西行が運び込まれたお堂に東大寺の寺号を許したとのこと。

ところがその東大寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。神仏混淆の修験道系だったそうで、そうした寺院は廃寺の憂き目に遭うことが多かったそうです。当時の住職・道貞(ますの甥のようです)が、その措置に逆らったあげく捕縛され、八丈島送りになったとも伝えられています。明治初年にはまだ島流しの刑があったのですね。

ちなみに文久年間と思われますが、高村東雲に弟子入りする前の10歳頃の光雲が、丁稚奉公の予行演習のような形で東大寺に一年ほど預けられていたそうです。

永福寺さんの北側に、広大な墓地があります。その一角に、「東氏累代之奥津城」ということで、東大寺の人々の墓所が。神仏混淆らしく、鳥居も建てられていました。

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右上の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、開祖・西行、二世・重源以下、二十七世・道円までの名が刻まれています。すぎの祖父と思われる二十五世・道甫の名もありました。


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左上の画像が、すぎの兄と思われる二十九世・道顕と、その子である三十世・道貞の墓。道貞は八丈島から帰ったあと、東と改姓し、神仏分離ということで、神官となったそうです。

この墓所は、男女で位置が異なり、女性陣の墓石は少し離れた一段低いところにかたまって建てられています(下の画像)。兼吉に嫁いだすぎの墓はありませんが、すぎの母・ますの墓なども含まれているのでしょう。どれがそれかは特定できませんでしたが。

すると、そのかたわらに、一本のソテツの木(右上の画像)。杉戸町内には、道貞が八丈島から持ち帰ったというソテツが遺されているそうで、これもそうなのか、或いはその木から株分けでもしたものかもしれない、と思いました。

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それぞれの墓石に、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。


ちなみにすぎ、そしてその夫・中島兼吉(つまりは光雲の両親・光太郎の祖父母)の墓は、台東区の涼源寺さんというお寺にあるそうで、いずれそちらにも行ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

日本の彫刻は埴輪に帰らなくてはならない。

講話筆録「日本の美」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

棟方志功や岡本太郎などとは異なり、光太郎は縄文の美を認めませんでした。ごてごてしていて日本人の感覚ではない、大陸的だと。それが、古墳時代の埴輪には、簡素な明るさがあってすばらしい、としています。ここにも光太郎の彫刻観の一端が見て取れます。

次の日曜日が3.11ということで、各種メディアが東日本大震災特集を組んでいます。甚大な被害を受けた被災地の一つ、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する高村光太郎文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町関連のテレビ放映をご紹介します。 

3.11震災特番 2018(仮)

地上波フジテレビ 2018年3月11日(日)  13時00分~15時10分 

逃げた場所で命を落とした人々、指示やマニュアルに従ったのになぜ命を落としたのか?津波による「生死の分かれ目」を検証。坂上忍が生存者の証言で流した涙。

今なお各地で連続的に地震が発生している地震大国・日本において、もし今巨大地震が来たら、どこへ避難するのか。東日本大震災で東北を襲った津波で生死を分けたのは、まさに“避難"のあり方だった。避難とは何か?当時の映像と住民への取材から検証する。さらにいつ起きるかわからない関東大震災、南海トラフ地震、北海道沖巨大地震など、今後発生するといわれている大地震に備えて、東京、大阪、北海道など全国の住民の認識や現状を取材し、避難対応を考える。首都圏は雪だけで交通インフラがまひするなど、脆弱な状態にもかかわらず、もしここに津波が来たらどこへ避難するのか?「もしも」の時のあなたの避難場所について考えるきっかけを提供する。 さらに、福島県産の野菜を7年たった今も避ける人たちがいるなど、今なお続く“福島差別"ともいわれる現象の実態も追います。また、番組内では今年もドキュメンタリー「わ・す・れ・な・い」シリーズをお送りします。命を失う“避難"と助かる“避難"について石巻市と女川町、それぞれの避難を検証し、また高知県で現在行われている津波避難訓練のようすも取材しています。

出演者  坂上忍   伊藤利尋/椿原慶子(フジテレビアナウンサー)  山村武彦(危機管理アドバイザー)


もう一つ。 

サンマとカタール 女川つながる人々

BSジャパン 2018年3月11日003(日)  14時30分~15時54分

壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の復興5年目を追う!前向きに生きる力を映像に込めた感動のドキュメンタリー。今だからこそ伝える5年間の想いに心が熱くなる ! (2016年)


東日本大震災から5年。住民の1割近くが犠牲となり、8割近くが住まいを失った宮城県女川町は今、目覚ましく復興し、新しい町に生まれ変わるために力強く歩んでいる。人々はどうやって立ち上がったのか?そして中東カタールの関わりとは? 復興5年目の女川町で生きる人々を約2年撮影したドキュメンタリー。女川町の復興の軌跡、切なくて強い人間の底力に迫ります。

ナレーション  中井貴一


サンマとカタール」は、一昨年公開されたドキュメンタリー映画です。テレビ放映はやはり一昨年に続き、おそらく2度目。DVD化も為されています。


他にも女川町がらみの内容となる番組があると思いますが、現在、ネットの番組検索でヒットするのはこの2件です。

それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

須菩提の美しさで殊に目立つのは右肩から下の垂直に近い体躯の線と、左側の少しばかりの変化ある衣紋との対照から起る微妙な傾きの姿勢である。それが際だたぬやうに出来てゐて、何となく重くない、凝滞しない、解空の感を与へる。観る者の心が軽くなる。

散文「十大弟子」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

「十大弟子」は、釈迦の高弟10人を指し、「須菩提」はその一人です。ここでは奈良興福寺に現存する6体の乾漆十大弟子像(国宝)を取り上げ、その良さを解説しています。同時に、光太郎の目指した彫刻の在り方がよく表れてもいます。

ぽつりぽつりと、新聞各紙で光太郎の名が。それぞれそれ一つをネタにブログ記事にするのはきついなと思っていましたら、たまってしまいました。

まずは先月28日の『神戸新聞』さん。 

「今度は支える立場に」 大学へ進む高3生の目標

 瑛太の部屋の扉には、英語の詩が貼ってある。詩人・高村光太郎の代表作の英訳で、職員が手書きして贈ったエールだ。
 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉
 高校3年。大学進学を目指して1年の時に部活をあきらめ、学費を稼ぐためにアルバイトに励んだ。最初はすし店。「常連さんなど幅広い年代の人と出会い、いろんな考えに触れられた」。学びは多かった。
 一方、仕事を終えて帰宅すると午前0時を過ぎることも。通学には1時間20分かかるため、午前6時50分に尼学を出る生活。すし店は半年で辞め、その後はプール監視員や飲食店員として働いた。
 その中で勉強時間を確保してきた。
 職員も応援した。瑛太が勉強の息抜きにバドミントンをしようとすると、横に忍び寄ってつぶやいた。「本当にそれでいいんかなー」
 瑛太が笑う。「1回打った瞬間に横にいて、ちょっとくらい息抜きさせてよって。いつもプレッシャーの目があり、勉強するようあおってくれた」
 道は拓けた。昨秋、学費を一部免除してくれる山口県の大学に合格。神戸の財団から返済不要の奨学金を受けることも決まり、新生活に期待を膨らませる。
 将来について尋ねると、真っすぐな目で語った。「経験した自分だからこそ、力になれることがある。児童養護施設で働きたい」。いったんは施設に勤めてから、数学の教師を目指すという。
 尼学に来てから、精神的にまいった時期がある。外に出られなくなり、バイトに行けなかった。高校へは職員に送迎してもらい、何とか通った。「しんどい時に寄り添ってくれた。今度は支える立場になりたい」(敬称略、子どもは仮名)
(記事・岡西篤志、土井秀人、小谷千穂、写真・三津山朋彦)


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執筆から100年以上経った「道程」ですが、こうして現代の若者へのエールとしても現役で機能しているのですね。

ちなみに英訳は「No path lies before me. As I press on. Behind me a path appears.」だそうです。


続いて、今月2日の『毎日新聞』さん北海道版から。 

書学習の集大成 道教育大旭川校書道研、きょうから /北海道

 卒業式を前にした道教育大旭川校書道研究室の「第64回卒業書作展」が2日、旭川市民文化会館で始まる。あふれる躍動感、ストレートな表現、切れ味ある線質、温かみのある筆力といった個性あふれる書学習の集大成が会場を飾る。  
 出展者は、長田さくらさん、小野寺彩夏さん、平木まゆさん、柿崎和泉さんの4人。それぞれが平安時代の藤原行成から唐代の顔真卿の書まで多彩な臨書の卒業論文作品2点と、卒業書作展作品の詩文書2点、漢字創作1点を出品した。
 書作展用の作品では、高村光太郎の詩の一節を題材にした長田さんの作品(縦2・4メートル、横3・6メートル)など、研究室の持ち味でもある大作の詩文書がそろった。指導教官の矢野鴻洞教授も賛助出品している。
 7日までの午前10時~午後6時(7日は同4時まで)。入場無料。【横田信行】

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やはり光太郎詩、若い人たちの心の琴線にも触れるのでしょうか。ただ、画像にうつっているのは宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」の一節ですが(笑)。


それから、『朝日新聞』さん。先月27日の夕刊です。 

(アートリップ)御堂筋彫刻ストリート(大阪市) 名品の数々、歩く目線で 朝倉響子、ジョルジョ・デ・キリコほか作 大阪市

 会社員が足早に行き交う平日の御堂筋。視線を感じた先に、すました表情の女性像がこちらを見ていた。プレートには「朝倉響子 ジル」の銘。通りにはほかにもロダン、ジョルジョ・デ・キリコ、高村光太郎らの趣の異なる彫刻合わせて29体が並ぶ。
 これらは、1991年に始まった大阪市と建設省(当時)による、文化的な街づくりを目指した事業「御堂筋彫刻ストリート」の一環。沿道の老舗企業から募った寄付で設置された。
 彫刻の全体テーマは「人間讃歌(さんか)」。一流作家による、人体をモチーフにした作品に限定し、景観を統一するため、高さは台座を含めて2メートル以内に制限した。結果、巨匠たちの裸婦像や着衣像、抽象表現作品が、歩く人々の目線で見られるように並んだ。
 しかし、試練の時代もあった。バブルがはじけ、企業の再編などで周辺ビルには空室が増加。土日になると人通りが少なくなり、放置自転車で彫刻も埋もれた。「存在が忘れられ、誰も評価しなかった」と話すのは、2000年以降の設置審査委員長を務めた、関西学院大名誉教授の加藤晃規さん(71)。
 市が自転車の即時撤去を開始すると、再び名品が姿を現した。現在、周辺にはホテルなどが入る高層ビルが建設中だ。加藤さんは「作品は潤いのある街並みの一つ。にぎわいが戻れば」と目を細めた。(吉田愛)


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記事にあるとおり、バブル期に作られた大阪御堂筋の彫刻群について。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」が「みちのく」という題で設置されています。

これからも愛され続けて欲しいものです。


さらに昨日の『読売新聞』さん。別刷り日曜版の連載「名言巡礼」で、光太郎と交流のあった北海道弟子屈出身の詩人・更科源蔵がメインで扱われています。

更科源蔵「原野というものは、なんの変化もない…」 過酷な自然 生活の原体験

 原野というものは、なんの変化もない至極しごく平凡な風景である(更科さらしな源蔵げんぞう「熊牛くまうし原野げんや」(1965年))
 北海道東部の弟子屈(てしかが)町。厳冬期の熊牛原野に立った。白い雪原には、キタキツネの足跡が点々と続く。
 出身の詩人、更科源蔵は「原野の詩人」と称される。「熊牛原野」は原野での生活をつづった自伝。「原野というものは、なんの変化もない至極く平凡な風景である」は冒頭の一節だ。「私はそんな原野の片隅で生うまれ、そこで育った」と受ける。
 同町で農地の開拓が始まったのは明治中期。新潟から熊牛原野に入植した更科の父は、開拓の草分けでもある。「クマウシ」はアイヌ語で「魚を干す棚が多いところ」のこと。豊漁の地を意味するが、本土から渡ってきた和人はいかにも野蛮な漢字を当てた。その地で、更科は1904年に生まれた。開拓者たちは原野の一角を耕し、牛や馬を放牧した。
 更科は原野を遊び場とし、花や昆虫が友だった。原野の自然は過酷で、猛吹雪により死にかけたこともある。30代半ばで町を離れるまで一時、牧畜農家として苦闘した。「君は牛の使用人ではないか」。都会から訪れた友人にはこう揶揄(やゆ)された。
 〈白く凍いてつく丘に遠い太陽を迎へる厳然たる樹氷であらうとも/森は今断じて遠大な夏を夢見ぬ〉
代表作「凍原(とうげん)の歌」の一節だ。「厳しい原野での生活を原体験に、北海道の大自然とそこに生きる人々の生活を肉声でうたい、中央の詩誌に認められた」と、詩人で更科にちなんだ「更科源蔵文学賞」選考委員長の原子(はらこ)修さん(85)は解説する。
 人々の中には原野で隣人だったアイヌ民族も含まれる。「教科書で教える大和朝廷のエゾ征伐は、和人の勝者の歴史なのでは」。アイヌの子どもらを教えていた代用教員時代、そんな疑問を口にしたところ、思想不穏当として解雇された。権威にも権力にもこびなかった。
 町在住の高田中みつるさん(82)は更科に手を引かれてアイヌの集落を訪れ、ヒグマの魂を神の国に返す「熊送り」を見た。「『更科おじさん』と子どもらに慕われていましたよ」
 「至極く平凡な風景」とは、故郷を卑下しているわけではない。更科にとり、原野は自分という存在の慈しむべき原点なのだから。 (文・阿部文彦 写真・岩佐譲)

更科源蔵
1904~85年。東京の麻布獣医畜産学校(現麻布大)中退。上京時、詩人・尾崎喜八に師事。 「智恵子抄」で知られる高村光太郎の影響も受ける。詩集に「種薯」「無明」など。散文も、「熊牛原野」(大和書房「ふるさと文学さんぽ 北海道」に一部収録)のほか、「アイヌと日本人」、自伝的小説「原野シリーズ」など多数。40年、弟子屈町での生活を諦め、札幌市に転居。北海道立図書館嘱託などを経て、道立文学館理事長。「更科源蔵文学賞」は同町の後援で有志が創設。現在は休止中。

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2ページ分あり、上記は1ページ目です。

光太郎、文中にある更科の詩集『凍原の歌』(昭和18年=1943)の題字を揮毫してやったり、更科が発行に関わった雑誌『大熊座』、『犀』などに寄稿したりしています。また、自然志向の強かった光太郎、実現しませんでしたが、更科を頼って北海道移住を夢見た時期もありました。

また、更科をモデル、というか、更科の語った北海道開拓の様子をモチーフにした「彼は語る」(昭和3年=1928)という詩も書いています。

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    彼は語る

 彼は語る
 北見の熊は荒いのですなあ
 釧路の熊は何もせんのですなあ
 かまはんけれや何もせんのですなあ
 放牧の馬などを殺すのは
 大てい北見から来た熊ですなあ

 彼は語る
 地震で東京から逃げて来た人達に
 何も出来ない高原をあてがつた者があるのですなあ
 ジヤガイモを十貫目まいたら
 十貫目だけ取れたさうですなあ
 草を刈るとあとが生えないといふ
 薪にする木の一本もない土地で
 幾家族も凍え死んださうですなあ
 いい加減に開墾させて置いて
 文句をつけて取り上げるさうですなあ

 彼は語る
 実地にはたらくのは、拓殖移住手引の
 地図で見るより骨なのですなあ
 彼等にひつかかるとやられるのですなあ


この『読売新聞』さんの「名言巡礼」。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八永瀬清子も取り上げられました。こうした詩人などをもっともっと取り上げていただきたいものです。


当方、読売さんは購読しておりませんので、日曜版にこれが載ったという情報を得、コンビニで買ってきたのですが、本紙にも光太郎の名があり、驚きました。

一面コラムの「編集手帳」です。

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光太郎、昭和2年(1927)には、ずばり「草津」という詩を書いています。引用されているのが全文の、たった四行の短い詩ですが。

光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

また、草津温泉のシンボル、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

当方ももう十数年行っていないので、久しぶりに草津へ行ってみたくなりました。


さて、これだけ短期間に、ちょこちょことではありますが光太郎の名が新聞各紙に出るということは、まだまだ光太郎もメジャーな存在でいられているということなのかな、と思いました。ありがたいことですが、光太郎の名が忘れ去れれないよう、今後も努力せねばとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。

散文「能の彫刻美」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

この一節を読んでから、彫刻鑑賞の方法が変わりました。皆さんもぜひお試しあれ。

今月一日に行われた、平成30年度埼玉県公立高等学校入学者選抜の国語の問題文に、光雲・光太郎父子が登場しました。ちなみに昨年は群馬県の社会の問題に光雲が出題されています。

いきなりの大問1、文学的文章の長文読001解問題で、出典は一昨年、集英社さんから刊行された原田マハさん著『リーチ先生』です。明治41年(1908)、イギリス留学中の光太郎と知り合い、その影響もあって日本への憧れが昂じ、来日した英国人陶芸家のバーナード・リーチを主人公とする小説です。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。光太郎、光雲、そして光太郎実弟の豊周も登場します。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、昨年、第36回新田次郎文学賞を受賞なさいました。

さて、埼玉の高校入試問題。web上に問題模範解答が公開されていますが、『リーチ先生』の本文自体は「掲載許諾申請中」だそうです。しかし、問題文から、どの箇所が抜粋されたか推定できました。まず、リーチが来日直後、まだ欧州にいる光太郎からの紹介状を手に、駒込林町の光太郎実家に光雲を訪ねるというくだりです。

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問1は、光雲のセリフから。「困ったやつ」は光太郎です(笑)。「誰や彼や」の中には、この小説の主人公、亀之介も含まれます。亀之介もひょんなことから知り合った光太郎の紹介で、光雲の元で書生をしているという設定で、このシーンがリーチと亀之介の初対面です。

ちなみに正解は「エ」。「ア」~「ウ」の気持ちも、全くなかったとは言い切れませんが(笑)。

続いて問2は、ある意味、無謀にも来日したリーチの心情に関して。



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問3は、主人公亀之介の何げない行動か002ら、その心情を問う問題。

リーチが光雲邸を訪れた翌日、光雲に東京美術学校へ連れられていった帰路、通訳として同行した亀之介との会話のシーンからです。

亀之介はかつて横浜の食堂で働いており(そこで光太郎と知り合いました)、船員たちとの会話から自然と英語を身につけていました。そして美術家を目指し、光雲の元に書生として厄介になりますが、専門の美術教育を受けたわけではなく、ある意味、恵まれた環境で学ぶことが出来ている美校生たちへのコンプレックスが、ぬぐいがたく存在しました。

そんな亀之介の鬱屈や屈託を察したリーチは、亀之介を励まします。


それを受けて、問4。


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正解は「イ」。

この後、亀之介はリーチの通訳兼助手として、ともに陶芸の道に進み、リーチの母国・イギリスのセント・アイヴスまでリーチについていくことになります。そして、陶芸家としての才を花開かせて行く、というわけです。


大問1、最後に表現上の003特色を問う問5。「適切でないもの」「二つ」というところがミソですね。解答用紙に枠が印刷されているはずですので、一つしか選ばないうっかり者はそういないと思いますが、「適切でないもの」を見落とし、あてはまるものを選んでしまうのは、中学生レベルではありがちです。

もし「しまった、自分がそうだった、どうしよう」という中学生さんがいましたら、大丈夫です。他にもけっこういますから(笑)。

ちなみに正解は「ウ」と「オ」です。「オ」は引っかけですね。全体のテーマは「芸術に対する熱い思い」ですが、この場面ではそれはそれほど語られていません。よく読めば、具体性に欠ける無理矢理設定した選択肢だというのは読み取れます。


それにしても、一昨年に刊行されたばかりの『リーチ先生』が問題文に使われるというのは、少し驚きました。

中学生諸君、入試も終わって時間が出来たところで、もう少し落ち着いたら、ぜひ全文を読んでほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

その気魄は内潜的である。その風趣は清潔である。煩瑣感が些かも無く、洗練された単純感が全体を貫く。

散文「東大寺戒壇院四天王像」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

昨日ご紹介した「戒壇院の増長天」を含む、奈良東大寺の戒壇院の四天王像に関するものです。古代の作品の評ながら、光太郎が目指した彫刻、それに限らずすべての芸術のありようを示しているように思われます。

元NHKさんの看板アナウンサーであられた山根基世さん、現在はフリーだそうですが、その山根さんのご指導による朗読講座受講生の方々の発表会です。

山根基世の朗読指導者養成講座 やまねこ朗読発表会

期    日 : 2018年3月10日(土・土曜クラス)11日(日・日曜クラス)
時    間 : 13:30~16:00
会    場 : 日本出版クラブ会館 3階「鳳凰の間」  東京都新宿区袋町6
料    金 : 1,000円 中学生以下無料 各日定員200名
申    込 : web申し込みフォーム  またはFAX 03-5211-7285

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プログラム(予定)
第一、二部 受講生による発表  第三部 養成講座アシスタントによる朗読/山根基世氏による朗読・講評

主な朗読作品 ― たのしいおはなし、ほっとするおはなし、ちょっぴり悲しいおはなし、わくわくするおはなし―
「手袋を買いに」新美南吉/「樹下の二人」(「智恵子抄」より)高村光太郎/「徒然草」吉田兼好/「字のない葉書」向田邦子/「玩具」(『晩年』より)太宰治  (土曜日クラス発表作品より一部を抜粋)
「おじさんのかさ」佐野洋子/「赤いろうそく」新美南吉/「なめとこ山の熊」宮沢賢治/「わたしを束ねないで」新川和江/「星の王子さま」サン= テグジュペリ  (日曜日クラス発表作品より一部を抜粋)
※ 順不同。作品は変更になる可能性がございます。あらかじめ、ご了承ください。

※「朗読指導者養成講座」とは?
絵本から古典文学まで、早広い題材から日本語の特性をふまえた読み方を身につけます。
朗読上級者、指導者を目指す人、「ことばの力で未来を拓く」― そんな子どもを育てたいという志のある方に向けた講座です。


というわけで、「あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。」のリフレインで有名な、「樹下の二人」(大正12年=1923)が取り上げられます。「土曜クラス」の方のご発表だそうですので、3月10日(土)ですね。

指導者を目指されている皆さんの講座ですので、ハイレベルな朗読が期待できると思います。ぜひ足を大運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

此の比例均衡の美には少しもけがれが無い。かういふ類の美こそ千古に聳えて悠々たるものと言へよう。

散文「戒壇院の増長天」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

帝国教育界出版部から刊行された、北川桃雄・奥平英雄編『日本美術の鑑賞 古代篇』に寄せた文章から採りました。「戒壇院」は奈良東大寺の戒壇院。「増長天」はそこに安置されている国宝の四天王像のうちの一体、天平彫刻の最高傑作の一つとされている塑像です。

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光太郎の彫刻も、このように評されるべきものと思います。

毎年恒例となっています、京の都に春の訪れを告げるイベントです。 

知恩院 春のライトアップ2018

期 間 : 2018年3月9日(金)~18日(日
時 間 : 18時00分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門周辺、友禅苑、女坂、宝佛殿
料 金 : 大人 500円  小中学生 300円

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主な見どころ】

友禅苑
 友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。

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関連行事

聞いてみよう! お坊さんのはなし

ライトアップ期間中、阿弥陀堂にて毎日開催 開始時間: (Ⅰ)18:10〜 (Ⅱ)19:00〜 (Ⅲ)20:00〜
(各回お話15〜20分、木魚念仏体験10分程度) ※状況により時間が変更になる場合がございます
仏教のことを知らない、お寺での話を聞いたことがないようなお方も大歓迎です。どうぞお気軽に足を運んでください。お話の後にはお坊さんと皆さまが一緒になって木魚を打ちながら「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えする体験をしていただきます。知恩院の荘厳な空間の中、日常では味わえない貴重なひとときを過ごしてみませんか?


聞いてみよう! お坊さんの生演奏

ライトアップ期間中、三門下にて金土日限定で開催
 時間: (Ⅰ)18:40〜 (Ⅱ)19:30〜 (各回15〜20分程度)
 ※状況により時間が変更になる場合がございます

9日(金) 10日(土) お説教ギターライブ
  大門哲爾  福井県出身。歌を交えて法話を行う「唄うお坊さん」
11日(日) 世界最古のオーケストラ
  知恩院僧侶  法要儀式に雅楽出仕する僧侶による演奏。
  晴天の場合、道楽(みちがく)があります!
16日(金) 三味線法話
 寺尾昌治   大阪府出身。津軽三味線と日本民謡を生かして法話を語る「三味線坊主」
17日(土)/18日(日) バンド演奏
 ぽくぽくすまいる ライトアップ限定でバンドを結成! 知恩院オリジナル曲も披露!?

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知恩院さん、秋の紅葉の時期のライトアップはかなり以前からやられているようですが、春のライトアップはおそらく一昨年から。昨秋のライトアップではYoutube上にPR動画を配信、今春はさらに「聞いてみよう! お坊さんの生演奏」が新企画として盛り込まれるそうです。どんどん進化し続けていますね(笑)。

光太郎の父・高村光雲原型の観音像についてはこちら

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

最も強大な美の源泉は、民族そのものが亡びても其の美の勢力を失はない。一民族を超えて世界の美の源泉となる。

散文「美の日本的源泉」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

太平洋戦争で日本の敗色濃厚となりつつあった時期の言です。我が国が亡びるという危惧もあったのかもしれません。

テレビ放映情報です。 

三宅裕司のふるさと探訪~こだわり田舎自慢~▽福島県二本松市の旅

BS日テレ 2018年3月6日(火) 21時00分~22時00分

この番組は、東京で暮らす地方出身の方や、地方で暮らす皆さんから番組あてに寄せられた“こだわり田舎自慢"を確かめるべく、三宅裕司が日本中を訪れます。その土地の人の温かさや美味しい料理、素敵な景色などに触れながら、時には毒舌、時には爆笑ののんびり・ふれあい旅。

…今回は福島県二本松市。子供の頃からある丸い羊羹! 提灯祭りに食べる「ざくざく」? 稚児舞台の絶景!

出演:三宅裕司    ナレーター:屋良有作

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智恵子の故郷、福島二本松が扱われます。番組紹介の中に、光太郎智恵子の名がありませんが、話の枕にでも取り上げていただきたいものです。


もう1件。 

プレミアムカフェ 名作紀行 (1)寺山修司 (2)石川啄木 (3)高村光太郎

NHK BSプレミアム 2018年3月7日(水)  9時00分~10時25分  
再放送  24時45分~26時10分(=3月8日 午前0時45分~2時10分)

(1) 名作をポケットに 寺山修司   田園に死す 旅人:萩原朔美 語り:本和之 (初回放送:2002年)
(2) 名作をポケットに 石川啄木   一握の砂   旅人:谷啓 語り:久保田茂 (初回放送:2002年)
(3) 名作をポケットに 高村光太郎 智恵子抄   旅人:山本容子 語り:山本和之 (初回放送:2001年)

“NHK BSの あの番組をもう一度見たい!”
そんなアナタの思いにこたえて、過去のBSの名番組をゲストと共に楽しむのがプレミアムカフェ。
皆さんも、是非リクエストして下さい!

スタジオゲスト 澤口たまみ   スタジオキャスター 渡邊あゆみ

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こちらは平成13年(2001)6月11002日に初回放映があったものの再放送です。これは存じませんでした。

ナビゲーター役は銅版画家の山本容子さん。智恵子をモチーフにした者を含む『婦人公論』の表紙絵を集めた『女・女』(平成16年=2004 中央公論社)、同25年(2013)には雑誌『本の話』の表紙絵集『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』(文藝春秋社)を上梓なされ、同27年(2015)には、銀座のノエビア銀座ギャラリーさんで「山本容子のアーティスト図鑑」展を開催。こちらは拝見して参りました

初回放映を見ていないので、「智恵子抄」ゆかりの地のうち、どこが紹介されるか不明ですが、流れ的に青森の寺山修司、岩手の石川啄木と来ていますので、やはり福島だろうかと思いますが、何とも言えません。

右の山本さんの作品は九十九里浜、上記番組公式サイトからの画像は「レモン哀歌」で、東京品川ですが。

いずれにせよ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人は其の与へられた形式以外の眼を以て自然を観る事が出来ず、出来てもそれを再現するものではないといふ不文律を心の中につくつてしまふのである。
散文「本邦肖像彫刻技法の推移」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

飛鳥時代以来、千数百年の長きにわたって日本で「彫刻」といえば仏像が中心であったことを指しています。

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