2018年02月

注文しておいた書籍が届きました。 

美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道


2018年2月26日  春日太一著  文藝春秋  定価1,750円+税

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2018年が女優生活60周年となる岩下志麻さんが自らが出演してきた数々の作品について詳細に語り下ろしました。岩下さんほど多彩なフィルモグラフィーを持つ女優はなかなかいません。60年代前半は巨匠・小津安二郎監督の「秋刀魚の味」に主演し、「古都」「雪国」など川端康成原作の作品では可憐な演技を見せて松竹の清純派看板女優として活躍。順風満帆の女優生活でしたが、67年、篠田正浩監督と当時タブーとされていた主演女優を続けながらの結婚に踏み切り、独立プロ「表現社」を立ち上げて新たな道を切り拓きました。「結婚したからダメになったと言われたくない」との思いを抱いて篠田監督と二人三脚で「心中天網島」「はなれ瞽女おりん」といった名作を生み出します。74年に出産から復帰すると松竹を退社、「鬼畜」「疑惑」といった松本清張原作・野村芳太郎監督の一連の作品で情念の女を演じ、新たな一面を披露します。80年代~90年代はなんといっても「極道の女たち」シリーズ。こうした作品についてはもちろん、「五瓣の椿」「卑弥呼」「悪霊島」「鬼龍院花子の生涯」「瀬戸内少年野球団」といった記憶に残る作品、さらに大河ドラマ「草燃える」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」に関する秘話も満載です。今でこそ「大女優」のイメージが強いですが、岩下さんは、主演女優をつとめながらの結婚、出産、独立プロでの映画製作などタブーの打破、新しいことへの挑戦を続けてきた反骨の人です。また「普通の人の役はやりたくない」と言い、悪女、狂女でこそ輝きを発揮してきました。インタビュー・構成は「あかんやつら」「天才 勝新太郎」など映画愛溢れる作品でお馴染みの春日太一さん。岩下さんの言葉から、医者志望で女優に興味がなかった高校生が、徐々に女優という仕事に憑りつかれていく様子を浮かびあがらせます。女優の年代記であり、仕事論であり、同時に美の下に隠す狂気を語った濃厚な一冊です。

というわけで、映画史研究家の春日太一氏による、岩下さ002んへのインタビューで構成されている書籍です。インタビューは毎回2時間、全11回。1年間にわたって行われたそうです。

岩下さんがご出演なさった50本ほどの映画やテレビドラマについて、それぞれの思い出などが語られ、岩下さんの来し方がまとめられています。

その中で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(中村登監督作品)についても語られています。

それによれば、当時、川端康成原作の「古都」「雪国」、有吉佐和子原作の「紀ノ川」など、いわゆる「文芸映画」に出演されていた岩下さんから、ぜひ智恵子を演じたいと申し出て実現したとのこと。光太郎役は故・丹波哲郎さんでした。

また、岩下さんは、役作りに懸命に取り組むために研鑽を積まれるそうで、「はなれ瞽女おりん」の際には、本物の瞽女さんに取材したり、盲学校の見学に行かれたりしたとのことですし、「智恵子抄」の際には、精神科病院にも行かれたそうです。

当方、「智恵子抄」は一度拝見しましたが、岩下さんの鬼気迫る演技の背景には、そういうことがあったのかと思い当たりました。

岩下さん、その後も「桜の森の満開の下」、「卑弥呼」などで魔性の美女を演じられたり、「鬼畜」や「婉という女」などでも心の闇を抱えた女性を演じられたりしています。具体的な記述はありませんでしたが、そうした役柄の原点に「智恵子抄」があるような気もしました。そこで、本書の題名が「美しく、狂おしく」なのだなと納得いたしました。

本書以外にも、岩下さん、昭和63年(1988)刊行の雑誌『彷書月刊』第4巻第10号「特集 高村智恵子」や、平成23年(2011)の『朝日新聞』さん福島版の連載「「ほんとの空」を探して」でも「智恵子抄」に言及なさっています。思い入れの強い作品の一つ、ということなのでしょう。本書も、200本ほどもある出演作の中から50本ほどを特にセレクトしてのインタビューでした。その中に「智恵子抄」が入っているわけです。

しかし、残念ながらDVD、ブルーレイ等、販売用のソフト化がされていません。これを機に、ぜひお願いしたいところです。

ちなみにこちらは「智恵子抄」のスチール写真。20種類あまりこつこつ集めましたが、そのうち1枚、岩下さんのサイン入りが含まれています。ニセモノでないことを祈ります(笑)。

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【折々のことば・光太郎】

それは最早金銅では出ない木彫独自の刻みの美であり、創りであり、温かい素材精神の生かし方であり、植物体質への清純な愛であり、湿潤な日本風土から生れる自然随順的帰依の深厚な心法である。

散文「技法について」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

日本の仏像の変遷を説いた評論の一節です。飛鳥、白鳳、天平を経て、徐々に大陸将来の金銅仏の影響を脱し、平安期には木彫仏の傑作が次々生まれたあたりを指しています。

仏像ではありませんが、光太郎が目指した木彫の在るべき姿も、こういうことなのでしょう。

昨日の『京都新聞』さんの一面コラムです。 

凡語:大学入試終盤へ

アニメの巨匠・押井守監督は大学受験で苦い経験を持つ。学生運動に目覚めた東京の高校時代、親の干渉から逃れるため、京都市立芸術大を受験する▼かつて得意だった絵のことを思い出し、付け焼き刃でアトリエに通ったが、実技試験で打ちのめされる。課題はニワトリのデッサン。他の受験生の絵に愕(がく)然とし、腹痛にも襲われて会場から担ぎ出された(「他力本願」)▼受験の思い出は人それぞれ、喜びより悔しさが勝る人も多かろう。そんな大学入試が大きく変わる。センター試験に代わり、2020年度から「大学入学共通テスト」が始まる▼思考力を重視し、国語と数学で記述式問題も加わるよう。昨秋の試行調査では高校生から戸惑いの声が漏れたとか。入試改革は改めて、高校・大学での学びの意味を問いかける▼昨日から国公立大の2次試験が始まり、私立大では合格発表も相次ぐ。数学者の故森毅さんはこの時期、大学進学が何の役にたつかと問われ、こう記す。「役にたたすのは本人のカイショの問題。このことについては入試に通ろうが落ちようが、考えねばならない」▼与えられた環境をどう生かすか。押井監督はその後、東京の大学で絵をあきらめ映画を作り始める。すべては自分次第。高村光太郎の詩ではないが、道は後ろにできる。


もうすぐ3月。そろそろ卒業、そして新生活スタートのシーズンです。この時期、光太郎の「道程」が、各種の式辞などでも広く使われますね。
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  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため


大正3年(1914)の作ですから、既に100年以上が経過していますが、とてもそうは思えない新鮮さをもって、心の琴線に触れる詩だと思います。

以前にもご紹介しましたが、この詩は元々、同じ年3月の雑誌『美の廃墟』に発表された段階では、102行もある長大なものでした。それが10月刊行の詩集『道程』に収録された際、現行の9行の形に改変されています。

原型はこちら。

 どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 道は僕のふみしだいて来た足あとだ
 だから
 道の最端にいつでも僕は立つてゐるimg_1
 何といふ曲りくねり
 迷ひまよっつた道だらう
 自堕落に消え滅びかけたあの道
 絶望に閉ぢ込められたあの道
 幼い苦悩にもみつぶされたあの道
 ふり返つてみると
 自分の道は戦慄に値ひする
 支離滅裂な
 又むざんな此の光景を見て
 誰がこれを
 生命(いのち)の道と信ずるだらう
 それだのに
 やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
 そして僕は此処まで来てしまつた
 このさんたんたる自分の道を見て
 僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
 あのやくざに見えた道の中から
 生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
 僕をひき廻しては眼をはぢき
 もう此処と思ふところで
 さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
 これこそ厳格な父の愛だ
 子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
 どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
 とうとう自分をつかまへたのだ
 恰度その時事態は一変した
 俄かに眼前にあるものは光りを放射し
 空も地面も沸く様に動き出した
 そのまに
 自然は微笑をのこして僕の手から004
 永遠の地平線へ姿をかくした
 そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
 驚いてゐる僕の魂は
 いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
 僕は武者ぶるひをした
 僕は子供の使命を全身に感じた
 子供の使命!
 僕の肩は重くなっつた
 そして僕はもうたよる手が無くなつた
 無意識にたよつてゐた手が無くなつた
 ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
 自分の全身をなげうつのだ
 僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
 かなり長い間
 冷たい油の汗を流しながら
 一つところに立ちつくして居た
 僕は心を集めて父の胸にふれた
 すると
 僕の足はひとりでに動き出した
 不思議に僕は或る自憑の境を得た
 僕はどう行かうとも思はない
 どの道をとらうとも思はない
 僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
 その間に花が咲き水が流れてゐる
 石があり絶壁がある
 それがみないきいきとしてゐる
 僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
 しかし四方は気味の悪い程静かだ
 恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
 寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
 僕はその時又父にいのる
 父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
 同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
 声をあげて祝福を伝へる
 そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
 僕の眼が開けるに従つて
 四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
 生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
 彼等も僕も004
 大きな人類といふものの一部分だ
  しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
 人間は鮭の卵だ
 千万人の中で百人も残れば
 人類は永久に絶えやしない
 棄て腐らすのを見越して
 自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
 腐るものは腐れ
 自然に背いたものはみな腐る
 僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
 もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
 自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
 子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
 ああ
 人類の道程は遠い
 そして其の大道はない
 自然は子供達が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
 歩け、歩け
 どんなものが出て来ても乗り越して歩け
 この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、父よ
 僕を一人立ちにさせた父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄を僕に充たせよ
 この遠い道程の為め

ネット上などで時折誤った記述を見かけるのですが、これは「原型」もしくは「発表形」であって、「全文」というわけではありません。また、「末尾の部分だけを切り取った」というのも誤りです。原型の「ああ、父よ」が「ああ、自然よ/父よ」と、「自然よ」が書き加えられた上で2行に分けられ、それに伴って次の行の「父よ」の前に「広大な」の一言が挿入されています。また、最終行も「為め」が仮名書きに変わり、さらにリフレインされています。

機会があれば、こちらの原型の方も広くご紹介いただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

あはれな片ぼかしや、つけ立て流や、思ひつき派は亡びるがいい。

散文「仏画賛」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

鎌倉時代の恵心僧都筆筆と003される「阿弥陀聖衆来迎図」を取り上げ、絶賛する文章の一節です。これは極彩色の大きな作品で、日本画特有の「幽玄」とか「枯淡」、「わびさび」、「余韻」といった感覚からは外れたもの。しかし、そういうものでなければ西洋の「最後の晩餐」や、ルオーの宗教画などに対抗できないのだ、という言です。

そして光太郎の矛先は、小手先の技巧(「片ぼかし」「つけ立て」など)を重視し、量感や力感に乏しい日本画に向かいます。「現代日本画の展観をローマのまん中でしてみたら、それに感心するのは現代日本画家だけであらう」と。

その論旨の是非については諸説ありましょうが、上記「道程」原型の「腐るものは腐れ/自然に背いたものはみな腐る」に通じているようにも思えます。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の3月号が届きました。

やはり3.11が近いというこで、特集は「それぞれの「雨ニモマケズ」」。東日本大震災後、改めて見直されるようになった、賢治歿後、光太郎がその「発見」の現場にも立ち会い、賢治の故郷・花巻に建った詩碑の揮毫を請け負った「雨ニモマケズ」が取り上げられています。

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棟方志功の版画など、後世の人々のオマージュ作品。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」も、それとリンクして賢治がらみです。

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画像は、光太郎自身の揮毫になる短歌「みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきゝ」。それから、昭和24年(1949)9月21日の『花巻新報』に掲載された「宮沢賢治十七回忌」という文章の抜粋。

オンラインで入手可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

思考の外なるもの、思ひがけず新鮮なるものは常に自然の中にのみある。

散文「能面の彫刻美」より  昭和13年(1938) 光太郎56歳

日本古来の能面を彫刻家の視点で分析した文章から。実際の人間の深い写生から、人間そのものの象徴にまで昇華している能面を賛美し、舌を巻いています。自身の彫刻にも、こうした部分を取り入れていっているのではないでしょうか。

今年も3.11が近づいて参りました。そういうわけで、東日本大震災からの復興を描いたドキュメンタリー映画をご紹介いたします。 

一陽来復 Life Goes On

公  開  日 : 2018年3月3日(土)より 全国ロードショー
上映会場 : ヒューマントラストシネマ有楽町名古屋ミッドランドスクエアシネマ ほか
監  督 : 尹美亜 
制  作 : 平成プロジェクト
製  作 : 心の復興映画製作委員会
上映時間 : 81分

ナレーション  : 藤原紀香/山寺宏一

一陽来復の春、すべての人に知ってもらいたい鎮魂と再生の物語

季節は移り、景色も変わる。人々の暮らしも変わった。
6年間の日常の積み重ねから発せられる言葉と、明日に向けられたそれぞれの笑顔。
2011年3月11日の東日本大震災から6年あまり。震災によって甚大な被害を受けた宮城県石巻市・南三陸町、岩手県釜石市、福島県川内村・浪江町の各地では、多くの人が喪失感や葛藤を抱えながら、新しい一歩を踏み出している。

3人の子供を失った場所に、仲間のための集会スペースを作った夫婦。津波の後にもたらされた海の恵みに気づき、以前とは異なる養殖を始めたカキ漁師。震災を風化させないために語り部となったホテルマン。写真の中で生き続けるパパと、そろばんが大好きな5歳の少女。全村非難の村で田んぼを耕し続けた農家。電力会社との対話をあきらめない商工会会長。被爆した牛の世話を続ける牛飼い。
カメラは「復興」という一言では括ることのできない、一人ひとりの確かな歩みを自然豊かな風景とともに映し出す。

東北の各地で生まれている小さな希望と幸せ

本作品では、岩手・宮城・福島の被災3県で生きる市井の人々の姿を通じて東北、引いては日本の現在を包括的に捉えた初のドキュメンタリー。多岐にわたる登場人物やストーリーの根底には生命の賛歌が流れている。
監督は、NHKドキュメンタリー番組制作や『サンマとカタール 女川つながる人々』などのプロヂューサーを経て、本作が初監督となるユンミヤ。「東日本大震災の衝撃と悲しみは世界中の人々に伝播したが、その後生まれたたくさんの小さな希望や幸せを伝えたい」という一心で東北の各地に通い、取材を続けた。また、東北に縁が深く、継続的な復興支援活動で知られる藤原紀香と山寺宏一がナレーションを務める。

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映画『一陽来復 Life Goes On』予告篇【2018年3月3日(土)劇場公開】



映画『一陽来復 Life Goes On』オープニング映像(本編冒頭2分半)特別公開!



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光太郎智恵子とは関わりませんが、当会の祖・草野心平を名誉村民に認定していただき、心平を偲ぶ「かえる忌」を開催して下さっている福島県川内村も舞台の一つとなっています。

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そして、「かえる忌」主宰の、天山心平の会会長にして、川内村商工会長の井出茂氏がご出演。

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さらに、プロデューサーの益田祐美子氏は、同じく被災地の復興を描いた一昨年公開の映画「サンマとカタール」でもプロデューサーを務められていましたし、監督の尹美亜氏は制作プロデューサーでした。「サンマとカタール」は、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する高村光太郎文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町が舞台でした。


震災からもうすぐ7年。現地では、着実に復興への歩みは進んでいますが、まだまだ復興完了にはほど遠い状態です。しかし、記憶の風化との闘いという新たな問題も。

こうした現状を知るためにも、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

およそ本源に立つ者の直接性は人を仮借しない。一撃の下に人を捉へる。

散文「本面について」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「仮借」はこの場合、「許す、見逃す」の意。ここでは能面の逸品が持つおそろしいまでの造形性を例えての言です。

被災地に生き、復興への歩みを進める人々も「本源に立つ者」と言えるのではないでしょうか。

昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』。第6号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんの協力による創刊号からの連載「光太郎レシピ」プラス、今号は特集で「賢治の足跡 光太郎の足跡」。表紙もそれに伴い、昭和20年(1945)に光太郎が約1ヶ月暮らした、市内桜町の佐藤隆房邸の離れです。ここを光太郎は「潺湲楼(せんかんろう)」と名付け、郊外太田村の山小屋に移り住んでからも、町に泊まりがけで出てきた際には、ここに宿泊することがほとんどでした。佐藤は賢治の主治医でもありました。

その他、主に市街の、光太郎ゆかりの場所がたくさん紹介されています。終戦の玉音放送を聴いた鳥谷崎神社さん、毎年のように智恵子や光雲の法要を営んでもらっていた松庵寺さん、それから光太郎の日記に名が出てくる店舗。今も同じ場所に残っているところが何軒もあり、驚きました。また花巻へ行く際には、探してみたいと思いました。やはり、地元をよく知る方の情報量にはかないません。日記にちらりと出てくる屋号で、あの場所か、とわかってしまうのでしょう。

それから、市の中心部ではありませんが、旧東和町のホームスパン工場跡地なども。ここで羊毛織物のホームスパン制作にいそしんでいた及川全三は光太郎とも因縁浅からずでした。『マチココ』さん、今後、この方面についても詳しく取り上げたい旨、聞き及んでおります。光太郎との絡みをぜひ紹介していただきたいものです。

オンラインで年間購読の手続きができます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

抽象と具象、この差は紙一重だ。

談話筆記「東洋と抽象彫刻」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

分類しろと言われれば、光太郎のそれは具象彫刻です。しかし、ただ単に対象を本物そっくりに作るというのではなく、対象の精髄的なものを取り出して表現するという意味では、抽象彫刻の要素も色濃く持っています。ロダンもそうであったと光太郎は指摘しています。

このところ、「智恵子抄」系の朗読、演劇等の公演が立て続けに行われます。
時 間 : 3/2(金)15:00/19:00  3/3(土)15:00 
会 場 : HITOMIホール 名古屋市中区葵三丁目21番19号メニコンアネックス5F
料 金 : 一般 前売り3,000円/当日3,500円  大学生迄 前売り・当日ともに1,500円
申 込 :  http://event.menicon-ba.co.jp/  またはメニコンアネックス窓口

朗読と音楽の融合を目指したオリジナルステージです。
智恵子が愛したベートーヴェンの交響楽第6番「田園」をモチーフに、ヴァイオリン・チェロ・ハープの演奏で、また朗読には、俳優の橋爪淳さんが光太郎役として至情の愛の世界へと誘います。

出演者 橋爪淳/朗読・光太郎  苅谷なつみ/ヴァイオリン  日野俊介/チェロ  
    田中敦子/ハープ

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同じ会場で、一昨年昨年も行われた公演の再演かと思われます。それだけ好評だったということでしょうか。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生物相互助長の交感力を考へると生物界の微妙な構成に驚く。人倫夫婦道の如きはその極致であらう。人類はそれによつて常に新らしい力の源泉を得てゐるのだ。
             散文「人体について」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中の言です。久しぶりにモデルを使い、その人体の美にうたれたことからはじまり、それに伴って自分の生命力も溌剌とさせられたとしています。

そして、像のその顔は今は亡き智恵子。かつて智恵子と共にお互いを高めあった日々を思い起こしているのでしょう。

昨日は男性の一人芝居をご紹介しましたが、今日は逆に女性の一人芝居です。

劇団TANTOO第9回公演「売り言葉」

期 日 : 2018年3月2日(金) ~4日(日)
時 間 : 3/2(金)19:30 3/3(土)14:00 18:00 3/4(日)15:00 各回定員15名
会 場 : アトリエTANTOO  東京都足立区扇2ー26ー41 扇ビルB1
料 金 : 2,000円
申 込 : theatre.tanto@gmail.com

世間一般に流布されている純愛詩集「智恵子抄」。智恵子本人が証言台に立ち、その「智恵子抄」を告発する。

作:野田秀樹  演出:佐藤学二  出演:壱岐照美

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平成14年(2002)、大竹しのぶさん出演で初演されました。脚本が公刊されていることも理由でしょう、その後も全国でいろいろな劇団、個人が取り上げ、昨年も確認できた限り、2回、上演されています。
今回の劇団TANTOOさんも、平成26年(2014)に一度上演されています。その当時は気づきませんで、ご紹介しませんでしたが。

光太郎智恵子の世界をいろいろな分野で取り上げられるで、最もアイロニカルな視点で描かれているものと言えます。単なるお涙頂戴で終わっていないあたり、演劇関係者の皆さんが好んで取り上げ続けられる理由の一つでしょう。

ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

自然に醜はない。人間をも含めた自然の中に醜なるものは存在しない。悉く美である。醜は人工の中にある。

散文「美ならざるなし」より 昭和26年(1951)頃 光太郎69歳頃

光太郎最晩年の言。しかし、若い頃から一貫したブレない考え方です。

「ひとり芝居」だそうです。 

ひとり芝居プロジェクト新作公演 立本夏山 智恵子抄

期 日 : 2018年2月26日(月)28日(水)
時 間 : 26日(月) 19:00   27日(火)/28日(水)  14:00/19:00
会 場 : 3331 Arts ChiyodaB104スタジオ  東京都千代田区外神田6丁目11-14
料 金 : 前売り3,000円/当日3,500円
申 込 : mail@kazan-office.com  TEL: 080-4164-4150 (市川)
          FAX: 03-6453-9333 (Kazan office.)

智恵子抄は光太郎の愛の言葉だ
 
この詩篇を読めば読むほどそれは間違いないと思える。智恵子に出会ってから、恋人時代、結婚、闘病、死別、その後と約30年にわたって書かれたこの詩篇は一時のラブレターや恋物語にはない圧倒的な説得力で僕の心に迫ってくる。しかしそうなればなるほど「愛ってなんだ?」という疑問も自然とわきあがってくる。
 
今の時代は愛というものがとても捉えずらい。多種多様な価値観があり、愛の形も様々。愛なんてよく分からない、結婚なんてしなくていい。そんな言葉がよく聞こえてくる。
そんな時代だからこそ、光太郎の純粋に相手を見つめる視線、相手に対する限りない情熱は意味があると思う。皆さんも光太郎の言葉に焚きつけられてみては如何でしょうか?
 
今回は皆さんに大真面目に愛を贈りたい。

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出演 立本夏山 Kazan Tachimoto

1982年6月7日 静岡県生まれ。
18歳にて文学座演劇研究所に入所。流山児☆事務所、俳優座演劇研究所を経て重力/Note、新宿梁山泊、燐光群などの作品に出演。2014年Arts Chiyoda 3331 千代田芸術祭にて伊藤 千枝賞受賞。2016年7月アヴィニヨン演劇祭・ブラジルMIRADA演劇祭にてアンジェリカ•リデル新作に出演。小池博史ブリッジプロジェクトの「風の又三郎2016 ODYSSEY OF WIND」「世界会議」に出演。


なかなか、というか、かなり、いや、とてつもなくインパクトのあるチラシです。

「智恵子抄」の世界、朗読的なものも含め、お一人で演じられる場合には、女性が多いのですが、こちらは男性。たしかに光太郎は男性ですし、その視点で書かれた詩群ですから、男性が演じることももちろん有りでしょう。まさか、チラシのような出で立ちで演じられることはないと存じますが。

チラシによると、6月から7月にかけては高知での公演があるそうです。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私にとつて彫刻の道具はこの世で最も神聖なものであり、又最愛の伴侶である。他の一切のものから聖別された此のものは、どんなことがあつても身を以て護り通さねばならない。

散文「信親と鳴瀧」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

既に智恵子逝きて12年。しかし、智恵子存命中も同じ考えだったとしたら、それは危険ですね。

題名にある「信親」は鍛冶職人・栗原信親(のぶちか)、そしてその手になる彫刻刀類。「鳴瀧」は京都鳴瀧産の砥石です。下記リンクをご覧下さい。

一般参加型の朗読会の情報です。

ポエトリーカフェ 《高村光太郎 篇》

日 時 : 2018年2月25日(日) 19:00~21:30
会 場 : 神田伯剌西爾(ぶらじる) 東京都千代田区神田神保町1-7 小宮山ビルB1
料 金 : 1,300円 (1ドリンク別)
定 員 : 15名 (要予約)  
主 催 : Pippo

000「Pippoのポエトリーカフェ」とは、2009年10月より「入りやすい、詩の入口を作ろう!」との思いで、スタートした《気さくな詩の勉強会》です。 詩の活動をはじめて以来、「興味はあるんだけど...誰からなにから、読んだらいいのか」「楽しみ方がわからない」という方々に、とても多く出会ってきました。そういう方々の、なにか手がかりになれればと、このような会を開催しています。

詩がお好きなかた、「詩や詩人についての知識はそんなにないんだけど、でも興味はある!」という方、心から大歓迎。はじめての方も、どうぞお気軽にご参加下さいませ。

〈内容〉 Pippoによる詩人の生涯紹介。ご参加の方々によるくじ引き詩朗読。 茶話会。
     ※年譜・テキスト配布します。
     高村光太郎にちなんだ、特製ポエトリーおやつあり♪


主催者のPippoさん、「近代詩伝道師、朗読家、著述家」だそうです。見落としていましたが、先週も新潮社さんのカルチャースクール的な「新潮講座」で光太郎を取り上げて下さっていました。ありがたい限りです。

以前にも書きましたが、光太郎の詩は平易な言葉遣いで、ある意味、小学生にも理解可能。それでいて通俗に堕せず、格調の高いものです。そして定型やわざとらしい各種の技巧に走らずとも、意外と朗読向きです。光太郎自身が「内在律」と呼ぶ、一種のリズム感が感じられます。

今秋には、智恵子の故郷・福島二本松で歿後80年を記念した全国「智恵子抄」朗読大会もあることですし、この分野、どんどん盛り上がって欲しいものです。

ちなみに4月2日の光太郎忌日・第62回連翹忌。毎年、さまざまなパフォーマーの方にアトラクションをお願いし、会に花を添えていただいておりますが、今年も朗読系で、昨年、千葉県柏市のアミュゼ柏で「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ  ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」公演をなさった山田典子さん(プラス謎のゲスト1名)にお願いしてあります。乞うご期待。


【折々のことば・光太郎】

人類が最後に遺すものは結局美である。

散文「美術立国」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

太平洋戦争が終わり、岩手花巻郊外太田村の山小屋に入って書かれたもので、激動の戦争を経てたどり着いた境地がこれです。「自然と遺るもの」というよりは、「遺すべきもの」というニュアンスでしょうか。主に造形芸術についての言ですが、詩などの文筆作品についても当てはまるような気がします。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から、演劇の公演情報です。

第42回花巻市民劇場公演 「多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」

日時 : 2018年2月24日(土) 18:30  2月25日(日)14:00
会場 : 花巻市文化会館 岩手県花巻市若葉町三丁目16番22号
料金 : 一般1,000円/高校生500円/中学生以下無料
主催 : 花巻市・花巻市民劇場実行委員会

 「今、日本の仏教は壊滅的な状況にある。多種多様な思想が我々の生活をもてあそんでいる。インドの仏教は滅び、セイロン・ビルマ・シャムの仏教は半死の状態である。今こそ仏教の原点を残しているチベットの仏教を学び、日本に命ある新しい仏教の教義を作らねばならない。
 このままでは親が子を思い、子が親を慕うと言うあたりまえのことができぬ地獄のような世界になってしまう。だから多田君、チベットの仏教を学び、日本に持ち帰って欲しいのだ。」と島地大等(盛岡北山・願教寺住職)の想いを受け多田等観はチベットへ旅立った。明治45年1月のことである・・・。

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平成16年(2004)に初演されたもので、市民の皆さんによる手作りの演劇です。

主人公の多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。


花巻市さんの広報紙『広報はなまき』によれば、「▼20代の若き僧がなぜチベットに行くことになったのか▼なぜ花巻にチベットの経典などがあるのか▼円万寺の人とのふれあい▼彫刻家で詩人の高村光太郎との出会い―などを、ユーモアを交えながら描く。」とのことで、光太郎も登場するそうです。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

世界の美はもう一度健康をとりもどさねばならず、更にもう一度高度の美にまで引き上げられねばならない。

散文「美の中心」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

太平洋戦争末期の文章で、全体にはキナ臭さを含むものですが、こうした時期にも光太郎が「美」の行く末を真剣に案じていたことがうかがえます。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第62回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第62回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成30年4月2日(月
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第62回連翹忌へのお誘い

 自然現象にも、世界の情勢にも、この数年は、思いがけぬ出来事が続きましたが、お変りなく、お元気でおすごしのことと存じます。委員会の御努力により、連翹忌も今度で六十二回目、またお目にかかれるのが、奇蹟のような気がします。これも皆さんと高村さんの限りない敬愛に外なりません。
 今年も、いつもの日にいつものところで、いつものようにお目にかかり、たくさんのお話を伺えれば幸いに存じます。是非お出かけ下さい。
 私事ですが、私は一月末に、両眼白内障を手術、連翹忌が終ったら、逆さまつげの手術をします。もうすこし仕事もしたく、皆さんともお目にかかりたく、勝手に生存年令を百歳と決めました!

平成三十年 一月末
連翹忌運営委員会顧問 北川太一


御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 002
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は月曜日です。新年度最初の平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。


過去5年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

ともに岩手花巻に関わる光太郎作品が載った雑誌系、2冊ご紹介します。 

花巻市情報誌『花日和』平成29年冬号

2017/12  花巻市発行  無料

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花巻市内の花巻市観光協会、花巻観光案内所などで無料配布されている、年4回発行の市の情報誌です。無料と侮るなかれ、A4変形版30ページオールカラーの、毎号なかなか凝った作りです。

巻頭近くに「ふるさとの詩(うた)」というコーナーがあり、今号は光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)が掲載されています。

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バックの写真は、光太郎も何度か宿泊した、鉛温泉藤三旅館さん。いい感じですね。

『花日和』、首都圏でも入手可能です。東銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんなどに置いてあるはずです。

ところで、「ふるさとの詩(うた)」というコーナー、平成25年(2013)の同誌発刊以来、宮沢賢治の作品が毎号掲載されていましたが、今号は光太郎。このまま当分、光太郎作品が載り続けるのでしょうか。そうだとすると、かなりありがたいのですが。


もう一冊。

『家庭画報』2018年3月号

2018年2月1日  世界文化社発行  定価1,400円

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こちらも巻頭近くに、「残したいことば、未来につなぐことば――心を伝える絵手紙」というコーナーがあり、今号は、花巻郊外旧太田村から送られた光太郎の書簡(ハガキ)が紹介されています。

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昭和22年(1947)、4月6日付で、宛先は東京在住の姪・高村珊子さんです。4月の段階でまだ春が来ていない、ようやく雪の下からフキノトウが、というあたり、春の訪れの遅さに驚きますが、北東北ではそんなものなのでしょう。当方自宅兼事務所のある千葉県では、ぼやぼやしているともうそろそろフキノトウが出始めます。

解説は、日本絵手紙協会名誉会長の、小池邦夫氏。同会発行の『月刊絵手紙』でも、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

こちらは一般書店店頭で販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然の風景は透明だが、詩人の描く風景はまつたく主観の雄弁な告白者だ。

散文「彫刻その他」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

2月13日(火)、秋田小坂をあとに、再び高速バスに乗って岩手方面へ。バス終点の盛岡から東北本線に乗り、光太郎第2の故郷ともいうべき花巻を目指しました。

到着が昼頃でしたので、迎えに来て下さった花巻高村光太郎記念会の事務局長さん、そして市役所の方と昼食。向かったのは、市役所近くの「茶寮かだん」さん。宮沢家と姻戚感関係だったという、旧橋本家の別邸を改装しオープンした、最近流行の古民家カフェ的なお店です。なるほど、外観といい、内部の造作といい、実にいい感じでした。

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画像ではわかりにくいのですが、天井は漆喰塗りで、電灯ソケットの周りはアールヌーボー風の鏝絵(こてえ)が施されています。

当方一行が通されたのは玄関脇の洋間でしたが、奥の和室では、賢治や妹のトシが眺めたというひな人形などが飾られていました。

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何かの折には、光太郎も見たかも知れません。

また、ここに賢治が設計した花壇が元々あったということで、それが復元されているそうです。現在は雪で覆われていますが。

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遠くに見える高い建物は、大食堂で有名なマルカンさんです。

その手前に、かつてあった呉服屋の大津屋さんがこちらの元の持ち主だそうです。

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ここでは光太郎も買い物をしていたことが、日記に記されています。

その後、事務局長さんの車で、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地は陽が差していましたが、旧太田村に近づくにつれ、雲行きが怪しくなり、とうとう雪が降ってきました。

車窓からの眺めも、「雪原」的な感じに。

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そして記念館さん。積雪はメートル単位だったでしょう。

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ちなみに昨年12月の様子はこんな感じでした。

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こちらで、来年度の諸事業について、色々と打ち合わせ。詳細はのちほど、正式に発表になってからご紹介しますが、例年行っている5月15日(今年は火曜日です)の高村祭、その他に企画展示や市民講座等、いろいろと面白い企画が盛りだくさんです。

現在も今月26日(月)までの日程で、企002画展「高村光太郎 書の世界」が開催中でしたが、新幹線の時間もあり、2度目の拝観は叶わず。

同じ敷地内の、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)は、冬期閉鎖中。そこにたどり着くまでがやはりメートル単位の積雪で、近づけませんでした。

以前にも書きましたが、60歳を過ぎた光太郎、まったく、よくぞまあこんなところで、しかもたった一人、七度も冬を越したものだと思います。

しかし、この過酷な環境が、自らを見つめさせるよい契機になったのでしょう。はじめは無邪気にこの地に文化集落を作ると意気込んでいた光太郎も、自らの戦争責任をしっかりと捉え、真の意味でのヒューマニスティックな視点を得ました。それを光太郎自身は「脱郤(「郤」は「却」の正字)」と名付けました。

俗念や煩悩の塊である当方も、こうした暮らしを続ければ、「脱郤」に至れるのでしょうか(笑)。しかしとてもここで暮らすのは無理そうです。

――という過酷な環境を呈しているこの地、ぜひ、多くの方に、この時期に訪れていただきたいものです。

再び事務局長さんに送られ、新花巻駅から新幹線で帰りました。都内に入ったあたりからの車窓風景。

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関東地方の人間は、富士山を見るとほっとします。昭和27年(1952)、旧太田村の山小屋から帰京した光太郎は、どんな思いで富士山を眺めたろうか、などと思いました。

以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

われわれは気宇を大にして分秒を積んで切磋しなければならない。

散文「とびとびの感想」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

太平洋戦争に於ける日本の敗色が濃厚となってきた時期のもので、それ故の一種悲壮な決意といった感じです。

光太郎は、戦後の旧太田村での山小屋暮らしの中でも、そしてそこから帰京して取り組んだ最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中も、ベクトルは違えど、こういうことを考え続けていたのではないかと思われます。

東北レポートの2回目、青森十和田湖……に、行く前に、昨日書きました秋田県小坂町の件が報道されていますので、ご紹介します。

高村光太郎の手紙新たに多数発見

 彫刻家で詩人の高村光太郎が出版社と編集の相談をした手紙など、34通が新たに見つかり、3月から秋田県小坂町の博物館で展示されることになりました。
 手紙は高村光太郎が昭和17年から29年にかけて、出版社「龍星閣」の代表、澤田伊四郎さんに送った67通で澤田さんの自宅でもあった東京・千代田区の龍星閣で遺族が保管していました。
 澤田さんが秋田県小坂町出身だったことから小坂町に寄贈され、町や専門家が調べたところ、34通が未公開であることがわかりました。
 高村光太郎は龍星閣から代表作の詩集「智恵子抄」を出版していて、昭和24年12月の手紙では、続編にあたる「智恵子抄その後」の出版について、高村は「まづものにならないと思ひます」などと書いていて、出版に乗り気ではなかったことがわかります。
 岩手県花巻市の高村光太郎記念館のアドバイザーを務める小山弘明さんは「これほどの量の手紙が見つかることはあまりなく、驚いた。出版の経緯なども書かれ、文学史的にも価値が高い」と話しています。
 手紙は、3月11日から小坂町の総合博物館郷土館で開かれる企画展で一般公開される予定です。
(2018/02/14 NHK NEWSWEB秋田)

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秋田ではNHKさんのローカルニュースで放映されました。当方も出演させていただきました(笑)。

高村光太郎の書簡34通発見 秋田

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年001)が詩集出版を巡り編集者とやりとりした書簡34通が、秋田県小坂町で見つかった。いずれも全集に収められておらず、担当者は「高村研究の空白部分を埋める価値がある」としている。
 小坂町立総合博物館郷土館の安田隼人学芸員(34)によると、書簡は1942~54年のもの。代表作の詩集「智恵子抄」の続編「智恵子抄その後」について「ものにならないと思います」と記しており、高村が出版にあまり乗り気ではなく、書籍として売れるかどうか不安を感じていたことがうかがえる。
 青森県十和田市の湖畔に立つ高村最後の彫刻「乙女の像」を巡り、設置場所の視察のため「十和田湖を見に行くことになりそうです」などと書いたものもある。
 書簡の相手は、詩集を出版した竜星閣(東京都千代田区)の元社長で、小坂町出身の故沢田伊四郎氏。昨年5月ごろ、同社から高村など複数の作家や画家の書簡、メモ類を寄贈された町立総合博物館が調査していた。
 同館は3月11日~5月20日、今回見つかった書簡34通を無料で一般公開する。
(2018/02/14 共同通信)


共同通信さんの配信を元に、『日本経済新聞』さんや全国の地方紙に記事が載ったようです。


さて、そちらの調査中に、青森県十和田市役所の山本様が車で迎えに来て下さり、十和田湖へ。十和田湖も西半分は小坂町ですが、県境を越えた青森側の休屋地区で、「十和田湖冬物語2018」が開催中です。当方、平成26年(2014)に一度お邪魔し、2度目でした。

まずはライトアップされている光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見に行きました。4年前は湖畔を歩いていきましたが、今回は十和田神社さんの参道を歩きました。こちらには雪灯籠的なものが設置されています。画像は山本様の撮影したもので、写っている不審な男は当方です(笑)。

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この辺りは除雪もきちんとなされ、さらに杉並木などの樹木のおかげでしょうか、雪はそれほどではありませんでした。ところが、「乙女の像」近くまで行くと、まともに湖からの風雪が舞って来ており、道なき道。

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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」大正3年=1914)状態でした(笑)。

ちなみに明朝、NHK Eテレさんの幼児向け番組「にほんごであそぼ」中で、坂本龍一氏作曲の「道程」が放映されます。以前に放映されたものの使い回しですが。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2018年2月16日(金)  6時35分~6時45分   再放送 2018年3月2日(金) 6時35分~6時45分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。
今週は、リクエスト&ちょい暗記特集! 鈴と、小鳥と、それから私。みんなちがって、みんないい。「私と小鳥と鈴と」金子みすゞ、花鹿亭/「不老不死」桂宮治、投稿ちょちょいのちょい暗記/8級「寿限無」、歌/道程、私と小鳥と鈴と。

出演 美輪明宏 三世桐竹勘十郎 小錦八十吉 桂宮治 ほか


閑話休題。ライトアップされた「乙女の像」。

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画像ではわかりにくいところですが、湖からの風が積もった雪を舞い挙げ、地吹雪となっていました。この像へのオマージュとして作られた光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)には、「すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで/天然四元の平手打をまともにうける/銅とスズとの合金で出来た/女の裸像が二人/影と形のやうに立つてゐる。」とありますが、まさしくそういう感じでした。


その後、メイン会場へ。

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陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員さんたちが002作った大雪像兼メインステージでは、さまざまなパフォーマンス。それから、パビリオン的に、かまくらバーやかまくらチャペル、雪の滑り台などなど。

青森県側なのに、なぜか「秋田犬コーナー」も。おりこうさんなわんこで、モフモフでした(笑)。

昨秋、BS朝日さんで放映された「暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)」に、女将さんがご出演なさった十和田神社さんの鳥居近くのもりた観光物産さんが出されているプレハブのお店で夕食をいただきました。

外はマイナス10℃。低温のためスマホの電源が落ち、入らなくなった時もあった状態でしたので、生き返りました。

メインイベントは、午後8時からの花火。直前には大雪像を使ったプロジェクションマッピングで、「乙女の像」も写りました。

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幻想的な光景に、歓声が上がっていました。


「十和田湖冬物語2018」、今月25日の日曜日までです。ぜひ足をお運びください。

この後、また山本様に小坂町まで送っていただき、宿泊。翌日は岩手。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

われわれは古代人の闊達な心を以て世界のあらゆる美を併呑し駆使し、日本の持つ美の源泉から更に新鮮無比な未曾有の美を創造して、あまねく其の光を以て世界を包みこむやうになる時代に向つて邁進せねばならないのである。
散文「内面的力量の問題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

太平洋戦争中の文章ということで、きな臭さも感じられますが、趣旨としては誤りではありませんね。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で北東北3県、秋田、青森、岩手を回っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まずはメインの目的だった、秋田県小坂町。

光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈されました。

花巻の高村光太郎記念館さん経由で、その情報が入り、担当の方と連絡を取り合ったところ、『高村光太郎全集』に掲載されていない光太郎書簡が多数含まれていることがわかり、調査に赴いた次第です。

小坂町は十和田湖の西半分を含む山あいの町です。盛岡から出ている青森行きの高速バスが小坂に停まるため、それを利用しました。東北自動車道を走るバス、小坂ICで一旦一般道に下り、IC近くの小坂高校さんで停車します。町中心部までは2㎞ほどでしょうか。

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町教育委員会の担当の方が車で迎えに来て下さっていまして、助かりました。

今回寄贈を受けた新資料を、来月11日から展示する町立総合博物館郷土館さん。

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現在は冬期休館中ということで、隣接する町立図書館さんに通されました。

早速、光太郎関連資料を拝見。事前に、『高村光太郎全集』掲載済みの書簡と、そうでないもの(半々です)とを区別して下さっていたので、手間が省けました。未公開のものは、一通ずつ筆写させていただきました。

最初に情報を得た時から、なぜ、半数のみが『高村光太郎全集』に既収で、半数がそうでなかったのか、あれこれ推理していました。公表するには差し障りのあるものは提供しなかったのではないか、など。ところが、読んでみると、そうでもないようでした。特に既出のものと比較して大きな違いはありません。

最も古いものは、戦時中の昭和17年(1942)、最後のものは、光太郎最晩年の昭和30年(1955)のもの、大半は花巻郊外旧太田村在住時のものでした。特に目を引いたのが、詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)出版に関する内容のものがあったこと。最初は出版に乗り気でなかった様子が窺えましたが、どうも澤田の熱意にほだされたように見受けられます。

それから、他に類例がないハガキ類。一言でいうと受領証の類ですが、澤田から送られた完成した『智恵子抄その後』や、茶葉、香水線香などの雑貨類を確かに受け取ったよ、というハガキ。これが10通以上あり、途中からは宛先の澤田の住所氏名、品目などは澤田の筆跡になっています。光太郎が律儀に受け取りのハガキを返送するので、途中から澤田が光太郎の手間を軽減しようと、返送用に小包に同封したのだと思われます。

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面白いと思ったのは、その品目の中にあった「クマゼミ(シヤンシヤン蝉)」という項目。既出の書簡には、熱海に住んでいた澤田にクマゼミを捕まえて送ってくれ、的な内容がありましたが、それの受領証です。光太郎、太田村の山小屋に蟄居中は、作品として彫刻を発表することを一切しませんでしたが、手すさびというか、腕をなまらせないための鍛錬というか、そういう形では蝉などの彫刻を彫っていたようです。地元民の方の目撃談もありますし、他の人物に送った書簡にもそういった内容があります。短歌でも、「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」(昭和21年=1946)というものがあり、あながちフィクションではなさそうです。ただ、彫ったものの現物は確認できていませんが。

それから、その太田村での生活のディテール。これは『高村光太郎全集』既収の、他の人物に宛てたものにも共通しますが、やはり四季折々に光太郎が感じた自然美などが記されています。何げない一言にも味わいがありました。

その他、光太郎の周辺人物からの書簡類もかなりありました。太田村で光太郎に山小屋の土地を貸していた駿河重次郎、宮沢賢治の父・政次郎と共に花巻疎開を助けた医師・佐藤隆房、光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚した宮崎稔、そして宮崎歿後は春子。

個人経営、おそらく社員一人の龍星閣、明確な印税制を採らず、光太郎もその辺りはアバウトでしたから、どれだけ著書が売れても光太郎は報酬を受け取ることに積極的ではありませんでした。ある意味仕方なく、澤田は小切手やらで「寸志」として送りました。また、『智恵子抄』の戦後復元版(昭和26年=1951)が出た頃には、澤田が6万円あまりを負担して、山小屋を増築しています。大工の手配等は駿河重次郎がやったようで、駿河から澤田には、その工事経費の明細書的なものが送られていました。

このブログでまた続報を出すと思いますが、先述の通り、来月11日から、小坂町立総合博物館郷土館さんで、企画展「平成29年度新収蔵資料展」として、光太郎関連もピックアップされて出品されます。ぜひ足をお運び下さい。

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ところで小坂といえば、かつて鉱産額で全国一位にまでのぼりつめた小坂鉱山の企業城下町として、レトロモダン建築が立ち並ぶ「明治100年通り」が有名です。昨日の朝、歩いて参りました。

国指定重要文化財・小坂鉱山事務所。

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天使館(旧聖園マリア園)。元の保育園的な。

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日本最古の芝居小屋・康楽館。こちらも重要文化財です。

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横から見ると、擬洋館建築だというのがよくわかります。


小坂鉄道レールパーク。ただしこちらは冬期閉鎖中。

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それにしても、雪、雪、雪でした(笑)。

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明日は「十和田湖冬物語2018」をレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間の四肢胴体の凹凸を司る理法は重畳たる山嶽の起伏を司る理法と違つてゐない。彫刻家は人間の顔面に湖を見たり、瀧を見たり、雲を見たりする。

散文「彫刻に何を見る」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

龍星閣からオリジナルの『智恵子抄』が刊行された年に書かれた評論です。

昨日から一泊二日で、秋田の小坂町、青森で十和田湖、そして岩手花巻を回りました。先ほど帰途につき新幹線🚄車中でこれを書いております。
詳しくは明日以降レポート致しますが、秋田の小坂では、新たに町に寄贈された光太郎から出版社・龍星閣(詩集『智恵子抄』版元)社主の澤田伊四郎に宛てた書簡の調査をして参りました。既に『高村光太郎全集』に掲載されているものが三十数通、そして掲載されていないものも同じくらい。これには驚きました。来月11日から、小坂町立総合博物館郷土館さんの企画展で一部が展示されます。

続いて十和田湖へ。「十和田湖冬物語」を拝見。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップなど、拝見しました。

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昨夜は小坂町に宿泊。そして今日は岩手花巻。郊外旧太田村の高村光太郎記念館さん他を回りました。

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どこもさすがに雪深い状況でしたが、行く先々で関係の方々に大変お世話になり、スムーズに動くことができました。感謝。

明日以降、詳しくレポート致します。

光太郎詩「あどけない話」の一節「ほんとの空」の語を冠したイベントです。福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠したシンポジウムは、これまでに京都東京愛知いわき新潟そして南相馬でそれぞれ開催されています。

ほんとの空が戻る日まで--震災の記録と教訓を残し、未来に活かす

日 時 : 2018年2月24日(土) 13:00~17:30
会 場 : 
東北大学片平キャンパス 片平さくらホール 仙台市青葉区片平2-1-1
参加費 : 無料
共 催 : 国立大学法人東北大学
後 援 : 文部科学省、復興庁、福島県、宮城県教育委員会、仙台市、双葉地方町村会
         公益財団法人経済同友会他                     

事前申し込みはこちら →http://ws.formzu.net/fgen/S49345558/   当日受付も可 定員150名

 東日本大震災・原発事故から7年が経過しようとしている現在、大きく損なわれた地域固有の歴史・文化・自然とともに、震災によって発生したさまざまな物的・電磁的記録を保全し、未来に伝えていこうとする動きが次第に強まり、復興推進の大きな力になっています。本シンポジウムは、福島県の被災地において残存する資料や記録の保全と活用に取り組むさまざまな活動を紹介し、将来の大規模災害にいかに備え、活かしていくべきかについて議論します。

【シンポジウム構成】
 〈13:00~13:15〉 挨 拶
 〈13:20~14:20〉 基調講演 「災害記録を未来に活かす -古代ポンペイの調査を通じて-」
            青柳正規氏  東京大学名誉教授(前 文化庁長官)
 〈14:30~15:45〉 福島の現状報告
             「福島の現状と課題」     初澤 敏生氏  FUREセンター長
             「避難所運営シミュレーション教材による取組み」 
                    天野 和彦氏  FURE地域復興支援部門 特任教授
             「『社会力』の向上を目指した防災教育」
                      本多 環氏    FUREこども支援部門 特任教授
              「震災関連資料の収集と保存」 
                    柳沼 賢治氏  FURE地域復興支援部門 特任教授
 〈16:00~17:25〉 パネルディスカッション
   テーマ:「震災の記録と教訓を残し、未来に活かす」
    モデレータ:菊地 芳朗  FURE地域復興支援部門長
    パネリスト
    ○佐藤大介氏  東北大学災害科学国際研究所 准教授
    ○髙木亨氏    熊本学園大学社会福祉学部 准教授
    ○佐藤孝雄氏  岩手県山田町職員
    ○瀬戸真之氏   FURE地域復興支援部門 特任准教授
〈17:25~17:30〉  挨 拶

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あと一ヶ月で3.11。あの日から8年となります。あの記憶を風化させないためにも、注目されるべきイベントの一つですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。

当方、今回は参加しようと思ったのですが、また今日から秋田県小坂町、青森県十和田市、岩手県花巻市と廻る一泊二日の日程で、そうそう毎週東北まで行けません。残念ですが。

【折々のことば・光太郎】

美の無限を了悟した者にとつてこの世は無二の法悦境である事だらう。美の力の絶大さは其の美を心に養ふ力の絶大さである。美の奥は知れない。前進が万事である。
散文「美を求める欲望」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

「前進が万事である」、被災地もそうですね。

東京六本木から、公開講座の情報です。
会   場 : 東洋英和女学院大学大学院 201教室 東京都港区六本木5-14-40
時   間 : 16:20-17:50
料   金 : 500円 
申   込 : 不要 先着100名
講   師 : 福田周(東洋英和女学院大学人間科学部教授)

高村光太郎は明治生まれの日本を代表する彫刻家です。彼は彫刻だけではなく、画家として、また随筆家としてもその才能を発揮しています。しかし、彼をより有名にしたのは詩集の『道程』や『智恵子抄』でしょう。そのうち『智恵子抄』は心の病に罹り亡くなった妻である智恵子への想いを詩にしたものです。この講座では、心の病をもつ妻に、夫の光太郎がどのように寄り添って生きたのかを考えていこうと思います。

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大学さんでこうした取り組みというのは、ありがたいですね。それこそさまざまな分野で、専門的に語れる人材はたくさんいらっしゃるわけですから。

たまたまでしょうが、今年は昭和13年(1938)に亡くなった智恵子の歿後80周年の節目の年です。各地で智恵子を語るイベント等、催されて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

毎日見慣れて平凡だと思ふものに在る斯かる真の美を又新しく発見するのはたのしい。美は到るところにあるのである。

散文「野菜の美」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

初出掲載誌は『婦人之友』第35巻第4号。「日本的美について」ということで原稿依頼があり、光太郎の提案で、野菜の美しさを取り上げることとなり、光太郎のアトリエに編集者が筵(むしろ)一面を覆い尽くす野菜を持ち込み、写真撮影。その写真グラビアに添えられた文章です。

東京三鷹市から、映画の上映情報です。

CINEMA SPECIAL三回忌・原節子 『智恵子抄』

期   日 : 2018年2月17日(土)
会   場 : 三鷹市芸術文化センター星のホール 東京都三鷹市上連雀6-12-14
時   間 : 昼の部 13:15~14:53  夜の部 18:05~19:53
料   金 : 一般1,000円 学生800円 全席指定
申   込 : 0422-47-5122(三鷹市芸術文化センターチケットカウンター)

平成二十七年九月五日。
多くの人々の、女優・原節子への再会の願いを叶えること無く、一人の女性として、会田昌江は、静かに、その生涯を閉じる。享年、九十五歳。それはまるで、ただの一度も引退の言葉を口にすることなく、四十二歳の若さで銀幕を去った、あの時のように。静かに。
三回忌、原節子。もう一度、会いたい。

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というわけで、平成27年(2015)に亡くなった原節子さん追悼の作品上映が、三鷹市芸術文化センターさんで昨年から始まっています。


2/17(土)は、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」、それから同33年(1958)の同じく東宝映画「女であること」が上映されます。

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特に原さんが亡くなってから、全国あちこちで年に数回は上映がありますが、それにしてもそうそう多いわけではありません。

お近くの方、この機会にぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

芸術精神とは、国民各自の外界に存在するものでなくて、国民各自の中に在つて、毎日の目前的生活処理そのものを即刻即座に非目前的に自己みづから立ち上つて観じ味ふことの出来るやうにさせる精神力なのである。

散文「美の影響力」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いよいよ太平洋戦争開戦の年の2月に発表された散文です。「国民」という語の使用などにキナ臭さが感じられますね。どんな事物にも「美」を見いだそうとする姿勢そのものは、光太郎の昔からの持論ではありますが。

それぞれまだ先の話ですが、2件、智恵子の故郷・福島で行われるイベントにつき、予告的な報道が為されています。

復興や未来発信 全国植樹祭、実施計画決まる

 福島県南相馬市で6月10日に開催される第69回全国植樹祭の県実行委員会は22日、福島市のホテル福島グリーンパレスで総会を開き、記念式典の行事をはじめとする実施計画を承認した。メインアトラクションでは高校生らが高村光太郎・智恵子をモチーフとした演劇や踊りを披露し、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からの復興や未来に向けた県民の歩みを伝える。県内3地方を代表する民俗芸能も紹介する。
  プロローグではフラダンスや霊山太鼓、山木屋太鼓、会津彼岸獅子の実演で来場者を迎える。
  「三春滝桜」の子孫木の苗木などを各都道府県知事や各国大使に贈り、震災後の支援に感謝する。エピローグでは、相馬野馬追の騎馬武者行列が登場し、「相馬流れ山」の主題を用いた変奏曲を奏でて相双地方の文化を発信する。
  22日の総会では天皇、皇后両陛下が着席する「お野立て所」のデザインが示された。県産スギ材を使ったアーチ型の仮設施設で、トルコギキョウなど県内特産の花で周囲を彩る。

(『福島民報』 2018/01/23 )


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福島県産材を積極活用 特別委、実施計画を承認 全国植樹祭

 国土緑化推進機構(会長・大島理森衆院議長)の全国植樹祭特別委員会は2日、衆院議長公邸で開かれ、南相馬市で6月10日に開催される第69回全国植樹祭の実施計画を承認した。県は会場施設に県産材を積極的に活用しながら、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からの復興の現状、これまでの支援に対する思いを国内外に発信する。
  県内開催は1970(昭和45)年の猪苗代町以来、48年ぶり。震災の津波被害を受けた南相馬市原町区雫(しどけ)地区で記念式典を行い、天皇皇后両陛下が「お手植え」に臨まれる。県は各都道府県や各国大使に「三春滝桜」の子孫木や八重桜の新種「はるか」の苗木を贈り、震災後の支援に感謝する。メインアトラクションでは高校生らが高村光太郎・智恵子をモチーフとした演劇や踊りを披露する。
  大玉村のふくしま県民の森フォレストパークあだたらをサテライト会場とするほか、福島、郡山、白河、会津若松の4市に式典を中継するスクリーンを設ける。
  特別委員会で大島衆院議長は「全国植樹祭が復興の大きなスタートとなるように心からお祈りする」とあいさつした。内堀雅雄知事は「記憶に末永く残る素晴らしい全国植樹祭とし、復興を加速する原動力となるようにしっかり準備する」と決意を述べた。

(『福島民報』 2018/02/03 )


6月10日(日)に南相馬市原町区雫地内の海岸防災林で開催される「第69回全国植樹祭ふくしま2018」。光太郎智恵子をモチーフとした演劇、踊りが披露されるということで、ありがたいかぎりです。天皇皇后両陛下もご覧下さるようですし。

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ただ、まだ詳細な情報が出ていませんので、また近くなりましたらご紹介いたします。


もう1件、やはり福島から。

全国「智恵子抄」朗読大会11月に 智恵子没後80年、福島・二本松

 詩集「智恵子抄」で知られる二002本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と、夫の詩人・彫刻家光太郎の世界観を共有してもらおうと、全国「智恵子抄」朗読大会が11月18日、同市で開かれる。
 智恵子没後80年、智恵子純愛通り記念碑建立10年の記念事業で、顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」(熊谷健一代表)が29日までに、同市の市民交流センターで開いた総会で新年度の事業計画を決めた。
 「智恵子抄」朗読大会は日本中のファンに参加を呼び掛け、有識者らに審査してもらうことを検討している。
 このほかの記念事業として10月に智恵子検定、12月には智恵子カフェの実施に向けて準備を進めていく。
 智恵子生誕祭「智恵子ゆかりの地と二本松名所巡りバスツアー」は4月30日、智恵子純愛通り記念碑第10回記念建立祭は9月16日にそれぞれ開催する予定。

(『福島民友』 2018年01月30日)


この秋行われる、智恵子顕彰に取り組んで下さっている、智恵子のまち夢くらぶさんによるイベントです。朗読系で「智恵子抄」を取り上げて下さっている方々がかなりいらっしゃいますので、ふるってのご参加を期待したいものです。

こちらも詳細が決まりましたら、またご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

或る一つの芸術作品が永遠性を持つといふのは、既に作られたものが、或る個人的観念を離れてしまつて、まるで無始の太元から存在してゐて今後無限に存在するとしか思へないやうな特質を持つてゐる事を意味する。

散文「永遠の感覚」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

主に造形芸術についての言ですが、文学作品にも当てはまるような気がします。「智恵子抄」なども、こうした永遠性を持った作品であるようにも思われます。しかし、後世の人間がその価値をしっかり受け止め、次代へと引き継いでいく努力は必要でしょう。

東京北区から企画展情報です。 

田端に集まる理由(ワケ)がある~明治の田端は芸術家村だった!?

期 日 : 2018年2月10日(土) ~ 5月6日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午前10時~午後5時
休館日 : 月曜・祝日の翌日
      月曜が祝日の場合は火・水曜休館、祝日の翌日が土日の場合は、翌週の火曜休館
料 金 : 無料

開館25周年記念展第1弾は、明治期の田端がテーマです。本展覧会では、芸術家たちが独自の文化を形成し、田端が芸術家村となった“理由(ワケ)”を様々な資料で紹介します。

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関連イベント

講演会「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」

東京美術学校(現・東京藝術大学)が設置されて以降、明治後期の美術界に起きた様々な動きを、上野・田端という地域社会とも関連付けながらご講演いただきます。

日時:3月25日(日) 14:00開演(13:30開場) 参加無料
講師:古田 亮 氏(東京藝術大学大学美術館准教授)
申込:往復はがきで3月12(月)必着。定員100名(応募多数の場合は抽選)。


田端といえば、光雲・光太郎父子が暮らしていた千駄木にもほど近く、そこに暮らし、文士村、芸術村といわれる共同体を形成していた芸術家の中には、光雲・光太郎と関わりの深かった人物も多く含まれます。

その初期に田端に住んだ陶芸家の板谷波山は、東京美術学校彫刻科で光雲に師事していました。同じく美術学校関係では、昨日もご紹介した鋳金家の香取秀真・正彦父子、画家の石井柏亭、その実弟の彫刻家・鶴三など。もともと、美術学校の学生たちが、田端近辺の下宿を多く利用していたのが、文士村、芸術村の始まりとも言われています。

その他、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてうなども、田端文士村の一員で、光太郎と関わった面々です。


展示での光太郎との関わりは、光太郎も寄稿し、芸術運動「パンの会」の一つの源流となった雑誌『方寸』がらみくらいだと思われますが、関連イベントとしての講演会が、「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」ですので、ここでは光雲・光太郎関連のお話も出るのでは、と期待しております。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

いかなる時にも美術は千年の息をして生きてゐる生活体なのである。

散文「奉祝展に因みて」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争へと突入するこの時期、明治維新以来の西欧美術の輸入も一段落し、改めて美術の在り方を模索しようではないかという提言です。

紹介した一文の前には、「低劣な作家はかういふ社会の波に乗る事を心得てゐて口に民族意識といふやうな言を吐きながら、手に卑俗な彫刻しか作り得ず、純粋な芸術上の諸問題を回避する傾向があり勝ちである」といった一節もあります。

政治の世界にも当てはまりそうですし、80年経った現代、またぞろこういう輩が跳梁跋扈しているように思えてなりません。

千葉から企画展情報です。光太郎の実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝に指定された、高村豊周の作品が出ています。

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左から、光雲、豊周、光太郎。

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北詰コレクション メタルアートの世界Ⅱ-メタルアートの匠と技-

期 日 : 2018年1月20日(土) ~ 4月15日(日)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1丁目10番1号
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休館日 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館、翌日休館。
料 金 : 一般300円(240円)  高大生150円(120円)
      ( )内は20名以上の団体料金

千葉県印西市の「メタルアートミュージアム光の谷」閉館に伴い、館長の北詰栄男氏より寄贈された365点の近代金工史を代表するメタルアートのうち、昨年度の黎明期の作家を中心とする展覧会に続き、第二弾として大正から昭和にかけての作品を中心にご覧いただけます。

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豊周の作品は、3点出ていました。「青銅環文壺」(昭和35年=1960)、「青銅花盛」(制作年不詳)。こちらの2点は画像がゲットできました。

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それから「朱銅花入」(昭和41年=1966)。001これそのものの画像は見つかりませんでしたが、似たような作品として、こちら。

いずれも見事な作品です。「メタル」というと、冷たい響きに感じられますが、さにあらず。特に「朱銅花入」などは、それが金属であることを忘れさせるような、温かみさえ感じさせられます。それは光太郎のブロンズ彫刻にしてもそうですが。

他に、関係する作家の作品もいろいろ。

豊周の師にあたる、津田信夫、大島如雲。豊周の父・光雲は、明治13年(1880)から翌年にかけ、大島とその父・高次郎の工房で、鋳金の仕事を手伝っていました。ちょうど、廃仏毀釈のあおりで木彫の仕事が激減していた時期です。

それから、やはり豊周の師・香取秀真(ほつま)の長男、香取正彦。光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」の鋳造を担当した岡崎雪声。さらに、豊周の弟子にあたる丸山不忘。丸山は、豊周の助手として、光太郎作の日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像の鋳造にあたっています。

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当方、昨日、拝見して参りました。昨年の「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」以来でした。

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館の正面玄関。後ろ姿は画家の浅井忠の銅像です。

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「メタルアートの世界Ⅱ」以外にも、アート・コレクション「コレクション名品展」、「浅井 忠6-その師と弟子たち-」 という展示も為されており、光太郎と関わりの深かった梅原龍三郎、安井曾太郎らの絵画が出品されていました。

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ぜひ足をお運びください。002


【折々のことば・光太郎】

工芸家は、作曲家が五線紙に曲を書き込んでゆく時既に演奏の結果を耳で聴く思をすると同様な感覚を持つてゐて、原型を作る時既にその壺なり花瓶なりのブロンズ作品に出来上がつた時の特有の美を感ずるのである。

散文「彫刻家の場合」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

右は、方眼紙に豊周の描いた、上記とはまた別の「朱銅花入」の下図です。

こうした感覚が無い彫刻家が作った銅像などが鋳造されると、まるでブロンズという素材を生かしていないものになり、太平洋戦争前夜、既に金属の不足が顕著になりつつあったこの時期、実に無駄、という論です。

一昨日の『朝日新聞』さんに、「智恵子抄」の文字。文芸文化面に載った「(文化の扉)愛とロマンの万葉集 天皇の歌も防人歌も、編纂の謎」という記事でしたが、記事本体ではなく、イラストの部分でした。

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記事は、『万葉集』の成立過程などを紹介するもので、相聞歌が多いとし、 「内緒にしてたのにみんなにばれちゃった」と高校生カップルみたいな歌もあれば、親友への冗談、貧しさへの悲しみ、今もある山河や草花、鳥に心動かされた歌も。人の気持ちは案外、昔も今も変わらない」という例、さらに天王から庶民まで、さまざまな階層の人々の作品が採られている例として、智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山が詠み込まれた東歌が引かれているわけです。

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歌の全文は、「安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のあり つつも吾は至らむ寝処な去りそね」。巻の十四に収められています。「安達太良山の峰に伏す鹿猪よ(=わが愛する娘よ)、そのままいつもの寝場所に居て下さい、私はいつものようにお前のところへ行こうと思っているのだから」といった意味です。なるほど、「1200年早い「智恵子抄」」と言えなくもありません。『万葉集』には、この他にも安達太良山が謳われた歌が二首あり、そちらはさらに生々しい相聞歌です。

光太郎は『万葉集』の「ますらをぶり」に心牽かれていたと思われます。昭和24年(1949)の雑誌『表現』に載ったアンケート「貴方の愛読書は」で、「二十代(青春時代)」の愛読書として『万葉集』を挙げていますし、「私は万葉集時代の東えびすが東歌を書いたやうに自分の詩を書いてゐる。」(散文「某月某日」昭和16年=1941)、「僕の詩は万葉集みたいになる。」(座談「美と生活」昭和27年=1952)などと書いたり言ったりしています。

すると当然、安達太良山を詠んだ三首の存在も知っていたでしょうし、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられた短歌「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」(大正12年=1923)も、『万葉集』へのオマージュです。曰く、「「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別な人を指すんです。


さて、『朝日新聞』さんといえば、001先月13日、土曜版の連載、「みちのものがたり」で、「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」という題で、昭和20年(1945)から27年(1952)まで、光太郎が蟄居生活を送った岩手花巻郊外の旧太田村に今も残る山小屋(高村山荘)での光太郎を紹介して下さいました。

次の週の土曜版でも、その続報的に、読者の方の投稿を紹介しています。

「(「道程」が)現在ではほとんどの教科書に掲載されていないことを知って驚きました」(千葉、58歳男性)、

「高名な彫刻家で詩人なのに、気さくで飾らない光太郎の晩年の姿を今回初めて知り、人柄にも魅力を感じ、記念館に行ってみたくなりました」(滋賀、47歳女性)

「滋賀、47歳女性」さん、ぜひ足をお運び下さい(笑)。ちなみに当方、来週、また行って参ります。


さらに、1月15日、広島版の記事。その高村山荘がちらりと出てきます。  

ひとin【広島】 福原一閒(かん) さん しの笛奏者 「音は無限、生かせる舞台を」

 国内外に足を運ぶ。一昨年には、002G7の首脳会合で来日した各国の外相に宮島で音色を披露した。華やかな経歴を持つが、迷いがなくなったのは不惑を超えてからだった。
 しの笛との出会いは小学6年の時。遊びに行った近所の画家の家で見つけ、手にとると難なく音が出た。幼少から歌や楽器が好きで、中学、高校ではブラスバンド部でトロンボーンとフルートを担当した。興味が高じ、竹で尺八を自作したこともあった。
 だが、楽器の奏者として生きることは考えず、器用さを生かし、21歳で木彫りや漆器の職人を志した。
 詩人で彫刻家の高村光太郎が構えた小さな山荘に憧れ、現在の安芸太田町に土地を買い、自らログハウスを建てた。朝は滝に打たれ、ロウソクの火で本を読み、川で水を浴びる。自然の中で暮らし、ヨガを習うためインドなども訪れた。
 神楽と出会い、楽器を演奏していた経験から、しの笛を吹くように。笛の奏者が集まる「横笛(ようじょう)会」に入り、30代半ばで人間国宝の故・六代目福原百之助こと四世宗家・寶山左衞門さんに出会い、弟子入りした。
 「それまで、どんな仕事をしても『違う』という思いがあったが、しの笛を始めて迷いがなくなった」。生計を立てていたログハウス作りなどを一切やめ、笛で生きると決意。40歳を超えた1996年に名取(なとり)を許され、「福原一(いっかん)」として活動を開始した。
 神楽の創作にも取り組む。幕あいを含めると、舞台に上がる時間が4時間に及ぶこともあるが、還暦を越えても、さらなる高みを見据える。「しの笛は、穴の押さえ方次第で、出せる音は無限に広がる。微に入り細に入り、もっとしの笛を生かせる舞台を作りたい」(松崎敏朗)
     *
 1955年、広島市生まれ。現在は安芸太田町に在住。オーストリアやブラジルなどの海外でも舞台に立ったこともある。「一閒洞」を主宰し、これまでの教え子は約300人。宮島観光大使も務めている。


記事に出てくる、福原さんの師の故・寶山左衞門氏は、智恵子へのオマージュ「智恵子と空」という曲を作られています。この曲は、寶山左衞門氏、さらに福原氏のきょうだい弟子・福原一笛さんのCDに収められています。

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『万葉集』から影響を受けた光太郎に、さらに後代のいろいろな方が影響を受け、こうして「文化」というものが連鎖してゆくのかな、と思いました。


【折々のことば・光太郎】

美は元来健康なものである。頽唐の美、脆弱の美といふものもあり、それが容易く万人の心に深くしみ入る性質を持つてゐるので、今にも絶え入りさうなものの美を殊に哀惜する思から、脆きものは美なり、はかなきものは美であるといふやうな観念まで出来てゐるが、結局其は美の変質であると見ねばならぬ。
散文「美の健康性」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

こういう考え方の光太郎ですから、『万葉集』に心牽かれるのは、さもありなん、ですね。

先月、市立図書館さんに「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」をオープンさせた埼玉県東松山市さんの広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号に、その件が報じられました。

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オープン記念に開催された当方の講演についてもご記述下さっています。

このコーナーは、戦時中から光太郎と交流があった、同市の元教育長・故田口弘氏から同市が寄贈を受けた光太郎関連の資料を展示するものです。当方のオープン記念講演の中では、氏と光太郎の関わりについて話させていただきました。その中で、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑(光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんにも同じ文字を刻んだ碑があります)が、氏のお骨折りで建立されたことにも触れました。

そうしましたところ、講演会終了後、市役所の方が、当時の資料が見つかったというので、送って下さいました。B4判二つ折りのリーフレットです。

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当時教育長だった田口氏の「この石碑ができるまで」、当時の校長先生による「記念碑の除幕にあたって」、そしてこの文字を提供して下さった、当時の花巻高村記念会の浅沼政規事務局長が書かれた「高村光太郎書「正直親切」の由来について」が掲載されています。浅沼政規氏は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、山口小学校の初代校長先生でした。もともと「正直親切」の文字は、昭和23年(1948)に、同校が太田小学校山口分教場から山口小学校に昇格した際に、光太郎が校訓として贈ったものです。氏は平成9年(1997)に亡くなりましたが、ご子息の隆氏はご健在。山口小学校に通っていた頃、光太郎の山小屋に郵便物を届けに行ったりなさっていて、今も光太郎の語り部としてご活躍中です。

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ところで、驚いたのは、このリーフレットに光太郎詩「少年に与ふ」(昭和12年=1937)が印刷されていたこと。先日の講演会の冒頭に、地元の朗読グループの方が、光太郎詩と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読なさることとなり、何かふさわしい詩は、と照会されたので、この詩を推薦しました。光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、「持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」という一節が、まさに田口氏の生き様に通じると思ったからです。そうしましたところ、昭和58年(1983)作成のリーフレットで、やはり田口氏がこの詩を選んでいたということで、驚いた次第です。

また、田口氏は、光太郎つながりで、彫刻家の高田博厚とも親交を深め、同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。その件でも同市役所の方から照会がありました。高田の居住していた鎌倉のアトリエのリビングに、光太郎の絵らしきものが掛かっていたが、これは何なのか、と。

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大分色が褪せていますが、これは昭和22年(1947)11月30日発行の雑誌『至上律』に口絵として載ったもので、当時光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村の水彩スケッチです。この切り抜きを高田が壁に掛けていたと知り、胸を打たれました。

さて、同市立図書館さんの「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

何だかあたり前に出来てゐると思へれば最上なのである。それが美である。

散文「蝉の美と造型」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎が好んで木彫のモチーフとした蝉に関する散文です。本来薄い翅(はね)をかえって厚く仕上げるところが腕の見せどころ、としています。そうすることで、彫刻的な美しさがより顕著になるそうです。しかし、翅が薄いとか厚いとか、そんなことは気にならずに、すっと目に入ってくるもの、「何だかあたり前に出来てゐる」べきともしています。

このことは彫刻に限らず、詩にしても、絵画にしても、書にしても、光太郎芸術の根柢に流れる考え方で、実際にそれが実現されているといえるでしょう。

昨日のこのブログでは、光太郎自身の書を集めた企画展について触れましたが、光太郎の詩文は、現代の書家の方々もいろいろと取り上げて下さっています。ただ、なかなかネット上に情報がなかったりで、あまり紹介できていません。会期が終わってから、会場風景的に「今回の出品作、高村光太郎の詩の一節です」といったブログ的なものは多いのですが……。

そんな中で、岡山市で開催中の催し。

中村文美作品展〜琥珀の文箱に文字を集めて

期 日  : 2018年1月31日(水) ~ 2月11日(日)
会 場  : CAFE×ATELIER Z 岡山県岡山市南区浜野2-1-35
時 間  : AM11:00〜PM7:00 最終日PM6:00まで
休廊日  : 2/5(月)・6(火)

本と文字。一度は目にしたあの物語を「書」で。
映像や絵画を超えるほどのイマジネーション。
文字とはこんなにも、物語の世界を豊かに表現できるのか…。
”読む”文字から”見て感じる”文字へ。
新しい愉しみ方を体感してください。

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上記画像(ダイレクトメールだそうで)にも使われていますが、光太郎の「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられています。他に宮沢賢治、ヴェルレーヌなどの詩文も。

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中村文美さんは、広島県福山市ご在住の書家。調べてみましたところ、一昨年の『朝日新聞』さん広島版の記事がヒットしました。

ひとin【福山】 中村文美さん 書家 ◇「書とアート 感性重ねて」

 直径約2・5メートルの円の周囲に002倉敷帆布を巻き、中央上部に船で使う八点鐘がつるされている。「八」の右を大きく波打つように伸ばした「八点鐘」の文字を揮毫しただけでなく、海風と太陽、波がモチーフのデザインにも関わった。
 「海へ続く道の始まり。今年はアートにふれる瀬戸内国際芸術祭もあるので、わくわくした気持ちを込めました」
 書道は小学1年生で始めた。大学時代から取り組むかな書を中心に、伝統的な書の分野で活躍してきた。同じ音(おん)を表すのでも多種の文字のある変体仮名や、重ねたり、くねらせたりもする行の書き方など、表現方法は奥深い。
 大阪市内で20~24日に開かれた第70回日本書芸院展で若手作家10人の1人に選ばれ、「平家物語」をテーマにしたかな書など3作品を出品した。生まれ育った福山市沼隈町の谷には平家の伝説が残る。「古里に縁深い平家物語は私にとって大きなテーマ」。そして平家の谷から瀬戸内海に流れる水にも創作意欲をそそられ、「水」という文字を取り込んだ絵のような前衛的な作品を発表している。
 昨年6月、創作仲間の染色家とパリで2人展を開いた。かな書と「水」の文字を象形化したデザインの扇子、日本画とかな書のびょうぶなど約50作品を展示した。訪れたフランス人から「日本の伝統の匂いがする」と声をかけられ、驚いた。
 書の伝統を尊敬している。「それが私のベース。書とアートを分けるのではなく、伝統の上に自分の感性を重ねています」

 岡山大学大学院修了。福山市沼隈町にアトリエ「すゞり」を構え、「玉葉書道会」主宰。2013年にふくやま美術館で個展「水の音(ね)」を開催、「鞆の浦deアート」展にも毎回出品している。

(2016年04月26日)


こういう方に取り上げていただけると、実にありがたいところです。情報を得るのが遅れ、昨日、中村さんご本人によるギャラリートークだったそうで、申し訳なく存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】003

彫刻家の作る真の肖像彫刻の微妙さは、造型と自然との最も幸福な結合であり、造型の中に自然そのものがあり、自然と見えるものが即ち造型の美である融合の妙趣を持つのである。

散文「素材と造型」より
 
昭和15年(1940) 光太郎58歳

河出書房から刊行された『芸術論 第二巻 芸術方法論』の為に書き下ろされた評論で、掲載誌では58ページある長い文章です。

古今の芸術家について解説した文章では、同じ程度やさらに長いものもありますが、方法論としての評論では、最長のものの一つで、造型作家としての光太郎の骨格がいかにしっかりしたものであったかが如実に表されています。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第5巻に収録されています。ぜひ全文をお読み下さい。

先月末、花巻市の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」について、『読売新聞』さんが岩手版で大きく紹介して下さいました。

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手前味噌で恐縮ですが、当方のコメント及び写真が掲載されています。取材日は昨年12月14日。1ヶ月以上経っての掲載で、掲載紙を送って下さった担当記者さんは恐縮されていましたが、かえってこの時期の掲載もありがたいものです。この手の企画展は、開幕当初に熱心な方々がすぐ観にいらっしゃり、会期半ばには客足が落ち込みますが、こうしてメディアで大きく取り上げられると、また復調するものですので。

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会期は今月26日(月)まで。無休です。ただし、積雪は今がピークかと思われます。しかし、記念館さんに隣接する、光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)での過酷な越冬の状況を、身を以て感得できまるという意味では、この時期がおすすめです。ちなみに1月半ばでこんな状況です。

この時期のこの地を知らずして、光太郎の山小屋生活を「しょせんはポーズに過ぎなかった」的な批評をなさっているエラい先生方などに、特にお奨めしたいですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

私はリユクサンブウル美術館にあるロダンの「ジヤン ポオル ロオランス」の首と、「ダルウ」の首とを朝から中食の頃まで見てゐた事が幾度もある。そして思ひきつて帰つて来ると、自分のアトリエに入るや否や又見たくなつて、慌てて美術館へ引きかへした事もある。

散文「肖像雑談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ時代の思い出です。

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左が、「ジャン・ポール・ローランス」、右が「ダルー」です。

強引なまとめですが、「高村光太郎 書の世界」で、当方、同じような感想を持ちました。ただ、カンパーニュプルミエル街の光太郎アトリエからリュクサンブール美術館は徒歩15分ほど。当方自宅兼事務所から花巻ではそうもいきません(笑)。

昨日は、両国で劇団劇団空感演人さんによる「チエコ」という演劇を観て参りました。

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平成25年(2013)にも同じ会場、同じ劇団(当時の劇団名は「空感エンジン」)の公演があり、その時以来の2度目の拝見。さすがに4年半ぶりでしたので、細かな部分は覚えて居らず、拝見しながら「ああ、ここはこういうシーンだったな」、「あれっ、こんな流れになるんだったっけ?」という感じでした。

主な舞台は、旧本郷区駒込林町の光太郎アトリエ。肺結核のため智恵子が歿し、光太郎が詩集『智恵子抄』を編もうとしている時期――昭和15年(1940)ごろというところでしょうか。最初に登場するのは、光太郎と、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・長沼春子。春子は智恵子歿後も家政婦さんのようにアトリエに同居しているという設定です。そこに光太郎を敬愛する後輩詩人、中原綾子と草野心平(当会の祖です)、さらに途中から光太郎に代わって高村家の家督を継いだ実弟の豊周、そしてかつて智恵子の親友で、長いこと洋行していた田村俊子も加わります。この「現在」の場面と、智恵子存命中の「過去」の場面とを行ったり来たりしながら、物語が進みます。

光太郎智恵子にあまり詳しくない方でも、物語が進むにつれ、こういう経緯があったのか、と、非常にわかりやすく作られています。また、若い役者さんたちの、一生懸命な姿にも好感が持てました。先週からの公演で、合計6組の役者さんたちが入れ替わりながらということで、お互い競い合う的な部分もあるのでしょうか。

そして、結局、智恵子が心を病んだのは誰のせいでもない、という描き方です。心を病んだ智恵子も、最期には「紙絵」によって芸術家としての才を開花させることができたとし、初めは光太郎を糾弾していた田村俊子も納得します。そこで、終幕後は爽やかな余韻が残ります。一歩間違うと、何らの問題意識も提示しないまま、お涙頂戴の甘ったるいメロドラマで終わってしまう危険性もはらむ手法ですが、そこをそうさせないように、役者さんたち、そして脚本・演出の野口麻衣子さん(開演前と終演後、少しお話をさせていただきました)のご努力が見えました。何というか、皆さん、「優しい気持ち」でこの芝居に当たられているような……。

終演後の舞台挨拶。

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左から、長沼春子、豊周、光太郎、智恵子、田村俊子、心平、中原綾子です。

台本を販売していたので、購入して参りました。1,500円でした。

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来週月曜まで、まだ空席がありそうですので、お問い合わせの上、ぜひ足をお運びください。子供さんにも安心してみせられる芝居です。


【折々のことば・光太郎】

芸術作品を製作する者の側からいふと、独自性よりも普遍性を心がける方が正しいのではないかと思ふ。芸術の基準は人類共通の根本に据ゑて置くべきで、殊更に一民族乃至一個人の特性に意識的に凝り固まるべきではないと考へたい。
散文「普遍と独自」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

さりとて、独自性を軽視するというわけでもなく、しかし、独自性は自ずと表れるべきものであるとも光太郎は言います。たしかにどんな芸術でも、没個性も困りものですが、「自分が、自分が」という意識が強すぎるものに対しては、引いてしまうことが往々にしてあります。

空感演人さんの「チエコ」、そうした意味での普遍性も感じさせるものでした。

企画展情報です。

谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro

期 日  : 2018年1月13日(火) ~ 3月25日(日)
会 場  : 東京オペラシティ アートギャラリー 東京都新宿区西新宿 3-20-2
時 間  : 11:00~19:00(金・土は20:00まで/入館は閉館30分前まで)
料 金  : 一般 1,200円 大学・高校生 800円 
休館日  : 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)

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谷川俊太郎は1952年に詩集『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たしました。感傷や情念とは距離をおく軽やかな作風は、戦後の詩壇に新風をもたらします。
「鉄腕アトム」の主題歌、『マザー・グースのうた』や、『ピーナッツ』の翻訳、市川崑監督による映画「東京オリンピック」の脚本、武満徹ら日本を代表する音楽家との協働などでも知られるように、幅広い仕事によって詩と言葉の可能性を拡げてきました。
86歳を迎えた現在も、わかりやすく、読み手一人一人の心に届くみずみずしい言葉によって、子どもからお年寄りまで、多くの人々を魅了し続けています。
一方仕事の幅広さ・膨大さゆえに、この国民的詩人の「人」と「作品」の全体像をとらえるのは容易ではありません。谷川俊太郎のエッセンスを探るべく、本展では詩人の現在に焦点をあてることにしました。実生活の喜びやいたみから詩を紡ぎ出し、社会とつながろうとしてきた谷川。その暮らしの周辺をさまざまに紹介します。影響を受けた「もの」や音楽、家族写真、大切な人たちとの書簡、コレクション、暮らしの断片や、知られざる仕事を織り交ぜ、谷川俊太郎の詩が生まれる瞬間にふれる試みです。本展のために書き下ろされる詩や、音楽家・小山田圭吾(コーネリアス)とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)とのコラボレーションも発表します。

Gallery1:音と映像による新たな詩の体験
 展覧会の始まりは小山田圭吾(コーネリアス)の音楽とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)の映像による、谷川俊太郎の詩の空間です。名作絵本『ことばあそびうた』で知られる詩「かっぱ」など、谷川のことばに内在するリズムと小山田の音楽との出合いにご期待ください。谷川の声をまじえた音と映像のコラージュは、谷川の詩を浴びるような、新たな詩の体験を生むでしょう。

Gallery2:「自己紹介」
 日本で一番その名を知られているであろう詩人・谷川俊太郎。それぞれの世代が思い浮かべる谷川の仕事や詩人像があることでしょう。本スペースでは、20行からなる谷川の詩「自己紹介」に沿って、20のテーマごとに谷川にまつわるものごとを展示、私たちが知っているはずの谷川俊太郎像を見つめ直します。会場には20行の詩を1行ごとにしるした柱があらわれ、谷川が影響を受けた音楽や「もの」、家族写真、大切な人たちとの書簡、ラジオのコレクション、暮らしの断片、知られざる仕事など、選りすぐりの詩作品とともに展示されます。谷川の詩で谷川を紹介するユニークな展示からは、谷川の日々の暮らしと詩の深い関わりが浮かび上がってくることでしょう。また、本展のための書き下ろしの詩も発表します。

コリドール:「3.3の質問」
 「3.3の質問」は、谷川が1986年に出版した『33の質問』(ノーマン・メイラーの「69の問答」にちなんで33の質問を作り、7人の知人に問いかけをしながら語り合う)がもとになっています。本プロジェクトではその現代版として、当初の33の質問から谷川が3問を選び、新たに「0.3の質問」を加えて「3.3の質問」を作りました。これらを各界で活躍する人々に投げかけ、その回答を作品として展示します。シンプルな問いに、回答者のどんな世界観が見えてくるのでしょうか。「問うこと」、「答えること」、「そこに立ち会うこと」に、詩的な体験があふれています。 

関連企画

開催記念対談
 ① 1月27日[土] 都築響一(編集者) × 谷川俊太郎
 ② 2月10日[土] 小山田圭吾(コーネリアス)(音楽家) × 谷川俊太郎
 時間:各回14:00 ─ (13:45開場).
 会場:東京オペラシティビル7F会議室.
 定員:各回160名(全席自由).
 参加費:無料(展覧会の入場は別料金)要整理券

スペシャルライブ 谷川俊太郎&DiVa 「よしなしうた」
 谷川俊太郎による詩の朗読と、高瀬 "makoring" 麻里子(Vo)、谷川賢作(Pf)、大坪寛彦(B)によって1995年に結成された、現代詩を歌うバンドDiVaのスペシャルライブ。
 日時:2018年3月10日[土]14:00開演(13:30開場)
 会場:東京オペラシティ リサイタルホール(東京オペラシティビルB1F)
 出演:谷川俊太郎(朗読)DiVa[高瀬“makoring”麻理子(ヴォーカル)、
    谷川賢作(ピアノ)、大坪寛彦(ベー
ス)]
 演奏予定曲:(谷川俊太郎・詩 谷川賢作・曲)
  
けいとのたま ・すいぞくかん・たんぽぽのはなのさくたびに・せなか ・ふしぎ他
 チケット料金:3,500円(全席自由・税込)
 チケット取扱:東京オペラシティチケットセンター 03-5353-9999

先月末の『朝日新聞』さんに、大きく紹介する記事が出、「谷川さんあてに届いた堀口大学や小林秀雄らからのはがきや、家族との写真、あるいは愛用のTシャツも展示した。」とあり、「」に光太郎も含まれるのでは、と、ピンときました。平成28年(2016)、静岡三島の大岡信ことば館さん(昨年で閉館)を会場に開催された「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」でも同様の展示があり、光太郎から谷川氏へのハガキが出品されたためです。

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そこで照会してみたところ、ビンゴでした。昭和29年(1954)5月20日、光太郎最晩年のもので、氏の詩集『62のソネット』の受贈礼状が出ているそうです。以前に谷川氏に問い合わせたのですが、光太郎からの来翰のご所蔵はこれ一通のみとのことでした。

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極論が許されるなら、近代と現代、それそれを代表する詩壇の巨匠二人のつながりが端的に示された一品です。


ぜひ足をお運びの上、ご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

地紋を彫つて味が出ないやうであれば、大きな人物などを彫つても其の程度はおよそ分る。彫刻といふ一つの世界をその人がまだ内に持つてゐない事になるのである。

散文「木彫地紋の意義」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「地紋」とは、伝統的な木彫を習得するための、初歩の課題。五寸角や三寸角の檜の板へ、直線や曲線で彫られたさまざまな紋様です。当然、幼少期の光太郎もこの習練から彫刻の道に入りました。

しかし、長じるに従って、こんな習練に何の意味がある? と疑問に感じたとのこと。ところが、そろそろ老年にさしかかるこの時期に、改めてこの基礎的な習練法から、彫刻の奥深さを感得するようになったというのです。

すなわち、板に一本の溝を彫るにしても、幅や深さ、谷の断面に出来るV字の対称性などへの配慮と、考えるべきことがいくらでもあるというのです。それから木目との闘い。順目に彫る場合と逆目に彫る場合では、当然、彫刻刀の使い方が異なってきて、それをいい加減に処理すれば、細かいところがつぶれたり欠けたり、見るからにぼやけたものになってしまうとのこと。さらに全体のバランス。溝の深さが深すぎると鋭すぎる感じになり、浅すぎると無味なものになるし、板の大きさによってもほんのわずかな調整が必要だそうです。

こうした感覚――要するに光太郎が重視した、比例均衡の感覚―――が、地紋の反復で身につくし、「音楽家が音階の練習を絶えずするやうに」取り組むことが重要としています。

トップアスリートが基礎トレーニングに時間を割き、力士が四股やテッポウ、すり足を重要視するのと似た感覚かも知れません。

この文章の掲載誌『改造』には、光太郎が最近彫ったという地紋を版画にした図版が掲載されています。

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