2018年01月

先週のこのブログでご紹介したばかりの、「現代の智恵子抄」と称された映画「八重子のハミング」にご出演なさっていた、女優の上月左知子さんの訃報が出ました。 

女優の上月左知子さん死去=87歳、NHK大河「春日局」など

 上月 左知子さん(こうづき・さちこ、本名小池みき子=こいけ・みきこ=女優)24日、心不全のため東京都江戸川区の自宅で死去、87歳。

 神戸市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男健朗(けんろう)氏。後日、お別れの会を開く予定。

 49年宝塚歌劇団入団。上月あきらの名で男役、左知子に改名後は娘役を演じた。退団後は映画「瀬戸内少年野球団」「八重子のハミング」、NHK大河ドラマ「春日局」などに出演した。
(時事通信 2018/01/30)

宝塚出身女優・上月左知子さん死去、87歳 大河や特撮でも活躍「前日まで元気…」

 女優の上月左知子さんが24日、心不全のため亡くなったことが30日、発表された。87歳だった。上月さんは宝塚時代は上月あきらとして活躍、57年に退団してからは上月左知子として活動していた。通夜、告別式は家族葬で執り行うとし、後日、お別れの会を開催予定。

 上月さんは1930年10月9日兵庫県生まれ。49年に宝塚歌劇団に36期生として入団、上月あきらの名前で活躍し、「南の哀愁」で初舞台を踏む。1957年に退団すると、上月左知子として活動し、映画「陽暉楼」「瀬戸内少年野球団」「空海」などに出演。テレビドラマもNHK大河「春日局」や、「花嫁のれん」の第1シリーズなどにも出演していた。また特撮ファンには「流星人間ゾーン」や、「ミラーマン」の母親役などでも知られていた。

 上月さんの長女で、元タカラジェンヌの女優・嘉月絵理は29日に更新したブログで「朝電話しても出ないので家まで行ってみたら、亡くなっていました。前日まで元気だったんですが…。でもピンピンコロリが理想だったので良かったのではないかと思います」と気丈に亡くなった時の様子を明かし「天使のような母の笑顔を思い出して冥福を祈って頂ければと思います」とつづっていた。
(デイリースポーツ 2018/01/30)


「八重子のハミング」では、升毅さん演じる主人公・石崎誠吾の母・みつ役でした。

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物語冒頭近く、誠吾が親友の榎木医師(梅沢富美男さん)から、がんの告知を受けたと告白されるシーン。
取り乱すことなく気丈に振る舞い、さらに息子を励まします。「あんたの運命と思って、あんたがしっかりせんと」と。

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そんな母親を見て、短歌が趣味の誠吾が一首。

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ところが誠吾の妻、八重子(高橋洋子さん)は、動揺を隠しきれず、さらに夫の看病の心労が極限に達し、それも原因となって、若年性アルツハイマーに……。

それを、がんの手術が成功して退院した誠吾が家族に打ち明けるシーン。ここでも上月さんは息子を叱咤激励します。

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「誠吾、あんたの命を助けるために、八重子さんが病気になったんよ」。言い換えれば、「今度はあんたが八重子さんの面倒をしっかり見なさい」ということでしょう。

といって、非協力的というわけではありません。夢幻界の住人となった八重子を温かく見守るシーン。

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直後のシーンでは、共に教員だった誠吾・八重子共通の昔の教え子(月影瞳さん)が、八重子の介護を申し出てくれます。息子夫婦のおこなってきた教育の成果が、思いがけないところで実を結んだと、感極まる上月さん。

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しかし、結局は、八重子の最期を看取ることに……。

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息子には凜として道義を説き、一方で徐々に壊れてゆく嫁を温かく見守る姑、実に難しい役どころですが、上月さん、みごとに演じられていました。

どうもこの作品がご遺作となられたようです。上月さん、最後にすばらしい役に巡り会えたことを喜ばれているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人面の中に彫刻を見、その内面から充溢する彫刻生の美を、その個人的特殊性の下に把握するのが彫刻家である。

散文「彫刻性について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

シナリオの中に演じる人物の人間性を見、自分という個人的特殊性を通してそれを充溢させられるのが、上月さんのような名優というものでしょう。

大阪在住、高村光太郎研究会員の西浦基氏から新著が届きました。 

高村光太郎小考集

2018年1月28日  西浦基著  発行 牧歌舎  発売 星雲社  定価1,800円+税

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帯文より
高村光太郎の作品と人生に独自の視点から迫る労作

彫刻家であり、詩人である高村光太郎。かの『智恵子抄』の作者でもある光太郎の一連の作品の紹介に加え、寡黙であるが故に強そうに見えて優柔不断なところもあるその人生を余すところなく探求する。
後半部ではロダンやミケランジェロの見聞など、著者のヨーロッパ旅行記も掲載。

目次
第Ⅰ部 高村光太郎小考集
はじめに  自伝・略歴
第一章  高村光太郎の詩:「レモン哀歌」、他
根付の国 レモン哀歌 『暗愚小伝』二十篇の中の「二律背反」から:協力会議
第二章  高村光太郎の選択 流された選択・迷った選択・断固たる選択
第三章  彫刻に燃える ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と
1 美しい二つのロダン美術館  2 ロダンの紹介  3 ロダンの出世作と女と艶裸体 
4 バルザック 
 5 ロダンの対人関係  6 ロダンの欲と創意工夫
7 ロダンに魅了された人々
  8 ロダンが下彫り職人、鋳造職人に厳しく指示した訳
追悼文その1 追悼文その2
第四章  高村光太郎の「伊太利亜遍歴」を見る
1 清浄なるスイスから  2 「ヹネチアの旅人」と随筆「伊太利遍歴」と絵ハガキと
3 著者個人の旅行の模様  4 琅玕洞(グロック・アズーラ)  5 ポンペイ
第五章  一枚の写真
碌山の恋
第六章  あぁ! わが青春の『智恵子抄』
1 詩集『智恵子抄』から見る描写の変遷  2 詩集『智恵子抄』誕生の経緯
3 詩集『智恵子抄』と随筆「智恵子の半生」の矛盾
第七章  高村光太郎の「AB HOC ET AB HAC」から 明治43年『スバル』に発表
第八章  『画論(アンリイ・マテイス)』高村光太郎訳(一九〇八年(明治四十一年)十二月)
1 マチスとの関わり  2 上から目線の光太郎  3 『画論(アンリイ・マテイス)』
4 荻原守衛との交誼とマチスから受けた影響を考える  
5 高村光太郎の模刻する技術力の高さを見る
6 高村光太郎の「彫塑総論」と「彫刻十個條」(全集四巻)
7 高村光太郎の贅肉についての文章を見る  8 『十和田湖畔の裸婦群像』を見て
9 智恵子をイメージできたかどうかについての、光太郎の芸術家としての脳内を考える
10 『十和田湖畔の裸婦群像』制作の頃
11 完成頃の関係者との会食時の挨拶メモ  12 制作
13 像建設の経緯について  14 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の違いを見る
15 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の作品に就いて  16 ある共同討議での事
17 『十和田湖畔の裸婦群像』の中型試作通称「みちのく」の顔は誰に似ているのだろうか?
18 『画論(アンリイ・マテイス)』と『十和田湖畔の裸婦群像』  19 総括として
第Ⅱ部 楽の断片
第一章 旅愁のパリ(フランス:二〇〇九年七月)
詩と恋愛 パリの夕暮れ 考える人を見る ロダンの恋 ジベルニー近郊のセーヌ川の朝
エトルタの海岸
  絶景エトルタの機転(クールベとモネ) サラサラ サラ 
初夏の青空(オンフルール) 旅愁(オンフルール)
年表
第二章 怒濤の嵐、船内のジャズ(イギリス:二〇一〇)年秋
『ロダンの言葉』ポール・グゼル筆録・高村光太郎訳 カレーの市民 ドーバー海峡
二〇一一年(卯年)春
 (献句) 犬句 犬柳 犬歌 沈まぬ夕陽
第三章 哀の六根 楽の六根 官能のシックスセンス
(晩八句) 高村光太郎に思いを馳せる・楽のひと時 (晩歌)平成二十四年七月三十一日
晩歌(母の死を悼む)  生を一考 お葬式 旅愁(マッターホルン) 哀の六根 楽の六官
官能のシックスセンス
第四章 歴史のひとこま―ガリレオ
概要 科学と宗教 異端審問所はガリレオを拷問にかけたか
第五章 美しき国ドイツ:二〇一一年秋
ケルン 妖精の生まれる国(デュッセルドルフ) ベルリン(ウンター・デン・リンデン)
マイセン
  ドレスデンの朝 アルテ・マイスター プラハ
第六章 清浄なるスイスとリヨン:二〇一二年十月
参考文献


一昨日届いたばかりで、まだ読んでおりませんが、とり急ぎ、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

美とは決してただ奇麗な、飾られたものに在るのではない。事物ありのままの中に美は存するのである。美は向うにあるのではなく、こちらにあるのである。

散文「美」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳

この頃から光太郎は、頼まれて筆を執る色紙などの揮毫に「美しきもの満つ」「美ならざるなし」といった言葉を好んで書くようになります。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の2月号が届きました。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」、これまでは全1ページでしたが、今号は3ページも取って下さっています。

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大正2年(1913)の1月と推定される、光太郎から智恵子への長い手紙の全文を掲載して下さいました。これは、現在、ほぼ唯一確認できている結婚前の智恵子宛です。光太郎智恵子の結婚披露は翌大正3年(1914)でした。

全文を紹介しようと思いましたが、長いので、こちらのリンクをご参照下さい。平成25年(2013)に放映されたNHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で、この手紙が取り上げられた際のレポートです。ついでに言うと、この手紙が紹介されている書籍、CDの情報はこちら

智恵子に宛てた光太郎書簡は、5通しか現存が確認できていません。

1通目は、大正元年(1912)と推定され、これも結婚前ではありますが、智恵子と同居していたすぐ下の妹・セキとの連名で宛てたもの。そこで、先ほど、「ほぼ唯一」と書きました。

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから 同封にて失礼の段おゆるし下さいまし 十月五日 高村光太郎 光 長沼ちゑ子様お妹様御座下

この次に、今回のものが入り、続いて大正5年(1916)夏。

いろんなものを写真にとりました 此は少し黒く焼きすぎました。もつとよく出来るでせう。 東京はまだ暑さ烈し

こちらは絵葉書、というか、写真を絵葉書として使ったもので、写真は智恵子の首を作った光太郎彫刻です。この時智恵子は、新潟の友人宅に滞在していました。

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次いで、時期的にはずっと飛んで、心を病んだ智恵子が療養していた千葉県九十九里浜にいた五番目の妹(セツ=節子)の家に送ったハガキ。昭和9年(1934)5月、同地に移った直後のものです。

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう。あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。 そしておいしい新らしい食物。 よくたべてよく休んで下さい。 智恵さん、智恵さん。

「節子さんによんでもらってください」とは、もはや夢幻界の住人となっていた智恵子は自分で読むことが出来なくなっていたからでしょう。末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、心打たれます。

最後に、同じ年の12月、やはり九十九里に送ったものです。

さつきはいそいだので無断で帰りました、無事に帰宅しました。 今度参上の時は多分東京から自動車を持つてゆけるでせう。それまで機嫌よくしてみんなに親切にして下さい。 心のやさしいのは実に美しいものですね。お天気がよいので暖かです。

「自動車」は、結局、九十九里にも置いておけなくなった智恵子の迎えの車です。「田村別荘」として平成11年(1999)まで残っていたセツの家には、姉妹の母・セン、セツの夫、さらにセツの幼い子供がおり、その子供への教育上の配慮から、ふたたび智恵子を光太郎が引き取ることになりました。翌年には南品川ゼームス坂病院へ入院することになります。

この5通以外は、先述の彫刻「智恵子の首」などとともに、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰燼に帰したと推定されます。ただ、なにがしかの事情で、今回の5通同様に、他所に保管されているものがまだあるかもしれません。それを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

美とは生活の附加物でなくて、生活の内部から人間を支へてゐる精神的基礎である。美を感ずる事は能力に属する。此の能力ある時美は到る処に充満する。此の能力の発動なき時この世は如何につまらない愚痴の世界であるか。

散文「戦時、美を語る」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

日中戦争が泥沼化しつつある時期の発言です。こうした時代にも「美」を忘れるなという提言で、国民の心の荒廃を防ごうとしていたことがわかります。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている、信州善光寺からイベント情報です。

第十五回長野灯明まつり 「未来へ繋ぐ平和の灯り」

開催期間 : 平成30年2月7日(水)~2月12日(月・祝)
時  間 : 18:00~21:00 ※初日は17:30からオープニングセレモニー 
       最終日は 18:00 ~ 20:00

会  場 : 信州善光寺 長野県長野市長野元善町491 
       長野駅前西口・東口広場、善光寺表参道
主  催 : 長野灯明まつり実行委員会
共  催 : 公益社団法人長野青年会議所   

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長野灯明まつりは、長野オリンピックの開催を記念し、2004年から装いを新たに始まった祭りです。
オリンピックの「平和を願う精神」を後世に遺してゆくため、世界に向けて「平和の灯り」を力強く発信しています。善光寺を五輪の色にちなんだ光で照らす「善光寺・五色のライトアップ」善光寺表参道に平和への想いが込められた光のアートが並ぶ「ゆめ灯り絵展」大きな光と小さな光を長野市へ皆で灯して、世界の平和を祈ります。

2004年2月、長野冬季オリンピック記念イベントが発展した形として生まれた長野灯明まつりも、2018年同月、第十五回を迎えることとなりました。平和の象徴である善光寺を五輪カラーの五色でライトアップする「ゆめ常夜灯」、平和への想いがカタチになった「ゆめ灯り絵」、これらの「灯り」を通じて「世界に対し平和の灯りの発信」という、変わらぬメッセージを送り続けて参りました。
第十五回のテーマは「未来へ繋ぐ平和の灯り」とし、日本のみならず世界中が平和の灯りを取り戻せるように、「変わらぬ平和への想い」を、そして「あきらめない心」を、より一層強く発信し、ご参加いただく皆様に平和を考える機会をご提供いたします。
「長野灯明まつり」は、善光寺のまちである「信都・長野」オリンピック開催都市である「国際都市・NAGANO」この2つを融合した「まつり」として、世界平和という「ゆめの灯り」を灯していきます。
そして、現在でも世界各地で行われている戦争やテロに対し、我々はオリンピックの精神でもある「平和」の精神を繋ぐ都市として、長野の未来、日本の未来、そして世界の未来へ繋ぐためにも地域に住まう若者たちにこの精神を広く伝えていく必要があると考えます。長野灯明まつりを通じて、平和の灯りを未来へ繋ぐべく第十五回も盛大に開催します。

実施する事業
①「善光寺・五色のライトアップ」
 市照明から建築照明、ライトパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナー石井幹子先生をはじめとした有名デザイナーの皆様の企画・デザインで「国宝・善光寺」をライトアップ。
②「ゆめ灯り絵展」
 「灯り絵常夜灯」と呼ばれる灯ろうに、小学生から大人まで想い想いのデザインをした切り絵を貼って浮かび上がる絵柄と灯りを楽しむイベント。
③「宿坊・ゆめ茶会」
 善光寺の各宿坊による長野灯明まつりオリジナルの企画・サービスのご提供。
④「ゆめ演奏会」
 善光寺本堂に特設ステージを組み、連日アーティストを入れ替えて演奏会を実施。ライトアップをした幻想的な善光寺本堂の下で聴く音楽で来場者をおもてなしします。
⑤「スキー&スノボ ワンメイクジャンプ台」
 オリンピックにちなんだスポーツの祭典。中央通りにジャンプ台を設置し、プロのスキーヤースノーボーダーによるジャンプの競演。街中で行うジャンプで来場者を魅了します。
⑥「長野灯明まつり謎解き周遊イベント」
 オリンピックと善光寺にまつわる謎を各箇所に散りばめられたヒントを頼りに謎を解いていきます。正解者には先着でオリジナルのピンバッジをプレゼントします。
⑦灯明バル
 長野駅前、権堂地区の飲食店と協力をして、灯明まつりオリジナルのメニューやサービスを提供し、来場者のおもてなしをします。事前に販売されるチケットを購入するとお得です。


十五年前から行われていたそうですが、当方、存じませんでした。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている仁王門もライトアップされるとのこと。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな銅像や壁画や建築が出来ても喜びも悲しみもしない国民はあはれな美の冷感症患者である。

散文「展覧会偏重の弊」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

直接には、文部省主催の展覧会シーズンの秋だけ、美術が話題になることへの警句です。

今年もこの季節になったか、という感じです。毎年ご紹介している青森県十和田湖畔でのイベントの情報です。

十和田湖冬物語2018

冬の澄んだ夜空に打ちあがる花火をはじめ、乙女の像ライトアップ、ゆきあかり横丁、人気のグリューワイン、幻想的なイルミネーション…
この他、様々なイベントをご用意しております。
ご家族、ご友人、恋人と…十和田湖の冬をお楽しみください♪

開催期間 : 平成30年2月2日(金)~2月25日(日)
時  間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会  場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場 
       青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地

問合せ先 十和田湖冬物語実行委員会【事務局:(一社)十和田湖国立公園協会】 
     0176-75-2425

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例年どおり、光太郎最後の大作にして、十和田湖のシンボルともいうべき「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップがなされます。
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その他、こちらもライトアップされる陸上自衛隊さんによる大雪像、その前でのステージイベント、光のゲート&トンネル、雪のすべり台やかまくら、湖上遊覧船のイルミネーション、そして毎日20時からの打ち上げ花火など、盛りだくさんの内容です。食のコーナーや体験コーナーも充実。なぜか青森なのに秋田犬コーナーも(笑)。

最近はアクセスもしやすくなりました。東北新幹線の七戸十和田駅、八戸駅からシャトルバスが出ていますし、さらに弘前から周遊観光バスも出ます。

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当方、来月半ばに別件で、やはり十和田湖畔に位置する秋田県小坂町に参ります。ついでと言っては何ですが、久々に冬物語も拝見する予定でおります。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美は到るところに在る。美は又到るところに創り得る。

散文「比例均衡」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

しかし、一つの大きな自然の理法――比例均衡――にのっとったものでなければ、美たり得ないと論が展開します。そうした意味では、十和田湖畔における「乙女の像」の比例均衡の美は、やはり現地に行って観ないと、実感できません。

昨年、全国公開された映画「八重子のハミング」のDVDが発売されまして、早速、購入いたしました。ブルーレイディスクも同時発売でした。 

八重子のハミング

2018年1月13日  発売・販売元 GAGA★  
定価 ブルーレイ 4,800円+税 DVD 3,800円+税

山口県のとあるホール。「やさしさの心って何?」と題された講演。妻・八重子の介護を通して経験したこと、感じたことを語る白髪の老人、石崎誠吾。「妻を介護したのは12年間です。その12年間は、ただただ妻が記憶をなくしていく時間やからちょっと辛かったですいねぇ。でもある時、こう思うたんです。妻は時間を掛けてゆっくりと僕に お別れをしよるんやと。やったら僕も、妻が記憶を無くしていくことを、しっかりと僕の思い出にしようかと…。」誠吾の口から、在りし日の妻・八重子との思い出が語られる。教員時代に巡り会い結婚した頃のこと、八重子の好きだった歌のこと、アルツハイマーを発症してからのこと…。かつて音楽の教師だった八重子は、徐々に記憶を無くしつつも、大好きな歌を口ずさめば、笑顔を取り戻すことも。家族の協力もあり、夫婦の思い出をしっかりと力強く歩んでいく誠吾。山口県・萩市を舞台に描く、夫婦の純愛と家族の愛情にあふれた12年の物語。

【CAST】  升毅/高橋洋子/梅沢富美男/中村優一/文音/安倍萌生/二宮慶多/井上順
【STAFF】 監督・脚本:佐々部清/原作:陽信孝「八重子のハミング」(小学館)

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原作は、小学館さんから平成14年(2002)にハードカバーで刊行され、その後、文庫化されています。「現代の智恵子抄」というコピーが用いられ、原作中にも、原作者の陽(みなみ)氏が、ご自身の介護体験を「智恵子抄」に重ねる記述がありました。

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映画の中でも、升毅さん演じる主人公が、アルツハイマーとなった妻・八重子が寝静まった後、龍星閣戦後版、赤い表紙の『智恵子抄』をひもとくシーンがありました。

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原作でも引用されている、「値ひがたき智恵子」(昭
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和12年=1937)が升さんのナレーションで流れ、それに合わせ、八重子のいろいろな姿がオーバーラップします。

   値ひがたき智恵子

 智恵子は見ないものを見、
 聞こえないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為る。
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 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

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ちなみに、劇場公開の際には無かった、特典映像では、テレビ
山口さん制作のメイキング的な番組も収録されています。そちらでは、実際の陽氏と在りし日の八重子さんの姿も。

さまざまな意味で、考えさせられる作品です。ぜひご購入下さい。



【折々のことば・光太郎】

美の無いところに文化は無い。

散文「美意識について」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

「簡にして要」の一言です。

本日も新刊情報です。 

NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる

2018年1月1日 若松英輔著 NHK出版 税込定価977円

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喪失、苦しみ、悲しみに、語りの名手が、あなたの詩心を呼び覚ます!
「詩」に込められた切実な想いから、私達は何を得ることができるのか? 「詩」を身近に感じ、味わい、それと共に生きる豊かさを探る。

目次
 はじめに
 第1回 詩を感じるには ── 岡倉天心と内なる詩人
 第2回 かなしみの詩 ── 中原中也が詠う「おもい」
 第3回 和歌という「詩」 ── 亡き人のための挽歌
 第4回 俳句という「詩」 ── 正岡子規が求めた言葉
 第5回 つながりの詩 ── 吉野秀雄が感じた存在
 第6回 「さびしみ」の詩 ── 宮澤賢治が信じた世界
 第7回 心を見つめる詩 ── 八木重吉が届けた声
 第8回 「いのち」の詩 ── 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9回 生きがいの詩 ── 神谷美恵子が背負った生きる意味
 第10回 語りえない詩 ── 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11回 今を生きる詩 ── 高村光太郎と柳宗悦のまなざし
 第12回 言葉を贈る詩 ── リルケが見た「見えない世界」
 第13回 自分だけの詩 ── 大手拓次が刻んだ詩の扉162
 詩と出会うためのブックガイド


NHKラジオ第2放送さんで、毎週木曜日の午後8:30~9:00(再放送は翌週木曜の午前10:00~10:30)に放送されている「NHKカルチャーラジオ 文学の世界」のテキストです。

今月から3月にかけ、全13回で、批評家・随筆家の若松英輔氏による「詩と出会う 詩と生きる」。毎回一つのテーマで近現代の「詩人」の作品を取り上げ、その背景に迫ります。「詩人」とカギカッコをつけたのは、若松氏の言によると、以下の通りです。

「詩」は、必ずしも詩人と名乗る人々によって作られているとは限りません。この講座における「詩人」は、広い意味での「詩」の作品を残している人々を指します。ですから世にいう詩人以外の人たちが作った詩歌にもふれていきます。(「第1回 詩を感じるには ── 岡倉天心と内なる詩人」より)

いきなり初回に取り上げられる岡倉天心がそうですし、光太郎の回にセットになっている柳宗悦などもそうですね。広い意味では、彫刻を本業としていた光太郎もあてはまるかも知れません。

光太郎の回は3月15日(木)のオンエア。再放送が翌週22日にあります。「人間の捉えがたい「気」」、「詩はどんな矛盾も受け入れる」、「ふれ得ないものにふれる」という章立てで、主に「智恵子抄」所収の詩にスポットが当てられています。

ぜひお買い求めの上、ラジオ放送もお聞き下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は仮象の現象なのだから、芸術品としてみてくれないといけない。一つの銅像の中にその人の凡ゆる時代をもつこともあるのだから。

談話筆記「彫刻鑑賞の蒙を啓く――憲政三偉人の銅像に就て――」より
昭和13年(1938) 光太郎56歳

この年、国会議事堂の中央大広間に設置された憲政史上大きな功績のあった三人、板垣退助、伊藤博文、大隈重信の銅像についての談話の一節です。

三体それぞれ作者が異なり、板垣退助像は北村西望、伊藤博文像で建畠大夢、大隈重信像が朝倉文夫の作です。設置当初から、「ポケットに手を突っ込んでいるとは何ごとか」、「室内の様子なのか、屋外の姿なのか判然としない」、「ステッキは左手で持つ物ではない」などといった批判が起こったそうです。そこで、美術雑誌『アトリヱ』の記者が光太郎の意見を求め、その答として掲載されました。

北村、建畠、朝倉、それぞれ光太郎はあまり高く評価しなかった彫刻家です。文展(文部省美術展覧会)などへの出品作はけちょんけちょんにけなしてもいます。しかし、ここでは擁護に廻っています。まぁ、擁護というよりは、一般の人々に、肖像彫刻とはこういうものだという啓蒙を意図したとすべきでしょうか。

ところで、議事堂の銅像。台座は四体分ありながら、実際に作られたのは三体のみで、未だに空いている台座が一つ残っています。四人目を人選できず持ち越されたという説、政治に完成はないので未完の象徴という意味もあるという説があります。まさか、自分が四人目となって銅像を作ってもらうつもりでいるような、愚かな政治家などいませんよね、まさか。

昨日に引き続き、新刊情報です。 

文豪文士が愛した映画たち ─昭和の作家映画論コレクション

2018年1月11日 根本隆一郎編 筑摩書房(ちくま文庫) 定価950円+税

モンローを川端康成が語り ヒッチコックを江戸川乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち

谷崎、荷風、乱歩・・・映画に魅せられた昭和を代表する作家二十数名の映画に関する文章を編む。読めば映画が見たくなる極上シネマ・アンソロジー。

昭和を代表する作家が新聞や雑誌を中心に寄稿した映画に関する文章を集める懐かしく魅力的なシネマ・ガイド。“映画を見ていなくても楽しめる”オリジナル・アンソロジー。「映画黄金時代」の名作、傑作を中心に作品を選定。

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目次
第1章 アメリカ映画を読む
 福永武彦   「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義    
 高見順     「陽のあたる場所」を見る              
 井上靖     ピクニックを観る                      
 柴田錬三郎 必死の逃亡者                          
 高見順     「チャップリンの独裁者」を見る        
 ◆ヒッチコックと乱歩
  江戸川乱歩 ヒチコック技法の集大成――見知らぬ乗客
  江戸川乱歩 ヒチコックの異色作――ダイヤルMを廻せ
  江戸川乱歩 恐怖の生む滑稽――ハリーの災難   
  江戸川乱歩 ヒッチコックのエロチック・ハラア                                  
第2章 ヨーロッパ映画を読む         
 林芙美子  「女だけの都」への所感             
 開高健   日本脱出の夢                       
 林芙美子  情婦マノンを観て                   
 伊藤整   映画チャタレイ夫人の恋人           
 三島由紀夫 ジャン・コクトオへの手紙――悲恋について 
 大岡昇平  “美女と野獣について”             
 池波正太郎 『ブルグ劇場』封切りのころ
 福永武彦  映画の限界と映画批評の限界         
 壇一雄   人間万歳=デ・シーカの眼           
 高見順   「恐怖の報酬」                     
 寺山修司  円環的な袋小路                     
 遠藤周作  あたらしい純粋映画 ――“5時から7時までのクレオ”
 吉行淳之介 心理のロマネスク ――ルネ・クレマンの「居酒屋」
 佐藤春夫  「ホフマン物語」を観る
 ◆オリンピック映画の傑作 
   高見順   映画の感動に就いて――オリンピア第一部
  高村光太郎 「美の祭典」
第3章 憧れの映画スタア/映画人
 ◆チャールズ・チャップリン
  藤本義一  ペーソスとペースト
  井上ひさし 無国籍語の意味
  大岡昇平  チャプリンの復活
 ◆ジャン・コクトオ
  林芙美子  コクトオ
  三島由紀夫 稽古場のコクトオ
 ◆マリリン・モンロー
  安部公房  モンローの逆説
  川端康成  大女優の異常
 ◆ルイ・ジュヴェ 
    岸田国士  ルイ・ジュヴェの魅力
 ◆ピーター・ローレ
  色川武大  故国喪失の個性――ピーター・ローレ
 ◆ジェームス・ディーン
  寺山修二  ぼくはジェームス・ディーンのことを思い出すのが好きだ
第4章 文豪文士と映画
 ◆「カリガリ博士」を巡って
  谷崎潤一郎 「カリガリ博士」を観る
  佐藤春夫  「カリガリ博士」
 ◆映画界を斬る
  柴田錬三郎 映画は「芸術」にあらず
  五味康祐  西方の音――映画「ドン・ジョバンニ」
  池波正太郎 映画人は専門家の物知らずになってはいないか?
 ◆映画を巡って
  川端康成  頻々たる文芸作品の映画化に就いての感想――映画的批評眼を
  阿川弘之  志賀さんと映画
  井上ひさし ある地方都市のハリー・ライム
  松本清張  スリラー映画
  獅子文六  映画に現れたユーモア
  今日出海  この映画と私――「戦場にかける橋」
第5章 文豪文士、映画を語る
  関千恵子  太宰治先生訪問記
  永井荷風  永井荷風先生 映画「ゾラ」の『女優ナナ』を語る
  司馬遼太郎 「映画革命」に関する対話
編者あとがき


最近はやりのアンソロジー系です。

光太郎の散文「美の祭典」(昭和15年=1940)が収録されています。巻末の出典一覧では、同年の『キネマ旬報』1940年最終特別号となっていました。同じ筑摩書房さんの『高村光太郎全集』では、アンケートとして「「美の祭典」を観る」の題名で、第20巻に掲載されています。そちらの解題では、初出は雑誌『科学知識』第20巻第12号(昭和15年=1940 12月1日発行)となっています。他に東郷青児、中川一政ら12名も回答しているとのこと。おそらくこれが『キネマ旬報』に転載されたのではないかと思われますが、逆もあるかも知れません。日本近代文学館さんの書誌情報では、該当の『キネマ旬報』も同じ日の発行日になっています。2冊をつきあわせて調べてみればわかりそうですが、『科学知識』の該当号は、当方のよく利用する日本近代文学館さん、国立国会図書館さん、神奈川近代文学館さんに所蔵がありません。

ところで、この文章、かなり以前に全文をこのブログでご紹介していました。「美の祭典」という映画が、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックの記録映画で、このブログを始めた平成24年(2012)がロンドンオリンピックだったものですから、そのからみです。それから他の対談でも「美の祭典」の話題になり、それもご紹介しています。

光太郎、通常の映画もよく観ていました。今日ご紹介した『文豪文士が愛した映画たち』が、主に昭和期前半の作品を集めているのに対し、光太郎は既に大正期に映画評論をいくつか発表しています。純粋な映画雑誌としては大正8年(1919)の『活動旬報』では、「辞書を喰ふ女優」と題し、「奇跡の薔薇」に出演したアラ・ナジモヴァを紹介していますし、翌年の『活動倶楽部』には「外国映画と思想の輸入」(目次では「外国活動写真と思想の輸入」)と題する長文を寄せています。こちらでは、メアリー・ガーデン、ジョーゼット・ルブランなどが紹介されています。ちなみにどちらも『高村光太郎全集』未収録ですが、当会顧問の北川太一先生と当方で共編した厚冊の『光太郎遺珠』(平成19年=2007)に収めてあります。

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少し前にご紹介した「七つの芸術」(昭和7年=1932)という散文では、彫刻や絵画とともに、映画も「七つ」に入れて論じていました。こういうことを考え出すと、「光太郎と映画」という論文が一本書けそうです(笑)。

さて、『文豪文士が愛した映画たち』、ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の根柢を成す者は触覚感であるが、これは物に立体的に触れてゆく感覚で、直接の接触の外、眼で触れる視覚の触覚感ともいふべき彫刻独自の領域がある。
散文「彫刻」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この伝で行けば、光太郎、映画なども「触覚的に」観ていたのでしょうか。世界初4Dの映画鑑賞ですね(笑)。

新刊情報です。 

永井和子随想集 日なたと日かげ

2018年1月11日 永井和子著 笠間書院 定価2,500円+税

更新されてゆく日々の陰影をスケッチした著者初の随想集。
平安古典を軸に、歌舞伎・演劇評、序文、追悼、ほか 「オノ・ヨーコさんの力」等、文学者としての眼が捉えた
縦横無尽の短文58篇で構成。

【本書はこれまで折々にふれて様々な立場から記した短文の中から幾つかを選び、まとめて一冊としたものである。全体を、Ⅰ随想的なもの・Ⅱ日本の平安文学に関するもの・Ⅲ先生方・先輩方の思い出・Ⅳそのほかの短文・Ⅴ追悼の記、におおまかに分け、ほぼ執筆年時順に配列した。そのため表記その他に統一性を欠くが、明らかな誤脱等を改めたほかは、もとのままとした。
 本書の『日なたと日かげ』はこうしたこれまでの日々・時間を象徴する言葉として書名としたものであり、具体的には原子朗氏の詩による。巻頭の一文〈「老い」と「日なたと日かげ」と〉を参照されたい。多くの方々と出会い、豊かな「時」に恵まれたことを思うと感謝は盡きない。】......「まえがき」より

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「たじろぐ――高村智恵子のこと 智恵子の切り絵――レモン会」というエッセイが掲載されています。初出は平成14年(2002)の『レモン会報』。毎年10月の、智恵子を偲ぶ「レモン忌」をはじめ、福島二本松で智恵子の顕彰に当たられている「智恵子の里 レモン会」さんの会報で、現在のレモン会は渡辺英雄会長ですが、その前に会長を務められていた、故・伊藤昭氏の頃のものです。

平成11年(1999)に伊藤氏の案内で、智恵子生家・智恵子記念館を訪れられたこと、翌年の「レモン忌」で、ご主人の故・永井克孝氏がご講演をされたこと等が描かれています。当時の「レモン忌」は、智恵子の実家・長沼家の菩提寺である満福寺さんで開催されていたそうで(現在は結婚式場的なJAさんの施設)、ご住職の追悼供養、地元の方々のご詠歌などもプログラムに入っていたとのこと。

「たじろぐ」というのは、智恵子の紙絵を眼にされてのご感想です。

なんという新鮮な美しさであろう。本物の切り絵はおだやかな初々しさに満ち、そのまま暖かく落ち着きながら精気がみなぎりわたって、それ自体が躍動している。私は、作者が生命の深淵に極めて自然に降ろした無垢の眼と、そこからさらりと汲み上げた純度の高い「形と色」に直対して、言葉もなかった。たじろぐ、というのはこのことか、と思った。

当方も実物の紙絵を初めて見た学生時代、同じようなことを感じました。おそらく、そういう方は多いのではないでしょうか。「智恵子の紙絵、あるある」的な(笑)。しかし、このようにうまく言葉に表すことができるのは、『枕草子』、『源氏物語』等の古典文学の研究がご専門ゆえのことでしょう。

そういうわけで、本書の大半はご専門の古典文学に関する
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ものですが、そうかと思うと、歌舞伎やシェークスピア、果てはオノ・ヨーコにまで話題が及びます。ぜひお買い求め下さい。


ところで、当時のレモン会伊藤昭会長は、旧油井村の智恵子生家近くに育ち、昭和23年(1948)には、花巻郊外太田村の山小屋の光太郎に会いに行かれました。平成3年(1991)から翌年にかけ、『毎日新聞』福島版に連載されたものを、近代文藝社から自費出版、さらに地元福島の出版社・歴史春秋社から同7年(1995)に再刊した『愛に生きて 智恵子と光太郎』という御著書がおありでした。入門編の智恵子評伝として好著ですが、平成11年(1999)に再版された後、絶版となっているようです。復刊が待たれます。


【折々のことば・光太郎】

飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。


散文「小刀の味」より 
昭和12年(1937) 光太郎55歳


この後、名工と呼ばれる鍛冶職人の手になる小刀のすばらしさが語られます。

ちなみに智恵子が紙絵制作の際に使っていたのは、マニキュア用の先の曲がったハサミ一丁だったそうです。

神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さんの記事から。

文豪の世界に触れる 永田地区センター 講座でゆかりの和菓子も

 高村光太郎、室生犀星、夏目漱石といった文豪の作品解説と3人の作家が好んだ和菓子を食べて楽しむ講座が1月29日、2月5日、26日に永田地区センターで行われる。時間はいずれも午前10時から11時30分。

 講師に一般財団法人出版文化産業振興財団の読書アドバイザー、城所律子さんを招く。城所さんは図書館での読み聞かせや年齢に応じた本の選び方、読み方のアドバイスをしている。今回は作品の紹介だけではなく、作家たちの人となりや時代背景などが分かりやすく解説される予定。

 参加費は全3回で1人1200円。回ごとに取り上げる作家が変わる。全回に参加できなくても申し込みは可能。対象は成人先着12人。申し込みは1月11日から、費用を添えて直接施設へ。申し込み、問い合わせは同地区センター【電話】045・714・9751。


というわけで、調べてみました。会場の永田地区センターさんのサイトから。 

文豪と和菓子

期   日 : 2018年1月29日(月)、2月5日(月)、2月26日(月)
会   場 : 横浜市永田地区センター 横浜市南区永田台45-1
時   間 : 10:00~11:30
料   金 : 1,200円 (要予約 費用を添えて直接施設へ。)
定   員 : 12名(先着順)

高村光太郎・室生犀星・夏目漱石それぞれのゆかりの和菓子をいただきながら、作品を楽しんでいただきます。

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横浜市南区さんの広報紙『広報みなみ』にも案内が出ていました。

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ところで、どちらも和菓子の具体的な品名が出ていません。

光太郎と和菓子というと、当方、真っ先に思い浮かぶのは光太郎の実家や智恵子と暮らしたアトリエにほど近い、団子坂下の「菊見せんべい」さん。

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光太郎最晩年、昭和29年(1954)の『中央公論』に載った談話筆記「わたしの青銅時代」に、光太郎十代、東京美術学校在学中に、通学路の途中にあるその店の看板娘が気になって、そこを通るたび「胸がドキドキして顔がほてつて困つた」という部分があります。ただ、せんべいそのものについてはうまいともまずいとも発言していませんでしたが(笑)。

それから、昭和20年(1945)に岩手花巻、更に花巻郊外の旧太田村に移り住んでから親しんだ、南部せんべいや豆銀糖。以前にもご紹介しましたが、昭和24年(1949)の対談「朝の訪問」に以下の発言があります。

岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。

詳しく調べれば、まだあるかもしれませんし、今回の講座ではどんな和菓子が取り上げられるのか、気になるところです。また、光太郎と共に取り上げられる犀星や漱石はどんな和菓子が好きだったのか、それも気になるところです。漱石はほっておくとジャムをひと瓶舐めてしまうという甘党だったそうですが(笑)。

こういう部分に着目すると、それぞれの身近に感じられるもので、そういう意味では今回の講座、おもしろい取り組みだと思います。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丸いものを唯丸く薄いものを唯薄く現はすだけのところに彫刻は無い。彫刻家であるならば、厚いものを拵へて薄く見せ、四角に作つて丸く見せるといつた様なこつ――造形的感性――を身体の中に持つてゐるわけで、その人が写生をすれば、それは自づと彫刻になるのである。

談話筆記「写生の二面」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

こうした意味では、光太郎、最近流行の「超絶技巧」的な実物そっくりの牙彫などは認めていませんでした。実際、光太郎の木彫「蝉」は、薄いはずの羽を分厚く作っていて、しかし何の違和感もありません。芸術とは難しいものですね。

演劇の公演情報です。
会   場 : 両国エアースタジオ 東京都墨田区両国2-18-7 ハイツ両国駅前 B1F
料   金 : 3,500円 (要予約)
時   間 :
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平成25年(2013)にも公演があり、当方、その際に拝見しました。調べてみましたところ、平成22年(2010)にも上演されており、けっこう歴史があるのだなと思いました。

前回公演と同じで脚本であれば、かなりオーソドックスな作りです。光太郎智恵子にあまり詳しくない方でもわかりやすい内容となっていました。各回キャストが7人。前回公演もそうでしたので、同じ脚本なのではないかと思われます。7人は、光太郎、智恵子、光太郎の弟・豊周、智恵子の姪・春子、智恵子の親友・田村俊子、光太郎を敬愛する後輩詩人・草野心平と中原綾子でした。当会の祖・草野心平は容貌魁偉(怪異?)の、ある意味とんでもないオヤジでしたが(笑)、役者さんはイケメンで、「美化度200%だろ」と心の中でツッコミを入れたのを記憶しております(笑)。

2週に分けての公演で、1週目と2週目で演出の方が異なっています。キャストもほぼ日替わりのようで、若い方々の育成的な部分もあるのかな、と思いました。1週目に出演される安達慶幸さんという役者さん、智恵子の故郷・二本松のご出身だという情報が入ってきており、智恵子のためにも頑張ってほしいものです。

当方、2週目に予約を入れました。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩画一如などといふ古人の言葉は、その陳腐にきこえる響きの蔭に、存外よく芸術の根本のことがらを表はしてゐるものかも知れない。本来詩人でなければ画はかけない筈で、画の技術の背後には詩精神がなければならない。

談話筆記「画に於ける詩精神」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「詩精神」。光太郎は「詩魂」とも表しますが、いわば物事の本質を十分に見極め、それを端的に表現しようとする心の持ちよう、とでも言えましょうか。

昨日は午前中、荒川区立第一日暮里小学校さんにお邪魔しておりました。

たびたびこのブログでもご紹介させていただいておりますが、同校は、明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が、同校尋常小学校の課程に通っていた、母校です。その縁から、卒業生・光太郎について調べ学習をしたり、詩の暗唱をしたりと、顕彰に取り組んで下さっています。

昨日は、卒業間近い6年生の児童さんたちが、図工の特別授業で「手」の彫刻に取り組み、アシスタントとして、同校に隣接する太平洋美術会研究所の方々がお手伝いに入られました。その中に、連翹忌御常連で、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を著された坂本富江さんもいらっしゃり、お誘い下さいました。同会は、智恵子が日本女子大学校卒業後に通っていた太平洋画会を母胎としています。

千葉の自宅兼事務所から、少し早めに都心に到着しましたので、同校最寄りの西日暮里駅ではなく、一つ手前の日暮里駅で下車。歩きました。そのルートで行くと、太平洋美術会さんが途中にあります。ウィンドウに、光太郎智恵子に関する記述。ありがたや。
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少し行くと、第一日暮里小学校さんの「さくら門」。こちらに光太郎自筆の書から文字を採った「正直親切」の碑があります。
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「正直親切」という文言は、昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋近くにあった太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉ですが、第一日暮里小さんでは、昭和60年(1985)、創立百周年記念に、この言葉を刻んだ碑を建立しました。

以来、同校では「正直親切」を校訓とし、学校だよりの題名にも使って下さっています。

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ちょうど先週の今日、埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープン記念の講演をさせていただきましたが、その中で、同市元教育長で戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏のお骨折りで、同市立新宿小学校さんにも「正直親切」碑が建てられていること、この第一日暮里小学校さんのこともお話しいたしました。

そうしたら思いがけず第一日暮里小さんにお邪魔することとなり、驚きました。これも田口氏のお引き合わせかも知れません。 

「さくら門」と反対側の「ひぐらし門」が通用門的な入り口で、そちらに廻りました。こちらにも「正直親切」のタペストリー。
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ちょうど坂本さんもいらしたところで、二人で校内へ。当方、こちらの校内には初めて入りました。昇降口を入ってすぐ、光太郎コーナーが設けられていました。

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校長室に通され、お茶をいただきました。そのうちに他のアシスタントティーチャーの皆さんもいらっしゃいましたので、図工室に移動。皆さん、太平洋美術会さんの方でした。当方、詳しい話を聞かずに行っておりまして、こんなにたくさんアシスタントがいらっしゃるとは思っておりませんでした。

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授業は3コマ連続でとってあるそうで、流れの確認。

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やがて6年生の児童さんたちが入室し、授業開始。都心の学校でも少子化の影響はあるのでしょう、各学年単学級、6年生は20数名でした。

課題は卒業制作という一面もある、「手」の制作。光太郎について学んできた6年生は、光太郎代表作のブロンズ「手」(大正7年=1918)の実物も見ているそうで、これもまた光太郎がらみの内容というわけです。

8つほどの大きめの作業机に、児童さん3名くらいずつ座り、各テーブルに太平洋美術会さんの方がついてアドバイスするという流れでした。まず画用紙に自分の手の形をトレースし、目印となるポイントを線で結び、アルミの針金で芯の制作。そして粘土を貼り付けていくということで、かなり本格的です。

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当方は合間に担任の先生、学校司書の先生から、同校の光太郎に関する取り組みについて教えていただきました。

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A4判十数枚にわたるレポート。一人一冊、こういったものを作るそうです。

図書室も拝見。一角に「高村光太郎文庫」。なかなか充実しています。一昨年亡くなられた金田和枝さんの『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』など、学級の人数分そろっている書籍もあり、これだと一人一冊に行き渡ります。当会顧問・北川太一先生のご著書などもずらり。

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当方が執筆した『図書館教育ニュース』第1300号付録の冊子が掲示されていました(笑)。


平成25年(2013)に千葉市美術館さん、岡山井原市立田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さんを全国巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の図録も10冊ほどありました。こちらは会期中に売り切れてしまい、現在では状態のいいものにはプレミアが付いています。

そうこうしているうちに、児童さんの作業もどんどん進捗。予定の3コマで全員が今日の作業を終えました。乾燥させた後、後日、着色するそうです。
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昨日の授業にしても、普段の取り組みにしても、なかなかすばらしいものです。今後も継続していただきたいと存じました。

また、光太郎智恵子とゆかりのある学校さんなどにも、こうした動きが広がっていってほしいものだと思いました。


【折々のことば・光太郎】

何が彫刻かといふ事は説明しにくい問題であるが、彫刻の概念がいかやうに変革されていつても残るところの彫刻的本質は、畢竟するに触覚を基本とするところの量の空間的関係にあり、小は根付彫刻から大はスフインクスに至るまで、最も写実的な作品から最も抽象的な作品に至るまで、此の触覚感からの出発、もしくは触覚感への重点無くしては彫刻はあり得ない。

散文「現代の彫刻」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

第一日暮里小学校6年生の児童さんたちも、少しはこういった感覚を実感できたのではないでしょうか。

昨日今日と、都内に用事。光太郎関連以外の雑事もいろいろあって、それぞれトンボ返りです。暇なら都内に宿泊していたのですが。

昨日は夕方に自宅兼事務所を出、目黒区の神泉に行っておりました。渋谷から京王線、もう一駅行くと、しょっちゅう行っている日本近代文学館さんのある駒場東大前ですが、神泉で下りるのは初めてでした。

暮れにこのブログでご紹介しました朗読劇「いやなんです あなたのいってしまふのが −智恵子抄より」 を拝見して参りました。

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会場は、shibuya gallery「Arc」さん。何とまぁ、古いマンションの一室でした。靴を脱いで上がるという。かえって都内だと、こういうのもありなんだな、と思いました。キャパも20名ほどでした。

下の画像は開演前。基本、椅子二つにキャストのお二人(光太郎・智恵子)が座って演じられる形でした。右の斜めの木枠はイーゼルを表しています。時折、お一人ががその前に立ったりもしました。

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それから、左側の壁にスクリーン。ここに、光太郎詩が投影されます。

智恵子歿後の「梅酒」に始まり、『智恵子抄その後』中の「あの頃」、題名ともなっている「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」で始まる「人に」、そして「おそれ」、「郊外の人に」、「遊びぢやない」で始まる「人に」、「金」、「淫心」など。さらに合間に光太郎役の方、智恵子役の方のセリフがいろいろと入ります。それぞれ「なるほど、こんなことを言ったかもしれない」と思わせるものでした。脚本を書かれた方、よくお調べになられていたようでした。役者の方の感情移入も見事でした。

『智恵子抄』以外からも、彫刻のヌードモデルのため雇った17歳の少女を謳った「五月の土壌」なども使い、うまいなと思いました。智恵子の嫉妬心的な描写のためです。また、徐々に浮き彫りになっていく光太郎と智恵子の微妙な齟齬なども、「餓死よりは火あぶりの方をのぞむ」という「夜の二人」に対し、智恵子のセリフとして「私はどちらも望んでいない」と言わせるなどの工夫も見られました。

「あどけない話」を経て、後半は「人生遠視」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「値ひがたき智恵子」などで壊れていく智恵子、「レモン哀歌」、そして「荒涼たる帰宅」で、その死を描いて終わります。光太郎智恵子に詳しくない方でも、二人の生の歩みが理解しやすかったのではないでしょうか。

変わっているな、と思ったのは、役者さんが最後まで台本片手に演じられること。「朗読劇」と銘打っていますので、それもありかなと思いましたが、確かに下手に暗記しようとしてかえって「こうだったっけ?」的に自信なさげになったり、間違いだらけの朗読やセリフ回しになったりするより、割り切って台本片手の方がずっといいと感じました。完璧に覚え、自信を持って演じられるなら、そちらの方がいいのでしょうが。当方、趣味での音楽活動の際は暗譜はせず(出来ず、でもありますが)、楽譜を見ながら演奏することがほとんどです。それに近い考えなのかな、と思いました。

それにしても、若い役者さんお二人の、一生懸命な姿には、好感が持てました。

終演後、主宰の方とお話をさせていただきました。8年位前から構想されていたとのこと。すばらしい。今後も違った形で光太郎智恵子を取り上げるかも、的なお話もあり、ぜひそうしていただきたいものです。例によって連翹忌の営業もしておきました。

21日の日曜までの公演です。上記リンクよりお問い合わせの上、まだ空席があるようでしたら、ぜひ足をお運びください。

今日は朝から光太郎の母校・荒川区立第一日暮里小学校さんに行って参ります。ゲストティーチャーのアシスタントのそのまたアシスタントです(笑)。けっこうどさくさまぎれに強引に入れていただきました。こちらもトンボ返りです。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩とは気である。気の実である。気の実なる限り、宇宙に詩は遍満する。気の実無き限り、千万の美辞も、天来の意匠も詩を成さない。

散文「七つの芸術」中の「七 詩について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

昨日も数々の光太郎詩篇に宿る「気」を感じて参りました。やはり目で読むより耳で聴く方が、それを感じます。

まず、『東京新聞』さんの記事から。見出しの「きょう」というのは先週土曜です。

鴎外と芸術家の親交たどる 文京の記念館、きょうから展覧会

 文京区立森鴎外記念館(千駄木1)で13日から、コレクション展「鴎外・ミーツ・アーティスト-観潮楼(かんちょうろう)を訪れた美術家たち」が始まる。文豪の鴎外(1862~1922年)と交流のあった芸術家ゆかりの作品などを展示、鴎外のあまり知られていない交友関係を明らかにする。4月1日まで。 (井上幸一)
 鴎外はドイツ留学中、洋画家の原田直次郎(一八六三~九九年)と出会い、美術批評も始める。以降、公私にわたって多くの芸術家と交流。画家をモデルに、「ながし」「天寵(てんちょう)」などの小説を生み出している。
 二階の書斎から東京湾が見えたという観潮楼は、鴎外が「青年」「雁(がん)」「高瀬舟」などの作品を著した住居跡。文京区が跡地に建てたのが森鴎外記念館だ。
 展覧会では、楼を訪れた芸術家に焦点を当て、鴎外に宛てた書簡、鴎外が所持していた絵画、鴎外作品を彩った装丁本、「ながし」の生原稿など、記念館のコレクション約八十点を展示。大下藤次郎、岡田三郎助、高村光太郎、長原孝太郎、藤島武二、宮芳平ら、画家や彫刻家たちに鴎外が向けたまなざしや、それぞれの芸術家が鴎外作品に何を見いだしたのかを浮き彫りにする。
 記念館の広報担当者は、「親交が深かった原田直次郎との関係を展示したことはあるが、他のアーティストとの関わりを広く紹介するのは初めて。美術界に鴎外が深く関係していた事実を知ってもらえれば」とPRしている。
 期間中の二月二十四日午後二時から、実践女子大の児島薫教授による講演会「鴎外が嘱望した洋画家藤島武二」を開催(定員五十人、事前申込制)。一月二十四日、二月七日、二十八日、三月十四日の午後二時からギャラリートーク、三月二十一日午前十一時から、鴎外作品のブックデザインを楽しむスペシャルギャラリートークがあり、いずれも学芸員が展示品などを解説する。観覧料三百円、中学生以下無料。二月二十六日、二十七日、三月二十七日は休館。問い合わせ、講演会の申し込みは、森鴎外記念館=電03(3824)5511=へ。

他紙でも紹介されていますが、若干、とんちんかんな記述があったりしますので割愛します。

というわけで、詳細は以下の通りです。 
会 場  : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間  : 10:00~18:00
料 金  : 一般300円(20名以上の団体:240円)
休館日  : 226日(月)、27日(火)、327日(火)

小説家、翻訳家、陸軍軍医など八面六臂の活躍で知られる鴎外ですが、実は美術とも深いつながりを持っており、沢山の美術家の知己を得ています。鴎外は美術家たちの良き理解者でありながら、時には厳しい批評者でもあり、また美術庇護者としても彼らを支えます。鴎外にとっても、彼らは仕事仲間であり、一方で創作の源泉となる存在でもありました。

鴎外が出会った美術家たちの中から、鴎外の居宅・観潮楼(現・文京区立森鴎外記念館)を訪れた美術家に、100年以上の歳月を経て、再び集まってもらいましょう。鴎外に作品を評価された洋画家・藤島武二、鴎外作品のモデルにもなった水彩画家・大下藤次郎、東京美術学校で鴎外の講義を受けた彫刻家・高村光太郎、鴎外の著書の装丁を多数手がけた洋画家・長原孝太郎…。美術界における旧派と新派、あるいは明治美術界から白馬会、太平洋画会との価値観がせめぎ合う中で、鴎外は彼らにどのような眼差しを向けてきたのでしょうか。そして美術家たちの眼は鴎外自身と鴎外作品に何を見出したのでしょうか。観潮楼に届いた美術家たちの書簡、鴎外の美術批評、鴎外作品を彩った装丁本など当館のコレクションを通して、「鴎外が見つめた美術家」と「美術家が見つめた鴎外」に迫ります。

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光太郎の母校・東京美術学校の教壇に立ち「美学」の講義をしたり、文展(文部省美術展覧会)の審査員をしたりした鷗外、美術については一家言ある人でした。そこで、光太郎を含む美術家たちとの交流をテーマにした企画展です。

展示目録によれば、光太郎関連では、光太郎から鷗外に宛てた葉書(明治43年=1910)、これは鷗外が自宅で催していた観潮楼歌会への誘いを断るものです。理由として、やはり今回の展示で取り上げられている藤島武二がフランスから帰った歓迎会とブッキングのためと書かれています。

それから明治42年(1909)の雑誌001『スバル』(覆刻)。裏表紙に光太郎筆の、鷗外をモデルにしたカリカチュア(戯画)が掲載されています。題して「観潮楼安置大威徳明王」。この絵に関し、今回の展示を報じる某紙では「高村が見た鴎外の超人的に多才な姿が映される」としていますが、そういうわけはありません。鷗外を尊敬しつつも、敬して遠ざけていた光太郎(観潮楼歌会も何だかんだ理由を付けて逃げ回っていました)、うっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教された光太郎ですので。もっとも、「この絵はどういう意味だ」と詰問された際には「先生の超人的なお姿です」と切り抜けるつもりだったのかもしれません(笑)。

ちなみに同じシリーズでは馬場孤蝶、永井荷風、三木露風、北原白秋、与謝野晶子、小山内薫らのカリカチュアも描いていますし、実現はしませんでしたが、光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で、同じ趣向の切抜人形展も企画していました。

ただし、茶化すだけでなく、それぞれ親しみを込めて描かれているものであることは確かです。

さらに光太郎著書『造型美論』(昭和17年=1942)、『某月某日』(同18年=1953)。それから与謝野寛が光太郎について触れた鷗外宛の書簡(明治42年=1909)も、光太郎のコーナーに出ています。

光太郎以外では、先述の藤島武二(光太郎が留学直前に再入学した東京美術学校西洋画科教授でした)、光太郎に猫をくれた岡田三郎助、光太郎と書簡のやりとりもあった宮芳平などにスポットが当てられています。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

日本人は概して習字を大切にしない。随分下手な書でも其れを書いた者の人物が直接に出てゐる事を喜ぶ。書法の衣裳を纏はないものに卻つて心ををひかれる。あまりうまい書を内心低く考へる者さへ居るのである。

散文「七つの芸術」中の「六 書について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

ここで言う「習字」とは、「書道」という意味ではなく、日々の鍛錬として毛筆で字を書くという意味です。書の発祥の地、中国では、「習字」を重視し、大抵の人の書くものはともかくも書として成立しているが、日本ではそうではなくなったという論旨です。

まずは今朝の『朝日新聞』さんから。 

芥川賞に若竹千佐子さん・石井遊佳さん 直木賞に門井慶喜さん

 第158回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の「新喜楽」で開かれ、芥川賞に若竹千佐子さん(63)の「おらおらでひとりいぐも」(文芸冬号)と石井遊佳(ゆうか)さん(54)の「百年泥」(新潮11月号)の2作、直木賞には門井慶喜(かどいよしのぶ)さん(46)の「銀河鉄道の父」(講談社)が選ばれた。副賞は各100万円。贈呈式は2月下旬、東京都内で開かれる。

(略)

 直木賞の門井さんは1971年、群馬県桐生市生まれ。同志社大卒。大阪府寝屋川市在住。大学職員として働いた後、2006年に「天才たちの値段」でデビュー。評論「マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代」で日本推理作家協会賞、「東京帝大叡古(えーこ)教授」「家康、江戸を建てる」で直木賞候補に。受賞作は、宮沢賢治の生涯を父政次郎の視点から書いた。
 会見での第一声は「風がきた。飛ぶだけだ。そういう気持ちです」。歴史小説家という仕事について「歴史好きの父から慶喜という名を与えられたことで、決まっていたのかもしれない。21世紀の読者にとって価値のあるものを歴史の中に見つけていく、21世紀の文章で届けていく」と話した。
 選考委員の作家、伊集院静さんは「圧勝でした。門井さんは歴史的事実だけでなく、父と子というテーマに対峙(たいじ)した。どうしようもなさや柔らかさなど、賢治の幅を広げたのも門井さんの功績」とたたえた。


というわけで、直木賞は門井慶喜氏の『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父・政次郎を主人公とした小説です。政次郎は、昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエを失った光太郎を、花巻の自宅に疎開させてくれた人物ということで、昨年のこのブログで同書をご紹介させていただきました。ただし、光太郎は直接は登場せず、2回ほど、名前が出ているのみでしたが。

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最近、同書が新刊書店で平積みになっているのを眼にし、失礼ながら、この手の書籍が刊行後しばらく経ったこの時期で平積みになっているのは珍しいな、と思っていました。すると、コンビニのレジでは「直木賞候補作一覧」的な広告が印刷されたマットが敷かれていて、なるほど、と思った次第です。

非常に読み応えがありまして、光太郎がらみの人物がたくさん登場することもあり、ぜひ受賞して欲しいものだと思っていたところ、見事に受賞。嬉しいニュースです。

こちらは昨秋、『朝日新聞』さんに載った、作家の逢坂剛氏による書評。スクラップしておいたものです。

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以前にもこの画像を使いましたが、こちらが政次郎(中央)です。右が光太郎、左は政次郎の妻・イチ。花巻郊外旧太田村の、光太郎が蟄居していた山小屋(高村山荘)前でのワンショットです。

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当会の祖・草野心平(後列左)も写っているものもあります。

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前列左から政次郎、イチ。前列右端は、政次郎ともども、光太郎を花巻に招いた、賢治の主治医でもあった佐藤隆房、その後ろは賢治実弟の清六です。佐藤の左の女性は、すみません、当方、よくわかりません。賢治の妹のシゲあたりでしょうか。

『宮沢賢治全集』の編集などにより、生前は無名だった賢治を世に送り出してくれたということで、政次郎は光太郎や心平に深く恩義を感じていました。その結果、光太郎の花巻疎開が実現したわけです。

後に光太郎は、こんな短歌も遺しています。

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みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきき

政次郎や佐藤を指しての一首です。


ところで、直木賞とセットの芥川賞に選ばれた若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」。こっちも賢治がらみか、と思いました。「おらおらでひとりいぐも」というのは、妹・トシの臨終を謳った賢治の詩「永訣の朝」の一節だからです。ところが、こちらは直接に賢治が登場するわけではなく、現代を舞台にしているとのこと。ただ、若竹さん、やはり岩手のご出身だそうです。

さて、『銀河鉄道の父』。以前にご紹介した時にも書きましたが、物語は賢治歿後の昭和10年(1935)までで終わっているので、その後の政次郎(昭和32年=1957まで存命)を描く続編を期待したいところです。そうすると、光太郎との関わりがさまざまな点で出てきますので。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

テレヴヰジヨンの完全な発達によつてその混淆した使命の両分されるに至るまで、この罐詰芸術は果してどんな独自の役割を果すだらう。

散文「七つの芸術」中の「五 映画について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「七つの芸術」の中に映画も入れているというのが意外な気もしますが、光太郎、確かに映画も好んでよく観ていましたし、映画評論的なものも書いています。花巻郊外旧太田村に蟄居中も、時折、花巻町に出て来ては、賢治実弟の清六らと共に、フランス映画などを観ていました。

それにしても、昭和初期の時点で、後にテレビが世の中を席捲するであろうことを予言しているようにも読め、その先見性には驚かされます。

テレビ番組3本、ご紹介します。 

にっぽん百名山「安達太良山」(再放送)

NHKBSプレミアム 2018年1月17日(水)  10時30分~11時00分 

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介。

出演 林千明 
語り 山崎岳彦 吉川未来

初回放映は平成27年(2015)でした。光太郎智恵子が2分間取り上げられます。

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ぜんぶ、温泉。「岩手・花巻を浴びる」(再放送)

NHKBSプレミアム 2018年1月17日(水) 19時30分~20時00分 
             1月24日(水)6時30分~7時00分 

温泉を目で、耳で、心で楽しむ!ヘッドホンをつければ臨場感倍増!?岩手県、湯治の一軒宿が点在する温泉郷・花巻。温泉マニア(伊武雅刀)目線のカメラが見たものは…

露天の雪景色やお湯しぶき、湯船の底から上がってくる足元湧出のあぶく。昭和の香りいっぱいのレトロな湯治棟。南部藩の殿様ゆかりのわらぶき屋根。地元のみなさんから問わず語りに飛び出すふだん着のお国言葉。刺さるような寒さや初めて作る自炊せんべい汁、高い吹き抜け天井のもと、立ったまま入る深~い風呂。温泉分析書を熟読し、裸になって大地の恵みをただただ、堪能。みんなまとめてホット・スプリング・ハズ・カム!

語り 伊武雅刀

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昨年、初回放映がありました。光太郎の名は出ませんでしたが、共に光太郎がたびたび宿泊した、大沢温泉さん、鉛温泉さんがたっぷり紹介されます。宮沢賢治には触れられます。

ごごナマ おしゃべり日和 「渡辺えり マルチな女優が本音で語り尽くす!」

NHK総合 2018年1月17日(水)  13時05分~14時00分 

1時台のゲストは渡辺えりさん。多彩な分野で活躍するえりさん。“女性演出家”の先駆けともいえる存在!しかし、成功を収めるまでには想像を絶する試練が!▽広すぎる交遊録!衝撃エピソード満載!▽渡辺えりさんが本音で語り尽くす!秘話が続々、目からウロコの1時間。

MC 船越英一郎 美保純 阿部渉
ゲスト 渡辺えり


やはりNHKさんで現在放映中の「大河ファンタジー 精霊の守り人~最終章~」などでご活躍中の渡辺えりさんですですが、舞台演出家としてもご活躍。光太郎を主人公とした「月にぬれた手」という舞台も手がけられました。

根底には、戦中戦後、光太郎と交流があったお父様の影響がおありだそうで、これまでもテレビ番組新聞雑誌等、ご講演などで、お父様と光太郎の関わりをご披露なさっています。平成28年(2016)には、お父様が光太郎から贈られた署名本や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。最近はお加減のよろしくないお父様の代参で、連翹忌にご参加下さっています。

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そういうお話が出るかどうか、というところです。「ごごナマでは光太郎に触れて下さい」とメールしておいたのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ジヤズのシンコペエシヨン的リトムはついに正系音楽の中にまで強力な浸潤を作るに至つたが、一方正系音楽の音楽意識はジヤズそのものの上に強力な精神化の逆作用を行はずには居なかつた。

散文「七つの芸術」中の「四 音楽について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この後、勃興して間もないユーロジャズについて述べています。音楽評論家の受け売りでないとすれば、舌を巻く先進性です。音楽にも造詣が深かった光太郎、まさしく総合的な芸術家でした。

昨日ご紹介した、埼玉東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンにつき、『東京新聞』さんが取り上げて下さいました。 

高村光太郎、思いに触れて 東松山市立図書館に資料コーナー

 昨年二月に亡くなった東松山市の003元教育長田口弘さん=当時(94)=が生前、同市に寄贈した彫刻家で詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の資料約百点を活用した「田口弘文庫『高村光太郎資料コーナー』」が十三日、東松山市立図書館二階にオープンした。光太郎が田口さんに贈った書や書簡のほか、田口さんが収集した「道程」「智恵子抄」の初版本など貴重な資料が展示されている。 (中里宏)
 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)時代、恩師の影響で光太郎に傾倒。一九四四年、初めて東京・駒込のアトリエで光太郎に会って以来、戦後も交流を続けた。
 同年夏、田口さんは占領地で日本語を教える海軍教員として南方に赴任する前、「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の二枚の色紙を書いてもらった。しかし、赴任途中に乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、色紙は失われた。展示されている同じ言葉の色紙は、九死に一生を得た田口さんが戦後、岩手県で隠とん生活を送っていた光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。田口さんは二〇一六年、これらの資料を市に寄贈した。
 オープン式典でテープカットした田口さんの長女栗原直子さんは「父は『(高村光太郎に)じかに会ったことで人生が変わった。本物に触れれば胸に響くのではないか』と、子どもや若い人が資料を直接見ることを望んでいた。実現して本当にありがたい」と話していた。


それから、オープン記念の講演の中でご紹介させていただきましたが、当日の『朝日新聞』さんの土曜版の連載、「みちのものがたり」が「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」。

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長いので全文の引用はしませんが、昭和20年(1945)から27年(1952)まで、光太郎が蟄居生活を送った岩手花巻郊外の旧太田村に今も残り、田口氏も訪れた山小屋(高村山荘)での光太郎を追っています。当時の光太郎をご存じの皆さんの証言、宮沢賢治との関わり、隣接する花巻高村光太郎記念館さんの紹介等。写真は山小屋別棟の便所です。光太郎自身が明かり採りのために「光」一文字を壁に彫り抜きました。

それから、同じ土曜版の「編集部から」という記事。雑誌の「編集後記」のようなもので、こちらでも光太郎に触れて下さっています。 

編集部から

 三省堂神保町本店(東京都千代田区)は、教科書004を店頭販売する珍しい本屋さんです。そこで、3時間も立ち読みをする迷惑な客をやってしまいました。6、7面「みちのものがたり」で取り上げた高村光太郎の「道程」が、どれだけ今の教科書に載っているか確認するためでした。
 ところが、「僕の前に道はない」で始まる詩がなかなか見つからない。少なくとも、5社から出ている中学の国語教科書(各3学年分)には皆無。出版社が多く、必修用やら選択用やら複雑な高校の教科書はすべてに目を通せた自信はないものの、やっと1冊だけありました。
 岩手県北上市の日本現代詩歌文学館は、2006年度の教科書に掲載された詩歌作品を調べています。それによると、「道程」は中学の3冊、高校の4冊に掲出されていました。教科書の定番教材としての「道程」の地位は、この10年ほどで急激に低下したと考えられます。
 「道程」の読みを聞いて、教室の男子生徒たちがざわついたのも今は昔。「有名な詩にあるだろう。僕らの後ろに道は出来るんだ!」と熱く語っても、きょとんとされてしまう時代が近づいているようです。(坂本哲史)


中学校の教科書に、「道程」が見あたらないという話。確かにそうかもしれません。ただ、道徳の教科書で取り上げて下さっている出版社さんがあるようです。


やはり先週の土曜、『毎日新聞』さんでは、光雲・光太郎父子の名を出して下さいました。

工芸の地平から 人形と彫刻=外舘和子

 日展、日本伝統工芸展などいずれの団体展におい005ても「人形」は工芸領域の一つと見做(みな)されているが、その条件は他の工芸と明らかに異なる。陶芸は土、金工なら金属と、工芸は通常扱う素材によって分類されるが、人形は作家により陶、木、布など、素材を限定しない。人形はヒトの形象を基本とする、その具象性によってのみ領域が成立しているのである。 
 
 日本の歴史を遡(さかのぼ)れば、ヒトガタの形象は縄文時代の土偶や古墳時代の形象埴輪(はにわ)に始まり、仏像のように重厚なものから、雛(ひな)人形など、より親近感ある形象まで幅広い造形として発達した。昨今流行(はや)りの超絶技巧に相当するものなら幕末明治の「生(いき)人形」がある。
 ところが明治期に西洋から「彫刻」の概念が入ってくると、にわかに仏像は「彫刻」に分類されるようになった。仏師であった高村光雲が東京美術学校の彫刻の教員になり、観古美術会などの明治の展覧会の彫刻部門に仏像が出品されたことがその背景にある。しかし日本の木彫や仏像はむしろ人形的であり、その特徴は人形同様“表面への拘(こだわ)り”にある。人形・彫刻とも、量感やバランス、ポーズや動勢に配慮するが、人形はその上でさらに表面造形を丁寧に行う傾向を持つ。彩色し、あるいは衣装を着せ、表面を丁寧に加飾し、顔の表情は細やかに整える。それは日本の仏像において、彩色し、截金(きりかね)を貼り、翻る衣の生地の雰囲気を慎重に表現し、顔の表情で全体の印象が左右される状況と通じる。
 面と骨格、マッスとボリュームで対象を大きく掴(つか)むことを重視し、表面や細部に拘ってはならないとする西洋の人体彫刻とは、日本の人形・仏像とも、理念において対照的でさえある。また、人形と彫刻の違いを“大きさ”であると主張する人もいるが、周知のように仏像は必ずしも大型のものだけではない。また、仮に等身大以上の大きいものが彫刻だというなら、戸張孤雁(とばりこがん)、高村光太郎、中原悌二郎など近代の主要な彫刻家は殆(ほとん)ど彫刻を作っていないことになる。大きいものを彫刻とする説は、近代の主要な彫刻家が得意としたサイズを説明できない。
 昨年、中世を代表する仏師・運慶、快慶の展覧会が相次いで開催された。快慶は表面の截金等による加飾がその特徴でさえある。また日本の造形史上の傑作、運慶の無著(むじゃく)像の最大の魅力は、その今にも言葉を発しそうな顔の表情にある。「人形は顔がいのち」という雛人形のCMが思い出されよう。さらに、無著像はその顔の表情に比べると手指の表現が硬い。顔と手の表現に苦労するのは現代の人形作家も同様だ。表面を重視し、細部に拘る日本の人形と仏像に、西洋由来の彫刻とは異なる、共通の造形姿勢を見るのである。(とだて・かずこ=工芸評論家)


購読していない新聞は、当方、地元の図書館で閲覧させていただいたり、コピーを取らせていただいたりしております。皆様もぜひそうして下さい。


【折々のことば・光太郎】

橋梁、倉庫、事務所、病院、実験室までは通り得る建築機械論も住宅建築に及んで人間性の反逆に遭つた。住む機械は人間の持つロマンチスムをも運転させ得る機械でなければならなくなつた。

散文「七つの芸術」中の「三 建築について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「建築機械論」は、フランスの建築家、コルビジェが提唱したものです。「住宅は住むための機械である」とは、彼の有名な言です。しかし、コルビジェとて、無機質な「機械」を想定してそう言ったわけではなく、水に浮かぶ機能のない船は船ではなく、空を飛ぶ機能のない飛行機は飛行機ではない、同様に住むことができない住宅は住宅ではない、といった意味での「機械」です。

駒込林町の自身のアトリエや、交流のあった思想家・江渡狄嶺の依頼による「可愛御堂」などの建築設計もこなした光太郎。コルビジェについても同じ文章で「彼の機械主義の中に既に新しいロマンチスムが潜んでゐた」と理解を示しています。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

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そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

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午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

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設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

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凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

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光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

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同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

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前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。



おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
001 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる



氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


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平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

いずれも開催中の企画展です。

コレクション企画展 みんなの美術室

期 日  : 2018年1月2日(火) ~ 2月5日(月)
会 場  : 島根県立美術館 島根県松江市袖師町1-5
時 間  : 10:00~18:30
料 金  : 一般 500(400)円 大学生 300(240)円  小中高生 無料
        ( )内は20名以上の団体料金
休館日  : 火曜日

島根県立美術館が所蔵する版画・油彩・彫刻を中心に、<かたち><いろ><構成>や<技法><材料>など、美術をめぐるさまざまな要素について紐解きながらご紹介します。作品とともに分かりやすい資料をあわせて展示し、美術の基本を楽しく学ぶことができます。また、クイズパネル「アート7つのなぞ」やワークシート、持ち帰りできる鑑賞ガイド(小冊子)「‘みんなの’美術資料集」などもご用意し、子どもも大人も美術に親しんでいただける工夫がいっぱいの展覧会です。

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というわけで、ポスター、チラシにドーンと光太郎の「手」。

関連行事として、1月28日(日)には、「館長の特別授業」だそうで、同館の長谷川三郎館長が、「手」に就いて語られるとのことです。

お隣広島の呉市立美術館さんで開催中の「開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展」でも、「手」が出ています。ブロンズの場合、同一の型から取った同じものが複数存在する場合があるので、実は「手」は全国にいくつあるかわからないほど多くあります。光太郎生前に鋳造されたものはおそらく3点しか確認できていませんが。


もう1件。こちらは光太郎ハガキが展示されています。

画家の手紙 制作と友への思い

期 日 : 2017年12月23日(土)004~2018年1月28日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館
       東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時まで
料 金 : 大人(高校生以上)200円、小・中学生100円
      市内在住の65歳以上は無料
      市内在住・在学の小・中学生は土曜日は無料
休館日 : 月曜日

実篤と交流のあった画家達の手紙から、画家ならではの視点や、個性豊かな書き文字の魅力をご紹介します。
武者小路実篤が学習院の友人と共に創刊した同人雑誌「白樺」は、文学だけではなく、美術も積極的に取り上げ、当時日本ではあまり知られていなかったロダンやゴッホを紹介したほか、美術展覧会も催し、美術を志す若者達に大きな影響を与えました。
「麗子像」などで知られる岸田劉生は、実篤との出会いを「第二の誕生」と表すほど強く感化されました。劉生から実篤に宛てられた手紙には、遠く離れた場所に住む実篤に「会えなくて淋しい」という、友への熱い思いが込められています。また実篤の著作「友情」の装幀を依頼されて「君の出す本は皆僕にさせてもらへバ光栄と思っている」と書いたり、実篤の著作を読んで自分の作品への意欲がかき立てられたことなどもつづられ、お互いに自分の仕事を高め合う関係であったことが伺えます。
当館には他にも、河野通勢、木村荘八、梅原龍三郎、安田靫彦、福田平八郎など日本近代絵画を代表する様々な画家の手紙が数多く所蔵されており、実篤との深い交流の様子や、制作への思いをみることが出来ます。本展覧会では、こうした手紙を取り上げ、画家ならではの言葉や視点、手紙の文言から見えてくる関係性、普段余り目にすることのない画家たちの個性豊かな文字の面白さについて着目します。彼等が手がけた装幀や挿絵も併せてお楽しみください。


画家ではありませんが、光太郎の葉書(昭和23年=1948)も出ています。

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確認できている、唯一の武者小路宛て書簡です。当方、7年ほど前に現物を見せていただきました。娘婿の武者小路穣が花巻郊外太田村の山小屋を訪れた件、武者主宰の雑誌『心』の件などが書かれ、「新しい村30年記念展覧会」に彫刻を出品するよう依頼がありながら難色を示したりもしています。

それぞれぜひ足をお運びください。


ところで、太田村の山小屋といえば、『朝日新聞』さんの土曜版。「みちのものがたり」という連載があり、今日は「高村光太郎「道程」」というタイトルで、太田村の山小屋(高村山荘)が紹介されます。昨年暮れに高村山荘、それから隣接する高村光太郎記念館さんを訪れた際、取材が入ったことを教えていただきました。先週出た予告では「次回は、高村光太郎「道程」。妻・智恵子を亡くした後、多くの戦争協力詩を発表し、戦後は岩手県に蟄居(ちっきょ)した芸術家の人生の道程をたどります。」とのこと。

7時46分追記 こんな感じでした。

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【折々のことば・光太郎】

如何なる新しいイズムも結局絵画が絵画を忘れては其れが何だ。画技そのものに具象して惻々人に逼るもの、其れが無くて何の絵画だ。

散文「七つの芸術」中の「一 絵画について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この一節の少し前には「少し進んだ連中でも、気韻とか情趣とか、「何とも言へませんな」式の気分を喜ぶ。そこでずるい画家の思はせぶりにだまされる。」という部分もあります。

小手先の技術におぼれ、本質を追究しない多くの画家、そしてそれに踊らされる人々への警句です。

新刊楽譜を入手しました。

吉田寛子作品集 或る夜のこころ

2018/01/01 カワイ出版 吉田寛子作曲 定価1,400円+税

 ぼくのシャボン玉 【三部合唱】 吉田寛子作詩
 或る夜のこころ『智恵子抄』より 【女声合唱】 高村光太郎作詩
 救いの御子の降誕を 【独唱または二部合唱】 水野源三作詩
 ぼくのシャボン玉 【ピアノ連弾】
 むかし夢見た 【独唱】 ハイネ作詩・井上正蔵訳詩

 バラバラに散らばっていた自分の作品を、いつかまとめて本に出来たら…と思っていました。大学の卒業作品、息子の初めてのピアノ発表会で一緒に弾くために書いた連弾曲、その曲を合唱団の人が「いいね!みんなで歌いたいな!」と言ってくれたおかげで、詩を書き、多くの方が笑顔で歌って下さる曲となったこと、教会の書庫で見つけた詩集に心動かされて出来た曲、…その時々の思いを込めて作った曲が一冊の作品集となり、出版できることとなりました。皆さんに演奏していただけたら嬉しいです。合唱は同声でも混声でもお楽しみ下さい。
(「はじめに」 より)

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光太郎作詩の「或る夜のこころ」(大正元年=1912)に曲を付けた女性三部合唱曲が収録されており、表題作ともなっています。この曲のみ、「神尾寛子」クレジットとなっていますので、「はじめに」の「大学の卒業作品」というのが、これでしょう。

吉田さん、巻末のプロフィールによると、「1982年 国立音楽大学教育音楽学科第Ⅱ類(リトミック専攻)卒業」となっていました。余談になりますが、当方、アマチュア合唱団に所属しており、そちらの指揮者の先生も同科のご出身です。吉田さんより十数年先輩だと思われますが。

閑話休題。「或る夜のこころ」、詩は以下の通りです。

   或る夜のこころ
000
 七月の夜の月は
 見よ、ポプラアの林に熱を病めり
 かすかに漂ふシクラメンの香りは
 言葉なき君が唇にすすり泣けり
 森も、道も、草も、遠き街(ちまた)も
 いはれなきかなしみにもだえて
 ほのかに白き溜息を吐けり
 ならびゆくわかき二人は
 手を取りて黒き土を踏めり
 みえざる魔神はあまき酒を傾け
 地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
 魂はしのびやかに痙攣をおこし
 印度更紗の帯はやや汗ばみて
 拝火教徒の忍黙をつづけむとす
 こころよ、こころよ
 わがこころよ、めざめよ
 君がこころよ、めざめよ
 こはなに事を意味するならむ
 断ちがたく、苦しく、のがれまほしく
 又あまく、去りがたく、堪へがたく――
 こころよ、こころよ
 病の床を起き出でよ
 そのアツシシユの仮睡をふりすてよ
 されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
 七月の夜の月も
 見よ、ポプラアの林に熱を病めり
 やみがたき病よ
 わがこころは温室の草の上
 うつくしき毒蟲の為にさいなまる
 こころよ、こころよ
 ――あはれ何を呼びたまふや
 今は無言の領する夜半なるものを――


大正元年9月の『スバル』第4年第9号に掲載されました。掲載時には「(N-女史に)」の献辞が付けられていました。「N」は智恵子の旧姓「長沼」の「N」に他なりません。

8月18日作となっており、同じ『スバル』第4年第9号には、連翹忌会場である日比谷松本楼さんでの一コマを謳った「」、智恵子に対し「いけない、いけない/静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない/ まして石を投げ込んではいけない」と釘を刺す「おそれ」などがセットで掲載されています。

この月、光太郎は犬吠埼に絵を描くために滞在。智恵子も妹・セキ、友人の藤井勇(ゆう)と共に光太郎を追って犬吠に出かけます。セキと藤井は先に帰り、智恵子のみ残って、最初に泊まっていた御風館から、光太郎が宿泊していた暁鶏館に移るという大胆な行動に出ました。光太郎が帰京したのは9月4日。その際には智恵子も一緒だったかどうかは不明です。この犬吠行きで、二人の心はほぼ固まったようで、光太郎は11月には「わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり」で始まる「郊外の人に」を書き上げています。

さて、吉田さんの「或る夜のこころ」。こうした光太郎の魂の躍動を表すように、力強く小気味のいいメロディーライン。途中、3回の転調、3連符や変拍子を多用、光太郎が感極まったことを表すヴォカリーズ(歌詞なしのa母音)やら、主旋律をメゾソプラノやアルトにも配するなどの工夫やら、現代音楽ふうのいかにも学生の卒業制作という感じですが、爽やかな一曲です。

女声合唱団の皆さん、中難度の曲ですが、ぜひレパートリーに加えて下さい。


【折々のことば・光太郎】

ピカソの才無くしてピカソの教を守るもの程路に迷ふものはあるまい。

散文「正と譎と」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この文章では、ピカソ、ドラン、果ては松尾芭蕉までも引いています。それぞれが長い苦闘の末、王道たる「正」と、一見邪道の「譎(けつ)」とのせめぎ合いの中から、それぞれの作風に達したことを論じました。そうした経緯を持たぬ者が形だけ巨匠の真似をしても仕方がない、ということでしょうか。

東京メトロさん主催のイベント情報です。

沿線の街の魅力を発信する散策型スタンプラリー「新発見!駅から始まるさんぽ道2nd Season」を実施!このスタンプラリーは、昨年度から実施し、多くのお客様にご好評いただいた「新発見!駅から始まるさんぽ道」の第2弾として実施され、毎月、期間内に3か所のスタンプポイントをめぐりスタンプを集めると達成したコース数に応じて素敵なプレゼントに応募ができます。 今月は、千代田線「西日暮里」駅周辺の見どころポイントをご用意! 初めて訪れる駅や街はもちろん、馴染みの街の新たな魅力を発見できるかも!

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今月は、東京メトロ千代田線西日暮里駅周辺だそうで、スタンプポイントにはなっていませんが、同駅近くの荒川区立第一日暮里小学校さんの正門前に立つ、光太郎文学碑がコースに入っています。

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以前にもご紹介しましたが、この碑は、昭和60年(1985)の建立。昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋近くにあった太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が、同校尋常小学校の課程に通っていたことに由来します。

現在でも同校は学校便りのタイトルに「正直親切」を使って下さるなど、「卒業生」光太郎の顕彰にも取り組んで下さっています。

考えてみますと、23区内にある光太郎の文学碑といえるものは、これと、それから品川のゼームス坂病院跡にある「レモン哀歌」詩碑の二つだけ(個人の方が個人の敷地に建てた、というようなものがあるかもしれませんが)。

さて、東京メトロさんのスタンプラリー。月ごとにコースが定められ、獲得したポイントに応じて賞品が当たる仕組みになっています。1コース達成でレジャーシートが500名様、これはともかく、3ヶ月で3コース達成だと、50名様に東京メトロ沿線ホテルランチお食事券5,000円分。これは当たると大きいですね(笑)。詳しくは上記リンクから。


この機会にぜひ日暮里の光太郎碑、ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の本質たる造形性は人間そのものの本能の慾求から発してゐる事を思へば、如何なる時代の変化はあつても、人間が人間としてのこる限り、彫刻のこの本質本流が消滅し得るものとは考へられない。

散文「彫刻の方向」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

そうした根源的な芸術に関わる者としての矜恃、使命感が感じ取れる一文です。

昨日の『静岡新聞』さんの一面コラムから。 

2018年1月9日【大自在】

▼水彩紙を貼った大小のパネルに墨と白いアクリル絵の具で描かれたさまざまな造形。広い・狭い、長い・短いで構成された直線や帯と、そこに白くかすれた不規則な模様。竹林やのれんのようでもあり、生物のゲノム(全遺伝情報)を示すマップにも見える
 ▼目を凝らすと、線と点の規則性があることに気付く。隠れていたのはモールス符号。例えば縦横3メートルの大作は高村光太郎の智恵子抄の一節で、手元のコード表を頼りに作品を読みながら鑑賞することができる不思議な“書”だった
 ▼「トン・ツーが言語体系となった世界で、どんな言葉の〝かたち〟があり得るのか」。島田市博物館で開催中の企画展。墨象作家宮村弦[みやむらげん]さん(37)=同市=は、デジタル通信の発達ですっかり廃れたモールス符号を文字として捉え直した
 ▼会場にはモールス符号の仮想世界をイメージしてゲスト作家が制作した音楽も静かに流れる。未知の芸術の息遣いに包まれながら、既成書道の枠を超えた造形として発展する墨象の奔放さに驚き魅了された
 ▼大学院で書道を修め、文字をベースにしつつアート活動を続ける宮村さん。最近、書が人間の生活から離れていくように感じられてならないという。「毛筆でも鉛筆でもいい。書く文化が土台になくては考える力も弱まってしまう」
 ▼冬休みが終われば学校では書き初め大会。お手本を横に筆運びを練習したり、新年の決意を力強く文字にしたり…。清書するときの緊張感は誰にも覚えがあろう。そんな小学生時代の思い出は宮村さん自身の原点でもあるそうだ。


こんな展覧会をやっていたのか、と、調べてみました。すると、以下の通り。もはや会期末でした。 

第71回企画展「宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」

期 日  : 2017年12月9日(土)~2018年1月14日(日)
会 場  : 島田市博物館 静岡県島田市河原1-5-50 
時 間  : 午前9時~午後5時
料 金  : 一般 300円  20名以上 240円  中学生以下 無料
休館日  : 月曜日

「平成27年度島田市文化芸術奨励賞」を受賞した宮村弦は、書をベースに文字や言語を「意味を宿した象徴(シンボル)」へ昇華させることを目指した作品を多く生み出しています。今回の企画展では、宮村弦の感性で、モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品を一堂に展示します。また、ゲストアーティストに音楽家・斉藤尋己(ひろき)氏を迎え、モールス・コードの作品世界を音として表現した合作も展示します。

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面白いことを考えるものだと思いました。

こちらが「智恵子抄」。

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智恵子歿後に書かれた「亡き人に」(昭1d53e98e和14年=1939)の最終行「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」だそうです。

さらに調べたところ、同じ作品は、ちょうど一年前の今頃、東京都美術館さんで開催されていた「TOKYO 書 2017 公募団体の今」展にも出品されていたとのこと。存じませんでした。

当方の情報収集力もまだまだです(汗)。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

“文句ぬきの造型表現”慾望の強さが私を造形美術に駆りたてる。

散文「作家言」全文  昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に載った肖像写真のグラビアに添えられた一言。

宮村氏なども、こういう気持ちで作品制作に当たられているのではないでしょうか。

光太郎彫刻の展示されている企画展情報です。 

開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展

期 日  : 2018年1月6日(土)~2月12日(月・振休)
会 場  : 呉市立美術館 広島県呉市幸町入船山公園内 
時 間  : 10時~17時
料 金  : 一般800円(600円) 高大生500円 小中生300円(200円) 敬老割400円
         ※( )内は一般前売及び20名以上の団体
休館日  : 火曜日

第1章:コレクションのあゆみ
第2章:高校生キュレーターの目 「自然・歴史・人」
第3章:米国から里帰りした美人画14点が集結!「郷土ゆかりの画家 谷口 仙花」

呉市立美術館は、呉市制80周年を記念して1982(昭和57)年8月に開館し、今年度で開館35周年を迎えまし た。この展覧会では全体を3章に分け、当館の歩みを振り返ります。

第1章では、コレクションのあゆみとして当館を代表する作品、ルノワールの《麦わら帽子の少女》をはじめ、近代日本画壇の巨匠奥田元宋、パリを描き続けた荻須高徳、日本のゴッホと呼ばれた棟方志功、詩人としても有名な彫刻家高村光太郎などの作品を厳選し展示します。

第2章では、高校生キュレータークラブのクラブ員が設定したテーマに基づき、彼らが選んだ作品を展示し、その解説も担当します。また前年度のクラブ員たちが取り組んだ美術館通りの彫刻の作品解説もあわせて展示します。

第3章では呉ゆかりの日本画家・谷口仙花(1910-2001)を紹介します。昭和初期の女性風俗を情緒豊かに描いた谷口仙花は、戦中から戦後にかけて呉市で暮らし、渡米後、米国で亡くなったため長く忘れ去られていました。近年の研究成果をふまえ、新たに発見された作品や資料、米国から里帰りした作品、船田玉樹との合作など初公開を含む約80点の作品と資料により、その画業を顕彰します。

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チラシ裏面に写真が印刷されていますが、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻家である。多分そのせゐであらうが、私にとつて此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言はれてゐるが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言へる。彫刻はいちばん根源的な芸術である。

散文「触覚の世界」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎にかかっては、五感のすべてが触覚に還元されるそうです。視覚は色彩や光を視神経で触れるもの。聴覚的には音楽は全身を共鳴させながら聴くもの。嗅覚も物質の微粒子を鼻の粘膜で触れて感じ、味覚もそばをのどで味わうように、やはり触覚に統一されるとのこと。

そして光太郎の触覚は、磨いた鏡のガラスにも木目のような縦横の凹凸を感じると書いています。舌を巻くほどの鋭敏さです。

ラジオ、テレビの放送情報です。

まずは長野県限定ですが、光太郎詩の朗読があります。 

ゆる〜り信州9584f024

NHKラジオ第一長野 2018年1月10日(水) 16:55~18:00

ワンダフル信州「信州を読む」 読み手:関根太朗アナウンサー
作品:高村光太郎『智恵子抄』より「レモン哀歌」「狂奔する牛」「人類の泉」

「Wonderful 信州!」は、この1年、NHK長野放送局が取り組むテーマです。 信州には 、雄大な自然をはじめ、歴史や文化、地域に暮らす人々など、魅力的で誇るべきものが たくさんあります。 そうした「Wonderful(ワンダフル)」なものを、県内だけでなく、全国、 世界に向けて発信していこうというのが、 この取り組みの目指すところです。

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というわけで、信州を見直し、その魅力を発信する活動をなさっているそうで、その一環として、「信州を読む」と題し、信州にゆかりのある文学作品の朗読がオンエアされます。

先月、長野放送局のロビーで公開収録が行われたそうです。リスナーの方々からのリクエストも受け付け、朗読作品が選ばれたとのこと。光太郎にもリクエストを寄せていただき、ありがたいかぎりです。

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光太郎智恵子と信州といえば、大正2年(1913)、婚前旅行で上高地を訪れたことが有名です。今回朗読される「狂奔する牛」(大正14年=1925)は、のちにその時のことを謳った詩です。「人類の泉」(大正2年=1913)は、上高地を訪れる直前の作で、智恵子への愛を高らかにうたいあげたもの。そして智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。有名なフレーズ「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつたの「山巓」は、上高地の山々を指すと思われます。

他に、津村信夫『戸隠の絵本』より(1/9)、はまみつを『わが母の肖像』より(1/11)、宮口しづえ『弟』(1/12といったラインナップで、同局アナウンサーの方以外にも、軽井沢朗読館長・青木裕子さんも朗読なさるそうです。

こうした取り組み、全国の放送局でもっと広まってほしいものです。


もう1件、光太郎に触れられるかどうか微妙ですが、テレビ放映情報です。 

美しい日本に出会う旅▼初夢温泉 名湯の旅~日本一の岩風呂とご利益いっぱい湯めぐり

BS-TBS 2018年1月10日(水) 19時00分~19時54分

高橋一生さんが案内する、2018年選りすぐり!4つの名湯旅。長野・渋温泉ではご利益抜群の九湯めぐりと、あの映画を思わせる、木造4階建ての湯宿へ。宿の看板猫は幸運のしるしでした。関西屈指の名湯・城崎では、お坊さんが教える入湯作法に、松葉蟹づくしを堪能。九州では神様が舞い降りた地、霧島へ。ありがたい地に湧いたありがたい湯を、茅葺き屋根の隠れ宿でひたります。日本一の深さを誇る岩手の湯は、宮沢賢治が愛した湯でした。

旅の案内人 高橋一生、瀬戸康史、井上芳雄

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「日本一の深さを誇る岩手の湯」は、鉛温泉さん。花巻南温泉峡に位置し、賢治の「なめとこ山の熊」に登場、光太郎も泊まりました。深さ約130センチの「白猿の湯」が有名です。


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

生命の戦慄が無いものは、如何なる時にもいけない。此だけは動かせない。
散文「雑記帳より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

彫刻に関しての発言ですが、「生命」を重視する姿勢は、すべての光太郎芸術に当てはまります。

「このシーンから始まるのか」と驚きました。今日から放映が始まる、NHKさんの大河ドラマ「西郷どん」。

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今朝の『朝日新聞』さんのテレビ欄です。

冒頭は東京・上野公園。西郷隆盛像除幕式で「あれはうちの旦那さんじゃなか」と3番目の妻・糸(黒木華)は叫ぶ。

光太郎の父・光雲が木型の制作主任を拝命し、東京美術学校が制作を請け負った西郷隆盛像に関し、昨今、このエピソードが定説と化しているように思われます。

西郷は有名な写真嫌いのために肖像写真はなく、イタリア人画家のキヨソーネが描いた肖像画も、最後の死後に弟の西郷従道の容貌を基にしたものであった。一八九八(明治三十一)年十二月の除幕式に、総理大臣の山県有朋や勝海舟、大山巌、英国公使アーネスト・サトウなど八〇〇名が出席した。鹿児島から西郷夫人のイトも招かれ、像を見て「うちん人は、こげんじゃなか」と言ったのを、従道があわてて窘(たしな)めたという。
            『東京の銅像を歩く』 木下直之監修 祥伝社 平成23年(2011)

同様の記述は、あちこちで見かけます。しかし、そのほぼすべてが「という。」なのです。

火のないところに煙は立たぬ」と申しますから、これに近い出来事があったのでしょう。ただ、これを詳述した当時の文献(新聞記事等)の記述を、当方、寡聞にして見たことがありません。どなたか、当時の何々という文献にこのエピソードが詳述されている、というのをご教示いただければ幸いです。

そんなにも西郷像は本人に似ていないのでしょうか?

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昭和2年(1927)から翌年にかけ、『東京日日新聞』に「戊辰物語」という連載がありました。各界著名人の談話筆記で、幕末から明治初年の世相が語られています。その中で、枢密顧問官で子爵だった金子堅太郎の回想にはこうあります。

私の知つてゐる時は西郷隆盛は神田橋にゐた。西郷の内に書生をしてゐる友達を尋ねて行くと「君は西郷を見た事があるか」といふので「ない」と答へると友達は「あれから来るのが西郷さんぢや」と指さしたのを窓からのぞくと一人の男が若党を連れて門からブラブラやつて来た。木綿の黒い羽織を着て刀を差し小倉のやうな袴をはいて、しかも冷やめし草履を引ツかけておる。顔かたちは上野の銅像そつくりの印象が残つておる。

それから、西郷像の鋳造を担当した岡崎雪声の談話。『国民新聞』の明治31年(1898)12月18日、像の序幕直後に載ったものです。

老西郷は生前嘗て写真を撮りし事なかりしため其の肖像に就ては人の知る能はざる苦心をなし先づ元印刷局御雇キヨソネ氏の石版画を根拠として翁が生前の知己親戚に付き一々其の好否を問ひ服装もはじめ陸軍大将の正服なりしが後平服に犬を牽きたる現在のものに改め石膏像(あぶらづち)をも幾度か造りて幾度か壤ち木彫に移りても亦削りつ添へつ非常の経営を重ねし由而して斯くの如きは独り当局其の人にのみ止らず局外の諸氏も亦非常の熱心を以て之を輔け青森県知事河野圭一郎氏の如き城山没落まで翁に従ひ常に其の髯剃り役を勤めしとの故を以て殊に一昨年の夏中炎天を冒して日々美術学校へ通はれ彫刻手に助言して身自ら職工とならんばかりに尽力せられたり

西南戦争の折、西郷の従者を務めていた河野圭一郎に助言してもらいながら、像の制作を行ったというのです。これで本人に似ていないということがありえるでしょうか。

そこで、妻・糸の発言の真意は、顔の問題ではなく服装の問題だ、という解釈があります。

その除幕式が挙行されたのは12月8日のことだった。この時、西郷夫人の糸子が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らしたことが伝わり、顔が似ていないとの誤解が生じた。(略)しかしながら西郷糸子は顔が似ていないと呟いたのではなく、このような浴衣姿では散歩はしなかったという意味で言ったものらしい
『英傑たちの肖像写真―幕末明治の真実』 渋谷雅之著 渡辺出版 平成22年(2010)

ちなみにここでも「らしい」ですね。これも当時の文献等で、そういう内容のものを当方は見たことがありません。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

肝心の光雲はどう言っているのでしょうか。昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』から。

何しろ昔の話でくはしい事は忘れてしまつたが、製作には相当苦しんだものだ、あのポオズにしてからが西郷さんといふ人は謹厳な人で和服の時は袴を放さなかつたんだといふ様な非難も聞いてゐる、どんな服装をさせるかといふことにも散々、頭をひねつてね、御維新当時の服装でやつてみたりしたが、一向に西郷さんの感じが出ない。
委員の間にも堅苦しくない、磊落な所がよからうといふ意見が出て結局、西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図に決まつた次第で、これには榎本武揚さんなんか大いに賛成してくれた。


服装に関して、正しい経緯は以下の通りです。

明治22年(1889)、西南戦争で逆賊とされた西郷に復位の恩命が下され、それを機に銅像建設の計画が始まりました。まず、美術行政に尽力した九鬼隆一がブレーンとなって、図案懸賞募集が行われています。同年10月15日の『東京日日新聞』に載った「贈正三位西郷隆盛君銅像図案懸賞募集広告」によれば、「一馬上高サ二丈以下一丈ノ事 一陸軍大将ノ軍服ヲ着スル事」とあり、当初は軍服姿の騎馬像という計画でした。

しかし、経費の問題などから、現在の着物姿に改められたと、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第一巻』(昭和62年=1987)に記述があります。一度は逆賊とされた西郷なので、軍服姿は忌避されたというのも通説のようですが、ここではそれは「議論が起こったため」と、ぼかされています。実際、明治26年(1893)には、軍服姿の木型も光雲らによって制作されていますが、破棄されました。

ところで、現在の着物姿は、光雲によれば「西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図」。散歩ではありません。この点についての『小樽新聞』の談話筆記は、以下の通り。

あれを犬を連れて散歩してゐるんだなどといふ人があるが大間違ひだよ、その証拠には、腰にはわなを作る縄の束がぶら下つてゐるし、小さな刀を差してゐるが、これも山狩の時、いばらや篠竹を切り倒すにのに使ふものだ。あの犬は兎追ひの犬で桜島産の独特の小さいが悧巧な奴で西郷さんもよく可愛がつてゐたものださうだ。

なるほど。

そして、顔。

構図はさて決まつたが、写真があるわけではなし顔には弱つた。
人によつては西郷さんは目玉がらんらんと大きくて非常に恐ろしい顔つきをしてゐる、にらまれるとすくみ上る様な顔だつたといふし、ある人は目の切れの長い聡明な顔で眉毛がこく口元は一文字に引締つてむしろ可愛らしい顔つきで笑ふととても柔和だつたともいふし、つまり御機嫌のいい時と悪い時の相違だつたんだらうが、これ等の人の印象をまとめて、ああいふ風に仕上げたのだが、次には身丈がどの位あつたかといふ点で、また行きづまつてしまつた。
 陸軍で調べてもらつても一向分らんし、西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。

やはり生前の西郷を知る人々の証言を取り入れていたことがわかります。「似ていない」説は成り立たないといえるのではないでしょうか。

そして再び服装。

スネのはみ出したつんつるてんの着物はいかにも滑稽のやうにも思へるが、西郷さんといふ人は殿様から拝領の着物はそのまま縫直さずに着たものださうで、従つて人並はづれた西郷さんが着れば、スネもはみ出さうし、腕も出やうといふものだ。

ここにも深謀遠慮があったのです。

ただし、当人が後から申し述べたことですので、世上の批判に対する自己弁護、と捉えることも可能でしょう。しかし、少なくとも、いいかげんに造ったということには成らないと思います。

さて、大河ドラマ「西郷どん」。除幕式のシーン、どのように描かれるのでしょうか。くれぐれも光雲をディスるような描き方にはなっていないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

日本の工芸美術は、如何なる時にも遠慮無く世界の人の前に持ち出せるだけの秀美さを持つてゐる筈である。其は過去の日本が遺していつてくれた審美的遺伝の一つである。

散文「日本工芸美術会に望む」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、銅像も広義の工芸と捉えていたかもしれません。ただし、芸術としての肖像彫刻とは一線を画するものという認識でした。

先月発行の新刊コミックです。

歯のマンガ

2017/12/16 カトちゃんの花嫁著 小学館 定価690円+税

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「人生つらいけどサンバだし、つらく001なくてもサンバなのです。」

ツィッターにほぼ毎日更新され多くの人を癒しているかわいい二本?否、二人組の歯の日常を描いた『歯のマンガ』がついに書籍化!
グッズにもなった「つらくてもサンバ」「おまえ~」はもちろん「吊るツラ」「あけみちゃん」「幻の家族」「タニマチさん」など人気の高いエピソードを厳選し収録。
さらには、この本でしか読むことができない描き下ろしエピソード(3本合計40ページ超)を収録します。
歯はどこから来てどこへ行くのか…。本書を読めば、「歯」の謎が解ける!?


題名のまんま、「歯」が主人公のマンガです。女の子から抜け落ちた2本の「歯」(途中、3本目が登場しますが、また2本に戻ります(笑))が、なぜか人格を持ち、いろいろと行動します。

この設定だけでも十分に不条理、シュールだと思いますが、帯に印刷された推薦文には、そう評されるであろうことに釘を刺し、「不条理でもシュールでもない」とあります。ちなみにこの推薦文のご執筆は、J-POPユニット・ONIGAWARAの斎藤伸也さん。実在の人物でありながら、このマンガに登場されています。

元々、ツイッターで発信されていた四コマ漫画がメインですが、書籍化にあたり、3本の「長編」が加えられました。そのうちの1本が「智恵子抄」(全20ページ)。

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なぜか智恵子が登場し、主人公である2本の「歯」とともに、空を探しに行く、という流れです。いわずもがなですが、「あどけない話」(昭和3年=1928)をベースにしています。

このマンガは、四コマの場合でも、いわゆる「起承転結」のお約束を完全に無視する場合があり、この「智恵子抄」も、結局、オチがないまま終わっています。「起承転・転・転……」的な(笑)。

書きながら気づきましたが、かつてのつげ義春氏のマンガを彷彿とさせられました。ただし、つげ氏のそれに多く見られる尖った視点はあまりなく(少しあります)、つげ氏のそれに時折見られた温かみが目立ちます。そうした意味では、現在流行の「ユルい」「癒し系」といった評が当てはまるでしょう。そこで終わっていないところにこのマンガの凄さがありますが。


ぜひお買い求め下さい。



【折々のことば・光太郎】

如何なる時にも自然を観察せよ。自然に彫刻充満す。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

かつて帰国する荻原守衛に、同じようなことをロダンが言ったそうです。それを聞いたであろう光太郎も、自然を師として彫刻道に邁進する姿勢を明確にしました。いったいに、今日まで十日間にわたってご紹介し続けた「彫刻十個條」、光太郎編訳の「ロダンの言葉」(正編・大正5年=1916、続編・同9年=1920)の影響が色濃く見て取れます。

そして同じことは、有名な詩「道程」にも「僕の前に道はない」「ああ、自然よ/父よ」といった形で表されています。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。奥付の発行日は1月15日となっています。

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元青森テレビアナウンサーの川口浩001一氏が、「十和田湖「乙女の像」秘話 ~太宰治が結ぶ隠れた絆~」という文章を寄せられています。川口氏、一昨年には同局の特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」のプロデュース的なこともなさいました。

「乙女の像」は、青森十和田湖畔に立つ、光太郎最後の大作。「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」というのが正式名称ですが、略して「十和田湖畔の裸婦(群)像」、通称「乙女の像」です。

元々が十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の景勝を世に知らしめるために功績のあった、作家・大町桂月、元知事・武田千代三郎、元地元村長・小笠原耕一の三氏を讃えるモニュメントとして企画されました。その時点での知事が、津島文治。太宰治の実兄です。

そして、地元の高校の校歌を作詞した縁で、たまたま十和田を訪れていた佐藤春夫が、津島知事に相談を受けます。どんなものを造ったらよいか、誰に依頼すればよいか、など。

津島知事の実弟・太宰は、昭和11年(1936)、第二回芥川賞をぜひ獲らせてくれるよう、書簡で懇願したことが有名です。津島知事としては「弟がいろいろご迷惑をおかけして……」という気持ちもあって、佐藤を下にも置かない歓待ぶりだったようです。ちなみに太宰は乙女の像プロジェクトが立ち上がる前に自裁しています。

そして佐藤がモニュメントの制作者として推挙したのが光太郎。佐藤と光太郎のつきあいは古く、大正3年(1914)に光太郎が佐藤の肖像画を描いた頃に遡ります。他にも光太郎を推す声は方々からあがり、津島知事もその方向でゴーサインを出します。光太郎への折衝の際には、佐藤が光太郎に長い手紙を書きました。「十和田湖に光太郎以外の制作物が立てられては、日本の恥だ」的な。

そうして実現した「乙女の像」。確かに太宰の存在がなければ、ありえなかったかもしれません。川口氏の文章、そうした経緯が簡略に記されています。


それから、前号より当方が連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。だいたいこんな流れで光太郎顕彰活動を執り行っていますよ、的な内容で始めました。前号は昨年で61回目を迎えた連翹忌の歴史を書かせていただきました。今号は、連翹忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)について。

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特に、光太郎書簡について詳述しました。『高村光太郎全集』完結の時点で、3,101通が収録されていましたが、現在、通しで振ったナンバーは3,412。それ以外に諸事情によりナンバリングしていないものが50通ほどあります。これだけ見つかると、いろいろ未知だった事柄も見えてきました。『全集』完結時点で不明だった光太郎にとって重要な事項の日付が特定できたり、こんな人物とも交流があったのか、という人物宛の書簡が見つかったりといったところです。

詳しくは同誌をご覧下さい。版元の文治堂書店さんの連絡先は下記の通りです。頒価は400円だそうです。

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ちなみに、今春4月2日(月)開催予定の第62回連翹忌にご参加下さった方には、今号、それから前号もお配りするつもりで居ります。

第62回連翹忌につきましては、また近くなりましたらご案内申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

木を彫る秘密は絶えず小刀を研ぐにあり、切味を見せんが為にあらず、小刀を指の如く使はんが為なり。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

東京美術学校在学中には既に木彫から塑像へと軸足を動かしていた光太郎ですが、大正の半ば頃から昭和初期にかけ、再び木彫を手がけ、数々の名作を生み出しました。

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暮れに届きました。定期購読している『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第5号です。

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毎回裏表紙に掲載されている連載の「光太郎レシピ」。

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花巻郊外太田村在住時の日記を元に、光太郎が食したであろう料理を再現しています。今号は「牛鍋とサツマイモ焼きパン ウイスキー入りミルクティー」。なかなか豪勢です(笑)。

巻頭の特集は「窓」。主に花巻市街のレトロな建築に使われている窓を取り上げています。

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花巻市内の文化施設5館が、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み。花巻高村光太郎記念館さんは「高村光太郎 書の世界」展。他館より期間が長く、来月26日(月)までです。

次号(2月発行)では、「賢治の足跡・光太郎の足跡」という特集を組んで下さるそうです。ありがたや。

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オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

立体写真的な銅像は、光太郎の最も嫌うところでした。光太郎が手がけた肖像彫刻は、どれもその人物の内面までも表す、その人以上にその人、というものでした。

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元日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」で、光太郎に触れて下さいました。

正平調 2018・1・1

長い1本の道が続いていた。脇には昔のままプラットホームがあり、さびたレールもそこだけは残されている。年の暮れ、三木鉄道の廃線跡を歩いた◆播州鉄道として開業したのは1916(大正5)年のことである。国鉄、そして第三セクターと運営形態は時代とともに変わっていったが、乗客は次第に少なくなり、2008(平成20)年にその役割を終えた◆この春で廃線からちょうど10年になるのを前に、旧三木駅からの片道約5キロが遊歩道として整備されつつある。古い駅舎をイメージした休憩所が建ち、沿道につくられた花壇ではパンジーの花が風に揺れていた◆〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の詩「道程」の一節である。思えば明治の世が明けてからの150年は、豊かさを求めて前を向き、ひたすら汽車を走らせてきた道程だったのだろう◆このごろはどうしたわけか“遺産ブーム”で、近代産業、文化といった歴史の痕跡に再び光があてられている。後ろにできた道をふと振り返りたくなるのは、進むべき未来に迷いが生じてきたせいかもしれない◆今年は平成から新時代へとレールをつなぐ1年となる。“中継駅”のホームに立ち、来た道、行く道をじっくり見つめる。そんな年にしたい。

1868年が明治元年でしたので、今年、2018年は、明治に換算すると151年ということになります。元号としての明治150年でなく、明治元年から始まった維新が150年ということで、いろいろな立ち位置から、それにかかわる記念事業等も計画されているようです。どうも判官贔屓というか、天の邪鬼というか、敗者の歴史に心牽かれる当方としては、新選組の近藤勇や沖田総司らの歿後150年という意味で感懐が涌いたりもします。

さて、『神戸新聞』さん。兵庫県内の三木鉄道廃線跡にからめ、「思えば明治の世が明けてからの150年は、豊かさを求めて前を向き、ひたすら汽車を走らせてきた道程だったのだろう」とし、光太郎の道程を引きつつ、「今年は平成から新時代へとレールをつなぐ1年となる。“中継駅”のホームに立ち、来た道、行く道をじっくり見つめる。そんな年にしたい。」と結んでいます。その通りですね。

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【折々のことば・光太郎】

効果を横に並ぶるは卑し。有れども無きが如くすべし。

散文「彫刻十個條」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

あくまで自然に見える彫刻を、光太郎は目指しました。しかし、感覚的にさらっと造るのではなく、さまざまな技法を駆使し、ある種の超絶技巧も含みます。それがそうとわかるような、というか、技法を駆使していることを自己主張するような彫刻では駄目だ、ということでしょう。

彫刻のみならず、人生全般に当てはまるような気もします。

ちなみに右は光太郎の代表作の一つ、「手」。おそらく大正7年(1918)の制作と推定されますので、ちょうど100年前の作ということになり、各種展覧会で出品される際にはコメントしてほしいものです。

昨日、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町の片貝海岸に、今年も初日の出を見に行って参りました。

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予定通り、6時過ぎに到着。6時45分過ぎが日の出時刻です。昨年よりも水平線上の雲が低く、いい感じです。

家から持って行った紙屑を焚き付けに、流木を拾い集めて焚き火。他の方々にありがたがられました。

昨年もそうでしたが、お供は愛犬。14歳になった柴犬系雑種です。自宅兼事務所から片道1時間ほどのドライブ。後部座席でおとなしくしていました。

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社交的なわんこが寄ってきます(笑)。うちのはビビリです(笑)。

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サーファーの皆さんが、初波乗り。

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さて、雲の上に、太陽。

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84年前(ちなみに戌年)、光太郎智恵子も逍遙した同じ浜で見る初日の出は、やはり格別です。今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

しばらく見ていたかったのですが、しばらく見ていると、周辺の道路で大渋滞が起こりますので、すぐに撤収。ここに初日の出を見に来たのは3回目で、ルートなども学習しました。すんなりと抜け出せました。

自宅兼事務所に帰り着き、すぐに近所の公園へ(愛犬、自宅兼事務所敷地内では排泄をしませんので)。そのまま裏山の神社へ初詣。神職もいない小さな神社ですが、裏山一帯が戦国時代の山城跡で、その頃からこの社もあったようです。一度、境内で永楽銭を見つけました。ここでも今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

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自宅兼事務所では、愛猫が鏡餅にいたずらしていました(笑)。

その後はおせちを食べ、届いた年賀状やメール等をチェック。

その中で、今年は光太郎の先輩・与謝野晶子の生誕140年ということを知りました。その流れで、晶子と光太郎的な部分で、どさくさにまぎれて(笑)光太郎にもスポットが当たって欲しいものだと思いました。

ついでに云うなら、今年は九十九里で療養した5年後(昭和13年=1938)に歿した智恵子の歿後80年でもあります。その辺りでの盛り上がりも期待したいところです。



折々のことば・光太郎】

一切の偶然の効果を棄てよ。タツチに惑はさるる勿れ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

彫刻に於いては、思いがけず現出した効果に頼ってはいけない、徹頭徹尾計算ずくでやるべし、ということでしょうか。

というわけで、新しい年がやって参りました。

本年もよろしくお願いいたしします。


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上記は今年の年賀状。画像は光太郎の父・光雲が若い頃(光太郎生誕以前)に造った習作です。横浜へ行った際に見た洋犬の珍しさ、美しさに打たれ、帰ってから記憶の消えないうちにと、急いで彫ったそうです。習作とはいえ、生き生きとした表情が見事です。

息子の光太郎は、観音像などの光雲作品はあまり高く評価しませんでしたが、この習作は最晩年まで手元に置いていました。そういえば、光太郎の「鯰」や「白文鳥」などの木彫にも通じるところがあるようにも見えますね。


【折々のことば・光太郎】

まるごとにつかめ。或瞬間を捉へ、或表情を捉へ、或側面を捉ふるは彫刻の事にあらず。
散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

昨年一年間は、【折々のことば・光太郎】ということで、『高村光太郎全集』を第1巻からひもとき、独断と偏見で、これはと思う光太郎の言葉をご紹介して参りました(時折サボりましたが)。現在、第4巻の終わり頃です。今年も継続して参ります。

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