2017年12月

今年も残すところ、今日一日となりました。

昨日までのこのブログで、今年一年をふり返る「回顧2017年」を4回にわたって書きました。改めてふり返ってみると、実にさまざまな場面で、さまざまな皆さんが、光太郎、智恵子、光雲に関わるさまざまな企画をなさって下さっていたことがわかり、ありがたく存じます。

光太郎、智恵子、光雲の名が忘れ去られてしまうと、なかなかこうは行きません。美術や文学などの一部の専門家の間では、その名が忘れ去られることもないのでしょうが、一般の皆さんが、「高村光太郎といえば○○」、「智恵子って、こんな人」、「○○といえば、高村光雲」といったことがすぐ思い浮かぶように、広く愛されて欲しいものです。


「回顧2017年」を書いている最中にも、地方紙『紀伊民報』さんが、社説「水鉄砲」欄で光太郎、光雲の名を出して下さいました。

水鉄砲 2017/12/26 「製造業の信頼」

 詩人、高村光太郎の父、高村光雲が『幕末維新懐古談』(岩波文庫)で、江戸初期から大いに栄えた京都の仏師が衰退した理由について、次のように語っている。
  ▼「拙速を尚(とうと)んで間に合わせをして、代金を唯一の目的とする……すなわちあまりに商品的に彫刻物を取り扱い過ぎるところの悪習ともいえましょう」。12歳で彫刻師に入門。ひたすら修業を続け、近代木彫の祖と呼ばれた名人の指摘は、そのまま現代日本のものづくりの現場にも当てはまりそうだ。
  ▼今年は日本を代表する製造業で不正が相次いだ。神戸製鋼は品質データを改ざん、日産自動車では無資格者が完成車を検査していたことが発覚した。スバルでも同様の事態が続いていた可能性がある。三菱マテリアル、東レ、東洋ゴムなどでも製造工程での不正が明るみに出ている。
  ▼さらに、先日は新幹線の台車に14センチの亀裂が入った状態でJR西日本と東海が新幹線を運行。国土交通省が新幹線では初めての重大インシデントに認定する事態になった。
  ▼戦後の日本を支えてきた「安全第一」が音を立てて崩れている。「拙速を尚び、間に合わせをして、代金を唯一の目的とする」、つまりコスト削減と生産性向上に日夜励んできた結果だろう。合理化を最優先し、熟練の技術者たちを大切にしなかったツケが回ってきたともいえよう。
  ▼目先の利益よりも、信頼を最優先に。日本の再生はそこから始まる。 (石)


文化活動にも同じことが言えましょう。「拙速を尚び、間に合わせをして、代金を唯一の目的とする」ことは避け、腰を据えてやっていきたいと存じます。


それからご報告。

今年一年、関係の皆様などからいただいた郵便物に貼られていた切手、今年も公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付いたしました。同会サイトに寄付団体として名前を載せていただいております。

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それから、このブログの閲覧数に応じ、ほぼ毎日、YahooさんからTポイントが加算されています。貯まったポイント、今年は九州豪雨被災者支援に寄付いたしました。閲覧して下さる方が少ないとできませんので、来年以降もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

肉合(にくあひ)に潜む彫刻の深さ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

「肉合」とは、塑像であればどれだけ粘土を盛るか、木彫であればどれだけ木材を削り落とすか、そういったバランスの感覚です。彫刻にとどまらず、人生万事にあてはまりますね。

上記光雲の「拙速を尚び、間に合わせをして、代金を唯一の目的とする」なかれ、同様、こうしたバランス感覚を持って臨むべし、と、肝に銘じたいと存じます。

この項、最終回です。

10月1日(日)
智恵子の故郷・福島二本松のラポートあだちさんにおいて、智恵子を偲ぶ第23回レモン忌が開催されました。記念講演は福島県立美術館さんの学芸員をなさっている堀宜雄氏で、題して「智恵子の横貌―『青鞜』表紙絵のナゾ―」でした。

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同日、mille booksさんから庄野雄治氏編『コーヒーと随筆』が発行されました。古今の「コーヒーを飲みながら読んで欲しい随筆」を集めたアンソロジーで、光雲の「佐竹の原へ大仏を拵えたはなし」、「大仏の末路のあわれなはなし」、光太郎の「人の首」を含みます。

10月3日(火)
NHK文化センター仙台教室さんにおいて、宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏による市民講座「東北ゆかりの作家たち」が始まりました。光太郎、太宰、啄木、斎藤茂吉らに触れられ、12月9日(土)まで全6回の開催でした。

10月5日(木)
福島二本松の智恵子生家を会場に、「智恵子・レモン忌 あいのうた」が開催されました。朗読・一色采子さん、電子ピアノ・渕上千里さん、モダンダンス・二瓶野枝さんでした。

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10月9日(月・祝)
二本松市コンサートホールさんにおいて、「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」公演があり、「連作歌曲 智恵子抄」を森山孝光・康子ご夫妻、新作初演「樹下の二人」を星由佳子さん、倉本洋子さんが演奏なさいました。

10月9日(月・祝) 11月9日(木) 12月17日(日)
二本松市の市民交流センターさん、男女共生センターさんを会場に、「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座2017」が開催されました。今年の講座は、昨年亡くなられた二本松の児童文学者・故金田和枝さんの著書(智恵子と光太郎)を熟読するというものでした。

10月12日(木)
愛知県豊川市ジオスペース館さんにおいて定期的に開催されている「市民名画劇場」で、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(原節子・山村聰主演)が上映されました。

10/16(月)
NHK文化センターいわき教室さんにおいて、いわき賢治の会会長/賢治学会会員・小野浩氏による市民講座「宮澤賢治の世界 交友編」が始まりました。光太郎、賢治、草野心平、黄瀛らに触れられ、12月11日(月)まで全3回の開催でした。

10月17日(火)
船橋市市民文化創造館(きららホール)さんにおいて、朗読イベント「「満天星」ライブ第6回」が開催され、「智恵子抄」が取り上げられました。

10月21日(土)001
十和田市立東公民館さんにおいて、三本木小地区安全・安心協働活動協議会講演会「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」が開催されました。当方が講師を務めさせていただきました。

10月21日(土)~28日(土)
杉並区のアートスペース煌翔さんを会場に、写真展「高橋昌嗣展 文士の逸品 物から物語へ。」が開催され、光太郎愛用の長靴の写真が展示されました。

10月24日(火)~29日(金)
仙台市青葉区の晩翠画廊さんにおいて、「伊藤康子書展」が開催され、盛岡ご在住の書家の伊藤康子さん、画家の古山拓氏、お二人のコラボで光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に取り組まれました。

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10月25日(水)
江東区の深川江戸資料館さんにおいて、朗読イベント「第4回 JILA朗読コンクール入賞・入選記念 朗読の祭典」が開催され、「智恵子抄」が取り上げられました。

同日、不二出版さんから、光太郎も寄稿した昭和戦前の雑誌『冬柏』復刻版全26巻・別冊1の刊行が始まりました。

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10月27日(金)
十和田市民文化センターさんにおいて、「奥入瀬渓流エコツーリズム市民のつどい」が開催され、地元の女性合唱団・コールアゼリアさんによる「湖畔の乙女」(作詞・佐藤春夫、作曲・長谷川芳美)、「出逢いを求めて―十和田湖へ―」(作詞・木下龍太郎、作曲・伊藤薫)が演奏されました。

10月28日(土)
福井市立美術館さんで開催されていた「没後30年記念 高田博厚展 対話から生まれる美」の関連行事として、光太郎と妻智恵子、高田の人間模様を描いた新朗読劇『道程-高村光太郎・智恵子・高田博厚-』が上演されました。

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同日、横浜美術館さんレクチャーホールで、「テルミンと語りで紡ぐ愛の物語り 智恵子抄」公演がありました。ご出演は、ぷらイム(テルミン 大西ようこさん/ギター・歌・その他 三谷郁夫さん)、水沢有美さん(朗読)でした。

10月28日(土)~11月26日(日)
台東区の東京藝術大学美術館さんにおいて、「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」展が開催されました。皇室に献上された、光雲、豊周作品が複数展示されました。

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10月29日(日)
BS朝日さんで、「暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)」がオンエアされ「湖畔の乙女」が取り上げられました。

10月31日(火)
ドイツフランクフルトのCaffe Martellaさんにて、「秋の宵の朗読会~日本の詩15篇」が開催され、光太郎詩も取り上げられました。

11月1日~29日(水)
この間の水・土に、文京区の旧安田楠雄邸さんで、「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催されました。

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11月2日(木)
NHKBSプレミアムさんで「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン~」が放映され、光太郎にも触れられました。11月8日(水)に再放送もありました。出演は日本大学芸術学部・髙橋幸次教授他でした。


11月3日(金)
二本松市市民交流センターさんにおいて、「秋の星空講座 月を見上げて in ほんとの空」が開催されました。

11月3日(金)~12月3日(日)
京都市の知恩院さんで、「知恩院 秋の紅葉ライトアップ2017」が行われ、同寺補陀落池に立つ光雲原型の聖観音菩薩立像もライトアップされました。

11月3日(金・祝)~12月24日(日)
栃木県足利市立美術館さんにおいて、「涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展」が開催され、光太郎ブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されました。

11月4日(土)
世田谷区の上用賀アートホールさんで、日本舞踊系の「真理パフェFourth」という公演があり、「あどけない話」、「人に」、「千鳥と遊ぶ智恵子」の朗読がプログラムに入っていました。

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11月7日(火)
千代田区紀尾井ホールさんにおいて、「朝香麻美子 箏・三弦リサイタル ~女性のあり方をよむ~」公演があり、箏曲「樹下の二人(小山清茂 作曲)」が演奏されました。

同日、目黒区の天恩山五百羅漢寺さんで、「第1回らかん仏教文化講座 五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」が開催され、光雲に触れられました。講師は同寺執事/学芸員・堀研心氏でした。

11月8日(水)~12日(日)
杉並区の荻窪小劇場さんで、劇団Dangerous Boxさんによる「実験公演 門ノ月~Aida~/智恵子抄」の公演がありました。

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同じ日程で、豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエアを会場に、「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」が開催され、昭和17年(1942)の詩「みなもとに帰るもの」の一節を揮毫した光太郎の書も展示されました。

11月10日(金)
三省堂書店さんから、三浦和尚氏著『高校国語科授業の実践的提案』が刊行されました。「高村光太郎「レモン哀歌」の指導 -詩の「楽しみ方」を求めて-」を含みます。

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11月12日(日)
NHK Eテレさんで「日曜美術館 皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」の放映があり、光雲作品「鹿置物」「養蚕天女」も取り上げられました。再放送は11月19日でした。

同日、中央区の浜離宮朝日ホールさんにおいて、「東京男声合唱フェスティバル」が開催され、会津高校OB合唱団さん(31名)が、清水脩作曲の「梅酒 -智恵子抄より-」を演奏して下さいました。

11月13日(月)
『福島民友』さんで、「智恵子のまち夢くらぶ」が二本松市の智恵子の生家近くに智恵子ゆかりの地などを案内する「智恵子のまちガイドボード」を設置したことを報じました。

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11月15日(水)~21日(火)
中央区の松屋銀座さん7階遊びのギャラリーにおいて、「篠原貴之水墨絵画展-水墨の新境地-」が開催され、「レモン哀歌」という作品も出品されました。

11月17日(金)
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『高知新聞』さんの一面コラム「小社会」で、ロダン没後100年にからめ、光太郎に触れて下さいました。

11月18日(土)
文京区のアカデミー向丘さんで、第62回高村光太郎研究会が開催されました。発表は「吉本隆明「高村光太郎」再訪」(赤崎学氏)、「詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置」(岡田年正氏)でした。

11月23日(木・祝)
奈良県立美術館さんで、「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展が始まりました。2018年1月14日(日)までの会期です。光雲木彫「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点が並んでいます。   

11月25日(土)
目黒区の日本近代文学館さんで、朗読イベント「リーディングライブ2017」が開催され、「智恵子抄」詩篇も取り上げられました。

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11月26日(日)
千代田区の日比谷コンベンションホールさんで、「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」が開催され、第一部で歌人の松平盟子氏のご講演「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」、第二部のシンポジウム「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」、それぞれで光太郎に触れて下さいました。

11月29日(水)
フロンティアワークスさんから「文豪とアルケミスト 朗読CD第二弾 高村光太郎」が発売されました。光太郎詩14篇を、声優の森田成一さんが朗読なさっています。

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12月1日(金)
雑誌『中央公論』さんの12月号。公益財団法人川端康成記念会理事の水原園博氏ご執筆の、川端が生前に集めた美術品コレクションを紹介する連載「川端康成の眼」で、今年の1月に発見が報じられ、7月から8月にかけ、岩手県立美術館さんで開催された、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品された扇面揮毫を紹介してくださいました。題して「高村光太郎とほろびぬ美」。

同日、花巻市さん発行の『広報はなまき』12月号。「花巻歴史探訪(郷土ゆかりの文化財編)」という連載で光太郎の彫刻「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が紹介されました。

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さらに同日、バリトン歌手・新井俊稀氏のCD「日本の抒情歌 
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赤い花 白い花」が新井音楽事務所シューベルティアーデ倶楽部から発売されました。野村朗氏作曲「連作歌曲 智恵子抄」を含みます。

12月2日(土)
鎌倉市の光太郎と交流のあった故・高田博厚のアトリエが閉鎖、遺族や知人ら関係者によるお別れの会が開かれ、遺品が、埼玉県東松山市に寄贈されることになりました。光太郎、高田双方と交流のあった、同市元教育長の故・田口弘氏の御遺徳によるものです。

同日、信州安曇野の碌山美術館さんで、「美術講座  ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」が開催されました。同館学芸員・武井敏氏と当方による対談形式でした。


12月3日(日)
BSフジさんでオンエアされた『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』で、光太郎智恵子に触れて下さいました。
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12月6日(水)

新宿区の音楽の友ホールさんにおいて、「日本歌曲に求める無限の楽しみ 第27回 似たもの同志・名曲探訪18 愛」が開催され、清水脩作曲「智恵子抄」から抜粋で演奏がなされました。

12月7日(木)
『宮崎日日新聞』さんが、一面コラム「くろしお」で、中東問題に絡め光太郎詩「冬の朝のめざめ」を引いて下さいました。

12月9日(土)
目黒区の天恩山五百羅漢寺さんで、「第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」」が開催され、光雲、光太郎に触れられました。講師は小平市平櫛田中彫刻美術館さん学芸員・藤井明氏でした。


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12月9日(土) ~2018年2月25日(日)
平塚市美術館さんで「所蔵作品による”なんだろう”展+新収蔵品」が開催されています。大正3年(1914)に描かれた光太郎の静物画が展示されています。

12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
花巻市高村光太郎記念館さんで、「平成29年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として「高村光太郎 書の世界」が開催されています。初公開のものを含め、11点の書が展示されています。

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12月15日(金)
テレビ朝日さんの「気づきの扉」で、詩人の松浦弥太郎氏の光太郎詩「最低にして最高の道」にまつわるエピソードが紹介されました。

12月16日(土)
小学館さんから、カトちゃんの花嫁さん著『歯のマンガ』が刊行されました。「智恵子抄」を含みます。詳しくは年明けにご紹介します。

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 12月27日(水)
 兵庫県西宮市甲東ホールさんにおいて、「新井俊稀 クラシカル・サロン・コンサート」が開催され、野村朗氏作曲「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。

12月30日(土)
河出書房新社さんから、『温泉天国 ごきげん文藝』が発行されました。古今の32篇の温泉にまつわるアンソロジーで、光太郎の「花巻温泉」を含みます。

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いろいろあった一年でした。来年もそうであってほしいものです。


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【折々のことば・光太郎】

姿勢は河の如く、動勢は水の流れの如く。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926)
 光太郎44歳


同じ文章で、「姿勢」は「ポオズ」とルビが振ってあります。

詩などの言葉の芸術では表現し得ないものを、彫刻に於けるポーズで、無言のまま表現すべし、との言です。

右は、光太郎直筆の揮毫。この句を書いています。

7月1日(土)~8月20日(日)
盛岡市の岩手県立美術館さんにおいて、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」が開催されました。1月に発見が報じられた、光太郎の扇面揮毫も出品されました。


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まったく同じ日程で、花巻市博物館さんの企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」が開催されました。光太郎が多田等観に贈ったうちわ、書簡、『高村光太郎詩集』が展示されました。

7月1日(土)~9月3日(日)
信州安曇野の碌山美術館さんで、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催されました。
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7月1日(土)~9月24日(日)
文京区の弥生美術館さんで、「命短し恋せよ乙女 ~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~」展が開催されました。『青鞜』にからめ、智恵子にも触れられました。

7月2日(日)
横浜市の横濱エアジンさんで、「~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて」公演がありました。出演は、荒野愛子さん(Piano, Composition)鴻野暁司さん(Bass)、吉島智仁さん(Drums)でした。

7月3日(月)
花巻高村光太郎記念会さんから、光太郎の従妹・加藤照さんの子息の加藤千晴氏著『光太郎と女神たち』が刊行されました。


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7月7日(金)
文芸同人誌『虹』第8号が発行されました。詩人の豊岡史郎氏による「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」、「パリの思い出」が掲載されています。

7月7日(金)、8日(土)
古書業界最大の市(いち)である「七夕古書大入札会」の一般下見展観が、神田の東京古書会館さんで行われました。光太郎の書、書簡等も複数出品されました。


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7月9日(日)
ミネルヴァ書房さんから、『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』が発売されました。「ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎」等の部分で、光太郎に触れて下さっています。

7月11日(火)~31(月)
西武百貨店渋谷店さんにおいて、「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」が開催され、光太郎詩「狂者の詩」が取り上げられました。

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7月11日(火)~8月6日(日)
東京藝術大学大学美術館さんで、企画展「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」が開催されました。光太郎作品で、同校卒業制作の「獅子吼」(明治35年=1902)の石膏原型、ブロンズ鋳造が並んで展示されました。また、同校教授だった光太郎の父・光雲に関するアーカイブ的展示もなされ、いずれもガラス乾板の「楠木正成像制作のための木型」、「高村光雲《松方正義像》制作のために撮影された本人の写真 」も出品されました。


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7月15日(土)
文治堂書店さんからPR誌『トンボ』の第4号が発行されました。当方の連載「連翹忌通信」が始まりました。

7月15日(土)・16日(日)
青森県十和田湖で毎年恒例の「十和田湖湖水まつり」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。


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7月19日(水)~9月30日(土)
竹橋の東京国立近代美術館さんで、「MOMATサマーフェス」が開催されました。光太郎のブロンズ「手」が出品された「所蔵作品展 MOMATコレクション」と連動し、参加型プログラムの対話による所蔵品ガイドが毎日実施された他、毎週金曜の「フライデー・ナイトトーク」や、夏休みにあわせた子ども向けプログラムも実施されたり、金曜・土曜はナイトミュージアムで夜9時まで開館したり、さらに前庭にはガーデンビアバーが出現したりしました。

7月20日(木)
講談社現代新書の一冊として『飛行機の戦争1914-1945 総力体制への道』が刊行されました。一ノ瀬俊也氏著。光太郎の「黒潮は何が好き」(昭和19年=1944)という詩を引用し、太平洋戦争下の民間による航空機、艦艇の献納運動を検証しています。

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7月21日(金)
『週刊朝日』さんの2017/7/21号に、当会会友渡辺えりさんによる「人生の晩餐 高村光太郎と智恵子がデートで食べたハイカラな味」が掲載されました。連翹忌会場の日比谷松本楼さんに関してでした。


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7月29日(土)
花巻高村光太郎記念館さん、高村山荘裏手の智恵子展望台において、「夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」」が開催されました。講師は天文サークル星の喫茶室の伊藤修氏・根本善照氏、それから当方が務めました。

7月29日(土)~11月23日(木)
中野区立中央図書館さんの常設展示「日本の文豪 第7回」で、光太郎、志賀直哉、北原白秋が取り上げられました。


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7月30日(日)
埼玉県越谷市のポルコポルコさんで、朗読イベント「ポルコポルコのブックブックアワー~本を味わい尽くす極上の一日」が行われ、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられました。語りは和久田み晴さん、フルートで宇高杏那さんのご出演でした。

8月1日(火)
土曜美術出版さんから月刊誌『詩と思想』8月号が発行されました。拙稿「高村光太郎を偲ぶ「連翹忌」」が掲載されました。

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同日、清流出版さんから『月刊清流』9月号が発行されました。「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。

8月1日(火)~31日(木)
日本航空さんが地域プロモーション活動「地域紹介シリーズ」の一環として福島県を取り上げ、機内ビデオでは「ほんとの空」の安達太良山が放映されました。

8月3日(木)
『朝日新聞』さんの夕刊に「(言葉の服)日本人のおしゃれ:下 智恵子の素(しろ)」という記事が載りました。ご執筆はファッションデザイナー・堀畑裕之氏でした。

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8月4日(金)
東京毎日オークションハウスにおいて、「第546回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」が開催され、光雲作の「舞翁」が出品されました。

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8月8日(火)
青森市ご在住の彫刻家で、生前の光太郎を御存知の田村進氏が、自作の光太郎ブロンズ胸像「光太郎山居(さんきょ)」を十和田市に寄贈なさいました。来春から、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にて公開されるそうです。

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8月9日(水)
宮城県女川町のまちなか交流館ホールにおいて、第26回女川光太郎祭が開催されました。光太郎詩文の朗読、アトラクション演奏、当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑤―」などが行われました。

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同日、青森県さん制作の青森県PRムービー「ディス(り002)カバリー青森」第2弾がインターネット上で公開されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も登場します。

8月12日(土)
京都芸術センターさんにおいて、「京の文化絵巻2017 ~文学吟詠舞劇と邦楽の飛翔~」が開催されました。文学吟詠舞劇 「智恵子抄 断章―千鳥と遊ぶ智恵子―」が演目に入っていました。

8月15日(火)
終戦の日にからめ、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で光太郎に触れて下さいました。

8月19日(土)
『毎日新聞』さんの大阪夕刊に、「舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も」という記事が出、大正2年(1913)の光太郎智恵子上高地行が紹介されました。

8月19日(土)・20日(日)
花巻市内で「第20回いわて花巻イーハトーブの里ツーデーマーチ(イーハトーブフォーラム実行委主催)」が開催されました。「光太郎と賢治出会いのコース」(30㎞)も設定されました。

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8月23日(水)
エイ出版さんから女性向け登山雑誌『ランドネ』10月号が発売されました。「山岳お遍路さん 神様百名山を旅する」という連載があり、智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山が、「智恵子抄」にからめて紹介されています。

8月25日(金)~27日(日)
大阪市立芸術創造館さんで、evkk(エレベーター企画)さんによる演劇「売り言葉」が上演されました。「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、大竹しのぶさん出演で初めて上演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。

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8月26日(土)
花巻高村光太郎記念館で、旧記念館の建物を「森のギャラリー」としてリニューアル、市民講座等での活用ができるようになりました。

8月26日(土)~11月5日(日)
富山県美術館さんで、「富山県美術館開館記念展 Part 1 生命と美の物語 LIFE - 楽園をもとめて」が開催され、光太郎木彫「蝉」(大正13年=1924)が出品されました。

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8月27日(日)
コールサック社さんから、佐藤竜一氏著『宮沢賢治 出会いの宇宙――賢治が出会い、心を通わせた16人――』が出版され、光太郎も取り上げられました。





8月30日(水)
江東区公会堂ティアラこうとうさんで、「響きあう詩と朗読」公演があり、宮尾壽里子さんによる光太郎「母をおもふ」、清水けいこさんによる「『智恵子抄』より」が上演されました。

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同日、角川書店さんから青少年向け、いわゆるライトノベル系のファミ通文庫の一冊として『詩葉さんは別(ワカレ)ノ詩を詠みはじめる』が刊行されました。樫田レオ氏著。光太郎の「郊外の人に」(大正元年=1912)が重要なモチーフとして扱われています。

9月1日(金)
北海道小樽市に似鳥美術館さんがオープンしました。光雲とその弟子達の木彫が多数展示されています。

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9月2日(土)
NHK総合さんで「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」がオンエアされ、「乙女の像」も映りました。再放送は9月6日(水)でした。

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9月6日(水)
2月8日に亡くなった俳優の土屋嘉男さんの訃報が出ました。原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)にも出演なさっていました。光太郎の若い友人である詩人の「小山」という役で、モデルは尾崎喜八と草野心平でした。

9月9日(土)~11月23日(木)
福島県二本松市内各所を会場に、「重陽の芸術祭2017」が開催されました。智恵子生家の旧長沼酒造も会場となっており、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションの展示が行われていました。

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9月12日(火)~12月24日(日)
山梨県北杜市の清春白樺美術館さんで、「白樺派の情熱展 志賀直哉コレクションを中心として」が始まりました。光太郎の「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、さらに画商の後藤真太郎にあてた長い書簡(昭和6年=1931)が展示されました。

9月13日(水)
神奈川県立近大美術館館長・水沢勉氏が、御自身のフェイスブックにて、明治44年(1911)に、智恵子が描いた雑誌『青鞜』の有名な表紙絵に元画が存在することを発表されました。元になった作品は、ヨーゼフ・エンゲルハルトというオーストリアの画家が、明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作した寄木細工「Merlinsage」でした。

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9月15日(金)~17日(日)
横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんの例大祭(お三の宮 秋まつり)が開催され、修復を終えた高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」が2年ぶりに出ました。

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9月16日(土)・17日(日)
サンライズもとみや(福島県本宮市)において、「第5回カナリヤ映画祭」が開催されました。「智恵子抄」に触れる昭和40(1965)年に自主制作された映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演)が上映されました。

 9月16日(土)・9月30日(土)・10月22日(日)
 福島県鮫川村のあぶくまエヌエスネットフィールドさんで、自然体験学習「ふくしま ほんとの空プログラム」が開催されました。

9月15日(金)~11月27日(月)
花巻高村光太郎記念館さんで、「秋季企画展  智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」が開催されました。同館所蔵の智恵子の紙絵実物2点、複製の紙絵などが展示されました。

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9月16日(土)~12月3日(日)
日本橋の三井記念美術館さんで「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」展が開催されました。光雲の木彫「布袋」が展示されました。

9月23日(土)~11月12日(日)
青森県八戸市の八戸クリニック街かどミュージアムさんで、「5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで」が開催され、光太郎ブロンズ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために習作として作った手を鋳造したもの、それから同じく「乙女の像」の中型試作の首の部分が展示されました。

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9月24日(日)
千葉県市原市のサンプラザ市原を会場に、「ひだまりコンサートVol2 朗読と歌 ことばをつむいで伝える大切な思い」が開催され、「智恵子抄」が朗読されました。

9月27日(水)
福島県南相馬市小高区の小高生涯学習センターにおいて、国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―東日本大震災から7年目を迎えた浜通り地方の今後を考える―」が開催されました。

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9月28日(木)
テレビ朝日さんで、「あなたの駅前物語 【二本松駅前/福島県】提灯祭りの駅前」が放映され、「智恵子抄」にからめて安達太良山、阿武隈川が紹介されました。

9月30日(土)~11月12日(日)007
愛知県豊橋市美術博物館さんで「ニッポンの写実 そっくりの魔力」が開催され、光雲木彫「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点も並びました。   


というわけで、今回は7、8、9月をふり返りました。

書いている途中で、「一つの記事に掲載できる画像は50枚までです」というエラーメッセージが出てしまい、複数枚の画像を使おうとしたイベントから削除しました。それだけたくさん紹介すべき事項があったということですね。ありがたいことです。

明日はこのコーナー最終回、10、11、12月のご紹介です。


【折々のことば・光太郎】.

構造を思へ、構造無きところに存在無し。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

人体にも、樹木にも、優れた建築にも、きちんとした構造が在ると光太郎は説きます。そういったことを意識するとしないとでは、やはり世界の見え方が違ってくるのでしょう。

今年一年の回顧、2回目です。4~6月を書きます。

4月1日(土)
北海道釧路で刊行されている文芸同人誌『河太郎(かたろう)』の43号が発行されました。光太郎に触れる横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』『 北緯五十度 』『 大熊座 』」が掲載されています。

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4月2日(日)
日比谷松本楼さんにおきまして、
第61回連翹忌を執り行いました。全国からゆかりの方々など、70余名のご参加をいただき、盛会となりました。

同日、光太郎第二の故郷ともういうべき花巻では、詩碑前祭、花巻連翹忌法要が行われました。

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同日、高村光太郎研究会さんより『高村光太郎研究 (38)』、当会から『光太郎資料 47』が刊行されました。

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4月5日(水)
光太郎に触れた御著書等もあった詩人の大岡信氏が亡くなりました

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4月6日(木)
江東区公会堂ティアラこうとうさんで、「第5回 春うららの朗読会」が開催され、宮尾壽里子さん作の「智恵子さん」を、宮尾さん、小川弘子さん、藤田治子さんが上演なさいました。

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4月8日(土)
NHK BS1さんで「実践! にっぽん百名山 「安達太良山」」が放映され、光太郎智恵子に触れられました。4月18日(火)、7月29日(土)に再放送がありました。

4月8日(土)~5月7日(日)
福島県二本松市の智恵子生家で、通常は立ち入り禁止となっている智恵子の居室を含む二階部分の期間限定公開が行われました。30日(日)までは、生家裏手の智恵子記念館で、紙絵の実物展示も行われました。

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4月10日(月)
花巻市の高村山荘裏手の高台の「智恵子展望台」がリニューアル整備されました。

4月11日(火)
盛岡市の盛岡地区更生保護女性の会さんの総会が開催され、その中で当方の講演「心はいつでもあたらしく 高村光太郎 つまずきと反省と求道と」を組み込んで下さいました。

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4月14日(金)~6月26日(月)
花巻市の高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催されました。

4月15日(土)〜6月18日(日)
福島県いわき市の草野心平記念文学館さんで「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開催され、光太郎智恵子の通った焼き鳥「いわき」,、居酒屋「火の車」に関する展示も為されました。

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4月17日(月)
文京シビックホール小ホールで、「新井俊稀クラシカルサロンコンサートVol.14」が開催され、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。

4月20日(木)
隔月刊誌の『花巻まち散歩マガジン「Machicoco(マチココ)」』が創刊されました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で「光太郎のレシピ」が連載されています。

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4月22日(土)
信州安曇野の碌山美術館さんで、「第107回碌山忌」が開催されました。研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」。同館学芸員の濱田卓二氏が、文献から推定される、守衛のロダン訪問の時期、内容等について。碌山友の会会長を務められている幅谷啓子氏から、近代日本でのロダン受容史について。最後は、地元ご出身の彫刻家・酒井良氏が、実作者の立場から。それぞれ、光太郎にも触れる発表をしていただき、興味深く拝聴しました。

4月22日(土)・5月27日(土)・6月24日(土)
秋田県生涯学習センターさんで「【あきたスマートカレッジ】文学リレー講座~戦中・戦後の文学~高村光太郎」が、北条常久氏を講師に行われました。第一回が「青年光太郎『道程』 ~彫刻家父光雲と詩人光太郎~」、第二回は「光太郎と智恵子『智恵子抄』 ~智恵子の愛に清められ~」、第三回に「戦中・戦後の光太郎『暗愚小伝』 ~花巻高村山荘での生活~」でした。

4月23日(日)
コールサック社さんから森三紗さん著『宮沢賢治と森荘已池の絆』が刊行されました。「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池」という章を含みます。

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4月27日(木)
求龍堂さんから酒井忠康氏著『片隅の美術と文学の話』が刊行されました。「高村光太郎―パリで秘密にしたもの」「高村光太郎の留学体験」を含みます。

5月1日(月)
日本絵手紙協会さん発行の雑誌『月刊絵手紙』の5月号が発行されました。「すべては「詩魂」ありてこそ 高村光太郎の書」という特集を組んで下さいました。

同日、日本聖書協会さんから『聖書を読んだ30人 ~夏目漱石から山本五十六まで~』が刊行されました。「高村光太郎と聖書 美のうしろにあるものを表現しようとした詩人・彫刻家」を含みます。

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5月3日(水)
墨田区のすみだトリフォニーホール大ホールにおいて、「やまとうたの血脈(けちみゃく)Ⅷ 抒情は詩人の武器であったか?~大正、昭和前期の詩による合唱曲展」が開催され、光太郎作詞、佐藤敏直作曲「猛獣篇」より「傷をなめる獅子」「苛察」が演奏されました。指揮・藤井宏樹氏、合唱・Ensemble PVDさん、ピアノ・浅井道子さんでした。

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5月5日(金・祝)
二本松市の智恵子純愛通り記念碑前(智恵子の生家近く)集合・出発で、「好きです智恵子青空ウオーク」が開催されました。

5月7日(日)
千葉県松戸市の森のホール21さんで、東葛合唱団はるかぜさんの第13回演奏会が開催され、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)が演奏されました。

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5月10日(水) 〜16日(火)
杉並区のラピュタ阿佐ケ谷で、「芳醇:東宝文芸映画へのいざない」が開催され、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(原節子、山村聡主演)が上映されました。

5月11日(木)
NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」で、光太郎詩「人に」を取り上げて下さいました。再放送は5月25日(木)でした。

5月13日(土)~28日(日)
この期間の土、日に、二本松市の智恵子生家奥座敷において、「高村智恵子 生誕祭 上川崎和紙で作ろう切り絵体験」が行われました。

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5月13日(土)
京都コンサートホールさんにおいて、「鈴木憲夫の世界2~女声合唱の響宴」公演があり、光太郎作詞、鈴木憲夫氏作曲の「レモン哀歌」が演奏されました。

5月14日(日)
東京都調布市の文化会館たづくりさんで、「第121回 午後のティーサロン ~「映画の中の日本文学」(戦前昭和の文学)~ ~音楽&映画への語らい~」が開催され、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(原節子、山村聡主演)が上映されました。

同日、神奈川県相模原市の相模女子大学さんでオープンキャンパスが開かれ、日本語日本文学科では【高村光太郎『レモン哀歌』を読み解く】の模擬授業が為されました。

5月15日(月)
花巻市の高村山荘前広場で、「第60回高村祭」が開催されました。記念講演は藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長) 演題 『思い出の光太郎先生』でした。

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5月16日(火)
光太郎に関わる数々の書籍を刊行して下さった、文治堂書店元社長の渡辺文治氏が亡くなりました

5月17日(水)、21日(日)、27日(土)
福岡市映像図書館ホールシネラさんで、「特別企画 中村登監督特集 60年代松竹映画を代表する監督・中村登の特集」が行われ、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻、丹波哲郎主演)が上映されました。

5月21日(日)
神奈川県相模原市の津久井湖城山公園で、「森のコンサート マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」公演がありました。マリンバ・松本律子さん、朗読・中村雅子さんでした。

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5月27日(土)
愛知県豊橋市の豊橋市民文化会館ホールにおいて、第5回コーロ・フェリーチェ演奏会が開催され、光太郎作詞、鈴木憲夫氏作曲の「レモン哀歌」が演奏されました。

5月31日(水)
第36回新田次郎文学賞(新田次郎記念会主催)の授賞式があり、光太郎や光雲が登場する小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られました。

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6月1日(木)
日本絵手紙協会さん発001行の雑誌『月刊絵手紙』の6月号が発行されました。この号から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

同日、『毎日新聞』さんの静岡版に静岡県袋井市の寺院「可睡斎(かすいさい)」さんの境内に再建された「活人剣の碑」の由来を伝える紙芝居の完成が報じられました。同碑は明治33年(1900)、光雲原型によって建立されたものでした。

6月10日(土)
筑摩書房さんから、ちくま文庫の一冊として和田博文氏編『猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる』が刊行されました。光太郎詩「猫」を収めています。

6月10日~8月20日(日)
北海道立函館美術館さんで、「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展が開催され、光雲木彫、「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点も並びました。

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6月11日(日)~6月20日(火)
袋井市さんの市役所2階・市民ギャラリーで、「YUKIKO」さんによる、可睡斎(かすいさい)さんの活人剣碑の紙芝居原画展が開催されました。

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6月12日(月)
文芸教育研究協議会会長・西郷竹彦氏が亡くなりました。黎明書房さんから平成5年(1993)刊行の『名詩の美学』他で、光太郎に触れて下さっていました。

6月17日(土)
山梨県韮崎市の韮崎市市民交流センターNICORI ニコリにおいて、「大人の為の朗読会・朗読のつどい」が開催され、「智恵子抄」も取り上げられました。

6月21日(水)
千代田区の学士会館さんで「現代歌人協会公開講座「高村光太郎の短歌」」が開催されました。メインパネリストは歌人の松平盟子さん、染野太朗さんでした。

6月22日(木)
昭和24年(1949)刊行の「宮沢賢治名作選」の編集に関わり、光太郎とも交流のあった吉田コトさんが亡くなりました

6月24日(土)
仙台市のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんで、「朗読とテルミンで綴る 智恵子抄」公演がありました。朗読・荒井真澄さん、テルミン・大西ようこさんでした。

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6月28日(水)、29日(木)、7月12日(水)、13日(木)
NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」で、光太郎詩「あどけない話」を取り上げて下さいました。

6月30日(金)
BSジャパンさんで「武田鉄矢の昭和は輝いていた 昭和のロングセラー蚊取り線香&コカ・コーラ」が放映され、コーラを我が国で最も早く取り上げた詩とされる光太郎の「狂者の詩」(大正元年=1912)が取り上げられました。

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同日、千代田区の東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーの活用方法として美術館巡りなどを提案するPRイベントが開催され、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が「登場」しました。ナビゲーター役は関ジャニ∞の横山裕さんと丸山隆平さんでした。

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さらに同日、河出書房新社さんから中村圭子氏編『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』が刊行されました。『青鞜』がらみで智恵子に触れられています。翌日から文京区の弥生美術館さんで始まった同名の企画展図録を兼ねています。


明日は7、8、9月をふり返ります。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

題名の通り、十ヶ条の条文と、四ヶ条めまでは詳しい解説が付いています。五ヶ条目以降は条文のみ。光太郎彫刻論の集大成的な文章ですので、十ヶ条すべてご紹介します。

「詩魂」とは、物事の本質を十分に見極め、さらに端的に表現する精神とでもいいましょうか、彫刻をはじめとするすべての光太郎芸術の根幹に流れている基調となるものです。

年末恒例、この一年をふり返ってみます。まずは1~3月です。

1月5日(木)
十和田市の劇団「エムズ・パーティー」さんが、光太郎の人生と十和田湖畔に立つ乙女の像に込められた思いを描いた「乙女の像ものがたり」のDVDを制作し、同市の小山田久市長に報告なさいました。

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1月7日(土)
『伊豆新聞』さんで、鎌倉の川端康成邸から光太郎の扇面揮毫「あれが阿多多羅山……」を含む70数点の書画の発見が報じられました。その後、他紙やテレビでも続々報道されました。

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1月15日(日)
BS朝日さんで「暦を歩く #99「冬の詩人」(福島県二本松)」が放映されました。

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同日、幻戯書房さんから、平田俊子氏著『低反発枕草子』が刊行されました。『静岡新聞』さんに、平成26年(2014)から翌年にかけて連載された同名のエッセイの単行本化です。その頃の花巻高村光太郎記念館さん訪問記等を含みます。

  
1月21日(土)・22日(日)
新宿区の絵空箱さんにて、「蒼井まつりひとり芝居『売り言葉』」公演がありました。「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、大竹しのぶさん出演で初めて上演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。

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1月21日(土)~3月20日(月)
町田市民文学館ことばらんどさんで企画展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」が開催され、光太郎から野田宛の書簡が展示されました。

1月23日(月)~4月22日(土)
千代田区立千代田図書館さんの9階 展示ウォールで、「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」が開催され、光太郎と交流のあった佐伯郁郎が取り上げられ、光太郎にも触れられました。

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1月24日(火)・25日(水)

1月24日(火)~4月9日(日)
三重県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体」。が開催されました。昨年、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の最終会場で、光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、光雲の木彫も2点、「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されました。

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1月25日(水)
NHKBSプレミアムさんで、「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」が放映され、大正2年(1913)の光太郎智恵子の上高地行が紹介されました。

1月27日(金)
勉誠出版さんから、『平川祐弘決定版著作集7 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯/高村光太郎と西洋』が刊行されました。平成8年(1996)に新潮社さんから刊行されたものの復刊です。

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1月28日(土)
『日本経済新聞』さん夕刊の連載「文学周遊」で「高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。」が掲載されました。

同日、銀座のシンワアートミュージアムさんで、「シンワアートオークション近代美術PartⅡ」が開催され、光太郎のブロンズ「野兎の首」が出品されました。

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1月28日(土)~3月12日(日)
山口県下関市立美術館さんで、「特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」が開催されました。昨年、東京ステーションギャラリーさん、和歌山県立近代美術館さんと巡回した展覧会の最終会場でした。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」、さらに『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌、ヒユウザン会展のポスターなどが展示されました。

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1月29日(日)
『しんぶん赤旗』さん日曜版に「この人に聞きたい 生き残った人たちの負い目 父の思い抱き戦争を描く 劇作家・演出家・俳優 渡辺えりさん」が掲載されました。お父様の渡辺正治氏と光太郎との交流に触れられています。


2月3日(金)
『朝日新聞』さんの山梨版。俳優・柳生博さんの子息で、八ケ岳南麓にてレストラン&ギャラリー「八ケ岳倶楽部」を営まれている柳生宗助さんの連載コラム「柳生さんちの八ケ岳日記」の、「野鳥観察も寒いほどお得に」で、光太郎の木彫「うそ鳥」に触れて下さいました。

同日刊行の雑誌『東京人』3月号に「女性解放に奔走した女たち。 雑誌「青鞜」と平塚らいてう」という記事が掲載され、智恵子にも触れられました。

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2月3日(金)~2月26日(日)
青森県十和田湖畔休屋地区で、毎年恒例の「~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017」が開催され、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。

2月3日(金)~3月12日(日)
小平市平櫛田中彫刻美術館さんで、特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。光太郎ブロンズ「手」「腕」「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が展示されました。

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2月9日(木)
元埼玉県東松山市教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった田口弘氏が亡くなりました。

2月10日(金)
みすず書房さんから土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が刊行されました。光太郎、光雲にも触れられています。

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2月17日(金)
山と渓谷社さんから、同社編・『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が、ヤマケイ文庫の一冊として刊行されました。光太郎の詩「山」(大正2年=1913)、「狂奔する牛」」(同14年=1925)、「岩手山の肩」昭和23年(1948)が掲載されました。

2月22日(水)
『毎日新聞』さんの連載コラム「季語刻々」で、光太郎の俳句「春の水小さき溝を流れけり」が取り上げられました。

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2月24日(金)
千葉県柏市のアミュゼ柏で「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ  ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」公演がありました。第二部が「智恵子抄」系で、「歌と朗読とピアノのコラボ」。佐藤直江さん作の「星になった智恵子」―智恵子一人称の独白スタイル―を山田典子さんが朗読され、合間に青木省三さん作曲の「智恵子抄三章」をオペラ歌手・大久保光哉さんが歌われました。

2月26日(日)
小平市の放送大学東京多摩学習センターさんで、平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事として美術講座「ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。講師は同館学芸員・藤井明氏でした。

3月3日(金)
仙台市に本社を置く地方紙『河北新報』さんに「<あなたに伝えたい>元気くれる絵手紙に涙」という記事が掲載され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏、奥様の英子さんが取り上げられました。

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3月3日(金)~12日(日)
京都市の知恩院さんで、「知恩院 春のライトアップ2017」が行われ、同寺補陀落池に立つ光雲原型の聖観音菩薩立像もライトアップされました。

3月4日(土)
東京小平市のルネこだいらさんで、小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の関連行事「音楽とめぐるロダンの世界」が開催されました。日本大学芸術学部の髙橋幸次教授によるご講演。題して「ロダン歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」、ソプラノの斉藤智恵美さん、ピアノの竹内綾さんのかわいらしいお二人組ユニット「ラ・ペスカ」によるフランス音楽などの演奏が行われました。

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3月5日(日)
新潟市東区プラザ ホールで福島大学・うつくしまふくしま未来支援センター主催 新潟シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで ―復興を進める福島の経験を共有し将来につなげる―」が開催されました。

3月8日(水)
福島県喜多方市の喜多方プラザホールで「マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」公演がありました。マリンバ・松本律子さん、朗読・中村雅子さんでした。

3月14日(火)
盛岡大学文学部日本文学科編・発行の『東北文学の世界 第25号』が刊行されました。高村光太郎研究会主宰の野末明氏による「高村光太郎詩集『典型』成立考」が掲載されています。

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3月15日(水)
信州安曇野の碌山美術館さんから『碌山美術館報 第37号』が刊行されました。昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録が掲載されています。

3月17日(金)
集英社文庫から森まゆみ氏著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』が刊行されました。同社から平成25年(2013)に刊行されたハードカバーの文庫化です。智恵子にも触れられています。

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3月19日(日)
ドイツ・ハイデルブルグのJakobusgemeinde Neueで、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。歌・新井俊稀氏、智恵子役・ 北野温子さん、ピアノ・木下敦子さんでした。
3月25日(土) 
テレビ東京さんの「美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い」が放映され、光雲にも触れられました。再放送はBSジャパンさんで4月19日(水)でした。

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3月27日(月)
岩波書店さんから『岩波茂雄文集 第3巻』が刊行されました。光太郎もスピーチをした昭和17年(1942)の「回顧三十年感謝晩餐会」等について触れられています。

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明日は、4~6月です。


【折々のことば・光太郎】

漫画といふやうなうまい名は泰西に無い。さういふのんびりした、達観的な、又無意識的な思想が、ひとり立ちに立つてゐられない程、人種的にせち辛いのであらう。

散文「カリカチユア」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

明治期には雑誌『スバル』の裏表紙などで光太郎も取り組んでいた、カリカチュアに関する散文です。

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左は与謝野晶子、右は森鷗外。それぞれさんざんお世話になっていた先輩方ですが、光太郎の手にかかるとこうなります(笑)。

同じ文章では、漫画の祖を、「鳥獣人物戯画」の鳥羽僧正としています。今日、それは定説ともいえるものですが、大正末にそうした発言をしていたのは、意外と早い時期の指摘なのではないでしょうか。

いただきもの等、ご紹介します。

まず、智恵子の故郷、福島県二本松で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの会報的な『智恵子講座2017文集』。

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基本、10月から今月にかけて行われていた「智恵子講座2017」に参加した方々の感想集的なものですが、それ以外の会の活動報告的な内容、それらが取り上げられた地方紙のコピーなども載っています。

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存じませんでしたが、『福島中央新報』さんには、今年の連翹忌を報じた記事も掲載されていました。

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東京でのイベントですが、東京で報じられず、福島の地方紙に載るというのも面白いものです。

夢くらぶさん、いろいろと地道な活動を続けられており、頭が下がります。


続いて、過日ご紹介したバリトン歌手・新井俊稀氏の、野村朗氏作曲「連作歌曲 智恵子抄」を含むCD。ネットで「買います」と注文したのですが、進呈されてしまいました。ありがたや。

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2枚組で、CD1が「新井俊稀 日本の抒情歌」、CD2が「連作歌曲 智恵子抄〜その愛と死と〜」。

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歌詞、ライナーノーツが載ったB5判20ページほどの冊子がついていました。

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これまでに、森山孝光氏・康子さんご夫妻の演奏で何度か拝聴しましたが、新井氏の歌唱、それからピアノは木下敦子さんという方で、また少し違った魅力が感じられました。


最後に、いただきものではありませんが、今月14日、『毎日新聞』さんの夕刊に、智恵子がその創刊号の表紙画を描いた『青鞜』がらみで大きく記事が載りましたので、ご紹介します。

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「明治150年 近代から現在を読む」という連載の一環のようで、今年文庫化された『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』の著者、森まゆみさんのご執筆です。

長いので全文は引用しませんが、さわりだけ。

 明治末、女性による文芸雑誌として創刊された『青鞜(せいとう)』はユニークな足跡を残した。背景には女性をめぐるどのような状況があり、この雑誌はいかなるインパクトを世にもたらしたのか。近代日本の文化に詳しい森まゆみさんの論考を通し考える。
 
 「元始女性は太陽であった」という高らかな宣言で知られる雑誌『青鞜』は、1911(明治44)年の9月に創刊号を出した。それまでの女性雑誌は男性編集者による上からの啓蒙(けいもう)がほとんどだった。『女学雑誌』(1885年創刊)、『女学世界』(1901年)、『婦人画報』(05年)など、いずれも面白く意義もあったが、女性による、女性のための、女性の雑誌は『青鞜』が初めてだ。
 『青鞜』は創刊時の目標を「女性の潜める天才を発現するための文芸雑誌」と定めた。

 女性でも自由に好きなことをして良いのだ、内面の完成こそ大事なのだ、という訴えは、多くの女性の共感を呼び、最大時3000もの読者を得る。その中心に「元祖スピリチュアル」ともいうべき美しいらいてうがいた。

 そして、今も「元始女性は太陽であった」「山の動く日来る」は日本の女性運動の掲げた旗として、記憶されている。


さて、暮れも押し詰まって参りました。明日からは、このブログの年末恒例、今年一年をふり返る記事を掲載します。


【折々のことば・光太郎】

「彫刻的なるもの」は此の世のあらゆる要素に潜在する。又其はおのづから人の生活に基準を与へる。

散文「彫刻的なるもの」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

こうした考えがさらに発展し、後の「美ならざるなし」という方向に行くのでしょう。

定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』1月号が届きました。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

今号は、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している書、「詩とは不可避なり」の揮毫が紹介されています。戦後の花巻在住時に書かれたものです。

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今号はこれ以外に、上記「詩とは不可避なり」の書も展示されている、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」の紹介も載せていただいています。

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定価822円で、一般書展での取り扱いはなく、オンライン購入のみですが、ぜひどうぞ。


花巻関連でもう1冊、注文しておいた書籍が届きました。

温泉天国 ごきげん文藝

2017年12月30日 杉田淳子、武藤正人編 河出書房新社 定価1,600円+税

おとなの愉しみを伝えるエッセイアンソロジー「ごきげん文藝」。第一弾は、日本中に点在する「温泉」をテーマにしたエッセイ32篇を収録。ぽちゃんと浸かれば、そこはまさに天国です。

目次
 湯のつかり方(池内紀) カムイワッカ湯の滝(嵐山光三郎) ぬる川の宿(吉川英治)
 湯船のなかの布袋さん(四谷シモン) 花巻温泉(高村光太郎) 記憶(角田光代)
 川の温泉(柳美里) 美しき旅について(室生犀星) 草津温泉(横尾忠則)
 伊香保のろ天風呂(山下清)
 上諏訪・飯田(川本三郎) 村の温泉(平林たい子)
 渋温泉の秋(小川未明) 増富温泉場(井伏鱒二)
 美少女(太宰治) 
 浅草観音温泉(武田百合子) 温泉雑記(抄)(岡本綺堂) 硫黄泉(斎藤茂太)
 丹沢の鉱泉(つげ義春) 熱海秘湯群漫遊記(種村季弘) 湯ヶ島温泉(川端康成)
 温浴(坂口安吾) 温泉(北杜夫) 母と(松本英子) 
 濃き闇の空間に湧く「再生の湯」(荒俣宏) 春の温泉(岡本かの子)
 ふるさと城崎温泉(植村直己) 奥津温泉雪見酒(田村隆一) 
 別府の地獄めぐり(田辺聖子)
 温泉だらけ(村上春樹) 温泉で泳いだ話(池波正太郎)
 女の温泉(田山花袋)

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光太郎の「花巻温泉」が収録されています。これは、昭和31年(1956)、『旅行の手帖』第26号に掲載された談話筆記です。花巻温泉さん以外に、志戸平温泉さん、大沢温泉さん、鉛温泉さん、台温泉さん、そして現在は無くなった西鉛温泉が紹介されています。

非常にユーモラスな部分もあり、そうと知らずに読めば、また行くつもりなんだろうと言う気がする文章ですが、これが語られたのは、その死の一ヶ月半前。既に自らの命の火が消えかかっている自覚が十分にあった時でした。もはやそれらの温泉に浸かることは叶わないと知りつつ、かつて病んだ身体を癒してくれたそれぞれの温泉や、そこで出会った人々に対する哀惜の言葉が、胸を打ちます。

その他の人々の作品も興味深く拝読。面白いのは、現代の作家さんたちも、光太郎ら近代の人々も、裸になって湯に浸かってしまえば変わらない、という部分です。ある意味、日本人の魂ですね(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

立体感とは、存在感の中核、空間の一点に確かに構造(コンストラクト)せられたものの感、量の確認、つかみ得る感、消し難く、滅ぼし難い深厚の感、魂の宿るに足りる殿堂の感、自体具足の小宇宙感。彫刻に関する私の諸考察はすべてこの立体感を中心とした放射線状に在ります。

散文「彫塑総論」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この時期、ブロンズの塑像でも、木彫でも、新境地に至る実作をものにしていた光太郎。その裏側には確固とした理論がありました。

ネットでたまたま見つけました。朗読劇の情報です。 

MAIA STARSHIP朗読劇「いやなんです あなたのいってしまふのが −智恵子抄より」

期 日 : 2018年1月15日(月)~1月21日(日)
会 場 : shibuya gallery「Arc」 東京都渋谷区神泉町8-10 メゾン神泉401
時 間 : 1/15(月)19:00 木村・浜田ペア
         1/16(火)19:00 東出・尾崎ペア
         1/17(水)15:00 羽場・仲本ペア 19:00 東出・尾崎ペア
      1/18(木)19:00 木村・浜田ペア
      1/19(金)17:00 羽場・仲本ペア 20:00 藍沢・中川ペア
      1/20(土)12:00 藍沢・中川ペア 15:00 羽場・仲本ペア 19:00 木村・浜田ペア
      1/21(日)13:00 木村・中川ペア 17:00 東出・尾崎ペア
料 金 : 3,000円   <全席自由>
申 込 : 公式サイトから
出 演 : 木村優良 浜田由梨 東出有貴 尾崎礼香 羽場涼介 仲本詩菜 藍沢真伍 中川美樹

高村光太郎が狂いゆく愛する妻を詠った「智恵子抄」 この作品を原作とした二人朗読劇を上演いたします。光太郎と智恵子、二人の出会いから死まで有名な古典作品を現代向きの作風で描きます。
最初から最後まで主演二人きりでの上演、才色兼ね備えた8人の役者の芝居にどうぞご期待下さい!

主催・企画・演出:麻衣阿(MAIA STARSHIP)脚本:SAKURA

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年に数種類、光太郎智恵子の世界を扱って下さる演劇の公演がありますが、若い方々の劇団などでも取り上げて下さいます。時を超えても普遍的な魅力が感じられるということでしょうか。

また近くなりましたらご紹介しますが、来年は、平成25年(2013)に劇団空間エンジンさんが上演された「チエコ」という舞台も再演されるそうです。

ご覧になる方々、それから演じられる皆さんに、さらに深く光太郎智恵子の世界を知っていただくきっかけとなって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

およそ芸術の中で「塊り」の関係の重要な事、彫塑に如くものは無い。むしろ「塊り」そのものが彫塑なのだから。

散文「自刻木版の魅力」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この頃流行していた新版画(かつての浮世絵のように、絵師、彫師、刷師の分業ではない版画)に関する評論です。それは彫刻に近い立体感をも表現できると、好意的に評しています。

光太郎も駒込林町のアトリエ竣工の通知(明治45年=1912)や、自著詩集『典型』の題字(昭和25年=1950)などで自刻木版を手がけましたが、きちんとした作品として世に問うまではやりませんでした。やはり彫刻を第一と考えていたためでしょう。

今年2月に亡くなった、元埼玉県東松山市の教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった田口弘氏

昨年には、「終活」の一環として、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさいました。

その後、同市立図書館さんで、それらの特別公開、田口氏ご本人によるご講演も行われました。

先月発表された、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚の遺品が同市に寄贈されることとなった件も、田口氏のご遺徳の賜です。氏を介して、高田と同市は以前から深いつながりがありました。

さて、同市立図書館さんでは、田口氏からの寄贈資料を常設展示する「高村光太郎資料コーナー」を設けることとなり、そのオープン記念の講演会が開催されます。僭越ながら、当方が講師を務めさせていただきます。 

田口弘文庫「高村光太郎資料コーナー」オープン記念講演会

期   日 : 2018年1月13日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 3階視聴覚ホール 東松山市本町2-11-20
時   間 : 午後2時から3時30分
料   金 : 無料
内   容 : 詩の朗読(朗読ボランティア「あすなろ」)
        記念講演「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」
         講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定   員 : 100人(申し込み順)
申   込 : 2018年1月5日(金曜日)から直接又は電話で市立図書館へ 
         電話:0493-22-0324 ファックス:0493-22-0064

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当方、田口氏とは連翹忌の席上で何度か、それから昨年の講演会、一昨年にはご自宅にお邪魔いたしましてお会いしました。あとは書簡のやりとりといった程度のおつきあいで、氏について詳しく語る資格は不十分かと存じますが、氏と光太郎との関わりという点になると、やはり出馬せざるを得ないかなと思い、お引き受けしました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美を持たないものを心から信ずるわけにはゆかない。美を顧みない諸般の施設を喜ぶわけにゆかない。美を最奥の標準と為ない都市の建設は詮ずる所住民の虐待に急ぐ事となるのである。

散文「美の立場から(震災直後)」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

関東大震災により大きな被害をうけた東京の復興に関する内容です。欧州の諸都市を見てきた光太郎にとって、震災前のごみごみした東京の景観は許せないものでした。これを機に、美しい都市を造ろうという提言でしたが、それはかないませんでした。

新春の企画展情報です。 

開館30周年記念コレクション名作展 30のテーマ Ⅱ期

期 日  : 2018年1月2日(火)~3月11日(日)
会 場  : メナード美術館 愛知県小牧市小牧五丁目250番地
時 間  : 10:00~17:00
料 金  : 一般 900円(700円)   高大生 600円(500円)   小中生 300円(250円)
                    ( )内は20名以上の団体料金および前売料金

休館日 : 月曜日(祝休日の場合は直後の平日)


1987年に開館したメナード美術館は、2017年10月に開館30周年を迎えます。それを記念し、Ⅰ・Ⅱ期あわせて「30のテーマ」を設定、現在所蔵する1,500余点のコレクションからそれぞれのテーマに合った作品を選び出して展覧会を構成します。代表作品によってコレクションの特徴や美術館の活動を振り返りながら、メナード美術館の魅力を再発見していただけたらと思います。

テーマ16~30で構成する「30のテーマ Ⅱ期」では、日本画や古筆、富士山を描いた作品により新春らしさを高めます。また、コレクションから最大と最小作品を並べて展示する「サイズ」や、「シュルレアリスム」「抽象」などバラエティに富んだテーマでお楽しみいただけます。

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光太郎の木彫「栄螺」(昭和5年=1930)と「鯰」(同6年=1931)が出ます。

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「栄螺」は平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。その後、同館が買い取り、最近では平成25年(2013)の「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ」、昨年の「版画と彫刻コレクション 表現×個性」で展示されています。


「鯰」は複数の作品があり、現在、竹橋の東京国立近代美術館さんでの常設展示「MOMATコレクション」で、大正15年(1926)の「鯰」が出ています(1月14日まで)。東西二つの「鯰」を見比べてみてはいかがでしょうか。

東京国立近代美術館さんでは、「鯰」以外にも木彫「兎」(明治32年=1899)、ブロンズ「手」(大正7年=1918)も並んでいます。

メナードさんもそうですが、他にも逸品ぞろいです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

構造は比例である。比例は美である。

散文「家」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

真性の彫刻家であった光太郎には、見る物すべての「構造」が気になって仕方がありませんでした。木彫「栄螺」も、初めは外面的な特徴のみを追って作ってもうまくゆかず、その構造に思いを馳せながら作ったところ、初めて納得の行くものになったとのこと。光太郎、彫刻に留まらず、絵画や書など、他の造型芸術にも、そうした意識を働かせていたのでしょう。

散文「家」。のちに評論集『美について』(昭和16年=1941)に収められましたが、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方はご教示いただければと存じます。

このブログでたびたび取り上げております、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されるコンサートです。 

新井俊稀 クラシカル・サロン・コンサート

期 日 : 2017年12月27日(土)
会 場 : 西宮市甲東ホール 兵庫県西宮市甲東園3丁目2番29号(アプリ甲東 4階)
時 間 : 13時30分開場 14時00分開演
料 金 : 一般3,000円  学生1,000円
出 演 : 光太郎役 新井俊稀(Br) 智恵子役 宮永あやみ 
      ピアノ 
下茂さやか/木下敦子
曲 目 : 野村朗作曲 連作歌曲「智恵子抄」  
      フレデリック・ショパン作曲「幻想曲 ヘ短調 作品49」
      美しい日本の童謡・唱歌・歌曲に寄せて 赤とんぼ・初恋・九十九里浜・落葉松
      他

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新井氏、今年3月にはドイツ・ハイデルブルグで、4月には東京文京区で、それぞれ野村氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」を演奏して下さいました。もともと神戸のご出身だそうで、今回は地元での公演ですね。


さらに、「連作歌曲 智恵子抄」を含む新井氏のCDも発売中です。 

日本の抒情歌 赤い花 白い花

2017年12月1日  新井音楽事務所 シューベルティアーデ倶楽部  定価3,000円(税込み)

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<CD1>新井俊稀 日本の抒情歌
 01.初恋(作詞:石川啄木/作曲:越谷達之助)
 02.落葉松(作詞:野上彰/作曲:小林秀雄)
 03.鐘が鳴ります(作詞:北原白秋/作曲:山田耕筰)
 04.荒城の月(作詞:土井晩翠/作曲:瀧廉太郎)
 05.平城山(作詞:北見志保子/作曲:平井康三郎)
 06.赤とんぼ(作詞:三木露風/作曲:山田耕筰)
 07.朧月夜(作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一)
 08.赤い花白い花(作詞/作曲:中林ミエ)
 09.ねむの木の子守歌(作詞:美智子皇后陛下/作曲:山本正美)
 10.さびしいカシの木(作詞:やなせたかし/作曲:木下牧子)
 11.日々草(作詞:星野富弘/作曲:加羽沢美濃)
 12.今日もひとつ(作詞:星野富弘/作曲:なかにしあかね)
 13.おかあさん(作詞/作曲:玉城篤)
 14.津軽のふるさと(作詞/作曲:米山正夫)
 15.青葉城恋唄(作詞:星間船一/作曲:さとう宗幸)
 16.芭蕉布(作詞:吉川安一/作曲:普久原恒勇)
 17.水色のワルツ(作詞:藤浦洸/作曲:高木東六)
 18.はるかな友に(作詞/作曲:磯部俶)
 19.別れの歌(作詞:サトウハチロー/作曲:中田喜直)
 20.めぐり逢い(作詞:荒木一郎/作曲:武満徹)
                                
<CD2>連作歌曲 智恵子抄〜その愛と死と〜
 詩:高村光太郎/作曲:野村朗
 01.千鳥と遊ぶ智恵子
 02.あどけない話
 03.レモン哀歌
 04.間奏曲
 05.案内


2枚組で、2枚目がまるまる「連作歌曲 智恵子抄」です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

花が美しいといふ。しかし人体の不思議な弾力ある圓さが花より美しくないか。天空が美であるといふ。しかし人体の色の微妙さが其に及ばないと思へるか。雲が綺麗だといふ。しかし人の髪の毛の房々が雲より魅力に乏しいと感じられるか。花を描き、天空を画き、雲を写す画家が、人間の裸体を画くに何の不思議もない。

散文「裸体画について」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

文章の要旨は、いまだ世間一般に根強かった裸体画への抵抗を諭し、低俗な性的興味を戒めるものです。

本題には関わりませんが、散文であるにもかかわらず、詩のような文体に感じられます。というか、句点で行分けすれば、立派に自由詩として成立するように思われます。平易な口語で巧妙に対句を使いつつ、文末ではまったくの繰り返しを避けて変化を付けるあたり、これぞ美文と思います。

昨日に引き続き、最近の頂き物から。昨日ご紹介した『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を書かれた逸見久美先生の弟子筋に当たられる、小清水裕子氏(今年の連翹忌にご参加下さいました)の御著書です。 

歌人 古宇田清平の研究――与謝野寛・晶子との関わり――

2014年6月30日 小清水裕子著 鼎書房 定価6,500円+税

新資料となる、清平宛与謝野寛・晶子の書簡を翻刻。書簡から第二次「明星」「冬柏」の発刊意義を考察する。

目次
 序 古宇田清平の研究にあたって
 第一章 古宇田清平その人物像と与謝野寛・ 晶子との関係
  作歌活動一覧 清平略年譜 清平宛 寛・晶子書簡一覧
  清平農業関係論文・著書一覧
 第二章 清平の投稿時代(大正三年~大正十年十月)
  第一節 投稿時代とその作品
  第二節 第二次『明 星』復活に向けて
 第三章 清平の第二次『明星』時代(大正十年十一月~昭和
四年)
  第一節 第二次『明星』発刊意義
  第二節 第二次『明星』での清平
  第三節 第二次『明星』時代とその作品
   一、清平歌集出版に向けて
   二、盛岡時代
   三、野の人の生活・山形県戸沢村時代
    ①寛・晶子の十和田吟行
    ②第二次『明星』終刊から『冬柏』へ
 第四章 清平の『冬柏』時代(昭和五年~昭和十年)
  第一節 『冬柏』発刊意義
  第二節 『冬柏』時代とその作品
   一、山形県豊里村時代
   二、青森へ
 結 本研究の意義と今後の課題
 参考文献 
 資 料
  清平詠歌集
   一、『摘英三千首 與謝野晶子撰』(大正六年十月二十日)
   二、第二次『明星』(大正十年十一月~昭和二年四月)
   三、『冬柏』(昭和五年四月~昭和十年一月)
  清平宛 寛・晶子書簡集
 引用・参考文献
 あとがき
010

古宇田清平(明治26年=1893 ~ 平成2年=1990)は、第二次『明星』、『冬柏』に依った歌人ですが、いわゆる専門の歌人ではなく、九州や東北で農業技師として働きながら作歌に励みました。ある意味、宮沢賢治を彷彿とさせられましたが、古宇田は盛岡高等農林学校の出身で、賢治の先輩に当たります。その実生活に根ざした歌の数々が鉄幹・晶子の目に止まり、新詩社の主要な同人として迎えられています。ただ、地方歌人という先入観もあったのでしょう、かつては注目されることのほとんどなかった人物です。当方も存じませんでした。

その古宇田の評伝をメインとしつつ、こうした地方歌人が重用された第二次『明星』、『冬柏』の位置づけに言及する労作です。

第二次『明星』の創刊(復刊)は、大正10年(1921)。光太郎外遊中の明治41年(1908)に第一次『明星』が廃刊してから13年の時を経てのことでした。古宇田に宛てた復刊当時の鉄幹・晶子の書簡などによれば、同人に自由に作品を発表してもらう、総合文芸誌的な方向性でした。第一次の頃から新詩社の秘蔵っ子だった光太郎も、その復刊第一号に寄せた有名な詩「雨にうたるるカテドラル」をはじめ、実にさまざまなジャンルの作品を発表しています。短歌、詩、エッセイ、評論、翻訳(戯曲、詩、散文)、果ては絵画まで。

ただ、同誌は店頭販売ではなく申し込みによる直接購読を主としたことや、鉄幹・晶子が『日本古典全集』など他の仕事にも多忙を極めたことなどから、昭和2年(1927)に休刊(事実上の廃刊)となりました。しかし、『明星』復活への希望は抑えがたく、それまでのつなぎとして、総合文化誌の体裁ではなく詩歌方面に内容を限定した『冬柏』が創刊されたとのこと。当方、その辺りの事情には暗かったので、なるほど『明星』時代にはさまざまなジャンルの作品を寄せていた光太郎も、『冬柏』になるとそれがぐっと減ったのはそういうわけか、と膝を打ちました。

そしてメインの古宇田の歌。第二次『明星』、『冬柏』時代のものはほぼすべて網羅され、しかも一首ごとに細かく評釈がなされていて、理解の手助けとなりました。中には戦後の花巻時代の光太郎がたびたび逗留し、当方も定宿としている大沢温泉さんでの作などもありました。他にも技師として赴任した盛岡や山形での作には、やはり彼の地の厳しい冬を読んだものが多く、光太郎の詩との類似点を感じました。

もっと注目されていい歌人だというのはその通りだと思いました。


もう1点、同じ小清水氏から、日本文学風土学会さんの紀要『日本文学風土学会紀事』第41号の抜き刷りもいただきました。題して「与謝野寛・晶子の渡欧」。

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奥付等が無いのですが、今年3月発行の『碌山美術館館報』第37号を参照されたとのことですので、つい最近のものでしょう。

参照された点は、外交資料館さんに残されている「外国旅券下附表」の記載。パスポートの申請に際し、「旅行目的」という項目も報告することになっており、荻原守衛は「修学」、光太郎は「美術研究」、では、明治44年(1911)に渡欧した鉄幹、翌年にそれを追った晶子は、ということで、調べられたとのこと。それによれば鉄幹は「芸術研究ノ為」、晶子は「漫遊ノ為」だそうです。

第一次『明星』廃刊後、スランプに陥っていた鉄幹に、見聞を広め、新たな創作の動機づけとしてほしいとの思いから、晶子が「百首屏風」などを作って金策にかけずり回り、鉄幹を欧州へと送り出しました。渡航後の鉄幹は、ぜひ晶子にも彼の地の風物を見て欲しいと、晶子を呼び寄せます。鉄幹は船旅でしたが、晶子はシベリア鉄道を使っての欧州行となり、鉄幹は晶子宛の書簡で、できれば欧州の事情に通じている光太郎を連れてくるよう指示しました。結局、光太郎の同行はかないませんでしたが、それなら経由地から送る電報の文面は光太郎に書いてもらっておけという指示も、鉄幹が出しています。いかに夫妻が「秘蔵っ子」光太郎を頼りにしていたかがわかるエピソードです。

このあたり、当方、逸見先生編の『与謝野寛・晶子書簡集成』(八木書店)で読んでいるはずなのですが、もう一度当たってみようと思いました。

与謝野夫妻、パリでは光太郎からアトリエを引き継いだ梅原龍三郎の世話になったり、ロダンを訪ねていたりもしています。この辺も興味深いところです。


こうした、寄稿した雑誌や周辺人物との絡みなどから見えてくる光太郎の姿、また違った一面が見えてくるものだな、と実感させられました。

また近々、他の方から頂き物が届く手はずになっており、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

活人剣即殺人剣だ。
散文「味ふ人」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

雑誌『現代之美術』第4巻第3号「女性と芸術」号に寄せた文章です。まだ送りがなのルールが確定していない時代ですので「味ふ」で「あじわう」と読みます。

埃及以来数千年間に女流の美術家が出なかつたからといつて、今後数千年間にやはりでないだらうとは云へない。しかし今日迄然うであつた「事実」の底には何か執拗な自然の理法があるやうに思ふ。」と始まるこの文章、決して女性は駄目だ、と言っているわけではなく、女性が芸術家として大成するためには、男性以上にさまざまなことを犠牲にせねばならないという点に主眼があります。そこで、「活人剣即殺人剣だ」というわけです。

光太郎が想起していたのは、男女の分担が可能な家事労働という部分ではなく(光太郎はかなり家事も行っていました)、決して男性には担えない出産、育児という部分でしょう。育児は違うだろう、と突っ込まれるかもしれませんが、「イクメン」であっても、母乳は出せません。

そこで、同じ文章には「其を思ふと、女性で美術家にならうとする人を痛ましくさへ感ずる。悲壮な感じを受ける。むろん普通の女性としての一生を犠牲にしてかからねばならない事で中々なまやさしい甘つたるい事ではあるまいと思ふ。」とも書かれています。「出産を放棄する」=「普通の女性としての一生を犠牲にする」、つまり、「産まない」という選択は普通ではない、という考え方ですね。たしかにすべての女性が「産まない」という選択をしてしまったら、人類は滅びてしまうわけですが……。

このあたりで止めておけばよいものを、こんなことも書いています。

女性は偉大な男性の文芸家を生み、育て、教訓し、又激励した事の方で、今日まで人類に貢献してゐた。」「私が一番女性に望むのは、美術をほんとに深く「味ふ」人になつてもらいたい事だ。受け入れて「味ふ」能力は或は一般の男性よりも多いかと思ふ。元来「受け入れる本能」と「創造する本能」とは根本から違つてゐて、女性は前者の本能に富んでゐるやうに作られたかと思はれる位だ。

画家としてその力を発揮できぬまま心を病んだ智恵子も、この文章を読んだ可能性が高いと思います。結局、光太郎は自分の画を認めてくれないと悟った智恵子の衝撃はいかほどのものだったのでしょうか。

余談になりますが、「智恵子は光太郎に潰された」的な要旨のいわゆるジェンダー論者の論考を時折眼にします。そうした論者がこの文章を読んだら、「それ見たことか」と、鬼の首でも取ったように扱いそうな内容なのですが、従来、ほとんどといっていいほどこの文章は注目されていません。不思議なものです。

少し前に刊行されたものですが、最近戴いた書籍をご紹介します。 

夢二と久允 二人の渡米とその明暗

2016年4月30日 逸見久美著 風間書房 定価2000円+税

著者の父・作家翁久允は竹久夢二の再起をかけて同伴渡米を決行する。久允の奔走、邦字新聞「日米」争議、夢二との訣別―。日記や自伝をふまえ、二人の運命の軌跡を辿る。

目次
 一 ふとした機縁から001
 二 落ちぶれた夢二の再起をはかる久允
 三 翁久允とは
 四 夢二との初対面の印象
 五 夢二画への憧れ
 六 榛名山の夢二の小屋からアメリカ行き
 七 夢二と久允の世界漫遊の旅と夢二フアン
 八 久允の『移植樹』と『宇宙人は語る』
           ・『道なき道』の出版
 九 久允の朝日時代
一〇 いよいよアメリカへ向かう前後の二人
一一 「世界漫遊」に於ける報道のさまざま
一二 夢二にとって初の世界漫遊の船旅
一三 ハワイへ向かう船中の二人とハワイの人々
一四 ホノルルに於ける夢二と久允の記事の数々
一五 いよいよアメリカ本土へ
一六 「沿岸太平記」―「世界漫遊」の顛末
一七 年譜にみる夢二の一生
一八 渡米を巡っての夢二日記
 あとがき

著者の逸見久美先生は、与謝野鉄幹晶子研究の泰斗。連翹忌にもご参加いただいております。光太郎が『明星』出身ということもありますが、お父様の翁久允(おきなきゅういん)と光太郎に交流があったあったためでもあります。

翁は明治40年(1907)から大正13年(1924)まで、シアトルとその周辺に移民として滞在、現地の邦字紙などの編集や小説などの創作にあたっていました。帰国後、東京朝日新聞に入社、『アサヒグラフ』や『週刊朝日』の編集者として活躍します。そして、『週刊朝日』に掲載するため、それまでの文部省美術展覧会(文展)から改称された帝国美術院展覧会(002帝展)の評を光太郎に依頼しています。『夢二と久允』巻末に、光太郎からの返答が紹介されています。

御てがみ拝見、
ホヰツトマンの引合はせと思ふと、
大ていの事は御承諾したいのですが、昔から毎年荷厄介にしてゐる帝展の批評感想だけは、おまけに十六日開会で十七日に書いてお届けするといふやうな早業ときたら、とても私には出来ない仕事ですよ。
私ののろくさと来たらあなたがびツくりしますよ。
此だけは誰かに振りかへて下さい、
   翁久允様 六日夜 高村光太郎

封筒が欠落しており、便箋のみ翁遺品のスクラップ帳に貼り付けてあったとのことで、消印が確認できないため、年が特定できません。

3年ほど前、逸見先生から「うちにこんなものが有りますよ」と、情報をご提供いただいた際、「帝展」「十六日開会」というキーワードで調べれば、何年のものか特定できるだろう、とたかをくくっていましたが、いざ調べてみると、翁が『週刊朝日』編集長を務めていた時期の帝展は、昭和2年(1927)の第8回展から同6年(1931)の12回展までがすべて10月16日開会で、この間としか特定できませんでした。

同書には他に三木露風、今井邦子、宇野千代、堀口大学、吉屋信子、吉井勇、横光利一、鈴木三重吉、中原綾子、吉川英治らからの書簡の画像も掲載されています。翁の顔の広さが偲ばれますが、本文を読むと、さらに田村松魚・俊子夫妻、田山花袋、菊池寛、北原白秋、西條八十、堺利彦、直木三十五、相馬御風、岸田劉生、川端康成、有島生馬ら、綺羅星の如き名が並んでいます。

そして竹久夢二とは、大正15年(1936)が初対面でした。当方、夢二には(特にその晩年)、あまり詳しくないので意外といえば意外でしたが、この頃になると夢二式美人画のブームが過ぎ、落魄の身だったそうです。翁はそんな夢二をもう一度世に押し出そうと、世話を焼いたそうです。

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こちらは同書に掲載されている、たびたび翁家を訪れていた夢二がが描いたスケッチ。描かれているのは逸見先生とお姉様です。逸見先生、「少しこわい小父さん」というイメージで夢二を記憶されているとのこと。しかし、生前の夢二をご存じというと、「歴史の生き証人」的な感覚になってしまいますが、失礼でしょうか(笑)。

お父様はかなり豪快な方だったようで、もう一度夢二を陽の当たる場所に、という思いから、朝日新聞社を退職、その退職金をつぎ込んで、夢二を世界漫遊の旅に連れ出しました。昭和6年(1931)のことです。行く先々で夢二が絵を描き、展覧会を開いてそれを売り歩くという、興行的な目論見もあったとのこと。

しかし、ある意味性格破綻者であった夢二との同行二人はうまくいくはずもなく、旅の途中で二人は決裂してしまいました。夢二は昭和8年(1933)に帰国しましたが、翌年、結核のため淋しく歿しています。


ちなみに、遠く明治末の頃、ごく短期間、太平洋画会に出入りしたという夢二は、そこで智恵子と面識があったようです。明治43年(1910)の夢二の日記に智恵子の名(旧姓の長沼で)が現れます。8月21日の日付です。

家庭の巻頭画の長沼さんの画いたスケツチが出てゐる、実に乱暴な筆で影の日向をつけてある、まるで油のした絵のよふなものだ、女の人がこうした荒い描き方をする気がしれない、ラツフ、印象的な、この頃 外国で試みられてゐるあの筆法に自信をはげまされたのであろうけれど、外国の人々のやる荒い乱暴に見える描き方と この女作家のとは出発点と態度が違ふよふにおもはれる、やはり謙遜な純な心で自然を見てその時のデリケートな或はサブライムな感じをそのまゝ出せばあゝした印象風なフレツシユなものが出来るのだとおもふ、はじめつから、一つ描いてやろうといふ考へでやつたつてもだめではないかしら。

「家庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の機関誌。署名等がないので巻号が特定できませんが、智恵子がたびたび挿画やカットを寄せました。

さらに前月14日には、神田淡路町に光太郎が開き、この頃には大槻弍雄に譲られていた画廊・琅玕洞の名も。

隈川氏来る。共に琅玕洞へゆく。柳氏の作品を見る。下らないものばかり。更に感心せず。

「柳氏」は光太郎の親友・柳敬助。妻の八重は智恵子の女子大学校での先輩で、光太郎と智恵子を結びつけました。

智恵子や柳の作風と、夢二のそれとでは相容れないものがあるのはわかりますが、けちょんけちょんですね(笑)。こうした部分にも夢二という人物が表れているような気がするのは、智恵子・柳に対する身びいきでしょうか。


閑話休題。『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』。実に読み応えがあります。また、その名が忘れ去られかけている翁久允の伝記としても、興味深いものです。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻を見て、主題の状態を第一に考へる人は極めて幼稚な鑑賞者です。又さういふ処をねらつて製作する彫刻家は幼稚な作家です。

散文「彫刻鑑賞の第一歩」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

彫刻作品を見る際、「主題の状態」つまり「5W1H」に気を取られてはならない、ということです。同じ文章の中で、ミケランジェロのダビデ像を例に、「ダビデがゴライヤスを撃たんとして石を手にしてねらつてゐる所」というのは、「此の彫刻の一時的価値の中には這入りません」としています。また、両腕の欠損してしまっているミロのヴィーナスのように「何をしている所といふ事が殆ど問題にならない程人の心を動かすものが善いのです」とも。

光太郎自身、留学前は「5W1H」に囚われた愚劣な彫刻を作っていた、と反省しています。「滑稽な主題と構想」「俄芝居じみた姿態」というふうに。

久々に、光太郎詩の引用から始めます。

大正元年(1912)、雑誌『抒情詩』第2巻第12号に掲載された「冬の朝のめざめ」。
後に詩集『道程』(大正3年=1914)、さらに『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められました。
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    冬の朝のめざめ

 冬の朝なれば
 ヨルダンの川も薄く氷りたる可べし
 われは白き毛布に包まれて我が寝室(ねべや)の内にあり
 基督に洗礼を施すヨハネの心を
 ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
 我はわがこころの中に求めむとす
 冬の朝なれば街(ちまた)より
 つつましくからころと下駄の音も響くなり
 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
 しづかに運る天行のごとく
 われも歩む可し
 するどきモツカの香りは
 よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
 いづこよりか室の内にしのび入る
 われは此の時
 むしろ数理学者の冷静をもて
 世人の形(かたちづ)くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
 起きよ我が愛人よ

 冬の朝なれば
 郊外の家にも鵯ひよどりは夙に来鳴く可し003
 わが愛人は今くろき眼を開(あ)きたらむ
 をさな児のごとく手を伸ばし

 朝の光りを喜び

 小鳥の声を笑ふならむ
 かく思ふとき
 我は堪へがたき力の為めに動かされ
 白き毛布を打ちて
 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり
 冬の朝なれば
 こころいそいそと励み
 また高くさけび
 清らかにしてつよき生活をおもふ
 青き琥珀の空に
 見えざる金粉ぞただよふなる
 ポインタアの吠ゆる声とほく来れば
 ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
 たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
 冬の朝なれば
 ヨルダンの川に氷を噛まむ


「わが愛人」は智恵子。現代とは「愛人」の語の指す意味が異なります。「恋人」に近い意味合いでしょう。

「起きよ」と言っても、光太郎の傍らで眠っているわけではありません。二人が共同生活を始めるのはもう少し後。「郊外の家」というのが当時智恵子が暮らしていた雑司ヶ谷の借家で、そこで目覚めるであろう智恵子の姿を推量しているわけです。

光太郎はクリスチャンではありませんでしたが、冬の朝の爽やかな目覚め、清冽な空気の中で、敬虔な宗教的感動といった感覚が呼び起こされたのか、キリストやヨハネを想起しています。また、掲載誌の発行が12月ということも忖度し、クリスマスに絡めたとも考えられます。もっとも、イエスの降誕をことほぐ当方の三博士ではありませんので、考え過ぎかも知れません。


少し前になりますが(今月7日)、『宮崎日日新聞』さんの一面コラムでこの詩を引いて下さいました。

くろしお ヨルダン川は凍っているか

 昨日の朝は宮崎市で氷点下になるなど、県内はこの冬一番の冷え込みだった。白くなる息を見て、思い出したのが高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「冬の朝のめざめ」だ。
  冒頭に「冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷(こお)りたる可(べ)し」とある。ヨルダン川は中東シリアのゴラン高原から南に流れ、死海へ注ぐ川。ヨルダンとイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっており、沿岸部も含めて度々、聖書の主要な舞台として登場する。
  下流に近いエルサレムもその一つ。地図を見て驚いた。宮崎市と同じ北緯31度。遠い異文化の町ではあるが、毎日同じ角度の太陽を眺めていると思うと親近感を覚える。地中海性気候だが、冬にはたまに雪が降るという点でも似ている。
 本当にヨルダン川が凍る日もあるかもしれない。キリスト教に関心があった光太郎は度々かの地に思いをはせていたのだろう。ただ「智恵子抄」が出た当時は、イスラエルが建国する1948年より以前だから、その後の激しい紛争については知る由もなかった。
  三つの宗教の聖地エルサレムが再び揺れている。首都問題は建国以来くすぶっていたが、トランプ米大統領がイスラエルの首都と認める意向を示したことに対してアラブ諸国が一斉に反発、欧州や国連も米国の行動に懸念を強めている。
  中東の紛争は宗教に加え民族や部族の対立が絡み合って、他国が介入するほど泥沼に陥りやすい。トランプ氏には現地の寒さに肌感覚で思いをはせる慎重さが求められよう。同じ角度の太陽を仰ぐ者として問題の平和的な解決を切に願う。


メインは米国トランプ大統領の、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転するという発言に対してですが、時宜を得たうまい引用です。

問題の平和的な解決を切に願う。」九泉の光太郎もそう願っていることでしょう。


【折々のことば・光太郎】

少し誇張して言ふと、芸術が分るといふ事は人間の心の深さの尺度になると言へる。よき芸術家は必ず深い心を持つてゐる。深い心がなくてはよい芸術は出来ないのだ。その深い心の汲めない人はあやしい。

散文「芸術鑑賞その他」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

世界の指導者の皆さんが、芸術のわかる人、深い心の汲める人であってほしいと願います。どう考えてもそうでないとしか思えない人、その人のポチも居るのが残念ですが。

早いもので、12月も後半に入り、今年も残すところあと2週間となりました。そろそろ年賀状にかからねばなりません。

来年の干支は戌(いぬ)。というわけで、犬をモチーフとした縁起物の置物をご紹介します。 

純金製置物 「陽光」 <高村光雲原型作>

発売元 GINZA TANAKA(田中貴金属)

慶びと飛躍をテーマに、陽の光を浴びて遊ぶ犬の姿を活き活きと表現。日本の近代彫刻の礎を築いた高村光雲の逸品。

材質 ゴールド         素材 K24          サイズ 約150g、本体高さ約10.5×幅約12×奥行約6cm
※ガラスケース(高さ約20×幅約23×奥行約15cm)・桐箱付

現在の価格 2,031,960円(税込)  販売レート G410
※「Gマーク」の商品は貴金属相場により価格が毎日変動します。
  相場が大きく変動する場合もございますので、予めご了承ください。
※販売レート商品の相場変動による注文のし直し、返品等はお受けしておりません。

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光太郎の父、光雲が、もともと木彫で作った狆(ちん)を原型としているようです。下記は別の作例ですが。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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発売元のGINZA TANAKA(田中貴金属)さんでは、昨年の干支、やはり光雲原型の純金製申の置物も販売なさっていました。今年の酉年の縁起もの的な光雲原型作品はラインナップになかったようです。復活してよかったと思いました。

お金に余裕のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。


【折々のことば・光太郎】

真の要求の無い処には何者も育ちません。此の意味で私は日本将来の芸術の為め皆さんの芸術的慾望の強い上にも強く、高い上にも高く、自由な上にも自由である事を望んでゐます。

散文「展覧会の作品批評を求められて」より
 
大正8年(1919) 光太郎37歳

光太郎のこうしたスタンスは、終生変わることはありませんでした。

一昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの「高村光太郎 書の世界」展を拝見した後、大沢温泉菊水館さんにて一泊いたしました。今年3度目でした。

翌朝は小雪が舞っていました。

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軒先にはつらら。

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光太郎も浸かった露天風呂。

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NHKさんの朝のローカルニュースで、花巻市内の文化施設5館の共同開催「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」をバスで廻るツアーのニュースをやっていました。

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6時台の放映は、予期しないまま始まってしまい、改めて7時台の放映をもう一度視聴。

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朝食後、チェックアウト。レンタカーで花巻市博物館さんを目指しました。

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こちらでは、やはり「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「及川全三と岩手のホームスパン」展が開催中です。

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花巻の旧東和町出身で、この地に天然染色の羊毛織り、ホームスパンを根付かせた及川全三。光太郎とも交流がありました。その及川の歩みを作品や書簡、遺品などから追っていました。

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及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだとのこと。本場イギリスでも途絶えていた技術を復活させるため、かなりの苦労があったようです。

図録は発行されていませんでしたが、『花巻市博物館だより』には、展示パネルの一部が転載されているようで、そちらをいただいて帰りました。

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及川の作品、民芸運動の流れを汲むということで、素朴な中にも暖かみと気品があり、いいものでした。また、解説がなければ見落としてしまいそうなさまざまな工夫なども、解説パネルでよく理解できました。

しかし、残念ながら、光太郎との交流についてはほとんど触れられていませんでした。

そもそも及川がホームスパン制作を志したのは、柳に見せられたイギリスの染織家、エセル・メレのホームスパン作品がきっかけだそうで、そのメレの作品を光太郎が持っており、及川は旧太田村の山小屋でそれをたびたび見せてもらいました。その作品も高村光太郎記念館さんで所蔵しており、この機会に展示すればよかったのに、と感じました。また、盛岡てがみ館さんなどあちこちに及川の弟子にあたる福田ハレや戸来幸子に宛てた光太郎書簡も残っています(及川やホームスパンにふれています)し、過日もご紹介した光太郎愛用のホームスパンの服も、高村光太郎記念館さんで展示されています。

「及川全三と岩手のホームスパン」と銘打つなら、光太郎との関わりも外せない要素だと思うのですが、館同士の連携、情報共有などがうまくいっていないのか、また、改めて光太郎と及川全三に絞った展示を考えているからなのか、何ともいえません。同じようなことは、今夏同館で開催された企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」の際にも感じたのですが……。

ただ、今月9日に行われた関連行事、菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)による記念講演「ホームスパン作家・及川全三の足跡をたどって」では、光太郎についても触れられたそうで、それが救いですが……。

ところで、冒頭でご紹介した、参加5館を廻るバスツアー、来月も実施されます。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひ自分の崇拝する人から其が傑作であると保證されてゐるとしても自分自身で其感動を得ない時に、其作品を無理に善いと見ようとするのはいけません。
散文「展覧会を見る人に」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

そのとおりですね。世間には、「世間で人気の行列ができる展覧会だから見に行こう」という人もいるようですが。

昨日から1泊2日で、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

昨朝、10時台のやまびこ号に乗り、一路、花巻へ。郡山近辺で雪がかなり積もっており、これは雪中行軍となりそうだと思っていたところ、局地的なものだったようで、その後は仙台を過ぎ、一関あたりまで雪はほとんど見られませんでした。しかし安心していたのもつかの間、水沢、北上と進むにつれ、再び銀世界に。1時30分過ぎに着いた新花巻駅前は、こんな感じでした。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを目指し、レンタカーを駆りました。雪道の運転は久しぶりでしたが、つつがなく到着。除雪車も出ており、ありがたかったです。

花巻市街より標高も高く、山ふところ的な場所ですので、こんな感じ。しかしこれでもピーク時に比べれば、てんでまだまだの積雪でした。

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記念館さんでは、先週の土曜から、花巻市内の文化施設5館の共同開催、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「高村光太郎 書の世界」展が始まっています。

地元報道機関に案内を出し、内覧会的に、館のスタッフ氏と当方による展示品等の解説などを行いました。花巻ケーブルテレビさん、『読売新聞』さんがいらしていました。ケーブルテレビさんは当方の解説を撮影。緊張しました(笑)。他社は既に取材を終えていたりということでした。NHKさんは、この日に行われた5館を廻るバスツアーに同行、午前中に取材されたとのこと。今朝のローカルニュースで流れましたが、明日、ご紹介します。

常設展示以外に、今回、特に展示されているのは11点。珠玉の書ばかりです。ほとんどが、光太郎がこの地にいた戦後のものです。

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左は「美ならざるなし」。二重否定は強い肯定(笑)。右は、花巻のリンゴ農家、故・阿部博氏に贈ったもので、阿部氏を歌った即興詩「酔中吟」が書かれています。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光 紅玉 ヂリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。七・七調四句の俗謡体、おそらく即興で作ったものです。

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地元の太田中学校(現・西南中学校)に贈った書。「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。

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左は詩「偶作十五篇」(昭和2年=1927)中の「急にしんとして山の匂いのして来る人がある」。揮毫は昭和20年(1945)だそうです。右は「詩とは不可避なり」。昭和3年(1928)に刊行された草野心平の詩集『第百階級』の序文に書いた「詩人とは特権ではない。不可避である。」あたりが下敷きになっています。

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「こころはいつもあたらしく」。昭和25年(1950)、盛岡少年刑務所に贈った書の下書き的なものと推定されます。完成形は「いつも」ではなく「いつでも」となり、現在も同所の所長室に掲げられています。太田中学校と同じく、やはり青少年向けということで、句がかぶっています。

「日月清明」「皆共成仏道」「不垢不浄」、それから左下の「顕真実」。このあたりは光太郎が習慣としていた新年の書き初めです。山小屋周辺の住民に贈られました。すべて出典は仏典で、信心深かったこの辺りの住民への心遣い、また、自身も仏の教えへの関心が高まっていたことの表れかも知れません。

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右上は、花巻市桜町に建つ、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の拓本です。光太郎の揮毫により昭和11年(1936)に建立されましたが、誤字脱字の追刻が昭和21年(1946)に行われ、それ以前の拓本です。当時としては珍しく、写真製版で縮小されています。

これ以外にも、常設展示で書が飾られており、そちらも含めると、かなりの点数になります。中にはおそらく初公開と思われるものもあります。


ところで、記念館さん入り口ではサンタクロース姿の光太郎がお出迎え(笑)。

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クリスマスが近いというだけでなく、昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会で光太郎がサンタに扮した故事にちなみます。

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記念館さんを後に、山小屋まで歩きました。

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冬期間は、外からしか見られませんし、バリアフリーの工事が入っています。まだまだこれから積雪が増え、雪で埋まります。まったくこんなところでよくぞ7年間も……と、改めて思いました。厳冬期のこの小屋を見ずして、光太郎を語るなかれと思います。

この後、再びレンタカーを駆って、光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんへ。

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以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

芸術は人間を慰めるものでなくて、人間を強めるものである。面白がらせるものでなくて、考へさせるものである。人間をひき上げるもの、進ませるもの、がつしりさせるもの、日常の苦しみを撫するに姑息を以てするのでなくて、其苦しみに堪へる根帯の力を与へるものである。

散文「芸術雑話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

光太郎にとって「書」も、こうした芸術の一環だったと思われます。

今日明日と、1泊で花巻に行って参ります。

花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試みが始まっています。題して「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」。

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高村光太郎記念館さんは、今年度からの参加で、書を軸にした企画展示が為されています。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月3日(水)
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

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会期的には既に始まっているのですが、報道陣向けの内覧が、本日14時からだそうで、当方、その頃参上します。それに合わせて日程を組んでいただいたようで、恐縮です。


他館で光太郎に関わるのが、花巻市博物館さん。こちらは明日、拝見に行くつもりでおります。

及川全三と岩手のホームスパン

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年1月28日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月1日(月)
料 金 : 小・中学生:150円(100円)  高校・学生:250円(200円)
      一般:350円(300円)  ( )内は20名以上の団体料金

大正期から農家の副業として作られていた羊毛織の「ホームスパン」に植物染の技術を導入し、美術的な価値を与え、工芸品としての地位を確立させた及川全三(おいかわぜんぞう)【花巻市東和町出身】。
全三のホームスパン工芸への取り組みと民藝運動を提唱した柳宗悦 (やなぎむねよし)との交流についても所蔵資料とともに展示紹介します。

展示構成
1.及川全三のこと
 高等小学校から岩手のホームスパン業界を育てるまでの全三の生涯を紹介します。
2.及川全三とホームスパン
 全三とホームスパン工芸への取り組みについて紹介します。また、羊毛織のホームスパンを知るために、ホームスパンの概要や岩手とホームスパンとの関わり、製作工程なども併せて紹介します。
3.柳宗悦との交流
 民藝運動を提唱した柳宗悦との交流について、柳宗悦の人物像を踏まえて紹介します。
4.全三の弟子と岩手のホームスパン工房
 全三の内弟子である、福田ハレや鈴木光子の紹介とともに、全三の弟子たちによって設立・技術指導されたホームスパン工房を紹介します。

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及川の名は、光太郎日記に頻出します。羊毛で作るホームスパンの風合いを好んだ光太郎が、及川や、その弟子の福田ハレなどに自分用のものを依頼しています。高村光太郎記念館さんに展示されている光太郎の服もホームスパン。太田村の振興のため、及川の手を借りて光太郎も村でのホームスパン制作を推奨、山小屋近くに住んでいた戸来幸子という女性が織ったものを、盛岡で仕立ててもらったそうです。

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また、日記には、光太郎が東京から疎開した際に持ってきた荷物の中に、イギリスの染織家、エセル・メレ(1872~1952)の織ったホームスパンの大きな布(膝掛け、または毛布的な)が入っていて、及川に何度もそれを見せたことが記されています。

その現物と思われる布も、高村光太郎記念館さんに所蔵されています(展示はされていません)。で、花巻市博物館さんで「及川全三展」ということで、貸し出されるのかなと思っていましたが、それは実現しませんでした。

いずれそのあたり、大きな動きがあるのではないかと思っております。またその折には詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

自然は常に子を見守る親の心を持つてゐる。自然が進む生命は即ち私達の進む生命である。私達の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程は即ち自然の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程である。自然は賢明であるが、自然は常に命がけである。自然は人間を育てるために無数の人間を作る。無数の時代を作る。そして機会を待つ。

散文「印象主義の思想と芸術」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

この前年に書かれた詩「道程」とリンクしています。特に詩集『道程』掲載形の9行ショートバージョンではなく、雑誌『美の廃墟』に初出時の102行ロングバージョン

「印象主義の思想と芸術」は、天弦堂書房から書き下ろしで刊行された、光太郎最初の評論です。250ページほどあり、おそらく前年、オリジナル「道程」と並行して書き始められていたのではないかと推定できます。

冬柏【復刻版】全26巻・別冊1

『明星』終刊後、晩年の与謝野寛・晶子が最も力を注いだのが雑誌『冬柏(とうはく)』であった。寛が昭和一〇(一九三五)年、晶子が昭和一七(一九四二)年に没して後、平野万里、田中悌六、近江満子らが二人の遺志を引き継ぎ、昭和二七(一九五二)年まで刊行された。
収録内容は、短歌を中心に現代詩・随筆・小論・漢詩・絵画・写真等幅広い。また「消息」欄は寛・晶子をはじめ新詩社の同人の活動や動向が詳細に記されていて、一〇頁以上にわたる号もあり、貴重である。
『明星』同様、寛・晶子研究に必須の、そして短歌史また広く文学や芸術研究に欠かせない重要資料である。

◇推薦=馬場あき子・太田 登・澤 正宏・今川英子
 
◆体裁=A5判・上製・総約15,300頁 ◆別冊=総目次・索引(分売価格2,000円+税)
◆揃定価=470,000円+税
 
◎配本概要
・第1回配本(第1〜3巻・別冊1)   2017年10月      揃定価56,000円+税
・第2回配本(第4〜6巻)     2018年1月刊行予定    揃定価54,000円+税
・第3回配本(第7〜10巻)      2018年6月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第4回配本(第11〜14巻)    2018年11月刊行予定    揃定価72,000円+税
・第5回配本(第15〜18巻)    2019年4月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第6回配本(第19〜22巻)    2019年8月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第7回配本(第23〜26巻)    2020年1月刊行予定   揃定価72,000円+税

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上記説明にあるとおり、『冬柏』は、第二次『明星』(大正10年=1921~昭和2年=1927)の後継誌として、光太郎を文学の道にいざなった与謝野夫妻が心血を注いだ雑誌です。

内容見本には「主要執筆者一覧」という項目もあり、光太郎の名も。

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光太郎の同誌への寄稿は、確認できている限り、以下の通りです。

第3巻第3号 昭7(1929)2月  「旧友石井柏亭氏」『高村光太郎全集』 第7巻
第6巻第4号 昭10(1935)4 月  「与謝野先生を憶ふ」  〃   第8巻
第10巻第10号 昭14(1939)10月 「所感-与謝野晶子『新新訳源氏物語』-」〃 第19巻
第13巻第7号   昭17(1942)/6月    「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」  〃     第3巻
第13巻第9号   昭17(1942)/8月  「与謝野晶子歌集「白桜集」序」  〃    第8巻

このうち、 「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」のみ詩で、他は散文。「与謝野先生を憶ふ」は『東京朝日新聞』からの転載です。

これ以外にも、もしかすると『高村光太郎全集』に漏れている光太郎作品が無いとは言い切れません。また、光太郎以外の書いたもので、光太郎に言及されているものもあるかと思われます。その点、第1回配本に「別冊(総目次・索引)」があるので、調べやすいように思われます。

なかなか個人で購入するようなものではありませんが、公立図書館さん等できっちり揃えていただきたいものです。

また、内容見本には、「『冬柏』時代の与謝野寛・晶子と旅・短歌」という年表が載っています。これだけでもかなりの労作だな、と思いました。

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それによれば、与謝野夫妻、ほぼ毎月のように旅に出て、その旅先で詠んだ歌を『冬柏』に載せています。当方の生活圏も含まれ、それは存じませんでした。明治末に当地を訪れたことは存じていましたが。

「ご当地ソング」ならぬ「ご当地短歌」ということで、観光宣伝にいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

自己の内に此の人類の絶えない泉の意味を明らかに強く感得した芸術家の芸術だからこそよいのである。そして此(ここ)が芸術の価値の根本義である。
散文「言ひたい事を言ふ」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

こと芸術に関しては、ポジティブシンキングの光太郎の立ち位置がよく表されています。

テレビ放映情報です。

気づきの扉

テレビ朝日 2017年12月15日(金)  23時10分~23時15分

何かに気づき、強くなれた人。何かに気づき、新しいものを生み出せた人。何かに気づき、自分の生きる道を見つけた人。人生には、様々な“気づき”がある。その“気づき”は時に何かを生み出し、時に人を成長させる。逆境を乗り越え、さらなる高みを目指す人たちはどんな場面で、どんなことに気づいたのか。そんな人々の“気づき”にまつわるストーリーを紹介。

いろいろな人々の運命を変えた『気づき』を紹介するストーリー。今回の主人公は、少年時代に詩人・高村光太郎の言葉から大きな影響を受けた、ある一人の文筆家です。

ナレーション 芦田愛菜


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残念ながらテレビ朝日さんのみの放映のようで、地方の系列局には配信されていないようです。ただ、番組公式サイトでは、最新の回の見逃し配信があり、1週間視聴可能です。

「少年時代に詩人・高村光太郎の言葉から大きな影響を受けた、ある一人の文筆家」、結構いろいろなところで光太郎ファンを公言しているあの人かな?と思いましたが、やはりその人でした。ヒントはスポンサーに入っているユニクロさんの、「LifeWearstory 100」です。ネタばらしですみませんが(笑)。もっとも、ユニクロさんのツイッターには発表されてしまっています。

かつては非公表でしたが、もう時効だろうと思うので、書いてしまいます。ナレーションの芦田愛菜さん、今年の3月に荒川区の第一日暮里小学校さんを卒業されました。同校は明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が、尋常小学校の課程の際に通っていました(高等小学校は下谷小学校)。そこで、同校では「先輩」光太郎を顕彰する活動に全校で取り組んでいます。また、図書館教育にも力を入れており、それが決定打となって、前アメリカ駐日大使のキャロライン・ケネディ氏の学校訪問も実現しています。

ごく最近の事情は存じませんが、かつては、6年生は卒業論文的に光太郎についての調べ学習をしていたそうで、それが続いていれば、芦田さんも取り組んだのでしょう。

校門脇には光太郎自筆の碑があります。昭和60年(1985)の建立です。

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もともとは、昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋近くにあった太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。現在でも同校は学校便りのタイトルに「正直親切」を使って下さっています。


もう1件。

関口宏ニッポン風土記▼岩手県の魅力に迫る!

BS-TBS 2017年12月16日(土)  12時00分~12時54分

今回のテーマは岩手県の第二弾!マルコポーロも驚いた黄金の国ジパングは岩手だった!?イーハトーブ風景地に小岩井農場、宮沢賢治が愛した風景とは?岩手県の魅力に迫る !

出演 関口宏 大石泰夫(盛岡大学教授)畑中美耶子(もりおか歴史文化館館長)漆原栄美子(民謡歌手・農家)岩崎昭子(宝来館女将)

東京にある郷土料理店やアンテナショップなどを巡り、郷土史家や民謡歌手など地元出身者の方を迎え、その土地ならではのエピソード語りながら日本の魅力を再発見する「ニッポン風土記」。今回は岩手県の第二弾。自然環境の厳しい内陸部にリアス式海岸の沿岸部。特色の違う土地柄だからこそ様々な文化が根付く岩手県。大谷翔平、千昌夫、石川啄木、宮沢賢治・・・岩手の人は個性的!ヨーロッパの技術を取り入れ畜産業の近代化をリードした小岩井農場。遠野の民話に河童伝説など岩手の物語には先人達の知恵が満載!知っているようで知らない岩手県の秘密とは?

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キーワード「宮沢賢治」でヒットしました。光太郎に触れられるかどうか微妙ですが、一応。


それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

多くの無自覚な、たわいもない作家達は唯目先の変つた、新工夫、新図題位を考へて毎年過してゐるので問題にもならない。少しは何かを弁へる方の作家連でも、自然の中に根を張つて居ない。ただ遠くから自然を眺めてのんきな筆技で此を描いて居る。すべて打算的に、予測的に。

散文「日本画に対する感想」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

かなり手厳しい評ですが、裏を返せば、自分は絶対にそんな作品を作らない、という決意の表明でもあります。

一昨日、目黒の五百羅漢寺さんで開催された「第2回らかん仏教文化講座 近代彫刻としての仏像」を拝聴して参りました。

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講師は小平市立平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏。連翹忌にもご参加下さっていますし、その他色々お世話になっております。

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日本近代彫刻家の中でも、特に木彫系の作家に的を絞ってお話しされました。やはり、木彫系はその源流の一つが仏師であることからです。

ほぼその成年により、5つの世代グループに分け、それぞれの仏像へのスタンス、彫刻界全体での位置づけなどについて、細かく上げられました。

第一グループは主に江戸時代生まれの人々。光太郎の父・高村光雲を筆頭に、竹内久一、森川杜園、後藤貞行、山田鬼斎、石川光明など。純粋な仏師出身は光雲だけですが、それぞれ根付や人形など江戸期の職人の系譜に連なります。この世代は作品としての仏像を多く手がけ、仏像制作が副業という意識が希薄だったそうです。また、東京美術学校の教員となった彼らは、乏しい学校予算を補うためにも仏像の修復や模刻にあたるなどもしていました。

第二グループで、平櫛田中、山崎朝雲、米原雲海、内藤伸、加藤景雲たち。光太郎より若干年長で、まだ西洋を本格的に知らなかった世代です。彼らの多くは光雲門下。仏像も多く制作しましたが、それは副業的な位置づけで、むしろ仏教を主題とした作品が目立ちます。この世代が職人的な技術重視から、芸術家としての表現重視への転換期にいたとのこと。

光太郎を含む第三グループ。他に光太郎とほぼ同年代の石井鶴三、佐藤朝山(玄々)。仏像はあまり制作せず、西洋彫刻と日本彫刻の融合を図った人々と位置づけられました。しかし仏像への関心も高く、推古仏の美しさなどに初めて注目したのもこの世代といえます。実際、光太郎には仏像に関する評論等も少なからずあります。

光太郎より少し若い第四グループ。橋本平八、長谷川栄作、大内青圃、陽咸二ら。彼らは仏像の特徴に意識を向けた世代だそうです。

第五グループは、第四グループと同世代ですが、展覧会等に仏像や仏像風の彫刻を多数出品した人々。三木宗策、関野聖雲、後藤良(後藤貞行の次男)が挙げられています。

この流れが薮内佐斗司氏らの現代作家へも連なるというわけですが、途中に戦争とのからみもあったり、いろいろ複雑です。

それぞれのグループの作品などの画像をスライドショーで提示しつつ、非常にわかりやすいお話で、興味深く拝聴いたしました。ただ、氏自身でおっしゃっていましたが、まだまだ研究の途上ということで、作家達の信仰心の問題、この系譜に属さない(彫刻家を志さなかった)仏師達の件などには触れられませんでした。今後ともこのテーマでご研究が進むことを祈念いたします。

こと光太郎に関して言えば、信仰というより、哲学としての仏教、特に禅や仏典にはかなり興味を持っていたようです。揮毫した書には仏典からの引用が目立ちますし、禅宗の「無門関」などは愛読書でした。彫刻でも、ブロンズの代表作「手」は、観世音菩薩の「施無畏」の印相からのインスパイアで、それは最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも受け継がれます。

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他にも「光太郎と仏教」というテーマなら000、いくらでも話が出来るな、などと、聴きながら考えておりました。最近、講演や市民講座の講師の依頼が多いもので(笑)。

閑話休題。会場の五百羅漢寺さんの講堂、ホール的な施設の外側がぐるっと回廊のようになっており、同時の歴史や、光雲が理想としていた江戸時代の仏師・松雲元慶など関連する人物に関する展示なども為されており、開会前と休憩時間に興味深く拝見しました。松雲元慶以外にも、光雲・光太郎父子に関わった河口慧海、光太郎と親しく、ラジオ放送などでその詩の朗読も手がけた俳優の丸山定夫など。

また、10月に行われた第1回の講座「五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」(講師:同寺執事/学芸員・堀研心氏)のレジュメも戴きました。こちらでも光雲と同寺の関連などが取り上げられています。

昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』の後半、各種復刻版ではカットされている「想華篇」からの引用も為されており、感心しました。


同講座、今後も続き、全12回の予定とのこと。テーマはチラシによれば、仏像写真、仏教映画、仏教絵本、仏教建築、怪異、精進料理、初詣、仏前結婚式、葬儀、墓、仏教文学、仏画、博覧会だそうです。博覧会あたりには、また光雲もからむかな、という気がします。ご興味のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

印象派の歩んだ道は、彼等自身の予期しなかつた、或は気が付かなかつた重大な方向へ向かつてゐた。彼等が太陽を呼び、白色を喜び、陰影を追ひ、色彩に耽溺したのは、自然の意志から見れば一つの合言葉に過ぎなかつた。自然はさういふ「新」を彼等に与へて、彼等を跳躍させ、彼等を前進させた。

散文「真生と仮生」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

芸術界の流れは、「自然」の意志に従って、流れるべきように流れてきたという持論です。印象派は現れるべくして現れたのだ、というわけですね。このころから光太郎自身も「自然」の意志の赴くままに、と考え、自己の芸術を開花させてゆきます。

昨日始まった企画展です。いろいろありまして、事前にはご紹介しませんでしたが(理由は後述します)、 早速、昨日、見に行って参りました。

所蔵作品による"なんだろう"展+新収蔵品

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月25日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日(1/8、2/12 は開館)、1/9 日(火)、年末年始(12/29~1/3)
料 金 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円  ( ) 内は20 名以上の団体料金

"なんだろう"展は、鑑賞する皆さんが主役です。何が描かれているか想像し、感じたことや作家への質問を書いてみましょう。また、昨年度新たに収蔵された作品も展示します。併せてお楽しみください。

 今回の“なんだろう” 展には、ふだん作品に付されている題名や作者名、解説文もありません。およそ30 点の作品は、幻想的だったり、どこか思わせぶりだったり、楽しくなったり、不思議な気持ちになるものばかりです。作品を見ることに正解はありません。それぞれの作家がつくった作品を見て、感じ、なにが描かれているのか想像してみましょう。そして感じたことを実際にかたわらに書いてみましょう。ほかの来館者が書いてくれた言葉も読んでみるとイメージがふくらむかもしれません。また、加藤芳信、山本直彰、岡村桂三郎、中ザワヒデキの作品についての質問を来館者から募集します。そして会期後半にみなさんの“なんだろう”に対する作家の「答え」を掲出します。さあ、深呼吸してリラックスして、立ち止まったり座ったり、“なんだろう” と考えてみましょう。どうしても気になった作品は、チラシの裏側にリストがあるので見てください。
 なお、同時開催として、福田美蘭《見返り美人鏡面群像図》をはじめ、昨年度、新たに収蔵された作品約40 点を展示しますので、併せてお楽しみください。

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「新収所蔵品展」の方で、光太郎の油絵が1点、出ています。大正3年に描かれた静物画です。「瓶とコップ」という題で展示されています。

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この年、光太郎は油絵の頒布会である「高村光太郎画会」を行いました。「画会」といっても展覧会ではなく、注文を取って油絵を描くためのシステムです。雑誌『現代の洋画』に広告が掲載されています。

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これにより、数点の油絵が制作された、そのうちの1点と思われます。

昭和48年(1973)に春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』別巻の、『高村光太郎 造型』には、その時点で確認されていた光太郎の彫刻、絵画、装幀作品がすべてリストアップされており、当時入手可能だった写真も掲載されています。この絵はそちらには掲載されておらず、その後に「発見」されたものでした。

リストといえば、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻(平成10年=1998)にも造形作品の目録が掲載されており、そちらが現在最新かつ最も信頼のできるものです。そのリストでは「洋酒瓶二本」となっているものだと思われます。(こちらは画像が掲載されていません)。

昭和62年(1987)に小田急グランドギャラリーさんで開催された「光太郎智恵子の世界展」に出品されており、その頃見つかったものと思われます。平成2年(1990)、呉市立美術館さん、三重県立美術館さん、茨城県近代美術館さんを巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展にも出品されています。それぞれ「静物(洋酒瓶)」という題名で出品されました。ただ、双方の図録とも「大正2年」となっていました。よく見ると絵の中に「1914 光」とサインがあるので、大正3年です。

で、今回、平塚市美術館さんで、「大正3年の静物画「瓶とコップ」が出る」というので、もしかして新発見かと思い、見に行った次第です。事前にご紹介しませんでしたが、それはガセだったら困ると思ったからでした。意外とガセがあります。「これが光太郎作品と言い切れるのか」というものが、光太郎の名で出品される展覧会等。この夏にも関東のある県で開催された企画展で、ありました。そちらは彫刻でした。小さな私設美術館などで、とても光太郎のものと思えない作風の絵が、光太郎のクレジットで常設されているところもあります。

今回のものはまちがいなく真作です。題名が以前に出品された時と異なるのは、ある意味仕方がないでしょう。個人からの寄託品だそうで、同じ方から寄託された木村荘八や萬鉄五郎の絵も、今回並んでいました。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日、多くの人は油絵といふものは迚も所謂日本趣味と調和しない様に考へてゐる様ですが、此は習慣性と無識とかから、至極漠然とさう感じてゐるに過ぎないので、実際試みた上の話は少ない様です。私の考へでは、茶室の懸床(かけどこ)などにでも油絵をかけて、立派に調和させることが出来ると思つてゐます。
散文「油絵の懸け方」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

上記でご紹介した静物画などもですが、ここに述べられているような「茶室の懸床(かけどこ)などにでも」「立派に調和させることが出来る」油絵を、光太郎は目指していたようです。

最近出ました光太郎の文筆作品を収めたものをご紹介します。

まずは朗読CDです。 

文豪とアルケミスト 朗読CD第二弾 高村光太郎

2017年11月29日 フロンティアワークス 定価2,160円(税込) 

朗読 森田成一010

<トラック>

 01 タイトルコール
 02 冬が来た
 03 道程
 04 蟬を彫る
 05 花のひらくやうに
 06 人に
 07 生けるもの
 08 ぼろぼろな駝鳥
 09 鯉を彫る
 10 最低にして最高の道
 11 金
 12 レモン哀歌
 13 雪白く積めり
 14 月にぬれた手
 15 オマケドラマ「緊急座談会その2~高村光太郎の詩を語る編~」


文豪とアルケミスト」は、DMM.comさんから配信されている、ブラウザゲームです。「様々な文豪と共に人々の記憶から文学が奪われる前に、侵蝕者から文学書を守りぬくことを目指す、文豪転生シミュレーションゲームです。また、本作品では実際にあった文豪同士の関係性を重視した内容を基調としており、それらが豪華声優陣によって現代に甦ります。」「近代風情が漂う平和な時代に、突如 として文学書が全項黒く染まってしまう異常現象が起きる。 それに対処するべく、特殊能力者“アルケミスト”と呼ばれる者が立ち上がり、文学書を守るため文学の持つ力を知る文豪を転生させる。 再びこの世に転生せし文豪たちが綴る、もうひとつの文学譚―」だそうです。

登場する「文豪」は、40名以上。光太郎もその一人です。

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常に穏やかな笑みを絶やさないクールな芸術家。文学の分野では詩人 として活躍しているが、その他にも彫刻や絵画、書道など多彩な才能を持つ。 武道の心得もある一方で戦いは悲しみを生むだけと考えており、侵蝕者と戦わなければ ならないことには少し複雑に感じているようだ。彫刻に適した木を見ると周りが見え なくなる。」とのこと。

実在の光太郎の特質をよく反映させた設定です。「武道の心得」は、柔道を指しているのでしょうか。当方、このゲーム自体はやっていませんのでよくわかりません。光太郎と柔道については、このブログの初期の頃に書きました。 光太郎と柔道(その1)。 光太郎と柔道(その2)。 光太郎と柔道、そして戦争。

ゲーム内で、光太郎の声を演じられているのが、声優の森田成一さん。その森田さんの朗読によるCDです。

渋い声で、詩の内容により読み方をいろいろ工夫されていて、ゲームとは無関係に純粋な朗読CDとして鑑賞できます。ただ、最後に中原中也(声・柿原徹也さん)、宮沢賢治(同・代永翼さん)とのミニドラマが入っていて、こちらはゲームの内容を下敷きにしているようです。

ゲーム自体は、たとえ荒唐無稽な設定であるとしても、二次創作としてそれもありだろうと思います。こうしたものを通し、各文豪に興味を持たれる方が増えてくれれば、という気がします。新潮社さんが協力に入っており、そうした考えからなのでしょう。また、調布市武者小路実篤記念館さん、菊池寛記念館さんでは、ゲームとのコラボ企画を行っています。

また、ネット上で著作権の切れている文学作品等の無料公開を行っている「青空文庫」さんにも好影響が出ているのでは、という話です。

少し古いのですが、今年6月のNHKさんのニュースから。

往年の「青空文庫」に異変 背景にイケメンゲームが?

著作権が切れた文学作品などをインターネットで無料で公開して人気を集めている「青空文庫」は、作品を入力する多くのボランティアが長年支えていますが、最近、ある異変が起きています。きっかけは、イケメンが多く登場するネットゲームだということですが…?

青空文庫は、往年の名作を手軽に読むことができるようにと平成9年に富田倫生さんの呼びかけで設立され、著作権が切れたり、許諾が得られたりした作品について、ボランティアの人たちが文章の入力と校正を行い、インターネットで無料で公開しています。
宮沢賢治や芥川龍之介といった有名な作家から、数は少なくても熱狂的なファンがいる作家まで、掲載作品は1万4000点を超えています。呼びかけ人の富田さんが3年前に亡くなった後も、青空文庫は有志のボランティアが運営を続けています。

ボランティアを高校生のころから続け、現在は運営にも携わっている翻訳家の大久保ゆうさんが、青空文庫の「異変」についてツイッターに投稿したのは先月30日のこと。
青空文庫ではこれまで比較的少なかった、例えば北原白秋に連なる作家たちの作品の入力や校正が増え始めたのです。
大久保さんはツイートの中で、「文アルの影響かどうかはわからないのですが/ご協力ありがとうございます」と述べました。
「文アル」とは、インターネットのゲーム「文豪とアルケミスト」のことです。

「文アル」は、芥川龍之介や太宰治など多くの文豪が「転生」したという設定のイケメンのキャラクターを育てながら、文学書を守る戦いを繰り広げるゲームです。人気声優たちが参加した話題性もあって女性ユーザーなどに人気を集め、運営会社によると、去年11月以降、プレーした人の数は30万に上るということです。
和歌山県新宮市にある詩人・佐藤春夫の記念館を訪れる若い女性がことしに入って増えるなど、その人気はゲーム業界にとどまりません。

文豪の作品を数多く収録している青空文庫にも、当然、影響が現れました。
ツイッターなどでは、「出てくる文豪の作品読んでないことがもったいないと思って、青空文庫で毎朝毎晩読むことにしました」とか、「純文学とか近代文学が苦手だったけど、ちょっとずつ踏破してるから文アルと青空文庫は偉大だ」など、ゲームに夢中になるあまり青空文庫の利用を始めたという人たちが現れ、中には、「青空文庫の入力ボランティアを始めた」という投稿もありました。

翻訳家の大久保ゆうさんによりますと、青空文庫のボランティアの中でも作品の入力や校正を完成まで続けられる人は少ないということです。
「ひとりでも新たに加わっていただけるのは本当にありがたいです。入力や校正の作業はひとりでこつこつ進めることが多く、根気のいる作業です。入力に取り組んでいることをツイッターなどで発信して、同じ作家のファンに応援してもらえればモチベーションの向上にもなるのでは」と話しています。
人気ゲームをきっかけに広がりを見せ始めた、青空文庫。自分たちの作品が現代の若い女性たちに急に読まれ始めたことを文豪たちが知ったらさぞ驚くことでしょう。


こうした動きが一過性のものでなく、発展していって欲しいものです。


しかし、苦言を一つ。先述の通り、ゲーム自体は、たとえ荒唐無稽な設定であるとしても、二次創作としてそれもありだろうと思います。ところがCDは、あくまで光太郎作品の朗読ですので、正確性を期していただきたかったと思いました。詩句の漢字の読み方で「これは絶対に違う」と断言できる箇所があったり(通常、「絶対に」という断言はなかなか出来ないのですが)、ミニドラマの部分でも光太郎詩に関し、事実と異なる内容があったりしました。どこが、という具体的な指摘は避けますが、或る程度の光太郎ファンなら気づくでしょう。これは朗読されている森田さんの責任ではなく、制作サイドの責任ですね。ゲーム同様、新潮社さんが「協力」にクレジットされていますが、それでも防げなかったかと、残念です。そうした玉に瑕を差し引いても、よい出来映えですが。


もう1点、書籍です。 

詩人小説精華集 The Poetic Novels

2017年11月29日 彩流社 長山靖生編 定価2,400円 + 税

北原白秋、萩原朔太郎、中原中也、立原道造、高村光太郎……詩人たちの「詩想」あふれる小説の世界!

「本書は二〇世紀前半に活躍した詩人たちが書いた小説・空想的散文のアンソロジーだ。いずれの作品も、詩人だけに言葉の選択はいずれも意外性を持っていると共に的確であり、今もまったく色あせていない。
優美・幻想・哀切・ユーモアを通して表現された時代と生活の諸相の表現は、的確であるばかりでなく、予言的ですらある。詩集を読む習慣のない人でも小説なら、彼らの魅力を読み取りやすいのではないだろうか。」(解説より)

これまであまり知られなかった瑞々しい小説の世界を読みやすい現代仮名遣いで!

目次
  石川啄木…散文詩五題「廣野」「白い鳥・血の海」001
   「火星の芝居」「二人連」「祖父」
  上田敏…「渦巻」
  山村暮鳥…「夕立」
  木下杢太郎…「霊岸島の自殺」
  野口雨情…「虹の橋」
  北原白秋…「影」
  平井功…「Headin, South」
  正岡蓉…「青恋」
  日夏耿之介…「源氏伝授」
  左川ちか…「暗い夏」
  中原中也…「我が生活」「散歩生活」「夜汽車の食堂」 
  立原道造…「花散る里」「物語」「眠つている男」「眠り」
   「オメガ小品」
  萩原朔太郎…「猫町」
  小熊秀雄…「風刺短篇七種」
  齋藤茂吉…「ヒットレル事件」
  高村光太郎…「九代目団十郎の首」
  【解説】「詩的生成と近代日本のあいだ」長山靖生


こちらも「青空文庫」さん同様、忘れられかけている作品に陽を当てている感があります。

光太郎の「九代目団十郎の首」は、智恵子没年の昭和13年(1938)、雑誌『知性』創刊号に掲載されたエッセイです。何度もその制作に挑戦し、最後は九分通り出来ていながら、結局、未完のままひび割れてしまった、九代目市川團十郎の塑像について述べています。


とにもかくにも、光太郎作品、さまざまな形で取り上げられ続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

あなたの国のモネエなどといふ人の油画は、私の国の雪舟などとまるで同じ気持の画を画くではありませんか。九泉の下から雪舟を起こして、あんな画を見せたら、さぞ膝をうつて感嘆するでせう。

散文「木曜便」より 治44年(1911) 光太郎29歳

「あなた」は、光太郎が仏語習得のため、パリ時代に日本語と仏語の交換教授をしていた「ノルトリンゲル女史」。従来、バーナード・リーチの紹介で知り合ったという程度しか分かっていませんでしたが、ジャポニズム学会所属桂木紫穂氏の調査により、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストと親交のあった美術研究家・金属造形作家マリー・ノードリンガー(1876~1961)であることが判明しています。

「木曜便」は、パリ在住の「M――女史」(「マリー」の「M」です)にあてた書簡の形式で書かれていますが、テーマは、袋小路に入りこんでしまった日本画や、西洋の猿真似に過ぎない洋画がまかり通っていることへの警句です。

甲信レポートを書いていた前後にも、新聞各紙に光太郎の名が出ています。3件、ご紹介します。

まず、先週ご紹介した『朝日新聞』さんの「彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ」の続報的な神奈川版の記事です。

神奈川)彫刻家・高田博厚アトリエ閉鎖 知人らお別れ会

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと親交があり、晩年は神奈川県鎌倉市のアトリエで制作活動をした世界的彫刻家・高田博厚(1900~87)のアトリエが閉鎖され、知人らが集まって2日、お別れ会が開かれた。遺品は交流のあった埼玉県東松山市に寄贈される。
 1931年に渡仏して57年に帰国。66年から86歳で亡くなるまで拠点とした鎌倉市稲村ガ崎のアトリエには同日、親交のあった知人や関係者ら約30人が集まり、お茶を飲みながらピアノ演奏を聞くなど和やかな雰囲気の中、高田の思い出に花を咲かせた。
 洋画家で文化勲章受章者の東京芸大名誉教授・野見山暁治さん(96)は留学時代の53年、パリのカフェで初めて高田に会った時の思い出を語り、「君は日本人かと話しかけられ、『そうか、日本人が外国へ来るようになったのか』と感慨深げだった」としのんだ。
 東松山市に寄贈されるのは彫刻や絵画などの作品のほか書物や家具など数千点。同市の元教育長が高田と親交があった関係で「高田博厚彫刻展」を開いたり、高田の作品を通りで展示したりしている縁で贈られることになった。
 同市の森田光一市長は「遺品をいただけるのは名誉なこと。2020年を目途に何らかの施設を造り、すばらしい芸術家を顕彰していきたい」と話した。
 「死後30年」を機に今回の寄贈を決めた高田の義理の娘の大野慶子さん(80)は「父は『彫刻は触ってみるもの』と言って、東松山市の展示を大変喜んでいたので、今回のことも喜んでくれていると思います。多くの方にみていただき、特に子どもたちに親しんでもらえれば」と話した。
 高田は石川県生まれ。上京して詩人で彫刻家の高村光太郎らと知り合い、31歳で渡仏。彫刻を学び、「指で思索する彫刻家」と称賛された。死後、鎌倉市には主要な作品や絵画など約300点が寄贈されている。(菅尾保)

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同じ件は『東京新聞』さん、NHKさんなどでも紹介されましたが、そちらでは光太郎の名が出なかったので、割愛します。


続いて、『読売新聞』さんの高知版。

詩人・岡本弥太功績たたえ ◇香南で一絃琴演奏、朗読も

 「南海の宮沢賢治」と評され、1942年12月2日に43歳の若さで亡くなった香南市香我美町出身の詩人、岡本弥太の没後75年を記念した「岡本弥太祭」が2日、同町の峯本神社で営まれた。
 弥太は20歳の頃から詩を書き始め、地元で教べんをとりながら創作活動。1932年には、生前唯一の詩集で中央詩壇から高く評価された「瀧」を刊行した。没後の48年、詩人の高村光太郎の書による詩碑「白牡丹図」が同神社に建てられた。
 この日の祭には地元住民らが参列。弥太の孫に当たる岡本龍太さん(59)が「弥太は『自分で二度と詠みたくない詩は、詩ではない』と話していた」などのエピソードを披露した後、市立香我美小の児童有志が、弥太の詩に曲を付けた「わが涙」を一絃琴で演奏した。県立城山高校の生徒ら4人も弥太の詩4編を朗読し、弥太の功績をたたえた。
 実行委員長の猪原陸さん(77)は「年々輪が広がりつつあり、弥太も喜んでくれていると思う。次代に引き継いでいくことが大事で、来年も続けていきたい」と話していた。


岡本弥太は、光太郎より16歳年下、明治32年(1899)の生まれ。終生、高知で小学校教員を務めながら詩人として活動していたようです。歿したのは昭和17年(1942)、やはり結核でした。年代といい、地方で活動していたことといい、結核で早世したことといい、光太郎との関わりといい、昨日ご紹介した野澤一を彷彿とさせられます。

生前に上梓した詩集は『瀧』(昭和7年=1932)一冊のみ。翌年に親しかった間野捷魯編集で刊行された『瀧批評集録』に、光太郎からの『瀧』受贈の礼状が掲載されています。

啓。貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つておりますから、その上何か申上げたいと存じます。此事御諒承願ひます。畧儀ながら御礼まで。

素っ気ない気がしますが、仕方がありません。光太郎の弁護を致しますと、智恵子の心の病が昂じ、自殺未遂をやらかした後だったので、それが「丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました」なのです。

戦後になって、高知で岡本の詩碑建立が決まり、イラストレーターの依光隆、光太郎と親交のあった島崎曙海らを介して、光太郎に碑文の揮毫が依頼され、実現しました。昭和22年(1947)、23年(1948)の光太郎日記、依光(旧姓川島)や島崎に宛てた書簡にその辺りの経緯が記されています。それによると、光太郎、驚くべきことに揮毫の礼として送られた小為替1,000円分を、建碑の足しに、と、そっくりそのまま送り返しています。「やるなぁ」という感じでした(笑)。

当方、この碑を見るために、20数年前に高知まで飛びました。

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当時は携帯電話など持っていませんでしたので(今ならナビ機能が使えます)、迷いながらもたどり着き、光太郎独特の味のある字を見て、旧友に再会したような感覚にとらわれました。

刻まれているのは『瀧』に収められた「白牡丹図」。

 白い牡丹の花を
 捧げるもの
 剣を差して急ぐもの
 日の光青くはてなく
 このみちを
 たれもかへらぬ


調べてみましたところ、岡本に関しては他にも顕彰の機運が盛り上がりつつあるようで、また改めてご紹介します。


最後に、先週の『河北新報』さん夕刊のコラム。

河北抄 2017年11月29日水曜日

 師走を前に寒さが駆け足になりつつある。仙台は初雪が降るとともに最低気温が氷点下になる日もあり、繁華街ではコート姿の人たちを多く見掛ける。
 冬の季語に「セーター」や「カーディガン」がある。家はもちろん、職場でも背広を脱いで装う人は結構いるだろう。
 頭の中のたんすにしまい込んだ記憶がある。1994年の今頃、現大リーガーのイチロー外野手(44)は当時所属するプロ野球オリックスと、年俸800万円から10倍増の8千万円(金額はいずれも推定)で来季契約を結んだ。「大金を何に使いますか」と記者に尋ねられると、「いいセーターを買います」と答えた。
 車でなく、家でなく、貯金でもない。毛糸の編み物。背伸びをせず肩肘張らずに自然体で生きているという青年の実像に触れたようで、とても好感を持った。
 球界は今、シーズンオフ。イチロー選手のような話題に出合うと、うれしくなる。こんなとき、高村光太郎の詩『冬が来た』の一節を思い出す。<冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ>。セーターのような詩である。


まさしく「冬が来た」今日この頃。皆様も風邪など召されませんよう、ご自愛下さい。


【折々のことば・光太郎】

本統に絵や彫刻を愛したり、味はうとする人がないと言ふのは、一面から考へれば人々に芸術を鑑賞する力がないからだとも言へるし、又一方から見れば、人々を引き付けるチヤームが芸術に無いからだとも言へる。其の何れにしても兎に角嬉しいことではない。

談話筆記「芸術を見る眼」より 治44年(1911) 光太郎29歳

2年前の帰国当初、欧米で実際に触れてきた新しい芸術を日本にも伝えるため、啓蒙の意欲に燃えていた光太郎ですが、この頃になると、もはや日本全体を変えるのは不可能、という一種のあきらめにたどりつきます。

俗世間とは縁を切って、個の鍛冶、自らの芸術精進という方向性の企図です。この後、主に絵画の方面ではヒユウザン会、生活社などで同志と言える存在に恵まれますが、彫刻では、前年に荻原守衛が夭折し、孤軍奮闘となってゆきます。

12/2(土)、3(日)、甲信地域を歩いておりましたレポートの最終回です。

光太郎の足跡が残る南巨摩郡富士川町上高下地区をあとに、再び甲府盆地に下りました。その後、笛吹川を渡り市川三郷町へ。かつて市川大門町だったエリアです。ここからまた山中に分け入ることしばし、次なる目的地、四尾連(しびれ)湖を目指しました。ここには光太郎の足跡が残っているわけではありませんが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一が山小屋生活を送っていました。野澤の詩碑も建てられています。こちらは当方、初めてです。

野澤に関しては、何度かこのブログでご紹介いたしましたが、改めて。光太郎より21歳年下の明治37年(1904)の生まれ。法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和9年(1934)には、四尾連湖で書きためた詩200篇あまりを『木葉(こっぱ)童子詩経』として自費出版。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。昭和20年(1945)に、結核のため亡くなりました。

結局、野澤と光太郎は会わずじまいだったようですし、野澤から光太郎に送った厖大な手紙の返事も数通、ほぼ一方通行という感じでした。しかし、この不思議な詩人のことを気にとめていたようで、光太郎は昭和15年(1940)、雑誌『歴程』第10号に連載していた随筆「某月某日」で、一回分の半分を、野澤について費やしています。

 木つ葉童子と自称する未見の詩人野澤一氏から二百回に亙つて毎日手紙をもらつたが、これで一先づ中止するといふ事である。彼は古今の人物を語り、儒仏を語り、地理地文を語り、草木を語り、春夏秋冬を語り、火を語り、わけても水を語り、墓地を語り、食を語り、女を語り、老僧を語り、石を語り、土を語り、天を語り、象を語り、つひに大龍を語る。甲州しびれ湖畔の自然を語る時、彼の筆は突々として霊火を発する。この詩人の人間に対する愛の深さには動かされた。童子独特の言葉づかひに偏倚の趣はあるが、それが又彼の東洋の深と大とを語るにふさはしくもある。彼は西歌的な叡智を小とし、東洋の底ぬけの無辺際を説く。彼は私を叱咤する。私の詩を読んでゐて、こんなものでいいのかといふ。こんなところに跼蹐してゐてどうするのだといふ。それを思つて肌に粟を生ずるといふ。私は此の人にどう感謝していいか分らない。二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大龍の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終るだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れた事はきつと何かのみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。もう此の叱咤の声も当分きけないのでもの足らぬ気がする。私は折にふれて此等の手紙をくりかへし読まうと思つてゐる。不思議な因縁があるものだ。

光太郎をしてここまで言わしめるのは、なまなかのことではないように思われます。


さて、四尾連湖。思っていたより小さな湖でした。

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野澤がここで仙人のような暮らしを送った背景には、かれが敬愛していた19世紀アメリカの詩人、ヘンリー・ディビッド・ソローの存在があります。ソローはマサチューセッツ州 コンコード市郊外のウォールデン池畔にやはり丸太小屋を建て、2年あまりの自給自足生活を送りました。近年はエコロジストのはしりとして注目されています。これも近年、野澤は「日本のソロー」とも称されるようになり、日本ソロー学会などでも取り上げられています。また、連翹忌にもご参加下さった坂脇秀治氏の野澤に関する編著のタイトルは『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』

四尾連湖畔には2軒の旅館があるのみで、民家はありません。そのうちの1軒、水明荘さんに愛車を駐め、野澤の詩碑の場所を訊きました。てっきり湖畔のわかりやすいところに碑が建っていると思い込んでいたのですが、見あたらなかったもので。そこでいただいた地図がこちら。

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それによると、詩碑は湖畔ではありませんでした。ご主人のお話では、15分ほど登山道的な道を上っていった峠の上、車で行ける場所でもない、とのこと。歩くしかありません。

落ち葉の積もった細い急な坂道を、足下に四尾連湖を望みつつ上っていきました。

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途中に、野澤が小屋を構えていた場所。オリジナルの小屋自体は火災で焼失してしまったそうです。

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息を切らしつつ、ようやく峠の頂上へ到着。

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野澤の詩「しびれの湖を歌う」の一節が000刻まれています。


 ああ されど湖のみは
 いつもながらの風光にかげうららかに
 桃の枝は育ち
 栗鼠はないて
 小鳥はあのたのしいさわがしい唱をうたい
 山は立ち
 水はほとばしりいでて
 とこしえに
 しびれの湖とたたえられてあれよ


前述した野澤唯一の詩集『木葉童子詩経』に収められています。野澤と親しかった詩人の一瀬稔や、連翹忌御常連の野澤の子息・俊之氏、そして当会顧問・北川太一先生などのお骨折りで同書は文治堂書店さんから二度にわたって復刊されました。右は平成17年(2005)の版です。

野澤の略伝などが記された碑陰記がこちら。

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光太郎の名も。

光太郎はここ四尾連湖に来たことはない001ようですが、昨日のこのブログでご紹介したとおり、富士川町の上高下を昭和17年(1942)に訪れています。直線距離では10キロ㍍足らず。その際に、野澤のことが頭をよぎったかもしれません。

また、野澤は昭和8年(1933)に四尾連湖を引き上げた後、同19年(1943)まで東京で暮らしていましたが(その間もたびたび四尾連を訪れたそうですが)、空襲で家を失い、山梨に一家で疎開しました。初め、甲府に近い東山梨郡春日居村、ついで、南巨摩郡増穂村。光太郎が訪れた上高下は増穂村から分離した穂積村でした。もしかすると、光太郎が訪れたことを耳にしていたかもしれません。

もっとも、野澤は前述の一瀬稔に対し、「同じ東京の空の下にいるので、逢おうと思えばいつでも逢えるのですが、ぼくは別にお目にかかりたいとも思いません。作品を通してあの方のことはかなり解っているつもりです。」と語っていたそうですが。

その後、野澤は結核のため、昭和20年(1945)に甲府の療養所で亡くなり、光太郎は同じ年、やはり空襲で焼け出されて花巻の宮沢賢治の実家へ。戦後は翼賛活動への反省から、花巻郊外太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送ります。

光太郎の周辺には、辺境の地で芸術制作にあたっていた友人知己が少なからずおり、光太郎自身も古くからそうした生活に憧れていましたが、四尾連湖の野澤も、山小屋生活に入った光太郎の脳裏に浮かんだことでしょう。

野澤一、もっと注目されていい存在だと思われます。

四尾連湖をあとに、三たび甲府盆地へ。そろそろ夕刻が近づいた盆地から見た南アルプスと八ヶ岳。

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甲府で同級生の結婚披露宴に出席していた娘を拾い、帰りました。これにて甲信レポートを終わります。またすぐに都内や花巻のレポートを書くことになりますが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

今の日本人は経済上の都合やら色々で、成べく簡単(サンプル)な生活を余儀なくさせられる。が生活はどんなに間に合せ主義で行つても、其のためにデリケートの感情まで殺したくない。実生活は粗雑でも、趣味生活だけは贅沢にならねば感覚は依然として芽を吹かない。

談話筆記「感覚の鋭鈍と趣味生活」より 治44年(1911) 光太郎29歳

100年以上前の警句ですが、この状況は変わっていないような気もしますね。

12/3(日)、長坂町の清春芸術村をあとに、次なる目的地、南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区を目指しました。

ここには光太郎の足跡が残っています。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のためです。

翌年、春陽堂書店から刊行された『日本の母』の跋文より。

 第一線で皇軍将士が死を鴻毛の軽きに比し勇戦敢闘するのも、国内で国民挙つて米英撃滅の戦力増強に挺身敢闘するのも、これ万邦無比の国体を戴き三千年の誇るべき伝統に培はれた日本民族の優秀なる精華の具顕であるが、しかもこの強兵健民を直接に育てた母の庭訓を忘れてはならぬ。偉大なるこの母の力、それは決していはゆる良妻賢母や烈婦貞女のみを謂ふのではなく、実に農山漁村にあつて、市井の巷にあつて、黙々として我児を慈しみ育む無名の母の力こそ偉大なのである。(略)聖戦完遂の国民士気昂揚を計るために、この尊き無名の母を一道三府四十三県及び樺太の全国津々浦々に尋ねて「日本の母」として顕彰することにしたのである。

光太郎を含む49名の文学者が駆り出され、各道府県1人(東京府のみ2人)ずつ、軍人援護会の協力で選定された「日本の母」を訪問し、そのレポートが『読売報知新聞』に掲載され、のちに単行本化されました。単行本では北から南への順ですが、『読売報知新聞』での初出は順不同だったようで、光太郎が執筆した回が最終回でした。どの道府県に誰が行くというのも一貫性がなく、香川の壺井栄、石川の深田久弥などはそれぞれの出身地ですが、佐藤春夫が茨城、川端康成で長野など、あまりゆかりのなさそうな組み合わせもありました。光太郎も山梨にはあまり縁がなかったはずです。

光太郎が訪問したのは、当時の南巨摩郡穂積村。現在の富士川町です。ここに住んでいた井上くまが「日本の母」の山梨県代表でした。

くまは光太郎より5歳年下の明治21年(1888)生まれ。もともと隣村の出身でしたが、結婚して夫婦で穂積村に移住、2人の男児をもうけました。ところが夫は病弱で、昭和のはじめに早世。以来、薪売りや他家の手伝いなどをしながら女手一つで2人の子を育て、2人共に召集。弟の方は満州で戦病死していました。その後も報国の志篤く、軍費調達のための保険や土木作業の徴用などに積極的に協力、そのために「日本の母」選定に至ったようです。

光太郎のレポートから。

痩せた小柄の五十がらみに見える井上くまさんが絣の木綿著の筒袖の縞の羽織をひつかけて、元気のよい笑顔で私達を招じ入れた。来意を告げる。『遠いとこへよくお出でしいした』と小母さんはきちんと坐つてお辞儀をする。甲高くない稍さびた、しかし音幅のあるその声がまづ快かつた。次の部屋に一同座を占める。正面の床の間一ぱいが仏壇がはりになつて居り、南無妙法蓮華経の掛軸の下に若い兵隊さんの同じ写真が二枚立てかけてあつた。戦病死された次男重秋君の面影である。一同まづ霊前に焼香する。小母さんは何かと立ち働いて茶など運ぶ。(略)小母さんは坐つて問はれるままに思出しては話す。方言に甚だ魅力があり、時時私には分らない事もあつたが、それは大森さんや望月さんが通訳してくれた。


さて、中部横断自動車道の増穂ICで下り、町役場などの立ち並ぶ中心街を抜けて、ヘアピンカーブの続く山道を登ります。ちょうどこの日は「ゆずの里 絶景ラン&ウォーク大会」だそうで、走っている方とすれちがいました。目指すは光太郎の文学碑。「日本の母」顕彰で光太郎がここを訪れたことを記念して、昭和62年(1987)に建てられています。

文学碑のすぐ手前に「ダイヤモンド富士」観測スポット。冬至の前後、ここから富士山頂上に上る日の出が見える場所です。

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そこから100㍍ほどで、光太郎文学碑。

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おそらく富士山に似た形の自然石を選んだのでしょう。刻まれているのは、折にふれ光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。

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以前にも書きましたが、光太郎は変体仮名的に「み」を片仮名の「ミ」で書く癖があり、「うつくしきものミつ」となっています。書簡でも「おてがミありがたう」的な表記が散見されます。ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが。

当方、この地を訪れるのは20数年ぶり2回目。初めて訪れたのは、甲府に家族旅行で来たついででした。その際には、家族を車中に待たせていたこともあり、この碑のみ見て帰りました。しかし今回は一人ですので、車を駐めて周辺を歩きました。

碑の近くには上高下地区の家々。

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光太郎が訪問した井上家も残っているという話を聞いていたので、それを探します。たまたま庭にいた方を発見、訊いてみたところ、あの家だよ、と教えて下さいました。ありがたや。

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馬の背に揺られて上ってきた光太郎のレポートに「上高下の家々が見え、その間を縫つて馬はもつと高い一番外れの茅ぶきの一軒家の前にとまる。」とあり、そのとおり、集落の一番外れでした。ただし、茅ぶきだった屋根はトタン張りになっていました。

この家だと教えて下さった方の話では、かつて息子さんが住んでいらしたそうですが、もう山を下り、空き家になっているということ。光太郎レポートと照らし合わせてみると、2人いて共に出征した男児のうち、弟の方は戦病死というわけでしたが、兄の方は無事に復員できたようです。お会い出来ればなおよかったのですが、家が確かめられたのはラッキーでした。

74年前、光太郎がこの家を訪れたのかと、感慨にふけることしばし。

再び光太郎レポートから。

 珍客があると必ず出す習慣であるといふおだら(うどん)を小母さんは一同に御馳走してくれた。いろんな野菜の煮付を手にのせてくれる。それが実にうまく、私は遠慮なくたべた。話が一応すんだのでふと振りむいて外を見る。軒端一ぱいにさつきの富士山がまつたく驚くほど大きく半分雪をかぶつて立つてゐる。実に晴れやかに、爽やかに、山の全貌を露出して空を支へるやうに聳えてゐる。(略)こんな立派な富士山は初めて仰いだ。富士山を見るなら上高下に来よと私は言ひたい。三十八戸の上高下部落の人々も此霊峰をこよなきものとして崇敬してゐる。(略)霊峰は幾代となく此部落の人達の魂の中にその霊気を吹きこんだに違ひない。(略)自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。井上くまさんその人には素よりだが、此部落全体としての雰囲気に感動したといふ事を私は強調したい。(略)その富士山の美を斯くばかり身に浴びてゐる上高下の部落に「日本の母」井上くまさんの居るのは自然である。

さらに、こちらも以前にもご紹介しましたが、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『国民詩選』(題字揮毫も光太郎)のために、光太郎は「山道のをばさん」という詩も書き下ろしています。


   山道のをばさん
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 汽車にのり乗合にのり馬にのり、
 谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
 甲州南巨摩郡の山の上、
 上高下(かみたかおり)といふ小部落の
 通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
 「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
 をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
 「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、

 筒つぽのをばさんは頭をさげた。
 何も変つたところの無い、あたり前な、
 ただ曲つた事の何より嫌ひな、
 吾身をかまはぬ、
 働いて働いて働きぬいて、
 貧にもめげず、
 不幸を不幸と思ひもかけず、
 むすこ二人を立派に育てて、
 辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
 一人を靖國の神と捧げて

 なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
 このただのをばさんこそ
 千萬の母の中の母であらう。
 あけつ放しなをばさんはいそいそと、004
 死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
 手帳やナイフやビールの栓ぬきを
 余念もなくいじつてゐる。
 村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、
 をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
 よばれるをばさんもさうだが
 よぶ人々もありがたい。
 いちばん低い者こそいちばん高い。
 をばさんは何にも知らずにただうごく。
 お国一途にだた動く。
 「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
 山道のをばさんはうどんを出す。
 ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
 びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
 轟くやうに眉にせまる。
 この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
 「日本の母」が居るのはあたりまへだ。


手放しの誉めようですが、実際にこの地に行くと、大げさではないことが実感されます。ぜひ足をお運びください。

明日は甲信レポート最終回、市川三郷町の四尾連湖です。


【折々のことば・光太郎】

床の間の傍に米櫃が置いてあつても気にならない位の人は珍らしくもありません。全然、趣味などといふ事は眼中になく、物を見て気にならない代りに面白いと思ふ事もないのであります。そして、金剛砂の様なザラザラした一生を、口小言を言ひながら送つて行く人であります。此種の人は僕等にとつては縁なき衆生であります。

散文「室内装飾に就いて」 治44年(1911) 光太郎29歳

たしかにこういう生活でなく、「うつくしきものみつ」という心持ちで日々を送りたいものですね。

12/3(日)、前夜行われた美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため宿泊した信州安曇野をあとに、愛車を南東方向に向けました。夕方までに山梨県内の光太郎ゆかりの施設、場所を三ヶ所廻る予定です。

まずは中央高速を長坂ICで下り、清春白樺美術館さんへ。

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こちらは昭和58年(1983)の開館。かつて光太郎を含む白樺派の面々が構想しながら果たせなかった悲願、白樺派の美術館を実現しようと建てられたものです。他の複数の施設と共に「清春芸術村」を形作っています。

芸術村の駐車場付近から撮った、南アルプスと富士山。

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受付のすぐ前には、再現されたラ・リューシュ。エッフェル塔の設計者、エッフェルが明治33年(1900)のパリ万博のパビリオンとして作り、その後、モンパルナスに移築されてシャガールらがアトリエとしていた建物です。おそらく光太郎も眼にしています。本物はパリにありますが、それがこの地に再現されていて、現代アート作家さんたちが実際にアトリエとして居住しています。

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002白樺美術館。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」を含む一帯の公園の設計を手がけた建築家・谷口吉郎の子息で、やはり建築家の谷口吉生氏の設計です。不思議な縁を感じます。

正面玄関脇には、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品がお出迎え。

こちらには、光太郎のブロンズや、3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの一つ、「樟」が所蔵されており、見ておこうと思った次第です。

公式サイトがしばらく更新されていないようで、現地に着くまで存じませんでしたが、「白樺派の情熱展 志賀直哉コレクションを中心としてⅣ」が9月から開催されていました。

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上記は出品目録。光太郎の「裸婦坐像」(大正6年=1917)が掲載されていますが、それ以外にも「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、さらに画商の後藤真太郎にあてた長い書簡(昭和6年=1931)が展示されていました。木彫小品を販売する仲介を頼むもので、光太郎は月々200円ずつ受け取り、代わりに毎月1点ずつ木彫小品を納めるという契約を、後藤の顧客の誰かと結びたいので紹介して欲しい、的な。しかしこの目論見は、智恵子の心の病の昂進により、実現しませんでした。この書簡は筑摩書房『高村光太郎全集』に掲載されています。

他に、白樺派やその周辺で、光太郎と縁の深かったさまざまな人物の作品が見られ、眼福でした。しかし残念ながら、智恵子の「樟」は展示されていませんでした。訊いてみましたところ、どこかに貸し出しているというわけでもないそうですが、当分、展示の予定もないとのことです。昨年、碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際に拝見しておいて良かったと思いました。

常設展示では、やはりこちらの目玉であるルオーの作品が中心でした。それからロダン。「洗礼者ヨハネ」の原型として作られた「歩く男」、光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子の像など。


白樺美術館を出て、右の方に。ジョルジュ・ルオー記念館(礼拝堂)です。

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光太郎は、ルオーをして、このように評しています。

ルオーの絵画を人はいいと言ふ。何処をいいとするのだらう。其は宗教的であるとか、精霊的であるとか、いろいろに言はれる。モロオの別格的延長とさへ言はれる。さういふところに彼の絵の力があるのであらうか。さういふ事は皆彼の画の性質に過ぎない。事実は、ルオーの絵の画面全体から来る物理的充実感がルオーの根本なのである。あの一ぱいに孕んだ帆のやうな大どかな力である。(「仏画賛」昭和14年=1939)


梅原龍三郎アトリエ。中には入れませんでした。

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梅原と光太郎の交流は、かなり長期間にわたりました。明治42年(1909)、パリから帰国する光太郎は、モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエの貸借権を梅原に譲りました。さらに、昭和31年(1956)の光太郎葬儀では、梅原が弔辞を読んでいます。その頃、梅原が使っていたアトリエというわけです。しかし、光太郎から梅原宛の書簡は現存が確認出来ていません。今後に期待したいところです。

ちなみに説明板にある吉田五十八。光太郎も訪れた熱海に現存する岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」の設計も手がけています。

まったく、人の縁というのは不思議なものだと感じさせられました。


この後、再び中央高速に乗り、双葉ジャンクションから中部横断自動車道に入って増穂ICで下りました。次なる目的地は南巨摩郡富士川町。長くなりましたので、また明日。


【折々のことば・光太郎】

量が力ではない。量の震動が力である。

散文「黏土と画布」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

大きさそのものが巨大な作品、「偉大」とか「広壮」とかいう感覚を表現しようと狙った作品に対する警句です。このあとの部分では、ルネサンス期の幅23㍍もある巨大な油絵を例に、それよりも「片手で提られる程の大きさの「モナ リザ」の方が恐ろしい力を有つてゐる」としています。

昨日まで1泊2日で甲信地域を歩いておりました。例によってレポートいたします。

まずは一昨日。それがメインの目的でしたが、一昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。

たまたま同級生の結婚披露宴が甲府で行われるというので、娘を愛車に乗せ、正午頃、千葉県の自宅兼事務所を出発。甲府南ICで中央高速を下り、甲府駅近くで娘を下ろして、甲府昭和ICから再び中央高速、岡谷ジャンクションから長野道へ。長野道を下りた頃には日が暮れて参りました。北アルプスの山々はすでに冠雪。気温は2℃ほどでした。

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美術館近くのビジネスホテルにチェックインし、館に到着。教会風の煉瓦建築・碌山館のたたずまいが幻想的でした。

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すでに閉館時間は過ぎており、展示棟は無人です。窓の外から光太郎の作品群を拝見。

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事務室で、ナビゲーター役の学芸員・武井敏氏と打ち合わせをし、いざ、会場へ。会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所のみの(平常時は休憩コーナー的な)使用法になったそうです。

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「ストーブを囲んで」のタイトルにも謳われている、薪ストーブ。大活躍です。

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午後6時、開会。

武井学芸員の作成したレジュメを元に、守衛、碌山、それぞれの生い立ちや彫刻家を志した動機、渡米の顛末、そして知り合ってからの交友などについて、二人で語りました。

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当方も資料編的にレジュメを作成。

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今回、新たに光太郎が日記や書簡を除く文筆作品(対談を含む)で、守衛に触れたものの一覧表を作ってみました。明治末、一足先に留学から帰国した守衛にあてた書簡形式で書かれたものに始まり、守衛が文展に作品を出品しそれを激賞したもの、明治43年(1910)の守衛の死に際しての追悼文的なもの、そしてその後も光太郎最晩年まで、生涯、折に触れて守衛の名を出し、その早すぎる死を悼んでいます。

それらの中から、そして、光太郎の親友だった作家・水野葉舟による二人の交友の描写も抜粋しておきました。

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それから、守衛の死に際し、光太郎がやはり親友だったバーナード・リーチに送った英文の葉書。

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddnly. I am here by his tonb. You cannot imagine how I am sad !  Apile 26th
(私の友人の荻原氏が突然亡くなった。私は彼の墓のそばに来ている。君には私がどれほど悲しんでいるか想像できまい! 4月26日)

達筆だった光太郎が、殴り書きのような荒々しい筆跡です。それだけ悲しみの深さが解ります。

さらに、光太郎最晩年の昭和29年(1954)、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに建てられた守衛の「坑夫」のために書いた題字。50年近くが経っても、光太郎の守衛に対する親愛の情に変化がなかったことが伺われます。

当方が存じなかった話も武井学芸員から出てきて、勉強させていただきました。守衛の「坑夫」は、パリ滞在中の粘土原型を光太郎が見、ぜひ日本に持ち帰るようにと勧め、残ったということは存じていましたが、絶作の「女」も、モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところをやはり光太郎が残すように進言したそうです。

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最近、一人での講演が多く、対談形式で行ったのは久しぶりでしたが、こちらの方が楽だな、という感じでした。武井学芸員がしゃべっている間に、次に何を言おうかと考えがまとめられますし、予定にはなかった方向転換も容易でした。武井学芸員のリードがみごとだったということもありますが。

対談の筆録は、来春刊行の同館館報に掲載される予定です。また改めてご紹介します。

終了後、事務棟の和室でストーブならぬ炬燵を囲んで、荻原家の方、館の皆さん、それから姉妹館的な東京新宿中村屋サロン美術館さんの方々10名あまりで打ち上げ。地元で取れた食材を使った料理に舌鼓。ありがたや。

宿に戻り、大浴場で疲れを癒し、就寝。

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翌朝、宿から見えた北アルプスの山々です。

一路、甲州へ。山梨県内の光太郎ゆかりの地を3ヶ所廻りました。碌山美術館さんに行く際にはいつもそうしていますが、甲信地域の光太郎ゆかりの人物に関わる施設、光太郎が訪れた場所などに足を運ぶことにしています。今回は、夕方、結婚披露宴出席を終える娘を拾う都合がありますので、山梨県内を攻めました(攻めてどうする(笑))。

そのあたりはまた明日以降。


【折々のことば・光太郎】

人間は感覚の力に依るの外、生の強度な充実を得る道はない。感覚の存在が「自己」の存在である。感覚は自然の生んだものである。あらゆる人間の思索は此の感覚の上に立つてゐる。感覚は実在である。思索は実在の影である。
散文「静物画の新意義」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

思索より、まずは自分の五感で得た感覚から入る造形作家の本質がよく表されています。これが書かれた前年に亡くなった守衛も、この部分を読んだら「そうそう」と首肯したのではないでしょうか。

昨日から一泊二日で甲信地域をふらふらしております。
メインの目的は、信州安曇野碌山美術館さんで昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」でパネリストを務めさせていただいたことでした。

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その後、安曇野で一泊、今日は山梨県まで戻り、光太郎ゆかりの場所三ヶ所を回りました。

北杜市の清春白樺美術館さん。

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富士川町の光太郎文学碑。

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四尾連湖。市川三郷町です。

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たまたま娘が同級生の結婚披露宴で甲府に行くというので、昨日、甲府で下ろし、今は披露宴会場の駐車場で娘を待っているところです。

帰りまして明日以降、詳しくレポート致します。

まずは雑誌『中央公論』の今月号。光太郎の書が紹介されています。

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グラビアページの連載で、題して「川端康成の眼」。ご執筆は公益財団法人川端康成記念会理事の水原園博氏。川端が生前に集めた美術品コレクションを紹介する連載のようです。

で、今号は光太郎の扇面揮毫。「高村光太郎とほろびぬ美」という題名で、今年の1月に発見が報じられ、7月から8月にかけ、岩手県立美術館さんで開催された、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品されたものです。当方も8月に拝見して参りました。

詩集『智恵子抄』中の絶唱、「樹下の二人」の一節にして、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」が書かれています。

岩手県立美術館さんでの企画展会期中、水原氏が花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、そして隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられたというお話は、同館の方から伺っていましたが、その際の感想なども綴られていました。

現在、書店に並んでいます。定価は税込み930円。ぜひお買い求め下さい。


もう一点。花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の11月15日号です。こちらも連載で「花巻歴史探訪(郷土ゆかりの文化財編)」というコーナーがあるのですが、光太郎の彫刻「大倉喜八郎の首」が紹介されています。

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制作年代は大正15年(1926)。モデルの大倉喜八郎は、戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した人物です。大倉は自身と妻の肖像彫刻を、光太郎の父・光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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その光雲作の木彫のための原型だったわけです。光太郎は粘土原型をストーブで焼いてテラコッタにし、それから光太郎歿後にブロンズに鋳造されました(『広報はなまき』さんでは石膏原型となっていますが、誤りです)。

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テラコッタは、いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。

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ブロンズに鋳造されたものは数多く存在し、花巻高村光太郎記念館さんにも所蔵されています。『広報はなまき』さんの記事は、そちらの写真です。


というわけで、今日は光太郎の書と彫刻を取り上げて下さった刊行物をご紹介しましたが、文筆作品系も出ています。来週ご紹介します。


今日から一泊二日で信州です。安曇野の碌山美術館さんにて、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」のパネリストを務めて参ります。愛車には、甲府で行われる高校の同級生の結婚披露宴に参加する娘を乗せて行き、珍道中になりそうです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

日本人の視官感覚の中で一番優れてゐるのは線の受感性でせう。線を流暢に用ゐる事は日本人の僅かに誇りとする事の出来る能力であると思ひます。島田の髷をみても解ります。浮世絵を見ても解ります。日本人の肉筆の文字を見ても解ります。若い女の人が車の上で御辞儀をするのを見ても解ります。玄関の台石の上に並べられた下駄の位置を見ても解ります。

散文「工房雑感」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

上記扇面の光太郎筆跡を見ても、「線を流暢に用ゐ」ているな、と思わせられます。

玄関の台石の上に並べられた下駄の位置」は笑いました。うちの娘は、靴は脱いだら脱ぎっぱなし(笑)。これでは当分、嫁に行かせられません(笑)。

昨日の『朝日新聞』さん埼玉版に載った記事です。

埼玉)彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと交遊した世界的な彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87)が神奈川県鎌倉市に残したアトリエが閉鎖されることになり、ゆかりの東松山市に遺品が寄贈されることになった。12月2日に鎌倉で遺族や知人ら関係者によるお別れの会があり、市への寄贈が改めて表明される。
 高田博厚は石川県生まれで福井県育ち。旧制中学時代から文学や哲学、美術に傾倒し、上京して彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。31年に渡仏。ロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交遊しながら西欧彫刻界で評価を得た。
 57年に帰国し、鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えた。真摯(しんし)な写実と知的で詩情ある作風で、代表作にはロマン・ロラン、ルオー、川端康成らの肖像がある。86歳で死去。鎌倉のアトリエには、高田の彫刻作品や絵画、デッサン、ロマン・ロラン、アランの献辞入り書籍などを含む数百冊、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具もある。没後30年を機に、遺族がアトリエの閉鎖を決めた。
 東松山市との縁は、今年2月に94歳で亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さんが、高田と親交のあった国文学者で俳人の柳田知常に師事し、高田と出会ったという。以来、田口さんは東松山市で高田博厚彫刻展を開くなど親交を深めた。市は86~94年には高田の彫刻作品32体を購入し、高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」として観光資源化を図っている。
 高田の義理の娘、大野慶子さん(80)は「父が亡くなって30年。東松山市の方々の熱意に父も生前に感銘していた。アトリエの遺品すべてを東松山市に寄贈できることをきっと喜んでくれています」と話した。
 お別れ会は鎌倉のアトリエで、慶子さんら遺族のほか、東京芸大名誉教授で文化勲章受章者の洋画家野見山暁治さん、女子美術大名誉教授で洋画家の入江観さん、小樽商大名誉教授の高橋純さんら関係者だけで行われる予定だ。(大脇和明)

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記事にあるとおり、今年2月になくなった、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏のご遺徳で、こうなりました。

氏は戦時中に光太郎と知り合い、出征前には光太郎の元を訪れて書の揮毫をもらったりもしたそうです。南方で九死に一生を得て復員後、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を2度訪問、その後も中央公論社版『高村光太郎選集』編集に協力するなどなさいました。

昨年には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈。今年、天に召されましたが、実にお見事な「終活」でした。

また、光太郎と深い交流のあった高田博厚とも親しく交わられ、東武東上線高坂駅前に、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「高坂彫刻プロムナード」の整備に奔走されました。また、今年の6月から7月にかけては、高坂で「高田博厚歿後30年展」が開催されました。そうした縁から、今回の寄贈ということになったのでしょう。

続報が出ましたら、またご紹介します。


ちなみに、来年、氏の一周忌に合わせ、田口氏から同市に寄贈された光太郎関連資料が、市立図書館さんに常設展示されることになりました。蛇足ながら、そのオープン記念ということで、「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」という題で、当方が講演をすることになりました。このあたりも詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

ところが、面白いのは如何なるものにも其のもの特殊な興味を発見しないでは止まない人間の芸術慾であります。

散文「版画の話」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

その発明当初、印刷という実用に供するものに過ぎなかった版画が、芸術として発展していったことに対する言です。この場合、「興味」=「美」。

泉下の高田博厚、田口弘氏など「芸術慾」に憑かれた人々も、「そうそう」と首肯しているような気がします。

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