2017年11月

テレビ放映情報です。 

日曜美術館「熱烈! 傑作ダンギ ロダン」

NHK Eテレ 2017年12月3日(日) 9時00分~9時45分  
      再放送 12月10日
(日)20時00分~20時45分

没後100年の今年、改めて注目される彫刻界の巨星ロダン。美しいものに対していつも直球勝負を挑んだ作家を愛してやまない3人が、その魅力を縦横無尽に語り尽くす!

集まったのは、俳優で演出家の白井晃さん。俳優の若村麻由美さん。学芸員の南美幸さんの3人。それぞれが愛する作品を紹介しつつ、その魅力をアピール。ロダンの情熱がぎっしり詰まった大作「地獄の門」。演劇のようにドラマチックなシーンを見せる「カレーの市民」。そしてエロスと生命力が同居する「ダナイード」についてクロストーク。そしてロダンを愛するがゆえの「…これはちょっと…」なトークも!?

司 会 井浦新 高橋美鈴
ゲスト 白井晃 若村麻由美 南美幸(静岡県立美術館学芸員)

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画像に使われているのは、静岡県立美術館さん。その名も「ロダン館」という棟があります。そちらの学芸員さんがゲスト出演されます。また、同館では企画展「彫刻を撮る:ロダン、ブランクーシの彫刻写真」が開催中です。

ゲストといえば、女優の若村麻由美さんは、カミーユ・クローデルを舞台で演じられたということで、過日NHKBSプレミアムさんで放映された「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 「彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン」」に引き続いてのご出演です。

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若村さん主演の「ワルツ」は、静岡県立美術館さんの「地獄の門」の前でも上演されました。

「ザ・プロファイラー」では、荻原守衛や光太郎がロダンの影響を受けたことにも言及されましたが、今回もそういうお話が欲しいところです。


テレビといえば、過日ご紹介した「<BSフジサンデースペシャル>『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』」。いったん、12月3日(日)の放映と発表されながら、その後、11/25(土)の深夜に放映と訂正され、それも訂正。結局、元の通り12月3日(日)だそうです。

この手の番組、再放送ならともかく、新作が深夜のオンエアというのもおかしいなとは思っていたのですが、訂正というより、どこかの段階で担当者がやらかした誤発表のようです。始末書ものでしょうね。

というわけで、改めて。 

<BSフジサンデースペシャル>『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』

BSフジ 2017年12月3日(日) 18時00分~19時55分

秋、様々な色に染まった木々の葉が山肌を美しく彩る紅葉の季節。
今回は東北地方の二つの百名山「安達太良山」と「西吾妻山」を2時間SPでご紹介。

安達太良山は、詩人・高村光太郎の「智恵子抄」に登場する福島を代表する山の一つ。
標高1,700mの裾野に広がる紅葉は美しく、秋は特に人気の高い山。
山の案内人は、麓の岳温泉で和菓子屋を営みつつ、山のガイドをしている渡辺茂雄さん(44歳)
幼い頃から安達太良山を見て育ち、その魅力に引き込まれた渡辺さんがガイドをするのは安達太良山のみ。
「多くの人に安達太良山と、自分の生まれ育った岳温泉のすばらしさを知ってもらいたい」
そんな渡辺さんのガイドは、地元の人だからこそ知っている情報が満載だ。
さらに渡辺さんは、温泉の源泉を管理する「湯守」という仕事を冬季限定で行なっている。
安達太良山の麓にある岳温泉の湯は、安達太良山の中腹にある湯元から8キロもの距離を下ろす日本一長い引湯。
冬の間は雪が深い為、登山技術のあるガイドが湯元の管理をするのだそうだ。
安達太良山を知り尽くす地元ガイド一押しの絶景とは…

西吾妻山は、福島県と山形県の境界に位置する吾妻連峰の最高峰、標高2,035mの山。
連峰の山の中で唯一2,000mを超える山であるが、周りの山々がそれに近い高さの為、飛び抜けて主峰という感じはしない山。
日本百名山の著者・深田久弥も「つかみどころがない」と称するほど。
そんな山を愛してやまないというのが、今回の山の案内人。
西吾妻山の麓、天元台スキー場でペンションを営む山岳ガイドの近藤明さん(62歳)
ガイド歴は40年。8,000mを超えるシシャパンマに登頂した経験があり、
年間200日以上をガイドとしてこなす山のスペシャリスト。
そんな近藤さんにとって、一番好きな山が西吾妻山。
展望がまるでない山頂だが大好きだという。
理由を尋ねると、なるほど納得の答えが返ってきた。
その理由がまた、西吾妻山の魅力を良く表現できていることに驚かされる。
ベテランガイドが愛する西吾妻山の魅力を、絶景とともにお伝え致します。

ナレーター 小野寺昭

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻は何の欺瞞をも計らない。立体的のものを立体的に作ってゐる。又錯覚をも絵画ほど有機的には利用しない。せめて眼球の光を作るに却つて反対に之を刳りぬくといふ様な初歩な手品をする人がある位のものである。

散文「彫刻の面白味」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

ただし、この時代にはまだ彫刻といえばロダンに代表される具象。抽象彫刻が出てくるのはもっと後のことです。

眼球を刳りぬくという技法は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」でも使われました。それほど特別な意味はありません。

11/26(日)、都内を歩き回っておりましたレポートの最終回です。

今回、時系列に逆らって書いておりまして、この日、最初に訪れたのが新宿三丁目駅近くの映画館、新宿ピカデリーさんでした。こちらでは、フランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」が公開中です。朝8時20分からの回を拝見しました。

朝っぱらから見るには重たい内容でしたが(笑)、実に感動いたしました。下記は公式サイトから。

1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたオーギュストは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。
才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。

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ロダン役のヴァンサン・ランドン、カミーユを演じたイジア・イジュラン、風貌もそっくりでした。人物像としては万人の持つ二人のイメージを、さらに誇張して描いていたように思われます。作品制作のためには自分自身の内的衝動に正直に随い、結果、いろいろなことを犠牲にしてはばからないという点では似たもの同士。世の中の常識や、倫理観といったものも、二人の前では意味を失うといった描写が繰り返されました。

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その結果、平坦な道のりではないにせよ、巨匠としてのしあがっていくロダン。一方のカミーユは、「ロダンの弟子」というフィルターを通してしか評価されず、愛人という曖昧な立場にも苦しみます……。

また、カミーユと知り合う前からロダンを支えていた内妻(最晩年に入籍)のローズ・ブーレ。かなり嫉妬深い女として描かれていました。ここは当方の持っていたイメージとは少し異なりました。

ちなみに光太郎は滞仏中、ロダン本人は展覧会の会場で見かけたくらいで、直接会話はしていません。ただ、親友の荻原守衛が、書簡の中で自分の親友としてロダンに紹介してはいます。さらに2回ほど、ロダンのアトリエを訪れましたが、ともにロダンは不在。代わりに応対したローズに、ロダンの厖大なデッサンを見せられ、圧倒されたとのことです。

008閑話休題。結果、カミーユは精神崩壊を来たし、実に30年の入院(かなり劣悪な環境だったそうです)を経て、恢復することなく、1943年に歿しました。その悲惨なカミーユの姿は、映画では描かれませんでした。象徴的に使われていたのが、カミーユの彫刻「分別盛り」の一部、「嘆願する女」。物語の終盤、ロダンが画廊でこれを見るシーンで、二人の関係の修復不可能な破綻、その後のカミーユの運命が暗示されました。心憎い演出でした。

光太郎は終生ロダンを敬愛してやみませんでしたが、実は、どちらかというとその傾倒は若い頃。壮年期以降は、かえってロダン以前のミケランジェロに言及することが多くなっていった感があります。下司(げす)の勘ぐりかも知れませんが、智恵子の悲劇がカミーユのそれとリンクする感覚があったのかもしれません。

しかし、光太郎とロダンの決定的な違いは、ロダンはカミーユ以外にも片っ端から若いモデル女性と関係を持ち、自分の肥やしとしていたところ。このあたりのエロティックな描写も、朝っぱらから見るには適当ではなかったように思いました(笑)。眼福ではありましたが(笑)。すると、ロダンが人でなし、極悪人、獣のような設定かというとそうではなく(フェミニズム論者には許せないかも知れませんが)、芸術の創造のためには必要だったという描き方でした。

その他、映画では、それぞれちょい役的な扱いでしたが、光太郎が訳した『ロダンの言葉』の原典の一部を書いたオクターヴ・ミルボー、カミーユと同じくロダンの弟子で、動物彫刻で名を馳せたフランソワ・ポンポン(光太郎の評論にも名が出ています)、それとは知らず光太郎と同じ建物に住んでいた、ロダンの秘書的なこともやった詩人のリルケ、さらにはモネやセザンヌ(智恵子が最も敬愛していました)なども登場し、当方、そのたび「おお」と言っていました(笑)。

そして光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子も、最後に登場しました。また、日本関連では、物語のラストシーンが、箱根彫刻の森美術館でのロケ。ロダン晩年の大作にして、物語の後半で大きくクローズアップされた「バルザック記念像」が展示されているためです。日本人の子供たちが「バルザック記念像」を使って「だるまさんがころんだ」で遊んでいました。100年経った遠い極東の島国でも、ロダン作品が愛されているという意図でしょうか。または、日本公開を前提とし、日本企業からのスポンサー料を見こしての大人の事情でしょうか(笑)。

「バルザック記念像」以外にも、「地獄の門」、「考える人」、「接吻」、「影」、「青銅時代」、「カレーの市民」などのロダン作品、それからカミーユの「ワルツ」なども、人間に劣らず存在感を示す「登場人物」的に続々登場。その意味でも大満足でした。

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美術史に詳しくない方でも、人間ドラマとして鑑賞できるすばらしい作品です。公開館が少ないのが残念ですが、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし、君の様に全(まる)で違つた職業にゐながら美術の解つた人等が殖えて来なくては可けないのさ。小説の読者が小説家に限り、詩歌の読者が詩歌の作者に限り、絵画の真の鑑賞者がパレツトを持つた人に限つてゐるやうでは実に心細い次第なんだ。料理を味はふのが料理番ばかりぢや困るからね。
散文「銀行家と画家との問答」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

およそ100年前のこの警句から、この国の事態は好転したのかどうか……。たしかに人気の展覧会には長蛇の列が出来たりはしますが、相変わらず「腹の足しにもならん」という考え方も根強いように思われます。

一昨日、都内に出ておりましたレポートの2回目です。

メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」拝聴でしたが、その前に日本橋に行っておりました。三井記念美術館さんで9月から開催中の特別展「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」拝見のためです。光太郎の父・高村光雲の木彫も出ているということで、観に行って参りました。

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同館では、平成26年(2014)に「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」という企画展を開催、その後、同展は日本中を巡回し、これが最近はやりの「超絶技巧」という語のはしりとなり、かつてはゲテモノ扱いだった明治期の種々の工芸に光が当てられるようになりました。それ以前から明治工芸の収集に力を入れていた、京都の清水三年坂美術館さんの協力が大きかったと思われます。

その後、同様の企画展が各地で開催されています。広い意味では、一昨日まで東京藝術大学さんで開催されていた「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」なども、共通するコンセプトも持っていたといえましょう。

今回も超絶技巧系の作品を集めた企画展ですが、それだけでは前回の二番煎じということで、その系譜を受け継ぐ現代作家の作品も併せて展示されています。今後はこういった工夫も必要になるでしょう。

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光雲をはじめとする、木彫の潮流も広い意味では超絶技巧の明治工芸ということで、今回も光雲作品が展示されています。制作時期が不明なのですが、「布袋」像。

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こちらは個人蔵ということで、展覧会への出品はおそらく初か、あったとしても少なかったものだと思われます。当方は初めて拝見しました。写真でも見た記憶がありません。椅子に座っているという、いっぷう変わったポージングです。

図録の解説文がこちら。

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『光雲懐古談』を引用していますが、やはり「青空文庫」さんで当該の章が読めるようになっていますので、リンクを張っておきます。輸出用の牙彫(象牙彫刻)が大流行した明治10年代半ば頃(光太郎が生まれた頃)の話です。逆に木彫は衰退の一途でした。沢田という商人は、その後、象牙の方が高く売れると云うことで、光雲に牙彫への転身をしきりに勧めましたが、光雲は頑として受け入れませんでした。光雲はその後、明治20年(1887)、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していき、一方の牙彫は衰微していきます。

その沢田に注文されて布袋像を作ったことが紹介されていますが、やはり解説文の通り、これがそれとは限りません。

その他、木彫では東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明、光雲が激賞したという根付師・森田藻己(小さな根付ではなく、大きな丸彫り)、現代では光雲の系譜に連なる加藤巍山氏の作品なども展示されていて、興味深く拝見しました。

木彫以外でも、牙彫、七宝、金工、漆芸、刺繍絵画、陶磁器などの逸品がずらり。安藤緑山の牙彫、並河靖之で七宝、正阿弥勝義による金工など、平成26年(2016)の同館、さらに清水三年坂美術館さんでも拝見した作品を再び目にでき、旧知の友人に再会したような感覚になりました。また、NHKさんの「日曜美術館」、テレビ東京さんの「美の巨人たち」などで取り上げられた作も多く、それらを思い出しながら拝見しました。

現代作家さんたちの作品にも感心しました。技法の継承という点で重要ですし、単なる守旧に留まらず、さらに先に進もうとする意慾が感じられました。しかし残念なのは、明治期の一部の技法はもはや現代では再現不能といわれていること。今後、それらが再現される技術の確立を求めてやみません。

同展、12月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一体、作品の鑑賞の興味、といつて悪ければ愉快さは、作品そのものを通して作者と膝を割つて話の出来る処にあるのである。作者の見た自然の核心なり人事の情調なりの一寸二寸と解つて来る行程が堪らなく愉快なのである。どうしても作品の背後に作家の顔を見る所まで行かなければ、真の懐しみ、真の親しみは出て来ないのである。

散文「美術展覧会見物に就ての注意」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

これは極論ですが、やはりその作家の歩んできた道程を知っていると知らないとでは、作品の見え方は異なります。知っていることが必須ではありませんが、なるべく知ることを心がけたいと思います。

昨日も都内に出ておりました。都内に出る時は大概そうで、複数の用件を済ませて参りましたが、メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」の拝聴でした。

会場は、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さん。

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当会主催の連翹忌会場、日比谷松本楼さんのすぐそばですし、隣接する日比谷公会堂(現在は休館中)は、かつて光太郎がコンサートにも足を運んだ場所です。

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内容的には二部構成で、前半が講演「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」。講師の歌人・松平盟子氏は、今年6月に開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」の際にパネリストを務められ、その際に知遇を得まして、お声がけ下さいました。

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晶子の詩というと、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号に寄せた「そぞろごと」(「山の動く日きたる」などを含む)や、大町桂月に「非国民」と誹られた「君死に給ふことなかれ」(明治37年=1904)が有名ですが、他にも多くの詩を書いていたそうです(当方、これは存じませんでした)。確認されている最初の詩は明治32年(1899)の『よしあし草』に載った「春月」。その後、第一次『明星』廃刊の明治41年(1908)まで、同誌に「君死に給ふことなかれ」を含む多くの詩を発表していますし、亡くなる2年前の昭和15年(1940)、『冬柏』に寄せた「死」に至るまで、その詩は全集2冊分にもわたるほどでした。特に大正期にその発表が多かったそうです。

その詩型は文語定型詩に始まり、文語自由詩、口語定型005詩、そして口語自由詩へと発展、すると、その軛(くびき)のないスタイルが伸びやかな発想をもたらし、一気に花開いたとのこと。この点、光太郎を含む他の詩人達のあゆみと軌を一にします。

松平氏のご指摘では、『スバル』誌上などに次々発表された光太郎詩の影響も見て取れるとのこと。

下記は晶子の「或国」(明治45年=1912)という詩です。

   或国

 堅苦しく うはべの律儀のみを喜ぶ国、
 しかも かるはずみなる移り気の国、
 支那人ほどの根気なくて、 浅く利己主義なる国、
 亜米利加の富なくて、 亜米利加化する国、
 疑惑と戦慄を感ぜざる国、
 男みな背を屈めて宿命論者となりゆく国、
 めでたく うら安く 万々歳の国。

たしかに光太郎の「根付の国」(明治44年=1911)と似ています。
 
  根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけ
らの様な日本人

日露戦争後の閉塞感やら、自然主義の勃興やら、『青鞜』に代表される女性の進出やらの文壇全体の流れの中で晶子の詩も多様な側面を見せ、ご講演のサブタイトルにもある「女性・子供・社会」そして自然美などへ眼差しが注がれて行ったとのこと。

ところで、「君死に給ふことなかれ」を痛烈に批判した大町桂月。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)は、十和田湖の国立公園指定に功績のあった大町桂月ら三氏を讃えるというのが基本コンセプトでした。その件に絡み、光太郎は以下の発言をしています。

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

どういうシチュエーションで桂月が光太郎を怒鳴ったのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の弟分、という感覚があったのかも知れません。

休憩を挟み、後半は口語自由詩の確立に功績のあった四人の詩人についてのご発表。年齢順に(講師の、ではなく詩人の、です)松平氏が光太郎、静岡県立大学教授・細川光洋氏で北原白秋、木下杢太郎を歌人にして東京大学教授の坂井修一氏、そしてやはり歌人の前田宏氏による萩原朔太郎。限られた時間での、それぞれのアウトライン的なものではありましたが、興味深く拝聴しました。

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聴きながら思ったのですが、晶子を含めた5人のうち、光太郎を除く4人は意外と早く亡くなり(晶子・白秋・朔太郎は昭和17年=1942、杢太郎は同20年=1945)、光太郎のみ「生きながらえた」感があります。戦時中の翼賛詩の
部分を考えると、重要な要素を含むように思われました。

閉会のご挨拶は、『明星』に拠った歌人、平出修の令孫・平出洸氏。おじいさまは弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。光太郎は大正3年(1914)に若くして亡くなった平出の追悼会に出席し、詩「瀕死の人に与ふ」で平出に触れています。

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閉会後、有楽町駅近くのドイツ料理の酒場的なお店で懇親会。

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与謝野夫妻研究の第一人者・逸見久美先生もご出席。隣に座らせていただきました。逸見先生は連翹忌ご常連で、一昨年にはNHKさんの生涯教育番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の与謝野晶子の回にご出演、その際に光太郎の回のためにNHKさんにご紹介下さり、当方、番組制作のお手伝いをさせていただきました。

平出氏や、鉄幹晶子関連などのさまざまな活動をなさっている皆さんとお話しをさせていただき、非情に有意義な時間でした。いつものように連翹忌の「営業」もしておきましたので、これでまた人の輪が広がることを期待いたします。


【折々のことば・光太郎】

どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りは為ないのである。

散文「緑色の太陽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日に引き続き、日本に於ける初の印象派宣言とも言われ、あまりにも有名な評論から。

元々、この「緑色の太陽」は、絵画に於いて、日本固有の色彩(ローカルカラー)を重視すべしという、画家・石井柏亭への反駁が動機となって書かれたものでした。これ以前に石井は、日本の風景にはあり得ない色彩を使う新興の絵画に対し、警句を発表していました。それを受けて光太郎は、そんなものは作家個人の自由、ことさらに日本などというものを意識する必要はない、所詮、日本人には日本人しか描けないものしか描けない、と論じたのです。

東京目黒から市民講座の情報です。

第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」

期   日 : 2017年12月9日(土)
会   場 : 天恩山五百羅漢寺 講堂 東京都目黒区下目黒3丁目20−11
時   間 : 18:00~19:30
料   金 : 聴講料 500円  拝観料 大人300円 学生(高校生以上) 300円
講   師 : 藤井明先生(小平市平櫛田中彫刻美術館 学芸員)

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江戸から東京へ
らかん仏教文化講座は、東京都目黒区の天恩山五百羅漢寺を会場に開催される連続講座です。かつて本所五ツ目にあった羅漢寺は、元禄時代に仏師の松雲元慶が独力で彫り上げた五百羅漢や、栄螺(さざえ)堂で知られる江戸の名所でした。元慶によって制作された仏像群は、日本の近代彫刻を開拓した高村光雲にも大きな影響を与えました。このように近世から近代への移り変わりをみる上でも、羅漢寺は重要な場所となります。目黒へ移転した現在も300体以上の彫像が残されています。

仏教文化について学ぶ連続講座
私たちのまわりには、数多くの仏教文化が存在しています。そうした私たちの生活に身近な仏教文化の多くは、実は近代以降につくられた、もしくは知られるようになった比較的新しいものです。そのため、前近代の経典や教義に関する研究や、仏教(美術)史の研究では扱われてきませんでした。しかし、現代社会と仏教のかかわりを知る上では、近代における仏教文化の変容について学ぶことができ、きわめて重要となります。
本講座は、仏教に関心のある方であれば、どなたでも聴講できる連続公開講座です。さまざまな領域で近代以降の仏教文化の研究を行っている専門家や研究者を招き、最新の研究状況を広く、わかりやすく紹介します。


講師が小平市立平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏。昨年の連翹忌にご参加下さっていますし、今年の春に同館で開催された特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の際には、関連行事としての美術講座「ロダンと近代日本彫刻」で、光太郎に触れて下さっています。

おそらく平櫛田中や、田中の師の光雲、さらに田中以外の光雲門下の彫刻家などにも触れられるのではないかと期待しております。

先月行われた第1回の講座「五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」(講師:同寺執事/学芸員・堀研心氏)でも、光雲に触れて下さったそうで、聞き逃したのを残念に思っております。下記は『仏教タイムス』さんの記事。

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「明治期の大彫刻家・高村光雲が修業時代、寺に通って羅漢像から彫刻を学んでいたエピソード」とあります。

これは、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に述べられています。同書は700ページ超の大著で、前半が光太郎の親友だった作家の田村松魚の筆録になるという(一部は異なるようですが)「昔ばなし」、後半が折々の機会に光雲が語った講話等の集成である「想華篇」にわかれています。

このうち前半の「昔ばなし」は、『木彫七十年』(中央公論美術出版、昭和42年=1967)、『高村光雲懐古談』(新人物往来社、昭和45年=1970)、さらに『幕末維新懐古談』(岩波文庫、平成7年=1995)などの形で覆刻されていますし、インターネット上の「青空文庫」さんにも収められています。

もともと五百羅漢寺さんは本所五ツ目(現在の江東区大島)000にありましたが、本所緑町を経て、明治41年(1908)に現在の目黒に移転しています。明治初年までは境内に栄螺堂という堂宇があり、江戸や上方の名だたる仏師の手による観音像が約100体寄進されていて、光雲ら江戸の仏師はそれを手本にしていたとのこと。

ちなみに栄螺堂、「五百らかん寺さざゐどう」として、葛飾北斎の「富岳三十六景」のラインナップに入っています。堂上からの眺望が非常に良かったためです。

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しかし、廃仏毀釈のあおりで、栄螺堂は取り壊され、内部にあった観音像は下金屋という、金属の再生加工業者によって燃やされてしまいました。貼り付けてあった金箔を取るためです。その暴挙の行われる寸前に、徒弟時代の光雲と、師匠の高村東雲が駆けつけ、何とか出来のいい五体だけを救い出したそうです。その内の一体は光雲がもらい受け、終生、自身の守り本尊として崇めたとのこと。右の画像がそれですが、なるほど、後の光雲作のもろもろの観音像に通じるお顔立ちです。

作者は松雲元慶。江戸中期の僧侶にして仏師です。「雲」の字が入っていますが、光雲と直接のつながりはありません。

その松雲元慶、諸国行脚中に豊前耶馬溪の五百羅漢に出会い、自らも五百羅漢の造立を発願、さまざまな人々の助けを得、さらに松雲元慶歿後も遺志を継いだ人々によって、江戸の本所に五百羅漢寺が造営されたわけです。「暴れん坊将軍」徳川吉宗も一枚かんでいるそうです。

そのあたり、昭和4年(1929)刊行のオリジナル『光雲懐古談』の「想華篇」に詳しく述べられています。さらにモノクロですが、当時の五百羅漢の写真も掲載されています。

残念ながら『光雲懐古談』、前半の「昔ばなし」は繰り返し覆刻されていますが、後半の「想華篇」はオリジナルの昭和4年版にしか載っていません。また、豊富に載っている写真も復刻版ではかなり割愛されています。

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光雲の師・高村東雲のさらに師・高橋鳳雲が、この五百羅漢に啓発されて自らも五百羅漢像を造った話も「想華篇」に語られています。木彫原型は身延山久遠寺に納められましたが火災で焼失、鋳金にしたものは、鎌倉の建長寺さんの山門楼上に健在だそうで、機会を見て拝観したいものだと思っております。

ぜひとも「想華篇」の部分も、覆刻されてほしいものです。


話があちこち飛びましたが、「第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」」、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEIT に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。

散文「緑色の太陽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

日本に於ける初の印象派宣言とも言われ、あまりにも有名な評論です。これを読んだ智恵子が、ぜひとも光太郎に会いたいと思ったという話も伝わっています。

PERSOENLICHKEIT」は独語で「人格」の意です。

福島から写真コンテストの応募案内です。キャッチコピーが「〝ほんとの空〞のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えてください」だそうです。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採られています。 

第5回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト

 郡山市ふれあい科学館では、星や月の輝く夜とともに、福島県の豊かな自然・そして人の暮らす風景を捉えた写真作品を募集し、広く全国に紹介することを目的に「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」を開催いたします。
 星や月の輝く夜空と地上の夜の景色の融合した風景、月明かりに照らされた幻想的な夜の風景など、あなたの視点での「星・月の風景」を撮影してご応募ください。

作品テーマ 福島県内で撮影された「星・月の風景」
星空や月と風景を併せて写した「星景写真」
月の光を効果的に生かして撮影された「月光写真」や、湖面に映る星などを捉えた写真など、“星や月を
じられる”風景写真を広く対象とします。 
【注意】比較明合成を含め、画像合成などの加工を施した写真は今回の募集対象外です。
   (カメラの撮影モードで、上記と同様の処理がなされた作品も対象外となります。)
主 催
郡山市、郡山市教育委員会、郡山市ふれあい科学館(公益財団法人郡山市文化・学び振興公社)

審査員
― 全体審査 ―
鈴木一雄氏(自然写真家/福島県出身)・渡部潤一氏(天文学者/福島県出身)・郡山市ふれあい科学館長
― 特別賞審査 ―
松本零士名誉館長(名誉館長特別賞選定) ほか

応募締切 2017年11月30日(木) 消印有効

応募規定・形式
カラープリント四つ切(254×305mm) またはワイド四つ切(254×365mm)、A4サイズ、B4サイズ
ポジフィルム(マウントのうえフィルムを保護のこと)
デジタルカメラで撮影の場合、およびトリミングした作品の場合、プリントのうえ応募ください。また、トリミ
ングの有無を応募用紙に記入してください。
画像処理による被写体自体の加工、極端な色彩の変更を加えた作品は失格とします。また、倫理に反する(立ち入り禁止区域での撮影、木の枝を折るなどの行為による)作品は、判明次第失格とします。
応募点数に制限はありません
発表済みの作品でも応募可とします。ただし他のコンテストとの二重応募は不可とします。
応募者はプロ/アマチュアを問いません。モラルとマナーを守って、自然や周囲に配慮しての撮影をお願
いします。

応募方法
作品1点ごとに、必要事項を記入した応募票を、作品の裏側あるいはマウントにセロハンテープでとめて応募ください。

作品の返却
プリントの返却はいたしません。
ポジフィルムの返却は、返却希望とマウントに明記のうえ、返信用切手を貼った封筒を同封ください。

送 付 先
〒963-8002 福島県郡山市駅前二丁目11番1号 郡山市ふれあい科学館 ふくしま星・月の風景フォトコンテスト係
 ※直接持参される場合は開館日の10時~17時の受付となります。

作品の著作権
応募いただいた作品の著作権は、基本的に撮影者に帰属するものとします。ただし、以下の点において、選外作品を含め主催者が作品を使用する権利を有するものとします。
写真展での展示(今後予定している巡回展を含む)
主催者が本事業に関連して発行する刊行物および雑誌・新聞等への掲載、インターネットへの掲載
科学館事業における写真使用
今後の本事業のための宣伝・広告のための印刷物への掲載
このほか(本企画の趣旨に合致した事業を実施するために行う展示への貸し出し、およびその宣伝広告のた
めの印刷物への掲載許可など)については、その都度協議の上で対応するものとします。

選考と発表
表彰作品については、新聞紙上・カメラ雑誌・郡山市ふれあい科学館ホームページなどで氏名とともに発表いたします。
また、平成29年度以降に郡山市ふれあい科学館で行う写真展、および作品写真集「ふくしま 星・月の風景Vol.5」に掲載します。
選考後に、作品原版(ポジ・データ)の提出をお願いする場合があります(原版は一定期間後に返却いたします)。また、応募時より詳細な撮影データ(特に撮影地と撮影年月日)についても、お伺いすることがあります。

表 彰
【大賞】1点(副賞5万円) 【名誉館長特別賞】1点(副賞3万円)
【審査員特別賞】2点(副賞3万円) 
【特別賞】5点程度 【入賞】30点程度
表彰者には、作品写真集を贈呈いたします。

発表
2017年12月以降に、各受賞者へ審査結果を通知いたします。

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当方、第4回の作品展を昨年の5月に拝見して参りました。どれもこれもハイレベルで驚きましたし、福島の「ほんとの空」の魅力を再確認いたしました。

その第4回の募集が昨年の1月〆切で、その後、募集が1年以上なかったものですから、中止になったのかと思っていましたが、復活したようです。

腕に覚えのある方、ぜひチャレンジし、「ほんとの空」の美しさを広めるのに貢献して下さい。


【折々のことば・光太郎】

フランスへ行つて羨ましいのは全体の空気が凡て芸術を発達せしめるやうになつてゐることである。八百屋の下女とか洗濯屋の女房とか云ふ輩(てあひ)でも、サロンの批評位は朝飯前にやつて退(の)ける。私のよく買つた焼栗売のお婆さんは、私が彫刻をやるといふことを知つてゐるので、私を捉まへて、ロダンも昔はえらかつたが、今は大分衰へたやうだと堂々と論じだしたことなどもある。

談話筆記「フランスから帰つて」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

職業に対する差別意識が見えますが、それにしても、一般庶民がサロンやロダンをちゃんと論じられるフランスの文化水準の高さに驚く光太郎。それはそのまま、日本人の芸術に対する意識の低さへの失望につながりました。

100年以上経った現代でも、それはあまり変わっていないのかも知れません。

新刊です。

高校国語科授業の実践的提案

2017年11月10日 三浦和尚著 三省堂書店 定価2,200円+税

長年、国語(科)教育の「実践」と「研究」の「橋渡し」に取り組んできた筆者による、日常的営みとしての授業研究への実践的な提案。筆者による実際の授業実践・研究の動画4本をインターネットで配信する。

目次
はじめに
Ⅰ 【総論】授業研究のねらいと方法
Ⅱ 【提案授業1】豊かな文学世界の享受と言葉の力の獲得
-芥川龍之介「蜜柑」(高校一年)-
Ⅲ 【提案授業2】文学として味わう「古文」(伊勢物語)
-現代語訳・課題の在り方を中心に-
Ⅳ 【提案授業3】味読・批評を見通した評論の学習指導 
-松沢哲郎「想像する力」の実践を通し て-
Ⅴ 【提案授業4】 高村光太郎「レモン哀歌」の指導
 -詩の「楽しみ方」を求めて-
Ⅵ 【実践報告】小説教材を導入に生かした学習指導 
-「藪の中」「新聞記事」(高二)の場合-
Ⅶ [講演記録]国語科学習指導における発問の意義と課題
あとがき
初出一覧

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高等学校の国語科教員向けの、授業実践記録集です。「智恵子抄」中の絶唱、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を扱った授業の記録を含みます。著者の三浦氏は愛媛大学名誉教授・特命教授・副学長ということで、附属高校さんの2年生を対象にした授業実践の記録が掲載されています。帯や版元サイトの紹介文に、授業の実際をインターネットで配信中とあったので、早速拝見しました。

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IDとパスワードの入力を要求してきますが、同書に掲載されています。ID:sanseido-kokugo    パスワード:90VXnQSW07 です。生徒さんたち、公開研究授業でビデオ撮影ありということで緊張しているようです(笑)。

版元の三省堂さんで発行している国語の教科書『高等学校 国語総合』[改訂版]に、「レモン哀歌」が掲載されているようです。ちなみに東京書籍さん刊行の中学校用3年生用教科書『新しい国語 3』にも「レモン哀歌」が採用されています。中学生には中学生なりの、高校生には高校生なりの読み取りが可能でしょう。ただ、21世紀の若者には、肺結核による死、というのはイメージが涌きにくいようです。


もう1冊、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』12月号。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まり、定期購読しております。11月号は年賀状特集号ということで当該欄がお休みでしたが、今号から復活。

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今号は、散文「書について」(昭和14年=1939)から。花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、光太郎愛用の硯箱一式の写真が添えられています。

同館では来月9日から、市内4つの文化施設との共同企画展「ぐるっと花巻再発見! イーハトーブの先人たち」の一環としての「高村光太郎・書の世界」展が開催されます。下記は花巻市さんの『広報はなまき』11月15日号から。

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同館では、常設展示でも光太郎の書を多数展示していますが、それ以外にも所蔵作品が多数有り、それらの中からセレクトして展示するとのこと。

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どういった作品が出されるか、現在問い合わせ中です。詳細が分かりましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

激烈なる近世の生存の競争は、既に一般の世人をして其の日常生活に於て、昔日の如き美術的享楽を専らにする事能はざるに至らしめたり。

散文「英国に於る応用彫刻に就て」より 明治41年(1908) 光太郎26歳

このコーナー、筑摩書房『高村光太郎全集』の第一巻から始め、これは、と思う光太郎の言葉をご紹介しています。昨日までで詩の巻の第三巻までを終わり、今日から評論の巻、第四巻に入ります。

明治39年(1906)から同42年(1909)にわたった光太郎の海外留学。当初は自費でのそれでしたが、光太郎の父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格が付与され、月額60円が給付されることになりました。その義務として提出した、家具などの応用彫刻のレポートの冒頭です。

産業革命も一段落し、機械工業による大量生産品の使用が一般的となった現状への警句です。

彫刻界では唯一といっていい、光太郎同年配の親友・碌山荻原守衛の個人美術館、信州安曇野の碌山美術館さんで来週開催される美術講座です。

美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る

期    日 : 2017年12月2日(土)
会    場 : 碌山美術館  グズベリーハウス 長野県安曇野市穂高5095-1
時    間 : 18:00~19:30
料    金 : 無料

明治末、日本の彫刻に新しい展開をもたらした荻原守衛。明治、大正、昭和と彫刻家の憧れの的であり続けた高村光太郎。高村光太郎は「この世で荻原守衛に遭った深い因縁に感謝している」と述べています。そんな二人の交友を振り返ります!

パネリスト  : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
ナビゲーター :  武井敏 (碌山美術館学芸員)

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というわけで、同館学芸員の武井敏氏と、当方による対談です。

会場は館内のグズベリーハウス。毎年、4月22日の碌山忌の最後に「碌山を偲ぶ会」が開催される棟です。

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屋根の中央に見える煙突は棟内にある大きな薪ストーブにつながっており、このストーブがグズベリーハウスの象徴的存在。そのため、毎年この時期に行われる講座に「ストーブを囲んで」という題名が付されています。現地ではもう既に初雪が観測されていますので、光太郎とは真逆に寒さに弱い当方、ストーブが無ければ活動不能に陥ります(笑)。

同館では昨年、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」、今年は夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を開催して下さり、それぞれお手伝いさせていただきました。そうしたご縁で今回もお声がけ下さいまして、ありがたい限りです。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

生命の大河ながれてやまず、 一切の矛盾と逆と無駄と悪を容れて ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。 時間の果つるところ即ちねはん。 ねはんは無窮の奥にあり、 またここに在り、 生命の大河この世に二なく美しく、 一切の「物」ことごとく光る。

詩「生命の大河」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

002昨日ご紹介した「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩篇です。青年期から追い求め続けた「命(ラ・ヴィ)」、「美ならざるなし」「うつくしきものみつ」、そうした考え方の集大成といえるでしょう。

「ねはん」は「涅槃」。仏教でいうところの生死を超えた悟りの世界、さらには「極楽」とほぼ同義に使われる場合もあります。余命3ヶ月半の光太郎、既にその境地に至っていたようです。

それでもその最期まで書の展覧会開催に意欲を燃やし、亡くなる5日前まで散文の原稿を断続的に書き続けていました。

そしてその死の3日前には、その生涯の歩みを草野心平が編んだ『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを校閲、「That's the endか」とつぶやいたそうです。

その終焉は昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を作り上げた、中野の貸しアトリエでのことでした。前日から東京は季節外れの大雪にすっぽり包まれ、終生、「冬」を愛した光太郎の最期を飾りました。

追記 その後、発表された番組内容が変更になり、11/25(土)のオンエアではなくなりました。

さらに追記 結局、12/3のオンエアだそうです。


テレビ放映情報です。

<BSフジサンデースペシャル>『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』

BSフジ 2017年11月25日(土) 27時00分~28時55分  (=11月26日(日) 午前3時00分~4時55分)

秋、様々な色に染まった木々の葉が山肌を美しく彩る紅葉の季節。
今回は東北地方の二つの百名山「安達太良山」と「西吾妻山」を2時間SPでご紹介。

安達太良山は、詩人・高村光太郎の「智恵子抄」に登場する福島を代表する山の一つ。
標高1,700mの裾野に広がる紅葉は美しく、秋は特に人気の高い山。

山の案内人は、麓の岳温泉で和菓子屋を営みつつ、山のガイドをしている渡辺茂雄さん(44歳)
幼い頃から安達太良山を見て育ち、その魅力に引き込まれた渡辺さんがガイドをするのは安達太良山のみ。
「多くの人に安達太良山と、自分の生まれ育った岳温泉のすばらしさを知ってもらいたい」
そんな渡辺さんのガイドは、地元の人だからこそ知っている情報が満載だ。
さらに渡辺さんは、温泉の源泉を管理する「湯守」という仕事を冬季限定で行なっている。
安達太良山の麓にある岳温泉の湯は、安達太良山の中腹にある湯元から8キロもの距離を下ろす日本一長い引湯。
冬の間は雪が深い為、登山技術のあるガイドが湯元の管理をするのだそうだ。
安達太良山を知り尽くす地元ガイド一押しの絶景とは…

西吾妻山は、福島県と山形県の境界に位置する吾妻連峰の最高峰、標高2,035mの山。
連峰の山の中で唯一2,000mを超える山であるが、周りの山々がそれに近い高さの為、
飛び抜けて主峰という感じはしない山。
日本百名山の著者・深田久弥も「つかみどころがない」と称するほど。

そんな山を愛してやまないというのが、今回の山の案内人。
西吾妻山の麓、天元台スキー場でペンションを営む山岳ガイドの近藤明さん(62歳)
ガイド歴は40年。8,000mを超えるシシャパンマに登頂した経験があり、
年間200日以上をガイドとしてこなす山のスペシャリスト。

そんな近藤さんにとって、一番好きな山が西吾妻山。
展望がまるでない山頂だが大好きだという。
理由を尋ねると、なるほど納得の答えが返ってきた。
その理由がまた、西吾妻山の魅力を良く表現できていることに驚かされる。
ベテランガイドが愛する西吾妻山の魅力を、絶景とともにお伝え致します。

ナレーター 小野寺昭

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この番組では、平成25年(2013)放映の第26回「秋から冬へ 上高地徳本峠」でも、光太郎智恵子に触れて下さいました。

今回の放映、当初は12月3日(日)と発表され、現在も公式サイトではそうなっていますが、変更になったのか、2回放映されるのか、何とも不明です。とりあえず、11月25日というか26日未明の放映は為されるはずですので、ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

世界平和と人類破滅とが 仲よく隣同士でそこにいる。 こんな矛盾が矛盾にならないほど 微妙な天秤に人間はのつている。

詩「お正月の不思議」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

暮れも押し詰まりつつあった12月19日の作。光太郎の詩としての絶筆2篇のうちの一つです。翌年元日のNHKラジオ放送のため執筆されました。

最後まで人類の行く末を案じていたユマニスト光太郎の本質がよく表れています。

地方紙・高知新聞さんの一面コラム「小社会」。先週、歿後100年のロダンに絡め、光太郎に触れて下さいました。 

小社会 2017.11.17

 美術の教科書に載っている著名な作品の本物に出合うと、心の内でガッツポーズをしたくなる。だから印象が強く残っているはずなのに、「いつ、どこで」が定かでない作品が少なからずある。

 フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの「考える人」もその一つ。東京・上野の国立西洋美術館の前庭にある大きな像は何度も見ているが、原型の小さな像との初対面は思い出そうとしても出てこない。

 40年余り前に、高知市で開かれた同美術館所蔵の「松方コレクション展」で見たという県民は多いだろう。実業家の松方幸次郎が1910年代から欧州で収集し、59年にフランス政府から日本に寄贈返還された絵画や彫刻のコレクションだ。

 中でも、ロダンの彫刻は世界でも有数の規模を誇るという。「考える人」のほか、「青銅時代」「地獄の門」「バルザック」といった代表的な作品が網羅されている。日本にロダンのファンが多いとされるのは、松方のおかげといえるかもしれない。

 美術学校生の時に雑誌でロダンに出合った高村光太郎は、のどが詰まりそうな気がしたという。当時の西洋の彫刻家とはまるで異なり、日本人の作家に近いと感じたようだ。ロダンは日本の職人かたぎに感心し、「あれでなくては芸術はできない」と述べたと光太郎が書き残している。

 近代彫刻に新たな生命を吹き込んだロダンが77歳で没して、きょうでちょうど100年になる。


というわけで、光太郎が敬愛し、確かに日本にもファンの多いロダン。公開中のフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」(次の日曜に観て参ります)、上野の国立西洋美術館さんで開催中の「《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』」展など、好評のようです。


もともとロダン作品を多数所蔵されている静岡県立美術館さんでは、以下の企画展が開催中です。

彫刻を撮る:ロダン、ブランクーシの彫刻写真

期 日 : 2017年11月14日(火)~12月17日(日)
会 場 : 静岡県立美術館 静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 10:00~17:30
料 金 : 一般:300円(200円)/大学生以下・70歳以上:無料
      ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 毎週月曜日

2017年は、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840〜1917年)の没後100年にあたります。
これを記念し、日本でも有数のロダン・コレクションを誇る当館は、「ロダン没後100年に寄せて」という総称のもと、彫刻家ロダンと写真との関係に着目した3つの小企画展を連続で開催します。
写真術が誕生したのは19世紀。
多数の芸術家がこのメディアを積極的に活用しました。
ロダンも例外ではなく、自作の彫刻を写真家に撮影させ、1890年代以降、それらの写真を作品として展覧会に出品しました。
本企画は、当館所蔵品を中心に、ロダンと写真との関係性を直接に物語る作品のみならず、ロダンとほぼ同時代の彫刻家ブランクーシの自撮による彫刻写真や、さらにはロダンの彫刻を現代の写真家が撮影したものなど、複数の作品/テーマを組み合わせることによって、ロダンの芸術観や写真観を多方面から再考する試みです。
ロダンの新たな一面をご紹介する本企画。
ご鑑賞の後は、ロダン館へも足をお運びいただき、新たな視点でロダン芸術を丸ごと味わってください。

写真を積極的に活用したものの、決して自ら撮影は行わなかったロダン。 ロダンと交流のあった彫刻家ブランクーシは、彼とは異なり、第三者に作品の撮影を任せず、自らアトリエの演出・照明・撮影の全てを行いました。ロダンおよびブランクーシの彫刻・アトリエや肖像を撮影した写真を展示し、その相違や、彫刻家と写真との関係について再考します。


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第1,2は紹介しませんでしたが、「ロダン歿後100年に寄せて」の総題で9月から始まっている企画展示の第3弾です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一年の目方がひどく重く身にこたえ、 一年の味がひどく辛く舌にしみる。

詩「開びゃく以来の新年」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

翌年の『中部日本新聞』他の元日号のために書かれた詩の冒頭部分です。草稿に残されたメモによれば、制作の日付は12月5日。光太郎、余命4ヶ月足らずです。その自覚も既にあったと思われます。

この年4月には宿痾の肺結核による大量の血痰。7月まで赤坂山王病院に入院。退院し、中野のアトリエに戻りましたが、もはや手の施しようがないという意味での退院でした。それでも岩波文庫版『高村光太郎詩集』の校閲をしたり、筑摩書房版『宮沢賢治全集』の題字揮毫、装幀を行うなど、その歩みを止めることはありませんでした。

10月にはラジオ放送のための対談を草野心平と行い、その音源はNHKさんに残っています。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する部分は、先月、十和田市で講演させていただいた際に聴衆の皆さんに聴いていただきました。

学会情報です。
会 場  : 日比谷コンベンションホール 
       千代田区日比谷公園1番4号 千代田区立日比谷図書館B1
時 間  : 13時40分~16時40分
参加費  : 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
主 催  : 明星研究会

第1部 講演 「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」
       松平盟子(歌人)
第2部 シンポジウム 「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」
   坂井修一(歌人):木下杢太郎 細川光洋(静岡県立大学教授):北原白秋
   前田宏(歌人):萩原朔太郎   松平盟子(歌人):高村光太郎

 100年余り前の明治末期、詩歌の尖鋭たちを擁する「明星」は、文語定型詩から口語自由詩へ移行する詩界の激流に直面しました。日露戦争後の経済格差と閉塞感漂う時代の空気は、隆盛しつつあった自然主義文学の現実暴露に表現の真実を見出し、美的で自己肯定的な浪漫主義や言語美に詩情を託す象徴主義を過去のものへと追いやろうとしたのです。
  口語自由詩は、時代に適った表現なのか。素材やテーマはどう追求されるべきなのか。「明星」の詩歌人たちはその変革にどう立ち向かい、自らの表現を獲得しようとしたのでしょう。言葉と韻律をめぐるこの詩歌のドラマを、現代短歌まで視野に入れて考察します。
  多くの皆さまのご参加を期待致します。

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今年6月に開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」の際、知遇を得ました歌人の松平盟子氏からご案内を頂きました。

毎年この時期に開催されている同会の公開シンポジウムでは、平成26年(2014)の第8回一昨年の第9回でも光太郎に触れて下さっていましたが、日程が合わず欠礼させていただいて参りました。今年は参加させていただくことにしました。

会場は毎年連翹忌を開かせていただいている日比谷松本楼さんの隣、日比谷図書館さんです。当日受付も行っているそうですので(定員200名)、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

こまかい事を思いだすと 気の遠くなるような長い十年。 だがまたこんなに早く十年が とぶようにたつとも思わなかつた。 はじめてここの立木へ斧を入れた時の あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。

詩「開拓十周年」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

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盛岡で開催された岩手県開拓十周年大会に寄せた詩の一節です。戦後の開拓者視点で、その労苦の日々を謳っています。終戦の年、花巻郊外太田村の山小屋に入り、まがりなりにも農耕自炊の生活を7年間送った光太郎も、開拓者の端くれと言えましょう。実体験に根ざした同じ目線からのこの詩には、全国の開拓者たちから多大な共感が寄せられました。

正式な光太郎詩碑というわけではありませんが、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)の開拓に心血を注いだ平田良衛は、この詩を読んで感動し、小高にこの詩を刻んだ碑を建てました。

先週日曜の朝にオンエアされたNHKさんの日曜美術館「皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」、今夜、再放送があります。現在、東京上野の東京藝術大学さんで開催中の東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を取り上げています。

日曜美術館「皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」

NHKEテレ 2017年11月19日(日)  20時00分~20時45分

昭和天皇のご結婚の際に献上された美術品が皇居から初めて持ち出され公開された。一流の工芸家たちが5年の歳月をかけた奇跡のプロジェクトの作品を紹介する。

東京芸術大学の美術館で開催されている展覧会。金のまき絵やらでんが一面に施された飾り棚。天皇と皇后用に1対で献上された豪華な作品である。また48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。実はこのプロジェクトには中止に追い込まれそうな危機があった。皇室の秘宝とともにその秘められた物語を紹介する。

出演 井浦新 高橋美鈴 古田亮(東京藝術大学准教授)


冒頭近くで、番組のつかみ的に、光太郎の父・高村光雲の「鹿置物」(大正9年=1920)が、大きく取り上げられました。

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番組進行役の井浦新さん、髙橋美鈴アナも感嘆しきり。


メインで取り上げられた作品は、大正13年(1924)の皇太子ご成婚を奉祝する御飾り棚一対(昭和3年=1928)。その超絶技巧があますところなく解説されていました。

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棚自体は、蒔絵師を中心とした職人達の手になるものですが、この棚を飾る各種工芸品などの中に、光雲の「木彫置物 養蚕天女」(昭和3年=1928)も含まれていました。

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この「養蚕天女」が単体の作でなく、このためのものだったというのは、同展の図録を読んで初めて知りました。ちなみに今回は展示されていませんが、皇室にはこれより一回り大きい「養蚕天女」も奉納されています。

関東大震災による甚大な被害を乗り越え、「こういう時だからこそ」と、自粛ムードをはねのけてこれらを作り上げた人々の思いにも言及されており、美術作品そのものだけでなく、背景のドラマを知ることの重要性も再認識しました。


もう1点、大きく取り上げられたのが、やはり一対の「二曲御屛風」(昭和3年=1928)。

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こちらには、光雲三男にして、家督相続000を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ、鋳金の人間国宝・髙村豊周の作「石楠花(しゃくなげ)」も張り混ぜられています。

全体としては、48名の作家の扇面型、色紙型の作が配され、制作方法も多種多彩。金工あり、木工あり、七宝や象嵌、蒔絵、漆工芸など、百花繚乱の感があります。

この中では、豊周の「石楠花」は色合い的にも地味な作なので、番組では取り上げられませんでしたが、写るには写りました。

大きく取り上げられたのは、豊周の作の斜め下に配された青山泰石の「木画扇面 松叭々鳥」。これが筆で描いたものでなく、木に木をはめ込んで作られているというのですから驚きです。

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だからといって、豊周の鋳金の方が劣っているということにもなりません。技法がまるで違うもの同士、比べようがありませんから。

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藝大美術館さんでの展覧会(今月26日(日)まで)ともども、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人類はじめてきのこ雲を知り、 みづからの探求は みづからの破滅の算出。 ノアの洪水に生きのこつた人間の末よ、 人類は原子力による自滅を脱し、 むしろ原子力による万物生々に向へ。

詩「新しい天の火」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

この時期、原子力の平和利用ということが、盛んに論じられていました。旧ソ連では世界初の原発が稼働、もう少し後には民間船舶にも原子力機関搭載の原子力船が導入されるようになります。まさに「原子力 明るい未来の エネルギー」的な風潮だったわけです。

しかし、第五福竜丸事件もこの年でした。それから広島、長崎の悲劇を踏まえ、懐疑的な見方を示しつつも、光太郎は基本的に原子力の平和利用推進には肯定的でした。このあたり、昔から社会認識の部分では、周囲に流されて「甘い」見方になってしまうという、一種の光太郎の弱点が露呈されてもいます。

およそ60年後の福島の惨状など、思いもよらなかったのでしょう。一概には責められませんが。

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「智恵子抄」を扱って下さる公演を二つご紹介します。

まずは朗読系。

日本近代文学館リーディングライブ2017

期   日  : 2017年11月25日(土)
会   場  : 日本近代文学館 東京都目黒区駒場4-3-55
時   間  : 12時50分~16時
料   金  : 無料

紅葉が美しい今日このごろ♪今年も『日本近代文学館リーディングライブ』の季節がやってまいりました。入場無料で出入りも自由、ご予約も不要です。(入退場の際はお静かにお願いします・朗読中は会場内は暗いですのでお気をつけて)開演は12時50分に変更となりました。(開場:12時20分)
駒場公園内ですので、お散歩したり、ブックカフェBUNDANで「文豪が愛した食べ物や飲み物」を味わったり、「日本近代文学館開館50周年記念展 漱石・芥川・太宰から現代作家までー近代文学、再発見!」の最終日をじっくり観覧したり、様々な楽しみ方があります。お隣の東大では駒場祭も開催中!でも、ちょっとだけ朗読会をのぞいて下さると嬉しいです。出演者の方々には「トーク&ロウドク」をお願いしております!「朗読を楽しむための朗読会」!!芸術の秋を満喫していただければ幸いです(*^-^*)

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30名の出演者さんのうち、高木恵子さんという方が「智恵子抄」から朗読をなさるそうです。

このイベント、3年前にも他の方が「智恵子抄」を取り上げて下さっています。


もう1件、音楽系で。

日本歌曲に求める無限の楽しみ 第27回 似たもの同志・名曲探訪18 愛

期   日  : 2017年12月6日(水)
会   場  : 音楽の友ホール 東京都新宿区神楽坂6-30
時   間  : 19:00~21:00
料   金  : 4000円 (全席自由)

愛を題材とした日本の名歌曲を鑑賞する夕べ
日本歌曲の名作を集めて聴くシリーズコンサート。今回のテーマは愛。日本歌曲に造詣の深い塚田佳男の司会・解説でその魅力に迫る。

出 演 : 小林晴美・西由起子・山本佳代(ソプラノ) 廣澤敦子(メゾソプラノ)
      土崎譲(テノール) 
塚田佳男・小原孝(ピアノ) 
曲 目 : 「愛を告げる雅歌」から(中田喜直) 愛の主題による三章(湯山昭)
      「智恵子抄」から(清水脩)  よろこびのうたを(大中恩)
      しぐれに寄する抒情 他


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作曲家の故・清水脩氏は、合唱曲、独唱歌曲、さらには箏曲でも「智恵子抄」の詩篇や短歌に曲を付けて下さいました。現在でもけっこう演奏されています。

今回は、歌曲「智恵子抄」から。全12曲中のどれが歌われるかまでは把握していませんが。

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いつも書いていますが、さまざまな分野の表現者の皆さんに、どんどん光太郎作品へのオマージュをお願いしたいところです。


【折々のことば・光太
郎】

バルトークの悲しみや怒りが 第三の天で鳴つている。 
冬の夜風は現世を吹くが、 あの四重奏がもつと底から悲しくて痛くて。
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詩「弦楽四重奏」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

この年2月3日、日比谷公会堂で聴いたたブダペスト弦楽四重奏団のコンサートにインスパイアされての詩です。

バルトークの弦楽四重奏曲第6番がプログラムに入っていました。光太郎より2歳年上のバルトークは、ハンガリー王国の出身。第一次、第二次双方の世界大戦に翻弄され、昭和15年(1940)にアメリカに移住、5年後に彼地で歿しています。その波乱に富んだ生涯に、自らのそれが重なり合うような気がしていたのではないかと思われます。「第三の天」は、キリスト教での神の座です。

光太郎の父・高村光雲の作品が出品される企画展で、今月初めまで愛知の豊橋市美術博物館さんで開催されていたものが、奈良に巡回です。

ニッポンの写実 そっくりの魔力

期 日 : 2017年11月23日(木・祝)~2018年1月14日(日)
会 場 : 奈良県立美術館 奈良県奈良市登大路町10-6
時 間 : 午前9時~午後5時
料 金 : 一般・大学生 400(300)円 高大生 250(200)円 小中生 150(100)円
      (  )内20人以上の団体料金
休館日 : 月曜日(祝日の場合はその翌平日) 12月27日(水)~1月1日(月・祝)

何かにそっくりなものを眼にしたとき、私たちは「すごい!これ、本物?」と、素朴な驚きを覚えます。
眼に見えるものをあるがままに再現することへの欲望は、私たちの心に深く根ざした、古くて新しい感情なのではないでしょうか。「現実の事象をそのまま写し取ること」-日本の近代美術家たちは、近世までの「写実」の伝統を土壌としながら、西洋美術の流入を大きな刺激として、多様な「写実」へのアプローチを試みてきました。そして現代では近年、精緻な写実表現を目指す動向とともに、彫刻や工芸においても、日本の伝統的な技術の上に、克明な再現を軸とする表現が注目を集めています。
その一方でまた、写実を包括した超絶技巧と呼ばれる表現形態では、絵画にとどまらず、日本の伝統技術を追究した木造彫刻・金属工芸をはじめ、人体、動植物、日用品を克明に再現した作品も際立って注目されています。また、映像の世界においても、これまでの「記録」としての画像を凌ぐ超密度な画素と装置、アプリケーションも広く一般に流通し、わたしたちの「写実」に対する認識を変化させつつあります。 
この展覧会では、あらゆる対象があらゆる形態で写実的に表現されうる現在の状況、それによりかわろうとしている今日の「リアル」に対する感性のありようを、約80点の写実絵画、超絶技巧による立体作品、高精細な映像作品を通じて考える機会としたいと思います。

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関連行事

(1)  記念対談「“そっくり”で読み解く写実の魅力」
  12月3日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:丸地加奈子(豊橋市美術博物館 主任学芸員)
  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(2)  講演会「新写実憧景」
  12月10日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:南城守(前奈良県立美術館学芸課長)
  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(3)  美術講座「そっくりの魔力」
  1月7日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:深谷聡(当館主任学芸員)  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(4) 学芸員によるギャラリー・トーク 12月16日(土曜日)、12月23日(土曜日・祝日)、
  1月13日(土曜日) 14時から15時頃まで 展示室 要観覧券
(5)  ミュージアムコンサート レクチャールームなど
(6)  ワークショップ「そっくり工作に挑戦!」1階無料休憩室 会期中随時・参加費無料


ありがたいことに公式サイトに出品リストが出ており、光雲作品は豊橋巡回と同じ3点とわかりました。

「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点です。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

紅顔、白髪、 「記者殿」は超積極の世界に生きて 時代をつくり、時代をこえ、 刻々無限未来の暗黒を破る。

詩「記者図」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

この年1月の『新聞協会報』第1000号の記念号に載った詩で、「紅顔」の新米から「白髪」のベテランまで、新聞記者さんたちへのエールです。

「事件にぶつけるからだからは/火花となって記事が飛ぶ。/どこへでも入りこみ/どんな壁の奥でも見ぬく。」
「対象に上下なく、/冒険は日常茶飯。/紙と鉛筆とカメラとテープと、/あとはアキレス筋の羽ばたく翼。」といった部分もあります。

光太郎同様、戦時中は大政翼賛会の提灯持ちと化してしまった新聞社も、占領下のGHQによる新たな束縛の時期を経て、この頃には正常化していました。

ところが現代はどうでしょう。少しでも政権批判的な事を書けば、やれ「偏向報道」だの「工作員」だのと騒ぎ立てる輩にあふれ、国会議員まで「○○新聞死ね」と発言して憚らない現実。検証や批判―「暗黒を破る」使命を放棄し、与党の機関誌かと見まごう御用新聞もまかり通っています。

気骨ある「記者殿」の伝統の火を消さないで欲しいものですね。

たまたまネット上で見つけました。

篠原貴之水墨絵画展-水墨の新境地-

008期 日 : 2017年11月15日(水)~11月21日(火)
会 場 : 松屋銀座 7階遊びのギャラリー
      
東京都中央区銀座3-6-1
時  間 : 10:00-20:00 最終日17:00閉場
料  金 : 無料

京都府在住の水墨作家、篠原貴之。水墨画という東洋独自の伝統技法を使いながらも、西洋と東洋の垣根を取払った自由な視点で、現代の感性にフィットした水墨画の世界を創りだしています。全国各地で展覧会活動を展開する他、依頼を受けての襖絵や肖像画、小説や雑誌の装画やカレンダーの原画、テレビ番組とのコラボ等々、水墨画を活かす様々な分野を舞台とし積極的に活動しています。今回はどのような新作を発表してくれるのか、どうぞご期待ください。

【篠原貴之 プロフィール】
1961年 京都生まれ
1980年 京都市立日吉ヶ丘高等学校美術工芸コース西洋画科卒業
1986年 京都市立芸術大学美術学部彫刻科卒業、同大学院彫刻科入学
1987-1990年 イタリア国立ミラノ美術学院彫刻科に、イタリア政府給費留学生として留学
1990年 京都芸術短期大学(現京都造形大学)にて講師を務める傍ら、李庚先生、藤原六間堂先生の指導を受け水墨画を始める
1992-1994年 中国中央美術学院国画科に文部省派遣中国政府国費留学生として留学
1994年- 水墨画の創作、発表に専念
1997年 篠原貴之水墨画集『空と人と大地と』を出版
2001年 篠原貴之水墨画集『墨いろの旅—イタリア・日本—』を出版
2002年 直木賞受賞作『生きる』(乙川優三郎著、文芸春秋刊)の扉絵を担当
2003年 篠原貴之水墨画集『墨いろの情景』を出版
2005年 梅林寺(豊中市)に襖絵「降魔成道—菩提樹の下で—」を奉納
2007-2014年 国立新美術館にて現代水墨作家展招待出品
2009-2014年 京都を拠点とする日本画家グループ NIHONGA・京(日本橋三越本店 企画)結成、参加
2010年 ポルトガル国立ポルト大学美術学部にてアーチストレジデンス(制作、展覧会、授業)フランス ニース リオン近郊にて水墨ワークショップ
2011年 繁久寺(富山県)に襖絵「万葉故地」を奉納
2012年 パラッツォ デッレ プリジオーニにて個展(イタリア ヴェネチア)ブーアルジェンタにて個展(フランス ローヌ)
2013年 NHK音楽ドキュメンタリー番組「涙の書」のための水墨画作品 20点制作
2014年 フランス人水墨画愛好グループART ZENの依頼で、京都美山 奈良にて水墨画研修会を企 画、講師を務める。

ご本人のブログに、出品作品のご紹介が出ていました。その中で、「レモン哀歌」という作品も紹介されていました。

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いい感じですね。

いつも書いていますが、さまざまな分野の表現者の皆さんに、どんどん光太郎作品へのオマージュをお願いしたいところです。


【折々のことば・光太郎】

かんかんたる君子はコメデイヤン。 目から鼻にぬける時代は過ぎて 音よりもはやいジエツトが飛ぶ。 山の中にとり残された詩経の民が 旧暦の雪の中で炭を焼く。

詩「かんかんたる君子」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「かんかん」は、あえて仮名表記にされていますが、いくつかの意味を込めるためにそうしているものと思われます。

当方手持ちの『広辞苑』には、16種の「かんかん」が登録されていますが、そのうち、当てはまりそうなものは以下の通り。

【閑閑】 心しずかに落ち着いているさま。心ののどかなさま。
【寛緩】 ゆるやかなさま。おおようなさま。
【緩緩】 ゆるやかなさま。いそがぬさま。
【侃侃】 剛直なさま。

「コメデイヤン」との自虐を含みながらも、万事にスピードが求められる時代の流れに逆らい、ゆっくり歩もうとする決意の表明です。さりとて、頑固にライフスタイルを変えることを拒否する保守的な老人のたわごとというわけでもありません。

手控えの詩稿に書き込まれた制作の日付は12月9日。10月下旬に最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式に参加し、いったん帰京。11月25日から12月5日まで、いまだ住民票を残したままの花巻郊外太田村に帰り、その直後の作です。

東京と太田村を行ったり来たりしながらの生活を考えていた光太郎ですが、結局は健康状態がそれを許さず、この後、東京を出ることなく歿します。

一昨日の『福島民友』さんの記事から。 

智恵子ゆかりの地へようこそ 福島・二本松、ガイドボード除幕

 福島県二本松市出身の高村智恵子と夫・光太郎の世界観を学び、功績を顕彰している「智恵子のまち夢くらぶ」(熊谷健一代表)は、同市油井の智恵子の生家(旧長沼酒造店跡)近くに智恵子ゆかりの地などを案内する「智恵子のまちガイドボード」を設置した。
 智恵子純愛通り記念碑前に掲げられたガイドボードは縦2.25メートル、横2.7メートル。
 同生家をはじめ「樹下の二人」詩碑、長沼家墓所の満福寺、母校の油井小など18カ所を示した。
 市の「市民との協働による地域づくり支援事業」を活用して整備した。
 12日までに行われた除幕式では、熊谷代表が「訪れる人たちの役に立つことができればうれしい」とあいさつ。新野洋市長や小泉裕明市教育長、服部光治あだち観光協会長らと共にガイドボードを除幕した。

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場所は、智恵子生家・智恵子記念館と、その駐車場の間。故・髙村規氏の揮毫による「智恵子純愛通り」碑(上の画像の右端に写っています)のある小さな緑地です。こちらでは、この碑の建立祭などの催しが開かれたりもしています。

元々は、智恵子のまち夢くらぶさんの編集、A3判二つ折りのカラー印刷で平成26年(2014)に無料配布された「智恵子のまちガイドマップ」。全4ページの1ページめが、今回ボードに拡大された地図。智恵子が居た当時から残っている建造物や石碑、何も無くなってしまっているものの、「ここだよ」という場所がピックアップされています。

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残り3ページが二段組みで地図中の各ポイントの説明になっています。

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この辺りを訪れる皆さん、智恵子生家と記念館を見て終わり、という方も結構いらっしゃるように感じています。少し日程に余裕を持たせ、この地図を元に周囲を歩くことをおすすめします。智恵子と関係のないところでも、「古き良き日本の原風景」的な景観が随所に残っています。


【折々のことば・光太郎】

いさぎよい非情の金属が青くさびて 地上に割れてくづれるまで この原始林の圧力に堪へて 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。

詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

彫刻家光太郎の最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に寄せた詩の終末部分です。

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こちらは昔のテレホンカード。現地ではそろそろこういう情景になるでしょう。

この像は、戦後すぐの頃から光太郎が構想を抱いていた「智恵子観音」の具現化という意味合いもありました。

智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(九十九里)におきたいと考えています。
(昭和25年=1950 神崎清との対談「自然と芸術」)

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解く際に作る彫刻は、自らの彫刻家人生の集大成ともいえる、「美」の象徴たるものでなければと考えていたはずです。そうした彫刻を作るとなると、それはどうしても智恵子の姿にならざるを得ませんでした。

  たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸かをつくろうと決めた。
  (略)
  湖の。あの一種の絶景を見て。
  あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
  それはほんとうにそう思つた。
  そしてその晩。
  自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
  独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
  この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
  そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子が
   そんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
  (略)
  あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
  精神は肉体であるその実在を。
  かたちにする。

そうした光太郎の思いを代弁した草野心平の詩「高村光太郎」の一節です。

もっとも、光太郎自身は、昭和28年(1953)10月23日(「乙女の像」序幕の2日後)、青森市野脇中学校で開催された文芸講演会の席上、心平がこの詩を朗読したことに対し、

 先ほど朗読された草野君の詩『高村光太郎』について、ちよつといつておきたい。十和田の記念像の裸婦は智恵子を偲んで、こさえたように草野君の詩にあるが、必ずしもそうではない。もちろん何かが契機になつていることは確かでしよう。いや、そういうもののない芸術はあり得ないことで、もしそういうもののない芸術があるとすれば、それは公式的なものであつて弱い。そういう意味で私の作つた記念像に何かの契機があつたことは認めるが、あれは草野君のような『詩人バカ』が(笑)誇張していつてるんですヨ。

と、流しています。

しかし、これは「乙女の像」が国立公園指定15周年の記念モニュメントという公的な依頼だったことに起因する、表向きの発言でしょう。

心平以外にも周辺の複数の人物が、いろいろと証言しています。

東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、「智恵子を作ろう」と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩されたものであつたが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田湖のモニユマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである。
                    (谷口吉郎「十和田記念像由来」 『文芸』臨時増刊号 昭和31年=1956)

製作にかかる前、
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。
      (藤島宇内「逝ける詩人高村光太郎」 『新女苑』第二十巻第六号 昭和31年=1956)

さて、この項冒頭の詩句。これについては、やはり光太郎と交流の深かった伊藤信吉が、こんな事を書いています。

詩と彫刻の両面から、愛と追慕の思いを最終的に表現したとき、光太郎はすでに死を予感したかもしれない。ほろびるのは自分の肉体であり、残るのは愛の造型とその詩だからである。投げつけるようなこの言葉は哀惜の反語である。同時に生涯の愛の表現を完了したことの嘆息である。
(伊藤信吉 「湖畔の乙女像 十和田―高村光太郎」
 『詩のふるさと』 新潮社 昭和43年=1968)

「生涯の愛の表現の完了」。たしかに、間接的にではありますが、智恵子に関わる詩としては、これが絶筆となりました。


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こちらは、「パラ」ということで、日中韓の障がい者の方々による書の作品展がメインでしたが、特別展示と言うことで、光太郎を含む各界著名人の書も展示されていました。

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展示されていた光太郎の書は、当方、初めて見るものでした。一見して昭和10年代のものだな、とわかりましたが、帰ってから調べたところ、昭和17年(1942)の詩「みなもとに帰るもの」の一節でした。

   みなもとに帰るもの002

 万古をつらぬいて大御神(おほみかみ)はおはす。
 いのちのみなもとを知るもの力あり、
 微少なほ且つ大業を果す。
 おのが身に思ひわずらふもの、
 ひとへに暗くして大義に通ぜず。
 ただみなもとにかへるを知るもの、
 日月皎然、
 生と死とを問ふことなく、
 一切をあげて大御心にこたへまつる。
 冬と春と夏と秋とすでに去り、
 十二月八日再びきたる。
 軍神は死せず、
 いのちかがやきてわれらを導く。
 義勇公に奉ずるの時今日(こんにち)にあり。
 われらあらゆる道に立つもの、
 悉くいのちのみなもとにかへらんかな。
 みなもとに帰するものは力あるかな。

初出は昭和17年(1942)11月の『東京日日新聞』。「軍神につづけ」の総題で13人の詩篇が連載されたその第一回です。同紙ではこの詩としての題名は付けられて居らず、後に大政翼賛会文化部発行のアンソロジー『軍神につづけ』(昭和18年=1943)に収められた際、「みなもとに帰するもの」の題が付され、さらに同年の光太郎詩集『をぢさんの詩』で「みなもとに帰るもの」と改題されました。

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出品されていた書は色紙で、この詩の2行目から引用された「みなもとをしるもの力あり」。詩では「知る」と漢字ですが、書では「しる」と仮名表記になっていました。「光」一字のサインも入っていました。

この時期、特に学徒動員で出征する学生が、入営前に光太郎の元を訪れ、色紙や光太郎詩集の見返し、さらに日章旗などに揮毫してもらうということが多くありました。新聞雑誌や各種アンソロジー、そして光太郎自身の詩集などに矢継ぎ早に発表されたこの手の翼賛詩を読み、またはラジオで朗読された放送(この詩も昭和17年=1942の12月5日に俳優・岩田直二の朗読がオンエアされています)を聴いた若者達が、自らを奮い立たせるため、光太郎の書を求めたのです。

当方、実際のそういう体験談を複数の方々からお伺いしました。今春亡くなった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏、光太郎と深い交流のあった、ともに画家の深沢省三・紅子夫妻の子息・竜一氏、東洋大学の学生だった藤尾正人氏。また、軍隊ではなく中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場に勤労動員されていた、女優・渡辺えりさんの父君・正治氏にも。

おそらく、出品されていた書も同じような経緯で書かれたものではないかと推定されます。当方がお話を伺った皆さんは、それぞれ九死に一生を得て戦後まで生き延びられましたが、この書をもらった人は、どういう運命をたどったのか、興味深いところです。

結局、戦場や動員先の工場などで露と消えた命も多数あり、光太郎はある意味、自らがそれらの若者を死に追いやったことを深く反省、戦後は花巻郊外太田村の山小屋で、自虐ともいえる過酷な蟄居生活を7年間続け、天職と考えていた彫刻も自らへの罰として封印し、贖罪に徹しました。

今回の展覧会は、中韓の皆さんの作品も多く展示されていました。日本にこういう詩人がいたということが、広く知られて欲しいものだと思いました。


豊島区役所さんをあとに、続いて、荻窪駅近くの荻窪小劇場さんに向かいました。こちらでは、Dangerous Boxさんという演劇ユニットによる「門ノ月~Aida~/智恵子抄」という公演を拝見。

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この手の公演(特に複数回上演される場合)で、満席になって入れないということはありえなかったので、今回もなめてかかっていましたが、案に相違し、ようやくキャンセル待ちで入れていただきました。小劇場ですのでキャパが少なかったというのもありますが、どうも、根強いコアなファンの方々が存在するようです。

一言でいうと、若い皆さんのパワーに圧倒されました(笑)。

「智恵子抄」系は、年配の方が演じるケースが多く、また、若い皆さんの劇団でも、脚本はベテランの方だったりし、どちらかというと「穏健な」舞台になる印象があります。また、やはりどうしても、一般の方々向けに光太郎智恵子の生涯的な部分を「説明」せざるを得ないかな、という気がします。たとえば昨年、十和田市で上演された地元劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇は、当方が書いたジュブナイルを元にして下さいましたが、大半は「説明」でした。それはそれで小学生にでも理解してもらえることを目指した親切心なわけで、場合によっては必要です。

しかし、「理解されないのが怖い」という理由で、過度に「説明」をする必要はないのだな、と感じました。今回の舞台では、極力「説明」を避け、とにかく取り上げる「智恵子抄」の詩篇と、演者のパフォーマンスで勝負、という感じでした。あれを観て光太郎智恵子の生の軌跡が詳しく分かるかというと、そうではありません。しかし、わからないなりに感じるものは多々あったと思います。「Don't think! Feel!」ですね(古っ)。

説明抜きで感じさせるには、パワーが必要です。バックの音楽には神井大治さんという方のエレキ三味線が入り、かなりの大音量。それに負けずにノーマイクでやらねばなりませんから、光太郎役の役者さん、「絶叫」に近い朗読でした。20分ほどの上演時間でしたが、あれをあれ以上続けたら死ぬな、と思いました(笑)。

それから袴姿の智恵子役の女性、白い装束のダンサーの女性。現身(うつしみ)の智恵子と、さまざまなものから解放されたがる智恵子の内面のように見え、影と形の如く向かい合う光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のようだと感じました。

シュールといえばかなりシュール。これは若い皆さんでないと演じきれない演出だな、と思いました。

しかし、ある意味突き放して「感じ」させるだけでなく、理解を助けるための工夫もちゃんとされていました。朗読された光太郎詩篇のうち、現代では意味が通じにくい詩句は、わかりやすいように改変していたのです。「レモン哀歌」では「山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸」の「山巓」を「山のてっぺん」的に、「梅酒」の「厨に見つけたこの梅酒」の「厨(くりや)」を「台所」というふうに。著作権の中の同一性保持権(著作物及び その題号につき著作者の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利)という観点から見ればNGですが、この場合には有りでしょう。

もう一つの演目、「門ノ月」の方は、自らも命を絶った殺人犯のいまわの際の夢幻、的な内容で、部分的には「智恵子抄」にもリンクしていました。こちらも熱のこもった舞台で、根強いコアなファンの方々が存在する理由がよくわかりました。

いつも書いていますが、書にしても舞台にしても、こういう活動を通し、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる人の輪が広がっていくことを祈念してやみません。


【折々のことば・光太郎】

一切が商品、一切が金、 あぶくのやうにゼニをつかんで 米粒ひとつも生産しない。 頭ばかりのゴーストが すばやく、ずるく、小またをすくひ、 口腹ばかりの怪物が 巷をうめてかけずりまはる。 ト、ウ、キ、ヤ、ウはどこにもない。

詩「東京悲歌」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

花巻郊外太田村から7年ぶりに帰ってきた東京。戦後の混乱期の残滓はまだあちこちに残っていたと思われます。そろそろ高度経済成長が始まる時期ですが、その分、環境問題などに対する配慮も無かった時代ですし、おそらく今の東京より醜い都市だったのではないでしょうか。

土曜日、久しぶりに都内でかなり長い距離を歩きました。道々、現代の東京であれば、かえって光太郎の眼には好ましく写る部分もあるのでは、とも思いました。

一昨日、上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見したあと、谷中を抜けて千駄木へと歩きました。

谷中は明治23年(1890)~同25年(1892)、光太郎一家が一時居住していました。父・光雲は同22年(1889)から東京美術学校に奉職、谷中に移ってから教授に昇格するとともに、帝室技芸員も拝命し、皇居前広場の楠木正成像の制作主任にもなりました。代表作の「老猿」も谷中で制作しました。

ところが光太郎が尊敬し、強く感化を受けていた6歳年上の姉・咲(さく)が16歳の若さで肺炎で亡くなり、失意の光雲は谷中の家に居たたまれず、千駄木への転居を決めました。

さて、不忍通りを渡って団子坂を上り、森鷗外の観潮楼跡を過ぎて、路地を右に入ります。少し歩くと、現在も続く髙村家。家督相続を放棄した光太郎に代わり、後に鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が跡を継ぎました。豊周令孫の朋美さんが庭掃除をなさっていました(笑)。

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その手前が目的地・旧安田楠雄邸なのですが、安田邸は髙村家とは逆サイドに正面玄関があり、さらに路地をくねくねと進み、旧保健所通りに出て、少し戻ります。
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豊島園の創設者・藤田好三郎によって大正8年(1919)に建てられた邸宅を、安田財閥の安田善四郎が買い取り、その子、楠雄が住み続けました。

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こちらでは、水曜、土曜のみ「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。故・髙村規氏は豊周の子息、つまりは光太郎の令甥。写真家として活躍された方でした。

入り口で入場料700円也を納め、靴を脱いで上がります。ボランティアガイドの方が邸内や庭園の説明をして下さいました。

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こちらは平成8年(1996)に安田家から公益財団法人日本ナショナルトラストさんに寄贈されています。その後、邸内でさまざまな催しや展示に利用されており、その一環として「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。

在りし日の規氏。

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平成21年(2009)に開催された「第一弾」の折のものも。

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愛用のカメラや日用品。

2階にあがると、昔の千駄木の写真が。題して「規さんが生まれ育った千駄木林町」。このあたり、旧地名は本郷区駒込林町でした。レトロな建物や自動車、行き交う人々など、実に自然でいい感じでした。

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光雲、光太郎、そして智恵子の作品の写真は、邸内のあちこちに。

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21世紀の都心に居ることを忘れさせられるようなひとときでした。

今月29日までの水曜、土曜に公開されています。ぜひ足をお運びください。

続いて、安田邸を出て左、光太郎アトリエ跡地を通り過ぎ、動坂方面へ。

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動坂上交差点を右折、田端駅を目指しました。田端といえば文士村。芥川龍之介や萩原朔太郎、そして室生犀星等が住んでいました。犀星は、このルートを辿って光太郎アトリエを何度か訪れたはずです。大正初期、最初に訪れた頃は何度も智恵子に追い返されたそうですが(笑)。

田端駅から山手線で池袋へ。豊島区役所さんで開催中だった(昨日で終了)「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」会場へと足を向けました。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは十年ぶりで粘土をいじる。 生きた女体を眼の前にして まばゆくてしようがない。 こいつに照応する造型の まばゆい機構をこねくるのが もつたいないおれの役目だ。

詩「お正月に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

005翌年の『朝日新聞』元日号のために書かれた詩です。

「生きた女体」は、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため雇ったモデル・藤井照子。当時19歳でした。

プールヴーモデル紹介所に所属していたプロの美術モデルで、木内克の彫刻のモデルも務めていたとのこと。「乙女の像」の仕事のあと、結婚してモデルはやめたようで、結婚の報告のため光太郎を訪れたりもしていました。

以前にも書きましたが、まだご存命なら80代前半のはずで、消息をご存じの方はご教示いただければと存じます。

先日、十和田市に行った際、現地の方から、「東京の青果店に嫁いだらしい」という情報を聴いたのですが、詳細が不明です。

昨日は都内に出て、4件の用事を済ませて参りました。3回に分けてレポートいたします。

今日はまず1件目、光太郎の母校にして、父・光雲、実弟・豊周が教鞭を執った東京藝術大学さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見した件。

大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちがそれぞれ腕を振るって制作した献上品などを集めた企画展で、それらはまとめて皇居の外で展示されたことがないというものです。

それらの制作や献上に際しては、東京美術学校第5代校長・正木直彦が音頭を取ったり仲介したりといったことが多く、同校教授だった光雲の作品も少なからず含まれていました。

このブログで以前にご紹介した際には、たしか出品リストが公式サイトにアップされていなかったため、光雲作品はチラシに載っている「松樹鷹置物」(大正13年=1924)以外に何が出ているか分かりませんでしたが、その後、アップされた出品リストにより、他にも光雲作品が展示されていることを知って、これはぜひとも観に行かねばと思い、行って参りました。

ちなみに光太郎も東京美術学校出身ですが、光雲の勧めを断って教職には就きませんでした。そのため、光太郎の作品は含まれていません。

光雲単独の作品は以下の通りでした。写真は故・髙村規氏によるものです。


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「鹿置物」(大正9年=1920)、「猿置物」(大正12年=1923)。


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「木彫置物 養蚕天女」(昭和3年=1928)、「松樹鷹」(大正13年=1924)。

これらは平成14年(2002)に千葉市美術館さん他で開催された「高村光雲とその時代展」や、皇居内の三の丸尚蔵館さんで開催される企画展などで観たことがあるものでしたが、やはり何度観てもいいものです。鹿の角の質感、松の木肌のリアルさ、猿や天女の衣の本物と見まごう表現など、光雲ならではの超絶技巧です。

ちなみに「松樹鷹」と「猿置物」はポストカードにもなっていました。1枚150円です。

これら以外に、光雲と他の作家の合作もあり、それらは初めて観ました。

「萬歳楽置物」(大正4年=1915)、ブロンズです。原型は木彫で、光雲と、その高弟の山崎朝雲の作。台座の部分の制作者は由木尾雪雄という蒔絵師です。螺鈿があしらわれ、実に豪勢な作りでした。鋳造も見事です。

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それから栄えある出品ナンバー1番「綵観(さいかん)」(明治37年=1904)。八曲一双の屏風なのですが、木で出来ています。その両面に、絵画、木彫、鋳金、七宝、牙彫(象牙)、蒔絵、陶芸などで、光雲はじめ、総勢18名の錚々たるメンバーの作品がはめ込まれています。橋本雅邦、川端玉章、石川光明、海野勝珉、竹内久遠(久一)、大島如雲、はては最近とみに注目を集めている宮川香山や濤川惣助まで名を連ねています。

光雲の作は、狆(ちん)をあしらった木彫レリーフ「いし」(「し」は「子供」の「子」ですが、「い」はけものへんに「委」、第2水準でも存在しない字でした)。

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わかりにくいのですが、中央がそれです。左は川端玉章、右は橋本雅邦です。

さらに、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝、高村豊周の作もありました。豊周は家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を継ぎ、東京美術学校鋳金科の教授を務めました。これも合作で、「二曲御屛風 腰彫菊花文様」(昭和3年=1928)。「石楠花(しゃくなげ)」が豊周の鋳金レリーフです。

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この屏風、今日オンエアされるNHKさんの「日曜美術館 皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」の番組案内で「48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。」と紹介されています。豊周の名が出るかどうか微妙ですが。

その他の作家の作品も、逸品ぞろい。やはり皇室に納められた作品ということで、作者の気合いの入り方が異なるのでしょう。錚々たるメンバーの合作系は、皇室に、ということでもなければ実現しなかっただろうと思われる部分もあります。

今月26日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あなたのきらひな東京が わたくしもきらひになりました。 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。 あの清潔なモラルの天地で も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。
詩「報告」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

言わずもがなですが、「あなた」は、かつて「東京に空が無い」(「あどけない話」昭和3年=1928)と言った智恵子です。智恵子を直接のモチーフとした詩は、これが絶作となりました。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、「清潔なモラルの天地」、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京して最初の詩です。

7年間、厳しくも美しい自然に囲繞された生活の中で濾過された光太郎の眼には、生まれ故郷とは言う定、7年ぶりに見た東京の街は、「きらひにな」らざるをえない街だったというのです。

ただ、実際には草野心平らと夜な夜な飲み歩いたり、映画やコンサート、各種の展覧会や果てはストリップまで見て歩き、けっこう「東京」を楽しんでいたようにも思えますが……。それは光太郎一流の「韜晦」だったのかもしれません。

智恵子の故郷・二本松市の広報誌『広報にほんまつ』、今月号から。

第22回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール

 県内の小学校199校の児童から、2,830点の応募作品があり、最優秀賞「智恵子大賞」6点、特別賞6点、優秀賞60点、佳作60点の作品が入賞しました。最優秀賞を受賞した6作品を紹介します。
 なお最優秀賞と特別賞の計12点の作品を、次の日程で展示しています。
 展示期間 11月26日(日)まで 展示場所 智恵子記念館 ※智恵子記念館への入館料が必要

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こうした活動を通し、智恵子顕彰に役立てていって欲しいものです。

もう1件、先月、智恵子生家で開催された女優の一色采子さんらによる「智恵子抄」朗読とダンスのパフォーマンス「智恵子・レモン忌 あいのうた」も記事になっていました。 

智恵子・レモン忌あいのうた 高村智恵子の世界観を堪能

 9月9日より市内各地で開催されている「重陽の芸術祭」の一環として、高村光太郎の詩集「智恵子抄」とモダンダンスを楽しむ『智恵子・レモン忌あいのうた』が、智恵子の命日である10月5日に智恵子の生家で開催されました。
 序盤は、市観光大使で女優の大山采子さんによる智恵子抄の朗読がピアノ演奏に合わせて披露され、感情のこもったその語りに、訪れた大勢の観客が聞き入っていました。朗読が終わると、舞踊家で振付師の二瓶野枝さん(福島市出身)が、智恵子自身を表現した可憐なダンスパフォーマンスを披露し、智恵子の「もがき」「苦しみ」「喜び」などを、全身で表現しました。

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こちらは二本松市各所で展開中の「重陽の芸術祭2017」の一環として行われたものですが、芸術祭自体は今月23日(木・祝)までとなっています。智恵子生家も会場となっていて、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションが展示中。こちらは26日(日)までです。併せて通常非公開の生家二階の公開も同日まで。さらに裏手の智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示が28日(火)まで実施されています。


広報誌つながりで、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻の広報誌『広報はなまき』。やはり今月号に花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」の案内が掲載されています。

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当方、初日に拝見して参りました。レポートがこちら。27日(月)までの開催です。


それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あいつをばらばらにして るつぼにいれて煮つめよう。 泡の中から生れてくるのが 天然四元のいどみに堪へる さういふ人間の機構を持つか、 もつかもたぬかおれはしらん。

詩「餓鬼」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。

「あいつ」は、頭に渦巻く「乙女の像」の構想。作りたいものを作れる喜びは大きいものの、おそらく生涯最後の大作になるであろうことは自身でもよく分かっており、また、きちんと粘土を手にするのはほぼ10年ぶり、彫刻で最も難しいともいわれる裸婦像制作は35年ぶり。それでも粛々とやらねばならないという決意が伝わってきます。

題名の「餓鬼」は、「乙女の像」制作のエネルギー充填のためにしっかり飲食をするぞという、これまた悲壮ともいえる決意から来ています。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっている展覧会を2つ。いずれも都内で開催中です。 

となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展

期 日 : 2017年11月1日(水)~5日(日) 11月8日(水)~29日(水)の水・土
会 場 : 東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般700円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴必須)

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東京文化財ウイーク2017参加企画

写真家・高村規(ただし)。1933‐2014 父は人間国宝の彫金家・豊周(とよちか)、 伯父は彫刻家で詩人・光太郎、 伯母は画家で紙絵作家・智恵子、そして祖父の木彫家仏師・光雲(こううん)・・・本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木5丁目)、 明治25年(1892)にはじまる芸術家の系譜。

芸術家の仕事を後世に伝えた写真家が写し撮った町がわたしたちに語りかける。 高村規の原点、懐かしい駒込林町、そして千駄木と名を変えた町の風景。ぜひご覧ください。


会場の旧安田楠雄邸は、光太郎の実家にして、現在も光太郎の実弟・豊周が継いだ髙村家の「となり」です。普段から水、土に一般公開はされていますが、時折、このような形で企画展示が為されます。「となりの髙村さん」展の第1弾が開催されたのが平成21年(2009)。やはりその頃ご存命だった光太郎の令甥で写真家髙村規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。

ちなみに光雲、豊周、規氏、そして現在の規氏ご長男達氏と続く家系は、戸籍上は通常の「高」だそうですが、昔から慣例的に「髙」の字を使用されています。戸籍の届けを光雲の弟子の誰かにやってもらったところ、「髙」ではなく「高」で登録してしまったとのこと。長男でありながら家督相続を放棄し、分家扱いとなった光太郎は、戸籍が「高」なのだから、と、「高」で通しました。

今回も、規氏の作品が展示されています。昔の千駄木界隈や、光雲、豊周、光太郎、智恵子らの作品を撮影したもの等だそうです。チラシに使われているのは、昔の団子坂です。

11/1から始まっていて、5日までの期間は髙村家の見学もあったそうです。不覚にも情報を得られませんでした。すみません。


もう1件。 こちらは一昨日からです。 

2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展

期     日 : 2017年11月8日(水)~11月12日(日)
会     場 : 豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエア 東京都豊島区南池袋2-45-1
時     間 : 午前10時~午後6時
料     金 : 無料

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概要をわかりやすくすために、後援に入っている『毎日新聞』さんの東京版記事から。 

アジア・パラアート展  始まる 5カ国100人の力作展示 揮毫に会場沸く 南池袋 /東京

 「アジア・パラアート~書~TOKYO国際交流展」(日本チャリティ協会主催)が8日、豊島区南池袋の区役所1階「としまセンタースクエア」で始まった。日本、中国、韓国などアジア各地で活躍する障害者の書作品を通して交流を図ろうという企画。会場には5カ国100人の感動的な力作が展示されている。 
 8日は日本、中国、韓国の書家による開幕を記念した揮毫(きごう)会が開かれ、訪れた多くの人たちから大きな声援が送られた。日本からはダウン症の金澤翔子さんが参加。大きな筆を勢いよく動かし「共に生きる」を書き上げた。
 四肢体幹機能障害の鈴木達也さんは、自ら考案したヘッドキャップに筆を取り付け、首の力で草書体の「命」を書いた。事故で両腕を失った中国の書家、趙靖さんは、筆を口にくわえて「友誼常青」を書き、ソウル五輪のオープニングで見事なパフォーマンスを見せた韓国の義手の書家、チャン・ウ・ソクさんは、「サイクリング」を巧みな筆致で表現し、会場は盛大な拍手でわいた。
 特別展示では、吉田茂、山本五十六、高村光太郎、水上勉、ペギー葉山の各氏はじめ、安倍晋三首相ら各界著名人の作品45点も飾られている。
 12日まで。入場無料。問い合わせは同協会(03・3341・0803)。【鈴木義典】
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というわけで、基本、「パラ」ですので、パラリンピック的に、障がい者の皆さんの作品展ですが、特別展示ということで、近現代の著名人の書も展示されているそうです。そのトップに光太郎の名。ありがたや。他にも光太郎と関係があった小川芋銭、平塚らいてうなどの書も展示されています。


明日、元々上京する予定でしたので、今回ご紹介した2件も拝見し、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは気圏の底を歩いて 言葉のばた屋をやらかさう。 そこら中のがらくたに 無機究極の極をさがさう。

詩「ばた屋」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「ばた屋」は、現代ではいわゆる放送禁止用語のコードに抵触するでしょう。古紙や布、金属片などを回収して換金する職業です。それも路上から拾い集めて、というのが主流でした。おそらくこの当時の東京にも多かったのではないかと思われます。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。「ばた屋」の闊歩する東京で、自らは「言葉のばた屋」として、日常生活の中から言葉を拾い集め、詩作をしようということでしょう。

以前にも少し書きましたが、明治44年(1900311)に、智恵子が描いた雑誌『青鞜』の、有名な表紙絵についてです。

アール・ヌーボー風だとか、ギリシャの女神とか、エジプトのそれだとか、クリムトや青木繁の影響だとか、実にさまざまな説が唱えられてきましたが、とうとう解決しました。

連翹忌ご常連の、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏によるご調査で、智恵子のオリジナルの絵ではなく、元になった作品があったことが確認されたのです。

水沢氏がご自身のフェイスブックに発表され、その記事を紹介する他の方のブログを拝見、氏に資料を送って下さるようお願いしたところ、届きました。

それによれば、元になった作品は、ヨーゼフ・エンゲルハルトというオーストリアの画家が、明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作した寄木細工「Merlinsage」でした。まったく同一と言っていい意匠ですので、まず間違いありません。下の画像の中央です。


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この件に付き、先月開催された智恵子忌日の集い・第23回レモン忌で、福島県立美術館さんの学芸員をなさっている堀宜雄氏が早速ご紹介。堀氏も水沢氏のフェイスブックをご覧になったそうでした。堀氏にもご教示いただき、いろいろとわかってきました。


「Merlinsage」は全9枚組の寄木細工で、モチーフはアーサー王伝説。5世紀から6世紀のブリトン人の王、アーサーの事績を元にしたもので、絵画や小説、映画などの題材としても幅広く知られています。「円卓の騎士ナントカ」というのはすべてアーサー王伝説から来ています。「Merlin(マーリン)」はその登場人物のひとりで、アーサー王を補佐し、導く魔術師です。「sage」は「伝説」の意。

「Merlinsage」の問題の女性は、アーサー王に伝説の剣・エクスカリバーを授けたとされる「湖の乙女」。ヴィヴィアン(Viviane)、ニムエ(Nimueh)など、さまざまな名前があてられていますが、湖の精を人格化したもののようです。

こちらはビアズリーの描いた湖の乙女、アーサー王、そしてマーリンです。

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背景に描かれている巴型のような図柄は、湖の000水泡、体の両脇に描かれている連続三角紋は、どうも乙女がまとっているヴェールらしいとのこと。智恵子の描いた『青鞜』表紙絵では、ヴェールの部分の描写は細部が省略されていて、わかりにくくなっています。

作者のヨーゼフ・エンゲルハルト(1864~1941)は、クリムトを中心としたウィーン分離派の画家。日本ではほとんど知られていない存在のようですが、海外のサイトではかなり言及されているものがあります。同派は絵画のみならず、総合芸術の構築を目指していた部分もあったということで、工芸的な作品も少なからずあり、そういうわけで寄木細工です。

先述の通り、明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作されたものですが、明治42年(1909)になってカタログが刊行され、原色の図版が載りました(110ページ目)。それが日本に輸入されて販売されたか、帰国した留学生が持って帰ったか、そんなところで回り回って智恵子の目に触れたというわけでしょう。何とかして入手したいものです。

ところで、当時はこのように西洋の絵を模写して使うことは広く行われており、現代の感覚での「盗作」とは異なります。『青鞜』表紙絵が智恵子オリジナルではなかったというのは、少し残念な気もしますが……。

この件につきましては、今後も調査を継続し、またレポートすることもあるかと存じます。

それにしても「湖の乙女」とは、いやがうえにも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を連想させ、不思議な縁を感じます。

追記 日本でも既に昭和7年(1932)、平凡社刊行の『世界美術全集 別卷第十一卷』にモノクロの画像で紹介されていました。
世界美術全集 別卷第十一卷
世界美術全集 別卷第十一卷解説
【折々のことば・光太郎】

山に友だちがいつぱいいる。 友だちは季節の流れに身をまかせて やつて来たり別れたり。
詩「山のともだち」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

長い詩ではないのですが、登場する「山に」「いつぱいいる」「友だち」は、「カツコー」「ホトトギス」「ツツドリ」「セミ」「トンボ」「ウグイス」「キツツキ」「トンビ」「ハヤブサ」「ハシブトガラス」「兎と狐の常連」「マムシ」「ドングリひろいの熊さん」「カモシカ」。ほんとに「いつぱい」です(笑)。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。宿痾の肺結核のため、二度と太田村には戻って来られないかもしれないという覚悟があったようで(実際には翌年、「乙女の像」序幕後に10日間だけ戻りましたが)、「友だち」への惜辞のようにも読める詩です。

雑誌の新刊です。  

BRUTUS 2017/11/15号

2017年11月1日 マガジンハウス 定価630円+税

寒さが募ると、人は温かいお湯に浸かってまったり過ごす、シンプルかつ究極の癒し、温泉を目指します。リゾート型のリラグゼーションや浴感、眺望に建築まで、温泉に求めるのは百人百様。12のキーワード別に厳選した名湯紹介を皮切りに、あなたが今入りたい温泉がきっと見つかる熱いコンテンツ。さて、この冬はどんな温泉に浸かりましょうか?

目次002
 百人百湯アンケート。
   あなたにとっての「最高の温泉」は?
 HOT SPRINGS INDEX
 愛さずにはいられない!
   キーワード別・名湯の宿12選。
 いい湯、いい宿、まだまだあります。
 〈山形座 瀧波〉再生物語。
 わたしの温泉愛
 温泉街はこうして生まれ変わる。
   長門湯本温本温泉と星野リゾートの戦略。
 もっと温泉が楽しくなる1 7のトピック。
 温まるって、シアワセです。
 他


「わたしの温泉愛」中の、「5 昔ながらの自炊部で気ままにステイ。」で、当方もよくお世話になる花巻南温泉峡の大沢温泉さんが取り上げられています。温泉ソムリエの伊藤裕香さん、イラストレーターのmiccaさんによるレポートです。

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昭和20年(1945)からの花巻郊外太田村での蟄居生活の中で、光太郎が何度も訪れ、最長で連続10泊ほどもした温泉です。当時走っていた花巻電鉄が、そうした際の足でした。

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また、幼き日の宮沢賢治も、ここで父の政次郎の肝煎りで開かれていた仏教講習会のため、足を運んでいました。館内にはその折の集合写真なども展示されています。

そういうわけで、記事には光太郎と賢治の名が。ありがたや。

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他にも、光太郎が訪れた温泉がいくつか取り上げられています。同じ花巻南温泉峡の鉛温泉藤三旅館さん、青森で酸ヶ湯温泉さんと蔦温泉旅館さん、福島会津東山温泉は向瀧さん。

次号は15日発売ということで、現在、店頭に並んでいます。ぜひお買い求め下さい。


ついでというと何ですが、同じようなネタをもう1件。プレスリリース的な報道です。

楽天トラベル、2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキングを発表

旅行予約サービス「楽天トラベル」 ( https://travel.rakuten.co.jp/ )は、「2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキング」を発表しました。「湯治」のキーワードを含む宿泊プランについて、年間の宿泊人泊数(=宿泊人数×泊数)を集計した結果、1位は青森県の「酸ヶ湯温泉旅館」でした。トップ5を、青森・群馬・岩手の3県の宿泊施設が占める結果となりました。

2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキング003
 1位 青森県 酸ヶ湯温泉旅館
 2位 群馬県 四万温泉 積善館本館
 3位 岩手県 大沢温泉 自炊部
 4位 岩手県 岩手 花巻温泉郷 鉛温泉 藤三旅館
 5位 群馬県 草津温泉 お宿 木の葉(このは)

(略)

3位の岩手県「大沢温泉 自炊部」は、宮沢賢治や高村光太郎ら文人に愛された大沢温泉にあり、湯治を目的に長期滞在する人のための宿泊施設として、自炊ができる共同の炊事場やコインランドリーなどを備えています。豊沢川に面し、四季折々の風景が楽しめる混浴露天風呂「大沢の湯」をはじめ、女性用露天風呂など計5つの浴場で湯めぐりができます。泉質はアルカリ性単純温泉で、神経痛、筋肉痛、慢性消化器病などに効くといわれています。


「自炊」という特殊な形態限定でのランキングですが、やはり酸ヶ湯さん、大沢さん、鉛さんと、光太郎の利用した宿がベスト5中に3件ランクインしています。また、四万温泉 積善館本館さんも、ネット上では「与謝野晶子や高村光太郎・太宰治といった文人も訪れていたとのことです。」と紹介されています。ただ、探し方が悪いのかも知れませんが、当方手持ちの資料では、光太郎がそちらに泊まったことを示す資料が見あたらず、情報をお持ちの方はご教示いただければと存じます。

そろそろ初冬の気配、というか、暦の上では立冬を過ぎました。温泉が恋しくなってきましたね。当方、今年中にもう1回くらい、大沢さんか鉛さんに泊めていただくかも知れません。その際にはまたレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

智恵子の所在はa次元。 a次元こそ絶対現実。 岩手の山に智恵子と遊ぶ 夢幻(ゆめまぼろし)の生の真実。

詩「智恵子と遊ぶ」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

a次元」は、我々の生きて存在する物理次元を超えた精神世界、抽象次元を表す用語です。カルト宗教の信徒のように、その存在を確信していたわけではないのでしょうが、光太郎にとって、感覚的には、亡き智恵子の存在するa次元と、自らの存在する花巻郊外旧太田村の山林の間の垣根は低かったようです。

この年は、前年末からの帯状疱疹に悩み、結核性の肋間神経痛も悪化。思い切って、農作業はほとんど放棄しました。毎年恒例だった、花巻町松庵寺などでの光雲、智恵子の法要も中止しています。光太郎にとって、自らの「死」が現実味を帯びてきた年といえるでしょう。ただし、翌年には体調がかなり恢復しますが。

先月末、青森県十和田市で講演をして参りました。題して「、「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」。その際のレポートがこちら

主催の三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会代表の佐藤様が、地方紙『デーリー東北』さんに載った記事を郵送してくださいました。

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恐縮です。

前後して、青森県上北地域県民局さんからは、DVDが送られてきました。以前に制作に協力した観光PR用のもので、「~水と森が生命(いのち)を紡ぐ(つむぐ)~ 「十和田湖「深」発見(「しん」はっけん)の旅」 」。3月くらいには完成していたようですが、どうも手違いがあったようで、こちらに届いておりませんでした。

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「監修協力」ということで、ジャケットに名前を載せていただいております。

早速、拝見。

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チャプターが7つに分かれており、当方の監修協力は最後から二つ目の「乙女の像ストーリー ~乙女の像と人々の想い~」と題された部分です。前半部分を執筆し、一昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍の内容を元に作られています。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作経緯などを、当時の画像や動画を交えて紹介しています。

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元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念する事業として、指定の礎を築いた作家・大町桂月、元知事・武田千代三郎、元村長・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして、太宰治の実兄・津島文治知事が光太郎に依頼しました。

間に入ったのが、佐藤春夫。さらに草野心平らが光太郎を助け、完成にこぎつけました。

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並行して光太郎の生涯もダイジェストで紹介。

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ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」(昭和29年=1954)や、「乙女の像」除幕式の記録フィルムからの動画も。

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よくまとまっていました。


また、前半の「歴史と文化 ~History&Culture」の部分でも、「乙女の像」の紹介が。やはり昔の動画が使われています。

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それ以外の部分でも、ところどころに「乙女の像」。

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チャプター5の「アクセス~Access~」までは、一括してyoutubeにアップされています。


「歴史と文化 ~History&Culture」の「乙女の像」紹介は15分25秒くらいから。

「乙女の像ストーリー ~乙女の像と人々の想い~」の部分は、残念ながらyoutubeにはアップされていないようです。

DVDとしては非売品のようですが、関係機関等には配布されていると思われます。広く活用されてほしいものです。


ついでと言っては何ですが、やはり先月末にオンエアされた、BS朝日さんの「暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)」。5分間番組で、「私たちが愛唱してきた「歌」を通して、日本の風景を見つめ直す番組です。それぞれの歌に息づく日本人の原風景を、一篇の詩のような美しい映像でお届けします。」というコンセプトだそうです。

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講演の翌日、十和田湖に行った際、十和田神社さんの鳥居近くのもりた観光物産さんの女将さんに、ロケがあったという話は聞いておりました。ところが、オンエアを見てびっくり。なんと、女将さんがご出演。そういう話は聞いていませんでした。

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この番組は再放送がないようで残念ですが、美しい映像や、そこに息づく人々の想いなど、残すべきもののように思われます。他の回と一括してDVD化などされないものでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

ヤマト民族よ深く立て。 地盤の岩盤を自分の足でふんで立て。

詩「岩盤に深く立て」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

サンフランシスコ講和条約の発効による、連合国による占領の終結が背景にあります。

それから66年経ちました。しかし、宗主国の親分が来れば、ポチが尻尾を振ってお出迎えする状態。結局はいまだに「ヤマト民族」は「自分の足で」「立て」ていないようですね。

テレビ放映情報です。

ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 「彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン~」(再放送)

NHKBSプレミアム 2017年11月8日(水)  18時00分~19時00分

岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。「考える人」「地獄の門」で知られ、今年、没後100年を迎える彫刻家ロダン。30歳をすぎても、貧乏生活から抜け出すことができず、苦悩に満ちた日々を送った。こだわったのは「男の裸」。ところが、名声を得た後、1人の女性との関係をきっかけに、女性像や愛をテーマとした作品を発表するように。だが、その女性との関係は悲劇的な結末に。人間味あふれる人生に迫る。

司 会 岡田准一
ゲスト 鹿島茂,若村麻由美,篠原勝之

2日にオンエアされた本放送を拝見しました。

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光太郎が終生敬愛した彫刻家ロダン。その生涯を、代表作品や、周囲の人々との関わりから追ったものです。

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今月11日に封切られる映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」を紹介、弟子であり愛人でもあったカミーユ・クローデル、そして内縁の妻(最晩年に入籍)ローズ・ブーレとの三角関係。

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光太郎にも言及されました。

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連翹忌にも何度かご参加下さっている、日本大学芸術学部の髙橋幸次先生もご出演。

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なかなかのクオリティーでした。


同じく、光太郎と縁の深かった美術家ということで。

美の巨人たち “夭折の天才”村山槐多と関根正二…自画像に刻んだ鮮烈な人生

テレビ東京  2017年11月11日(土) 22時00分~22時30分 
BSジャパン  2017年11月29日(水) 23時00分~23時30分

燃えるようなガランスと染み入るようなバーミリオン。二つの赤に託された思いとは?二人の夭折の天才が残した自画像の変遷をたどり、その20年あまりの鮮烈な人生に迫る。

大正時代に彗星のごとく現れた画家・村山槐多と関根正二。98年前の1919年に二人はその生涯を閉じました。槐多22歳、正二20歳という若さで…。村山槐多は燃えるようなガランス、関根正二は染み入るようなバーミリオンを好みました。二つの赤に託された思いとはなんだったのか?夭折の天才が目指したものは何だったのか?自画像に秘められた真実に迫ります。

ナレーター 小林薫  神田沙也加

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今回取り上げられる二人のうち、村山槐多は、光太郎より13歳年下の明治29年(1896)生まれ。宮沢賢治と同年です。大正8年(1919)に、数え24歳で結核のため夭折。その晩年、光太郎と交流があり、光太郎はそのままずばり「村山槐多」(昭和10年=1935)という詩も書いています。

  村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

そのあたり、番組で紹介されるといいのですが……。


もう一件。

日曜美術館「皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」

NHKEテレ 2017年11月12日(日)  9時00分~9時45分
      再放送 11月19日(日)  20時00分~20時45分

昭和天皇のご結婚の際に献上された美術品が皇居から初めて持ち出され公開された。一流の工芸家たちが5年の歳月をかけた奇跡のプロジェクトの作品を紹介する。

東京芸術大学の美術館で開催されている展覧会。金のまき絵やらでんが一面に施された飾り棚。天皇と皇后用に1対で献上された豪華な作品である。また48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。実はこのプロジェクトには中止に追い込まれそうな危機があった。皇室の秘宝とともにその秘められた物語を紹介する。

出演 井浦新 高橋美鈴 古田亮(東京藝術大学准教授)

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こちらには光太郎の父・高村光雲作の「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されており、ちょっとでも紹介してほしいものです。


それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

不発か時限か、 ぶきみなものが そこらあたりにころがつて 太平楽をゆるさない。 人の命のやりとりが 今も近くでたけなはだ。

詩「遠い地平」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

翌年元日の『新岩手日報』のために書かれた詩の一節です。

朝鮮戦争を念頭に置いて書かれていますが、現代の日本にもあてはまりますね。ちょうど、宗主国から「ぶきみな」人物が来日している折ですし。ポチはシッポを振るのに余念がないようですが(笑)。

昨日は都内2ヶ所を廻っておりました。

まずは品川区大井町の、ジオラマ作家・石井彰英氏の工房。昨年、いにしえの大井町のジオラマを作られ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院も組み込んで下さった関係で、花巻高村光太郎記念館さんにご紹介、来年の同館企画展示で展示するために光太郎が暮らしていた当時の花巻町・郊外太田村などのジオラマをお願いすることになりました。9月には氏を現地にご案内、早速、制作にかかっていただいていました。

7月に一度お邪魔し、2度目の訪問となりましたが、進捗状況を見て欲しいというのと、お手伝いなさっているスタッフさんや、ジオラマ制作の模様を取材なさっているケーブルテレビ品川さんに当方をご紹介下さるとのことで、お伺いしました。

畳一畳ほどの大きとなり、パーツとしての建造物類はほぼ完成。光太郎がよく利用していた花巻電鉄も走っていました。

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あとは、ここに山や川などを作り、樹木を配し、田んぼやリンゴ畑などを作っていただく形です。

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さらにジオラマ本体だけでなく、拡大して撮影した動画を収めるDVDを作られるとのことで、そのナレーションや音楽を担当される方にもお引き合わせいただきました。

当方も今後も色々関わることになっており、この件につきましては、また追ってレポートいたします。


その後、東急線をのりつぎ、世田谷区用賀へ。過日ご紹介しました、上用賀アートホールさんで開催の「真理パフェFourth」という公演を拝見して参りました。

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邦楽・日本舞踊系の大川真理さんという方を中心とした催しで、ご本人の他、ご家族やお仲間、お弟子さんなどがご出演。ジャンル的にも幅広いものでした。その幅広さゆえに、「てんこ盛りのパフェ状態」という意味で「パフェ」と名付けているそうです。

ちなみに大川さん、当方もお世話になっております一色采子さんと同じ芸能事務所のご所属でしたので、ちょっと驚きました。

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002日本舞踊、邦楽演奏、朗読、落語、そうかと思うと和楽器と西洋楽器(ピアノ・弦)とのコラボ、さらに合唱など、本当にてんこ盛りでした(笑)。

なぜこれを聴きに行ったかと言いますと、「智恵子抄」の朗読が入っていたためで、石川弘子さんという方が、「あどけない話」、「人に」、「千鳥と遊ぶ智恵子」の三篇を朗読されました。当方、石川さんのブログでこの催しを知り、行ってみようと思った次第です。

3篇だけで、あまり長い時間ではありませんでしたが、しみじみとしたいい朗読でした。最後の「千鳥と遊ぶ智恵子」では、潮騒の効果音が流れ、目を閉じると智恵子の療養していた九十九里浜の風景が浮かびました。

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主宰の大川さんはじめ、出演者の皆さんには日本女子大さんの関係者が多かったこともあって、「智恵子抄」が演目に入っていたようです。同校の卒業生である智恵子に関わる「智恵子抄」は同校の関係者にはなじみ深いもの、とパンフレットに記載がありました。そういわれてみれば、「智恵子抄」にオリジナルの曲をつけて歌われているモンデンモモさんも同校附属高から芸大さんに進まれたのでした。

プログラムの最後は、同校附属中高卒業生の皆さんを中心とした演奏。

邦楽の「越後獅子」に、ピアノと三味線の伴奏で合唱をつけてのアレンジ。面白い試みですね。

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ヘンデルの「メサイア」。大川さんは鼓を打ちながら歌われていました。

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客席では、やはり関係者の方でしょう、立って歌われている皆さんも多数いらっしゃいました。愛校心というか、ともに青春を過ごした思い出というか、そういう絆の深さを感じました。

ちなみにうちの娘。もう大学を出て働いていますが、大学受験の際には日本女子大さんにも合格しました。ただ、結局は別の大学に進み、智恵子の後輩にはなりませんでした。当方としては、ちょっと残念でした(笑)。

終演後、石川さんには、例によって連翹忌の「営業」をかけておきました。このような形でも輪を広げて来ており、ぜひとも加わっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

囲炉裏の上で餅を焼いているこの小屋が、 日本島の土台ぐるみ、 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、 あの船の沈まなかつた経験を 私はもう一度はつきりと度思ひ出す。

詩「船沈まず」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

翌年の『中部日本新聞』他の元日号に掲載された詩です。遠く明治39年(1906)、欧米留学のため横浜を出航して太平洋を渡った経験を下敷きにしています。暴風雨の連続で、乗っていたカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号が45度傾くくらいだったそうです。

下って平成30年も、「日本島の土台ぐるみ、 今にも四十五度に傾きさうな」気がしてなりません。それでも沈まないことを祈ります。

昨日に引き続き、少し前に刊行された書籍のご紹介をいたします。

本日は、宮沢賢治と光太郎の関わり、的な。 

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多くの人びととの出会いを糧に、賢治は自らの世界観を築き上げていったにちがいありません。そのことが死後実を結び、世界的な規模で読まれるいしずえとなったのではないか。そう感じている私は、本書で賢治が影響を受けたと思われる16人を登場させました。本書を読み、「宮沢賢治」がどのようにして形成されたのか。感じ取っていただけたなら、とてもうれしいです。(「はじめに」より)

目次
 はじめに 
 Ⅰ 石川啄木 文学への助走 ヘンリー・タッピング 英語への窓 葛飾北斎 浮世絵趣味
    鈴木東民 作家願望 藤原嘉藤治 ピアノを弾く詩人
   鳥羽源蔵 トバスキー、ゲンゾスキー
 Ⅱ 草野心平 才能の発見者 高村光太郎 コスモスの所持者
   森荘已池 「店頭」での出会い 
     黄瀛 コスモポリタン 鈴木東蔵 「石っこ」同志 
 Ⅲ 新渡戸稲造 東京志向 田鎖綱紀 日本語速記術の創始者 
    グスタフ・ラムステット フィンランド初代駐日公使
   佐々木喜善 民俗学とエスペラント レフ・トルストイ ベジタリアン 
 宮沢賢治略年譜 主要参考文献 
 おわりに 著者略歴


宮沢賢治学会理事であられる佐藤竜一氏の新著です。氏の御著書のうち、『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』は以前にもご紹介させていただきました。

まさしく題名の通り、賢治とさまざまな面から交流があったり、会ったことはないものの影響を受けたりした16人の人物を取り上げています。

光太郎の項、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎とも交流のあった人物――啄木、藤原嘉藤治、心平森荘已池黄瀛、佐々木喜善――も取り上げられており、それらの人物の項にも光太郎の名が現れています。


もう一冊。こちらは小説です。

銀河鉄道の父

2017年9月12日 門井慶喜著 講談社 定価1,600円+税

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明治29年(1896年)、岩手県花巻に生まれた宮沢賢治は、昭和8年(1933年)に亡くなるまで、主に東京と花巻を行き来しながら多数の詩や童話を創作した。
賢治の生家は祖父の代から富裕な質屋であり、長男である彼は本来なら家を継ぐ立場だが、賢治は学問の道を進み、後には教師や技師として地元に貢献しながら、創作に情熱を注ぎ続けた。
地元の名士であり、熱心な浄土真宗信者でもあった賢治の父・政次郎は、このユニークな息子をいかに育て上げたのか。
父の信念とは異なる信仰への目覚めや最愛の妹トシとの死別など、決して長くはないが紆余曲折に満ちた宮沢賢治の生涯を、父・政次郎の視点から描く、気鋭作家の意欲作。

目次
1 父でありすぎる 2 石っこ賢さん 3 チッケさん 4 店番 5 文章論 6 人造宝石 7 あめゆじゅ 8 春と修羅 9 オキシフル 10 銀河鉄道の父

元は『小説現代』誌上に、昨年から今年にかけて連載されたものの加筆訂正版です。

主人公は宮沢政次郎。賢治の父にして、昭和20年(1945)、空襲で東京を焼け出された光太郎を花巻の自宅に疎開させてくれた人物です。ただ、全編賢治に対する政次郎の行動が描かれ、賢治と関係ない部分での政次郎はほとんど割愛されています。といって、政次郎視点で賢治の生涯を浮き彫りにする、というのが主眼でもなく、あくまで描かれているのは、父としての政次郎の内面です。

時間軸としては、賢治出生の明治29年(1896)から、賢治歿後2年が経った昭和10年(1935)まで。光太郎は直接は登場せず、賢治が生前唯一の詩集『春と修羅』を光太郎にも贈った件、光太郎や心平、横光利一らが『宮沢賢治全集』に関わったという話が紹介されているのみです。

それでも、後に光太郎を花巻に呼び寄せる政次郎の心意気、的な部分は、こういう人物ならさもありなん、と思わせる流れで描写されていますし、やはり光太郎と関わった賢治の弟妹も登場します。

ただ、残念なのは、当方、それほど賢治や政次郎に詳しくないので、劇中のどこまでが事実なのかよく分からない点。晩年に賢治が勤務した東北採石工場のことなどは一切出てこず、どうなっているのかと疑問に思いました。このあたり、コアな賢治ファンの方にお伺いしたいものです。

できれば続編を期待したいところです。光太郎が碑文を揮毫した昭和11年(1936)の「雨ニモマケズ」詩碑建立、昭和20年(1945)の光太郎花巻疎開、同じ年、終戦間際の花巻空襲で自宅が焼けたこと、その後の郊外太田村に移った光太郎との関わり、そして光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に数え83歳で亡くなるまで……「光太郎サポーター」としての政次郎。同じく光太郎を色々と助けた総合花巻病院長・佐藤鷹房、草野心平との関わり等々。無理でしょうかね……。


というわけで、2冊とも好著です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなき国情なくして この国は成立しない。 科学と美との生活なくして この国は滅びる。

詩「明瞭に見よ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

明治大正昭和、激動の時代に翻弄され、時に道を誤りつつも反省と軌道修正を繰り返し、まがりなりにも人々の尊敬を集める晩年を迎えた光太郎の言ならではの重みがありますね。空虚な「美しい国」ナントカとはちがって、です(笑)。

毎年そうなのですが、芸術の秋ということで、この時期はご紹介すべきイベントが多く、また、それらのイベントに行ったレポートも書かねばなりません。いきおい、速報性があまり問われない、新刊書籍の紹介が後回しになっています。ことに出たてのものでなく、少し経ってから気づいて慌てて購入したものなどは、なおさら「旬」を逃したような気がして、いっそう後回しになってしまっています。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻系の出版物も、ご紹介していないものが4冊ほどたまってしまいました。今日明日で、2冊ずつご紹介します。

今日は花巻高村光太郎記念館さんに関わるものを。 

低反発枕草子

2017年1月15日 平田俊子著 幻戯書房 定価2,400円+税

東京・鍋屋横町ひとり暮らし。 三百六十五日の寂しさと、一年の楽しさ。 四季おりおりの、ささやかな想いに随(したが)いて……


著者の平田俊子さんは、詩人、劇作家、小説家。さらに立教大学さん他で教壇にも立たれています。また、光太郎にも触れた平成27年(2015)刊行の詩集『戯れ言の自由』で、第26回紫式部文学賞を受賞されました。

本書は、『静岡新聞』さんに、平成26年(2014)から翌年にかけて連載された同名のエッセイの単行本化です。

同書の中で「光太郎ファン」を自称され、随所に光太郎智恵子の名を出して下さっています。光太郎終焉の地・中野アトリエや、光太郎智恵子が婚約を果たした信州上高地などのゆかりの地も歩かれていますし、ことに花巻高村光太郎記念館さん・高村山荘が多く登場します。

ただ、執筆時期が、館のリニューアルオープン前、花巻市街のまなび学園さんに間借りしていた時期だったようで、現在の様子とは異なっています。リニューアル後に行かれたのかどうか、興味のあるところです。

その他、題名の通り清少納言さながらに、四季折々の随想、宮仕え(大学でのお仕事)の様子など、軽妙な文章で語られており、無聊の慰めとさせていただきました。

ぜひお買い求め下さい。


もう1冊。定期購読しています隔月刊の花巻タウン誌です。 

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ) vol.4

2017年10月20日 Office風屋 定価500円(税込み)

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裏表紙に連載「光太郎のレシピ」が掲載されています。花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するものです。

今号は「オクラの種のスープ」「支那料理風甘酢あんかけ」「抹茶」。あんかけはレシピも詳しく載っています。ちなみにオクラやセロリといった西洋野菜は、光太郎が東京から種子を取り寄せ、この地に広めたそうです。

この連載も、出来るだけ長く続いてほしいものです。


明日も花巻系、特に宮沢賢治と光太郎のつながりについて書かれたものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

まことの美を知る苦しめる者に幸あれ。 苦しみのためへし折れて をさな児の心にかへつた只の人こそ 天のものなる美を知るのだ。

詩「人間拒否の上に立つ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ロダンと共に、終生敬愛してやまなかったルネサンスの巨匠・ミケランジェロを題材にした長詩です。

晩年の光太郎は、むしろロダンよりもミケランジェロに傾倒していたようで、対談などでもその名が多く見られます。満で88歳まで生き、さらに老年期に入っても旺盛な制作意欲を見せたミケランジェロに、自らを重ね合わせていたように思われます。

まことの美を知る苦しめる者」「苦しみのためへし折れて をさな児の心にかへつた只の人」は、ミケランジェロであると同時に、かくありたいと願う光太郎自身の姿でしょう。

当方も加入しております団体、高村光太郎研究会の年に一度の研究発表会です。

第62回高村光太郎研究会

期   日 : 2017年11月18日(土)
時   間 : 午後2時から5時
会   場 : アカデミー向丘 東京都文京区向丘1-20-8
参 加 費 : 500円
問い合わせ : 03-5966-8383 (野末)

研究発表 :
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」      赤崎  学氏
 「詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置」  岡田 年正氏

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当会顧問にして、晩年の光太郎に親炙した北川太一先生が、例年、ご意見番としてご参加下さっていますが、今年は夏頃からお加減がよろしくないとのことで、どうなりますことやら、です。

組織としての研究会には入会せず、発表のみ聴くことも可能です。入会すると年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付され、そちらへの寄稿が可能です。

研究発表会への事前の参加申し込み等は必要ありません。直接、会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。終了後には懇親会も予定されています(別途料金)。
 

【折々のことば・光太郎】

大地無境界と書ける日は 烏有先生の世であるか、 筆を投げてわたくしは考へる。

詩「大地うるはし」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村役場の新築落成記念に贈った「大地麗」の書に寄せた詩です。

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「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、有るはずがない」の意。

つまり、大地に国境などの境界がなくなることは、現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。この詩が書かれた昭和25年(1950)と言えば、朝鮮戦争。国内でもそのあおりで、自衛隊の前身である警察予備隊が創設されるなどしています。

光太郎、それから光太郎の父・光雲の作品が載ったアンソロジー的な書籍を2冊、ご紹介します。

猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる

2017年6月10日 筑摩書房(ちくま文庫) 和田博文編 定価840円+税

猫たちがいきいきと描かれている短編やエッセイを一冊に。内田百閒(けん)が、幸田文が、大佛次郎が、川端康成が、向田邦子が魅せられた猫大集合!

大佛次郎、寺田寅彦、太宰治、鴨居羊子、向田邦子、村上春樹…いつの時代も、日本の作家たちはみんな猫が大好きだった。そして、猫から大いにインスピレーションを得ていた。歌舞伎座に住みついた猫、風呂敷に包まれて川に流される猫、陽だまりの中で背中を丸めて眠りこんでいる猫、飼い主の足もとに顔をすりつける猫、昨日も今日もノラちゃんとデートに余念のない猫などなど、ページを開くとそこはさまざまな猫たちの大行進。猫のきまぐれにいつも振り回されている、猫好きにささげる47編!!

1 のら猫・外猫・飼い猫005
2 仔猫がふえる!
3 猫も夢を見る
4 猫には何軒の家がある?
5 そんなにねずみが食べたいか
6 パリの猫、アテネの猫
編者エッセイ 猫が宿る日本語


世の中、猫ブームだそうで、それに乗った企画のようです。日本近現代の猫に関するエッセイ、短編小説、童話、詩などが集められています。

第5章が「そんなにねずみが食べたいか」という題になっていますが、これは、この章に収められた光太郎詩「猫」(大正5年=1916)の冒頭の行「そんなに鼠が喰べたいか」から採っています。

その他、光太郎と関わりの深かった人々――与謝野晶子、佐藤春夫、室生犀星、三好達治、岡本一平、尾形亀之助ら――の作品も載っています。

しかし、時代が違うと言えばそれまでですが、昔の猫は平気で捨てられたり、避妊手術を受けられなかったり、餌は自分で調達しなければならなかったりと、いろいろ大変だったようです。

ちなみにわが家の猫、娘が拾ってきて1年半近くになりますが、お姫様のように過ごしております(笑)。

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もう1冊。 

コーヒーと随筆

2017年10月1日 mille books 庄野雄治006
 定価1,300
円+税

近代文学に造詣の深い、『コーヒーの絵本』の著者で徳島の人気焙煎所アアルトコーヒー庄野雄治が、コーヒーを飲みながら読んで欲しい随筆を厳選しました。大好評を博した『コーヒーと小説』の姉妹書、2冊続けて読むと何倍も楽しめる内容です。前作に続きカバー写真には、作品に登場する魅力的な女性の象徴として人気シンガーソングライター・安藤裕子さんを起用! 現代に生きる私たちにこそ響く、至極面白く読みやすい随筆20編です。コーヒーを飲みながらお楽しみください。
 
「新しいものは古くなるが、いいものは古くならない。それを証明する随筆集」
人はずっと変わっていない。百年前の人が読んでも、百年後の人が読んでも、同じところで笑って、同じところで泣くんじゃないのかな。コーヒーと一緒に、偉大な先達たちの真摯な言葉を楽しんでいただけると、望外の喜びだ。

掲載作品(掲載順)
「畜犬談」太宰治、「巴里のむす子へ」岡本かの子、「家庭料理の話」北大路魯山人、「立春の卵」中谷宇吉郎、「大阪の可能性」織田作之助、「陰翳礼讃」谷崎潤一郎、「変な音」夏目漱石、「恋と神様」江戸川乱歩、「余が言文一致の由来」二葉亭四迷、「日本の小僧」三遊亭円朝、「柿の実」林芙美子、「亡弟」中原中也、 「佐竹の原へ大仏を拵えたはなし」高村光雲、「大仏の末路のあわれなはなし」高村光雲、「ピアノ」芥川龍之介、「人の首」高村光太郎、「好き友」佐藤春夫、「子猫」寺田寅彦、「太陽の言葉」島崎藤村、「不良少年とキリスト」坂口安吾


光雲の2篇は、ともに昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に載ったもの。田村松魚による談話筆記です。内容的には、若き日の光雲が、悪友や実兄達と、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏を作った話。くわしくはこちら

光太郎の「人の首」は、昭和2年(1927)の雑誌『不同調』に掲載されたエッセイで、肖像彫刻をいろいろ手がけた経験から、人の首の魅力を語ったものです。


光太郎、光雲の作品、こういったアンソロジーに採録していただき、ありがたく存じます。それだけの魅力があると評価していただいているということでしょうが、まさしくその通りです。

光雲の談話筆記は、『光雲懐古談』以外にも、光雲存命中のいろいろな書籍等に断片的に収録されていますが、軽妙な語り口と、舌を巻くような確かな記憶力、豊富な話題で、面白いものばかりです。時代作家の子母澤寛は、新聞記者時代に光雲の談話筆記を採って『東京日日新聞』に載せ、絶賛しました。代表作『父子鷹』あたりには、光雲の語った江戸時代の様子が反映されているそうです。宴席では、その話芸の面白さから、芸妓衆が光雲のそばにばかり寄っていき、美術学校の同僚連は、「光雲先生とは呑みたくない」と言ったとか言わないとか(笑)。

光太郎のエッセイは、文体やら話の運び方やら、エッセイのお手本といえるようなものです。どうも、話芸に通じていた光雲の影響も無視できないような気がします。

今後とも、こういったアンソロジーへの採録が続くことを希望します。


【折々のことば・光太郎】

開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる。 精神の熟土に活を与へるもの、 開拓の外にない。

詩「開拓に寄す」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた詩の一節です。

昭和51年(1976)には、花巻市太田の旧山口小学校向かいに、この一節を刻んだ「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

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