2017年09月

テレビ放映情報です。 

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ 2017年10月4日(水)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!! 

原  作 内田康夫
出演者 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか

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光太郎彫刻の贋作をめぐる殺人事件という設定で、初回放送は平成18年(2006)でした。年に1~2回、BSフジさんで再放送されています。

タビフク。#63「十和田湖・奥入瀬」小島藤子&宮崎香蓮

地上波TBS 2017年10月4日(水) 25時58分~26時28分=10月5日(木)午前1時58分~2時28分

プライベートでも仲の良い二人が究極のおしゃれ女子タビに。世界で二つしかない神秘の二重カルデラ湖「十和田湖」そして奥入瀬渓流へ小島藤子&宮崎香蓮がおしゃれ女子タビ。
素敵な日本の風景、極上のホテルルーム、あこがれのおしゃれ女子女子たちとまばゆいファッション・・・オンナの子の憧れがいっぱいにつまった番組。高精彩の4Kカメラにより撮影されています。残念ながら現在の地上波TVでは2Kフルハイビジョンでの放送となりますが、それでも映像の美しさは格別です。ぜひ極上の日本の風景をお楽しみください。

出   演   者 小島藤子&宮崎香蓮
番組案内役 タビフク。コンシェルジュ 季葉(きわ)

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖と、奥入瀬渓流が取り上げられます。予告編では、「乙女の像」は写っていませんでしたが、ぜひとも写っていてほしいものです。

プレミアムカフェ 鉄道乗りつくしの旅JR20000km全線走破 北陸甲信越ほか

NHKBSプレミアム 2017年10月2日(月) 9時00分~11時02分
                 再放送 24:45~26:50(10月3日午前0:45~)

ハイビジョン特集 列島縦断 鉄道乗りつくしの旅JR20000km全線走破 秋編 第1回 北陸甲信越 東北(初回放送:2005年):2004年の「関口知宏 最長片道切符の旅」でフォロー出来なかったJR路線を、“乗り潰す”旅の後半総集編。第1回は、福井県の九頭竜湖から宮城県の女川まで。

出演 関口知宏  語り 中川緑  スタジオゲスト 紀行作家・芦原伸  
スタジオキャスター 渡邊あゆみ

プレミアムカフェ 鉄道乗りつくしの旅JR20000km全線走破 東北編

NHKBSプレミアム 2017年10月3日(火) 9時00分~11時00分
                 再放送 24:30~26:30(10月4日午前0:30~)

ハイビジョン特集 列島縦断 鉄道乗りつくしの旅JR20000km全線走破 秋編 第2回 東北編(初回放送:2005年)2004年の「関口知宏 最長片道切符の旅」でフォロー出来なかったJR路線を、“乗り潰す”旅の総集編。今回は、宮城県の女川から青森県の三厩まで。

出演 関口知宏  語り 中川緑  スタジオゲスト 紀行作家・芦原伸  
スタジオキャスター 渡邊あゆみ

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2日連続の放送。光太郎を偲ぶ「女川光太郎祭」が毎年行われている、宮城県女川町が双方のちょうどつなぎ目です。初回放映が平成16年(2004)ですので、東日本大震災前。かつての女川の街並みが写ってほしいものです。


さて、先週ご紹介しました、テレビ朝日さんの「あなたの駅前物語 【二本松駅前/福島県】提灯祭りの駅前」。

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残念ながら、駅前の智恵子像と光太郎詩碑は取り上げられませんでしたが、安達太良山と阿武隈川の風景をバックに、二本松を紹介する俳人・黛まどかさんのナレーションで、「智恵子抄」に触れて下さいました。曰く「詩人で彫刻家の高村光太郎が詠んだ安達太良山と阿武隈川をはじめ、雄大な自然と文化の薫りが二本松の誇りです。」

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メインは10月4日(水)~6日(金)に開催される提灯祭り。300年以上も続いている祭りだそうで、智恵子もきっと見たことでしょう。

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ラストは「ほんとの空」をバックに黛さんの句。

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テレビ朝日さんのアーカイブサイトで、10月5日(木)まで公開されています。ご覧下さい。


二本松といえば、明日は智恵子を偲ぶ「第23回レモン忌」の集いが開催され、また行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

ちよびちよびちよびちよび、 ぴいひよう、ぴいひよう、 こつちおいで、こつちおいで、こつちおいで、 こひしいよう、こひしいよう、 ぴい。 おや、さうなんか、クロツグミ。

詩「クロツグミ」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

クロツグミは広く日本に分布する渡り鳥です。その鳴き声をオノマトペで表していますが、途中から「こつちおいで」「こひしいよう」と聞こえたというのです。花巻郊外太田村の山小屋での独居生活も約3年が経過。青年期から憧れていた自然に包まれての生活ではありましたが、智恵子逝きてすでに10年、光太郎自身の心の叫びなのかも知れません。

全国に47の教室を展開するNHK文化センターさんの講座で、光太郎が取り上げられます。ともに東北で、仙台といわきです

「多様性を発展東北ゆかりの作家たち

会 場 : NHK文化センター仙台教室006
       仙台市青葉区立町27-21
        仙台橋本ビルヂング2F
期 日 : 2017/10/3~12/19の第1・3火曜 (全6回)
時 間 : 15:30~17:00
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄
料 金 : 受講料(税込み)16,848円
       資料がある場合は別途コピー代

太宰治、石川啄木、斎藤茂吉らは東北出身です。島崎藤村は教師として仙台に赴任し、高村光太郎は花巻に疎開しました。東北の風土を背景に、どのような文学が形成されたのか考えます。

宮澤賢治の世界 交友編

会   場 : NHK文化センターいわき教室012
        いわき市平字小太郎町3-4
         NHKいわき放送会館
期   日 : 2017/10/16(月)・11/13(月)・12/11(月)
         (全3回)
時   間 : 13:00~14:30
講   師 : いわき賢治の会会長/賢治学会会員 小野浩
料   金 : 会員 6,091円  一般(入会不要) 6,739円
         資料代別途

賢治の生涯は37年間でしたが、生前、詩人・童話作家として評価されず、中央で活躍する場はありませんでした。当時、賢治の才能を絶賛していたのが草野心平でした。
さらに心平の詩友・黄瀛(こう・えい)、そして高村光太郎。賢治と3人の交友を学びます。


小野氏は連翹忌ご常連。いわき市立草野心平記念文学館にお勤めで、昨日ご紹介した二本松市の「智恵子講座」でも講師を務められたことがあります。その他、あちこちのイベントでご一緒させていただいております。



それぞれ残席がまだあるとのこと、お近くの方、ぜひどうぞ。


ちなみに、賢治といえば、明日のテレビ放映で賢治や光太郎が愛した花巻の大沢温泉さんが取り上げられます。

朝だ! 生です旅サラダ013


地上波テレビ朝日 2017年9月30日(土)
                                   8時00分~9時30分

◇内容I ゲストの旅
 和歌山出身の田中理恵さんが念願の白浜へ!海と温泉のリゾート地・白浜で、初めての白良浜&(秘)グルメ&パワースポットを楽しんだ後、海と一体に見えるお風呂の絶景に感激!さらに、レジャーランドで人気のパンダ&イルカを満喫…そして感涙!?
◇内容Ⅱ 海外の旅
 様々なルーツを持つ人々が暮らす多民族国家・シンガポールで、世界の文化を楽しみます!カラフルで可愛い“プラナカン"文化やアラブ街、インド街を巡ります。また、夜だけ営業するナイトサファリを体験!ヒョウ、ライオンなど、夜行性の動物たちが活発に動く姿に感激!
◇内容Ⅲ 俺のひとっ風呂
 「宮沢賢治の愛した湯治宿」を目指します!カッパ伝説の町・遠野からスタートし、カッパ釣りに挑戦!?ミネラル分の豊富な水を与えられて育つブランドポークを味わい、目的の湯治宿へ!川のせせらぎを聞きながら、宮沢賢治も浸かったという露天風呂を楽しみます。
◇内容Ⅳ ヒロドが行く!日本縦断コレうまの旅
 “くいだおれの街"大阪の最終回!今回は、夜の街でコレうま探し!美食家が集まる大人の隠れ家に、ヒロド驚愕!繁華街・北新地なども巡り、プレゼントに選んだのは!?
◇内容Ⅴ 生中継のコーナー
 ラッシャー板前が、福井県・越前町からリポート!「太アナゴ&越前さかなまつり」をご紹介!

出演者 神田正輝 向井亜紀 勝俣州和 三船美佳 ラッシャー板前 森川侑美(旅サラダガールズ)
      ヒロド歩美(ABCアナウンサー) 田中理恵(体操・元日本代表)

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、 東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。 夏の雲のやうに冬の星のやうに、 朝の食卓の白パンのやうに、 夜の饗宴のナイフのやうにフオクのやうに。

詩「東洋的新次元」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

戦時中、翼賛詩として「西洋」に対峙する「東洋」を礼賛していた光太郎ですが、自らの戦争責任にいたいする深い反省を経たあとは、よりグローバルな視点から「東洋」の発展を願う方向に転じています。

一昨日、昨日と、智恵子の故郷・二本松ネタが続きましたが、もう1件。智恵子の顕彰に当たられている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の市民講座です。

『広報にほんまつ』さんから。

智恵子講座2017

 『わたしの一生はわたしが決める。たった一度きりの人生ですもの』と高らかにうたった高村智恵子。今年の講座は、昨年亡くなられた二本松の児童文学者・故金田和枝さんの著書(智恵子と光太郎)を熟読します。

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募集定員 25人

参加費   3000円(本代と昼食代と文集代含む)
そ の他
 この講座では、『智恵子と光太郎』の朗読を聞いてみたいという小・中学生および高校生を募集しています。定員は20人で参加費は無料です。詳しくは下記へお問い合わせください。


◎問い合わせ・申し込み… 智恵子のまち夢くらぶ事務局☎0243・23・6743


例年、講師を招いて講義型の講座として行われている同講座(当方も何度か講師を務めさせていただきました)ですが、今年は新たな試みのようです。案内にあるとおり、昨年暮れに逝去され、二本松ご在住だった児童文学者・金田和枝さんの御著書『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』(歴史春秋社 昭和61年=1986)を読み込む、というものだそうです。

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上記は一昨年の、智恵子を偲ぶ001第21回レモン忌」。この時は、金田さんが記念講演の講師をなさっていました。当方、金田さんにお会いしたのは、これが最後となってしまいました。

『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』は、ジュブナイルとして書き下ろされたもので、智恵子の二本松での幼少期から、長じての福島高等女学校、日本女子大学校での生活、太平洋画会で油絵を学び、『青鞜』の表紙を描いたこと、光太郎との出会い、結婚、心の病の発症、そして死と、平易な言葉遣いで、しかし、年少読者に阿(おもね)ることなく、しっかりと智恵子像を描き出しています。

エピローグ的な部分では、智恵子歿後の光太郎……戦争で東京を焼け出されて移り住んだ花巻郊外太田村の山小屋裏手の「智恵子展望台」から夜空に向かって智恵子の名を叫ぶ姿、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として、智恵子像を遺したことなども語られています。

「あとがき」から。

 人間ひとりの一生は、実にかけがえのないすばらしいものです。
 「たった一度の人生だから」と、ひたむきに生きぬいた智恵子でした。安達太良山の上にひろがる空を本当の空であると言い、澄みきった空気のように浄化された「美」の世界で智恵子ののこしていったものは、今もなお私たちに何かを語りかけてくれているのです。

そのとおりですね。


お近くの方、ぜひお申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

雪女出ろ。 この彫刻家をとつて食へ。 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。 その時彫刻家は雪でつくる。 汝のしなやかな胴体を。 その弾力ある二つの隆起と、 その陰影ある陥没と、 その背面の平滑地帯と膨満部とを。
詩「人体飢餓」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

自らの戦争責任を処罰するため、花巻郊外旧太田村で自虐に等しい山小屋生活に入った光太郎ですが、それだけでなく、天職と考えていた彫刻を封印するという、およそ考え得る限りの厳罰を自らに科しました。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、まだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめたのです。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松での情報です。このブログでたびたび取り上げさせていただいている、作曲家・野村朗氏の作品が演奏されるコンサートです。

震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~

期   日 : 2016年10月9日(月・祝)
会   場 : 二本松市コンサートホール  福島県二本松市亀谷1-5-1
時   間 : 13:30開場  14:00開演 
料   金 : 2,000円 全席自由
申   込 : 090-6586-8337 野村
出   演 : 森山孝光(Br) 星由佳子(Sp) 森山康子(Pf) 倉本洋子(Pf)

プログラム
 歌曲 願わくば (詩・三好達治)
 「音楽の花束」~ピアノのための~
 歌曲 片恋 (詩・北原白秋)
 歌曲 すずしきうなじ (詩・三好達治)
 歌曲 春のあはれ (詩・三好達治)
 歌曲 桔梗 (詩・野村朗)
 連作歌曲 「智恵子抄巻末の短歌六首」より (詩・高村光太郎)
   第3曲 智恵子、尾長のともがらとなる  第5曲 智恵子の息吹みちてのこり…  
   第6曲 ここに住みにき
 歌曲 樹下の二人 (詩・高村光太郎) 新作初演
 連作歌曲 「智恵子抄」 (詩・高村光太郎)
   第1曲 千鳥と遊ぶ智恵子  第2曲 あどけない話  第3曲 レモン哀歌
   第4曲 間奏曲  第5曲 案内
 ※ 曲目を一部変更する場合があります

 今から6年ほど前、学校法人同朋学園本務事務局職員として任された大きなプロジェクトに失敗し、本当に行き場がないほど苦しかった時、髙村光太郎の詩集「智恵子抄」が、と言うよりも髙村光太郎と愛妻智恵子との生死を超越した愛の姿が、私を救ってくれました。
 光太郎は愛する智恵子を二度、失います。一度目は「統合失調症」で彼女の魂を見失い、次に結核でそのいのちを喪いました。その後、自己の戦争犯罪への自己批判も込めて、岩手は花巻の郊外の山中に、約7年間隠棲生活を送ります。「彫刻」を絶ち、たった一人で、しかし「心に智恵子を住まわせて」の隠棲でした。当時の郵便配達夫の証言で、光太郎自身が「見晴らし」と名付けた高台にて愛する智恵子の名前を呼ぶ光太郎の姿が語られています。
 「智恵さーん、智恵さーん」...

 私は、この晩年の髙村光太郎をこよなく愛し、何よりもその姿を表現したく、連作歌曲「智恵子抄」を作曲しました。
 この作品は名古屋市内、岐阜市、碧南市、東京都、神戸市等で何度も再演され、全日本作曲家コンクール歌曲部門でも3度の入賞を果たしました。今年の3月には、若い邦人留学生等の皆さんにより、ドイツはハイデルベルク市のヤコブ教会にて、世界初演を果たして頂きました。
 けれども、最初の「千鳥と遊ぶ智恵子」の最初の一音を書いたころから、「いつか、智恵子の故郷、二本松市の皆さんに聴いて頂きたい」と夢見ていました。ですから、今回の演奏会はその「夢」の実現なのです。
 最初は手の届かない夢であったものが、地元の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一さん、「智恵子の里レモン忌」の渡辺秀雄さん、「東京二本松会」の安斎盛夫さん、髙村光太郎ご命日の集まり「連翹忌」の皆さん、二本松市出身者を中心とした「榛の忌」の皆さまなど、多くの関係の皆さまとお友達になり、お付き合いを深めていく中で、「夢」は、やがて「具体的な希望」へ、そして「実現」へと、形を変えてまいりました。
 今回、智恵子の故郷、二本松市の皆さまに拙作を聴いて頂く「恩返し」のような気持ちで、髙村光太郎の詩集「智恵子抄」から、絶唱「樹下の二人」を選んで、歌曲「樹下の二人」を作曲。今回の演奏会にて、本邦初演させて頂きます。深い感謝と慈愛を込めて作曲致しました。
 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

雪をかぶつた岩手山の肩が見える。 少し斜めに分厚くかしいで これはまるで南部人種の胴体(トルソオ)だ。 君らの魂君らの肉体君らの性根が、 男でもあり女でもあり、 雪をかぶつてあそこに居る。 あれこそ君らの実体だ。
詩「岩手山の肩」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

地方紙『新岩手日報』の翌年元旦号に寄せた詩です。岩手県民のソウルマウンテン、岩手山。光太郎、おそらくこの詩を書きながら、智恵子における安達太良山を想起していたと思います。

この詩の直筆詩稿が、盛岡市の盛岡てがみ館さんで常設展示されています。

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昭和13年(1938)10月5日、光太郎の妻・智恵子が、南品川ゼームス坂病院で歿しました。直接の死因は肺結核でした。


その臨終の様子に題を採ったのが、有名な「レモン哀歌」です。

   レモン哀歌                                    002
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 

そこで、10月5日は「レモンの日」と名付けられています。また、智恵子の忌日、という意味で「レモン忌」とも呼ばれます。梶井基次郎の忌日(3月24日)は漢字で「檸檬忌」です。

智恵子の故郷・福島二本松では、智恵子生家に近いらぽーとあだちさんに於いて、智恵子を偲ぶ「レモン忌」という行事を行っています。当会の連翹忌同様、全国から智恵子ファンの参加を受け付け、記念講演、スピーチ、会食もあります。昨年の様子はこちら

そちらは10月5日の「レモンの日」に限らず、その日に近い日曜日ということで、10月の第一日曜か、第二日曜に開催されています。5日その日に重なる場合もありますが。

今年は10月1日の開催です。以下、開催要項的な。ネットには情報がアップされていないようです。 

第23回レモン忌

期 日 : 2016年10月1日(日)
会 場 : ラポートあだち 二本松市油井字濡石16
時 間 : 午前10時開会
参加費 : 3,000円
申 込 : 智恵子の里レモン会(戸田屋商店) TEL0243-23-4858
記念講演 : 『高村智恵子』~芸術家の横顔~ 講師 福島県立美術館 堀宜雄先生


また、それとは別に5日の「レモンの日」に、二本松市で現在開催中の「重陽の芸術祭2017」の一環として、智恵子生家を会場にダンスパフォーマンスの公演が行われます。智恵子を題材にした日本画を多く手がけた故・大山忠作画伯の息女にして女優の一色采子さんが朗読で参加されるとのこと。

智恵子・レモン忌 あいのうた

期   日 : 2016年10月5日(木)
会   場 : 智恵子生家 二本松市油井字漆原町36
時   間 : 18:00~
料   金 : 無料
出   演 : 二瓶野枝(モダンダンス)  大山采子(朗読)  渕上千里(ピアノ)

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通常の、智恵子生家・智恵子記念館の閉館後ということで、入場無料だそうです。ただ、観覧希望者多数の場合には入場制限がかかるとのこと。

智恵子生家では、やはり「重陽の芸術祭2017」の一環として、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションの展示が行われています。

併せてご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

はじめて武器をすてて立つ一つの国が 最初の新年を迎へる年に 運命は何を持つてくるか、 むしろきはどい人類の試金石だ。

詩「試金石」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

翌昭和23年(1948)の『週刊朝日』新年号のために書かれた詩です。「はじめて武器をすてて立つ」「最初の新年」は、平和憲法が施行されて最初の新年という意味です。

その後、まがりなりにも70余年、戦争には直接参戦せずにこの国は歩んできました。その誇るべき歴史をなし崩しにし、戦前に回帰でもさせようかという勢力の台頭は、実に嘆かわしいことといわざるをえません。

来月の衆議院選挙、現代の我々にとっての「試金石」です。


昨日に引き続き、光太郎彫刻が展示されている企画展の情報です。

状況をわかりやすくするために、地元紙『デーリー東北』さんの記事をご紹介します。

「旅と名所」テーマに 街かどミュージアムで5周年記念秋期展/青森・八戸

 青森県八戸市にある八戸クリニック街かどミュージアム(小倉秀彦館長)で、23日から5周年記念秋期展「旅と名所」が開かれる。時代ごとに変わる旅の楽しみや名所の捉え方にスポットを当て、全国各地の風景や名物を描いた浮世絵や木版画など195点を展示。観光名所として名高い十和田湖にある高村光太郎作「乙女の像」の習作「手」の石こうから鋳造されたブロンズ像も特別に公開する。11月12日まで。
  江戸時代、街道と宿場の整備により、旅は庶民の娯楽となり、それに伴い、さまざまな名所絵が描かれた。会場では、歌川広重の「狂歌入東海道五十三次」全56図をはじめ、歌川国芳、歌川国貞ら人気絵師が手掛けた名所絵を紹介。同館の小倉学学芸員は「和歌に詠まれた名所や、その土地にある伝説など、文学を織り交ぜた作品が多い」と特徴を解説する。
  明治時代になると、江戸や京都に限らず、全国津々浦々の名所が注目されるようになる。背景には、国民の郷土愛を培うとともに、外貨獲得や自然保護を目指す当時の政府の狙いがあった。その時代を反映した作品として、鳥瞰(ちょうかん)による旅行案内図を制作した吉田初三郎や、伝統的な浮世絵技術の復興と近代化を目指した「新版画」を確立した版画家川瀬巴水の作品などを中心に展示する。
  浮世絵や木版画を通して、時代の変遷とともに移り変わる人々の“旅情”が感じられる展示となっている。
  入館料は一般500円、高校生200円、中学生以下無料。開館時間は午前10時~午後5時。休館日は祝日を除く月・火曜日。
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というわけで、光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために、習作として作った手の習作を鋳造したものが展示されています。

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本来は習作で、光太郎生前には鋳造はされなかったものですが、その歿後にブロンズが作られ、光太郎展的な企画展に展示されることがあります。平成25年(2013)に千葉市美術館さん、岡山井原市立田中美術館さん、そして愛知碧南の藤井達吉現代美術館さんを廻った「生誕130年彫刻家高村光太郎展」でも並びました。今回の八戸では、企画展自体のコンセプトとはあまり関係ないようですが、「特別公開」ということだそうです。

そちらの詳細がこちら。

5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで

期 日 : 2017年9月23日(土)~11月12日(日)
会 場 : 八戸クリニック街かどミュージアム 青森県八戸市柏崎1丁目8-29
時 間 : 10:00〜17:00
休館日 : 毎週月曜日・火曜日(祝日の場合は開館)
料 金 : 大人500(400)円 高校生200(100)円 
      ( )内10名以上の団体 中学生以下無料

江戸時代、街道と宿場の整備が進み、旅は人々の娯楽となりました。寺社詣を口実に、江戸や京都の名所を訪れ芝居や食事を楽しむ。浮世絵にはそんな彼らの姿と共に、旅に関連させ狂歌や伝説などを楽しむ文化が表れています。全国に鉄道網が敷かれる明治を経て、大正以後の経済発展により旅の大衆化が進み、国家も自然保護・外貨獲得・国民の保健休養教化の一環などの目的で関連政策を強化、近代の観光産業が成立していきます。そんな時代に鳥瞰図や新版画などが生まれ、その近代の新たな風景は人々に旅への憧憬を抱かせました。今回は、これらの作品を紹介し江戸から昭和初期までの旅を概観します。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おれは自己流謫のこの山に根を張つて おれの錬金術を究尽する。 おれは半文明の都会と手を切つて この辺陬を太極とする。

詩「「ブランデンブルグ」」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

詩の中に初めて「自己流謫」の語が使われました。「流謫」=「流罪」です。結局、公的には戦犯として処されることがなかった光太郎、だからといって「助かった」というわけではなく、己で己を罰することにしたのです。

具体的には花巻郊外太田村の山小屋での、自虐に等しい独居生活。しかし、ただここに住んでいるというだけでは不十分でした。そこで、光太郎は自らに考え得る限りの最大の罰を与えています。すなわち、天職と考えていた彫刻の封印でした。

情報を得るのが遅れましたが、光太郎の木彫が出ている企画展です。 
会 場 : 富山県美術館 富山県富山市木場町3-20
時 間 : 9:30〜18:00
休 館 : 水曜日(祝日を除く)、祝日の翌日  9月24日、11月4日は臨時開館
料 金 : 一般1,300円(1,000円)大学生950円(750円)( )内20名以上の団体料金

古来より現在まで、多くの作品が「生命=LIFE」をテーマに生み出されてきました。古今東西の芸術家たちがこのテーマに関心を持ち、作品を通してその本質を明らかにしようとしてきたのは、それが私たち人間にとってもっとも身近で切実なものであったからにほかなりません。
本展は、富山県美術館(TAD)の開館記念展の第一弾として、アートの根源的なテーマである「LIFE」を「『すばらしい世界=楽園』をもとめる旅」ととらえ、「子ども」「愛」「日常」「感情」「夢」「死」「プリミティブ」「自然」の8つの章により構成し、国内外の美術館コレクションの優品を中心とした約170点を紹介するものです。ルノワールなどの印象派から、クリムト、シーレなどのウィーン世紀末美術、ピカソ、シャガールなどの20世紀のモダンアート、青木繁、下村観山などの日本近代絵画、折元立身、三沢厚彦などの現代アートまで、生命と美の深い関わりについて考察し、この富山県美術館でしか体験できない、新たなアートとの出会いを創出します。

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光太郎の木彫「蝉」(大正13年=1924)が出ています。

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複数現存している「蝉」のうち、「1」のナンバーのものですので、「展示作品リスト」には「蝉1」となっています。富山県内の個人の方が所蔵されています。

同館は先月のオープン。その開館記念ということで、気合の入った企画展です。日本中の美術館等から、古今東西かなりの数の名品が集められています。また、同時開催のコレクション展では、東京美術学校で光太郎が彫刻科を卒業したあと入り直した西洋画科での同級生・藤田嗣治の作品が目玉となっています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

はじめて一人は一人となり、 天を仰げば天はひろく、 地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。

詩「脱卻の歌」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ユマニテ」は「humanité」、「ヒューマニティー」の仏語です。「卻」は「却」の正字。連作詩「暗愚小伝」を書き終え、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、光太郎は真に自らの進むべき道に開眼します。

東北の、光太郎智恵子に関わる地域などを取り上げるテレビ番組の放映情報です。

5人で挑む"最後の夏"~宮城・女川中バスケ部~

NHKBS1 2017年9月23日(土)  15時00分~15時30分

東日本大震災で大きな被害を受け人口が4割も減った宮城県女川町。今年、町の人々に勇気を与えたのが女川中学・女子バスケ部の快進撃だ。新入生をのぞくと部員は3年生の5人だけ。それでも全国大会出場という夢に向かって、並み入る強豪に立ち向かった。5人は小学3年生で震災を経験し、避難所で一緒に練習してきた仲間。大人たちも練習相手を買って出るなど、町が一丸となって夢に挑戦した熱い日々を追う。※初回放送2016年

語り 倉科カナ 

アニメドキュメント「女川中バスケ部 5人の夏」

NHKBS1 2017年9月23日(土)  15時30分~16時13分

震災で部員が減る中、最小人数で全国大会目指す5人の少女の感動の実話をアニメ化。ナレーションは綾瀬はるか。声の出演は倉科カナ、山寺宏一、サンドウィッチマンなど豪華メンバーが集結した!!宮城県女川町は津波で大きな被害を受け人口が4割も減少。名門・女川中バスケ部も3年生が5人だけに。しかし5人は震災をともに乗り越えてきた絆と、町の人たちの支えをうけて、ひたむきに戦い、奇跡的に県大会を勝ち進む…。

語り 綾瀬はるか
声  倉科カナ 山寺宏一 サンドウィッチマン 大神雄子 佐々木李子 三瓶由布子 伊瀬茉莉也 潘めぐみ 大和田仁美

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実話を元に、昨年の夏、全国大会出場を目指してがんばった、宮城県女川中学校女子バスケットボール部を描いた番組です。実写版とアニメ版がセットで再放送されます。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために光太郎が立ち寄った、女川町。それを記念して、平成の初めに光太郎文学碑が建立されました。その後、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で大きな被害を受け、その教訓から、光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、建設費用を募金でまかない、当時の女川第一中学(現・女川中学)の生徒たちが中心となって、津波到達地点より高い場所、町内21ヶ所に非難の目安となる「いのちの石碑」が建立され続けています。

アニメ版では、「いのちの石碑」が背景に使われています。女川の補通の風景の一部と化しているという感覚でしょうか。

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続いて、智恵子の故郷・二本松。

あなたの駅前物語 【二本松駅前/福島県】提灯祭りの駅前

地上波テレビ朝日 2017年9月28日(木)  23時10分~23時15分

日本中の「駅前」を舞台に、そこに関わる人々、街が持つ「物語」をたどり、「街のぬくもり」とともに「ニッポンの良さ・味わい」への思いを呼び起こす番組。

#26 二本松駅/福島 安達太良山や阿武隈川をはじめ、雄大な自然と文化の香りが二本松の誇り。駅前には戊辰戦争で散った二本松少年隊の像があり、悲しい歴史を思い知らされる。10月初めには駅前を舞台に二本松提灯祭りが開催され、もう300年以上も続いている。提灯で飾られた太鼓台は“稲穂"と“鉾"を表し、五穀豊穣と疫病退散を祈る。しゃぎりと呼ばれる太鼓のリズムで子どもたちが祭りを盛り上げる。

ナレーター 黛まどか(俳人)


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10月4日(水)~6日(金)に、提灯祭りが開催されるJR東北本線二本松駅。番組説明では、駅前の二本松少年隊の像に触れられています。

少年隊像の逆サイドには、光太郎の父・高村光雲の孫弟子にあたる橋本堅太郎氏による智恵子像「ほんとの空」(平成21年=2009)、二つの中間には、光太郎筆跡を刻んだ「あどけない話」詩碑(昭和51年=1976)もあり、そちらもちらっとでいいので映ってほしいものです。

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もう1件。

ドラマ10 この声をきみに(3)「雨にも負けぬ男」

地上波NHK総合 2017年9月29日(金)  22時00分~22時50分

連続テレビ小説「あさが来た」で、同枠ドラマ今世紀最高視聴率(関東平均値)を叩き出した、脚本家・大森美香が満を持して送るオリジナル作品、上質な大人のエンターテインメント。そんな彼女がラブストーリーの舞台に選んだのが朗読教室。「時代遅れ」のイメージもある朗読教室だが、声を出して心を開放する癒しの場として再評価され、若者にも密かなブームである。 声の交流を通して、主人公が女教師と「愛」や「人生」のレッスンを重ね、 個性的な生徒たちと一緒に、成長をしていく姿をキュートに、ロマンチックに描きます。

孝(竹野内豊)がついに発表会の舞台へ!?偏屈で口下手な数学者・孝がひょんなことから、みんなと「雨ニモ負ケズ」を朗読することに。しかし緊張のあまり、言葉が出ない!

孝(竹野内豊)は奈緒(ミムラ)と一か月ぶりに会うことになった。そこで奈緒は、離婚を決意した理由を明かすが、孝への不満は想像を超えるものだった。一方、朗読教室ではライブに向け、泰代(片桐はいり)たちが群読の猛練習をしていた。孝も仲間に誘われるが、気乗りがせずに断る。そして発表会当日、トラブルが起き、朗読メンバーに欠員が出てしまう。孝は京子先生(麻生久美子)から、舞台へ上がって欲しいと頼まれるが…。

今回の朗読作品
「氷菓」作:室生犀星  「雨ニモマケズ」作:宮澤賢治  「くじらぐも」作:中川李枝子/絵:柿本幸造
 「津軽」作:太宰治

出演  竹野内豊 麻生久美子 柴田恭兵 ミムラ 杉本哲太 片桐はいり 堀内敬子
    大原櫻子 戸塚祥太
 趣里 平泉成 松岡充 仁科亜季子


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その「発見」の現場に立ち会ったり、碑文の揮毫をしたりと、光太郎とも縁の深い宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がメインで取り上げられます。

ところで、昨夜の第2話で、その朗読ライブのチラシが映りました。そこには「雨ニモマケズ」と並んで「「智恵子抄」 高村光太郎」の文字が。

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しかし、番組公式サイトの予告では、残念ながら「智恵子抄」には触れられていませんでした。今後の回に期待したいところです。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

けちな善意は大局に及ばず、 せまい直言は喜劇に類した。 わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、 自分の醜を天日の下に曝すほかない。

詩「蒋先生に慙謝す」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「蒋先生」は蒋介石。戦時中、その徹底した抗日思想を批判し「沈思せよ蒋先生」(昭和17年=1942)という詩を書いた光太郎。連作詩「暗愚小伝」を経て、みずからの誤りに思い至り、この詩を書きました。「けちな善意」「せまい直言」は、「沈思せよ蒋先生」での、蒋介石への呼びかけを指します。

ついでにいうなら、「自分の醜を天日の下に曝すほかない」も、初期の翼賛詩「天日の下に黄をさらさう」(昭和12年=1937)からの連想でしょう。「黄」は欧米人の蔑視する「黄色人種」の「黄」という意味でした。

光太郎の父・高村光雲の作品が展示される企画展です。

ニッポンの写実 そっくりの魔力

期 日  : 2017年9月30日(土)~11月12日(日)
会 場  : 豊橋市美術博物館 愛知県豊橋市今橋町3-1(豊橋公園内)
時 間  : 午前9時~午後5時  (金土日祝は午後7時まで夜間開館)
料 金  : 一般・大学生 1000(800)円 小・中・高生 400(300)円
        ( )内前売りまたは20人以上の団体料金
休館日 : 月曜日  (10月9日は開館、翌10日休館)

 近年、緻密な技法で対象をリアルに表現した写実的な造形作品が大きな関心を集めています。美術の歴史をふりかえれば、対象を瓜二つに表現することは、洋の東西を問わず古くから多くの人々の関心を集め、作家たちは迫真的な表現をめざして様々な工夫を凝らしてきたことがわかります。
 本物「そっくり」に表現するという課題は、19世紀に写真が発明されたことで一見解決したかに思われました。しかし、いうまでもなく三次元を二次元に置き換える写真には限界があります。コンピューターや映像技術の進展は、そっくりな表現に新たな曲面を開きましたが、現代にあっても対象をそのまま表現するという課題は残っています。
 なぜ本物と見紛うばかりに表現しようとするのか、またなぜそうした表現に私たちはひきつけられるのか——–?、そこには表現、実在、視覚などをめぐる重要なテーマが存在します。
本展では「そっくり」をキーワードに、近年超絶技巧として注目を集めている安藤緑山・山﨑南海ら明治期の工芸作品にはじまり、岸田劉生らの大正リアリズム、野田弘志・礒江毅・諏訪敦の迫真的写実絵画、上田薫・三尾公三らのフォトリアリズム、須田悦弘・前原冬樹の立体造形など、工芸・立体・絵画・映像といった多種多様な写実作品約80点を紹介し、写しとることの意味とそれらを求める根源的な意識を探ります。

出品作家  
<絵画> 横山松三郎・高橋由一・鹿子木孟郎・岡田三郎助・岸田劉生・椿 貞雄・小絲源太郎・髙島野十郎・大澤鉦一郎・宮脇晴・山田睦三郎・水野正一・筧忠治・野田弘志・磯江毅・三栖右嗣・諏訪敦・水野暁・木下晋・星野眞吾・上田薫・三尾公三・鴫剛・岡田修二・山口英紀・橋爪 彩・宮本佳美

<立体> 高村光雲・石川光明・橋本平八・三宅一樹・須田悦弘・前原冬樹

<工芸> 安藤緑山・山崎南海・明珍正信・富木宗義・三浦鉚三郎・森田藻己・満田晴穂

<映像> 佐藤雅晴・伊藤隆介

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関連行事

●記念講演会「写実とはなんだろう」●
講師:野田弘志(本展出品画家)  日時:10月28日(土)午後2時~  会場:講義室(聴講無料/定員80名)

○アーティスト・トーク○
講師:佐藤雅晴(本展出品作家)  日時:10月14日(土)午後2時~  会場:展示室(申込不要/観覧料が必要)

●ワークショップ● 「みんなでつくる不思議な絵」
講師:宮本佳美(本展出品画家)  日時:11月3日(金・祝)午後1時30分~  会場:講義室
対象:小学生20名 参加料:500円

○ギャラリー・トーク○
講師:担当学芸員  日時:10月8日(日)、29日(日)、11月4日(土) 午後2時~
金曜イブニングツアー=10月13・27、11月10日 午後5時30分~  会場:展示室(申込不要/観覧料が必要)


光雲作品は三点、「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点です。

「天鹿馴兎」は、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に出品され、妙技三等賞を受賞した作品です。「砥草刈」と「西行法師」はこちら。

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同展は全国巡回で、6月から8月まで、北海道立函館美術館さんにて開催されていましたが、その際には情報を見落としていました。豊橋展終了後は、奈良県立美術館さんに巡回します。そちらはまた近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

受付にはウグヒス給仕には山兎、 守衛さんには月の輪熊に来てもらひ、 大に愉快なポラノのひろばにするのですか。

詩「山のひろば」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ポラノのひろば」は宮沢賢治の童話から採りました。元々、宮沢家の招きで花巻に疎開した光太郎。賢治の「イーハトーブ」の理念を受け継ぎ、郊外旧太田村に図書館や音楽堂などを作る、文化集落の建設的なことも考えていました。「楽天的」と行ってしまえばそれまでですが……。

光太郎の朋友・荻原守衛の談話筆記が載った古い雑誌を入手しました。

『商業界』という雑誌で、明治43年(1910)1月1日発行の臨時増刊号。「世界見物」という副題です。

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その名の通り、世界各地のレポート、観光案内などから成り、そのうち、フランスを紹介する項の中に、守衛による「仏蘭西の美術学生」と題する談話筆記が載っていました。

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守衛は海外留学でアメリカとフランスを行ったり来たりしており、滞仏していたのは、明治36年(1903)から翌年にかけてと、同39年(1906)から翌年にかけてです。39年の夏頃、ニューヨークで光太郎と知り合っています。守衛2度目の滞仏中は、光太郎はまだニューヨーク、そしてロンドンでしたが、ロンドンに移ってからは、パリの守衛とお互いに行き来しています。

そういうわけで、光太郎も見たであろう同じパリの風俗が、ほぼリアルタイムで語られており、非常に興味深く拝読しました。光太郎自身にもパリの回想や、守衛のこれと同じような雑誌への寄稿もありますが、それを補うような内容でした(守衛以外の人物が書いたパリの様子も)。

守衛は同43年(1910)、数え29歳の若さで病歿します。その翌年、雑誌等に発表された文章を集めた『彫刻真髄』という書籍が刊行されました。光太郎が雑誌『方寸』に寄せた追悼文「死んだ荻原君」なども掲載されています。
「仏蘭西の美術学生」は、『彫刻真髄』には漏れていますが、信州安曇野碌山美術館さんの学芸員氏によれば、同館元館長の仁科惇氏の書かれた『荻原碌山 その生の軌跡』(昭和52年=1977)の中で紹介されているということでした。

で、もともとその予定で購入したので、『商業界』、碌山美術館さんに転送しました。あるべきものがあるべきところに収まって、良かったと思います。

碌山美術館さんといえば、先の話ですが、12月2日(土)に、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」が開催されます。パネルディスカッション的なものですが、それほど肩のこらない企画です。当方にパネリスト的な依頼があり、喜んでお引き受けいたしました。近くなりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩を戦地の同胞がよんだ。 人はそれをよんで死に立ち向かつた。 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

連作詩「暗愚小伝」断片の「わが詩をよみて人死に就けり」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昨日同様、連作詩「暗愚小伝」全20篇を構想する中で、結局は没になった一篇から。終戦の年からの、花巻郊外旧太田村での、自虐に等しい7年間の山小屋生活を送らざるを得なかった理由、それが凝縮された一節です。

光太郎詩「あどけない話」の一節「ほんとの空」の語を冠したイベントです。福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠したシンポジウムは、これまでに京都東京愛知いわきそして新潟でそれぞれ開催されています。

今回は福島県南相馬市小高区。昨年、原発事故による避難指示がようやく解除されたところです。光太郎生前の昭和30年(1925)に、光太郎詩「開拓十周年」が刻まれた碑が建立されています。

「ほんとの空が戻る日まで-東日本大震災から7年目を迎えた浜通り地方の今後を考える-」シンポジウム

日 時 : 2017年9月27日(水) 13:00~16:00
会 場 : 小高生涯学習センター「浮舟文化会館」1階 ホール 
        福島県南相馬市小高区本町二丁目89-1 
参加費 : 無料
共 催 : 南相馬市
後 援 : 復興庁福島復興局、福島県、NHK福島放送局、福島民報社、福島民友新聞社

  事前申し込みが必要です。   申込みはこちら →https://ws.formzu.net/fgen/S6188406/

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)では、3.11東日本大震災以降、毎年、県内・県外においてシンポジウムを開催して、福島の現状・課題並びに復興・再生支援活動の取り組みを報告してきております。
このたび、東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から6年6か月が経過する9月下旬にFURE県内シンポジウムを下記により開催して、浜通り地方の今後の復興・再生について、参加者といっしょに考えます。

【シンポジウム構成】
 〈13:00~13:30〉挨 拶・センター活動紹介
  福島大学うつくしまふくしま未来支援センター長   初澤 敏生
  南相馬市長                       桜井 勝延 氏
  FURE 企画コーディネート部門特任教授・相双地域支援サテライト長 仲井 康通
 〈13:30~14:00〉 基調講演
  「イノベーションコースト構想と地域の活性化について」~新たな価値の創造を目指して~
  福島大学理事・副学長 (研究・地域連携)       小沢 喜仁
〈14:15~16:00〉 パネルディスカッション
  「ふくしま浜通り地方の今後の復興・再生について」
   ~今後の復興・再生について、参加者と共に考える~
  モデレータ:福島大学うつくしまふくしま未来支援センター長
  パネリスト
   山本 秀和 氏  南相馬市立小高小学校校長
   平田 廣昭 氏  小高商工会会長
   黒木 洋子 氏  南相馬市社会福祉協議会事務局長
   石井 秀樹      FURE 農・環境復興支援部門特任准教授

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上記チラシでは申し込みが9/13までとなっていますが、延長されています。


もう1件、やはり「ほんとの空」の語が使われるのではないでしょうか。「智恵子抄」を含む朗読系イベントです。 

ひだまりコンサートVol2 朗読と歌 ことばをつむいで伝える大切な思い

期 日 : 2017.9月24日(日)006
会 場 : サンプラザ市原一階 I(あい)スペース
       千葉県市原市五井中央西1丁目1番地25
時 間 : 13:30~
料 金 : 2,500円(全席自由)

文学作品の魅力や著者の思いを伝える 朗読と歌
「魔術」「トロッコ」「智恵子抄」
朗読 加賀佑冶/山川建夫
歌・ピアノ 藤本千波 童謡・唱歌メドレー

加賀・山川 二人の朗読者が、「芥川龍之介」と「高村光太郎」の世界に挑戦します。二人によって同じ作家の作品がどのように語り分けられていくのか・・・そして、藤本の美しく柔らかい歌声。

【問い合わせ先】
090-7269-9500 ひだまり舎


それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

つひに死は生活に飽和した。 死の脅威が人をやけくそに追ひ込み、 いつ来るか分らぬ運命の不安に 人は皆今日の刹那に一生をかけた。

連作詩「暗愚小伝」断片の「(死はいつでも)」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

連作詩「暗愚小伝」全20篇を構想する中で、結局は没になった一篇から。戦時中の世相を表しています。光太郎が大量の翼賛詩を書いた背景に、このように荒廃した同胞の人心を勇気づけよう、という意図がありました。しかし、「勇気づける」ことと「鼓舞して駆り立てる」ことは別のこと。光太郎自身も「やけくそ」になり、そのあたりを混乱していたようです。

先週末、当方が花巻に行っている間に開催されたイベントが報道されていますので、ご紹介します。

まずは『神奈川新聞』さんから、 「横浜日枝神社例大祭」に関して。 

修復神輿お披露目 横浜、「火伏行列」練り歩き

 お三の宮として親しまれている日枝神社(横浜市南区)例大祭のメイン行事の一つ「火伏(ひぶせ)神輿(みこし)行列」が15日、同市中区のイセザキ・モールで行われた。約90年ぶりに神輿の修復を済ませてからは初めての行列で、塗り直された極彩色の彫刻などが披露された。
  烏帽子(えぼし)と白装束姿の氏子約30人が神輿を担ぎ、「エイサー、エイサー」の掛け声でゆっくりと練り歩いた。
  神輿は大正天皇即位記念事業の一つとして伊勢佐木町の商店主らが企画。当時の帝室技芸員・高村光雲らが1923年に製作した。関東大震災と横浜大空襲の2度の火難を逃れたことから火伏神輿と呼ばれるようになった。
  2016年の修復の世話人を務め、祖父が製作時の世話人だった渡辺洋三さん(65)は「高村光雲の木彫りがひときわ美しくなった。火伏神輿は地域の宝であり文化財。大切に残していきたい」と語った。

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続いて、光太郎詩「あどけない話」の一節「ほんとの空」を冠した、「ふくしま ほんとの空プログラム」について、『福島民報』さんから。 

鮫川の自然満喫 児童らピザ作り「ふくしま ほんとの空プログラム」

 子どもの好奇心と探究心を育む原体験活動「ふくしま ほんとの空プログラム」は16日、鮫川村赤坂東野字葉貫のあぶくまエヌエスネットで始まった。県内外の児童、保護者ら25人が日帰りで里山の自然を満喫した。
 子どもたちがウオールクライミングや広場で野球をして体を動かしたほか、小川で水生生物をつかまえたり、ヤギと触れ合ったりして、ゆったりとした時間を過ごした。昼食には石窯を使ったピザ作りも体験。自ら生地を広げて、野菜などをトッピングした。福島市の新田樹君(9つ)=清水小3年=は「鮫川村に来たのは初めて。いろいろな自然がある」と話し、木工遊びなどを楽しんだ。
 福島民報社の主催、JTB東北法人営業仙台支店の企画・実施、NPO法人あぶくまエヌエスネットの協力、鮫川村の後援。王子製紙、オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、東北エールマーケット、日本シビックコンサルタントの協賛。
 今後のプログラムは30日と10月22日に同様の日帰りを、10月28、29の両日に1泊2日の宿泊体験を実施する。日帰りは時間がともに午前10時~午後3時半。小学生3000円、保護者1500円。宿泊体験は小学生7000円、保護者5000円。
 参加希望者は、はがきに(1)参加希望プログラム(2)参加者氏名(ふりがな)(3)生年月日(4)学年または年齢(5)性別(6)学校名(7)郵便番号(8)住所(9)日中連絡がつきやすい電話番号(10)アレルギーや投薬など運営団体への連絡事項を記入し、郵便番号980-0804 仙台市青葉区大町1の4の1 明治安田生命仙台ビル4階 JTB東北法人営業仙台支店「ふくしま ほんとの空プログラム」係へ。プログラムに関する問い合わせは福島民報社東京支社 電話03(6226)1001(平日午前10時~午後5時)へ。旅行内容に関する問い合わせはJTB東北法人営業仙台支店 電話022(263)6712(平日午前9時半~午後5時半)へ。

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「ほんとの空」の語を冠したイベント、別件で来週にも行われます。明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

おのれの暗愚をいやほど見たので、 自分の業績のどんな評価をも快く容れ、 自分に鞭する千の非難をも素直にきく。 それが社会の約束ならば よし極刑とても甘受しよう。

連作詩「暗愚小伝」中の「山林」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

連作詩「暗愚小伝」終末の一篇です。全20篇を書き上げ、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、到った境地がここでした。

戦時中、ほとんどの文学者が光太郎同様、翼賛作品を書いていました。一般には戦争反対の立場を貫いたとされる文学者もいますが、翼賛作品が隠蔽されているに過ぎず、なにをかいわんや、です。そして、戦後、ここまでの反省を公にした文学者は、ほぼ光太郎のみと言っていいと思います。歌人のSなどは過ちを認めず、かたくなに天皇崇拝、神国日本讃仰をやめませんでした。左翼系詩人のTなどは、戦時中に自らも翼賛詩を書いていたことを棚に上げ、戦犯糾弾の急先鋒となりました。そしてほとんどの文学者は、民社主義による明るい未来の到来を信じて疑わず、楽天的な作品を書きました。

無論、「暗愚小伝」による光太郎の反省とて、言い訳がましさ、他への責任転嫁的な部分も見られ、十分とは言い難いものではあります。しかし、その後に展開された光太郎の詩業、そして実生活は、その反省をさらに押し進め、揺るぎないヒューマニズムに根ざしたものとなっていきます。

先週の金・土と、1泊2日で岩手花巻を訪れておりました。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、金曜から始まった「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」を拝見し、さらにその前後、光太郎ゆかりの場所をいろいろと廻りました。

高村光太郎記念館さんの企画展で、光太郎が彼の地に暮らしていた頃よく利用していた花巻電鉄にスポットをあてた展示も視野に入れている、という話が以前にあり、それなら智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成されたジオラマ作家の石井彰英氏に、ジオラマを作成していただいてはどうかと思いついて、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。石井氏がぜひ現地のロケハンを、ということなので、ご案内した次第です。石井氏の息子さんも助手として同行されました。

石井氏、試作品をお持ちくださいました。

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右が花巻電鉄の車両、左の方は大八車やリヤカーです。

光太郎が暮らしていた頃の花巻町とその周辺を、畳一畳分くらいに再現、そこに廃線となった花巻電鉄を走らせるというコンセプト。そこで、光太郎ゆかりの建造物などが残っている場所をレンタカーで廻りました。

光太郎が暮らした太田地区にある「新農村地域定住交流会館・むらの家」。直接の関わりはありませんが、当時の農家建築の例として。

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光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)。

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花巻電鉄が二系統あったうちの片方の終点、市街北西部の花巻温泉。

元の駅の跡。

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線路跡はサイクリングロードとなり、それとわかるように残っています。右下は初代花巻電鉄社長・金田一国士の顕彰碑。光太郎の詩「金田一国士頌」が刻まれています。

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光太郎がたびたび泊まった旧松雲閣別館。

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宮沢賢治が設計した花壇。復元されたものですが、オリジナルは光太郎が眼にしているはずです。

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続いて、一山越えて、花巻電鉄のもう一方の系統が走っていた、花巻南温泉郷。


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右上の画像、三階の一番左の部屋に、光太郎が泊まりました。有名な深い岩風呂「白猿の湯」も堪能しています。

そして、その日の宿、大沢温泉さん。こちらも光太郎御用達です(笑)。当方もですが(笑)。

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翌日は、市街地方面へ。

光太郎が山小屋からの行き帰りによく使った二ツ堰駅跡。最寄り駅は神明駅でしたが、二ツ堰駅は単線の交換駅で、市街から二ツ堰駅止まりの列車もあり、主にここで乗降していました。ここから山小屋まで徒歩1時間強です。

向かい側には光太郎が立ち寄った遊坐商店の建物があります。


花巻駅西口近くの材木町公園。移築された旧花巻町役場と、静態保存されている花巻電鉄の車両。

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市街の鳥谷ヶ崎神社さん。光太郎は終戦の玉音放送をここで聴きました。

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光太郎が父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法事をやってもらっていた松庵寺さん。今も毎年4月2日に花巻としての連翹忌法要を営んで下さっています。

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光太郎が碑文を揮毫した桜町の賢治詩碑。昨年の今頃、この碑の前でお話しをさせていただきました。今年も賢治祭に向け、周辺の草刈りなどが行われていました。

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すぐ近くの桜地人館さんにも立ち寄りました。

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やはり近くの佐藤隆房邸。旧太田村の山小屋に移る前、1ヶ月ほど光太郎が暮らしていました。

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最後に、元々は賢治詩碑のあった場所に建っていた、羅須地人協会。宮沢家の別荘だった建物です。現在は花巻空港近くの花巻農業高校さんに移築されています。当方、移築後、初めて訪れました。

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他にも光太郎ゆかりの地、足跡の残る場所はありますが、とりあえず代表的なところはこんなものかということで、駆け足で巡りました。

これらの場所が、石井氏の手によって、どのようなジオラマとなってゆくのか、非常に楽しみです。

花巻で、光太郎ゆかりの地を歩きたいという方、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本はすつかり変りました。 あなたの身ぶるひするほどいやがつてゐた あの傍若無人のがさつな階級が とにかく存在しないことになりました。

連作詩「暗愚小伝」中の「報告(智恵子に)」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

敗戦、そしてGHQによる統治が始まり、「傍若無人のがさつな」軍は解体されました。そして世界に誇る平和憲法の制定。しかし同じ詩の中で、それを「他力による変革」、「内からの爆発で」「自力で得たのでないことが」「恥しい」としています。

それをないがしろにし、いわんやなし崩しに改悪しようとする現在の「傍若無人のがさつな階級」の出現までも、光太郎は見こしていたのかもしれません。

昨日まで1泊2日で、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

まずは光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する高村光太郎記念館さんの「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」。状況をわかりやすくするために、新聞各紙の報道を引用いたします。

一昨日の『朝日新聞』さん。

岩手)智恵子の紙絵を公開 15日から高村光太郎記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から企画展「智恵子の紙絵・智恵子抄の世界」が始まる。光太郎の妻智恵子が、晩年の療養中に包装紙や色紙をはさみで切り抜いて作った「切り抜き絵」のオリジナルや複製品など約30点を集めた。同館は「繊細で豊かな智恵子の色彩感覚を間近で感じ取ってほしい」としている。11月27日までで、期間中は休館しない。
 心の病に侵された智恵子が1938年に52歳で亡くなるまで、療養の一環として光太郎にだけ見せるため制作した。アジやイチゴなどを繊細に切り取って台紙に貼り付けたもので、光太郎が「紙絵」と名付けた。戦時中も作品を花巻市や山形県などに疎開させたため、焼失を免れたという。(溝口太郎)

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続いて昨日の『岩手日報』さん。

智恵子の紙絵に光 花巻・高村光太郎記念館企画展

 花巻市太田の高村光太郎記念館で15日、企画展「智恵子の紙絵・智恵子抄の世界」が始まった。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)の妻智恵子(1886~1938年)に光を当て、色彩豊かな切り絵作品を紹介する。
  福島県二本松市出身で洋画家だった智恵子は芸術的苦悩から心を病み、病床で包装紙と小さなはさみで花や果物をモチーフに創作活動を続けた。
  展示作品約30点はいずれも最晩年の作。細部にこだわる繊細さと、構図や色使いの大胆さを併せ持つ。光太郎との唯一の合作「いちご」も展示する。
 映画「智恵子抄」のポスターなど関連資料を紹介し、花巻高村光太郎記念会が詩集「智恵子抄」ゆかりの風景を取材した映像作品も上映。同会企画担当の高橋卓也さん(40)は「(智恵子が)本能のまま無垢(むく)のセンスで仕上げた作品を間近に見てほしい」と来場を呼び掛ける。
  11月27日まで午前8時半~午後4時半。休館日なし。入場料は一般550円、高校・学生400円、小中学生300円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。

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というわけで、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、実物の紙絵2点。

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あとは複製ですが、遠目には区別が付かない精巧なものです。

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「花巻高村光太郎記念会が詩集「智恵子抄」ゆかりの風景を取材した映像作品」は、プロジェクタで上映されています。下の画像の右上です。

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その下が「映画「智恵子抄」のポスター」。昭和32年(1957)の東宝版(原節子さん主演)、同42年(1967)の松竹版(岩下志麻さん主演)のものです。

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他にそれらの公式パンフレット、それから光太郎生前の昭和26年(1951)と同28年(1953)に、東京で開催された智恵子紙絵展のパンフレットも展示されています。そのあたり、当方がお貸しいたしました。

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一昨日も、早速、秋田県大仙市から団体さんがお見えでした。ありがたいかぎりです。

また、同じ敷地内の旧高村記念館、先月から「森のギャラリー」として利用されています。

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現在、盛岡市の岩手県立美術館さんで、企画展「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」が開催中。昨年、NHKさんの朝ドラ「とと姉ちゃん」で扱われた、雑誌『暮しの手帖』編集長だった花森安治の関連です。それに合わせ、森のギャラリーでも『暮しの手帖』などが展示されています。

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花森と共に、同誌の編集に当たった大橋鎭子は、昭和25年(1950)、光太郎にも寄稿を依頼するため、旧太田村の山小屋にもやってきました。その際に持ってきたか、その前後に東京から送ったものです。結局、光太郎の寄稿は実現しなかったようですが。


ぜひ足をお運び下さい。

ただし、注意が一点。記念館周辺、熊が出没しています。

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記念館さんの看板には、爪を研いだ痕が。006

基本的には臆病な動物なので、人気のない時間帯に歩いているようですが……。


【折々のことば・光太郎】

不思議なほどの脱卻のあとに ただ人たるの愛がある。 雨過天青の青磁いろが 廓然とした心ににほひ、 いま悠々たる無一物に 私は荒涼の美を満喫する。

連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」より 
昭和22年(1947) 光太郎65歳

昭和20年(1945)、4月の空襲で東京を焼け出され、宮沢賢治の実家に身を寄せた光太郎。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼し、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅で、8月15日を迎えました。正午には近くの鳥谷ヶ崎神社で玉音放送を聴いています。

10月には郊外太田村の、熊が歩き回る山小屋に移り住み、その頃には忠君愛国精神の呪縛から解き放たれ、「ただ人たるの愛がある」という境地に達しました。

」は「却」の正字です。

昨日から光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。光太郎もたびたび宿泊した花巻南温泉郷・大澤温泉菊水館さんにてこの記事を書いています。
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花巻高村光太郎記念館さんでは、昨日から企画展「智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」が開催されていて、そちらを拝見。


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さらに今回は、ジオラマ作家の石井彰英氏と同道、花巻市内の光太郎ゆかりの場所をレンタカー🚙で訪ね歩いております。昨日は光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、郊外の花巻温泉、花巻南温泉郷などを回りました。

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今日はこれから花巻市街を歩きます。

来年、花巻高村光太郎記念館さんの企画展で、石井氏のジオラマを展示する方向で話が進んでいて、そのためのロケハンです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

福井から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚を取り上げる企画展情報です。

没後30年記念 高田博厚展 対話から生まれる美

期 日 : 2017年9月16日(土)から11月5日(日)
会 場 : 福井市立美術館  福井市下馬3-1111
時 間 : 午前9時 ~ 午後5時15分(入館は午後4時45分まで)
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日(日曜日を除く)
料 金 : 一般1,000円、高校・大学生500円、小中学生200円

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福井市ゆかりの彫刻家・高田博厚(19001987)が、この世を去り今年は30年となります。高田の生涯を彩る多くの師友との交流は、人間の本質を追求し続けた彼の思索と創作の支えともなりました。本展では初期から晩年までの代表作に加え、彼が影響を受けた人々や交流のあった人々の作品を併せて展覧し、その生涯と創作の軌跡、さらに彼の芸術の魅力に迫ります。


『福井新聞』さんの記事から。

高田博厚の生涯たどる 福井市美術館16日から企画展

 少年時代を過ごした福井で文学、哲学、芸術に目覚め、渡仏して近代日本彫刻を代表する作家となった高田博厚(1900-87年)。没後30年を記念し、評論家、思想家としても数々の著作を残し、日本、欧州で一流の文化人と交わったスケールの大きな生涯を、代表作や影響を受けた巨匠の名品とともに展観する企画展「高田博厚展―対話から生まれる美」(福井新聞社共催)が16日から、福井市美術館で開かれる。
  石川県七尾市生まれの高田は、2歳のときに福井県出身だった父の弁護士開業のために福井市に移り住み、18歳までを過ごした。学校の勉強よりも哲学や文学、美術書に熱中する早熟な生徒だった。
  上京後は彫刻家、詩人の高村光太郎と親しく交わり、独学で彫刻を始めた。31年に妻と4人の子どもを東京に残して渡仏。近代彫刻の巨匠ロダン、ブールデル、マイヨールの作品を目の当たりにし、10年間彫刻をやってきた自負は砕け散ったという。
  だが文豪ロマン・ロランをはじめ哲学者アラン、詩人のジャン・コクトーら知識人の輪に招き入れられ、友情に支えられた。高田は彫刻に没頭し、他者、自己との対話を通じて感性を磨き、思索を巡らせた。やがて、彼らの内面や精神の面影までも照らし出すような肖像彫刻を制作するようになる。結局パリ滞在は第2次世界大戦をまたぎ、27年間に及んだ。
  展覧会は福井・東京時代からパリ時代、帰国後の東京・鎌倉時代へと生涯をたどる5章構成。肖像、人体像を中心とした収蔵品に借用品を加えた計65点と、晩年を過ごした鎌倉市などから借り受けた愛蔵品、アトリエにあった制作道具なども並べる。
  パリ時代に手掛けた傑作トルソー「カテドラル」(1937年)や、ロランやアラン、ガンジーら交流のあった人々の肖像彫刻をはじめ、若き日の高田に衝撃を与えたロダンの「ロダン夫人」(1882年、大原美術館寄託)やマイヨールのトルソー「ヴィーナスの誕生」(1918年、群馬県立近代美術館蔵)などの名品も併せて展示。高田の像の特異性を浮き彫りにする構成となっている。
  洋画家岸田劉生の元を訪ねた際に持参した18歳のときの油彩画「自画像」(1918年、個人蔵)や、貴重なドローイングも並べる。福井市美術館の鈴木麻紀子学芸員は「西洋彫刻の精神性を理解し、モデルの内面の本質に迫ることを重視した高田は、『似ていなければ、彫刻に似せていけばいい』とまで言い切り、自分の表現を求めた。福井にこんなスケールの大きな作家がいたことを知ってほしい」と話している。
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 11月5日まで。一般千円、高校・大学生500円、小中学生200円。10月1、7、14、22日は午後2時から作品解説会がある。10月28日には高村光太郎と妻智恵子、高田の人間模様を描いた朗読劇を3回上演する。問い合わせは福井市美術館=電話0776(33)2990。


というわけで、高田の企画展というだけでは紹介しないのですが、光太郎智恵子にかかわる朗読劇があるとのことで、取り上げさせていただきました。ただ、ネットで調べても詳細な情報が未掲載です。

詳しく分かりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】 

午前二時に私はかへる。 電信柱に自爆しながら。

連作詩「暗愚小伝」中の「暗愚」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争が烈しくなってきてからの回想です。午前二時にどこから帰るのかというと、「場末の酒場」からだそうです。「金がはいるときまつたやうに/夜が更けてから家を出た」そうです。「心にたまる膿のうづきに/メスを加へることの代りに」飲んだくれていたとのこと。

大量の翼賛詩を書き殴りながら、戦況は日に日に悪化。学徒出陣の若者などが、出征前に光太郎に会いに来たりということも少なからずありましたが、中には戦死してしまった人もいたわけで、負い目を感じながらも国民を鼓舞することをやめられなかった、己の「暗愚」が描き出されています。

まずは福島の地方紙2紙。今月9日に開幕した「重陽の芸術祭2017」関連です。

『福島民報』さん。

【重陽の芸術祭】新たな驚きを楽しむ(9月9日)

 「重陽の芸術祭」がきょう二本松市で開幕する。現代美術の最先端で活躍する作家が「重陽の節句」の9月9日から11月23日まで、秋の城下町を舞台に美を競う。普段目にする機会の少ない独創的な作品が並び、県内外から大勢が足を運ぶと期待される。芸術による新たなにぎわいづくりに注目したい。
 二本松のシンボルで
である霞ケ城の本丸跡にはヤノベケンジさんが制作した巨大な黒猫像「SHIP’S CAT(船乗り猫)」が立つ。黒猫は古来、船のネズミを捕り、幸運を呼ぶと船員に愛されてきた。福島復興への願いがこもる。360度に広がる眺望の中に現れる大きな猫は、見る者を驚かせる。
 ヤノベさんは東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生後、作品を通して被災地の応援活動を繰り広げてきた。「霞ケ城は“天空の城”として有名な兵庫県の竹田城にも匹敵する景観を持つ。ここから全国に幸せを発信したい」と意気込む。
 二本松は芸術家でもあった高村智恵子の古里とあって、刺激を受けた女性作家らの力作も楽しみだ。刺しゅう美術家の清川あさみさんは、智恵子の生家に作品を展示する。「智恵子の生まれ故郷で感じたことを、作品に混ぜ込んで表現する」と語る。「智恵子の紙絵も見て勉強した」という切り絵美術家の福井利佐さんは、東北地方に伝わる「お飾り」(切り紙飾り)や鬼婆伝説にちなむ作品を安達ケ原ふるさと村に展示する。
 若い才能のきらめきも見逃せない。福島大で美術を学ぶ学生、院生らが運営を手伝いながら、自分たちの作品を制作している。100の妖怪の絵を上川崎の和紙に描き、10月14日に霞ケ城公園で開幕する菊人形の会場に並べる。
 芸術祭は2年に一度の「福島現代美術ビエンナーレ」が昨年、二本松市で催されたのがきっかけとなった。まちおこしに生かそうという機運が高まり、ビエンナーレに続けてさらに工夫を凝らし、13カ所を会場に展開する。美術の力が人々の心に火をつけ、まちを動かした。会期中、舞踊や朗読音楽劇、日本酒のイベントなども花を添える。
 本県は美しい自然や名所旧跡に恵まれている。この秋は美術を新たな魅力として加えたい。創造力の思いがけない輝きに出合えることが現代美術を鑑賞する喜びでもある。歴史ある街並みを巡り、個性的な美を見つけてほしい。全国から訪れるファンと住民らが、街角で芸術談議に花を咲かせる場面が見られたら、うれしい。(佐藤克也) 

二本松で「重陽の芸術祭」開幕

 福島県観光復興推進委員会のふくしま秋・冬観光キャンペーンの特別企画に選ばれている現代アートの祭典「重陽の芸術祭」は9日、二本松市で開幕した。11月23日まで。
  初日は県立霞ケ城公園本丸跡で「重陽の乾杯」が行われ、芸術家オノ・ヨーコさんの言葉が刻まれたスチール板が除幕された。安達太良山を遠くに眺めながら、出席者が菊茶で乾杯した。安達ケ原ふるさと村農村生活館で朗読音楽劇「黒塚」が上演された。
  県立霞ケ城公園、智恵子の生家、安達ケ原ふるさと村などにオノさんをはじめ、切り絵作家福井利佐さん、刺しゅう作家清川あさみさんらの作品が並んでいる。問い合わせは市振興公社 電話0243(61)3100へ。


『福島民友』さん。

【二本松】現代美術の祭典「重陽の芸術祭」開幕 最先端アート触れて

 現代美術の祭典「重陽の芸術祭」が9日、二本松市で開幕した。最先端のアートを通して地域の文化に触れる機会を設けようと、智恵子の生家や安達ケ原ふるさと村など市内各所で11月23日まで繰り広げる。
 福島大の「芸術による地域創造研究所」を中心とした実行委の主催で、9日は県立霞ケ城公園の天守台で同日の「重陽の節句」に合わせたイベントを開催。高い場所で菊酒を飲むと邪気をはらい、災いが避けられるという言い伝えがあり、来場者が菊茶で乾杯した。
 参加アーティストのワタリドリ計画(麻生知子さん、武内明子さん)の2人が、芸術家オノ・ヨーコさんから寄せられた言葉を刻んだプレートを除幕。現代美術家ヤノベケンジさんが幸福を呼ぶために制作した高さ3メートルの黒猫像「シップス・キャット」がお目見えした。
 重陽の芸術祭の問い合わせは市振興公社(電話0243・61・3100)へ。


続いて、横浜伊勢佐木町で明日から始まる日枝神社例大祭について、『神奈川新聞』さんの記事。 

災難乗り越え 伝説の神輿お披露目

 関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)を地元住民らが担いで練り歩く「火伏(ひぶせ)神輿行列」が15日、平成の大修復後初めて横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われる。日枝神社例大祭のメイン行事の一つで、「この行事が未来にも続き、私たちの街が発展を続けてほしい」と願いを込める。
  神輿は伊勢佐木町の町内会が大正天皇の即位を記念し、彫刻家・高村光雲に制作を依頼したもので、1923年に完成した。90年余りを経て彫刻や金具が欠けたり塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立ったため、吉田新田の完成350周年の今年を控え、2016年に修復を済ませた。
  行列は15日午後1時半から、町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かにイセザキ・モール1、2丁目を往復する。
  例大祭は1年置きに本祭りが行われ、今年はその年に当たる。周辺町内会から35基の神輿が参加する神輿連合渡御は最終日の17日に開かれる。16日午後5時から7時まで伊勢佐木町1丁目に日枝神社の千貫神輿が奉安されるなど、イセザキ・モールは活気に満ちる。
  伊勢佐木町1・2丁目地区商店街振興組合の石田隆専務理事は「修復した火伏神輿を通じて、2度も大きな災難を乗り越えて繁栄を遂げた伊勢佐木町の心意気を次の世代にも伝えたい」と話している。

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当方、明日から岩手花巻に行って参りますのでこちらには伺えませんが、盛り上がることを祈念いたしております。

ところで、過日、三井記念美術館さんの特別展「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」の記事を書く際に、久しぶりに、平成14年(2002)、茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の図録を引っ張り出しまして見ていたところ、「火伏神輿」も掲載されていたのに気づきました。

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それから、神輿と共に伊勢佐木町に伝わる獅子頭も。

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平成26年(2014)にはお祭りを拝見、神輿と獅子頭も見て参りましたが、15年前にも見ていたのを忘れていました。情けなや……。


最後に、今日の『日本経済新聞』さん。当方、「電子版」で読みましたが、東京版紙面にも載ったのではないかと思います。 

多摩信金 新本店ビルに美術館

 多摩信用金庫(東京都立川市)は2018年2月にJR立川駅北口の旧国有地に着工する新本店ビル内に美術館を設置する方針を決めた。岸田劉生の絵画など同信金が所蔵する近代日本の美術作品を展示する「たましん御岳美術館」(青梅市)の機能を移転する。立川の新たなランドマークと位置づける新本店ビルの目玉にしたい考えだ。
 美術館は9階建ての新本店ビルの1階に開設する。計画案によると、延べ床面積は約300平方メートルで、1階の有効面積(エレベーターなど共有部分を除く)の約半分を占める。
 岸田や高村光太郎など御岳美術館所蔵の近代日本を代表する絵画・彫刻作品を主に展示する。多摩川上流の御岳渓谷に立地する御岳美術館は立川への機能移転後には廃止する方向で検討している。また、主に預金などの窓口スペースとなる2階にも多摩地域の作家に作品提供の場を提供するギャラリーを設ける。
 多摩信金は長年、地盤とする多摩地域の芸術文化の支援に力を入れており、今回の新美術館整備もその一環。
 新本店ビルは不動産開発の立飛ホールディングス(立川市)が音楽ホールやホテルなど大規模複合開発のため取得した旧国有地の一部(敷地面積約2600平方メートル)に建設。延べ床面積は約9000平方メートルで、現本店ビルの約1.6倍の規模になる。


青梅市のたましん御岳美術館さん。行ったことはありませんが、光太郎ブロンズの代表作「手」が常設展示されていることは存じておりました。光太郎が終生敬愛していたロダンや、光太郎の朋友・荻原守衛の作品も。しかし、立地条件があまりよくなく、正直、入館者数等で苦戦しているという話も耳にしていて、残念に思っておりました。

それが立川駅前に移転ということで、都心からのアクセスもよくなるので、喜ばしいことと存じます。オープンの際には行って参ります。

先日、北海道小樽にオープンした似鳥美術館さんにしてもそうですが、こうしたメセナ(企業の社会貢献)的な部分での活動には頭が下がります。


いろいろご紹介いたしましたが、それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私には二いろの詩が生れた。 一いろは印刷され、 一いろは印刷されない。 どちらも私はむきに書いた。

連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦時中の回想です。印刷された一いろは、大量の翼賛詩。しかし、同時に印刷されなかった詩もあったとのこと。実際、『石くれの歌』、『花と実』といった詩集が構想されていたことはわかっていますし、その断片と思われるものもわずかに残っています。ただ、大半は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町のアトリエと共に灰になってしまいました。

その詩稿がちゃんと残っていれば、戦時中の光太郎の良心を見ることができたのですが……。もしかすると、智恵子に関する詩もあったかもしれません。


青少年向け、いわゆるライトノベル系の新刊です。

詩葉さんは別(ワカレ)ノ詩を詠みはじめる

2017年8月30日 樫田レオ著 角川書店(ファミ通文庫) 定価648円

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もう一度、大切な人に想いを伝えられたら――

大切な想いや言葉が形となった《迷い言》が視える藍川啓人は、数年前の事故で亡くした幼馴染、高森閑香の《迷い言》に出会う。事故の時、助けられず後悔していた啓人は、彼女の本当の想いを知るため《迷い言》の声を聞くことができる《伝え人》、梅ヶ枝詩葉の元へ連れて行くことに。そして詩葉の力を借りて、閑香が伝えられなかった最期の言葉を聞こうとするのだが――。大切な人への想いを巡る、切なくて暖かく、そして少しほろ苦い感動の青春ストーリー。


「詩葉」は「うたは」。登場人物の名前です。

「言霊」の考え方を根底に置いて、ストーリーが展開されます。世の中には、無念の死を遂げた人々が大切な人へ最期に伝えようとした「言葉」が霊魂のように漂っており、それを実体視できる能力を持った「伝え人」が、伝えたかった相手に仲介する、というのです。その伝えたかった最期の言葉を引き出すために、古今の文学作品の一節に宿る「言霊」の力が使われます。僧正遍昭や菅原道真の古歌、近代では石川啄木や若山牧水の短歌、短歌に限らず江戸川乱歩の残した格言「現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと」など。

003そしてメインで使われるのが、光太郎の「郊外の人に」(大正元年=1912)の一節。

 わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり
 愛人よ
 いまは青き魚(さかな)の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
 されば安らかに郊外の家に眠れかし

さまざまな逡巡の末、智恵子と共に生きていこうという決意を固めたことを高らかに謳うもので、昭和16年(1941)の詩集『智恵子抄』に収められました。のちの昭和31年(1956)の新潮文庫版にも踏襲されています。

物語では、この新潮文庫版がモチーフとして使われ、智恵子の紙絵をあしらったカバーも重要なファクターとなっています。

久々にこの手のジャンルのものを読みましたが、それだけに新鮮な感動を味わえました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩をすてて詩を書かう。 記録を書かう。 同胞の荒廃を出来れば防がう。 私はその夜木星の大きく光る駒込台で ただしんけんにさう思ひつめた。

連作詩「暗愚小伝」中の「真珠湾の日」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

その言葉通り、太平洋戦争開戦後は、「詩」とは言いがたい空虚な言葉の羅列に過ぎぬ作品が量産されました。そしてそのものずばりの『記録』という詩集(昭和19年=1944)も刊行されました。

ただ、その目的は、鬼畜米英の誅戮ということではなく、「同胞の荒廃を出来れば防」ぐということ。確かに光太郎の遺した大量の翼賛詩は、前線での戦闘や軍隊生活を謳ったものはあまりなく、どちらかというと銃後の国民の心構えを説くものが主流でした。それにしても、その罪深さは言うまでもありませんが……。

光太郎の父・高村光雲の作品が展示される企画展です。

驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—

期 日 : 2017年9月16日(土)~12月3日(日) 
会 場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7F
時 間 : 10時から17時まで 毎週金曜日及び9/30は19時まで
料 金 : 一般 1,300円(1,100円) 高校生及び学生 800円(700円) 中学生以下無料
       ( )内団体料金
休館日 : 月曜日(9/18,10/9は開館) 10/10(火)

2014年に開催し大好評を博した「超絶技巧!明治工芸の粋」展の第2弾。今回は七宝、金工、牙彫、木彫、陶磁などの明治工芸と、現代アートの超絶技巧がコラボレーション。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎつつ、プラスαの機知を加えた現代作家の作品を紹介します。
明治工芸の工人たちの超人的な技とセンスは、失われて久しいロストテクノロジーだと誰もが思っていました。しかし近年、明治工芸に肉迫する作品を手がける現代作家たちが登場してきています。
本展では、超絶技巧による明治工芸と、それに匹敵する現代アートが対決します。明治工芸に劣らぬ、現代アートのクオリティに驚くこと間違いなしです!

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紹介文にあるとおり、平成26年(2014)に開催された「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展の第二弾的な展覧会です。

前回も光雲の木彫が展示されましたが、今回も出ます。問い合わせたところ、一点、個人蔵の「布袋像」だそうです。

こちらは平成14年(2002)に、茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録に掲載された「布袋像」。

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これとは別物だと思われますが、同一の図題で複数の作例があるのは珍しいことではありませんので、ほぼこういうものではないかと考えていいでしょう。あるいは異なるポージングかもしれませんが。

今回は、<受け継がれる超絶技巧のDNA ─ 明治工芸から現代アートへ> ということで、現代アート作家の皆さんの作品も多数展示され、美術工芸史的な部分での俯瞰を試みるようです。関連行事も充実していますね。

ぜひ足をお運びください。

さらに、今のところの予定では、来年以降再来年にかけて、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さん、あべのハルカス美術館さんに巡回するとのことです。そちらもまた近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一旦まはりはじめると 歯車全部はいやでも動く。

連作詩「暗愚小伝」中の「協力会議」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争責任を中心に、それまでの65年の人生を総括する目的で書かれた連作詩「暗愚小伝」。戦後になって戦時中の大政翼賛を反省し、活字にした文学者がほとんどいなかった中、光太郎の真摯な態度は評価されています。しかし、ある種「言い訳じみている」という評もあります。今回取り上げた詩句などもそうかもしれません。

タイトルの「協力会議」とは昭和15年(1940)に近衛文麿らが中心となり結成された大政翼賛会の中に置かれた下情上通を目的とした機関です。大政翼賛会内に地方組織として道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部が置かれ、各段階の支部にそれぞれ協力会議が付置されて、さらに地方代表、各界代表による「中央協力会議」が持たれました。
 
 光太郎は劇作家・岸田国士のすすめで中央協力会議議員となり、昭和15年(1940)の臨時協力会議に出席。この時は一度限りと考えていたようですが、翌16年(1941)の第一回、第二回の会議にも出席しています(同17年=1942の第三回以降は委員を辞退)。第二回の会議はちょうど真珠湾攻撃の日と重なり、会議は途中で切り上げられ、参会者全員で皇居まで行進、「万歳」を叫んだそうです。

自分では歯車を動かす方、という意識はなく、動かされる方、と捉えていた光太郎ですが、その点では他の多くの文学者同様、「あの時点ではそうなるよりほかなかった」的な意識が垣間見えます。ただ、他の文学者たちと決定的に違うのは、花巻郊外太田村の山小屋で、自虐に等しい蟄居生活7年も続け、反省を態度で表したこと。ここにこそ、光太郎の真骨頂があるような気がします。

なかなかネット上に情報が公開されなかったため、(まだごたごたしているようで、市のフェイスブックには情報が出ていますが、ホームページ等には未掲載です。広報誌の今月号にも載りませんでした) 紹介が遅れましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館さんで、秋の企画展が始まります。 

秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界

期  日 : 2017年9月15日(金)~11月27日(月) 会期中無休
会  場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1 0198-28-3012
時  間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料  金 : 一般 550円(450円) 高校生及び学生 400円(300円)
                           小中学生 300円(200円) ( )内団体料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 この企画展では智恵子の紙絵のほか、愛の詩集ともいわれる詩集「智恵子抄」に関わる資料などを公開します。展示を通して智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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チラシ表面に使われているのは、昭和20年(1945)、花巻に疎開した光太郎を一時期自宅に住まわせ、その後も何くれとなく世話を焼いてくれた、初代花巻高村記念会理事長・佐藤隆房に贈った智恵子紙絵です。光太郎による画賛「智恵子遺作 切抜絵数種恵存」そして短歌「気ちがひといふおとろしきことばもてひとは智恵子をよばむとすらむ」が書き込まれています。

今回の展示では、これともう一点、二尾の魚をあしらった紙絵の、実物二点、あとは複製の紙絵が20点ほど展示されます。また、関連資料としていろいろ。先週、花巻高村光太郎記念会の方が当方自宅兼事務所に立ち寄られ(二本松や九十九里など、智恵子ゆかりの地の映像が会場内で流されるそうで、その撮影の合間に立ち寄られました)、いくつか展示できそうなものをお貸ししました。光太郎生前の昭和26年(1951)と同28年(1953)に、東京で開催された智恵子紙絵展のパンフレット、「映画になった智恵子抄」ということで、昭和32年(1957)公開・原節子さん主演と、同42年(1967)公開・岩下志麻さん主演の映画「智恵子抄」のポスター。


関連行事というわけではないのでしょうが、併せてご紹介しておきます。 

智恵子アート体験

期  日 : 2017年9月の毎週土曜
会  場 : 森のギャラリ-(旧高村記念館) 高村山荘・高村光太郎記念館敷地内
時  間 : 午前10時から12時まで 所要時間30分程度
費  用 : 500円 高村山荘入館料、材料費

型紙を使って紙を切り取り、ハガキや色紙に張り合わせて作り上げる紙絵制作体験を行っています。
子どもから大人までどなたでも手軽に楽しめます。
詳しくは、高村光太郎記念館 0198-28-3012へ。

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昭和41年(1966)に竣工した、旧高村記念館が、先月、「森のギャラリー」としてリニューアル。この手のちょっとしたイベントなどに使えるようになっています。紙絵の制作体験も先月末に一度行われました。おそらく2日と9日にも行われていたのではないかと思われます。


当方、別件もあり、今週末に行って参ります。詳しくはその後にレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

智恵子が私の支柱であり、 智恵子が私のジヤイロであつたことが 死んでみるとはつきりした。 智恵子の個体が消えてなくなり、 智恵子が普遍の存在となつて いつでもそこに居るにはゐるが、 もう手でつかめず声もきかない。 肉体こそ真である。

連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昭和13年(1938)10月5日、智恵子歿。その当初の光太郎はこうでした。「肉体こそ真」という考えから脱却し、智恵子は元素となっても常に自分を囲繞してくれている、と考えられるようになったのは、戦後になってからです。

ジャイロ(羅針盤)を失って、「おそろしい空虚」にはまりこんだ光太郎は、同じ詩の中で「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり」してしまったと述懐されます。空虚な翼賛詩の乱発と、それをまとめた詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などを指します。

昨日は、智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。

昨年のこの時期に開催された、「福島現代美術ビエンナーレ 2016 -氣 indication -」から誕生した二本松市を拠点に開催される現代アートの祭典「重陽の芸術祭2017」が、昨日からスタートしました。

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昨年同様、智恵子生家の旧長沼酒造も会場となっており、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションの展示が行われていました。

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さらに、やはり昨日から、通常は非公開となっている生家二階――智恵子の居室を含む――の公開も始まっていました。11月26日までの、土・日・祝日の実施だそうです。

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清川さんの作品、こちらがメインの「女である故に」。畳三畳分くらいはありましょうか、不織布にプリントされたものです。

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「写真を縦糸横糸で形成して編んだ」とのことですが、どういう仕組みで出来ているのか、よくわかりませんでした。それにしても大迫力です。

こんなかわいらしい作品も。造花や刺繍糸、ビーズによる「Drem Time」。

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アクリルケースに「ほんとの空」が映っています。

それから、新潮文庫版『智恵子抄』を使った作品が多数。

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公開されていた2階にも。

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こういうのもありなんだ、と思いました。

ところで、生家の庭に据えられたこの燈籠。

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もともとここにあったものですが、昭和4年(1929)に長沼酒造が破産し、智恵子の一家が離散した後、債権者に持ち出されていたのが、つい最近、二本松市に寄贈という形で戻ってきたそうです。

以前から、同型の燈籠が一つありまして、約90年ぶりに二つがご対面。

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付喪神(つくもがみ)といって、長い年月を経た道具などには神や精霊が宿る、という 民間信仰があります。二つの燈籠に付喪神が宿っていたら、再会をさぞや喜んでいることでしょう。


智恵子生家を後に、他に「重陽の芸術祭2017」としての展示が行われている、安達ヶ原ふるさと村さんなどを廻って帰りました。そちらでは、昨年、智恵子生家で展示された小松美羽さんの襖絵など、今年の重点項目である安達ヶ原の鬼婆伝説がらみの展示が多く為されていました(それ以外もありましたが)。

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こちらは切り絵作家の福井利佐さんの作品。福井さんは、来年、智恵子生家の展示をなさるそうです。画像はありませんが、恐ろしい鬼の切り絵もありました。

智恵子生家では、来月5日の智恵子命日「レモンの日」に合わせ、女優の一色采子さんらによる「智恵子抄」朗読とダンスのパフォーマンスが行われます。

また、来月12日からは、生家裏の智恵子記念館で、普段は複製が展示されている紙絵の実物展示が始まります。

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また、後ほど詳しくご紹介しますが、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集い、野村朗氏作曲の連作歌曲「智恵子抄」コンサート、さらには毎年恒例の菊人形もあります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一人の女性の愛に清められて 私はやつと自己を得た。 言はうやうなき窮乏をつづけながら 私はもう一度美の世界にとびこんだ。

連作詩「暗愚小伝」中の「美に生きる」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

俗世間や古くさい日本彫刻界を相手にせず、ある意味「孤高の芸術家」として、智恵子と二人、手を携えて歩み始めた大正期の回想です。

ところが、世の中との交わりを極力避けるその暮らしは、同じ「美に生きる」中で「都会のまんなかに蟄居した。」と表現されているような生活でもありました。

そうした毎日に息苦しさを感じると、智恵子は「東京に空が無い」とつぶやき、「ほんとの空」のある二本松に帰って、元気をチャージしていました。

しかし、二本松の実家は破産、家族は離散。帰るべき故郷と、頼みにしていた「ほんとの空」を失った智恵子は、さらに自らの絵画の才能にも絶望し、その他、実にさまざまな要因が絡み合った結果、光太郎曰く「精一ぱいに巻き切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」のです。

明日、大相撲秋場所が初日を迎えます。

少し古いのですが、『スポーツニッポン』さん、7月31日に掲載された、名古屋場所で大記録を打ち立てた横綱白鵬関についての記事をご紹介します。 記事が出てすぐの頃、このブログでは岩手花巻と盛岡に行っていたレポートを書いており、紹介する機を失ってしまったので、秋場所が始まる前日の9月9日に紹介しよう、と心に誓っておりました(笑)。

ところがその白鵬関、残念ながら秋場所は休場だそうです。しかし、再起へのエールの意味も込め、予定通りご紹介します。

【笠原然朗の舌先三寸】 「横綱相撲」という幻想との闘い 大横綱・白鵬へ

 大相撲の横綱・白鵬は、名古屋場所で元大関・魁003皇の持つ通算勝ち星1047勝超えを達成。優勝回数も39回と伸ばした。
  まさに無人の荒野を行くが如し。詩人・高村光太郎が書いた詩「道程」の冒頭ではないが「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」である。
  前人未到の記録をたたえる半面、その相撲っぷりについて横綱審議委員会(横審)などからクレームが聞こえてくる。
  「立ち会いの張り手はいかがなものか」「最高位に立つ者としてふさわしい相撲か?」など外野がかまびすしい。
  「横綱としてふさわしい相撲」とは何か?
  「横綱相撲」という言葉がある。「大辞林」によると「正面から相手を受け止めて圧倒的な力の差を見せつけて勝つこと」とある。
  お手本のような横綱相撲をとった力士は誰か?このあたりに「横綱相撲」という言葉が生まれたルーツがありそうだ。
  ここからは一好角家としての推察である。
  「横綱相撲」のルーツは、「角聖」とも呼ばれた明治の19代横綱・常陸山にあると思われる。
  幕内成績は150勝15敗131休22分2預。勝率は実に9割超え。身長1メートル75、体重146キロは。当時としては超巨漢の部類に属し、稽古で鍛えた体はナチュラルな筋肉質。いくつかの本の中で、その相撲っぷりについて「待ったはせず、相手の声でたち、十分にとらせてから勝つ」とある。当時の映像が残っており、YouTubeなどでみることができる。
  映像から見て取れるのは、相手十分の体勢で猛攻をかわして、かわして最後はねじ伏せる相撲っぷり。まさに横綱相撲である。
  以後、相撲史の中で強豪横綱として名前が挙げられるのは猛突っ張りで“史上最強”ともいわれる22代横綱・太刀山らがいるが、常陸山の「横綱相撲」を継承したのは「相撲の神様」、「昭和の角聖」とも呼ばれた35代横綱・双葉山だろう。白鵬もいまだ達成できていない69連勝の記録を持つ。
  待ったをせず、「後の先」の立ち合いを完成。強靱で軟らかい足腰を利して、勝利を重ねた。
  常陸山、双葉山に伝承された「横綱相撲」の次の担い手は48代横綱の大鵬。立ち会いに変化はせず、「きれいな相撲」のイメージがある。柔軟な身体を生かした相撲は「型がない」と評されたこともあり、相手の攻撃を吸収してしまうような相撲っぷりも見る者に「横綱相撲」と映ったのだろう。
  こうして「横綱相撲」というイメージがいまに伝わるに至る。
  時代を超えて共に「角聖」と賞された常陸山、双葉山だが、2人に共通するのは年2場所の時代を生きた横綱だったこと。常陸山にいたっては9割超の勝率をあげた一方で、休場は131。22引き分けに、2預かり。「預かり」とは勝敗がどちらかよくわからない場合の措置。ビデオ判定などない時代のものだ。
  常陸山はゆっくりと相撲をとり、十分に休んで40歳で引退するまで24年間の現役生活を全うした。
  年間6場所の時代の横綱である大鵬は32回の優勝を重ねる一方で、31歳で引退している。
  年間6場所は力士にとって過酷であり、弱くなって負ければ引退しか残されていない横綱にとって30~33歳は「引退適齢期」ともいえる。
  双葉山以降で10回以上優勝した横綱に限っていえば、44代横綱・栃錦、55代横綱・千代の富士の35歳が引退“最高齢”である。
  大鵬に次ぐ「横綱相撲」の継承者である白鵬も32歳。3年後の2020年まで現役横綱として活躍することを目標としている。綱を張り続けるためには、日々衰えていく体力と気力との戦い、年に2、3回の優勝が求められる。白鵬の休場は出場98場所に対してたった58休。休まずに勝ち続けることも「横綱」の務めであり「大横綱」の条件なのだ。
  前人未到の道を行く白鵬である。
  相撲は実際にとっている本人しかわからない、と言ってしまえばそれまでだが、「あれもダメ」、「これはいけない」と必要以上に常陸山、双葉山、大鵬と受け継がれてきた「横綱相撲」という幻想にとらわれ、彼の相撲を評価するのはいかがなものか。相撲は武道における演武のように型を見せるものではない。
  「相手に応じて臨機応変、変幻自在の対応ができる」のが白鵬。これは「横綱相撲」ならぬ、それがさらに進化した「大横綱相撲」だろう。
  だからこそ「何でもありの闘神」と化した横綱に対し、なりふり構わずあの手、この手でぶつかっていく若手力士の奮起に期待したい。


前人未踏の記録を打ち立てたり、後に続く人々への道を切り開いたりしたスポーツ選手などを評するのに、「道程」の一節がよく使われます。平成26年(2014)には、日米プロ野球の架け橋として大きな功績を残した野茂英雄さんを紹介する記事に使われました。今年に入っても、将棋の藤井聡太四段の記事に、「道程」が引き合いに出されています。

それぞれ道は違えど、光太郎にしても、野茂さんや藤井四段にしても、そして白鵬関にしても、自ら道を切り開いていった姿には、感銘を禁じ得ません。

ところで、スポニチさんの記事後半、「横004綱相撲」の代表格として名が挙げられている常陸山。光太郎と同世代なので、気になって調べたところ、光太郎が常陸山に言及した評論がありました。明治44年(1911)の雑誌『文章世界』第6巻第5号に掲載された「粘土と画布」という評論です。

 僕等には偉大とか、崇高とか、森厳とか、宏壮とか、雄渾とかいふ形容詞が、従来の意味では余り馬鹿げてゐて、今日の芸術品を形容するのに憚る次第である。又、此の種の形容詞は量の大きさに対する驚嘆の情に眩惑されて、無内容、無感覚な作品に冠せらるる事が屢〻ある。此の種の公衆にはピラミツドの写真、ナイヤガラ瀑布(だき)の写真、富士山の写真、下つては常陸山の写真でも恭しく捧げて置く。
 量が力ではない。量の振動が力である。

「大きいことはいいことだ」的な発想を芸術の世界に持ち込もうとする輩に対しての警句です。常陸山にしてみればいい面の皮、といった感がありますが、ピラミッドやナイアガラ、富士山と並び称されての常陸山ですから、この当時から偉大なる者としての評価が高かったことは窺えます。

現代のこうした例に「白鵬の写真でも」となるよう、秋場所は休場としても、白鵬関の再起を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

カトリツクに縁があつたら きつとクルスにすがつてゐたらう。 クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に 奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、決意を固める前、旧態依然たる日本芸術界との苦闘に疲れ、酒浸りの「デカダン」の日々を送っていた光太郎。まさしく「奇蹟のやうに現れた」智恵子によって、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」の境地に達することが出来ました。

今日はその智恵子の故郷、福島二本松に行って、今日から始まる「重陽の芸術祭2017」を拝見して参ります。

青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム、昨日掲載分です。

天地人 9月7日

 いちめんの、ススキ原の白い穂が、海の波のように風になびく。その大きな動きを見ていて、高村光太郎は、好きな歌劇の序曲を連想したらしい。<清涼限りなく、まつたく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく>と記した。 
 光太郎は戦後の7年間、岩手で農耕自炊の生活をおくった。住まいをかまえていた集落に、秋風が急にふいてきた。一朝にして季節の感じをかえてしまう。うつりかわる里山の姿を、随筆『山の秋』に書いた。
 県内は、里でも花ススキが目につく季節となった。花があつまった長い穂は、馬などの尾に似ている。「尾花(おばな)」と呼ばれる。<萩の花尾花葛花(くずばな)…>と、山上憶良が万葉集に詠んだ、秋の七草の一つである。秋風になびくススキには、日本画に描かれる独特のさびしさがある。
 きょうは「白露(はくろ)」。秋の気配がしだいに色こくなり、昼夜の寒暖差から、野草に「しらつゆ」が宿るころの節気である。露は、日がのぼると、またたく間に乾いたり、風で落ちたりする。「露の身」「露の世」と、はかなく消えやすいものの、たとえに用いられる。
 あすから十和田・三戸・南部などで秋祭りがはじまる。五穀豊穣(ほうじょう)を神々に感謝し、祝う。山車をひく沿道から、ススキは見えるか。秋景色に、風情を添えていることだろう。生命力が強いススキの花言葉は、「活気」「元気」と聞いた。秋祭りにふさわしい。


取り上げられているのは、随筆「山の秋」。昭和28年(1953)8月19日の執筆で、この年10月の『婦人公論』に掲載されたものです。400字詰め原稿用紙20枚ほどの長い作品ですが、今も光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)が残る、花巻郊外旧太田村の秋の風物詩が語られています。

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執筆したのは東京です。青森県からの依頼で、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京したのが前年。ただし、この頃は東京と太田村を行ったり来たりしながらの生活を考えていたようで、住民票は太田村に残し、「山の秋」が『婦人公論』に掲載され、「乙女の像」除幕式が終わった後、2週間ほど村に帰っています。しかし、宿痾の肺結核がかなり進行し、もはや長距離の移動や寒村での生活やには身体が耐えられなくなっており、それを最後に村に帰ることはなくなってしまいました。

さて、「山の秋」。太田村の農民たちの暮らし、旬の農作物、秋の草木や動植物などについて、旅人目線ではなく、住民としての視点で細かに綴っています。さまざまな点で不自由な蟄居生活でしたが、一面、若い頃から憧れていた自然と一体化する生活の実現という意味では、快適に感じる部分も多かったようです。また、何くれとなく世話を焼いてくれた村人達との交流も。

『東奥日報』さんで触れられている部分を取り出してみましょう。

 秋風は急に吹いてきて、一朝にして季節の感じを変えてしまう。ばさりとススキをゆする風が西山から来ると、もう昨日のような日中の暑さは拭い去られ、すっかりさわやかな日和となって、清涼限りなく、まつたく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく。空は緑がかった青にすみきり、鳥がわたり、モズが鳴き、赤トンボが群をなして低く飛ぶ。いちめんのススキ原の白い穂は海の波のように風になびき、その大きな動きを見ると、わたくしは妙にワグネルの「リエンチ序曲」のあの大きな動きを連想する。ススキ原の中の小路をゆくと路ばたにはアスター系の白や紫の花が一ぱいに咲きそろい、オミナエシ、オトコエシが高く群をぬいて咲き、やがてキキヨウが紫にぱつちりとひらき、最後にリンドウがずんぐりと低く蕾を出す。リンドウは霜の降りる頃でもまだ残つて咲く強い草だ。

「ワグネル」は、ドイツのリヒャルト・ワーグナー。「リエンチ」は「リエンツィ」とも表記される、1840年作曲のオペラです。村のススキの穂波から、その序曲を思い浮かべたとのこと。

光太郎、クラシック音楽にも造詣が深く、とりわけ好んだのはバッハだそうですが、ワーグナーの名も『高村光太郎全集』のあちこちに散見されます。他にはベートーヴェン、ベルリオーズ、ドビュッシーなどが多く語られています。意外なことにモーツァルトやシューベルトについてはあまり言及がなく、チャイコフスキー、ブラームス、メンデルゾーンあたりは『高村光太郎全集』にまったく名が出てきません。

閑話休題。当方、明日は福島二本松に日帰りで、そして来週には花巻に1泊2日で行って参ります。関東もめっきり秋めいてきましたが、さらに一歩進んでいるであろう東北の秋を堪能して参ります。


【折々のことば・光太郎】

狭くるしい檻のやうに神戸が見えた。 フジヤマは美しかつたが小さかつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「親不孝」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

3年半にわたる欧米留学を終え、日本郵船の阿波丸で神戸に上陸したのが明治42年(1909)7月。東京へは迎えに来た父・光雲とともに、列車で向かいました。車窓から見えた富士山も、光太郎の目には格別な感興を催しませんでした。

その車中で、光雲が光太郎に語ったのは、光太郎を中心にしての「銅像会社」設立の構想。世界最先端の本物の芸術を見てきた光太郎が断ったのは、言うまでもありません。

それ以外にも、美術学校教授職、江戸前の娘さんとの縁談など、ことごとく光雲の申し出を却下、苦闘の日々が始まります。

智恵子の故郷・二本松に隣接する福島県本宮市で、平成25年(2013)から「カナリヤ映画祭」というイベントが開かれています。主催はNPO法人「本宮の映画文化を継承する会」さん。本宮は、東宝さんの配給で、1965(昭和40)年に自主制作された映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演)の舞台となった街。それを記念してのイベントです。

元々、本宮では地元の映画館の協力で、小学生が授業の一環として映画を鑑賞、感想文や感想画を書くといった取り組みがなされていました。これを「本宮映画教室」と称したそうです。戴いた資料によれば、昭和32年(1957)から同39年(1964)までに、実に173本もの映画が「本宮映画教室」で上映されていました。しかし、子供たちに安心して見せられる良質な映画が少なくなり、それならば自分たちで作ってしまえというわけで、カンパで資金を集め作られたのが「こころの山脈」です。

安達太良山の麓、という土地柄、「智恵子抄」が一つのモチーフとして取り上げられています。ただ、興行的にはあまり成功したとは言えず、忘れられた名作といった感じです。

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そこで、地元の本宮で、この「こころの山脈」を見直そうと始まったのが、「カナリヤ映画祭」。2日間に分け「こころの山脈」他、良質な映画を何と無料で上映ということで、すばらしい取り組みです。当方、一昨年の第3回にお邪魔いたしまして、初めて「こころの山脈」を拝見しました。その際のレポートがこちら

ところが、昨年は「こころの山脈」の上映がなく、このブログではご紹介しませんでした。その後、NPO法人「本宮の映画文化を継承する会」さんの方にお会いしてうかがったところ、今後「こころの山脈」は隔年で上映という方向、とおっしゃっていました。

というわけで、今年の第5回では、「こころの山脈」の上映があります。

第5回カナリヤ映画祭

期 日 : 2017年9月16日(土)・17日(日)
会 場 : サンライズもとみや 福島県本宮市矢来39-1
日 程 :
 9月16日(土) 本宮方式映画教室の復活
   13:30 本宮駅前集合 映画の町ツアー開始
                         本宮映画劇場を見学後映画撮影場所などを訪ねる
   14:30 サンライズもとみや着  映画の町ツアー終了
   14:30 本宮方式映画教室開場 児童向け短編映画上映
        「きたかぜとたいよう」 「ザ ゴッサマー」 「五井先生と太郎」
        「眠れない夜の月」 「MARCH」
  16:30 「こころの山脈」 
 9月17日(日)
  9:20  開場
  9:40  開演
  9:50  「この世界の片隅に」 2016年作品 片渕須直監督 上映時間128分 託児所開設
  《昼休憩45分程》
  13:00 「花韮(ハナニラ)」 2017年作品 本宮高校製作 上映時間20分
  13:20 「MARCH」 2017年作品 MARCH製作委員会製作 上映時間35分
  14:15 「紬織」 2015年作品 文化庁製作 上映時間34分
  15:20 「湯を沸かすほどの熱い愛」 2016年作品 中野量太監督 上映時間125分
  17:50 「この世界の片隅に」 2016年作品 片渕須直監督 上映時間128分
  20:00 終了

主催 : カナリヤ映画祭実行委員会 NPO法人本宮の映画文化を継承する会

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「こころの山脈」以外にも、すばらしい作品が上映されます。

あまちゃん」の能年玲奈改めのんさんが声優を務め、話題となった「この世界の片隅に」。



東日本大震災の復興支援を目的とし、Jリーグが後援に入っている「MARCH」。原発事故で甚大な被害をうけた南相馬市のマーチングバンド「Seeds+」の奮闘を描いています。


宮沢りえさん主演の「湯を沸かすほどの熱い愛」。「とと姉ちゃん」に出演されていた杉咲花さんや、映画「FOUJITA」主演のオダギリジョーさんもご出演。


これらが無料で見られるというのですから、すばらしい。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

フランスがフランスを超えて存在する この底なしの世界の都の一隅にゐて、 私は時に国籍を忘れた。 故郷は遠く小さくけちくさく、 うるさい田舎のやうだつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ生活を題材にしています。真の芸術の有りように開眼すると同時に、その方面での後進国であった日本との比べようもない落差を感じ、父・光雲をピラミッドの頂点とする日本彫刻界との訣別が決意されました。

今日の『朝日新聞』さん朝刊に、俳優の土屋嘉男さんの訃報が出ていました。

土屋嘉男さん死去 「七人の侍」など出演

 「七人の侍」など多くの黒澤映画で脇を固めた俳優の土屋嘉男(つちや・よしお)さんが、2月8日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。89歳だった。
 俳優座養成所を経て東宝入社。54年、黒澤明監督の「七人の侍」で、愛妻を野武士に奪われて苦しむ若い農民の利吉を演じて注目を集めた。以降、55年の「生きものの記録」から65年の「赤ひげ」まで、黒澤映画の脇役として欠かせない存在となった。
 東宝では、ほかに「ゴジラの逆襲」「ガス人間第一号」などの特撮もの、「黒い画集 ある遭難」「乱れ雲」など、幅広い作品に出演した。

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土屋さん、若き日にやはり東宝の、原節子さん主演「智恵子抄」(昭和32年=1957)にも出演なさっていました。光太郎の若い友人である詩人の「小山」という役で、モデルは尾崎喜八と草野心平でした。

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小山の登場シーンは2回(シナリオではもう1回ありましたが、映画本編では2回でした)。

まずは、大正末から昭和初め頃という設定で、森啓子さん(のち森今日子と改名)演じる妻と、生まれたばかりの女の子を連れて、光太郎智恵子の暮らすアトリエを訪ねるシーン。下の画像はスチール写真です。

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実際の映画から。

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そろそろ精神的に不安定になりつつあった、原節子さん演じる智恵子が、赤ちゃんをまるで引ったくるように自室に連れて行ってしまうという流れでした。

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尾崎喜八がよく妻子(妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘である実子)を連れて光太郎アトリエを訪問しており、お嬢さんの榮子さんは昨年までご健在で、智恵子に抱っこされた思い出をうかがったことがあります。映画ではそのあたりを脚色したようです。

それから、草野心平とのエピソードも使われていました。智恵子がゼームス坂病院に入院したあと、という設定で、山村聰さん演じる光太郎が「小山」を場末の酒場に呼び出し、くだをまくシーンです。

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どういった事情があったのか、土屋さん、訃報は今日の新聞に載っていましたが、亡くなったのは2月だそうです。ちなみに昨日は、原節子さんのご命日で、今年は三回忌となり、不思議なご縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

いつのことだか忘れたが、 私と話すつもりで来た啄木も、 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに すつかりあきらめて帰つていつた。 日露戦争の勝敗よりも ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「彫刻一途」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ロヂン」は「ロダン(Rodin)」の英語風の読み方です。東京美術学校に入学後、ロダンの名もまだ日本では知られていなかった頃、海外の雑誌で作品の写真を見て、いち早くその新しい美に打たれた光太郎。社会主義にもかぶれていた啄木が訪ねてきても、話が噛み合わなかったということです。

忠君愛国の精神で育て上げられてきた光太郎、遅まきながらの自我の目覚めは、ロダンとともにやってきました。

このブログでたびたび取り上げさせていただいております、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で、東日本大震災前にかつて建っていた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

先月11日には、町内小屋取浜と御前浜に新たに建立され、予定の全21基中、16基が竣工したそうです。


先月末、中心になって活動している、女川第一中学校(現・女川中学校)の卒業生の皆さんの活動を紹介する集会が、東京大田区で開かれ、『毎日新聞』さんの東京版と宮城版でそれぞれ紹介されました。 

「1000年後の命を守りたい」 津波到達点に石碑を 宮城・女川中卒業生、活動紹介の集会 大田 /東京

016 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校卒業生が、津波到達点に石碑を設置する活動を続けている。活動を紹介する集会が26日、大田区で開かれ、卒業生は「1000年後の命を守りたい」と、約80人を前に防災への意気込みを語った。
 女川町は震災で人口約1万人のうち873人が犠牲となった。震災直後に中学に入学した卒業生らは「悲しみを繰り返してほしくない」と町内全21地区の津波到達点に石碑を設置する活動を始め、現在までに16基を設置。全国の同世代に伝えるため、3月に教訓をまとめた「いのちの教科書」も作製した。
 卒業生らは活動にかけるそれぞれの思いを語った。震災で母と祖父母を失った鈴木智博さん(18)=女川町=は「一度避難したのに自宅に戻って亡くなった人がいた。石碑に『絶対に戻らないで』と強い口調の言葉を入れた」と紹介。大学1年の渡辺滉大(あきと)さん(19)=同県石巻市=は「防災が空気のように当たり前になってほしい」と訴えた。
 卒業生を囲んで車座になった参加者は「大人も震災を忘れてはいけない」などと語り合った。卒業生の一人、木村圭さん(18)=荒川区=は「いろんな方と話して、中学時代は会ったことのない多くの人に支えられ、見守られていたんだと実感した」と振り返った。【百武信幸、伊藤直孝】


女川町の広報誌、『広報おながわ』の先月号には、こんな記事も。

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2番目に碑が建てられた、同町竹浦地区に関するもので、同区長・鈴木成夫さんの談話に、「今、海を見下ろす境内には、いのちの石碑が立っています。ここに居住する誰もが安心して住めるまちになりました。」とあります。

そういえば、やはり先月末、NHK BSさんで、アニメドキュメント「女川中バスケ部 5人の夏」という番組が放映されました。実話を元に、昨年の夏、全国大会出場を目指してがんばった、「いのちの石碑」プロジェクトメンバーの後輩たち、女川中学校女子バスケットボール部を描いたアニメです。

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東北を舞台としたこの番組のために、東北ゆかりの人々が集まってくれました。チームを支える町の大人たちを演じたのは、ベテラン声優・山寺宏一さん(宮城県出身)と、人気お笑いコンビ・サンドウィッチマン(宮城県出身)のお二人。さらに、プロバスケットボールプレーヤーの大神雄子さん(山形県出身)が本人役として登場し、音楽を担当したのはシンガーソングライター・遊佐未森さん(宮城県出身)でした。そして、番組ナレーションは、やはりNHKさんの大河ドラマ「八重の桜」に主演され、東北とも縁の深い綾瀬はるかさんでした。

この中で、一瞬でしたが、「いのちの石碑」が背景に使われていました。

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女川を代表する風景の一つとなっているということかもしれません。

今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。


「一瞬映った」といえば、先週、やはりNHKさんで放映された「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」。こちらでは、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、2秒間(笑)映りました。

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残念ながら詳しい紹介はなかったのですが、やはり十和田湖を代表する風景の一つということでしょう。

その他、二重カルデラ湖としての十和田湖、V字形の「渓谷」ではなくU字形の「渓流」である奥入瀬渓流の成り立ち、ヒメマスやらコケやらの話など、なかなか充実した内容でした。

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今夜、再放送があります。25時00分~25時45分ということで、日付が変わって明日未明、午前1時からですね。

見逃された方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私のあたまはその時、 誰かの手につよく押へつけられた。 雪にぬれた砂利のにほひがした。 ――眼がつぶれるぞ――

連作詩「暗愚小伝」中の「土下座(憲法発布)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での蟄居生活の中、自らの戦争責任に向き合い、さらには遡っての自らの来し方を検証する連作詩「暗愚小伝」が生まれました。全20篇、7つの章立てで、第一章が忠君愛国の精神を叩き込まれた幼少年期を語る「家」。その冒頭を飾るのがこの詩です。

明治22年(1889)2月11日の憲法発布式に伴う明治天皇の上野行幸の列を見物する数え7歳の光太郎。「誰か」の背に負われて見物に来ています。やがてやってきた箱馬車。「誰か」は「頭が高い」とばかりに光太郎の頭を押さえつけました。詩の中では「誰か」が誰なのか、具体名は挙げられていません。実際にはこの年、東京美術学校に奉職する光太郎の父・光雲、または天狗の存在を確信していた祖父・兼松、あるいは光雲の弟子筋の若い衆かもしれません。しかし、具体名が挙げられていないことから、幼少期の光太郎を取り巻いていた、旧弊なこの国全体の象徴、と捉えることも可能かと思われます。

第一章「家」では、その他、日清日露の両戦争や、帝室技芸員に上り詰めた光雲と皇室のからみなどが謳われます。そこには、頭を押さえつけられたまま過ごした幼少年期の光太郎が居ました。

横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

昨年は滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんで開催された企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」に出品された後、本格的な修復に入ったため、この時期の例大祭には出ませんでした。その後、11月には修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目されました。

というわけで、今年は2年ぶりに火伏神輿の巡幸があります。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2017年9月15日(金)~17日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
日   程 : 9月15日(金) 13:30~ 火伏神輿行列

雅楽の生演奏を先導に、白装束の担ぎ手約30人が厳かに行列します。高村光雲作の神輿。関東大震災・横浜大空襲と、2度の苦難を乗り越えたことから、誰呼ぶともなく、「火伏(ひぶせ)の神輿」との名が付き、災難よけの神輿として崇められています。

 16日(土) 13:00~ 和太鼓演奏   17:00~19:00 千貫神輿奉安
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

  17日(日) 12:00~ 氏子町内神輿連合渡御   13:00~ 和太鼓演奏
奇数年毎の本祭りでは、神社からイセザキモールへと40基にも及ぶ大小の町内神輿が威勢良く練り歩き、大勢の祭り好き、神輿好きが集まります。

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会期中、火伏神輿と同時期の、やはり光雲作である獅子頭も、イセザキ・モール内有隣堂書店さんの前に並びます。
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当方、平成26年(2014)に拝見に伺いましたが、火伏神輿、獅子頭ともに、見事な作でした。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな

詩「(リンゴばたけに)」全文 昭和22年(1947) 光太郎65歳

きちんと題名を付けて原稿用紙に書かれたものでなく、まずは手帖に記し、のち、画仙紙に揮毫したものです。

リンゴの生産。青森、長野ほどではありませんが、それに次いで山形と並び岩手でも盛んです。光太郎が蟄居していた旧太田村近辺にも、リンゴ畑が広がっています。

光太郎、リンゴは彫刻のモチーフにはならないと言っていましたが、食べる方では非常に好んだようです。

過日ご紹介した、北海道の小樽芸術村似鳥美術館さんがオープンしました。

先月末の内覧会の報道。 まずは『朝日新聞』さんの北海道版からです。

北海道)小樽芸術村、9月1日にグランドオープン

 小樽市色内1丁目の「小樽芸術村」が9月1日にグランドオープンする。四つの施設は市指定有形文化財と歴史的建造物を活用したもので、旧北海道拓殖銀行小樽支店を改修した「似鳥美術館」などが30日、報道陣に公開された。
 似鳥美術館は1923年の建築で、地上4階・地下1階建て。プロレタリア作家の小林多喜二がここに勤めていたことでも知られる。2~4階に岸田劉生、横山大観、ルノワール、ユトリロなどの絵画約110点のほか、高村光雲らの木彫14点、棟方志功の作品5点を展示する。地下1階は、ガラス工芸品や照明器具など約160点が並ぶグラスギャラリー。6本の円柱が並ぶ1階の吹き抜けのホールはミュージアムショップとなった。
 芸術村は昨年7月、「ステンドグラス美術館」と「アールヌーヴォー館」が先行オープン。今年8月には「旧三井銀行小樽支店」を復元し、歴史的建造物として一般公開を始めた。観覧料は全館共通で一般1900円、学生1400円、中学生以下は無料。ミュージアムショップは入場無料。(佐久間泰雄)


続いて、UHB 北海道文化放送さんのニュースから。 

小樽芸術村 9月1日グランドオープンへ 「似鳥美術館」お披露目 北海道小樽市

 北海道小樽市の歴史的建造物を利用した小樽芸術村。「似鳥美術館」オープンでいよいよ完成です。9月1日のグランドオープンを前に8月30日、お披露目されました。
 小樽芸術村は、2016年オープンしたステンドグラス美術館など、2つの施設に加え8月、「旧三井銀行小樽支店」がオープンしていて、今回の「似鳥美術館」で全面オープンとなります。
  「似鳥美術館」は1923年に建てられた、旧北海道拓殖銀行小樽支店を修復したもので、アールヌーヴォー、アールデコグラスや国内外の絵画、彫刻などが展示されています。
 建物自体も小樽市指定有形文化財で、吹き抜けに立つ6本の円柱も特徴です。
 小樽芸術村は9月1日、グランドオープンで、今後注目の施設となりそうです。
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そして一昨日にはオープン。『北海道新聞』さんから。 

小樽芸術村が全面開業 似鳥美術館オープン

【小樽】家具・インテリア製造小売り最大手のニトリ(札幌)が小樽市中心部で歴史的建造物を使って整備を進めてきた「小樽芸術村」が1日に全面開業し、記念式典が行われた。ニトリホールディングス(札幌)の似鳥昭雄会長や高橋はるみ知事らが新たな観光・文化拠点の誕生を祝った。
 芸術村の四つ目の施設となる「似鳥美術館」が1日にオープン。旧拓銀小樽支店(1923年建築)を改修し、美術品約280点を収蔵する。式典で高橋知事は「岸田劉生ら大家の作品を展示し、小樽や北海道の魅力発信に貢献していただけると思う」とあいさつした。
 開館時間は4館とも午前9時半~午後5時(11~4月は午前10時~午後4時)。入館料は3館共通が一般1900円、学生1400円など。中学生以下無料。

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『朝日新聞』さんの北海道版には、似鳥会長のインタビューも。

北海道)小樽芸術村が全面開業 ニトリ会長が抱負語る

 ニトリホールディングスが小樽市で整備してきた小樽芸術村(色内1丁目)が1日、「似鳥美術館」のオープンで全面開業した。似鳥昭雄会長が朝日新聞の取材に答え、「小樽芸術村を歴史と芸術が響き合う場所として世界に発信していきたい」と抱負を語り、年間20万人の来館者を目標に、小樽や道内の観光振興に貢献したい意向を示した。
 芸術村は小樽運河近くの1920~30年代に建てられた4棟で構成。旧三井銀行小樽支店など「商都」として栄えた時代を象徴する銀行などの建物を活用した。美術館は芸術村の中核施設で、旧北海道拓殖銀行小樽支店を改修した。地上4階、地下1階建て。2~4階に岸田劉生やピカソなどの絵画110点やガラス工芸品160点など、似鳥会長が収集してきたものを含めて展示している。
 似鳥会長は小樽を選んだ理由を「明治から昭和にかけて北海道の経済発展の礎となった土地。当時をしのばせる歴史的建造物が多く、同時代の美術、工芸品を展示することで新たな文化創造や発信ができる。北海道の風景や食に新しい感動をプラスしたい」と述べた。
 小樽には年間790万人の観光客が訪れており、「1990年代の小樽観光を牽引(けんいん)したのが閉館した石原裕次郎記念館ならば、バトンタッチして小樽芸術村が小樽観光のお役にたてたらうれしい」と話した。
 ニトリは1967年に「似鳥家具店」として札幌で創業し、今年で50年。ニトリ北海道応援基金や夕張、小樽への寄付などのメセナ(企業の社会貢献)にも取り組んできた。「60歳まで努力して余裕ができたら社会貢献を考えていた。業績のいい企業がメセナを行うのは欧米では当たり前のこと。そういう文化が根付けば豊かな国になる」と述べた。
     ◇
 ニトリホールディングスの似鳥昭雄会長が1日、小樽市で朝日新聞のインタビューに答えた。主な一問一答は次の通り。
 ――創業の札幌でなく、小樽で小樽芸術村を開設したのはなぜですか。
 「基本は現代の建物ではなく、昔からの建物を使って美術館をしたかったんです。小樽は明治から昭和にかけて北海道の経済発展の礎となった土地。当時をしのばせる歴史的建造物が多く、同時代の美術、工芸品を展示することで新たな文化創造や発信ができる。札幌と小樽は近いからやろうと決意したのが6、7年前かな。旧三井銀行小樽支店は7、8年前から見ていました。運河前の旧荒田商会と旧高橋倉庫が譲っていただけるということになり、そのうち、似鳥美術館になったここ(旧北海道拓殖銀行小樽支店)もうまくいきまして、今日に至ったんです」
 ――小樽がかつて物流・金融の要所の街だったということも関係ありますか。
 「そうです。昔、私も父親に連れてこられて、小樽によく来ました。こちらが商業の地ということで、こちらの方が栄えていたんですね。札幌よりもね。だから、日銀はこちらにありましたよね。問屋街で、よく父親が『安く買うなら小樽だ』ということで、小学校の時に連れて行ってもらっていたんです」
 ――今回、四つの歴史的建造物を活用して小樽芸術村ができています。旧三井銀行は展示館というものではなく、銀行そのものを保存していますね。
 「ああいう建物は日本では珍しい。日本を代表する建物じゃないかなと。あそこにペタペタ絵を飾っちゃうと、建物が薄れちゃう。だから建物だけを見せていく」
 ――似鳥美術館の展示品には日本画、洋画、木彫、ガラス工芸と多岐にわたっています。似鳥会長のお気に入りのものは。
 「みんな好きなんです。きれいなもの、美しいものにほれてしまうと。そういう傾向があります。やはり、ステンドグラスなど、日本になかったものが特に興味がありましたね。日本全国各地をみましても、ああいうものは少ないものですから、自分のところで美術館をつくりたいなあと」
 「昔から小樽は、ガラスの街で有名なところですよね。いま、ガラス工芸は少なくなっているのですが、本当のガラスでできたもの、世界の名品をここに見てもらうことが、小樽にぴったりではないかと」
 ――小樽には年間790万人の観光客が訪れます。小樽芸術村の役割をどう考えますか。
 「歴史と芸術が響き合う場所として世界に発信していきたい。北海道の風景や食に新しい感動をプラスしていきたい」
 ――観光名所だった石原裕次郎記念館が閉館しました。
 「1990年代の小樽観光を牽引(けんいん)してきたのが石原裕次郎記念館ならば、バトンタッチして小樽芸術村が小樽観光を引っ張って、お役に立てればうれしい」
 ――ニトリは道内では、小樽市に1億円、夕張市に5億円などの寄付をしています。会社のメセナ(企業の社会貢献)について、どう考えていますか。
 「私が60歳まで努力して余裕ができたら、社会貢献しようと考えていました。それで、『北海道応援基金』っていうので、年1億円で出していこうと。それから植樹ですよね。夕張では桜2万本を植樹し、これも、もう10年近く経つかな。桜が少しずつ大きき成っていますよね」
 ――業績がよい企業はメセナを積極的に行うのは、欧米では当たり前だとおっしゃっていました。
 「そうそう。もうかっていても、全然、出さない企業もあるんですよね。ビジネスとして社会貢献というのが一つありますよね。既存のお客さんが増えることと、また欲しいと言われるような商品をつくることです。そのほかに、文化に関することというのは、欧米では当たり前ですし、一定の企業、豊かな企業が社会貢献することが根付けば、豊かな国になると思うんですよね。日本はまだまだ足りない」
 ――今年はニトリの創業50年。9月には国内外の店舗数が500になります。
 「500店というのは一つの区切りですね。50年、500店、(売上高)5千億円といったし、純利益も500億円を超えた。『5、5、5』というのはいいですね。こんどは『1、1、1作戦』とか。5年後に1千店、1兆円、最終利益1千億円。これはちょっと、まぁいいかな、そんなもんかな」(佐久間泰雄、鯨岡仁)
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■小樽芸術村の建物
①似鳥美術館(旧北海道拓殖銀行小樽支店)
②旧三井銀行小樽支店
③ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)
④小樽芸術村ミュージアムショップ(旧荒田商会)


すばらしい理念だと思います。

光雲らの木彫に目を付けて下さったのも、ありがたい限りですね。光太郎の木彫も、ここに加えていただければさらにありがたいのですが。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

観自在こそ たふとけれ まなこひらきて けふみれば 此世のつねの すがたして わがみはなれず そひたまふ

詩「(観自在こそ)」全文 昭和21年(1946)頃 光太郎64歳頃


七五調四句の「今様」という様式で、題名は付されていません。そのため、昨年、このブログで1年間載せ続けました【折々の歌と句・光太郎】でもご紹介しましたが、『高村光太郎全集』では、詩の巻に入れざるを得ず、「第3巻 詩三」に収録されています。

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではありませんでしたが、仏師だった父・光雲が手がけた観音像などを幼い頃から目の当たりにし、自身もブロンズの代表作「手」では、観音菩薩の手印・施無畏の相をモチーフにするなどしています。

戦争協力への反省から蟄居生活を送る中、仏にすがる気持ちも育まれていたかも知れません。

新刊です。勇ましい題名ですが、いわゆる「愛国者」が期待するような内容ではありません。しかし、本当はそういう人々にこそ読んで欲しいものですが、まあ、無理でしょう。

飛行機の戦争1914-1945 総力体制への道

2017年7月20日  一ノ瀬俊也著 講談社(講談社現代新書) 定価920円+税

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なぜ国民は飛行機に夢を託し、人、金、物を提供したのか――。

貧しい人びとの出世の手段としての航空兵。
国民一人一人がお金を出しあって飛行機をつくる軍用機献納運動。
博覧会や女性誌・少年誌で描かれる「空」への憧れ。
防空演習ですり込まれる空襲の恐怖と、空中国防の必要性。
松根油の採取、工場への学徒動員。
学校、親への「説得」を通して行われる未成年の航空兵「志願」……

巨大戦艦による戦争が古い〈軍の戦争〉であるとすれば、飛行機は新しい〈国民の戦争〉だった! 日本軍=大艦巨砲主義という通説をくつがえし、総力戦の象徴としての飛行機に焦点をあて、膨大な軍事啓蒙書などを手がかりに、戦前、戦中の現実を描き出す一冊。

 第一章 飛行機の衝撃――大正~昭和初期の陸海軍航空
   1 飛行機の優劣が勝敗を分ける――航空軍備の建設
   2 飛行機と戦艦
   3 墜落と殉職――人びとの飛行機観
 第二章 満洲事変後の航空軍備思想
   1 軍用機献納運動
   2 海軍と民間の対国民宣伝――「平和維持」と「経済」
   3 空襲への恐怖と立身出世
 第三章 日中戦争下の航空宣伝戦
   1 「南京大空襲」――高揚する国民
   2 飛行機に魅せられて――葬儀・教育・観覧飛行
 第四章 太平洋戦争下の航空戦と国民
   1 太平洋戦争の勃発――対米強硬論と大艦巨砲主義批判
   2 航空総力戦と銃後

日中戦争・太平洋戦争における旧日本軍の敗因の一つとして、いわゆる「大艦巨砲主義」に拘泥するあまり、機動性に優れた航空機による戦闘へのシフトがうまくいかなかったといわれています。当方も漠然とそう思っていましたし、本書では戦後の検証論文等でのそうした記述の実例が複数挙げられています。たしかに「大和」「武蔵」に代表される巨大戦艦を擁しながら、それらがほとんど戦果を挙げられなかったという一面は否定できません。

しかし、陸海軍ともに、かなり早い時期から航空戦の重要性を認識し、実際の戦闘ではそれが中心だったこと、そのために国民への啓蒙、そして協力の強制がなされていたことが、図版等も使いながら豊富な実例をもとに検証されています。

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そうした中で、民間から拠金を募っての「軍用機献納運動」が広く行われたことも、紹介されています。「戦艦献納運動」も同時に行われていましたが、艦艇は一隻あたりの建造費が巨額となり、その点、航空機であれば割り当てが少額で済みます。そこで、道府県や市町村単位で募金が集められ、献納された機体には「愛国○○号(○○は地名など)」が付けられて、各地で献納式などが行われました。また、人的な面でも、少年航空兵の募集などが必要でした。

こうした運動を推し進めるため、既に太平洋戦争開戦前から、これからの戦争は航空機が中心という考え方が広く国民に知らされており、決して「大艦巨砲主義」に拘っていたわけではないはずだ、というのです。

たしかに膨大な量が書かれた光太郎の翼賛詩の中にも、こうした動きを助けるためのものとおぼしき作品も散見されます。題名のみでそれと分かるものが「少年飛行兵」「ぼくも飛ぶ」「おほぞらのうた」「第五次ブーゲンビル島沖航空戦」「少年飛行兵の夢」など。散文でも「飛行機の美」「神風」など。

本書では、光太郎の「黒潮は何が好き」(昭和19年=1944)という詩を引用しています。初出は同年の『写真週報』です。

    黒潮は何が好き

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、003
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。


著者の一ノ瀬氏によれば、「異様な戦意高揚の詩」「戦時下対国民宣伝のもっとも陳腐な事例」「単に願望をつぶやいただけの空疎な詩」と、さんざんな評ですが、まったくもって、そう言われても仕方のない作品です。

ただ、実際に猛威を振るった「空母」が、無用の長物に近かった「戦艦」より前に位置づけられていることが、当時の戦闘の実態をちゃんと反映しているとも評されています。そこで一ノ瀬氏曰く「海軍は詩人に「空母を戦艦の前に置いて作詩してくれ」とわざわざ頼んだのであろうか」。そういうこともありえますね。それだけ航空機の重要性を国民に訴えたいということです。

しかし、彼我の生産力は如何ともしがたく、「皇軍」は壊滅するわけですが、戦後になって、先述の通り、その敗因は「大艦巨砲主義」にあったという論がまかり通ることになります。

一ノ瀬氏、明言は避けていますが、どうやら国民に多大な犠牲を強いた航空機献納運動、少年飛行兵の募集などを無かったことにするため、と考えられます。

現代においても、特にごく一部の「愛国者」と称する輩が、過去の我が国の過ちの数々を無かったことにしようとする動きが顕著ですね。そうしたことを論じるだけで、「反日」「偏向」「工作員」「パヨク」「左巻き」(笑)。

あったことは無かったことにできません。光太郎が戦後になって悔いた、プロパガンダ詩からもう一篇紹介しましょう。上記に題名を挙げた「少年飛行兵」(昭和18年=1943)。初出は同年の少年向け雑誌『週刊小国民』です。右の画像は、やはり光太郎詩「神州護持」(昭和19年=1944)が載った雑誌『主婦之友』に掲載された、航空機献納への募金呼び掛け広告です。

   少年飛行兵004

 「少年飛行兵は強い」と或人がいふ。
 わたくしもさう思ふ。
 少年の純真さは大人の比でない。
 少年はおのづからわき目もふらない。
 大人が修養で得るところを
 少年は天然に持つてゐる。
 それほど少年は未生前に近い。
 思ひつめたが最後
 きつとやりとげるといふ気迫を
 少年はみな持つてゐる。
 これを規律ある訓練で仕上げれば
 なるほどすぐれた飛行兵になるわけだ。
 その上神経反応の速度は
 十四歳でいちばん敏感になるのだ相(さう)だ。
 反応時のはやさは勝敗の鍵となる。
 航空戦に大人をしのぐ
 少年飛行兵のあることは当然だ。
 純なるものはここでも無敵だ。


航空戦に大人をしのぐ/少年飛行兵のあることは当然」という世の中に、再びしてはならないと、断じて思います。


【折々のことば・光太郎】

無謀の軍をおこして 清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。 国民軍を信じて軍に殺さる。 われらの不明われらに返るを奈何にせん。

詩「国民まさに餓ゑんとす」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

こういう反省も必要ない世の中であり続けてほしいものです。

一昨日、文京区の弥生美術館さんで開催中の企画展「命短し恋せよ乙女 ~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~」を拝見した後、永田町の国立国会図書館さんに向かいました。

6月に拝見した杉並区立郷土博物館さん所収の光太郎書簡について掘り下げて調べるため、思想家の江渡狄嶺関連、それから来月、青森十和田市で講演を仰せつかっているため、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について、いろいろと文献を渉猟いたしました。

その後、江東区住吉へ。過日ご紹介した朗読会「響きあう詩と朗読」を拝聴して参りました。会場は江東区公会堂ティアラこうとうさん。

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やはり光太郎がらみのイベントは雨に見舞われます。ちょうど着く頃に雨が降り出しました。

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光太郎を含む古今東西のさまざまな詩文を、6人の方が朗読されました。

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お一人目の清水けいこさん、「智恵子抄」から9篇の詩を朗読なさいました。伴奏的に、長谷川美鈴さんの篠笛が入り、幽妙な雰囲気が醸し出されました。

今回、ご案内を下さった、文芸同人誌『青い花』同人で、詩人の宮尾壽里子さんが3番目にご登場。光太郎詩「母をおもふ」他、「母」をモチーフとした詩6篇を朗読されました。こちらはYOSHI氏のピアノによる伝・カッチーニ「アヴェ・マリア」が伴奏でした。西條八十の「帽子」もラインナップに入っていました。森村誠一氏の「人間の証明」で引用され、同作が角川映画になった際は、故・ジョー山中さんが歌ったテーマソング(英訳)で、一躍有名になった詩です。

その他、さまざまな詩文の朗読。知っている作品と、そうでないものと、半々くらいでした。聴いている方としては、そのくらいのバランスがちょうどいい感じです。各朗読者の皆さん、それぞれに工夫を凝らし、終わってみれば2時間強の長いプログラムでしたが、それを感じさせませんでした。

何度も書いていますが、光太郎詩は意外と朗読向きです。完全な定型というわけでない作品でも、光太郎が「内在律」と呼ぶ独特のリズム感や、わざとらしくない程度の踏韻、そして何よりその内容とするところ(もちろんそうでない愚作、駄作の類も存在しますが)。

プロアマ問わず、多くの皆さんに取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

最も低いところに自ら救ふものがあり、 おのづから人類の光と美とに導くもののあることを知れ。 今はただ苦難の鍛へに堪へよ。 やがて清冽そのものを生み得るのは外ならぬわれわれだ。

詩「絶壁のもと」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

終戦記念日の『新岩手日報』に掲載されました。一年前の玉音放送、その後の混迷の一年間を振り返っています。やはり荒廃した人心を救おうとするその呼び掛けに、一部からは戦時中の翼賛活動を棚に上げて、という批判も起こりました。そうした声、そして自らの内なる声に導かれ、自己の戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」が構想されていきます。

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