2017年07月

1泊2日の行程を終え、昨日、岩手から千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。5回ほどにわけてレポートいたします。

7/29(土)、最初に向かったのは、花巻市博物館さん。企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」拝見のためでした。

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左はチラシ、右は図録の表紙です。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

ところで、以前、このブログで等観について、「花巻(湯口村)に疎開していた」的なことを書きましたが、誤りでした。従来刊行されていた文献にそう書かれているものが多く、それを鵜呑みにしていました。正確には妻子を千葉に残しての単身赴任、といった感じだったようです。その期間が長かったのと、チベット将来の品々を疎開させたことから、地元でも「等観さんは花巻(湯口村)に疎開していた」と思いこんでいた人が多かったのこと。

さて、展示。ほとんどが、そのチベット将来の品々でした。最後に「等観と花巻」というコーナーが設けられ、光太郎から贈られたものが展示されていました。

まずは、昭和22年(1947)9月5日、光太郎が円万寺の等観の住まいを初めて訪れた際に揮毫した団扇。

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以前から写真では見ていましたが、実物は初めて拝見しました。それから、単なる渋団扇だろうと勝手に思い込んでいたところ、さにあらず。貼ってあるのはやはりチベットから持ち帰った紙だということでした。光太郎に続いて、元旧制花巻中学校長の佐藤昌も揮毫しています。佐藤は昭和20年(1945)8月10日、花巻空襲でそれまで滞在していた宮沢賢治の実家を焼け出された光太郎を、無事だった自宅に一時住まわせてくれていました。

それから、画像はありませんが、同じ時に光太郎が等観に贈った、草野心平編、鎌倉書房版の『高村光太郎詩集』。残念ながらその部分は見えませんでしたが、等観当ての識語署名が入っているとのことでした。

そしてもう一点、昭和24年(1949)1月5日に等観に宛てて書いた葉書。

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曰く、

拝啓、先日はお使ひにて八日にお招き下され、忝く、当日参上するのをたのしみに致し居りましたが、昨夜以来降雪となり、その降雪量次第で出かけにくくなるやも知れず、事によると不参になるとも考へられますので念の為め右一寸申上げます。なるべくなら出かけたいとは存じますが。

この前後の光太郎日記から。

十時頃観音山より例の老翁使に来り、八日に来訪され一泊されたしと多田等観さんの伝言を伝へらる。多分ゆけるならんと返事す。茶を入れる。(1月3日)

昨夜来雪。終日ふりつづき、一尺ほどつもる。(略)多田等観氏にハガキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる(1月5日)

観音山行を中止する。雪中歩行が一寸あぶなく感ぜられる。(1月8日)

午前多田等観氏来訪。近く東京にゆくにつき来訪の由。ゆけなかつた事を述べる。観音山の話、法隆寺の話、西蔵の話などいろいろ、(略)ひる餅をやき、磯焼にして御馳走する。午后一時半辞去。清酒一升もらふ。昨日一緒にのむつもりなりし由。(1月9日)

今回、葉書が展示されているという情報は事前に得ておりましたが、細かな日付などは不明でした。日記と照らし合わせると、おそらくこの時のものだろうと思っていましたところ、その通りでした。パズルのピースがかちっと嵌る感じで、こういうところが面白いところです。


その後、等観が単身赴任していた郊外旧湯口村の円万寺さんに。以前もここを訪れたことはありましたが、このブログではそのあたり、省略していました。

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以前に訪れた時は路線バスを使い、麓から徒歩で登りました。かなりの坂で、きつかったのを記憶しています。光太郎も「山の坂登り相当なり。汗になる。」と日記に書いていました。今回はレンタカーを借りていたため、すいすいと。光太郎先生、すみません(笑)。

それだけに、ここからの眺望はすばらしいものがあります。「イグネ」または「エグネ」と呼ばれる屋敷森がいい感じです。

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等観が起居していた草庵「一燈庵」。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に勝るとも劣らない粗末さです(笑)。扁額はレプリカのようで、本物は企画展に展示されていました。

その材となった「姥杉」。「尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。」と、光太郎日記にも記されています。

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こんな看板もありました。さすがに自然が豊かです。

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これだけはいただけませんが(笑)。

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遠き日、二人の巨魁の築いた友情に思いを馳せつつ、下山しました。

続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

最も低きに居て高きを見よう。 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

詩「冬」より 昭和14年(1939) 光太郎57

同様の表現が、このあと頻出します。しかし、この境地に本当に達するのは、やはり戦後、花巻郊外旧太田村に隠遁してからのことになります。

昨夜は花巻の台温泉、昭和26年(1951)に光太郎が泊まった松田屋旅館さんに泊めていただき、今日は盛岡に移動。岩手県立美術館さんで開催中の「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション」展を拝見しました。

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光太郎が「智恵子抄」中の詩句を記毫した扇が出品されていて、興味深く拝見しました。

その後、多少、光太郎に関わる常設展示がなされている盛岡てがみ館さん、啄木・賢治青春館さんを見まして、帰途に就いております。

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詳しくは帰りましてからレポート致します。

今朝、千葉の自宅兼事務所を出まして、光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。
まず、花巻市博物館さんで開催中の企画展「没後50年 多田等観 ーチベットに捧げた人生」を拝見。昭和20年代、光太郎が隠遁生活を送った旧太田村の隣村、湯口村の円万寺の堂守りだったチベット仏教学者にして僧侶の多田等観に関する企画展です。

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等観と光太郎とは、お互いの草庵を行き来しており、今回、等観遺品の中の光太郎から贈られた品も展示されていて、興味深く拝見しました。

ついでに等観が堂守りを務めていた円万寺さんも参拝。

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今夜泊めていただく台温泉♨松田屋旅館さんに荷物を置き、花巻高村光太郎記念館さんに向かう途中です。

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夕方から市民講座「新しくなった智恵子展望台から星を見よう」があり、講師を仰せつかっております。ただ、現在、どんより曇っていて、星は無理そうです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

新刊情報です。

一昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さった、書家の石川九楊氏の著作集全12巻が、ミネルヴァ書房さんから刊行中です。

石川氏、光太郎の独特な書を高く評価して下さっていて、さまざまな著作で光太郎書を取り上げられています。昨年刊行された『石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論』、『石川九楊著作集Ⅰ 見失った手 状況論』でも、光太郎に触れる部分がありました。

さて、同じ著作集の第九巻、『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』。 版元のサイトでは3月刊行となっていましたが、amazonさんなどでは今月刊行の扱いになっています。やはり光太郎に触れる部分が含まれています。定価は9,000円+税だそうです。

目次

序 書に通ず

第一部 書とはどういう芸術か
 第一章 書は筆蝕の芸術である003
 第二章 書は文学である
 第三章 書の美の三要素――筆蝕・構成・角度
 第四章 書と人間
第二部 早わかり中国書史
 第一章 古代宗教文字の誕生――甲骨文・金文
 第二章 文字と書の誕生――篆書・隷書
 第三章 書の美の確立――草書・行書・楷書
 第四章 書の成熟とアジア――宋・元・明の書
 第五章 世界史の中の中国書――清の書
第三部 早わかり日本書史
 第一章 日本の書への道程
 第二章 日本の書の成立
 第三章 新日本の書――漢字仮名交じり書の誕生
 第四章 鎖国の頹*廃と超克
第四部 書の現在と未来を考える
 第一章 西欧との出会い――近代の書
 第二章 文士の書と現代書
 第三章 戦後書の達成
 第四章 書の表現の可能性

[書の宇宙]
 第一章 「言葉」と「文字」のあいだ――天への問いかけ/甲骨文・金文
 第二章 「文字」は、なぜ石に刻されたか――人界へ降りた文字/石刻文
 第三章 「書」とは、どういうことなのか――書くことの獲得/簡牘
 第四章 石に溶けこんでゆく文字――風化の美学/古隷
 第五章 石に貼りつけられた文字――君臨する政治文字/漢隷
 第六章 「書聖」とは、何を意味するのか――書の古法(アルカイック)/王羲之
 第七章 書かれた形と、刻された形と――石に刻された文字/北朝石刻
 第八章 書の典型とは何か――屹立する帝国の書/初唐楷書
 第九章 「誤字」が、書の歴史を動かす――言葉と書の姿/草書
 第一〇章 書の、何を受けとめたのか――伝播から受容へ/三筆
 第一一章 書の、何が縮小されたのか――受容から変容へ/三蹟
 第一二章 和歌のたたずまい――洗練の小宇宙/平安古筆
 第一三章 書の文体(スタイル)の誕生――書と人と/顔真卿
 第一四章 書史の合流・結節点としての北宋三大家――文人の書/北宋三大家
 第一五章 中華の書は、周辺を吞みこんでゆく――復古という発見/元代諸家
 第一六章 書くことの露岩としての墨蹟――知識の書/鎌倉仏教者
 第一七章 書であることの、最後の楽園――文人という夢/明代諸家
 第一八章 紙は、石碑と化してゆく――それぞれの亡国/明末清初
 第一九章 万世一系の書道――変相(くずし)の様式/流儀書道
 第二〇章 いくつかの、近世を揺さぶる書――近代への序曲/儒者・僧侶・俳人
 第二一章 書法の解体、書の自立――さまざまな到達/清代諸家①
 第二二章 篆・隷という書の発明――古代への憧憬/清代諸家②
 第二三章 篆刻という名の書――一寸四方のひろがり/明清篆刻
 第二四章 新たな段階(ステージ)への扉――書の近代の可能性/明治前後

 [書の終焉――近代書史論]
 序
 書――終焉への風景
 Ⅰ
  明治初年の書体(スタイル)――西郷隆盛
  世界の構図――副島種臣
  写生された文字――中林梧竹
  異文化の匂いと字画の分節――日下部鳴鶴
 Ⅱ
  「龍眠帖」、明治四十一年――中村不折
  再構成された無機なる自然――河東碧梧桐
  最後の文人の肖像――夏目漱石
  ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎
  短歌の自註としての書――会津八一
 Ⅲ
  位相転換、その結節点――比田井天来
  主題への問い――上田桑鳩
  諧調(グラデーション)の美学――鈴木翠軒
  〈動跡〉と〈墨跡(すみあと)〉への解体――森田子龍
  文字の肖像写真(ポートレート)――井上有一
 Ⅳ
  日本的様式美の変容――小野鵞堂・尾上柴舟・安東聖空・日比野五鳳
  現代篆刻の表出――呉昌碩・斉白石・河井荃廬・中村蘭台二世

凡 例
解 題
解 説 実感的書論(奥本大三郎)


「書の終焉――近代書史論」中の、「ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎」は、完全に光太郎の項ですが、それ以外にも、「文士の書と現代書」などの部分で、光太郎に触れられているはずです。

最新刊は別巻Ⅱの『中國書史』。これが第11回配本で、最終巻の別巻Ⅲ『遠望の地平 未収録論考』が出れば完結です。このブログでご紹介した巻以外にも、光太郎に触れられている部分がありそうな気がしますので、完結後に大きな図書館で全巻を見渡してみようと思っております。


光太郎書といえば、花巻高村光太郎記念館さんの、今年度の企画展。秋には昨年に引き続き、智恵子紙絵。そして冬には光太郎書を扱うそうです。同館には光太郎書の所蔵が非常に多く、常設展示では展示しきれません。そこで、普段、展示に出していない書にも陽の目をあてようというコンセプトになるようです。

秋の智恵子紙絵ともども、詳細が決まりましたら、またお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は原理ばかり語る。 私は根源ばかり歌ふ。 単純で子供でも話す言葉だ。 いや子供のみ話す言葉だ。

詩「発足点」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

空虚な美辞麗句の羅列や、もってまわったまだるっこしい物言いでなく、だから光太郎の詩はいいのだ、と、当方は思います。

昭和6年(1931)、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、8月9日から約1ヶ月、宮城から岩手の三陸海岸一帯を旅した事を記念し、毎年、女川光太郎祭が開催されています。こぢんまりと行うイベントで、ネット上に詳細情報等有りませんが、問い合わせた結果と昨年までの要項を参考にまとめると、以下の通りです。

第26回女川光太郎祭

期 日 : 2017年8月9日(水)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑤―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)

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会場が昨年の女川フューチャーセンターCamassから、震災前、元々の会場だった海浜公園(上記地図でいうと「メモリアルゾーン」)に近い女川町まちなか交流館に変更になりました。やがてメモリアルゾーンの整備も終われば、ここにあった光太郎文学碑も再建され、そちらでの開催になると思います。その日も近いように思われます。

智恵子の故郷・福島二本松からは、智恵子の顕彰に携わるレモン会の皆さんが貸し切りバスでいらっしゃるそうです。しかし、残念ながら、今年は当会顧問・北川太一先生はご欠席だそうです。

今年で5回目となりますが、当方の講演が入ります。永続的に講演をし続けることになりそうなので、まず10年くらいは光太郎の一生を区切って俯瞰する方向でと考え、昭和22年(1947)に、それまでの人生を振り返って書かれた連作詩「暗愚小伝」の構成にしたがって進めており、今年は智恵子との出会いから結婚生活、そして死別のあたり――明治末から太平洋戦争直前くらい――を扱います。

ちょうどこの期間に、『時事新報』の依頼で三陸を廻っていますので、その辺も、と考えております。

そのために、その旅で光太郎が利用した三陸汽船の古文書を入手しました。大正15年(1926)ですから、光太郎が三陸を訪れた5年前に発行された、金子常光の手になる鳥瞰図をあしらった案内です。

ちなみにネットオークションに出品され、入札したのですが負けました。負けて「ちっ」と思っていたら、オークションではない、古書販売サイトに出品されているのを見つけ、オークションで負けた価格より安く手に入りました。捨てる神あれば拾う神あり、ですね(笑)。

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広げると全幅90㌢ほど。南は塩竃から、北は宮古までのリアス式海岸が描かれています。

女川近辺を拡大すると、こうです。

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裏面には汽船の利用案内や、各寄港地の説明などが書かれています。

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これは三陸汽船について調べている中で知ったのですが、月2便の東京芝浦港との往復便がありました。それについても記述があります。最近、光太郎は、これを利用したのではないかと考えるようになりました。

時事新報に連載された「三陸廻り」は、石巻から宮古までの行程が書かれていますが、東京から石巻までと、宮古を出て東京への足取りが書かれていません。これまで何となくそれぞれ陸路だったのでは考えていましたが、往復とも船で済んでしまえばその方が楽だったはずです。当時は陸路にしても新幹線などありませんでしたし。

光太郎が三陸を廻るという話を聞いた、花巻の宮沢賢治は、花巻に会いに来てくれることを熱望していたそうですが、それは果たされませんでした。それも、月2便しかなかった船の便の都合、と考えれば、納得が行きます。

確証はありませんが、今後、そのあたりについて書いた書簡などが見つかれば面白いな、と思っております。


さて、女川光太郎祭、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あなたはまだゐる其処にゐる あなたは万物となつて私に満ちる  私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

詩「亡き人に」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

翌年に書かれた散文「智恵子の半生」にも、同様の記述があります。

或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。

この境地に至るまでの苦しみや辛さは想像するに余りあります。そして、この境地に達さなければやっていけなかったであろうということも。

ともに東北の、光太郎智恵子に関わる地域を取り上げるテレビ番組の放映情報です。

まずは、智恵子の故郷、福島二本松の「ほんとの空」の下に聳える安達太良山関連。

実践! にっぽん百名山 「安達太良山」

NHKBS1 2017年7月29日(土)  17時00分~17時30分

福島を代表する名峰・安達太良山(標高1700m)を行く1泊2日の山旅。山麓に広がる新緑の樹林帯、春の訪れを告げる花々、ダイナミックな噴火口など登るごとに景色が変わる登山を楽しむ。ヤマ塾は、長く歩き続けるテクニックを紹介する。脚の運び方から、ペース配分、脚の疲労を軽減するためのグッズなど、脚力に自信のない人でも安心して山を登るためのノウハウを解説する。

司会 工藤夕貴 萩原浩司   語り 鈴木麻里子   出演 佐藤哲朗 金子貴俊

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今年4月に2回オンエアされたものの、再々放送です。

本格的な登山ルートを紹介する番組ですが、冒頭近くで「智恵子抄」中(「あどけない話」「樹下の二人」)で謳われた山である旨の解説も為されています。

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続いて、昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎が立ち寄った宮城県女川町から。

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 佐々木里子さん」

NHK総合1 2017年8月1日(火)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の佐々木里子さんは、津波で両親を亡くし実家の旅館も失った。旅館のあった場所は津波の危険区域に入っていたため建築規制がかかっていたが、移動可能なトレーラーハウスを使い旅館を再開した。

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007毎年8月9日に開催されている女川光太郎祭の折に、よく泊めていただいている宿泊施設・EL FARO(エル ファロ)さんを経営されている佐々木里子さんが取り上げられます。

佐々木さん、震災前は、ご両親に女川と共にあった「奈々美や旅館」をなさっていましたが、ご両親も旅館も津波で流されてしまいました。震災後、工事関係の皆さんやボランティアの方々などのために、同じように流失した旅館経営者の方々と手を組み、「建造物」だと建設の認可が下りないため、可動式のトレーラーハウスとして、震災の翌年にEL FARO(エル ファロ)さんを立ち上げられました。

その後、JR石巻線の女川駅が復旧、新たな市街地が駅付近に建設されると、EL FARO(エル ファロ)さんのあった清水地区はそちらへの利便性が良くなく、そこで、可動式である利点を生かし、駅前に移転することになったそうです。リニューアルオープンは来月とのこと。

番組では、そのあたりの内容となるでしょう。ちなみに「あの日 わたしは~証言記録」では、一昨年にはやはり女川町から、かつて建てられていた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関する「証言」も取り上げて下さいました。

で、女川光太郎祭。今年は第26回となり、やはり8月9日に開催されます。詳細は明日、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一日一万三千五百息 かくの如きもの今此所に存在して えいえいとして何ごとか為す。
詩「肉体」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

活動状況にもよりますが、人間の呼吸は1分間に15回くらいだそうです。すると、15×60で、1時間に900回、さらに24倍して21,600回の呼吸をしているという計算になります。ところが、睡眠中は呼吸の回数も激減するというので、「一日一万三千五百息」というのは妥当な数字なのでしょう。

話は変わりますが、全国のほとんどの小中高校等はもう夏休みに入ったことと思われます。受験生の担任の先生などは、休み前のHR、学年集会などで、「夏休み40日=960時間=57,600分=3,456,000秒、無駄にするな!」などと喝を入れることもあるようです。

それもその通りでしょうが、分秒でなく、呼吸回数で一日を捉え、何を為すかと考えるあたり、光太郎のおもしろさですね。「一日一万三千五百息」というのは、鍼灸の書物などに使われている語だそうです。

手元に届きました雑誌2冊をご紹介します。

まず、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』8月号。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は評論「生きた言葉」(昭和4年=1929)から言葉が取り上げられています。

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「詩は無限なものだから何処からでも生れる。」にはじまり、「人間の在る所詩は常に澎湃(ほうはい)する。」で結ばれています。路傍の瓦礫の中にも「詩」はあるとし、「生きた言葉」をつかむ悦びが語られています。

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定価762円+税です。


もう一冊。JAF(ジャパン・オートモビル・フェデレーション=日本自動車連盟)さんの会員向け月刊情報誌『JAF Mate』。当方、会員ですので、毎月届いています。

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今月号の中で、「アートのある町 青森県十和田市、七戸町」という項が10ページ。

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十和田市現代美術館さん、星野リゾート奥入瀬渓流ホテルさんなどが大きく取り上げられていますが、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、光太郎の名入りで紹介して下さっています。ありがたや。

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このようにちらっとでも、光太郎智恵子に触れられ続ける状況が続いていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

見たまへ野山にあふれる別箇の気を 天の香料地の体臭 目まひのするほど激動し 耳しひるほどとどろきわたる 晩春初夏のアトムのひびきは もつと厖大な精緻な新規な 積極無道の美に満ちる

詩「初夏言志」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

日本の自然美を高らかにほめたたえています。ただ、智恵子を失った空虚感から、翼賛の方向に梶を切った光太郎、この詩も「もう一度東洋を溶鉱炉になげこまう」などと、軍部の侵略政策を肯んじる詩句もあり、残念です。

新刊です。

命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿

2017年6月30日 河出書房新社 中村圭子編 定価1,800円+税

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世の中を賑わせた恋愛事件が頻発した大正時代。心中・自殺も流行。平塚雷鳥、与謝野晶子、島崎藤村、有島武郎など。大人気のイラストレーター、マツオヒロミの書き下ろし挿絵収録!

人気イラストレーター・マツオヒロミの描き下ろしイラスト「大正恋愛幻想」3点掲載!

「マツオヒロミは、大正浪漫、昭和モダンの世界に影響を受けてイラストを作成しています。恋愛事件のヒロインとなった女性たちもまた、マツオヒロミの作品によって、現代に生きる女性たちの心の中でリメイクされ、新たな命を得ることができるでしょう。」(本文より)

ゴシップに人々の関心が集まるのは現代も同じですが、大正という時代は結婚に対する日本人の考え方が変化していた時代であり、恋愛事件は単なるゴシップである以上に、女性の生き方や結婚制度に問題を投げかけるものでもありました。恋のために世間の非難や嘲笑と闘い、最終的には幸福になった人もいれば、一方では自殺するなどの不幸な結末を迎えた人もいます。
平塚らいてうの運命の出会い、松井須磨子の後追い自殺、佐藤春夫の「魔女事件」、藤原義江をミラノに追った藤原あき、岡田嘉子が決行した雪の国境越えと銃殺された恋人等––世の中を賑わせた恋愛事件を多数収録!
大正時代のさまざまな恋のいきさつは、現代人にとっても大変興味深いものであり、そこから学ぶことは多いと思われます。

目次
第1章
 姦通罪による投獄―北原白秋×松下俊子・江口章子003
 恋愛なき心中未遂―平塚らいてう×森田草平
 運命の出会い―平塚らいてう×奥村博史
 歌姫の情熱―与謝野晶子×与謝野鉄幹
 姪との禁じられた恋―島崎藤村×島崎こま子

 後追い自殺の衝撃―松井須磨子×島村抱月
 サッフォーのごとく
   ―田村俊子×長沼智恵子・田村松魚・鈴木悦

第2章
 私は誘惑していません―原阿佐緒×石原純
 人妻との山荘情死事件―有島武郎×波多野秋子
 筑紫の女王、恋の出奔―白蓮×宮崎龍介
 「魔女事件」「妻譲渡事件」―佐藤春夫×谷崎千代
 追うときも別れるときも潔く―藤原あき×藤原義江
 友情の絆は、色恋の関係より強いか―澤モリノ×石井獏
 恋愛放浪―山田順子×竹久夢二・徳田秋聲
 「椿姫事件」そして「雪の国境越え」―岡田嘉子×竹内良一・杉本良吉

コラム
 大正初年代の恋愛観/「ナヲミズム」が自由恋愛を広める/大正後期の恋愛観

副題の通り、主に大正時代のさまざまな恋愛模様を紹介するというコンセプトの書籍です。智恵子がその創刊号の表紙を描いた雑誌『青鞜』メンバーにして、智恵子ともっとも親しかった田村俊子の項で、智恵子にも触れて下さっています。

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女性同士の同性愛が、当時、一種の流行でした。ズブズブ、ドロドロというわけではなかったようですが、光太郎と出会う前の智恵子と俊子の間にも、それに近い感情があったようです。多少の誇張があると思いますが、そのあたりは俊子の小説「わからない手紙」「悪寒」(大正元年=1912)、「女作者」(同2年=1913)、随筆「二三日」(明治45年=1912)などに描かれています。

その他、北原白秋、与謝野夫妻、平塚らいてう、有島武郎、佐藤春夫ら、光太郎智恵子と親しく交わった面々の「事件簿」も。マツオヒロミさんのイラストの他、当時の写真などもふんだんに使われ、ビジュアリックな作りになっています。

光太郎智恵子としての項はありません。そこに事件性があまりないためでしょう。扱われているのは、不倫やら駆け落ちやら三角関係やら心中やら、どれも現代であればワイドショーや週刊誌を賑わせるケースです。といって、野次馬根性的に読むのではなく、「恋愛」に命をかけた人々の人間ドラマとして読みたいものです。

編者の中村圭子さんが勤務されている文京区の弥生美術館さんで「「命短し恋せよ乙女」 ~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~」展も開催中。書籍で紹介されているすべての「事件」が扱われているのか不明ですが、とりあえずご紹介しておきます。

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【折々のことば・光太郎】

或は鏃のやうにするどく 或は愚かのやうにのどかである。

詩「芋銭先生景慕の詩」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

茨城牛久沼のほとりの草庵に暮らした日本画家・小川芋銭(うせん)を顕彰する詩の一節です。芋銭は前年に亡くなっています。芋銭のパトロンだった茨城取手の素封家・宮崎仁十郎(子息がのちに光太郎姻戚となる詩人・宮崎稔)を通し、この詩が作られました。おそらく、生前の芋銭と光太郎には直接の交流は無かったように思われます。

鏃(やじり)のような鋭さ、それと対照的な愚か者のようなのどかさ、両極を併せ持った芋銭へのオマージュであると同時に、自らもそうありたいという願望かもしれません。

0007/20(木)、上野の東京藝術大学美術館さんをあとに、渋谷に向かいました。目指すは西武百貨店渋谷店さん。現在こちらで、日本コカ・コーラ社さんのイベントが開催されています(今月いっぱい)。

館内数カ所でさまざまな展示や臨時ショップなどが設けられていますが、特にB館一階の特設会場では、「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」が開催されており、光太郎に関わる展示も為されています。

以前にもこのブログでご紹介しましたが、大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号に発表され、同3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に、「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされており(業界紙の記事にはそれ以前に紹介されています)、そのあたりを紹介して下さっています。

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パネル展示以外にも、詩集『道程』の復刻版、さらに毎年5月15日、花巻郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋(高村山荘)で開催されている「高村祭」のパンフレットも展示されていました。「みちのくコカ・コーラボトリング」さんの花巻工場が、高村山荘と同じ、同市太田地区にあるため、毎年、広告を出して下さっています。

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コカ・コーラといえば、先月30日、テレビ東京系列BSジャパンさんでオンエアの「武田鉄矢の昭和は輝いていた」で、コカ・コーラをとりあげ、やはり光太郎とコーラについて、40秒ほど触れて下さいました。

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日本でのコカ・コーラの本格的な販売開始から、今年でちょうど60年だそうで、こうした企画につながっています。世界に冠たるコカ・コーラさんと光太郎、今後ともウィンウィンの関係でお願いしたいところです(笑)。

渋谷西武さんの「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」会場から屋外に出ると、光太郎を敬愛していた彫刻家・佐藤忠良の作品が、道路を挟んで2体、向かい合っています。左は「牧羊神」、右は「マーメイド」。


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それぞれ文学碑を兼ねたもので、「マーメイド」の方は、光太郎の師・与謝野夫妻を顕彰するものです。台座に伊藤整の揮毫による撰文が。

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光太郎の名も刻まれていました。

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さらに、道玄坂を渋谷駅方面から上っていく途中を左に曲がった小道には「東京新詩社跡」の標柱も。

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この近辺に、与謝野夫妻の立ち上げた新詩社があったことにちなみます。当時は豊多摩郡渋谷村でした。100年以上前、光太郎もこの界隈を足繁く訪れていたわけです。

「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」の件、新詩社関連遺蹟の件、すべて、ロンドンの画像を下さった安藤仁隆氏からの追加情報です。ありがたや。当方、渋谷には足が向かず(電車の乗り換えではよく使いますが)、このあたりには疎いもので……。渋谷を歩いたのは、平成25年(2013)10月オンエアの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録で、NHK放送センターさんに行って以来でした。

この手以外にも、さまざまな情報のご提供、お待ちしております。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

それからひと時 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた

詩「レモン哀歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

前年10月に亡くなった智恵子の臨終を謳った絶唱です。ちなみにいまわの際に智恵子が「がりりと嚙ん」で「トパアズいろの香気」をたてたレモンは、サンキストのレモンだそうです。同社でも光太郎をアーカイブ的な企画の中で取り上げていただければ、と願っているのですが……。

彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。
(略)
その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。(散文「智恵子の半生」 昭和15年=1940) 

一昨日、上野、渋谷と都内2ヶ所を廻っておりました。2回に分けてレポートいたします。


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よくある単なる所蔵名品展ではなく、一ひねり、二ひねり、といった感じで、非常に興味深く拝見しました。

名品展的要素としてもかなりのもので、飛鳥時代に始まり、現代までビッグネームや逸品がずらり。さらに美術史上重要な位置づけのものも多く、「これって藝大さんで持っていたのか」「この人も藝大(東京美術学校)出身だったのか」と思わせられるものもけっこうありました。

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光太郎の作品は、明治35年(1902)、彫刻科の卒業制作として作られた「獅子吼」。経巻をうち捨て、腕まくりして憤然と立つ日蓮をモチーフにしています。これまでも各地の企画展等でよく展示されていたブロンズと、今回は石膏像が並べて展示されていました。当方、この石膏原型は初めて拝見しました。

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通常、塑像彫刻の場合、はじめに粘土で原型が作られます。そこから石膏で型を取り、さらに最終的にはそれをもとにブロンズなどで鋳造します。「獅子吼」は、2段階目の石膏の時点で、卒業制作として提出されました。此の時代、展覧会でも石膏原型の出品は珍しくありませんでした。

石膏とブロンズ、結局は同じなのですが、並べてみると、細かな点には相違が見られます。意識しての相違ではなく、自然とそうなってしまう、という部分です。どうしても、石膏からブロンズにうつす際、細かな部分は甘くなってしまうのです。全体にそうなのですが、それが如実に感じられたのが、足の指の部分。石膏では指の一本一本が細かく作られているのですが、ブロンズでは五本がつながって一体化してしまっているような……。もちろん五本指であることは見て取れますが、指と指の境目がゆるくなってしまっています。画像でお見せできないのが残念です。それから、台座に刻まれた「獅子吼」の文字なども、同様でした。となると、粘土から石膏にうつす際にも同じことが起きているような気もします。

このあたり、当方は実作はやらないので感覚
としてはよく分かりませんが、そうなることを考えて、最初の粘土での制作に当たるものなのでしょうか。専門の方のご意見を伺いたいものです。
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さらに言うなら、石膏原型が残っておらず、鋳造されたものから型を取ってさらに鋳造した像も存在します。そうなると、最初の粘土像から比べると、細かな部分はおそろしく変わってしまっているものもあるように思われます。実際、光太郎のブロンズでもそうなんだろうな、と思われるものが展示されている場合があります。どこそこの館のどれどれが、とは申しませんが……。

となると、鋳造されたものより石膏像の方が粘土原型に近いわけで、光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作「女」なども、重要文化財に指定されているのは実は石膏像です。

明治35年(1902)に、光太郎が卒業制作として提出したのも、今回展示されている石膏原型。そう考えると、感慨深いものがありました。

ちなみに光太郎は二席(第2位)でした。首席は水谷(みずのや)鉄也。のちに同校教授に就任しました。当会顧問・北川太一先生の御著書などには、「きれいな作風」とあり、どんなものだろうと思っていたのですが、水谷の卒業制作も出品されていました。題して「愛之泉」(右画像)。残念なことに石膏はもろいので、手などの末端部分に欠損が見られますが、たしかにきれいな作風だな、と思わせられるものでした。

しかし、これが「獅子吼」より完全に上か、というと、そうも思えません。まあ、このあたりは主観的な問題だと思いますが……。そこで浮かんだのが、最近はやりの「忖度」の語。彫刻科の主任教授は、光太郎の父・光雲だったわけで、その息子が首席では、たとえ技倆が伴っていたとしても「いかにも」ですね。そこで光太郎は二席、ということが考えられます。逆に、本来は五位、六位、もしかするとそれ以下の判定が二席、という「忖度」も無いとは言い切れませんが……。

余談になりますが、これら卒業制作が最004初に出展された「東京美術学校生徒成績品展覧会」の図録では、「獅子吼」の画像の下にローマ字で「Kotarou Takamura」とクレジットが入っており、どうもこの頃から、本名の「みつたろう」ではなく「こうたろう」と名乗り始めたと考えられます。

ところで、石膏原型というと、光太郎最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型も、同館に収蔵されています。当方、こちらも見たことがありません。昨年暮れにATV青森テレビさんで放映された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」」制作のお手伝いをさせていただいた際に、この石膏原型も取材してはどうかと提案したのですが、番組の尺の関係などで実現しませんでした。また藝大美術館さんで同じような企画展がある場合には、ぜひ出品していただきたいものです。

その他、光太郎・光雲と関わりの深い作家の作品も、かなり出品されていました。平櫛田中、白瀧幾之助、板谷波山、石川光明、米原雲海、藤田嗣治などなど。さらに過日もご紹介した、アーカイブ的な写真も興味深く拝見しました。

なかなか見応えのある企画展です。帙ふうのハードカバーがつけられた図録も立派なものです(1,800円)。来月6日までの会期。ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

一切の苦難は心にめざめ 一切の悲嘆は身うちにかへる 智恵子狂ひて既に六年 生活の試練鬢髪為に白い

詩「或る日の記」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

詩の冒頭部分では、大正2年(1913)、智恵子と一夏を過ごした上高地の風景を水墨画に描いた事が記されています。なぜこの時期に上高地の絵を、と、意外な感がします。詩が書かれた約1ヶ月後、智恵子は帰らぬ人となりました。もしかすると、その予感が既にあったのかも知れず、一種のレクイエムなのかもしれません。

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朗読系イベント情報です。
会 場 : ポルコポルコ 埼玉県越谷市千間台西3丁目1−17
時 間 : 11:00~14:30
料 金 : 第1部 3,800円(アイスティー、チーズケーキ付)  第2部 1,000円

プログラム

第1部 フルート×語りのおとばなライブ 「秘密のおとばな部屋」

 宇高杏那/フルート フルーティスト。作曲も手がける。 フルートオーケストラ「響き」コンサート・ミストレス。
 和久田み晴 /語り 語り手・声優。NHK Eテレ『すすめ!キッチン戦隊クックルン』バニラおばさん役、各種ナレーション・ボイスオーバー等出演。

秘密の隠れ家で、様々な本のページをめくれば人生の様々な機微に遭遇する…
その時きっと、その言葉と音は、あなたの人生にリンクしていく。声と音楽を通して本を味わう1時間!

「ミルクパン」和久田み晴 著
「すりごま」和久田み晴 著
「わが名はピーコ」(角川文庫刊『めろめろ』所収)  犬丸りん 著
「レモン哀歌」(『智恵子抄』所収)  高村光太郎  著
「100万回生きたねこ」(講談社刊)  佐野洋子 著
 物語作品には、すべて宇高杏那&靖人両氏によるオリジナル曲が作曲されています。


第2部 ブクブク交換会

テーマに合った本を持ち寄って、紹介しあって交換するイベント♪
自分では手にとらないであろう本との出会いは面白いもの。
小説に限らず、絵本、ハウツー本、漫画などなど、おススメのものであればなんでもOK!
自分の好きな本を紹介するとき、その人の人柄や本質的なものが現われるのだそう。
本を通して、人とのつながりができるのも、このイベントの面白いところ!
1部から引き続き、おとばなの和久田と宇高も参加♪

※お好きなテーマの本をお持ちください。
※1人2冊くらいお持ちいただくと楽しいです。
※本は新品でも中古でも大丈夫です。
※本は交換してしまうので、持ってきた本は原則手元には戻りません。
 
《今回のテーマ》
 ・知らなかったことを知れた本  ・勇気づけられた本  ・夏休みを思い出す本

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ユニット「おとばな」さん。クラシックギターの宇高靖人氏も加わったフルメンバーで、昨年には「フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」という公演もなさり、やはり「レモン哀歌」を取り上げて下さいました。ありがたや。

その際は他に用事があって聴きに行けませんでしたが、今回もその前後、岩手に行っておりますので、聴きに行けません。残念です。

ご都合のつく方はぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

昔から此の島の住民は知つてゐる、 嵐のあとに天がもたらす あの玉のやうに美しい秋の日和を。
詩「日本の秋」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この項、『高村光太郎全集』の掲載順に言葉を拾っておりますので、季節外れとなることもしばしばです。関東は梅雨明けとなり、本格的な夏となりました。当方、光太郎ほどに夏に弱くはありませんが、さすがに35度を超える猛暑日は体にこたえます。「玉のやうに美しい秋の日和」が来ることをイメージしつつ、乗り切ろうと思っております。

光太郎終焉の地、東京都中野区からイベント情報です。

常設展示「日本の文豪 第7回 志賀直哉、北原白秋、高村光太郎」

期 日 : 平成29年7月29日(土)~11月23日(木)
会 場 : 中野区立中央図書館 東京都中野区中野二丁目9番7号
時 間 : 午前9時から午後9時
休館日 : 毎月第2月曜日(その日が国民の祝日の場合は直後の休日でない日)

中央図書館では、年間常設展示として『日本の文豪』を開催しています。手稿や色紙の複製をはじめとする図書館の所蔵資料を紹介いたします。皆さまのご来館をお待ちしています!

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一昨年から始まり、現在は、「第6回 直木三十五、芥川龍之介、斎藤茂吉」が開催中です。そちらの説明では、イラストレーター高松啓二氏による文豪の肖像が展示されているとのこと。昨年の展示でも、高松氏の作品が展示されたようです。

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光太郎を含む第7回もこの試みは続くのではないかと思われます。

ここ数年、ゲームアプリやアニメ、コミックやグッズなどで「文豪」が静かなブームです。こういった方面からのアプローチもありかな、と思います。


【折々のことば・光太郎】

意識の境から最後に振り返つて わたくしに縋る この妻をとりもどすすべが今は世に無い わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し 闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つになつた。

詩「山麓の二人」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

昭和8年(1933)、智恵子の心の病を癒すべく、福島不動湯温泉蔵王青根温泉などをめぐった湯治旅行の最初、裏磐梯を訪れた際の記憶を元に書かれた詩の終末部分です。前半部分には有名な「――わたしもうぢき駄目になる」のリフレインが効果的に使われています。

それまで一心同体たらんと目指していた光太郎智恵子夫妻。その一方が「駄目になる」ことは、もう一方も「駄目になる」ことにつながりはしないでしょうか。智恵子にとっての「駄目になる」は、夢幻界の住人となること。光太郎にとっての「駄目になる」は、孤高の芸術探求の姿勢を捨て、「二人をつつむ此の天地と一つにな」ること。そして、「此の天地」は、確実に戦時へと向かい、国民一人一人が泥沼の戦争へと駆り出されていく時期だったのです。

来週末、花巻高村光太郎記念会さん主催の市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のために花巻へ参ります。その際に同じ花巻の市立博物館さんで開催されている企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」も、光太郎がらみの資料(書作品や書簡)が展示されているため拝見する予定です。

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そういう話を花巻高村光太郎記念会さんにお伝えしたところ、回り回って、以前に市立博物館さんに勤務されていた方から、多田等観に触れた同館の刊行物をごっそり頂いてしまいました。恐縮です。

僧侶にして仏教学者、チベットに足を踏み入れ、光太郎同様、現花巻市の山あい(旧湯口村の円万寺観音堂)に疎開していた多田等観については、平成16年に同館が開館して以来、館の重要なテーマの一つとして、研究に取り組まれているとのこと。最初に担当されていた学芸員の方が平成23年(2011)に亡くなったあとは、専任を決めず館を上げて持ち回りで担当されてもいるそうです。

頂いた資料は、館の研究紀要、『花巻市博物館だより』、それから以前の企画展等の際に作成されたと思われる略年譜などのリーフレット。

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当方、光太郎と交流のあった頃の等観関係資料は以前にも読んでいましたが、等観という人物の全体像については寡聞の状態です。来週までにありがたく精読しようと思っております。

光太郎が初めて円万寺観音堂を訪れた際の日記から(それ以前に等観とは何度か会っています)。

翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。 観音堂にてチベツト将来の塑像千手観音を見る。彩色也。他に花巻人形の観音、馬頭観音、地蔵等あり。尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。 染瀧と称する霊泉にゆきてのむ。清冽。硅石の岩層中より流出す。 等観氏に「光太郎詩集」一部贈呈。 等観氏酒のむと程なく酔ふ。 午后三時半過辞去。 雨ふりくる。下まで等観氏送りくる。

これが昭和22年(1947)9月5日です。

同じ日の等観日記。

九時ころ六左エ門と高村光太郎氏 六左エ門孫男同行来訪。続いて佐藤元花中校長来る。堂宇から瀧へと順次案内する 馬頭観音の花巻人形かたを作ること、姥杉材を彫刻してくれること、姥杉を天然記念として保管名処たらしむるなど話ある 稗貫平野の展望には鑑賞の多くをめで庵に入りて台処 炉をことに気に入り終日そこに落付かれた。 六左 米三枡ツケモノ一重清酒四合ビン持参。鉄鉢米をたいて中食をとゞのふる。ドブ壱枡 ナス汁三ナベ作り勘のタクアン、と十年味噌がお煮となる。五時帰る 悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす。新刊高村光太郎詩集寄贈ある。

悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす」は、今回、博物館さんで展示されている団扇に、光太郎が「悠々無一物 満喫荒涼美」と揮毫したことを表します。光太郎の日記には記述がありません。この年発表された連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」という詩に、「今悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節があり、それを漢詩風にアレンジしたと推定されます。他にも東京神田で汁粉屋を営んでいた有賀剛という人物にも同じ短句の色紙揮毫を進呈したりもしています。

また、この際に光太郎が贈った、おそらく同年鎌倉書房刊、草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われる書籍も展示されているそうです。謹呈の識語署名などが書かれていることが推理され、興味を引かれています。

企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」は、8月20日(日)までの開催。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

すべて若くめづらしく 冒険の可能を約束し 知られざるものへの牽引 新しき経験への初一歩 既にあるものを超えて 未だあらざるものへの進展

詩「若葉」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

昨日ご紹介した『新女苑』が若い女性向け雑誌でしたが、この詩はずばり『青年』という雑誌に寄稿されました。上記の部分だけ読むと、未来ある若者達へのエールと読めます。

しかし、この部分の直前には「たちまち爆音をたてて森すれすれに/練習の偵察機が飛ぶ」という一節があり、2年後にいわゆる「予科練」に組み込まれる海軍の「偵察練習生」に向けたものであると知れます。

やがてこの若者達は続々と戦火に斃れ、光太郎はこの詩のようにそれを煽った自分を恥じ、戦後は花巻郊外旧太田村の山小屋で、蟄居生活を自ら選択するのです。

昨日のロンドンに続き、パリです。テルミン奏者の大西ようこさんが、フランス南部のエクス=アン=プロヴァンス、そしてパリでコンサートをなさり、それならぜひ光太郎ゆかりの地にいらして、写真を撮ってきてくださいと事前にお願いしておきました。

そして、無事帰国されたとメールを頂きました。以下、現地の画像を大西さんのブログから転載させていただきます。


まずは光太郎が住んだ下宿。光太郎が満を持してパリに移り住んだのは、明治41年(1908)6月のことでした。パリではモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエに住みました。

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画像右上に「17番地」を表すプレートが写っていますね。同じ建物にはロダンと交友のあった詩人リルケが住み、ロダン本人もここを訪ねています。また、隣の通りにはロマン・ロランも住んでいました。

光太郎はアトリエに近いアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール(Académie de la Grande Chaumière)に籍を置きましたが、それ以外に語学の習得のため、日本語と仏語の交換教授をしていた「ノルトリンゲル女史」の手引きでフランス近代詩を教わったそうです。ヴェルレーヌやボードレールの詩作態度にうたれ、のちの詩作の原点がここにもあります。

ちなみにこの「ノルトリンゲル女史」に関して005は、従来、バーナード・リーチの紹介で知り合ったという程度しか分かっていませんでしたが、ジャポニズム学会所属桂木紫穂氏の調査により、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストと親交のあった美術研究家・金属造形作家マリー・ノードリンガー(1876~1961)であることが判明しています。光太郎より7歳年上のマリーと光太郎、淡いロマンスもあったようです。

それ以外に、パリでの光太郎は、あちこち見物に歩いていました。帰国後の明治45年(1912)に発行された雑誌『旅行』に寄せた「曽遊紀念帖」という文章を数年前に見つけていたので、そのコピーを大西さんに渡しておきましたところ、そこに登場するほとんどの場所を廻って下さいました。

パンテオン(Panthéon de Paris)。18世紀後半にサント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にアレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・ユーゴー、ジャン=ジャック・ルソー、ヴォルテールらフランスの偉人たちを祀る霊廟となった建物です。かつてはここの前庭に、ロダンの「考える人」が設置されていました。現在はロダン美術館に移されています。光太郎が初めて見た「考える人」の実物でした。

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リュクサンブール公園内にあるメディシスの噴水(Fontaine de Medicis)。1624年の制作です。

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サンミツシエルの噴水。サンミッシェル通り(Saint-Michel)沿いはカルチェ・ラタン地区(Quartier Latin)と呼ばれている学生街。ソルボンヌ大学を中心に広がり、その昔、大学では ラテン語が使われていたことにより「ラテン語の地区」という意味に由来します。

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サント・シャペル教会 (Sainte chapelle)。「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂です。

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オペラ座(Théâtre National de l'Opéra, Paris)。フランスを代表するオペラ劇場で、1669年設立の王立音楽アカデミーが起源。その後たびたび名称変更、移転を繰り返しました。現在の壮麗な大歌劇場は1875年、ガルニエの設計で完成、ガルニエ宮ともよばれています。

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「曽遊紀念帖」にはこんな記述も。

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この写真の場所は、つい最近気がつきましたが、昭和61年(1986)、第30回連翹忌が開催されたカフェ、クロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas)でした。光太郎の下宿にも近く、画家のモネ、ルノワール、アングル、ピカソ、詩人のアポリネール、さらにはレーニンやトロツキーもここによく来たそうです。


大西さんのブログには、転用させていただいた以外にも、たくさんの画像と楽しいレポート。当方もますます行きたくなりました。さらに昨日ご紹介したロンドン、それからその前に光太郎が1年あまり居たニューヨーク、そして留学からの帰国直前の明治42年(1909)春に旅したスイスやイタリアの諸都市、ぜひとも廻ってみたいものです。いつのことになるやら……ですが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

たつた一度何かを新しく見てください あなたの心に美がのりうつると あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも この美はあなたの味方になります

詩「手紙に添へて」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

絶唱「レモン哀歌」をはじめ、後に光太郎詩文を数多く掲載してくれる、若い女性向けの雑誌『新女苑』への、確認できている限り初の寄稿です。暗い世相にも負けず、心に美を持つことの大切さを説いています。

最近、相次いで、訪欧された方々から、光太郎ゆかりの地の画像をいただきましたのでご紹介します。

まず、ロンドン。今年の連翹忌に初めてご参加下さった、千葉ご在住の安藤仁隆氏から。娘さんご夫婦がロンドンにお住まいだそうで、そちらに行かれた際に廻られたそうです。

光太郎は明治40年(1907)6月19日、1年あまりを過ごしたニューヨークを後に、大西洋を渡ってイギリスに向かいました。まだ航空旅客機は運用されてしておらず、利用したのはホワイトスターライン社の「「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)でした。ホワイトスターライン社は、この5年後に、かの有名な「タイタニック」を就航させます。「オーシャニック」は、そのタイタニックにつながる「スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような豪華大型客船」という画期的なコンセプトを初めて実現した船でした。クルーの何人かもかぶっています。

入港したサザンプトンからロンドンへ、ニューヨークで知り合い、先に渡英していた画家の白滝幾之助らの世話で、テムズ河畔パトニー地区の下宿に落ち着きます。

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安藤氏からいただいた(以下同じ)、テムズ川にかかるパトニー橋。

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その近くのカフェ。

光太郎が下宿していた建物が現存しているそうです。

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その後、移ったチェルシー地区の下宿。現在はインテリアのショールームになっているとのこと。ただ、往時のまま天井が高く、彫刻家のアトリエとしてうってつけだそうです。ここで白瀧幾之助と共同生活をしました。

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近くには、光太郎が学んだロンドン・スクール・オブ・アートの跡。3年前に廃校となり、今はマンションだそうです。ここで光太郎は、後に来日して陶芸家となるバーナード・リーチと知り合いました。

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ただ、当時のイギリスはパリと比べれば、芸術の先進性では遅れをとっており、スクール・オブ・アートではデッサンを学んだ程度で失望して退校、それなら英国人の文化や本当の生活を知ろうと、技芸学校ポリテクニックに移ります。それも現在はマンションに様変わりしているそうです。

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そして翌明治41年(1908)、留学の最終目的地と定めていたパリへと旅立ちます(もっとも、前年すでに下見を兼ねてパリにいた荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエに行ったりもしていました)。ちなみにこの年、ロンドンでは第4回オリンピックが開催されました。現代とは異なり、半年もの会期でした。

後年の回想から。

 私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。(『父との関係』 昭和29年=1954)

光太郎は保守的な一面も持っており、一面軽薄なアメリカ文明とは異なる、格式ある「英国」のライフスタイルは、敬愛すべきものだったようです。農商務省海外実業練習生の資格を得て義務づけられた報告書「英国ニ於ケル応用彫刻ニ就イテ」(明治41年=1908)などにも、それが読み取れます。この点、同じくロンドンに留学しながら、彼の地でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられた夏目漱石との相違は興味深いところです。


明日は、フランスへ行かれていたテルミン奏者の大西ようこさんによるパリの光太郎ゆかりの地訪問の様子からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

小人に詩無し ただあるは詩才のみ 君子に詩無し ただあるは明哲保身の言のみ 詩を培ふもの ただ聖と愚とあつて殆し

詩「詩について」 昭和12年(1937) 光太郎55歳

『論語』からのインスパイアですね。「小人」は『論語』のとおりの「小人」でしょう。しかし「君子」は真の意味の「君子」ではなく、アイロニーとしての「君子」でしょう。「誤解を招く表現であったなら撤回します」的な「明哲保身の言」をもてあそぶ、ある意味、賢い人々への痛烈な皮肉ですね。

真に詩をものするには、それらを突き抜けた神に近い「聖」までたどりつくか、それと真逆の「愚」に徹底するか、二者択一だ、というところでしょうか。晩年の光太郎はこの境地に至ったように思えますが、そうなるまでに、まだまだ長い苦闘、多大な犠牲が必要でした。

アートオークションでの光太郎の父・高村光雲作品出品情報です。

第546回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2017/08/04(金) 14:00~  2017/08/05(土) 12:00~

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光雲作品は木彫「翁舞」。光雲が好んで取り上げた題材の一つです。平成14年(2002)に三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回した「高村光雲とその時代展」にも木彫「翁舞」が2点、出品されました。どちらも今回のものとは別の作品で、共に昭和8年(1933)、光雲晩年の作です。

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おそらく今回のものも、そう離れていない時期の作ではなかろうかと推定できます。

003予想落札価格が80万円から130万円。もう少し行きそうな気もしますが、妥当な線といえばその通りでしょう。というのは、背部に「光雲刀」の刻銘という点です。

光雲は、全体をほぼ一人で仕上げた場合には、「髙邨光雲」と銘を入れることが多かったそうで、絶対とは言えませんが、そうなっていないものは工房作――基本的には弟子が作り、仕上げを光雲が行ったもの――と考えられます。ガレのガラス器などもそうですね。

ただ、だからといって贋作とか、質の良くないものということにはなりません。その辺で、80万から130万というのは、妥当な金額だというわけです。実際、この手のオークションで「髙邨光雲」銘が出ると、約10倍の予想落札価格がつきます。


懐に余裕のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おもむろに迫る未曾有の時 むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。 清らかに起たう。
詩「未曾有の時」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

やはり日中戦争を背景にしています。「未曾有」は「みぞゆう」ではありません(笑)。念のため。

のちにご紹介しますが、「○○の時」という詩が、この後も2篇作られます。太平洋戦争開戦直前には「必死の時」(発表は開戦直後)、終戦直前の花巻空襲を題材にした「非常の時」。大正年間には、ベルギーの詩人、ウォルト・ホイットマンが妻のマルト・マッサンとの愛の日々を謳った「明るい時」「午後の時」を翻訳していた光太郎だったのですが……。

新刊、といっても気づくのが遅れ、5ヶ月ほど経ってしまっていますが……。 

紀行とエッセーで読む 作家の山旅

2017年2月17日 山と渓谷社編刊 ヤマケイ文庫 定価930円+税

明治、大正、昭和の著名な文学者が山に登り、あるいは山を望み著したエッセー、紀行、詩歌を紹介するアンソロジー。だれもが知っている著名な文学者も山に憧れ、山に登り、作品を残していた。意外な作家の登山紀行やエッセーを集め、文学者の目に映った山と自然から、新たな山の魅力を探り、いままで紹介されることの少なかった山を愛した文学者の姿を紹介する。

目次
 小泉八雲 富士山(抄) 落合貞三郎訳000
 幸田露伴 穂高岳
 田山花袋 山水小記(抄
 河東碧梧桐 登山は冒険なり
 伊藤左千夫 信州数日(抄
 高浜虚子 富士登山
 河井酔茗 武甲山に登る
 島木赤彦 女子霧ヶ峰登山記
 窪田空穂 烏帽子岳の頂上
 与謝野晶子 高きヘ憧れる心
 正宗白鳥 登山趣味
 永井荷風 夕陽 附 富士眺望
 (『日和下駄』第十一)
 斎藤茂吉 蔵王山/故郷。瀬上。吾妻山
 志賀直哉 赤城にて或日
 高村光太郎 山/狂奔する牛/岩手山の肩
 竹久夢二 山の話
 飯田蛇笏 山岳と俳句
 若山牧水 或る旅と絵葉書001
 石川啄木 一握の砂より
 谷崎潤一郎 旅のいろいろ
 萩原朔太郎 山に登る/山頂
 折口信夫 古事記の空 古事記
 室生犀星 冠松次郎氏におくる詩
 宇野浩二 それからそれ 書斎山岳文断片
 芥川龍之介 槍ヶ岳紀行
 佐藤春夫 戸隠
 堀口大學 山腹の暁/富士山 この山
 水原秋桜子 残雪(抄
 結城哀草果 蔵王山ほか
 大佛次郎 山と私
 井伏鱒二 新宿(抄
 川端康成 神津牧場行(抄)
 尾崎一雄 岩壁
 三好達治 新雪遠望
 小林秀雄 エヴェレスト
 中島健蔵 美ヶ原 ・深田久彌に・
 草野心平 鬼色の夜のなかで
 林芙美子 戸隠山
 堀辰雄 雪斑(抄)
 加藤楸邨 秋の上高地
 臼井吉見 上高地の大将
 坂口安吾 日本の山と文学
 亀井勝一郎 八ガ岳登山記
 太宰治 富士に就いて
 津村信夫 戸隠姫/戸隠びと
 梅崎春生 八ガ岳に追いかえされる
 辻邦生 雲にうそぶく槍穂高
 北杜夫 山登りのこと
 解説 大森久雄


というわけで、光太郎作品は詩が三篇。

「山」(大正2年=1913)は、この年、智恵子との婚前旅行で1ヶ月滞在した上高地での感興、激情を謳ったもの。その12年後に書かれた「狂奔する牛」(同14年=1925)も、上高地旅行に題材を採っています。「岩手山の肩」は、戦後の花巻郊外太田村での作。昭和23年(1948)元日の『新岩手日報』紙面を飾りました。さらに約1ページを費やす光太郎のプロフィール欄には、随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から、上高地に関わる部分の一部が抜粋されています。

他に与謝野晶子、佐藤春夫、草野心平ら、光太郎と親しく交わった面々の作も収められています。

編集にも関わった大森久雄氏が、解説の中で曰く、「いきなり手前味噌の言い方で恐縮だが、この種の内容の本は、山の世界では初めてかもしれない。山の文章のアンソロジーはいろいろ刊行されているが、いずれも山の文人、というか、実際に活発に山登りをしているひとの書いた文章が主体で、いわゆる作家(小説家・評論家・劇作家・詩人・歌人・俳人など)の山のエッセーだけを集めるという試みのものは、地域を限ってのものを除けば見当たらない。

なるほど、そういうコンセプトか、と思いました。

ただ、「この種の内容の本は、山の世界では初めてかもしれない。」というところに違和感を覚え、書架から一冊の書籍を取り出しました。

同じ山と渓谷社さんから、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『岳(たけ)』。やはり光太郎作品(短歌12首)が掲載されているので、20年ほど前に購入したものです。

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これも同じようなコンセプトだったよな、と思いながら、久しぶりに開いてみました。すると、確かに光太郎ら文人の作品が多く採録されていますが、それと同程度に各方面の学者が書いたものが多く、また、バリバリの登山家の作品も含まれていました。また、美術家や造園家のものも。下記画像、クリックで拡大します。

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そういう意味では、「いわゆる作家(小説家・評論家・劇作家・詩人・歌人・俳人など)の山のエッセーだけを集めるという試みのもの」ではなかったかと、納得しました。それにしても、こちらの執筆陣も錚々たるメンバーです。

時折古書市場に出ています。併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

為して争はぬ事の出来る世は来ないか ああそれは遠い未来の文化の世だらう 人の世の波瀾は乗り切るのみだ 黄河の水もまだ幾度か干戈の影を映すがいい
詩「老耼、道を行く」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

「老耼」は春秋戦国時代の思想家・老子です。この詩は老子の独白スタイルで書かれています。「人の世の波瀾」、「干戈の影」、いずれも日中戦争を意識していることは言わずもがなです。

毎年開催されている「十和田湖湖水まつり」。光太郎最後の大作である「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖でのイベントです。

第52回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2016年7月15日(土)・16日(日)
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間 : 15日・16日 10:00~21:00 17日は花火予備日 クルージングのみ10:10~

十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
花火大会では遊覧船が運航し、日中はよさこい演舞やクラフト体験、湖畔散策ガイドなどのイベントが行われます。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい!

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例年通り、「乙女の像」のライトアップがなされます。当方、一度拝見しましたが、湖面に打ち上げられる花火をバックに幻想的な姿が呈されます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

険しさは人を浄め、 はげしさは人を高める。

詩「冬が来る」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

この言葉だけ読めば、確かにその通りですね。

しかし、詩の終末に「けさの新聞があの朔北の遠くから私をひつぱたく」とあり、この詩は11月の執筆ですので、日本軍の上海占領や、大本営の設置、中国国民政府の南京から重慶への遷都などが背景にあるようです。南京大虐殺は翌12月の出来事です。

『週刊朝日』さんに、「人生の晩餐」という連載があります。「著名人がその人生において最も記憶に残る食を紹介する連載」だそうで、週ごとに異なる著名人の方が担当されています。

現在販売中の今週号は、当会会友・渡辺えりさん。連翹忌に触れて下さっています。ありがたや。

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紹介されているのは、連翹忌会場として使わせていただいている、日比谷松本楼さんのカレーとショートケーキ。「このカレーライスとショートケーキは、彼(光太郎)と妻の智恵子がデートの時に好んで食べたそう」。うーん、二人がこちらで「氷菓(アイスクリームまたはかき氷)」を食べたというのは、詩「涙」(大正元年=1912)に書かれていますが、カレーとケーキは出てきません……。まあ、よしとしましょう。

それから、いつものように光太郎と交流があったお父様・渡辺正治氏のエピソードがご紹介されています。「毎年「もう二度と戦争を起こしてはならない」という父の願いを感じながら、しみじみと味わっています」。なるほど、という感じです。

ぜひ皆様も、連翹忌にご参加いただき、他の料理ともども、光太郎智恵子を偲びつつ召し上がって下さい。

ちなみに当方は司会進行のため、ほとんど料理には手がつけられません。それに気づいて下さる方が、こっそり司会者ブースへお皿に取り分けた料理を届けて下さいますが、それとて急いでかき込む、という感じです。今年はケーキも届きましたが、二口で食べました(笑)。

『週刊朝日』さんもぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

現実そのものは押し流れる渦巻だ。

詩「夢に神農となる」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和12年(1937)11月の作、翌年7月の雑誌『大熊座』に発表されました。

昭和12年というと、7月には盧溝橋事件、この詩の書かれた11月には日独伊三国防共協定の締結などがあり、「押し流れる渦巻」のように、戦時体制へと突き進んでいく時期でした。光太郎もどんどん大政翼賛の方向へ進んでいきます。

光太郎の母校・東京藝術大学大学美術館さんからの情報です。

東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!

期 日 : 第1期:2017年7月11日(火)~8月6日(日)
      第2期:2017年8月11日(金)~9月10日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 本館 展示室1、3、4 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 - 午後5時 7月11日(火)は午後6時まで開館
休館日 : 毎週月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日
料 金 : 一般 800円 (600円)  高校・大学生 500円 (400円)
       ( )内は20名以上の団体料金

東京藝術大学は今年、創立130周年を迎えます。これを記念し、大規模なコレクション展を開催します。
東京美術学校開設以来、積み重ねられてきた本学のコレクションは、国宝・重要文化財を含む日本美術の名品ばかりではなく、美術教育のための参考品として集められた、現在では希少性の高い品々や、歴代の教員および学生たちが遺した美術学校ならではの作品が多くあることが特徴となっています。
本展では、多様なテーマを設けて、すでに知られた名品だけでなく、これまで日の目を見ることの少なかった卒業制作などの作品、模写、石膏像や写真・資料類にもスポットをあてることによって、藝大コレクションの豊富さ、多様さ、奥深さをご紹介します。また、近年の研究成果を展示に反映させ、コレクションに新たな命を吹き込まれていくさまもご覧いただきます。
いったい何が飛び出すか、予測不可能な藝「大」コレクション展。どうぞご期待ください。

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関連行事

シンポジウム「藝大コレクションと美術教育」
 日時:7月11日(火)18:00~19:30(開場17:30)
 会場:東京藝術大学美術学部中央棟1階、第1講義室
 参加方法:直接会場へお越しください。(事前申込不要、先着180名)
 パネリスト:保科豊巳(本学理事)、日比野克彦(本学美術学部長)、
        秋元雄史(本学大学美術館館長)、
千住博(日本画家)、
        古田亮(本学大学美術館准教授)
パンドラトーク
 本学教員を中心とした多彩なゲストが、作品を解説・紹介します。
 7月14日(金)北郷悟(本学美術学部彫刻科教授)「ラグーザの彫刻作品について」
 7月22日(土)O JUN(本学美術学部絵画科教授)「私の自画像」
 8月26日(土)木島隆康(本学大学院美術研究科教授)「油絵の修復」
 9月2日(土)小山登美夫(ギャラリスト・明治大学国際日本学部特任准教授)
        「ギャラリストからみた藝大生」
 9月 9日(土)佐藤道信(本学美術学部芸術学科教授)「藝大の130年」
 9月10日(日)桂英史(本学大学院映像研究科教授)「映像作品の現在」
 集合場所:東京藝術大学大学美術館地下2階 展示室2
 開始時間:各回とも14:00(開場13:30)
 所要時間:1)~3)は約45分 4)~6)は約90分
 参加方法:直接地下2階展示室2へお越しください。(事前申込不要、先着100名)
 ※ただし当日の観覧券が必要です。
 ★各テーマ、所要時間は変更になる可能性がございます。

スペシャル・トーク 山口晃×古田亮 「ヘンな東京藝大」
 日時:8月19日(土)14:00~16:00(開場13:30)
 会場:東京藝術大学美術学部中央棟1階、第1講義室
 参加方法:当日13:00より、第1講義室前の受付にて整理券を配付します。先着170 名
 ※ただし、本展の観覧券(半券可)が必要です。


光太郎作品は、同校卒業制作の「獅子吼」(明治35年=1902)。ブロンズに鋳造されたものは、これまでも各地の企画展等でよく出ていましたが、今回は、「石膏原型一挙開陳」というコーナーで、鋳造前の石膏原型が展示されます。鋳造されたものも一緒に並ぶそうです。

光太郎が同校木彫科を卒業したのは明治35年(1902)7月(この後も研究科に残り、さらに同38年(1905)には西洋画科に再入学します)。卒業制作品の展覧会「東京美術学校生徒成績品展覧会」は、同校を会場に開催され、この際には今回展示される石膏原型が出品されています。ちなみに光太郎は第2位の成績でした。

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他に、創立130周年記念ということで、アーカイブ的なコーナーも設けられ、同校教授だった光太郎の父・光雲に関する展示もあります。

いずれもガラス乾板による展示で、「楠木正成像制作のための木型」、「高村光雲《松方正義像》制作のために撮影された本人の写真 」。

楠木正成像」は、皇居前広場に建っている銅像で、光雲が主任となり、美術学校総出で制作されました。その木型の完成記念に撮られた集合写真です。壮年期の光雲も写っています。

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「松方正義像」も光雲を主任として木型が作られました。こちらは何と、銅像ならぬ銀像として鋳造されています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。 わたくしをよぶ声をしきりにきくが、 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

詩「値(あ)ひがたき智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

それはそれで、ある意味、幸せだったのかも知れません……。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号第6号と、ほぼ毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」。光太郎が明治41年(1908)から翌年にかけ、3年余に及ぶ欧米留学の最後に滞在したパリとの関わりを述べられています。

パリ時代を回想して作られた詩文がかなり網羅されており、短い稿の中ですっきりまとまっています。連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」(昭和22年=1947)、随筆「遍歴の日」(同26年=1951)、長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、談話筆記「パリの祭」(明治42年=1909)、翌年のやはり談話筆記で「フランスから帰つて」、随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(同43年=1910)、同じく「よろこびの歌」(昭和14年=1939)、さらには光太郎の実弟・豊周の回想も引かれています。

また、巻末の「パリの思い出」でも光太郎に触れられている箇所がありました。

当方は未だパリには行けずにおります。いずれ光太郎の辿った道のり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてスイスとイタリアの諸都市を廻ろうとは考えておりますが、いつになることやら(笑)。

パリといえば、親しくさせていただいているテルミン奏者の大西ようこさんが、先週、フランスのエクス=アン=プロヴァンスでコンサートをなされ、パリにも廻るとのことで、ぜひ光太郎が住んでいたカンパーニュ・プルミエル通り17番地界隈に行ってみて下さいと、資料をお渡し、画像を撮ってきて下さいとお願いもしました。そろそろ帰国されると思いますので、期待しております。

過日は、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方から、ロンドンの光太郎ゆかりの場所を廻って来られたということで、多くの画像がメールで届きました。そちらも併せてご紹介しようと思っております。

ご期待下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。

詩「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

舞台は3年前、智恵子の母・センと、妹・セツの一家が移り住んでおり、それを頼って心を病んだ智恵子が半年ほど預けられた、千葉の九十九里浜です。「智恵子抄」中の絶唱の一つとして、広く人口に膾炙している詩ですね。

ところが、「智恵子抄」に収められてしまうとそれが見えないのですが、この年の雑誌『改造』に初出発表された段階では、「詩五篇」の総題で連作詩のような形を取っていました。他の四篇は、やはり「智恵子抄」に収められた「値(あ)ひがたき智恵子」(明日、ご紹介します)、一昨日と昨日ご紹介した「よしきり鮫」、「マント狒狒」、そして割愛しますが「象」。後三篇は連作詩「猛獣篇」に含まれるものです。

「人間商売さらりとやめ」た智恵子は、もはや「猛獣」に近いものと認識されていたのかもしれません。ただし、光太郎曰くの「猛獣」は、獰猛な獣ということではなく、妖怪やら鯰やら駝鳥やらを含み、人間界に箴言、警句を発する者として捉えられています。

とすると、智恵子の発する箴言や警句は、そこまで智恵子を追い込んだ光太郎に対して向けられていると言えるのではないでしょうか。それを受けて光太郎は、それまでの世間との交わりを極力経っての芸術三昧的な生き方から、積極的に世の人々と交わる方向に舵を切ります。その世の中がどんどん泥沼の戦時体制に入っていったのが、光太郎にとっての悲劇でした。

まずは『千葉日報』さんで、先週の記事です。

光太郎と房総、関わり紹介 八街市の市原善衛さん 30年前の冊子改訂

 八街市の市原善衛さん(67)が約30年前に刊行した冊子「高村光太郎と房総」の改訂版(B6判、全32ページ)を発刊した。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と房総の関わりをテーマにした同冊子について、光太郎と友人の文学者との交流など新たな内容を盛り込むとともに、サイズをコンパクトにした。
 元成田市職員の市原さんは、さまざまな文学者と房総とのゆかりを調べている研究家。同書は1986年に初版が発行され、光太郎が写生旅行で銚子を訪れている際、後に妻となる智恵子と再会したエピソードや、成田の開墾地に住んだ生涯の友となる歌人で小説家の水野葉舟を訪れたこと、九十九里で病気療養中の智恵子の見舞いに行ったことなどが紹介されている。
 改訂版では写真を入れ替えるとともに、葉舟と親しく交流した様子、智恵子に関する当時の新聞記事などを加筆した。市原さんは「光太郎と千葉が深い関係にあったことを知ってもらえれば」と話している。
 作成部数は150冊。国会図書館や成田市、八街市の図書館、学校などに配布する予定。問い合わせは市原さん。

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その他、先月後半からの新聞各紙で、光太郎智恵子に触れていただいた記事等をご紹介します。

『毎日新聞』さんで、6月20日(火)の「人生相談」。回答者は当会会友渡辺えりさんです。「老後はスッキリ暮らしたい」という相談に対し、戦時中から光太郎と交流のあったお父様を引き合いに回答されています。

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6月28日(水)の『中国新聞』さんの一面コラム「天風録」。光太郎の「道程」を枕に、将棋界の新星・藤井四段について。ただし、連勝記録がストップする前の掲載です。

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さらに昨日の『毎日新聞』さんの大阪版。時折この手の記事で取り上げられる御堂筋の彫刻群についてです。

御堂筋彫刻ストリート 人々見つめ銅像は何思う /大阪

 完成から80周年を迎えた大阪市の御堂筋。キタとミナミを結ぶ大動脈である一方、人体をモチーフとした彫刻を配するアート空間でもある。1991年、当時の西尾正也市長が寄付を呼びかけ、今では29点のブロンズ像が、地下鉄淀屋橋駅付近から心斎橋駅の間約2キロの歩道に並ぶ。
  ロダン、ルノワール、高村光太郎ら有名芸術家の作品も、全て企業や個人が寄贈した本物だ。一流の作品が無料で鑑賞できる。カメラを手に、イチョウ並木の合間に作品が点在する「なにわのシャンゼリゼ」を歩いた。
 
(1)「考える人」などで知られるオーギュスト・ロダンの「イヴ」。1883年作。
(2)詩人でもある高村光太郎の「みちのく」。妻・智恵子を表した作品という。1953年作。
(3)フランス印象派、オーギュスト・ルノワールの「ヴェールを持つヴィーナス」。1914年作。
(4)夜間ライトアップされる作品も多い。イタリア人画家で形而上絵画の創始者、ジョルジオ・デ・キリコの「ヘクテルとアンドロマケ」。1973年作。
(5)フェルナンド・ボテロの「踊り子」。大阪のおばちゃんのようにユーモラス。1981年作。ボテロは人間や動物をふくよかに表現した作品で知られる。
(6)アントワーヌ・ブールデルの「休息する女流彫刻家」(1906年作)。隣のベンチで休んでいた女性(24)は「御堂筋にこれほど彫刻があるとは。ゆっくり見てみたい」。
(7)イタリア現代具象彫刻の代表作家、エミリオ・グレコの「座る婦人像」。1980年作。「婦人」が足早に通り過ぎるサラリーマンをじっと見つめていた。
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 大阪市は2008年から、イチョウ並木が色づく10~11月に「御堂筋彫刻ガイドツアー」を開催。今年も開かれる予定だという。

写真が入っているのだと思いますが、ネット上では見られませんでした。


時々書いていますが、「高村光太郎? 知らないなあ」、「智恵子? 誰、それ?」ということにならないようにしていきたいものです。そのためにも各メディアさんで、常に光太郎智恵子を取り上げていただきたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

決して馴れず、 決して脱落せず、 此世に絶えず目をみはつて 彼はただ怒る、怒る。
詩「マント狒狒」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

連作詩「猛獣篇」の最後の頃の作です。かつては矛盾に満ちた社会を糾弾し、ばっさりと斬りつける快刀だった同詩篇でしたが、世の中はどんどん軍国主義の方向に進んでいきます。前年には二・二六事件、日独防共協定の締結、スペイン内戦、西安事件。この詩の書かれた前日には盧溝橋事件が起こり、泥沼の日中戦争へと発展していきます。

檻の中で怒り狂うマント狒々は、その怒りもむなしく、怒るために怒っているような状態で、上記のような世の中を止められない光太郎自身の内面が仮託されていることは言うまでもありません。

昨日は、岩手花巻高村光太郎記念会さんのスタッフ氏と一緒に、都内2ヶ所を廻っておりました。

まずは神保町の東京古書会館さんで開催されていた、明治古典会七夕古書大入札会2017の一般下見展観。毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)で、出品物全点を手に取って見ることができるという催しです。

記念会さんでは、特に光太郎が花巻町および郊外旧太田村で暮らしていた昭和20年代の資料でいいものがあれば購入されていて、毎年いらしています。当方も目新しい資料が出ていれば見に行くことにしています。

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今年は出品目録で「高村光太郎○○」という形で登録されていたものは、5点。こちらには目新しいものはありませんでした。

しかし、それ以外に光太郎メインではなく、他の作家などのものとの一括出品的なもので、新たな発見がありました。

「更科源蔵「犀」“種薯”紀念号 草稿及書簡・ハガキ類綴」。北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩作を続けた詩人・更科源蔵の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿、それに関わる書簡などでした。

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光太郎の「更科源蔵詩集「種薯」感想」の草稿も含まれており、画像で見ると原稿用紙欄外に書き込みがあって気になっていたのですが、これがビンゴでした。その感想が載った雑誌『犀』の編集に当たっていた詩人の真壁仁へのメッセージで、〆切に遅れた詫びと、自分の思いの丈をうまく表せなかったけれど、ともかく送る、的な内容がしたためられていました。

雑誌『犀』の該当号は、奥付によると昭和6年(1931)2月1日発行。原稿用紙の書き込みに「今年中にお届けしようと」の一言があり、前年末に送られたと推定できます。さらに『高村光太郎全集』の書簡の巻と照らし合わせてみると、昭和5年(1930)12月17日には、著者の更科源蔵に宛てた『種薯』を贈られた礼と、「“犀”から感想を求められました」の文言のある葉書(書簡№236・これも一緒に出品されていました)。同月19日、真壁に宛てた葉書(同238)では「いろいろの事で感想を送る事が遅れてゐます」、明けて1月2日には「大変遅れて失敬しましたが、二三日前にお送りしました故、もう届いてゐる事と思ひます」(同240)。これにより、暮れも押し詰まった頃に発送したことがわかります。通常、光太郎は原稿を送る際には他に便箋等で添え状をつけることが多かったのですが、よほど急いだのでしょう。原稿用紙欄外にそうした内容を書き込んでいたというわけです。

さらに、「文学者葉書集 七九枚」。宛先も差出人もまちまちで、おそらく個人のコレクター的な方がこつこつ集めたものと推定できました。光太郎の葉書は一通含まれていて、消印は昭和15年(1940)9月、宛先は今も続く創元社さんでした。内容的には、やはり原稿執筆依頼に関するもので、承諾の返答。調べてみましたところ、この年の11月発行の雑誌『創元』に「間違のこと」という散文が載っており、おそらくこれに関するものでしょう。

こういうパズルのピースがぴたっとくっつくようなところが、非常に面白いところです。

年によっては、目録掲載品以外の出品物がある年があったのですが、今年はそれはなし。結局、花巻では今年の入札はなしとのことでした。


続いて、大井町に向かいました。ジオラマ作家の石井彰英氏の工房です。少し前に、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成された石井氏に、花巻高村光太郎記念館での企画展用に昔の花巻周辺のジオラマを作成していただいてはどうかと思いつき、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。そこで昨日、花巻の記念会さんと同道、お伺いした次第です。


大井町のジオラマはもはや廃棄されてしまったとのことですが、最初に作られたという北鎌倉のジオラマを見せていただきました。

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石井氏曰く「牧歌的」ということですが、非常に暖かみのある作で、街に流れる有線放送、車のエンジン音、電車の警笛、そして人々の他愛ない会話や息づかいまで聞こえてきそうな気がいたしました。

3人で2時間ほど、こんな感じで、という打ち合わせをしました。ただ、花巻では記念館が花巻市立となりましたので、行政の承認が必要です。予算等の問題、企画展示終了後の扱いなども絡み、そこはこれから記念会さんで交渉ということになります。幸い、石井氏が商売っ気抜き、原材料費のみで結構とおっしゃって下さり、実現の方向でいけそうな感じではあります。

ぜひとも実現してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

くひちぎる事の快さを知るものは、 君の不思議な魅力ある隠れた口に 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる。

詩「よしきり鮫」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和6年(1931)、夏、新聞『時事005新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。謳われているのは女川港に水揚げされた鮫。

女川町では、光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。そのうちの1基が「よしきり鮫」詩碑でしたが、平成23年(2011)の東日本大震災の大津波で流失してしまいました。当会顧問・北川太一先生曰く「鮫だけに、海へ帰ったのでしょう」。そして、碑の建設に奔走された、女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏も……。


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今年も光太郎が三陸に旅立った日(8月9日)に、女川光太郎祭が開催されます。詳細はまたのちほど。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村在住時に、隣村でやはり疎開生活を送っていた僧侶にしてチベット仏教学者・多田等観。お互いの住まいを行き来するなど、光太郎とも浅からぬ交流がありました。

その多田等観に関する企画展が、花巻市博物館さんで開催中。光太郎がらみの出品物も展示されているとのことです。 

没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
場 所 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで 期間中無休
料 金 : 小・中学生150円(100円) 高校・学生250円(200円) 一般350円(300円)
         ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 無休

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展示構成 :
1.西域文化ー大谷探検隊と等観
 仏教伝播のルートの解明を目指して派遣された、学術調査隊「大谷探検隊」。中央アジアから文化財を蒐集し、日本に持ち帰った探検隊の功績を、実物資料やパネルで紹介します。
2.数奇な運命ーチベットへのみちのり
 大谷光瑞の命を受け、チベットへ入蔵するに至った等観。その経緯や、一緒に同行した人物も併せて紹介します。
3.等観が見たチベット
 チベット請来の仏教関係資料や、チベットでの僧侶の服装、日常道具、ダライ・ラマ13世との交流を紹介します。
4.釈迦牟尼世尊絵伝とチベット仏教美術
 ダライ・ラマ13世の遺言によって、多田等観のもとに送られてきた世界的にも類例の少ない貴重な資料や仏像、タンカ等を紹介し、日本仏教とチベット仏教との違いを紹介ます。
5.世界的なチベット学者
 チベット大蔵経の研究を行い、世界的なチベット学者として活躍し、日本学士院賞受賞、勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた等観。経典や目録等を紹介します。
6.等観の交流
 多田等観が花巻の人々と交流するようになった経緯や、円万寺観音堂とのつながり等について紹介します。
 
おそらく「6.等観の交流」のコーナーに、光太郎が等観に贈ったうちわ、詩集、葉書の3点が展示されているとのことでした。

うちわは画像では見たことがありますが、現物は未見。「悠々無一物満喫荒涼美」と揮毫されています。

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詩集はおそらく昭和22年(1947)、鎌倉書房刊・草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われますが、詳細は不明です。等観に宛てた葉書は『高村光太郎全集』等に収録されておらず、非常に興味を引かれております。

月末に昨日ご紹介した高村光太郎記念館夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のため、花巻に行きますので、その際に見てこようと思っております。

関連行事がいろいろとあります。

関連行事

・特別展示 宮沢賢治直筆原稿「雁の童子」展示
  平成29年8月1日(火曜日)から8月8日(火曜日)まで 
  上記期間以外の展示会期間中は複製品を展示しています。

・記念講演会
  日時:7月22日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「大陸から花巻へ」多田等観をめぐる人々
  講師:高本康子氏(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター協同研究員)
  参加料:無料

・郷土芸能特別演舞
  日時:8月20日(日曜日)午後1時30分から午後3時まで
  出演:岩手県指定無形民俗文化財:円万寺神楽(湯口地区)
  演目:狂言「狐とり」、権現舞
  鑑賞料:無料

・館長講話
  日時:8月5日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「西域・多田等観と宮沢賢治」
  講師:花巻市博物館長:高橋信雄
  参加料:無料

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

身うちあたらしく力満つる時 かの大空をみれば 限りなく深きもの我を待つ
詩「わが大空」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

永らく発表誌不明でしたが、この年に帝国書院から発行された、師範学校・高等女学校・実業女学校用の音楽教科書『音楽 五』に合唱曲楽譜として掲載されているのを確認しました。作曲は松本民之助。坂本龍一氏の師に当たります。

光太郎の手元に残された詩稿には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」のメモ書きがあります。最初から歌曲の歌詞として作曲を前提に作られた、初の作品です。

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光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座です。

まだ先の話ですが、申し込みの〆切がありますのでご紹介してしまいます。

高村光太郎記念館 夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」

期  日 : 2017年7月29日(土)
時  間 : 午後7時から8時30分まで
場  所 : 高村山荘周辺 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
対  象 : 花巻市内に在住または市内に在学する小・中学生とその保護者
定  員 : 10組20人  定員を超えて申し込みがあった場合には抽選となります。
申し込み : 花巻市生涯学習課 0198-24-2111(内線418) 7月18日(火)〆切
料  金 : 1組400円(教材費、保険料)

高村光太郎は、山や海などの眺めやさまざまな動植物を詩に詠み、大自然を愛した詩人でした。大自然の一部である月や星の美しさ、魅力についても若いころから書き残しています。
旧太田村山口に移り住んでからの光太郎の世界を自然豊かな里山で月や星の観察をしながら感じます。

講   師 : 天文サークル星の喫茶室 伊藤修氏・根本善照氏
         高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 

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というわけで、講師を仰せつかりました。メインの天文の話は天文サークル星の喫茶室のお二方に任せ、当方は光太郎と天体について、簡単にお話しさせていただきます。

旧太田村に移り住んだ昭和20年(1945)からしばらく、光太郎は詳細に日記をつけていました。その中で、月に関する話――イラスト入りでどんな形だったとか、何時頃月の出だったとか――や、オリオン座、サソリ座、北斗七星などの目立つ星座、火星や金星などに関しての記述がたくさん見られます。今でもおそらくそうですが、旧太田村は夜間の明るい灯火がほとんどなく、夜空の観察にはもってこいだったのでしょう。

昭和22年(1947)には、姻戚の詩人・宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』と『星座早見表』を購入して送ってくれるよう頼んでいます。日記以外にも、若い頃からの詩文に、月や星に関する内容がけっこうあったり、飼っていたの名前を星の名前にしていたりもしています。光太郎は天体についてきちんと体系的に学んだというわけではなさそうですが、山川草木禽獣虫魚を愛した光太郎ですので、そうした自然志向の一環でしょう。そのあたりの話を、と考えています。

講座当日、星の観察は、今春、新たにウッドデッキを新設した智恵子展望台(高村山荘裏手の高台)から、当方の講話は、展望台下の旧高村記念館で行います。晴れるといいのですが、どうなりますことやら……究極の雨男・光太郎もこの日は遠慮して欲しいと思います(笑)。

対象は花巻市内の小・中学生とその保護者ということですが、集まっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

あの天のやうに行動する。 これがそもそも第一課だ。 えらい人や名高い人にならうとは決してするな。 持つて生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。 それが自然と此の世の役に立つ。

詩「少年に与ふ」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

星を包摂する「天」の語も、光太郎は好んで使いました。こせこせしない人間的なスケールの大きさにもつながりますね。

先日、主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きましたが、その中で、釧路で発行されている文芸同人誌『河太郎』第43号が紹介されていました。光太郎に触れる論考が掲載されているとのことで、関係先(web上にアップロード作業をされている同誌サポーターの奈良久氏)に連絡をとったところ、無料で頂いてしまいました。恐縮です。

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光太郎に触れる論考は、『釧路新聞』記者の横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』 『 北緯五十度 』 『 大熊座 』」。

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昭和初期に北海道で発行されていた詩誌 『至上律』、『北緯五十度』、『大熊座』に関するもので、それぞれ弟子屈で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。

このうち、『至上律』は光太郎の命名。他に発表したものからの転載が多いのですが、ヴェルハーレンの訳詩などを多数寄稿しています。この雑誌は戦後まで続き、隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村のスケッチなども寄せました。

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『大熊座』は、昭和13年の刊行。一号で終わってしまいましたが、詩「夢に神農となる」、「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告を寄せています。

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『北緯五十度』には光太郎の寄稿は確認できていません。

これら三誌をめぐり、更科と光太郎以外にも、さまざまな人物が関わっています。伊藤整、尾崎喜八、猪狩満直、草野心平、真壁仁、森川勇作……いずれも光太郎と因縁浅からぬ面々です。それらの織りなす人間模様について詳しく述べられ、興味深く拝読致しました。

さらに昨日ご紹介しましたが、今年の明治古典会七夕古書大入札会に、光太郎のものを含む、更科の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿類が出品されており、奇縁を感じました。

先述の通り、web上にアップロードされています。是非お読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

――原始、 ――還元、 ――岩石への郷愁、 ――燃える火の素朴性。

詩「荻原守衛」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

亡き友を偲ぶ詩です。守衛が(そして自らも)目指した彫刻のあるべき姿が端的に表されています。

この年刊行された相馬黒光による守衛回想、『黙移』に触発されての作と思われます。現在、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催中の信州安曇野碌山美術館さんに、この詩を刻んだ詩碑が建てられています。

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毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。先週、出品目録が届きました。ネット上でも見られるようになっています。

毎年、光太郎関連も貴重な出品物があります。目録では作者ごとに並べてあり、光太郎メインは「文学」の№102~106。もの自体はいいものが多いのですが、以前から都内の古書店さんが在庫として持っていたものばかりで、目新しいものはありませんでした。昨年と同じ出品物も含まれています。

№102の「高村光太郎詩稿 三枚」。大正15年(1926)の第二期『明星』に発表された「滑稽詩」です。

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№103で「高村光太郎詩稿額 一面」。昭和15年(1940)、『文芸』が初出の詩「へんな貧」です。

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№104は「高村光太郎草稿 三枚」。昭和18年(1943)に刊行された木村直祐、宮崎稔共編詩集「再起の旗」の序文です。

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№105、「高村光太郎書簡 一通」。これも以前から都内の古書店のサイトに在庫として掲載されていましたが、逆の意味で興味を引かれています。というのは、全く同じ文面の葉書が別に存在するのです。そして、こちらはどうも光太郎の筆跡とは異なっています。そのわりには封筒もついており、どういうことだろうと不思議に思います。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観がありますので、その際に確認してみようと思っています。

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№106が「高村光太郎を巡る草野心平・尾崎喜八書簡葉書」。詩人志望の青年に、断念するよう忠告する内容の光太郎書簡が二通。画像上半分は、詩集を出版したいので序文を書いてくれ、という求めに対し、断りの書簡と共に別便で送られてきた詩稿を返送した際の包装と鉄道荷札です。尾崎喜八、草野心平からの書簡も附いています。

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これ以外に、光太郎メインではない出品物で、光太郎のものも含まれているものがあり、かえってこちらに興味を引かれています。

№347に「更科源蔵「犀」“種薯”紀念号 草稿及書簡・ハガキ類綴」。北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩作を続けた詩人・更科源蔵の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿など。光太郎の「更科源蔵詩集「種薯」感想」の草稿も含まれています。これは実物を見たことがなく、また、画像を見ると原稿用紙欄外にいろいろ書き込みがあり、非常に興味深いものです。

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北海道の方では、新たな文学館の建設計画があり、そのあたりに収蔵されれば、と思っています。

さらに№346で「文学者葉書集 七九枚」。光太郎のものも含まれています。『高村光太郎全集』等未収録のものであってほしいと思っております。

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№338には「ARS 六冊」。大正4年(1915)のもので、6冊すべてに光太郎訳の「ロダンの言葉」が掲載されています。

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他にも光太郎に関わる出品物がありそうな気配です。

出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月7日(金)午前10時〜午後6時、7月8日(土)午前10時〜午後4時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さん。別件の用事もあり、当方は8日に行って参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】
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幽暗の水底(みなぞこ)にふかく沈んで 三十六鱗にひびく苛烈の磁気嵐に耐へ、 一切を感じて静かに息する鯉を彫る。 波をうてば瀧をも跳ぶし、 雲にのれば龍と化する、 あの鯉の静まり返つた幽暗の烈気を彫る。

詩「鯉を彫る」より
 昭和11年(1936) 光太郎54

木彫「鯉」は、新潟の歌人・松木喜之七の依頼で彫り始めましたが、結局、納得の行く作が出来ず、断念しました。光太郎としてもかなり力を入れて取り組んでいて、この詩からもそれがうかがえます。

複数点完成させた「鯰」と異なり、鱗の処理がどうしてもうまくいかなかったとのこと。

土門拳による制作風景の写真が残っています。

当会の祖、草野心平が愛し、心平歿後は心平を偲ぶ催しとなったイベントです。

第52回天山祭

期 日 : 2017年7月8日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
      雨天時 川内村村民体育センター 福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 11:30~14:00
参加費 : 500円

福島県 双葉郡川内村 大字上川内字小山平15                    天山文庫の前庭で毎年開催されている天山祭りは、心平先生が好きであった祭りです。みんなが酒や肴を持ち寄り、時を忘れるほどに楽しんだ祭り。
いまでも心平先生の遺徳をしのび、酒や肴、山菜が振舞われるほか、詩の朗読や伝統芸能の披露などのイベントもあり、非常に文化的価値の高い祭りです。
昭和37年、村は仮称「心平文庫」の議案を決め、草野心平の友人、建築家山本勝巳に設計を委託しました。昭和41年7月、「天山文庫」と正式名称も決まり落成式が行われました。文庫には、1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成揮亳の「天山」の扁額や、版画家 棟方志功の書が掲げられています。この祭りは、故草野心平先生の遺徳をしのび、出会いと交流を図るお祭りで、各自が持ち寄った酒や肴、山菜料理を食ながら親睦と融和を深めるものです。国内外からの参加者も含めて、川内村の夏のイベントとして広く全国に知られています。

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会場の天山文庫は、名誉村民だった心平が蔵書3,000冊を村に寄贈、それを収めるために、村人が一木一草を持ち寄り、ボランティアで建設したものです。建設委員には、光太郎の実弟で、鋳金の人間国宝、心平と親しかった高村豊周も名を連ねていました。

東日本大震災以降は、復興祈願的な意味合いも加わり、遠方からの参加も多く、盛り上がっています。非公式ながら、夕方からは心平ファンの皆様が「かえる忌」会場ともなっている小松屋旅館さんで「二次会」を開き、こちらも盛り上がっています。

昨年は欠礼いたしましたが、その前まで3年間、参加させていただきました。
福島川内村・天山祭り。(平成25年=2013)

実は今年も別件で都内に出かけるため、参加できません。申し訳なく思っております。盛会となることを祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

詩に循ずる者能く詩を嗣ぎ、 詩を脱せる者能く詩を生む。 前者堕して滔々たる新様の月並みとなり、 後者陊(やぶ)れて磊々たる途上の瓦礫となる。
詩「詩の道」より 昭和10年(1935) 光太郎53

「循」は、訓読みでは「したがう」とする場合があり、「決まったルールに従う」といった意味です。いわゆる「大家」と目され、詩史の系譜に連なる人々を指すかと思われます。

「詩を脱せる者」は、そうした系譜からの鬼子のような、例えば宮沢賢治、そして草野心平、そして心平と近い位置にいて、光太郎とも親しく交わった更科源蔵、猪狩満直、尾形亀之助、黄瀛などなど。心平はともかく、賢治も早世し、他の詩人達もはっきり言えば無名のまま「途上の瓦礫」。ある意味、手厳しいですね。

しかし、光太郎自身は、この後、大政翼賛の方向に転身し、「堕して滔々たる新様の月並みとな」って行きます。

先週のニュースです。

まず『スポーツニッポン』さんから。

関ジャニ横山&丸山 芸術鑑賞はいかが!?

関ジャニ∞の横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京国立近代美術館で行われた「プレミアム“カルチャー”フライデー」イベントに出席した。

 プレミアムフライデーは政府などが推奨し、毎月末の金曜日に就業時間を短くしてプライベートを充実させる試み。関ジャニ∞がナビゲーターを務めている。今月は芸術鑑賞を提案しており、2人は同館所蔵の高村光太郎の「手」を鑑賞。横山は「敷居の高いイメージだったが、芸術作品を身近に感じた」と感激していた。

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『日刊スポーツ』さん。

横山裕「大人になった」丸山隆平の文化的活動に感激

 関ジャニ∞横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京・東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーのナビゲーターとして、文化を切り口に、月末の金曜日の活用を提案する「プレミアム“カルチャー”フライデー」のPRイベントに出席した。

 普段の文化との触れあいに横山は「最近、舞台をよく見ています。勉強にもなるし、非現実的な空気感を体感すると、いい刺激をうけます」。丸山も「ミュージカルをよく見に行っています。史実をテーマにしている作品だと当時の文化を知ることができるので、はまっています」と紹介した。また、絵を購入して鑑賞しているとも。丸山の絵の話に横山は「大人になったな」と感激していた。

 イベントでは、同美術館にある高村光太郎作の「手」が披露された。丸山が「手」のポーズをまねながら「やっぱり、人の人生っていうのは、そんなに簡単なものじゃないと、体で感じてこそ、それが人生」と作品にこめられた思いを推測。横山は「すごい浅はかですけど大丈夫ですか」と丸山を心配しながらも「作品に疎い方でも簡単な楽しみ方もあるんですね」と感心していた。

 一方、イベントには文化庁長官の宮田亮平氏も出席。宮田氏は「高村光太郎ですよね。これが出てくるとは思わなかった。こんな近くで見させてもらうなんて」と興奮気味。丸山が「今ずっと我慢してたんですね」と話しかけると、宮田氏は思わず「お前たちの話、終わらないかなと」と本音をポロリ。横山は「ものすごいテンション」とたじたじになっていた。

 同所では、7月19日以降の金曜、土曜は午後9時まで開館している。丸山は「夜遅くまで楽しめるなら、仕事終わりのデートで美術館に行くというのもいいんじゃないかな」とPR。最後は、横山が「頑張るだけでなく自分にご褒美をあげて、また頑張るというきっかけにプレミアムフライデーを使ってもらえたらいい。美術品を見てよりいっそう思った」と語った。


『スポーツ報知』さん。

関ジャニ∞横山&丸山、高村光太郎の「手」に興奮

 「関ジャニ∞」の横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京・竹橋の東京国立近代美術館で「プレミアム“カルチャー”フライデー」のPRイベントに出席した。プレミアムフライデーは「月末の金曜日は仕事を早く終えて豊か・幸せにすごす」というコンセプトで今年2月から経済産業省などが提唱。2人はナビゲーターを務める。

 この日は横山と丸山の間に手の形をした彫刻が至近距離で登場。横山と丸山が何も知らずに「男の手なのかな~」「筋張っているよね」などと論じていると、関係者が「高村光太郎の『手』です」と紹介。めったに近くで見られない美術品を目の当たりにして「おお、急にすごい手に見えてきた」(横山)、「帰って調べないと」(丸山)と急にテンションが上がっていた。


一般紙では『毎日新聞』さんの東京版。

美術館へ行こう 千代田でイベントPR /東京

 プレミアムフライデー推進協議会は30日、千代田区の東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーの活用方法として美術館巡りなどを提案するPRイベントを開催した。
 イベントには、プレミアムフライデーナビゲーターを務める関ジャニ∞の横山裕さん、丸山隆平さんが登場。同館の蔵屋美香企画課長は2人に、同館が所有する高村光太郎の彫刻「手」を例に「ポーズをまねてみることで作品が身近に感じられますよ」とアドバイスした。
 横山さんは「美術館は敷居が高かったが、プレミアムフライデーをきっかけに足を運びたい」。丸山さんは「仕事が終わってからデートに美術館に行くのもいいですね」などと語った。【遠山和彦】


テレビのニュースでも取り上げられていました。

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「プレミアムフライデー」自体は、頓珍漢な政府主導で国民の生活実態とかけ離れている、と批判の多い取り組みですが、美術館へ行こう、という呼びかけは否定されるものではありませんね。月末の金曜日に限らず、ですが。


光太郎の「手」、東京国立近代美術館さんで開催中の平成29年度第1回所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示中です。以前にも書きましたが、大正期の鋳造であると確認できている3点のうちの一つ。台座の木彫部分も光太郎の手になるもので、有島武郎の旧蔵品です。ぜひご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

主人は権威と俗情とを無視した。 主人は執拗な生活の復讐に抗した。 主人は黙つてやる事に慣れた。 主人はただ触目の美に生きた。 主人は何でも来いの図太い放下(はうげ)遊神の一手で通した。 主人は正直で可憐な妻を気違にした。

詩「ばけもの屋敷」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

大正期には、智恵子との愛の巣として高らかに「わが家(や)の屋根は高くそらを切り その下に窓が七つ 小さな出窓は朝日をうけて まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる」(「わが家」大正5年=1916)と謳われた、駒込林町のアトリエ。

長期にわたった介護の末、智恵子は南品川ゼームス坂病院に入院し、光太郎は一人暮らしです。疲れ切ってすさんだ光太郎の内面は、住居の外観、というか全体を包む空気感にも影響したようで、近所の子供達は「化け物屋敷」と呼んでいたとのことでした。

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信州安曇野、碌山美術館さんの夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を拝見して参りました。

光太郎関連以外の雑事で忙しいのと、高速道路の混雑を避けるため、一昨日の深夜に千葉の自宅兼事務所を出発、途中、塩尻の健康センターで入浴、仮眠。翌朝、碌山美術館さん開館時間に一番乗りいたしました。究極の雨男・光太郎に関わる企画展示ですので、予想通りに大雨でした(笑)。

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本来、撮影禁止ですが、関係者ということで許可を頂きまして、宣伝させていただきます。

昨夏、同館で開催された、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」は、「特別企画展」ということで、第1展示棟、杜江館も使っての展示でしたが、今回は第2展示棟のみ。図録等も発行されていません。それでもなかなかに充実していました。

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第2展示棟に入りますと、まず、よくある「ごあいさつ」。企画展としての趣旨が述べられています。

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 日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。
 これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。
 これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

背面の大きな壁には、年譜。今年が歿後100年となるロダンその人のものと、日本におけるロダン受容の歴史に関してまとめられています。

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会場内はパーテーションで二つに区切られており、奥の区画には光太郎、荻原守衛等の彫刻の実作が展示されています。

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光太郎のものは、すべてブロンズで、左から「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「園田孝吉像」(同4年=1915)、「手」(同7年=1918)、「腕」(同)。いずれも光太郎が『ロダンの言葉』編訳に取り組んでいた頃の作です。

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他に、ロダンに影響を受けた戸張孤雁、中原悌二郎の作も。

003そして、荻原守衛の「坑夫」の石膏。初めて見ました。ブロンズに鋳造されたものは、守衛代表作の「女」などとともに、本館である碌山館に展示されていますが、こちらは石膏です。守衛がフランスのアカデミー・ジュリアンで学んでいた明治41年(1908)の習作ですが、パリでそれを見せられた光太郎曰く、

この首はまるで自由製作のやうであつて、モデル習作じみたところがない。モデルは生徒仲間によく知られてゐるイタリヤ人の若者で、多分このポーズも教室の合議できめたもので、彼の勝手にきめたものではなからうが、教室の習作にありがちな、いぢけたところがまるでなく、のびのびと自由に製作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがはれたポーズといふ感じがまるでないのにまづ驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面(めん)やモドレや粘土の扱ひ方までそつくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求として強く確信を以て行はれてゐるので、そのロダンじみてゐることが苦にならなかつた。そしていかにも生き生きしてゐた。私も若い頃なので大に感動し、これを習作としてこはしてしまふのは実に惜しいから是非とも石膏にとるやうにと彼に極力すすめた。彼は近いうちに日本に帰るといふことだし、是非これは持つて帰るやうにとくり返し彼に語つた。実物大よりも少し大きいので厄介だらうが、必ずこの習作はこはさぬやうにとくどく念を押した。
(「荻原守衛―アトリエにて5―」 昭和29年=1954)

ということでした。


手前の区画には、ロダンその人の「鼻のつぶれた男」、そしてロダンの弟子、カミーユ・クローデルの「ロダン」。

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どちらも同館で所蔵しているそうですが、常設展示はされていなかったものです。

それを取り囲むように、各種の文献。

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光太郎の識語署名入り『ロダンの言葉』初版。

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光太郎が暗記するほど読んだというカミーユ・モークレール著のロダン評伝などの洋書。このあたりは、当会顧問・北川太一先生の蔵書です。

正続『ロダンの言葉』のさまざまな版。同館所蔵のものや、学芸員氏の私物も並んでいるそうです。新しめのマイナーなものは当方がお貸ししました。

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昭和4年(1929)に叢文閣から刊行された正続普及版がベストセラーとなり、舟越保武、柳原義達、佐藤忠良ら後進の彫刻家たちはこれを読んで彫刻の道を志しました。

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『白樺』などの「ロダンの言葉」初出掲載誌、光太郎以外のロダン紹介文献なども。

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右のブールデル著、関義訳『ロダン』(昭和18年=1943)は、光太郎の装幀。序文も光太郎が書いています。

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壁にはロダンの言葉の抜粋も。

前日の夜まで大わらわで準備に当たられたそうですが、なかなか充実の展示でした。

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隣接する第1展示棟には、『ロダンの言葉』と時期のずれた光太郎ブロンズの数々。少しずつ買い足され、かなりの点数になっています。


企画展は9月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

繭には糸口、存在には詩の発端。いたるところの即物即事に、この世の絲はひき切れない。
詩「寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

さかのぼること10年、「彫刻十個條」という散文では、「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」と記しています。世の中のどんなものにも、その詩魂の発端をみつけられるものだ、ということでしょうか。

この「寸言」という詩、永らく初出掲載誌が不明でしたが、この年7月、東京農業大学農友会文芸部から発行の雑誌『土』第22号に掲載が確認できています。

岩手盛岡から企画展情報です。

巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 9:30〜18:00(入館は17:30まで)
料 金 : [一般] 前売り1,000円(当日1,200円)、[高校生・学生]前売600円(当日700円)、
      [小学生・中学生]前売400円(当日500円) 20名以上の団体は、前売料金と同額
休館日 : 月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日

日本初のノーベル文学賞受賞者、川端康成は、池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」(いずれも国宝)から若いころの草間彌生作品など、独自の審美眼で幅広い時代の美術品を収集しました。
本展では、その中でも特に深い交流があった日本画家東山魁夷の収集品と合わせ約200点を紹介。昨年末に発見された新資料も全国初公開します。
また、川端文学の最高傑作のひとつ「伊豆の踊子」についてコーナーを特設。作品が生み出されるきっかけとなった、本県ゆかりの初恋相手との交流も紹介し、創作の源泉に迫ります。
 

関連行事

◾ 開催記念講演会「川端康成を語る」
  講師:川端香男里氏(公益財団法人川端康成記念会理事長)
  日時:2017年7月1日(土) 14:00-15:30
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。観覧券又は半券の提示が必要です。
◾ スペシャル・ギャラリートーク
  講師:水原園博氏(公益財団法人川端康成記念会東京事務所代表)
  日時:2017年7月29日(土) 14:00-15:00
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ アートシネマ・上映 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 弁士伴奏付き無声映画上映
  日時:2017年7月16日(日) 14:00-15:50(開場13:30)
  弁士:澤登翠氏 ピアノ伴奏:柳下美恵氏
  場所:ホール
  *鑑賞ご希望の方は当日直接ホールへお越しください。
   観覧券又は半券の提示が必要です。
   なお参加多数の場合は入場を制限させていただく場合がございます。
◾ 学芸員講座「川端康成と浦上玉堂」
  講師:吉田尊子(当館学芸普及課長)
  日時:2017年8月5日(土) 14:00-15:00
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。参加無料です。
◾ 川端と東山のコレクション鑑賞ツアー
  日時:2017年8月14日(月) 11:00-12:00/15:00-16:00(各60分)
  場所:企画展示室
  定員:各回25名(先着順。各回30分前より受付開始)
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ ギャラリートーク
  日時: 7月7日(金)、8月4日(金)、8月18日(金)いずれも14:00-(30分程度)
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。


今年初め、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった新発見の川端康成旧蔵の書画が展示されます。

光太郎の書も1点。『智恵子抄』所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)中の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものが展示されます。

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画像で見る限りでは、間違いないもののようです。

当方、月末に花巻に行く予定があり、その際に足を伸ばそうと思っております。皆様もぜひどうぞ。

また、川端邸で発見の書画類、「全国に先駆けて」公開とありますので、今後、各地での巡回がありそうです。情報が入りましたら、またご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場 智恵子飛ぶ

詩「風にのる智恵子」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

前年、千葉九十九里浜に移っていた智恵子の母と妹一家のもとに、半年ほど智恵子を預けていた際の思い出を元に書かれた詩の一節です。この頃は、光太郎、両国から2時間ちょっとかけて、毎週のように智恵子を見舞っていました。

実際に足を運べばわかりますが、九十九里浜は果てしなく続くかと思われるような長い砂浜です。尾長や千鳥と一体化した智恵子にとって、絶好の遊歩場だったのですね。

ちなみにNHKさんに、戦後の光太郎の朗読音声が残っており、「遊歩場」は「ゆうほば」と読んでいます。「ゆうほじょう」と読んでも間違いではないのでしょうが。

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