2017年06月

主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きました。いつも送って下さっていて、恐縮です。

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さらに恐縮なことに、当会発行の『光太郎資料47』をご紹介下さっています。

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また、当方も寄稿している文治堂書店さん発行の同人誌、「トンボ」第3号の紹介も。ありがたいことです。

それから、釧路で発行されている同人誌『河太郎(かたろう)』の紹介の中に、光太郎の名が。

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光太郎と交流のあった更科源蔵、猪狩満直といった詩人が北海道出身だったり移住したりしていた関係、北海道で発行されていた雑誌に光太郎の寄稿がたびたびあったためですね。とりあえずネットで発行元らしきところを見つけ、送って下さるよう頼んでみました。届きましたらまたご紹介します。


その『トンボ』の第4号も届きました。

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3名の方々による、先頃亡くなった同社創業者の渡辺文治氏の追悼文が掲載されており、当会顧問・北川太一先生の玉稿も含まれています。

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その他、半ば強引に2ページ分の連載を持たされてしまい(笑)、今年で61回目を迎えた連翹忌の歴史と現況について書け、という指示でしたので書きました。

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掲載誌をごそっと送られていますので、ご入用の方はこちらまで。


【折々のことば・光太郎】

足もとから鳥がたつ 自分の妻が狂気する 自分の着物がぼろになる

詩「人生遠視」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

光太郎にとっては不意打ちのようだった智恵子の心の病の顕在化、それにより智恵子が夢幻界へと飛び立ってしまったこと、それに伴う喪失感などが、見事に表現されています。

しかし、病が顕在化したとされる昭和6年(1931)夏から3年半経って、その間に智恵子の自殺未遂、青根温泉などへの湯治旅行、九十九里浜での転地療養などを経、南品川ゼームス坂病院へ入院させる頃に書いた詩です。

定期購読しており、それぞれ光太郎に少しずつ触れて下さっている『月刊絵手紙』と、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』が相次いで届きました。

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『月刊絵手紙』は、日本絵手紙協会さんの発行。前号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「案内」(昭和24年=1949)を取り上げて下さっています。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する花巻高村光太郎記念館を管理運営する一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、太田村時代の光太郎スナップが背景にあしらわれています。


隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』は、裏表紙に連載「光太郎のレシピ」。こちらも花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するもの。こちらも連載二回目です。初回は「そば粉の焼きパン」でした。

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今号は、「ホッケのトマトソース煮とヨモギご飯」。付け合わせに卵やジャガイモが添えられています。健康的で美味しそうです。

ただし、光太郎日記には細かなレシピまでは記載されていないので、あくまでこんな感じだっただろう、というものです。光太郎が食したトマトソースもおそらくは缶詰だったのではないかと思われますし、ホッケとヨモギご飯(日記では雑炊)は、それぞれ別の日に作っています。そのあたりは、日記の該当部分をきちんと掲載していますので、問題はないでしょう。

当方、週に一、二回(今夜もですが)、家族の夕食を作っており、参考にさせていただきます(笑)。


『月刊絵手紙』、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』、それぞれ定期購読で自宅に届けてもらうことが可能です。上記の各リンクから、ぜひどうぞ。

ところで、先述の通り、どちらも一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、記念館の宣伝にもつながるかと存じます。良い工夫ですね。全国の文学館さん、タウン誌的なものの編集発行に当たられている皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキトウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ ニンゲ ンカイニカマフナ

詩「五月のウナ電」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「ウナ電」は、緊急を要する電報、の意。電話が一般的でなかった明治大正昭和戦前を舞台としたドラマなどで「チチキトクスグ カヘレ(父、危篤。すぐ帰れ)」などと使われるあれです。

昔の電報はカタカナのみ。しかも濁点は一字とカウントされていました。そこで濁点のあとは一文字分のスペースが必ず入りました。

下は戦後の昭和27年(1952)、当時の盛岡短期大学美術工芸科の卒業式のために送られた光太郎からの電報です。「ウナ電」ではありませんが。

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「五月のウナ電」は、宇宙のヘラクレス座から、地球の動植物にあてた電報、というシチュエーションで書かれています。上記を漢字仮名交じりの書き下し文にすれば、以下の通りでしょうか。

万物一斉に立て。青き透明体を一面に配れ。急げ。急げ。人間界に構ふな。

何となくですが、宮沢賢治の詩や童話からのインスパイアのような気もします。

地方紙『山形新聞』さんの一面コラム、25日日曜日の掲載分です。

談話室 2017/06/25付

▼▽江戸時代後期に清貧、自由の生涯を貫いた僧良寛。歌人、書家として知られるが漢詩も多く残した。中にこんな一節がある。「花開く時蝶来(ちょう)り 蝶来る時花開く」。花にも蝶にも作為などない。互いに招き、導かれる。
▼▽その人の訃報にふと良寛の詩が浮かんだ。山形市の吉田コトさん。99年の人生は波乱に富む。20歳の頃「宮沢賢治名作選」の編集に関わった。没してからまだ5年。原稿は岩手・花巻の生家の柳行(やなぎごう)李(り)に入ったままだった。賢治の弟清六が手渡す原稿を、行李の蓋(ふた)に仕分けた。
▼▽「名作選」は無名だった詩人・童話作家再発見のきっかけとなる。高村光太郎ら文化人との交流も生まれた。私生活では22歳で結婚。子宝にも恵まれるが太平洋戦争のさなか、夫が病で半身不随になる。戦後は山形市に一銭店「天満屋」を開き、大黒柱として生活を支えた。
▼▽貧乏暮らしながら店には多くの人が訪れ、交流の場になった。人生相談を持ち掛けられたり、山形大の苦学生にはご飯を振る舞ったり。知的好奇心も衰えない。80歳を過ぎても週1回、東北芸術工科大に通って講義を聴講した。「時には蝶、時には花」を体現した人だった。


訃報の記事も載ったようなのですが、ネット上で不鮮明な画像でしか発見できませんでした。それによると土曜が葬儀だったそうなので、亡くなったのは先週でしょうか。吉田コトさん。作家の吉田司氏のお母様で、宮沢賢治の教え子だった松田甚次郎を助け、賢治実弟の清六ともども、昭和14年(1939)に刊行された『宮沢賢治名作選』の編集実務に当たられた方です。

その編集に当たっていた頃、「山形賢治の会」で一緒だった詩人の真壁仁の紹介で、本郷区駒込林町の光太郎と会っています。以下、平成20年(2008)、有限会社荒蝦夷さん刊行の『吉田コト子思い出語り 月夜の蓄音機』より。

「山形賢治の会」を立ち上げて間もなく、000中央大学に進学していた弟が軽い脊椎カリエスを患った。一人で下宿生活が送られなくなったので、私が上京して炊事の面倒を見ることになった。(略)高村光太郎さんに初めて会ったのはこのころだ。真壁さんから私に手紙が来たんだっけ。「高村先生に会いに上京します。ご一緒しましょう」って。私が『宮沢賢治名作選』を手伝っていたころ、政次郎さんが私に光太郎さんの話を聞かせてくれたことがあったの。賢治が生前、『春と修羅』だったか詩集を自費出版して、いろんな人に送ったらしいんだけど、お礼の返事をよこしたのが高村光太郎と詩人の草野心平の二人だけだったんだって。賢治はその葉書がくちゃくちゃになっても、お守りみたいに大事にしてたって。その話を聞いて私は光太郎さんに会ってみたくなったんだ。それで清六さんに紹介状を書いてもらったんだけど、まだ光太郎さんに会いに行ってなかった。真壁さんはこの紹介状のことを知ってて、私を誘ってくれたんだね。

『春と修羅』(大正13年=1924)の礼状をよこしたのが、光太郎と心平だけだったという話。他では読んだことがないのですが、有り得る話です。くちゃくちゃになった葉書を賢治がお守りのように持っていたというのも。そこで2年後に、賢治は光太郎を訪ねていったのでしょう。

上京した真壁さんと二人で光太郎さんを訪ねた。真壁さんは、私のことを三割も五割も足して光太郎さんに話してくれたっけ。「コトさんは真面目で一生懸命、本も読むし文章も書く」って。光太郎さんが「詩の勉強をなさい。書けるように教えてあげます」って言ってくれた。だのに私ったら「授業料が高いでしょう」なんて言ったんだよ、高村光太郎に向かって(笑)。田舎っぺだよね。そして「詩を書くよりも孤児院のお手伝いのような仕事がしたいと思っています」なんて話もした。親のいない寂しさを味わっていたから、ホントにそんな仕事がしたかったの。光太郎さんは「手伝いなんて言わずに、自分で作りなさい。相談にのってあげるから、またいらっしゃい」と言ってくれた。

残念ながら、光太郎の書き残したものの中に、この会見の模様は確認できません。ただ、同行した真壁仁に送った光太郎書簡から、昭和14年(1939)の3月から4月頃だったと推定できます。

余談になるけれど、太平洋戦争が終わるころ、光太郎さんは賢治の生家を頼って岩手に疎開したでしょう。そのあと、なんのときだったかは忘れたけれど、とにかく光太郎さんが山形に立ち寄ったことがあるの。光太郎さんから「もう二度と山形に来ることもないでしょうから、ぜひ会いましょう」と葉書をもらった。そこで、山形駅まで会いに行ったの。確か末っ子の司を背中におぶってた。だから、司も光太郎さんに会ってることになるの。

これは昭和25年(1950)10月のことです。県綜合美術展のため、光太郎は山形を訪れています。審査は断りましたが、批評なら、ということでした。11月1日には料亭野々村で、翌日には山形市教育会館美術ホールで、美術講演会が催され、この際には女優・渡辺えりさんのご両親もそれを聴かれています。渡辺さんのお父様・正治氏は戦時中から光太郎と親交がおありでした。

光太郎からコトさんへの葉書というのも、『高村光太郎全集』等に漏れています。残っていればいいのですが……。

コトさん、戦後は身体が不自由になられたご主人を支えつつがんばられたそうでしたが、実は当方、まだコトさんがご存命とは存じませんでした。99歳だったそうで……天寿ですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とどめ得ない大地の運行 べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく もう一つの大地が私の内側に自転する

詩「もう一つの自転するもの」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

前年には満州事変、この年には傀儡国家の満州国建国、五・一五事件。翌年には国際連盟脱退と、この国は泥沼の戦争へと一歩一歩進んでいました。

そうした世情とは別に、自分の中には「もう一つの自転するもの」があると宣言していた光太郎ですが、智恵子の心の病がのっぴきならないところまで進むと、「わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し/闃として二人をつつむこの天地と一つに」(「山麓の二人」)なるのです。

明日から3日間、テレビ番組でぽつりぽつりと光太郎智恵子が取り上げられます。

まずは、これまでも時折光太郎智恵子を取り上げて下さっている、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」。明日と明後日の放映で「あどけない話」がラインナップに入っています。さらにそれぞれ来月に入ってからも再放送があります。

にほんごであそぼ

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。

2017年6月28日(水)・7月12日(水) NHK Eテレ 6:35~6:45   再放送 17:00~17:10  
文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、うなりやベベン/触らぬ神に祟り無し(ことわざ)、ひゃくにん・いっしゅの百人一首劇場/契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山…(清原元輔)、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。

2017年6月29日(木)・7月13日(木) NHK Eテレ 6:35~6:45   再放送 17:00~17:10  
玉屋鍵屋、文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、ヨシタケ×山陽のおよおよ/「蟹工船」小林多喜二、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。


「文楽」とありますが、同番組では、豊竹咲甫太夫さんらによる人形浄瑠璃文楽で、古今の文学作品の一節を演じるコーナーがあります。


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金曜日には、BS放送の番組で。 

武田鉄矢の昭和は輝いていた 昭和のロングセラー蚊取り線香&コカ・コーラ

2017年6月30日(金) BSジャパン  21時00分~21時54分

「激動の時代」と言われた「昭和」は、日本人が振り返りたくなる魅力にあふれています。 この番組では、昭和を象徴する「人」「モノ」「できごと」から、毎回ひとつのテーマをピックアップ。当時の映像・写真を盛り込み、「昭和」の魅力を再発掘していきます!

◆夏のシンボル「金鳥・蚊取り線香」。長い間売れ続ける商品の隠された物語。渦巻きの秘密や、記憶に残る美空ひばりさんのCMに驚きの真実があることが判明!世界初の明治の蚊取り線香も登場。 ◆夏の清涼飲料水「コカ・コーラ」アメリカ発の飲料が日本で流行した立役者は?その知られざる苦労と懐かしのCMで、昭和の若者風俗を懐古します。

司 会 武田鉄矢 須黒清華(テレビ東京アナウンサー)
ゲスト 上山久史(大日本除虫菊株式会社専務取締役) 荻原博子(経済ジャーナリスト)
     町田忍(庶民文化研究所所長)

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コカ・コーラの項で、光太郎がちらっと紹介されるはずです。

光太郎の第一詩集『道程』に、「狂者の詩」という詩が収められています。初出は大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』です。その中で「コカコオラ」の語が使われており、文学作品におけるコーラの最も早い使用例の一つです。

コーラと光太郎については、以前のこのブログでもご紹介しています。こちらをご覧下さい。

少し前に、花巻高村光太郎記念会さんから電話がありました。番組制作会社からの問い合わせに関してのヘルプ要請でした。問題は「狂者の詩」の読み方。「詩」一文字が「し」なのか、「うた」なのか、ということでした。

基本的にルビが振らていない漢字の読み方は、よほど度外れた読み方でない限り、不正解とは言えません。したがって、「し」と読んでも、「うた」と読んでもいいと思います。ただ、作者(光太郎)がどちらをイメージしていたのかを考えることは可能です。時代背景的に、「詩」を「うた」と読むようになるのはおそらくそれほど古い習慣ではないはずで、「し」の方が正解に近い気がします。だからといって、「うた」と読んだら×、というわけではないと思います。どうしても「うた」と読みたければ、どうぞ、それで結構――と答えておきました。

同様の問い合わせは結構あります。

少し前に、作曲家の野村朗氏からは、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)に出てくる「愛の海ぞこ」の読み方を訊かれました。「うみぞこ」か「うなぞこ」か、と。『広辞苑』を調べても、どちらの読み方も登録されていません。もはや、こういう場合にはどちらで読んでも不正解とは言えないでしょう。ただし、他の詩との整合性ということを考えると、明治40年(1907)作の「博士」という詩の中に、「大海底」と書いて「おほうなぞこ」とルビが振られている箇所があり、「うなぞこ」の方が正解に近いのかな、という気がします。しかし、だからといって、「うみぞこ」と読んでもダメ出しはできないでしょう。

固有名詞についても、結構困る場合があります。やはり野村氏から、それからそれ以前に「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」制作のお手伝いをしていた中で、詩「案内」(昭和25年=1950)中の「毒が森」に関して、レファレンス依頼がありました。光太郎が戦後の七年間を暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)付近の地名として、「うしろの山つづきが毒が森。」という一節があります。こちらは固有名詞ですから、さまざまな読み方は無いわけで、本当の読み方は「ぶすがもり」です。

狂言の題目にもありますが、猛毒のトリカブトの別名が「附子(ぶす)」。そこからの連想で、「毒」に「ぶす」と訓読みを当てる場合があり、地名やら人名やらで使われています。ちなみに不美人を「ブス」というのは、トリカブトを食べて苦悶する人のような顔、という連想から来ているとか。

光太郎の山小屋の裏山も、正しくは「ぶすがもり」です。サイト「岩手の自然 毒ガ森山塊」などにもそう紹介されています。ところが、地元でも「ぶすがもり」という地名が忘れられつつあるようで、毎年5月の花巻高村祭で、地元の方がこの詩を朗読しますが、「どくがもり」と読んでいます。もはや地名としての「ぶすがもり」が忘れ去られているのであれば、「どくがもり」と読んでもいいのかな、などと思っております。

こうした詩句の読み方に関しては、ある意味、これだという正解が存在しない場合が多いと思います。大切なのは、読む人それぞれが、これはどう読むのだろう、とか、こう読む根拠は、などと考えを廻らせることではないでしょうか。とはいうものの、エラいセンセイなどが、いわゆる「論文」で、たった一語の読み方にこだわって、ああでもない、こうでもないとやっているのを見ると、「木を見て森を見ず」の感がぬぐえませんが。

さて、「武田鉄矢の昭和は輝いていた」。「し」と読むのか「うた」と読むのか、とりあえず注視します。もっとも、テレビ番組の場合、収録の尺などの関係で、レファレンスした内容がばっさりカットされることも珍しくありません。光太郎に触れずじまい、と、それは避けていただきたいのですが、どうなることやら……。


【折々のことば・光太郎】

潔さと美と飢と入水とを等分に持つたドウベル 低くなり得ぬもの詩人ドウベル
詩「レオン ドウベル」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

レオン・ドーベルは、フランスの詩人。貧困の中でマルヌ川に投身自殺したそうです。パリにいた彫刻家・高田博厚がその胸像制作にあたり、光太郎も援助しました。

詩人が「低くなる」というのは、自分の主義主張を曲げ、大衆や権力者に阿(おもね)る作品を書く、ということでしょうか。それができなかったドーベルに、光太郎は真の詩人の姿を見ているのだと思われます。

ところが光太郎自身は、この頃から大政翼賛の方向へ梶を切り始めます。この年は満州事変のあった年でした。おそらく、智恵子の心の病を引き起こした、「都会のまんなかに蟄居」(「蟄居」 昭和22年=1947)するような生活への反省、そうした生活を続けることで自身も心を病みそうな予感、そういったものが、光太郎を動かしていったものと思われます。

一昨日の朝、宿泊させていただいた青根温泉湯元不忘閣さんを後に、愛車を北へ向けました。メインの目的である仙台での朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」が午後3時開演。リハーサルや会場準備、チラシ折り込み等があるので昼頃には会場入りと思っていましたが、それにしても時間があったため、寄り道をしました(当初からそのつもりでしたが)。

行った先は、仙台からほど近い松島の瑞巌寺さん。こちらには、昭和2年(1927)、光太郎の父・高村光雲作の観音像が納められています。下の画像は古絵葉書です。瑞巌寺さんには30年ほど前に参拝いたしましたが、その際には存じませんで、見落としていました。

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納められているのは庫裡。こちら自体も国宝の建築です。


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光雲作としては類例があまり多くない、彩色彫刻です。おそらく丈六(約4.8㍍)の大きなもので、そうなると白木では見栄えがしないかもしれません。鮮やかな彩色が、神々しさをさらに倍加させています。

説明板によれば、元々は現JR仙石線が宮城電鉄だった頃、松島まで路線が延引された際に、無事故と事業の発展を祈願して同線の駅近くに奉納されたものだそうです。ということは、発願主は宮城電鉄さんだったのでしょうか。

この地の平安と、道中安全を祈願して参りました。

庫裡の向かいが宝物館となっており、まだ時間もありましたので、拝観。青根温泉不忘閣さん同様、やはり地元の英雄・伊達一族に関するお宝、それから円空仏なども展示されており、興味深く拝見しました。


さて、再び愛車を駆って仙台へ。途中で昼食を摂ったり、お二人への花束を買ったりしつつ、正午過ぎには青葉区のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんに到着しました。こちらは一昨年、やはり荒井さんのご出演なさった「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」以来、2年ぶり2回目です。

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ちょうど機材のセッティングが終わってリハーサルが始まるところでした。

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当方が持参した光太郎の遺影(連翹忌でも使わせていただいている、令甥の写真家、故・髙村規氏撮影のもので、ほとんど唯一、光太郎が笑顔の写真)、智恵子紙絵の複製などを並べさせていただきました。

その後、チラシの折り込みなどをお手伝いし、午後2時半、開場。当会と共に後援に入って下さった花巻高村光太郎記念会さんから、生前の光太郎をご存じの浅沼隆さん、さらに智恵子の故郷・福島二本松で顕彰活動を進められている智恵子のまち夢くらぶの野里氏もはるばる駆けつけて下さいました。

開演は午後3時。

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休憩を挟んで1時間半ほどだったでしょうか。大西さんの奏でる古今東西の名曲に乗せ、荒井さんによる光太郎詩文等の朗読。テルミンの一種幽玄な響きと、荒井さんのしっとり落ち着いた美しいお声が絶妙にもつれ合い、絡み合い、美しくも悲しい、しかし最後は再生へと向かう光太郎智恵子の愛の世界を醸し出していました。

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全体の構成や、合間にはMCも入り、飽きさせない工夫が為されていました。テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方が多数いらっしゃいましたので、大西さんお得意のテルミン講座。さらにはお二人のなれ初め(笑)についてのお話などなど。お二人が初めて会われたのが、昨年の連翹忌。ビュッフェ形式で料理が並ぶうちの、ケーキのコーナーだったそうです(笑)。「天才は天才を知る」ということでしょうか(笑)、お互いに「ただ者ではない」と感じられたそうで、たちまち意気投合、これまでもちょこちょことコラボをなさり、今回が初めてのきちんとした公演でした。

午後の部がつつがなく終わり、楽屋でおにぎりなどを頂いて軽く腹ごしらえ。そして7時から夜の部でした。

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当方、リハーサルを含めて結局3回聴いたことになりますが、お二人のパフォーマンスがそれぞれにすばらしく、もちろん光太郎の詩文の魅力もあって、まったく飽きることもなく、どっぷりと光太郎智恵子の世界に浸らせていただきました。

午後の部と夜の部の合間、それから終演後に拝読したご来場の皆様が書いて下さったアンケートでも、絶賛の嵐でした。再演を希望する声も多く、是非実現して欲しいものです。

終演後、お二人と、大西さんのご主人(ラブラブご夫婦で、いつもご主人がご一緒です)、そして当方の4人で夜の仙台の街に繰り出し、打ち上げ。日付が変わる頃まで大いに盛り上がりました。

連翹忌が取り持つご縁でこうしたイベントとなり、望外の喜びです。これまでも、こうしたパフォーマーの方々のコラボ、美術館・文学館さんと関連行事の講演会講師、出版関係者の方々と執筆者の皆さん、顕彰団体さんと視察研修先の方々などを結びつける役割を果たして参りましたが、こういうネットワークを広げることも大事な役割と考えております。

この輪をもっともっと広げたいと存じます。さらに多くの方々に連翹忌へご参加いただき、こうしたネットワークに関わっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

さわぐには及びません やる事をやりなさい  威張るには及びません 頭をはつきり持ちなさい

詩「ゆつくり急がう」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

詩全体には、昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。

この旅行に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化したということになっています。光太郎の留守中に訪ねてきた智恵子の母や妹が、智恵子の異状に気づいたそうです。となると、第三者の目による異状顕在化であって、もしかするとそれ以前から症状は現れていたかも知れません。詩人の深尾須磨子あたりはかなり早い時期から智恵子の言動に違和感を覚えていました。

そしてどうもこの時期の光太郎は智恵子の状態を楽観視していたようで、そのあたりが「さわぐには及びません  やる事をやりなさい」にも反映されているような気もします。

さすがに翌年に智恵子が自殺未遂を図ると、そうも言っていられなくなりますが……。その結果、青根温泉などへの湯治の旅に結びつくのです。

宮城県に行っておりましたが、2泊3日の行程を終えまして、先ほど、千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。2日に分けてレポートいたします。

メインの目的は、昨日開催された朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」。当会も後援に名を連ねておりましたので。

宿泊は1泊目、同じ宮城県内の青根温泉湯元不忘閣さんに泊めていただきました。こちらは昭和8年(1933)、光太郎智恵子も1週間ばかり逗留した宿です。

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智恵子の心の病が完全に顕在化したのが、昭和6年(1931)。光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、女川を含む三陸一帯を旅していた時のことです。翌年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂。一命は取り留めましたが、どんどん症状は進行していきました。

そして翌8年、智恵子の故郷に近い東北や北関東の温泉巡りをすることで、少しは恢復するかと考えた光太郎は、智恵子を連れて旅に出ます。出発前の8月23日には、本郷区役所に婚姻届を提出。大正3年(1914)に結婚披露宴を行ってから、実に19年が経っていましたが、この間、2人は事実婚状態だったのです。以前にも書きましたが、フランスではそれが珍しくないそうで、光太郎が敬愛していたロダンとローズ・ブーレも、2人が亡くなる直前まで届けを出しませんでした。

さらに翌昭和9年(1934)には、光太郎の父・光雲が亡くなって、まとまった遺産が光太郎に入るのですが、その前に光太郎が先に逝ってしまえば(光太郎自身も結核の症状が既に出ていました)、智恵子には相続の権利が発生しません。そこらを考えての入籍だったのでしょう。しかし、智恵子にはもはやその意味を理解することもできなくなっていたようですが……。

東京を発った2人は、最初に智恵子の故郷・安達(現・二本松市)を訪れ、智恵子実家長沼家(既に破産して離散)の墓参などを行い、裏磐梯川上温泉に向かいました。そこで過ごした時の記憶を元に書かれたのが「――わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。

次に訪れたのが、青根温泉でした。戦後の昭和24年(1949)に、宮城在住の人物に送った葉書に以下の記述があります。青根に誘われたようで、その返答ですね。

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。 青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。

「大佐藤」というのが、光太郎が泊まった当時の不忘閣さんの名称でした。青根でもっとも早く湯宿を開いて、江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯として使われていました。当主は代々佐藤仁右衛門を名乗り、他にも佐藤姓の宿があったことから、区別するために「大」一文字をつけていたようです。

右は館内に展示されていた003古い看板。ちょっと見にくいのですが、「大佐藤」の文字が見て取れます。

「不忘閣」というのは、元々、お殿様のために使われていたメインの建物(現在は「青根御殿」と呼ばれています)の名前だったそうです。

その後、光太郎智恵子は、また福島県に戻り、9月2日には土湯温泉の奥にある不動湯から、智恵子の母・センにあてて葉書を送っています。

青根から土湯へまゐりました、土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます。

ちなみに不動湯は平成25年(2013)に火災で焼失。現在は日帰り入浴施設として再開されています。当方、旅先の岡山でそのニュースを知り、驚くと同時に心を痛めました。そして最後に栃木の塩原温泉に逗留し、帰京しています。

さて、不忘閣さん。現在の宿泊棟は現代の建築ですが、それ以外に光太郎智恵子滞在時の建造物がまだ残っています。

こちらは本館で、明治40年(1907)の竣工。

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現在は、食事のための棟として使われています。

中庭は庭園。池には魚に混じってサンショウウオorイモリ。自然が豊かなのがわかります。

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そして青根御殿。こちらは最初、江戸時代に建てられましたが、やはり焼失、光太郎智恵子が訪れた前年の昭和7年(1932)に再建されたものだそうです。

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現在は資料館的な使われ方となっており、毎朝、女将の解説で、宿泊客対象に見学ツアーが開かれています。

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伊達家関連のお宝。

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ここを訪れた文人墨客関係。

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大正11年(1922)には、光太郎の師・与謝野夫妻も逗留していました。

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となると、与謝野夫妻からここの話を聞いたのかも知れません。

また、本館内にはこんな掲示も。

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「頭がよくなる温泉」とのことで、まさに精神を病んだ智恵子にうってつけ。この点まで含めて、与謝野夫妻が光太郎にここを紹介したとしたら、いい話ですね。

温泉は、本館内と、別棟の蔵の中にもありまして、それぞれ堪能させていただきました。

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近くには、作曲家の古賀政男の記念館も。代表曲の一つ「影を慕いて」作曲の契機がこの地での体験だそうで、建物は古賀とは無関係の、仙台から移築された元宣教師の住居だそうですが、レトロな洋風建築がいい感じでした。

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足湯もありました。

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続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

七月は今猛然とわれらを襲ふ。 莢隠元(アリコヴエル)、サラダ、トマト、コンコムブル。 質素な友の食卓を満艦飾する 精気と新鮮と分厚な現実。
詩「卓上の七月――素描風なる日常詩――」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

シチュエーションとしては、友人の家族に招かれての会食のようです。野菜系が多く、健康的かつおしゃれっぽい感じですが、確かに質素かも知れません。しかし、この前に、それを補ってあまりある友人一家のほほえましい様子が描かれています。

不忘閣さんの食事、山間の宿らしく山菜などが多かったのですが、健康的でした。

本日、仙台で開催される、朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」拝聴のため、昨日から宮城県入りしております。
現在地は、蔵王山中の青根温泉♨。湯元不忘閣さんという老舗の温泉旅館♨に泊めていただいております。

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こちらは、昭和8 年(1933 )8月末から9月初めにかけて約1週間、光太郎智恵子が逗留した宿です。心を病んだ智恵子の療養のため、ひと月ほど東北南部から北関東の温泉♨巡りをした一環でした。当時の建物が残っており、非常に風情があります。

このあと、宿を出まして仙台方面に向かいます。詳しくは帰ってからレポート致します。

一昨日、杉並区立郷土博物館さん、台東区立中央図書館さんでの調査を終え、神保町の学士会館さんに向かいました。過日ご紹介した、現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」拝聴のためです。こちらに足を踏み入れたのは15年ぶり、平成14年(2002)に開催された当会顧問・北川太一先生の喜寿の祝賀会以来でした。

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開会は18:00。この時点ではほぼ上がっていましたが、日中は豪雨でした。発表者の皆さん、だいぶ詳しく光太郎についてお調べ下さったようで、光太郎の究極の雨男ぶりから話が始まり、「今日、雨が降らなければ光太郎に認められていなかったことになったので、かえってよかった」と、会場の笑いを誘っていました。

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メインの発表者は、歌人の松平盟子氏。「明星研究会」に加入されているそうで、連翹忌ご常連の与謝野夫妻研究家にして、お父様が光太郎と交流のあった逸見久美先生とも親しくされているそうでした。生涯を通じて断続的に詠まれていた光太郎の短歌を、たくさん作られた時期に着目して3期に分け、それぞれ考察をご披露なさいました。

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第一期は、与謝野夫妻の『明星』に依っていた明治33年(1900)~同40年(1907)。東京美術学校在学中から欧米留学の途中までにあたります。『明星』の星菫調エッセンスが色濃く、鉄幹晶子の代表作と目される短歌との類似点が目立つというお話。逆に、晶子の短歌に光太郎のそれを参照したのではないかと思われる作品もあるというお話も。なるほど、と思いました。

003ちなみに触れられませんでしたが、詩集『道程』版元の抒情詩社社主・内藤鋠策が、光太郎の窮乏を助ける意味合いもあって、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』(大正4年=1915)を編刊しています。絶大な人気だった晶子とのセットにすることで、売れ行きを期待したのでしょう。

第二期は、明治42年(1909)から翌年にかけて。欧米留学からの帰国後、「パンの会」の狂騒に巻き込まれ、たちまち自らも巻き起こす方に廻って、昨日もご紹介した吉原の娼妓・若太夫との恋愛などもあった時期です。松平氏は「疾風怒濤の時期」とおっしゃっていました。

松平氏が特に注目されていたのは、日本女性を徹底的にこき下ろした連作。

少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと

などなど。

これらは、自立にはほど遠く、主体性も自我もまるでない当時の日本女性に対するあらわな失望、ひいては日本人全体、日本社会全般の前近代性に対する嘆きです。それを象徴的に、外見的にも内面的にも「美」を持つべき女性が、欧米(特にフランス)のそれと異なり、何らの「美」を持たざる現状への絶望として表現したともいえましょう。

そして第三期。復刊された『明星』に、木彫「蝉」を題材にした短歌などをごっそり発表した時期です。

松平氏もご指摘なさっていましたが、この時期の光太郎短歌は実に自由闊達。まあ、それ以前からそういう傾向はありましたが、特にそれが顕著なのがこの時期です。

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり
はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ

ただ、智恵子の心の病が顕在化し、その中で詠まれた悲痛な作もこの時期に入ります。

そして、統括。光太郎の短歌は、日常語をうまく駆使し、折々の感情、感覚、喜怒哀楽を自由気ままに表現している、との説には、同感します。

そのあたりを聞きながら、詩よりもその傾向が強いな、と思いました。松平氏も引用されていましたが、光太郎、「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」(「近状」大正13年=1924)と述べています。

昭和15年(1940)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。

しかし、詩は雑誌などの寄稿依頼によって書かれることが多く、そうなると、そこに「責任」が生じます。注文主の意向を忖度して、思ってもいないことを書く光太郎ではありませんが、さりとて、「自由気ままに」とは行かない部分も多かったのではないでしょうか。光太郎が自作の詩に「責任」を感じていたことは、ほとんどの詩の草稿を手控え原稿として手元に残していたことからも読み取れます。

ところが、短歌や俳句に関しては、手控えの原稿は残しませんでした。

昨年、切手の博物館さんで開催された、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」で展示された光太郎書簡(昭和21年=1946)に、以下の記述がありました。

おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。

同様の記述は他にも見られます。しかし、昭和22年(1947)には、歌集『白斧』が上梓されました。ただし、これは光太郎の姻戚・宮崎稔が光太郎の承諾なしに出版してしまったものです。

うたは呼吸のやうなもの」、まさに光太郎のスタンスが見て取れます。ちなみに「詩はボクの日記のみたいなもの」(「“詩だけはやめぬ”」 昭和27年=1952)だそうで、「日記」と「呼吸」、やはり「呼吸」の方がより根源的ですね。


その後、やはり歌人の染野太朗氏、渡英子氏が、それぞれお気に入りの光太郎短歌を紹介しつつ、考察を披瀝、最後はお三方による討論形式で終わりました。

それぞれに歌人としての捉え方にはやはり鋭いものがあるな、と感心しきりでした。

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これまで、光太郎の短歌はあまり注目されてきませんでした。以前にも書きましたが、この手の伝統文化系は、光太郎に限らずそれ専門の人物でないとなかなか取り上げられない傾向を感じています。それなりに数も遺され、優れた作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での「光太郎特集号」というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥・流派の匂いがぷんぷん漂っており、そこに属さない者、ましてや本職の歌人・俳人でない者は無視、という傾向が感じられます。

そうした意味で、今回、現代歌人協会さんとして、光太郎以外にもいわゆる専門歌人以外の著名人の短歌について話し合ってみたいとのことで、この講座が持たれているのは、これまでの状態に風穴が開いたわけで、画期的だな、と思いました。こうした傾向が一過性でなく、定着して欲しいものです。

ちなみにもっと光太郎の短歌、俳句に注目して欲しいと思い、このブログでは昨年1年間・366日(閏年でしたので)、一日一首(一句)ずつ、【折々の歌と句・光太郎】というコーナーを作って光太郎の短歌・俳句など(川柳や仏足石歌なども)紹介しました。366日分、お読みいただければ幸いです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。
詩「美の監禁に手渡す者」より 昭和6年(1931)

プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは光太郎の嫌いな、俗世間での成功者――に支えられていました。その家柄ゆえ、生涯に一枚も絵を売らずに生活できたという画家・有島生馬などとは、根本的なところで違うのです。

この矛盾は結局解消されないまま、重く光太郎にのしかかりました。悲劇ですね。いや、お釈迦様の手のひらで暴れている孫悟空のような喜劇かも知れません。そこで一首。

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも

やはり昭和6年(1931)の作で、木彫「鯰」を収める袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。

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昨日は、都内3ヶ所を廻っておりました。神田の学士会館で開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」が昨日18時からでしたので、それが始まる前に、同じ都内で懸案事項の調査を、と考えました。

まず向かったのが、杉並区立郷土博物館さん。

ちなみに京王線の永福町駅から歩きましたが、同駅コンコースに、光太郎を敬愛していた佐藤忠良のブロンズがあって、「おお」、と思いました。佐藤のアトリエが近くにあったということでした。

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遠目で一瞬目に入っただけで、佐藤の彫刻と分かります。これは同じく光太郎を敬愛していた舟越保武のそれにしてもそうです。個性の発露なのでしょう。

さて、郷土博物館さん。古民家の長屋門を正門に転用しています。


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こちらに最近、思想家の江渡狄嶺関連の資料がご遺族から寄贈され、その中に光太郎から江渡の子息に送られた書簡(『高村光太郎全集』等未収録)が含まれているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

江渡は光太郎より3歳年長、青森五戸の出身で、トルストイやクロポトキンの思想に影響を受け、東京帝国大学を中退し、まず世田谷に「百姓愛道場」、続いて高円寺に「三蔦苑」という農場を開いて、「農」に軸足を置いた生活に入ります。そして品川平塚村や成田三里塚で同様の生活に入った水野葉舟の縁で、光太郎と知り合い、交流を深めました。

大正10年(1921)には、江渡の長男をはじめ、幼くして亡くなった子供達の納骨堂を兼ねた集会所「可愛御堂」が三蔦苑内に建てられましたが、その設計は光太郎が担当しました。

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大正9年(1920)の『東京朝日新聞』の記事です。

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こちらが可愛御堂。昭和34年(1959)まで現存していたそうです。

また、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、駒込林町のアトリエを失った光太郎、しばらく近くにあった妹の婚家に身を寄せていましたが、5月3日に三蔦苑を訪れ、リヤカーを借りています。それを使って延々茨城取手まで荷物を運び、そこから花巻の宮沢賢治の実家に疎開しました。前年に江渡は亡くなっていましたが、江渡の妻・ミキが対応してくれたようで、光太郎は礼にと、空襲前に運び出していたブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)を贈っています。これはミキが東京国立博物館に寄贈、現在も時折展示されているものです。

江渡夫妻に関し、光太郎は大正15年(1926)、雑誌『婦人の国』に発表した「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」というエッセイで、詳しく述べています。長くなるので全文は紹介しませんが、「しみじみと噛みしめるやうな古淡な味いを持つた人達」、「このお二人は、二人の見つめてゐるものが常に同じでそして変らない」、「まことに美しい、しつかりした結ばれです。ただ逢つてみるだけで自分を豊富にされるやうな気のする人たちです。」等々、手放しで賛美しています。

昨日、郷土博物館さんで拝見した書簡は、昭和20年(1945)1月3日付、江渡の次男・復にあてた封書で、前年暮れに江渡が急逝し、そのお悔やみを述べており、飾らない真摯な言葉で、心打たれます。「すぎなみ学倶楽部」さんという団体のサイトに、書面の画像が載っています。

他の光太郎書簡も同館に寄贈されているかと思いましたが、これ一通でした(江渡本人に送った書簡は既に『高村光太郎全集』に収録されています)。ただ、昨日は上記サイトに記述がなかった封筒も拝見させていただけました。光太郎の住所氏名電話番号が印刷されていました。よく見るとその脇に空押しで「三越」の二字。三越百貨店でのオーダーメイドのようです。三越さんではそんなこともやっていったのですね。

かつてあった江渡狄嶺研究会という組織、それからミキが書き残したものなどに、光太郎に関する記述がけっこうあるようで、光太郎と江渡夫妻に関しては、今後の研究課題としておきます。


三蔦苑跡も、館からさほど遠くはないようなのですが、昨日の東京は豪雨でして、そちらはまたのちの機会にと思い、次なる目的地、台東区立中央図書館さんを目指しました。

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まず、このブログで過日ご紹介した、企画展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見。

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光太郎の父・光雲が深く関わった内国勧業博覧会に関し、明治初期の錦絵や、関連書籍をまとめて置いて下さってあり、興味深く拝見しました。

それから、同じフロアで吉原遊郭関連の資料もまとめられているという情報を得ていましたので、そちらを調べるのも目的でした。

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光太郎は欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)、吉原河内楼の娼妓・若太夫と懇ろになり、彼女を「モナ・リザ」と呼び、「失はれたるモナ・リザ」「地上のモナ・リザ」などの詩を書きました。それを読んだ作家の木村荘太(光太郎とともにヒユウザン会を立ち上げた画家・木村荘八の兄)が若太夫にちょっかいを出し、三角関係、決闘騒ぎなどとなります。結局、若太夫は木村を取りますが、年季が明けた後、郷里の名古屋に帰り、木村ともそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950)に詳しく書かれています。

この若太夫、そして河内楼について、調べました。特に、光太郎が「モナ・リザ」と呼んだ彼女の写真等を見つけたいと思っているのですが、なかなか見つかりません。

『新吉原細見』という、遊郭全体の在籍女性のリストが発行されており、そこに写真が載っている娼妓もいます。こちらは明治34年(1901)、光太郎が通う10年前のものです。

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巻頭のグラビア的なページに、何人かの写真がピックアップされて載っています。左は河内楼の「小町」。

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右は当方が以前から持っている明治24年(1891)発行の石版画で、やはり河内楼の「しら露」。上記細見にも「白露」の名がありますが、同一人物か、先代か、はっきりしません。

こんな感じで若太夫を探していますが、結局、明治43年(1910)前後の細見が所蔵されておらず、昨日も見つけられませんでした。一番近いものでも上記の同34年のものでした。

その代わりゲットできた、絵図の画像、地図、河内楼の写真など。

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下記はこれも当方が以前から持っている河内楼の古絵葉書。宛名面の様式から、明治40年(1907)~大正6年(1917)のものと判定できます。破風の形が上記写真とも一致しています。

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この若太夫、河内楼についても、継続的に調べていこうと思っております。


その後、神保町の学士会館で、公開講座「高村光太郎の短歌」を拝聴しましたが、そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

耕す者の手を耕す者にかへせ。 太陽を売らんとする者よ滅べ。

詩「不許士商入山門」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

江渡や水野葉舟ら、「農」に軸足を置いた友人知己を限りなく敬愛していた光太郎。農民の手から鋤や鍬を取り上げ、代わりに銃器を持たせる徴兵制への抗議とも取れます。

ほどなく、智恵子の心の病の顕在化と、その死に伴い、その空虚感を埋めるがごとく、翼賛側に転向していくのですが……。

一昨日の『東京新聞』さん、埼玉版に載った記事です。

<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん

003 小鹿野町長留の山あいにある工房。彫刻師の宮本裕太さん(30)は、真剣な面持ちで木彫作品二点の仕上がりを確認する。一つは南国の花プルメリア、もうひとつは観葉植物のモンステラとパイナップルの実がモチーフだ。

 いずれも縦四十六センチ、横幅百六十センチ。人の背丈ほどの大きな壁掛け。「ハワイの別荘向けに」と、東京在住の米国人と日本人の夫婦から注文を受けた。これまで手掛けてきた大黒天の座像やフクロウの置物とはだいぶ趣が異なる。

 「今回の壁掛けは洋間に飾るということもあり、デザインを工夫してみた。こうした作品がこれからのニーズなのかも」。宮本さんは確かな手応えを感じ取った。

 宮本さんが彫刻に関心を持ったのは中学生のとき。テレビ番組で彫刻家高村光太郎の作品「鯰(なまず)」を目にしたのがきっかけだ。「表情がとってもいきいきしている」。将来に向けた明確な目標を決められなかった宮本さんの頭に、彫刻師の道が浮かんだ。

 インターネットで情報を収集し、高校卒業後に富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんに弟子入りした。南砺市は精緻な作風で名高い「井波彫刻」のお膝元。そこかしこが彫刻作品に彩られた工芸の町だ。六年間、師匠方に住み込み修業に打ち込んだ。「とにかく経験を積むよう諭された」。独立したのは二〇一一年のことだ。

 木彫はさまざまな工程の積み重ねだ。図案や寸法を決めて、糸のこぎりで大まかな形を切り抜く。のみで形を整えて、小道具や彫刻刀で仕上げる。途中、何度も木を乾燥させる必要があり、数年がかりで取り組む作品もある。

 注文の多くはインターネット経由だ。住宅事情を反映してか、かもいを飾る「欄間」は減り、ウサギやネコの置物や植物のレリーフなどが好まれる。依頼主は主に関東から九州まで。東日本大震災の津波で流されたとして、宮城県の寺からはりを飾る作品のオーダーを受けたこともある。

 宮本さんがいま気に掛けているのは、木彫技術の担い手が少なくなっていること。弟子入りする若者が減っているほか、せっかく独立しても彫刻を断念してしまう人もいる。自ら若手を育成したいとの思いも募る。

 「後継者が少なくなっているからこそ、魅力的な作品が必要。大きな壁掛けや洋風の洒脱(しゃだつ)なデザインなど、いろいろと挑戦していきたい」と見通しを語る。 (出来田敬司)

<みやもと・ゆうた> 小鹿野町生まれ。町立長若中を経て、県立秩父農工科学高電子機械科卒。富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんのもとで木彫を習得する。2011年から小鹿野町内で「宮本彫刻」を主宰し、欄間、壁掛け、祭礼用品などを手掛ける。問い合わせ先は宮本彫刻=電0494(75)2276=へ。


現代の若手木彫家の紹介です。なんとまあ、この世界に入ったきっかけが、中学生の時に光太郎の木彫「鯰」をテレビ番組で見たことだそうで、驚きです。

現在30歳の方が中学生だったときで、光太郎の木彫「鯰」……おそらく、テレビ東京さん系の長寿番組「美の巨人たち」でしょう。平成13年(2001)の7月21日に、「鯰」がメインで取り上げられました。

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この番組では、光太郎をメインに扱ったのは3回あり、その最初のものでした(ブロンズ「手」が平成19年=2007、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が平成23年=2011)。

光太郎の簡単な評伝的部分もありました。海外留学でロダンをはじめとする「本物」を見てしまったがゆえの、父・高村光雲との葛藤……。

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幼い頃から光雲に叩き込まれた木彫と、西洋で学んだ塑像彫刻のエスキスとの融合をはからんとする苦闘。その中で「鯰」が生まれたこと、そのために智恵子との生活が犠牲にされたことなど。

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放映当時、神奈川県立近代美術館長だった酒井忠康氏、平成26年(2014)に亡くなった、故・髙村規氏などもコメンテーターとしてご出演なさっていました。

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久しぶりに録画を見返してみましたが、いい作りでした。それにしても、これを見て彫刻家を志した方がいらっしゃるとは、少し驚きました。昨日のこのブログで、昔の美術家の卵は、光太郎編訳の『ロダンの言葉』を読んで美術家を志したと書きましたが、現代は美術番組を見て、というのがあるのですね。当方も時折テレビの仕事のお手伝いをさせていただいていますが、責任重大だな、と思いました。

それにしても、記事にある宮本さん、注文の多くはネット経由だそうで、こういうところにも時代の変化を感じます。

今後とも、光太郎の魂を受け継いでのさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て 一片の弧線をも見落さないやうに写生する このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する 九十一歳の鯰よ わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

詩「似顔」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ここにも「鯰」が登場しますが、ここで作っているのは魚の鯰ではなく、鯰のようにグロテスクな人物――戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した大倉喜八郎――の肖像です。少し前のこのコーナーで、大正11年(1922)の「信濃川朝鮮人虐殺事件」をちらっと紹介しましたが、この事件の加害者も被害者も大倉組の関係者でした。この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎にとって、大倉などは不倶戴天の敵です。

それがどうして肖像彫刻を作るはめになったかというと、間に光雲が介在しています。大倉は自身と妻の肖像彫刻を光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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左が光太郎の原型から取ったブロンズ、右が光雲の彫った木彫の大倉像です。

光雲の手にかかると、ロダンから学んだ光太郎の荒々しいタッチも影を潜め、大倉の表情も好々爺然としてしまっていますね。まさしく今大流行の「忖度」です(笑)。

光太郎としては、それがまた気に入りません。しかし、光雲の下職仕事は大切な収入源でもあり、廻してくれる光雲の親心も痛いほどわかります。

生きていくことのつらさがにじみ出ているエピソードですね。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示情報です。

夏季企画展示 高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎

期 日 : 2017年7月1日(土)~9月3日(日) 無休
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1 第二展示棟
時 間 : AM9:00~PM5:10
料 金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円) 小中学生 150円(100円)
        ( )内20名以上団体料金 
ホームページ特別割引あり

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日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

展示書籍
Auguste Rodin,Les Catbédrales de Frame, Librairie Annand Colin,Paris,1914. / L'Art,Entretlens Rénnis par Paul Gsell,Bernard Êditeur,Paris,1911 / Camille Mauclair,Auguste Rodin,The Man-His Ideas-His works,trans.by Clementina Black, Duckworth and Co., London,1905 他

展示作家
 高村光太郎《腕》 戸張孤雁《男の胴》 中原悌二郎《老人》 荻原守衛(碌山)《坑夫》(石膏複製)
 カミーユ・クローデル《ロダン》 オーギュスト・ロダン《鼻欠けの男》(石膏複製) 他


同館では、昨夏、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催して下さいまして、当方、関連行事としての講演を務めさせていただきました。今回は「特別」がつかない企画展で、会場も第二展示棟のみ、昨年のものよりはこぢんまりと開催されます。関連行事、図録の発行もないようです。

光太郎とロダンがらみの資料で、展示にお貸しできるものをリストアップして同館に送りました。初版の『ロダンの言葉』正続(大正5年=1916、同9年=1920)、普及版の『ロダンの言葉』正続(昭和12年=1937の最終版)、評伝『ロダン』(昭和2年=1927)などなど。

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ところが、そのあたりの光太郎生前のものは館で所蔵しているため不要、逆に新しめのものを貸してくれとのことで、昭和34年(1959)の新潮文庫版『ロダンの言葉』正続、平成17年(2005)の沖積舎復刻正続合本『ロダンの言葉』、同19年(2007)の講談社文芸文庫版『ロダンの言葉』をお貸ししました。

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調べてみましたところ、新潮文庫版はもとより、平成の沖積舎版、講談社文芸文庫版すら既に絶版になっています。他に岩波文庫でも『ロダンの言葉抄』(初版・昭和35年=1960)が出ていましたが、そちらも版を断っています。

ということは、『ロダンの言葉』を入手したければ、もはや古書で購入するしかないわけで、なんだかなぁ、という感じです。昔の美術家の卵にはバイブルに等しい扱い、美術史上の金字塔的著作だったのですが、昨今の美大生などはもしかすると、「『ロダンの言葉』? 何、それ?」という状態なのかも知れません。

そういうわけで、とりわけ若い世代の方々にご覧頂きたいものです。

始まりましたらなるべく早く行って、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

方式は簡単すぎて児戯に類する

詩「一艘の船が二艘になること」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ロダンの芸術なども、「自然」に学ぶ抽象無視、という意味では、簡単すぎる方式です。しかし、ひねりにひねったり、やかましい様式の約束事に縛られたりで、かえって自然から離れ、生命観を喪失してしまっていた当時の芸術界においては、ロダン芸術の出現は、ある意味革命的でした。

その魂を受け継いだ光太郎や碌山荻原守衛、そしてさらに彼らの系譜を受け継いだ後身の作家たち。やはりそういう流れを理解することも大切だと思います。

ピアニストの荒野(こうの)愛子さん。これまで『智恵子抄』からのインスパイア的なオリジナル曲を作られ、CDをリリースなさったり、コンサートで取り上げて下さったりしている方です。

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昨年も横浜戸塚で「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」を開催され、当方も拝聴して参りました。その際は、クラリネットの新實紗季さん、ヴァイオリンで藤田有希とのコラボで、光太郎と中原中也の詩へのオマージュ的なプログラムでした。

最近は老舗ジャズライブハウス・横濱エアジンさんにもご出演。4月にはヴォーカル・鈴木典子さん、ヴァイオリンの西田けんたろうさんとのセッション「plays SONGS, sings SCENES」で、中也作品を取り上げられました。これまでと違い、インストゥルメンタルではなく、さまざまな方向性をさぐってらっしゃるようです。


来月初めにも、同じ横濱エアジンさんのライブにご出演されます。

~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて 

期  日 : 2017年7月2日(日)
時  間 : 19:30~
場  所 : 横濱エアジン 横浜市中区住吉町5-60
出  演 : 荒野愛子 Piano, Composition   鴻野暁司 Bass   吉島智仁 Drums

今回はまたインストで、ほぼほぼ純粋にジャズ系のようですが、どのようなコンポジションになるのか、興味深いところです。日程的に都合がつけば参上するつもりでおります。

昨今、静かに「文豪」ブームでして、こういう切り口からも「文豪」の世界がひろがることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

君は見るだらう 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを なぜだらう 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ

詩「友よ」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

順風の時だけお互い利用し合い、逆風が吹き始めると手のひらを返してばっさり切り捨てる、真逆の人が多いですね。特に永田町界隈に(笑)。

一昨日の地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。

西南に「道の駅」構想 花巻 県道盛岡和賀線市内4番目 20年度開業目指す

003 花巻市太田、笹間両地区を合わせた「西南地区」を南北に貫く県道盛岡和賀線で、新たな「道の駅」の整備が検討されている。花巻市の基本構想では、2020年度の開業を目指しており、実現すれば市内では石鳥谷町の「石鳥谷」、大迫町の「はやちね」、東和町の「とうわ」に続く4番目の施設になる。
 同線は、花巻市を挟んで盛岡、北上両市を結ぶ幹線道路。国道4号を補完する物流路線や緊急輸送時の2次路線などとして重要な役割を担っているものの、沿線沿いには休憩施設がなく、地元からは商業施設や生活利便施設としての機能も視野に整備を望む声が寄せられていた。
 10年の道路交通センサスによると、同線の平日1日当たりの交通量は最大で2万1603台。両地区は東北道花巻南インターチェンジ(IC)から約4・6キロ、花巻温泉や台温泉、花巻南温泉峡といった温泉地からも10キロ圏内と恵まれた立地の一方、地域にとっては商業施設がないことや飲食店が少ないことが課題となっている。
 加えて西南地区は合併前の旧花巻市地域で最も人口・世帯数が少なく、活性化への課題もあることから、地域資源としての同線に着目。高村光太郎ら地元ゆかりの偉人の話題も多い花巻の文化・観光情報や農作業体験情報の提供のほか、万一に備えた防災拠点、宅配・給食・見守りサービスなどの拠点としての機能も含めた整備が検討されている。
 地域住民らとの協議も踏まえて市がまとめた基本構想では▽農業と地域コミュニティの交流拠点▽市の人・もの・情報の交流拠点▽ホンモノに出会える体験情報の発信―の3点を基本方針に設定。今後は基本計画や基本設計、管理運営体制の検討などが進められる見通しだ。
 地元住民で組織する西南地域振興協議会の本舘憲一会長は「施設整備後の管理運営が重要。構想は練られたが、実務をどうするのか。地元で取り組むことになるので、これから組織の立ち上げを本格的に進めたい」と意欲を示している。

というわけで、光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋(高村山荘)にほど近い場所に、新たな道の駅が作られるという報道です。

昨年あたりから計画が具体化、花巻市さんや岩手県さんのサイトにもぽつりぽつり情報が出ています。この計画は花巻高村光太郎記念会さんにも早くから伝えられており、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設置するという話もあるようです。

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高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん、入場者数の部分では苦戦しているそうですが、花巻市街から遠いこと、周辺に他の観光施設がまったくないことなどもその原因でしょう。

ここで新たな道の駅ができることで、高村山荘・高村光太郎記念館への新たな導線となることが期待されます。

道の駅が静かなブームで、当方の生活圏にもいくつか作られました。しかし、明暗が分かれています。やはり他にはない特徴を前面に押し出し、施設設備の部分でも充実しているところは勝ち組となっています。そうでないところは単なるトイレ休憩所的な……。

花巻西南に新たに作られる道の駅が、にぎわうことを切に祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

否、人はロボツトぢやない。 否、社会は機関車ぢやない。 否、個人は鋲や歯車ぢやない。            
詩「機械、否、然り」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

人を人として扱わない、強欲な資本主義社会への痛烈な批判です。この頃の光太郎の立ち位置をよく表しています。

「ロボット」の語は、1921年にチェコの作家、カレル・チャペックが創出したとされています。光太郎のこの詩は、我が国における「ロボット」の語のかなり早い使用例と思われます。

0044月に亡くなった詩人の大岡信氏。『朝日新聞』に連載されていたコラム「折々のうた」などで、光太郎に触れて下さっていました。


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静岡三島の大岡信ことば館さん、大岡さんが永らく勤務されていた明治大学さん、そして大岡信研究会さんの主催で、追悼の集いが開催されます。

ご家族での密葬は既に終えられ、一般弔問者対象だということです。

大岡信さんを送る会

期 日 : 2017年6月28日(水)
時 間 : 18:00-20:00 (献花17:00~)
会 場 : 明治大学アカデミーホール(アカデミーコモン内3階)
       千代田区神田駿河台1-1

プログラム
 司会 桜井洋子(アナウンサー)
 1.開会の辞:西川敏晴(各主催者を代表して大岡信研究会会長による挨拶)
 2.弔辞
   弔辞① 粟津則雄(文芸評論家、フランス文学者、いわき市立草野心平記念文学館長)
   弔辞② 菅野昭正(世田谷文学館館長、フランス文学者)
   弔辞③ 谷川俊太郎(詩人)
 3.在りし日の大岡信さん(映像)
 4.ピアノ演奏:一柳慧(作曲家 ピアニスト)
 5.大岡信の詩の朗読:白石加代子(女優)
 6.ジュリエット・グレコの歌(映像)
 7.「大岡信さんと明治大学」:土屋恵一郎(明治大学学長)
  8.お礼のことば:大岡かね子

一般のお客様もご参加いただけます。
参加ご希望の方は、平服でお越しください。会費はいただきません。
また供花、供物、御香典はすべてご辞退させていただきます。


谷川俊太郎さんをはじめ、錚々たるメンバーですね。大岡氏の功徳のほどが偲ばれます。かくありたいものです。


【折々のことば・光太郎】

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。 往来に立つて夜更けの大熊星をみてゐる。 別の事を考へてゐる。

詩「のつぽの奴は黙つてゐる」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「のつぽの奴」は、身長180㌢超の光太郎です。詩の冒頭近くにも使われています。

親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか、何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。(略)いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。

舞台は昭和3年(1928)4月16日、東京会館で行われた光太郎の父・高村光雲の喜寿祝賀会です。口さがない参会者のひそひそ話(だいぶ「盛っている」ような気がしますが)を引用しているという設定です。

光太郎にしてみれば、世間並みの栄達など、縁もなければ興味もありません。しかし、世間的にはそれでは通用しないわけで、確かにある種の「曝しもの」ですね。しかし、祝賀会からの帰り道、天極に輝く大熊座(北斗七星)を見上げ、その立ち位置を甘んじて受けようと覚悟を語っています。

大岡信さん曰く、

昭和の四、五年頃に「詩・現実」という雑誌に高村が詩を発表しているんです。あれは一種同伴者的な雑誌ですけど、あの中でこの種の高村の詩を見ると、むしろ一番急進的で左翼的なんです。迫力があります。断言のいさぎよさみたいなので、他の人のはインテリ的な口振りがつきまとうから、マルクス主義について言っても、アナーキズムについて言っても、どことなく間接的なんですけど、高村の詩が出てくると非常に強烈ですね。
(「討議 超越性に向かう詩人の方法 その生涯をつらぬいたもの」 『現代詩読本 高村光太郎』 昭和53年=1978 思潮社)

なるほど。

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JR成田駅前の成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリーで、以下の企画展が催されています。

下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~

期 日 : 2017年6月3日(土)~6月25日(日)
会 場 : 成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリー5F 
       千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時から午後5時
休館日 : 月曜日
料 金 : 無料
主 催 : 成田市 成田市教育委員会

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昨日の『朝日新聞』さんの千葉版に載った記事です。

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宮内庁下総御料牧場は、明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、宮内省(当時)直轄化。成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に那須に移転するまで存続していました。

一帯は、成田空港や宅地となっていますが、航空写真を見ると、牧場だった頃の名残があちこちに見られます。この楕円形になっている道路などもその一つ(NHKさんの「ブラタモリ」のようですね(笑))。

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光太郎の親友だった作家の水野葉舟が大正13年(1924)にこの地に移り住み、昭和22年(1947)に亡くなるまで、牧場近くに住み続けました。葉舟は、元々、前年に光太郎が日本画家の山脇謙次郎のために建ててやった小屋に入り、その後、近くに自分で家を建てました。そうした縁もあり、光太郎も何度か御料牧場を訪れています。ただし、細かな年月日、何度訪れたかなどは現時点では不明です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎は御料牧場を舞台に、詩「春駒」を作りました。

  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり003
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。


昭和52年(1977)には、この詩を刻んだ碑が、かつての御料牧場跡地に建てられた三里塚御料牧場記念館を含む三里塚記念公園内に除幕されました。

実は最近、大正時代に御料牧場の獣医師だった人物の御子孫(東京ご在住)から連絡がありました。光太郎と葉舟がかつて牧場内のその獣医師の官舎を何度か訪れ、別のご子孫のお宅に、光太郎関連の資料が遺っているとのこと。この秋に拝見するお約束をいたしました。もしかすると、前述の御料牧場を訪れた、細かな年月日、何度訪れたかなどの手がかりがつかめるかも知れません。

そうした関係もあり、もう一度、御料牧場について調べ始めた矢先に、この企画展。隣町ですので、早速、拝見して参りました。

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昭和17年(1942)から同39年(1964)にかけ、代9代の牧場長を務めた、故・田中二郎氏のアルバムから採った写真が中心で、光太郎が訪れた時期より下るものでしたが、興味深く拝見しました。

御料牧場ということで、皇室の方々もよくいらしていたようで、颯爽と馬にまたがる今上天皇の皇太子時代のお写真、美空ひばりさんやエンタツ・アチャコさんらが写っている同牧場での映画のロケでのスナップ(上記チラシ等に使われているもの・おそらく昭和25年=1950封切りの「青空天使」)などなど。

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前列左から4人目の少女が美空さん、その右隣が母親役の入江たか子さんです。後ろには牧場のサイロが写っています。

写真以外にも、動物彫刻家・池田勇八から田中が贈られた騎馬像なども展示されていました。池田は東京美術学校での光太郎の後輩に当たり、光太郎は文展や帝展の評では、池田の作品を比較的好意的に紹介しています。

牧場跡地の三里塚記念公園ともども、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世の表層(うはかは)をむき取るとこんなに世界は美しい

詩「“Die Welt ist schoen”」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

005題名の「“Die Welt ist schoen”」は、「世界は美しい」の意の独語です。ドイツの写真家、アルベルト・レンゲル・パッチュがこの2年前に刊行した写真集の題名を転用しており、詩の中にもレンゲルに語りかける部分があります。

のちに光太郎自身も「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)を書きましたし、表記を変えて揮毫したりもしています。右は今年2月に亡くなった、埼玉東松山市教育長、日本ウオーキング協会副会長だった田口弘氏に贈られた書です。

「美し」といえる世界であって欲しいものです。ところが、「美しい国、日本」はどこへやら、提唱者自身がこの国を踏みにじっているのが現状ですね(笑)。

今月はじめのこのブログで、光太郎の父・高村光雲が明治33年(1900)に制作し、太平洋戦争中の金属供出で無くなり、一昨年再建された静岡県袋井市の寺院「可睡斎(かすいさい)」の境内に建つ「活人剣の碑」に関して、その由来などを描いた紙芝居が出来たという報道をご紹介しました。

他の方のブログで情報を得ましたが、それに伴い、袋井市さんの市役所2階・市民ギャラリーで、その紙芝居原画展が始まっています。20日(火)までだそうです。

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YouTubeに動画もアップされていました。


「YUKIKO」さんは、本名・鈴木幸子さん。

さらに袋井市さんのHPを調べてみましたところ、紙芝居「活人剣の物語」PDF版(PDF:1.6MB) ということで、全篇を見ることが出来るようになっていました。

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光雲作の初代「活人剣の碑」竣工の様子。光雲の名も出して下さっています。

ところが、金属供出で、台座のみになり、訪れる人もいなくなってしまったよ……的な場面。

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しかし、一昨年、地域に眠る日中友好の遺産に再び光を当てるべく、地元の人々の熱意で再建されました、というわけで……。

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碑の再建、紙芝居による啓蒙、その展示、こうした地味ながら地域の宝に光を当てる活動には、頭が下がります。

そして、金属供出などという馬鹿げた事態が起こらない、平和な世の中が続くことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

どんな豪雨や、 どんな突風にも、この消えずの火をまもつて、ぎつしり築いた、肉の歴史を未来に手渡す者は、 倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる。
詩「消えずの火」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

この時期の光太郎同様、アナキストやプロレタリア文学者たちに近い位置にいた詩人・生田春月の追悼詞華集『海図』に寄せた詩です。

生田はさまざまな社会矛盾がアナーキズムやマルキシズムによって解決できないことから、次第に虚無思想的な方向に進み、この年、投身自殺を遂げました。一説には、同年だった芥川龍之介の自裁にも強い影響を受けたといいます。

倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる」、つまり、生田の死を賭しての問題提起を無駄にするな、ということになりましょう。「罅隙」は「かげき」と読み、「裂け目、割れ目、亀裂」の意です。

昨日の『朝日新聞』さんに載った訃報です。

西郷竹彦さん死去

 西郷竹彦さん(さいごう・たけひこ、本名・隆俊=たかとし、文芸教育研究協議会会長)12日、急性肺炎で死去、97歳。葬儀は家族のみで営む。喪主は妻京子さん。同協議会が7月29日に神戸市で開く「文芸研神戸大会」の中で、「偲(しの)ぶ会」を催す予定。著書に「西郷竹彦文芸・教育全集」など。

『東京新聞』さんにも、ほぼ同一の訃報が掲載されたようですが、他紙はネット上では見あたりませんでした。

当方、氏の御著書を一冊持っており、朝刊を広げてお名前を訃報欄で目にし、「あらららら……」と思った次第です。

それが黎明書房さんか004ら平成5年(1993)刊行の『名詩の美学』。小中高の教科書に採用されたものを中心に、光太郎を含む30余名の近現代詩人の作品を取り上げ、「美の構造仮説にもとづく解釈」(「はじめに」より)が為されています。

どちらかというと国語教員向けに書かれたようで、カバーには「小・中・高における詩の「読解鑑賞指導」の限界を明らかにし」という文言も記されています。版元の黎明書房さんは、教育関係図書の出版で実績を持っています。西郷氏ご自身、訃報にあるとおり、文芸教育研究協議会会長であらせられ、鹿児島県立短期大学文学科で教鞭を取られていました。

しかし、純粋に教員向けかというとそうでもなく、授業指導のあり方を提案するとかではないので、いわゆる「教育書」の範疇には入りません。個々の詩の作品論集成です。

光太郎詩は「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)が扱われています。題して「たがいに異質な感情の止揚――高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」」。

終末部分を引用させていただきます。

 この詩の美の構造を図式的に表現するならば、次のようになるだろう。
 怒りの口調に悲しみの心を述べる。悲哀の姿に滑稽をさえ感じさせ、さらに滑稽であることでいっそうのみじめさ、哀れさをひきおこさせる。卑属にまみれた姿の中に超俗の姿を、また失われた聖なるものの姿を垣間見せる。美をねがい救いを求め、理想にあこがれる姿に愚と聖を同時にとらえ、小さな素朴の中に無辺大の夢を追う。つまり駝鳥にして駝鳥にあらざるもの――人間――をともに描き出す。
 ここに、この詩の美の構造を見ることができる。たんに〈怒り〉〈憤怒〉〈批判〉〈抗議〉とのみ見てはならない。

なるほど。

調べてみましたところ、「増補版」が平成23年(2011)の上梓、まだ在庫があるようです。目次は以下の通り。

 序 現実をふまえ、現実をこえる世界―佐藤春夫「海の若者」
 1 矛盾するイメージの二重性―井伏鱒二「つくだ煮の小魚」
 2 美の典型をとらえる―村野四郎「鹿」
 3 一瞬にして永遠なる世界―三好達治「大阿蘇」
 4 イメージの筋が生みだすもの―小野十三郎「山頂から」
 5 現実と非現実のあわいの世界―中原中也「一つのメルヘン」
 6 象徴化されていくプロセス―萩原朔太郎「およぐひと」
 7 日常性に非日常を見る―長谷川龍生「理髪店にて」
 8 心平詩〈つづけよみ〉―草野心平「天」「作品第拾捌」「海」
 9 否定態の表現―中野重治「浪」
 10 たがいに異質な感情の止揚―高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」
 11 現実が虚構である世界―丸山 薫「犀と獅子」
 12 無意味(ナンセンス)の意味―谷川俊太郎「であるとあるで」
 13 自他合一の世界―安水稔和「水のなかで水がうたう歌」
 14 一即一切・一切即一―高見 順「天」
 15 自己の存在証明―石原吉郎「木のあいさつ」
 16 天を見下ろす逆説―山之口 貘「天」
 17 自己分裂・喪失の悲喜劇―藤富保男「ふと」
 18 根拠なき推理の生む虚像―藤富保男「推理」
 19 生命の芽ぶくドラマ―安東次男「球根たち」
 20 まとめられぬまとめ―詩の美のかぎりない多様さ
 21 二相ゆらぎの世界(宮沢賢治)―その1「烏百態」
 22 二相ゆらぎの世界(宮沢賢治)―その2「永訣の朝」
 補説 西郷文芸学の基礎的な原理―主として「話者の話体と作者の文体」について

ぜひお買い求めください。


なお、当方、もう一冊、氏の名が「監修」でクレジットされている書籍も持っています。しかし、重大な瑕疵のあるものですのでご紹介は控えさせていただきます。ただし、その瑕疵に西郷氏は関わっていません。あくまで出版社としての矜恃を持たない間抜けな版元のボーンヘッドで、監修者としての氏が実に気の毒に思われます。

閑話休題。改めまして、謹んで西郷氏のご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

憤りか必至か無心か、 この人はただ途方もなく 無限級数を追つてゐるのか。
詩「刃物を研ぐ人」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「刃物」は彫刻刀や鑿の類、「刃物を研ぐ人」、「この人」は光太郎自身です。

まさに飽くなき美の探求、そこに生涯をかける意志の表出ですが、それはどこまでいっても終わりのない道程でもあります。人生もとっくに後半生に入っていることを自覚し、残された時間で自分はどこまで進めるだろう、という、青年期の単なる無邪気な夢の追求では済まされない、悲壮感も読み取れます。

そしてそっくり我が身にも……と感じる今日この頃です(笑)。

出版社コールサック社さんから、季刊詩誌『コールサック』の第90号が届きました。昨年の連翹忌に主幹の鈴木比佐雄氏がご参加下さり、そのご縁から毎号送って下さっています。恐縮です。

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その上、毎号のように光太郎に触れて下さっていて、その点でも恐縮です。3月に発行された第89号では、光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一(明37=1904~昭20=1945)のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

今号では、野澤一の詩、9篇が掲載されています。すべて野澤生前唯一の詩集『木葉童子詩経』から選ばれています。そして野澤のプロフィールの中で、光太郎に触れられています。

『木葉童子詩経』は、昭和9年(1934)、6年間に001わたる山梨県四尾連湖畔に丸太小屋を建てての独居自炊の様子を謳ったもので、光太郎にも贈られました。

光太郎から野澤への礼状が遺っています。

啓上 “木葉童子詩経”一巻今日拝受、 忝く存じます、
以前原稿の御送附をうけてそれぎりになつてゐた事を思ひ出しました、其時は丁度妻が危篤状態の際で一切を放擲してゐた時でした、
妻の病気はまだ続いてゐますが 今は読書の余裕も出来ました、早速拝読します、

日付は昭和9年(1934)4月25日。智恵子の心の病がのっぴきならなくなり、千葉九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・節子一家のもとに智恵子を預ける直前です。

「危篤状態」云々は、昭和7年(1932)、睡眠薬アダリンを大量に服用しての、智恵子の自殺未遂を指します。

その後、野澤は昭和14年(1939)から翌年にかけてと、死の直前に、光太郎にあてて近況報告やらその時々の思いやらを綴った書簡を実に数百通、ほとんど一方的に送り続けました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。

そのエネルギーに押されてか、光太郎は、随筆「某月某日」(昭和15年=1940)中で、野澤をして次のように評しています。
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二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大竜の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。

『木葉童子詩経』は、昭和51年(1976)と、平成17年(2005・右画像)に、文治堂書店さんから再刊されています。

一昨日のこのブログで、文治堂書店さん創業者の渡辺文治氏の訃報を書きまして、その中で、当会顧問の北川太一先生の「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すという同氏の姿勢に受けた感銘を紹介いたしました。こう言っては失礼ですが、この『木葉童子詩経』もその一冊といえそうです。

さらにはこうした無名詩人を毎号取り上げる『コールサック』も、社は違えど、同じにおいを感じます。

それぞれ出版文化の継承という意味でも、意義のある仕事です。継続していただきたく存じます。そして願わくは、「売れそうもない」という状態でなくなることを、と思います。


【折々のことば・光太郎】

うそは決してつくまい、 正しい人にならう、真理を究めよう、 すなほに、やさしく、のびのびと、 朝日のやうにいきいきと進まう。

詩「春の一年生」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

光太郎の手元に残された草稿に「冨山房教科書一年生用のために」とのメモ書きがあります。

以前にも書きましたが、「一年生」といっても、冒頭近くに「小学校はもう昔」とあるので、小学一年生ではなく、小学校卒業後に進む、旧制中学校(5年制)や高等女学校などの一年生でしょう。

ただ、この詩が載った当時の教科書がまだ確認できていません。情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

それにしても、昨今話題の「もりかけ問題」(蕎麦は関係ありません(笑))関係者に朗読させてみたいものです(笑)。

テレビ放映情報です。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓

WOWOWプライム 2017年6月17日(土) 22時00分~23時00分 第1話無料放送

『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』などで知られる、国民的作家・宮沢賢治。
孤高の存在として語られる印象とは裏腹に、じつはユーモアに溢れた好奇心の人でした。 賢治とは一体どんな人物で、如何なるものを食したのでしょうか!?
賢治の愛した食べ物には、家族や隣人、そしてやがて早逝する最愛の妹への深い愛情が秘められていました―。
若かりし頃の天真爛漫な宮沢賢治の青春時代を、彼の愛した食やクラシック音楽を通して、家族や親しい人たちとの関わりを描いた感涙必至の物語。
特に傑作詩篇「永訣の朝」にうたわれた最愛の妹・トシとの死別に描かれる兄妹愛の行く末は、涙なくして観られません。今までの映像作品ではなかなか描かれなかった、泣いて笑って躍動する、瑞々しい宮沢賢治 by 鈴木亮平に是非ご期待ください!!

第一話「幸福のコロッケ」
東京に家出をしていた質店の長男・宮沢賢治(鈴木亮平)は妹・トシ(石橋杏奈)の病気の電報を受け、岩手・花巻に帰郷する。母・イチ(神野三鈴)や弟妹たちには歓迎されるも、厳格な父・政次郎(平田満)とはなかなかうまくいかない。食、音楽、文学とあらゆることに興味のある賢治だが、自分を熱くするものを見つけられずにいた。そんなある日、農家の吉盛(柳沢慎吾)一家に出会う。

原作 魚乃目三太(少年画報社刊「思い出食堂」より)
脚本 池田奈津子
音楽 サキタハヂメ
監督 御法川修
出演 鈴木亮平、石橋杏奈、山崎育三郎、市川実日子、柳沢慎吾、井之脇海、神野三鈴、平田満 他


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設定は大正10年(1921)頃のようです。その5年後に、光太郎とただ一度だけ出会い、光太郎の生涯にも大きく関わる宮沢賢治が主人公のドラマです。全5話で、有料放送のWOWOWプライムさんでの放映ですが、第1話のみ無料放送だとのこと。

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鈴木亮平さん演じる賢治自身も光太郎を敬愛し、大正15年(1926)、自ら本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪ねていますが、より光太郎と深く関わった、賢治の家族が登場する点で、興味を引かれています。

賢治の父・政次郎。平田満さんです。賢治歿後に、『宮沢賢治全集』の発刊や、花巻に建った賢治詩碑の揮毫などで世話になった光太郎に恩義を感じ、昭和20年(1945)、空襲でアトリエを焼け出された光太郎を花巻に招きました。

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その妻・イチ。神野三鈴さんが演じます。宮沢家に疎開した光太郎は、すぐに結核性の肺炎で高熱を発し、約1ヶ月臥床。その間、そしてその後も、自宅が空襲で焼ける8月10日まで、かいがいしく光太郎の世話をして下さいました。

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こちらが光太郎(右)と、リアル政次郎・イチ夫妻です。

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賢治の弟・清六(井之脇海さん)と、妹・シゲ(畦田ひとみさん)。

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兄を亡くした二人にとって、光太郎は兄のように思えたのでしょうか、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれたりしました。

賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治遺品のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和21年(1946)から24年(1949)にかけて、日本読書組合から発行された『宮沢賢治文庫』は、清六と光太郎の共編です。光太郎が花巻郊外太田村に移ってからも、二人はお互いに行き来していました。

シゲは光太郎が疎開してきた際には、既に岩田家に嫁いでいましたが、ちょくちょく実家に帰り、やはり光太郎の世話を色々焼いてくれました。亡き智恵子が織った反物から、羽織やモンペを仕立ててくれたのもシゲですし、光太郎が宮沢家に厄介になっていた頃には、光太郎のために毎日山羊の乳を入手する手配をしてくれました。

それから、賢治の親友・藤原嘉藤治(山崎育三郎さん)。やはり賢治つながりで、光太郎と親交がありました。

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リアル嘉藤治(中央)と光太郎(左)。

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石橋杏奈さん演じる賢治の最愛の妹・トシは、賢治が光太郎と出会う以前の大正11年(1922)に亡くなっていますが、その死を謳った賢治の絶唱「永訣の朝」は、光太郎が智恵子の最期に題材をとぅた「レモン哀歌」に影響を与えていると考えられます。ちなみに、やはり面識はなかったと思われますが、トシは智恵子と同じ日本女子大学校に通っていました。

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動画投稿サイト「YouTube」から。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/メイキング映像



ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

孤独の痛さに堪へ切つた人間同志の 黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ 孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢に縁はない 

詩「
孤独が何で珍らしい」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

トシ、賢治と、我が子二人を逆縁の不孝で失った政次郎。妻・智恵子に先立たれ、空襲で住処も無くした光太郎に、黙って手を差し伸べてくれました。まさしく「黙つてさし出す丈夫な手と手のつながり」ですね。

欲得ずくで集まっただけのどこぞの政党や、自分の都合が悪くなるとトカゲのしっぽよろしく、手のひらを返して手を切ろうとする大臣閣下諸氏――「孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢」――に贈りたい文言です(笑)。

光太郎関連のさまざまな出版物を刊行して下さっている、東京杉並の文治堂書店さん。そちらの創業者・渡辺文治氏が先月、亡くなったそうです。

当方、直接面識はありませんでしたので、すぐに知らせが来なかったのですが、昨日、別件で同社から届いた書簡にその旨の記述と、葬儀の際の会葬御礼が同封されていました。

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003同社から刊行された当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に、「文治さんと清二さん」という小文が掲載されており、そこで渡辺氏についての思い出が語られています。初出は平成2年(1990)、同社のPR誌『トンボの眼玉』でした。「清二さん」は渡辺氏の筆名「谷川清二」のことで、「文治さん」と「清二さん」は同一人物です。

氏の業績、人となりのご紹介のため、抜粋します。

 文治さんがはじめて応接間とも書斎とも書庫とも物置ともつかぬ、机一つないわが家の四畳半にやって来て、窮屈そうに坐ったのは、あれはいつのことだったろう。
 ずっとガリ版で出し続けていた『光太郎資料』が二十冊あまりになったのを、詩の輪読会のメンバーの一人、日大法学部の田鍋幸信さんが見て、文治さんに話したらしい。文治さんのことは、僕の大好きな中島敦の、立派な四冊の本の出版社として知っていた。本は飛び切り上等だったけれど、社長と社長夫人しかいないその出版社の実情は、例えば小説「シュロ竹」を見よ。文治さんの本屋さんだから、糞真面目に文治堂というのも良いではないか。
 目の前にいる文治さんは、活字で『光太郎資料』出しましょう、という。好男子なのに風采決して陸離とは言えない。低い声でぼそぼそ話す文治さんの、思い切りのいい決断。文治さんはいったい何を考えているのだろう。
 その本が文治さんの目にかなったとしても、売れる筈のないそんな本を、出す出版社はおそらくない。半分あきれかえりながら、僕はこの降って涌いた計画に熱中した。しかもあろうことか、六冊の無鉄砲なシリーズは、昭和五十二年に五年かかって完結した。

004こうして世に出たのが、『高村光太郎資料』全六集。母胎は北川先生編集の『光太郎資料』ですが、そのまま単行本化したわけではなく、徹底して再編がなされ、第一集から第三集までは、昭和32年(1958)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』補遺作品の巻。平成11年(1999)に同全集の増補改訂版が完結するまで、補遺巻としての役割を果たし続けました。

第四集から第六集までは、諸家による光太郎智恵子の同時代評、回想、そして第一~三集のさらに補遺。こちらも貴重な資料集成です。

これで北川先生と同社との関わりが出来、以後、光太郎関連の出版物等が同社から刊行されたり、同社発行の雑誌に先生の玉稿が載ったりしました。画像の広告にある光太郎デッサン「裸婦」複製などもその一環です。

再び北川先生の玉稿から。

 その間にも感じたことは、このやさしく、声高に語らぬ人が、強情我慢な一面もあり、ことに自分の美意識や語感にかけてはゆずらないこと。ふと作家論などを始めると、思いもかけず熱っぽい、頑強な評論家に豹変すること。「五万円もあれば暮らせますよ」という何気ない文治さんの言葉にも、この人は決して、商売の出版屋にはなれないだろうな、と思いながら、いささか古めかしいけれど、われら同世代には通じるに違いないこの人の、「志」を僕は感じはじめていた。そしてその文治さんの「志」をつつむ文治さんの家の、奥さんや息子さんのなんとも言えぬ温かさも。


雑誌としては、『蝉』、『近代詩研究―詩と音楽―』といったあたりに、北川先生の玉稿が載りました。『高村光太郎資料』を補う、光太郎の評伝「高村光太郎伝試稿」。こちらは掲載誌や形態を変えつつ、現在は高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究』誌上で続いています。

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 『資料』の最後の巻がまだ出来上がらない頃、文治さんは文治堂のPR誌を作るという。僕は長い間地面の中でいのちを養い、或る日与えられた短い時を力いっぱい歌いあげる『蝉』という名を提案し、それは文治さんに採用された。第一号が陽の目を見たのは、ちょうど鳴きしきる蝉の季節、昭和五十年七月のことだったけれど、出来上がったのは、とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある文芸誌だった。

その中で、渡辺氏は「谷川清二」の筆名で、私小説風の一篇を発表し、出版者と小説家の二足のわらじの活動が始まりました。

 文治さんは相変わらず、惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出したが、清二さんの小説も次々に生まれた。それは読む者をよろこばせ、或いはさまざまな感慨に誘った。はじめの頃の軽妙に人間の機微を描いた作品は、それぞれのやり方で僕等が歩いて来た、戦中戦後の重い人生への反芻にひろがり、今を覆い、一転して古代に託した力強い人間説話ともなった。

平成のはじめ頃には引退され、現社主の勝畑耕一氏に引き継がれたようで、おそらく引用した北川先生の玉稿は、引退記念のはなむけなのではと思われます。

勝畑氏に委譲された同社、その後も「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すというコンセプトは受け継がれ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな良書が刊行されています。また、「とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある」PR誌も、昨年、『トンボ』として復活。書かせてくれと言った覚えは全くないのですが(笑)、当方も半ば強引に執筆陣に加えられ、さらに来月発行の次号からは、連載も始まります。

その渡辺氏の訃報。気骨と良心のある出版者がまた一人、旅立たれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ちよこまかとして戦ひ獲るのが如何に君の周囲の流行でも、 私はもう一度古風に繰返さう。 ――正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。――

詩「或る親しき友の親しき言葉に答ふ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩には珍しく、他の詩に書かれた詩句を引用しています。すなわち終末の「正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。」が、大正15年(1926)に書かれた「火星が出てゐる」からの転用です。

故・渡辺氏などもそういった考えから、「周囲の流行」に背を向け、数々の良書を世に送り出していたのでしょう。

虎の威を借る狐よろしく、「官邸の最高レベルが言っている」などと圧力をかけたり、「忖度」を駆使したりして、国有地や学部新設の権利などを、「ちよこまかとして戦ひ獲る」輩、それを許したり、斡旋したりしている輩に贈りたい言葉ですね(笑)。

光太郎の父・高村光雲に関わりそうな企画展示です。

台東区博物館ことはじめ

期 日 : 2017年6月16日(金)~9月20日(水)
時 間 : 月から土曜日まで 午前9時から午後8時まで
         日曜・祝日 午前9時から午後5時まで
            台東区西浅草3丁目25番16号 台東区生涯学習センター2階
料 金 : 無料
休館日 : 第3木曜日(祝日の場合は開館し直後の平日を休館)

 本企画展は、台東区発足70周年を記念して台東区の博物館をとりあげます。江戸時代の薬品会や物産会を源流とした博覧会の歴史、そして上野公園に誕生した黎明期の博物館の歴史をひもときます。
 あわせて台東区芸術文化財団が運営する一葉記念館、下町風俗資料館、朝倉彫塑館、書道博物館、旧東京音楽学校奏楽堂の写真を紹介します。

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関連行事 

トーク・イベント「台東区の博物館」 

日   時  平成29年7月8日(土曜日) 14時から16時まで
場   所  台東区生涯学習センター3階 301研修室
定   員  50名(応募多数の場合は抽選)
参加費  無料

1 「江戸の物産会から明治の博覧会へ」
   平野恵(台東区立中央図書館郷土・資料調査室専門員)
2 「台東区の博物館―朝倉彫塑館を中心に―」 戸張泰子(朝倉彫塑館研究員)

 申込方法
 (1)はがきによる申込
  往復はがき(一人一枚)に「トーク・イベント」と明記し、氏名・住所・電話番号を記入
  の上、以下の宛て先に
郵送してください。
  締め切りは、平成29年6月28日(水曜日)17時必着です。
  〒111-8621 台東区西浅草3丁目25番16号 台東区立中央図書館郷土担当  
 (2)電子申請による申込
  以下の電子申請フォームからお申し込みください。
  外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
  http://www.shinsei.elg-front.jp/tokyo/navi/procInfo.do?govCode=13106&acs=tosho
  申込期限は、平成29年6月28日(水曜日)17時です。
 

専門員によるギャラリー・トーク

 展示品の見どころを直接展示会場で解説します。
  日時 平成29年8月6日(日曜日)16時15分から17時まで
  場所 台東区立中央図書館2階 郷土・資料調査室
  
定員 先着20名
  申込 来館又は電話 03-5246-5911

専門員によるスライド・トーク

 展示品の見どころをスライドで解説します。
 日時 平成29年9月14日(木曜日)13時30分から14時まで
 場所 台東区生涯学習センター5階 504教育研修室
 定員 先着50名 申込 不要

もともと一介の仏師に過ぎず、しかも明治初めにはいわゆる廃仏毀釈のあおりで注文が激減、洋傘の柄や、陶器の灰皿の木型、はては縁起物の熊手まで作って糊口をしのいでいた光雲が、当代一流の彫刻家とみなされ、東京美術学校教授、帝室技芸員にまで上り詰める端緒となったのが、明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会でした。光雲は師・高村東雲の代作で「白衣観音像」を制作し出品、みごと一等龍紋章を受賞して一躍有名になったのです。

第二回内国勧業博覧会は、同14年(1881)、光太郎の生まれる二年前です。この際にも光雲は「龍王像」を出品しました。第三回は同23年(1890年)。この回から光雲は審査員を拝命しています。ここまでの会場は、上野公園の特設会場。第四回(同28年=1895年)は京都、第五回(同36年=1903)が大阪での開催となり、それでその歴史の幕を閉じました。

いっぽう、明治15年(1882)、第二回内国勧業博覧会の会場として建てられた煉瓦造2階建の展示館をメインに、さかのぼる第一回内国勧業博覧会の会場だった建物も使い、東京国立博物館が誕生しました。組織自体はもっと前からあったのですが、実質的なスタートはこの年です。

003今回の企画展、このあたりに関わる展示が為されるようです。上記チラシ表面で使われているのは、第二回内国勧業博覧会の会場を描いた錦絵(右の画像)です。裏面にも別の錦絵が掲載されています。

その後も光雲が出品した種々の展覧会などで、上野を会場としたものが少なからずあったと思われます。

ついでにいうなら、光太郎の展覧会出品歴も、はじめの頃はすべて上野でした。

明治33年(1900)、彫塑会第一回展覧会が上野公園竹の台陳列館五号館で開かれ、塑像「観月」を出品。翌年には同展の第二回で東京美術学校校友会倶楽部が会場、出品作は石膏レリーフ「仙」「まぼろし」。さらに同35年(1902)で、東京美術学校を会場に、塑像「獅子吼」を出品した同校生徒成績品展覧会。そして欧米留学に出る前年の同38年(1905)には、第一回彫塑同窓会展。会場は上野公園竹の台陳列館五号館、出品作は「薄命児」と「解剖台上の紅葉山人」でした。

ただし、今回の企画展のコンセプトからすると、時代が少し下るようです。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あいにくながら今は誰でも口に蓋する里のならひだ

詩「上州川古「さくさん」風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

過日ご紹介した「上州湯檜曾風景」と対を為す詩です。やはり上州山奥の、こちらは木酢工場を舞台とし、こき使われ、旅人=光太郎に人恋しさをつのらせる労働者をモチーフとしています。

前年には我が国初の普通選挙が実施されましたが、社会主義、共産主義、無政府主義の台頭に危機感を抱いた田中義一内閣は、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行い、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙されました。いわゆる三・一五事件です。これに抗議する小説『一九二八年三月十五日』を書いた小林多喜二は、これにより特高警察の逆鱗に触れ、昭和8年(1933)、拷問の末、虐殺されました。

光太郎の周辺でも、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚が、共産党員をかくまったかどで警察に留置されたのも、昭和3年(1928)のことでした。昭和3年といえば、治安維持法違反の最高刑が死刑に改悪された年でもあります。この後の泥沼の15年戦争へと向かう一つの転換点だった、非常にきな臭い時期だったわけですね。

しかし、本当に恐ろしいのは、為政者や軍の暴走ではなく、それを容認していた多数の一般国民の存在です。現今の我が国の情勢と非常によく似ていますね。さまざまな疑惑の当事者は「口に蓋」し、勇気を持って上げた声は黙殺され、あまっさえ見せしめの人格攻撃。そしてあったことがなかったことになる……。

こういうことを書いていると「テロ等準備罪」でひっくくられる、そういう世の中になってしまうのでしょうか?

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。今週月曜日の夕刊に掲載のコラム「河北抄」で光太郎の名が。

河北抄 2017年06月05日月曜日

 満天の星に吸い込まれた。先日、福島県大玉村の実家に帰り、見上げた夜空に心がすっとした。安達太良山の麓。高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「ほんとの空」は、夜もまた格別だ。
 6年前、激震が襲った日の仙台の夜空も、きれいだった。停電で不安と闇に沈む中心部。華やかなネオンに隠れていた輝きが、こんなにあったとは。
 「何もない非日常がいい」。青森市出身の館美里さん(24)は、あまり活用されていない福島県三島町の美坂高原で星空に魅せられた。地域おこし協力隊として町に移住した若い仲間と24日夜、「みさかDEあそぼ 星空×ヨガ」を催す。
 星を仰ぎ心身を癒やす星空ヨガ。提唱する三島町出身で郡山、仙台で活動するヨガ講師大竹沙紀さん(26)は「五感で星の鼓動を感じ、自分らしさを見つめてほしい」と。人にも個々の輝きがある。人口減、高齢化が著しい奥会津の小さな町だが、見方を変えればきらりと光る。
 仙台のビル街も、たまには明かりを消し、屋上で夜空を眺めてヨガ-実現できたら、どんなにすてきだろうなあ。


単に福島の空が美しい、だけでなく、「ほんとの空」を引いて下さり、ありがたいところです。

今後、梅雨が明けると夏の星座のシーズンですね。都会では夜も明るすぎ、星の観察には不向きですが、コラムにある大玉村や三島町(奥会津です)あたりでは、さぞ美しい星空が見えるような気がします。

郡山市ふれあい科学館さんで開催されていた第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト 作品展を、去年の今頃、拝見したことを思い出しました。「 “ほんとの空” のある、ふくしまの星・月の風景」というコピーが使われていました。コンテストはは昨年の第4回で終了してしまったようで、残念です。

追記:「ふくしま星・月の風景フォトコンテスト」、間があきましたが復活しました。

もう一つ思い出したのが、昨年、「“ほんとの空”から追い求めた夢の結実」と報道された、最高時速370キロのプロペラ飛行機によるレース「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」。先週末に千葉県立幕張海浜公園で開催された第3戦で、昨年に続き、福島を本拠に活動されている室屋義秀選手が2連覇を達成されました。すばらしいですね。

そうかと思えば、「河北抄」でも触れられていた東日本大震災、そして原発の事故がらみも報道され、あきれています。ようやく福井県の「もんじゅ」廃炉が決まったと思ったら、使用済み燃料の行き場がないとか、茨城では重大な被曝事故が発生しているにもかかわらず、「もんじゅ」の福井では高浜原発3号機が運転差し止めの仮処分がくつがえされて再稼働とか……。「営業運転に入れば、電気料金を値下げする」だそうで、こういうのをまさに「朝三暮四」というのだと思います。いいかげん目を覚ませと言いたくなりますが、トンデモ大臣のお膝元ですのでしかたがないのかもしれません。

ところで、「原発」、「ほんとの空」といえば、2012(平成24年)、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」。劇中に光太郎の詩「あどけない話」が使われ、このブログでも何度かご紹介してきました。昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で、主人公・真田信繁(幸村)の長男・大助を演じた浦上晟周さんも出演しています。

明日、福岡市の高取公民館で上映されます。

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「原発いじめ」問題もあった昨今、その問題も扱っているこの「ほんとの空」、もっと上映が広がってほしいものです。


最後は星空関連の明るい話題で。

戦後の7年間、光太郎が暮らした岩手県花巻郊外旧太田村。光太郎が暮らしていた昭和20年代は、まさしく星降る夜だったようで、当時書かれた随筆や日記に、天体に関する記述がたくさん見受けられます。そんな縁もあり、先日もちらっとご紹介しましたが、花巻高村記念館さんの講座的に、記念館・山荘周辺で星座観察会を催すことになりました。7月29日の夜です。花巻市さんも共催に入って下さり、当方もゲストにお招きいただきました。詳細が決まりましたらまた改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

さういふ道とはまるで違つた道があるのだ さういふ図形にまるで嵌らない図形があるのだ

詩「激動するもの」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「原子力村」の論理を振りかざす輩に贈ります(笑)。

ところで、「激動するもの」という詩、扱いに困る詩です。この詩が収められた『高村光太郎全集』増補改訂版第2巻刊行の平成6年(1994)時点でも初出掲載誌が不詳でした。また、光太郎の生前に刊行されたどの詩集にも掲載されませんでした。そこで、『全集』では光太郎の手元に残された草稿に記された形を採録しています。

その後、山梨県で自費出版的に刊行されていた雑誌『線』の第4号(昭和5年=1930)に初出だったことがわかり、掲載誌も見ることが出来ました。しかし、草稿と異なる箇所が二カ所。引用した部分、草稿で「さういふ道とは」が、『線』では「さういふ道と」、終末近くで同じく「微塵の中」が「微塵のうち」となっています。

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雑誌『線』掲載の段階で、光太郎がゲラ等の確認をきちんとしていたのであれば、掲載誌のとおりですが、そうでなければ誤植です。どちらなのか、現段階では不明です。

この点に関わる随筆、書簡などが新たに見つかれば、この問題も一気に解決します。実際、一つの随筆、書簡の新たな発見で、それまで不明だったことが分かった例はたくさんあり、今後に期待したいところです。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの土曜版。不定期に掲載される芥川賞作家の又吉直樹さんによる文学散歩的なコーナー「又吉直樹のいつか見る風景」。ちらりと光太郎の名を出して下さいました。

又吉直樹のいつか見る風景 日本橋から船に乗る(東京都中央区ほか)

004 日本橋の中央に全国への道路元標というものがある。道路でよく目にする「東京 500キロ」「東京 27キロ」と距離を示す標識の「0キロ地点」が日本橋だということだ。クイズとして、「あの標識はどこまでの距離?」と誰かが出題してくれないかと密(ひそ)かに期待しているのだが、まだその機会には恵まれていない。鮮やかに「日本橋!」と答える準備はできている。きっと、出題するまでもなくよく知られたことなのだろう。だが、その日本橋の下から舟に乗り遊覧できることはあまり知られていないのではないか。
 先日、そこから舟に乗った。「日本橋川」の上は高速道路が走るため、空はよく見えない。出発してすぐに鎧(よろい)橋がある。明治末、「パンの会」という新しい芸術の精神を持った若者(木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎など)が集まったカフェ「メゾン鴻の巣」が近くにあった。
 沿岸の建物のほとんどは川に背を向けていて、非常階段で喫煙している人の脱力した表情が印象に残った。かつては江戸城まで物資を運搬する水路だったが、現在は日常の裏側なのかもしれない。ところが、「隅田川」に出ると一気に視界がひらけて爽快だった。
(略)
 東京都心の川を、小型の船(舟)でめぐるクルーズが、いま人気だ。神田川の支流、日本橋川にかかる日本橋の船着き場からは、土日ともなると、多くの乗り合い便が発着している。
 今回は、船をチャーターし、NPO法人水都東京を創る会(suito.or.jp)のガイドで、江戸から近代にかけ、流域で花開いた文学活動の残り香を訪ねる旅、と決め込んだ。江戸橋、鎧橋と下り、隅田川へ出て、江戸入りした徳川家康が、日本橋川とともに造成した「塩の道」の小名木川へ。河口の万年橋の近くには、現在も芭蕉記念館が。扇橋閘門の先で折り返し、もと来た川を戻り、佃島を望みながら亀島川から再び日本橋川へ。約90分の旅だった。


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長いので省略しましたが、日本橋から扇橋までの船旅のレポートになっています。

日本橋から下流に向かうと、すぐ江戸橋、続いて鎧橋です。レポートにあるとおり、鎧橋際には、西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」がかつてあって、北原白秋木下杢太郎らが始めた芸術運動「パンの会」の会場として使われていました。明治42年(1909)、欧米留学から帰った光太郎もたちまちその渦に巻き込まれ、気焔を上げています。
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明治43年(1910)11月20日、日本橋の三州屋で行われた大会では、劇作家・詩人の 長田秀雄の入営壮行会を兼ねたものでしたが、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」 の貼り紙――幟(のぼり)という説もあり――に、光太郎が黒枠を描き込んだため、「萬朝報」に取り上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と糾弾されました。翌月に大逆事件の大審院第一回公判を控えていた時期であり、当局も過敏でした。

さらに同日、実際にはやりませんでしたが、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって、作家の木村荘太(画家・荘八の兄)と決闘騒ぎになりかけたりもしています。

このあたりは、木村の書いた小説『魔の002宴』(昭和25年=1950)に詳述されています。

さて、又吉さんのクルーズ。船をチャーターしてのものだったそうですが、いくつもの会社がクルーズ船を運行しています。チャーター便、その場で直接申し込む乗り合い便、一人でもOKというものもあります。

これまでもテレビの旅番組的なもので取り上げられており、レポーターの皆さん、一様に川から東京の街並みを観る新鮮さに驚きの声を上げていました。

機会を見つけて利用してみたいものです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

星が一つ西の空に光り出して 天が今宵こそ木犀色に匂ひ 往来にさらさら風が流れて 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる さういふ秋がやつて来たんだ

詩「秋が来たんだ」より 昭和
4年(1929) 光太郎47歳

関東は昨日梅雨入りだというのに、季節外れですみません(笑)。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を探していますので、こういうことも起こります。

どちらかというと、光太郎は「述志」の詩人と捉えられがちで、力強く自己の内面を表出した作品が多いのは確かです。

しかし、それにとどまらず、こうした何気ない詩句の中に、非常に美しい自然の描写などがあり、これもまた一つの光太郎詩の魅力です。

青森の地方紙『東奥日報』さん、先週の記事から。

十和田湖の魅力知って 大学生ツアー

 青森県弘前000市と十和田湖を結ぶ予約制のシャトルバスを運行している「りんごのふるさとシャトルバス運営協議会」(会長・櫻田宏弘前市観光振興部長)と弘前大学はこのほど、弘大生対象のモニターツアーを実施した。近年十和田湖観光から遠のいている若年層に魅力をアピールし、バスの利用を促進するのが狙い。昼前に休屋地区に着いた県外出身者中心の弘大生16人は、ガイドの案内で湖畔のスポットを巡った。
 一行は弘前市の弘大文京キャンパスを朝に出発し、秋田県の小坂鉱山事務所跡を見学した後に休屋に到着。2班に分かれてガイド付きで散策した。
 ガイドの1人は弘大OBで、十和田市の地域おこし協力隊活動2年目の山下晃平(こうへい)さん(27)。高村光太郎による「乙女の像」、十和田神社、修験者たちが修行や祈りを行っていた洞窟の跡が連なる「開運の小道」などを案内し、ナナカマド、ダケカンバ、ヤマツツジなど湖畔の豊かな植生の解説も織り交ぜた。
 十和田市が外部業者に委託して行った昨年10月の調査では、十和田湖地区への観光客はシニア層が中心で、将来的な「十和田湖ファン」の獲得が課題になっている。山下さんは見学を終え、休屋を去る学生たちに「土日でもこの通り、人が少ない。観光で食べている方も多いので、お客さんにもっと来てほしい。若い人がなかなか来てくれないことが悩みなので、感じたことをリポートにまとめて」と話していた。
 参加者の理工学部1年生・井畑礼さん(18)=札幌市出身=は、十和田湖を訪れるのが中学の修学旅行以来といい、「自然に触れる良い機会になった。今度はもっと天気のいい日に、友達と一緒に来てみたい」と話した。初めて訪れた理工学部大学院2年の女性=静岡県出身=も「今度は湖の上からの景色を見てみたい」と再訪に前向きだった。


十和田湖に限らず、当方、行く先々の観光地的な場所で、たしかに若年層の姿は少なく感じます。よく目にするのはいわゆるシニア世代の皆さん。その方々はお孫さんを連れて、というのではなく、老夫婦お二人でとか、気のあったお仲間同士でというのが目立つように思われます。家族形態やらそれぞれの年代のライフスタイルやらの変化が大きいのでしょう。

若年層にとっては、昔ほど「旅」というものにロマンを感じなくなっているのかもしれません。「旅をしないやつはダメだ」と決めつけるつもりは毛頭ありませんが、やはり見聞を広めるという意味では、百聞は一見にしかず、あちこち出かけるのが効果的です。

旅行にはお金がかかる、列車料金が高い、新幹線などで移動してもその先のローカル線や路線バスがどんどん廃止されている、高速道路料金も高い、第一、最近の若者は車離れ、バイト代はスマホ料金に消える、世の中全体不景気だし、わざわざ外に出ずともネットやテレビで居ながらにして情報は手に入る、スキーやら登山やらツーリングやらサイクリングやらも下火、娯楽形態の変化、仲間としじゅう一緒にいなくてもSNSでつながっているから行動を共にする必要もない、そして何といっても少子化……。要因を挙げればきりがありませんね。

そこであきらめてしまって、各自治体や観光関係者も手をこまねいていてはいけないわけで、記事にあるような試みもその打開のための一つの方策でしょう。

旅離れ現象が続く中でも、魅力的なテーマパーク、人気のイベントなどには人が集まっています。だからといって、ナントカ村とかの中途半端なテーマパークや、十分な計画性のない、一過性の流行イベントを観光地に誘致し、結局、長期的には人が来ずに負のレガシィとして残るというケースも少なくありませんね。そういう方向ではなく、あるものをいかに活用するか、いかにその魅力を発信するかが鍵だと思います。

各自治体や観光関係の皆さん、よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩とは文字ではない、言葉である。 言葉とはロゴスではない、アクトである。
詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「ロゴス」は論理、「アクト」は行動。

意味のない文字の羅列に過ぎないものではなく、実感を伴う言葉を生かしたものこそが詩であると、この頃からはやり始めた現代詩的なものへの警句でしょうか。もう少し早い時代の作であれば、空虚な美辞麗句を並べただけの新体詩、文語定型詩への訣別宣言と捉えられますが。若い詩人たちに、あるいは自らへの自戒も含め、過去の新体詩、文語定型詩の陥った陥穽にはまるべからず、ということかもしれません。

あるいは、内容の尖鋭さのみが優先され、詩としての言葉の美しさをなおざりにしていたプロレタリア詩的なものへの反発、という側面もあるかもしれません。

先週の『神戸新聞』さんから。

原田マハさんに新田次郎賞 「美術史小説」へ意欲 

 第36回新田次郎文000学賞(新田次郎記念会主催)の授賞式が31日、東京都内であり、小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られた。原田さんは「これからも思い切ってフィクションを書いていきなさいと言われたようで大変うれしい」と喜びを語った。
 受賞作は、実在の英国人陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979年)や民芸運動を担った芸術家たちをめぐる、史実と虚構を融合させた物語。2014年7月から15年11月まで本紙に連載し、その後出版された。選考委員を務めた作家、阿刀田高さんは「小説の中で、芸術家たちの思いが生き生きと書かれている」と評価した。
 原田さんは学芸員経験があり、美術、芸術史を題材にした作品を多く手掛けている。この日のあいさつで「読者がアートに興味を持ち、調べてもらえたらと思いながら書いている」と明かした。また、「事実と虚構の境界線をあいまいにすることが作風になってきた。これからも『美術史小説』を書き続けたい」と意欲を示した。(大盛周平)


というわけで、原田マハさんが小説『リーチ先生』により、第36回新田次郎文学賞を獲得されました。おめでとうございます。

賞の決定自体は4月で、その頃の報道はすべてベタ記事でしかなく、授賞式の記事を待っていたところ、なぜか『神戸新聞』さんのみで大きく報道されました。他紙の記事は見あたりません。ネット上にアップされていないというだけで、記事にはなったのでしょうか。

『リーチ先生』。以前のこのブログでご紹介しましたが、バーナード・リーチの弟子となった架空の陶工を主人公とする小説です。初出は『信濃毎日新聞』さん他での新聞小説でした。

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リーチは香港の生まれ、光太郎の4歳年下です。幼少期に京都にいたこともあり、日本文化に憧れながら成長し、22歳の時にロンドン留学中の光太郎と知り合ったことで、再来日しました。その後、日英を行き来しながら、日本で身につけた陶芸と、英国の伝統陶芸を結びつける役割を果たしています。

そういうわけで、『リーチ先生』には、光太郎、そして光太郎の父・光雲、実弟・豊周も登場します。

非常に読み応えのある小説です。まだお読みになっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人とは特権ではない、不可避である。

詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩にはめずらしく、このフレーズは他の文筆作品からの転用です。初出は前年の草野心平詩集『第百階級』の序文です。

心平のように、生まれながらにして詩人となるべき者が不可避的に詩人となるに過ぎず、詩人となった者は特権階級でも何でもない、というわけでしょう。そしてそれは自らにも当てはまると考えているはずです。

光太郎、「不可避」の語を非常に好み、「不可避」一語、または「不可避の道」などの文言を、晩年まで揮毫によく用いました。

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新刊情報です。

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近代日本人は聖書のメッセージをどう受け止めたのか? 日本キリスト教史の泰斗が深い共感を持って描く!

時代を超えて日本社会に大きな影響を与えるベストセラー、聖書。近現代に活躍した30人が汲み上げたメッセージとは?

【内容紹介】
日本聖書協会季刊誌SOWERの人気連載「人物と聖書」待望の単行本化。近代日本の各方面で活躍した日本人が、キリスト信徒であるなしに関わらず、聖書とどう向き合い、生き方にどのような影響を受けたのか。日本キリスト教史の第一人者鈴木範久氏が探る、近代日本キリスト教史人物伝。『学燈』(1999年)に掲載された「鈴木大拙の聖書」も収録。

 <収録人物>
夏目漱石、鈴木大拙、田中正造、萩野吟子、内村鑑三、石井亮一、太宰治、井口喜源治、高村光太郎、市川栄之助、川端康成、山室軍平、倉田百三、新島襄、石坂洋次郎、新渡戸稲造、芥川龍之介、西田幾多郎、長谷川保、吉野作造、中勘助、野村胡堂、坂田祐、賀川豊彦、音吉、堀辰雄、山本五十六、萩原朔太郎、斎藤勇、八木重吉

 【著者紹介】
1935年生まれ、専攻は宗教学宗教史学、現在立教大学名誉教授。
 著書に「明治宗教思想の研究」(東京大学出版会)、「内村鑑三日録」全12巻(教文館)、聖書の日本語(岩波書店)など多数。



購入、拝読するまで気づかなかったのです000が、同じ日本聖書協会さんが刊行している雑誌『SOWER』に連載されていたものの単行本化でした。光太郎の項「高村光太郎と聖書」は、平成16年(2004)の第23号に掲載されており、既読でした。

サブタイトルは「美のうしろにあるものを表現しようとした詩人・彫刻家」。

まず、詩「クリスマスの夜」(大正10年=1921)からイエス・キリストについての部分が紹介されています。この詩は親友の作家・水野葉舟の家で行われたクリスマスの集いからの帰途を謳ったものです。葉舟は、日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村正久から洗礼を受けていました。

東京美術学校彫刻科を卒業し、研究生として残っていた明治38年(1905)、光太郎は葉舟に連れられて植村の下を訪ねますが、入信には至りませんでした。そのあたりにも言及されています。

また、特異なキリスト者・新井奥邃との関わりや、昭和24年(1949)の雑誌『表現』に載ったアンケート「私の愛読書」で、「各年代を通じての座右の書は」という設問に「聖書、仏典、ロダン等。」と答えていることなどが紹介されています。

さらに、今年2月に亡くなっ001た、元埼玉県東松山市教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏についても触れられています。光太郎が敬虔なキリスト教徒だった田口氏に贈った数々の書の中には、聖書の文言を揮毫したものも含まれ、その関係です。

しかし、結局光太郎は入信せずじまいでした。そのあたりの心境は、『聖書を読んだ30人』には取り上げられていないアンケート「名士の信仰」(大正8年=1919、『東京日日新聞』)にも語られています。

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。それがキリスト教の神とはまだぴつたり合ひません。私は此から進む処に居るのですから、自分の信仰がどういふ具体的の形になつて来るかは自分でもわかりません。此以上確な事を言ふと嘘になります。

また、光太郎と仏教の関係にも似た点があります。

『聖書を読んだ30人』によれば、光太郎のように、受洗はせずとも
聖書やキリスト教の教えに影響を受けた文化人は多かったようです。上記目次にある人々の多くがそうでした。中には山本五十六など、こんな人まで、と思うような人物も含まれ、興味深く拝読しました。

ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき

詩「或る筆記通話」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

詩「或る筆記通話」前文は以下の通り。

おほかみのお――レントゲンのれ――はやぶさのは――まむしのま――駝鳥のだ――うしうまのう――ゴリラのご――河童のか――ヌルミのぬ――うしうまのう――ゴリラのご――くじらのく――とかげのと――きりんのき――はやぶさのは――獅子のし――ヌルミのぬ――とかげのと――きりんのき――をはり

「――」の直前の一字をつなげれば、「おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき」となる仕組みです。ある意味、ふざけた詩ですね(笑)。「詩」というものの概念を破壊しようともしていたふしの見える、年少の友人・草野心平あたりの影響もあるかもしれません。

狼やら隼やら、光太郎が好んだ「猛獣」的なものが羅列されています。実際、駝鳥、ゴリラ、鯨、獅子と、連作詩「猛獣篇」のモチーフになった鳥獣も含まれています。

しかし、異質なものが二つ。「レントゲン」と「ヌルミ」。「レントゲン」はX線照射の機械というより、X線の発見者であるドイツの物理学者、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンでしょう。「ヌルミ」はフィンランドの陸上選手、パーヴォ・ヌルミです。

なぜ鳥獣に混じって人名が、という気がしますが、以外と単純な理由なのではないでしょうか。すなわち「れ」と「ぬ」で始まる鳥獣が思いつかなかったということでしょう。「羚羊(れいよう)」や「ヌー」は、まだ日本では知られていなかったように思われます。

しかし「鵼(ぬえ)」を光太郎が知らなかった、あるいは思いつかなかったとは思えません。「鵼」は猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇という(諸説あり)妖怪です。「鵼のぬ」でもいいような気がしますが、「鵼」は採用しませんでした。おそらく、「鵼」は政財界の黒幕的な、よくわからない怪しいもの、それも腹黒、邪悪、下劣というイメージ(現在の政権やら官僚中枢やらナントカ学園やらナントカ会議にうようよしているようですが)をともなうためではないでしょうか。

「河童」はよくても「鵼」はだめ。勝手な想像ですが(笑)光太郎の美意識が見えます。同時に、これはやはり敬虔なキリスト者の発想ではないでしょう。

余談ですが、「ヌルミのぬ」の部分は、しばらくの間、「ヌカルミのぬ」と誤植され続けていました。陸上のヌルミは五輪金メダル9つの英雄だったのですが、泥濘……(笑)。

若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著『八重子のハミング』。昨秋、映画化され、物語の舞台の山口県での先行公開を経て、先月、全国で封切られました。

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生活圏ではありませんが、車で1時間ほどの佐倉市で上映されているので、そちらで拝見して参りました。考えさせられる映画でした。

八重子さん役の高橋洋子さんの鬼気迫る演技、とまどいつつも八重子さんを支える、陽氏をモデルとした誠吾役の升毅さんはじめ、周囲の人々の役作りなどなど、再現でなくドキュメントと見まごうほどでした。

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徐々に認知機能を失い、お嬢さんの結婚披露宴だというのに、状況が把握できず、しかし美しい花束には素直に喜ぶ八重子さん。

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お孫さんよりも幼くなってしまっている八重子さん。そしてかいがいしく食事の世話をするお孫さん。

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実際の八重子さんが好きだったという、萩市笠山の椿の群生林。

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そのシーンの画像が手に入れられませんでしたが、八重子さんが寝静まった深更、誠吾が龍星閣戦後版、赤い表紙の『智恵子抄』を手に取る場面がありました。そこで誠吾の目にとまっていたのは、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)。

   値ひがたき智恵子000

智恵子は見ないものを見、
聞こえないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。001

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。


統合失調症の智恵子と、若年性アルツハイマーの八重子さん、それぞれ進行してからの病状は異なりますが、初期の頃はたしかにかぶります。002

しかし、光太郎がある意味「智恵子はもう人間界の切符を持たない」と切り捨てたのに対し、誠吾(陽氏)の場合、最期まで奥様の尊厳を認め、護ろうとしたことに感動しました。

娘さんが「お母さん、しっかりしてよ!」と、ぐだぐだになってしまった八重子さんにくってかかると、誠吾は娘さんを平手打ちにし、「俺を責めるのはいい。だが、母さんを侮辱するのは許さん」と、毅然として言い放つシーンがありました。

時代や家族構成など、いろいろな差異はあり003ますが、こういう点で光太郎は智恵子や周囲に対し、どうに対応していたのだろうかと、改めて思いました。

もっとも、自分がその立場になったら、ましてや、そうされる立場に……というのは、想像できません……。それではいけないのでしょうが……。


帰宅後、購入してきた公式パンフレットで、佐々部清監督の書かれた部分読み、さらに感動させられました。

当初はビッグネームの監督と脚本家で大手映画会社が映画化に向けて動いていたものの、撤退。それなら俺がやろうと、出来上がった脚本を持って他の会社やテレビ局の映画部などを回ったものの「地味すぎる」「中高年が主役では若い人が観に来ない」などの理由で相手にされず……。しかし、地元自治体、企業などを説き伏せて制作費を捻出。通常と比べれば遙かに低予算だったものの、心意気に賛同した役者さんやスタッフさんが手弁当に近い状態で集まってくれ(特に榎木医師役の梅沢富美男さんはご自分から出させてくれ、とおっしゃって来たそうです)、実現したとのこと。

「これって「本宮方式」じゃん」と思いました。「本宮方式」――昭和40年(1965)、吉村公三郎監督作品「こころの山脈」で採用された、資金集めやエキストラなどで地域が撮影に協力する「フィルムコミッション」の先駆けといわれたやり方です。この「こころの山脈」、安達太良山の麓、福島県本宮町(現・本宮市)を舞台とし、やはり劇中に「智恵子抄」が使われました。


奇縁を感じました。


さて、「八重子のハミング」、上映館はこちら。ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

重いものをみんな棄てると 風のやうに歩けさうです。

詩「人生」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

高橋洋子さん演じる、症状がかなり進行してしまってからの八重子さんの姿をスクリーンで観て、このフレーズを実感しました。

といっても、棄ててしまったそれまでの記憶、歩んできた道が無意味だったというわけではありませんが……。

ところで、この「人生」という詩、従来は光太郎詩の中ではほとんど注目されていなかった小品ですが、なぜかこのフレーズが数年前からネット上などで、光太郎の名言としてよく取り上げられています。

それはそれでありがたいのですが、表記を変えないでいただきたいと感じています。歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにするのはともかく、「棄」の字を「捨」としたり、ひらがなにしたり……。この点は、他の光太郎作品を取りあげて下さっている朗読サイト的なHPなどでも多く見られます。ひどいものになると、まるまる1行抜けているとか……。

引用には出来るだけ注意を払い、勝手に改変しないというのがルールです。自分のPCの変換ルールと原文との相違から、意外とやっちまいがちで、当方も気づかずにやらかしている場合があるかも知れませんが……。

光太郎の父・高村光雲がらみの報道です。『毎日新聞』さんの静岡版から。 

活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡

 袋井市久能の寺院「可睡斎(か000すいさい)」の境内に再建された「活人剣の碑」の由来などを子どもたちに伝えようと、地元有志らで作る再建委員会による紙芝居「活人剣の物語」が完成した。100セットを目標に製作し、市内の小中学校などに贈る。 
 20枚で構成。絵は個展開催歴もあるアマチュア画家で同市堀越の鈴木幸子さん(73)、文章は委員会メンバーがそれぞれ担当した。
 彫刻家の高村光雲作の初代の碑は、日清戦争(1894~95年)の講和交渉で来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監の佐藤進の交友の証しとして、1900(明治33)年に境内に建立された。医師の佐藤が軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし、第二次大戦中の金属供出で刀身部分がなくなり、台座だけとなっていた。このため、同寺や市民団体が復活に乗り出し、金属工芸家の宮田亮平氏が2代目を制作。2015年、別の場所に完成した。
 鈴木さんは「古い碑のあった場所にも行き、歴史を思い浮かべて一枚一枚丁寧に描きました」と言う。同寺の佐瀬道淳斎主(84)は「平和を願う碑ということを伝えたい」と話した。
 委員会は同じ内容の絵本を1000部作り、県内の図書館などに配る予定だ。【舟津進】


 「活人剣の碑」。記事にあるとお001、り明治期に光雲作の原型から鋳造されて可睡斎さんに据えられましたが、戦時中の金属供出で無くなってしまっていました。平成27年(2015)に、地元の方々の熱意で、初代の碑に似せて再建、その際の報道を、このブログでご紹介しています。


そこから碑の由来についての部分をコピペします。元ネタは『産経新聞』さんの静岡版。

 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。

さらに、やはり『毎日新聞』さんの静岡版。

 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。

そういうわけで、碑が再建されました。

そしてこのたび、上記の由来を地元の子供たちにもっと知ってもらおうと、紙芝居が作成されたというわけです。この手の碑は建てて建てっぱなし、建てられて数年も経つとその存在すら忘れられてしむというものも少なくない中、こうした取り組みには頭が下がります。

特に中国や韓国との関係がぎくしゃくしている現在こそ、こういうことが必要でしょう。


ところで、以前の記事が出たあと、可睡斎さん002について調べていましたら、初代高村晴雲作の仏像がいらっしゃることがわかりました。晴雲は、光雲の師・高村東雲の孫。明治26年(1893)の生まれで、光雲に学びました。10歳年長の光太郎とも交流があり、戦後は花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れたりもしています。その際に贈られた晴雲作の観音像が、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

可睡斎さんでは、「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)像」。なんとトイレに安置されています。トイレといっても、「東司(とうす)」という独立した堂宇で、烏枢沙摩明王は「烈火で不浄を清浄とする力を持つ」とされることから、東司の守護神として鎮座ましましているわけです。

像高3メートルの巨大な木彫で、お参りされる方は一様に驚きの声をあげられるそうです。

当方、可睡斎さんにはまだ足を運んだことがありません。折を見て参拝したいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

又買ひ出されて来た一団の人夫。 おれの朴歯が縦に割れて、 二千の軀(むくろ)の上に十里の山道がまつ青だ。

詩「上州湯檜曾風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「湯檜曾」は現在の群馬県利根郡みなかみ町。温泉地です。光太郎がここを訪れた際、上越線の清水トンネルの掘削工事が行われているところでした。竣工は2年後です。

「買ひ出されて来た一団の人夫」は、詩の前半に「二千人の朝鮮人」と記されています。この頃、半島の人々を強制連行しての工事が日本各地で行われていました。清水トンエルの工事自体はそれほどの難工事ではなかったようですが、東海道線の丹那トンネルの工事では、延べ 250 万人が動員され朝鮮人7名を含め67人が犠牲になったとか、湯檜曾にほど近い中津川第一発電所の建設工事では逃亡を試みた数十人の朝鮮人労働者たちが射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に投げ込まれたりした「信濃川朝鮮人虐殺事件」も知られています。

こうした事象を背景に、光太郎、思うところがあったのでしょう。詩「上州湯檜曾風景」が作られました。

いわゆる自称「愛国者」のゲスどもは、こうした事件も捏造だ、と言い張るのでしょうか。何かというと「中韓は……」「在日は……」とほざく輩こそ、可睡斎さん「活人の碑」の精神に学びなさい、と言いたいところです。

自主制作のDVDをいただきました。題して「小さなパラダイス 昔の大井町あたり」。

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制作は、品川ご在住の石井彰英(しょうえい)氏。ミュージシャンにしてジオラマ作家の方です。当方、存じ上げない方でしたが、このブログをご覧になられたようで、ご連絡をいただきました。

失礼ながらネットで調べさせていただいたところ、江ノ電さんのサイトに氏のジオラマに関する記述がありました。引用させていただきます。

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平成20年11月20日(木)より江ノ島駅1番線(藤沢行きホーム)の展示室に1/150サイズ(Nゲージ)のジオラマを公開しております。
このジオラマは、平成10年11月11日に当社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現をお手伝いしたご縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんのご友人でおられる石井彰英さんからご寄贈いただいたものです。
寄贈先を探していた石井さんが当社への寄贈を決められたのは、「息子をジオラマの運転士にして欲しい」と熱望された新田さんの優しさに感動して、「ジオラマは朋宏くんが愛した江ノ電の利用者に見ていただくのが一番」とお考えになられたからです。

なお、まことに残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士としてこれからもご活躍されることでしょう。
ジオラマはボタン式になっており、1回押すとミニ江ノ電が1分20秒走行します。
江ノ島に来られましたら、どうぞ江ノ電の江ノ島駅展示室にお越し下さい。


この件、そういえばそういうことがあったと、記憶に残っていました。さらに調べると、当時のニュースがヒットしました。 

運転士の夢、天国でかなえて…16歳で亡くなった少年に江ノ電から辞令交付

 「江ノ電の運転士になりた000い」。そんな夢を抱きながら1998年に先天性の拡張型心筋症で亡くなった新田朋宏さん=当時(16)=に、江ノ島電鉄(神奈川県藤沢市)の深谷研二社長が22日、江ノ島駅で運転士の「辞令」を発令、父親の会社員和久さん(56)=東京都大田区=に手渡した。
 朋宏さんの遺影を首から提げて参加した新田さんは「息子の夢がかない、天国で喜んでくれていると思う。(天国に)辞令を届けたい」と笑顔で話した。
 新田さんは、幼いころから鉄道ファンだった朋宏さんを連れて家族でよく江ノ電に乗車。朋宏さんは、海岸沿いや町中を縫うように走る江ノ電に魅せられ、運転士への夢を膨らませたという。
 同じ心臓病で91年に妻も亡くしたが、新田さんは「息子の夢をかなえてあげたい」と江ノ電に要望。98年11月に江ノ電の計らいで朋宏さんが運転席に。コントロールレバーに触れ、つかの間の「運転士」気分を楽しんだ。だが4日後に朋宏さんは帰らぬ人に。
 22日の「辞令」交付式では、新田さんの知人で塾講師石井彰英さん(53)=東京都品川区=が作った江ノ電の模型(ジオラマ)の「発車式」も実施。畳1畳ほどのジオラマには、新田さん家族も楽しんだ沿線風景が再現されており、石井さんが新田さんに相談して11月に寄贈した。
(共同通信 2008/12/22)


また、石井氏、北鎌倉の町並みのジオラマなども制作され、そして最新作が氏の生まれ故郷・大井町。大井町といえば、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院のあったところで、同院のジオラマも制作、DVDでは2分弱、映し出され、光太郎智恵子にも触れて下さいました。

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以前にもご紹介しましたが、ゼームス坂病院は、大正12年(1923)の創立。院長で智恵子の診察にあたった斎藤玉男は東京帝国医科大学を卒え、大正3年(1914)から翌年にかけ、ドイツ、アメリカに留学し、日本医科大学教授を経て、同院を開設しました。「学者としても一流で、人柄も温厚篤実の士として知られ、病院経営や精神衛生の制度面などから、多角的に積極的に発言」(『東京の市立精神病院史』昭和53年=1978、東京精神病院協会)したそうです。

昭和20年(1945)には、東芝大井病院と改称、心療内科は無くなりました。さらに同39年(1964)に東大井に移転し、現在の東芝中央病院に移行します。跡地には光太郎詩「レモン哀歌」を刻んだ詩碑が建てられています。

さて、ジオラマ。石井氏の幼少のみぎり、昭和30から40年ごろという設定だそうで、病院名は大井病院となっています。実際、この建物をご覧になっていたのですね。ある意味、うらやましいところです。

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「高村光太郎さん 高村智恵子さんに捧ぐ」というテロップもつけて下さいました。ありがとうございます。

エンドロールの部分には、メイキング的な映像や、病院跡地の「レモン哀歌」碑も。

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その他の部分も含め、あたたかみのあるジオラマに感心いたしました。緻密さを追究するあまり、無機質・非人間的な作も目にしますが、それと正反対に人々の息づかいまで聞こえてきそうでした(石井氏曰く「牧歌的」)。また、当方、石井氏より一回りほど後の生まれですが、幼い頃住んでいた東京多摩地区の府中本町駅付近などもあんな感じだったと思いながら、懐かしく拝見しました。南武線も茶色い電車でした。

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なんと、2,000時間を要したそうで、50㌢程度のジオラマ50個ほどで成り立っているとのこと。しかし保管場所が確保できず、撮影しながら破棄したそうです。もったいない気もしますが、仕方がないのでしょう。

DVDに関しては、これまでも石井氏の活動をとりあげたというケーブルテレビ品川さんで紹介されるそうです。また、氏と電話でお話しさせていただきましたが、有効な活用法を模索されているとのこと。

ジオラマ自体もそうですが、ナレーション(ケーブルテレビのアナウンサーさんだそうです)や、BGM(石井氏とそのお仲間たちのオリジナルとのこと)も、あたたかみのあるいいものです。

ご興味を持たれた方、当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々のことば・光太郎】

四月の雨がおれの耳の気圧をかへた おれは少し睡くなつて粘土の馬をこさへてゐる
詩「北島雪山」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎の書き残したものを読んでいると、時折、身体感覚の鋭敏さに驚かされます。木材と同じようにガラスにも縦横の目があるそうで、指の腹で触るとそれがわかるとか……。

この一節も、そうですね。標高の高低やトンネルなどで、気圧の違いを耳で感じることはありますが、天候によってもそれを感じるというのです。鈍感な自分には思いもよりませんでした。

一昨日、昨日に続き、今月行われる朗読系イベントのご紹介を。

今日は仙台からの情報です。 

朗読とテルミンで綴る 智恵子抄

期     日 : 2017年6月24日(土)
時     間 : 午後の会 14:30 開場 15:00 開演    夜の会 18:30開場 19:00 開演
会     場 : Jazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)
          仙台市青葉区錦町1-5-14ノーバル・ビル1F 
料     金 : 前売り \3,500  当日 \4,000   ワンドリンク付き
問い合わせ : Happy Voice Project (アライ) 070-5474-3444
出   演 : 朗読 荒井真澄     テルミン 大西ようこ
後   援 : 一般財団法人 花巻高村光太郎記念会   高村光太郎連翹忌運営委員会

~ 詩人・彫刻家 高村光太郎が綴った夫人への愛の詩集『智惠子抄』
  テルミンの哀愁あふれる旋律と共に、二人の想いが現在に蘇る

朗読(予定):
 『智惠子抄』より
  「人に」「人類の泉」「樹下の二人」「あなたはだんだんきれいになる」
  「あどけない話」「風にのる智惠子」「千鳥と遊ぶ智惠子」「レモン哀歌」「亡き人に」
 『智惠子抄その後』より
  「メトロポオル」「あの頃」「案内」

演奏曲目(予定):
 星めぐりの歌(宮沢賢治) 『智惠子抄』より(清道洋一)
 『三つの情景』より(田中修一)『二つの風舞』より(橘川琢)
  浜辺の歌(成田為三)  白鳥(サン=サーンス)
  愛の哀しみ(クライスラー) モルゲン(R.シュトラウス)

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というわけで、朗読家の荒井真澄さんと、テルミン奏者の大西ようこさんとのコラボによるコンサート。それぞれ、数年前から「智恵子抄」系での活動などもいろいろなさってこられた方々です。

荒井さん。

大西さん。 

きちんとしたコンサートでのご共演は今回が初めてとなりますが、連翹忌の取り持つ縁で意気投合されたお二人、これまでもちょこちょことコラボが実現していました。


仙台方面で光太郎智恵子事績について調査することもありますので、当方も馳せ参じます。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

これが出来上ると木で彫つた山雀が あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。 その不思議をこの世に生むのが 私の首をかけての地上の仕事だ。

詩「首の座」より 昭和4年(1929) 光太郎46歳

「首の座」は、人が首を切られるときに座る場所、またはそのような絶体絶命の状況。「土壇場」ともいいます。できれば座りたくない場所ですが……。

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光太郎、自分の彫刻制作は、首の座に据えられてやるような、命がけの仕事だと言っているわけですね。

「山雀」は「やまがら」。日本全域に広く分布している野鳥です。ただし、光太郎が彫ったという山雀の木彫は確認できていません。(「白文鳥」や「うそ」は現存していますが)。

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もしかすると、出来上がったところで本当に飛んで行ってしまったのかもしれません(笑)。「画竜点睛」の故事を下敷きにしているようですね。

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