2017年04月

光太郎が戦後の7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の敷地で、光太郎を偲ぶ第60回高村祭が開催されます。

第60回高村祭

期   日 : 2017年5月15日(月)
場   所 : 高村山荘敷地 岩手県花巻市太田3-85-1
        雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場
時   間 : 10:00~14:30頃
問い合わせ : 花巻高村光太郎記念会 0198-29‐4681  
        花巻高村光太郎記念館 0198-28-3012
プログラム : 式典 地元児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス他
        特別講演 藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長)
         演題『思い出の光太郎先生』

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昭和20年(1945)4月10日の空襲で、東京駒込林町のアトリエが全焼し、しばらくは近くにあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎。宮澤賢治の父・政次郎、後に花巻高村光太郎記念会を立ち上げる賢治の主治医・佐藤隆房らのすすめで、花巻町の宮澤家に疎開しました。その宮澤家も8月10日の空襲で焼け出され、佐藤家の離れなどを転々とした後、10月には郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入りました。

花巻に向けて東京を発ったのが5月15日(到着は翌日)ということで、毎年、この日を記念して高村祭が催されています。

毎年行われる特別講演。今年は、この地での生前の光太郎をご存じの、藤原冨男氏。山小屋近くにあった旧山口小学校に勤務されていた方で、光太郎の日記にもその名が残されています。貴重なお話が聞けるものと期待されます。


当日は、在来東北本線の花巻駅西口(改札のある東口から地下道でつながっています)からシャトルバスが出ます。

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隣接する花巻高村光太郎記念館さんは、当日は入場無料。企画展「光太郎と花巻の湯」を開催中です。

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また、山小屋裏手の高台「智恵子展望台」がきれいに整備されました。


新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ふつとさう思ふことがある。 おれはいつたい何をしてゐる。 宇宙塵とかいふもののやうに 前後左右が無限大に遠いと。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

常に自らの進むべき道を模索していた「求道」の人、光太郎。まだまだ目指す境地は無限大の彼方、というところでしょうか。

昨日は東京調布での、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(故・原節子さん主演)上映情報をご紹介しましたが、10年後の同42年(1967)に封切られた松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)の上映情報です。

特別企画 中村登監督特集 60年代松竹映画を代表する監督・中村登の特集 「智恵子抄」 

日 程 : 2017年5月17日(水)14:00002
        21日(日)14:00  27日(土)11:00
場 所 : 福岡市映像図書館ホールシネラ
       福岡市早良区百道浜3丁目7番1号
料 金 : 600円 (大人) 
      500円 (大学生・高校生)     
      400円 (中学生・小学生) すべて当日券

高村光太郎は画学生の智恵子と見合いし、結婚する。油絵に没頭する智恵子だが、文展に出した絵は落選する。火事のため田舎に住む智恵子の父親が死亡、また実家が倒産したとの知らせが届く。苦しむ智恵子は自殺を図る。高村光太郎の詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説智恵子抄」を原作とした映画。「智恵子抄」の詩を効果的に使いながら二人の純愛を描く。アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。

監督:中村登    出演:岩下志麻 丹波哲郎 他 
1967年/35ミリ/カラー/125分/松竹


当方、一度拝見しましたが、鬼気迫る岩下さんの智恵子、重厚な丹波さんの光太郎、それぞれすばらしい演技でした。

丹波さんもそうですが、脇を固める俳優陣の皆さんにも既に亡くなった方が多く、その意味では懐かしさにひたれます。智恵子の親友・和子役の南田洋子さん、その夫は岡田英次さん(柳敬助夫妻がモデルです)、光太郎の親友・石井柏亭で平幹二朗さん、犬吠の太郎に石立鉄男さん、智恵子の両親が加藤嘉さんと宝生あや子さん、智恵子の主治医を内藤武敏さんなどなど。

「中村登監督特集」としては、「智恵子抄」以外に、「我が家は楽し」、「土砂降り」、「集金旅行」、「危険旅行」、「いろはにほへと」、「古都」、「夜の片鱗」、「二十一歳の父」、「暖春」、「紀ノ川」、「惜春」が上映されるそうです。

お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

木を彫ると心があたたかくなる。 自分が何かの形になるのを、 木は喜んでゐるやうだ。
詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

造形芸術のカテゴリーとして一口に「彫刻」といいますが、正確には「彫塑」というべきです。木や石などを彫ったり削ったりして作る「彫」と、粘土などを積み重ねて作る「塑」、ある意味真逆です。「彫」は余分なものをそぎ落とすマイナス、「塑」はゼロからどんどん足してゆくプラスの製法です。光太郎はどちらもこなしました。

長じてから、ミケランジェロやロダンを範とした「塑」に取り組む際には、ある意味身構えて臨むことが多かったようですが、幼い頃から自然と身につけた「彫」の場合は、時に遊び心を抱きながら取り組んでいたようにも思えます。

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東京調布から、映画の上映情報です。
場   所 : 文化会館たづくり 10階 1002学習室
         東京都調布市小島町2-33-1
時   間 : 開場 13:15  開演 13:00  終了 16:30
料   金 : 300円/人(資料・茶菓代)
問い合わせ : 沖田さん 090-3439-3223

映画を観ながら、音楽を聴きながら、お茶と皆さんの語らいを
楽しむサロンを開いています。
映画と音楽をこよなく愛しておられる方、新たなコミニュケーションの場を広げませんか?お待ちしております。


プログラム 『智恵子抄』(原作:高村光太郎) ~映画の中の日本文学(戦前昭和の文学)~

 詩人であり彫刻家でもある高村光太郎002が智恵子を知り、彼女の清純な、童女の如き純愛に強く心をうたれ過去の荒んだ生活を清算し、彼女と新しい生活を営む。この新しい生活から、彼の智恵子との愛の喜びを謳いあげた詩は限りなく生れ出た。「智恵子抄」は智恵子との出会いから死別、そして追憶までを抒情的に歌い上げた愛の詩集であり、またヒューマンドキュメントとして稀有な詩集です。
 『智恵子抄』はこの詩集をもとに、八住利雄が脚本を執筆、熊谷久虎監督が映画化、山村聡が高村光太郎、原節子が智恵子を演じ、美しい夫婦の愛情を描いた。
 智恵子の純真な愛に出会い、光太郎は生きる喜び、愛の幸せに包まれるが、仕事と家庭の板ばさみから、やがて智恵子は心を病んでいき・・・。原節子が愛と狂気に揺れる智恵子を演じ切った感動作。


一昨年に亡くなった、伝説の映画女優・原節子さん主演の「智恵子抄」(昭和32年=1957・東宝)が上映されます。原さんのご逝去後、智恵子の故郷・二本松や、原さんがお住まいだった鎌倉をはじめ、追悼的に各地で上映される機会が増えましたが、まだその流れが途切れていないようです。

実は「智恵子抄」は、原さんの出演作品の中で、相対評価的にはあまり高くない作品です(最近はそういう評価だったということも忘れられている感があります)。たしかに何度か拝見して、その意見に首肯せざるをえない部分もありました。しかし、絶対評価としてみると、決して駄作というわけではありません。

今後とも、各地での上映が続いてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

真の自由の来ない限り、 人間は幾億年でも怒るがいい。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

大正14年(1925)には治安維持法が公布されています。昭和3年(1928)には、最高刑が死刑に引き上げられたり、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」にまで処罰の対象が広げられたりしました。このあたりは国会で審議未了だったにもかかわらず、勅命の形で改訂が強行されたとのこと。そうしたきな臭い世相を背景にしています。

「真の自由」。難しい言葉ですね。よく言われることですが、「自由」には「責任」がつきものですし、日本国憲法にも「公共の福祉に反しない」という条件が付されています。

だからといって、治安維持法の復活は許されることではありませんね。

墨田区から、合唱コンサートの情報です。

昨日ご紹介した全日本合唱連盟さんの会報『ハーモニー』第180号に広告が出ていました。

やまとうたの血脈(けちみゃく)Ⅷ 抒情は詩人の武器であったか?~大正、昭和前期の詩による合唱曲展

期 日 : 2017年5月3日(水・祝)
場 所 : すみだトリフォニーホール 大ホール 東京都墨田区錦糸1-2-3
時 間 : 開場 16:30  開演 17:00
料 金 : 一般 3,000円  学生 2,000円  高校生以下 500円
曲 目 :
 竹久夢二作詞、信長貴冨作曲/「どんたく」~竹久夢二の八つの小唄
 [指揮]依田浩 [合唱]アンサンブル・カーノ [ピアノ]須永真美

 高村光太郎作詞、佐藤敏直作曲/「猛獣篇」より    傷をなめる獅子/苛察                 
 [指揮]藤井宏樹 [合唱]Ensemble PVD [ピアノ]浅井道子 

 尾形亀之助作詞、鷹羽弘晃作曲/「エチュードⅠ、Ⅱ」
 [指揮]山宮篤子 [合唱]幕張総合高校合唱団 [ピアノ]鷹羽弘晃 

 立原道造・中原中也 作詩、三善 晃 作曲/「三つの抒情」 
 [指揮]栗山文昭 [合唱]公募女声合唱団 [ピアノ]浅井道子

 金子光晴 作詩、高嶋みどり 作曲/「感傷的な三つの奏鳴曲」より
 [指揮]山脇卓也 [合唱]合唱団お江戸コラリアーず [ピアノ]須永真美 

 中原中也 作詩、西村 朗 作曲/合唱オペラ「中也!」より  
 [指揮]栗山文昭 [合唱]合唱団響  [ピアノ]浅井道子

 新美南吉 作詩、柴田南雄 作曲/「冬の歌」
 [指揮]野本立人 [合唱]熊遊舎女声合唱団

 竹内浩三 作詩、寺嶋陸也 作曲/「ふるさとの風に」より  
 [指揮]寺嶋陸也[合唱]三多摩青年合唱団・絹の道合唱団合同 [ピアノ]浅井道子

 草野心平 作詩、廣瀬量平 作曲/「五つのラメント」より
 [指揮]藤井宏樹[合唱]公募男声合唱団


日本語の美しさや日本古来の音楽、日本人の作曲家に焦点を当てたコンサート・シリーズ、今回は大正・昭和前期の叙情詩を題材にした合唱曲を通して詩人の生きた時代と詩人の生き方を振り返ります。

監修・おはなし 佐々木幹郎  構成:栗山文昭

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作曲家の栗山文昭氏を中心とする「21世紀の合唱を考える会 合唱人集団音楽樹」さんの主催する、「Tokyo Cantat 2017」の一環のようです。

全国の合唱団で時折取り上げられる、佐藤敏直氏作曲の「混声合唱曲 猛獣篇」から、「傷をなめる獅子」と「苛察」の2曲が演奏されます。

「猛獣篇」男声版の楽譜は、平成2年(1990)の刊行。昭和63年
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(1988)に、専修大学グリークラブさんにより委嘱初演されました。「森のゴリラ」「傷をなめる獅子」「ぼろぼろな駝鳥」「マント狒狒」の4曲。

混声版は「龍」「象」「苛察」が平成2年(1990)、「傷をなめる獅子」は同5年(1993)、それぞれ南生田コーラスさんの初演で、楽譜は同22年(2010)に刊行されています。「傷をなめる獅子」のみ男声版からのアレンジで、他は新作でした。

はやりすたりの激しい合唱曲の中では、歌い継がれている方かな、という気がします。今後も忘れ去られることのないように、と願います。

さらに作曲家の皆さん、歿後50年を経て著作権も切れていますし、光太郎詩を使った楽曲、それも後世に残るであろうものを作曲していただきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

人生への怒は 自然への喜で消されない。 あれはあれ、これはこれだ。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

昭和2年(1927)、大雑把な区切りでいうと、「猛獣篇」時代です。御しがたい荒ぶる魂を持った猛獣(架空のモンスター的な物も含め)に仮託し、「人生への怒」を表出し、ある種のピークを形成していた時代です。

当方の所属するアマチュア合唱団は、全日本合唱連盟に加盟しています。そちらの会報、といいながらA4判120ページ超の厚い雑誌形態をとる『ハーモニー』第180号が団に届きまして(割り当てで団として購読しなければなりません)、一冊、もらってきました。新刊の楽譜やCDの新譜、コンサート情報などで、時折、光太郎作詞の合唱曲の情報が載っているためです。

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意外なところに、光太郎智恵子の名が。

毎号ではない不定期の掲載のようですが、「歌のふるさと 歌碑をたずねて」という連載があります。この場合、歌碑の「歌」は短歌の「歌」ではなく、「歌曲」の「歌」。合唱曲、独唱曲を問わず、歌曲の歌詞が刻まれた、全国に建つ碑を紹介するページです。これまでに、「箱根八里」、「宵待草」、「早春賦」、「小さい秋みつけた」などが紹介されています。

今号では、群馬の前橋に建つ「チューリップ」碑(「さいた さいた チューリップのはなが……」 井上武士作曲・井上と近藤宮子作詞)および、品川にある「レモン哀歌」碑が紹介されています。

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光太郎、智恵子 愛と悲しみの絶唱「レモン哀歌」

 「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で…」
 彫刻家で詩人の高村光太郎が妻・智恵子の最期をうたった詩「レモン哀歌」の碑が東京都品川区にあります。光太郎・智恵子というと福島のイメージが強いのですが、智恵子は品川区南品川のゼームス坂病院で亡くなりました。病院はすでにありませんが、その跡地に地元の団体によって、この碑が建てられました。
 二人の愛の軌跡、詩集「智恵子抄」は清水脩氏により音楽化され、「智恵子抄巻末のうた六首」は合唱の名曲として親しまれています。「智恵子抄」の中の一編である「レモン哀歌」も鈴木憲夫、西村朗、平吉毅州といった人たちが合唱曲にし、近年では鈴木輝昭氏の曲を智恵子の母校の後身である福島県立橘高校が歌い、コンクール全国大会(第62回・金沢)で金賞を受賞しました。
 「レモン哀歌」は「…写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」で終わります。碑の前にはレモンが絶えません。
【アクセス】 JR京浜東北線・東急大井町線大井町駅・京浜急行線新馬場駅下車いずれも徒歩10分
 (元編集委員 川村泰志)


智恵子の歿した翌年(昭和14年=1939)001に作られた「レモン哀歌」は、元々、歌曲の歌詞として作られたものではなく、後世の作曲家の皆さんが曲をつけてくださったもので、「歌碑」というよりあくまで「詩碑」というのが当方の感覚ですが、このコーナーでの紹介、それもありかな、という気はします。

建立されたのは、智恵子没後50年の昭和63年(1988)。尽力してくださった「品川郷土の会」さんの当時の会長・土屋恒行氏、会員の武田喬氏が、昨年、相次いで亡くなりました。今回の記事、お二人にいいはなむけになるような気がします。

ここにあったゼームス坂病院は、大正12年(1923)の創立。院長の斎藤玉男は東京帝国医科大学を卒え、大正3年(1914)から翌年にかけ、ドイツ、アメリカに留学し、日本医科大学教授を経て、同院を開設しました。「学者としても一流で、人柄も温厚篤実の士として知られ、病院経営や精神衛生の制度面などから、多角的に積極的に発言」(『東京の市立精神病院史』昭和53年=1978、東京精神病院協会)したそうです。ちなみに斎藤茂吉は弟子筋に当たります。

昭和20年(1945)には、東芝大井病院と改称、心療内科は無くなりました。さらに同39年(1964)に東大井の現在地に移転、東芝中央病院、東芝病院と名称が変わり、現在に至っています。

碑は推定される智恵子の身長と同じに設計し、150㌢㍍ほど。光太郎の自筆原稿から文字を写しました。


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当方、20年ほど前にたしか2回見に行ったきりで、しばらくここを訪れていません。何やかやで近くの浜松町や駒場東大前などにはしょっちゅう行っていますが、都心ですとかえって「浜松町まで行ったからついでに南品川に」という感覚にならないから不思議です。

都心から離れれば離れるほど、「盛岡に行くからついでに花巻に立ち寄る」「名古屋に用があるのでついでに京都まで足を伸ばす」ということがあるのですが……。

閑話休題。『ハーモニー』さんの記事の最後に「碑の前にはレモンが絶えません。」とあって、数年経つと建てられたことすら忘れ去られてしまう文学碑が少なくない中、ありがたく存じます。

土屋氏、武田氏の追悼も兼ね、近々、20数年ぶりに行ってみようと思いました。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

桃の実は気高くて瑞気があつて いくらか淫靡でやや放縦で 手に持つてゐると身動きをする。 のりうつられさうな気はいがする。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「レモン」ならぬ「桃」。 この頃手がけていた木彫「桃」に関わります。

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彫刻としての桃もそうですが、この詩からも桃のみずみずしい生命感が感じられますね。写真は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。

状況をわかりやすくするために、まず地方紙『岩手日報』さんの記事から。

花巻歩きのお供に一冊 女性目線の情報マガジンを発刊

 花巻市南万丁目のオフィス風屋(かぜや)(北山公路代表)は20日、花巻まち散歩マガジン「Machicoco(マチココ)」を発刊する。「車を降り、街を歩こう」をコンセプトに、懐かしい花巻の風景にこだわった冊子を隔月で展開する。市内の40、50代女性5人が執筆し、デザインも女性が担当。メンバーは花巻ファンを掘り起こそうと意気込んでいる。
  巻頭特集は「街を撮る」。商店街、バスの時刻表、宮沢賢治をイメージしたベンチなど日常の景色が並ぶ。冊子はA5判オールカラー16ページで1500部発行を想定し1部500円(税込み)。市内企業などに協賛金1口3万円(税別)を募り、発行時に1口15冊、年6回で計90冊を配布。書店での販売予定はない。
  人物紹介の連載「顔と手」やリレーエッセー「花巻まにあ」、高村光太郎の日記から料理を再現する「光太郎レシピ」のほか、市内イベントの情報欄や街マップも掲載する。
  問い合わせは電子メール(
machicoco.hanamaki@gmail.com)へ。

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で、早速、年間購読の手続きをいたしまして、届いた創刊号がこちら。

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A5判16ページ、オールカラー。目次は以下の通りです。

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最終ページ(裏表紙)に、連載「光太郎のレシピ」。

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上の画像は、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)の囲炉裏端ですね。

花巻高村光太郎記念館さんの主に女性職員の皆さんの協力で、独居自炊生活をしていた頃の光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するものです。

館では昨年あたりからこの方面の活動をなさっていて、現在、館の受付脇にそういった展示もなされていますし、昨年2月にはテレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」で紹介されました。5月には今回紹介されている「そば粉パン」、当方もいただきました

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なかなかに美味でした。

それにしても、戦後間もない昭和21年(1946)の時点で、こうしたものを作って食べていた光太郎。「食」へのこだわりが強かったことが見て取れます。いわゆるグルメ、美食家というわけではありませんでしたが、頑健な肉体の創出には「食」の充実が欠かせないという考え方で、そうした意味では宮澤賢治の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」では駄目だ、と公言していました。

今後、そうした光太郎がこだわって作った料理の数々が紹介されるはずですので、楽しみです。


『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』、その他にも花巻とその周辺の街の風景や、そこに生きる人々(隠れた名物・マルカン大食堂の10段巻きソフトクリーム職人さんなど)が紹介され、「新しい花巻の魅力を発見」というコンセプトがよくわかる作りになっています。後ほどご紹介しますが、来月、高村山荘敷地で行われる高村祭の案内も。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊だそうで、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

急にしんとして 山の匂のしてくる人がある。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、若い頃から自然志向的な部分は色濃くあり、周辺には郊外で隠遁生活を送っていた友人知己も少なからずいましたが、自身はなかなか思うに任せず、東京市本郷区駒込林町、都会の真ん中に暮らしていました。18年後に、自身が実際に「山の匂のしてくる人」となると、具体的には想定していなかったと思われます。

一昨日、塩尻市古田晁記念館さんを後に、安曇野市の碌山美術館さんを目指しました。

途中の車窓からの風景。北アルプスの山々です。

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周辺に観光に訪れている方も多かったようで、意外と車が混雑していましたが、午後3時近くなって到着。

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まずは一通り、展示を拝見。

最初は、碌山荻原守衛に敬意を表し、本館であるレンガ造りの碌山館へ。重要文化財の「女」、光太郎がパリで粘土原型を見て、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた「坑夫」など、守衛の彫刻作品が並んでいます。

裏手には光太郎詩碑。傍らに植えてくださった連翹がまだきれいに咲いていました。

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種類によっては、桜もまだ残っていました。

杜江館では、守衛の絵画がずらっと並んでいました。自分では意外なところでしたが、守衛の絵画をまとめて観たのは初めてだったかもしれません。

第一展示棟には、光太郎や中原悌二郎、戸張孤雁ら、周辺人物の作品。光太郎の作品はいずれもブロンズですが、数が増えていました。ありがたいことです。

第二展示棟は、春季企画展 「美の概念 -具象の中の抽象性-」展を開催中。石井鶴三、喜多武四郎、基俊太郎といった、後の世代の彫刻家の作品が並んでいました。

午後3時半から、杜江館2階で研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」が開催されました。

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3名の方から発表がありました。まずは同館学芸員の濱田卓二氏。文献から推定される、守衛のロダン訪問の時期、内容等について。続いて、碌山友の会会長を務められている幅谷啓子氏から、近代日本でのロダン受容史について。最後は、地元ご出身の彫刻家・酒井良氏が、実作者の立場から。それぞれ、光太郎にも触れる発表をしていただき、興味深く拝聴しました。

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午後6時からは、グズベリーハウスにおいて、「碌山を偲ぶ会」。30名ほどが集まりました。

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しばらく前から恒例となっている、光太郎詩「荻原守衛」の全員での朗読に続き、献杯。ビュッフェ形式で(連翹忌に倣ってだそうです)料理をいただきつつ、スピーチに花を咲かせ、交流を深めました。参会の皆様の、守衛への熱い敬愛の思いが感じられました。

名残を惜しみつつ、午後8時に閉会。一路、千葉の自宅兼事務所に帰りました。

光太郎ともども、日本近代彫刻の礎を作った碌山荻原守衛。その業績が、末永く語り継がれて行ってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

人情ぽいものよ、 願はくはおれの彫刻から去れ。 無ざんなまでに平然たるもの、 それが欲しい。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

ロダンへの崇敬から自らの彫刻の道筋を定めた光太郎ですが、単なる模倣に留まることを良しとしませんでした。また、師と仰ぐロダンの作品も、そのすべてを無条件に良しとはしませんでした。特に引っかかったのが、「人情ぽいもの」。いわくありげなポーズなどを指すのではないかと思われます。

昨日は、日帰りで信州に行っておりました。目的は、安曇野の碌山美術館さんで開催された、第107回碌山忌。光太郎の朋友・碌山荻原守衛の忌日の集いでした。

同館にお邪魔する際には、同じ方向にある、光太郎ゆかりの人物関わりの文学館や美術館にも立ち寄ることにしておりまして、昨日は、塩尻市古田晁記念館さんを訪れました。

朝、7時30分に愛車を駆って自宅兼事務所を出発。そちら方面に行く際、これまでは東関道、首都高、中央道、長野道と乗り継ぐパターンでしたが、少し違うルートを通ってみました。土曜日でしたので、首都高から中央道に入ってしばらくは渋滞していることが予想されましたし、先月、圏央道の北関東部分がすべてつながりましたので、そちらを走ってみました。

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距離的には大回りになりますが、首都高から中央道に入ってしばらくの渋滞を考えると、時間的にはそう変わらないかな、と思った次第です。同じくらいの時間なら、距離が長くても渋滞していない方を採りたいと思いました。案の定、八王子JCTから中央道に入り、山梨県に入るまでは順調でした。ところが、勝沼インター手前で、大型トラックが炎上したとのことで、大月あたりから15㎞ほど渋滞、通過に1時間半くらいかかりました。

遠出の際に時折あるのですが、こうなると手も足も出ません。改めて自分がそういう原因を作らないよう、運転には注意しようと思いました。

双葉SAで昼食後、岡谷JCTから長野道に入り、目指す古田晃記念館さん最寄りの塩尻インターで下車。まだ桜が満開でしたし、趣のある大きな神社などもあって、余裕があればぶらぶら散策したかったのですが、予想外の時間ロスがあったため、そうもいきませんで、残念でした。

ほどなく古田晃記念館さんに到着。

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『高村光太郎全集』を刊行した、筑摩書房さんの創業者・古田晃の旧宅です。昭和初期の建築だそうですが、国の登録有形文化財の指定を受けています。

『高村光太郎全集』は、光太郎没後の刊行ですが、生前から光太郎の選詩集的なものが同社から刊行されています。昭和28年(1953)には、中山義秀解説による『道程・典型 現代日本名詩選』。同29年(1954)には『現代日本文学全集24 高村光太郎集 萩原朔太郎集 宮澤賢治集』。また、『展望』など、同社刊行の雑誌に光太郎はたびたび寄稿していました。

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そうした関係があり、古田はたびたび光太郎終焉の地・中野のアトリエを訪れ、光太郎日記にその名が記されています。また、光太郎と交流の深かった、当会の祖・草野心平とはさらに縁が深く、心平が経営していた居酒屋「火の車」の常連で、心平や、「火の車」の板前だった橋本千代吉の回想に、その破天荒な酒豪ぶりが詳述されています。

さて、記念館。

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土蔵の1階部分が展示スペースになっていました。古田自身の書き残したもの、交流の深かった人物からの書簡や原稿、そしてそれぞれの肖像写真などが展示されています。

太宰治、川端康成、宮本百合子、島崎藤村、井伏鱒二、渡辺一夫などなど、錚々たるメンバーです。


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当会の祖・草野心平の油絵や原稿、書簡なども。

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太宰の葬儀に際し、古田が読んだ弔辞の原稿。

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高田博厚作の光太郎胸像。

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同一の型から取ったものは、岩手の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の豊科近代美術館さんなどに収蔵、展示されています。

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こちらのものは、古田が社長室に飾っていたものだそうで、そのエピソードは存じませんでした。

もしかすると、光太郎からの書簡や書の揮毫などがあるかと期待していたのですが、それはありませんでした。

二階は三間続きの座敷。

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窓から見える、母屋へと続く渡り廊下。

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母屋の方が低い位置にあり、斜めになっています。した003がって、窓は平行四辺形。時代はまるで違いますが、奈良の春日大社さんの回廊などもそうなっています。匠の技ですね。

こちらは土・日・祝日のみの開館。ただし雪深い冬期は閉鎖です。ありがたいことに入館無料。ぜひ足をお運びください。


こちらを後に、再び愛車を駆って、安曇野碌山美術館さんへ。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

どうせ死ぬ首の中に死なないものがある。 どうせ死ぬものがそのまま、 死なないものに見えてくる。
詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

ここでの「首」は、光太郎が肖像彫刻としてあつかった人々のことでしょう。彫刻作品になることで、永遠の命が吹き込まれ、死なない首への変貌がおこります。古田晃記念館さんで見た光太郎の首、それから明日レポートしますが、碌山美術館さんで見たさまざまな首から、そう思いました。

東京調布市の武者小路実篤記念館さんからご案内をいただきました。

春の特別展 「武者小路実篤の出版事情 『白樺』『大調和』を中心に」

期 日 : 2017年4月29日(土)~6月11日(日)
場 所 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前10時から午後4時
休館日 : 月曜日
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

いつも「言いたいこと」に満ちあふれ、何かを書かずにはいられなかった実篤は、明治43(1910)年に同人雑誌『白樺』を創刊して以来、ほぼ切れ目なく主宰雑誌を持ち、出版依頼が途切れれば自ら主体となって出版社を興してでも執筆を続けました。
『白樺』は全160号、順調に発行し続けられたかのようにみえますが、内実はどうだったのでしょうか。今回の展覧会では、発行所や印刷所・製版所など、あまり注目されることの少ない「出版の裏方・裏事情」にもスポットを当てます。
また、2017年は、実篤が昭和2(1927)年に雑誌『大調和』を創刊して90周年目に当たります。雑誌をよりどころにユニークな公募展を生み出した『大調和』。生涯を通じて幅広い交友を持った実篤の、人脈の源泉の一つはここに見いだせると言えるでしょう。
そのほか、実篤の発案で作られた日本で最初の文庫本「村の本」や、自作を振り返る機会ともなった全集の刊行などを取り上げ、絶え間なく続いた実篤の出版活動をたどります。

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『白樺』、『大調和』ともに武者小路の主宰した雑誌で、光太郎が主要執筆者の一人でした。そんなわけで、チラシ表面の集合写真には光太郎も写っています。

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後列左端にいる武者から一人おいて光太郎。智恵子と運命的な邂逅を果たした直後の撮影です。

光太郎、『白樺』には、明治43年(1910)11月の第1巻第8号から、大正12年(1923)年5月の第14巻第5号まで、多くの作品を寄せています。詩、評論、随筆、そして翻訳が多く、大正6年(1917)から翌年にかけては、連載も持っていました。アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの「自選日記」、そして「ロダンの言葉」(これらは後に単行本化されました)です。『大調和』には、昭和2年(1927)から翌年にかけて、やはり詩や評論、随筆、翻訳などを寄せています。

その他、やはり武者が主宰した『生長する星の群』、『心』などの雑誌でも、光太郎は主要執筆者の一人でした。そんなわけで、昭和31年(1956)4月4日の光太郎葬儀では、武者が葬儀委員長を務めています。

おそらく今回の展示でも、光太郎にからむ内容となるでしょう。


関連行事として講演会が予定されています。

講演会 「『白樺』を支えた洛陽堂主人 河本亀之助」

期  日 : 2017年5月28日(日)
場  所 : 調布市東部公民館 東京都調布市若葉町1丁目29番地21
時  間 : 午後1時30分から3時
講  師 : 田中英夫氏 
      『洛陽堂 河本亀之助小伝 損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』
          〈平成27
年 燃焼社〉著者
料  金 : 無料
定  員 : 50名
申し込み : 往復葉書で記念館へ

『白樺』の版元が洛陽堂に決まったいきさつには、河本、武者小路公共【きんとも】・実篤兄弟を引き合わせた、楽之会【らくしかい】(高島平三郎主催)の存在がありました。
また、13年5ヵ月続いた『白樺』の発行は160号を数え、1回を除き欠号もなく順調に継続していたかのように見えますが、内実はどうだったのでしょうか。
河本をとりまく人間模様や、発行者側の事情を中心に語っていただきます。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおそろしい。 圓いものを圓く作る。 圓いものが果して圓いか。 僭越は罰せられる。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

本当にたまたまですが、この詩も雑誌『大調和』に発表されました。

丸い物の丸い形を再現するのが具象彫刻ですが、彫刻家が設定するその丸さは、ある意味彫刻家の捉えた丸さです。3Dプリンタならいざ知らず、まったく正確な再現ではありません。まぁ、3Dプリンタとて、ナノレベルで見れば正確な再現はできていないでしょう。ましてや人間の手で、造物主たる神のような作業を行おうという、そこが「僭越」、と、当方は解釈します。

明日まで展示「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の横顔」が開催されている、千代田区立千代田図書館さんでの次の展示です。 

展示 10分で出会う吉本隆明展 ~晶文社『吉本隆明全集』によせて~

期 日 : 2017年4月25日(火)~7月22日(土)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階 展示ウォール 
       千代田区九段南1-2-1千代田区役所9階・10階
時 間 : 月~金 午前10時~午後10時 土 午前10時~午後7時  日・祝 午前10時~午後5時
休館日 : 第4日曜日
料 金 : 無料
主 催 : 千代田区立千代田図書館 晶文社

吉本隆明さんを知っていますか?
吉本さんは、思想家であり、文学者でもあります。若い方々には、「吉本ばななのお父さん」としてより広く知られているかもしれません。化学の専門教育を受けるいっぽう、詩人として世に出た彼は、会社勤めをしながら詩作や評論活動をつづけ、詩情と合理性をあわせもった思想家として、時代時代の世論や知識人に影響をあたえました。
吉本さんが「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどのゆるぎない思想を、戦後の混沌とした価値観の中で打ち立てることができたのは、なぜなのでしょうか。さまざまな価値観がリアルタイムで共有される、「正解」のない現代、吉本さんの、何者にもよりかからない「自立」の力が、より魅力的に感じられます。
今年は平成24年の死去から5年、本展では吉本さんの人生と膨大な業績を、パネル・著書や関連書籍(一部を除き貸出可)・愛用品・書斎の写真などで紹介します。

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戦後、この国で初めて光太郎を真っ正面から取り上げた故・吉本隆明。当会顧問・北川太一先生とは、東京工業大学等でご同窓、光太郎がらみで終生、交流を続けられました。

その没後、晶文社さんから『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の刊行が始まり、これまでに刊行された第5巻(月報に北川先生玉稿掲載)、第4巻、第7巻第10巻第12巻などで、光太郎に言及した文筆作品が所収されています。

その『吉本隆明全集』が第Ⅱ期刊行に入るということで、いろいろ行われている記念イベントの一環としての展示です。

先週には同じく記念イベントの一環、「糸井重里さん×ハルノ宵子さんトークイベント「はじめての吉本隆明」が開催されました。当方、申し込んだのですが、すでに先着順で定員に達しており、聴けませんでした。残念。

今回は関連行事として講演会が予定されています。 

講演会「ビジネスに活かす「吉本隆明」」

期 日 : 2017年5月24日(水曜日)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階=特設イベントスペース 
時 間 :  午後7時~8時30分
料 金 : 無料 定員50名 申し込み不要 先着順
講 師 : 山本哲士さん(文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター)

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

こほろぎの声をきくと、 物の哀れどころか、あべこべに、 十悪業が目をさます。 こんな男にかかつては、 詩も歌もおしまひです。

詩「殺風景」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳  

「十悪業」は「じゅうあくごう」と読み、仏教用語です。「十悪業道」とも。

 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によれば、(1) 殺生,(2) 盗み,(3) 邪淫,(4) いつわり (妄語) ,(5) 中傷 (両舌) ,(6) ののしり (悪口) ,(7) ざれ口 (綺語) ,(8) 貪り,(9) 怒り,(10) 誤った考え (邪見) の 10種。 (1) ~ (3) が身体動作に関するもの,(4) ~ (7) が言語表現に関するもの,(8) ~ (10) が心理作用に関するもの。

「殺生」や「盗み」はともかく、社会矛盾に対し痛烈な「怒り」を覚えていた光太郎、詩歌の中で「両舌」やら「悪口」やら「綺語」やらは、確かに開陳していました。光太郎にとっての詩歌は「花鳥諷詠」たり得ない、ということなのでしょう。

昨日のこのブログでは、岩手の地方紙『岩手日日』さんから、光太郎に触れた最近の記事をご紹介しましたが、もう1件ありました。

レトロ車両でのんびり ジャンボタクシーコース、名称変更 雨ニモマケズ詩碑を追加

 【花巻】懐かしの車両でのん001びりどうぞ―。レトロジャンボタクシーで花巻市内を巡る花巻観光協会(佐々木博会長)の観光ツアーが、名称やコースを変更し、2017年度から「どんぐりとやまねこ号」として再出発した。これまでコースになかった雨ニモマケズ詩碑を新たに加えるなど、古里の偉人・宮沢賢治ゆかりの地を拡充。午前か午後の半日運行と午前、午後を合わせた1日運行の3コースで、花巻の見どころを楽しんでもらう。
 半日運行のうち、午前はJR花巻駅東口を8時15分、花巻温泉郷を8時30分~9時15分に出発し高村光太郎記念館、雨ニモマケズ詩碑、宮沢賢治記念館を経て、正午ごろにJR新花巻駅に到着。午後はJR新花巻駅を1時に出て花巻新渡戸記念館、宮沢賢治記念館、ワインシャトー大迫、早池峰と賢治の展示館を経由して4時30分ごろにJR新花巻駅、4時40分ごろにJR花巻駅東口、4時50分~5時35分ごろに花巻温泉郷に到着する。
 午前と午後を合わせた1日運行のコースでは、午後に設定されている宮沢賢治記念館を宮沢賢治童話村に変更する。昼食は各自自由。半日、1日運行いずれのコースも、観光地や観光施設では20~40分の滞在時間を設ける。料金は施設利用料や入館料を含め3歳以上1人に付き、半日運行のコースで各2000円、1日運行のコースで3500円。利用には予約が必要で、各コース2人以上の乗車で運行する。
 車両は文化タクシー所有で、1920年代に活躍した英国アスキス社製「ザ・マスコット」の復刻版。突き出たボンネットや木製の窓枠など懐かしさ漂う外観が特徴だ。友人と3人で乗車した京都市の会社員樋口かえでさん(23)は「こうしたレトロな車に乗るのは初めて。料金が安く、運転手さんとの会話も楽しい。有意義な時間を過ごすことができた」と話す。
 今年度は、昨年度までの「あったかいなはん花巻号」から名称変更したほか、午前か午後だった賢治記念館を双方に盛り込むなどニーズを踏まえてコースを見直した。同協会では「賢治のイメージを色濃くしたコース設定。特に新しく盛り込んだ雨ニモマケズ詩碑は車でないとなかなか行きにくい。ぜひ利用してほしい」としている。
 予約の申し込みなど、問い合わせは花巻観光協会=0198(29)4522=へ。


一般社団法人花巻観光協会さんで運営されているジャンボタクシー。以前から運行されていましたが、けっこうシステムやコース、利用料金の変更があります。郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんが、コースに入ったり入らなかったりでした。

今月からは、名称自体も以前の「あったかいなはん花巻号」から「どんぐりとやまねこ号」に変更。午前中運行の「どんぐり号」と午後出発の「やまねこ号」に別れ、「どんぐり号」の方に花巻高村光太郎記念館さんが入っています。また、光太郎が揮毫した市内桜町の「雨ニモマケズ」碑が新たにコースに組み込まれたそうです。午前午後、通しで利用すれば「どんぐりとやまねこ号」ということになるとのこと。

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高村光太郎記念館へは、試験的に運行を復活させていた岩手県交通さんの路線バスが3月でやはり廃線となってしまいましたので、こちらの利用が便利かと思われます。ただ、滞在40分というのが少し短いような気はしますが……。


花巻観光協会さんといえば、先日、花巻にお邪魔した折、新花巻駅の観光案内所で、同会から昨年11月に発行された無料の観光ガイドブック『花巻へ行こう ようこそ、イーハトーブの世界へ』をゲットしました。

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高村光太郎記念館さんが紹介されいる他、「湯っくり、湯ったり。温泉満喫の旅へ。」という記事で、光太郎も愛した花巻の温泉各所を紹介。

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これらの温泉と、光太郎との関わりをまとめた企画展「光太郎と花巻の湯」、花巻高村光太郎記念館さんで開催中です。

やはり岩手の地方紙『岩手日報』さんも取り上げてくださいました。同社のweb版にはアップされていないようですが、LINEアカウントとしてヒットしました。

光太郎と温泉のつながり紹介 花巻で企画展

 花巻市太田の高村光太郎記念館で14日、春季企画展「光太郎と花巻の湯」が始まった。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)は戦禍を逃れ東京から疎開し晩年の7年を花巻で過ごした。持病の神経痛を癒やした花巻の温泉地を描いたエッセーや戦前の絵はがきなどを紹介している。
 展示の目玉は光太郎の住居に併設された風呂小屋で実際に使われた「鉄砲風呂」。48年に宮沢賢治の弟清六さんが贈ったものだが、地元の子どもたちが井戸から水を運ぼうと申し出ても拒否。効率が悪く迷惑をかけるのも心苦しいと、風呂おけは結局ほとんど使わず、温泉に出掛けたとされる。
 同展は6月26日まで(休館なし)の午前8時半~午後4時半。一般550円、高校・学生400円、小中学生300円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。 朝霧ははれても湯けむりははれない。 湯ばたけの硫気がさつとなびけば 草津の町はただ一心に脱衣する。

詩「草津」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日ご紹介した「大涌谷」と2篇で「名所」の総題がつけられて発表されました。光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。

ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

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また、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

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岩手の地方紙『岩手日日』さんの最近の記事から、ご紹介します。

まずは4月2日の花巻での連翹忌

62度目の命日しのぶ 松庵寺で連翹忌法要

 高村光太郎の「連翹忌(れんぎょうき)法要」が2日、花巻市双葉町の松庵寺(小川隆英住職)で営まれた。同日は光太郎の62回忌で、市民ら約20人が、晩年の一時期を同市太田の山荘で過ごした花巻ゆかりの偉人をしのんだ。
 連翹忌は、光太郎が生前好んだ花にちなんで命名された。花巻での法要は毎年、花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)が光太郎の命日に合わせ、かつて光太郎の妻の智恵子や父の光雲、母のわかの法要が営まれた縁のある同寺で行われている。
 参列者は1人ずつ焼香し静かに合掌。同市南万丁目の高橋輝夫さん(78)は、光太郎が花巻出身の童話作家・宮沢賢治を世に知らしめることに尽力した事に触れ「光太郎は検事や花巻の恩人。滞在当時を知る人もいるが、みな高齢。これからも大事に語り継いでいきたい」と話していた。
 同日は同寺で営まれた智恵子の法要を題材とした光太郎の詩「松庵寺」を小川住職が披露した。法要後は参列者による座談会も開かれ、1945年5月以降の7年を花巻で過ごした光太郎の思い出や功績を語り合った。
(2017/04/03)

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花巻では毎年、午前中に旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後に松庵寺で連翹忌法要が持たれています。

『岩手日日』さんのweb版では、詩碑前祭の記事はアップされていましたが、紙面に同時に掲載されていた連翹忌法要の記事は、web版にアップされていませんでした。そこで、花巻高村光太郎記念会さんから、記事のコピーを送っていただいた次第です。


続いて、4月10日、高村山荘裏手の智恵子展望台リニューアルお披露目の記事。

詩「案内」の風景一望 智恵子展望台にデッキ 高村記念館整備事業

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年の一時期を過ごした花巻市太田にある「智恵子展望台」に、改修に伴ってデッキが新設された。10日は地元住民や市の担当者、光太郎顕彰団体の関係者が訪れ、眼下に広がる風景を基に光太郎が物した詩そのままの景観を楽しんだ。
 高村山荘近くの丘の上に設けられたデッキは9メートル四方。以前からあったあずまやも、高村光太郎記念館から高村山荘まで約120メートルの遊歩道新設などを含めた2016年度の同記念館整備事業で、デッキとともに市が改修整備した。総事業費は2000万円。
 同日は、高村記念会山口支部の照井康徳支部長や花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表、市の市川清志生涯学習部長ら約20人が来訪。共に光太郎の詩を朗読するなどし、偉人を縁とした交流と景観を楽しんだ。
 丘の上は、かつて光太郎が亡き妻への思いを募らせたとされることから、「智恵子展望台」として親しまれてきた。これまでは樹木で視界が遮られていたが、デッキが斜面に設けられたことにより、詩「案内」で「展望二十里南にひらけて」とされた風景が一望できるようになった。
 小山代表は、実際に光太郎を知る地元住民が高齢なことを踏まえ「光太郎の詩は地元の宝。孫やひ孫にも素晴らしい詩があることを伝えていってほしい」と呼び掛けた。照井支部長は「緑が生い茂る5月の高村祭が今から楽しみ。ぜひ多くの人に足を運んでほしい」と期待を込めた。
 1945年の東京大空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、知己の間柄だった宮沢賢治の生家を頼り花巻に疎開。同年10月に当時の太田村山口に移り、52年まで独居自炊の山荘暮らしを続けた。 (2017/04/13)

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こちらはweb上でもアップされていますが、上記コピーともども紙面本体を花巻高村光太郎記念会さんが送ってくださいました。また、同会太田支部の浅沼隆さんからも同じものが届きました。

この日取材にいらしていたのが、たまたま当方の顔見知りの記者さんで、そのため写真をでかでかと載せられてしまった次第です(笑)。


最後に、先週から花巻高村光太郎記念館さんで始まった企画展、「光太郎と花巻の湯」の報道。

光太郎癒した湯 きょうから記念館で企画展 使用浴槽など紹介

 花巻ゆかりの詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の関係資料を展示する花巻市太田の高村光太郎記念館(中村光一館長)の春期企画展「光太郎と花巻の湯」は、14日から同記念館で開かれる。エッセーや当時の絵はがきなどの資料とともに、光太郎と花巻の温泉のつながりを伝える。光太郎の人となりも感じられるとして多くの来館を呼び掛けている。
 光太郎は太平洋戦争で花巻に疎開し、終戦直後から約7年間、旧太田村山口で生活を送りながら作品制作に取り組んだが、この間、持病の神経痛を癒したのが温泉。今企画展は温泉、湯にスポットを当て光太郎と湯の関わりを資料でたどる。
 展示資料は、光太郎がポケットサイズの旅行雑誌「作家画家の温泉だより」に寄せた回想録の作品パネルのほか、戦前と見られる温泉施設や路面電車「花巻電鉄」の写真が掲載された絵はがきなど約40点。旅行雑誌で光太郎は、花巻温泉峡、花巻南温泉峡の旅館や温泉街の様子、料理、周辺の自然などに触れながら、「花巻を訪れる時季はやっぱり花の頃がいい。人間に温泉場らしいこすいところがないのが私は好きだ。まったく花巻はいい温泉である」と結んでいる。
 展示品で目を引くのが、光太郎が使用していたヒノキ造りの「鉄砲風呂」。一般公開は初めてで、深さと横幅が各90㌢ほど、奥行き70㌢ほどの楕円(だえん)形。浴槽の半分に鋳物製の筒が設置され、筒内でまきなどを燃やして浴槽内の水を温める仕組み。1948年に宮沢賢治の弟清六さんが贈り、村人らの協力で小屋も建てられた。燃料を多く用いることから「自分だけで(燃料を)たいてはすまないです」と話し、ほとんど利用しなかったことが添えられたエピソードに記されている。
 企画展を担当した花巻高村光太郎記念館事務局企画担当の高橋卓也さんは「多くの方に湯を通して光太郎と花巻のつながりを感じてもらいたいし、花巻の温泉を高く評価していたことも知ってほしい」と話している。
 企画展は6月26日までで、開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入場料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

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こちらもネット上には掲載されず、コピーを送っていただきました。

「鉄砲風呂」に関しては、正しくは「同館での一般公開は初めて」で、前身の花巻市歴史民俗資料館時代に展示されていました。

同展のチラシがこちら。

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同館からメールで届いた展示設営状況。

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来月15日には、同館敷地内で第60回高村祭もかいさいされます。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

岩がとろけてわいてゐるのを ひとりでのぞくのは止すがいい。 千八百度の破壊力が たいへんやさしく微笑するから。

詩「大涌谷」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

花巻ならぬ、箱根を謳った詩です。光太郎の温泉好きは戦前からで、箱根にはこの年と翌年に訪れています。このブログの左上、プロフィール欄のサムネイルとして使わせていただいている有名な写真もこの年に大涌谷で撮られたものです。

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右は翌年。この年は智恵子の母・センも同道しての箱根滞在でした。

福島県の地方紙『福島民友』さんから、智恵子の名が出た記事を3本。

【二本松】樹齢270年の「万燈桜」ライトアップ始まる 道の駅「安達」

 二本松市の道の駅「安達」智恵子001の里下り線の入り口にあるエドヒガンザクラの巨木「万燈(まんとう)桜」のライトアップが5日、始まった。23日まで毎日午後6時30分~同10時に点灯する。
 万燈桜は樹齢約270年の一本桜で、高さ約15メートル。初日は同所で点灯式が行われ、同道の駅を運営する市振興公社の鈴木隆ゼネラルマネージャー(GM)と鈴木克裕市産業部長が点灯のスイッチを押した。 (2017/04/07)


智恵子生家・智恵子記念館と同じ、旧安達町にある「道の駅「安達」智恵子の里下り線」の名物、「万燈桜」のライトアップ。今度の日曜までです。

下記は二本松市観光連盟さん制作の動画。万燈桜は1分37秒頃から。


 

臨時バス『春さがし号』運行 二本松の花見スポットや名所循環

 二本松市中心部の花見スポットや名所旧002跡を循環する臨時バス「二本松春さがし号」は8日、運行を開始した。JR二本松駅前発着で、5月7日まで毎日6便運行する。
 同バスの運行はにほんまつ観光協会(安斎文彦会長)の事業で、福島交通に業務を委託。智恵子の生家や霞ケ城公園、二本松少年隊の供養塔がある大隣寺などを巡る。
 同駅前を除き9カ所で停車する。約1時間置きにバスが巡回しており、霞ケ城本丸入口で下車した場合には同公園内を思う存分に散策した後でも次の便に乗車し移動できる。
 乗り降り自由の1日フリー乗車券は大人(中学生以上)500円、子ども250円で、乳幼児無料。運賃は大人が170~500円、子どもが90~250円。
 出発式では安斎会長、半沢典明福島交通二本松営業所長、鈴木克裕市産業部長が誘客への期待を込めてあいさつし、テープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(同0243・24・5085)へ。 (2017/04/11)


普段、公共交通の便はあまりよろしくない智恵子の生家ですが、「春さがし号」、これを使えば便利です。1時間おきに到着しますので、降りてゆっくり見て、次の便を利用すればいいわけですね。

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そして、智恵子の生家では、2階の智恵子の居室を限定公開中。記念館では智恵子紙絵の実物も展示されています。 

【二本松】「智恵子の部屋」など限定公開 週末と祝日、5月7日まで

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で光太郎の詩集「智恵子抄」でも知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の智恵子の生家で、「智恵子の居室(部屋)」を含む2階部分が限定公開されている。公開は週末と祝日で、5月7日まで。
 智恵子の実家は造り酒屋。智恵子の居室は4畳半で、大通りに面し、障子を開けると通りや近くの森が見える。光太郎が訪れた際に使ったとみられる居室にも隣接する。初日の8日には県外からの客も訪れ、智恵子を育んだ場所に興味深く見入っていた。
 公開時間は午前9時~正午、午後1時~同4時。入館料は大人(高校生以上)410円、小・中学生200円。問い合わせは智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。公開日次の通り。
 4月=15、16、22、23、29、30日▽5月=3、4、5、6、7日 (2017/04/15)

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その他、霞ヶ城、安達ヶ原公園などで桜まつりが開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

知盛が化けて出たなんて、 それはまつかな嘘です。 いやしい根性の忖度です。
詩「昔話」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「知盛」は、平清盛の四男。壇ノ浦の戦いで、壮絶な最期を遂げました。謡曲や歌舞伎では、平家の亡霊たちが襲ってきたと思わせる計略をしかけたり、没後には亡霊となって義経を冥府にひきこもうとしたりしたと描かれています。

なぜか光太郎、平家びいきです。一方の源氏に対しては、同じ詩の中で「源氏のずるさ」「源氏は勝って負けました。」「徹頭徹尾卑劣」といった表現が見られます。敗者に肩入れしたがる「判官贔屓」でしょうか(「判官」は源氏の九郎判官義経ですが)。知盛には、壇ノ浦で碇を体に巻き付けて入水したという伝承もあり、そこまでの覚悟を固めていたのなら、死語に亡霊になどなるわけがない、ということでしょうか。

それにしても、今年の流行語大賞に選ばれそうな勢いの「忖度」の語が使われており、笑えました。まさしく「忖度」には「いやしい根性」が付きものですね。そういったものを光太郎はとことん嫌っていました。

秋田から、生涯学習系の講座情報です。

【あきたスマートカレッジ】文学リレー講座~戦中・戦後の文学~高村光太郎

期  日 : 2017年4月22日(土)・5月27日(土)・6月24日(土)
会  場 : 秋田県生涯学習センター 秋田市山王中島町1-1
時  間 : 午前10時から午前11時30分まで
講  師 : 秋田県生涯学習センター シニアコーディネーター 北条常久氏
受講料  : 1回420円
内  容 :
  4 /22(土) 高村光太郎① 青年光太郎『道程』~彫刻家父光雲と詩人光太郎~
  5 /27(土) 高村光太郎② 光太郎と智恵子『智恵子抄』~智恵子の愛に清められ~
  6 /24(土) 高村光太郎③ 戦中・戦後の光太郎『暗愚小伝』~花巻高村山荘での生活~

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講師の北条常久氏には、『詩友 国境を越えて―草野心平と光太郎・賢治・黄瀛』というご著書があり、一昨年には、光太郎・宮沢賢治、黄瀛、そして草野心平をとりあげる講座を「支え合う文学者たち 『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛」という講座を、同じ秋田生涯学習センターさんでなさいました。

今回は光太郎中心で、全3回。ありがたい限りです。リレー講座とあるのは、その後、他の講師の方々が3回ずつ、太宰治、三島由紀夫、大江健三郎に関しての講座を持たれるためです。

こうした市民講座的なものでも、光太郎智恵子、光雲などについて、もっともっと取り上げていただきたいものです。関係者の皆さん、ご検討を。

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【折々のことば・光太郎】

母を思ひ出すと俺は愚にかへり、 人生の底がぬけて 怖いもの がなくなる。 どんなことがあらうともみんな 死んだ母が知つているやうな気がする。

詩「母をおもふ」より 昭和2年(1927)
 光太郎45歳

右が光太郎の母・わか。この詩の書かれた2年前に大腸カタルで没しました。当会顧問北川太一先生の筆になる『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜のその項には、

純情で、江戸の昔のやり方を通し、自分を無にしていつも澄んでいた母の姿は、愛情深い典型的な女性として、光太郎の心の中に祀られる。

と記されています。

まずはすでに始まっている展覧会の情報から。

コレクション選 新収蔵品展 ひびき合うコレクション【前期】

会 期 : 2017年4月8日(土)~5月28日(日)
会 場 : 札幌芸術の森美術館 札幌市南区芸術の森2丁目75番地
時 間 : 9:45~17:00
料 金 : 無料
休館日 : 月曜日

 札幌芸術の森美術館では、1990年の開館以来、寄贈や購入を通じてコレクションを着実に充実させ、現在では1,551点の作品を所蔵するにいたっています。そのコレクションをふりかえれば、彫刻、油彩、日本画、水彩、素描、版画、写真、工芸、写真、部族芸術と幅広いジャンルの作品を収集しています。なかでも、日本の近代彫刻をたどることのできる彫刻のコレクション、そして札幌出身の個人コレクターの寄贈による北海道絵画史を一望できるコレクションは特筆に値します。こうしたコレクションは、絶え間ない作品収集によって形作られています。美術館にとってコレクションはかけがえのない基礎資源であり、また美術館の歴史はコレクションを形成してきた歴史であるともいえるでしょう。
 
 これまで「札幌芸術の森美術館コレクション選」では、当館が収蔵する作品を継続的にご紹介してきましたが、その一方で、近年収蔵された作品をまとめて展示する機会はほとんどありませんでした。本展では、近年新しく収蔵された作品を中心に、また、師と弟子、盟友との切磋琢磨などが感じられる新収蔵作品とつながりの深い既存の収蔵作品とあわせて展示いたします。コレクションの共演をお楽しみください。

【出品作品】
 1. 鈴木武右衛門《シルバーペンダントのAisha》 砂岩、赤御影石、銀 2011年
 2. 佐藤忠良《智恵子抄のオリエ》 ブロンズ 1971年 [既収蔵作品]
 3. 笠井誠一《ボトルとミルク缶のある風景》 油彩、キャンヴァス 2012年
 4. 笠井誠一《ふいごのある卓上静物》 油彩、キャンヴァス 2008年
 5. 吉田芳夫《演技者Y(本田明二氏)》 ブロンズ 1982年
 6. 本田明二《けものを背負う男》 木(カツラ) 1982年 [既収蔵作品]
 7. 阿部国利《体内のリズム》 水彩、素描 2002年
 8. 阿部国利《崩壊するマスク》 油彩、キャンヴァス 1995年
 9. 矢崎勝美《愛のシリーズ2》 シルクスクリーン、オフセット、手彩色(吹付) 1972年
 10.矢崎勝美《愛のシリーズ3》 シルクスクリーン、オフセット、手彩色(吹付) 1972年


館蔵品のコレクション展です。収蔵品が多い館では、こういった形でローテーション的に展示品の入れ替えを行うことがよくあります。同館では光太郎の「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)を所蔵しており、それらもこうした形で出す機会があるのだと思われます。

今回、当方の注目は、光太郎を敬愛していた彫刻家、佐藤忠良の「智恵子抄のオリエ」。

「オリエ」は佐藤の息女で、女優の佐藤オリエさんです。佐藤はたびたびオリエさんをモデルに彫刻を制作していました。


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左はずばり「オリエ」(昭和24年=1949)、右は「冬のオリエ」(同41年=1966)。

「智恵子抄の」というのは、昭和45年(1970)に、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、オリエさんが智恵子役を演じたためです。ちなみに光太郎役は故・木村功さんでした。

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佐藤としては、自分が敬愛していた光太郎の妻をお嬢さんが演じたということで、感慨深いものがあったのではないでしょうか。

首都圏であれば観に行きたいところですが……。


美術館がらみでもう一点。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を偲ぶ会です。 

第107回碌山忌 

期 日 : 2017年4月22日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 10:30~
料 金 : 無料 (18:00からの「碌山を偲ぶ会」のみ参加費1,000円)
日 程 :
 10:30~     ミュージアム・トーク(碌山館)
 11:00~     墓参
 13:00~     ミュージアム・トーク(企画展・第二展示棟) 
 13:30~15:00 碌山忌コンサート(グズベリーハウス)
 15:30~17:15 研究発表フォーラム・ディスカッション 
          「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」(杜江館)
 18:00~     碌山を偲ぶ会(グズベリーハウス)

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昨年、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催してくださり、関連行事の講演会では当方に講師を務めさせてくださった碌山美術館さんの主催行事です。

毎年行っていたのですが、昨年は地域の会議と重なってしまい、欠礼。今年からまたお邪魔いたします。同館では、7/1(土)~9/3(日)には、夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」、12/2(土)に美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」を開催してくださいますので、情報収集もかねていって参ります。

また、ネット上で詳細な情報が出ていないので全容が不明ですが、光太郎とも関わるはずですので、研究発表フォーラム・ディスカッションが非常に興味深く感じております。


それぞれお近くの方、ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

護る者から詩は逃げて、 振りはらふ者に詩はまつはる。 こんなあまのじやくにはお構無(かまひな)しに、 おれはどしどし道をゆかう。

詩「「詩」」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

後に光太郎は、「詩は日記のようなもの」と発言しています。つまりは原稿用紙に向かって呻吟しながら作るものではなく、自然にできてしまうということでしょう。「振りはらふ者に詩はまつはる。」とは、そうした意味だと思われます。

だからといって、光太郎の詩が稚拙で無技巧というわけでもなく、発表する詩に対しては、かなり推敲を施した跡がみられます。


ともにBS放送の番組、2本ご紹介します。

実践! にっぽん百名山 「安達太良山」

NHKBS1 2017年4月18日(火)  14時00分~14時30分

福島を代表する名峰・安達太良山(標高1700m)を行く1泊2日の山旅。山麓に広がる新緑の樹林帯、春の訪れを告げる花々、ダイナミックな噴火口など登るごとに景色が変わる登山を楽しむ。ヤマ塾は、長く歩き続けるテクニックを紹介する。脚の運び方から、ペース配分、脚の疲労を軽減するためのグッズなど、脚力に自信のない人でも安心して山を登るためのノウハウを解説する。

司会 工藤夕貴 萩原浩司   語り 鈴木麻里子   出演 佐藤哲朗 金子貴俊

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今月8日に本放送があり、そちらを拝見しました。

司会は工藤夕貴さんと萩原浩司さん、ゲストは金子貴俊さん。

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冒頭近く、光太郎智恵子に絡めて安達太良山をご紹介くださいました。

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以降は、地元登山ガイドの方によるナビゲートで、実際の登山レポート。

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さまざまな表情を持つ山だというのがよくわかる作りになっていました。


続いて、先月、地上波テレビ東京系で放映された「美の巨人たち」。

美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い

BSジャパン 2017年4月19日(水)  23時00分~23時30分

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番を捉えた『鏡獅子』。明治・大正・昭和を生き抜いた彫刻界の巨人・平櫛田中が着想から完成までなんと22年をかけたこの作品に迫ります。

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番[春輿鏡獅子]。今回の作品は、その一場面を捉えた高さ2mの木造彫刻『鏡獅子』。国立劇場のロビーに展示されています。作者は彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)。今にも動き出さんばかりの躍動感!しかも裸の姿まで彫り上げています。これこそが田中の頂点を極めた作品だといいます。

田中が作品に挑んだのは65歳。完成は22年後。そこまで歳月をかけたのには、彫刻家と歌舞伎俳優の深い絆と信頼が。知られざる『鏡獅子』誕生物語に迫ります。さらに『鏡獅子』を何度も演じている、5代目尾上菊之助が作品と対面。“6代目”を前に感じたその思いを語ります。

ナレーター 小林薫  蒼井優

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光雲門下の平櫛田中(でんちゅう)の代表作、木彫彩色の「鏡獅子」が取り上げられます。

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これも冒頭近く、田中の経歴的な話の中で、光雲に触れられました。

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光雲の後ろにいる学帽が光太郎なのですが、そこはスルー(笑)。田中と光太郎はかなり親しかったのですが。


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さらにゲストは歌舞伎の5代目尾上菊之助さん。

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昨年、100年ぶりに見つかった田中の木彫「尋牛」も写りました。

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興味深かったのは、「鏡獅子」の制作過程。はじめに小型の試作を作り、それを正確に拡大したところ、納得が行かなかったというのです。

この点については、田中の弟子筋にあたる、橋本堅太郎氏(二本松駅前の智恵子像の作者)が的確な解説を加えてくださっていました。

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このあたり、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも通じるような気がしました。「乙女の像」は、小型試作、中型試作、そして実際の像と、3段階で作られました。下の画像、左が小型試作、右が実際の像です。

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なるほど、という感じでした。


それぞれ、ぜひご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

この世の美からは逃げられない。 首をかけても、 この世の美からはどかれない。
詩「美を見る者」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

造形作家として、まさしくそうだったのでしょう。

そして、平櫛田中、それから安達太良山の「ほんとの空」を見つめながら画家としての大成を目指した智恵子も同じだったのではないでしょうか。

4/10、花巻高村光太郎記念館さんを後に、レンタカー005を北に走らせました。一路、元々の目的地、盛岡へ。翌日に行われる盛岡地区更生保護女性の会さんの総会の中で、講演をさせていただくことになっておりました。昨年7月、盛岡少年刑務所さんで開催された「第39回高村光太郎祭」の中で行った当方の講演を聴かれた同会会長の及川様がいたく感銘して下さり、ぜひ同会の総会でも、ということになって実現しました。恐縮至極です。

レンタカーを盛岡の営業所に返し、宿へ。昨年と同じ、内丸の北ホテルさんを取りました。建物や経営は代わりましたが、かつて菊屋旅館といっていたところで、光太郎が盛岡に行った際に何度か宿泊していました。

確認できている限り、光太郎は7回、盛岡に足を運んでいます。岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執っていた森口多里や舟越保武、深沢省三・紅子夫妻らの要請によることが多かったのですが、その都度、少年刑務所などいろいろなところで講演などを行いました。そうした際の多くは菊屋旅館に宿泊したようです。

チェックイン後、2階のレストラン「窯」さんへ。こちらで夕食を兼ね、更生保護女性の会さんの役員の方々と打ち合わせでした。その後は例によって早めに就寝。

翌朝、少し時間がありましたので、付近を歩きました。

ホテルにほど近い、地方裁判所前の、有名な石割桜。

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本当に岩の裂け目から伸びています。

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花はさすがにまだ咲いていませんでした。満開になるとこうなるようです。近くにあった説明版から。

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ちなみに、千葉の自宅兼事務所から徒歩20秒の公園(隠れた桜の名所)は、こうなっています。

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続いて中津川の方へ。

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去年歩いた時には気づきませんでしたが(というか、そこを歩きませんでした)、岩手テレビさんの庭園に建つ、光太郎を敬愛していた舟越保武の彫刻。舟越の作品は、遠目でもそれと判ります。それが「個性」というものなのでしょう。

川辺では、カモさんたちがお食事中。

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その他、光太郎ゆかりの人物が経営してい003た(おそらく代替わりしているはず)お店があるのですが、さすがに開店前でした。開いていたらお話を伺おうと思っていましたが、次の機会にします。

ホテルへ戻り、荷物を抱えて路線バスに乗って、盛岡駅へ。会場のいわて県民情報交流センターアイーナさんは、駅の反対側でした。

8階に上がり、会場のセッティングをお手伝いし(女性の方ばかりでしたので、皆さん高いところに手が届きません)、こちらもプロジェクタの位置調整などなど。それが終わると暇になりましたので、階下の岩手県立図書館さんへ。この建物の中に県立図書館さんが入っているというのは存じませんでした。知っていれば事前に細かな蔵書検索等で目星をつけていたのですが……。こちらも次の機会にします。

それでも開架の郷土資料コーナーに、岩手出身の光太郎の周辺人物の関連で、興味深い書籍がたくさんありました。宮沢賢治をはじめ、石川啄木、舟越保武、宮静枝、深沢夫妻、野村胡堂などなど。

そうこうしているうちに時間が経ち、さらに階下へ降りて昼食を摂り、8階の会場に戻りました。

午後2時から、更生保護女性の会さんの総会です。来賓の方々を含め、150名近くがご参集。当方の出番は最後ですが、それまで会場の一番後ろで拝聴しました。

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年に一度の総会ですので、前年度の活動報告などがありました。実に様々な活動に取り組まれていて、感心させられました。少年鑑別所、少年院、少年刑務所、保護観察所などでのボランティア活動、その他、地元の祭礼や幼稚園、児童養護施設などでも活動されています。頭の下がる思いでした。

休憩を挟んで、当方の講演。順風満帆とはほど遠く、つまづきの連続だった光太郎の一生をダイジェストでご紹介しました。つまづいて転んでも、道を踏み誤っても、八方ふさがりになっても、そのたびにまた立ち上がり、新たな道を模索し続けた光太郎の生涯が、更生保護に携わる皆さんの、というより、皆さんが関わる保護対象者へのエールとなるように、と考えてお話をさせていただきました。

ついでと言っては何ですが、前日に花巻高村光太郎記念館さんでパンフレットと新しいチラシを150部ずついただき、参会の皆さんに配布。講演の最後に宣伝させてもらいました。お義理かもしれませんが(笑)、ぜひ行ってみたいという声が多く、少しは役だったかなと思いました。

また、今回は盛岡市、滝沢市、雫石町で活動されている方々が対象でしたが、花巻から嫁に来たという方もいらっしゃり、さらに驚いたことに、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの旧山口小学校の卒業生だという方までいらっしゃいました。

さらに、これもお義理かも知れませんが(笑)、宿泊を伴う研修旅行では、九十九里や二本松など、光太郎智恵子ゆかりの地にも行ってみたいという声もあり、嬉しい限りでした。


というわけで、1泊2日の予定を終え、盛岡駅から東北新幹線で帰路につきました。有意義な2日間でした。

以上、岩手レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
詩「詩人」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

たった2行の短い詩です。短い詩ですが、ある意味、すべての光太郎詩の中でも、最もその目指すところが顕現されていると言っても過言ではありますまい。

後半の「いくら廻されても……」、またはその類似の語句は、光太郎自身、好んで揮毫したり、木に彫ったりもしました。

4/10、正午過ぎに、当方がアドバイザー的なことをさせていただいている花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんに到着しました。

さすがに雪は消えていましたが、日陰にはまだこのように残っていました。このあたり、花巻市街より標高も高く、気温も低いのです。
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正面入口には大きな新しいタペストリー。写真家の故・内村皓一氏撮影の光太郎スナップで、先頃、花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで開催された「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」の際に作成されたものを譲ってもらったそうです。いい感じです。

受付脇には、山小屋(高村山荘)で暮らしていた頃の光太郎の食事に関する展示。

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館の女性職員の方々が中心となり、昨年あたりからこうした方面もいろいろやられているようで、地元テレビでも紹介されたり、当方も実際にいただいたりしました。また、今月創刊のタウン誌『Machicoco/マチココ』に、「光太郎のレシピ」として連載されるそうです。詳細は後ほど。

さて、関係各所から最近見つかったという、光太郎の遺品などを拝見。昭和20年(1945)の空襲で全焼した東京駒込林町のアトリエから持ち出した、光太郎の日記にもその存在が記されている舶来もののようでした。当方のあまり詳しくない分野のものですが、それが本当に日記に記されているとおりのものであれば(恐らく間違いないと思われます)、その筋の専門家によると、とんでもない逸品だとのこと。いずれ詳細が発表できる段階になりましたらご報告します。

さらに、館の運営を担っている花巻高村光太郎記念会の会長・佐藤進氏が院長をされていた総合花巻病院に保管されていた、光太郎から氏の父君である故・佐藤隆房氏に宛てた書簡類、そして光太郎以外の周辺人物から隆房氏宛の書簡類など。光太郎からのものは、すべて『高村光太郎全集』に収録されているはずですが、もしかすると漏れがあるかもしれません。まだ精査をしていないということで、当方も協力して進めて行きます。また、周辺人物からの書簡類も、ざっと見せていただいただけでも興味深い記述が多く、こちらもいずれ発表できる段階になりましたらご報告します。

そうこうしているうちに、同じ敷地内の高村山荘裏手にある智恵子展望台リニューアルお披露目の時間となりましたので移動。

敷地全体で、かつて無計画に植えられ、手入れもされていなかった杉などの伐採が進み、道も舗装などが進んでいました。
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さりとて、自然を壊すではなく、全体にすっきりしたという感じでした。周辺にはミズバショウやカタクリ、光太郎も好んで食べたバッケ(ふきのうとう)。ようやく春が巡ってきたという感じです。

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池にはなんと、サンショウウオの卵だそうで、これには驚きました。

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急な坂を上り、リニューアルされた智恵子展望台へ。光太郎が夜な夜なここから「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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9㍍四方のデッキが新設され、雑木を伐採したり刈り払ったりで、だいぶ展望がよくなりました。

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足下には昭和41年(1966)に建てられた旧記念館。

地元の皆さんが集まってこられました。光太郎がここに住んでいた頃をご存じの方も多くいらっしゃいます。

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皆さんで、ソロ、或いは群読の形で、この地を舞台にしたさまざまな光太郎詩を朗読。「雪白く積めり」「案内」「メトロポオル」「岩手の人」などなど。
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さらに、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長の横笛を伴奏に、旧山口小学校校歌斉唱。光太郎の作詞ではありませんが、光太郎や草野心平による指導の元に作られたとのこと。

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泉下の光太郎も喜んだことでしょう。


20分ほどで終わり、再び記念館へ。

明日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の展示パネルが業者さんから届いたところで、拝見しました。

上部の画像は、当方手持ちの古絵葉書からスキャンしたもの。光太郎が足繁く通った大沢温泉さん、鉛温泉さん、花巻温泉さん、志戸平温泉さんなどについて、光太郎や周辺人物が書き残した文章、当方執筆の解説などが書かれています。

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それから、温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた風呂桶も展示されます。

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012「鉄砲風呂」という形式で、下から温める「五右衛門風呂」とは違い、桶の中に直接入れられた金属製の筒の中で薪を燃やして湯を沸かす方式です。村人や宮沢家の厚意で、光太郎に贈られました。

桶を作ってくれた大工さんに贈った「木竹諧和」と書かれた書が残っています。「諧和」は「調和」の類義語で、大工さんに贈るにはもってこいの言葉ですね。

しかし、この風呂を沸かすには大量の薪が必要で、ほとんど光太郎は使わないまま、近くの開拓地に入植した青年にあげてしまったそうです。光太郎の没後、おそらくその青年の元から再び戻され、かつては高村光太郎記念館の前身だった歴史民俗資料館に展示されていました。最後の画像にある貼り紙的な説明は、その当時のものです。

一見すると、身長180センチ以上あった大男の光太郎には小さいかな、という感じでした。そのわりに薪が大量に必要となると、たしかに不経済ですね。

その代わりに、光太郎は足繁く温泉に通ったようです。


最後に、受付兼売店で、CDを購入しました。花巻町で結成された児童劇団「花巻賢治子供の会」主宰の照井謹二郎・登久子夫妻のお嬢さんで、ご自身も「花巻賢治子供の会」で演じられていた谷口秀子さんの朗読CD「思い出の高村光太郎先生」。

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2枚組で、光太郎の詩、随筆、日記が収められています。帰ってきて拝聴しましたが、温かみのある朗読でした。

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。やがて谷口さんは東京の大学に進学、時を同じくして光太郎も「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京し、交流がつづいたとのこと。

そのあたりの思い出が、昨年、当方が監修、一部執筆し、記念館さんで刊行した『光太郎 Kotaro Takamura』に掲載されています。

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また、CDに付いている小冊子にも同様の小文、さらにお母様の登久子さんの回想、光太郎からの書簡、贈られた書、写真などがてんこ盛りで、貴重な資料です。

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013CD自体は平成25年(2013)の発売で、当時の『岩手日報』さんで紹介されており、入手したいと思いつつ果たせなかったものでした。おそらく『光太郎 Kotaro Takamura』刊行の関係で、記念館さんに入荷されたのだと思われます。ラッキーでした。

ちなみにCDを入れていただいた袋がこちら。

光太郎智恵子とおぼしきかわいらしいイラストが入っています。記念館さんも様々なところでご努力されています。

花巻高村光太郎記念館、企画展「光太郎と花巻の湯」。明日からです。常設展示も充実しています。ぜひ足をお運び下さい。

明日は岩手レポート盛岡編をお届けします。


【折々のことば・光太郎】

法をおきかせください、 自分を辱めずに餓死せぬ法を、 あさましい律(おきて)に服せずに生きられる法を。

詩「花下仙人に遇ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

この頃の光太郎、彫刻や詩が徐々に世の中に認められて来てはいましたが、相変わらずの生活不如意。時には生きて行くために、意に沿わない仕事も引き受けざるを得ませんでした。そういうことをせずに生きていける方法を、夢幻の中で出会った仙人に問うているというシチュエーションです。結局は、そんなことが出来ようはずもなかったのですが……。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で行って参りました岩手をレポートいたします。

午前4時30分、千葉の自宅兼事務所を出まして、午前9時59分、東北新幹線新花巻駅に着きました。もう少し遅い到着でもよかったのですが、最初の目的地である花巻高村光太郎記念館さんに行く前に、光太郎ゆかりの地を久しぶりに見て回ろうと思い、早めに行きました。花巻に行った際にはたびたびそうしております。今回はレンタカーを借りており、比較的遠くまで行けましたので、花巻に隣接する北上市の北部を回りました。

まず向かったのが、二子町にある飛勢城趾。こちらには光太郎の詩碑があります。

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008竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。若山牧水、子日庵一草、寺山修司、浜夢助、豊田玉萩、そして光太郎です。

碑が建って少し後に拝見に行ったときのものが右の画像。お城の高台で、背後に北上川の展望が開け、いい感じでした。

刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」昭和22年(1947)の一節。

 高くちかく清く親しく、
 無量のあふれ流れるもの、
 あたたかく時にをかしく、
 山口山の林間に鳴り、
 北上平野の展望にとどろき、
 現世の次元を突変させる。

この年、花巻町で行われた稗貫郡農会でのレコードコンサートでこの曲を聴いた印象が元になっています。太田村の山小屋(高村山荘)の近くを歩きながら、この曲が幻聴のように聞こえていた、というエピソードも伝わっています。

 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。
「ラジオと私」(昭和28年=1953)

昭和25年(1950)に、光太郎が黒沢尻町(現・北上市)の文化ホールで講演を行い、その際にこの詩を引き合いに出したことがもとで、この詩が選ばれました。

詩碑の手前には展望台があり、まずそちらに上りました。遠くの山々はまだ雪に覆われていました。

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そして展望台の下にある碑へ。ちょっとショックでした。碑自体はほとんど損傷もありませんでしたが、碑の周囲の灌木や雑草が茂り放題で、昔見えた眼下の展望は、何一つ見えません。

最近まで雪が積もっていたため、そんな感じなのかな、とも思いましたが、どうも灌木は何年も刈った気配が無いようにも見えます。

言いにくいのですが、この手の文学碑の中には建てて建てっぱなし、しばらくたつと地元でもその存在すら忘れられてしまうというものが少なくありません。この碑もそうなりつつあるような気がして、残念でした。碑自体が草木に埋もれていないのが、まだ幸いなのかもしれません。


続いて同じ北上市北部の和賀町後藤地区にある、平和観音堂に向かいました。こちらを訪れるのも20年ぶりくらいです。
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こちらにも光太郎詩碑が建っています。昭和27年(1952)の建立です。刻まれているのは、無題の詩、というより七五調四句の「今様」という形式のもので、以下の通りです。

観自在こそ たふとけれ 
まなこひらきて けふみれば
此世のつねの すがたして
わがみはなれず そひたまふ
 
「観自在」は観音菩薩のことです。

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確認できている限り、光太郎生前に建てられた詩碑は3基しかなく、そのうちの一つです。ちなみに他の二つは、花巻温泉に建つ「金田一国士頌」碑(昭和25年=1950)、福島県南相馬市小高地区にある「開拓碑」(昭和30年=1955)です。その二つの碑文は光太郎の手になるものではありませんが、この碑は光太郎の筆跡をそのまま石に写し取っています。

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碑陰記的なものが、碑の下部に。

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曰く「碑文を高村光太郎先生 太田村山口にて揮毫 平和観音堂に奉納 昭和廿七年九月 高橋峯次郎

高橋峯次郎は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれの元小学校教師。自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、光太郎に本尊の彫刻を依頼しに来ました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりにこの書を高橋に贈ったというわけです。

高橋の元には、教え子たちからの7,000通を超える軍事郵便が届き、平成13年(2001年)には、それを紹介する岩手めんこいテレビさん制作の「土に生きる ~故郷 ・家族、そして愛~」が放映され、反響を呼びました。500人もの教え子を戦地に送り、その3分の1が骨になって帰ってきたという過酷な体験から生まれた観音堂。「わが詩をよみて人死に就けり」と書いた光太郎にも、高橋の思いが我がことのように身に染みたのでしょう。高橋と光太郎、一個人によるものではありますが、どこぞの何とか神社などとは違う、これこそ戦没者追悼の顕現ですね。

境内には高橋の胸像も。

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さらに高橋の発願になる梵鐘も。

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謹んで打鐘させていただきました。

こちらは地元の方々の手入れが行き届いているようで、狭い境内でしたが、清々しい感じでした。

ここから花巻高村光太郎記念館さんはそう遠くなく、レンタカーをそちらに向けました。車窓からの風景がこんな感じ。もちろん停車して撮りました(笑)。

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長くなりましたので、以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

彼は憤然として紙をとる。 怒りの底から出て来たのは、 震へる手で書いてゐるのは、 おゝ、何のテエマ。 怒れる彼に落ちて来たのは、 歓喜のテエマ。

詩「二つに裂かれたベエトオフエン」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「ブランデンブルグ」のバッハ同様、ベートーヴェンも光太郎は好んで聴いていました。フランス革命の理念を守る英雄であったはずのナポレオンが一転して皇帝に就任したことを非常に怒ったベートーヴェン。光太郎はそのあたりに親近感を抱いていたようです。

また、晩年には怒りの中から第9交響曲「歓喜の歌」が生み出され、「怒」と「笑」をテーマにしていた光太郎の琴線に触れたようです。

昨日から岩手に行っておりました。現在、帰りの東北新幹線🚄の車中です。
昨日は、岩手に着いてからレンタカーで動き、北上市内、その後、旧太田村の高村光太郎記念館さんにお邪魔し、盛岡に宿泊しました。

高村光太郎記念館さんでは、14日の金曜日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の準備状況や、最近、関係各所から見つかったさまざまな資料を拝見。

さらに、隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台が新たに整備されたため、地元の皆様への、お披露目。

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今日は盛岡で、盛岡地区更正保護女性の会さんの総会にお招きいただき、講演を行って参りました。

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詳しくは、明日以降、レポート致します。

去る3月19日、ドイツ・ハイデルブルグで開催された「liederabend mit schauspiel 智恵子抄 Für CHIEKO Eine schöne Japanische Geschichte von einem Ehepaar」で、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」を演奏された新井俊稀氏が帰国され、リサイタルを開かれるそうです。その中でも、「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されるとのことで、ご紹介します。

新井俊稀クラシカルサロンコンサートVol.14

期 日  : 2017年4月17日(月)
会 場  : 文京シビックホール小ホール 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター2F
時 間  : 開場13:30  開演14:00  終了16:00
料 金  : 一般 3,000円 学生 1,000円 (全席自由)
出 演  : 新井俊稀(ハイバリトン)  下茂さやか(pf)  堺裕貴(バスバリトン)  舟本いづみ(pf)
問い合わせ : 新井俊稀コンサート事務局 050-1534-7292 (平日 10:00~18:00)

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上記チラシには「智恵子抄」の文字が入っていませんが、作曲者・野村氏からの情報ですので、ガセということはないでしょう。


先月のドイツ公演の模様はこちら。

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急な情報でして、当方、日程的に都合がつきません。残念です。ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

笑は天の美禄。 何処か遠いところからの上げ潮。

詩「笑」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「笑」は、昨日ご紹介した「怒」とセットの詩です。人生においては、怒ることも大切。しかし、笑うこともそれと同じくらい大事だよ、ということでしょう。

できれば怒らずに笑ってばかりいられる、そんな世の中であってほしいものですが……。

2日に執り行いました第61回連翹忌の席上で、参会の皆様からいろいろいただきましたのでご紹介します。

日本文学誌要 第95号

2017年3月24日 法政大学国文学会編・発行007

光太郎と交流のあった山梨県出身の詩人、野澤一(はじめ)のご子息・俊之氏からいただきました。今号から始まった、同大教授の中丸宣明氏の連載、「法政ゆかりの作家たち 野沢一(1)」が掲載されています。光太郎にも触れる箇所があります。

昨夏発行だった同誌の前号には同じ中丸氏のご講演「忘れられた!?文学者たち 野沢一・清水泰夫・羽田中誠など ―法政ゆかりの作家たち序―」の筆録が掲載されており、それを踏まえての連載だそうで、野沢の簡略な評伝となっています。

野沢一は、法政大学中退。昭和初期、卒業間際になって、思うところあって山梨県の四尾連湖畔で5年にわたる独居自炊の生活を始め、それが後の光太郎の花巻郊外太田村での山小屋生活にも影響を与えたと考えられます(他にも同様の行為をしていた光太郎の友人知己は少なからずいますが)。

東北文学の世界 第25号

2017年3月14日 盛岡大学文学部日本文学科編・発行008

当方も加入しています高村光太郎研究会主宰で、都立高校教諭の野末明氏の論考「高村光太郎詩集『典型』成立考」が掲載されており、野末氏からいただきました。

光太郎の詩集『典型』は、花巻郊外太田村に隠棲中の昭和25年(1950)に刊行されたものです。選詩集的なものを除けば、光太郎生前最後の単行詩集となりました。

その詩集『典型』の成立過程、出版後の評価、「編者」となっている詩人・宮崎稔などについて書かれた労作です。ただ、固有名詞に数ヶ所誤りがあり、その点が残念でした。

興味深いのは、國學院大学図書館に所蔵されている、光太郎自筆の『典型』装幀原案が画像入りで紹介されていること。2種類あり、時期的に古い方は10年ほど前にひょっこり古書市場に出たものですが、いわば第二稿の方は当方も存じませんでした。

「典型」の題字は、光太郎の手になる自刻木版です。その他様々な指示が書き込んであります。

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いずれつてを頼って現物を拝見したいと思っております。

高村光太郎研究(38)

2017年4月2日 高村光太郎研究会編・発行009

上記の野末氏が主宰されている高村光太郎研究会の会誌的なものです。

当会および高村光太郎研究会の顧問、北川太一先生の玉稿「高村光太郎・最後の年 (4)」が巻頭に掲げられています。光太郎の亡くなった昭和31年(1956)の日記を軸に、記されている人物や事項に適宜解説を加えたものです。

その後、当方の稿が3本。元々、連載として、一年間に見つけた新発見の光太郎文筆作品等を紹介する「光太郎遺珠」、さらに一年分の「高村光太郎没後年譜」を書かせていただいていますが、それプラス、昨秋の第61回高村光太郎研究会で発表させていただいた、当会の祖・草野心平と光太郎の交流についての稿も載せて下さいました。

さらに野末氏による「高村光太郎文献目録(平成二十八年一月~十二月)」、「研究会記録、寄贈資料紹介、あとがき」が掲載されています。


冊子ではありませんが、花巻高村光太郎記念館さんの下記チラシも頂きました。

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来週14日から、企画展「光太郎と花巻の湯」(当方手持ちの資料も展示されます)が始まり、さらに記念館と隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の「智恵子展望台」が整備され直したとのことで、新しいチラシが作られました。

智恵子展望台に関しては、地元の方々に完成記念のお披露目的な催しを明日の午後に行うということで、行って参ります。元々は、明後日、盛岡で開かれる「盛岡地区更生保護女性の会」さんの総会の中で講演を頼まれており、そのついでに花巻に立ち寄って、企画展の展示作業を見せていただくだけのつもりでしたが、なにやら大げさなことになってしまって、恐縮しております。

そのあたりは帰ってきましたらレポートいたします。

上記いただきもの類ご入用の方、こちらまでご連絡いただければ、仲介できるものは仲介いたします。当ブログプロフィール欄に当方連絡先は書いてあります。


【折々のことば・光太郎】

怒とは何。 怒とは存在の調革(しらべかは)。

詩「怒」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「調革」は「調べ帯」ともいい、二つの車輪にかけ渡して 一方の回転を他方に伝えるための帯状のもの。エンジンのファンベルト、或いは昔のミシンを想像していただければわかりやすいでしょうか。

「怒」によって、自分の人生は回っているのだ、と光太郎は言います。この後、一時的にプロレタリア詩人達に近い立ち位置に入っていく光太郎、様々な社会矛盾に黙っていられないといった感じでした。

4月2日の第61回連翹忌の前後、新聞各紙に光太郎の名が載った記事をご紹介します(花巻連翹忌の報道を除きます)。 

まず、3月30日の『毎日新聞』さん。東京版の夕刊です。

書の世界 吹筆会展 個性と品格に宿る力 

 吹筆会展(4月2日まで、東京・銀座の鳩居堂画廊4階)は、「現代の書」への意識的な取り組みが、大変参考になるように思われる。  
 「書は可読性と芸術性のせめぎ合いから生まれるのではないか」と主宰の福地桂玉さん。読みにくい字は論外、かといって個性のない活字のような字を書いても書展会場では立ち止まって感動してはもらえない、というわけだ。その解決策の一つとして、福地さんは独特の書き方を長年にわたり続けている。とりわけ、カタカナへの対応は考えさせられる。
 さらに、紙の大小を問わず、自らの心に響いた言葉を、かなり長い分量、書き続けている。
 今回も「美 イッタン此世ニアラワレタ以上、美ハ決シテホロビナイ……」(高村光太郎)=写真[1]、部分▽「目を開けてつくづく見れば薔薇の木に薔薇が真紅に咲いてけるかも」(北原白秋)などに取り組んだ。
 品格を考慮し、自ら引き付けられた言葉を書き連ねるのは、やはり楽しい行為となるに違いない。だから書に不思議な力が宿っているのだろう。
 指導者の揺るぎない精神は会員にも伝わっている。矢部恵子さん「おんひらひら蝶も金比羅参りかな」=同[2]=や、柳下明雪さん「あさひさす いなだのはての しろかべに……」など、個性的な表現がとても興味深い。
 一方、第33回書道日本社選抜展(4月2日まで、東京銀座画廊・美術館)は、詩文書の作品が多く、会の朗らかな性格も反映して、明るい雰囲気に満ちている。
 石飛博光さん「千里同風」=同[3]▽黒田玄夏さん「鶯の谷より出ずる……」=同[4]▽室井玄聳さん「戯」などベテラン勢が、さすがに骨力のある線を引いている。
 友野浅峰さん「かげろふのゆらりゆらりと……」▽
田中豪元さん「貧想力 不器用を友として前衛ごころを楽しみ……」▽赤沢寧生さん「華厳の滝……湖に向かう白い炎……」などの、言葉の選び方と表現の一工夫も楽しい。【桐山正寿】


福地桂玉氏の主宰する書道教室、吹筆会さんの展覧会評で、福地氏の書かれた光太郎の短文「美」が取り上げられています。

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原文は普通に漢字平仮名混じりなのですが、あえて平仮名を片仮名に。そこが氏のこだわりらしいのですが。


続いて、3月31日の『朝日新聞』さん。「漱石を演じて」という総題で、俳優のイッセー尾形さんと長谷川博己さんが寄稿なさっています。そのうち、NHKさんで昨年放映された「夏目漱石の妻」というドラマで漱石に扮した長谷川さんの「深い苦悩にこそ本質」という稿に光太郎の名が。

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長いので全文は引用しません。007

光太郎については、最後に「いまやってみたいのは『智恵子抄』の高村光太郎。ぼく自身、もっといろんな人生を演じたい。」とあります。

画像、マーカーで線が引いてありますが、先日の第61回連翹忌の際に、一年分の新資料として書籍やパンフレット、チラシ、そしてこの手の新聞記事などを展示しまして、その関係です。

平成21年(2009)に、「妄想姉妹~文学という名のもとに」という深夜ドラマが日本テレビ系列で放映されました。吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、岩井堂聖子さん(当時の芸名は高橋真唯さん)の三姉妹がヒロイン。全11回で、各回、一つの近代日本文学作品をモチーフとし、第5話が「智恵子抄」。智恵子役を紺野まひるさん、光太郎役を高橋洋さんが演じられました。長谷川さんは第9話「にごりえ」にご出演。その際のヒロインも紺野さんでした。

長谷川さんの光太郎役、ぜひ見てみたいものです。智恵子役はどなたがいいでしょうか。考えると楽しいものです。


同じ『朝日新聞』さんで、4月1日の夕刊。今年2月になくなった、元埼玉県東松山市教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼記事です。

歩くことは人生、教育者の信念 日本スリーデーマーチを育てた田口弘さん

2月9日死去(多臓器不全) 94歳

 今年で40回を迎える日本スリーデーマーチ。埼玉県東松山市を主会場に開かれ、毎回10万人前後が参加する国内最大のウォーキングの祭典だ。草創期の1981年から実行委員長を12回務め、オランダのフォーデーズマーチに次ぐ世界的な大会ログイン前の続きに育てた。
 海軍所属の日本語教員として終戦をインドネシアで迎えた。任地へ向かう途中のフィリピン沖で、米軍機の爆撃によって輸送船が沈み、漂流した。ともに日本を発った300人のうち、陸にたどりついたのは30人ほど。「生かされている」との思いで教師の仕事、そして生徒と向き合った。
 約17年間務めた市教育長のとき、市内の小中学校の一斉遠足として児童・生徒をマーチに全員参加させた。「そんな価値はあるのか」との声に、「これほどの教育の場はほかにない」と押し通した。
 詩人で彫刻家の高村光太郎と戦時中から親交があった。3年前にマーチの取材で訪ねたときのこと。高村が疎開先の岩手で中学生に贈った言葉を教わった。「心はいつでもあたらしく、毎日何かしらを発見する」。2月の葬送式でも、高村自筆の「ロマ書(新約聖書)」の一節が掲げられた。
 「一歩一歩の単調な繰り返しでも、胸を張って感性を研ぎ澄ませば、次々と見えてくるものがある。人生そのものだと思うのです」。ウォーキングの魅力、思いを語った。歩くことに文化的な価値を見いだし、実践した人だった。(高橋町彰)

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そして、一昨日には詩人の大岡信氏の訃報。昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、一面に大岡氏のコラム「折々のうた」が連載されていた『朝日新聞』さんでは、かなり大きく取り上げていました。

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「折々のうた」の記念すべき第一回が、光太郎の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。そのあたりにも触れられていました。

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その他にも、光太郎について触れた評論などが多数あり、それぞれ示唆に富むものでした。

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当方、昨年には企画展「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」拝観のため、静岡三島の大岡信ことば館さんにお邪魔したこともあり、感慨深いものがあります。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

こんな春の夜明を歩いてゐると、 死んで草になるのが何でいけない。

詩「あけぼの」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、誰かの通夜の帰りに作った詩だそうです。

勝手な想像ですが、田口氏も、大岡氏も、こんなことを思っていたかも知れません。そう思いたいものです。

昨日は都内2カ所を回っておりました。田舎者の習性で(笑)、都内に出ると複数の用件をこなすことにしています。

まず、九段下駅近くの千代田区立千代田図書館さんへ。千代田区役所さんの9・10階です。桜の名所、千鳥ヶ淵にもほど近く、建物の前でも見事な桜が咲いていました。こちらでは、展示「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」を開催中です。

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戦前から戦時中、旧内務省警保局図書課が行っていた出版物の検閲をテーマとした展示です。検閲制度は出版文化としての「負」の部分も含むもので、あまり公に語られることは多くなく、ましてや個々の検閲官については資料が少なく、断片的にしかわかっていません。それらをつなぎ合わせることで、制度の実情、裏側に隠されたドラマに迫るというコンセプトです。

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取り上げられている検閲官4人のうち、佐伯郁郎(本名・慎一)は、自身も詩人・編集者であり、光太郎とは戦前から交流がありました。自身の詩誌に執筆を依頼したり、様々な会合で顔を合わせたりしています。

一昨年、岩手県奥州市にある佐伯の実家「人首文庫」さんにお邪魔し、光太郎がらみの様々な資料を拝見しました。それ以前から、光太郎書簡のコピーを頂いていましたが、さらに書や写真なども見つかり、大興奮でした。

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そういうわけで、パネルには光太郎の名も。

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佐伯に関しては、今回の展示も、多くは人首文庫さんのご提供でした。

そのうち「宮沢賢治一周年追悼会」なる会合の集合写真。

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光太郎は写っていませんが、交流のあった人物が目白押しでした。草野心平、土方定一、吉田孤羊、尾崎喜八、野村胡堂、宮静枝、永瀬清子、高橋新吉、逸見猶吉などなど。

検閲官の名簿。パネルに拡大されていたのと、原簿も展示されていました。
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さらに、詩人としても活動していた佐伯自身の詩集なども並んでいました。
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以前にもこのブログに書きましたが、詩人・光太郎の代表作の一つ『智恵子抄』(昭和16年=1941)。公然と性愛を謳ったり、大君=天皇と、自分の妻を同列に並べた表現があったりと、かなり「危ない」部分があります。それでも検閲を通り抜け、ベストセラーとなったその背景には、佐伯が手心を加えたのではないかと推測されます(証拠はありませんが)。検閲という、ある意味「負」の部分の仕事を担いながらも、芸術的良心にしたがって仕事をしていた(敬愛する光太郎の詩集だから、という依怙贔屓もないとはいえませんが)と考えたいところです。

展示は22日まで。ぜひ足をお運び下さい。


続いて、九段下駅から東京メトロ半蔵門線で住吉駅へ。同駅近くのティアラこうとう(江東区公会堂)さんで開催の、「第5回 春うららの朗読会」に向かいました。

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先日の第61回連翹忌にて、連翹忌ご常連で、出演なさる詩人の宮尾壽里子様からご案内をいただき、はせ参じた次第です。

宮尾様作の「智恵子さん」が演目に含まれていました。「智恵子さん」は昨年暮れに、汐留ベヒシュタイン・サロンさんで開催された「2016年 フルムーン朗読サロン IN汐留」が初演でした。その時は6名の方による朗読劇でしたが、今回は3名による上演。主にト書き部分を担当される方、主として光太郎詩を朗読される方、そして宮尾様ご自身は智恵子役的な配分でした。

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主に『智恵子抄』の構成に従い、光太郎智恵子の出会いから、智恵子の死までが語られました。汐留での初演では、ベヒシュタインのピアノで演奏されたBGM・カッチーニの「アヴェ・マリア」が、今回は音響機器で。テルミンの大西ようこさんなどもよく使われています。哀愁漂うメロディーは、確かに『智恵子抄』の世界によく合います。

出演者が少なくなった分、おのおのの役柄がはっきりし、すっきりした感がありましたし、何よりドラマチックな内容に引き込まれました。

その他の演目も、興味深く拝聴。

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芥川の「蜜柑」以外は読んだことのないものばかりで、光太郎関連以外はあまり読まない当方には、実に新鮮でした。

最後のカーテンコール。

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終演後、ロビーにて。宮尾様(右)と、やはり連翹忌ご常連の、太平洋美術会の坂本富江さん(左)。

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今後とも、光太郎智恵子の世界を取り上げていただきたいものです。

というわけで、充実の一日でした。


【折々のことば・光太郎】

魂にぶつからないとて不平をいふな、 君の魂の張り切つてゐる時、 もう一度この世の隅々を見てみたまへ。

詩「不平な人に」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「何も面白いことがない」的な「不平」を口にする人へのエピグラムでしょうか。たった3行の短い詩です。

「この世の隅々」には新しい発見のタネがみちみちています。しかし、たしかに「魂の張り切つて」いない時には、スルーしてしまうものですね。

テレビ放映情報です。ともにNHKさんのBS1で、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山が取り上げられます。

実践! にっぽん百名山 「安達太良山」

NHKBS1 2017年4月8日(土)  17時00分~17時30分

福島を代表する名峰・安達太良山(標高1700m)を行く1泊2日の山旅。山麓に広がる新緑の樹林帯、春の訪れを告げる花々、ダイナミックな噴火口など登るごとに景色が変わる登山を楽しむ。ヤマ塾は、長く歩き続けるテクニックを紹介する。脚の運び方から、ペース配分、脚の疲労を軽減するためのグッズなど、脚力に自信のない人でも安心して山を登るためのノウハウを解説する。

司会 工藤夕貴 萩原浩司   語り 鈴木麻里子   出演 佐藤哲朗 金子貴俊

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15分でにっぽん百名山「安達太良山」

NHKBS1 2017年4月10日(月)  16時30分~16時45分

安達太良山は、磐梯山と並んで福島を代表する名峰だ。ダイナミックな噴火口を持つ火山の荒々しさと山麓に広がるたおやかな樹林帯が対をなし、変化に富んだ景観が登山者を魅了する。今回は山の東側、塩沢登山口から1泊2日のコース。1日目は、初夏にふさわしい爽快感を味わえる新緑の森と渓谷沿いを進む。宿泊は「くろがね小屋」。2日目は、荒々しい岩石が連なる尾根を進み、大迫力の巨大噴火口跡から絶景の山頂に。

語り 鈴木麻里子   出演 佐藤哲朗 


一昨年に、やはりNHKさんのBS1で放映された、「実践!」がつかない「にっぽん百名山」という番組の安達太良山編では、智恵子が愛したほんとの空がある山、的なアプローチをしていただきました。

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昨年も、同じ「にっぽん百名山」で安達太良山編の新作が放映され、そちらでは残念ながら、光太郎智恵子には触れられませんでした。

「実践!」がついた今回の番組は、「「これから百名山に登りたい!」そんな方々に向けた、実践的な登山番組です。毎回「 にっぽん百名山」のひとつの山を取り上げ、ルートの見どころや注意点を詳しく解説。 すぐに役立つ、山登りのテクニックや装備、便利グッズもたっぷり紹介します。」とのことで、より「登山」に重きを置いた作りになっているようです。

「15分で……」の方は、そのダイジェスト版でしょうか。どちらにも地元の山岳ガイド・佐藤哲朗氏がご出演。

昨年放映され、光太郎智恵子に触れられなかった「にっぽん百名山」が、やはり佐藤氏のご出演によるもので、どうも今回の放映はそちらを編集したものかな、という気がします。ただ、編集された中で、新たに光太郎智恵子の名を出していただきたいものです。

安達太良山といえば、山開きが来月21日だそうです。そちらのキャッチコピーが「ほんとの空が、ここにある」。

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こちらの情報は、また近くなりましたら詳しくお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

一人の詩人がいふ、 「あの頃の仲間はとにかくみんな、 功成り、名遂げてゐるな。」 私はびつくりして その可憐な詩人の顔を見る。 近頃剃り落した髭の迹が青黒く、 鼻の下が烏のやうに尖つてゐた。 「君、君、しつかりしろよ」といへないほど、 その詩人はみじめであつた。

詩「二つの世界」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「詩人」であることと、「功成り名遂げる」ことは、光太郎にとって、両立すべからざる「二つの世界」。同じ考えだと信じていた旧知の詩人が、実はそうではなかったというわけですね。それが誰なのか、興味深いところですが、不明です。

去る2日、東京日比谷松本楼さんでの当会主催連翹忌以外でも、光太郎第二の故郷と言うべき岩手花巻で、花巻としての連翹忌の催しが行われました。午前中は光太郎の暮らした郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内での詩碑前祭、午後は市街双葉町の松庵寺さんでの法要。このうち、詩碑前祭の方が地元で報道されています。

IBC岩手放送さんのニュース。

記念碑前で詩を朗読 高村光太郎の遺徳偲ぶ/岩手・花巻市

 2日は岩手ゆかりの詩人で彫刻家、高村光太郎の六十二回忌です。ゆかりの地、花巻では地域の人たちが記念碑を前に、詩を朗読して遺徳を偲びました。
 東京都出身の高村光太郎は、1945年に戦火を逃れて花巻に疎開し、7年間を過ごしました。光太郎の顕彰活動を行っている、花巻市の高村記念会は毎年、命日に記念碑の前で遺徳を偲んでいます。2日は地域住民の代表や子どもたちが詩を朗読。岩手の自然に向けられた温かな眼差しや先立った妻、智恵子への深い愛情など、作品の魅力を改めて味わっていました。

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テレビ岩手さん。

高村光太郎に思いはせ… 命日に詩碑前祭

空襲で東京のアトリエを失った1945年から7年間、現在の花巻市太田地区に疎開していた高村光太郎。命日の4月2日は、生前に愛した早春の花・レンギョウにちなみ「連翹忌」と呼ばれています。62回忌にあたる2日は地域住民約50人が光太郎の詩碑の前に集まり「山のひろば」「雪白く積めり」など7編の詩を朗読しました。朗読のあと参加者は詩碑に向かって静かに手を合わせ光太郎の遺徳を偲んでいました。

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どちらもネット上に動画が公開されていました。拝見してうるっときてしまいました。テレビ岩手さんの動画はPCに保存できました。


続いて地方紙『岩手日日』さん。

語り継ぐ 記憶、功績 光太郎詩碑前祭 朗読に感謝込める

 花巻ゆかりの詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が行われた。太平洋戦争で花巻に疎開した光太郎が居を構えた太田山口地区の住民が、詩碑に花を捧げ詩を朗読して光太郎の遺徳をしのび、感謝の気持ちをささげた。
 山関、上太田両行政区住民でつくる高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が命日に合わせ、詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑の前で毎年実施。同支部の関係者や地区住民ら約50人が参加した。
 照井支部長のあいさつに続き、太田小学校1年の高橋文耶君と照井和奏さんが遺影が飾られた詩碑に献花。同支部の平賀仁理事が「厳しい自然の中に先生は7年間住み、自然をたたえ、詩に歌い、私たちに数々の教えを注いでくださった。大切な教えは毎日の生活の中で、明日への大きな希望となって心を豊かにしてくださっている」と祭文を読み上げた。
 太田小、西南中に通う上太田子供会の児童生徒9人が「山の広場」と「山口部落」「山からの贈り物」の光太郎の詩3作品を声高らかに朗読。地区の住民代表が「雪白く積めり」と「大地麗し」「案内」「岩手の人」の4作品をそれぞれ披露し、太田小との統合で約50年前に閉校した旧山口小学校の校歌も斉唱し締めくくった。
 光太郎は1945年の空襲で東京のアトリエを失い、親交のあった詩人で童話作家の宮沢賢治の実家に疎開した。終戦後は旧大田村山口の小屋で7年間暮らし、多くの作品を発表。住民とも交流を深めた。
 今詩碑前祭は62回忌。照井支部長は「高村先生が東京に戻られた時、私は3歳でずいぶん大きい人だなという印象しかない。先生を知る人間が本当に少なくなっているが、みんなで勉強し、先生の功績を後世に残していきたい」と気を引き締めた。


連翹忌、東京でも永続的に開催するつもりです。花巻でもできる限り続けていっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩を書くと腹が立つ、 腹が立つから詩を書くのだ。 詩を書くと笑ひ出す、 笑ひがこみ上げるから詩を書くのだ。

詩「懐ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「腹が立つから詩を書く」、「笑ひがこみ上げるから詩を書く」、対極に位置します。「いったいどっちなんだよ」と突っ込みたくなりますが、どっちもなのでしょう。

客観描写に徹するべき彫刻に、主観的な文学的感傷、己の内面の喜怒哀楽が入り込まないよう、そういった部分は詩として(初期には短歌として)吐き出していた光太郎。まさに詩は喜怒哀楽の表出だったわけです。

題名の「懐ふ」は「おもう」と読みます。

一昨日の第61回連翹忌にて、ご参会いただいた詩人の宮尾壽里子様から、ご案内をいただきました。明後日の朗読系公演情報です。

第5回 春うららの朗読会

期 日 : 2017年4月6日(木)
会 場 : 江東区公会堂ティアラこうとう 小ホール 東京都江東区住吉2-28-36
時 間 : 開場13:00  開演13:30
料 金 : 1,500円(全席自由)
主 催 : NPO日本朗読文化協会蒔村三枝子朗読教室
演 目 :
 「口紅のとき」 作・角田光代   出演・鶴見恵子/藤田治子
 「デューク」   作・江國香織   出演・須藤芙美子
 「とんかつ」   作・三浦哲郎   出演・日比堯子
 「智恵子さん」  作・宮尾壽里子  出演・小川弘子/宮尾壽里子/藤田治子
 「佐賀のがばいばあちゃん」  作・島田洋七  出演・内堀芳江
 「蜜柑」     作・芥川龍之介  出演・沼尻輝篤
 「うた時計」   作・新美南吉   出演・赤政葉子
申し込み : 090-4004-1493(まきむら)

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昨年暮れに、汐留ベヒシュタイン・サロンさんで開催された「2016年 フルムーン朗読サロン IN汐留」で上演された、宮尾さん作の朗読劇「智恵子さん」の再演が含まれます。出演される方は変わるそうですが。光太郎智恵子の文筆作品を織り交ぜてのドラマチックな構成で、感動的な朗読劇でした。

他に予定も入っておりませんし、参上つかまつります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

をんなが附属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか。 年で洗はれたあなたのからだは 無辺際を飛ぶ天の金属。 見えも外聞もてんで歯のたたない 中身ばかりの清冽な生きものが 生きて動いてさつさつと意慾する。

詩「あなたはだんだんきれいになる」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

智恵子は光太郎より3歳下ですので、この時数え42歳。

智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた随筆「智恵子の半生」には、この詩の背景が書かれています。

私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。

実際、智恵子は服装等にあまり頓着しなかったのかもしれませんが、もともとは素封家のお嬢様です。生活不如意による「スエタアとズボン」の状態を、「仕方ない」と思いこそすれ、積極的に喜んでいたとはどうしても思えません。しかし光太郎の方は、心理学的にいえばある種の適応規制というか、代償というか、その状態を良しと自らに言い聞かせ、智恵子にもモラハラ的に無意識に強制していたように思われます。

しかもたちの悪いことに、その状態の智恵子を女神的に賛美しています。いわば「あるべき姿の無言の強要」。これでは智恵子も息が抜けないように思えます。

智恵子の心の病が顕在化するまで、あと4年半です。


昨日は、第61回連翹忌を終えて帰宅し、体力的にはくたくたながら精神的にはハイな状態で、連翹忌レポートを書きました。しかしやはり体力的にはくたくたで、最後にこのコーナーを書く段になって、力尽きました(笑)。今日からまた復活します。

昨日、東京日比谷松本楼様におきまして、61回目となる光太郎の忌日・連翹忌の集いをつつがなく執り行いました。

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会の始まる前、参会の皆様を代表し、駒込染井霊園にある光太郎の(というか高村家の)墓所に参拝。

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どなたがお供えくださったのか、光太郎が大好きだったビール、智恵子の好物だったレモン、色とりどりのお花が。手前のレンギョウは、当方自宅兼事務所に咲く、かつて光太郎が愛した中野アトリエの庭に咲いていたレンギョウから株分けしたものです。

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いつも書いていますが、ソメイヨシノ発祥の地で、見事に咲いていました。

そして日比谷公園に。こちらも見事な桜。

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午後3時頃から準備を始めました。配付資料等の袋詰め、受付などなど、いろいろな方にお手伝いいただき、助かりました。

午後5時30分を回ったところで、開会。最初に光太郎、そしてこの一年に亡くなった関係者の皆様に、黙祷。その後、当会顧問にして生前の光太郎をご存じの、北川太一先生のご挨拶。

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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった、故・髙村豊周の令孫・達氏にご発声をお願いし、献杯。

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達氏は、お爺さまの豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏の元から、光太郎ブロンズの代表作「手」の型を受け取ったとのことで、ご持参くださいました。興味深く拝見しました。

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アトラクションは、ともに光太郎智恵子を敬愛する、テルミン奏者・大西ようこ様、朗読家・荒井真澄様による「智恵子抄より」。花を添えてくださいました。

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その後、ビュッフェ形式で料理を堪能しつつ、恒例のスピーチ。

トップバッターは、お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさん。昨年は6月に盛岡の啄木祭、7月に山梨県立文学館さんの「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」の関連行事でそれぞれ光太郎に触れるご講演をなさったり、お父様が光太郎から贈られたサイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈なさったりということがありました。

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続いて、青森テレビアナウンサーだった川口浩一氏。昨年末に当方も出演させていただいた特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を作られ、それを最後にご退職なさったそうです。

盛岡からいらした加藤千晴氏。光太郎のいとこ・加藤照さんのご子息です。お母様には昨年お会いさせていただきましたが、満100歳でご健在です。未発表の光太郎書簡情報をご提供くださいました。

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花巻郊外旧太田村で、隠棲中の光太郎をご存じの佐藤定様。当時の思い出と、最近の高村山荘周辺の整備状況などをお話くださいました。

詩人の曽我貢誠氏。曽我氏もご参加くださった、女川光太郎祭、それについて当方が書いた雑文を掲載していただいた文治堂書店さん発行の文芸同人誌『トンボ』などのお話を賜りました。

さらには、福島川内村で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」を主催されている井出茂様、いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩様、参加者全員に館報をご寄贈くださった信州安曇野碌山美術館五十嵐久雄館長、太田村の山小屋に隠棲中の光太郎に突撃取材をされた遠藤道子様、高村光太郎研究会の大島裕子様。

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今回初めて連翹忌にご参加いただいた方々にも、スピーチをお願いいたしました。今年2月に、千葉県柏で、朗読と歌曲による公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」をなさった山田典子さん。

このブログを通じてお申し込みいただいた方にもスピーチをお願いしました。お友達の方と3名でいらっしゃり、光太郎智恵子、そして北川先生ファンということで、北川先生にお会いでき、感激されていました。

他にもスピーチはいただきませんでしたが、全国から70余名の皆さんにお集まりいただき、盛会となりました。

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名残を惜しみつつ、8時過ぎに閉会。

当日までの準備やら、司会進行やらで、決して楽な仕事ではありませんが、志を同じくする皆様と、いちどきにお会いできる貴重な機会、当方も楽しませていただきました。盛会となったことを、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、来年以降もよろしくお願いいたします。

今日、4月2日は、光太郎の命日・連翹忌です。今年で61回目となります。

宿痾の肺結核により、光太郎が歿したのが、昭和31年(1956)の今日、午前3時45分。結局、終の棲家となった中野のアトリエでのことでした。昨日も書きましたが、前日から東京は季節外れの雪でした。

葬儀は4月4日、青山斎場で執り行われました。彫刻家光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む一帯の設計を担当した建築家・谷口吉郎の意匠になる祭壇に棺が置かれ、その上にはコップに挿した連翹の一枝。これは中野のアトリエの庭に咲いていた生前の光太郎が好きだった花で、アトリエの家主だった故・中西富江さんの回想に記されています。遺影は光太郎の令甥・故髙村規氏の撮影したものです。焼き増しした同じ写真を、現在も使わせていただいています。

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葬儀委員長は武者小路実篤。武者の他に梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、そして草野心平が弔辞を読みました。


そして、一年後の昭和32年(1957)には第一回連翹忌。会場は光太郎が亡くなった中野のアトリエで、リンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。

以後、途切れることなく連翹忌は連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて、今日に至っています。日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べたり、光太郎も参加した「パンの会」が開かれたりしたゆかりの西洋料理店です。

今年の参加者は、予定では73名。61回目となっても、未だに生前の光太郎をご存じの方がいらっしゃってくださり、ありがたい限りです。当会顧問の北川太一先生、戦後の7年間を隠棲していた花巻郊外旧太田村の方々、その太田村の山小屋に光太郎を突撃訪問したという、その頃女学生だった方、赤ん坊の頃、光太郎の膝の上に乗ったという血縁の方などなど。

それから、光太郎と交流のあった人物ゆかりの方々も多くご参加くださいます。お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさんも、2年ぶりのご参加。スピーチをお願いしておきました。

さらに、今年はこのブログでしつこく宣伝した甲斐があったようで、ネットを通じて初のお申し込みをいただいた方が、5名ばかりいらっしゃいます。健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、ありがたいところです。


また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】019

ソクラテスが死ぬ時、何といつた。 鶏一羽が彼の生涯の急回転。 又人生批評のくさび。 偉大なるものが何処にあるかときかれたら、 あの見すぼらしい電信柱を指ささう。

詩「偉大なるもの」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

哲学者ソクラテスの有名な遺言、「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように。」を下敷きにしています。

61年前の今日、亡くなった光太郎。その最後の言葉は不詳ですが、亡くなる3日前、草野心平が持参した心平編集になる、写真をふんだんに使った光太郎の伝記的書籍『日本文学アルバム 高村光太郎』(筑摩書房)のゲラを確認し、「That's the endか。人の一生なんか妙なもんだな」と言ったそうです。迫り来る死を冷静に受け止めたその一言、見事といえば見事ですね。

福島二本松の智恵子の生家。通常は立ち入り禁止となっている智恵子の居室を含む二階部分の期間限定公開が始まります。一昨年から始まり、観光シーズンの土日、祝日などに行われてきましたが、今回は霞ヶ城桜まつり開催期間に合わせての実施です。

二本松市さんのサイトから。

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「001花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」2階を下記期間中、特別公開いたします。
ぜひ、足を運びいただき、当時智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気をご堪能ください。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も、期間限定で展示しますので、併せてご覧ください。

公開日
霞ヶ城桜まつり開催期間中(4月8日~5月7日)の土曜日、日曜日、祝日(13日間)
※期間中無休

公開時間
午前の部 9時00分~12時00分  午後の部 13時00分~16時00分

入館料 一般 410円(360円) 小中学生 200円(150円) 
    ※( )内は、20人以上の団体料金。

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。

問い合せ先 二本松市智恵子の生家・記念館 電話:0243-22-6151

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。 おれの面皮をはぐ。 おれの身を棄てさせる。 おれを粉粉にして雪でうづめる。 冬の奴は、それから立てといふ。  おれは、ようしと思ふ。

詩「冬の奴」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

季節外れですみません。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』から掲載順に言葉を拾っていますので、こうなります。

しかし、季節外れといえば、このブログを書いている今、千葉の自宅兼事務所周辺、粉雪まじりの霙(みぞれ)が降っています。

明日は第61回連翹忌。61年前の今日は、やはり東京で季節外れの雪でした。終生冬を愛した光太郎への、終生光太郎が追い求めた「自然」からの贈り物だったのかもしれません。

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