2016年11月

光太郎の父・光雲が彫刻を手がけた、横浜南区山王町に伝わるお三の宮日枝神社さん「火伏神輿」。その名の由来は、関東大震災と太平洋戦争の空襲をくぐりぬけたことです。

毎年9月、日枝神社さんの例大祭で、伊勢佐木町のイセザキ・モールを巡行するのですが、今年は修復作業に入っていたため、出ませんでした。そのため、今年はこのブログでも日枝神社さんの例大祭をご紹介しませんでした。

このたび、その修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目が始まったそうです。

横浜・伊勢佐木町繁栄の象徴 「火伏神輿」

◆90年の歴史で初の修復作業
 横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が90年余りの歴史で初めての修復作業を終えた。28日にJRAエクセル伊勢佐木(神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1丁目)でお色直しを済ませたばかりの神輿が披露された。
 1923年に完成した神輿は日枝神社例大祭などで担がれてきたため、彫刻や金具が欠けたり、塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立っていた。
 そのため、東京都内の文化財修復専門工房に運ばれて、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)が手掛けた彫刻を復元。奈良・法隆寺の七堂伽藍(がらん)に施されたものと同じ極彩色の染料を塗り直し、鮮やかによみがえった。
 今年3月から「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展に貸し出した際、学芸員から「大正期の名工が古代御輿の粋を極めた貴重なもの。豪華な装飾を含めて文化財級」と高い評価を受けたこともあり、今回、本格的に修復を行うことにした。
 神輿がガラスケースに無事に収められると、伊勢佐木町1丁目の婦人用品店4代目店主、津田武司さん(77)は大きな拍手を送った。「神輿が戻ってきてうれしいの一言。世代を超えて大切にしたい」
 吉田新田の完成350周年を迎える来年9月の日枝神社例大祭でイセザキ・モールを練り歩くことにしている。
◆火伏神輿 伊勢佐木町の町内会が1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、高村光雲に制作を依頼した。23年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたと伝えられている。
(2016/11/29 『神奈川新聞』)

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記事にある「「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展」はこちら

 
『東京新聞』さんの神奈川版にも記事が出ました。

よみがえった火伏神輿 修復終わり、イセザキ・モールで展示

 明治時代の彫刻家・高村光雲(一八五二~一九三四年)らが制作した「火伏神輿(ひぶせみこし)」の修復が終わり、二十八日、神輿を所有するイセザキ・モール(横浜市中区)にあるJRAエクセル伊勢佐木一階ホールで展示が始まった。観覧無料。
 神輿は大正天皇の即位を記念し、伊勢佐木町の町内会が高村光雲に制作依頼。高村や東京美術学校(現・東京芸術大)の教授らが一九二一年に東京都内で制作を始めた。二三年九月の完成直前に発生した関東大震災や、四五年五月の横浜大空襲などの火災を免れたことから、火災を防ぐ「火伏神輿」と呼ばれるようになった。高さ一・八メートルで幅一・四メートル、担ぎ棒を含む長さは二・九メートル。
 大掛かりな修復は初めてで、六月から東京都狛江市で文化財修復工房を営む桜庭裕介さん(63)が手掛けた。色がはげた部分はエックス線で表面を分析し、制作当時と同じ顔料で補修。特殊な樹脂を染み込ませて今後の色あせを防ぎつつ、約一世紀の歴史を感じさせる退色はそのままにした。木彫の欠損は木の粉や漆などを混ぜたもので補った。
 来年は、これまで通り九月の地元の祭りで担がれる予定。祖父が制作時の世話人で、宝石店経営を受け継ぐ渡辺洋三さん(64)は「祭りでは乱暴に扱うこともあった」と苦笑しながら「町の人に、素晴らしい神輿だと再認識してほしい」と願った。(梅野光春)


今回いつまで展示されるのか、記事からは不明ですが、以前は祭りの時以外は神奈川県立歴史博物館さんで展示されていたので、今後もそうなるのではないかと思われます。

さらに同時期に光雲によって作られた獅子頭もセットです。

ぜひきれいになった神輿をご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれの雁におもはず窓あけてまたたき多き星を見しかな
明治33年(1900) 光太郎18歳

冬が近づき、空気がキインと澄んでいるため、星がきれいに見えます。当方自宅兼事務所のあるあたりは千葉でも田舎の方でして、夜間の光害が少なく、星の観察にはもってこいです。

少し前にもこのブログでご紹介した、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」。東日本大震災の翌年に作られ、劇中に、智恵子の故郷・安達太良山の空を謳った光太郎詩「あどけない話」が使われています。

12月4日(日)から「人権週間」ということで、兵庫県のローカルテレビ局・サンテレビさんで放映があります。

親子テレビ ほんとの空

サンテレビ  2016年12月4日(日) 11:00~11:45 (45分) 

出演 白石美帆  鳥羽潤  湯浅美和子  浦上晟周  石川大樹  (他)

あらすじ

向井弓枝(白石美帆)は、パート先のスーパーで、高齢の客のおぼつかない行動に不快感を持つ。自宅のマンションのエレベータでも、高齢の人や障害のある人に対してイライラを募らせる。弓枝は、面倒な人が多く住むこのマンションではなく、一戸建てや新築マンションに引つ越したいと、夫の勇(鳥羽潤)に訴える。

弓枝の一人息子の輝(浦上晟周)は、空オタクだ。いつも空や雲のことを考えてしいて 友だちもいない。カメラを抱えた輝が自宅に帰つてくると、隣の部屋のドアが開き、見知らぬ外国人が引越をしている。外国人に対して偏見を持っている弓枝と勇の話を聞き 輝も「みんな不法滞在なんだから送り返せばいいJと言う。

輝がマンションの屋上に行くと、同じ年頃の少年 龍太(石川大樹)が空にカメラを向けていた。空好きの二人は意気投合し、輝は龍太を家に招く。夕食をいただいたお礼にと 龍太の母の美里(湯浅美和子)が、故郷福島の草木染めの布を持つてくる。最初は喜ぶ弓枝だったが、パート仲間の意見もあり 放射能への恐ろしさから布を捨ててしまう。そしてそれを、龍太がゴミ置き場で発見する。

学校からの帰り道、輝は、龍太が同級生たちから放射能のことでいじめられているのを見つけ加勢するが、二人とも投げ飛ばされる。同級生を非難する輝に、「お前も同じだろ」と龍太は叫び、「草木染めをなぜ捨てたのか」と詰め寄る。それを同じマンションの高齢者 千代子とタイ人 ロークが止める。帰宅した輝は母を責め、家を飛び出す。

輝を探す弓枝と勇。輝は、隣のタイ人夫婦□ークとノイのところにいた。夫婦はタイ料理店で働いていて、店を持ちたいので試食してほしいと申し出る。皆で食卓を囲みながら、ノイの思いを知った輝は、廊下の鉢植えを割ったことを謝り、勇も偏見を持っていたと告げる。握手をする勇と□ーク。その様子を笑顔で見つめる弓枝は ふと台所の隅に 自分が捨ててしまつた草木染めがあることに気づく。

ノイから 草木染めを譲ってもらった弓枝は 美里の家に。そして自分の気持ちを伝えようとするが… 。

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先日もご紹介しましたが、輝役の浦上晟周君は、現在、NHK大河ドラマ「真田丸」で、堺雅人さん演じる主人公・真田信繁(幸村)の嫡男・大助役で活躍中です。浦上君、今は立派な若武者役ですが、この「ほんとの空」は、4年前の制作ということで、まだあどけない子供の役です。

浦上君演じる輝は「空オタク」という設定で、同じマンションに引っ越してきた、やはり空が好きな転校生の龍太に、光太郎の「あどけない話」が福島の空を謳ったものだと教えようとします。しかし龍太は「知ってる、俺、住んでたから……」。輝は龍太が福島から避難してきたことを、その時点では知りませんでした。

その後、龍太は「原発いじめ」にあい、輝の母親・弓枝も深く考えずにとった心ない行動で、龍太の一家を傷つけるという展開になります。

非常に考えさせられる内容です。


兵庫県の方、ぜひ、ご覧下さい。もっとも、兵庫はドラマの制作地で、テレビ放映も初めてではないようですし、自治体主催の行事や学校などでも、かなり上映されているようですが。

このドラマの件について触れるときにはほぼ必ず書いていますが、全国ネットのテレビでも、ぜひ放映していただきたいものです。

追記 未明のうちに上記を書きましたが、午後になって、主演の白石美帆さんと、V6長野博さんのご結婚が報じられました。おめでとうございます。


テレビといえば、明日、明後日と、ATV青森テレビさんのロケに同行し、都内千駄木の光太郎アトリエ跡、当会顧問の北川太一先生宅、光太郎終焉の地・中野アトリエなどを廻ってきます。青森テレビさんで、来月、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を紹介する特別番組を放映するそうで、そのロケです。当方も出演予定です。また詳しくお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うかびてはまたも消えゆくゐのこ雲ながめはてよとさそふ心か
明治35年(1902) 光太郎20歳

若き日の光太郎も、秋の空を見上げていました。

当方は加盟しておりませんが、「昭和文学会」さんという学会があります。そちらの研究発表会で、光太郎が扱われますのでご紹介します。

昭和文学会 2016(平成28)年度 第59回研究集会

期  日 : 2016年12月10日(土)
時  間 : 午後1時30分より
会  場 : 東京学芸大学 C棟(中央講義棟)302・203教室
        東京都小金井市貫井北町4-1-1
研究発表 :
 第一会場(C棟302教室) 司会 掛野剛史・竹田志保
   尾崎翠テクストにおける「影」への恋 ――「歩行」を中心に ―― 小野光絵
   「女性はみんな母である」――高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究――
     アギー・エヴァマリア

   不透明な戦後 ―― 川端康成『舞姫』における舞踊 ―― 杵渕由香
   安部公房「赤い繭」論 ――「寓話」と名付けられること―― 斎藤朋誉
 第二会場(C棟203教室) 司会 河田綾・友田義行
   〈批評文学〉の可能性 ―― 福田恆存「道化の文学」論 ―― 長谷川雅美
   大岡昇平『レイテ戦記』に於ける「人間」と
「全」 中山新也
   中上健次『枯木灘』における語りの構造―― 聴き手としての秋幸 ―― 峰尾俊彦
   石油資源の獲得という大義 ―― 山崎豊子『不毛地帯』を読む視点 ―― 徳永光展


アギー・エヴァマリアさん。首都大学東京大学院生だそうです。おそらく留学生の方でしょう。同会サイトには、「発表要旨」も載っていました。

   太平洋戦時下の戦争詩の多くは、「兵士」や「戦闘」、「死」など〈男性の戦争〉という主題を備えていた。高村光太郎の「彼等を撃つ」や「必死の時」などはその代表作である。だが高村は一方で、女性を歌った戦争詩も残している。太平洋開戦以前、西洋の美に傾倒する『道程』から日本女性に初めて美と愛を見いだす『智恵子抄』まで、高村は女性を様々に表象した。そこでは、特に女性の「肉体」とその肉体に向けられる「性欲」が主題となっていた。こうした女性像は、宣戦布告を経て大きく変貌する。肉体と性欲の要素を削った〈母〉が、作品「女性はみんな母である」や「山道のをばさん」の中に新たな女性像の典型として登場する。一方「少女戦ふ」では、〈母〉以前の女性を「立派な戦士」として称え、戦地の兵士に劣らぬ姿として描いてもいる。本発表は、高村の太平洋戦時下の作品中における女性像に焦点をあて、戦時下の詩における〈女性〉という主題のもと、戦争詩読解の新たな局面を開くことを目的とする。

光太郎の翼賛詩に表れる女性像に焦点を当てた発表だそうです。


発表題に掲げられた「女性はみんな母である」は、昭和17年(1942)、『婦人朝日』に発表された詩です。

   女性はみんな母である009

 女性はみんな母である。
 子あるは言はずとしれたこと、
 不幸、子なきもまた母だ。
 母の神秘は深さ知られず、
 母の愛撫は天地に満つ。
 あたたかし、あたたかし、
 母はあたたかなるかな。
 夫を守る妻は夫の母。
 ひとりある女性は又なく清く、
 母性の磁気を皮膚から発する。
 童女は五尺の男子を慰め、
 白髪(はくはつ)の女性は世を救ふ。
 伊勢にこもらすおんたましひ、
 われらを包みわれらをはぐくむ。
 されば、われらの女性国土にあまねく、
 世にもあたたかき母のかをりを放つ。
 女性はみんな母であり、
 天地は慈愛の室(へや)である。


要旨にもあるとおり、光太郎には女性賛美的な内容の詩作品がかなり存在します。

その理由として、智恵子や夭折した姉のさく(咲)、母のわかなどの影響を指摘する論考は古くからありますし、実際、そうなのでしょう。

しかし、見落としてはいけないのは、作家の主体性とともに、版元の要求、という点です。

光太郎、遠く明治期から、婦人雑誌への寄稿がかなり目立ちます。現在も刊行されている『婦人之友』には、明治45年(1912)から、最晩年の昭和30年(1955)まで、50篇を超える寄稿をし、大正期には連載まで持っていました。その他にも『婦人くらぶ』、『女子の友』、『婦女界』、『女子文壇』、『家庭』、『大正婦人』、『淑女画報』、『婦人雑誌』、『婦人週報』、『新家庭』、『家庭週報』、『婦人画報』、『女性日本人』、『女性』、『婦人の国』、『婦人公論』、『主婦之友』、『婦人世界』、『オール女性』、『新興婦人』、『女性時代』、『女性線』、『女性教養』などなど……。

詩にしても散文にしても、光太郎作品は非常にわかりやすい日本語で書かれ、それでいて含蓄や示唆にも富み、女性読者からの支持が大きかったのではないかと思われます。

となると、そういう雑誌に載せる詩文だから、女性賛美的な内容になるのはある意味当然のことで、筆を曲げる、というわけではないのでしょうが、発表誌と内容との関連については、考える必要があると思います。

光太郎レベルになると、「こういう物を書いたからそちらの雑誌に載せて下さい」ではなく、「こういうものを載せたいからうちの雑誌に書いて下さい」と頼まれるわけで、もっとも、書くのが嫌なら断ればいいのでしょうが、生活のためにはそうもいかないという部分もあり、簡単にはいかないと思いますが……。

こういう点は、翼賛詩にも当てはまるような気もします。

「書きたいから書く」と「頼まれたから書く」、あるいは「書きたいと思っていたところにちょうど頼まれた」もあるでしょうし、このあたりは本当に想像するしかありませんね……。

最近、いろいろ原稿依頼があり、そういったことも考えさせられる今日この頃です。


【折々の歌と句・光太郎】

足もとの小さき石より風起こり落ち葉巻くなり七つ八つほど
大正8年(1919) 光太郎37歳

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自宅兼事務所裏山のイチョウ。箒になるのは、もうすぐのようです。

昨日、NHK BSプレミアムさんで放映の「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」を拝見しました。

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大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で訪れ、二人で歩いた島々から岩魚留、徳本峠を越える「クラシックルート」が扱われました。

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レポーターはモデルの中川希良さん。

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事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。

ところがその話が出ず、「あれっ?」と思っていたところ、今回の「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」は、来年1月10日から、やはりNHK BSプレミアムさんで放映が始まる「にっぽんトレッキング100」の、ある意味番宣のための番組で、「上高地クラシックルート」として改めて1月25日に放映があるそうです。その中で、詳しく扱われるのでしょう。

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今回の番組の中でも、ちらっと光太郎智恵子に触れられはしました。

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また、上高地で光太郎智恵子とも宿を共にした、日本近代登山の父、ウォルター・ウエストンについては、今回からある程度詳しく紹介されていました。1月の放映ではさらに詳しい話が出るものと期待します。

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また近くなりまして、詳細な情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は湧きてあふるる
大正9年(1920) 光太郎38歳

昨日の放映では、各地の温泉も紹介されていました。

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温泉の恩恵を受けられる日本に生まれて、本当に良かったと思います。

光太郎もやはり日本人(笑)、温泉は大好きで、温泉を詠んだ短歌も多く残しています。

今年8月に、コールサック社さんから刊行された『少年少女に希望を届ける詩集』。女川光太郎祭にもご参加下さった、詩人の曽我貢誠氏らの編集で、「いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。」というコンセプトのもと、広く募集した書き下ろしの詩作品などと、光太郎などの物故詩人の詩で構成されています。

これまでも新聞各紙で取り上げられた他、9月にはNHKさんの朝のニュース番組「おはよう日本」中の、関東甲信越向けのコーナーで紹介されました

 
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一昨日の『朝日新聞』さんの秋田版でも、この詩集について報じられました。編者のお一人、曽我氏が秋田ご出身だそうで、そのからみです。 

秋田)悩む子へ希望の詩 旧河辺町出身の元教師まとめる

 いじめ、不登校……、生きることに悩010む子どもたちに希望の言葉を届けたい。旧河辺町(現秋田市)出身の元中学教師で詩人の曽我貢誠(こうせい)さん(63)=東京都在住=の呼びかけで、「少年少女に希望を届ける詩集」(コールサック社)が編まれた。「親たちにも、子どもとのコミュニケーションの材料にしてほしい」と曽我さんは話す。
 「あなたの最も柔らかくしなやかな心の奥深くから詩的な言葉を発して頂けませんか」。昨年秋から、曽我さんがネットや各地の詩の会で呼びかけたところ、約170人から詩や文章が寄せられた。詩人の谷川俊太郎さん、作家の浅田次郎さんらも詩を提供した。
 さらに、曽我さんは「思春期の若者を力づけられるような」という観点から、高村光太郎、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、島崎藤村ら物故詩人の作品も加えた。そして、いじめを乗り越えたり、身近な人の死を経験したりした、有名、無名の200人の心の底からの言葉が1冊の本となり、今年8月に発行された。
 県出身の作家、西木正明さんは「今、日本が不景気だ少子化だなどと騒いでいるのはちゃんちゃらおかしくなる。地球上にはまだまだたいへんな地域があるわけですから、我々はもっと広い視野を持って生きて行かなければならないと思っています」(「真の冒険者は臆病な人である」)。
 「夜回り先生」として知られる元高校教諭で教育評論家の水谷修さんは「君のことを知ったその瞬間から、君は私のかけがえのない仲間、私の子ども。君が死んでしまったら、私はどうすればいいのですか。」(「生きよう」)と記した。
 中学教師を35年勤めた曽我さんは「小学校高学年から高校生ぐらい向けの、悩める子どもたちの助けになるような教材が、すぽっと抜け落ちている」と感じていた。この一冊が、教育現場や家庭でそんな役割を果たして欲しいと願う。
 詩集はA5判、319ページで1500円(税別)。問い合わせはコールサック社(03・5944・3258)へ。


光太郎の詩は「道程」と「冬が来た」。どちらも大正3年(1914)、100年以上前の作品ですが、きっと現代を生きる少年少女の心の琴線にもふれるものと思われます。

版元のコールサック社さんのサイトや、アマゾンさんから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

相倚りて笑みて黙(もだ)して事もなくたのしかりしを罪とし言ふや

明治36年(1903) 光太郎21歳

……というような、楽しい青春時代を送っている少年少女たちばかりではありません。「原発いじめ」などの問題もありますし……。

光太郎詩が、悩める若者たちへのエールとなれば、と思います。

光太郎が永らく住んだ東京都文京区からイベント情報です。

文(ふみ)の京(みやこ)ゆかりの文化人顕彰事業 史跡めぐり 「千駄木ゆかりの文人を訪ねて」

文京ふるさと歴史館友の会「文京まち案内」ボランティア・ガイドの解説により、没後60周年を迎えた高村光太郎のアトリエ跡をはじめ高村光雲・豊周旧居跡など千駄木周辺にある文化人ゆかりの地を訪ねます。森鴎外記念館では展示についての説明を聞いたのち、館内を自由に見学できます。

期 日 : 平成28年12月3日(土)  
時 間 : 午後1時~4時(雨天決行)
コース : 森鴎外記念館(集合場所) 団子坂、講談社発祥の地、須藤公園、
      高村光太郎アトリエ跡青鞜社跡、夏目漱石旧居跡、藪下通り、
      森鴎外記念館(自由見学)ほか 約2km
対 象 : 高校生以上
定 員 : 50人(超えた場合は抽選)
料 金 : 40円(傷害保険料)
申 込 : 往復はがき(1枚につき2人まで)に「12/3史跡めぐり」・全員の住所・
      氏名(ふりがな)・年齢・電話番号と返信用にも宛名を明記し、
      文京ふるさと歴史館〒113-0033東京都文京区本郷4-9-29 03-3818-7221)へ 
締 切 : 平成28年11月24日(木)必着

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ゆかりの文人を多く抱える文京区さんならではの取り組みですね。

うっかり紹介が遅れ、申し込み〆切が過ぎてしまいましたが、まだ定員に届いていない可能性もあります。「区民」に限る的な条件はないようです。


【折々の歌と句・光太郎】

かくてわれ狂はむものか旅やかたあられふる朝雁みだれなく
明治34年(1901) 光太郎19歳

関東は昨日の雪から一転、快晴です。しかし、ベランダの手すりなど、水滴が凍り付いていました。

和歌山県立近代美術館さんで、特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」が開幕しました。

大正期、美術雑誌『現代の洋画』などを発行し、光太郎も加わったフユウザン会のパトロンでもあった、北山清太郎にスポットを当てた展覧会で、光太郎の油絵「上高地風景」「佐藤春夫像」も展示されています。

北山が和歌山出身ということもあり、地元紙や全国紙の和歌山版で、大きく取り上げられています。光太郎の名が記事にあるもののみ紹介します。


まず『わかやま新報』さん。

洋画支えたペール北山を軸に 近代美術館

009大正時代に西洋の美術を積極的に紹介し、日本の若手画家たちを支援した和歌山市出身の北山清太郎(1888~1945)に焦点を当てた展覧会『動き出す!絵画ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―』が、同市吹上の県立近代美術館で始まった。来年1月15日まで。北山が創刊した美術雑誌で紹介した海外の巨匠たちと、その影響を受けた日本画家の作品、全国約70カ所から集まった約170点を一挙に展示している。
3年に1度開く大規模展覧会の第1弾。北山は明治45年(1912)に美術雑誌『現代の洋画』を創刊し、西洋美術を盛んに取り上げた。高村光太郎や岸田劉生ら、若い洋画家たちが興した美術団体「ヒユウザン会」(のちフュウザン会)の展覧会運営に携わり、目録や機関紙の発行を手掛け、活動を支えた。ゴッホを支援したペール・タンギーになぞらえ、「ペール北山」と呼ばれていたという。
大正5年には美術の世界を離れ、国産アニメーションの制作に没頭。ちょうど100年前の大正6年(1917)、〝動く絵〟である日本の最初のアニメーションを手掛けた開拓者の一人としても知られている。
会場には、ゴッホの「雪原で薪を集める人びと」や、水浴の裸婦を温かい色調で表現したルノワールの「泉による女」など、名だたる画家の名画の他、少女の視線や表情が印象的な岸田劉生の「童女図(麗子立像)」などが並ぶ。
また、北山が手掛け、大正初期に発表されたアニメーション作品「浦島太郎」も紹介されている。
同館の宮本久宣主査学芸員(43)は「日本の画家がどのように西洋美術に影響を受け、受容していったのか、日本と西洋の表現を見比べながら鑑賞してもらえれば。日本の美術を動かすきっかけとなった北山清太郎という人物が、この和歌山にいたことを知ってもらいたい」と話している。
関連事業として、26日午後2時から同館2階で、現代美術作家の森村泰昌さん
 と同館の熊田司館長による対談講演会「動く私、動く自画像」が開かれる(先着120人、午前9時半から整理券配布)。
展覧会は午前9時半から午後5時(入館は4時半)まで。問い合わせは同館(℡073・436・8690)。


それから、『ツー・ワン紀州』さん。

動き出す!絵画、ペール北山の夢 19日~来年1月15日 和歌山県立近代美術館

010「動き出す!絵画、ペール北山の夢、モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」(和歌山県立近代美術館ら主催)が19日(土)~来年1月15日(日)まで和歌山市の県立近代美術館で開かれる。
大正時代、西洋美術に学び、新たな表現によって時代を動かそうとした若き洋画家たちを支えた和歌山出身の北山清太郎(1888~1945)の視点を手がかりに、彼らが憧れた西洋美術と彼らの表現を紹介する。

1章=動き出す夢‐ペール北山と欧州洋画熱はカミーユ・ピサロ(ポントワーズのレザールの丘)、パブロ・ピカソ(帽子の男)など実際の作品を紹介。2章=動き出す時代‐新婦朝者たちの活躍と大正の萌芽は斉藤与里、山脇信徳、斎藤豊作。第3章=動き出す絵画‐ペール北山とフュウザン会、生活社は木村荘八、高村光太郎など。4章=動きした先に‐巽画会から草土社へは椿貞雄などに続く。

観覧料は一般1000円、大学生800円、高校生以下、65歳以上、障害者、県内在学中の外国人留学生は無料。

問い合わせは同美術館TEL073・436・8690。


続いて、主催に名を連ねている『読売新聞』さんの和歌山版。

新時代へ 描いた夢 ◇「動き出す!絵画」展内覧会へ 北山清太郎紹介

 大正時代の画家たちの創作活動を支援した和歌山市出身の北山清太郎(1888~1945)の活動を通して名画の数々を紹介する「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」展(読売新聞社など主催)が19日、和歌山市吹上の県立近代美術館で開幕する。北山が創刊した雑誌で紹介した海外の巨匠たちと、その影響を受けた岸田劉生ら日本の画家の作品計約170点が一堂に会する。18日には、関係者向けの内覧会があった。(石黒彩子)
 北山は和歌山市生まれ。1912年、美術雑誌「現代の洋画」を創刊し、積極的に西洋美術を紹介。カラーで掲載される名画の数々に、多くの日本の画家たちが感化された。
 同年、西欧留学から帰国した高村光太郎は、岸田らを加えて、美術家集団「ヒユウザン会」(のちのフュウザン会)を結成。北山は同会の活動を支援し、展覧会目録や機関誌の発行を手がけた。パリでゴッホら若い画家を支えた画材商のペール・タンギーになぞらえ、「ペール北山」と呼ばれたという。
 北山はその後、アニメーションの世界に転身し、1917年には日本で最初のアニメーション作品を発表した1人になった。展覧会の名称は“動く絵”の制作を手がけ、大正時代の日本美術を動かした北山にちなんでいる。
 画集で紹介され、当時の日本の画家たちに影響を与えたゴッホの大作「雪原で 薪まき を集める人びと」や、岸田の代表作である「童女図(麗子立像)」など国内約70か所から集めた逸品ぞろい。宮本久宣・主査学芸員は「日本の画家が西洋絵画からどのように影響を受け、自分の表現に生かしていったかを対比しながら鑑賞できる貴重な機会。和歌山にそのきっかけを作った人がいたと知ってほしい」と話す。
 19日は午前9時30分から、開会式があり、同10時に開場。20日以降は午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)。来年1月15日まで。一般1000円、大学生800円、高校生以下や65歳以上などは無料。原則月曜日休館。
 問い合わせは同美術館(073・436・8690)へ。
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さらに『毎日新聞』さんの和歌山版。

西洋×日本、大正の若き洋画家たち 近代美術、目玉作品が集結 北山清太郎ゆかりの作品170点展示 和歌山 /和歌山

 西洋と近代日本の美術作品を集めた展覧会「動き出す!絵画 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」が19日から、県立近代美術館(和歌山市吹上1)で開かれる。大正時代、美術雑誌の発行などを通して日本の洋画家たちを支えた和歌山市出身の北山清太郎(せいたろう)(1888~1945年)にスポットを当て、ゆかりの作品約170点を展示する。来年1月15日まで。
 
 北山は和歌山市で生まれ育ち、19歳の頃、横浜に移り住んだ。1912年、美術雑誌「現代の洋画」を創刊。積極的に西洋の美術を紹介した。
 この年、西欧留学から帰国した斎藤与里(より)と高村光太郎に岸田劉生(りゅうせい)らが加わり、美術団体「ヒユウザン会」(後のフュウザン会)を結成。展覧会を開いて注目を集めた。北山は会の運営や目録・機関誌の発行を担った。
 14年に別の美術団体の運営を任され、更に15年には岸田らと展覧会を開催。北山は当時の美術に新たな動きを起こした。画家たちは、パリでゴッホらを支援した画材商のペール・タンギー(タンギー親爺)になぞらえて「ペール北山」と呼んだ。16年以降、北山はアニメーション制作に取り組むようになった。
 同展では、北山が雑誌などで紹介したセザンヌ、モネ、ルノワール、ゴッホら印象派や後期印象派の作品を展示。北山と交流のあった岸田劉生、萬(よろず)鉄五郎、木村荘八(しょうはち)ら日本の洋画家の作品も一堂に集めた。
 展覧会のタイトルは、北山が美術の新しい動きを起こし、アニメを制作したことを示すという。企画した学芸員の宮本久宣さんと青木加苗さんは「当時のエネルギーが充満した展示空間になる。全国の美術館で目玉となる作品が集結するまたとない機会なので、ぜひ見に来てほしい」と話している。
 観覧料1000円、大学生800円。高校生以下無料。1月9日を除く月曜と12月29日~1月3日、10日は休館。11月26日に森村泰昌さんによる対談講演会▽12月23日に手回しアニメフィルム上映・解説会▽1月8日にレクチャーコンサートがある。いずれも午後2時から。問い合わせは同館(073・436・8690)。【坂口佳代】


当方、東京ステーションギャラリーさんでの東京展を拝見しましたが、さながら反アカデミズム日本近代洋画史、といった感の、非常にボリュームのある展覧会でした。また、豪華な図録が発行されており、貴重な資料です。

関西方面の皆さん、ぜひお出かけを。


【折々の歌と句・光太郎】

初雪や川越殿をふところに        
        明治39年(1906) 光太郎24歳

関東で初雪が降りました。11月としては54年ぶりだそうですし、「降雪」だけでなく「積雪」となると、東京都心では史上初の11月の積雪だとのことです。当方自宅兼事務所のある千葉県は関東でも温暖な地域ですが、それでも現在、みぞれです。

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「川越殿」はサツマイモ。埼玉川越がサツマイモの名産地だったことからそう呼ばれていました。おそらく、ほかほかの焼き芋でしょう。

テレビ放映情報です。

ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!

NHK BSプレミアム  2016年11月26日(土)  21時00分~22時30分

山好き必見!日本の秋を満喫するベスト10を大公開!

トレッキングにぴったりの秋到来。日本の秋を満喫する、お勧めコースベスト10を大公開! 真っ赤に染まる紅葉、黄金色に輝く草原、そして心まで温まる癒やしの温泉! 女優の宮澤佐江さんは雄大な北海道・雌阿寒岳へ。モデルの仲川希良さんは上高地へと向かう知られざるクラシックルートを。タレントの田代さやかさんは紅葉真っ盛りの八幡平温泉へ。他にも黒部峡谷、奥日光、四万十川、雲仙など、北海道から九州まで深まる秋を体感!

出演 パトリックハ-ラン 宮澤佐江 田代さやか 仲川希良 青山草太 高橋庄太郎 小林千穂,
司会 森下絵里香
語り 渡部紗弓 柴崎行雄

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上記紹介にあるとおり、信州上高地が扱われます。しかも、トレッキングということで、車の通れない、島々から岩魚止、徳本峠を越える昔のルート。

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ここは、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で訪れた場所。先に上高地に滞在していた光太郎が、後から追ってきた智恵子を迎えに岩魚留まで下りていきました。岩魚留には有名な桂の巨木があり、光太郎智恵子共々、後にこの木の思い出を語っています。

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そのあたり、昨年発行された山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。上記桂の写真も『岳人』さんから。そこでキャプションに「件(くだん)の」とあります。

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さて、花巻高村光太郎光太郎記念会さんを通し、今回放送される番組の制作会社さんから問い合わせがあり、件の桂の木についてレクチャーいたしました。尺の関係などでカットされなければ、そういう話が出るはずです。

ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君は思ふか
大正9年(1920) 光太郎38歳

土曜日放映の「ザ・プレミアム」、テーマは「紅葉」と「温泉」だそうです。寒くなってきましたので、ゆっくり温泉に浸かりたいものです。

今朝は、地震で目が覚めました。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部では震度4でしたが、揺れの時間がやけに長く感じました。

マグニチュードは7.4。まず福島県に津波警報が発令され、その後、宮城県にも。8時過ぎの時点で、仙台港には1㍍40㌢の津波が到達、と報じられています。

福島、女川、茨城東海の各原発、特に大きな被害はないようですが、一時、「福島第三原発で、燃料棒貯蔵プールで冷却用の電源が停止」というニュースもありました。第三原発というのは存在しないので、変だな、と思っていましたが、のちに「第二原発3号機」と訂正されました。報道もかなり混乱していたようです。6時台の段階では、テレビ局によって各地の津波到達予想時刻がかなり異なってもいました。

3.11の悪夢が頭をよぎりましたが、第二原発は8時前に復旧したそうです。しかし、地元の皆さんの恐怖はいかばかりであったろうと、胸が痛みます。そろそろ9時。まだ完全に安心、というわけではありませんが。


さて、昨日の『朝日新聞』さんの記事。

復興へ 葉加瀬太郎さん「ひまわり」の歌詞アイデア募集

 東日本大震災からの復興を後押しする「復興支援音楽祭 歌の絆プロジェクト」(主催・三菱商事、福島放送、朝日新聞社)が来年3月、福島県郡山市で開かれる。出演するバイオリニスト葉加瀬太郎さんは、音楽祭で披露する自曲「ひまわり」につける歌詞のアイデアを被災地の子どもたちから募ることを決め、20日から呼びかけを始めた。

 「ひまわり」は震災時のNHK連続テレビ小説「てっぱん」のテーマ曲。「東北のため、日本のための応援歌」と位置づけ、コンサートでも必ず弾いてきた。
 応募できるのは岩手、宮城、福島の3県出身か在住の小中高校生。「ふるさと」をテーマに、歌詞、作文、詩など形式自由。寄せられたアイデアをもとに、作詞家の松井五郎さんが作詞する。葉加瀬さんは「未来への希望を持てるような曲にしたい」と話す。
 住所、氏名、フリガナ、連絡先、年齢、学校名、学年を明記の上、〒963・8535 郡山市桑野4の3の6 福島放送「復興支援音楽祭歌詞アイデア募集係」へ。ホームページ(http://www.kfb.co.jp/fukko/別ウインドウで開きます)からも可(21日10時以降)。締め切りは12月31日。問い合わせは電話(024・933・5856、平日9時半~17時半)かメール(himawari-kashi@kfb.co.jp)。抽選で10組20人に音楽祭の招待券を、10人に葉加瀬さんのサイン入りCDを贈呈する。



昨日もご紹介しましたが、「原発いじめ」といった問題も、ここに来てクローズアップされている状況です。ぜひとも、福島で復興の合い言葉として広く使われている、光太郎詩「あどけない話」に出て来る「ほんとの空」の語を入れていただきたいものです。

そして、もういい加減、こうした恐怖を与えるシステムへの依存、やめにしませんか? と問いたいところです。


追記 今日の地震に関し、東日本大震災の時の画像を使ってデマを流している馬鹿者がいるそうです。情けないやら、憤りを感じるやら……。この手の悪質なデマに踊らされないように注意して下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

山の石落ちて時あり座をうつす自然のちから我にせまりぬ
明治39年(1906) 光太郎24歳

大いなる自然の力にはあらがえません。大きな地震のたびにそう思わざるを得ません。いかにその自然と共存していくかを真剣に考えなければいけないと思います。

先週の『朝日新聞』さんの記事から。

「菌」「賠償金あるだろ」原発避難先でいじめ 生徒手記

 福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒(13)が、いじめを受けて不登校になった問題で、男子生徒の代理人弁護士が15日、生徒の手記を公表した。「賠償金あるだろと言われ、抵抗できなかった」などと心情をつづっている。市教委は学校の対応の遅れを陳謝した。
 記者会見した黒沢知弘弁護士によると、手記は小学6年生だった昨年7月に書かれたもの。いじめで子どもが亡くなるという報道があることから、「いじめがなくなってほしい」「多くの子どもたちに少しでも励みになれば」と男子生徒自身が公開を決心したという。
 生徒と家族は東日本大震災後の2011年8月に福島県から横浜市に自主避難。直後から転校先の市立小学校で、名前に「菌」を付けて呼ばれるなど、複数の児童からいじめを受け始めた。
 「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった。なにもていこうできなかった」。手記は当時をそう振り返った。
 市教委の第三者委員会の調査によれば、小学5年の5月、加害児童ら10人ほどと遊園地やゲームセンターなどに行くようになり、遊興費のほか、食事代や交通費も含めて1回5万~10万円の費用を10回近く負担した。児童2人に、一緒に遊ぶためのエアガンを買ったこともあった。男子生徒は親の現金を持ち出していた。黒沢弁護士によると、総額150万円に上るという。
 「お金もってこいと言われたときすごいいらいらとくやしさがあったけど、ていこうするとまたいじめがはじまるとおもってなにもできずにただこわくてしょうがなかった」「ばいしょう金あるだろと言われむかつくし、ていこうできなかったのもくやしい」
 事態に気づいた複数の保護者が同月中に、男子生徒と金品のやり取りがあるようだと学校に連絡した。同月末には男子生徒の保護者が「帽子がなくなった。隠されたのではないか」と学校に問い合わせた。
 学校も調査を始めたが、生徒はこう書いた。「いままでいろんなはなしをしてきたけどしんようしてくれなかった」「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」
 黒沢弁護士によると、生徒は小学校を卒業し、今はフリースクールに通う。「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。心境をそう書いている。(永田大)
     ◇
■被害生徒の手記(抜粋)
「(加害側の)3人から…お金をもってこいと言われた」
「○○(加害側の名)からはメールでも言われた」
「人目がきにならないとこで もってこいと言われた」
「お金もってこいと言われたとき すごいいらいらとくやしさがあったけど ていこうするとまたいじめがはじまるとおもって なにもできずに ただこわくてしょうがなかった」
「ばいしょう金あるだろと言われ むかつくし、ていこうできなかったのもくやしい」
「○○○(加害側の名) ○○(加害側の名)には いつもけられたり、なぐられたり ランドセルふりま(わ)される、かいだんではおされたりして いつもどこでおわるか わかんなかったのでこわかった」
「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった。なにもていこうできなかった」
「いままでいろんなはなしをしてきたけど (学校は)しんようしてくれなかった」
「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」
「いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた」
     ◇
 〈いじめ問題に詳しい教育評論家・武田さち子さんの話〉 いち早くいじめと認識し重大事態として調査すべき事案で、いじめ防止対策推進法への認識が不十分だ。「お金を渡せばいじめられない」と考えてしまう被害者の立場に立って対応する姿勢が不可欠だった。福島から来た子どもたちがいじめられやすいことは各地で話題となり、気をつけなければいけないこともわかっていたはずだ。「放射能がうつる」「自主避難者が多額の賠償金をもらっている」などと間違ったことを大人たちが口にしたことが、加害児童に伝わった可能性もあり、その責任も忘れてはいけない。


この事件についての報道を読んで思い出したのが、2012(平成24年)、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」。劇中に光太郎の詩「あどけない話」が使われ、このブログでも何度かご紹介してきました。

この事件とよく似た内容が扱われています。

【あらすじ】
■向井弓枝は、パート先のスーパーで、高齢の客のおぼつかない行動に不快感を持つ。自宅のマンションのエレベータでも、高齢の人や障がいのある人に対してイライラを募らせ、夫の勇に、引っ越したいと訴える。
■弓枝の一人息子の輝は、外国人に対して偏見を持っている弓枝と勇の話を聞き、「みんな不法滞在なんだから送り返せばいい」と言う。
■輝は同じ年頃の少年・龍太と意気投合し、輝は龍太を家に招く。夕食をいただいたお礼にと、龍太の母の美里が、故郷・福島の草木染めの布を持ってくる。最初は喜ぶ弓枝だったが…。
■学校からの帰り道、輝は、龍太が同級生たちから放射能のことでいじめられているのを見つけた。同級生を非難する輝に、「お前も同じだろ」と龍太は叫び、「草木染めをなぜ捨てたのか」と詰め寄る。帰宅した輝は弓枝を責め、家を飛び出す。
■輝を探す弓枝と勇。輝は、隣のタイ人夫婦・ロークとノイのところにいた。二人と話すうちに、自分が偏見を持っていたことに気づく輝と勇。その様子を笑顔で見つめる弓枝は、ふと台所の隅に、自分が捨ててしまった草木染めがあることに気づく。
■ノイから草木染めを譲ってもらった弓枝は、美里の家を訪ね、自分の気持ちを伝えようとするが…。


主人公、向井弓枝役は白石美帆さん。その息子の中学生・輝役が、浦上晟周君。現在、NHKさんで放映中の大河ドラマ「真田丸」で、真田信繁(幸村)の嫡男・大助役を熱演中です。

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ビデオ「ほんとの空」、昨年、公益財団法人 人権教育啓発推進センターさんからお借りして拝見しましたが、この年代の少年は成長が早く、真田大助と輝少年が同一人物だということに、最近まで気がつきませんでした。

今回の事件同様、輝少年の通う中学校に福島から避難してきた転校生が来て、「原発いじめ」にあいます。さすが真田大助、輝少年はいじめに加担せず、とめようとする方に廻ります。というか、輝少年自身も少し変わり者、ということで同級生から距離を置かれているという設定ですし、輝少年、マンションの隣室に引っ越してきた外国人夫婦に対する差別意識は隠しませんが……。すると、白石美帆さん演じる母親が、転校生の少年の母親から貰った草木染めの布を、パート先の同僚の「放射能がうつるかもよ」の一言で気味悪がり、棄ててしまいます。そしてゴミ捨て場で、棄てられた布を転校生の少年が発見し、話がややこしくなります……。

その他、高齢者や障害者、同和地区に対する差別なども描かれ、考えさせられる内容です。


これまでも、各地の自治体さんや学校さんなどで上映されましたし、地方テレビでの放映もありました。今年も人権週間(12月4日(日)~10日(土))が近いということもあり、岐阜市や岐阜県垂井町、徳島市などで上映されるようです。


先週の『高知新聞』さんには、このビデオを観た方からの投書が載りました。

声ひろば 2016年11月18日 壁と橋

 「壁」と「橋」。先日行われたアメリカ大統領選における二人の主張でした。結局、「壁」を前面に出したトランプ氏が次期大統領に選ばれました。
 私は子どもたちの学習支援、生活支援を中心とした仕事をしています。選挙結果が出る前日、高知県人権啓発センターから「ほんとの空」(兵庫県人権啓発協会企画)というDVDをお借りして子どもたちに見せました。
 小学校低学年から中学生までの子どもたちがそれぞれ、何かしらの気持ちを抱いたに違いありません。見終わった後、障害者に対する理解を深める学習の時間をとりました。
 私たちの誰もが他者の排除や差別がよくないことは理解していますが、自分に関わる出来事以外となると、ひとごとのように感じたりするものです。
 知らず知らずに偏見や差別意識、排除する気持ちをもち、自分の中に「壁」を作ってしまうのです。しかし、そこからは他者理解や友好、平和は生まれてきません。トランプ氏の主張する「壁」は、人権意識につながるのか疑問です。
 DVDを見ながら「Change,Change,Change(変えるんだ、変わるんだ、きっと変わる)」と、前回選挙で主張したオバマ大統領の能動的でパワフルなメッセージを思い出し、橋を架けることの大切さを感じました。



まさにその通りですね。

先週、福島第一原発のある福島相双地域に行って参りまして、さまざまな困難に立ち向かう人々の姿を拝見してきたところで、原発いじめの問題……。情けないやら、腹が立つやら、です。

タイムリーな内容ですので、「ほんとの空」上映、もっともっと広がってほしいものですし、テレビでも全国ネットで放映していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ

明治42年(1909) 光太郎27歳

日本女性の主体性のなさを嘆く内容です。が、いじめに加担したり、風評に流されたり、政治屋の甘言に惑わされたりといった、全ての愚かな人々への警句と読み取りたいところです。

昨日は、文京区のアカデミー茗台において、第61回高村光太郎研究会でした。

当会及び高村光太郎研究会顧問の北川太一先生もおいで下さり、貴重なお話をいただけました。

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司会はは佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏。昨年は発表をされました。

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最初の発表は、高村光太郎研究会主宰の野末明氏。智恵子の姪・長沼春子と結婚して光太郎と姻戚となった詩人、宮崎稔に関してでした。

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『高村光太郎全集』には、光太郎日記中、宮崎に関する記述がかなりあったり、宮崎宛の膨大な書簡が掲載されたりしており、さまざまなところで光太郎と関わったことはわかっていますが、それ以外の事績がよくわかっていません。光太郎より早く亡くなってしまい、結局、無名の詩人として生涯を終えた人物です。

野末氏、数年前から宮崎についてコツコツ調べていらっしゃいまして、今後も継続される由、その成果に期待したいものです。

続いて、当方の発表。

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先だって、福島県いわき市の草野心平生家で開催された、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で講話を仰せつかり、一般の方々に向けてお話しさせていただいた内容を、多少、専門家向けにアレンジしました。

いわきでは持ち時間が40分と決められており、ほんとに概要だけのお話になってしまいましたが、昨日はがっつり時間を取らせていただきました。

光太郎と心平、二人の出会いは大正14年(1925)。やはり詩人の黄瀛(こうえい)に連れられて、心平が駒込林町の光太郎宅を訪れた日のことでした。時に光太郎数え43歳、同じく心平23歳。ちょうど20歳違いの二人の天才の邂逅でした。

二人はたちまち意気投合し、長い交流が始まります。そこには、お互いの芸術、そして人間性に対する深いリスペクトがあったように思われます。そして、お互いにお互いのために、いろいろなことをやりました。


まず、光太郎から心平に。

『銅鑼』、『学校』、『歴程』といった、心平が主宰していた詩誌に、光太郎は実に多くの作品を寄稿しています。また、心平が関わった『歴程詩集』などのアンソロジーにも。光太郎の作品が載っている、ということで、売り上げに貢献したと考えられます。

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次に、心平の詩集の序文執筆、装幀など。光太郎は中原中也や八木重吉、宮沢賢治など、色々な詩人に対してこの手の仕事をしていますが、心平のそれに対しては6冊にのぼり、最多です。

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それから、心平の経営していた焼き鳥「いわき」(戦前)、居酒屋「火の車」(戦後)に足繁く通うなどの、経済的援助。

そして、これが一番大きいと思うのですが、総合的な芸術家としての手本を示したこと。彫刻、詩、絵画、書、翻訳、短歌、俳句などなど、実にさまざまな分野で足跡を残した光太郎。むろん、光太郎の影響ばかりではないのでしょうが、心平も詩以外に、絵画や書で優れた作品を遺しています。そしてそれぞれ、根底に光太郎と共通する何かが流れているような気がします。

詩もそうです。非常にわかりやすい光太郎の詩と、「蛙語」を使うなどの前衛的な心平の詩。一見、対極のようにも思えますが、権威的なものへの反抗、力強さ、生命讃歌的な内容、自由闊達さといった点で、やはり同じ精神の顕現です。

また、文学史的に見ると、光太郎はそれまでの文語定型詩を打破し、心平は「詩」という概念そのものを破壊しようとしたのではないかと思われます。ともに、既成のものへのレジスタンスですね。

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続いて、光太郎と心平の共同作業。それは、無名、若手詩人の発掘、援助、顕彰です。

主に心平と同世代で、『歴程』同人だった詩人たち――宮沢賢治、馬淵美意子、八木重吉、猪狩満直、尾形亀之助、石川善助、竹内てるよ、永瀬清子、伊藤信吉、黄瀛、中原中也、逸見猶吉、鳥見迅彦、藤島宇内ら――。彼らを世に送り出し、早世した者にはその顕彰活動と、心平は奔走しました。詩の実作者としての姿の蔭にかくれがちですが、そうした心平のプロデューサー的手腕も、もっと評価されていいと思います。そして光太郎も、全集等の編輯、著書の序文、装幀などで協力しました。


一方、心平から光太郎へ。

まず、『銅鑼』や『歴程』などで、光太郎に発表の場を提供したこと。まぁ、これは持ちつ持たれつという感じですが。


それから、光太郎詩集等の編集、解説執筆など。

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この中には、現在も版を重ねている新潮文庫版の『智恵子抄』なども含まれます。


さらに、雑誌などに光太郎評論、近況などを執筆、没後は回想などを多数執筆、テレビ等で談話をしたりといったこと、それらをまとめ、多くの光太郎関連書籍等を編集したり、書き下ろしたりしたこと。

その代表作が昭和44年(1968)に刊行された『わが光太郎』ですが、それに収められていないものも同程度の分量、ことによるとそれ以上あると思われます。また、『草野心平全集』は、単行書として刊行されたもののみを対象としているため、それらをまとめて読むことが出来ません。『続・わが光太郎』の刊行が望まれます。


そして、光太郎生前(特にその晩年)には、身の回りの世話を焼き、歿後には心平自身が歿するまで、光太郎の顕彰活動を続けたこと。

昭和32年(1957)の第一回連翹忌、発起人代表は心平でしたし、その後の10年間限定で実施された、造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」の運営、美術館等での光太郎智恵子展への協力、各地の光太郎文学碑建立、花巻高村記念館への協力などなど。

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ついでに言えば、心平は同郷だった智恵子の顕彰にも力を入れたり、光太郎の実弟・豊周、その子息・規との交流もさかんだったりしました。


そう考えると、心平は、光太郎生前に知り合ってから、光太郎が歿するまで30年と少し、光太郎が歿してから、心平自身が亡くなるまでの30年と少し、合計60年以上を、光太郎の顕彰活動その他に費やしてくれたわけです。

まがりなりにも現在まで光太郎(智恵子も)の名が、世の中から忘れ去られていない背景には、こうした心平の業績が欠かせなかったのだと、今回、あらためて痛感しました。


さて、光太郎は心平をこう評しました。

 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。
 (略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。
   (光太郎 「草野心平詩集「第百階級」序」昭和3年=1928)
  ※ tour d'esprit 性格

一方の心平は、

 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。
 (略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。
      (心平 「大いなる手」昭和43年=1968)

とのことでした。


そんな二人をそばで見ていらした、当会顧問・北川太一先生のお言葉。

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高村さんと話をしていると、ふと草野さんの名前が出る。そんな時、いつも高村さんの顔にうかぶ微笑の、いかにもあたたかく、楽しげな表情を忘れない。「こんどの日曜に草野君とNHKの対談をやるんだそうで、草野君が引受けてきてしまった。断わると草野君の会計にひびくんでね」。文字にすればそっけない言葉の裏側の無類のいつくしみと信頼を、なんだかねたましく感じたものだ。
(北川太一「高村光太郎との断片」 平成2年=1990 『歴程』心平追悼号)

こと光太郎に関する限り、心平は両肌ぬぎで事に当った。光太郎を記念する仕事のいつも中心にいた。その間にも見た、惚々するような笑顔と怒り。光太郎が残したものを正しく伝えるために、最も親しい友とも一度ならず争った。
(略)
ひとかけらの私心もない、光太郎のためのいちずな怒りは、結局、相手も傷つけなかった。
(北川太一「人と作品 心平と光太郎」
 平成2年=1990 『わが光太郎』文庫版)

僕の掌はいつもはっきり覚えている。光太郎の大きな、つつみこむようなあの掌と、何度も何度も光太郎のことを遺託した心平の、厚く、熱く、痛いほど強い掌の握力を。
(同前)


と、まぁ、こんな発表をさせていただきました。合間には、二人の肉声や動画を流し、気がつけば85分ほどかかりまして、申し訳なかったのですが、おおむね好評でした。

資料としてお配りした二人の交流年譜(現在、もっとも詳細なものと自負しております)、発表のレジュメ、それぞれ残部があります。ご入用の方はこちらまで。


【折々の歌と句・光太郎】

弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
明治42年(1909) 光太郎27歳

誰が、という主語が抜けていますが、日本の女性たちが、です。

一昨日、昨日、それから7月にもこのコーナーでご紹介した、欧米留学からの帰朝直後、日本女性に対する失望を露わにした連作の一つです。

100年前はいざ知らず、現今は女性たちも大活躍ですね。昨日の研究会にも、各地から才媛の皆様がご参加下さいました。

光太郎の父・高村光雲作の木彫に関してです。

熱海來宮弁財天「弁天祭」

期  日 : 2016年11月23日(水・祝)
場  所 : 熱海來宮神社内 静岡県熱海市西山町43-1
時  間 : 午後1時30分~

静岡県熱海市に鎮座まします來宮神社さん。その境内に、摂社の扱いの來宮弁財天さんがあり、そちらの例祭です。

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年に一度のこの日、ご神体の弁財天像が御開帳。これが、光雲の作だそうです。

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光雲の彩色彫刻は類例があまりないものです。ただ、信州善光寺さんの山門背面の三面大黒天と三宝荒神(ひな形は史料館)、松島瑞巌寺さんに納められている観音像などにはやはり彩色が施されており、寺社仏閣に奉納されたものには意外と多いのかも知れません。

上の画像で見ると、袖の襞(ひだ)など、どう見ても本物の布にしか見えませんが、やはり木材なのでしょう。舌を巻かされます。

いろいろ調べておりましたら、昨年の弁天祭の様子が、「熱海ネット新聞」というサイトに掲載されていました。それによれば「一般公開は例祭の時だけとあって芸能関係者も含め、多くの参拝者が訪れた。」とのこと。

今年もどなたか有名芸能人に会えるかも知れません。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと

明治42年(1909) 光太郎27歳

このコーナーで7月にもこのシリーズを何首か紹介しましたが、日本女性に対する失望を露わにした連作です。その失望は貧弱な体格にも向けられています。そりゃまぁ、西洋の女性と比べればそうなのでしょうが……。

日本女子大学校での智恵子の一級上で、卒業後に雑誌『青鞜』を創刊、その表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。学年は一つ上ですが、早生まれということもあって、智恵子と同じく今年が生誕130年にあたり、記念イベント等がいろいろ組まれています。

特に生誕130年とは関係有りませんが、智恵子も登場する新刊を一冊ご紹介します。

週刊 マンガ日本史 改訂版 89号 平塚らいてう 飛び立て「新しい女たち」

2016年11月15日 朝日新聞出版 
シナリオ・004氷川まりね  画・土方悠  
定価 500円(税込み)

新しい時代の「自由」を楽しんでいるかのような明治の女学生たち
しかし彼女たちも卒業すれば親の決めた相手と結婚し夫の家に尽くす日々が待っていた
そんな女学生のひとりだった平塚らいてうは月のように青白い顔をした世の女性たちに高らかに呼びかけた
――元始女性は太陽であった
それは因習から自らを解き放ち女性が「自分らしく」生きるための独立宣言だった

人物クローズアップ 太陽のように光り輝いた「新しい女」
河合敦 歴史コボレ話 平塚らいてうと与謝野晶子
時代スコープ 明治から大正へ 変わりゆく女性の暮らし
インフォメーション 平塚らいてうと女性解放運動をもっと知ろう!


平成22年(2010)刊行のものの改訂復刊です。

お茶の水高等女学校在学中から、日本女子大学校、卒業後に『青鞜』を刊行するまでのらいてうが描かれています。小学校高学年から中学生を対象としているので、漱石門下の森田草平との心中未遂(いわゆる「煤煙事件」)などはスルーされていますが、入門編としては非常にわかりやすく、よくできています。

かつての「歴史マンガ」的なものは、とても大人の鑑賞にたえるものではありませんでしたが、やはり日本の漫画のクオリティの高さが、こういう部分でも好作用をもたらしているようです。

日本女子大学校での智恵子が登場します。完全に悪役顔ですが(笑)。

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もう1件、舞台演劇の公演情報です。

SPIRAL MOON the 35th session「荒野ではない」

期 日 : 2016年11月23日(水・祝)~27日(日)
会 場 : 下北沢「劇」小劇場  東京都世田谷区下北沢2-6-6
時 間 : 11/23(水・祝) 19:30~ 11/24(木) 14:00~/19:30~
      11/25(金) 19:30~
   11/26(土) 14:00~/18:00~ 
      11/27(日) 14:00~
料 金 : 前売3,500円  当日3,800円 未就学児入場不可
主 催 : SPIRAL MOON

むかし、海賊になりたい少女がいた。
少女は生きて、恋をして、書き、子を産み、育て、死んだ。

少女は、ことばをつむぐ場所を用意した。
「青鞜」と名づけられたその雑誌に、多くの女性が集まった。
嘲笑され、痛罵され、石を投げられながら、息をするように、ことばを書いた。

――虐げられ、搾取される者は、ことばを知らねばならぬのよ、
わたしはここにいる、わたしはここにいるって、言つてごらん、
弱くて情けなくて寂しいものは、そうしなきゃ、生きることを許されない。

やがて冒険の果て、それぞれの生の軌跡が離れていくまでの、これは群像劇。
むかし、海賊になりたい少女がいた。

作   波田野淳紘  演出  秋葉 舞滝子

キャスト 河嶋政規 大畑麻衣子 坂田周子 塩見陽子 渡辺幸司 丸本育寿 印田彩希子 野村貴浩 秋葉舞滝子

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らいてうの名がありませんでしたが、問い合わせてみましたところ、やはりらいてうでした。ちなみに残念ながら智恵子は登場しないそうです。


先の米国大統領選挙でヒラリー・クリントン氏が敗北したことにより、「ガラスの天井」という言葉がまたクローズアップされました。性別や人種などを 理由に低い地位に甘んじることを強いられている不当な状態を指す言葉です(まぁ、クリントン氏の敗因は他にも色々あるのでしょうが)。

100年以上前の日本で、「ガラスの天井」に挑んだ人々の物語、もっと取り上げられてもいいような気もします。


【折々の歌と句・光太郎】

女等よ我にをしへよ何物にかへてもこのむ宝てふもの
明治42年(1909) 光太郎27歳

「てふ」は「という」の意。

この年7月、3年半に及ぶ欧米留学を終えて帰国した光太郎の目に映る日本女性は、欧米のそれと異なり、人として生きることに無自覚な、らいてういわくの「蒼白い月」でした。

昨日まで福島相双地域でのレポートを書いておりましたら、その間にも新聞各紙で光太郎に関連するコラムや記事が出ています。

まずは『岩手日報』さんの一面コラム。

風土計 2016.11.13

 色紙を四つ折り、八つ折りにしてはさみで切り抜く。それを広げるとシンメトリー(左右対称)の模様が浮かび上がる。幼い頃、偶然にも魅力的なデザインができたときは、いっぱしの芸術家気分になったものだ
▼切り抜きを芸術の域まで高めたのが、今年生誕130年の高村智恵子。夫の彫刻家、詩人の光太郎は作品を「すべて智恵子の詩(うた)であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世(このよ)への愛の表明である」と書いた
▼2人が合作した唯一の作品「いちご」。水色の台紙に色紙を切り貼りして真っ赤な9つの実、緑色のへた、白い花を表現した。随所に入れた切れ目が立体感を生む。智恵子を思う光太郎の画賛が胸に響く
▼雑誌「青鞜(せいとう)」創刊号の表紙絵で注目された画家の智恵子。しかし、芸術的苦悩や実家の一家離散で心を病み、入院生活を強いられた。作業療法として身の回りの色紙や包装紙を切り抜いて台紙に貼り、多くの作品を残した
▼題材は果物や植物、魚など身近なもの。光太郎は「紙絵」と名付け、戦時中は花巻市などに疎開させて大切に守った。同市の高村光太郎記念館で開催中の紙絵展は、無垢(むく)な作品を目にできる貴重な機会だ
▼紙絵は、光太郎の詩集「智恵子抄」に応える相聞歌との指摘もある。光太郎に作品を見せる智恵子の顔は、恥じらいと喜びに満ちていた。

現在、花巻市郊外の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展、高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵にからめ、智恵子の紙絵をご紹介下さいました。

中ほどに出て来る「いちご」はこちら。

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本土空襲が激化した昭和20年(1945)3月、光太郎の手元にあった1,000点を超える智恵子の紙絵は、山形、茨城、そして花巻の3箇所に分散疎開させました。そして、おそらく戦後になってから、再びまみえたこの紙絵に光太郎が揮毫したものです。

右側に「智恵子遺作切抜絵数種恵存」、左側に短歌「気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすらむ」と署名。「恵存」ということで、花巻病院の佐藤隆房院長に贈られ、現在は花巻高村光太郎記念館さんに収められています。光太郎が智恵子紙絵に何か書き記したものは、確認できている限りこれだけです。

企画展「智恵子の紙絵」は来週23日(水・祝)までの開催です。


続いて、一昨日の『読売新聞』さんの静岡版。

縄文から現代 立体作品160点

◆静岡、きょうから企画展
 縄文時代の土偶(どぐう)や弥生時代の埴輪(はにわ)をはじめ、現代までの立体造形作品を集めた「再発見!ニッポンの立体」(読売新聞社など主催)が15日から県立美術館(静岡市駿河区谷田)で開かれる。14日午後の開会式と内覧会には招待客約200人が訪れ、一足早く作品を鑑賞した。
◆リアルな雰囲気のマネキン
 会場には仏像や彫刻、人形など約160点が展示された。1971年にマネキン会社の造形作家2人が、若者3人が休憩する様子を作品にしたマネキン「仲間」や、食品サンプル、不二家のペコちゃん人形、フィギュアなどが並ぶ。高村光太郎や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)ら著名作家の作品もある。
 展覧会を企画した同館の村上敬・上席学芸員は「準備作業で、現代のフィギュアは近世から明治初期ぐらいの人体造形と類縁性があり、大正から昭和前期の彫刻は違う方向という発見があった」と話し、展示内容の豊富さを強調する。
 妻と2人で会場を訪れた掛川市旭ヶ丘の高校教諭佐藤啓治さん(64)は「昔の若者がたばこを吸う様子のマネキンが展示ケースに入れられずに飾られ、リアルな雰囲気で驚いた」と感想を話した。
 来年1月9日まで開催。月曜休館(1月2、9日は開館)。一般1000円、70歳以上500円、大学生以下無料。開館時間は午前10時~午後5時半(入室は午後5時まで)。問い合わせは同美術館(054・263・5755)。


過日ご紹介した静岡県立美術館さんでの企画展「再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで」の紹介です。

光太郎、光雲の作品が2点ずつ展示されています。


さらに、訃報が1件。

新派俳優の英太郎氏死去

 英太郎氏(はなぶさ・たろう、本名大久保秋久=おおくぼ・あきひさ=新派俳優)11日午後11時、虚血性心不全のため東京都内の自宅で死去、81歳。
  新潟県出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妹大久保サチ子(おおくぼ・さちこ)さん。
  52年に新派の名女形だった初代英太郎に弟子入りし、新橋演舞場で初舞台。師匠の死後、73年に二代目英太郎を襲名し、新派唯一の女形として芸の存続に努めた。今年9月の新橋演舞場、大阪松竹座での「深川年増」のおよし役が最後の舞台となった。
(時事通信 2016/11/13)

スポーツ紙系の方が詳しく載っています。

英太郎さんが死去 81歳、虚血性心不全 新派の女方

009 新派の女方として長く活躍した俳優の英太郎(はなぶさ・たろう、本名大久保秋久=おおくぼ・あきひさ)さんが11日午後11時、虚血性心不全のため都内の自宅で死去したことが13日、わかった。81歳。新潟県出身。通夜は19日、告別式は20日に都内で、家族葬として営まれる。喪主は妹の大久保サチ子(おおくぼ・さちこ)さん。別途、お別れ会を開く予定。

 英さんは1935(昭和10)年、料亭・芝居小屋の家に生まれた。52(昭和27)年、新派の名女方だった初代英太郎に弟子入りし、「築地明石町」で初舞台。65年、幹部昇進。師匠の死後、73年に二代目英太郎を襲名した。

 新派唯一の女方として、女方芸の向上と存続に努め、13年には「FULL HOUSE」で米オフ・オフ・ブロードウェイ出演。今年9月の新橋演舞場・大阪松竹座「九月新派特別公演」での『深川年増』のおよしが最後の舞台となった。主な受賞に松尾芸能賞演劇特別賞、菊田一夫演劇賞、芸術祭賞。

 今年9月、新橋演舞場、大阪松竹座「九月特別新派公演」での『深川年増』のおよしが最後の舞台となった。
(『デイリースポーツ』 2016/11/13)


そのお名前が記憶にあり、調べてみたところ、昭和46年(1971)の「新派十一月公演」でした。

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昼の部で、北條秀司脚本、初代水谷八重子さん主演の「智恵子抄」が演目に入っており、第四幕、智恵子が心を病んで入院したゼームス坂病院でのシーンに、「老婆の患者」役で英太郎さんの名。

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しかし、45年前に「老婆」というのもおかしい、と思って調べてみると、これはこのたび亡くなった方ではなく、初代の英太郎さんでした。

ところが、このたび亡くなった二代目英太郎さん、旧芸名の「大久保彰久」で出演されていました。役名は「声楽家の患者」でした。

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手元に脚本もありましたので、読み返してみました。ただ、そういう時代だったと言ってしまえばそれまでですが、精神疾患に対する偏見が色濃い脚本で、「何だかなあ」という感じでした。

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何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

ひとり出でゝ高嶺の夜に嘯けば星斗爛干月落ちんとす
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「嘯けば」は「うそぶけば」。「ばかにする」とか「大言壮語」的な「うそぶく」ではなく、「鳥獣が吠える」の意で使っていると思われます。「爛干」は「闌干」とも書き、星や月の光があざやかなさまを指します。

少し前に「スーパームーン」だったのですが、残念ながら当日には見えませんでした。今夜はしし座流星群の出現が極大です。

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母星であるテンペル・タットル彗星が通過した直後の平成13年(2001)には1時間当たり数千個が見えましたが、このところは1時間に数個というところでしょう。

数年前、福島川内村での「かえる忌」に参加した際、見えた記憶があります。

11/13(日)、前日泊まった川内村をあとに、いわき市へ向かいました。この日行われた、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で、卓話(講話)を仰せつかっていました。

国道399号で1時間弱、目指すいわき市小川地区の草野心平生家に到着。

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標高も高くなく、海も遠くないので、川内村と比べるとまだ紅葉もそれほど進んでいませんでした。

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卓話のためにパソコンやプロジェクタ、スクリーンなどをセッティングした後、すぐ近くの常慶寺さんへ。心平やその関係者の墓参です。

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心平生家に戻り、ふるまわれたお粥(心平粥)とお餅(心平餅)を戴きました。

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お腹もふくれたところで、開会。主催者あいさつに続き、当方の卓話でした。

題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。大正14年(1925)に、詩人・黄瀛の仲介で出会った二人は、忽ち意気投合、以来、光太郎が歿するまでの30年あまり、深い交流が続きました。さらに、光太郎歿後も、心平は自身が亡くなるまでのやはり30年あまり、当会の祖として、さまざまな光太郎顕彰に取り組みました。

そこには2人の天才の、お互いの芸術世界、そしてその人間性に対する深いリスペクトがあったと言えます。そのあたり、今週末に行われる第61回高村光太郎研究会でも発表いたします。それが終わりましてから、詳細をここに書きましょう。

さて、当方の卓話の後、地元小中生の皆さんによる「第8回 草野心平ふるさとの詩けるるんくっく発表会表彰式」。小学4年生と中学2年生を対象に広く募った自作の詩のコンクールです。

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心平をはじめ、実弟の草野天平、猪狩満直、三野混沌など、独特な詩人を輩出したいわき。その魂を受け継いでいって欲しいものですね。

終了後、このイベントの共催に名を連ねているいわき市立草野心平記念文学館さんへ。館長さんや学芸の方々とお話しさせていただき、さらに、開催中の企画展「寂聴 愛のことば展」を拝見しました。

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心平と瀬戸内寂聴さんは、いろいろな部分で交流無題がありましたが、2人をつないだキーパーソンの一人が、田村俊子です。俊子は智恵子と同じく初期『青鞜』メンバー。そして智恵子と最も親しかった人物です。

心平は戦時中に俊子と中国で出会っていますし(ことによると共通の友人であった光太郎智恵子の話題も出たかも知れません)、寂聴さんは評伝的小説『田村俊子』で昭和36年(1961)、第一回田村俊子賞を受賞しています。その賞状は心平が扇子に揮毫し、鎌倉東慶寺の俊子碑の前で、心平から贈呈されました。

そのあたりに関する展示も為されており、また、心平から寂聴さんに贈られた『実説智恵子抄』(昭和50年=1975)、それに対する寂聴さんから心平への礼状なども並んでいました。

また、東日本大震災直後に被災者の皆さんにあてたメッセージなども展示されており、それぞれ興味深く拝見しました。

今週末までの開催です。

そんなこんなで福島相双地域を後に、帰って参りました。

まだまだ震災からの復興の道のりは険しいと感じました。しかし、心平の詩に表された生命賛歌の精神や、光太郎詩に謳われた開拓の精神を一つの糧に、歩み続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

くれなゐのさてはみどりの黄朽葉(きくちば)のつひに真白の我なり世なり

明治34年(1901) 光太郎19歳

東北から南関東に帰って参りましたら、こちらでも紅葉が進んでいました。じきに白い霜がおりるのでしょう。

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自宅兼事務所の裏山です。

先週土曜日、南相馬をあとに、一路、双葉郡川内村に向かいました。この日は夕方から、当会の祖・草野心平を顕彰する「第6回天山・心平の会 かえる忌」でした。

会場は村中心部の小松屋旅館さん。敷地の奥にある「酒房天山」がメイン会場です。

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この辺りまで来ると標高が高く、海沿いの地域よりも紅葉が進んでいます。南天の実も赤く色づいていました。

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地元や東京方面から、心平ファン、それから変な云い方ですが、川内村ファンの皆さんがご参集。心平の愛した濁り酒を愛でつつ、心平について、川内村について、色々と語らいました。

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主宰の天山心平の会・井出茂氏。小松屋旅館のご主人。右は川内村遠藤村長。

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当方、他用のため昨年のかえる忌、それから同じ川内村で夏に行われる心平が愛した天山祭りも今年は欠礼したので、御無沙汰していました。遠藤村長とは、昨年冬に上野精養軒でお会いしましたが。

この日は、かつて心平が光太郎歿後の昭和35年(1960)、新宿に開店したバー「学校」の、「第3次開校式」も兼ねました。第1次が昭和35年の心平存命時。その後、心平が歿し、最初の「学校」を手伝っていた方が新宿ゴールデン街に第2次「学校」を開き、しかしそれも3年前に「閉校」。そして今年、「酒房天山」の中にカウンターを設け、第3次「学校」が作られました。

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囲炉裏を囲んで談話。その後は鍋や蕎麦などが振る舞われました。

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夜も更けて、この日は小松屋旅館さんに泊めていただきました。

翌日は、川内村から1時間弱のいわき市にある心平生家で「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」。当方が卓話(講話)を仰せつかっており、そちらが11時半からということで、朝はゆっくり散歩したりしました。

標高が高い分、冷え込みました。車のフロントガラスはバキバキに凍っていました。

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旅館にほど近い川内小学校の裏山の紅葉。

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そのまま歩いて、心平が蔵書を寄贈して作られ、ある意味心平の別荘としても使われた「天山文庫」まで歩きました。こちらの紅葉も実に見事でした。

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その他、いかにも「日本の原風景」といった景観がそちこちに。

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しかし、ここは理不尽な「人災」からの被災地です。それを憤る気持ちを忘れてはいけないと思いました。

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新しい店舗も増え、着々と復興が進んでいますが、失われたものもたくさんあったわけで……。

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何はともあれ、さらなる復興へと進んでいってほしいものです。

小松屋旅館さんの酒房天山の襖に書かれた、市民ランナー・川内3兄弟のサイン。長兄の優輝選手が特に有名ですね。

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それぞれいい言葉です。川内村へのエールとして受け止めたいものです。

明日はいわき市編です。


【折々の歌と句・光太郎】

ちさき神もみぢに泣きしあしたより冬の御駕(みくるま)鞭くははりぬ

明治33年(1900) 光太郎18歳

「ちさき」は「小さい」、「あした」は「朝」。

北日本は一足早く冬の支度が着々と進んでいます。

一昨日から昨日にかけ、福島浜通り相双地域に行っておりました。

当会の祖・草野心平を顕彰する川内村での「第6回天山・心平の会 かえる忌」、及びいわき市の草野心平生家での没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」出席のためでしたが、他にも足をのばして参りました。

まずは、圏央道、常磐道と乗り継ぎ、川内村へ行くには常磐富岡インターで下りますが、一つ先の浪江インターまで行って、南相馬市南部の小高地区を目指しました。

そのあたり、今年の7月になって、ようやく原発事故からの避難指示が解除された区域です。しかし、いまだにそれが解除されていない区域も近くにあります。

道々、目に映る光景はこんな感じでした。


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ナビの指示通りに行こうとすると、通行止めになっている箇所がまだありました。何でもない農村風景も広がっているのですが……。

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浪江町と南相馬市の境界あたりでは……

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一見、のどかな放牧風景に見えますが……

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何やらもめている気配ですね……。

さて、南相馬市小高区に入り、目的地に着きました。これです。

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昭和30年(1955)に建立された「開拓碑」。光太郎詩「開拓十周年」が刻まれています。筆跡は光太郎のものではありませんが。

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長い詩なので、三段にわたっています。

 開拓十周年
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 赤松のごぼう根がぐらぐらと
 まだ動きながらあちこち残つていても、
 見わたすかぎりはこの手がひらいた
 十年辛苦の耕地の海だ。
 
 今はもう天地根元造りの小屋はない。
 あそこにあるのはブロツク建築。
 サイロは高く絵のようだし、
 乳も出る、卵もとれる。
 ひようきんものの山羊も鳴き、
 馬こはもとよりわれらの仲間。
 
 こまかい事を思いだすと
 気の遠くなるような長い十年。
 だがまた、こんなに早く十年が
 とぶようにたつとも思わなかつた。
 はじめてここの立木へ斧を入れた時の
 あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。

 歓迎されたり、疎外されたり、
 矛盾した取扱いになやみながら
 死ぬかと思い、自滅かと思い、
 また立ちあがり、かじりついて、
 借金を返したり、ふやしたり、006
 ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
 開拓の精神にとりつかれると
 ただのもうけ仕事は出来なくなる。
 何があつても前進。
 一歩でも未墾の領地につきすすむ
 精神と物質との冒険。
 一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
 開拓の鬼となるのがわれらの運命。
 食うものだけは自給したい。
 個人でも、国家でも、
 これなくして真の独立はない。
 そういう天地の理に立つのがわれらだ。
 開拓の危機はいくどでもくぐろう。
 開拓は決して死なん。
 
 開拓に花のさく時、
 開拓に富の蓄積される時、
 国の経済は奥ぶかくなる。
 国の最低線にあえて立つわれら、
 十周年という区切り目を痛感して
 ただ思うのは前方だ。
 足のふみしめるのは現在の地盤だ。
 静かに、つよく、おめずおくせず、
 この運命をおおらかに記念しよう。


碑が建てられた同じ昭和30年(1955)に岩手県盛岡市の県教育会館で行われた、岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。詩を作ったのは、結核による死の半年前。かつて岩手の太田村で、自らも開拓にあたったり、開拓農民と親しく交わったりした経験を下敷きにしています。

雑誌等に掲載された記録が確認できていませんが、どうやら光太郎の詩稿を凸版印刷した一枚物が作成され、全国の開拓関係者に配布されたらしいことはわかっています。

それを読んで感動したのでしょうか、ここ小高区の金房開拓農業協同組合として、この碑を建立したというわけでしょう。中心人物が平田良衛という人物だったと判明しましたので、今後、光太郎との関わりなど、少し調べてみるつもりです。

それにしても、この地の現状と対比すると、胸が痛みます。


この碑、十数年前に見に行き、今回が2度目でした。海からは遠いので、津波の被害は心配ありませんでしたが、地震の揺れ自体で倒壊していたりしていないだろうかなどと思い、以前にも相馬方面に用があった際に、見に行こうと思ったのですが、前述の通り、今年の夏まで近づけませんでした。もしかすると、行けるだけは行けたのかも知れませんが、通行止めなどのオンパレードで断念しました。

正式に光太郎文学碑として建立されたものではありませんが、光太郎生前の数少ない(確認できている限りでは三基)詩碑の一つです。健在だったので安心しました。

ところが、周囲は前述のような状況です。避難指示が解除になったといっても、ほとんど人に会うこともなく、すれ違う車も除染作業などの関係ばかりでした。

しかし、この詩の精神を踏まえ、また再びこの地を新たに開拓していって欲しいものです。

昔のこの碑の写真と比べると、碑全体がきれいになっているように感じます。もしかすると、地元の皆さんがこの詩の精神を踏まえ……と考えて下さっているのかも知れません。


被災地がこういう状況でありながら、日本政府はインドへの原発輸出を可能にする原子力協定に調印しました。安全神話で作られたメルトダウンする原発、処理に何万年もかかる使用済み核燃料、いまだに故郷に帰れない多くの人々、事故が起きれば取り返しが付かない現実……あきれてものも言えません……。


明日は双葉郡川内村をレポートします。


【折々の歌と句・光太郎】

月黒く大河の上に人の血の流るる世なり魔神の世なり
明治33年(1900) 光太郎18歳

「魔神の世」と感じる福島南相馬でした。

先ほど、1泊2日の行程を終えて、福島相双地区より帰って参りました。充実の2日間でして、レポートは明日以降、ゆっくり書かせていただきます。

今日は新刊書籍の紹介を。

日本の書

2016年11月1日 手島𣳾六氏著 産経新聞出版 定価1,852円+税

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書には日本人の「心」と「技」が宿っている。

聖徳太子の書から、空海、西行、定家、 一休、白隠、良寛、吉田松陰、 西郷隆盛、高村光太郎、魯山人、川端康成……。

古今の能書42作品を、わが国を代表する現代書家が、 美しい図版とともに丁寧に紹介。A5判・上製・オールカラー!

【登場する人物】
 ■第一章 古代篇
 聖徳太子、光明皇后、最澄、空海、嵯峨天皇、橘逸勢、菅原道真、小野道風、藤原佐理、
 藤原行成、紀貫之、西行
 ■第二章 中世篇
 藤原定家、伏見天皇、親鸞、日蓮、道元、大燈国師、一休
 ■第三章 近世篇
 近衛信尹、本阿弥光悦、小堀遠州、荻生徂徠、白隠、池大雅、仙厓、良寛、吉田松陰
 ■第四章 近代篇
 三輪田米山、西郷南洲、中林梧竹、副島蒼海、日下部鳴鶴、比田井天来、尾上柴舟、
 豊道春海、會津八一、高村光太郎、北大路魯山人、小倉遊亀、川端康成、手島右卿

《古来、自然に富んだ清明な気候風土に住む日本人は緻密な観察と工夫によって独自の文化を作り上げてきた。つまり、季節感と心が一体となって独自の美しい書を醸成してきたのである。それ故、日本の書は「清明の中にある」と言っても過言ではあるまい。書の妙技、巧拙を含め「清明」にこそ日本の書の真髄が宿っていると言えよう。》(序文より)


平成24年(2012)から今年にかけ、『産経新聞』さんに連載されていた同名のコラムの単行本化です。

光太郎の項は、昨年10月3日に掲載されました。昭和に入ってからの光太郎の揮毫「うつくしきものみつ」についてです。

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昨年、NHKさんで放映された生涯教育番組「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」の中で、書家の石川九楊氏がしみじみと述べられていましたが、光太郎の書は、鑿や彫刻刀でぐいぐい刻んで行くような書です。

やはりそうした解説になっています。

他にも古今の名書がオールカラーで紹介され、眺めていると不思議と心落ち着けられる書籍です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

浅草の千束町の銘酒屋の二階の窓の小春日のいろ

明治42年(1909) 光太郎27歳

今日は福島でも、日向にいると暑さを感じるくらいの小春日和でした。

画像はいわき市の草野心平生家前の、見事なケヤキの大木です。青空に黄葉のコントラストがきれいでした。

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今月7日にNHKラジオ第二で放送された「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」」の再放送があります。  

カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス

NHKラジオ第2  2016年11月14日(月) 午前10:00~午前10:30(30分)

この番組では、NHKが保有する貴重な「ラジオ・アーカイブス」の中から、作家を中心にセレクトし、懐かしい声を蘇らせます。自作朗読や文学・人生談義などを語る作家らの人間味あふれる魅力を肉声を通して伝えていきます。

「朝の訪問」(1952年3月30日放送)聞き手・詩人の真壁仁(花巻市にて)
彫刻家で詩人の高村光太郎(1883-1956)。彫刻家・光雲の長男に生まれ、東京美術学校を卒業し、欧米留学。帰国後、駒込にアトリエを開いた。長沼智恵子と結婚し、その死別後に詩集『智恵子抄』を出版した。戦後は岩手県花巻郊外の山荘で独居自炊生活を送った。今回の番組は1952年3月に放送した「朝の訪問」で、この山荘での生活ぶりや十和田湖畔に作った「乙女の像」について語っている。聞き手は詩人・真壁仁。

出演 大村彦次郎(元・文芸誌編集長) 宇田川清江アナウンサー

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7日の本放送を拝聴しました。光太郎と真壁仁の対談は11分ほどで、前後半に分けて流されました。その前後と合間に、雑誌『婦人倶楽部』、『小説現代』、『群像』などの編集に当たられていた大村彦次郎氏の解説が入ります。なかなかよく調べられており、感心させられました。

ただ、解説ではなく、番組としての説明の中で、録音場所を花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)と説明していましたが、花巻温泉の松雲閣別館の誤りです。

一般の方は、なかなか光太郎の肉声録音を聴ける機会はないと思いますので、ぜひお聴き下さい。


もう一件、訃報です。

りりィさん死去=64歳、「私は泣いています」の歌手、女優

009 「私は泣いています」で知られる歌手で女優のりりィ(本名鎌田小恵子=かまた・さえこ)さんが11日午前、肺がんのため死去した。
  64歳だった。福岡市出身。葬儀は近親者のみで行う。
  1972年デビュー。女性シンガー・ソングライターの先駆けとして注目され、74年に出したシングル「私は泣いています」が大ヒットした。女優としても活動し、映画「夏の妹」(大島渚監督)などに出演。近年も映画「パークアンドラブホテル」(熊坂出監督)に主演した他、「3年B組金八先生」「半沢直樹」「ラヴソング」などテレビドラマにも多数出演した。
  長男のJUONさんはミュージシャンで、「DREAMS COME TRUE」の吉田美和さんの夫。 
(時事通信 11/11(金) 13:42配信)


昨年公開された小栗康平監督映画「FOUJITA」に出演されていました。同映画は、光太郎と東京美術学校西洋画科で同級生だった画家・藤田嗣治を主人公とし、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中に使われていました。

りりィさんの役は、戦時中に藤田が疎開していた先の農家の主婦・「おばあ」。加瀬亮さん演じる小学校教師の息子に召集令状が届き、戦争画の制作などで国策協力をしていた藤田は複雑な思いで彼を見送る、という設定でした。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、当方、本日から1泊2日で福島浜通りに行って参ります。今日は川内村での「第6回天山・心平の会 かえる忌」、明日はいわき市の草野心平生家で没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」に出席します。「心平忌」の方では、講話を仰せつかっております。

帰りましたらレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うすぐらき二階にならぶCOGNAC(コニヤツク)の瓶に火をもすCINEMA(シネマ)の明り                          
明治42年(1909) 光太郎27歳

舞台は浅草と思われますが、ことによるとこの年7月まで過ごしたパリを回想しているのかも知れません。   

りりィさんの歌にでも出て来そうな、アンニュイな雰囲気ですね。

明治44年(1911)、智恵子がその創刊号の表紙絵を描き、平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」、与謝野晶子が「山の動く日来る」と高らかにうたった雑誌『青鞜』。

主宰のらいてうも、智恵子と同じ明治19年(1886)生まれで(早生まれのため学年は一つ上)、今年が生誕130年に当たり、いろいろと顕彰行事が行われています。

そんな中から二つ

平塚らいてう生誕130周年記念シンポジウム ~それぞれの言葉で語る「平和」から″わたしたちの現在(いま)″を考える~

期  日 : 2016年11月19日(土)
会  場 : 主婦会館プラザエフ 東京都千代田区六番町15
時  間 : 13:30開会
料  金 : 一般2,000円 学生1,000円
主  催 : NPO平塚らいてうの会 03-3818-8626

パネリスト : 
 ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)
 青井未帆(学習院大学教授)
 米田佐代子(NPO平塚らいてうの会会長)
 
らいてう生誕130年、らいてうの家オープン10年の現在、「戦争法」を廃止させ、平和憲法を守り、戦争や暴力で傷つけられた女性の尊厳を回復することができるのか-それが問われています。らいてうのめざした「女性がつくる平和社会」を実現するために、わたしたち一人ひとりは何をすべきでしょうか。
アメリカと日本の2つの国をみつめてきた日本文化研究者のノーマ・フィールドさんをシカゴからお迎えし、憲法学者と女性史研究者とともに語り合うつどいを企画しました。
ごいっしょに、それぞれの言葉で“わたしたちの現在(いま)”を考えましょう。
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大統領選挙でトランプ氏が勝利し、今後の日米安全保障の在り方も不透明な中、タイムリーな企画ですね。

当方、残念ながら「第61回高村光太郎研究会」と日程が被っており、参加できませんが。


もう1件、一転してほのぼの系(脱力系?)の企画です

文京・谷中・三崎坂 江戸ろまん坂物語 江戸ろまんウォーク~霜月の章~ 朝活コース 元始 女性は実に太陽であった ~青鞜社街道~

文京・谷中・三崎坂 江戸ろまん坂物語 江戸ろまんウォーク~霜月の章~ 朝活コース 元始 女性は実に太陽であった ~青鞜社街道~
人気スマートフォンアプリねこあつめとコラボレーション! この秋、街は猫づくしに!

地図を片手に、新たな街の魅力を探しに行きます。朝、昼、夜…いつもとは違う時間に街を歩けば、違った景色を発見できるかもしれません。

定員400 名(事前申込制)・参加無料・雨天決行・自由歩行

期 日 : 2016年11月26日(土)
時 間 : 8:45から出発式 ゴール受付11:00~12:30
コース : 文京グリーンコート→団子坂→播磨坂さくら並木→傳通院→源覚寺→東京ドーム
      →江戸川橋地蔵通り商店街 (約10.5㎞)

お申し込みは、お電話またはインターネットから
■江戸ろまんウオーク〜霜月の章〜 
■坂物語イベント事務局 03-6672-6392(平日11:00〜16:00)
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文京区商店街振興組合連合会さん、谷中銀座商店街振興組合さん、谷中三崎坂商店組合さんがタッグを組み、文京・谷中・三崎坂商店街エリアに江戸時代から100 以上残る「坂」をテーマにしたイベント『文京・谷中・三崎坂 江戸ろまん坂物語』が11/5(土)から開催されています。

このエリアには“街ねこ”で有名なスポットが多いことから、累計1900 万DLのスマートフォンアプリ「ねこあつめ」とコラボレーションし、地域の魅力をPRするそうです。

ちなみに6月に娘が拾ってきた猫。大きくなりました。寒くなってきたので、ニャンモナイトになっています(笑)。
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シャッター音で起こされて不機嫌す(笑)。

【折々の歌と句・光太郎】021

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯
昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での作。

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。みちのくの長く厳しい冬の象徴ですね.。


「稗の飯」は光太郎、実際に結構好んで食べていたようです。旧太田村、花巻市に編入されるまでは「稗貫郡」の一部で、その名の通り、周辺で稗の栽培が盛んに為されていました。

まずは先週土曜日の『福島民友』さんの記事。

【二本松】洋風七味『智恵こしょう』販売 「お肉やスープでいかが」

 二本松市のにほんまつ観光協会(安斎文彦会長)は、同市出身の洋画家高村智恵子の夫・光太郎の詩集「智恵子抄」をもじった洋風七味「智恵こしょう」(内容量10グラム、税込み600円)を売り出している。
 こしょうやハーブソルト、ローズマリー、唐辛子などをブレンドした。県立霞ケ城公園で23日まで開催中の「二本松の菊人形」会場で開かれる紅葉まつり(5、12、13、20の各日)で販売する。
 二本松観光大使の女優大山采子さんは「お肉に振り掛けてもおいしいし、スープにしても香ばしい」と笑顔を振りまき、PRしている。

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観光大使の一色采子さん(本名・大山采子さん)、相変わらずご活躍です。

「智恵こしょう」、一昨年ぐらいには既に売り出されていたような気がするのですが、良しとしましょう。

察するに、現在開催中の「二本松の菊人形」会場で見かけた記者さんが、「これは面白い」と、取り上げて下さったのではないでしょうか。

菊人形といえば、テレビでCMが流れていて驚きました。昨年の智恵子人形も映っていました。11/23迄の開催です。




11/11 追記 地元の方より、菊人形会場でのイベント情報をお知らせいただきました。下記「コメント」欄、ご覧下さい。


続いて、7日の『毎日新聞』さん。以前にも続けて光太郎が引き合いに出された、俳句に関するコラム「季語刻々」です。 

季語刻々 2016年11月7日

五郎丸のポーズをみんな冬来る 児玉硝子(がらす)

 季語「冬来る」は立冬を指す。今日が立冬だが、硝子さんの句では、みんながいっせいに五郎丸ポーズをとって冬を迎えている感じ。彼女は大阪市に住む私の俳句仲間。では、高村光太郎の詩「冬が来る」の第一連をどうぞ。「冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る」。この冬に私も五郎丸ポーズで向き合いたい。さあ、来い、冬よ。<坪内稔典>


もう立冬が過ぎたか、という感じです。当方、光太郎と違って冬の寒さには弱いので、「まだ秋でいいじゃん」という感覚ですが(笑)。


もう一件、予告です。

『朝日新聞』さんの土曜版に、2ページにわたり「みちのものがたり」という連載が為されています。毎回、全国のさまざまな「道」を取り上げ、それにまつわる人間ドラマを紹介しています。

明後日、11/12の「みちのものがたり」は、青森県の八甲田・十和田ゴールドラインが取り上げられます。予告によれば「明治、大正期の文人・大町桂月が愛し、終生の地とした名湯、蔦温泉があります。」とのことです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、もともと十和田湖の国立公園指定15周年記念に、大町桂月ら、十和田湖の紹介、開発に功績のあった3人を顕彰するモニュメントとして企画されました。桂月が取り上げられるということで、光太郎や「乙女の像」にも言及していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

オベリスク金にかはれてアメリカの町に立つかよ此のオベリスク 

制作年不詳

舞台はニューヨークのセントラルパーク。エジプトから運ばれて建てられたオベリスクを詠っています。

明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ留学中の経験を下敷きにしている詩「象の銀行」にも、このオベリスクが使われます。大正15年(1926)の作。

  象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。009
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


もともとは西洋的唯物主義、行き過ぎた資本主義、帝国主義への警句として書かれた詩です。しかし、のちに昭和19年(1944)になって、単に光太郎に人種的劣等感を植え付けた当時の敵国・アメリカへを批判している点から、翼賛詩集『記録』に収められるという韜晦が為されました。

その際に付された前書きにはこのように書かれています。

大正十五年二月作。明治三十九年夏から冬筆者は紐育市西六五丁目一五〇番にある家の窓の無い天井裏の小さな部屋に住んでゐた。光線は天井の引窓から来た。市の中央公園が近いのでよく足を運んだ。そこには美術館もあつた。小さな気のきいた動物園もあつた。埃及から買取つたオベリスクも立つてゐた。みな金のにほひがしてゐた。

アメリカ大統領選挙、トランプ氏の勝利に終わりました。ヒスパニック系の人々などが、光太郎と同じような「憤り」を感じないようなアメリカであってほしいものですが……。ましてや「ジャップ」という語がまたまかり通るようになるのも困りものです。

会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00(入場は16:30まで)
料 金 : 一般1000(800)円、大学生800(600)円 *( )内は20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者の方、県内に在学中の外国人留学生は無料
      11/26、12/24は「紀陽文化財団の日」として大学生無料
休館日 : 月曜日(月曜日が祝日又は祝日の振替休日となる場合は開館 次の平日休館)
      年末年始(12月29日から1月3日まで)

大正初期、大きな転換期を迎えた日本の美術を、影ながら動かした知られざる人物がいます。和歌山市に生まれた北山清太郎(きたやませいたろう)(1888–1945)がその人です。
北山は、美術雑誌『現代の洋画』や『現代の美術』等を出版して西洋の美術を盛んに紹介するとともに、岸田劉生や木村荘八ら、若い洋画家たちの活動を、展覧会の開催やカタログの出版などを通して献身的に支えました。その篤い支援に感謝した画家たちは、北山をパリでファン・ゴッホら多くの若い画家たちを支援した、画材商のペール・タンギー(タンギー親爺)になぞらえて、「ペール北山」と呼びました。
今回の展覧会では、この北山の活動を手がかりに、大正期の日本を熱狂させた西洋美術と、それに影響を受けながら展開した近代日本の美術を同時に紹介することを試みます。当時の画家たちが、次々と流入する情報から西洋美術の何を学び取り、影響を受けながらもそれをどのように乗りこえ、自らの表現を作り上げるにいたったのか。大正という熱い時代の美術を、改めて検証します。
なお北山は、その後美術の世界からアニメーションの分野へ転身し、ちょうど100年前の1917(大正6)年に、初めてアニメーション作品を発表した日本人3人のひとりとなります。北山は、まさに「絵を動かす」人となったのです。

 プロローグ 動き出す「洋画」 ——北山清太郎と『みづゑ』の時代
 第1章 動き出す夢 ―ペール北山と欧州洋画熱
 第2章 動き出す時代 ―新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽
 第3章 動き出す絵画 ―ペール北山とフュウザン会、生活社
 第4章 動き出した先に ―巽画会から草土社へ
 エピローグ 動き出す絵 ―北山清太郎と日本アニメーションの誕生

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関連行事 

■対談講演会「動く私、動く自画像」
講師:森村泰昌(現代美術作家)×聞き手:熊田司(当館館長)
11月26日(土) 14:00から2階ホールにて(13:30開場、先着120名9:30より受付にて整理券配布)
巨匠と呼ばれる画家の絵に自らなりきる作品を制作してきた森村泰昌さんに、その制作を通して見えてきた作品の魅力や秘密を、当館館長が聞き手となってうかがいます。
巨匠と呼ばれる画家の絵に自らなりきる写真作品を制作してきた森村泰昌さんに、その制作を通して見えてきた作品の魅力や秘密、また本展を観て感じられたことなどを、当館館長が聞き手となってうかがいます。

■手回しアニメフィルム上映・解説会
講師:松本夏樹(映像文化史研究家)
12月23日(金・祝)14:00から2階ホールにて(13:30開場 先着120名 9:30より受付にて整理券配布)
北山清太郎が日本最初のアニメーション作家であることに関連して、当時のアニメーションの上映と解説を行います。

■レクチャーコンサート「出会う!音楽」
講師・ピアノ:松井淑恵(和歌山大学)×ヴァイオリン:日俣綾子
2017年1月8日(日)14:00から2階ホールにて(13:30開場 先着120名 9:30より受付にて整理券配布)
美術と同じように西洋からの影響を受けて展開した近代日本の音楽とアジアからの影響を受けた西洋音楽を、解説つきの演奏で紹介します。

■フロアレクチャー(学芸員による展示解説)
11月20日(日) 12月11日(日) 2017年1月9日(月・祝)14:00から会場にて(要観覧券)

■こども美術館部(小学生対象の鑑賞会)
12月3日(土) 14:00から会場にて(当日開始時間までに要受付)

同時開催:大正の異色画家たち
本展に関連し、大正時代の美術の諸相を、当館コレクションを中心に個人コレクションも交え、紹介します。


光太郎油絵作品、「上高地風景」(大正2年=1913)、「佐藤春夫像」(大正3年=1914)の2点が展示されます。

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特に「佐藤春夫像」は、こうした企画展等で出品されることがあまりなく、貴重な機会です。

009また、北山が編集し、光太郎もたびたび寄稿した雑誌『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』なども。ただし、手にとって読むことは出来ないかとは思われますが。

図録が非常に豪華です。350ページ近くある分厚いもので、載せられている論考も充実しています。

ぜひ足をお運びください。

ちなみに同展は、来年1月28日(土)~3月12日(日)には、山口県の下関市立美術館さんに巡回される予定です。


【折々の歌と句・光太郎】

あたゝかき日かげみちたるおほ空を大き小きあきつむれとぶ

明治33年(1900) 光太郎18歳

「日かげ」は「日陰」ではなく「日の光」の意、「小き」は「ちいさき」と読むべきでしょう。

「あきつ」はトンボです。このところ、めっきり寒くなりつつあり、南関東でこの時期にもよく見られる赤トンボも、今年はあまり目立ちません。

一昨日、文京シビックセンターさんでの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を拝見した後、次なる目的地、豊島区目白に向かいました。

目指すは切手の博物館さん。11/3~6の4日間、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されているという情報を得たためでした。

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観覧料200円(安!)を払い、3階の会場へ。

室内に入ると、周囲の壁には、<著名人の切手原画>というわけで、切手のデザインに使われた著名人の肖像画、それから<風景印の中の有名人>という題で、いわゆる「初日カバー」という、その切手の発行日当日の消印が押された封筒が並んでいます。著名人をあしらった切手、そして押されている消印が風景印――地方局などのオリジナル――というわけです。

展示室中央に平台型のガラスケースが配され、そこに<著名人の手紙>というわけで、10通あまりの書簡が展示されていました。敬称略で高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治、棟方志功、岸田劉生、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎、そして光太郎。

拝見に伺う前、、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性があると思っていましたが、今回もまさにその通りでした。

比較的長命だった上、筆まめだった光太郎ゆえ、こういうことがよくあります。以前にも展示会場に行ってみて、これは新発見だ、ということが何度もありました。


今回展示されていたのは、高崎正男という人物に宛てた、昭和21年(1946)3月のハガキでした。高崎正男という人物については明らかに出来ませんでした。『高村光太郎全集』には名前が見えません。画家の長谷川利行のパトロンだった同名の人物が居ましたが、同一人物とは考えにくいところです。というのは、展示されていた葉書が光太郎の短歌をまとめた歌集出版の提案を却下する内容だったためです。

光太郎、郵便物の授受をかなり克明に記録した「通信事項」というノートが現存しており、昭和21年(1946)の項を見ると、3月20日に「高崎正男氏へ返ハカキ」の記述があります。まさに展示されていたハガキです。ところが遡って見ても、高崎からの受信記録がありません。受信の記録がないのに返信の記録だけ、というのも奇妙な話です。

さらに調べてみると、3月18日に「六都書房からテカミ」という記録がありました。「六都書房」という出版社は存在せず、「六都書店」の誤りのようで、ここはこの年に、光太郎とも交流のあった竹内てるよの歌集『永遠の花』を刊行している版元です。短歌をキーワードとして捉えると、高崎はこの六都書店の編集者なのでは、と推定できます。確定ではありませんが。

こういうところで色々と推理を働かせるのも、光太郎研究の醍醐味の一つです。

ちなみにハガキの文面に「先日も、養徳社といふところから同様の事を申してまゐりましたが、やはりお断りしました。」という一節がありました。「養徳社」は奈良に本社を置く出版社で、前年に吉井勇編『現代名歌選』を上梓、光太郎短歌「海にして……」も収録されています。この年2月には、養徳社の喜田聿衛にあて、同書受贈の 礼と、やはり歌集出版申し出に対する断りがしたためられています。こちらは『高村光太郎全集』収録済みです。

おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。吉井勇さんの「現代名歌選」は忝く拝受しました。

短歌に対する光太郎のスタンスはこういうことでした。

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ところが、翌年には詩人の宮崎稔(智恵子の最期を看取った姪・春子の夫)が、光太郎の承諾を得ず、半ば強引に光太郎の歌集『白斧』を刊行してしまっています。これにはさすがに光太郎も怒ったようですね。


さて、切手の博物館さんでは、今回の展示とリンクした書籍を刊行されました。

著名人の切手と手紙

2016年11月20日 平林健史他編 一般財団法人切手の博物館発行 ㈱郵趣サービス社発売 定価926円+税

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第一章 著名人の手紙
高峰秀子、三船敏郎、大河内傳次郎、森雅之、芥川比呂志、円谷英二、棟方志功、岸田劉生、上村松園、前田青邨、竹内栖鳳、高村光太郎、川端康成、高浜虚子、司馬遼太郎、著名人似顔絵館

第二章 日本うたよみ紀行
宮沢賢治、竹久夢二、夏目漱石、芥川龍之介、岡本かの子、正岡子規、川上音二郎、南方熊楠、白瀬矗、日本切手のなかの著名外国人

第三章 文化人切手ゆかりの地を往く
樋口一葉・森鷗外、九代目団十郎・野口英世、坪内逍遙・木村栄、寺田寅彦・内村鑑三

第四章 切手人名録 著名人226名の横顔
芸能人、文学者、芸術家、学者・思想家ほか、切手に最も多く登場する著名人・前島密、政治家・軍人ほか、アスリート、歴史上の人物(江戸時代以前)

第五章 切手の博物館ガイド

展示されていた光太郎のハガキについても紹介されています。また、光太郎肖像が使われた平成12年(2000)発行の「20世紀デザイン切手」についても。

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同館で販売していますし、Amazonにもアップされていました。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

今にして弱くねぢけしわかき日のおぞのすがたを見ておどろかず

昭和18年(1943) 光太郎61歳

009光太郎の歌集は、上記『白斧』以外にも、遠く大正4年(1915)に与謝野晶子とのセットで刊行されています。

前年に刊行された第一詩集『道程』と同じ版元、抒情詩社からで、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』。

社主で詩人でもあった内藤鋠策が、やはり半ば強引に出版したものですが、光太郎の窮乏を救う意味合いで、売れっ子の晶子とセットにしたそうです。

時を経て昭和18年(1943)、詩人の風間光作から、この旧著にサインを求められ、扉に上記短歌を揮毫しました。

「おぞ」は「おぞましい」の「おぞ」。ただし、「おどろおどろしい」という意味よりは、古語「おぞし」としての「強情だ・気が強い」「ずるがしこい」的なニュアンスではなかろうかと思われます。

昨日は都内で2箇所、企画展示を見て回りました。

まず、文京区さん主催の「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」。

会場は、文京シビックセンターさん。東京メトロ後楽園駅の目の前です。区役所や音楽ホール、展望ラウンジまで入っている施設です。
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1階に、アートサロンという展示スペースがあり、そちらが会場でした.。
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入ろうとしたところで、現・髙村家ご当主で、写真家の達氏、お姉様の朋美さんとお会いしました。お二人のお父様で光太郎の令甥・規氏亡き後、こうした企画にご理解を示され、ご協力を惜しまれていません。

お二人とお別れし、受付でパンフレット2種類を拝受。入場無料ですし、パンフレットももちろん無料です。

下記はカラーA3判二つ折りのメインのパンフレット。

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もう一つ、今回の企画展を含む、「文の京ゆかりの文化人顕彰事業」としてのパンフレット。こちらはA4判三つ折りです。

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見開きの面に、今回の展示に関しての記載。賢治と光太郎智恵子の紹介です。

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さて、展示は、4章に分け、それぞれ10枚ほどのパネルが掲げられています。「もの」としての展示は、ブロンズの「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」中型試作が一体、光太郎詩稿複製が2点、『宮沢賢治全集』と『高村光太郎全集』のみ。基本的にはパネル展示です。ただ、パネルに画像が多用され、光太郎智恵子と賢治の生涯などが俯瞰できるようになっています。
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第1章が「少年賢治と青年光太郎(1883年~1914年)」。形成期の光太郎・賢治が語られます。第2章は「文京の地で(1915年~1922年)」。千駄木林町での光太郎智恵子の生活、さらに賢治も本郷菊坂に暮らしていた時期があり、そこにスポットが当たります。

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第3章に「交錯する賢治と光太郎(1923年~1933年)」。二人が唯一会った大正15年(1926)前後。智恵子と賢治の死……。第4章には「光太郎と宮沢家(1934年~1956年)」。賢治歿後の宮沢家と光太郎の結びつき、岩手花巻への疎開、「乙女の像」制作と進んでいきます。

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合間に光太郎・賢治と関わった文京区ゆかりの文人の紹介も。夏目漱石、森鷗外、佐藤春夫、大町桂月等。

光太郎・賢治の関係年譜も。

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パネルの解説文、なかなかよくまとまっていました。

しかし、惜しむらくは会期が短いこと。昨日始まって、14日の月曜までです。それが終わると、力作のパネルなどはどうするのだろうと思いました。どこかにスペースを設け、常設展示でもいいかと思えるようなものです。

このあたり、ゆかりの文人を多数抱える文京区さんならではの課題ですね。

さて、会期は短いのですが、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

皿にもりしもつさう飯をもくふものか鏡にうつるおのが顔見つつ

大正13年(1924) 光太郎42

「もつさう飯」は「物相飯」。茶の湯の点心などで饗される、花などの型にはめてかたどったかわいらしいものを指すこともありますが、全く逆に、牢屋敷で囚人に与えたものを指す場合もあります。

おのが貧しさを自虐的に詠っている連作の一首ですので、後者の意味でしょう。

静岡から企画展情報です。7月から9月にかけ、群馬県立館林美術館さんで開催されていた企画展の巡回となります。ちなみに来年1月末からは、三重県立美術館さんに巡回します。

再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで

期 日 : 2016年11月15日(火)~2017年1月9日(月・祝)
会 場 : 静岡県立美術館  静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 午前10時〜午後5時30分(展示室への入室は午後5時まで)   
休館日 : 毎週月曜日 (祝日・振替休の場合はその翌日) 12/26~1/1
料 金 : 一般 1,000円(800円)  70歳以上 500円(400円)
      ( )内団体料金  大学生以下無料

古来、日本では仏像、神像、人形、置物、建築彫物など様々な立体造形がつくられてきました。
しかし、それらは西洋的な彫刻の概念に基づくものではなく、また西洋的な芸術鑑賞の対象でもありませんでした。
そのため、その多くは西洋的な彫刻とは異なるものとみなされて、いわゆる美術(ファイン・アート)としては位置づけられてきませんでした。近年、日本近代彫刻史の再検討が盛んに行われる中で、こうした日本の前近代以来の立体造形が改めて注目されています。この展覧会ではこういった成果をうけて、彫刻、工芸など従来のジャンル分けを越え、より自由な視点から日本の立体造形を紹介いたします。
主に近世から現代に至る多彩な日本の立体造形作品を紹介しながら、日本における「彫刻」と「工芸」という二つの分野の関わり、西洋的彫刻世界と前近代的造形世界を往還するわが国独特の感性について考えていきたいと思います。

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関連行事 

 特別対談 サブカルチャーからニッポンの立体を考える」
  工藤健志氏(青森県立美術館 学芸主幹)× 村上 敬(当館上席学芸員)
  12月4日(日)14:00〜15:30 場所:館講堂
 
 フロアレクチャー
  学芸員による解説 11月27日(日) 12月11日(日)いずれも14:00から30分程度
  集合場所 : 企画展第1展示室 申込不要、要観覧料


光太郎のブロンズ彫刻が2点、展示されるとのことです。京都国立近代美術館さん所蔵の「裸婦坐像」(大正6年=1917)、そして神奈川県立近代美術館さん所蔵の「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。

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光雲の木彫作品も展示されます。「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)です。共に京都の清水三年坂美術館さんの所蔵です。

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「江口の遊君」は、謡曲「江口」で、西行法師と歌問答をしたとされる遊女の妙(たえ)―実は普賢菩薩の化身―です。同じモチーフで複数の彫刻を作った光雲ですが、これは類例がほとんど無いのではないかと思われます。

同館は、光太郎が敬愛したロダン彫刻の収集に力を入れており、ずばり「ロダン館」という棟もあります。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

強きこといくたび言へどいかがせんひもじき時は金欲しとおもふ

大正15年(1926) 光太郎44歳

その通りです、光太郎先生(笑)。

気付くのが遅れ、もう始まっています。

切手の博物館開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」

期  日 : 2016年11月3日(木・祝)~11月6日(日) 
会  場 : 切手の博物館 東京都豊島区目白1-4-23
時  間 : 10:30~17:00
料  金 : 大人:200円、小中学生:100円   障がい者の方は無料

著名人たちの直筆の手紙や、切手原画が大集合。名優や大作家、歴史の偉人たちと郵便にまつわる貴重な展示です。

<著名人の切手原画> 著名人の切手原画を展示予定です。所蔵先、郵政博物館。
 野口英世、夏目漱石、福沢諭吉、正岡子規、岡倉天心、宮沢賢治ほか

著名人の手紙>展示内容 ※展示内容は変更になる場合があります。
 映画・・・高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治
 画家・作家・・・棟方志功、岸田劉生、高村光太郎、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎

<風景印の中の有名人>展示内容 ※展示内容は変更になる場合があります。
 石川啄木、福沢諭吉、野口英世、徳川光圀、小野小町、宮本武蔵ほか

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というわけで、光太郎の書簡も展示されているようです。誰に宛てたいつのものかなど、詳細は不明ですが、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性もあります。

4日間だけの開催、もったいないような気がしますが……。

たまたま11/6は、隣接する文京区、文京シビックセンターさんの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を見に行く予定でしたので、こちらにも廻ってみます。

レポートはのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

金あらば金をかへしてあなにやしこんな仕事は止さましものを
大正15年(1926) 光太郎44歳

このところ続けてご紹介してきた「腹が減る」シリーズの亜流ですね。「~ば~まし」は反実仮想。「あなにやし」は「ああ、なんと すばらしいことよ」。

「充分な金さえあれば、もらった金を叩き返し、こんな仕事はやめて、すっきりするものを……」といったところでしょうか。

この頃、俗物と蔑むような成金からの肖像彫刻の依頼があったりし、そのあたりに関わりそうです。

期 日 : 2016年11月20日(日)
時 間 : 午後1時30分から
会 場 : 福島県男女共生センター 二本松市郭内一丁目196-1
講 師 : 宮川菊佳氏 (ギタリスト)
参加費 : 1,000円
問い合わせ/申し込み : 智恵子のまち夢くらぶ ☎0243(23)6743

主催は「智恵子のまち夢くらぶ」さん。当方も何度か講師を仰せつかりました。昨年からの通しで「高村智恵子に影響を与えた人々」がテーマ。昨年、第4回までが行われ、今年は第5回からのカウントで、そちらは先月10日、喜多方市美術館館長の後藤學氏による「セザンヌと後期印象派」として行われました。

第6回の講師はギタリスト・宮川菊佳氏。毎年、宮城女川で開催されている「女川光太郎祭」で演奏されています。一昨年には、やはり二本松で開催された「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」で、朗読とのコラボをされました。そうしたご縁での講師起用のようです。


二本松がらみでもう1件。市の広報誌『広報にほんまつ』今月号に、現在開催中の「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -」、「第62回菊の祭典 二本松の菊人形」の記事が掲載されました。

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ビエンナーレは11/6(日)、菊人形は11/23007(水・祝)までの開催です。

ビエンナーレでは智恵子生家にて、小松美羽さんの墨絵作品が展示中、菊人形では光太郎智恵子の人形が並んでいます。


ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へるはきよらかにして好ましと我がかたりつつ友の飯くふ

大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎、決してストイックというわけではなく、むしろ「食」へのこだわりは晩年まで持ちつづけていました。

といっても、美食三昧というわけではありませんでしたが。

青森県の地方紙、『東奥日報』さんの一面コラム、一昨日掲載の分です。 

天地人 2016年11月1日(火)

 散り落ちた木の葉が道端に点在していた。大きな木のそばでは、葉の吹きだまりも見える。頬に触れる風が冷たい。拙宅のある青森市郊外の団地は晩秋を通り越し、はや初冬の気配である。季節の移ろいの早さを、あらためて実感する。
 きょうから11月。7日は「立冬」である。俳句では「冬立つ」とも言い、何だか寒さへの覚悟を求める響きがある。
 彫刻家で詩人の高村光太郎は詩集「道程」の一編に<きっぱりと冬が来た>と書いた。高村にとって、冬は格別の季節だったようだ。別の一編にはこうある。<冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る><魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る>。
 冬は<魂をとどろかして>やって来る<力の権化>だという。高村が吐いた言葉をまともに受け取ると、気が重くなる。雪国に暮らす以上、過酷な冬はどうしたって避けて通れない。ならば、どうする。食に楽しみを見いだす手もある。ホカホカの鍋料理なら、ポカポカと体が温まり、気分も癒やされる。
 手ごろな一番手はやはり湯豆腐か。土鍋の底に板昆布を敷き、賽(さい)の目に切った豆腐を入れる。ネギのほか、好きな具材があれば魚でも何でも入れられる。<湯豆腐が煮ゆ角々が揺れ動き>山口誓子。豆腐は安価な上にタンパク質が多い。冬にはもってこいの健康鍋だ。


東北も北の方では、既に雪の便りが届いています。北国や雪国では、長く厳しい冬の始まりなのですね。比較的温暖な房総に暮らす身には、申し訳ないような気がします。べつに罪を犯しているわけではありませんが(笑)。

ただ、青森の、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、十和田湖周辺、まだ紅葉が楽しめるようです。

テレビ放映情報です。

L4YOU! 『絶景!秋の青森~奥入瀬渓流の紅葉~』

テレビ東京 2016年11月9日(水)  15時55分~16時54分 

紅葉の見頃を迎えた日本屈指の景勝地、奥入瀬渓流を散策!秋に彩られた渓流と十和田湖、さらにライトアップされた弘前城へも足を伸ばします。今しか見られない絶景をご紹介

出演者
【司会】 草野満代、板垣龍佑(テレビ東京アナウンサー)
【ゲスト】  細川直美、中島史恵


「乙女の像」が少しでも写るといいのですが……。

テレビ東京さんですと、全国的には系列局が少なく、視聴可能な地域が限定されますが、ご覧になれる方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりて死ぬこともあらん銭といふわりなきものをいやしむるゆゑ
大正13年(1924) 光太郎42歳

少し遅れて昭和6年(1931)に書かれた詩に、以下のものがあります。


   美の監禁に手渡す者
アトリエの光太郎智恵子
納税告知書の赤い手触りが袂にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。
売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。
両立しない造形の秘技と貨弊の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。
がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。


光太郎、大正末から昭和初めは彫刻制作で脂ののった時期でしたが、そこに大きな矛盾を感じていました。光太郎の彫刻を買ったり、肖像制作を依頼したりする余裕のある者の多くは、光太郎の嫌いな俗世間での成功者で、真に芸術を理解しているかどうかあやしいと感じていたのです。

この詩では、自分が精魂込めて作った彫刻が、そういう者に「監禁」されること、その「監禁」に手を貸さざるを得ないことに対する嘆きが語られています。

年に一度開催されている高村光太郎研究会の季節がやって参りました

第61回高村光太郎研究会

期 日 : 2016年11月19日(土)
時 間 : 午後2時から5時
会 場 : アカデミー茗台 7F 学習室A  
      東京都文京区春日2‐9‐5 東京メトロ丸の内線茗荷谷下車

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参 加 費 : 500円

<研究発表>
「詩人 宮崎稔―その基礎的考察①―」  高村光太郎研究会会長 野末明氏
「高村光太郎と草野心平 魂の交流」    高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明


毎年ご案内していますが、この会は昭和38年(1963)に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」を前身とします。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、現在は年に一度、研究発表会を行っています。以前は年間数回、勉強会のような形で行われていたようで、そこで61回という回数になっています。

今回は、当方も発表を行います。ちょうど一週間前に、福島県いわき市の草野心平生家において「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」が開催され、やはり当方が講話を仰せつかっています。その内容をベースにした発表です。心平忌の方は一般向け、こちらは研究者向け、という感じです。

ほぼ毎年、この世界の第一人者にして晩年の光太郎本人を知る、当会及び高村光太郎研究会顧問・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。

特に事前の参加申し込み等は必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。終了後には懇親会もあります。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりぬ米(よね)をくれよと我も言ふ人に向はずそらにむかひて
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日から始めまして、しばらく「腹の減る」シリーズの短歌をご紹介します。

大正末期、智恵子も比較的健康で、光太郎は詩文に、彫刻に、充実した毎日を過ごしていました。しかし、赤貧というほどではないにせよ、充分な収入があったとは言い難く、このシリーズの短歌につながっています。

空といえば、昨日の千葉、午前中はまとまった雨でしたが、午後からは晴れ間が広がりました。夕方にはまた彩雲が見えました。

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ラジオ放送の情報です。光太郎生前の肉声が流れます。 

カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」

NHKラジオ第2  2016年11月7日(月) 午後8:30~午後9:00(30分)

この番組では、NHKが保有する貴重な「ラジオ・アーカイブス」の中から、作家を中心にセレクトし、懐かしい声を蘇らせます。自作朗読や文学・人生談義などを語る作家らの人間味あふれる魅力を肉声を通して伝えていきます。

「朝の訪問」(1952年3月30日放送)聞き手・詩人の真壁仁(花巻市にて)
彫刻家で詩人の高村光太郎(1883-1956)。彫刻家・光雲の長男に生まれ、東京美術学校を卒業し、欧米留学。帰国後、駒込にアトリエを開いた。長沼智恵子と結婚し、その死別後に詩集『智恵子抄』を出版した。戦後は岩手県花巻郊外の山荘で独居自炊生活を送った。今回の番組は1952年3月に放送した「朝の訪問」で、この山荘での生活ぶりや十和田湖畔に作った「乙女の像」について語っている。聞き手は詩人・真壁仁。

出演 大村彦次郎(元・文芸誌編集長) 宇田川清江アナウンサー


「NHKラジオアーカイブス」。当方寡聞にして、現在こういう番組が放送されていることを存じませんでした。NHKさんならではの貴重な取り組みですね。

今回放送される光太郎の肉声は、光太郎が花巻郊外太田村に在住時の昭和27年(1952)、やはりNHKラジオで放送されたものです。3月27日に、山形出身の詩人・真壁仁との対談で、花巻温泉の松雲閣別館で録音されました。オンエアは3月30日でした。

これに先立つ3月21日には、太田村の山小屋(高村山荘)に、建築家の谷口吉郎、詩人の藤島宇内が、佐藤春夫からの手紙を携えて訪ねてきています。青森県で計画が進んでいた、十和田湖の国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼のためです。これが「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」として結実します。

対談の中で、「十和田湖」「裸婦像」といった単語は出て来ませんが、既に光太郎、乗り気になっていることがわかります。「今年あたりからいよいよ始まるですな、仕事が。」「これからは無駄なことをしないで猛烈にやるつもりですよ。」といった発言が見られます。

この対談、NHKサービスセンターさんの発行、BMGビクターさんの発売で、平成8年(1996)にCD化されています。

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他に昭和30年(1955)の草野心平との対談、自作詩朗読、それから室生犀星の肉声も収録されています。

文字にも起こされており、筑摩書房『高村光太郎全集』第11巻に収められています。

さて、「NHKラジオアーカイブス」。ラジオがうまく受信できないという方も、最近はよくしたもので、インターネットでリアルタイムの聴取が可能です。スマートフォン、タブレット、もちろんパソコンで、「NHKネットラジオらじる★らじる」のページからです。

また、リアルタイムで聴けなくとも、ストリーミングというわけで、過去の放送が聴けるようになっています。いずれ光太郎の回もアップロードされるでしょう。

ぜひお聴き下さい。


ラジオついでにテレビの件を。

昨日、とちぎテレビさん制作の「とちぎ発!旅好き! 感動!歴史と伝統の街~福島県二本松市~」が、提携している千葉テレビさんで放映されたので、拝見しました。

智恵子の故郷・二本松を取り上げるもので、光太郎智恵子にからむ内容かどうか、観るまでわからなかったのですが、いきなり冒頭近くで取り上げて下さいました。

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また、現在開催中の菊人形に関しても。

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当方は初日にお伺いしましたが、その際にはなかった光太郎人形が、智恵子人形の傍らに立っています(右の画像)。

その他、グルメ情報なども満載でした。

提携関係にある以下の各局で、これから放映されます。該当地域の方、ぜひご覧下さい。

群馬テレビ 2016/11/05(土) 午前11:30~
KBS京都  2016/11/06(日) 午前9:30~

埼玉のテレ玉さん、兵庫のサンテレビさんも提携はしているのですが、特別番組等のため、この回の放映はないようです。


また、年に1~2回、再放送されている2時間ドラマの放映もあります。

浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎

BSフジ 2016年11月8日(火)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

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初回放送はもともとは平成18年(2006)。岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりてさびしくなりぬ空を見ん十一月のうらけき空を
大正13年(1924) 光太郎42歳

今日から11月ですね。関東は「うらけき空」とはいかず、雨模様です。

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