2016年10月

九州福岡から、昭和32年(1957)に封切られた熊谷久虎監督、原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」上映情報です。 

特別企画 原節子特集

  期 : 平成28年11月2日(水)〜11月27日(日)  ※休館日・休映日除く
会  場 : 福岡市総合図書館映像ホールシネラ  福岡市早良区百道浜3丁目7番1号
料  金 : 600円(大人) 500円(大学生・高校生) 400円(中学生・小学生)
※定員制。各回入替制。
※チケットはすべて当日券。前売り券はありません。
※障がい者の方及び福岡市在住の65歳以上の方は300円。(手帳や保険証などの提示が必要です。)

昨年亡くなった日本映画を代表する女優・原節子の特集。追悼1周忌企画。

009上映作品 :
「青い山脈」 「河内山宗俊」 「お嬢さん乾杯」 「晩春」 「麦秋」「山の音」 「東京物語」 「安城家の舞踏会」 「白痴」 「めし」 「智恵子抄」 「驟雨」 「秋日和

「智恵子抄」

11月9日(水)14:00   12日(土)11:00   17日(木)11:00
1957年 35ミリ モノクロ 98分 東宝

詩人・高村光太郎は知人から智恵子を紹介される。詩を読み、油絵を描く智恵子に光太郎は惹かれ二人は結婚する。貧しくとも幸せな生活だったが、智恵子の絵はなかなか評価されなかった。絵が評価されず主婦の仕事もできない智恵子は悩み、次第に精神を病んでいく。本作は二人が出会って智恵子が亡くなるまでを描いている。原節子自身が映画化を望んだと言われており、美しい夫婦愛の物語となった。


一周忌を迎えた原節子さんの追悼特集ということで、今年はあちこちで「智恵子抄」の上映がありました。1月に池袋と川崎5月でやはり福岡小倉7月は鎌倉8月から9月にかけて神保町、そして映画の舞台でもあり、ロケも行われた福島二本松で9月に。そちらは拝見して参りました

お近くの方、ぜひどうぞ。

また、二本松市歴史資料館さんで現在開催中の「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展では、当方手持ちの原節子さん「智恵子抄」関連資料の中から、10数点を展示していただいております。

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こちらは11月27日(日)まで。よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

廃園の三千坪を人買ひて塀などつくり秋たけにけり
大正13年(1924) 光太郎42歳

舞台は光太郎アトリエのあった駒込林町。「廃園の三千坪」は、現在の須藤公園の辺りです。下の画像で「この辺原っぱだった」と丸で囲まれている一角です。光太郎アトリエは左上、実家はそのやや左下、左下隅には青鞜社も入っています。出典は森まゆみさん『「谷根千」地図で時間旅行』。

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同じ「廃園の三千坪」を舞台とした「落葉を浴びて立つ」という長い詩も書かれました。


   落葉を浴びて立つ

どこかで伽羅(きやら)のくゆつてゐるやうな日本の秋の
なまめかしくも清浄な一天晴れたお日和さまよ。鳥かげさへ縦横にあたたかい十一月の消息をちらつかせ、
思ひがけない大きなドンといつしよに、010

一斉に叫をあげる遠い田舎の工場の汽笛が
ひとしきり
空に無邪気な喜の輪をえがいてゐる。
そんな時です、私が
無用の者入るべからずの立札に止まつてゐる赤蜻蛉に挨拶しながら、
三千坪の廃園の桜林にもぐり込んで、
黙つて落葉を浴びて立つのは。

ああ、有り余る事のよさよ、ありがたさよ、尊さよ、
この天然の無駄づかひのうれしさよ、
ざくざくと積もつて落ち散る鏽(さ)びた桜のもみぢ葉よ。
惜しげもない粗相らしいお前の姿にせめて私を酔はせてくれ、
勿体らしい、いぢいぢした世界には住みきれない私である、011
せめてお前に身をまかせて、
くゆり立つ秋の日向ぼつこに、
世もぶちまけた、投げ出した、有り放題な、ふんだんの美に
身も魂もねむくなるまで浸させてくれ。

手ざはり荒い不器用な太い幹が、
いつの間にかすんなり腕をのばして、
俵屋好みのゆるい曲線に千万の枝を咲かせ、

微妙な網を天井にかけ渡す桜林の昼のテムポは、
うらうらとして移るともないが、

暗く又あかるい梢から絶間もなく、
小さな手を離しては、
ぱらぱらと落ち来る金の葉や瑪瑙の葉。012

どんな狸毛で描いた密画の葉も、
天然の心ゆたかな無雑作さに、
散るよ、落ちるよ、雨と降るよ、
林いちめん、
ざくざくとつもるよ。
その中を私は林の魑魅(ちみ)となり、魍魎(まうりゃう)となり、
浅瀬をわたる心にさざなみ立てて歩きまはり、
若木をゆさぶり、ながながとねそべり、
又立つて老木のぬくもりある肌に寄りかかる。

――棄ててかへり見ぬはよきかな、
あふれてとどめあへぬはよろしきかな、
程を破りて流れ満つるはたふときかな、
さあらぬ陰に埋(うづ)もれて天然の素中に入るはたのしきかな――
落ち葉よ、落ち葉よ、落ち葉よ、
私の心に時じくも降りつもる数かぎりない金いろの落葉よ、
散れよ、落ちよ、雨と降れよ、
魂の森林にあつく敷かれ、
ふくよかに積みくさり、 やがてしつとりやはらかい腐葉土となつて私の心をあたためてくれ。
光明は天から来る、
お前は楽しく土にかへるか。
今は小さい、育ちののろいこの森林が、世にきらびやかな花園のいくたびか荒れ果てる頃、
鬱蒼としげる蔭となつて鳥を宿し、獣(けもの)を宿し、人を宿し、
オゾンに満ちたきよらかに荒い空気の源となり、
流れてやまぬ生きた泉の母胎となるまで。

林の果の枯草なびく原を超えて、
割に大きく人並らしい顔をしてゐる吾家の屋根が
まつさをな空を照りかへし、
人なつこい目くばせに、
ぴかりと光つて私を呼んでゐるが、
ああ、私はまだかへれない。
前も、うしろも、上も、下も、
こんな落葉のもてなしではないか、
日の微笑ではないか、
実に日本の秋ではないか。
私はもう少しこの深い天然のふところに落ち込んで、
雀をまねるあの百舌(もず)のおしやべりを聞きながら、
心に豊繞(ほうねう)な麻酔を取らう、
有りあまるものの美に埋もれよう。


秋たけなわとなり、当方自宅兼事務所――三千坪はありませんが(笑)――の木々も色づいてきています。また、裏山の坂道に聳えるイチョウの巨木も。

うっかり紹介を忘れていました。岩手県盛岡市の盛岡てがみ館さんの企画展です。  

第51回企画展「文豪たちの原稿展」

期  日 : 2016年10月25日(火)~2017年2月13日(月)
会  場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
料  金 : 一般:200円(団体160円) 高校生:100円(団体80円)
       ※団体は20名以上からとなります。
11/3は入館料無料、ポストカード進呈

「文豪」たちの名作は,年月を経た今もなお,読者に長く親しまれています。本展では,与謝野鉄幹・晶子夫妻,萩原朔太郎,高村光太郎といった日本の文壇で大きな功績を残した作家のほか,岩手を代表する作家である鈴木彦次郎,森荘己池の原稿を展示します。残された推敲の跡や筆跡など,彼らの直筆原稿から感じ得る「文豪」たちの創作に対する情熱や人柄を紹介します。

〈展示内容〉
○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」
○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」
○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか

関連行事

開催日・期間:11月23日(水・祝) 時間:14:00~ 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:佐々木章行(当館学芸員) 料金:入館料が必要です。
当館学芸員が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の手紙について、解説を加え紹介します。
☆ポストカードプレゼント☆
当日来館したお客様にはポストカードをプレゼントします!

開催日・期間:2017年1月21日(土) 時間:14:00~15:00 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:磯田望(当館館長) 料金:入館料が必要です。
当館館長が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の資料や人物について解説を加え、関連するエピソードを紹介します。


「国民まさに餓ゑんとす」は、敗戦間もない昭和21年(1946)2月、『新岩手日報』に掲載された詩です。

    国民まさに餓ゑんとす
 
  国民まさに餓ゑんとして005
  凶事国内に満つ。
  台閣焦慮に日を送れども

  ただ彌縫の外為すべきなし。
  斯の如きは杜撰ならんや。
  斯の如くして一国の名実あらんや。
  必ずしも食なきにあらず、
  食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
  さきに台閣農人をたばかり
  為めに農人かへつて餓ゑたり。
  みづから耕すもの五穀を愛す。
  騙取せられて怒らざらんや。
  農人食を出さずして天下餓う。
  暴圧誅求の末ここに至り、
  天また国政の非に与せず、
  さかんに雨ふらして大地を洗ひ
  五穀痩せたり。
  無謀の軍をおこして
  清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
  国民軍を信じて軍に殺さる。
  われらの不明われらに返るを奈何にせん。
  国民まさに餓ゑんとして
  凶事国内に満つ。
  国民起つて自らを救ふは今なり。
  国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
  出でて万機を公論に決せよ。
  農人よろこんで食を供し、
  国民はじめて生色を得ん。
  凶事おのづから滅却せざらんや。
  民を苦しめしもの今漸く排せらる。
  真実の政を直ちに興して、
  一天の下、
  われら自ら助くるの民たらんかな。

敗戦後の深刻な食糧事情を題材としています。そしてそのような事態を引き起こした蒙昧な旧軍部の批判。

同館には、『新岩手日報』編集局長だった松本政治に宛て、この詩の原稿を送った際の添え状も所蔵されています。

松本政治様机下
拝啓、先日は此の深い雪の中を遠路御来訪下され且つ御礼の金品までいただいて恐縮に存じました。御依頼の詩篇ともかくも同封いたします。少し長くなりましたが已むを得ません。今日はよほど空気が冷えてゐると見えて萬年筆の工合が悪いやうです。雪はますます深くなります。郵便が遅れるので困ります。御令息にもよろしく。先日は大澤温泉に無事御宿泊ありしや否やとあとで心配いたしました。 とりあえず右まで。
    一月十日夜 高村光太郎

この日の日記には、以下の記述があります。

午后「国民まさに餓ゑんとす」といふ詩を書き終り清書、夜封入テガミを新岩手社の松本政治氏にかく。先日の依頼による。三十五行ばかりになりたり。

それに先立つ一月四日の日記には、

午后テカミ書きの時勝治さんの案内にて新岩手日報社の松本政治氏が長男の朗(アキラ)さんと一緒に来訪。一時間余コタツにて談話。三時過辞去さる。スルメ若干と金百円也とをいつぞやの寄稿のお礼なりとてくれる。詩の寄稿を約束。又細かい吹雪となる。その中を帰つてゆかれる。

 と記されています。

「いつぞやの寄稿」は、前年9月に同紙に掲載された詩「非常の時」を指すと思われます。


また、同館では、常設展示として光太郎詩「岩手山の肩」の原稿も展示していましたが、おそらくそのままだと思います。

同展について、『毎日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

企画展 文豪たちの原稿資料33点を展示 盛岡てがみ館 /岩手

009 岩手にゆかりのある文豪たちの原稿を展示した企画展が、盛岡てがみ館(盛岡市中ノ橋通1)で開かれている。推敲(すいこう)の跡や筆跡から、作家たちの人柄や個性がうかがえそうだ。
 目を引くのが、与謝野鉄幹が石川啄木を回想した原稿用紙23枚。鉄幹主宰の雑誌「明星」に、啄木が投稿した頃から亡くなるまでの出来事がつづられている。
 啄木は歌集「一握の砂」で有名だが、原稿には「君の本領が是れに盡(つ)きたかの如く讀者(どくしゃ)達(たち)に看取(かんしゅ)されることは、私達の遺憾を禁じ得ない」などとあり、鉄幹が啄木の才能を終始高く評価していたことが分かる。
 一方、鉄幹の妻晶子は、子だくさんで家計を担った女性らしく、啄木の服装からその人となりを描写している。学芸員の佐々木章行さん(27)は「二人とも啄木を可愛がっていたが、夫婦で視点が変わるのも面白い」と魅力を話す。
 他には、萩原朔太郎や高村光太郎の原稿や写真など、関連資料33点が並ぶ。
 来年2月13日まで。入館料は一般200円、高校生100円。中学生以下と、盛岡市内の65歳以上は無料。休館は第2火曜日と年末年始。問い合わせは同館(電話019・604・3302)。【藤井朋子】
(2016年10月29日)


岩手つながりで、もう一件、花巻高村光太郎記念館さんで刊行された図録的な書籍『光太郎 1883-1956』について、『朝日新聞』さんの岩手版に報じられています。 

岩手)高村光太郎の足跡を図録に 花巻の記念館で販売

010 花巻市にゆかりの深い彫刻家で詩人の高村光太郎が亡くなってから今年で60年。「花巻高村光太郎記念会」(佐藤進会長)がこのほど、図録「光太郎 1883―1956」を刊行した。花巻市の高村光太郎記念館で販売している。
 1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って花巻の宮沢家に疎開したが、空襲で宮沢家も焼け、同年10月、太田村山口(現・花巻市太田)の山荘に移り、農耕自炊の暮らしを続けた。
 図録は縦横25センチの変形サイズのフルカラー52ページ。冬には零下20度にもなる地域の山荘で、詩作と農耕、自然回帰に没入した光太郎の暮らしと足跡を、当時の写真や花巻市周辺の四季の風景写真を織り交ぜて紹介。記念館に収蔵、展示されている木彫やブロンズ像なども掲載、光太郎と親交のあったゆかりの人たちの「思い出」も収録している。
 記念館は56年の光太郎の没後、ゆかりの人々が発足させた記念会が山荘の近くに設立し、運営してきた。昨年、市営施設として全面リニューアルし、記念会が市の委託で運営している。来館者から「図録がほしい」との要望があり、スタッフが昨年夏から約1年がかりで編集し、5千部限定で発刊した。1部2千円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(溝口太郎)
(2016年10月29日)


監修は当方の名前になっており、8月に手元に届きました。お世話になっている何人かの方々にお送りしましたが、好評です。

同館のみでの販売ですが、ぜひ足をお運び、ご購入下さい。同館では「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」展、来月23日(水・祝)まで開催中です。


【折々の歌と句・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな                        昭和22年(1947) 光太郎65歳

以前にも一首ご紹介した、「七・五」を四回繰り返す「今様」という形式です。花巻の林檎を歌っています。

この歌をしたためた数種類の揮毫が知られています。

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上記『光太郎 1883-1956』に載っているもの。

昭和27年(1952)から同29年(1954)にかけて書かれ、美術史家の奥平英雄に贈られた書画帖「有機無機帖」から。

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こちらには、智恵子の紙絵を模して作られた光太郎の紙絵も添えられています。赤い部分はアメリカ煙草・ポール・モール(ペルメル)の空き箱です。

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今年度の文化勲章、文化功労者の発表があり、小説家の津村節子さんが文化功労者に選ばれました。ちなみに昨年は、光太郎ファンだという染織家の志村ふくみさんが文化勲章を受章されました。

津村さんは平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞されています。平成12年(2000)には、先頃亡くなった平幹二朗さんが光太郎役で、舞台化もされました。

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そうしたご縁で、津村さんには平成10年(1998)の第42回連翹忌にご参加いただいています。平成17年(2005)には、花巻高村祭でもご講演なさいました。

かなり以前から、津村さんは智恵子に言及されていました。

昭和50年(1975)の雑誌『太陽』(平凡社)の光太郎特集号。津村さんの「無垢の美の世界 智恵子の紙絵」が10ページで組まれています。

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昭和54年(1979)には、講談社文庫から『智恵子から光太郎へ』を上梓。前半50ページほどが智恵子紙絵のカラー写真(光太郎令甥の故・高村規氏撮影)と光太郎詩、後半40ページ強が津村さんによる光太郎智恵子評伝です。

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平成7年(1995)には、故・高村規氏、光太郎と親交の深かった詩人の故・藤島宇内氏、当会顧問・北川太一先生との共著で、『光太郎と智恵子』。新潮社さんの「とんぼの本」のラインナップです。津村さんは「光太郎に捧げられた紙絵」というエッセイを寄せられています。

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平成15年(2003)のエッセイ集『似ない者夫婦』(河出書房新社)では、『智恵子飛ぶ』の制作秘話的な「筆を執るまで」、舞台「智恵子飛ぶ」の初演パンフレットに載った「二人が描いた夢」、公演後に書かれた「二人の智恵子」が掲載されています。

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この頃はご主人でやはり作家の吉村昭氏もご存命で、光太郎智恵子と同じ、夫婦同業という葛藤についても述べられています。

舞台「智恵子飛ぶ」は、平成13年(2001)に京都南座で再演。この際の光太郎役は近藤正臣さんでした。こちらのパンフレットには「いま再び」というエッセイが載っています。

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昨年放映されたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」。当方、制作のお手伝いをさせていただきましたが、プロデューサー氏から、光太郎智恵子に詳しい女性のコメンテーターが欲しい、と言われ、迷わず津村さんを推薦しました。

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津村さん、ご出演をご快諾下さり、的確なコメントをなさいました。当時の一般の方々によるSNS等の反応では、津村さんの当を得たコメントを讃える声が目につき、ご紹介して本当によかったと思いました。

ご主人の吉村昭氏を亡くされてからは、加賀乙彦さんとの対談『愛する伴侶を失って』を上梓。逆「智恵子抄」のようでした。また、吉村氏が自作の舞台にされた岩手県田野畑村で、東日本大震災からの復興支援にも取り組まれるなど、エネルギッシュに活躍されています。そのあたりは『三陸の海』というエッセイ集に詳述されています。こちらに両書の紹介を書きました。

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今月に入ってからも、当会刊行の『光太郎資料』第46集をお送りしたところ、ご丁寧なお礼状を賜り、お元気な様子に接し、失礼ながらお歳がお歳だけに案じていたところを安心させられたばかりでした。

これからもお元気で、ますますのご活躍をお祈りいたします。


ついでのような形になって失礼とは存じますが、同時に文化功労者に選ばれました歌人の岡井隆氏。当方、面識はありませんが、ご著書は一冊、拝読いたしました。

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岩波書店さんから平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。題名の通り、近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

併せて受賞をお慶び申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

町ふるきパドアに入れば林檎市     明治42年(1909) 光太郎27歳

秋も深まり、梨の旬はそろそろ終わって、林檎が美味しい季節になりました。

当方、父親が信州の出で、幼い頃から信州の親戚が作った林檎を食べて育ち、現在も一年365日のうち360日くらいは林檎を口にしています。旅先でも可能な限り買い求め、林檎そのものが手に入らないときも、コンビニで林檎入りヨーグルト、それもダメなら100%林檎ジュースを購入します。

今も信州の親戚、さらに時折、東北の知己の方々から林檎が送られてくることがあり、有り難い限りです。別に送れ、と催促しているわけではありませんが(笑)。

「パドア」はイタリア北部の街。現在は「パドヴァ」と表記するのが一般的なようです。この年、留学先のパリからスイス経由でイタリア旅行に行った際の作です。

光太郎ゆかりの地として、毎年「女川光太郎祭」が開催されている宮城県女川町がらみで2件。

まずは東日本大震災で大きな被害を受けた女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」のDVDが発売されます。  

サンマとカタール~女川つながる人々

【発売日】 2016年11月9日(水)※レンタル同時リリース
【発売元】 TBSサービス
【価  格】 3,000円+税
【販売元・お問合せ先】
TCエンタテインメント(株)商品サポートセンター TEL:03-3513-9090
(受付時間:月〜金 10時〜13時/14時〜17時 ※土日祝日を除く)

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当方、映画館での上映テレビ放映を拝見しましたが、何度観ても熱い思いにさせられます。

直接、光太郎に関わる内容にはなっていませんが、ぜひお買い求め下さい。


もう1件、テレビ放映情報です

小さな旅 心に花を~宮城県女川町

NHK総合 2016年10月30日(日)  8時00分~8時25分
      再放送 11月5
日(土) 5:15~5:40 (地方によって異なります)

宮城県女川町は水産業のさかんな港町。震災後の復興をめざし、若者を中心とした町づくりが進んでいます。実は女川は、600種類以上の山野草が自生する、植物の宝庫。ふるさとの風景や大切なものを失った人々が、身近にある自然に心を癒やされています。震災前と変わらずに山の草花に出会う人、花を育てることで励まされ、生きてきた夫婦など、自然に勇気づけられながら、復興に向かう人たちと出会います。

語り 山田敦子

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こちらも直接光太郎に関わる内容にはならないかとは思いますが、ご覧下さい。

東日本大震災から5年半。いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。

その後も各地で大雨や大地震による被害が出ています。そういった地域のモデルケースともなるのではないでしょうか。

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【折々の歌と句・光太郎】

一心に絵具をぬれば自由画のわが家の屋根に太陽がのる

大正15年(1926) 光太郎44歳

一昨日からご紹介している、近所の千駄木小学校の児童と思われる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

小さな子どもの描く風景画には、赤い太陽がつきものですね。しかし、そうした風習が根付いたのはいつ頃のことなのかと、ふと思いました。「太陽は赤い」という概念は世界共通ではありません。

日本画の世界では赤い太陽も早い時期から描かれており、その影響なのでしょうか。

昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。

リーチ先生

2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税

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版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。      

帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”

広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。


バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。

一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。

はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。

滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。

その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

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画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。


さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。

その期待に違わないものでした。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介(上記写真にも写っている森田亀之助がモデルになっている部分もありますが、あくまで原田さんの創作した人物)を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。

明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。

そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。

ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。

とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。光太郎、光雲、光太郎実弟の豊周も登場します。

特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。

また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、近所の千駄木小学校の児童と思わ000れる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。

子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。

そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。

プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。

「芸術の秋」、というわけで、光太郎、光雲、智恵子、それぞれの名が少しずつ新聞各紙に出ています。 

まず『産経新聞』さんから2件。

1件目は、東京ステーションギャラリーさんで開催中の企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」の紹介です

「動き出す!絵画 ペール北山の夢」 気鋭、洋画家の活動を支援

 「動き出す!絵画 ペール北山の夢」という展覧会が東京ステーションギャラリー(東京都千代田区)で開かれている。タイトルから動きのある映像的な作品を想像してしまうが、展示されているのは100年ほど前の絵画を中心にした作品だ。
 椅子に腰掛ける女性が荒々しい筆致と強烈な色彩で描写された萬鉄五郎の「女の顔」。和装に異国的な毛皮の襟巻きという取り合わせに西洋文化への憧れがみてとれる。絵の具を厚く塗り固め重厚感のある岸田劉生の「黒き帽子の自画像」は、23歳のころの作。すでに文展に入選し、画家として生きる決意の表情が堅牢(けんろう)な画面の中にうかがえる。
 彼らのような気鋭の洋画家の活動を手助けしたのが、ペール北山と呼ばれた北山清太郎(1888?1945年)だ。明治時代末から大正時代にかけて、北山は美術雑誌『現代の洋画』を発行。ルノワールら印象派をはじめとする西洋美術とともに、日本の若手画家の紹介に尽力した。
 また、高村光太郎らが結成し新進画家の発表の場となった「ヒユウザン(後にフュウザン)会」や、劉生が主宰していた「草土社展覧会」を、資金や運営の面から支えていた。北山は彼らのパトロン的な役割を果たしていたことから、パリでゴッホらの支柱となった画材商のペール・タンギーにちなみ、ペール北山といわれ親しまれていた。
 明治末には、文芸雑誌『白樺』が創刊され、セザンヌやルノワールら最新の美術を紹介。大正時代になると西洋留学した芸術家らが本場の美術を伝えた。萬のキュビスム的作品「もたれて立つ人」や劉生の写実を極めた「道路と土手と塀(切通之写生)」など重要絵画が誕生した時代だった。「印象派やポスト印象派から刺激を受け、大正期の絵画は大きく動いた。変革をもたらした画家たちの背後にいた北山の役割は重要」と同ギャラリーの田中晴子学芸室長。展覧会タイトルにはそんな意図が込められている。
 後に北山は、美術界を離れ、アニメーション制作に没頭。日本アニメの創始者の一人といわれる。本展では、これまでほとんど知られなかった北山の活動にスポットを当て、北山と関わりのあった画家を紹介。木村荘八や椿貞雄ら希望に満ちた若き画家たちや、日本の画家に衝撃を与えたゴッホやゴーギャンの作品が同時に展示され、熱い時代の雰囲気を伝えている。約130点の展示。(渋沢和彦)
(2016/10/13)

同展は11/6まで。

続いて、今日から始まる大阪堺市の河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」について

「河口慧海」生誕150年 チベット潜入、3年にわたる日記の実物を初公開 愛用のチベット語辞書やくりぬき日記帳も

 明治時代、日本人として初めてヒマラヤ山脈を越え鎖国状態のチベットに入った堺出身の僧、河口慧海(えかい)の生誕150年を記念した「慧海と堺展」が26日から12月4日まで堺市堺区の複数の会場で開かれる。潜入から脱出までを現地で記した明治33、34、35年の3年にわたる日記の実物が、初めて一般公開されるほか、愛用のチベット語辞書や、親友に送った中央をくりぬいた日記帳、彫刻家の高村光雲に制作を依頼した仏像など貴重な品々が並べられる。
  慧海はチベットに2回入っているが、33~35年の日記は1回目の潜入から脱出までの体験を記す。35年の日記は今年8月、東京の親族宅で見つかり当初から全17ページの公開が決まっていたが、以前に発見された33年と34年の日記も、生誕150年を記念し公開することになった。
  日記は33年3月10日から35年8月17日までで、計91ページ。33年は4ページ、34年も4ページを見開きで見せ、両年のほかのページは冊子状のまま展示。35年は17ページすべての記述を公開する。
  日記は、墨で横書きされ、漢字とカタカナでびっしりと記入。慧海は37年に体験をもとに「西蔵(チベット)旅行記」を口述筆記で著した。チベット入りは密入国だったため、具体的な行程にふれていなかったが、33年の日記に詳細なルートの記述があり、潜入ルートが判明した。このほか、ネパール人女性に恋心を抱かれたことなど、人間的な姿も垣間見られる。脱出のくだりでは、関所で薬を買う急用があると嘘をついて突破したことや、人事を尽くして天命を待つ心境などが記されている。
  愛用のチベット語辞書は、2回目のチベット入りを終え日本への帰路についた大正4年に、同行した恩師のインド人学者から譲り受けた蔵英辞典。堺市によると、慧海はこの蔵英辞典を使い、蔵日辞典を編纂(へんさん)するために研究を重ねたが、実現できずに他界。辞書には、チベット語や英語、日本語でびっしりと書き込みがある。
  このほか、中央がくりぬかれた日記帳も展示される。慧海が、2回目のチベット入り直前に堺の親友に送ったもので、くりぬき部分には、事前に送っていた遺書などが入った箱を開けるための鍵を入れていたとみられている。堺市文化財課の担当者は「2回目のチベット入りも決死の覚悟で、確実に届けるためだったのではないか」と説明する。
  高村光雲が制作した仏像は「釈迦牟尼(しゃかむに)仏像」(高さ12・4センチ)。慧海が光雲に要請して昭和3年に制作されたことはわかっているが、詳しい経緯は不明。
  日記と仏像、蔵英辞典は堺市博物館(午前9時半~午後5時15分、月曜日休館)で展示。くりぬき日記帳は山口家住宅(午前10時~午後5時、期間中無休)で。清学院(午前10時~午後5時、期間中無休)でも手紙が公開される。
  問い合わせは堺市文化財課(電)072・228・7198。
(2016/10/19)


それから智恵子、『福島民報』さんから。こちらも開催中の福島ビエンナーレがらみです 

【福島ビエンナーレ】未来の才能に出合う

 福島現代美術ビエンナーレが二本松市で開かれている。国内外から出品されたさまざまな分野の作品を公共施設や店舗に展示する。若い作家らが個性を競う。芸術の「今」に触れるとともに新たな才能との出合いを楽しみ、育てる機会としたい。
 ビエンナーレは2年に一度の美術展覧会のことで、県内では福島大教育学部が改編された平成16年、美術を学ぶ学生の力を地域のために生かし、新しい文化を発信しようと始まった。福島市、福島空港、喜多方市などを会場に続いてきた。住民とともにつくる地方発の美の祭典は、全国に知られるようになった。
 今回はオノ・ヨーコさんら著名人をはじめ、約80人が制作した絵画や立体、映像など約150点を大山忠作美術館、県立霞ケ城公園の菊人形会場、智恵子の生家、安達ケ原ふるさと村など13カ所に展示している。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故に触発された社会性のある作品も並ぶ。福島大の学生らも出展し運営を手伝っている。
 まだ無名の若手芸術家にとって、画材などの購入負担はなかなか大変だ。創作意欲が高いほどお金もかかる。人によっては制作に月10万円ぐらいを費やす。作品公開の場が少なく、売ることも難しい。学生の多くは塾講師や飲食店などのアルバイトで賄う。
 最大の励みは、多くの人が作品を鑑賞し評価してくれることだという。美術ファンはもちろん一般市民や観光客らの目に触れるビエンナーレは最高の舞台といえる。第一線で活躍する作家と同じ場所に並ぶのは大きな刺激になる。
 凄艶[せいえん]な女性の絵で話題を集める日本画家松井冬子さんの作品が大山忠作美術館に展示されている。8年前、初めて福島に出品したことを画集に記録している。有名芸術家の略歴に福島の出展歴が載ることは、美術ファンに対する福島の絶好のアピールになる。
 異世界の生き物を描いて人気の銅版画家小松美羽さんは智恵子の生家で、上川崎の和紙を使い、ふすま絵を公開制作した。生命力あふれる画面が見る人を引き込む。ビエンナーレ実行委員長の渡辺晃一福島大教授はこれを機に、智恵子の生家を若い女性芸術家が作品を発表する拠点にできないか-と考えている。「福島から羽ばたいた作家が増えることは、福島の大きな財産になる」とみるからだ。
 芸術の秋、各地で美術展が開かれている。福島で育つ若い才能に声援を送ろう。未来に輝く原石が見つかる。今の若者が考えている世界を知る機会にもなる。(佐藤克也)
(2016/10/19)

造形作家として大成することを夢見ていた智恵子の精神を受け継ぐためにも、「智恵子の生家を若い女性芸術家が作品を発表する拠点にできないか」という提言には、耳を傾ける余地がありますね。

小松美羽さんの作品についてはこちら


『読売新聞』さんでは、光雲の弟子筋に当たる平櫛田中について

平櫛田中の幻の彫刻、孫落札…100年以上不明

003 東京都小平市の平櫛田中(でんちゅう)彫刻美術館で、100年以上行方不明となっていた彫刻家・平櫛田中(1872~1979年)の代表作「尋牛じんぎゅう」が公開されている。
 田中の孫の同館長・平櫛弘子さん(76)がオークション会社から鑑定依頼を受けたことで存在が分かり、平櫛さん自ら落札した。
 「もしかしたら、あの『尋牛』かもしれない」。昨年4月、鑑定を依頼された彫刻作品を前に、平櫛さんと同館学芸員の藤井明さん(48)は興奮を抑えきれなかった。残っていた写真と木目や台座の形が一致したのだ。「長年探していたものがやっと見つかった。これは逃せない」。平櫛さんはオークションで226万円で落札し、今年7月、同館で展示するため市に寄贈した。
 岡山県生まれの田中は、大阪の人形師のもとで修業した後、25歳で上京し、高村光雲の門下生となった。一方で美術思想家・岡倉天心の薫陶を受け、天心が創設した日本彫刻会のメンバーでもあった。説明的な表現を省くことで、見る人の想像力をかき立てるという天心の「不完全の美」の思想に、生涯を通じて大きな影響を受けたという。
 「尋牛」は、禅の悟りを開く過程を牛を探して飼いならすまでに例えた「十牛図」の、最初の場面を表現した木彫りの作品。真の彫刻とは何か探し求める、田中自身の姿が投影されている。
 ひげを生やした老人がとぼとぼ歩いているだけで牛は登場せず、一見すると何の場面なのかわからない。だからこそ、様々な情景を思い起こさせるという「不完全の美」がそこにある。1913年(大正2年)、制作途中の石こう原型を見た天心がとりわけ高く評価し、彫刻が完成したら原型を譲ってほしいと望んだとされる。
 しかし、天心は同年9月、完成を待たずに他界。田中は不眠不休で完成させて葬儀に持参し、涙を流して報告したという。今回の鑑定に伴う調査で、田中から寄贈された天心の遺族が保管し、その後、別の人の手に渡っていたこともわかった。
 藤井さんは「田中の『尋牛』は当館を含め約10点が現存しているが、天心との絆を象徴する最初の作品は非常に重要だ」と強調し、平櫛さんは「田中にとって特別な思い入れのある作品。多くの人に見てほしい」と話している。
 11月6日まで。開館は午前10時~午後4時。火曜日休館。観覧料は一般300円、小中学生150円。問い合わせは同館(042・341・0098)。
(2016/10/24)

記事にある同館学芸員の藤井明氏、連翹忌にご参加いただいています。


最後に、今朝の『朝日新聞』さんに載った集英社さんの広告。他紙にも載っているかもしれません。原田マハさんの新刊『リーチ先生』が大きく紹介されています。

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注文しておいた現物は、昨夕届きまして、早速読み始めました。しかし、500ページ近くある大冊なので、まだ読破はしていません。

光太郎の朋友の英国人陶芸家、バーナード・リーチを主人公とした小説で、光太郎や光雲、光太郎実弟の豊周なども登場します。これが実に面白く、このブログを書き終えたら、また読み進めるつもりでおります。

しかし、この広告のコピー文に光太郎が出るとは思っていませんでした。帯文には光太郎の名がなかったもので。

詳細は明日以降、ご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らは道に坐りて我家を自由画にかく並びたらずや
大正15年(1926) 光太郎44歳

「芸術の秋」です。昔は小中学校でも、この時期には写生会的な行事が催されることが多かったように思われます。ただ、昨今は週5日制に伴う行事削減のせいでしょうか、あまり聞かなくなりました。

「子供ら」は、駒込林町アトリエの近所にあった千駄木小学校の児童でしょう。当時としては特異な外観だった光太郎設計のアトリエ、子どもたちにとっては恰好の画題だったのではないでしょうか。

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テレビ放映情報です。

まずはテレビ東京系で人気の「開運!なんでも鑑定団」の姉妹番組。BS放送です。   

極上!お宝サロン 開運!なんでも鑑定団

BSジャパン 2016年10月27日(木) 21時00分~21時54分

ただひとつのジャンルに、こだわり続けるコレクターがいます。
彼らは、それがどんなに高価であろうと労苦を厭わず金に糸目をつけず、あくなき探究心でお宝をゲットしていきます。
この番組は稀代のコレクターたちの「お宝の魅惑のトーク」と「秘蔵のコレクション」を披露する番組です。
舞台は、お宝コレクターたちが集うサロン。サロンの主人は、博覧強記にして多彩な趣味を持つ石坂浩二。毎週、自慢のお宝を持ったゲストと鑑定士、コレクターがやってくる。主人のさりげないもてなしから、コレクターたちが熱弁を振るいだす…。

ゲストは作家の松山猛。クォーツ式時計全盛の1970年代から機械式時計を愛好している。雑誌の編集者として機械式時計の素晴らしさを日本人へ伝えてきた。海外の時計師を取材し、友好を深め、ついたアダ名が「時計王」。40年以上の収集歴で投資額は「忘却」。 手元に残した選りすぐりの100点から、機械式時計の機能や魅力を伝えていく。

本日のコレクター≪七福神木彫≫ 収集歴38年。恵比寿大黒像だけでも458体あり、目標は500体収集だというコレクター。しかし中々気に入った恵比寿大黒には出会えないと言います。眼鏡にかなう木彫とは?「木」にこだわった自慢のお宝や、「変わり種恵比寿大黒」などを紹介。宮大工の流れをくむ職人の腕が光る、木彫りの魅力を語ります。極上の逸品には、高村光雲の師匠が彫ったという自慢のお宝を紹介。

出演者 サロンの主人 石坂浩二   コンシェルジュ 松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)
ゲスト  松山猛
鑑定士 川瀬友和(「ケアーズ」代表取締役)、大熊敏之(富山大学大学院芸術文化学研究科教授)


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「高村光雲の師匠」は、高村東雲。文政9年(1800226)に生まれた江戸の仏師です。元々「奥村」姓でしたが、幕末に独立する際、師匠の高橋鳳雲から「雲」の字と、さらに「高橋」姓の「高」の字を貰い、「高村」姓を創出しました。歿したのは明治12年(1879)でした。

ちなみに光雲は元々「中島」姓。明治7年(1874)に独立しましたが、同じ年、徴兵忌避のため、子供のいなかった師匠の姉・悦の養子となり、高村姓となりました。明治初年の徴兵制では長男は対象外でしたが、光雲には大工だった異母兄がいたため、そのままでは徴兵にかかるおそれがあったのです。

東雲は明治12年(1879)に歿しましたが、嫡子栄吉が「東雲」を襲名、孫が「晴雲」、さらに「三代東雲」と号しました。そのさらにお孫さんが、三代晴雲として、現在もご活躍中です。

初代東雲の木彫、時折、市場に出てきます。ただ、50代で亡くなり、しかも明治初年の廃仏毀釈のあおりをもろに受け、遺っている作品は決して多くありません。

今回、どんなものが出るか楽しみです。

余談になりますが、姉妹番組のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」。スタジオ収録以外に「出張!なんでも鑑定団」というコーナーがあり、当方自宅兼事務所の所在地、千葉県香取市で12月3日(土)に収録があります。

自宅兼事務所には光太郎がらみの「お宝」がごろごろしていますが、特に鑑定していただかなくても価値はある程度わかっていますので、鑑定依頼はしませんでした。ただ、せっかくですので、文化会館での収録観覧希望の往復ハガキは投函しました。抽選に当たることを祈っております。

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もう1件。旅番組系です   

とちぎ発!旅好き! 感動!歴史と伝統の街~福島県二本松市~ 

とちぎテレビ  2016年10月27日(木)19:30~20:00 10月31日(月)19:00~19:30
東京MXテレビ 2016年10月30日(日)17:30~18:00
チバテレビ   2016年10月31日(月)10:30~11:00

【訪問先】福島県二本松市 【旅人】菊池元男
日本100名城に選定されている二本松城を始め安達太良山や阿武隈川を有し自然の中で、伝統文化を感じることができる二本松市の感動スポットを求めて菊池元男が巡る。

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とちぎテレビさん制作の番組で、同局の本放送は昨日オンエアされていました。ただ、再放送、さらに提携関係にある各地のローカル局での放映があります。上記以外にも、埼玉のテレ玉さん、群馬テレビさん、KBS京都さん、兵庫のサンテレビさんで放映があるようですが、来月以降になるようです。残念ながら福島では放映されないようです。

安達太良山にからめて光太郎詩、智恵子生家などの紹介があるといいのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

裏町は提灯暗き祭かな        大正中期(1910頃) 光太郎40歳頃

上記画像、二本松の提灯祭りですね。そろそろ各地の秋祭りも一段落でしょうか。

俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。昨日、登山家の田部井淳子さんの訃報をお伝えし、2日続けての訃報、非常に心が痛みます。 

平幹二朗さん死去、82歳=シェークスピア劇で活躍

009 シェークスピア劇やNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」「国盗り物語」の主演で知られ、舞台からドラマまで幅広く活躍した俳優の平幹二朗(ひら・みきじろう)さんが23日死去した。

 82歳だった。広島市出身。俳優の平岳大(ひら・たけひろ)さんは長男。

 平さんは、東京都世田谷区の自宅の風呂場で倒れているところを発見され、その後死亡が確認された。

 俳優座を経てテレビドラマ「三匹の侍」で注目を集めた後、浅利慶太さん演出の劇団四季「ハムレット」の主役で舞台俳優としての地歩を確立。「NINAGAWAマクベス」や「王女メディア」など、長年にわたって故蜷川幸雄さんの作品に出演した。悲劇の主人公を格調高く演じ、シェークスピア作品を得意とし、自ら演出も手掛けた。

 ドラマはNHK大河など時代劇に多数出演した他、現代劇でも存在感を見せた。近年もほぼ毎年出演作があり、放送中のフジテレビ系のドラマ「カインとアベル」にも出演していた。

 舞台でも衰えを見せず、昨年の「王女メディア」に続き、今年は9月から10月上旬まで「クレシダ」に出演、年明けの舞台も予定していた。

 「天城越え」「GOEMON」など映画にも多数出演した。1998年紫綬褒章、2005年旭日小綬章。

(時事通信 10月23日(日)23時54分)


平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。

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映画冒頭近く、隅田川沿いの西洋料理屋で開催された「パンの会」の狂騒のシーン、後半の、智恵子の心の病が顕在化した後、光太郎と二人、酒場で語り合うシーンに登場されました。

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平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。

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それにしても、訃報を読んで、82歳というのには驚きました。非常に若々しいイメージでしたので……。

ちなみに、ご子息でやはり俳優の平岳大さんは、フラメンコにも取り組まれており、「智恵子抄」も取り上げて下さっています。あまり大々的に宣伝していないようなので、このブログではご紹介していませんが。

何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ 〔晶子会のため〕                       
昭和26年(1951) 光太郎69歳

訃報の紹介が続きましたので、挽歌的な作を一つ。ただし、亡くなってすぐではなく、10周忌の会に際して電報で寄せた作です。

のち、雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。

日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

登山家の田部井淳子さんが、亡くなりました。  

田部井淳子さん死去=77歳―エベレスト女性初登頂

010 1975年に女性で初めて世界最高峰エベレスト(8848メートル)に登頂した登山家の田部井淳子(たべい・じゅんこ)さんが20日午前10時、腹膜がんのため埼玉県川越市の病院で死去した。77歳だった。福島県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は夫、政伸(まさのぶ)さん。

 昭和女子大を卒業後、社会人の山岳会で本格的に登山を始め、69年に女子登攀(とうはん)クラブを設立。70年にアンナプルナIII峰(7555メートル)に日本女性として初めて登頂。75年、日本女子登山隊の副隊長としてエベレストに挑み、女性で世界初の登頂者となった。

 81年にも女性として初めてシシャパンマ(8027メートル)の登頂に成功。また、85年キリマンジャロ(タンザニア)、87年アコンカグア(アルゼンチン)、88年マッキンリー(米国)、91年ビンソンマシフ(南極)と各大陸の最高峰の頂上を次々と踏み、92年のカルステンツ・ピラミッド(インドネシア)、エルブルース(ロシア)登頂によって女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となった。

 エベレストのごみ問題をテーマに研究を進め、2000年に九州大大学院の修士課程を修了。山岳環境保護の活動に取り組み、07年には環境保全功労者として環境大臣賞を受賞した。

(時事通信 2016/10/22)


田部井さんは、智恵子の故郷・二本松に近い三春町のご出身。智恵子が愛した「ほんとの空」のある安達太良山とも縁の深い方でした。

平成27年(2015)2月、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽん百名山 安達太良山」にご出演。登山家・田部井さんの原点の一つが安達太良山にあったことを語られました。

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三春小学校6年生の時に安達太良山に初めて登り、沼の平などの不思議な景観に心打たれ、「もっといろいろな景色を見てみたい」と思ったそうです。

同番組では、光太郎智恵子についても取り上げて下さいました。

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何度か再放送されましたが、田部井さんの追悼的にまた放映されることを希望します。

さらに、今後放映されるであろう田部井さんの追悼特集的な番組でも、ぜひ安達太良山にからめた内容にしていただきたいものです。

時代や分野は違えど、同じ福島中通り出身の先駆的な女性として、田部井さんと智恵子には共通項が有るように思われます。

また、東日本大震災後、田部井さんは「厳しい状況にいる高校生たちに、一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい」と、被災した東北の高校生と一緒に富士山に登る活動に取り組んできたそうです。今年も93名の高校生と共に富士山へ行かれたとのこと。病をおされての行動力、頭が下がります。

その田部井さん、そして智恵子が愛した安達太良山、紅葉のピークのようです。 

安達太良山、まるで『紅葉のじゅうたん』 色鮮やか山並み絶景

009 二本松市の安達太良山(1700メートル)の紅葉が見頃を迎え、秋晴れの14日は大勢の登山客や観光客が「紅葉のじゅうたん」を楽しんでいた。
 登山道からは赤や黄など色づいた木々などを間近に見ることができ、青空と鮮やかな彩りの山並みは絶景。同市の奥岳登山口から乗るロープウェイの山頂駅近くで、標高1350メートルの薬師岳展望台は大いににぎわっていた。
 ロープウェイを運行する富士急安達太良観光は23日までの土、日曜日に、運行を通常より1時間早めて午前7時30分から始める。
(『福島民友』 2016/10/15)


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

山にゆきて何をしてくる山にゆきてみしみしあるき水のんでくる
 制作年不詳

昭和4年(1929)、改造社刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品ですが、いつの作品か不詳です。

光太郎もまた、山を愛した詩人でした。ただし、本格的な登山ではなく、奥地の低山を闊歩する、今でいうトレッキングを好んでいました。

注文しておいたCDが届きました。  

<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 - 十七編抜粋-」

2016年10月20日 響林社 wis朗読 定価1,620円

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【解説】
『智恵子抄』は高村光太郎にとって、『道程』に続く2冊目の詩集にあたる。妻の智恵子と結婚する以前(1911年)から彼女の死後(1941年)までの30年間にわたって書かれた、彼女に関する詩29篇、短歌6首、3篇の散文が収録されている。本CDでは、以下の17篇を収録。

人に(いやなんです) 深夜の雪  人に(遊びぢやない)  人類の泉   僕等
樹下の二人  夜の二人 あなたはだんだんきれいになる   あどけない話
風にのる智恵子   千鳥と遊ぶ智恵子  
値ひがたき智恵子  山麓の二人  
レモン哀歌  亡き人に  荒涼たる帰宅  裸形

【収録時間】 計38分

 【朗読】
wis 女性朗読家。 i'Tunes storeのPodcast部門やオーディオブック部門の文学関係で幅広いリスナーの支持を得、すでに50を超える朗読作品を世に送り出している。また、個人ホームページ「  【朗読】声を便りに、声を頼りに――。」では、文学のジャンルを問わず、200を超える短編、長編作品を朗読。朗読に親しみを持ってもらえるようにと、いつでも無料で聴けるよう開放している。現在、「オーディオブックCD(朗読CD)」が響林社より好評発売中。


早速聴いてみました。透明感のある柔らかな、しかし、しっかりと芯のある声で、光太郎智恵子の世界が表現されていました。

光太郎詩は力強い男性的なイメージがありますが、女性でも朗読に取り組まれる方は多く、視点はあくまで光太郎という男性ですが、女性の声でも決して違和感はありません。

wisさんは、紹介文にもあるとおり、ネットで朗読を公開なさっています。このCDに収められている朗読も、既に平成20年(2008)にアップされていました。CD化されたことで、また異なる環境での聴取が可能となりました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

水ばかりのみてこの日は過ぎたりとうまき支那めしをくひつつわが思ふ

大正13年(1924) 光太郎42歳

3日前、草野心平関係の調べ物で行った千葉県立中央図書館さんの前にある中華料理店で昼食を摂りました。

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当方、幼い頃から炒飯が好物でして、一人で外食する際には時々頼みます。さらに餃子も。

食べながら上記短歌を思い起こしました。

昨日お伝えしたとおり、来月、福島県いわき市の草野心平生家で開催される「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会で講話を仰せつかっています。題は「草野心平と高村光太郎――魂の交流」としました。

平成25年(2013)、双葉郡川内村の小松屋旅館さんで開催された「第3回天山・心平の会 かえる忌」で、二人の交流について年譜をまとめ、やはり講話をさせていただいたのをベースにします。その際に作成した交流年譜にはまだ漏れが多く、懸案となっていましたので、いい機会と思い、完全版に近いものの作成を目指しております。

そこで一昨日、千葉市の千葉県立中央図書館さんに行きました。目当ては昭和50年代に筑摩書房さんから刊行された『草野心平全集』全12巻。近隣の市立図書館等には所蔵がなく、少し遠出となりました。

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第12巻に、100ページを超える心平の詳細な年譜が掲載されています。年ごとに、その年に発表された詩、散文等の題名、掲載誌が全て記されているので、非常に貴重な資料です。

光太郎に関わる詩文、さらにはイベントや訪問記録などについて、初めはメモを取っていましたが、メモすべき件があまりに膨大なので途中でやめ、100ページ超をコピーしてきました。申請書を書いて自分でコピー、コピー機も5台ほどあったので、館の方や他の閲覧者の方にも迷惑をかけずに済みました。館によっては職員の方にコピーを取っていただいたり、セルフコピーでもコピー機が1台しかなく、独占するには気が引けたりといったところもあり、そういう館では大量のコピーは不可能に近いのですが、今回はラッキーでした。料金も1枚10円で助かりました。

年譜に関しては、自宅兼事務所に帰ってからマーカーでチェックを入れました。心平が書いた光太郎に関する詩文は100編ほど。予想通り、以前にまとめた年譜には漏れていたものも多く、「こんな雑誌にこんなことも書いているのか」といった驚きがいろいろありました。

『草野心平全集』は、共著を除き、単行書として刊行された心平の著書をまとめたもので、新聞雑誌等に寄稿した散文の本文は掲載されていません。したがって、年譜に載っている題名だけでは光太郎に触れているか否か判断がつかないものもあります。

新聞雑誌等に寄稿した散文等のうち、主要なものは昭和44年(1969)刊行の『わが光太郎』にまとめられていますが、それ以降も光太郎に触れた文章は書かれ続けていますし、それ以前のものでも割愛されているものが多くあります。おそらく分量としてはもう一冊『続・わが光太郎』が出来るくらい有るのではないかと思われます。どこかの出版社さんで実現できないものでしょうか。もっとも、同じ主旨のことを繰り返し書いている、という部分はあるのかもしれませんが。

また、光太郎に関するものだけでなく、他の分野でも心平の散文は多く、『草野心平全集』の増補完全版として、全てがまとめられることも期待します。

年譜の載っている第12巻以外にも目を通し、そちらに掲載されていた必要と思われる事項はメモして参りました。それから、各巻のグラビアや月報で、見たことのない関連写真を目にし、また驚かされました。

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昭和28年(1953)、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。

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光太郎が歿した昭和31年(1956)、当会顧問の北川太一先生と心平。

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「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」での講話、プロジェクタでスライドショーを投影する予定ですので、このあたりも使おうと思っています。


ついでですのでもう1件。

一昨日訪れた千葉県立中央図書館さんは、千葉県文化会館や千葉市立郷土博物館(千葉城)などとともに、亥鼻公園を形成しています。

その公園内の一角に、こんなものが。

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光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作にして代表作「女」です。

昭和43年(1968)の建立で、千葉大学教育学部が001もともとここにあって移転したそうで、オブジェ全体が「千葉大学教育学部跡記念碑」です。この地に文化の薫りを、ということで「女」が乗せられています。

数年前にたまたま歩いていて見つけ、驚きました。


【折々の歌と句・光太郎】

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952) 光太郎70歳

今日、10月21日は、昭和28年(1953)に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式が行われた日です。心平も出席しています。

この歌は、前年、やはり心平も同行した十和田湖の下見の際の作。「泛びて」は「うかびて」と読みます。

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突然、既に亡くなっている与謝野晶子の名が引かれています。

与謝野鉄幹・晶子夫妻は、大正14年(1925)に十和田湖を訪れています。この際の旅行記や短歌は第二期『明星』に掲載されており、当然、光太郎も目にしていますし、ことによると夫妻から十和田湖のすばらしさを直接聞いていたのかも知れません。

そしておそらく、実際に初めて十和田湖を目の当たりにし、それを思い出したのではないでしょうか。

当会の祖、草野心平を偲ぶイベントが来月、2件続けて行われます。それぞれぜひ足をお運び下さい   

第6回天山・心平の会 かえる忌

期  日 : 2016年11月12日(土)
会  場 : 小松屋旅館 福島県双葉郡川内村上川内字町分211  0240-38-2033
時  間 : 午後3時より6時まで
会  費 : 2,500円 (食事代込み) 
主  催 : 天山・心平の会
講  話 : 晒名昇氏 (前かわうち草野心平記念館長) 
       金井真紀氏 (うずまき堂代表、ライター、イラストレーター、放送作家)
備  考 : 第2回第3次かわうち「酒場学校」開校式を兼ねる

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「かえる忌」は、モリアオガエルが縁で心平が愛し、蔵書を寄贈した天山文庫の建つ川内村で開催されます。

4年前3年前一昨年と3回参加させていただきました。下記は2014年、BS朝日さんで放映された「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」から。3年前のかえる忌の様子です。当方も映っています。

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翌日は、心平の故郷、いわき市小川町で下記のイベントがあります。昨年の様子はこちら   

没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会

期  日 : 2016年11月13日(日)
会  場 : 草野心平生家 (いわき市小川町上小川字植ノ内6-1)
時  間 : 午前11時30分より午後1時まで
会  費 : 500円  
主  催 : 夢想無限の会
講  話 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表) 

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地元小中生の皆さんによる「第8回 草野心平ふるさとの詩けるるんくっく発表会表彰式」も兼ねています。

講話は当方です。「草野心平と高村光太郎――魂の交流」と題し、二人の交流について述べさせていただきます。資料作成を現在行っており、昨日もそのために千葉市の千葉県立図書館さんへ調べ物に行っておりました。明日はそのあたりを書きたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

とうとうと水の流れるやうなもの空いつぱいにこころをながれ
大正13年(1924) 光太郎42歳

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いい感じの秋晴れが続いています。画像は近所の畑に咲くコスモスです。

ネットでいろいろ検索をしていて、気になる展示情報を見つけました。9月から始まっていました。   

常設展アーカイヴ平成28年度第3期 文学館の中の美術―宮崎丈二

期  日 : 平成28年9月13日(火)~11月7日(月)
会  場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時  間 : 9:30~17:00(展示室入場は16:30まで)
料  金 : 一般500円 高大生250円 中学生以下・65歳以上無料

常設展アーカイヴは、当館の所蔵資料を年に数回テーマを変えながらご紹介する小企画スペースです。
 平成28年度第3期は、「文学館の中の美術―宮崎丈二」として、北海道にゆかりの詩人・画家の宮崎丈二関連資料をご紹介します。
これらの資料は、旭川市生まれの詩集の収集家で宮崎丈二に私淑した高橋留治氏より寄贈されたものが中心となっています。
 宮崎の詩について高橋氏は、「日常生活のありふれた用語を自分のものに洗い尽して、平明な詩を書き続け、その詩は中にキラリと光る、幽かな余韻がこころに長く残る。」と書いています。
 平明で明るく、そして心に響く宮崎丈二の詩と絵の世界をお楽しみ下さい。

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宮崎丈二は明治30年(1897)、銚子生まれの詩人です。大正期からさまざまな詩誌の刊行に関わり、それらに光太郎作品を積極的に載せていました。また、やはり光太郎と縁の深い岸田劉生とも交流があり、岸田の興した草土社にも参加するなど、画業でも優れた作品を遺しています。

光太郎晩年は、詩人の西倉保太郎、材木商の浅野直也との3人組で、中野のアトリエを訪れたり、光太郎を飲みに連れ出したりもしました。光太郎歿後には、昭和32年(1957)の第1回連翹忌にも参加しています。

昨年、『高村光太郎全集』に漏れていた、宮崎宛(西倉保太郎と連名宛)の光太郎書簡を見つけました。昭和27年(1952)1月19日付けで、まだ光太郎が再上京する前、花巻郊外太田村から送られたものです。

007  新年のおたよりいろいろいただき、たのしい思をいたしました。蘭の莟がもう開く頃かと、うらやましく存じます。清香をおもひやります。
  寄書の酔筆にも、雅興想意、小生も新年には例のもの一盞、又醇醸の焼酎を得て珍しく三十五度の風味を味ひました。
  冬もあたたかく雪少なく、これは物足りません。

上記説明で、展示品の多くが高橋留治氏の寄贈による、とあります。高橋氏は宮崎の研究に功績のあった方で、当方、氏の書かれた『評伝 無冠の詩人 宮崎丈二――その芸術と生涯――』(昭和49年=1974 北書房)を持っています。540ページ余の労作で、光太郎と宮崎の交流にも触れ、非常に示唆に富むものです。

そういう経緯もあり、今回の展示も近くで開催されていれば是非拝見に伺うところですが……。


だいぶ以前にも書きましたが、やはり宮崎が刊行に関わっていた雑誌『太陽花』の第2巻第1号に、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの「栗色の顔をした野の若者よ」の光太郎訳が掲載されました。それに関する宮崎宛の光太郎書簡も現存します。

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『太陽花』は静岡で刊行されていた地方詩誌です。たびたび光太郎も寄稿していましたが、現存部数が非常に少ないようで、「栗色の顔をした野の若者よ」光太郎訳がどういう内容なのか、不明です。掲載誌は横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館さんに所蔵されています。しかし、「栗色の顔をした野の若者よ」の載ったページだけ破り取られており、読めませんでした。今回の展示がある北海道立文学館さんにも所蔵はないようです。

刊行は昭和2年(1926)1月。しかし、大正15年が前年の12月25日まで、翌12月26日から31日までが昭和元年ということで、先に印刷が終わっていたであろうこの号、奥付は大正16年となっています。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれをひとり離れし神の鹿かすかなる音に人を泣かしむ
明治35年(1902) 光太郎20歳


このところこのコーナーで紹介し続けている、奈良での作の一つです。鹿は奈良公園の鹿でしょう。

万葉の昔から、鹿の鳴き声は秋の風物詩。文字で表すと「ピュウーーーー」といったところでしょうか。高い音程の、一種もの悲しい特徴的な声です。

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画像は当方自宅兼事務所所在地の千葉県香取市に鎮座する香取神宮の神鹿。昨日撮影してきました。ちょうど食事タイムで、大半の鹿さんたち、ニンジンを食べるのに忙しく、鳴いていませんでした(笑)。

注文しておいた雑誌が届きました   

美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol.39 岩手県特集

2016年10月15日 麗人社 定価500円(税込)

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『美術屋・百兵衛』。季刊誌で、一号ごとに一つの都道府県を特集し(ただし次号は台湾だそうです)、美術を中心とした文化を紹介するというコンセプトです。これまでに38都道府県が取り上げられ、今号が岩手県です。

主に岩手出身の美術家が取り上げられる中、出身ではないものの、足かけ8年を過ごした光太郎も、10ページにわたって紹介されています。

特集 岩手文化考
百兵衛インタビュー:彫刻家・舟越 桂 舟越 保武/舟越 直木
岩手県立美術館
生誕120年 宮沢 賢治 宮沢賢治記念館/宮沢賢治童話村
近代日本洋画界の先駆者 萬 鉄五郎/萬鉄五郎記念美術館
いわてアートプロジェクト 1800 人の岩手の心、そしてアーティストたちが紡いだ「記憶」
世界文化遺産 平泉 毛越寺/中尊寺
彫刻家・高村 光太郎/高村光太郎記念館・高村山荘 ほか


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前半は光太郎の人となり、後半は花巻郊外の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館の紹介です。それぞれよくまとまっています。

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光太郎記念館に関しては「芸術家としての息吹だけでなく、人間性までもがわかる空間」という見出しを付けていただいています。館内説明板の執筆を担当した身としては、「そのとおり!」と言いたくなりました。

その他、大きく取り上げられている光太郎ゆかりの人物は、宮沢賢治、舟越保武、萬鉄五郎。

後半には全国の美術館やギャラリー、注目の若手作家の情報なども掲載。264ページほとんどがフルカラーで、観ているだけでアーティスティックな気分にさせられます。これで500円は格安です。

大きな書店では店頭に並んでいるようですし、ネット通販もあります。ぜひお買い求めを。また、これを片手に花巻の光太郎記念館および高村山荘、ぜひ訪れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

いささかは鑿にえにしを持てる身の三月(みつき)を奈良にただあこがるる

明治35年(1902) 光太郎20歳

その生涯にわたり、仏像らしい仏像は作らなかった光太郎ですが、いったいにその彫刻は、精神性の部分で、仏像の系譜を汲んでいるような気がします。ブロンズの塑像や、まったく仏とはかけはなれた蝉などにも。光雲から受け継いだ血、さらにはたびたび訪れて観た奈良の仏像からの影響でしょう。

各地、特に北日本や高地から、ちらほら紅葉の便りが聞こえ始めてきました。

毎年ご紹介していますが、今年も京都の知恩院さんでの紅葉ライトアップが再来週から始まります   

知恩院 秋の紅葉ライトアップ2016 

期 日 : 2016年11月3日(木・祝)~12月4日(日)
会 場 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、三門、宝佛殿、女坂
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
      団体割引 大人30名以上、1割引き

今年で17回目を迎える『知恩院ライトアップ2016』。
京友禅の祖・宮崎友禅斎ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、阿弥陀如来立像、四天王をお祀りしている「宝佛殿」をライトアップします。
春のライトアップで好評だった「聞いてみよう!お坊さんの話」は、土日祝日に実施します。また、オープニングイベントには「ニュージーランドから来たお坊さんと話してみよう!」「薩摩琵琶コンサート」も企画。
他にも、阿弥陀堂での法要の予定などもございます。大勢のおまいりをお待ちしております。

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主な見どころ】
友禅苑007
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。

三門 3年ぶりのライトアップ特別公開     
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」を表すことから三門(三解脱門)といいます。
※回廊のみお立ち入りいただけます。

宝佛殿
平成4年に建立。和様式重層寄棟造りで、堂内には高さ4.8mの阿弥陀如来立像、四天王が祀られています   

関連行事

オープニングイベント おてつぎフェス Hand to Hand:promotion of the Nembutsu
【期間】 11月 3日(木・祝)、4日(金)、5日(土)
 ※3~5日は特別に大鐘楼の拝観が可能になります。

ニュージーランドから来たお坊さんと話してみよう!008
【時間】 ①19:00~ ②20:00~
【場所】 宝佛殿
【お話】 佐賀教区 西光寺僧侶
      作田法道師(ウィズフォード・スティーブン)

薩摩琵琶コンサート
「法然上人の御一代記」を、琵琶法師のごとく、弾き語るコンサートです。
【時間】 ①18:30~ ②19:30~(各回30分)
【場所】 三門下
【演奏】 薩摩琵琶 鶴田流 北原香菜子009
おてつぎ運動は、法然上人のみ心を信じ、一人一人が心からお念佛を称え、家庭から職場へ、地域社会へと仲間の輪をつくり、全世界の人々の幸福と平和の実現に向けて、人から人へと法然上人のみ教えを広く現代社会に伝える運動です。


当方、時折京都にも参りますが、なかなかゆっくり観て回れていないのが現状です。今年あたりは時間が取れれば、しみじみと古都の紅葉狩りとしゃれこみたいものです。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

真金(まがね)掘り黄金の窟(むろ)にあひしごと奈良には藝のよろこび満つる

明治36年(1903) 光太郎21歳

京都ではなく奈良での作ですが、この年、与謝野鉄幹らと京都、奈良、高野山、堺などを旅した際の作です。幼い頃から父・光雲に連れられたり、美術学校の2週間にもわたる修学旅行があったりで、何度も訪れている奈良ですが、彫刻家(まだ卵でしたが)として、いにしえの仏像などに出会う喜びは、何度訪れても大きかったのだと思われます。

10月も後半に入りましたので、少しずつ現在把握している11月のイベント等を紹介していきます。

まずは光太郎智恵子が長く住んだ文京区から。 

平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人

期  日 : 2016年11月6日(日)~11月14日(月) 無休
会  場 : 文京シビックセンター1階 アートサロン  文京区春日1‐16‐21
時  間 : 午前10時~午後6時(最終日は午後5時まで)
料  金 : 無料

 詩人、童話作家として著名な宮沢賢治と彫刻家、詩人として名を馳せた高村光太郎。ともに文京区にゆかりのある二人が直接会ったのは、駒込林町(現:千駄木)の光太郎のアトリエ前でのことでした。この立ち話程度の出会い以外に二人が会うことはなく、親しく交流するようなこともありませんでした。しかし、二人をつなぐ結びつきは賢治の晩年から死後に強まり、お互いにとって重要な存在になっていきます。賢治作品を読んだ光太郎は賢治を「真の詩人」と激賞し、自身の詩作にも影響を受けます。一方、ほとんど無名のまま世を去った賢治が広く世に知られるのに大きな役割を果たしたのが光太郎でした。
 本展は、平成28年に賢治の生誕120周年、光太郎の没後60周年を迎えるのを記念し、文京区が誇る二人の生涯や創作活動、文京区との関わりを辿りながら、二人がどのように関わりあい、どんな影響を与え合ったのかを紐解いていきます。


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関連行事

公開講座 「宮沢賢治と高村光太郎――千駄木での出会いとその後の詩的交流」

 展示作品の制作背景や作者の人柄など、作品を見るだけではわからない情報を、関係者の方に作品の前で語っていただくギャラリートークを開催します。

講師:中里まき子 氏(岩手大学人文社会科学部准教授)
日時:平成28年11月6日(日曜日)午後2時から午後4時(予定)
会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
対象:文京区内在住・在勤・在学者
定員:100名
費用:無料


文京区は江戸の昔からのお屋敷町もあったことからゆかりの文人も多く、しかも夏目漱石、森鷗外、樋口一葉ら、いわば光太郎より「格上」の人々が含まれているため、光太郎はある意味、影が薄いイメージです(笑)。したがって、区として光太郎の顕彰を積極的に、というレベルには至っていません。

が、時折、こうした形で取り上げて下さることがあり、有り難いところです。まあ、今年は生誕120年の賢治ブームですので、賢治と交流のあった数少ない文士の光太郎もセットで、というところでしょうか。グルコサミンサプリメントに、今なら何とアミノ酸ナントカもおつけします、的な(笑)。

ただ、開催期間があまり長くないのが残念です。貴重な機会ではありますので、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

堂のかげふと知る才のわづらひや雨の夕鐘唐招提寺
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日に引き続き、東京美術学校での奈良京都修学旅行での作です。奈良の唐招提寺は、鑑真和上坐像をはじめ、あまたの仏像が国宝に指定されています。それらを観て圧倒される若き光太郎の姿が浮かびます。

昨日は鎌倉および都内に行っておりました。

光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんでの展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」のためです。

普段こちらにお邪魔する時は、自家用車で北から山を下りてお伺いしていましたが、昨日は公共交通機関を利用、JR北鎌倉駅から歩き、普段とは逆に南から山を登る形でした。

あじさい寺で有名な明月院さんを横目に坂を登っていきます。

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昨日は気持ちよい秋晴れ、しかし紅葉には早く、楓もまだ青々としています。

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明月院さんのすぐ近くに看板が出ています。ここから365歩、だそうで。

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道の傍らに苔むした石仏・石塔。古都情緒がにじみ出ています。こういう風情は歩いてこそのものですね。

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笛さんもその情調の中にぴったり収まるたたずまいです。

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店主の山端氏、今年の連翹忌にはご欠席なさいましたので、ほぼ一年ぶりにお会いしまして、久闊を叙し、早速展示を拝見。

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光太郎智恵子、そして近所に住んでいた光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八に関するさまざまが並んでいます。古写真、書簡、草稿、著書、関係書籍などなど。

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光太郎書簡。ここに住まれていた妹に宛てたものです。

その妹・しづは、俳句に親炙していたそうで、句稿や句帖も展示されていました。

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尾崎喜八草稿(コピー)。草野心平編、筑摩書房『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)に掲載された光太郎智恵子回想です。

喜八の妻・實子は、光001太郎の親友・水野葉舟の娘。二人の結婚を祝し、光太郎はミケランジェロの作品を模刻したブロンズの「聖母子像」を贈っています。右は「聖母子像」を手にした實子の写真。かつて雑誌『FOCUS』に掲載されたものです。

そうこうしているうちに、喜八・實子夫妻の令孫で、武蔵野美術大講師の石黒敦彦氏がご来店。特に当方と約束していたわけではないのですが、ご常連ということでよくいらっしゃるそうです。展示されている資料の中には、氏の所蔵されているものも含まれています。

氏とは一昨年もこちらでお会いしました。その際にはご一緒に来店されていたご母堂・榮子様(喜八・實子の息女)が、今年の3月に亡くなられましたので、まずはお悔やみを述べ、一緒に山端氏の淹れて下さった珈琲に舌鼓を打ちつつ(恐縮ながら無料で戴いてしまいました)、カウンターの中の山端氏も交え、いろいろお話をさせていただきました。

石黒氏は、武蔵美さんの芸術文化学科、空間演出デザイン学科で講義をされているとのことで、いわば展示の関連がご専門。また、「湘南福祉アート・デザイン協議会運営委員」という肩書きもお持ちで、メンタルヘルスとアートを関連させるご活動もなさっている由。そういうわけで智恵子にも深く関心を持たれており、ゆくゆくは智恵子に関する企画展示をなさりたいとのことでした。

その後、再会を約し、笛さんを後に、そして石黒氏に連れられて、すぐ近くにある「ギャラリー青騎士」さんへ。この秋オープンしたばかりのギャラリーで、蔵書票を専門に扱うという、いっぷう変わったところです。

こちらの代表の金森大輔氏は、現在新築工事のため休館中のブリヂストン美術館さんにお勤めだった方です。ブリヂストン美術館さんといえば、昭和28年(1953)、美術映画「高村光太郎」を制作しました。この年に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景、その除幕後、花巻郊外太田村に一時帰村した光太郎の様子などが記録されています。下はその撮影クルーと光太郎。場所は中野のアトリエです。

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光太郎以外に「梅原龍三郎」、「坂本繁次郎」など20本ほど作成された「美術映画シリーズ」のフィルム、館の美術講座的な催しで上映されていたとのことですが、昭和40年代以降それもなくなり、しばらくフィルムの存在自体忘れ去られていたところ、ブリヂストン本社から「こんなものが見つかった」と金森氏に連絡があって、再び日の目を見ることになりました。

「高村光太郎」は現在、花巻高村光太郎記念館や十和田湖畔の観光交流センターぷらっとに行けば常時上映されています。また、この夏の碌山美術館さんでの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」など、光太郎がらみの企画展で上映されることもよくあります。

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それも金森氏らのお骨折りでデジタルデータになっているおかけです。当方の手元にもあり、改めて御礼を申し上げておきました。それにしても、はからずもそういう方にお会いするという不思議な偶然に驚きました。

石黒氏、金森氏とはここで別れ、駒場の日本近代文学館さんに寄って、調べ物をして帰りました。

さて、笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」、来月1日(火)まで。ただし毎週月・水・木と10/30(日)はお休みだそうですので、お気を付け下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

行くにわれ見るにわれなる一人子や大和山城青空つづく
明治34年(1901) 光太郎19歳

古都つながりで奈良、京都に遊んだ際の歌を一首。この年9月末から、東京美術学校の修学旅行で奈良、京都を訪れています。その期間、なんと2週間。物見遊山ではなく、いにしえの仏像などをしっかり研究するための、まさしく修学旅行でした。

そいうえば修学旅行シーズンですので、鎌倉もそれらしい中高生で賑わっていました。

静岡から演奏会情報です。

清水合唱団第35回記念演奏会

期 日 : 2016年10月30日(日)
時 間 : 開場13:00 開演13:30
会 場 : 静岡市清水文化会館マリナート大ホール 静岡市清水区島崎町214 
料 金 : 1,000円
曲 目 : I.ホームソング 日本編
      
II.ミサ曲 CARLO ROSSINI MISSA”ADESTE FIDELES"
      III.ポピュラーステージ 編曲:山室紘一・鈴木幸一
      Ⅳ.混声合唱組曲 猛獣篇 佐藤敏直作曲
指 揮 : 山根悦子
ピアノ : 三浦ゆきの

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光太郎詩に佐藤敏直氏が曲を付けた「混声合唱組曲 猛獣篇」がプログラムに入っています。

元々は昭和63年(1988)、専修大学グリークラブさんの依嘱で男性合唱曲として作曲され、平成2年(1990)にはカワイ出版さんから楽譜も刊行されました。「森のゴリラ」「傷をなめる獅子」「ぼろぼろな駝鳥」「マント狒狒」の4曲でした。

そして、同じく平成2年(1990)から5年(1993)にかけ、南生田コーラスさんの依嘱で混声版が新たに作られています。ただし、総題は同じ「猛獣篇」ですが、曲目は「龍」「象」「傷をなめる獅子」「苛察」。「傷をなめる獅子」は男声版から混声へのアレンジですが、他は新作です。平成22年(2010)にやはりカワイ出版さんから楽譜が出ています。

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今年7月、清水合唱団の団員の方がこのブログをご覧下さり、当方宛メールが届きました。組曲に入っている詩の解釈についての質問で、とりあえずわかる範囲でお答えいたしました。

先週もメールを頂き、団内広報紙で当方のレクチャーをご紹介下さり、団員の皆様から「詩がすごくいい」「曲の理解が深まった」といった声があったとのことでした。

歌曲の場合、メロディーと歌詞は不可分のものです。演奏者はそのそれぞれについて深く探求して臨むべきものでしょう。そういう意味で、清水合唱団さんの取り組みは素晴らしいと思います。当方もアマチュア合唱団に所属していますが、なかなか団としてそういった取り組みまでには至っていません。

もっとも、光太郎はこの問題に関し、次のように述べています。

随分つまらない詩から立派な音楽も出来るし、随分立派な詩からつまらない音楽も出来る。それは詩人の知つたことではない。
(略)
私はいつでも詩歌の作曲を聴く時、純粋に唯作曲家の魂と感覚とを感じて十分に満足する。決して其を詩歌のテキストに還元して考へるやうな無駄はしない。自分の詩が歌はれるのをきいても自分の詩が些少もその音楽に参加してゐるとは感じない。
(「詩人の知つたことではない」 昭和8年=1933)

演奏者としての観点からみると、前半はともかく、後半には承服しかねます。やはり歌曲の場合、詩と音楽は不可分だと思います。たしかに詩句をどう音楽的に処理するかという部分は「作曲家の魂と感覚」に依るところがほとんどでしょうが、「ここはこういう言葉なんだから、こういうメロディーラインにする」「詩人のこうした心情を表現するために、こういうハーモニーにする」ということは大いにあり得ますし、逆にいえばそれが不十分である作品こそが「つまらない音楽」なのではないでしょうか。そして演奏者は詩人、作曲家それぞれの意図を汲み、演奏に生かすべきだと思います。

光太郎、音楽にも造詣が深かったのは確かですが、やはり自分で本格的に演奏をするということはなかったので、演奏者あるいは作曲者としての視点は持ち得なかったのでしょう。

何はともあれ、清水合唱団さんの演奏会、盛会を祈念いたしております。


ところで歌ということでもう一件。今年のノーベル文学賞、歌手のボブ・ディラン氏が受賞というニュースが入ってきました。意外といえばこの上なく意外ですが、やはり詩と音楽は不可分と考えれば、納得の受賞です。

ノミネートの段階では「これまでの歌詞とは異質の『詩』を歌い、ポピュラー・ミュージックを革新し、詩が歌と同じ『声の文化』であることを再認識させた」という理由だったそうです。

ところで、以前から気になっていましたが、ディランの代表作の一つ「風に吹かれて」の三番はこういう歌詞です。

 How many times must a man look up007
 Before he can see the sky?
 Yes, 'n' how many ears must one man have

 Before he can hear people cry?
 Yes, 'n' how many deaths
    will it take till he knows.
 That too many people have died?
 The answer, my friend, is blowin' in the wind,
 The answer is blowin' in the wind.

これを、壺齋散人氏という方が、このように訳しています。

 どれほど人は見上げねばならぬのか
 ほんとの空をみるために
 どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
 他人の叫びを聞けるために
 どれほど多くの人が死なねばならぬのか
 死が無益だと知るために
 その答えは 風に吹かれて
 誰にもつかめない


原文は単に「sky」なので、「ほんとの空」と訳すのは意訳ですが、ここだけ読むと、まさに東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故による、智恵子の故郷・福島の現状のようにも感じられます。しかし、この曲のリリースは何と昭和38年(1963)。ディラン氏によるフクシマの予言、というと考えすぎでしょうか……。


【折々の歌と句・光太郎】

爪きれば指にふき入る秋風のいと堪へがたし朝のおばしま
明治43年(1910) 光太郎28歳

「おばしま」は漢字で書くと「欄」。出窓の手すり的な感じでしょうか。そこに坐って爪を切ると、秋風が吹いてきたよ、といったところでしょう。

詩の関係で2件。

まずは神奈川県鎌倉市から。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八

期 日 : 2016年10月2日(日)~11月1日(火)
場 所 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
休業日 : 毎週月・水・木 10/15(土) 10/30(日)

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北鎌倉の明月院さん近くにあるカフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行う笛ギャラリーさん。店主の山端夫妻は、光太郎の親族です(先々代の奥様が光太郎の妹)。また、近くに光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八の自宅があり、そちらとも交流がありました。

そういうわけで、毎年この時期に、山端家、尾崎家などに遺された資料を使っての「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています。一昨年昨年とお邪魔しまして、興味深く拝見して参りました。今年で五回目。うっかりしており、既に始まってしまっていました。

観覧料金としては無料。ただ、カフェですので珈琲の一杯でも、というところです。

明日、上京する予定がありますので、ついでと言っては何ですが、鎌倉まで足を伸ばそうと考えております。レポートは明後日に掲載します。


もう1件、静岡から市民講座の情報です。

南部地区構造改善センター成人講座「詩のこころを読む」

期 日 : 2016年10月25日 11月1日 15日 12月6日 20日
      2017年1月17日 31日 2月7日 21日 3月7日
       (すべて火曜日)
場 所 : 湖西市南部地区構造改善センター 静岡県湖西市白須賀5128
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 受講料2,000円 教材費300円
問 合 : 社会教育課 053-576-4793 FAX/053-576-1237
        E-mail/
skyoiku@city.kosai.shizuoka.jp

講師は地元ご在住の矢田部駿一氏。元教員で、こうした講座等で朗読などのご指導に当たられているそうです。今回、光太郎の詩も取り上げて下さるということで、ありがたいかぎりです。

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さまざまな活動を通し、連綿と光太郎の名が伝えられていくことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

己が寂しき性をてらせよ後の月     大正9年(1920) 光太郎38歳

「後の月」は十三夜の月。ちょうど今日が旧暦9月13日、十三夜です。ただ、関東は曇り、ことによると雨。残念ながら月は見えそうにありません。

10/10(月・祝)、智恵子の故郷・二本松にて菊人形を拝見、智恵子講座に参加し、さらに歴史資料館さんでの企画展を拝観したあと、旧安達地区の智恵子記念館および隣接する智恵子生家に向かいました。

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まずは智恵子記念館。歴史資料館さんと2館同時開催、という形で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」を開催中。普段展示しているもののうち、智恵子筆の油絵「ヒヤシンス」、デッサン2点、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)中型試作」などは歴史資料館さんに移動、代わりに複製が展示されていたり、「貸出中」のプレートが置かれたりしていました。

目玉は智恵子紙絵の実物展示。二本松市としては24点の実物紙絵を所蔵しているそうですが、うち3点は歴史資料館さんで展示、智恵子記念館には10点が展示されていました。今年は智恵子生誕130年という節目の年で、岩手花巻の高村光太郎記念館さん(現在も企画展「智恵子の紙絵」開催中)、信州安曇野碌山美術館さん、そして東京千駄木の高村家で、実物紙絵を観る機会に恵まれていますが、やはり何度目にしてもいいものです。いつも書いていますが、厚さ1ミリ以下の作品の中に、微妙な紙の重なりや反りによる立体感が見て取れます。

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こちらは昔、記念館でゲットしたテレホンカード。この魚の紙絵も展示されています。

その後、同じ敷地内の生家へ。こちらでは、福島ビエンナーレの一環で、10/5(智恵子命日「レモンの日」)に、画家の小松美羽さんと、詩人の和合亮一氏のコラボによるアクションペインティング的なイベントが開催され、小松さんの作品がそのまま展示されています。

墨で襖や障子に描かれたモンスター。安達ヶ原の鬼婆伝説からのインスパイアです。

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小さいお子さんが見るとトラウマになってしまうのではないか、と心配してしまうほどの迫力です。ある意味、心を病んだ折の智恵子の内面を表しているようにも感じられました。光太郎曰くの「意識を襲う宿命の鬼」(詩「山麓の二人」 昭和13年=1938)です。

灯籠を使った作品もありました。

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2階の智恵子居室の公開も正式に始まっていました。

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先月行われた【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会の際に作成されたパネル、1回こっきりの使用ではもったいないということで、こちらに運び込まれていました。

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ビエンナーレによるこの状態が11/6(日)までだそうです。

ビエンナーレ関連の報道を紹介しておきます。

絵画、オブジェ…共演 二本松で現代美術ビエンナーレ開幕

 「福島現代美術ビエンナーレ」は8日、二本松市の大山忠作美術館などで開幕した。市内の各施設を舞台に国内外の芸術家の絵画やオブジェが一堂に展示されている。
 実行委員会の主催。大山忠作美術館には大山忠作氏の「菊」、松井冬子さんの「たちどころに破れた異物」など菊をテーマにした作家18人の絵画と陶芸合わせて24点が並ぶ。多彩な作品が来場者を魅了している。
 智恵子の生家には現代美術家小松美羽さんのふすま絵が展示されている。鬼婆(おにばば)伝説をモチーフにした絵が訪れた人の注目を集めている。
 主な会場は次の通り。問い合わせは道の駅安達 電話0243(61)3100へ。
 大山忠作美術館、市民ギャラリー、歴史資料館、県立霞ケ城公園(二本松の菊人形)、二本松工藝舘、県男女共生センター、大七酒造、千の花、智恵子の生家、観世寺、安達ケ原ふるさと村、道の駅安達
( 『福島民報』   2016/10/09)


【折々の歌と句・光太郎】

ほろほろと蓼のはなちる里川の水に輪をかく水すましかな

明治33年(1900) 光太郎18歳

画像は近所で愛犬との散歩中に撮ったイヌタデです。

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当方、「タデ」というとこればかりを思い浮かべていましたが、調べてみるといろいろ種類があるようでした。自宅兼事務所の庭に勝手に群生しているこれもタデの一種だそうです。

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昨日は福島県二本松市に行っておりました。2日の日曜日に歴史資料館さんでの、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の開会行事および記念講演会、さらに午後からは智恵子を偲ぶ「第22回レモン忌」に参加して参りましたが、その際に見られなかったものやら、新たなイベントやらがあり、2週続けての来訪となりました。

朝6時に千葉の自宅兼事務所を出発。愛車を駆って一路二本松へ。こうした場合のお約束で、出がけは雨でした。途中であがりましたが。

9時少し前に二本松に到着。まずは霞ヶ城公園の「二本松の菊人形」に。昨日9時開場ということで、ほぼ一番乗りでした。

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一般料金700円。券売機に並ぼうとした直前、当方の名を呼ぶ声が。誰かと思ったら、智恵子生家の近所でお店を営む戸田屋商店さんの女将さんでした。菊人形会場の入り口前に、出張店舗を出されているとのこと。そして何と、菊人形の無料券を頂いてしまいました。ありがたや。当方、普段の行いは決して良くありませんが、時折こういう強運に恵まれます(笑)。

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昨年一昨年と、智恵子の菊人形が出ていました。今年も出るかと思っていましたが、今回は菊人形としてのパンフレットは発行されていませんので、不明でした。もっとも、昨年もメインテーマの「幕末維新伝」以外の部分で智恵子人形が展示されていました。

さて、会場内へ。今年のメインテーマは「あっぱれニッポン! 世界に誇れる日本人」ということで、さまざまな偉人をかたどった菊人形が並んでいます。二本松出身の歴史学者・朝河貫一や、会津の新島八重など。

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毎年出ている五重塔。そして、今回、福島現代美術ビエンナーレとのコラボで、巨大なオブジェ「花の女神 フローラ」が。

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先日、ビエンナーレの特別顧問を務められている一色(大山)采子さんに、「6㍍の巨像」と聞いていたのですが、どう見ても6㍍はありません。説明板を読んで納得いきました。普段は眠っているそうですが、日に2回、目覚めて立ち上がるそうで、その際の高さが6メートルなのですね。

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会場最上部には動物とのふれあいコーナー。ラマ君がいました。しかし、ここまでのコーナーに智恵子がいませんでした。ここから先は例年、人形は並べられないゾーンです。「何だ、今年は智恵子人形はなしか……」と思っていたところ、何と最後の最後にいました。

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一昨年、昨年とも、ちょうど当方が来た際に、智恵子人形は作業小屋で菊花の補修中だったため、ちゃんと並んでいる智恵子人形は初めて見ました。

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菊むすめの皆さん。華やかですね。


霞ヶ城を後に、駅前の市民交流センターへ。10時から「智恵子講座2016」、喜多方市美術館館長の後藤學氏による「セザンヌと後期印象派」。同地で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの主催で、昨年から引き続き「高村智恵子に影響を与えた人々」のメインテーマの元に行われています。

セザンヌは画家志望だった智恵子が非常にいいと言っていたという経緯もありますし、光太郎も自著『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915)などで好意的に紹介しています。

お話はセザンヌ、そして同時代の作家たちに関してで、非常に示唆に富むものでした。ただ、時間の都合などもあり、後期印象派に関する内容があまりなかったのが残念でした。海外留学からの帰国後、一時は彫刻家と言うより画家だった光太郎は、フォービズムの影響を色濃く受けています。


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終了後、後藤氏、それから夢くらぶの皆さんと昼食。午後からは歴史資料館で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」を拝見。当方、二度目でしたが、前回はオープン直後でゴタゴタしていたのに対し、今回はゆっくり見られました。

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会場内で十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏ご一家と遭遇。いらっしゃるということは伺っていましたが、当方同様、市内のあちこちを廻られるということでしたので、会えないだろうと思っておりました。ご家族の方々とは、一昨年の十和田湖湖水まつりでご一緒させていただきましたが、二人のお子さんが大きくなっていて、驚きました。

その後、さらに智恵子生家及び智恵子記念館へ。長くなりましたので、明日に回します。


【折々の歌と句・光太郎】

観自在こそ たふとけれ まなこひらきて けふみれば 此世のつねの すがたして わが身はなれず そひたまふ           
昭和21年(1946) 光太郎64歳

昨日のこのコーナーで、短歌ではない「五・七・五・七・七・七」の仏足石歌をご紹介しました。ついでといっては何ですが、やはり短歌ではない歌体の和歌をご紹介します。

『高村光太郎全集』では、そうするしかないので詩の項に分類していますが、「七・五」を四回繰り返す「今様」という形式です。「いろは歌」などもこのスタイルですね。

「観自在」は観世音菩薩、いわゆる観音様です。仏師の家系に育った光太郎、幼い頃から光雲作の観音像などを目にし、自然に観音信仰に染まっていました。ただ、盲進的・狂信的な崇拝ではなく、「ふと気がつくと、常に観音様に守られているような気がする」的な感じだったと思われます。

ブロンズの代表作「手」は観音菩薩の「施無畏」の印相。それは「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも受け継がれます。

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また、戦後にはこの歌を揮毫して人に贈るということもたびたびありました。岩手県北上市後藤の平和観音堂境内には、光太郎が贈ったこの歌の揮毫を刻んだ碑が建っています。

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今年に入ってからも、花巻温泉にあった松庵閣という高級旅館の仲居さんに贈った揮毫が市場に出たりもしています。

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大阪は堺、光太郎の父・光雲がらみの企画展です。

河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」

期 日 : 平成28年10月26日(水曜)~12月4日(日曜)
会 場 : 町家歴史館 清学院   堺市堺区北旅籠町西1丁3-13 10時~17時
      町家歴史館 山口家住宅 堺市堺区錦之町東1丁2-31   10時~17時
      堺市博物館        堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁大仙公園内
  9時30分~17時15分
料 金 : 清学院 100円(65歳以上の方、障害のある方、中学生以下無料)
      山口家住宅 200円(65歳以上の方、障害のある方、中学生以下無料)
      堺市博物館 一般200円 高大生100円 中高生50円
 (65歳以上の方、障害のある方無料)

007 河口慧海(かわぐち えかい・1866年~1945年)の生誕150年となる本年、生誕の地である堺で、慧海の人と事績、ひいては慧海を生んだ堺の地に焦点をあてた記念事業を開催します。
 慶応2年(1866年)、堺山伏町(現在の堺区北旅籠町西3丁)に生まれた河口慧海は、仏教の原典を求めて日本人で初めてヒマラヤを越えて当時鎖国下のチベットに入った人物として知られています。帰国後刊行された『チベット旅行記』は、仏教学者だけではなく、民族学者、探検家にも高く評価され、英訳も出版されました。
 展示は、「慧海と堺展」と題して、10月26日(水曜)から12月4日(日曜)まで、清学院・山口家住宅・堺市博物館で行われます。主な展示品は、チベット探検時の日記や愛用の辞書、慧海の求めに応じて近代彫刻史の巨匠 高村光雲が制作した「釈迦牟尼(しゃかむに)仏像」、慧海を生涯支えた堺の親友 肥下徳十郎(ひげ とくじゅうろう)宅に伝わった「くり抜き日記帳」などです。
 講演会・シンポジウムと合わせて、河口慧海と慧海を生んだ堺を身近に感じていただければと思います。

関連行事

講演            奥山直司氏(高野山大学教授)・高山龍三氏
パネルディスカッション 奥山直司氏、高山龍三氏、吉川和子氏

平成28年11月3日(木曜・祝日) 午後1時30分~午後3時30分
会場 さかい利晶の杜(堺区宿院町西2丁1番1号)

光雲作の「釈迦牟尼仏」は、堺市博物館さんでの公開だそうです。

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日本人で初めてチベットに入った僧侶・河口慧海は、高村家の近くに住んでいた時期もあり、光雲や光太郎と交流がありました。

光雲は今回展示される「釈迦牟尼仏」や「大黒天像」などを慧海の求めに応じて制作。同様の仏像は仙台の福島美術館さんにも収蔵されています。

光太郎も戦時中に慧海自身の坐像の制作に携わりました。ただしこちらは作品の現存が確認できていません。おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼失したと考えられます。


さて、ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

あらためてわがあなうらを見にければ蓮のうてなもなにもなかりきうたもなかりき

昭和23年(1948) 光太郎66歳

古代インドでは、仏像を作る習慣はありませんでした。西方のヘレニズム文化の影響を受け、いわゆるガンダーラ地方あたりで初めて仏像が作られる紀元前2世紀頃まで、仏教では仏像の代わりに法輪や菩提樹の木、そしてその足跡を石に刻んだ仏足石などによって、象徴的に釈迦信仰が行われていました。

仏足石の中には、「足下二輪相」というスタイルがあり、法輪をかたどった丸い紋様が刻まれているものがあり、その紋様は蓮の花にもよく似ています。この歌はそういった背景を持っています。

「あらためて自分のあなうら(足の裏)を見ても、蓮のうてな(台)も、何も無い。歌も無い。」といったところでしょうか。

ところでこの歌、『高村光太郎全集』では短歌の項に掲載されていますが、短歌ではありません。指折り数えてみると五・七・五・七・七・七と、七が一つ多いのです。この形式を「仏足石歌」と呼びます。オリジナルは奈良・薬師寺の仏足石歌碑。ここにこのスタイルの21首の歌が刻まれており、『古事記』、『万葉集』、『播磨国風土記』に類例が認められます。『高村光太郎全集』では、解題の部分に仏足石歌体である旨の記述が為されています。

こうした古歌の形式にも通じていたさしもの光太郎も、自分の足の裏を見てもお釈迦様のような蓮華紋はついていなかったようです(笑)。当方にもついていません(笑)。

各地の皆さんからいろいろな出版物のご寄贈を頂いています。  

日本文學誌要 第94号

2016年7月23日 法政大学国文学会 非売

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法政大学さんの文学部日本文学科、大学院日本文学専攻の学生、教員、OB的な方々による法政大学国文学会の紀要です。

同大教授・中丸宣明氏のご講演「忘れられた!?文学者たち 野沢一・清水泰夫・羽田中誠など ―法政ゆかりの作家たち序―」の筆録が掲載されており、光太郎とゆかりのあった詩人・野沢一に触れられています。

野沢一についてはこちら。


野沢一のご子息で、連翹忌ご常連の俊之氏からいただきました。


続いて、季刊雑誌『コールサック』。版元のコールサック社さんから届きました。 

季刊 コールサック 第87号

2016年9月1日 コールサック社 定価1,000円+税

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やはり光太郎とゆかりのあった詩人・黄瀛(こうえい)がらみで、同社刊行の『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』(佐藤竜一著)の書評が掲載されています。評者は評論家の新藤謙氏、法政大学国際文化学部教授・岡村 民夫氏。

黄瀛に関してはこちら。


さらに、同社刊行の『少年少女に希望を届ける詩集』の広告も。

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さらに文芸同人誌『北方人』。発行元の北方文学研究会主宰、盛厚三氏から届きました。

北方人 第25号

2016年9月 北方文学研究会 非売品

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かわじもとたか氏ご執筆の「書誌/装幀挿話(1)」で、光太郎の装幀について触れて下さっています。


最後に、埼玉県東松山市の広報紙   

広報ひがしまつやま10月号 

2016年10月1日 東松山市 非売品

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過日、同市立図書館で行われた「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」、及び田口弘氏講演会の関係で、市役所の方から頂きました。

同市の東武東上線高坂駅前から延びる高坂彫刻プロムナード~高田博厚彫刻群~が特集されています。

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光太郎胸像はやや別格扱いで、大きく画像が。ありがたや。

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ご寄贈下さった皆様、ありがとうございました。


【折々の歌と句・光太郎】

ざくろの実ふたつならべば木に彫りしざくろ取らんかふたつながら取らん
大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫「柘榴」シリーズ最終作です。写真は故・髙村規氏です。

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最近、新聞各紙に出た光太郎がらみの記事、コラムをを3本ご紹介します。ネタが少ない時は一つずつご紹介しますが、どうも毎年この時期は「芸術の秋」ということもあり、紹介すべき事項が山積しています。

まずは先月末の『日本経済新聞』さん。東京ステーションギャラリーさんで開催中の企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」 の紹介です。 

大正期の美術 裏方に光 「動き出す!絵画」展

 東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで開催中の「動き出す!絵画」展は、大正期の美術界を裏方として支えた北山清太郎(1888~1945年)の活動に光を当てた展覧会だ。
 北山は明治45年(1912)、雑誌「現代の洋画」を創刊、ゴッホ、ゴーギャンなどのポスト印象派や、イタリア未来派などの芸術を紹介する一方で、岸田劉生や木村荘八、高村光太郎らが参加したグループ展の事務方を務め、彼らの活動を支援した。
(以下略、下記画像参照)

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同展、なかなか好評のようで、ネット上のさまざまなサイト、ブログ等で紹介されてもいます。光太郎関連では、以前も書きましたが、めったに展示されない油彩の「佐藤春夫像」が出ているため、それについての記述が目につきます。


続いて10/2の『産経新聞』さん。一面コラムに光太郎の名が

【産経抄】人生を思案… 「8本足」の火星人ならば何と答えるか?

 人生について思案するとき、人は夜空に答えを求めるものらしい。高村光太郎は沖天に赤くともった星を見上げ、詠んでいる。〈おれは知らない、人間が何をせねばならないかを。おれは知らない、人間が何を得ようとすべきかを〉と。『火星が出てゐる』という詩の一節にある。
 ▼答えにより近づこうと試みたのは歌人の窪田空穂(うつぼ)だった。〈宇宙より己れを観(み)よといにしへの釈迦(しゃか)、キリストもあはれみ教へき〉。人も、人がよって立つ大地も夜空が産み落とした子であり孫でしかない。人は何ゆえに-の答えを星たちに問うてきたゆえんだろう。
 ▼火星への初飛行を2022年にかなえたいと、米国の宇宙ベンチャー企業が計画を公表した。100人以上が乗れる宇宙船の旅は1人約2千万円という。火星移住を含め庶民には縁遠い構想だが、〈宇宙より己れを〉の境地が味わえるなら悪くない買い物ではある。
 ▼ほんの100年前までは火星人の存在を夢想し、SF小説で襲来におびえる人類だった。今や人口は70億人を超え、温暖化や食糧問題などいさかいの種のはけ口として、火星に答えを求めている。詩情や哲学に乏しい夜空への問い掛けに詩人も歌人も渋面であろう。
▼ここ半世紀の探査で火星人の存在は否定された。「夢を失った」と嘆いたのは、亡き橋本龍太郎元首相である。タコ形をした巨大な頭の中には、高度な知性を蓄えていたとされる。存外、探査など及ばぬ場所に潜み、こちらの動静をうかがっているのかもしれない。
 ▼人は何ゆえに-の問いに対し、「考える葦(あし)」ならぬ「8本足」ならば何と答えるか。聡明(そうめい)であろう火星人に聞いてみたい気もする。異形のお隣さんをまぶたに浮かべ、秋の夜長に思いを巡らせてみるのも楽しい。


今年5月に火星と地球が大接近した頃、『福井新聞』さんの同じく一面コラムで、同様に「火星が出てゐる」が紹介されていました。


さらに『長崎新聞』さん。やはり一面コラムで、10/3の掲載です

水や空 ハナ子亡き後 

国語の教科書で読んだ記憶があるような。高村光太郎に〈何が面白くて駝鳥(だちょう)を飼ふのだ。〉という問いで始まり〈人間よ、もう止(よ)せ、こんな事は。〉という提言で結ばれる「ぼろぼろな駝鳥」という詩がある▲ダチョウには「四坪半」の動物園の柵は狭すぎる、と詩人は憤りをぶちまける。「眼は遠くばかり見てゐる」と観察の目を凝らし「瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐる」「小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐる」と胸中を代弁する▲「新明解国語辞典」にはひと頃、「動物園」の項に〈多くの鳥獣・魚虫に対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする人間中心の施設〉なる強烈な定義が記され、関係者の反発を呼んだことがあるそうだ▲佐世保市の九十九島動植物園で長く人気を集めていたインドゾウのハナ子が急死した。新たなゾウの飼育には幾つもハードルがあるらしい。かつて詩人や辞書が嘆いた飼育環境が改善に向かっていることも"難題"の一つだ▲「動物園に行こう」。父や母の言葉に胸を弾ませた頃が誰にもある。大きい、かわいい、怖い-さまざまな「いのち」で地球ができていることを、この場所で教わってきた▲佐世保市は園の運営について、年度内に方向性をまとめる方針という。論議を注目したい。(智)
 

東京井の頭公園で飼育されいた「はな子」かと思ったら、別の個体でした。「ハナ子」は、佐世保の九十九島動植物園(森きらら)で、昭和47年(1972)から飼育されていた象で、9/14に亡くなったそうです。井の頭公園の「はな子」は昭和24年(1949)に来日、やはり今年5月に亡くなりました。

引用されている「ぼろぼろな駝鳥」は、光太郎詩の中では有名な作品の一つですね。

  ぼろぼろな駝鳥008

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。


右は戦前に発行された上野動物園の絵葉書です。もしかすると光太郎が見て、この詩のモデルにした個体かも知れません。


ところで、「ぼろぼろな駝鳥」は連作詩「猛獣篇」の一篇ですが、同じ「猛獣篇」には象をモチーフにした詩もあります。

  象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、007
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。

大正15年(1926)の作。明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ留学中の経験を下敷きにしています。画像はニューヨーク時代の光太郎です。


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象はゆつくり歩いてゆく。
一度ひつかかつた矢来の罠はもうごめんだ。
蟻の様に小うるさい人間どものずるさも相当なものだが、
何処までずるいのかをたのしむつもりで
おれは材木を運んだり芸当をしたり
御意のままになつて居てみたが
この蟻どもは貪欲の天才で
歯ぎしりしながら次から次へと凶器を作つて同志打したり
おれが一を果たせば十を求める。
おれを飼い馴らしたつもりでゐる
がまんのならない根性にあきれ返つて
鎖をきつて出て来たのだ。
今に鉄砲でもうつだろう。
時時耳を羽ばたきながらジヤングルの樹を押し倒して
象はゆつくり歩いてゆく。

昭和12年(1937)の作。翌年には智恵子が肺結核で亡くなります。この頃から光太郎は、世間と縁を切り、智恵子と二人で蟄居のようにアトリエに籠もって芸術制作に邁進していた生活が、智恵子の心の病を招いたとの反省から、逆に積極的に世の中と関わろうとします。ある意味、そうでもしないと自分も心を病んでしまうかもしれないという憂慮もあったとも推定できます。

しかし、その積極的に関わろうとした世の中は、どんどん戦時の泥沼に嵌っていきます。この「象」が書かれた昭和12年(1937)には日中戦争がはじまりました。「人間ども」は植民地支配を進めていた欧米列強、「象」は日本を含めたアジア諸国の象徴として描かれているようにも読み取れます。

「猛獣篇」の詩篇は、初期の「ぼろぼろな駝鳥」の頃は、人間性を抑圧する社会への警句だったものが、のちにはさらに後に乱発された翼賛詩につながるものへと変容していきます。いつの間にか「社会」体「個人」が、「欧米」対「アジア」にすりかわってゆくのです。

国会の施政方針演説で与党議員が総立ちで拍手を送るという、ナチスドイツのような異様な光景が展開されている今、あらためて、このあたりも考えてみたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ざくろの実木に彫るばかりまるまると枝垂りさがりうれにけらずや

大正13年(1924) 光太郎42歳

一昨日からご紹介している、木彫「柘榴」にかかわるシリーズの一つです。

千葉県立美術館さんの主催行事を二つ。

まずは企画展です。光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝、高村豊周にかかわります。  

メタルアートの巨人 津田信夫

会  期 : 2016年10月25日(火)~2017年1月15日(日)
会  場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1-10-1
時  間 : 午前9時~午後4時30分 10月25日のみ午前10時30分開場
休  館 : 月曜日 12/28~1/4
料  金 : 一般500円(団体400円)、高校・大学生250円(団体200円)
       中学生以下、65歳以上は無料

千葉県佐倉市に生まれた津田信夫【明治8年(1875)~昭和21年(1946)】は、工芸家、教育者、工房の親方として多方面に優れた業績を残した、メタルアートの巨人です。

メタルアートの巨人、津田信夫の初期から晩年までの金工作品に、陶器などを加えた84点を、活動を共にした工芸家の関連作品とともに展示します。また、国会議事堂の扉製作をはじめとした依嘱製作事業に関するコーナーを設け、津田信夫の業績の全貌に迫ります。


■主な展示作品
津田信夫《憂鬱(ゆううつ)の婦人像》/《壺形アラビヤ文青銅花瓶》/《兎》/《英雄闘志》/《鳳翔薫炉(ほうしょうくんろ)》/《白鳥》ほか
(関係作家)
大島如雲(じょうん)《小槌鼠香炉(こづちねずみこうろ)》/岡崎雪聲(せっせい)《二宮尊徳置物》/沼田一雅(かずまさ)《猪》/杉田禾堂(かどう)《真珠飾黄銅花瓶》/高村豊周(とよちか)《青銅花入》/フランソワ・ポンポン《シロクマ》ほか

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関連行事

《美術講演会1》 平成28年11月19日(土曜日)13時30分~15時
「最後のマイスター 津田信夫の依嘱製作」 千葉県立美術館主任上席研究員 中松れい
 聴講無料、先着順(当日12時30分から受付)、200名

《美術講演会2》 平成28年12月17日(土曜日)13時30分~15時
「津田信夫とフランソワ・ポンポン-アール・デコのパリをめぐって」
 群馬県立館林美術館学芸係長 神尾玲子氏
 聴講無料、先着順(当日12時30分から受付)、200名

《ギャラリー・トーク》 会期中毎週日曜日と、11月3日(土曜日) 13時30分~14時
参加無料(入場料は必要)、事前申し込み不要


津田は豊周の師。そこで、弟子である豊周の作品も展示されるというわけです。

展示される「青銅花入」は、同館の所蔵。昨年、耐震工事終了に伴う同館リニューアルオープンの際に開催された「千葉県立美術館名品展」にも出品されていたものと思われます。


もう一件、同館主催行事です。隣町でやっていながら、うっかり見落としていました。すでに始まっています。 

第40回千葉県移動美術館(成田会場)「千葉県立美術館コレクション展~港のまちから空のまちへ~」

会  期 : 2016年9月23日(金)~10月16日(日)
会  場 : 成田市文化芸術センター スカイタウンギャラリー
        千葉県成田市花崎町828-11スカイタウン成田
時  間 : 午前10時~午後6時 (金曜日は午後8時まで開館)
休  館 : 10月11日(火曜日)
料  金 : 無料

千葉県立美術館の収蔵作品をより多くの県民の皆様に鑑賞していただくため、千葉県移動美術館を開催します。第40回を迎える今回は、成田市文化芸術センターと大網白里市保健文化センターの2会場で実施します。
第1会場となる成田市芸術文化センターでは、「千葉県立美術館コレクション展」と題し、県立美術館収蔵作品の名品から厳選した43点を展示します。ぜひご覧ください!

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光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年頃=1918頃)が展示されています。こちらも同館の所蔵です。

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それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

柘榴の実はなやかにしてややにがしたぐひなきまでくらしあかるし

大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日このコーナーでご紹介した短歌の異稿です。翌年の雑誌『明星』(第二期)に発表されました。

こちらは近所のお宅になっているザクロです。

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光太郎最後の大作である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ、青森十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号で、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」が6ページにわたって組まれています。

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十和田湖のシンボル、「乙女の像」に関しても記述があります。

■乙女の像  十和田湖の誘客に寄与
 十和田湖では、1912(大正元)年に十和田保勝会(現・財団法人青森県観光事業協会)が動力観光船を運航しました。1934(昭和9)年には青森〜和井内間、1935(昭和10)年には和井内〜毛馬内(けまない)間に省営バス(現・JRバス東北)が開通され、八甲田〜奥入瀬〜十和田湖ルートが開かれています。戦後の復興期である1950(昭和25)年に、青森県知事の津島文治(太宰治の長兄)らによって、観光客誘致のため、国立公園指定15周年を記念し、十和田湖に記念碑を建立する計画が立てられました。この計画により1953(昭和28)年に完成した記念碑「乙女の像」は、高村光太郎が彫刻を引き受けたもので、一躍十和田湖のシンボル的彫刻として有名になり、また、佐藤春夫作詞の歌謡曲「湖畔の乙女」が全国的に愛唱されたこともあり、「乙女の像」は十和田湖への誘客に大いに寄与しました。
対峙する2人の像は、高村光太郎が遊覧船に乗った際、澄んだ湖面に映った自分の姿にヒントを得て「自分自身を写す人間の理性」を表現したといいます。
 風雪に耐えながら幾千年朽ちるまで立つという像は、十和田湖観光事業の栄華と衰退、将来を無言で見つめています。

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また、「乙女の像」建立の目的は、「十和田の三恩人」の顕彰。その三人についても詳しく紹介されています。

■十和田の名は全国に
 1953(昭和28)年に高村光太郎作「乙女の像」が十和田湖岸に建てられました。この台座には、十和田国立公園の実現に奔走した大町桂月(けいげつ)、武田千代三郎、小笠原耕一の3氏の功績が刻まれています。「住まば日ひのもと本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬の 三里半」 これは、十和田を全国的に知らせた高知県出身の詩人、大町桂月の一首です。   
 1908(明治41)年に大町桂月は初めて十和田湖を訪れました。その後、1921〜23(大正10〜12)年にかけて十和田湖や八甲田山中を数多く探勝しますが、拠点とした蔦(つた)温泉をこよなく愛し、1925(大正14)年に蔦で永眠するまで、晩年を蔦で送りました。この桂月の文筆活動の効果で、景勝地としての十和田の名は全国的に知られるようになります。
 1911(明治44)年、桂月の紀行文を読んだ皇太子嘉仁親王(大正天皇)から、第18代青森県知事・武田千代三郎に、「十和田湖を観賞できないか」との御下問がありました。武田知事はさっそく十和田湖を視察し、1912(大正元)年の県議会に、三本木口と黒石口両線の開削費予算を提案し、頑迷な反対派を説得し、十和田湖への道を完成させます。
 この武田知事とともに、十和田湖の発展に尽力したのが、小笠原耕一です。小笠原は、法奥沢(ほうおくさわ)村(元・十和田湖町)の村長だった当時、大凶作に見舞われており、その救済事業として、当時の青森大林区署(元・青森営林局)に、十和田道の開削を具申し、焼山から奥入瀬渓流沿い、子ノ口から休屋までの区間を、幅員4尺(約1・3メートル)の牛馬道として開削し、翌1903(明治36)年に完成させました。岩石に覆われた奥入瀬渓流を切り開くためには、大量の火薬を使う難工事だったといいます。

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その他、一昨年、十和田湖畔にオープンした十和田湖観光交流センターぷらっと の紹介も。

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こうした地域の財産を持ち腐れにしないよう、広報紙などを通じて紹介していくのはいいことだと思います。また、ネットで公開することで、他地域の人々の目にも触れ、PRになると思います。

ところで十和田湖周辺、これから紅葉の盛りでしょう。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫「柘榴(ざくろ)」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。写真撮影は故・髙村規氏です。

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こうした木彫作品を包む袱紗や袋のたぐいは、そのほとんどが智恵子が縫ったものと推定されています。そこで、「たれとかたらん」=「誰と語ろうか」、この背後にはやはり智恵子の姿が見えてきます。

のちに心を病んだ智恵子、晩年の南品川ゼームス坂病院で、千数百点の紙絵を制作します。その中に、柘榴をモチーフとしたものもありました。夢幻の世界の中でも、幸せだった頃の遠い日々を思い起こしていたのかも知れません。

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今日は智恵子の命日、「レモンの日」ということもあり、福島ネタを続けます。

一昨日、福島の地方紙二紙に以下の記事が載りました。作曲家・湯浅譲二さん新曲演奏 故郷郡山への思い乗せる

記念曲を世界初演 郡山市制90周年・合併50年

 郡山市制施行90周年・合併50年を記念して同市出身の湯浅譲二氏が作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が2日、世界で初めて市民文化センターで演奏された。
 湯浅氏は市民に長年親しまれてきた安達太良山を題材に新作をイメージ。高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節である「樹下の二人」を歌詞に取り入れた。
 初演は「湯浅譲二 ふるさと郡山への想(おも)いによせて」コンサートで行われた。同市出身でベトナム国立交響楽団音楽監督・首席指揮者の本名徹次氏がタクトを振った。東京フィルハーモニー交響楽団の叙情的な演奏に乗せ、バリトンの松平敬氏が伸びやかな歌声を響かせた。
 同市は平成27年に市制施行90周年・合併50年を迎えた。このため、品川萬里市長が昨年、湯浅氏に記念の曲作りを依頼した。
(『福島民報』)

作曲家・湯浅譲二さん新曲演奏 故郷郡山への思い乗せる

 郡山市フロンティア大使で、同市出身の作曲家湯浅譲二さんによる市制施行90周年・合併50年記念委嘱作品の完成記念コンサート「湯浅譲二 ふるさと郡山への想(おも)いによせて」は2日、同市で開かれた。故郷郡山への思いを乗せたメロディーが、聴衆を魅了した。
  市、市教委、市民文化センターの主催。約1600人の市民らが来場した。
  指揮を市フロンティア大使の本名徹次さん、管弦楽を東京フィルハーモニー交響楽団、バリトンを松平敬さんが務めた。
  会場では、同記念委嘱作品の「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の2人』による」が初めて披露された。湯浅さんが郡山から見える安達太良山をイメージした新曲は、叙情的な旋律と詩が融合し、聴衆を感動の瞬間へといざなった。
  このほか組曲・こおりやま賛歌「ふるさと・わが街」の「こおりやま・わが街」などの曲も披露された。
(『福島民友』)


事前に情報を得ていなかったので、このブログではご紹介できませんでしたが、記事にあるとおり、2日の日曜日に智恵子の故郷・二本松にほど近い郡山で演奏会が開かれていました。


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湯浅氏は慶応大医学部中退という変わった経歴をお持ちの作曲家です。伝説のテレビドラマ「木枯し紋次郎」の音楽担当などもなさっていました。

平成25年(2013)に、当会の祖・草野心平が興した『歴程』同人の伊武トーマ氏作詞の復興支援ソング「ときよめぐれ(までいのロンド)」が演奏されたMFJ音楽祭で、やはり復興支援ソングとして「おやすみなさい」(作詞は故・長田弘氏)を披露されたりもしています。

今回は光太郎詩「樹下の二人」のトリビュート。ありがたいかぎりです。

安達太良山は二本松だけでなく、その山容の見える広い地域で愛されているということでもあるのでしょう。

今後、いろいろな場面で演奏されることを祈念しております。


【折々の歌と句・光太郎】

袖のところ一筋青き縞を織りて都大路をかまはず歩きし
昭和13年(1938) 光太郎56歳

今日は智恵子命日「レモンの日」です。10月に入り、キッチンのカレンダーを一枚めくると、ちゃんと「レモンの日」がイラスト入りで書き込んであり、驚きました。

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近所のスーパーが無料でくれるカレンダーなのですが、スーパーだけに、食材に関わる「○○の日」がかなり網羅されているようです。他には2日が豆腐の日、13日でサツマイモの日、15日はきのこの日、26日の柿の日など。他にもいろいろ書いてありますが、それはどうやらそのスーパーでのその日の特売品目のようです。

さて、上記短歌。主語がありませんが、やはり智恵子です。

この年の今日、智恵子が亡くなり、生前親交のあった作家で染織家の山崎斌(あきら)がその死を悼み、「袖のところ一筋青き縞を織りて麗(あて)なりし人いまはなしはや」という短歌を詠みました。それに対する返歌として詠まれたものです。

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ともに、油絵制作に絶望した後、郷里から機織り機を取り寄せて、草木染めなどにも取り組んだ智恵子へのオマージュです。上記は智恵子生家に展示されている機織り機です。

一昨日の午前中、智恵子の故郷・福島二本松市の歴史資料館と智恵子記念館で「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」が始まり、その開会行事および、二本松市コンサートホールでの記念講演会に参加して参りました。

午後からは、智恵子生家に近いらぽーとあだちさんに於いて、智恵子を偲ぶ第22回レモン忌が開催されました。

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左上は智恵子肖像に献花、そして智恵子が好きだったというレモンの献果の様子。

その後、出席者全員で光太郎詩「値ひがたき智恵子」朗読。

右上は主催の智恵子の里レモン会・渡辺会長のご挨拶。さらに祝辞があり、記念撮影。第一部はこれで終了でした。

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第二部は、会食しつつの懇親会。合間にスピーチやアトラクション演奏等が入ります。まずは午前中の記念講演会でも演奏されたぷらイムのお二人。テルミン・大西ようこさん、ギター・三谷郁夫さんです。

途中から、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんが加わり、朗読をご披露されました。7月には花巻高村光太郎記念館でコラボを実施されています。

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座席は指定席で、お隣は女優の一色采子さんでした(ただ、「ギャラが発生しない場合は本名の「大山采子」で参加」とのことで、以下、大山さんと表記します)。二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏のご息女ということで、父上の作品を市に寄贈、大山忠作美術館が誕生しました。そのご縁で二本松観光大使を務められています。当方、同館で3年前に開催された有馬稲子さんと大山さんのトークショー以来、親しくさせていただいており、連翹忌にもご参加下さっています。

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そこでお召し物は二本松の菊人形オリジナルTシャツ。さすがです。缶バッヂは菊人形のゆるキャラ・菊松くん。

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その大山さんもスピーチ。その後、テルミンの体験演奏も。

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大山さん、今年は福島ビエンナーレ実行委員会特別顧問も務められているとのことで、そのご紹介がありました。下記は大山さんにいただいたA4見開きのマップ入りパンフレット。クリックで拡大します。

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ちなみに歴史資料館での「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」では、お父様の大山忠作画伯が智恵子を描いた作品も展示されています。

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その後もスピーチが続きました。

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前日に東京町屋で「第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会」に臨まれた、作曲家の野村朗氏。

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智恵子も通った太平洋美術会の坂本富江さん。

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大阪からいらした高村光太郎研究会の西浦基氏。

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最後は二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を全員で歌ってお開きとなりました。


閉会後、この日のレモン忌参加者に限り、期間前ながら智恵子の生家二階を無料で解放するというので、ぷらイムのお二人、荒井真澄さんらと、そちらに向かいました。

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庭には秋らしくムラサキシキブ。

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昨年の公開時にも2階に上がらせていただきましたが、何度訪れてもいいものです。

教育委員会の方が待機されており、いろいろお話を聴けたのもラッキーでした。

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一階の座敷と縁側の間の欄間。二本松らしく、菊花があしらわれています。笑っているようにも見えますね。内側から見ると、下のような見え方になります。

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時間の都合もあり、隣接する智恵子記念館での紙絵実物展示は見ませんでした。また来週10日にうかがいますので、その時に拝見します。

その後、愛車を駆って帰路につきました。下記はお土産に頂いたグロキシニア。午前中の講演会、午後のレモン忌で会場に飾られていたものです。グロキシニアといえば、明治45年(1911)、駒込林町の光太郎アトリエ竣工の際、智恵子が光太郎に贈った花で、たびたび光太郎詩に謳われています。

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お土産といえば、今回、レモン忌にはご参加叶わなかった、青森十和田の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方から、ミネラルウォーター「十和田湖美水」が参加者に配られ、ありがたくいただいて帰りました。

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最後に、ネットで『福島民報』さんの企画展の記事が見つかりましたので、載せておきます。

二本松で企画展始まる 智恵子と光太郎に焦点

 二本松市出身の洋画家高村智恵子と夫で詩人の光太郎を紹介する企画展「智恵子と光太郎の世界」は2日、市歴史資料館と市智恵子記念館で始まった。11月27日まで。
 市の主催。智恵子生誕130年、光太郎没後60年を記念して企画された。智恵子が制作した油彩「花(ヒヤシンス)」や病床で完成させた「紙絵」、光太郎が智恵子を詠んだ詩集「智恵子抄初版」など二人にちなむ作品や資料合わせて約170点が両会場に展示されている。
 初日は資料館で開場式を行い、新野洋市長らがテープカットした。
 時間は資料館が午前9時から午後5時(入館午後4時半)まで、記念館が午前9時から午後4時半(入館午後4時)まで。料金は資料館・記念館セットで一般500円、高校生以下250円。問い合わせは資料館 電話0243(23)3910へ。



【折々の歌と句・光太郎】

北国の女人はまれにうつくしき歌をきかせぬものゝ蔭より
昭和5年(1930)頃 光太郎48歳頃

数年前に色紙揮毫の形で新たに見つかった短歌です。

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「北国の女人」はやはり智恵子でしょう。

これも数年前に見つけた、昭和25年(1950)、岩手水沢での光太郎講演会の筆記録に、こんな一節がありました。

 私は、私の妻の智恵子を思い出しています。七年間の病気。その最中に歌をうたうんです。実に機知にとんだうたを。学校でも、家でも、人の間にいてもうたったことがないのに、しかも、あのひなびたうたをうたうんです。花がすみ(酒の名)をつくったりする時のうたや、はやりうたをうたうんです。いつか印象づけられたにちがいないうたを、上手にうたうんです。

智恵子の歌声、聞いてみたかったものです……。

昨日はまた智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。

二本松市歴史資料館および智恵子記念館で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」が始まり、その開会行事および記念講演会、さらに午後からは智恵子を偲ぶ「第22回レモン忌」があり、それぞれ参加して参りました。2日に分けてレポートいたします。今日は企画展がらみで。

自宅兼事務所から愛車を駆って約3時間、午前8時30分頃、二本松市歴史資料館に到着。当方、雨男・光太郎の霊魂を背負っていますので(笑)、途中、茨城県内で驟雨に見舞われましたが、福島に入ると晴天となりました。東北道安達太良サービスエリアからの安達太良山が、「ほんとの空」をバックにきれいでした。

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9時から開会行事。

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その後、一般公開開始です。

会場は2階の2室を使い、光太郎智恵子の生涯を概観するコーナー、詩集『智恵子抄』やその二次創作等を紹介するコーナーなど。あまり広くないスペースですが、一般の方々は普段目にすることのないであろう貴重な資料がみっしり並んでいます。当方も実物は初めて見る、というものが少なからずありました。

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智恵子の実家、二本松(旧油井村)の長沼酒店の引き札。何とか入手したいものだと思っていますがなかなか見つからないものです。

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智恵子の文章が掲載されている雑誌。この辺りは蒐集の対象としていないので、実物は初めて見ました。

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智恵子が晩年、南品川のゼームス坂病院で制作した紙絵の実物が3点、展示されています。

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光太郎の肉筆揮毫。

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平塚らいてう、草野心平ら、周辺人物の肉筆。

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智恵子の顔を持つといわれる、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)中型試作」。普段は智恵子記念館に展示されていますが、今回、歴史資料館に移動しています。智恵子の油絵、素描なども同じです。その代わり、智恵子記念館では紙絵の実物をごっそり展示しています。

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さまざまな『智恵子抄』。

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このあたりは当方がお貸ししたものです。

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なかなか充実の展示でした。会期は11月27日まで。ぜひ足をお運びください。

その後、近くの二本松市コンサートホールに移動、記念講演会でした。

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オープニングアクト的に、テルミン大西ようこさん、ギタリスト三谷郁夫さんによるユニット「ぷらイム」による演奏。花を添えて下さいました。曲目は一昨年、お二人で行われた「もう一つの智恵子抄」。
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その後、高村光太郎研究会員の大島裕子氏によるご講演。題目は「『智恵子抄の世界』―智恵子生誕130年に伝えたいこと―」。

本年2月に亡くなられたご主人・名古屋学芸大学教授だった龍彦氏がご生前提唱なさっていた、文芸学的な詩の読み方、近年明らかになった智恵子と竹久夢二の関わり、明治末、大正初めの智恵子の「婚約」などについて、興味深い示唆がありました。

この後、旧安達町のらぽーとあだちに移動、智恵子を偲ぶ「第22回レモン忌」が開催されました。例年はそちらで記念講演が行われますが、今回は企画展とタイアップ、レモン忌参加者以外にも門戸を開くということで、レモン忌とは別会場だったわけです。

レモン忌につきましては、明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

山坂の道し遠けど人目なくば抱き来ましを都の智恵子
大正13年(1924) 光太郎42歳

「~ば~まし」は反実仮想。「もし人目がなければ、東京に置いてきた智恵子を抱いてきたものを」とでも訳しましょうか。光太郎、この年、奥上州山間の温泉を巡っています。

このように、『智恵子抄』所収の短歌以外にも、智恵子を謳った光太郎短歌が数種確認できています。すでにいくつかはこのコーナーでご紹介していますが。

昨日は2件、用事を済ませて参りました。

まずは静岡県三島市の大岡信ことば館さんで開催中の「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」拝観。

光太郎の書簡が展示されているという情報を得たのが数日前、まず間違いはないだろうと思われつつも、若干あやふやな情報だったので、このブログではご紹介していませんでした 

谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・

期  日 : 2016年9月22日(木)~12月25日(日)
会  場 : 大岡信ことば館 静岡県三島市文教町1-9-11 Z会文教町ビル 1F、2F
時  間 : 10:00~17:00
休  館 : 月曜日 (10/10は開館 10/11振替休館)
料  金 : 大人1000円 学生(高校・大学生)600円 
       子ども(小・中学生)300円/未就学児無料

360度、谷川俊太郎!詩人であるのか、詩人でないのか。谷川俊太郎の多岐にわたる仕事を紹介し、谷川の「本当」の姿をお見せします!

本展では、少年時代に夢中になったという模型飛行機や、その後のラジオコレクションの一部などを紹介しながら、詩人谷川の原点を探り、谷川自身の手による写真などから、詩人の背後に見え隠れするものを探っていきます。また単体で詩として存在するもの、絵本のように他者とのコラボレーションにより存在するもの、それぞれにフォーカスすることで、谷川の言葉の奥行きと広がりに触れていきます。また谷川は、音として存在する詩の朗読にも力を入れています。会場では谷川の詩のいくつかを自身の朗読(録音)によって鑑賞いただけます。加えて同人誌「櫂」での活動や「連詩」を紹介。また展示室「大岡信の部屋」では、谷川俊太郎と大岡信の関わりを紹介していきます。

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昨日もご紹介した、コールサック社さん刊行の『少年少女に希望を届ける詩集』にも寄稿されたり、過日ご紹介した岡山県出身の女流詩人・永瀬清子の顕彰に関わったりと、今も精力的に活動を続けられている谷川俊太郎氏をメインにした企画展です。

氏の詩的世界をビジュアル的に紹介、単なる文学展というよりは、現代アート的な要素もふんだんに盛り込まれたものでした。

当方、光太郎以外に好きな詩人を挙げろ、と言われれば必ず入ってくるのが谷川氏。興味深く拝見しました。

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こちらが受付で頂いた会場案内図。クリックで拡大します。

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この中の、「9.書簡資料」のコーナーに、光太郎から谷川氏宛のハガキも展示されています。昭和29年(1954)5月20日、光太郎最晩年のもので、氏の詩集『62のソネット』の受贈礼状です。

ハガキ自体は昭和63年(1988)、思潮社さん刊行の『特装版現代詩読本 谷川俊太郎のコスモロジー』に画像入りで掲載されています。

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筑摩書房『高村光太郎全集』に未収録のもので、この書簡の情報を得た後、谷川氏に他に光太郎からの書簡はないか問い合わせましたが、残念ながら無いという御返事をいただきました。

したがって、今回展示されているのもこれだろうと当たりはついていましたが、現物は見たことがありませんし、万一、最近になって他の光太郎書簡が出て来たという可能性もなきにしもあらずなので、足を運びました。

結局、光太郎書簡はやはりこの一通のみでした。しかし、正確な日付、さらに速達で送られていたことも判明し、収穫はありました。それがなくともやはり光太郎自筆を目に出来るのは嬉しいことです。

ちなみに他には室生犀星、三島由紀夫、サトウ八チロー、河合隼雄、粟津潔、そして氏の父君・谷川徹三らの書簡が展示されています。


ところで、谷川氏の盟友にして、館の名前に冠されている大岡信氏も、光太郎と絡みます。

大岡氏は詩の実作以外にも近代詩史に関する論考が多く、そうした中で的確に光太郎を論じて下さっています。

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また、このブログで今年から始めた連載【折々の歌と句・光太郎】は、氏が昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、『朝日新聞』さんに連載されていた「折々のうた」の、ある意味パクリです。その第一回、昭和54年(1979)1月25日に取り上げて下さったのが、光太郎短歌の代表作「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。

「折々のうた」は岩波新書から随時刊行されましたが、先月、童話屋さんから『折々のうた―春夏秋冬―』として、4冊組で文庫版が出ました。その冬の巻に、第一回の「海にして……」の短歌、大正3年(1914)の詩「僕等」の一節が掲載されています。ことば館さんで購入して参りました。


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さて、ことば館さんを後に、再び新幹線で都002内に戻りました。東京駅八重洲地下街で昼食、そして東京メトロ千代田線に乗り込み、荒川区町屋へ。次なる目的、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会の拝聴です。名古屋在住の作曲家・野村朗氏が、光太郎の短歌に曲を付けた「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」が演奏されるので、聴きに伺いました。

明らかにネタが変わるので、レポートは後日にしようかとも思いましたが、今後も書くべき内容がてんこ盛りでして、一気に書きます。

会場は町屋駅近くのムーブ町屋ムーブホール。こぢんまりしたホールでした。

最初にタイトルに冠されている第20回TIAA全日本作曲家コンクールの表彰式。

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野村氏は、「歌曲・独唱部門 審査員賞」でした。

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その後、受賞作の演奏会に入り、プログラムの最後が、「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」。トリを飾るにふさわしい作品、演奏でした。

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歌詞カードがパンフレットに挟まっていました。

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基本、モール(短調)ですが、途中、「わが為事……」のところでドゥア(長調)に転調、しかしまたモールに戻ります。短歌六首というテキストをうまく活用した作りになっていて、感心させられました。また、旧作の「連作歌曲 智恵子抄」にも通じるメロディー構成の部分もあり、そういう意味での楽しみ方ができました。

演奏はバリトン・森山孝光氏、ピアノ・森山康子氏。以前から野村氏の作品(「連作歌曲 智恵子抄」など)の演奏に取り組んで下さり、今年の連翹忌でも演奏して下さいました。孝光氏の演奏で常々感心させられるのは、その朗々とした美声はもとより、必ず暗譜で演奏に臨まれること。康子氏の伴奏も主張しすぎず、しかし出るべきところは出、見事です。

ところが終演後、お話を伺うと、リハの際には孝光氏、大間違いをやらかしたとのこと(笑)。まあ、かえってリハがうまくいくと油断して本番でコケることも往々にしてありますので、却って良かったと思います。

演奏直後のお三方。

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ところで今日は今日で、また福島二本松。「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の開会行事に参加、その後、智恵子を偲ぶ第22回レモン忌に出席して参ります。野村氏もレモン忌にご参加の由。「ではまた明日」と、お別れして参りました(笑)。

明日はその辺りをレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

一見、智恵子歿後の作のように読めますが、まだ存命中の作です。

このブログ、昨日の朝、閲覧数ががっつり跳ね上がりました。

この記事を書いている段階では、前日のアクセス解析がまだ集計中なので確認できませんが、どうやら2ヶ月ほど前に書いた「『少年少女に希望を届ける詩集』。 」という記事にアクセスが集中したのだと思われます。この記事は、コールサック社さんから刊行された同名の詩集(光太郎を含む近現代物故詩人の詩、各界に呼び掛けて募られた書き下ろしの詩などが掲載されています)の紹介でした。

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NHKさんの朝のニュース番組「おはよう日本」中の、関東甲信越向けのコーナーで、この詩集が取り上げられたため、ご覧になった方々がネットで検索し、当方のブログにたどりつかれたのだと考えたわけです。

当方もオンエアを拝見しました。

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編集に当たられた詩人の曽我貢誠氏は、4月の連翹忌や8月の女川光太郎祭にご参加下さっています。

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この後、曽我氏が中学校教諭だった頃、不登校だったという元生徒さんがご出演。その方の詩もこの詩集に掲載されています。自らの不登校体験を踏まえ、飾らない言葉で悩める少年少女に語りかける、素晴らしい詩でした。

さらにこの詩集を使っての学校現場での取り組みなども紹介されました。

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先日、曽我氏から、新聞各紙記事のコピーが届きました。

『朝日新聞』さん。

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『河北新報』さん。

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『北海道新聞』さんには2本の記事が。

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昨今、悲惨な事件が相次いで報道されています。この国の民度――若い世代に限ったことではなく、社会全体の――がどんどん低下しているように感じるのは、当方だけでしょうか。またいわゆる引きこもりなどの問題も。

嘘くさい政治屋どもの唱える中身のないお題目などより、この詩集に収められた珠玉の言葉に触れることで、社会全体に希望が溢れてほしいものです。

この詩集には光太郎の「道程」と「冬が来た」が収められています。どちらも大正3年(1914)、つまり100年以上前に書かれたものですが、今も色あせず現代人にも通じる内容です。光太郎の言葉が今を生きる人々の希望に繋がるとすれば、泉下の光太郎もきっと喜ぶことでしょう。


『少年少女に希望を届ける詩集』、版元のコールサック社さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

今日はこの短歌を含む『智恵子抄』所収の「うた六首」に、作曲家野村朗氏が曲を付けた「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」を聴きに、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会行って参ります。

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