2016年09月

今週月曜日の『日本経済新聞』さん。文化面で「あをによし奈良への憧憬十選」という連載が為されていて、その9回目です。

あをによし奈良への憧憬十選 9 細谷而楽「翁舞像」

 「翁」の面をつけて老人が舞う。「翁」とは「能にして能にあらざる曲」とも呼ばれる神聖な儀式の能曲。演者が神となって言祝(ことほ)ぎ、舞って天下泰平や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る。
 この人形はその「翁」を舞う姿を造ったものだ。面や衣装に至るまでこまやかに表現されていて、彫刻の固さはさほど感じられない。
 これは木彫ではなく、天平時代の興福寺阿修羅像などと同じ「乾漆」という技法で造られている。作者は群馬県出身の細谷而楽(じらく)。東京美術学校塑像科で高村光雲に師事し、その後、奈良で仏像修復を扱う美術院で活躍する。特に乾漆彫刻の伝統技術を解明し、修復につなげた功績は大きく、新薬師寺十二神将の宮毘羅(くびら)大将(寺伝は波夷羅(はいら)大将)や法隆寺吉祥天像の修復は名高い。
 その技術が人形にも生かされている。細谷は昭和初期に春日大社が古典芸能の保存継承を目的に創設した「春日古楽保存会」で、金春流能楽師・桜間金太郎の舞う姿を見て、この乾漆で百体もの像を造ったという。これはその内の一つだ。
 奈良の文化財が今に守られ伝えられているのは、細谷のような人材と技術があったからだろう。その偉大な功績をしのぶよすがの翁舞像である。(1925年、乾漆彩色、像高36.3×幅18.7㌢、個人蔵)

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而楽細谷三郎。東京美術学校で光雲に師事、とありますが、学年としては光太郎と同期で、光太郎とのツーショット写真も残っています。左が細谷、右が光太郎。明治30年(1897)、光太郎14歳です。二人の奇妙な服装は、初期の東京美術学校の制服。「闕腋(けってき)」と呼ばれる昔の服を参考に制定されましたが、不評だったため程なく廃されました。

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細谷は明治8年(1875)または11年(1878)の生まれとされ、光太郎より8歳ないし5歳年長です。初期の美校ではさまざまな経歴の入学者がおり、生徒の年令の幅は広かったようです。

光太郎の文章等にもたびたび細谷の名が出て来ます。明治35年(1902)、それぞれが美校を卒業した際の卒業制作では、光太郎が日蓮(『獅子吼』)、細谷は俊寛と、それぞれ僧侶をモチーフにしたこと、同じ年の暮に、まだ実家で暮らしていた光太郎の彫刻室が火事で全焼した際に、後片付けの手伝いに来てくれたことなど。

卒業後、細谷は『日経』さんの記事にあるとおり、仏像修復の分野で活躍します。これには光雲が古社寺保存会の仕事もしていたため、そうした分野にも弟子たちの道筋を付けてやっていたという背景もあります。甲冑師の後裔だった明珍恒男などもそのクチでした。

それだけでなく、乾漆による実作でも上記のような秀作を残した細谷。この部分でも光太郎との関わりがあります。

昭和2年(1927)、青森十和田湖の道路整備等に尽力し、国立公園指定の礎を築いた地元の村長・小笠原耕一が歿しました。すると、小笠原と共に十和田湖周辺の開発を進めた元青森県知事の武田千代三郎が、盟友の死を悼み、自ら小笠原の塑像を制作しました。その原型を乾漆で完成させたのが細谷でした(画像左)。また、武田は自身の乾漆像の制作も細谷に依頼(画像右)。二つの像は十和田の蔦温泉にあった薬師堂に納められました。

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戦後になって、小笠原、武田、そして両者と親しく、文筆で十和田湖の魅力を広く世に紹介した大町桂月を併せた「十和田の三恩人」を顕彰する功労者記念碑として計画されたのが光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。

戦前から民間レベルで進められていた顕彰運動に細谷が関わっていて、戦後には光太郎がそのしめくくりに携わっているわけで、不思議な縁を感じます。

細谷而楽。もっと注目されていい作家だと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

昨日の「ひとむきに……」同様、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』に収められました。「おどろしき」は「恐ろしい」。

戦後、花巻に疎開した折、智恵子遺品の紙絵「いちご」にこの歌を添え、世話になった総合花巻病院長・佐藤隆房に謹呈。現在も花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。

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日曜、月曜の新聞2紙に、光太郎と交流のあった人々が大きく取り上げられています。それぞれ光太郎、光雲にからめてご紹介下さっています。

まずは『読売新聞』さんの日曜版。巻頭2ページにわたる「名言巡礼」という連載があります。全国の美しい風景とともに、毎回一人の人物の残した言葉にスポットを当てる企画です。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八も取り上げられました。

今回は、岡山県赤磐市で、永瀬清子。やはり光太郎と交流のあった女流詩人です。 

永遠に満たされぬ渇き 永瀬清子「あけがたにくる人よ」(1987年)

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その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった(「あけがたにくる人よ」より)

 あけがたにくる人よ
 ててっぽっぽうの声のする方から
 私の所へしずかにしずかにくる人よ

 詩人・永瀬清子の代表作「あけがたにくる人よ」は、そう始まる。山鳩(やまばと)がくぐもった声で鳴く薄明の時間に、かつて約束の場所に来なかった恋の相手が現れるという。

 その時あなたが来てくれればよかったのに
 その時あなたは来てくれなかった

 どんなに待ったことか。何もかも遅すぎ、自分は老いてしまった。苦い恋の記憶と喪失感が心にしみる。
 詩人の井坂洋子さん(66)は、「永瀬さんは私に欠けているものを全部持っている」と言う。1987年は俵万智さんの歌集「サラダ記念日」が刊行された年。井坂さんや伊藤比呂美さんら女性詩人の若い感性にも注目が集まっていた。清子は地方の片隅にいて、女としての苦闘と実感を詩に紡いだ。81歳だった。

 清子は現在の岡山県赤磐(あかいわ)市に生まれ、明治から平成までの長い波乱の時代を、妻として母として生き抜いた。東京で詩作が評価され、三好達治や高村光太郎らと交流もあったが、戦後は故郷で農業をしながら詩を書き続ける。平和を訴える社会活動に参加し、瀬戸内の島にあるハンセン病療養所で詩の指導もした。
 少女の頃から、家や社会に縛られているのを感じていた。詩を書くのは「本当の自分を誰かに知ってもらいたいからだ」と言っていた。「詩は宇宙への恋である」とも。欠乏感が原動力だった。「老いもその一つ」と井坂さんは考える。晩年、「やり尽くした気がしない」と本人も語っている。だから、老いをうたった詩も湿っぽくない。年を重ねるにつれ、清子の詩に励まされるという。「今こそ読んでほしい詩人です」
 欠乏と望みは裏腹だろう。詩「古い狐(きつね)のうた」には「あの時の祈り あの時ののぞみ/私のすべての値打(ねうち)の中味なのかもしれないのです」と記す。永遠に満たされぬ少女の渇きのまま、清子は89歳の誕生日のあけがた、静かに息を引き取る。(文・松本由佳 写真・林陽一)

上記は1ページ目。2頁めは画像でご覧下さい。クリックで拡大します。

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先日ご紹介した、赤磐市くまやまふれあいセンターで開催中の「宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」」展にからめ、宮沢賢治との関係が紹介されています。永瀬自身は生前の賢治との面識はなかったはずですが、賢治顕彰に骨を折った光太郎、草野心平らの影響もあって、賢治の魂に感化されたようです。

このブログで何度かご紹介した、昭和9年(1934)、賢治追悼会の席上で「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が見つかったエピソード(その場に永瀬や光太郎、心平もいました)が取り上げられています。

また、永瀬の故郷・岡山県赤磐市の紹介。当方も一度足を運びましたが、実にいいところです。ある意味「日本の原風景」のような。

永瀬清子、もっともっと世に知られていい詩人だと思います。


もう1件、月曜日の『日本経済新聞』さんに取り上げられた彫刻家・細谷而楽についてご紹介しようと思っておりましたが、長くなりますのでまた明日。このブログ、あまり執筆に時間がかかると、アップロードの際にエラーが出ます。


【折々の歌と句・光太郎】

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子

大正13年(1924) 光太郎42歳

10/5は智恵子の命日「レモンの日」です。それが近づいてきましたので、しばらく智恵子を謳った短歌をご紹介していきます。

昭和16年(1941)刊行の詩集『智恵子抄』には、巻末近くに「うた六首」として、この歌を含む六首の短歌が掲載されています。この歌はその冒頭に置かれています。

大正13年(1924)、光太郎は彫刻に、文筆に、脂の乗っていた時期です。「為事(しごと)」は、そうした芸術精進を指すとするのが一般的な解釈ですが、全く違った解釈で、性行為を謳っているという読み方もあります。そう考えると非常に生々しいのですが、『智恵子抄』にはずばり「淫心」という詩もあり、あながち的外れともいえないような気もします。

智恵子の故郷・福島二本松ネタが続きます。やはり生誕130年ということで、いろいろ企画されており、ありがたいことです。

こちらは毎年行われている市民講座です。主催は「智恵子のまち夢くらぶ」さん。当方も何度か講師を仰せつかりました。昨年からの通しで「高村智恵子に影響を与えた人々」がテーマ。昨年、第4回までが行われ、今年は第5回からのカウントです。 

智恵子講座2016

第5回 「セザンヌとポスト印象派」 
 期  日 : 2016年10月10日(月・祝)
 時  間 : 午前10時から
 会  場 : 二本松市市民交流センター 二本松市本町二丁目3番地1
 講  師 : 後藤學氏 (喜多方美術館館長)

第6回 「美の同志 高村光太郎~クラシックのギターと共に~」
 期  日 : 2016年11月20日(日)
 時  間 : 午後1時30分から
 会  場 : 福島県男女共生センター 二本松市郭内一丁目196-1
 講  師 : 宮川菊佳氏 (ギタリスト)

第7回 「平塚らいてうと青鞜社」/第8回 「参加者による高村智恵子を語るつどい」
 期  日 : 2016年12月20日(日)
 時  間 : 第7回 午前10時から  第8回 午後1時30分から
 会  場 : 福島県男女共生センター 二本松市郭内一丁目196-1
 講  師 : 澤正宏氏 (福島大学名誉教授)

    参  加  費 : 4,000円 
※ 最終日の昼食・文集代込みで、単回の受講も可。単回受講の場合、1回につき千円を添えて、各1週間前までに申し込みください。

問い合わせ/申し込み : 智恵子のまち夢くらぶ ☎0243(23)6743

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第一回の10/10が、「平成28年(2016年)第62回二本松の菊人形」初日にあたり、また、昨日ご紹介した智恵子の生家2階特別公開、智恵子記念館さんでは智恵子の紙絵実物展示も行っているので、この日にまとめて行って参ります。

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皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

嘘つかぬ我身あやふし秋のくれ     明治43年(1910) 光太郎28歳

自分に正直に生きることにより、周囲との齟齬やら軋轢やらが起こり、それで危害を加えられる、という意味で「我身あやふし」ではないのでしょう。齟齬や軋轢を回避するために、節を曲げる己を自嘲していると捉えたいところです。

智恵子の故郷・福島二本松で恒例となりつつあるイベントです。 

智恵子の生家二階限定公開

期  日 : 2016年10月,9,10,15,16,22,23,29,30       
           11月3,5,6,12,
13,19,20,23010
時  間 : 午前9時~12時 午後1時~4時
場  所 : 智恵子の生家  二本松市油井字漆原町36
料  金 : 一般410円 団体360円 小・中学生 200円
                     (智恵子記念館観覧料金を含む)

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。


この試みは昨年から始まり、今年もすでに4月、5月に実施されました。秋期間としての開催が、来週からです。

実施日は土・日・祝日。時間は午前と午後の3時間ずつ。昨年、初めて実施された時は案内の方が付いて、もっと短い時間での実施でしたが、今回は長時間解放する、という感じのようです。かえってその方がありがたいと思います。

霞ヶ城公園での菊人形期間に合わせての実施ということになりますが、菊人形は10/10(月)~11/23(水・祝)。こちらも例年智恵子人形が出ていますが、今年はどうなのでしょうか。初日に見に行く予定なので、その後にレポートします。


合わせて智恵子生家に隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示も行われます。

智恵子の紙絵実物限定公開

期  日 : 2016年10月2日(日)~11月27日(日)
時  間 : 午前9時~午後4時30分
場  所 : 二本松市智恵子記念館  二本松市油井字漆原町36
料  金 : 一般410円 団体360円 小・中学生 200円     (智恵子生家観覧料金を含む)

こちらも例年行われていますが、今年は企画展「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の一環としての実施です。下記は『広報にほんまつ』の来月号から。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

落日のはやさおぼゆる峠かな       明治34年(1901) 光太郎19歳

秋分を過ぎ、どんどん日が短くなっています。しかし、「暑さ寒さも彼岸まで」といいながら、ここ数日、関東は蒸し暑い日々です。まとまった雨が多かった先週より暑く感じます。

愛犬(老犬)との散歩中、その暑さに誘われたか、季節外れのクワガタムシを見つけました。

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愛犬(老犬)は興味を示しませんでしたが、家に持って帰ると愛猫(幼猫)の方は興味津々(笑)。

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この後、庭の桜の木に逃がしてやりました。

005先週、岩手花巻での賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》からの帰り、東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさんに寄り、企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」を拝見して参りました。

同館には、一昨年、「東京駅開業百年記念 東京駅100年の記憶」を拝見しに行って以来でした。

明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎に着目した企画展です。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」が出ているというので拝見に行きました。

光太郎と交流のあったさまざまな邦人芸術家の作品(絵画を中心に、彫刻、工芸も)、光太郎を含め彼等に影響を与えたモネ、ゴッホ等の作品がずらりとならび、さながら明治大正の反アカデミズム洋画壇史といった趣でした。

作品の借用元として当会でお世話になっている全国の美術館さんが多く、拝見しながらそれぞれの館の館長さんや学芸員さんの顔が浮かび、あらためて感謝いたしました。


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「上高地風景」は、今年のはじめ、神奈川県立近代美術館・鎌倉館の閉館記念企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」や、それ以前にも何度か光太郎展的な企画展で拝見していますが、何度観てもいいものです。

「佐藤春夫像」は、あまり光太郎展的な企画展でも展示されず、ことによると20年ぶりくらいに観たかも知れません。図版等はよく観ているのですが、やはり実物は違いますね。

絵画以外に、北山が編集に当たり、光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌が展示されており、興味深く拝見しました。『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など。ただし、ガラスケース越しですので手に取って見るわけにはいかないのが残念でしたが、しかたありません。

また、光太郎も出品した「ヒユウザン会展」や「生活社展」などのポスターや目録もありました。入手したいと思いつつ、高価なため入手できていないものです。

その他、先述の通り、光太郎と交流のあったさまざまな邦人芸術家の作品、光太郎を含め彼等に影響を与えたモネ、ゴッホ等の作品。同館のサイトでは、出品目録が出ていないため、「おお、この絵も出ていたか」という作品も多く、図版でしか知らなかった関連作家の作品など、実に興味深く拝見しました。

頂いてきた出品目録をスキャンしました。下に載せておきます。

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また、こちらが公式図録。同館企画展の図録はいつもそうのようですが、分厚く豪華です。今回のものは約350ページ。収められている論考、各ページの解説文等も充実、さらに、先述の北山が編集に当たった美術雑誌類の総目次が掲載されており、貴重な資料です。

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値段ははりますが、それに見合う内容です。


同展は11月6日(日)まで。その後、11月19日(土)~2017(平成29)年1月15日(日)には和歌山県立近代美術館さん、2017年1月28日(土)~3月12日(日)で下関市立美術館さんに巡回するそうです。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

なにとなく涙こぼれてある夕かの青き空高しと思ひぬ
明治33年(1900) 光太郎18歳

昨日は関東地方、久しぶりに晴れました。夕焼けがきれいでした。

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昨日は智恵子の故郷・福島二本松で開催された「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」に行っておりました。午後3時からと6時からの2回上映のうち、1回目の方で観覧して参りました。

会場は智恵子生家にほど近い、安達文化ホール。

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開演30分前には、長蛇の列。入場無料ということもあったと思いますが、多くの皆さんがお集まり下さいました。それぞれ400枚ずつ配布された2回上映の整理券はすべてはけたそうです。

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この映画は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に東宝さんが制作したもので、熊谷久虎監督、智恵子役に昨年亡くなられた原節子さん、光太郎役は故・山村聰さんでした。

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二本松でのロケも敢行され、智恵子生家、霞ヶ城のシーンがあります。会場にいらしていた方の中には、エキストラで出演されたという方もいらっしゃいました。

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昨年、原さんが亡くなった後、追悼特集的に各地で上映されましたが、作品の舞台の一つとなった二本松でも上映が実現。よろこばしいことですね。

当方、VHSビデオを持っていますので、何度か観ていますが、大スクリーンで見るのは初めてで、また違った感じでした。35㍉フィルムでの上映ということで、映写機の廻る音や、2台の映写機の切り換え(切り換えの合図として右上に黒丸が表れます。昔の「刑事コロンボ」で、コロンボ警部がこの点に注目して殺人犯のトリックを見破る、という回がありました)など、漂うレトロ感が何ともいえませんでした。

ロビーには、智恵子記念館さんで発見された二本松ロケの資料、当方手持ちの資料などを印刷したパネルが展示されました。

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ポスターやパンフレットなどの実物は、10/2(日)から二本松市歴史資料館さんと智恵子記念館さんで開催される企画展「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界に展示されます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

熊出るといふ峠路のあけびかな     昭和17年(1942) 光太郎60歳

昨日は愛車を駆って、いくつか峠を越えつつ二本松に向かいました。そろそろ紅葉が始まりつつありました。

9/21、岩手花巻での、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」にてスピーチを仰せつかり、語った内容を記します。題して「宮沢賢治と高村光太郎」。

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光太郎は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、足かけ8年を花巻町及び郊外太田村で暮らしました。その間、毎年のように賢治祭に参加、やはり講話を行いました。その機縁は、宮澤賢治の存在を抜きには語れません。

007太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月、空襲により、東京駒込林町の光太郎アトリエは全焼しました。そこで、光太郎に花巻への疎開を勧めたのは、賢治の父・政次郎、総合花巻病院長・佐藤隆房医師たちでした。その背景には、生前の賢治が光太郎を崇敬していたこと、賢治没後の献身的な光太郎の賢治紹介の活動があります。

賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』が刊行されたのは、大正13年(1924)のことでした。翌年、草野心平に勧められてこの詩集を初めて読んだ光太郎は、その特異な詩的世界を高く評価しました。 心平の回想には、高村家での次のような一コマが描かれています。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。
                                                                                (「光太郎と賢治」 昭和31年=1956)

やがて心平は雑誌『銅鑼』を創刊、光太郎、賢治ともに同人となり、作品が誌上を飾ります。

しかし、光太郎と賢治が直接出会ったのは、おそらく一度だけ。大正15年(1926)の12月、賢治が、上京した折のことでした。二人の天才の運命的な出会いを、後に光太郎はこのように回想しています。
 
宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
 (略)
あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。
談話筆記「宮澤さんの印象」 昭和21年=1946)
 
その後、二人の天才は二度と出会うことなく、賢治は昭和8年(1933)に早逝してしまいます。光太郎や心平ら、心ある人々には激賞されていた賢治でしたが、広く世に知られるには到りませんでした。

その死を悼んで、その年、光太郎はこう書きました。

内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを
持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢
治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。   (「コスモスの所持者宮沢賢治」 昭和8年=1933)

006転機が訪れたのは、その翌年。心平が音頭を取り、光太郎も参加して、2月に東京新宿で開かれた賢治の追悼会の席上、有名な「雨ニモマケズ」が記された手帳が見つかったのです。遺された原稿の束や手帳を実際に見て心を動かされた光太郎、心平らの奔走で、『宮澤賢治全集』の刊行が始まり、徐々に賢治の世界が世に広く認められて行きます。

次第に賢治の声価が高まるとともに、地元花巻でも賢治の業績を顕彰する気運が高まります。賢治の主治医でもあった総合花巻病院長・佐藤隆房らが中心となって花巻に作られた賢治の会が発案し、花巻に賢治詩碑を建立する計画が持ち上がりました。詩碑を建てる場所は、賢治祭会場の町内桜町、賢治が開いた羅須地人協会の跡地。刻む詩は「雨ニモマケズ」と決まりました。ただ、この詩はあまりに長いため、後半部分のみを碑文とすることにし、その文字の揮毫は賢治を広く世に紹介する労を執った光太郎に依頼されました。

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除幕は昭和11年(1936)11月。碑の下のコンクリートの基礎には、賢治の遺骨、法華経の経文、『宮澤賢治全集』、詩碑建立の由来書を収めた鉛の箱が安置されたとのことです。2年後に歿する智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、光太郎は建碑式には参加できず、実際に初めてこの碑を眼にしたのは、疎開した昭和20年(1945)のことでした。

詩碑には、誰がどこで間違えたのか、除幕の段階で「雨ニモマケズ」の詩句に、計4カ所、脱漏や誤りがありました。昭和21年(1946)11月、その訂正を行うこととなり、太田村から出て来た光太郎が、足場に登って詩碑そのものに挿入・訂正箇所を筆で書き込み、初めに詩碑を刻んだ石工の今藤清六がその場で鏨で刻み、碑陰には「昭和廿一年十一月三日追刻」の文字が追加されました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったと伝えられています。

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生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治を世に知らしめた恩義に報いるため、政次郎らは光太郎を花巻に招いたのです。

続いて光太郎賢治、お互いが与え、そして受けた影響。

大正3年(1914)、光太郎の第一詩集『道程』が出版されました。これにより、日本の詩は島崎藤村などのそれまでの主流であった硬苦しい文語定型詩から、口語自由詩の時代へと遷って行きます。そうした意味では、賢治を含め、光太郎の後に続く詩人で光太郎の影響を受けていない者は皆無と言っていいでしょう。

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また、賢治は精神性の部分でも、光太郎の歩んだ道を継承したとも言えるのではないでしょうか。彫刻家であった光太郎はミケランジェロ、ロダンと続く西洋近代芸術、賢治は法華経の教えと、そのバックボーンは異なるものの、ともに「道」を追求する「求道者」としての自己を詩に表しました。

草野心平の回想には、以下のように記されています。

文学や芸術の世界では、賢治は光太郎に一番関心をもつてゐたといふことにもなりさうである。事実、私がもらつた賢治の或る手紙にはそれを裏付けるやうな文面があつた。
 (略)
いま手元にないので残念だが、暗記してゐる点をあげれば、「高村光太郎氏にはまことに知遇を得たし、以て芸術に関する百千の疑問を解し得ば(この後の方はウロ憶
えだが『師礼を以て』自分の先生になつてもらひたいといふ意を文語調で書いてあつた。)」

一方の光太郎も、賢治の世界を激賞し、様々な部分で影響を受けています。昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子を失った光太郎は、翌年、その臨終に題を採った絶唱「レモン哀歌」を執筆しました。ここに賢治が妹・トシの最期を謳った挽歌「永訣の朝」の影響が見てとれるという指摘がされています。

さらに、太田村での七年間の山小屋生活。元々光太郎には、若い頃から辺境の地で農耕牧畜にいそしみながら、芸術を産み出すという願望がありました。無計画さゆえにたちまち頓挫しましたが、海外留学から帰国した直後の明治末には実際に北海道に渡ったこともありました。

また、光太郎の周辺人物の中には、そういう生活を送っていた人々も、すくなからず存在しました。北海道弟子屈の詩人・更級源蔵、山形の詩人・真壁仁、千葉三里塚に移った作家の水野葉舟、宮崎に「新しい村」を開いた武者小路実篤、そして花巻の賢治その人も。光太郎の山居七年は、「雨ニモマケズ」の一節、「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ」の実践だったのです。

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戦後の昭和21年(1946)には、光太郎と賢治の実弟・清六、二人の編集で、日本読書利用購買組合(のち、日本読書組合)から、全十一冊の予定(六冊で中断)で新たな全集が刊行されました。この版では、各冊とも光太郎による装幀、題字、そして「おぼえ書き」が収められました。

さらに光太郎没後の昭和31年(1956)からは、筑摩書房版の全集が、心平を中心として刊行され、やはり光太郎が装幀と題字を担当しました。巻数の漢数字は六までを書いたところで光太郎は歿し、以降は心平が光太郎の筆跡を真似て補いました。下記画像は光太郎による装幀案です。

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また、光太郎はその最晩年まで、折に触れ、文章で、頼まれて書く書で、賢治の世界をを紹介する労を厭いませんでした。その功績もあり、賢治の世界は広く世に受容され、その名は不動のものとなりました。

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心平ともども、遠く大正年間にそうなることを予測していた光太郎の眼力、そうなるべく献身的かつ精力的に発揮したプロデュースの力にも、敬服せざるを得ないでしょう。

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こうしたさまざまな縁で結ばれた光太郎と賢治。二人の業績が正しく後世へと受け継がれてゆくことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

秋晴れて林檎一万枝にあり       昭和21年(1946) 光太郎64歳

林檎栽培が今でも盛んな花巻での作です。

一昨日、岩手花巻市街ぶらぶら散歩の後、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」に出席して参りました。

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午後3時過ぎ、花巻駅前から路線バスに乗り込み、会場の賢治詩碑前へ。

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ここは賢治が創設した羅須地人協会跡地で、有名な「下ノ畑ニ居リマス」の舞台です。地人協会の建物自体は移築されてしまいましたが、「下ノ畑」は健在。ただ、来月から区画整理が行われ、景観が変わるだろうとのことでした。

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この地に昭和11年(1936)、賢治三回忌を期して、「雨ニモマケズ」後半部分が刻まれた、初の賢治詩碑が建てられました。全集編集などで賢治紹介の労を執り、賢治自身も崇敬していた光太郎に碑文揮毫の依頼があり、光太郎が筆を振るいました。

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台座の地下には賢治の遺骨も分骨されているとのこと。そこで、9月21日の賢治命日に合わせ、毎年、この碑の前で賢治祭が開催されているというわけです。当方、初参加でした。

午後4時から献花。参加者一人一人に花が渡され、それぞれが碑前に手向けるという方式でした。

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同時に伊豆大島からお見えの椿弦楽四重奏団さんの追悼演奏。その間にも三々五々、参加者が増え続け、最終的には300名くらいだったそうです。

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その後、黙祷、賢治作詞の「精神歌」。雰囲気が盛り上がってきたところで、開会。

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例年5月15日の花巻高村祭、それから昨年は日比谷松本楼さんでの連翹忌にもご参加下さった、上田東一花巻市長。御父君は光太郎と親交がありました。
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南城小学校4年生の皆さんによるかわいらしい歌。

その後、スピーチ。当方も光太郎と賢治の関わりについて述べさせていただきました。要旨はまたのちほどご紹介します。

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そして後半。この頃になるとすっかり日が落ち、昼間は暑かったのが、涼しい、というより寒いくらいになってきました。篝火が焚かれたのが有り難いところでした。

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後半はアトラクション中心でしたが、若い皆さんが大活躍。賢治の精神が次世代へと受け継がれて行くであろうと、感心しました。

最後は会場全体で、「星めぐりの歌」と「精神歌」を歌いました。「星めぐりの歌」は賢治の作詞作曲。花巻と同じ岩手を舞台にし、当会の会友・渡辺えりさんもご出演なさっていたNHKさんの「あまちゃん」でも使われていた曲です。

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ここでいったん閉会。第二部的に、「座談会」に移行しました。同じ会場ですが、今度は車座になって、一般の参加者の皆さんが、それぞれの賢治への熱い思いなどを語られる、というコンセプトでした。

ギターご持参で、「雨ニモマケズ」にオリジナルの曲を付けた歌を披露なさった方もいらっしゃいました。
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午後8時半、すべて終了しました。

翌日の地方紙2紙に載った記事です。

『岩手日日』さん。

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『岩手日報』さん。

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それぞれクリックで拡大します。

同じようなことを色々な場面でお話ししたり書いたりしていますし、当会顧問北川太一先生の受け売りなのですが、どんなに素晴らしい芸術家であっても、後の世代の人間がその価値を正しく理解し、さらに次の世代へとその人の功績を受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれてしまいます。そうならないためのこうした取り組み、いつまでも続いて欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

すとすとと蕎麦うつ音や枕もと     明治34年(1901) 光太郎19歳

秋といえば新蕎麦。当方、父方は信州の出ですので、蕎麦やら林檎やらの信州名産には目がありません。同じ信州名産でもイナゴや蜂の子はちょっと食べられませんが(笑)。

一昨日の賢治祭終了後、主催の方に車で送っていただき、花巻駅前まで戻りました。座談会の際におにぎり(宮沢家からの差し入れ)や南部煎餅などをいただきましたが、夕食とするには足りず、かつて光太郎も蕎麦を食べた駅前の伊藤屋さんで天ぷら蕎麦をいただきました。

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昨日から今日にかけ008「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」出席のため、岩手花巻に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

賢治祭が夕方4時からということなので、少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出ました。10時36分東京発の東北新幹線やまびこ号に乗って、午後2時過ぎに花巻に着く予定でした。ところが、東京駅までの高速バスが予定よりだいぶ早く着き、9時40分発の同じくやまびこ号に間に合ってしまいました。自由席ですので手続きも必要なく、そのまま乗車。最近は急ぐ場合を除いて、全席指定のはやぶさ号などは利用しません。こういう場合にいちいち窓口に行かなくて済むので楽ですね。

そういうわけで、やはり1時間早く午後1時過ぎには花巻に着きました。そこで、天気もいいし、ぶらぶら散歩。市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社を目指しました。何度か足を運んだことはありますが、ここ数年、行っていないので、ひさしぶりに、と思いました。


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市役所近くの花城小学校跡。賢治の母校だそうです。普段、花巻に行っても賢治関連は撮影したりしませんでしたが、今回は賢治祭に参加ということで、やはり気になりました。

この一角は元の花巻城跡地にも当たります。当時の城門も健在。


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鳥谷崎神社は、城跡のはずれに鎮座ましましています。戦国時代にはすでにここにあったという古社です。

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秋らしく、萩の花が咲いていました。

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そうかと思えば、日陰にはまだ紫陽花も。驚きました。

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社殿がこちら。

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こうした場合の常ですが、この地の鎮護と道中安全を祈願して参りました。

この神社は、光太郎、賢治双方に関わります。

まず、光太郎。

昭和20年(1945)4月、空襲で東京駒込林町のアトリエが全焼。一時は近所にあった実妹の婚家に身を寄せますが、そこも被災者で手狭となり、宮沢家の招きで、5月には光太郎が来花(そのために東京を発った5月15日を記念して、毎年、花巻高村祭が開催されています)、宮沢家に厄介になります。

その宮沢家も8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は元旧制花巻中学校長、佐藤昌(さかり)宅に一時的に避難しました。佐藤宅は鳥谷崎神社近くで、終戦の玉音放送は、ここ、鳥谷崎神社の社務所で聴きました。その際に作られた詩が、「一億の号泣」で、17日に『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

   一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず010
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


画像は鳥谷崎神社の古絵葉書です。

戦時中、大量の翼賛詩を書き殴っていた光太郎、この時点でもまだ「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのずから強からんとす」と、その延長線上の詩を書いています。そのため、後にはこの詩は光太郎の内部では戦時中の翼賛詩同様、封印した詩でした。

光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会がこの詩の光太郎自筆揮毫を石に刻み、ここ、鳥谷崎神社に建立しました。いろいろ行き違いがあったようで、存命だった光太郎の実弟・豊周、当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生ら、当時の高村記念会が抗議、いったんはこの碑は撤去されました。

ところがいつのまにか再度建立され、現在に至っています。そのため、説明板も付されていません。

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いわば光太郎の負の遺産です。こうした作品は隠蔽してはいけないと思いますが、たしかに碑に刻んでまで残すものではないような気もします。しかし、負の遺産は負の遺産として、継承すべきでしょう。

続いて賢治。

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こちらは平成4年(1992)に建立された歌碑。賢治の絶筆といわれる短歌で、鳥谷崎神社例大祭(花巻祭り)を謳っています。

高台にあるこの鳥谷崎神社からの眺めを、賢治が愛したという話も聞いたことがあります。

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光太郎賢治に思いを馳せつつ、ふたたび歩いて花巻駅方面へ戻りました。

続いて訪れたのは、駅近くの林風舎さん。賢治の実弟、清六の令孫・和樹氏がオーナーの、賢治グッズのお店です。こちらも数年ぶりにお邪魔しました。

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1階から2階への階段に、昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が掲げられています。

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すでに誤字脱字の追刻がされているので、戦後の採拓です。

さらに駅前の観光案内所さんに寄りました。こちらでは、花巻市さんで発行している無料のタウン誌『花日和』の秋号をゲット。表紙が郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘です。

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それから光太郎がたびたび泊まった鉛温泉藤三旅館さんの紹介記事も。

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今回の宿は、駅前のかほる旅館さんという商人宿でした。そちらに荷物を預け、いざ、賢治祭。そちらはまた明日、ご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

光太郎山にすまひてはるかなるフオンテンブロオの森しのびゐる

昭和24年(1949) 光太郎67歳

「フオンテンブロオ」はパリ郊外。現代では「フォンテーヌブロー」と表記します。かつての仏王朝の狩猟地で、広大な森林が保全されており、花巻郊外太田村の自然から、若き日に訪れた彼の地を連想したということですね。

新刊、というか旧刊の復刻です。
2016年8月10日  講談社(講談社文芸文庫)  室生犀星著 定価1,400円+税

「各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私に方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知った」。藤村、光太郎、暮鳥、白秋、朔太郎から釈迢空、千家元麿、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造まで。親交のあった十一名の詩人の生身の姿と、その言葉に託した詩魂を優しく照射し、いまなお深く胸を打つ、毎日出版文化賞受賞の名作。

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元々は、光太郎と交流のあった室生犀星が、昭和33年(1958)、雑誌『婦人公論』に連載したものを、同誌版元の中央公論社で単行本化しました。その後、文庫本として復刻されましたが、そちらも版を絶っていたので、今回の復刻は非常に意義のあるものです。

伝記、というより随想に近いもので、ある意味、犀星の重要な仕事の一つとして、近年も市民講座朗読会などで取り上げられています。

光太郎の回は、光太郎を尊敬しつつも、シニカルな見方をし、しかしやっぱり敬愛せざるをえない、といった複雑な心境が見て取れ、興味深い内容です。

ところで、18日の日曜日、『毎日新聞』さんに、詩人の荒川洋治さんによる書評が載りました。

今週の本棚 荒川洋治・評『我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・著

遠近の人々をめぐる心の回想
 野趣にあふれ、鋭い省察が随所にみられる。時代が変わっても読む人の胸に強くひびく名著だ。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる室生犀星(一八八九−一九六二)は日本の近代詩を切りひらいた。小説でも幾多の名作を書いた。犀星には、六九歳のときの回想『我が愛する詩人の伝記』(中央公論社・一九五八)がある。新装普及版(同・一九六〇)、新潮文庫(一九六六)、中公文庫(一九七四)につづき、このほど講談社文芸文庫に。解説は、鹿島茂。
 対象は、親交のあった明治・大正・昭和期の詩人。生年順では島崎藤村、高村光太郎、山村暮鳥、北原白秋、萩原朔太郎、釈〓空(折口信夫)、千家元麿(以上、犀星より年上)、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造(以上、年下)の一一人の故人。人名が、そのまま表題となる。
 「北原白秋」。若き犀星は、白秋の詩誌を注文し田舎の郵便局から為替で送金。「たったこれだけのことでも、月給八円もらっている男にとっては大したふんぱつであり、そのために詩というものに莫大(ばくだい)なつながりが感じられた」。白秋の雑誌に投稿。「ふるさとは遠きにありて」の詩稿も含まれていた。それらは「一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動」を感じた。後年白秋は語った。犀星の字は拙い。なぜ載せたか。「字は字になっていないが詩は詩になっていた」と。犀星は書く。「彼は妙な愛情で私の字の拙いことを心から罵(ののし)ってくれた」。
 「高村光太郎」。さほど年長でもないのに、いちはやく登場した光太郎の存在に、犀星はざわつく。「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる。いちど詩とか小説で名前が印刷されるということは傍若無人な暴力となって、まだ印刷されたことのない不倖(ふこう)な人間を怯(おび)えさせ、おこりを病むようにがたがた震えを起させるものである」。当時、詩が活字になって印刷されるのは、無名詩人には夢のようなこと。印刷ということばは、まばゆさの象徴である。
 高村光太郎の妻、智恵子の印象はよくなかった。訪ねると、光太郎は留守だった。智恵子はのぞき窓のカーテン越しに、冷たくあしらう。愛する夫には忠実な智恵子。でも「私それ自身は彼女に一疋(いっぴき)の昆虫にも値しなかった。吹けば飛ぶような青書生の訪問者なぞもんだいではないのだ」。このあと、こう書く。「それでいいのだ、女の人が生き抜くときには選ばれた一人の男が名の神であって、あとは塵(ちり)あくたの類であっていいのである」。
 先に世に出たものの「印刷」におびえると書く。「塵あくたの類」であって当然と書く。よく見ると、いずれも凡庸な見解だが、正直にまっすぐに書くので、強く迫る。心の回想はつづく。
 次は「堀辰雄」と「立原道造」。
 堀辰雄のお母さんは、「堀がいまに本を書く人になることを考えて、或(あ)る製本屋に近づきがあったので態々(わざわざ)菓子折を提げ、うちの子の本が出るようになったら、どうかよい本に製(つく)ってやって下さいと、挨拶(あいさつ)にゆかれたそうである」。その母親は、堀辰雄が世に出る前に亡くなる。息子の本を一冊も見ることなく亡くなる。印刷、製本。それが文学なのだ。印刷、製本の夢をみる。それは犀星の夢でもあった。夢がかなえられても、まだ夢であった。それが詩人の生涯なのだろう。
 立原道造は、軽井沢の犀星の家にやってくると、木の椅子に腰を下ろして、いつも眠っている。「僕の詩でも、ラジオで放送してくれることがあるでしょうかしら、してくれると嬉(うれ)しいんだがナ」という青年だ。「誰でも持つ初期の心配をたくさんに持っていた」。犀星は、二四歳で亡くなった立原道造の詩が、そのあと多くの人に愛され、何度も全集が出た点を記す。印刷、製本の次は、ラジオ。読んでいくと、文学そのものの自伝を開く心地になる。
 最後の章は「島崎藤村」。気むずかしい大家藤村に、犀星は近づけない。会っても話ができない、遠い人だ。それで人から聞いた話にする。
 藤村が軽井沢の旅館に泊まったとき、世話をしてきた婦人から、色紙をたのまれる。「藤村は機嫌好(よ)く一字ずつ、念を入れて書いていた」と犀星は記す。「信州の片田舎の旅館の朝の間にも、対手に島崎藤村という者をしたたか認めさせたかったのだ」「わが島崎藤村は生きた一人の女性から充分にみとめられ、あがめられて余韻なきものであった」。この場面。詩人というものを伝える視点としては通俗的かもしれない。だが誰にも見えないものをとらえて書き切る。みごとなものだ。
 はっきりとはわからないけれど、何もかもが凄(すご)い、ということがわかった。ガラス一枚向こうには俗臭が漂う。だがそんなところでも詩人たちはすなおに懸命に過ごした。生きるしるしを残したのだと思う。本書に現れるのは詩を書く人たちだけではない。苦しむことを知りながら、すなおに生きようとする人たちの姿である。
 

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり

昭和22年(1947) 光太郎65歳

「松庵寺」は花巻市街にある古刹です。昭和20年(1945)から足かけ8年の花巻町、及び郊外太田村在住時代、光太郎はこの寺で、毎年のように父・光雲、妻・智恵子の法要を行ってもらっていました。昭和22年(1947)には、母・わかの二十三回忌法要も兼ねました。その際の作です。

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昭和48年(1973)には、この歌の光太郎自筆揮毫を刻んだ碑が、松庵寺に建てられています。

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今日、9/21は花巻の産んだ天才詩人・宮沢賢治の命日「賢治忌」です。午後4時半から、花巻市桜町の、光太郎が揮毫した賢治詩碑前広場にて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催されます。プログラム中に当方の講話も盛り込まれており、これから花巻に向かいます。

福島からイベント情報です 

福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -

日  程  : 2016年9月9日(金)〜11月23日(水)
開催時期  : 2016年10月8日(土)〜11 月6 日(日)
   
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会   場 :
 ■二本松市
  二本松市大山忠作美術館 二本松市市民ギャラリー
  二本松市歴史資料館(主催:二本松市)
 二本松城
  福島県男女共生センター 智恵子の生家 二本松工芸館 大七酒造
  道の駅「安達」智恵子の 安達が原ふるさと村
  ■福島市
  福島大学 福島市街地(主催:パセオミューズ実行委員会)
  桶屋台倉庫(主催:福島桶屋台伝承会)
  ■郡山市
  磐梯熱海温泉(磐梯熱海観光協会、福島ガイナックスと共催)
       郡山・富田幼稚園(主催:富田幼稚園)

企画・主催 :
  福島現代美術ビエンナーレ実行委員会
  国立大学法人福島大学芸術による地域創造研究所
  重陽の芸術祭実行委員会
共  催 :二本松市/二本松市教育委員会 他

事業趣旨  :
  福島発信の文化活動を推進していくために、三つの柱に基づいた企画を開催します。
   倭/藝術によるFUKUSHIMA (日本、福島、二本松)のイメージづくり
  ・福島を舞台に開催します。
  ・福島の元気なイメージを世界へ発信します。本年度のテーマは「重陽」
  ・震災後の福島を体感してもらいます。
  ・福島の魅力と文化の発信力を広くアピールします。
  ・眠っている様々な文化資源を掘り起こします。
  ・福島の文化的なイメージアップを計ります。
  ・地域文化を活性化させる一役を担います。
 
 環/福島の産官民学の連携による地域文化創造
  ・行政と地域住民、学校機関の連携
  ・福島に住む若手が企画運営しています。
  ・国際的なアートの展覧会、公演会、シンポジウム等も開催します。
  ・福島を拠点にした若手のアーティストの作品を展示します。
  ・多種多様な伝統文化と現代美術が結ばれます。
  ・幅広い藝術に触れ合い、集い、交流する機会を設けます。
  ・幅広い世代に向けたワークショップを開催します。
  ・創作活動、鑑賞活動、体験活動の場を作ります。
 
 和/福島を拠点にした「同時代の藝術」による国際交流
  ・福島、日本を周遊できる企画を開催します。
  ・人・物の新しい流れを作ります。
  ・海外作家との交流の場を作ります。
  ・外国人向けや国内のツアーを企画します。
  ・未来を展望した活動を行います。
  ・人材の発掘や育成をはかります。
  ・情操教育と将来の夢と目標のお手伝いをします。
  ・様々な職業があることを広く伝えます。
  ・身体を基盤にした表現活動を発信します。


過日ご紹介した故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」上映や、昨日ご紹介した「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」も、タイアップ企画的に、この「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -」に含まれます。


その他、智恵子がらみの企画として、以下の通り。 

レモン忌
期  日 : 2016年10月5日(水)
会  場 : 智恵子の生家 二本松市油井字漆原町36
時  間 : 18:00~
講  師 : 小松美羽(美術家)、和合亮一(詩人)
       公開制作 小松美羽 上川崎の和紙による灯籠、墨絵の制作

<ほんとの空>を園庭に表現しよう
期  日 : 2016年11月4日(金)・5日(土)
会  場 : 富田幼稚園 郡山市富田町字行人田15-2

これ以外にも、例年行われている、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」、霞ヶ城公園での「二本松の菊人形」なども、タイアップ企画ですが、そちらは改めてご紹介します。

その他、さまざまな展示、舞台公演、講演、映像作品上映、シンポジウムなどが企画されており、それらの中でも光太郎智恵子にからむ場合もあるかと存じます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

うづだかき反古にいのちの宮ありてこの秋筆に信の籠りぬ
明治35年(1902) 光太郎20歳

「反古」は「ほご」。書き損じの意ですね。現代、通常は「反故」と表記します。「約束を反故にする」の「反故」です。

表題の通り、今年、2016年は、智恵子生誕130年、光太郎没後60年ということで、さまざまな取り組みが行われています。特に智恵子の故郷・福島県二本松市では、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」上映など、この秋イベントが目白押しです。

今回、まずは企画展。二本松市さんで持っている智恵子紙絵の実物など、当会顧問北川太一先生の元から智恵子肉筆資料他が並びます。さらに当方もこまごまとしたものをいろいろお貸ししました。

智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界

期  日 : 2016年10月2日(日)~11月27日(日) 会期中無休
会  場 : 二本松市歴史資料館 二本松市本町1-102
       二本松市智恵子記念館 二本松市油井字漆原町36
       本展では、2会場にてそれぞれ別の展示内容で開催します。
時  間 : 資料館 9時~17時   智恵子記念館 9時から16時30分
料  金 : 2館セット券 一般 500円   高校生以下 250円
       単館券 資料館 一般 200円   高校生以下 100円
       智恵子記念館  一般 410円   高校生以下 200円

「新しい女」として注目されていた智恵子。高名な芸術家を父にもち、多くの期待を背負った新進気鋭の芸術家である光太郎。二人が育んだ芸術の世界は、智恵子の死を乗り越え、やがて『智恵子抄』へと昇華していきます。
本展では、『智恵子抄』に代表される二人の芸術の世界を智恵子と光太郎の作品を通して紹介いたします。この機会に、是非ご観覧ください。

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関連行事 

記念講演会  『智恵子抄の世界』―智恵子生誕130年に伝えたいこと―

 期 日 : 2016年10月2日(日)
 会 場 : 二本松市コンサートホール 二本松市亀谷1-5-1
 時 間 : 午前10時30分~12時
 料 金 : 無料 先着206人限定のためご入場いただけない場合あり
 講 師 : 大島裕子 氏
       1959年、福岡県生まれ。エッセイストで高村光太郎研究会会員。
       著書に『智恵子抄の世界』、『智恵子抄を歩く』などがある。
       ほかに『素顔の智恵子』や『紙絵にたくす命のかがやき』などの
       連載コラムやエッセイを新聞雑誌に発表している。
 その他 : テルミン奏者大西ようこ 氏による演奏も予定

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この日は、地元で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子の里レモン会」さんの主催で、智恵子を偲ぶ「第22回レモン忌」も開催されます。智恵子命日は10/5ですが、こちらはそれに最も近い日曜日開催ということで毎年行われています。

第22回レモン忌

期 日 : 2016年10月2日(日)
会 場 : ラポートあだち 二本松市油井字濡石16
時 間 : 午後12時30分~14:30
参加費 : 3,000円
申 込 : 智恵子の里レモン会(戸田屋商店) TEL0243-23-4858

さらに今年は現代美術の福島ビエンナーレが二本松市を中心として開催され、そちらでも「レモン忌」と銘打ってのイベントがあります。期日は智恵子の命日である10/5(水)。他にもビエンナーレ関連で智恵子顕彰イベントがあり、詳細はまた明日、ご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

栗くへばジユリアンを思ふ君を思ふ   明治43年(1910) 光太郎28歳

昨夜、今年初めて栗御飯を食べました。

「君」は画家の津田青楓。共に留学中だった光太郎と明治41年(1908)頃、パリで知り合いました。「ジユリアン」はパリの美術学校アカデミー・ジュリアン。光太郎、青楓共に通っています。焼き栗は今も変わらぬパリ名物。いずれ彼の地で食べてみたいものです。

名古屋ご在住で、光太郎詩歌にメロディーをつけた歌曲を作曲なさっている野村朗氏の作品が演奏されるコンサートです。

野村氏に関してはこちら。

 

第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会

期  日 : 2016年10月1日(土)
会  場 : ムーブ町屋ムーブホール 東京都荒川区荒川7-50-9
時  間 : 13:30開場 14:00開演
料  金 : 前売り2,000円 当日2,500円
申  込 : 東京国際芸術協会 03-6806-7108
プログラム : 
 島田康子作曲 「水の風景」より Ⅰ 水はうたっている Ⅱ 海のゆりかご
  演奏:島田康子(pf)
 土屋光彦作曲 「暁の鐘」 演奏:土屋光彦(pf)
 紺野鷹生作曲 ~フルートとピアノのための~ 見つめる樹
  演奏:近藤梓(fl)田口琴望(pf)
 永野聡作曲  連作歌曲「なのりそ」~北原白秋による~
  演奏:升島唯博(テノール)岩撫智子(pf)

 野村朗 作曲     連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より
  第1曲「ひとむきに、むしゃぶりつきて…」
  第2曲「人は智恵子を…」
  第3曲「智恵子尾長のともがらとなる」
  第4曲「智恵子は知りき―」
  第5曲「智恵子の息吹みちてのこり…」
  第6曲「ここに住みにき」
   演奏:森山孝光(バリトン) 森山康子(pf)

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野村氏から頂いたご案内がこちら。

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今年1月に、名古屋で今回演奏される連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」の初演がありましたが、そちらは欠礼しておりますので、今回は聴きに伺います。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

かつて我も巴里に在りき秋の雨     明治43年(1910) 光太郎28歳

そろそろからっと晴れてほしいものですが……。

東京駅構内にある東京ステーションギャラリーさんで、今日から始まった企画展です。光太郎の油絵2点が展示されています。
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 10:00 - 18:00 (金曜日 10:00 - 20:00)
料 金 : 一般1000(800)円 高校・大学生800(600)円 中学生以下無料
       ( )内は20名以上の団体料金
        障がい者手帳等持参の方は100円引き(介添者1名は無料)
休館日 : 月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日、10月11日

青年画家達の活動を裏方から支え、明治から大正にかけて洋画界の発展に寄与した、北山清太郎(和歌山県出身/1888-1945)。彼は、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていました。本展は、彼の活動を手掛かりとして、大正期の西洋美術に対する熱狂、そしてその影響を受けて展開した、前衛的な近代日本美術の動向を同時に紹介します。大正の洋画青年たちの心意気によって誕生した絵画と、あこがれの西洋の絵画等を中心に、約130点の作品と、貴重な資料をご紹介します。

プロローグ 動き出す「洋画」 ——北山清太郎と『みづゑ』の時代
第1章 動き出す夢 ―ペール北山と欧州洋画熱
 ロダン、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソほか
第2章 動き出す時代 ―新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽
 藤島武二、南薫造、湯浅一郎、津田青楓、山脇信徳、中村彝、坂本繁二郎、浜田葆光ほか
第3章 動き出す絵画 ―ペール北山とフュウザン会、生活社
 岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、高村光太郎、萬鉄五郎、川上凉花、北山清太郎ほか
第4章 動き出した先に ―巽画会から草土社へ
 岸田劉生、木村荘八、高須光治、横堀角次郎、椿貞雄、中川一政、河野通勢ほか
エピローグ 動き出す絵 ―北山清太郎と日本アニメーションの誕生

関連行事 すべて無料(要別途入館料)

オープニング ギャラリートーク 
 講師 宮本久宣・青木加苗(和歌山県立近代美術館)、岡本正康(下関市立美術館)、
     田中晴子(当館)
 9月17日(土) 10:00~(約60分)/3階展示室集合 込不要

東京駅周辺美術館との連携 特別ギャラリートーク「印象派と大正期の日本」 
 10月22日(土) 9:30~(約60分) 込 事前申込制。9月17日以降 03-3212-2485
  員25名(先着順)

ギャラリートーク(学芸員による展覧会解説)
 10月7日(金)、10月27日(木) 13:00~(約30分) 込不要

レンガ・タッチ&トーク(煉瓦が特徴的な当館のたてもの解説)
 10月14日(金)、28日(金)   各日15:00~(約30分) 込不要

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光太郎油絵作品は、「上高地風景」(大正2年=1913)、「佐藤春夫像」(大正3年=1914)の2点。期間中、一部作品の展示替えがあるそうですが、この2点はその対象外だそうです。

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北山清太郎は、光太郎が関わった絵画団体・ヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社も支援し、同人たちから尊崇されていました。

光太郎曰く、

特筆すべきは「現代の美術」と言ふ美術雑誌を主宰してゐた北山清太郎氏で、われわれの仲間ではペエル タンギイで通つてゐた。あらゆる意味から、この人ぐらゐ熱心に当時の美術界に尽力した人はないであらう。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

フユウザン会は二年でつぶれ、更に私達は生活社を結んで進んだ。当時日本のタンギイ北山清太郎君が居ていろいろ世話してくれたので一九一三年には神田のヴヰナス倶楽部で岸田、木村、私などの展覧会を開いた。(「岸田劉生の死」 昭和4年=1929)

ということでした。

神田のヴヰナス倶楽部で開いた展覧会というのが、生活社展。上記の「上高地風景」はこの際に出品されたもので、この年の夏、智恵子との婚前旅行で一ヶ月を過ごした信州上高地での作です。

「佐藤春夫像」は、直接、北山とは関わらないようですが、北山と佐藤が同郷という縁はあります。佐藤はこの絵を描いてもらったことから光太郎と親しくなり、光太郎最晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」建立に尽力します。


光太郎の油絵は、常時見られるものではありません(真っ赤な偽物を「光太郎筆」として展示しているらしい私設美術館があるようですが)。また、光太郎と縁の深かった人々の作品が目白押し。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

新米のかをり鉋のよく研げて       昭和20年(1945) 光太郎63歳

当方自宅兼事務所のある千葉県北東部は早場米の産地です。既に8月末には刈り入れをするところが多く、妻の血縁の方から宅配便で30㌔の新米が届きました。ありがたや。

「鉋」(かんな)は、この年の秋、花巻郊外太田村の山小屋に移り住み、内部の造作などの大工仕事も自ら行ったことに関わります。「今朝村人につきたての新米を恵まる」の詞書きが添えられています。

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智恵子の故郷・福島二本松からイベント情報です。うっかりご紹介が遅れました。 
期 日 : 2016年9月18日(日)
時 間 : 午前10時開会
会 場 : 智恵子純愛通り記念碑前 (福島県二本松市油井漆原町 智恵子の生家近く)
参加費 : 無料
プログラム :
 全員合唱「智恵子抄」「ふるさと」 献花 建立の記奉読 詩の朗読 ハーモニカ献奏


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「智恵子純愛通り」というのは、二本松市の智恵子生家・智恵子記念館前を南北に走る県道129号線、元の奥州街道です。平成17年(2005)に公募で愛称が募集され、命名されました。同20年(2008)には光太郎の令甥、故・高村規氏の揮毫による碑が完成、それを記念して毎年行われているイベントです。

平成24年(2012)の第4回のレポートがこちら


同じ日に、やはり二本松でもう1件、智恵子関連のイベントがあります。 
期 日 : 2016年9月18日(日)
時 間 : 午後1時開場  1時30分開会
会 場 : 二本松市民交流センター (福島県二本松市本町二丁目3番地1)
参加費 : 一般500円 高校生以下無料
プログラム :
 パート1 講話「高村智恵子と私」パート2 絵画劇「虹を描いた人~高村智恵子の生涯」

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それぞれ、高村智恵子生誕130年高村光太郎没後60年記念事業の一環として行われます。その他にも9/24の「原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」もそうですし、またご紹介しますが、二本松市歴史資料館と智恵子記念館で開催される企画展「智恵子と光太郎の世界」なども行われます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

秋は今さぞムウドンのおやぢかな    明治44年(1911) 光太郎29歳

「ムウドン」はパリ郊外の地名。そこに住む「おやぢ」は、この頃まだ存命だった、かのオーギュスト・ロダンです。

光太郎、欧米留学を終えての帰朝から2年。自らがかつて在りしパリ、展覧会場で見かけたロダンを思い起こしての句です。

石川県から企画展情報です。気付くのが遅れ、始まってしまっています。 
期  日 : 2016年9月10日(土) ― 10月23日(日)  無休
会  場 : 石川県立美術館 石川県金沢市出羽町2-1
時  間 : 午前9時30分から午後6時まで
料  金 : 一般1000円(800円) 大学生600円(500円) 高校生以下無料 65歳以上800円
                      ( )内団体料金

日本の近代が幕を開けた激動の明治時代は、国全体が大きく変貌を遂げた時代であり、ここから昭和にいたる近代は、美術史的にも大きな変動が見られ、多くの優れた作家たちが革新的な創作活動を行いました。現代の美術動向に繋がる重要な時代ですが、教科書などにおいても、美術史を含む文化史の記述は少なく、作家の紹介としても充分とは言えないでしょう。
このたび多くのご所蔵先のご協力のもと、絵画、彫刻、工芸、それぞれの分野において、近代日本の美術史に残る作家たちによる、優れた作品を一堂にそろえました。現代はインターネットの情報があふれていますが、美術作品を知るには実際に作品を見ること、これに勝る方法はありません。「教科書に載るような名品」をご覧いただくことで、個々の作品の魅力とともに、近代という時代の大きな流れを感じ取っていただければ幸いです。

主な出品作家
 日本画
  竹内栖鳳、横山大観、上村松園、小林古径、安田靫彦、堂本印象、伊東深水、東山魁夷、
  杉山寧、
平山郁夫、加山又造 ほか
 洋画
  浅井忠、坂本繁二郎、小絲源太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎、中川一政、林武、
  東郷青児、小磯良平、宮本三郎、脇田和、鴨居玲 ほか

 彫塑
  山崎朝雲、荻原守衛、建畠大夢、朝倉文夫、高村光太郎、北村西望、淀井敏夫、
  佐藤忠良、舟越保武、富永直樹 ほか

 工芸
  板谷波山、富本憲吉、荒川豊蔵、浜田庄司、楠部弥弌、六角紫水、高野松山、松田権六、
  音丸耕堂、木村雨山、芹沢銈介、香取秀真、鹿島一谷、帖佐美行、黒田辰秋、氷見晃堂、
  大野昭和齋、平田郷陽、藤田喬平、西出大三 ほか

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関連行事
 講演会 会場はいずれも美術館ホール 聴講無料(定員209名)
 9月18日(日)13時30分~15時
  「近代美術の展開 ―絵画・彫刻を中心に―」 講師 宝木範義氏(美術評論家)
 10月2日(日)13時30分~15時
  「工芸の近代 ―作家の誕生と以降の創作表現―」
    講師 山崎達文氏(金沢学院大学教授)  

 0才からのファミリー鑑賞会
 10月16日(日) ①10時~ ②13時30分~
  講師:冨田めぐみ氏(赤ちゃんからのアートフレンドシップ協会・代表理事)
  定員:30名 ※電話でお申し込みください

 展示室でスケッチGO!
 10月10日(月・祝)13時~15時 お申し込み不要、当日受付

 ギャラリートーク(毎週日曜日)
  担当学芸員が展覧会の見どころや出品作品について解説を行います
  9/11、9/18、9/25、10/2、10/9、10/16、10/23 各日11時~ ※
観覧料

 土曜講座 ―学芸員による講義―
 会場:美術館講義室 聴講無料(定員50名) 各日13時30分~15時
 9月10日「モダニズムと古典主義―近代金工の様相―」 担当:中澤菜見子
 9月17日「織の名匠 宗廣力三と志村ふくみ」 担当:寺川和子
 9月24日「近代―日本画の豊穣なる時代―」 担当:前多武志
 10月8日「近代洋画の探求」 担当:二木伸一郎
 10月15日「近代工芸の名作」 担当:西田孝司

 映像ギャラリー 出品作家関連の映画やビデオを上映します
 各日13時30分~ 会場:美術館ホール 入場無料(定員209名)
 9月19日(月・祝)「西洋画との出会いと模索」「飾りなき漆の美 増村益城」
 9月22日(木・祝)日本の巨匠シリーズ「牛島憲之」「西山英雄」「富永直樹」
          「帖佐美行」
 10月10日(月・祝)「日本の伝統と変革」「糸の音色を求めて 志村ふくみの世界」


基本的に一作家一作品の展示だそうで、光太郎作品は「教科書に載るような名品」ということで、代表作の一つ、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が出ています。


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地域によっては、光太郎の彫刻も実物を見られる機会は多くありません。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

実のふたつ成りし無花果(いちじく)けさ見れば一つはあらで歌むすびあり

明治33年(1900) 光太郎18歳

昨日、たまたま観ていたNHKさんの「ひるまえほっと」という関東1都6県の情報番組で、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市が取り上げられました。2つ話題が紹介されたうちの1つが、最近、特産品として力を入れているイチジクについてでした。

仙台に本社を置く『河北新報』さん。先週載ったコラムです 

デスク日誌 復興マインドT736NDkA

 8月下旬、二本松市西部の安達太良山方面に車を走らせた。市内に入ると、おぞましい「鬼婆(ばば)」伝説が残る安達ケ原や、詩人高村光太郎の妻智恵子の生家がある。
 <あれが阿多多羅山(あたたらやま)、あの光るのが阿武隈川>
 幼少の頃から、魅惑的で自然豊かな地域だと思っていた。
 1車線の国道を走行中、道路脇に野菜の無人販売所を見つけた。真っ赤に熟れたトマト、濃い緑色に染まった全国屈指の生産量を誇るキュウリが並んでいる。
 「うまそうだ。買ってみよう」。車を止めようとした瞬間、「除染作業中」の看板が目に飛び込んできた。男性作業員3、4人が側溝の汚泥をスコップでかき出し、1人が小型ショベルカーを操っている。思わずアクセルを踏んだ。
 東京電力福島第1原発事故から間もなく5年半。50キロも離れている場所でさえ、このありさまだ。販売所の野菜を買わなかったことを、「風評被害を助長する」と誰かに責められるだろうか。誰が責めを負うべきなのか。そんなことを考えながら、現地で一升瓶の地酒数本を手に入れた。(報道部副部長 末永秀明)

微力ながら復興支援に取り組んでいる身には、悲しい内容でした。しかし、ある意味、正直に書かれていることには敬意を表します。

連日のように原発に関するニュースが報じられています。今日の朝刊では福井県敦賀市の高速増殖炉もんじゅ廃炉の方向に関して。当然の選択ですね 

もんじゅ廃炉で政府が最終調整 核燃料サイクル政策見直し必至

 政府は12日、原子力規制委員会が運営主体の変更を求めている日本原子力研究開発機構の高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)を廃炉にする方向で最終調整に入った。政府関係者が明らかにした。再稼働には数千億円の追加費用が必要となり、国民の理解が得られないとの判断に傾いた。核燃料サイクル政策の枠組みの見直しは必至で、関係省庁で対応を急ぐ。 
 所管の文部科学省は、規制委から運営主体の変更勧告を受け、原子力機構からもんじゅ関連部門を分離し、新法人を設置して存続させる案を今月に入り、内閣官房に伝えた。しかし、電力会社やプラントメーカーは協力に難色を示しており、新たな受け皿の設立は困難な情勢。政府内では、通常の原発の再稼働を優先すべきだとの考えから経済産業省を中心に廃炉論が強まっていた。 
 政府は、もんじゅ廃炉後も高速炉の研究開発は継続する方向。実験炉の常陽(茨城県)の活用やフランスとの共同研究などの案が浮上している。
  原子力機構は2012年、もんじゅを廃炉にする場合、原子炉の解体など30年間で約3千億円の費用がかかるとの試算をまとめている。もんじゅは核燃料の冷却にナトリウムを利用する特殊な原子炉のため、一般の原発の廃炉費用より割高となる。 
 一方、再稼働するには、長期の運転停止中に変質した燃料を新しいものに交換する必要がある。 
 もんじゅ本体の施設の維持管理に年間約200億円かかり、茨城県東海村にある燃料製造工場を新規制基準に対応させる工事費も大幅に必要となる。もんじゅ本体の新基準対応費も含めると、再稼働させるためには数千億円の追加負担が見込まれる。 
 規制委は昨年11月、原子力機構に代わる組織を特定するか、できなければ施設の在り方を抜本的に見直すよう求め、半年をめどに回答するよう馳浩文科相(当時)に勧告していた。 
 敦賀市の渕上隆信市長は今月8日、松野博一文部科学相と面談し、「一定の成果が上げられないまま撤退という判断になれば、30年の協力は何だったということになりかねない。地元の期待を裏切らないでほしい」と存続を強く求めた。
(『福井新聞』)

その他、最近のニュースでは、福島第二原発で侵入検知器の警報機能を鳴らないように設定していた問題、同じ福島の福島第1原発の凍土壁の不具合、西日本では愛媛県伊方原発や佐賀県の玄海原発、福井県の高浜原発再稼働の件、九州電力が鹿児島県の三反園知事による川内原発の即時停止要請を拒否したこと、そして「制御棒処分のために国が10万年管理」などなど……。よくもまあ、と思います。

関係自治体の皆さんには、最初に引用した福島のような状態になる覚悟はできていますか? と問いたいですね。関係自治体だけでなく、国としても、です。日本に於ける福島の現状が、将来的には世界に於ける日本という構図に成り代わるような気がしてなりません。

登山の世界では、「登る勇気より引き返す勇気」という言葉が教訓として語られています。期待云々よりも、未来へ禍根を残さない英断が求められているのではないでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】

秋風や咫尺に迫る敵の矛     明治43年(1910) 光太郎28歳

敵は「いかにも敵」という顔をしていない場合があるので厄介です。「獅子身中の虫」などというのもいますし……。

まずは先週の『日本経済新聞』さんに載った記事から。「ご当地NewFace」という日本各地で発売されたその土地ならではの新製品を紹介するコーナーに載りました。 

Tシャツに福島の山 【福島】

FRIDAY SCREEN(福島市、090・9308・9461)の「福島の山 TEE」
福島県民にとって身近な山々を描いたご当地Tシャツ。製作したのは福島市のデザインユニットの2人で「福島を広くPRしたい」と、普段でも着られるように簡素で印象的なデザインにした。絵柄は「智恵子抄」に登場する安達太良山、民謡で親しまれる磐梯山、日本百景にも指定されている霊山の3種類。《1枚3500円。販売中》

調べてみると、以前から販売されており、地元紙『福島民友』さんでも既に今年5月に報じていました。ただし、「智恵子抄」「高村光太郎」といった当方の検索ワードが入っていなかったので、見落としていました。 

「福島の山」モチーフのTシャツ3種類を販売

 福島の地域資源の発掘と発信をしているクリエーターの鈴木孝昭さんとテキスタイルアーティスト坂内まゆ子さんによるユニット「FRIDAY SCREEN(フライデイ スクリーン)」は磐梯山、安達太良山、霊山のイラストをそれぞれプリントしたオリジナルTシャツ「福島の山TEE」を販売している。
 身近な山をモチーフにしたTシャツを作ろうと、昨年6月に安達太良山を題材にして製作、販売。今年4月21日から新たに磐梯山と霊山を描いた商品を作り、発売した。
 サイズはGS~Lの5種類で、価格はいずれも1枚3500円(税込み)。イラストの色は安達太良山がえんじ、磐梯山が紺、霊山が深緑。福島市の衣料品店「CLASSICS」と伊達市のりょうぜんこどもの村のミュージアムショップで販売している。同店のウェブサイトでも購入できる。


こちらがその画像です。

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なるほど、シンプルな中にもインパクトがあり、激しい自己主張はないものの、印象に残りますね。

販売元のFRIDAY SCREENさんのサイトはこちら


先週、上記記事が『日経』さんに載ったのと前後して、ネット上のTシャツ通販サイト「Tシャツトリニティ」さんに、やはり光太郎がらみの新製品が紹介されました。

商品名が「高​村​光​太​郎​/​智​恵​子​抄​/山​麓​の​二​人​/​わ​た​し​も​う​ぢ​き​駄​目​に​な​る」。「イ​ニ​ミ​ニ​マ​ニ​モ」さんというショップの商品です。

半袖のTシャツが2種類。黒一色と、白黒のツートンです。ともに1枚3,200円(税込)。

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それぞれフロントに「――わたしもうぢき駄目になる」の文字がプリントされています。光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)で、心を病んだ智恵子が繰り返し発するセリフです。この元ネタをご存じない方にとっては、何のことやら? という感じでしょうが、このシュールさが魅力のような気がします。

同じシリーズで長袖のスウェット(税込4,000円)、トートバッグ(同2,300円)も販売中です。

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ところで、Tシャツといえば、花巻の高村光太郎記念館さんでも、オリジナルのTシャツを販売しています。

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こちらは背中にこのようなロゴが。

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光太郎の「光」の字が反転しています。元ネタはこちら。

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戦後の7年間を暮らした花巻郊外太田村の山小屋脇に立てられたトイレ棟「月光殿」。その壁に明かり取りのために光太郎が彫った「光」一字です。左の画像は表から、右はトイレの内部からのものです。ある意味、これも「彫刻」と呼んでもいいような気もします。同館では看板やスタッフの皆さんの名刺など、さまざまなところでこれをロゴとして使っています。

Tシャツは数種類の色があり、価格は忘れましたが、いずれそう高価なものではなかったと思います。


いろいろご紹介しましたが、ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

秋雨やめしが喰へぬと友の文       明治43年(1910) 光太郎28歳

「友」は画家の津田青楓です。青楓、別に歯が痛いとか、内臓を患ったとかではなく、芸術家として生きていく困難さという意味での「めしが喰へぬ」でしょう。

たびたびこのブログにご登場のテルミン奏者・大西ようこさんからの演奏会情報です。

大西さんに関してはこちら。

時  間 : 17時半~
会  場 : CHEEPA'S CAFE 中央区銀座7-12-15 MYS銀座2階
料  金 : 予約 4,000円 当日 4,500円
出  演 : 演奏 ぷらイム(大西ようこ[テルミン] 三谷郁夫[ギター&歌])
       朗読 清水マリ[声優]
プログラム :
  わたしが一番きれいだったとき(茨木のり子)
  死んだ男の残したものは(詩/谷川俊太郎、曲/武満徹)
  星の王子さま(サン=テグジュペリ)
  智惠子抄より(高村光太郎)
  戦火の中の子どもたち(岩崎ちひろ) 他


銀座のチーパズカフェで、再び、ぷらイムの演奏会が決定しました!!!
今回のゲストは、初代アトムの声、清水マリさんです☆
限定30席。お申し込みはお早めにお願いいたします。
懐かしいおもちゃやフィギュアに囲まれての演奏会、お楽しみに!

アトムは新座市に住んでいるので(手塚さんのスタジオがある)、新座市の市民は、市役所に行くとアトムの特別住民票をいただけます。当日は、アトムと(つまりマリさんと)ジャンケン大会があって、ジャンケンで最後まで勝てた人は、マリさんのサインつきアトムの特別住民票がもらえます^^


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大西さんは埼玉県新座市ご在住。手塚プロダクションのアニメーション制作スタジオが新座にあるということもあり、今回の企画が実現したそうです。

ぜひ足をお運びください。

10/2(日)に二本松で開催される智恵子を偲ぶ「レモン忌」でも、大西さんがご出演。そちらはまた後ほどご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

四つ起きや駕籠してまゐる歌舞伎見の白粉ぬらし秋の雨ふる
明治38年(1905) 光太郎23歳

「四つ」は「朝四つ」。秋分の頃は午前9時過ぎにあたります。「白粉」は「おしろい」。いつの時代もスターの追っかけがいたということですね。

福島からイベント情報です。

シンポジウム in いわき ほんとの空が戻る日まで~ふくしま浜通り地方の復興・再生~

期  日 : 2016年9月24日(土)
会  場 : いわき芸術文化交流館「アリオス」4階小劇場 いわき市平三崎1-6
後  援 : 復興庁福島復興局 福島県 いわき市 双葉地方町村会 NHK福島放送局 福島民報社
      福島民友新聞社
プログラム :
開  会  13:30~14:00
第Ⅰ部   14:00~15:00 
 講演「大震災被災地復興・再生への広域支援~阪神淡路大震災を経験して~」
 公立大学法人兵庫県立大学 総合教育機構防災教育研究センター准教授 紅谷昇平氏
第Ⅱ部   15:15~17:00 パネルディスカッション
「ふくしま浜通り地方復興・再生への広域支援 ~これからの支援のあり方を考える~」
天野和彦氏(FURE特任准教授) 紅谷昇平氏 小松知未氏(FURE特任准教授) 國井政範氏(いわきし総合政策部政策企画課復興支援担当課長) 平岩邦弘氏(双葉町復興推進課長) 下枝浩徳氏(双葉郡未来会議事務局副代表)
参加費 : 無料
問い合わせ : 国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター 024-504-2865

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光太郎詩「あどけない話」出典の「ほんとの空」の語を冠したFUREさん主催による同様のシンポジウムは、これまでにも京都東京名古屋で開催されてきました。今回は地元福島での開催です。

今日で東日本大震災から5年半となりました。しかし、岩手、宮城、福島3県の仮設住宅の入居者は8月末現在、8万9172人だそうで、まだまだ復興完了にはほど遠いのが現状です。

今回のシンポジウムでは、原発事故による被害を経験している自治体の復興担当者によるパネルディスカッションもあり、ぜひとも他地域の方々に聴いていただきたい内容です。もっとも、利権に目がくらんで無謀な原発再稼動推進に走っている輩は、あえてこういう声を聴かないようにしているのでしょうが……。


【折々の歌と句・光太郎】

芝居町丸にいの字の番傘と蛇の目といそぎ秋の雨ふる
明治38年(1905) 光太郎23歳

「丸にいの字」は歌舞伎の紀伊國屋一門の定紋です。関係者の持ち物か、芝居小屋で貸し出したものか、小粋な眺めですね。

しばらく秋雨前線が日本付近に停滞するようです。豪雨被害のあった地域を思うと、心が痛みます。特に震災の爪痕まだいえぬ地域の皆さん、お大事に。

昨日は、二本松市教育委員会のお三方が、当方事務所兼自宅にいらっしゃいました。来月、二本松市歴史資料館と智恵子記念館で開催される企画展「智恵子と光太郎の世界」、及び今月24日に行われる「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」に、手持ちの資料をお貸しするためでした。

このうち、「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」の方は、会場の安達文化ホールロビーに当時のポスター、チラシ、パンフの画像を展示していただきます。管理体制等の問題があるということで、現物ではなく、写真を撮影して行っていただきました。

そこで、久しぶりに立て看用の大きなポスターを広げました。2種類、手に入れています。

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通常サイズ(B2判)のものも2種類あり、片方(下の画像左)は安達文化ホールで画像展示、もう片方(同右)は企画展「智恵子と光太郎の世界」で現物を展示していただきます。

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お役に立てて幸いです。

こちらは手土産に頂いた、二本松銘菓の包装紙。市内霞ヶ城近くに本店のある「御菓子処日夏」さんのものです。二本松市の名所旧跡がイラスト入りで紹介されています。智恵子の生家も。

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いい感じですね。

さて、前振りが長くなりましたが、二本松でのイベントをもう一つ。すでに募集定員に達しているそうですが、こういうイベントもある、ということで。 

第8回にほんまつファミリーサイクリング大会

主 催 : にほんまつサイクリング協会
共 催 : 二本松商工会議所
後 援 : 市教育委員会 二本松観光協会 市体育協会 福島民報社 福島民友新聞社
                 福島県サイクリング協会

1.趣 旨
「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に、阿武隈川堤防を周遊。初秋の田園地帯のサイクリングを通して、スポーツを楽しみ、仲間を広げ健康な身体を維持向上することを目的とする。
2.期  日 平成27年9月20日(日) 雨天中止 (主催者の判断で決行もあり)
3.集合場所 安達ヶ原ふるさと村駐車場(出発・到着)
4.コ ー ス
 ふるさと村をスタートし、阿武隈川・杉田川の堤防並びに一般道を走行、
4時間以内に                           完走する。
 ・アスリートコース (一般)        約40km   (途中休憩4ヶ所)
 ・ファミリーコース (小学生と保護者) 約20km   (途中休憩3ヶ所)
5.参加資格 小学生以上で健康、自転車の経験があり完走できる能力のある人
  (小学生は保護者同伴)
6.定  員 100名 ファミリーコースは警備等の都合上、先着10組まで
  ※定員に達しました。
7.参 加 費 1人2000円(消費税及びスポーツ傷害保険等を含んでいます) 昼食有

 
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昨年も同じイベントの紹介で書きましたが、単に「サイクリング大会」ではなく、「趣旨」にあるとおり「「ほんとうの空、あの光るのが阿武隈川」と智恵子抄に詠われた雄大な安達太良山を背に」としているところもいいですね。心の風景である安達太良山への誇りが感じられます。

「地方創生」といわれて久しいのですが、それぞれの地方の皆さんが、こういったイベントを通して「おらが街」の良さを再発見していくことも重要だと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

この色ぞこの空の色さやさやと晴れたる空のいろぞ汝が眼は
明治42年(1909) 光太郎27歳

昨日は台風一過の秋晴れでした。雲も明らかに夏と異なる秋の雲。夕方にはまた彩雲が見えました。

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朗読系のイベントを二つご紹介します。いずれも「智恵子抄」を取り上げて下さいます。

まずは福島市から。 

アナウンサーたちが言葉で綴る物語の世界 第20回定期朗読ステージ 季節はめぐり…そして今~朗読集団「原 國雄とその仲間たち」~

期  日 : 2016年9月11日(日)
会  場 : 福島市子どもの夢を育む施設 こむこむ館  福島県福島市早稲町1番1号
時  間 : 午後1時30分から午後3時30分まで
料  金 : 無料
出  演 : 朗読集団「原 國雄とその仲間たち」 他

智恵子抄・藤沢周平作品などの朗読や、朗読ワンポイント講座を開催します。
元FTVアナウンサーによる美しい語りをお楽しみください!

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続いて茨城から。 

 

おとばな結成3rd記念コンサート フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』

期  日 : 2016年9月16日(金)
会  場 : 茶房かやの木  茨城県守谷市高野1440
時  間 : 午前の回10:30~※満席   午後の回14:00~
料  金 : ¥3000(お茶お菓子付き)
出  演 : 音とお話のユニット『おとばな』
                            フルート 宇高杏那  クラシックギター 宇高靖人  語り 和久田み晴

3年前のこの日、3人が初めてまるごと一つのコンサートを作りました。あれから3年。「おとばな」が生まれた茶房かやの木で、3周年の記念コンサート! 不思議な蔵から、懐かしい音と声が溢れ出す…ドキドキ、わくわく、はらはら、しっとり、色とりどりの音と声を、皆様の耳と目でお楽しみください!

「ボッコちゃん」星新一/「Don't dream」岸本佐知子/「わが名はピーコ」犬丸りん/「レモン哀歌」高村光太郎/「モチモチの木」斉藤隆介

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余談ですが、メンバーのうち、クラシックギターの宇高靖人さんは、「いちむじん」というやはりクラシックギターのデュオのメンバーでもあり、当方、たまたまCDを持っています。「あれま」という感じでした。


「智恵子抄」に限らず、光太郎の作品(散文なども含めて)、意外と朗読に向いています。光太郎本人は「内在律」という語を使いましたが、別に七五調などになっていなくとも、自然な言葉そのものの中にあるリズム感が、無意識のうちに均衡を保って表されています。だから黙読していても読みやすく、声に出して読めば一層その点に気付かされます。

朗読系の活動をされている皆さん、どんどん光太郎作品を取り上げていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

わが友はめでたき秋の季節をば持ちて来しかな佐渡の国より
大正9年(1920) 光太郎38歳

与謝野鉄幹の新詩社同人で、光太郎に木彫「蝉」や、油絵「渡辺湖畔の娘道子像」などの制作を依頼した、佐渡島在住だった渡辺湖畔に贈った短歌です。

この年、湖畔の歌集『若き日の祈祷』が、光太郎の装幀・装画で刊行されています。

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今年、平成28年(2016)は、智恵子の生誕130年ということで、智恵子の故郷二本松でも市の主催で、様々な顕彰活動が計画されています。

メインは来月、二本松市歴史資料館と智恵子記念館で開催される企画展「智恵子と光太郎の世界」。こちらはまた近くなりましたらご紹介します。

それに先だって、一周忌を迎えた原節子さん主演による東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映が行われます。 

【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会

期  日 : 2016年9月24日(土)
会  場 : 安達文化ホール 福島県二本松市油井字濡石1-2
時  間 : 1回目の部 15時00分~   2回目の部 18時00分~ (各98分)
料  金 : 無料
入場について
 入場整理券が必要。現在、下記の配布所において、配布中。
 市役所文化課 0243‐55‐5154 二本松中央公民館 0243‐23‐5121 安達公民館 0243‐23‐3721
 岩代公民館 0243‐55‐2260 東和公民館 0243‐46‐4111
 智恵子記念館 0243‐22‐6151(毎週水曜日休館)
  1回目の部 既に満席

二本松市内で昭和32年にロケをした東宝映画「智恵子抄」。智恵子役で出演した故・原節子さんを偲び、当時の資料等も展示・紹介します。ぜひお越しください。

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「資料展示」とありますが、当方、手持ちの資料をお貸しすることになりました。公開当時のポスター、パンフレット、チラシ、スチール写真、台本などです。

ただし、会場の安達文化ホールさんには、きちんとした展示スペースがないということで、それらを写真撮影し、複写で展示するとのこと。現物は、来月の企画展に展示されます。

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その他、企画展の方では書籍や古絵葉書などの類もお貸しすることになっており、明日、市の教育委員会の方々が、当方自宅兼事務所へ搬入にいらっしゃることになっています。また、当会顧問・北川太一先生のところからも、智恵子の肉筆書簡など、貴重な品々が貸し出される予定です。

当方手持ち資料の類は、死蔵の状態では意味がありませんので、どんどん活用していただきたいと思っております。イベント関係の皆様、当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々の歌と句・光太郎】

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり

大正13年(1924) 光太郎42歳

一昨日からご紹介しているヤモリシリーズ、これにて終了です。

岩手県花巻市の広報紙、『広報はなまき』の今月号から。

まずは、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」について、大きく取り上げています。

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さらに、昨日ご紹介した、「賢治祭」についても。

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それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

大正13年(1924) 光太郎42歳

「守宮」は「やもり」と読みます。昨日に引き続き、ヤモリを詠んだ短歌です。

これによれば、ヤモリの木彫も構想していたようですが、残念ながらその作は確認できていません。

岩手花巻からイベント情報です。今年、生誕120年を迎えた宮沢賢治。その命日である9月21日(水)に行われるイベントです。 
期  日 : 2016年9月21日(水)
時  間 : 16時30 分~21時
会  場 : 「雨ニモマケズ」詩碑広場 岩手県花巻市桜町4  
         雨天時 花巻市立南城小学校 岩手県花巻市南城110番地1
内  容 : 
オープニングアクト
 献 花 (追悼演奏 椿弦楽四重奏団)    午後4時
 黙 祷
 「精神歌」斉唱  指揮/大畠 恵司 伴奏/佐藤司美子

 開 会             午後4時30分
1. 朗 読「雨ニモマケズ」        古川欣也
2. ご挨拶
   主催者の挨拶 (一財)宮沢賢治記念会 理事長 宮澤啓祐
   歓迎の挨拶        花巻市長   上田東一
 3. 賢治先生に捧げる歌 
   「ポラーノの広場の歌」     南城小学校4年生
 4. スピーチ
   ①「賢治生誕120年の意義」 宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事 栗原敦
   ②「新装の賢治記念館」  宮沢賢治学会イーハトーブセンター前代表理事 杉浦静
   ③「宮沢賢治と高村光太郎」  高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
   ④「祖母が語った賢治さんの親友嘉藤治先生」   佐藤司美子
   ⑤「宮沢賢治さんと伊豆大島」  日原行隆
 5. 朗読と合唱
   ①朗読「春と修羅より」南城中学校3年生 髙橋詩織 袴田新七 大橋海月 小原凛花
   ②「花農校歌」「花農応援歌」   花巻農業高校
   ③「雨ニモマケズ」「牧歌」 桜町ママさんコーラス
 6. 神楽「八幡舞」         幸田神楽保存会
 7. 朗読
   ①童話「よだかの星」  花巻市民の会 長田豊
   ②詩「早池峰山巓」   花巻市民の会 髙橋則子
 8. 演 劇「双子の星」     花巻南高校演劇部
 9. みんなで歌いましょう
   「星めぐりの歌」「精神歌」 歌唱指導・指揮/大畠恵司 伴奏/佐藤司美子
 閉 会            午後7時30分

                 <座談会会場づくり>

  《賢治さんを偲ぶ座談会》  司会 参会者から
        テーマ≪私にとっての賢治さん≫ 20:30終了
    (プログラムは変更になる場合があります ご了承下さい)

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当方もお話をさせていただきます。内容が盛りだくさんなので、持ち時間は8分間と指定されていますが、光太郎と賢治、そして賢治没後の宮沢家との関わりなどを語ろうと思っています。かつて光太郎本人も参加し、賢治について語っているイベントでお話しさせていただけるので、感無量です。

お話の要旨は終了後に改めてこのブログに書かせていただきます。

ちなみに「パート2」ということですが、 「パート1」は9月16日(金)、花巻市文化会館大ホールにて、《音楽と演劇の夕べ》と題して開催されます。

さらに「パート3」として、宇宙飛行士・毛利衛氏による講演「宮沢賢治とともに見た宇宙」が、12月16日(金)、やはり花巻市文化会館大ホールで行われます。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ

大正13年(1924) 光太郎42
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謳われているヤモリ。都道府県によっては絶滅危惧種に指定されているようですが、当方自宅兼事務所のある千葉県北東部では、存外よく見かけます。自宅兼事務所敷地にも生息しています。

一見、のろまのように見えますが、意外と動きが速く、庭で見つけてカメラを取りに行って戻ったら、もういなかったということもありました。

右の画像は、はめ殺しの窓越しに撮りました。

俳句の関連で4件ほど。

NHKEテレさんで日曜日の朝に放映している「NHK俳句」という番組。毎回お題を指定し、視聴者からの投句を募るというものです。

昨日のお題は「渡り鳥」。さまざまな投句があった中で、二席に輝いた作品は、智恵子の故郷、二本松と同じ福島県中通り地方にある西郷村の黒澤正行さんの句。光太郎詩「あどけない話」へのオマージュです。

見た目にはほんたうの空鳥渡る

どきっとさせられる句ですね。ぱっと見は本当の空、しかし、いまだ消えない放射線……。「見た目」だけでない、本当の「ほんたうの空」が戻る日は、いつになるのでしょうか……。

9/7、水曜日には再放送があります。ご覧下さい 

NHK俳句 題「渡り鳥」

NHKEテレ 2016年9月7日(水)  15時00分~15時25分

選者は正木ゆう子さん。ゲストは鳥類学者の樋口広芳さん。樋口さんは渡り鳥に送信機をつけ、人工衛星を使って渡りのルートを解明している。題は「渡り鳥」。今回は樋口さんにさまざまな鳥の渡りについてお話を伺う。

司会 岸本葉子(エッセイスト) 選者 正木ゆう子(俳人) ゲスト 樋口広芳(東京大学教授)

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同じく昨日、青森県の地方紙『陸奥新報』さんにも、「智恵子抄」からインスパイアされた句が載りました。「日々燦句」という、おそらく折々の句を紹介するコラムでしょう。

檸檬放る智恵子の空の只中に(聖雪)

解説が附いていました。

高村光太郎の「智恵子抄」は、汚れを知らぬ病妻へおおらかないとおしみを綴(つづ)った詩歌文集で知られる。智恵子は「東京には空がない」と阿多多羅山(あだたらやま)の空を恋い、〈檸檬(れもん)〉を口に含んで、トパアズいろの香気の中で他界したと言う。掲句は「智恵子抄」に取材して〈智恵子の空〉を愛のかたちに広げている。「新青森縣句集」から。


さらに先週の『朝日新聞』さん。005

「朝日俳壇」のページでしたが、句そのものではなく、俳人の恩田侑布子さんによる「俳句時評」というコラムに、光太郎の名が。

オウム真理教事件で死刑判決を受けた中川智正死刑囚が、独房で詠んだ句を引きつつ、光太郎に触れてくださっています。

曰く、「いったんこの世にあらわれた美は決してほろびないと高村光太郎も川端康成もいった。

71年前の原爆の閃光、22年前の狂信的な犯罪、そして5年前からの原発事故の放射線……。人間の罪業の深さ、しかし、人間にしかできない反省や贖罪……。

五七五というたった十七音から、いろいろと考えさせられるものです。


そして、光太郎の句。

【折々の歌と句・光太郎】

五十五年青いぶだうがまだあをい 

          昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎晩年、五十五年ぶりに少年時代の木彫作品に再会した際の吟です。

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詩人・菊岡久利の回想から。

僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。
(略)
当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

右上の画像、左側に「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」の署名。この年、下谷高等小学校を卒業した光太郎は、東京美術学校の予備校として同窓生たちが作った共立美術学館予備科に入学、中学の課程を学んでいます(翌年には東京美術学校に入学)。その頃の懐かしい作品がなぜか鎌倉からひょっこり現れ、入手した菊岡が光太郎に鑑定を依頼、まちがいなく自作だということで、新たに句を裏書きしてくれたというわけです。

筑摩書房『高村光太郎全集』にはなぜか脱漏している句です。

三重県から展覧会情報です。 
期   日 : 2016年9月17日(土)~10月10日(月)  
会   場 : 三重県総合博物館 三重県津市一身田上津部田3060
時   間 : 午前9時~午後5時  (土日祝は午後7時まで)
休 館 日 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)
料   金 : 無料

交流展示では、MieMuのシンボルでもある、津市内で発見された太古のゾウ「ミエゾウ」の標本のほか、南北朝時代に南朝側で活躍した北畠氏の拠点があった現在の美杉町多気にある遺跡の発掘資料や、藤堂氏入府以後、城下町として発展した江戸時代の津の様子がわかる絵図や古文書など、約480点の貴重な資料を展示します。さらに、市民に親しまれている神社や寺院等に奉納されている文化財を公開するほか、明治から平成にかけての津市が現在の市域に至るまでの合併の変遷をたどります。
1章 津のルーツ(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)
2章 古代(奈良・平安時代)
3章 中世(鎌倉・室町時代)
4章 近世(安土桃山・江戸時代)
5章 近現代(明治・大正・昭和・平成)

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チラシ裏面に画像が掲載されていますが、光太郎の父・光雲作の「魚籃観音立像」が出品されます。

調べてみたところ、平成14年(2002)、三重県立美術館、茨城県近代美術館、千葉市立美術館、徳島県立近代美術館を巡回した企画展「高村光雲とその時代展」に出品されたものでした。

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明治36年(1903)の作。像高37㌢です。

「籃」は「らん」と読み、かごを表します。像の手に提げられているかごです。観音像のバリエーションとして「三十三観音」というカテゴリーがあり、「魚籃観音」も含まれます。中国起源の伝説に基づくもので、日本では単体で信仰されることは稀だそうですが、津市の蓮光院初馬寺さんには元禄期の石造仏「水掛け魚籃観音」が祀られており、漁業も盛んなこの地に魚籃観音信仰があったようです。

光雲には、他にも魚籃観音の作例があります。

ちなみに同じ三重県の桑名市では、光雲作の飾り物を施した祭車も出る「石取祭」が行われており、三重と光雲には色々縁があるようです。

意外と光雲作の木彫が見られる機会は多くなく、貴重な機会です。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

こほろぎもかゝる夜はなけ湯のけぶり   明治34年(1901) 光太郎19歳

昼間はまだ蝉の合唱が聞こえますが、このところ日が暮れると、代わって秋の虫たちの競演です。季節は確実に進んでいますね。

日本女子大学校での智恵子の一級上で、卒業後に雑誌『青鞜』を創005刊、その表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。学年は一つ上ですが、早生まれということもあって、智恵子と同じく今年が生誕130年にあたり、記念イベント等がいろいろ組まれています。

まずは信州上田から。 
期 日 : 2016年9月12日(月)
時 間 : 13:30~
会 場 : らいてうの家 長野県上田市真田町長字十の原1278-720
講 師 : 米田佐代子(女性史研究者・らいてうの家館長)
参加費 : 500円(含資料代)

ことしは「平塚らいてう生誕130年」です。NHKの朝ドラで004は『あさが来た』に続き、『とと姉ちゃん』で『青鞜』創刊号に載った「元始、女性は実に太陽であった」がリフレインされ、8月9日には真野響子ふんする戦後のらいてうも登場しました。でも、らいてうが戦前戦後を通じてどう生きたかは意外に知られていません。らいてう研究ひとすじの米田佐代子(らいてうの家館長)が新発見の資料も披露しながら語る「現在(いま)を生きるらいてう」秘話を、ぜひお聞きください。


NHKさんの大河ドラマ「真田丸」で注目されている真田家ゆかりの地・旧真田町にある「らいてうの家」。以前に一度、寄せていただいたことがあります。エントランスには智恵子がデザインした『青鞜』創刊号の表紙を用いた大きなガラス絵。スタッフの方々も親切ご丁寧な対応をして下さり、いきなり訪ねて行ったにもかかわらず、手料理の昼食をご相伴にあずかったことを今でもよく覚えています。


続いて皇居北の丸公園の国立公文書館さんでの展示及び関連行事としての講演。 
期  日 : 平成28年9月17日(土)〜10月16日(日)
時  間 : 月~水、土、日曜日、祝日 午前9時45分~午後5時30分
        木・金曜日(9/22を除く)  午前9時45分~午後8時
会  場 : 国立公文書館 本館 東京都千代田区北の丸公園3番2号
料  金 : 無料

平成28年秋の特別展では、明治時代から現代まで、様々な分野で活躍した女性をとりあげます。明治維新後の日本では、近代化とともに、女性が社会進出を果たしました。大正、昭和を経て、女性が女性らしく生きる社会をめざす取り組みは現在も続き、昨年8月には女性活躍推進法が成立しました。女性の活躍が期待される今、当館所蔵資料等から、時代を超えて今も輝きを放つ女性たちをご紹介します。

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関連行事     記念講演会

 期  日 : 平成28年9月25日(日)
 時  間 : 14時開場 14時30分開演
 会  場 : 一橋講堂(千代田区一ツ橋2-1-2学術総合センター内)
 料  金 : 無料
 定  員 : 500名(事前予約制)
 演  題 : 赤松良子氏「均等法施行から30年をむかえて」
        森まゆみ氏「女性解放のあけぼの―「青鞜」と平塚らいてう―」

『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』『「谷根千」地図で時間旅行』などのご著書のある、元タウン誌『谷中根津千駄木』編集長で作家の森まゆみさんの講演では、らいてうにスポットが当たります。


それぞれ、智恵子にも触れていただきたいものです。

この他にもらいてう顕彰のイベント等、まだいろいろあるようですが、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

秋立つと音する風はふるさとに似たる空より来てさむきかな
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎、留学でニューヨークに滞在中の詠草です。

光太郎と交流のあった女流詩人・永瀬清子の故郷、岡山県赤磐市から市民講座の情報です。 

第14回おかやま県民文化祭参加事業 岡山県生涯学習大学連携公開講座「高村光太郎と智恵子の運命」 

日 時 : 2016年9月17日(土)
会 場 : 赤磐市立中央公民館視聴覚室 岡山県赤磐市下市337
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
講 師 : 三浦敏明氏 (東洋大学名誉教授)
定 員 : 50名
申 込 : 赤磐市教育委員会熊山分室  TEL:086-995-1360

現代詩講座「詩のピクニック」の公開講座を開催します。高村光太郎と長沼智恵子の運命の出合い、その後二人が育んだ夢と愛の行方についてお話しいただきます。

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赤磐市では、過日お知らせした企画展示「宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」」が今日から開催されています。合わせて足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

どしどしと季節あらたまり風吹きてそこらいちめんに涼しきもの満つ

大正13年(1924) 光太郎42歳

日中はまだ暑さを感じますが、朝晩はかなり爽やかになって参りました。昨夜は窓をほぼ閉めて就寝するほどでした。このまま涼しくなってほしいものです。

先週の『読売新聞』さんに光太郎の名が。ただし記事ではなく写真のキャプションです。

記事は以下の通り 

犀星と朔太郎、詩誌発刊100年記念し資料公開

 室生犀星(1889~1962年)と親友の萩原朔太郎(1886~1942年)が青年期に手がけた詩の同人雑誌「感情」が発行されて今年で100年となるのを記念し、金沢市千日町の室生犀星記念館で関連資料が公開されている。

 朔太郎がデザインした表紙などが展示され、担当者は「若き詩人の息づかいと雑誌発行にかけた情熱を感じてほしい」と話している。

 「感情」は2人が当時の文壇や詩壇に挑戦する詩を発信しようと、1916年6月に創刊。19年11月までの3年半に32号が出版された。詩に特化した雑誌が当時は少なかったことや、その秀逸なデザインから人気を博し、毎号200~300部が刷られた。掲載された詩は、後に、朔太郎の「月に吠(ほ)える」や犀星の「愛の詩集」など代表的な詩集に収められた。

 表紙のデザインは朔太郎が考案し、原稿集めや編集、校正、印刷、販売は犀星が一手に引き受けた。資金繰りには苦労したとみられるが、犀星は「毎月詩を書いてそれがすぐ印刷になる幸福」と後に記している。

 犀星は、購読者に郵送する封筒に独自でデザインした版画を押しており、その封筒も 展示されている。犀星は朔太郎に宛てた手紙で「1日中、封筒ののり付け作業をして手の皮がむけた」などと記しており、作業は当時、犀星の生活の中心だったようだ。

 19年に犀星の小説「幼年時代」が中央公論に掲載されたことを機に、犀星は小説家 として本格的に歩み始め、終刊となった。同館の嶋田亜砂子学芸員は「若い頃の犀星 たちが詩にかけた情熱を感じてほしい」と話している。展示は11月6日まで。

 展示は11月6日まで。 開館時間は、午前9時半~午後5時(入館は午後4 時半まで)。入館料は一般300円、65歳以上200円、高校生以下無料。


写真とキャプションがこちら。

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報じられているのは、光太郎もたびたび寄稿した詩誌『感情』にスポットを当てた企画展です。詳細はこちら。 

企画展「『感情』時代-僕らが一番熱かった頃-」

期  日 : 2016年7月1日(土)~11月6日(日)
会  場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
時  間 : 午前9時30分~午後5時
料  金 : 一般 300円   団体(20名以上)250円  高校生以下 無料
         65歳以上・障がい者手帳をお持ちの方およびその介護人 200円(祝日無料)

室生犀星と萩原朔太郎、”二魂一体”と称された二人が自分達のアイデンティティを確立し、発信するべく創刊した詩誌「感情」は今から100年前、大正5年の6月に誕生しました。詩人として歩み始めた二人の若者が絶対的に大切にしてきたもの、そして当時の文壇・詩壇への反逆・挑戦の精神が、この「感情」という詩名にはこめられています。「感情」は大正8年11月まで3年半続き、32号を数えました。この間に多田不二、竹村俊郎、恩地孝四郎、山村暮鳥らの仲間を加え、それぞれが熱い思いをかかえ、ここをよりどころにして詩作を発展させ飛躍していきました。その大きな一歩として、朔太郎の『月に吠える』、犀星の『愛の詩集』など、かれらの第一詩集が感情詩社から出されています。本展示では、「感情」に集った若き詩人達の苦悩と情熱を感じていただければと思います。

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関連行事

金沢ナイトミュージアム「夜間延長開館」   
  開館時間を延長し、午後9時まで夜間開館いたします。
  日 時 9月17日(土) 10月22日(土)、23日(日)(入館は午後8時30分まで)
  入館料  一般300円、65歳以上200円、高校生以下無料
  問合せ  室生犀星記念館 076-245-1108

講演会「室生犀星と詩と世界」   
  現代詩作家 荒川洋治氏による講演会をおこないます。
  日 時 10月8日(土) 午後2時~午後4時
  場 所 金沢21世紀美術館内レクチャーホール 金沢市広坂1-2-1
  参加費 無料
  申 込  電話076-245-1108にて 先着順


詩誌『感情』。光太郎は確認できているだけで3回寄稿しています。

最初は大正5年(1916)10月発行の第1巻第4号。詩「我家」(のち「わが家」と解題)。続いて翌年1月の第2年第1号に詩を一挙6篇。「花のひらくやうに」「海はまろく」「歩いても」「湯ぶねに一ぱい」「晴れゆく空」「妹に」。さらに4月の第2年第4号には、散文、というより書簡からの抜粋で「萩原朔太郎詩集「月に吠える」について」。

特に「我家」は注目に値する作品です。大正3年(1914)に詩集『道程』を上梓、そこに書き下ろしで掲載した「秋の祈」以後、詩作から遠ざかっていた光太郎が、約2年ぶりに発表した詩だからです。

   わが家

 わが家(や)の屋根は高くそらを切り007
 その下に窓が七つ
 小さな出窓は朝日をうけて
 まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる
 見あげても高い欅の木のてつぺんから
 一羽の雀が囀りだす
 出窓の下に
 だんだんが三つ
 だんだんから往来いちめん
 露にぬれた桜の葉が
 ひかつて静かにちらばつてゐる
 桜の樹々は腕をのばして
 くらい緑にねむりさめず
 空はしとしとと青みがかつて
 あかるさたとへやうもなく
 夏の朝のひかりは
 音も無く
 ひそやかに道をてらしてゐる
 土をふんで道に立てば
 道は霧にまぎれて
 曲がつてゆく


高らかな調子で謳われているのは、駒込林町のアトリエ。ここに智恵子の名はありませんが、2人の愛の巣を謳ったという意味では、『智恵子抄』スピンオフ的な内容です。

しかし、のちに智恵子が心の病を発症してから、光太郎は同じ自宅を自虐的に「ばけもの屋敷」と表すことになります。

   ばけもの屋敷

 主人の好きな蜘蛛の巣で荘厳(しやうごん)された四角の家には、
 伝統と叛逆と知識の慾と鉄火の情とに荘厳された主人が住む。
 主人は生れるとすぐ忠孝の道で叩き上げられた。
 主人は長じてあらゆるこの世の矛盾を見た。
 主人の内部は手もつけられない浮世草子の累積に充ちた。
 主人はもう自分の眼で見たものだけを真とした。
 主人は権威と俗情とを無視した。
 主人は執拗な生活の復讐に抗した。
 主人は黙つてやる事に慣れた。
 主人はただ触目の美に生きた。
 主人は何でも来いの図太い放下(ほうげ)遊神の一手で通した。
 主人は正直で可憐な妻を気違にした。
 
 夏草しげる垣根の下を掃いてゐる主人を見ると、
 近所の子供が寄つてくる。
 「小父さんとこはばけもの屋敷だね。」
 「ほんとにさうだよ。」

こちらは昭和10年(1935)、智恵子が南品川のゼームス坂病院に入院した年の作です。


話がそれました。企画展「『感情』時代-僕らが一番熱かった頃-」、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

久しぶりに来しわが友のふところにさやさやと鳴る新しき風
大正13年(1924) 光太郎42歳

今日から9月。心なしか吹く風も秋涼の気配をはらんでいるように感じます。

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