2016年08月

こちらも少し前、今年5月刊行の書籍です。光太郎、父・光雲の、いわばホームグラウンドであった浅草に関するものです。 
2016年5月27日 勉誠出版 定価2,800円+税
金井景子・楜沢健・能地克宜・津久井隆・上田学・広岡祐 著

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数々の低迷と隆盛を経た浅草はどのように描かれてきたのか。
浅草を舞台とした小説や映画、演芸、浅草にゆかりのある人物を中心に、明治から現代までの浅草、あるいは東京の文化が形成される軌跡を辿る。
昔のものが消えても、苦境を乗り越え、新たなものが参入し、それが人を呼び寄せていく。
様々な文芸作品と100枚を超える写真から、〈かつての浅草〉と〈現在の浅草〉を結びつける!


目次
 はじめに

 巻頭インタビュー
 作家戌井昭人氏に聞く 浅草という体験
 「十和田」の冨永照子さんに聞く 「浅草」をつなぐおかみさんの声

 浅草文芸選
 外国人の見た幕末・明治の浅草
 ロバート・フォーチュン『幕末江戸探訪記 江戸と北京』ピエール・ロチ『秋の日本』
 明治四十一年の江戸情調  木下杢太郎『淺草觀世音』『淺草公園』
 隠蔽する十二階/暴露する瓢簞池  室生犀星「幻影の都市」
 九月、浅草の公園で  江馬修「奇蹟」
 凌雲閣から見えない浅草  江戸川乱歩「押絵と旅する男」
 「感情の乞食」が浅草で拾ったものは何か  川端康成『浅草紅団』
 現在を語ることの難しさ  堀辰雄「水族館」
 あの機械は、機械の悲しさにたとえ宮様のお通りでも、十銭入れなきゃ廻らないんだ
   貴司山治「地下鉄」
 靴と転業をめぐる「マジな芝居」は書かれたか  高見順『東橋新誌』
 ぼっちゃん、おじょうちゃんへの浅草教育  幸田文「このよがくもん」
 行き場のないフラヌールの邂逅  水木洋子・今井正『にっぽんのお婆あちゃん』
 浅草の美、その映像的表現  加藤泰・鈴木則文『緋牡丹博徒 お竜参上』
 ハダカと浅草の遠近法  井上ひさし「入歯の谷に灯ともす頃」
 浅草の「見世物」から浅草という「見世物」へ  寺山修司「浅草放浪記」
 墨堤からながめる浅草  沢村貞子『私の浅草』
 吾妻橋コレクション  半村良『小説 浅草案内』
 芸人によって重ねられた都市の年輪  ビートたけし『浅草キッド』
 焼跡と復興と、戦災孤児のゆくえ  木内昇『笑い三年、泣き三月。』

 コラム
 奥山の伝統をつないだ風狂の人
 浅草一丁目一番地の愉楽―神谷のバアと朔太郎と
 劇場・陋巷・探偵趣味
 震災と浅草―復興と明治の終焉
 パロディと幻想―エンコの六・江戸川乱歩・浅草紅団
 演歌の〈誕生〉―神長瞭月と浅草の映画館街
 吾妻橋西詰のモダニズム―永井荷風『断腸亭日乗』の浅草風景
 モダン浅草の残像をたどる
 浅草にマリアがいた―北原怜子と「蟻の街」
 浅草みやげ
 路上の叡智―添田啞蟬坊・知道『浅草底流記』
 映画のなかの〈写された/作られた〉浅草
 地上げと原っぱ―八〇年代浅草の、とある風景
 〈見世物〉としての演芸―小沢昭一の叙述から
 浅草への陸路―雷門から入る啄木/雷門から入らない犀星
 浅草の銭湯・温泉
 浅草の祭り

 浅草散歩
 ①浅草をちょっと知っているつもりの先生と初めて浅草を訪れる学生の半日
 ②歌舞伎女子、新春の浅草にお芝居と歴史を訪ねる
 ③落語家・金原亭馬治さんと歩く浅草

 浅草の石碑を歩く
 浅草寺新奥山―記念碑・句碑でたどる浅草
 明治二五年の正岡子規を想う
 川柳発祥の地碑―川柳こそ浅草の文学
 鳥獣供養碑―震災の傷跡
 驚きの発見

 人名・書名・作品名索引


光雲・光太郎父子をはじめ、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎、夏目漱石、萩原朔太郎、室生犀星、森鷗外、与謝野晶子ら、関連人物が続々登場、いにしえの少し怪しい浅草が生き生きと描き出されています。

光雲に関しては、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)、光太郎に関しては詩「米久の晩餐」が取り上げられています。ただ、残念なことに、光雲と光太郎を混同している記述もあり、目を疑いました。個人の方のブログなどでは時々あるのですが、公刊された書籍ではめったになく、なんだかなあ、という感じでした。

何はともあれ、この書を片手に浅草の街歩きというのもいいかと存じます。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

茄子胡瓜きりぎりすほど食慾にけだし喰へどもわが痩せにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

身長180センチ以上あった光太郎ですが、横幅は確かにあまりなかったようです。差別的な意図はありませんが、やはり「あんこ型」の愛の詩人、というのは想像しにくいところがあります(笑)。

ところで当方、暑いのでアイスやらアイスコーヒーやらで、少々夏太り気味です(汗)。暑かったり、ひっきりなしに台風が来たりで、愛犬との散歩も春秋より距離が短めですし……。

今年4月に発行された季刊誌です。情報を得るのが遅くなり、最新号ではなくなってしまいましたが、バックナンバーとして販売されていたものをこのほど入手しました。 
2016年4月15日 株式会社ビューティービジネス 税込定価1,800円

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この雑誌は、「PROFESSIONAL」というタイトルのとおり、美容関係のプロフェッショナル向けの専門誌です。毎号一つのテーマを設定し、一人のモデルさんをメイクアップ、イメージフォトグラフを多数撮影し、掲載するというスタイル。したがって、どちらかというと写真集に近いアーティスティックな誌面です。

第95号、全98ページ中の大半、12ページから87ページまでが「智恵子抄 人類の泉」。光太郎詩「人類の泉」(大正2年=1913)を引用しつつ、そこからインスパイアされた60葉を超えるイメージフォトグラフが添えられています。

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モデルはmiuさんという方。「智恵子抄」ということで、最近流行の「昭和顔」に見えます。これもメイクのなせる技でしょうか?

巻末近くにヘアメイク担当の石井順子さんへのインタビュー、大妻女子大学文学部教授・須田喜代次氏による「人類の泉」解説が、それぞれ2ページずつ掲載されています。

音楽や演劇、絵画に舞踊、能や落語など、これまでも実に色々な分野で「智恵子抄」オマージュの二次創作がなされていますが、こういうアプローチもあるんだと、感心いたしました。

まだ在庫があるようで、ネットで購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

高飛ぶと足をかまへて稲子麿翅(つばさ)薄きに哭く閑暇(ひま)もなし

明治37年(1904) 光太郎22歳

「稲子麿」はイナゴを擬人化した語。源俊頼によって書かれた歌論書『俊頼髄脳』などに用例があります。こうした古典に関する光太郎の知識には驚くばかりですが、当時としては常識だったのでしょうか?

一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊で、当会の祖・草野心平が大きく取り上げられました。 

文学周遊 「草野心平詩集」 福島・いわき市・川内村

 「ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっ……」
 7月9日。福島県川内村の体育館に、詩誌「歴程」関係者と村民らの朗読の声が響いた。第51回の「天山(てんざん)祭り」だ。「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた同県いわき市小川町出身の草野心平は1960年、北隣の名誉村民となる。新聞で「モリアオガエルの生息地」を問うた心平の文を読んだ長福寺の住職が平伏(へぶす)沼へ来るよう手紙を書き、53年に初訪問。以来、毎年のように村民と交流を重ねて始まった。
 祭りは例年、心平のために造った茅葺(かやぶ)き屋根の「天山文庫」で開かれるが、この日は雨で体育館が会場に。イワナの塩焼きや山菜を肴(さかな)に、心平の詩や村の伝統芸能を、村人・同人らと楽しんだ。
 一時は原発事故で全村避難となった村では、震災の年も祭りを敢行。震災後、愛唱された宮沢賢治の詩・作品を世に広めたのも心平だ。心平らが創刊した歴程の存在は大きいが、「藤村(とうそん)記念歴程賞」の昨年の受賞者は「川内村村民」だった。生徒数が激減した川内小6年生5人の朗読が胸を打つ。「虫がないてるね/ああ虫がないてるね/もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね……」(詩集「第百階級」の「秋の夜の会話」)
 なぜ蛙なのか。幼時から癇(かん)の強かった心平は鉛筆や人に噛みついた。磐城中では放校寸前となって中退。東京にもなじめず「どっか海の外へでも行ってみたいという願望が私のなかにめざめてきた」(「わが青春の記」)という。
 中国の嶺南大学へ入学。寄宿舎で亡兄・民平が詩・短歌を書いたノートを読み、詩作に没入する。「私は広州での学生時代から蛙に関する詩を書きだしたが、その蛙は校庭の沼地にいた牛蛙たちではなく、上小川の稲田で鳴いていた蛙たちだった」(「望郷」)
 孫文やタゴール、高村光太郎ら、国内外で広い人脈を持つ。詩境も「富士山」「天」など宇宙的な「天の詩人」でもあった。一方、生活は困窮を極め、貸本屋、焼鳥屋など波乱の人生を送る。いわき市名誉市民になったのは84年。小川町山腹に98年、市立草野心平記念文学館(粟津則雄館長)が誕生した。
 磐越東線・小川郷駅近くに心平の生家、墓がある。田では稲穂がそよぎ、蛙が跳ね回り、シマヘビも泳ぐ。蛙はじっとこちらを観察していた。
(編集委員 嶋沢裕志)

 くさの・しんぺい(1903~88) 福島県いわき市生まれ。19年磐城中学(現磐城高校)を4年で中退し上京。慶応義塾普通部に編入学するが、半年で中退。英語・中国語を学び、21年中国・広州へ渡り、嶺南大学(現中山大学)に入学。
 25年排日運動の激化で卒業前に帰国。27年「第百階級」を同人誌に発表。郷里で農業、前橋で新聞社校正係、東京で焼鳥屋、新聞記者など職業を転々とし、35年に高橋新吉、中原中也ら8人で詩誌「歴程」(宮沢賢治も物故同人に)発刊。中国で現地召集され、戦後は故郷で貸本屋「天山」、東京で居酒屋「火の車」などを営業。50年一連の「蛙の詩」で第1回読売文学賞受賞。87年文化勲章を受章。
(作品の引用は岩波文庫)

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先月、川内村で行われた第51回天山祭の様子から始まり、川内村として藤村記念歴程賞を受賞した件、心平の人となり、光太郎との関わり、いわき市の草野心平記念文学館、生家などの紹介となっています。

先の話になりますが、11月13日(日)、いわき市の心平生家で没後29回忌「心平忌」・第23回「心平を語る会」が計画されており、当方が記念講演をすることになっています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。また近くなりましたら詳細をご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

繭は蛾に卵は鳥に芽は花に人は生まれて罪の館(やかた)に
明治43年(1910) 光太郎28歳

勘違いしていて見逃してしまいましたが、昨日、BS-TBSさんで放映されている「校歌を訪ねて」という番組で、女川町の女川中学校さんが取り上げられました。この番組は、東日本大震災からの復興に向けて頑張る東北の小中学校の校歌を紹介する5分間番組です。

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紹介にあるとおり、同校の卒業生の皆さんが、このブログでたびたびご紹介してきた「いのちの石碑」建立に携わっています。同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

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今月には、同町離島の江島など3地区に新たに碑が建ちました。報道各紙から。

まずは『河北新報』さん、先週の一面コラム。 

河北春秋 (2016.8.21)

<大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください>。そう刻まれた石碑が宮城県女川町に12基立つ。女川中を2014年3月に卒業した高校3年生たちが、中学時代から建立している。最終的に21基まで増やす計画だ。このほど、やっと折り返し点を迎えた▼「女川いのちの石碑」と呼ばれる。発端は東日本大震災から1カ月後、中学1年の社会科の授業。「古里のために何ができるか考えてみよう」。先生の問い掛けに生徒たちが応じた。「津波の被害をなくす方法を考えたい」「石碑を建てよう」▼女川町は震災で巨大津波に襲われ、人口の8%に当たる約830人が死亡・行方不明になった。生徒にとって一人一人の命こそ尊いものだった。「一人の命もなくさないでほしい」との願いを込め、津波到達点近くに石碑を設置する。合言葉は「1000年後の命を守るために」▼活動に参加する仙台市の常盤木学園高3年の神田七海さん(18)は、大好きだった祖父を津波で亡くした。祖父は津波から逃げない人の家に行っては連れだし、3度目に戻った際、流された。「どうすればいいの?」。話し合いの場で涙ながらに訴えた▼<逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください>。碑には生徒たちの切実な思いが刻まれている。


同じく『河北新報』さん。 

<震災5年5カ月>津波の記憶刻む石碑3基

005 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する宮城県女川町女川中の卒業生グループが、津波到達点を知らせる「女川いのちの石碑」の除幕式を11日、同町の離島・江島など町内3カ所で行った。町内の浜21カ所に建立を目指す石碑はこれで12基となり半数を超えた。
 グループは2014年3月の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。江島には高校3年生のメンバー9人が渡り、住民らと除幕した。
 石碑は島の北側、集落への入り口の高台に設置。生徒が「この石碑より上へ逃げてください」などと刻まれた碑文を読み上げた。石碑には<うらんでもうらみきれない青い海>の句が碑文と共に彫られている。
 江島の小山盛雄区長(75)は「震災を経験した私たちは震災を風化させず、後世に残るようみんなで協力していく」と述べた。
 島民に震災時の話を聞くなど交流した石巻高3年木村圭さん(17)は「島では津波への意識が高く、島民の絆も強く、命を落とす人がいなかった。学ぶことが多かった」と話した。


系列紙の『石巻かほく』さん。 

「震災教訓後世に」 女川中卒業生、いのちの石碑除幕 12基に

006 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する女川町女川中の卒業生グループが11日、津波到達点を知らせる「女川いのちの石碑」の除幕式を離島・江島など町内3カ所で行った。町内の浜21カ所に建立を目指す石碑は、これで12基と半数を超えた。
 自然災害から命を守る対策などをまとめた「女川いのちの教科書」の報告会も開き、生徒たちは「日本、世界に教訓や命の大切さを伝えたい」と訴えた。
 グループは2014年3月の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。現在、高校3年生の約15人が中学時代からの活動を続ける。
 江島にはメンバー9人が渡り、住民らと除幕した。石碑は島の北側、集落への入り口の高台に設置。生徒が「この石碑より上へ逃げてください」などと刻まれた碑文を読み上げた。
 江島の小山盛雄区長(74)は「震災を経験した私たちは震災を風化させず、後世に残るようみんなで協力していく」と述べた。
 生徒たちは島民から震災時の話を聞くなどして交流した。小山区長は「津波はじわじわと高くなり、石碑を建立したここで約9.2メートル。昔の地震の教訓から、島の約4倍の津波が本土を襲う。心配だった」などと説明した。実際、町の中心部は34メートルの津波が観測され、町は最大で43メートルの巨大な津波に襲われた。
 江島は女川港から約14キロ。小山さんによると、江島では住宅は高台にあり、津波による被害は少なく、犠牲者もいなかった。住民は3日間孤立したが、ヘリコプターで救助されたという。震災時に約80人いた島民は約30人に減った。
 生徒たちは同日、町内の高白浜、指浜の両地区でも石碑の除幕式を行った。

<「いのちの教科書」作り報告>
 「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーは11日夜、東日本大震災の体験や教訓を記した「女川いのちの教科書」作りの報告会を開き、「一人でも多くの命を守りたいとの思いを込めた」と発表。
 未完成だが、内容を詰め、中学生向けの副読本として来春の完成と出版を目指す。
 「いのちの教科書」は84ページを想定。社会科として女川町の津波被害や津波対策案、理科として地震・津波のメカニズム、道徳として震災の記録など計8項目を盛り込んだ。
 生徒たちは「1000年後の命を守るために」を合言葉に活動してきた。その対策として(1)絆を強める (2)高台に避難できるまちづくり (3)震災の記録を残す- の三つを提示。「中学生が小学校の放課後クラブを運営する」「太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への避難路を整備する」など具体的な実践例を示し、自分たちの考えを記した。
 「記録を残す」ため、「いのちの石碑」の活動などを紹介したほか、道徳編として生徒たちの震災体験に多くのページを割いた。
 守る会会長の石巻好文館高3年阿部由季さん(18)は「命を守る対策について教科書から学んでもらえればうれしい」と話す。
 出版はまだ具体化しておらず、生徒たちを中学時代から見守る東松島市矢本二中の阿部一彦教頭(50)は「メンバーが高校を卒業するまで形にしてあげたい」と協力を呼び掛けている。


『毎日新聞』さんの宮城版。 

経験、語り継ぐ 女川中卒業生たち、石碑除幕式 離島・江島などで、設置目標折り返し /宮城

007 東日本大震災の教訓を未来に伝えようと活動する、女川町立女川中を卒業した高校3年生たち「女川1000年後の命を守る会」は11日、同町の離島・江島(えのしま)など3地区で津波の到達地点に建てた「女川いのちの石碑」の除幕式を開き、地元住民と経験を語り継ぐ決意を共有した。この日で石碑設置は計12基となり、町内全21地区の設置目標は折り返しに。防災の知識や教訓を伝える「女川いのちの教科書」の中間発表会も行い、来春の完成を目指して「命を守る大切さを世界に伝えたいので協力してほしい」と呼びかけた。
 女川港から定期船で約30分の江島。エメラルドグリーンに輝く海を眼下に見る高台で石碑の除幕式が開かれ、高校生9人がそれぞれ地区住民から話を聞いた。「津波は一気にではなくじわじわ高くなり、引き波が強かった。電気も水道も止まって孤立したが、上空を飛ぶヘリが気づいてくれず、防波堤に『SOS』と書いて救助を待った」。高校生たちは小山盛雄区長(74)が語る震災直後の話に真剣に耳を傾けた。
 江島は震災で約9・2メートルの津波に見舞われたが、島民はすぐに避難して無事で、発生3日後に全島避難。津波による家屋の被害はなかったが、余震で倒壊する被害が出て、約50世帯80人いた島民は約25世帯30人に減少したという。鈴木元哉さん(17)は「同じ女川でも本土と島、海と山で違い、問題は一つではないと感じた。人の多さや高齢者の数で避難の仕方も違うことが分かり、教科書づくりにも生かしたい」とかみしめていた。
 また、世代を超えて震災の経験を伝えていこうと、生徒たちが高校生になってから本格的に取り組む教科書づくりの中間発表会を開催。支援を受ける防災士らに向け、自分の経験や聞き取りした内容をまとめた教科書の途中経過を報告し、理解と協力を求めた。守る会会長の阿部由季さん(18)は「たくさんの人の協力があり、教科書はほぼ完成に近づいた。中高生たちに読んでもらいたいので、いざという時に行動できる内容や私たちの体験談を増やしたい」と話した。【百武信幸】
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巨大防潮堤の建設という選択をしなかった女川町。その代わり、海の近くには居住スペースは作らず、大地震の際にはとにかく高台に逃げる、という方針を掲げています。

その方針を端的に語るのが、右のポスター。女川駅に貼られていたものですが、「わたしたちは海と生きる。」の一言がドーンと記されています。

平成25年(2013)にNHKさんで放映された連続テレビ小説「あまちゃん」で、主人公アキの祖母、宮本信子さん演じる「夏ばっぱ」が、震災後のシーンで、孫のアキ(能年玲奈さん)に向かって次のセリフを放ちました。

「海が荒れて大騒ぎしたのは今度が初めてではねぇ」
「おまんま食わせてくれた海が、1回や2回へそを曲げたからってよそで暮らすべぇと、おら、はなっからそんな気持ちで生きてねぇど」
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まさにそういうことなのでしょう。

「いのちの石碑」プロジェクト。息の長い取り組みになるかと存じますが、見守っていきたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

少(ちさ)きは老い老いしは朽ちて海の芥埃(あくた)よする東の岸べに立てり

明治35年(1905) 光太郎20歳

そういうわけで、海にちなんだ短歌です。

岡山県赤磐市から企画展情報です。 

宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」

期  日 : 2016年9月2日(金)~2016年11月27日(日) 月曜休館
時  間 : 09:00~17:00
会  場 : 永瀬清子展示室 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
         岡山県赤磐市松木621-1
料  金 : 無料
問合せ先 : 086-995-1360 (赤磐市教育委員会 熊山分室)

賢治が遺した「雨ニモマケズ」は、「夢の構図」なのだ
2016(平成28)年は、宮沢賢治生誕120年、永瀬清子生誕110年の年です。永瀬清子は、1932 (昭和7)年に宮沢賢治の詩集『春と修羅』を手にして以来、終生宮沢賢治を慕い、人と作品とともに歩み続けました。とりわけ、詩「雨ニモマケズ」は縁が深く、永瀬清子の詩と人生に大きな影響を与えています。
この展示では、永瀬清子が宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、宮沢賢治追悼会で「雨ニモマケズ手帳」発見の現場に立ち会ったときのことを紹介します。

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関連行事
 岡山県生涯学習大学連携講座
 講演会 宮沢賢治と永瀬清子 -妹トシと「雨ニモマケズ」をめぐって
 講師:山根知子先生(ノートルダム清心女子大学教授)
 日時:平成28年9月4日(日)  午後2時~3時30分
 場所:赤磐市くまやまふれあいセンター 第1会議室
 参加費:無料(要事前電話申込)
 申込開始日:平成28年8月2日(火) ※申し込みは下記まで
 定員:20人(先着順)


永瀬清子は明治39年(1906)、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)の生まれ。光太郎と交流があり、昭和15年(1940)に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いている他、光太郎最晩年に、その終焉の地中野のアトリエを訪れたりもしています。

赤磐市では永瀬の顕彰活動を継続的にいろいろ行っており、当方も一度お邪魔しました。生家が保存されている他、公民館的な赤磐市くまやまふれあいセンターさんには「永瀬清子展示室」が設けられ、常設展示の他、このような企画展示も行われています。

今回は宮沢賢治生誕120年にからめた展示。永瀬と「雨ニモマケズ」については、以前にも書きましたが、改めてご紹介します。

賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

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前列左から二人目が宮靜枝、四人目が光太郎、その隣が清六、一人置いて永瀬。後列左から五人目が草野心平、一人置いて深沢省三、右端が巽聖歌です。

永瀬の回想から。

昭和九年の二月になってふと宮澤賢治氏の追悼会をひらくので新宿の映画館の地下にある「モナミ」へ来るようにお通知が来た。
(略)
その会には弟の宮沢清六さんが来ていらした。はるばる岩手県の花巻から賢治さんの原稿のつまった大きなトランクをさげて上京されたのだ。多分あとで考えると宮沢賢治選集のはじめての出版のためであったものと思う。
 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。
 『春と修羅』はすでによんでいても、どうした人柄の方かすこしも聞いたことがなかったので、この時私には宮沢さんの本当の芯棒がまっすぐにみえた感じがした。或はその芯棒が私を打ったのかもしれない。でも私だけでなく一座の人々はそれぞれに何かこのめっそうもないようなものを感じとった風だった。
 この時の世の中で、この時の詩壇で、一般には考えられないようなことがそこには書いてあったのだ。それはその時までに詩のことばとして考えられていたもの以上だったから、或は粗雑で詩ではないと人はみるかもしれぬ。でもそこにはきらびやかな感覚の底にあった宮沢さん自身が、地上に露呈した鉱脈のように見えていた。又それがほかの清書された原稿ではなく、小さい小さい手帖だったから、自分自身のために書かれた一番小さい手帖だったから、いっそうその感が強かったのだ。
(『かく逢った』 昭和56年=1981 編集工房ノア)


それ以前から、永瀬は賢治に関して言及していました。きっかけは光太郎と同じく、草野心平に『春と修羅』を紹介されたことだそうです。いち早く賢治の才能に気付いた心平の炯眼、さらに気付くだけでなく周囲に広めようとした行動力には驚かされます。


赤磐では、これ以外にも市民講座的に光太郎智恵子を取り上げて下さいます。また近くなりましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

撲てば蚊の落ちぬちひさきなきがらや霊や命や我が世は難し

明治43年(1910) 光太郎28歳

とはいうものの、当方、蚊に刺されやすく、また、刺されると腫れ方がひどくなりす。毎日、蚊との格闘です。

株式会社アールビーズさん発行の『ランナーズ』という、ランニング愛好家向けの雑誌があります。その最新号に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が取り上げられています。10月号の扱いですが、すでに入手可能です。 
2016/10/01 株式会社アールビーズ 定価722円+税

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スポーツライターの武田薫氏の「マラソンの行方 取材ノートから」という連載、今号はサブタイトルが「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」。毎年8月7日に開催されている「十和田八幡平駅伝」(通称・十八駅伝)について書かれています。

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武田千代三郎は、明治41年(1908)から大正2年(1913)まで青森県知事を務め、その間、十和田湖畔の旧法奥沢村村長・小笠原耕一と協力し、十和田湖付近の道路整備等に腐心し、国立公園指定の礎を築きました。さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月とも親交がありました。

「乙女の像」は、戦後、武田、小笠原、桂月を顕彰する意味も含め、国立公園指定15周年を記念して計画されたモニュメントです。

当方存じませんでしたが、「駅伝」の語の命名者が武田だそうで、これはランニング愛好家の皆さんにとっては常識のようです。

そこで、昭和23年(1948)、当時の全国マラソン連盟会長だった金栗四三が、日本人選手が国際大会で活躍するための暑さ対策練習として、十八駅伝の開催を提唱、スタート地点を武田ゆかりの「乙女の像」の立つ十和田湖畔休屋地区としたとのこと。十和田湖で、「十和田湖マラソン大会」も行われているのも偶然ではないのでしょう。

ランニング愛好家の皆さんには常識的なことなのかもしれませんが、光太郎ファンとしては意外といえば意外な内容でした。

こういった部分でも、十和田湖観光の機運がもっと盛り上がって欲しいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

蚊やりに火蟲除け菊をくべたまへ蟲を好まず蟲を好まず
明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日、愛犬の散歩で裏山を歩いたところ、台風の雨であちこちに水たまりが出来、蚊が大量発生していて、半分逃げ帰るように走り抜けました。庭の木の剪定をしている時も、手足に虫除けスプレーを振りかけているにもかかわらず蚊が襲来してきます。夏ももうすぐ終わり。やつらも必死ですね(笑)。

岩手県の地方紙『岩手日日』刊行元の岩手日日新聞社さんでは、観光PR誌『岩手大陸』を発行しています。その第3号で、光太郎の特集が組まれています。

『岩手日日』さんの記事から。 

観光情報が盛りだくさん 「岩手大陸」第3弾発行―岩手日日新聞社

 岩手日日新聞社(一関市南新町、山岸学代表取締役社長)は1日、平泉世界遺産登録5周年を記念した特集や宮沢賢治生誕120周年で注目される花巻エリアなど県内の観光・物産情報を盛り込んだ特別編集「岩手大陸」の第3弾を発行した。
 特集「仏都平泉の奇跡」は、盛岡市出身の作家松田十刻氏が執筆。清衡、基衡、秀衡それぞれの視点から、浄土思想に基づく世界でも類を見ない独自の黄金文化を築いた奥州藤原氏の軌跡をたどる。平泉町周辺の観光地や新たに「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産登録された釜石市の「橋野鉄鉱山」なども紹介している。
 また、宮沢賢治との出会いや交流を中心に約7年間を花巻市で過ごした高村光太郎を取り上げた「高村光太郎と花巻の日々」や、10月から開催される「2016希望郷いわて国体・大会」を盛り上げるためのPR特集、三陸鉄道の魅力や県の物産品、スイーツなど岩手の情報が盛りだくさん。
 B4判、48ページのフルカラーで11万部印刷。岩手日日新聞の購読全世帯に配布したほか、県内の主要観光施設や東京都中央区の県アンテナショップ「いわて銀河プラザ」、大阪市の北東北三県大阪合同事務所などで10月まで無料配布する。


というわけで、過日、上京した妻に頼んで東銀座のいわて銀河プラザさんに寄ってもらい、入手しました。

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「特集2」が「賢治という星を照らした「光」 高村光太郎と花巻の日々」。4ページにわたって組まれています。

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最初の2ページで、光太郎と賢治の魂の交流、昭和20年(1945)に戦災で東京を焼け出された光太郎が宮沢家の招きで花巻に疎開した経緯、戦後の花巻郊外太田村での生活などが要領よくまとめられています。

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後半2ページは、花巻高村光太郎記念館さんなど、花巻にある光太郎賢治ゆかりの観光スポットなどの紹介。2人が共に愛した大沢温泉さんなども取り上げられています。

その他、世界遺産の平泉やいわて国体などのPRも。大型のB4判、48頁オールカラー、これが無料配布ですから気前のいい話です。

『岩手日日』さんの記事にあるとおり、東京や大阪でも入手可能。ぜひゲットして下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ぐつすりとよくねてさめし暁の八月の窓を開け放ちたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

気がつけば、8月ももうすぐ終わりですね。

宮沢賢治の生誕120周年記念事業の一環として、日本郵便株式会社東北支社さんから、オリジナルフレーム切手「宮沢賢治生誕120 年」が発売されました。

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82 円切手×10 枚で、うち1枚、光太郎がその碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑をあしらったものが含まれています。

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定価1,500円。一部の簡易郵便局を除く、岩手県奥州市、北上市、花巻市、西和賀町、金ヶ崎町の全郵便局(計70 局)で販売する他、明日からは日本郵便さんのサイトで通販が開始されます。

ぜひお買い求めを。


それから、岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」、21日(日)に、光太郎と親しかった賢治の実弟・清六氏の令孫・宮沢和樹氏によるギャラリートークが開催されました。『毎日新聞』さんで、光太郎にからめて取り上げて下さいました。 

宮沢賢治記念館で40人が聴き入る 弟の孫・和樹さん /岩手

 宮沢賢治記念館では21日、賢治の弟清六さん(1904〜2001年)の孫、宮沢和樹さん(52)が講演会を開いた。生前に清六さんが宮沢さんに語った「雨ニモマケズ」の魅力について、参加した約40人が聴き入った。
 手帳の51〜60ページにある「雨ニモマケズ」の詩。祖父の清六さんは「東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテ ヤリ」から続く54〜57ページが最も大切な部分だと、強調していたという。困っている人がいれば、東西南北どこにでも駆け付けて助けたいと思う、賢治の心が表現されている。
 宮沢さんは「この『行ッテ』が重要なんです」と説明。「賢治は、知識や知恵をもてあそぶのではなく、実際に行動して物事を変えていく姿勢が大事だと考えていた」と解説した。
 清六さんは、花巻に私塾を開設して農民に技術を講義するなどした賢治の人柄を慕っていた。賢治の死後、彫刻家の高村光太郎らと作品の編集に奔走したという。宮沢さんは「周りの支えがあってこそ、今の賢治があることも忘れないでほしい」と話した。【二村祐士朗】


和樹氏、こうした機会には、必ずと言っていいほど光太郎に言及して下さるので、ありがたい限りです。


【折々の歌と句・光太郎】

かの雲を我は好むと書き終へしボオドレエルが酔ひざめの顔
明治42年(1909) 光太郎27歳

「ボオドレエル」は、フランスの詩人、シャルル・ボードレール。光太郎は留学中に詩の心を彼の作品から学んだといいます。

台風9号が通過した関東地方、昨日も激しい夕立がありました。やんだ後に日が差してきたので、虹でも見えるかなと思って自宅兼事務所の一番高い部屋(なんちゃって三階)から東の空を見ると、虹ならぬ彩雲(環水平アーク)が見えました。デジカメで写真も撮ったのですが、色がうまく写りませんでした。残念。

岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」地元紙2紙の報道をご紹介しましたが、その後、『朝日新聞』さんでも光太郎にからめて報道して下さっていますので、ご紹介します。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

005 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が書かれた実物の手帳の展示が20日、花巻市の宮沢賢治記念館で始まった。生誕120年を記念した特別展。賢治が亡くなる2年前に書いたと推察され、同館は「賢治本人の理想や希望といったもの」と説明している。
 同市内での展示は、2007年に萬(よろず)鉄五郎記念美術館であった賢治展以来9年ぶり。手帳は1933年の死後に発見された遺品の一つで、「雨ニモマケズ」は51~60ページに記されている。賢治の弟の孫で同館の宮沢明裕学芸員によると、賢治は詩や童話などの作品は原稿用紙に記しており、雨ニモマケズは手帳に書かれていることから、作品を創作する意識とは一線を画し、「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わっており、「祈りや願いと捉えることができる」という。
 同館ではこのほか、高村光太郎が揮毫(きごう)し、同市桜町にある「雨ニモマケズ」詩碑の原文も初めて展示する。また、俳優の渡辺謙さんと詩人の故草野心平氏による「雨ニモマケズ」の朗読を映像とともに聞くことができる。
 特別展は28日まで。21日午後1時半からは手帳などを所有する林風舎代表で賢治の弟の孫の宮沢和樹氏によるギャラリートークもある。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。(石井力)


また、岩手めんこいテレビさんのニュースも、ネット上で見つけました。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

岩手・花巻市の宮沢賢治記念館で特別展が開かれていて、賢治が生前愛用していた実物の手帳などが公開されている。
宮沢賢治生誕120年の2016年、花巻市では、さまざまな記念イベントが行われている。
特別展では、賢治の代表作「雨ニモマケズ」を記した実物の手帳が、宮沢賢治記念館としては初公開されている。
記念館の学芸員は「強くなりたいと願い続けた賢治が手帳に記した『行つて』の文字には、強い意志を持って実践する賢治の行動力がみられる。こうした点にも注目してほしい」と話していた。
このほか、賢治の詩をつづった高村光太郎の書の原文も、公開されている。
この特別展示は、8月28日まで、花巻市の宮沢賢治記念館で開かれている。(8/21 18:26)

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8月19日には、NHK BSプレミアムさんで「プレミアムカフェ 宮沢賢治への旅」のオンエアがありました。平成8年(1996)に放映されたものの再放送でしたが、今回展示されている光太郎の揮毫を刻んだ花巻市豊沢町に立つ「雨ニモマケズ」碑もちらっと紹介されました。

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生誕120年の賢治ですが、8月27日が誕生日、9月21日が命日ということで、これから顕彰イベント等がもっと増えていきます。

明日もその辺りで情報をご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我は火取り蟲かやふるさとの明るき町に夜ごと飛びゆく
明治42年(1909) 光太郎27歳

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。同市の市立図書館で開催中の「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」を拝見、さらに講演を拝聴して参りました。田口弘氏は同市の元教育長。戦時中から光太郎と親交のあった方です。

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開館と同時くらいに現地に到着、まずは展示を拝見しました。

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入ってすぐが光太郎肉筆資料のコーナー。書や書簡等がガラスケースに並べられています。以前に田口氏のお宅ですべて拝見しましたが、きれいに並べられていると、また違った見え方がします。

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書簡の大半は、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)からのもの。山小屋暮らしの一端が垣間見え、興味深いものです。

例えば昭和25年(1950)2月の封書。欄外に「積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、」などとさりげなく書かれています。

一通のみ、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京して居住した中野のアトリエからのハガキがあり、そちらでは乙女の像の制作にも触れられています。

仕事のことに没頭してゐるため、ついお便りを書くことさへのびのびとなつてゐました、仕事の方は着々進んで居ります、

周囲の壁には、花巻高村光太郎記念会さんご提供の写真画像(山小屋生活の様子、乙女の像など)が引き延ばされて貼られており、理解が助けられます。

会場奥は、光太郎に関わる元の田口氏蔵書。光太郎本人から送られたサイン入りのものから、平成に入ってからのものまで、さまざまです。光太郎から贈られたものについては、その小包の包み紙や鉄道荷札まで保存されており、一緒に展示されていました。

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また、昭和58年(1983)、田口氏のお骨折りで市内の新宿小学校に建立された光太郎書を刻んだ「正直親切」の碑の画像、その元となった光太郎の書(複製/花巻高村光太郎記念会提供)、さらに田口氏、光太郎本人と交流のあった彫刻家・高田博厚のコーナーも設けられていました。

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同館ではここまでがかりな企画展示は初めてとのことでしたが、なかなか充実した展示でした。


その後、展示会場と隣接する視聴覚ホールにて、田口氏のご講演。教育委員会の方もご登壇し、インタビュー形式でのお話でした。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうか分かりませんが、大正11年(1922)のお生まれで、おん年94歳の田口氏、ユーモアを交えながら、非常に貴重なお話をご披露されました。

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昭和24年(1949)8月、復員後、中学校教諭をなさっていた氏は、二度目の太田村ご訪問をなさいました。この年の大半の光太郎日記は現存が確認できないのが残念です。その際に氏と同道した当時の教え子お三方のうちのお一人、馬橋旭氏も会場にいらっしゃり、思い出をお話下さいました。

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午後は、同じ会場で昭和42年(1967)公開の中村登監督・岩下志麻さん、丹波哲郎さんコンビによる松竹映画「智恵子抄」の上映がありました。ただ、以前にも観たことがありましたし、他の用件もあったためそちらはパスしました。いずれまたゆっくり拝見したいとは思っております。


同展は28日(日)まで開催中。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
制作年不詳

昨日に引き続き、昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。こちらは、画像左の雌の方に添えられたものです。

雌雄を比べてみると、ぱっちりと眼を開けている雄に対し、雌の方はやや眼を細めています。

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過日ご紹介した岩手花巻宮沢賢治記念館さんの特別展「「雨ニモマケズ」展」について報道が為されています。ただ、ほとんどは「雨ニモマケズ」が記された手帳のみの紹介で、「雨ニモマケズ」詩碑のために書かれた光太郎の書については触れられていませんでした。

さすがに地元紙2紙ではそちらにも言及されています。

まず『岩手日日』さん。 

実物を初公開 きょうから記念館 賢治生誕120年で 「雨ニモマケズ」手帳 光太郎揮毫 詩碑の書

006 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子館長)は賢治生誕120年記念の特別展として、20日から「雨ニモマケズ」展を開催する。詩「雨ニモマケズ」が記された賢治の手帳と、賢治を高く評価していた詩人で彫刻家の高村光太郎の書を、ともに実物で公開することから広く注目を集めそうだ。
 一般公開に先立ち19日に内覧会を開き、概要を紹介した。目玉となるのは、賢治直筆とされる「雨ニモマケズ」の手帳。複製を常設展示していたが、賢治生誕120年の節目に合わせて実物を公開することにした。
 光太郎が揮毫(きごう)した「雨ニモマケズ」の後半部分の実物も展示。同市桜町の「賢治詩碑」建立の際の書で、後に判明した原文との相違点を碑に追刻補正する前の状態が確認できるという。
 「雨ニモマケズ」の手帳や光太郎の書の実物が同館で展示されるのは今回が初めて。賢治の弟の故・清六さんの孫で同館学芸員の宮澤明裕さんは「『雨ニモマケズ』は作品として推敲されたものではなく、それがかえって生のものとして人の心を打つのでは。この機会に足を運んでもらい、それぞれの応援や励ましとしてもらえれば」としている。
 特別展は28日まで。21日午後1時30分からは明裕さんの兄の和樹さんによるギャラリートークも予定している。
 開館時間は午前8時30分から午後7時30分まで。入館料は小・中学生150円、高校生・学生250円、一般350円。問い合わせは同館=0198(31)2319=へ。


続いて『岩手日報』さん。 

「雨ニモマケズ」手帳公開 花巻・宮沢賢治記念館

005 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子長)は、賢治生誕120周年を記念し、20日から特別展「雨ニモマケズ」展を開く。賢治が病床で「雨ニモマケズ」を記した手帳の現物などを公開する。
 賢治の手帳は縦13・1センチ、横7・5センチ、166ページの手の平サイズ。「雨ニモマケズ」の前文を記した51、52ページを開いて展示する。
 同市桜町の賢治詩碑に刻んだ高村光太郎の書の原文も公開し、有名俳優らの詩の朗読を上映する。
 同展は28日まで。期間中は無休。入館料は小中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。午前8時半~午後7時半。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。


展示期間が短いのが残念ですが、ぜひ多くの方々にご覧いただきたいものです。


当方、本日は埼玉東松山市立図書館さんに行き、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による」を拝見。さらに戦時中から光太郎とご交流のあった同市元教育長・田口弘氏ご講演を拝聴して参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは
制作年不詳

昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」の雄の方(画像右)を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。写真は故・髙村規氏によるものです。

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木彫「白文鳥」、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで公開中です。

雑誌の新刊です。 

手づくり手帖 Vol.10 特集「秋色の手づくり」

2016年8月17日 日本ヴォーグ社 定価2,250円+税

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色彩アートセラピスト・江崎泰子氏による「巻頭特別エッセイ 色はこころの表現」で、智恵子の紙絵について触れられています。

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「アートセラピー」は「芸術療法」と訳され、精神医療の現場で行われていますが、現在はそれに限らず、一般の人々のストレスケアとしても注目されているとのこと。氏は特に「色」に着目したそれを展開されているそうです。

氏がこの道に入るきっかけの一つとなったのが智恵子の紙絵だそうで、初めて展覧会で智恵子の紙絵を見た際の衝撃などが綴られています。

後の方のページには、他の記事を含め、本文と関連する書籍等の紹介欄があり、筑摩書房から平成5年(1993)に刊行された文庫版の『智恵子紙絵』が取り上げられています。

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現物はこちら。

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「版元品切れ」となっていますが、古書市場ではまだ出回っています。美しい本なので、再版を期待したいところですが。


智恵子の紙絵、といえば、智恵子生誕130年ということで、現在、信州安曇野の碌山美術館さん、奥州花巻の高村光太郎記念館さんで、それぞれ現物が展示されています。また、秋には智恵子の故郷・福島二本松でも。

こうした書籍、展覧会などなど、もっともっと取り上げていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

さいかちのかぶとの角を手に持ちて友も見つつしおどろきてあらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

「さいかち」は樹木の種類。その樹液はカブトムシの好物だそうです。

昨年9月に亡くなった、元映画女優の原節子さん。近々一周忌ということで、追悼企画です。 
期  日 : 2016年8月27日(土)~9月30日(金)
会  場 : 神保町シアター 京都千代田区神田神保町1-23
料  金 : (当日券のみ) 一般 ¥1,200 / シニア ¥1,000 / 学生 ¥800

今秋、9月5日に一周忌を迎える女優・原節子。
その気品ある姿は日本女性の鑑ともいわれ、戦前・戦後を通じ、数多くの名作に主演しましたが、1962年『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』の出演を最後に映画界を去り、その後、五十年以上に渡り公の場に姿を現すことはありませんでした。
今回は、まだ幼い表情を見せる戦前の貴重な作品から、戦後の新しい時代の女性を体現した代表作の数々まで、伝説の女優・原節子をスクリーンでたっぷりご覧いただきます。


上映作品
 『河内山宗俊』 昭和11年 白黒 監督:山中貞雄 
 『母の曲[総集篇]』 昭和12年 白黒 監督:山本薩夫
 『安城家の舞踏会』 昭和22年 白黒 監督:吉村公三郎
 『お嬢さん乾杯[シネスコ版]』 昭和24年 白黒 監督:木下惠介
 『智恵子抄』 昭和32年 白黒 監督:熊谷久虎
  8月28日(日)11:00 8月29日(月)14:15 8月30日(火)16:30
  8月31日(水)12:00
 9月1日(木)19:15 9月2日(金)14:15
 『晩春』 昭和24年 白黒 監督:小津安二郎
 『麥秋[デジタル修復版]』(劇場初公開)  昭和26年 白黒 監督:小津安二郎
 『東京物語』 昭和28年 白黒 監督:小津安二郎 005

 『めし』 昭和26年 白黒 監督:成瀬巳喜男
 『青い山脈』 昭和24年 白黒 監督:今井正
 『続  青い山脈』 昭和24年 白黒 監督:今井正
 『美(うるわ)しき母』 昭和30年 白黒 監督:熊谷久虎
 『愛情の決算』 昭和31年 白黒 監督:佐分利信
 『白痴』 昭和26年 白黒 監督:黒澤明
 『東京の恋人』 昭和27年 白黒 監督:千葉泰樹
 『女であること』 昭和33年 白黒 監督:川島雄三
 『驟雨』 昭和31年 白黒 監督:成瀬巳喜男
 『山の音』 昭和29年 白黒 監督:成瀬巳喜男
 『女ごころ』 昭和34年 白黒 監督:丸山誠治
 『秋日和』 昭和35年 カラー 監督:小津安二郎
 『娘・妻・母』 昭和35年 カラー 監督:成瀬巳喜男


「智恵子抄」は光太郎役を山村聰さんが演じ、智恵子の故郷・二本松や九十九里浜、十和田湖などでロケが敢行されました。そういうわけで、来月中旬には二本松で「智恵子抄」の上映会も企画されており、当方もお手伝いさせていただきます。そちらはまた近くなりましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

たのめてしかぶと蟲をば高井戸の尾崎喜八は今宵かも採る
大正13年(1924) 光太郎42歳

尾崎喜八は、明治25年(1892)生まれの詩人。光太郎の親友・水野葉舟の娘と結婚し、お嬢様の榮子様はこの春までご存命でした。

おそらくカブトムシは、蝉同様、木彫のモチーフにしようと思っていたようです。たしかになかなか彫刻的なフォルムをしていますね。しかし、残念ながら作品は確認できていません。

当方自宅兼事務所は千葉県でも田舎の方ですので、カブトムシやクワガタムシなど、愛犬の散歩中によく見かけます。それから同じ甲虫類のこんな虫も。

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ゴキブリではありません(笑)。タマムシです。

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年に数回(夏の間ですが)、なぜか自宅兼事務所のベランダに飛来します。

生誕120年を迎えた宮沢賢治。記念事業が色々と行われていますが、その一環として開催される、岩手花巻の宮沢賢治記念館さんでの特別展示です。 

「雨ニモマケズ」展

期  日 : 前期2016年8月20日(土)~28日(日)
       後期2016年8月30日(火)~9月13日(火)
会  場 : 宮沢賢治記念館 岩手県花巻市矢沢1地割1番地36
時  間 : 8:30~19:30
料  金 : 一般350円(300円)、高校生・学生250円(200円)
       小・中学生150円(100円)
        ※( )内は20人以上の団体割引料金

国内はもちろん、世界でも多様な広がりをみせている「雨ニモマケズ」。
当館では賢治生誕120年を機に「雨ニモマケズ」が書かれた賢治自筆の手帳と、高村光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の原文を展示いたします。いずれの資料も宮沢賢治記念館では初公開となります。どうぞこの機会をお見逃しなく!!
(後期は「雨ニモマケズ手帳」は複製、詩碑原文は拓本に展示替え)

関連行事 

ギャラリートーク
日  時 : 2016年8月21日(日)  13:30~
講  師 : 宮澤和樹氏(賢治実弟・故宮澤清六氏令孫)

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。

その後、「雨ニモマケズ」は賢治代表作の一つとして広く人口に膾炙しています。

今回の展示では、光太郎も手に取った手帳の現物、そして光太郎が書いた碑文書の現物が展示されます。

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それぞれ宮沢賢治記念館さんでは初の展示だそうで、意外といえば意外です。

21日(日)のギャラリートークは宮澤和樹氏。御祖父・清六氏が光太郎と親しかったため、必ずといっていいほど、賢治や宮澤家と、光太郎の密接な交流についてお話下さいます。


今後、これ以外にも、賢治顕彰の様々な企画が目白押し。近くなりましたらご紹介しますが、また当方もお話をさせていただく機会があります。

とりあえず「「雨ニモマケズ」展」。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

夏の日は三里塚にて馬見るか昼寝しせすか山脇彦尊
大正13年(1924) 光太郎42歳

「三里塚」は、現在、新東京国際空港のある成田市です。かつては印旛郡遠山村でした。

「山脇彦尊」は、日本画家・山脇謙次郎。光太郎は山脇のため、前年12月、三里塚に開墾小屋を作り、その移住を助けています。のちに光太郎の親友・水野葉舟がその小屋を引き継ぎました。

かつて近くには宮内省の御料牧場があり、「馬」はそれに関わります。

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跡地は成田三里塚記念公園となり、光太郎に触れる展示も為されている御料牧場記念館、光太郎詩「春駒」碑などがあります。

光太郎の実家のある東京都文京区では、「区民チャンネル」というケーブルテレビの配信を行っています。内容的には区の施策や行事、区の文化遺産などの紹介が中心です。個人でも加入できる他、公民館的な区の施設で視聴できたり、インターネット配信も行っていたりしています。

その中で、文京区ゆかりの文人の歴史や. 古き良き文京区の町並みを辿る「ぶんきょう浪漫紀行」という番組があり、先月から今月にかけ、前後編2回に分けて「高村光太郎」が放映されました。おのおの10分間、計20分間です。

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ナビゲーター役に、文京区ご在住の、当会顧問北川太一先生、同じく光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の令孫・髙村朋美さんと髙村達氏姉弟がご出演。

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豊富な画像と共に、光太郎の生涯が紹介されました。

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父・光雲や、妻・智恵子についても言及。

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光太郎の生の軌跡を知る入門編として、非常に良くできています。

動画配信サイト「youtube」にアップされており、そちらで視聴できます。ぜひご覧下さい。



全国放映のテレビ番組でも、ぽつりぽつり光太郎智恵子がらみがあり、有り難い限りです。最近放映されたものをご紹介します。

BS日テレさんで8月11日に放映された「イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!」。

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美容家の佐伯チズさんと、タレントの南美希子さんが、青森の奥入瀬渓流から十和田湖を経て、八甲田山までの旅。「乙女の像」もご紹介下さいました。

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NHKさんの「連続テレビ小説 とと姉ちゃん」。先週のサブタイトルが「鞠子、平塚らいてうに会う」。

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雑誌編集者として、壁にあたって悩む相良樹さん演じる鞠子(主人公・小橋常子-高畠充希さん-の妹)。

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書架から取り出したのは、かつて眼を開かされた『青鞜』。表紙のデザインは智恵子です。

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あてにしていた作家の原稿が落ち、急遽、真野響子さん扮する平塚らいてうに原稿執筆を依頼。

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曲折はあったものの、無事、執筆してもらうことに成功。

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NHKBSプレミアムさんでオンエアされた「新・BS日本のうた」。

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司会は千昌夫さんと森昌子さん。

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森さんが、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を熱唱。

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こちらは明後日(8/19)、16時30分~18時00分にまた放映されます。同じくBSプレミアムさんです。

今後もこうした流れが続いてほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

空晴れぬ赤城は高し上つ毛の多胡(たこ)の夏ぐさ真青(まさを)の風や

明治37年(1904) 光太郎22歳

今朝の関東は台風一過、抜けるような青空です。

鉄幹与謝野寛等とともに、赤城山に登った折の作。というか、登る前に麓の多胡から見上げた、赤城山を謳っています。バックはよく晴れた夏の青空。啄木の「空に吸はれし十五の心」を彷彿とさせられます。

昨日は『朝日新聞』さんの「天声人語」を引きましたが、本日は最近、地方紙二紙に載ったコラム。いずれも光太郎に少しだけ言及して下さっています。 


まずは長野県松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。 

みすず野 8月11日

現在の松本市出身の歌人・窪田空穂が、山 岳紀行『日本アルプスへ』を残し、それが黎明期の北アルプスを知る貴重な資料の一つであることは、あまり知られていない。先日、松本市立博物館に山の図書 2000冊を提供した百瀬武さん(松本市)の1冊に、この本があった◆空穂は大正2(1913)年8月、37歳のとき初めて上高地に入り、一軒宿の清水屋 で高村光太郎らと過ごし、あのウェストン夫妻と偶然同宿した。夜、空穂たちは話が弾み、大声で笑い合っていると、「もしもし!」という、妙ななまりのある 声が廊下から響き、「妻が病気で寝ているので、静かにしてもらえないか」と外国人が言ってきた◆山岳通の友人の話から、外国人はウェストンだと知ったとい う。山行は『日本アルプスへ』『日本アルプス縦走期』にまとめられ、往時の登山が、林道や山小屋の整備が進んだ現代とは、比較にならない苦労を強いられた 様子がわかる◆国民の祝日「山の日」が施行されるまでには、長い歳月を要した。あらためて郷土の美しき山を眺め、登り、親しみ、その多大な恵みに感謝した い。先人たちの足跡に思いを至らせたい。

大正2年(1913)7月から10月にかけ000、光太郎は上高地の清水屋に滞在。9月には智恵子も来て、一緒に画を描いたそうです。光太郎の絵はこの年10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開かれた生活社主催の展覧会に出品されました。
 
二人で下山したのが10月8日。二人が結婚披露宴を行ったのは翌大正3年(1914)ですので、婚前旅行です。やるなぁ、という感じですね。光太郎と智恵子、上高地で結婚の約束を結んだとのことです。

ウェストンは、あとから合流した智恵子を見て光太郎に、「妹か、夫人か」と問い、光太郎が「友人だ」と答えると苦笑したといいます。

そのあたり、以前のこのブログで何度か書いております。ご覧下さい。



続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。  

河北春秋 8月14日


猛暑の夏。涼を求めて訪れるとしたら、木陰と渓流、そして神秘の湖が思い浮かぶ。明治の文人、大町桂月が「風光の衆美を一つに集めたる、天下有数の勝地也」(『奥羽一周記』)と絶賛した十和田湖と奥入瀬渓流は、リフレッシュには最適の地だ▼1936(昭和11)年に十和田八甲田地域として国立公園に指定され、今年は80周年。桂月が雑誌『太陽』に紀行文を発表するまでは、地元の人しか知らないような湖だったというが、開発が進み、一大観光地となった▼しかし、この10年ほどで様子は一変。湖畔には廃屋となったホテルや、閉鎖された土産物屋が立ち並ぶ。目の前の湖の美しさは変わらないが、劣化の目立つ建物は、零落感を漂わせながら景観を損なう▼それでも、シーズン中は早朝から湖畔を散策する人が絶えない。「乙女の像」背後の林に荘厳なたたずまいを見せる十和田神社は、近年パワースポットとして注目を集め、遠来の客を呼び寄せる。奥入瀬にはコケ好きな「苔(こけ)ガール」や、香港など海外からの観光客も足を運ぶ▼国が訪日客誘致のモデル事業を行う国立公園の一つに選ばれたのは、久しぶりの朗報だ。桂月が「山は富士、湖は十和田」ともたたえた景勝。豊かな自然に親しむエコリゾートを目指し、節目の再出発を。

最後の「訪日客誘致のモデル事業」云々、同じ『河北新報』さんの先月の記事から。 

ブランド観光地 十和田八幡平など8国立公園

 環境省は25日、国立公園への訪日客誘致のため、受け入れ態勢を重点整備し、ブランド観光地として世界にPRするモデル事業を、十和田八幡平(青森、岩手、秋田)や日光(福島、栃木、群馬)など8カ所で実施することを決めた。専門ガイドの育成や宿泊施設の機能を強化。大型商業施設を整備できるよう規制緩和も検討する。
 8カ所はこのほか、阿寒(北海道)、伊勢志摩(三重)、大山隠岐(鳥取、島根、岡山)、阿蘇くじゅう(熊本、大分)、霧島錦江湾(宮崎、鹿児島)、慶良間諸島(沖縄)。
 全国に32ある国立公園のうち、16カ所の地元道県から選定の要望が出ていた。世界遺産や温泉といった外国人を引きつける資源があることや、景観向上の取り組みなどを基準に8カ所を選んだ。
 熊本地震の被災地にある阿蘇くじゅうは、災害復興のモデルに位置付け、重点支援する。
 8カ所は日本の「ナショナルパーク」として、情報発信するため英語の統一ブランドも検討。地元自治体などは地域協議会を設置し、自然や伝統文化を生かしたツアーの開発に取り組む。モデル事業の成功例は、他の国立公園にも広げる。
 十和田八幡平は総面積8万5551ヘクタール。十和田湖や奥入瀬渓流などを抱える青森県の三村申吾知事は「宮城、北海道などとも広く連携し、外国人客をさらに取り込みたい」と歓迎。小山田久十和田市長は「東日本大震災で落ち込んだ観光客を取り戻し、十和田湖も活性化するだろう」と話した。
 国立公園のブランド化は、2020年時点で訪日客を年間4千万人とする政府の新たな観光戦略の一環。国立公園を訪れた外国人は15年に430万人だったが、1千万人に増やす目標だ。


外国の方の誘致も大切ですが、まずは国内の皆さん。上高地なども含め、この国の美しさを再発見していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ひつそりと翼をさめてゐる蝉のつばさ手ずれてやや光たり
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日の『朝日新聞』さんに載った一面コラム「天声人語」。  

天声人語

戦前の昭和恐慌のころを描いたのだろう。詩人の吉田嘉七(かしち)が「銀行は倒産し……」と書き出している作品がある。「月給が下がったと言う 物が売れないのだと言う……大人達(たち)の暗い表情が 暗い街に溢(あふ)れた」。局面を変えたのが、大陸での戦火だった▼1931年の満州事変である。「物がぼつぼつ上(あが)り出し 景気が良くなって来たらしい」。軍事費が増えたおかげだろうか。「戦争が始(はじま)って良かったね」という大人たちのつぶやきが、中学生である自分たちの耳にも入った。「やがて戦争で殺されるぼくらの」耳に▼古山高麗雄(こまお)の「日本好戦詩集」から孫引きさせてもらった。戦争は望まれずに始まったわけではないと、改めて気付く。倒産や失業にあえぐ世には、朗報でもあったと▼満州の戦火から日中戦争へ。さらに米英との戦争が始まると、別の熱狂があった。41年の真珠湾攻撃の日のことを、彫刻家で詩人の高村光太郎が感激して書いている。「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」(「十二月八日の記」)▼同じアジアの中国に刃を向けることの後ろめたさが、知識人にはあったとも言われる。世界を牛耳る米英に挑戦するという大義名分は彼らの心に響いたのか▼先の戦争がいかに悲惨だったかを語り継ぐ。それだけでなく戦争がうれしいものと受け止められたことも記憶したい。戦争は上から降ってくるのではなく、ときに私たちの足もとからわき出てくるものだから。


昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子は粟粒性肺結核により、千数百点の紙絵を遺し、この世を去りました。最後の7年間は心の病が顕在化してもいました。

智恵子の心の病を引き起こした大きな要因の一つが、世間との交わりを極力絶ち、芸術に精進しようとする自分たちの生活態度にあったのではないかと、光太郎は考えます。また、智恵子亡き後もそういう生活を続けることで、自分もおかしくなってしまうかもしれない、という危惧を抱いたかも知れません。結果、光太郎は智恵子が亡くなる少し前くらいから、積極的に世の中と関わろうという姿勢を明確にします。

奇しくもその世の中の流れもまた、大きな転換点を迎えていました。智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)満州事変勃発、智恵子が自殺未遂を図った同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、智恵子が亡くなった同13年(1938)国家総動員法施行、光太郎が智恵子の最期を謳った絶唱「レモン哀歌」が書かれた同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして詩集『智恵子抄』が刊行された同16年(1941)太平洋戦争開戦……。

71年前の今日、終戦を迎えるまでに、光太郎は、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)と、立て続けに三冊の翼賛詩集を上梓。そこに収められなかった詩篇を含め、実に200篇弱の翼賛詩を光太郎は執筆しました。それらは新聞、雑誌、各種のアンソロジー、そしてラジオの電波に乗って、国民の元に届けられました。

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終戦後、それらの翼賛詩に鼓舞された、多くの前途有為の若者が散っていったことを悔い、東京を焼け出され、岩手花巻に疎開していた光太郎は、さらに花巻の郊外・太田村の山小屋(高村山荘)に入り、7年間の蟄居生活を送ります。

当初は若い頃から抱いていた、自然に囲まれての生活の実現、さらに彼の地に日本最高の文化村を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えがありましたが、厳しい自然、そして自らの戦争責任への省察が、山小屋生活の意味を変容させます。すなわち「自己流謫」。「流謫」=「流罪」です。

外界と隔てるものは粗壁と障子一枚、冬は万年筆のインクも凍り付き、寝ている布団にすき間か舞い込んだ雪がうっすらと積もる生活。前半の3年あまりは電気も通っていませんでした。

しかし、いくら山間僻地の村はずれとはいえ、まがりなりにも人が住んでいる村です。そこに住まっているだけでは「流罪」とはいえません。そこで、光太郎は考え得る限りの罰を自らに科します。すなわち、「私は何を措いても彫刻家である」と認識していた、その彫刻の封印です。

その封印を解いたのは、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にともなってのこと。おそらく智恵子と同根の結核に冒されていた光太郎は、もはや自らの死期が近いこともわかっていたのでしょう。

亡き智恵子への、世の中への、そして自らへの、それまでの様々な思いが全て結晶し、「乙女の像」は光太郎最後の大作として、十和田湖に立てられ、その2年半後に、光太郎もその生の歩みを終えるのです。

時代に翻弄された一人の芸術家の生の軌跡。この節目の日にもう一度、かみしめたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

くにをおもひきはむる心おのづから世界国家といふにつながる

昭和24年(1949) 光太郎67歳

戦後の花巻郊外太田村での作です。罪深き自らの来し方と、そして未来まで、やはり罪深きこの国そのものと重ね合わせ、これぞまさしくグローバルな視点を得ていたことが見て取れます。

JR京都駅内のジェイアール京都伊勢丹さん7階にある美術館「えき」KYOTOさんで開催中の展覧会です。気付くのが遅れ、始まっています。 

世界の巨匠たちが子どもだったころ

期  日 : 2016年8月11日(木)~9月11日(日)
会  場 : 美術館「えき」KYOTO 京都駅ビル内ジェイアール京都伊勢丹7階
                           京都市下京区烏丸通塩小路
ル東塩小路町
時  間 : 午前10時~午後8時(入館締切:閉館30分前)
料  金 : 一般 800円  高・大学生 600円  小・中学生400円
主  催 : 美術館「えき」KYOTO、京都新聞
後  援 : 京都府教育委員会、京都市教育委員会
協  力 : おかざき世界子ども美術博物館

展覧会概要
モネ、ムンク、ロートレック、ピカソ、岸田劉生、伊東深水、山口華楊、山下清、平山郁夫など、誰もが一度は耳にしたことがある美術界の巨匠たち。優れた技術と多彩な感性で多くの名品を残した彼らは、いったい子どもの頃はどのような絵を描いていたのでしょうか?
 本展覧会では、1985年に子どものための本格的な美術博物館として開館した、おかざき世界子ども美術博物館(愛知県・岡崎市)が所蔵するコレクションより、世界の有名美術家73人が描いた貴重な作品118点を紹介します。
10代という時代は、豊かな感受性を持つ多感な時期であり、純粋であるがゆえに感情が大きく揺れ動く時期でもあります。
この時期に制作された作品は、画家の努力や情熱、絵に対する真っ直ぐな思いが画面にあふれ出ています。
 描くことに夢中だった小さな巨匠たちが残した、成長の足跡をお楽しみください。

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名だたる巨匠たちに交じって、光太郎の姉・004咲(さく)の作品が展示されているということだそうです。

右の画像で、右側に立っているのが咲。左は光太郎の母・わかと、光太郎の弟・豊周です。

咲は光太郎より6つ年上の明治10年(1877)生まれ。五男四女の長子です(光太郎は長男にして三番目)。

素川狩野寿信に師事して狩野派の日本画を学び、明治22年(1889)、数え13歳で「寿司」の名と「素月」の号を許され、翌年には上野公園桜ヶ丘の日本美術協会列品館で開催された絵画展覧会に絹本堅淡彩の「鍾馗図」を出品、天覧も受けたと言います。

非常に親孝行な娘だったそうで、父・光雲がその代表作である「老猿」の制作がなかなか思うように行かなかった時など、ひそかに水垢離(みずごり)を行っていたとのこと。

その他、高村家には淡彩素描の作品がいくつか遺されており、中には幼い光太郎を描いたものもあります。見事なできばえです。

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光太郎は絵の才能に秀でたこの姉を尊敬し、愛していましたが、佳人薄命、咲は明治25年(1892)、数え16歳の若さで肺炎を患って歿してしまいました。優しく気丈なこの姉の生涯から、光太郎は強い感化を受けました。のちに画家の智恵子と結ばれた光太郎、もしかすると智恵子の背後にやはり画家だった姉の姿を見ていたのかもしれません。

当方、先月、盛岡に齢100歳でご存命の、光太郎の従妹・加藤照さんのお宅で、咲が描いたという扇を拝見しました。照さんのお母様のふゆさんが、咲に直接貰ったそうです。

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小さめの扇面に、人物像が実に細密に描かれています。


さて、美術館「えき」KYOTOさんの 「世界の巨匠たちが子どもだったころ」。咲の絵が三点展示されています。「仙人」「栗」「鶴」。

どのような経緯か存じませんが、咲の作品が、愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんに所蔵されています。今回の美術館「えき」KYOTOさんの 「世界の巨匠たちが子どもだったころ」は、おかざき世界子ども美術博物館さんの所蔵品が中心ということで、咲の作品も並んでいるといううことだそうです。

影響ということを考えれば、光雲から受け継いだ彫刻道とはまた異なる、光太郎芸術の一つの源流ともいえる咲の絵画。もっと注目されていいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは
昭和21年(1946) 光太郎64歳

いったん中断していましたが、蝉を詠んだ短歌がまだありますので、ご紹介します。

信州安曇野から三陸女川への4泊5日の出張を終えて帰宅したところ、花巻高村光太郎記念館さんから宅配便が届いておりました。

同館にて刊行の展示品図録的な書籍『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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縦横25㌢の正方形という特殊な判型で、オールカラー48頁。充実した内容です。当方、一部を執筆し、「監修」ということにしていただいています。

抜粋で画像を提示します。ただ、校正途中に送られてきたPDFファイルから採りましたので、若干、完成品とは異なりますが、大筋はこの通りです。

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四季折々のイメージ画像をバックにした光太郎詩。4篇、8頁。

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ブロンズ彫刻、書作品、遺品などの同館展示物の画像。

展示品以外にも、光太郎芸術の紹介ということで、木彫の写真も。

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『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さんをはじめ、生前の光太郎を知る方々の談話。

さらには、光太郎、父・光雲、妻・智恵子の紹介、賢治や宮沢家との交流、花巻郊外太田村での生活、盛岡や花巻町などのゆかりの地の紹介などなど充実の内容。これで税込定価2,000円はお買い得です。

案内と、FAX注文書を載せておきます。プリントアウトしてご使用下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

とほどほしわれ必ずのせめてもの夏山夏野ただみどり濃き
明治34年(1901) 光太郎19歳

内容的には一昨日、昨日の記事と前後しますが、碌山美術館さんでの講演の前、8月7日(日)午前中に訪れた豊科近代美術館さんをレポートします。

前夜から宿泊していたのは、青木湖畔のホテルブルーレイク&リゾートさん。例によってさっさと就寝したので、朝は早く目が覚め、湖畔を散策。

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こんな看板がありました。

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「鹿に注意」。鹿なら見てみたいな、と思いましたが遭遇できず。「しか」し、同じ看板の裏は……

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熊はさすがにパスしたいところでした。遭遇せずに済みましたが。

朝食後、ホテルをあとに、愛車を駆って安曇野へ。1時間ほどで豊科近代美術館に到着。

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なかなか瀟洒な建物です。いきなり目的の一つ、高田博厚の彫刻がお出迎え。

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同館の通常展示は、それぞれ光太郎と縁のあった、彫刻家の高田博厚と、画家の宮芳平の作品が中心です。以前から、碌山美術館さんに足を運ぶ際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家の記念館なども訪れる習慣となっており、今回はこちらにお邪魔しました。

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高田の彫刻は展示室に入りきれず、中庭や廊下などにも。

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そして、光太郎の胸像。下記は同館のミュージアムショップで売っているポストカードです。

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同一の型から取ったものは、岩手花巻の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の塩尻市にある古田晃記念館さんなどにも収蔵されています。

豊科近代美術館さんの光太郎胸像は、高田が他の日本人芸術家をモデルにした胸像とともに展示されていました。森鷗外、中原中也、佐藤春夫、宮沢賢治、岩波茂雄、岸田劉生、梅原龍三郎、高橋元吉などなど。その人々はそれぞれ光太郎と縁のあった人物でもあり、同窓会というかサロンというか、そんな感じを受けました。

他のジャンルの作品を含め、同時代の彫刻家の中で、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎が最も高く評価した高田の作品は、やはり光太郎のそれにも通じる精神性を感じるものでした。

宮芳平の絵、当方、現物は初めて観ました。鷗外が認めたという、特異な才能を感じました。

そして、高田、それぞれに宛てた光太郎書簡のコピーが展示してあり、興味深く拝見。コピーは以前から観ていましたが、こういう場で観ることで、違った見え方がしました。


他にも信州には、光太郎と縁のあった芸術家の記念館などで、訪れたことのない場所がまだまだあり、来年以降、4月の碌山忌などを使って訪れようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの
明治37年(1904) 光太郎22歳

昨日は今年から「山の日」。北アルプスの山々は、やはり素晴らしいビジュアルでした。

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8月9日(火)に行われた、第25回女川光太郎祭について、レポートいたします。

当日の朝9時頃までは台風による暴風雨でしたが、その後は台風一過の晴天となりました。会場は女川フューチャーセンターCamassさん。女川駅前に新たに作られた施設です。一部は宿泊したエルファロさん同様、可動式のトレーラーハウスです。

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震災前の女川光太郎祭は、昭和6年(1931)に来訪した光太郎を顕彰するため、平成3年(1991)に建てられた巨大な文学碑の前で行われていました。

その碑は震災の津波で倒壊、碑の建設やその後の光太郎祭の運営に奔走されていた女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も、命を落とされました。

女川光太郎祭は、震災の年には小学校、翌年には仮設住宅の集会所と会場を移し、3年前から3年間、仮説商店街である「きぼうのかね商店街」で行われました。それが今年は駅前の女川フューチャーセンターCamassさん。理由を聞くと、少しでも元の碑に近い場所で、ということでした。なるほど、駅前のプロムナードをまっすぐ海に向かって下っていけば、碑のあった海岸緑地公園です。
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現在は一帯が工事中で、昨年まで見に行くことの出来た倒れた碑も見られません。ただ、いずれ震災前と同様、公園になる予定だそうで、その際にはまた碑が建てられるようです。

海側からみるとこうです。船の蔭あたりに碑があるはず。

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近くにある横倒しになった元の交番の建物は、震災遺構として保存されるとのこと。

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朝から会場入りし、会場設営のお手伝いをしました。昨年と一昨年は、屋外にテントを張っての実施でしたので、それに比べれば今年は楽なものでした。

昼過ぎの列車で、東京から当会顧問・北川太一先生ご一行がご到着なさるというので、駅にお出迎え。待っている間に撮影した画像です。

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ドキュメンタリー映画「サンマとカタール」のポスターも貼ってありました。
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女川駅には温泉入浴施設「ゆぽっぽ」、さらに無料の足湯も設置されています。
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駅裏の方には、民家も建ち始めていました。

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そうこうしているうちに、北川太一先生ご一行がご到着。

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晩年の光太郎に親炙された北川先生は、碑文の一部を揮毫されるなど碑の建立にひとかたならずご協力され、かつての光太郎祭の記念講演も行われていました。現在は当方が引き継いでおります。

ご一行は、さらに光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である写真家の高村達氏、北川先生の奥様・節子先生と令息・光彦氏、北川先生が高校教諭だった頃の教え子の皆さん。いずれも東京からで、遠路、ありがたいことです。特に北川先生は御年91歳。しかしまだまだお元気です。

さて、時間となり、開会。

まずは黙祷に始まり当方の講演。4年前からの連続講演で、戦後、光太郎が自らの来し方を振り返って20篇の詩にまとめた連作詩「暗愚小伝」を繙きながら、光太郎の人となりを語る、その4回目。明治42年(1909)の海外留学からの帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別し、放蕩生活を続けながらも人間として苦しみ、やがて奇跡のように智恵子と出会うまでをお話しさせていただきました。

前々日の安曇野碌山美術館さんでの講演は時間配分を誤りましたが、今回はその反省を活かし、ぴったり時間に収めました。

女川町長・須田善明氏、女川光太郎の会会長・須田勘太郎氏のご挨拶。

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その後、光太郎遺影や健在だった頃の文学碑の写真に献花。

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計12名の方による、光太郎詩文の朗読。小学生の男の子や、遠方からの方も朗読して下さいました。

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連翹忌にご参加下さっている、詩人の曽我貢誠氏が初めてのご参加。朗読も。氏は光太郎祭にいたく感激なされ、来年以降のご来訪も約されていました。

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北川先生の談話。前日に放映された天皇陛下のお言葉にも触れ、感極まって嗚咽されながらのお話となりました。予科練の少年たちを率いてのおん自らの軍隊生活、ある意味、時代に翻弄されながらも最終的には己の道を貫き通した光太郎への思いなどが、その涙に結晶したのでしょう。

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高村達氏のご挨拶、アトラクションとして、ギタリスト宮川菊由氏のギター演奏(朗読のBGMから)、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。花を添えて下さいました。

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最後に、故・貝(佐々木)廣氏の奥様、佐々木英子さんのご挨拶。

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さらに閉会後、昨年暮れにオープンした駅前商店街の一角にある「金華楼」さんにて懇親会。

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途中、喫煙のため店外に出たところ、美しい夕焼けが見えました。

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再会を約して、お開きとなりました。


地元紙・『石巻かほく』さんで報道されています。 

高村光太郎の生涯に思い 女川で「祭」 詩の背景、考察

 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ、第25回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の女川フューチャーセンター・カマスで開かれた。
 町民ら約45人が参加し、光太郎が歩んだ生涯に思いをはせた。献花や、碑文などの朗読もあった。
 高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって」の題で講演。光太郎の生涯や詩について説明した。
 小山さんによると、光太郎が書いた詩「親不孝」は、パリなどへの留学を終え帰国した光太郎が将来を悩む心中を記した作品。「自分が目指すのはオーギュスト・ロダンのような芸術家だ」と考え、「自分の決めた道を歩むことは、親の期待を裏切ることになる」と、父親で彫刻家の光雲が用意した道を進まないことに対しての「親不孝」だと解説した。
 91年に女川のことを書いた紀行文や詩の文学碑が町内に建立され、翌92年から、光太郎が三陸地方を巡る旅に出発した1931年8月9日にちなみ、光太郎祭を開いている。
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あくまで前座である当方の講演を大きく取り上げて下さって、恐縮です。

というわけで、第25回女川光太郎祭、つつがなく終了。来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
昭和6年(1931) 光太郎49歳

月曜日にご紹介した三陸沖での作の異稿です。詩「霧の中の決意」に添えられました。

4泊5日の行程を終え、先ほど、無事に帰着しました。

5日間のレポートをざっくりと書こうと思います。

8月6日(土)、愛車で千葉の自宅兼事務所を出発。一路、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。夏休みの土曜ということで、中央道は八王子あたりから山梨県内に入るまで断続的に渋滞、同館には夕方に着きました。

同館では「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催中で、翌7日(日)には、関連行事として当方の講演。当日の到着では途中で何かあった場合に怖いので、前のり致しました。

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当日の午前中も企画展を拝見。光太郎芸術の凝縮された、よい展示でした。

同館には展示のための棟が4つあり、メインの碌山館は、その名が冠された碌山荻原守衛の彫刻。

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それ以外の3棟を、今回の企画展に使って下さっています。
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第1展示棟には、ブロンズの光太郎彫刻10点。それから、パネル展示として作品自体が亡失し、写真のみが残っている彫刻(全て塑像)の写真25点。

第2展示棟では、光太郎の直筆詩稿、著書、そして「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連。

詩稿は主に彫刻制作に関する詩が選ばれ、詩の全文を活字にしたパネルが添えられていました。著書は選詩集的なものを除く、生前刊行の詩集全てと、光太郎没後に草野心平がガリ版刷りで作成した「猛獣篇」。

「乙女の像」関連では、ブロンズの小型試作、中型試作、そして実物大に印刷した十和田湖畔の像の写真。さらに構想スケッチ(実物)やデッサン(複製)など。

そして空調の関係で、杜江館に、光太郎木彫7点と、智恵子の紙絵20点(展示替え有り)、そして光太郎智恵子それぞれの油彩画が展示されています。

同じ型から取って作成されたものが各地にあるブロンズ彫刻以外は、なかなか実物を目にする機会が少ないものばかりで、興味深く拝見しました。

一つ一つのカテゴリー内の点数は決して多くはないのですが、却って、精髄的な印象を受けますし、それほど時間をかけずに見て回ることが出来ます。

また、ミュージアムショップと、無料休憩所的なスペースを兼ねたグズベリーハウスという棟では、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館さん作成の「美術映画 高村光太郎」が放映されており、花巻郊外太田村や、中野のアトリエで「乙女の像」を制作する光太郎自身の姿が見られます(花巻高村光太郎記念館さんでも放映しています)。

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7日(日)は午後から、近くの研成ホールにて、当方の記念講演でした。

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時間配分を誤り、肝心の「乙女の像」についての部分が短くなってしまいました(汗)。

来春刊行予定の同館の館報に、講演の筆録を乗せていただくそうですので、加筆訂正し、きちんとまとめたいと思います。


長野県松本平地区の地方紙「市民タイムス」さん、8月4日に載ったコラム。 

みすず野


安曇野市の碌山美術館で、大正から昭和期 の詩人で、彫刻家の高村光太郎の「彫刻と詩展」が始まった。なぜ、碌山美術館なのか。光太郎と碌山が親友だったからだ。美術館本館わきには、光太郎が碌山 の急死を悼んで詠じた詩「荻原守衛」の碑が、建立されている◆一部を抜粋する。「荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底 で生きてゐた。-」。二人は留学先のニューヨークで出会い、光太郎はロンドン、碌山はパリに渡り、帰国後も交友は続いた。今回は二人ではなく、光太郎の作品、それは必然的に妻智恵子への永遠の愛につながるものだが、そこに光を当てた◆「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で /わたしの手からとつた一つのレモンを-」。「レモン哀歌」と題する詩の自筆原稿も見ることができる。光太郎は智恵子の精神が壊れ、童女のようになり、やがて臨終を迎えるさまをつづった◆「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう。-」とうたい、最後に本当に裸婦像を残した。 光太郎の生き方に触れてみては。


紹介されている詩碑はこちらです。

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同展、8月28日(日)まで開催中です。ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

祈(ね)がば成るならばともあれやすからむ信濃にひとりまた旅ねする

明治34年(1901) 光太郎19歳

光太郎、みすず刈る信濃路の旅の途次に詠んだ歌です。

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三陸女川にての第25回女川光太郎祭、つつがなく終わりました。

晩年の光太郎に私淑された当会顧問・北川太一先生、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である高村達氏なども駆けつけて下さいました。

今年から、震災前の会場だった、光太郎文学碑が立っていた海岸緑地公園に近い、女川駅前の「フューチャーステーション・カマス」という施設で行われました。

前座で当方の講演、地元の方、遠方よりの方などの朗読、プロの音楽家の皆さんの演奏などを通じ、光太郎の遺徳を偲びました。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

山どりの瀬戸波あらし船の上にかぶさりゆるる金華山かな

                                                                      昭和6年(1931) 光太郎49歳


昨日に引き続き、昭和6年(1931)、女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅した折に詠んだ歌です。

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今朝、愛車を駆って信州を出発し、休み休み9時間ほどかけて、三陸女川に到着しました。

テレビの報道や、映画「サンマとカタール」で拝見していましたが、駅前がきれいに整備されていて、驚きました。

明日はその駅前近くの「カマス」さんという施設で、女川光太郎祭です。台風の影響が心配ですが、このイベントの時には台風が来ることがたびたびあり、一種のジンクスです。

今日明日の宿は、以前にも泊めていただいたトレーラーハウスの宿泊施設「エル・ファロ」さん。

詳細は帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮を追ふ親潮はガスまき立てて船にせまれり

                                                             昭和6年(1931) 光太郎49歳


三陸海岸を船で北上しつつ詠んだ歌です。

今朝までは北アルプスの山懐にいたのが、今は荒波打ち寄せる三陸海岸。不思議な感覚です。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉

                                                                 大正13年(1924) 光太郎42歳


碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

週末の『朝日新聞』さんから、全文が長いので、抜粋で。 

(大峯伸之のまちダネ)御堂筋のいま2

■知恵出し合う「企業町会」
 行政と企業が手を携えた街づくりが進む大阪・御堂筋。先週紹介した「御堂筋まちづくりネットワーク」の活動エリアの南側では、長堀通を中心に取り組むNPO法人の「御堂筋・長堀21世紀の会」がある。約120の会員の大半は企業だ。
■作品29体「彫刻ストリート」
 オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーア、高村光太郎、佐藤忠良……。御堂筋の東西の歩道には、国内外の著名な彫刻家の作品29体が並んでいる。
 大阪市の呼びかけで1991年から沿道の企業を中心に作品を買い、置いた。いずれも本物だ。最近は「御堂筋彫刻ストリート」とも呼ばれている。
 大阪市のガイドツアー講師を務める伊藤義麿さん(78)は鐘淵化学工業(現・カネカ)で働いていた頃、御堂筋沿いの日本生命を訪問。そのとき、歩道のアントワーヌ・ブールデルの作品に気づいた。
 伊藤さんの父は美術評論家の故・柳亮(やなぎりょう)。フランスのパリで暮らし、ブールデルの弟子の清水多嘉示(たかし)と交流があった。清水の作品「みどりのリズム」もまた御堂筋の歩道にある。伊藤さんは父が残した資料を読み込み、美術の勉強にのめり込んだ。
 伊藤さんと一緒に彫刻ストリートを歩いた。「足の筋肉の表現が細かくて緻密(ちみつ)でしょう」。大阪ガスビル近くのロダンの作品「イヴ」を前に、伊藤さんの話が止まらない。作品の前に自転車が放置される時期もあったが、伊藤さんは「最近は改善されました」とほほ笑んだ。
■府市と企業で目玉イベント
 四季を通じて、御堂筋はさまざまなイベントで盛り上がる。
 かつての代表格は「御堂筋パレード」だった。1983年に始まり、マーチングバンドやバトントワリング、企業などによる「フロート(花車)」が秋の大阪を彩ってきた。
 ところが、分担金を出してきた大阪府から見直しを求められたことをきっかけに、パレードは御堂筋の完成70周年にあたる2007年が最後に。約2キロを72団体・約7千人が練り歩き、約125万人(主催者発表)が沿道を埋めた。
 08~12年の春には、歩行者天国の「御堂筋フェスタ」、秋には「御堂筋kappo(カッポ)」がそれぞれ催された。この2イベントは13年春、同じ日の開催となった。一連の取り組みは「府市統合」をめぐる動きや議論と重なったものの、府と市の担当者は企業と手をたずさえ、「御堂筋の活性化」へ知恵を出し合っていく。
 14年春。府市は一緒に「御堂筋ジョイふる」を開き、昨年秋には「御堂筋オータムパーティー」に。F1カーや100台のフェラーリ車が登場した。
 この秋、どんな「目玉企画」が出てくるか楽しみだ。(大峯伸之)

記事にある御堂筋の彫刻ストリート、光太郎彫刻は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が設置されています。2年前に見てきたレポートがこちら

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数少ない光太郎彫刻屋外展示の一つです。


本家、十和田湖を扱うテレビ番組放映がありますので、ついでにご紹介します。 

イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!

BS日テレ 2016年8月11日 (木)  20時00分~20時54分

苔むす岩々が織りなす奇跡の渓流▽青森リンゴにこだわった贅沢高級ビュッフェ▽十和田湖の神秘的な光景に大感動▽ワイルドなボートツアー絶叫体験▽八甲田の温泉で絶品御膳

1泊2日の慌ただしい行程ではなく、「2日目をゆったり使える」2泊3日の旅を楽しみませんか?日本全国の風光明媚な景観を訪れ、旬の味覚を味わう2泊3日の“時間を贅沢に使った"旅番組です。

出演  旅人 佐伯チズ&南美希子   ナレーター 真地勇志


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ちらっとでも乙女の像の紹介があるといいのですが……。


当方、今日から地方出張で4泊5日の長旅です。

まずは信州安曇野。碌山美術館さんで開催中の企画展「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事で講演を仰せつかり、「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」と題してお話しさせていただきます。それが7日(日)ですが、早のりで今日から信州に参ります。

昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、「乙女の像」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連、智恵子についても述べる予定です。

その後、9日(火)が宮城女川で女川光太郎祭。そちらでも講演が入っており、一旦帰宅すると遠回りになるので、8日(月)、一日かけて信州から三陸まで移動します。

帰宅予定は10日(水)。その間、このブログは携帯から投稿します。字数制限がある上、画像も制約があり、内容が薄いものとなりましょうが(いつもだろ、と突っ込まれそうですが)、見捨てないで下さい(笑)。

【折々の歌と句・光太郎】

ちひさき蟲にはあれどわれよりも命ながしとはしきわが蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

今週火曜の青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」。光太郎智恵子に触れて下さいました。 

天鐘(8月2日)

 1970年代の東京で学生時代を過ごした。高度経済成長の恩恵と引き替えにスモッグが空一面を覆い、目に染みた。高村光太郎の『智恵子抄』同様「東京には空がない」と思った▼あの頃、東京は日本の縮図であり、地方はその大都会に憧れ、模倣した。東京は日本を代表する夢のモデル都市であった。都政の変遷をたどれば戦後わが国の政治や経済、社会がまるで手に取るように分かる▼初代都知事の安井誠一郎氏は戦後の復興、2代東龍太郎氏は東京五輪に向け、首都高などインフラ整備に尽力。3代美濃部亮吉氏は成長の裏に隠された公害問題と闘った▼4代鈴木俊一氏は財政再建、5代青島幸男氏は都市博の中止、6代石原慎太郎氏はディーゼル車の規制、7代猪瀬直樹氏は東京五輪招致を果たしたが、政治とカネで沈没。8代舛添要一氏は承知の通りである▼復興から成長、産業発展と公害、財政逼迫に再建と一定の因果で動いてきた。続く初の女性都知事、小池百合子氏は「見たこともない都政」を宣言。崖から飛び降りた度胸の持ち主が何を見せるのか、期待したい▼往時は東京が始めると地方がすぐ真似た。そんな一例に「歩行者天国」がある。46年前の今日、銀座や新宿などで始まった。当時の美濃部知事が「東京に青空を」とスモッグの元凶である車を締め出した。9代小池氏が期待を乞う都政とは―地方も大いに注目である。


当方も記者の方と同じく1970年代、東京に住んでおりました。といっても幼稚園・小学校低学年の頃で、まだ「高村光太郎」の名は知りませんでした。確かに当時は「光化学スモッグ注意報」あるいは「警報」が頻繁に出、そういう時は決まって深呼吸すると気管が痛いと感じたものです。

その反面、当時住んでいたのは都下多摩地区で、まだ宅地化はそれほど進んでおらず、田んぼにはドジョウやタニシやザリガニ、森にはミヤマクワガタという状況で、今考えるとアンバランスでした。PCのストリートビューで住んでいたあたりを見ても、もはや別の町のようになってしまっています。

ただ、「スモッグ」という単語がもはや死語となりつつあるのは、いいことだと思います。

光太郎は東京生まれの東京育ち。元々先祖は鳥取藩士だったそうですが、曾祖父で幕末文久年間に亡くなった富五郎は八丁堀の鰻屋、祖父の兼吉は浅草の露天商、そして父・光雲は仏師と、絵に描いたような庶民階級、いわゆる「江戸っ子」でした。

昭和20年の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれるまで、海外留学の期間を除いて、光太郎は東京以外に居住したことはありませんでした。それが疎開のため移った岩手で足かけ8年を過ごすうち、清冽な自然の中での生活にすっかりはまり、戦後のある種むちゃくちゃな復興をする東京を毛嫌いするようになりました。

下記は、昭和27年(1952)の『週刊朝日』に載った、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、8年ぶりに上京した光太郎へのインタビュー「おろかなる都 光太郎東京を叱る」です。

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同じ昭和27年(1952)には、こんな詩も作っています。

   報告   
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 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。


画像は岩手から上京した際に上野駅で撮られたショットです。「長靴で出て来るか」という感じですね(笑)。東京もなめられたものです。

しかし、光太郎、再びの東京暮らしをけっこう満喫していました。草野心平ら、ある種の「悪友」たちと飲み歩いたり食べ歩いたり、ストリップを観に行ったり……。東京に対する悪口雑言も、東京を愛するが故の箴言警句だったのかもしれません。

乙女の像完成後に、宣言通り一時的に岩手に帰りましたが、身体は結核でぼろぼろになっていたため、結局、設備の整った東京で療養せざるを得ず、亡くなったのも東京でした。

さて、「天鐘」にあるとおり、新都知事の誕生です。光太郎がもし現在の東京を見たら、「○○なる都」、どんな形容動詞を使うのでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】

じつとしてこれやこの木の朽つるまで木ぼりの蝉はあり経らんとすらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

現在NHKさんで放映中の「連続テレビ小説 とと姉ちゃん」。これまでも智恵子がその表紙を描いた雑誌『青鞜』が、一つのモチーフとしてドラマの中で効果的に使われてきました。


来週のサブタイトルが「鞠子、平塚らいてうに会う」です。8月8日(月)~10日(水)あたりで、平塚らいてうが登場するようです。

連続テレビ小説 とと姉ちゃん「鞠子、平塚らいてうに会う」

第109回 2016年8月8日(月)
 水田(伊藤淳史)からのプロポーズに答えを出せない鞠子(相楽樹)。大学まで出たのに中途半端なまま仕事をやめる決心がつかない鞠子は仕事で成果を出そうと奮闘するが…。常子(高畑充希)が理由を尋ねると、大学まで出してもらったのに出版の仕事もままならず引け目を感じているのだと言う。東堂(片桐はいり)からの助言もあり、鞠子はまず仕事で成果を出そうと奮闘する。ある日、突然作家がおりてしまい予定の原稿に一つ穴があいてしまう。他に良い作家はいないかと花山(唐沢寿明)に言われ皆が悩む中、鞠子がある提案をする…。

第110回 2016年8月9日(火) 
 予定していた原稿に突然穴があき、騒然とする編集部。鞠子(相楽樹)は、平塚らいてう(真野響子)に原稿を依頼してはと提案する。信頼している編集者としか仕事をしないというらいてう。鞠子は門前払いを受けるも、担当編集者の元に何度も足を運び交渉を続け、やっと会うことができたらいてうに『青鞜』で自分が感動した様な女性に向けての言葉を寄稿してほしいと依頼する。しかしらいてうが提案してきたのは意外な内容だった…。

第111回 2016年8月10日(水)
 平塚らいてう(真野響子)からの原稿を無事受け取り帰社した鞠子(相楽樹)は、原稿を読んだ花山(唐沢寿明)から、すばらしい言葉を書かせたと褒められる。仕事に一区切りつけられたと感じた鞠子は、その帰り道、水田(伊藤淳史)にプロポーズを受けることを伝える。水田が小橋家に結婚の挨拶に行くと、常子(高畑充希)たちも大喜びで二人を迎える。早速結婚式の準備を始めた水田と鞠子は、花山に媒酌人を依頼するのだが…。


らいてうに扮するのは真野響子さん。前作「あさが来た」では元AKB48の大島優子さんが、日の出女子大学校(日本女子大学校)時代の小生意気ならいてうを演じられていました。成長した(笑)らいてうを、真野さんがどのように演じられるのか、楽しみです。


平塚らいてう、といえば、らいてうの生涯を追ったドキュメンタリー映画が上映されます。 

京橋映画小劇場No. 34 ドキュメンタリー作家 羽田澄子

会  期 : 2016年8月9日(火)−8月28日(日)
会  場 : 東京国立近代美術館 フィルムセンター小ホール 東京都中央区京橋 3-7-6
定  員 : 151名(各回入替制 観覧券は当日・当該回のみ有効)
料  金 : 一般520円/高校・大学生・シニア310円/小・中学生100円
                          障害者(付添者は原則1名まで)、
キャンパスメンバーズは無料

フィルムセンターは《京橋映画小劇場》第34回企画として、2009年の「ドキュメンタリー作家 土本典昭」以来7年ぶりに、日本の優れたドキュメンタリー映画監督の歩みを回顧する特集を開催します。今回は、1950年代から現在まで、幅広い対象を粘り強くとらえ続け、日本の社会や文化に新たな視座を提供している羽田澄子監督を取り上げます。

本特集は、羽田監督のデビュー作から最新作まで、計26作品を18プログラムに組んで上映し、その足跡をたどる格好の機会となります。ぜひご来場ください。

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上映26作品の中に「元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(140分)が含まれています。 

元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯

1911年,女性だけによる文芸誌『青鞜』の創刊により日本の女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてう(1886-1971)。「その名をきくと,すべての女性の心に灯りがともる」という羽田が,らいてうの思想形成の原点になった禅の体験から説き起し,らいてうの一人称の語りとスチル写真によって,彼女を突き動かした時代の姿を再構築した。企画は1998 年に「平塚らいてうの記録映画をつくる会」から高野悦子を通じて羽田に持ち込まれた。平和運動に帰結したらいてうの生き方は,軍国主義の時代に青春を送った羽田の反戦への思いと重なる。
2001 企画:平塚らいてうの記録映画をつくる会 製作:自由工房
(140分・16mm・カラー)

8 / 13(土)11:00am  8 / 25(木)2:00pm


らいてうは日本女子大学校家政学部で、智恵子の1級上の先輩でしたが、早生まれのため、生年は智恵子と同じ明治19年(1886)。したがって、智恵子と同じく、今年が生誕130周年にあたります。それを記念してのイベント等も企画されているようですので、また折を見てご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

小刀(こがたな)みな研ぎをはり夕闇のうごめくかげに蝉彫るわれは
大正13年(1924) 光太郎42歳

滋賀県彦根市からイベント情報です。 

彦根市立図書館創設100周年記念事業 プレミアム講演会 「彦根で育った詩人 高祖 保~その生涯と作品~」

日  時 : 2016年8月7日(日)13:00~
場  所 : 彦根市立図書館  滋賀県彦根市尾末町8番1号
講  師 : 外村彰氏 ( 国立呉工業高等専門学校 教授)
料  金 : 無料
定  員 : 50名(申込先着順)  ※申込受付 7/8(火)~
問い合わせ: 彦根市立図書館  TEL.0749-22-0649

高祖保は明治43年に生まれた詩人で、彦根尋常高等中学校(現彦根東高校)で学び、高村光太郎や堀口大学 など著名な詩人と交流し、『椎の木』『雪』『文藝汎論』などに特集を数多く投稿しています。戦時中34歳の若さで永眠されました。
高祖は8歳から旧制彦根中学(現・彦根東高校)を経て大学に進学するまで、母の郷里・彦根で過ごしました。
本講演では、高祖保の文学・人物について語っていただきます。


高祖保(こうそ・たもつ)は岡山県出身の詩人。『希臘十字』(昭和8年=1933)、『雪』(昭和17年=1942)などの詩集がある他、光太郎も寄稿した雑誌『門』を主宰しました。

昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け詩集『をぢさんの詩』の編集を行いました。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他がひょっこりと出て来、今年の同会でも出品されています。

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今回の講演会場である彦根市立図書館さんにも、光太郎から高祖に宛てた書簡が1通所蔵されており、5年ほど前に拝見に伺いました。昭和19年(1944)に刊行された高祖生前最後の詩集『夜のひきあけ』に関する内容でした。高祖はこの年、ビルマへと召集され、翌年同地で戦病死しています。

また、高祖の出身地、岡山にも光太郎から高祖宛の書簡が遺っているようですが、そちらを収蔵している施設が今一つよくわかりません。


こういったマイナーな文学者を取り上げての講演会。こういう取り組みこそ大切だと思います。頭が下がります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

飛びたつとき吾が手を掻きてゆきし蝉の足の力の忘られなくに
大正13年(1924) 光太郎42歳

先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

005 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)が先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
006 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期 日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会 場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時 間 : 午前9時30分~午後7時
休館日    : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

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『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

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当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る

大正13年(1924) 光太郎42歳

テレビ放映の情報です。 

新・BS日本のうた

NHKBSプレミアム 2016年8月7日(日)  19時30分~21時00分

今回は「もう一度逢いたい」「味噌汁の詩」「智恵子抄」「私が生まれて育ったところ」「夜空ノムコウ」「他人船」「奥入瀬」「不思議なピーチパイ」「帰らざる日々」「男の背中」【スペシャルステージ】は「兄弟仁義」「博多の女」「加賀の女」「函館の女」「矢切の渡し」「長崎の鐘」「夕霧岬」「男の勝負」「与作~秋田草刈唄入り~」【イマオシ!】は西方裕之、森昌子、千昌夫、北島三郎&藤あや子。

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6/23、神奈川県座間市での公開収録だったそうです。「智恵子抄」は、昭和39年(1964)、2代目コロムビアローズさんの歌唱でリリースされたものですが、森昌子さんがカヴァーして持ち歌にされています。今回も森さんの演奏です。森さんは千昌夫さんと共に司会も務められるそうです。
 

人権啓発映画「ほんとの空」(字幕スーパー)

RNC西日本テレビ(地上波) 2016年8月5日(金)  10:25~11:05

高齢者や外国人に対する排除、不利益な扱い、同和問題や原発事故に伴う風評被害の問題、これらに共通する根っこの部分は、誤った考え方や思い込み、偏見という「意識」である。誰もが他者の排除や差別がよくないことは理解している。その一方で、自分や身近な人に関わる出来事には敏感に反応するが、それ以外のことは他人事のように感じたりする。また、自分や家族の生活を守るために、あるいは誤解や偏見に気付づかず、他者を排除したり傷つけたりしがちである。 誤解や偏見に気づき人と深く向き合うこと、他者の気持ちを我がこととして思うこと。 すべての人権課題を自分に関わることとしてとらえ、日常の行動につなげていくようにと訴える。

出演  白石美帆 鳥羽潤 湯浅美和子 浦上晟周 石川大樹

RNC西日本テレビさんは、香川県に本社を置くローカル局。香川・岡山の両県で視聴可能です。

このブログで何度かご紹介してきました「ほんとの空」。光太郎詩「あどけない話」を一つのモチーフに、兵庫県人権啓発教会さんによる企画、県教委の協力で、東映さんが制作したものです。制作当初は各地で上映会が行われ、現在も時折学校さんなどで上映されています。DVDの個人向け貸し出しも行われており、それを活用して拝見しましたが、なかなか考えさせられる内容です。

香川・岡山両県の皆さん、ぜひご覧下さい。


ところで、昨日のNHK Eテレさんの「アートシーン」(「日曜美術館」とセットの番組)で、信州安曇野の碌山美術館さんで開催中の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」。をご紹介いただきました。

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今週末の日曜日(8/7)には当方の記念講演もあります。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

どこに口があるかわからぬこの蝉に何をあたへんあたふるものなし

大正13年(1924) 光太郎42歳

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