2016年07月

光太郎とのゆかりのある宮城県女川町を舞台に、東日本大震災から5年のあゆみを追ったドキュメンタリー映画、「サンマとカタール 女川つながる人々」。今年の5月に封切られ、当方は先月、浦安のシネマイクスピアリさんにて拝見して参りました。

昨日、BSジャパンさんで放映され、録画、拝見しました。何度見てもいいですね。

「2011年3月11日 宮城県女川町」「住民の1割、建物の8割を失った」とのテロップ。背景には、あの日の光景。

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そしてタイトルバック。


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中東のカタールの支援で、水産業の中核施設・大型冷蔵庫「マスカー」が建設された件。カタールロケも敢行されています。

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メインは女川町で行われた昨年春の「復幸祭」。営業再開した女川駅、津波からの避難を想定してのロードレース「復幸男」、ももいろクローバーZさんのライヴ。

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さらに昨冬の駅前商店街オープン。

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定点カメラによるコマ送りなども含まれ、記録映画としても貴重なものです。

そして、毎年、女川光太郎祭でお世話になっている須田善明町長をはじめ、女川に生きる人々の姿。苦境に立ち向かう人々の姿に、勇気がもらえます。まさしくヒューマンドキュメンタリーと呼ぶにふさわしいものです。

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ぜひともDVD化して販売されることを希望します。


さて、今年も8月9日に、女川光太郎祭が開催されます。こぢんまりと行うイベントで、ネット上に詳細情報等有りませんが、問い合わせた結果と昨年までの要項を参考にまとめると、以下の通りです。 

第25回女川光太郎祭

期 日 : 2016年8月9日(火)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川フューチャーセンターCamass
           宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原75-7 女川駅から徒歩2分
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって④―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)


会場が昨年までの仮説商店街から女川駅前に変更、今年は地元和太鼓サークルの演奏は無いそうです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

手に取れば飛ばうともせずのろのろと手のひら痒くあるきまはる蝉

大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日は、日帰りで花巻に行っておりました。

光太郎が戦後の七年間を過ごした旧太田村に建つ花巻高村光太郎記念館で、現在、企画展「智恵子の紙絵」が開催されています。その関連行事、というわけではないのですが、話がとんとん拍子に進み、テルミン奏者の大西ようこさんと朗読家の荒井真澄さんのコラボによるコンサートが実現しました。

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テルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

朗読家の荒井さんも「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹忌で、大西さんと意気投合されたとのこと。

同館にはそうした催しを行うためのホール的なスペースはなく、スタッフの皆さんも、アドバイザーを務める当方も、これまでこうした催しは考えても居ませんでしたが、大西さんが同館を訪れることになる → どうせなら演奏 → それなら荒井さんも巻き込む → 場所はないが、何とかする、という流れで、手前の展示室1(光太郎の彫刻作品が並んでいます)が比較的広いので、そこでやってしまえ、ということになりました。

というわけで、本番は光太郎彫刻に囲まれての演奏・朗読となりました。

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これまで様々な機会に光太郎智恵子がらみのコンサート等に足を運んで参りましたが、光太郎彫刻に囲まれてのそれは記憶にありません。

リハーサル風景。

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さて、本番。お客様の入りはどうだろうと心配でしたが、何やかやで50名くらいの皆さんが集まって下さいまして、一安心。

仕掛人の一人、花巻高村光太郎記念会理事にして、生前の光太郎をよくご存じの浅沼隆氏が司会。

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当方も、一言、ご挨拶申し上げました。

最初は大西さんのソロ。カッチーニの「アヴェ・マリア」など。

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テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方がほとんどで、興味深く聴かれていたようです。

途中から荒井さんが合流、大西さんの演奏をバックに『智恵子抄その後』の中から、当地に関わる詩篇と散文を朗読されました。

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急に決まった企画でしたので、お二人での合わせは当日まで行われず、ある意味、ぶっつけ本番だったそうですが、どうしてどうして、ぴったり息のあったコラボレーションでした。

最後は荒井さんのリードで、会場の皆さんと共に2代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を歌いました。智恵子の故郷・二本松の皆さんはどなたもご存じの歌ですが、花巻ではどうかと思っていました。しかし、意外とご存じの方が多かったようでした。

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盛会のうちに終わりました。

終演後は、皆さんと光太郎が実際に暮らした山小屋(高村山荘)付近を散策したり、記念館の展示を拝見したりしました。

役得で、普段非公開の山荘内部にも入れていただきました。

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というわけで、充実の1日でした。


光太郎記念館も、こうしたコンサートなどの新たな活用法の方向性が見え、大きな収穫でした。ただ、どなたにでも会場を開放し、場を提供するというわけにも行かないかとは存じます。今日のこのブログ、題名が「ロビーコンサート」ですが、結局はロビーではなく「展示室コンサート」ですので、そうそういつもいつもこうした場合に対応できません。また、ぜんぜんご存じない方に場を提供し、いざ公演となったらとんでもない内容だった、などということも無きにしもあらずですし……。

今後、こうした活用法も含めて、館のスタッフの方々と詰めて行きたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日は東北でも梅雨明けが宣言されました。高村山荘周辺では、まだ今一つ蝉の声は聴けませんでしたが、地面には幼虫が羽化のため出て来たのであろう穴が目立ちました。

来週末のイベントです。 

桑名石取祭

期   日 : 2016年8月6日(土)~2016年8月7日(日)
会   場 : 三重県桑名市春日神社周辺 三重県桑名市本町46番地
問い合わせ : 桑名市物産観光案内所 0594-21-5416

「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りです。桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。

本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(H19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。


というわけで、光雲作の飾り物をつけた祭車も出るという祭りです。公式サイトはこちら

調べてみましたところ、40台あまりの祭車が存在するようですが、そのうちの「羽衣」地区の祭車が大正12年(1923)の光雲の手になる飾り、また、「太一丸」という、こちらは地区でなく、何らかのグループでの参加と思われますが、この祭車の飾りは明治30年(1897)で光雲工房作となっています。また、「太一丸」の祭車は、共に光雲が制作主任を務めた上野の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠木正成像の馬を手がけた後藤貞行による神鹿の飾りも装備しているそうです。

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このブログでも何度かご紹介した横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭、それから高村家お膝元の文京区本駒込・駒込天祖神社例大祭(今年は4年に一度の本祭だそうで、追ってご紹介します)など、光雲が飾りを手がけた神輿が繰り出す祭礼がいくつかあります。ただ、そういったものが全国にどの程度あるのか、はっきりつかめていないのが現状です。

うちの方の祭りで光雲作の神輿(山車・祭車)が出るよ、という方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

だしぬけにぢぢと声立てまた黙るかなしき蝉よ籠の中の蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

信州安曇野の碌山美術館さんで先週末から開催中の 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の図録が届きました。

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B5判111ページ、立派な図録です。

同館館長・五十嵐久雄氏の「ごあいさつ」、島根県立美術館長・長谷川三郎氏の論考「彫刻家高村光太郎」、同館学芸員・武井敏氏の論考「高村光太郎の彫刻と詩―桃と乙女、そしてレモン―」、光太郎智恵子略年譜、彫刻に関わる光太郎の詩文、そして豊富な図版から成ります。図版は出展作品はもちろん、それ以外の参考図版も充実しています。

図版を見て、改めて思いました。それほど大規模な展覧会ではありませんが、光太郎智恵子芸術の精髄を集めており、二人の芸術世界を概観するには充分すぎる展示内容です。

光太郎の木彫が7点。「蝉」、「白文鳥」、「桃」、「柘榴」、「蓮根」、そして「鯰」が2種類。 ブロンズが12点。「獅子吼」、「薄命児男子頭部」、「園田孝吉胸像」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「老人の首」、「黒田清輝胸像」、「光雲一周忌記念胸像」、「倉田雲平胸像」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」。このうち、「白文鳥」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」は、それぞれ2体で一対です。

さらに光太郎の作品としては、油絵の「自画像」、鉛筆書きの「乙女の像構想スケッチ」、肉筆詩稿(主に彫刻に関わる詩篇をセレクト)が18点、詩集が7冊(うち5冊は当方がお貸ししました)。

そして智恵子の紙絵の実物が40点。

22:35追記 山梨県の清春白樺美術館さんで所蔵の智恵子油絵「樟」も出品されています。書き落としました。

これほど充実した企画展ですが、それほど報道されておらず、残念です。地方紙のサイトでも開催予告的な記事は見つかりましたが、開幕した、という記事が見あたりません。今後に期待したいところです。

今後といえば、8月7日(日)、午後1時30分から当方の記念講演があります。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

羽を彫り眼だまをほれば木の蝉もじつと息して夕闇にはふ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山美術館さんで展示されているのが、この短歌で詠まれている「蝉」です。

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昨日の『福島民友』さんから。 

福島県の作品が「JR東日本賞」 交通広告グランプリ2016

005 県は25日、ジェイアール東日本企画主催の「交通広告グランプリ2016」で、県の作品が特別賞に当たる「JR東日本賞」を受賞したと発表した。同日、都内で表彰が行われ、県広報課の早川真也主任主査が賞状を受けた。
 作品は高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「ほんとの空」を背景にイメージ。「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」や「福島にも様々な人が暮らしています」「光の部分、影の部分。避難区域以外のほとんどの地域は日常を歩んでいます」「お時間があれば今度ぜひいらしてくださいね」「みなさんからの応援に感謝します」などの文言を配置し、メッセージ性を強調した。電通とクリエイティブディレクターの箭内道彦さん(郡山市出身)が協力。JR東日本管内などの32駅に掲示された。
 早川主任主査は「改めて福島に関心を持つきっかけになってくれたらうれしい。大勢の人が足を運び、ありのままの福島を感じてもらいたい」と喜びを語った。


「交通広告グランプリ」とは、公式サイトによれば、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)から開催された「秀作車内ポスター展」まで遡ります。 同展は東京近郊の国鉄・私鉄・都電に掲出された車内ポスターの中から選ばれた優秀作品が一堂に会する、当時としては大規模な広告展示会でした。さらに、「国鉄広告展」、新幹線の車内や駅を対象とした「新幹線広告展」が相次いでスタート。

それらを段階的に統合する形で、平成元年(1989)、㈱ジェイアール東日本企画主催による「JR東日本ポスターグランプリ」が誕生。平成18年(2006)より名称を「交通広告グランプリ」と変更し、JR東日本の他、つくばエクスプレス、りんかい線、ゆりかもめ、JR貨物に掲出された作品も審査の対象としているそうです。

福島県の作品は「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」という題で、「JR東日本賞」を獲得。「ほんとの空」をイメージしたという、ミントブルーからだんだん淡い水色へ遷るグラデーションをバックに、会津の赤べこ、そしてコピー文「福島の未来は、日本の未来。あたたかなみなさんからの応援に感謝します。原発の廃炉は、長い作業が続きます。これからもどうぞよろしくお願いします。ほんとにありがどない。 福島県」。シンプルな中に、さまざまなメッセージ、そして郷土福島を愛する心が伝わってくる作品です。

また、記事にはありませんが、駅ポスター部門の優秀作品賞に、ふくしまデスティネーションキャンペーンの「会いに行こう。福島」が選ばれています。


受賞作品の展示会が、来月末、JR東京駅近くで開催されます。事前申し込みが必要らしいので、早めにご紹介します。 

交通広告グランプリ2016 受賞作品展示会

期  日 : 2016年8月23日(火)、24日(水)
時  間 : 10:00~18:00
会  場 : サピアタワー ステーションコンファレンス東京 4F 401、402A~D
        東京都千代田区丸の内1-7-12
申込方法 : 申込用紙をダウンロードしてご記入の上、ファクシミリにて
       (株)ジェイアール東日本企画交通広告グランプリ事務局宛にお申込み下さい。
        FAX03-5447-0967

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他にもauの三太郎や、ムササビ(モモンガ?)に扮したスキージャンプの高梨沙羅選手(ANA)など、楽しい作品がいっぱいです。また、『福島民友』さんの記事と照らし合わせると、公式サイトでは受賞作も作品の一部のみの公開になっているようで、全体像はこちらでないと確認できないようです。

ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

天上にひびきどよもす夏の日の歌のうたひ手さびしき小蝉

大正13年(1924) 光太郎42歳

明日あたり、いよいよ関東も梅雨明けだそうです。蝉の天下の到来ですね。

先週、青森十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作である「乙女の像」をキーワードにネット検索をしていたところ、熊の出没情報のページが引っかかりました。近くの十和田湖小学校さんでは、熊の糞らしきものが発見されています。 

青森県の熊(クマ)目撃・出没情報

十和田市の乙女の像付近
    • 日時:7月21日午後1時50分ごろ
    • 場所:奥瀬字十和田湖畔休屋「乙女の像付近」の藪

十和田市の「十和田湖小学校」付近
    • 日時:7月12日午後2時ごろ
    • 場所:十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
    • その他:クマの”ふん”らしきものを発見


今年は特に東北で、熊による痛ましい事故が相次ぎました。秋田県鹿角市の十和田大湯地区では、山菜採りの方連続して亡くなる被害も出て、十和田湖の近くだから心配だと思っていましたが、先月30日には、十和田湖を泳ぐ熊の姿が撮影されたというニュースも報じられました。

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しかし、十和田湖も広いので、人の立ち入らないエリアでの話だろうと思っていて、まさか、観光施設も建ち並ぶ休屋地区にある、乙女の像の近くに現れるとは思っていませんでした(その「まさか」がいけないのでしょうが)。

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「乙女の像」といえば、上記画像、テレビ東京系のBSジャパンさんで24日の日曜日に放映された「ミステリアス・ジャパン【恐山に並ぶ霊場・十和田湖 ~青森・十和田市~】」から。20秒ほどでご紹介いただきました。


続いて岩手県。

2週間前、岩手花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんに「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を観に行った際に、付近に出没したという掲示が出ていました。

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花巻市さんのサイトに、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)・高村光太郎記念館のある、同市太田地区でも目撃情報があったことが出ています。同じ太田地区でも、山荘や記念館とは少し離れたところでしたが。

記念館では、熊よけのためにラジオ放送を大音量で流したりもしています。

光太郎が住んでいた戦後すぐの時期にも、もちろん熊が居たようで、昭和24年(1949)に書かれた「案内」という詩に、熊が現れます。

    案内000

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。


記念館には、光太郎が実際に使っていた熊よけの鈴も展示されています。

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熊は非常に恐ろしい動物ですが、こうした工夫でかなり被害は防げるはずです。むやみに怖れるあまり、「青森も岩手も行かないよ」ということにはなってほしくないものです。

当方、明後日にも花巻に行って参ります。高村光太郎記念館において、テルミン奏者の大西ようこさん、朗読の荒井真澄さんによるロビーコンサート的な催しがあります。熊には十分注意したいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

ぢりぢりときしる蝉の音すみゆけば耳にきこえずただ空に満つ
大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎とのゆかりのある宮城県女川町を舞台に、東日本大震災から5年のあゆみを追ったドキュメンタリー映画、「サンマとカタール 女川つながる人々」。今年の5月に封切られ、当方は先月、浦安のシネマイクスピアリさんにて拝見して参りました。

ほぼ劇場公開は終了しましたが、驚いたことに、もうテレビで放映されます。 

映画「サンマとカタール 女川つながる人々」女川町の復興を追ったドキュメンタリー

BSジャパン 2016年7月30日(土)  16時00分~17時24分

壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の復興5年目を追う!前向きに生きる力を映像に込めた感動のドキュメンタリー。今だからこそ伝える5年間の想いに心が熱くなる!

東日本大震災から5年。住民の1割近くが犠牲となり、8割近くが住まいを失った宮城県女川町は今、目覚ましく復興し、新しい町に生まれ変わるために力強く歩んでいる。人々はどうやって立ち上がったのか?そして中東カタールの関わりとは? 復興5年目の女川町で生きる人々を約2年撮影したドキュメンタリー。女川町の復興の軌跡、切なくて強い人間の底力に迫ります。

監督 乾弘明  ナレーション 中井貴一

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直接、光太郎に関わる部分はありませんが、ぜひご覧下さい。


女川と言えば、来月9日は第25回女川光太郎祭が開催されます(昨年の様子はこちら)。こぢんまりと行うイベントですので、今のところネット上に詳細な情報等は出ていないようです。詳細がわかりましたら、またお伝えいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

子供等に蝉を分けてもらひたりうれしくてならず夕めしくふにも

大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日に引き続き、新刊情報です。 
2016/08/02   曽我貢誠・佐相憲一・鈴木比佐雄 編 コールサック社 定価1,500円+税

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詩人、作家、教育関係者などによる200人詩集。いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。「教えるとは希望をともに語る語ること」(ルイ・アラゴン)。誰でもいつかは少年少女、そんな視点で心のうたをお届けします。学校で、塾で、電車の中で、家庭で読んでいただきたい1冊です。

目次
 はじめに 未来を切り開くために 曽我貢誠
 第一章 学ぶ
 第二章 歩む
 第三章 立つ
 第四章 こころ
 第五章 いのち
 第六章 希望
 第七章 家族の中で
 第八章 自然の中で
 第九章 世界の中で
 第十章 未来
 解説 『少年少女に希望を届ける詩集』 人間そのものを思うこと 佐相憲一 
 解説 少年少女のしなやかな心が語り合える詩集になることを願って
  『少年少女に希望を届ける詩集』に寄せて 鈴木比佐雄
 おわりに 曽我貢誠

編者お三方のうち、曽我貢誠氏は詩人で、連翹忌の御常連です。鈴木比佐雄氏は同社の社長さん。今年の連翹忌にご参加下さいました。佐相憲一は詩人、評論家、編集者。

広く募集した書き下ろしの稿と、光太郎などの物故詩人の作品が入り交じる構成になっています。詩が根幹ですが、エッセイ的な散文も多く収録されています。

ご存命の有名どころでは、谷川俊太郎氏、覚和歌子氏、あさのあつこ氏、落合恵子氏、新川和江氏、水谷修氏、尾木直樹氏、浅田次郎氏、小山内美江子氏、明石康氏など。

物故詩人としては、山村暮鳥、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、吉野弘、島崎藤村、河井酔茗、高田敏子、宗左近、坂村真民などにまじって光太郎も。光太郎の作品は、『道程』と『冬が来た』が掲載されています。

また、今年の連翹忌で、募集のチラシが配られたため、御常連の皆さんで、それに応じられた方々がいらっしゃいます。作曲家・野村朗氏、詩人・野澤一のご子息の野澤俊之氏。当方は、忙しさに取り紛れて欠礼いたしました。

上記2枚目の画像(裏表紙)で、寄稿者全員のお名前が確認できます。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いつしんになきどよもせば袋もて採る気になれず蝉の腹を見る

大正13年(1924) 光太郎42歳

新刊、といっても4月の刊行なので3ヶ月ほど経ってしまっていますが、最近まで気付きませんでした。 
2016/04/15  藤田尚志・宮野真生子 編 ナカニシヤ出版 定価2,200円+税

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「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く。よりアクチュアルに,より哲学的に,何より身近なテーマを問うシリーズ、第1巻。

目次
Ⅰ 西洋から考える「愛」
  第1章 古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚 (近藤智彦)
     ――プラトンからムソニウス・ルフスへ――
 第2章 聖書と中世ヨーロッパにおける愛 (小笠原史樹)
 第3章 近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論? (佐藤啓介)
     ――聖と俗、愛と情欲のあいだで――
 第4章 恋愛の常識と非常識 (福島知己)
     ――シャルル・フーリエの場合――
Ⅱ 日本から考える「愛」
  第5章 古代日本における愛と結婚 (藤村安芸子)
      ――異類婚姻譚を手がかりとして――
 コラム 近世日本における恋愛と結婚 (栗原剛)
      ――『曾根崎心中』を手がかりに――
 第6章 近代日本における「愛」の受容 (宮野真生子)


編者のお二方は、それぞれフランス近現代思想、日本哲学史を専攻され、九州の大学で教鞭を執られている研究者です。

最初にこの書籍の情報を目にしたとき、「哲学」の文字から、小難しい理屈の羅列かと思いましたが、さにあらず。前半は西洋、後半は日本に於いて、「愛」がどのように捉えられてきたのか、その思想史的な考察……というと堅苦しいのですが、様々な実例を引きながら(近年の映画『エターナル・サンシャイン』や『崖の上のポニョ』まで含め)、いわば帰納的に「愛」の在り方が、かなりわかりやすく説かれています。

特に日本編は興味深く拝読しました。『古事記』や『源氏物語』、『曽根崎心中』、夏目漱石の『行人』、そして『智恵子抄』。

キリスト教の「love」の概念や、中国に於けるどちらかというと道徳的な「愛」の影響を受けつつ、対象と一つになることを理想とする恋愛の形の出現、そして一つにならねばならない、というある種の強迫観念がもたらした光太郎智恵子の悲劇、といった流れで、「なるほど」と首肯させられました。

本書でも、光太郎智恵子の悲劇の考察だけを取り出すのであれば、ほぼこれまでにも様々な論者が述べてきたことの焼き直しのような感がありますが、いわば「近代恋愛史」的なマクロ視点の中にそれを置くことで、また違った見方で見えてきます。ある意味、光太郎智恵子の悲劇は、「近代恋愛史」という壮大なパズルの無くてはならないピースのように、起こるべくして起こった、というような……。

版元のナカニシヤ出版さん。京都の書肆です。こうした真面目な、しかしはっきりいうと商業的にはどうなのかな、という出版に真摯に取り組まれる姿勢には敬意を表します。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

先週の『朝日新聞』さんの夕刊に、以下のコラムが載りました。

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(各駅停話)新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏

 駅を出るとすぐ、65店舗が並ぶ「佐竹商店街」がある。1898年に組合組織のできた、日本で2番目に古い商店街という。
 あたりには江戸時代、大名の佐竹氏の屋敷があったが、明治時代に撤去されて原っぱになった。佐竹商店街振興組合の秋本邦雄理事長(73)によると、明治時代には、鎌倉の大仏より大きな大仏があったという。
 つくったのは、近所に住んでいた彫刻家、高村光雲(1852~1934)。光雲の懐古談に、原っぱに見せ物用の大仏をつくって中に客を入れる構想を冗談半分に口にしたところ、周囲が乗り気になり、実現したという話が出てくる。
 1880年代中ごろにできた大仏は高さ約15メートル。後に同じく光雲のつくった西郷隆盛像の建つ、東京・上野近辺からも眺めることができたらしい。しかし、完成した年、嵐で骨組みだけ残して吹き飛んでしまったという。
 こうした話は、商店街の酒井孝昌さん(82)が30年近く前、地元の歴史を残そうと掘り起こした。大仏があったと思われる場所に案内してもらうと、小学校になっていた。「大仏が、地域の歴史に目を向けるきっかけになればうれしい」と酒井さん。(石山英明)


場所は台東区台東4丁目、現在、平成小学校のある辺りで、記事にあるとおり、江戸時代には佐竹家の屋敷があったため、「佐竹っ原」といわれていた空き地でした。時は明治22年(1889)、光雲は数え38歳、岡倉天心に請われて東京美術学校に奉職した年です。この頃、佐竹っ原にはよしず張りの簡素な飲食店や見世物小屋などが立ち並んでいました。ところが、目玉になるようなものはなく、どうにもさびしい状態だったとのこと。

そこで光雲と職人仲間との雑談の中で、あそこに何か目玉になるものを作ろう、という話になりました。モニュメントとかオブジェというニュアンスではなく、見世物小屋の延長として、しかし、ただ小屋を建てるのでは芸がないから、小屋全体を展望台も兼ねた大仏の形にしてしまえ、というのが光雲の発案でした。

光雲は冗談半分だったのですが、仲間たちは乗り気になり、光雲にひな形を作れ、と迫ります。言い出しっぺの光雲としては断り切れず、どうせ実際に作るとなると無理だと言われるに決まっている、と思いながら二尺四寸のひな形を作りました。すると、案に相違して仲間たちには好評、専門の大工などに見せても、これなら出来る、とのことで、実現します。

これが佐竹っ原の大仏で、材料は丸太、板、竹、漆喰。つまりほとんど張りぼてです。光雲の異母兄で大工の中島巳之助や、仕事師と呼ばれる今で言う足場組立職人、芝居の大道具師、左官屋、興行師なども巻き込み、2ヶ月ほどで完成します。光雲も、大工たちの間に入って陣頭指揮したとのこと。

高さは四丈八尺(約14.5㍍)。内部は、さざえ堂を参考にした螺旋階段を設置、大仏の頭部が展望台を兼ねた部屋で、眼や耳に開けられた穴から街並みが見渡せる仕組み。胴の内部は仏像やら古布などを展示、さらにステージまで設けて踊りも披露するという凝った作りでした。

完成した五月には、大入りになりましたが、その後、梅雨と真夏の猛暑の時期には客足が落ち込み、秋口になって、さあ盛り返すぞ、というところで台風の直撃を受け、骨組みだけを残して壊れてしまったそうです。というわけで、わずか4ヶ月ほどの命だったこの大仏、残念ながら写真や絵図などの現存が確認できていません。

このあたり、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』に詳しく記述があり、「青空文庫」さんで読むことができます。まだ日本彫刻界の頂点に上る前の壮年期の光雲。しょうもないといえばしょうもないこともやっていたわけですが、微笑ましいエピソードです。


お読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

なきかけ又なきなほすみんみんのあかるきかなや必死のうたは
大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎の実弟にして、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されています。 
期  日 : 2016年7月16日(土)~9月8日(木) 月曜休館 
会  場 : 東京国立近代美術館工芸館 千代田区北の丸公園1-1
時  間 : 10:00~17:00
料  金 : 一般210円(100円) 大学生70円(40円)
        ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
        高校生以下および18歳未満、65歳以上
は無料。
無料観覧日 : 8月7日(日)、9月4日(日)

こどもたちと一緒に工芸を見たことはありますか?
工芸鑑賞はちょっとむずかしそう…と心配されることがあるけれど、作品を見たこどもたちは、おとなの予想を軽く乗り越えて、生き生きと反応してくれます。きらきら輝く目のなかは「!」や「?」でいっぱい――好奇心が踊るようにあふれでて、そのわくわく感に周囲で見守るおとなたちも嬉しくなるほどです。
こどもの興味を惹きつけるのは、なんといっても、それが何でできているのか?ということ。
「工芸」とひとくくりに呼んでいますが、種類はさまざまで、それを分ける決め手となるのが素材です。でもちょっと見にはそれが判断つかないものが少なくないのも工芸の特徴。土、石、草や木、虫など、素材に選ばれたものの元の姿を知っていると、ますます「!」や「?」が飛びだします。
工芸がこれだけ多彩に発展してきたのは、私たち人間が「こうしたい」と思ったことがらを形にしたものだから。それもよりよく、より美しくと、尽きない願いに応えて、あらゆる素材を吟味しては多方面に可能性を試し、磨き上げてきた結果が作品の魅力を築き、見る人、そして作る人自身をも惹きつけてきたのです。
そんな風に考えてみると、「ナニデデキテルノ?」というシンプルな発言には、作品へのお近づきの挨拶とともに感動のほとばしりが潜んでいそうです。知識豊富な大人の皆さんも、あらためて、こどもと一緒にこのひと言をつぶやいてみませんか?まだ気づいていなかった、知恵と情熱満載の工芸の秘密を探る鍵がみつかるかもしれません。

人間国宝から人気の現代作家まで当館所蔵作品、約120点を展示
繊維、土、石、ガラス、金属、木、貝殻など、展示室ごとにさまざまな素材の魅力を紹介します。


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豊周の作品は、「朱銅まゆ花瓶」(昭和39年=1964)、「青銅花瓶」(大正15年=1926)の2点。

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その他、有名どころでは、染色の志村ふくみさん、芹沢銈介らの作品、さらに竹久夢二作のオブジェ、六代清水六兵衛、ルーシー・リーの磁器なども展示されています。出品目録はこちら

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

しきりに桜の幹をいそぎのぼる蝉は止まりてなきはじめたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

まずは福島。

智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山で日曜日に行われた朗読イベントについての報道です。 

顕彰団体が詩朗読 智恵子生誕130年を記念 二本松

 福島県二本松市出身の洋画家高村智恵子を顕彰している智恵子のまち夢くらぶは17日、安達太良山(1700メートル)8合目の薬師岳で詩人高村光太郎が妻智恵子を詠んだ詩集「智恵子抄(ちえこしょう)」の朗読会を開いた。
 智恵子生誕130年と光太郎没後60年を記念して開催した。
 参加者約15人はあいにくの梅雨空から姿をのぞかせた山頂を背に、智恵子抄の一節「レモン哀歌」「樹下の二人」「あどけない話」「風にのる智恵子」などをそれぞれ読み上げた。小野町出身の丘灯至夫さんが作詞した歌謡曲「智恵子抄」を合唱した。
(『福島民報』)
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安達太良山で「智恵子抄」朗読会 心の目で青い空を

 二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子の顕彰に取り組む同市の智恵子のまち夢くらぶは17日、同市の安達太良山で、夫光太郎の詩集「智恵子抄」の朗読会を開いた。参加者が「樹下の二人」「あどけない話」などを朗読した。
  智恵子生誕130年・夫光太郎の没後60年記念事業。あどけない話に「阿多多羅(安達太良)山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ」という一節があることから、初の朗読会が企画された。
  約15人が参加。薬師岳の「この上の空がほんとの空です」と書かれた標柱の前で朗読会を開いた。熊谷健一代表が「曇り空だが、心の目で青い空を見てほしい」とあいさつ。全員で「智恵子抄」の歌を合唱した後、順番に朗読した。
  暗唱で「あの頃」を朗読した郡山市の日高計子さん(73)は「この詩からは智恵子の芯の強さがうかがえる」と話した。
(『福島民友』)
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夢くらぶさん、地味な活動ですが、こういうことが大事なのだと思います。

続いて青森。やはり先週末に行われた第51回十和田湖湖水まつりの報道です。 

十和田湖畔休屋で湖水まつり開幕

 第51回十和田湖湖水まつり(主催・同まつり実行委員会)が16日、青森県十和田市の十和田湖畔休屋で始まった。訪れた人たちがイベントや乙女の像のライトアップ、花火などを楽しんだ。
 休屋の太陽広場では「チームわんぱくとわだっこ」がよさこい演舞を披露。十和田湖自然ガイドクラブの人たちは、いつも早朝案内している1時間の湖畔散策を午前と午後の2回行い、周辺の歴史や見どころを観光客に紹介した。
 午後6時からは乙女の像がライトアップされ、幻想的な姿を見せた。夕方、強い雨が降ったものの、花火大会も無事行われ、1860発が打ち上げられた。
(『東奥日報』)
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十和田湖湖水まつり開幕

 国立公園指定80周年を迎えた十和田八幡平に夏の訪れを告げる、第51回「十和田湖湖水まつり」が16日、3日間の日程で、十和田湖畔休屋で開幕した。夜にはあいにくの雨の中、約2千発の花火が湖上から打ち上げられ、湖上を彩った。
 花火は午後8時にスタート。上空を雲が覆い、鮮やかな大輪とはならなかったが、水中花火が湖面に映えると歓声が上がった。遊覧船から眺める人もいて、十和田湖ならではの風情を満喫した。
 日中は広場で地元チームがよさこい演舞を披露するなど、湖畔は終日、大勢の人でにぎわった。
(『デーリー東北』)
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ここで、十和田湖関連のテレビ放映情報を。 

ミステリアス・ジャパン【恐山に並ぶ霊場・十和田湖 ~青森・十和田市~】

BSジャパン 2016/07/24(日)  10時30分~11時00分

日本各地にある、歴史に埋もれた謎の断片、密かに語られてきた妖しき伝承…それらを紐解いた先に見えてくるものとは…?ミステリアスな世界にいざないます。

舞台は、国の特別名勝、天然記念物に指定される美しい十和田湖で有名な青森県十和田市。県内指折りの観光地だ。しかし、そんな風光明媚な十和田湖は、恐山と並び称される霊場であることをご存じだろうか?湖には龍神伝説があり、水神信仰の聖地として崇められてきた。そんな伝説を伝えるのが、荘厳な十和田神社と、湖畔にそびえる赤色の断崖絶壁。今回は、十和田湖に伝わる神秘的な霊場の龍神伝説を紐解いていく。

ナビゲーター 西本智実

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近年、パワースポットとして人気の、「乙女の像」の裏手にある十和田神社がメインで取り上げられますが、「乙女の像」もちらっと映るようです。予告編に映像が入っていました。

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ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

三角の木ぎれ手に持ち墨引きていとしきものか蝉の眼をみれば

大正13年(1924) 光太郎42歳

夏、といえば蝉ですね。光太郎、木彫で蝉を複数制作しましたが、それにまつわる短歌も数多く残しています。しばらく、蝉関連の短歌をご紹介していきます。下記写真は髙村規氏撮影です。

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群馬から企画展の情報です。 

再発見!ニッポンの立体

期 日 : 2016年7月16日(土)~9月19日(月・祝)
会 場 : 群馬県立館林美術館  群馬県館林市日向町2003
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)   
休館日 : 毎週月曜日 祝日・振替休の場合はその翌日 8月15日を含む週は休館しません
料 金 : 一般610円(480円)、大高生300円(240円)   ※( ) 内は20名以上の団体割引料金
      ※中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料。
      ※震災で避難されてきた方は無料で観覧できますので受付でお申し出ください。

わが国には土偶や埴輪、仏像や神像、人形、寺社を装飾する彫り物、置物など、信仰や生活に結びついた豊かな造形表現があります。ところが明治以降、西洋の彫刻がわが国に知られると、それらが刺激となって立体造形に大きな変化がもたらされます。それでも江戸時代以前の造形感覚が忘れられたわけではありません。精巧な技術を駆使して本物そっくりを目指した木彫の栗や象牙の貝殻には、西洋美術が得意とする写実表現とは異なる意識がみられます。それらは根付け、水滴、香合など小さな立体に寄せる日本人の感性に特によく表れています。一方で、現代のゆるキャラやマスコットにみる簡略化は、だるまや招き猫、各地で大切にされたこけしの造形と結びついています。本展ではジャンルを超えた多彩な造形表現によって日本固有の美意識を探ります。

学芸員による作品解説会 (申込不要・要観覧料)   展覧会担当学芸員による解説を聞きながら、作品を鑑賞します。
日時:7/27(水)、8/12(金)、9/11(日) 各日午後2時-(約40分)  会場:展示室

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案内文にあるとおり、古代から現代までの「立体」作品を集めた企画展です。

光太郎のブロンズ彫刻が3点、展示されています。代表作の「手」(大正7年頃=1918頃)、「裸婦坐像」(同6年=1917)、そして「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。

追記 光雲作品「西王母」「江口の遊君」も展示されています。

また、それぞれ近くなりましたらもう一度ご紹介しますが、下記の美術館さんにも巡回予定です。

2016年11月15日(火)~2017年1月9日(月・祝)静岡県立美術館
2017年1月24日(火)~4月9日(日)三重県立美術館

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
明治39年(1906) 光太郎24歳

「海の日」がらみで、光太郎が欧米留学のため横浜から乗船した、カナダ太平洋汽船のアセニアン号船中での作、最後です。

生まれて初めての長い船旅、大きなインパクトがあったようです。

先週、岩手盛岡に2泊3日で行っておりましたが、その間に当ブログの閲覧数がまた跳ね上がりました。帰ってきてからアクセス状況の解析ページを調べてみると、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さん関連で、当ブログにたどり着かれた方がたくさんいらっしゃいました。

5月にも同じことがあり、その際には『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに書評が載った直後でした。そこで、また何かのメディアで取り上げられたのだろうと思い、そちらも調べてみました。

すると、まず7/12(13日未明)、NHKさんの「ラジオ深夜便」に末盛さんがご出演、「困難が私を導く」と題されてお話をされていました。

末盛千枝子さん「困難が私を導く」<7月12日(火)深夜放送>

末盛千枝子さんは、1986年に国際的な児童図書の展示会「ボローニャ国際児童図書展」でグランプリを受賞、その後、皇后・美智子さまの講演録やターシャ・テューダーの絵本を手がけるなど編集者として活躍してきました。しかしその陰では、夫の急死や経営していた出版社の閉鎖、移住した岩手で起きた東日本大震災など、さまざまな困難を乗り越えてきました。この「困難」こそ、自分の人生を導いてきた原動力だという末盛さんに、2回にわたってお話を伺いました。その1回目です。

こちらは2回に分けてのオンエアだそうで、2回目も近々放送されるでしょう。番組情報に気をつけていたいと思います。


それから、『週刊文春』さんでも取り上げられていました。

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文春さんというと、スキャンダルというイメージになりつつありますが、もちろんそういうわけではなく「新 家の履歴書」という連載で4ページにわたって末盛さんの紹介でした。

『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』についても触れられており、さらにその中で語られている光太郎との縁についても記述がありました。

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さかのぼって、7/10には、『産経新聞』さんにも書評が出ています 

【聞きたい。】末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 世の中の良い所を見続ける

005「私にとってはそんなに大変なことではなかった。読んだ方の反応に、逆にびっくりしています」と末盛千枝子さん。皇后さまの講演録『橋をかける』や、皇后さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』などを手掛けた絵本出版社「すえもりブックス」の元代表だ。自伝的エッセーである本書では『橋をかける』にまつわるエピソードや、詩人の高村光太郎との交流、家族の思い出が語られる。
 大学卒業後、絵本出版社に勤めたがキャリア志向はなく結婚退社。しかし、夫は8歳と6歳の息子を残して急死。生来の難病を抱える長男はスポーツでのケガで下半身不随に。脳出血で倒れた再婚相手の看護、出版社の経営難など、“激動と波乱の人生”だが、語り口は非常に静かだ。表題にある「受け容(い)れて」生きることの尊さが胸にしみる。
 「自分の大変さではなく、世の中の良い所を見続けることがとても大事」と話す。例えば、天気の良い秋の日、長男がいるリハビリ専門病院では、生涯忘れられない風景を見たという。「息子の入院仲間で金色の髪をしたお兄さんがね、光り輝くようなイチョウの木の下で、2、3歳の子供と奥さんと一緒にお弁当を広げていた。病院でのピクニックは、本当に美しくまるで聖家族のよう。大変な最中でも、こういうことに出合う幸せがある」
 会社をたたみ平成22年、長男らとともに父の故郷の岩手県に居を移した。翌年の東日本大震災後、被災した子供たちに絵を届ける活動を開始。懸命に本を求める保育園児の姿に感動した。「ある子は、流されてしまった自分の大好きな絵本を見つけ『あった!』と、その本を抱きしめた。本好きの仲間と出会うのが何よりうれしい」。そしてこう言葉を接いだ。「困難があったからこそ今がある。いろんなことをこれで良かったと思える」。ほほ笑む末盛さんがとてもまぶしかった。(新潮社・1600円+税) 村島有紀

【プロフィル】末盛千枝子
 すえもり・ちえこ 昭和16年、東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武。慶応大卒。63年「すえもりブックス」を設立。「3・11絵本プロジェクトいわて」代表。


『毎日新聞』さんと『読売新聞』さんでも取り上げて下さいましたし、NHKさんの、中江有里のブックレビュー・6月の3冊」でも紹介されています。

まだ読まれていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いさましき夏の遠海(とほうみ)雲きれぬををしく晴れよ今は汝(な)が世ぞ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は「海の日」だそうで。しかし関東はまだ梅雨明けせず、今一つ青い空、もくもく白くわきあがる入道雲、という感覚になりませんね……。

本日はテレビ放映系のネタをいくつか。

7/13(水)、岩手盛岡少年刑務所での第39回高村光太郎祭での講演を仰せつかり、市街内丸の北ホテルさんに宿泊しておりましたが、その朝、NHKさんの「連続テレビ小説 とと姉ちゃん」で、智恵子がその創刊号表紙絵を描いた『青鞜』に触れられました。

この番組で『青鞜』ネタになるのは都合3回目。最初は、高畑充希さん演じる主人公・小橋常子(モデルは『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子)や妹の鞠子(相良樹さん)、親友の中田綾(阿部純子さん)らが女学校時代、片桐はいりさん扮する東堂先生に『青鞜』の存在を教えられ、影響を受けたというエピソード。2回目は、戦後、没落した綾が常子と再会、苦しい時も『青鞜』を心の支えとして頑張ってきたと語るシーンでした。

そして3回目。

大橋鎭子と共に『暮しの手帖』を刊行した花森安治がモデルの花山伊左次(唐沢寿明さん)が、過去を語る場面。亡くなった花山の母がやはり『青鞜』を精神的支柱としており、そこから、花山は言葉で人の心を豊かにすることを考えて、編集者の道を歩み始めたと語られました。

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しかし、戦争が始まり、事態は一変。花山は言葉によって、ある意味、国民を死に追いやることに加担したと述べます。その反省から、ペンを置くことにしたのだ、とも。

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このあたり、光太郎を彷彿とさせられます。

光太郎も戦時中の翼賛活動を恥じ、悔い、花巻郊外太田村の粗末な山小屋に7年間蟄居しました。ただし、その間、光太郎が置いたのはペンではなく、彫刻刀。光太郎は自身で「私は何を措いても彫刻家である」と語っていましたので、その本業である彫刻を封印することで、自らを罰したわけです。

他から許されないうちは、自分でも自分を許さないと決めた光太郎でしたが、7年後に、青森県から十和田湖の国立公園指定15周年記念事業としてのモニュメント制作の話があり、自らの死期がそう遠くないことも考え、依頼を受けます。それが「乙女の像」として結実するわけです。

結局花山は、困窮する常子一家の現状を見、さらに荒廃した人心を再び豊かにすることを考え、常子に協力して再びペンを執ることを選ぶところで、先週の放映が終わりました。


今後も『青鞜』はこのドラマの一つのモチーフとして活かされ続けるようです。というか、平塚らいてうが登場します。

昨日の『スポーツニッポン』さんの記事。 

「とと姉ちゃん」平塚らいてう役に真野響子 最後の追加出演者発表、古田新太ら出演

 女優の高畑充希(24)がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(月~土曜前8・00)の最後の追加キャストが15日に発表され、作家の平塚らいてう役を女優の真野響子(64)が務めることが分かった。俳優の筧利夫(53)、上杉柊平(24)、古田新太(50)、野間口徹(42)、矢野聖人(24)、石丸幹二(50)、吉本実憂(19)も出演する。

 昭和初期から高度経済成長期を背景に、亡き父親に代わり、一家の大黒柱として母親と2人の妹を守る「とと(=父)姉ちゃん」こと小橋常子(高畑)が戦後の東京で女性向け雑誌を創刊する姿を描く。モデルは雑誌「暮しの手帖」を創刊した大橋鎭子(しずこ)。

 真野は高畑演じる常子が女学校時代、夢中になって読んだ雑誌「青鞜」創刊メンバーの中心人物、平塚らいてう役。常子の妹・鞠子(相楽樹)から雑誌「あなたの暮し」への寄稿をお願いされる。

 古田は雑誌「あなたの暮し」で自社製品の評価が低かったことに激怒する電化製品メーカーの社長役。朝ドラ初出演となる吉本は、鞠子の長女で常子の最初のめいとなる水田たまきを演じる。常子に性格が似ていて、のちに「あなたの暮し」出版に入社する。

 筧は水田正平(伊藤淳史)の父、上杉は宗吉(ピエール瀧)が経営する「キッチン森田屋」のコック、野間口は古田演じる電化製品メーカー社長のおいで会社の部下、石丸は新聞記者を演じる。

 制作統括の落合将氏は「日本が戦争の傷跡から立ち直り、豊かになっていく時代の中でも、常子と花山(唐沢寿明)の“庶民の暮らし”を守るためのスタンスは変わりません。追加の豪華キャストの方々と、この物語の最後で常子と花山がどんなドラマを繰り広げるか、最後まで見守っていただければと願います」とコメントした。


前作、「あさが来た」では、終盤、日の出女子大学校(日本女子大学校)時代の小生意気ならいてうを、元AKB48の大島優子さんが演じていました。

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戦後になって成長した(笑)らいてうを、真野響子さんが演じるとのこと。レギュラー出演者ではないにせよ、朝ドラ2作続けて同一人物が描かれるというのは、例がないのではないでしょうか。楽しみです。


さて、テレビ放映系のネタということで、もう1件。明日のオンエアです。 

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2016年7月18日(月)  19時30分~20時00分

福島県の安達太良山は、ダイナミックな噴火口を持つ火山の荒々しい素顔と山麓に広がる新緑の森が対をなし、変化に富んだ景観で登山者を魅了する。今回は1泊2日の山旅だ。

安達太良山は、磐梯山と並んで福島を代表する名峰だ。ダイナミックな噴火口を持つ火山の荒々しさと山麓に広がるたおやかな樹林帯が対をなし、変化に富んだ景観が登山者を魅了する。今回は山の東側、塩沢登山口から1泊2日のコース。1日目は、初夏にふさわしい爽快感を味わえる新緑の森と渓谷沿いを進む。宿泊は「くろがね小屋」。2日目は、荒々しい岩石が連なる尾根を進み、大迫力の巨大噴火口跡の沼ノ平から絶景の山頂に。

出演 佐藤哲朗    語り 鈴木麻里子   テーマ曲「空になる」さだまさし

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この番組では、昨年にも安達太良山が取り上げられ、その再放送が今年3月にありました。再々放送かな、と思ったら、新作のようです。

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昨年のオンエアでは光太郎の「あどけない話」が取り上げられましたが、今回はどうなることか。ちょっとでもいいので触れて欲しいものです。


また、来週には十和田湖をメインで取り上げる番組もありますが、またのちほどご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
明治39年(1906) 光太郎24歳

かなり前にご紹介しましたが、明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。「海を見て」となっているバージョンも存在します。

岩手レポートの3回目です。他にもいろいろ書くことが山積みですので、一気に行きます。

7/13(水)、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭のあと、花巻高村光太郎記念館スタッフの方お二人と合流、盛岡市内の加藤千晴氏のお宅にお邪魔いたしました。

加藤氏は今年5月15日、第59回花巻高村祭の記念講演で講師を務められました。氏のお母様の加藤照さんが光太郎の従妹(いとこ)、おばあさまの故・中山ふゆさんが光太郎の叔母という方です。ただ、ふゆさんは叔母といっても光太郎と年令が近く(光太郎の6歳上)、光太郎と「ふーちゃん」「みっちゃん」と呼び合う仲だったそうです(光太郎の本名は「みつたろう」です)。戦前にご夫婦で樺太に渡り、豪商として鳴らしたものの、敗戦で状況が一変、戦後になって内地に引きあげ、お嬢さんの照さんの嫁ぎ先の盛岡に住まわれることになったとのこと。

ふゆさんは昭和35年(1960)に亡くなったそうですが、その息女で光太郎の従妹(いとこ)にあたる照さんは、今年ちょうど100歳。少々お耳が遠くなられているものの、お元気で、貴重なお話をうかがうことができました。

また、加藤家に遺る光太郎関連の品々を拝見しました。光太郎やその家族が写っている古写真、光太郎から照さんへの書簡、光太郎の姉で、16歳で夭折した咲が絵を描いた扇子などなど。咲は日本画を狩野派に学び、将来を嘱望されていました。

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千晴氏は、そうした加藤家と高村家の歴史についての手記を執筆され、花巻高村光太郎記念会として出版する予定とのことです。それ以外にも花巻ではいろいろと出版物を刊行する計画があって、当方も関わらせていただくことになり、今回の加藤家訪問につながりました。


その後、千晴氏のご案内で、ご自宅からほど近い、岩山という山へ。こちらは盛岡市街を一望できるスポットでした。

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岩手山や姫神山もよく見えました。

また、こちらにも啄木の歌碑、さらに啄木の銅像も立っていました。
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で加藤氏とは分かれ、花巻高村光太郎記念館スタッフの方に送られて、北ホテルさんに戻りました。

翌日(7/14)、盛岡をあとに、再び花巻へ。この日はそれまでの2日間とは一転、雨でした。

在来線の花巻駅から岩手県交通さんの路線バスに乗り、花巻高村光太郎記念館さんへ。出版関係の打ち合わせは、前日に済んでいましたが、翌日(7/15)から開催の企画展、「智恵子の紙絵」の関連で、寄らせていただきました。

当初は午後2時半からの報道陣向け内覧に出る予定でしたが、早く帰宅せねばならない事情が出来、内覧はパスしました。しかし、職権濫用(笑)で、企画展示室を一足早く拝見させていただきました。


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紙絵の現物は、高村家から20点ほどお借りし、1~2点ずつ展示。元々、記念館で持っている2点の現物と合わせて、3点前後が常に展示されるそうです。上記画像で、中央のガラスケースに入っているのがそれです(周囲の壁に掛けてあるのは複製です)。一日展示すれば、それだけ褪色するという本当にあえかな作品なので、1点の展示期間は短くし、どんどん入れ替えるとのこと。昨日から始まりましたが、最初はチラシにも使われた、こちらの作品が出ています。

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金と銀の部分は、チョコレート系の包み紙ですね。おそらくゼームス坂病院に光太郎が届けた見舞いの品でしょう。

複製の方は、企画展示室に20点ほど、それから普段、常設展示を行っている第二展示室にもパーテーションパネルを出し、さらに20点ほどを展示しています。

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昨日の報道から。 

「智恵子の紙絵」展示/花巻・高村光太郎記念館 原画含む30点 一堂に

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、15日から企画展「智恵子の紙絵」が開かれる。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻智恵子は晩年、作業療法として身の周りにあった色紙や包装紙を切り抜き、台紙に貼り付ける「切り抜き絵」を制作した。光太郎が「紙絵」と名付けた作品が紹介される。
 智恵子は結婚後、自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散により心の病に侵され、睡眠薬で自殺を図った。一命を取り留めたものの、長い療養生活を送り、1938年に入院先の病院で53歳の生涯を終えた。智恵子は療養中に光太郎に見せるために「切り抜き絵」の制作に取り組んだ。光太郎は岩手と山形、茨城へ紙絵を疎開させて戦争の難から守った。
 智恵子は、花や魚、野菜など身近にモチーフを求め、さまざまな紙をマニュキアばさみで切り抜いて紙絵を制作。独特の色彩感覚による表現方法で、紙の質感を生かした繊細な作品が多い。
 智恵子の紙絵を所有し、今回の企画展に協力している、光太郎の弟の孫高村達さん(48)=東京都=は「デザインを意識したシンメトリーな作品も多い。オリジナルが展示されるのは3年ぶり。これだけの作品が一堂に見られるのは貴重な機会」と話している。
 光太郎没後60年、智恵子生誕130年にちなんだ企画展。展示作品はオリジナルと複製を合わせて約30点。オリジナルは計23点で、期間中に随時入れ替えて紹介される。
 同展は11月23日まで。入場料は、一般550円、高校生・学生400円、小・中学生300円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。
(『岩手日日』) 

智恵子の紙絵 色とりどりに

花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から「智恵子の紙絵」展が始まる。光太郎の妻智恵子が療養中に身近にあった色紙や包装紙などを切り抜いて台紙に貼り付けた作品のオリジナルと複製品を展示。同館は「繊細な表現と色彩感覚を見てほしい」としている。
 今年、智恵子の生誕130年、光太郎の没後60年となるのをログイン前の続き記念して開催する。智恵子が1938年10月に亡くなるまで1千点以上を制作した。光太郎は「紙絵」と名付け、戦時中も花巻など地方に疎開させて大切に保管した。光太郎は作品について「智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知であり、生活記録であり、此(こ)の世への愛の表明である」と記している。
 14日に内覧会があり、光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達さん(48)は「オリジナルを展示する機会はあまりない。身近に感じてほしい」と話した。
 11月23日まで。同館と高村山荘の入場料は一般550円など。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。(石井力)
(『朝日新聞』)


ところで、関連行事、というわけではないのですが、ロビーコンサート的な催しが開かれます

期  日 : 2016年7月29日(金)
会  場 : 花巻高村光太郎記念館 第一展示室
時  間 : 13:00~ 40分間ほど
料  金 : 無料
出  演 : 大西ようこ(テルミン)  荒井真澄(朗読)


仕掛人の一人が当方のような部分がありまして……。

まずテルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

その大西さん、7/31(日)に、岩手の大槌町でコンサートをなさるそうで、その前に花巻に泊まって高村光太郎記念館・高村山荘に寄りたい、とおっしゃるので、鉛温泉さんをご紹介しました。すると、どうせなら演奏したい、というお話になり、大西さんと、毎年連翹忌や、智恵子の故郷・二本松でのレモン忌にご参加いただいている花巻高村光太郎記念会の浅沼隆氏とで話がまとまったそうです。

また、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんが巻き込まれました(笑)。荒井さんも「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹忌で、大西さんと意気投合されたとのこと。

こうした試みは記念館がリニューアルされてから初めてで、どうなることやらというところですが、ぜひ足をお運びください。


話がそれましたが、以上、2泊3日の岩手レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ

明治39年(1906) 光太郎24歳

もうすぐ「海の日」ですので、今日から海がらみの作品をいくつかご紹介します。

この年、3年半に及ぶ欧米留学のため、横浜港からバンクーバーに向けて出港したカナダ太平洋汽船のアセニアン号の船中で詠んだ歌です。

岩手レポートの2回目です。

7/12(火)、花巻宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を拝観した後、盛岡へ。2泊お世話になる内丸の北ホテルさんに入りました。

こちらはかつて菊屋旅館さんといい、光太郎が盛岡で定宿としていたところです。昭和25年(1950)1月18日には、こちらで「豚の頭を食う会」なる催しがありました。「豚の頭」は大げさな表現で、光太郎を囲んでの中華料理をメインにした食事会でした。

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窓からは、同27年(1952)5月3日に光太郎が講演を行った岩手県公会堂がすぐ近くに見えました。こちらではフランス楽団のコンサートを聴いたりもしています。

この日は外で夕食、早めに休みました。というか、いつもですが旅先ではすぐに寝てしまいます。

翌朝、早めに起きて周囲を散歩。

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先述の岩手県公会堂をはじめ、盛岡には当方の大好きなレトロ建築がたくさん遺っており、嬉しくなりました。

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また、そうと知らずにちょっと歩いただけで、光太郎と縁のある人々ゆかりのものがいろいろあって、驚きました。
上は岩手県公会堂前の原敬像。作者は光太郎の父・光雲の高弟である本山白雲です。土佐桂浜にたつ有名な坂本龍馬像の作者でもあります。

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新渡戸稲造像。こちらは光太郎と交流の深かった高田博厚の作。中津川沿いの与の字橋近くにありました。

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何度か訪れた深沢紅子野の花美術館。まだ開館前でしたので入れませんでしたが、昨年、子息の竜一氏の元を渡辺えりさんと共に訪れ、お話を伺ったこともあり、感慨ひとしおでした。

不来方城址では、地元の柔道家の瀬川正三郎像と、裸婦像。深沢を含め、それぞれ岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、同校のアドバイザー的な立場だった光太郎と交流のあった、舟越保武、堀江赳の作品です。

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南部利祥騎馬像の台座。像そのものは戦時の金属供出で無くなりました。南部の身体部分は光雲・光太郎親子と縁のあった新海竹太郎の作、馬は光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠正成像の馬、同じく上野の西郷隆盛像の犬を作った後藤貞行の作だったとのこと。

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あまりに有名な石川啄木歌碑。啄木も与謝野鉄幹の新詩社や、その後の『スバル』を通じ、光太郎と面識がありました。

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宿に戻って朝食後、盛岡少年刑務所さんからお迎え。そもそも今回の岩手行きは、同所での第39回高村光太郎祭への参加です。

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こちらでは、昭和25年(1950)1月14日(「豚の頭を食う会」の4日前です)、光太郎が五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月に、高村光太郎祭が開催されています。ただ、少年刑務所自体が光太郎が訪れた頃とは違う場所に移転しているということで、その点は少し残念でした。

入所者による光太郎詩の群読、更生にかける思いを綴った作文の発表などにまじって、講演がプログラムに入っており、今回、当方が講演をさせていただきました。

この講師は、毎年5月15日に行われている花巻高村祭の記念講演で講師を務めると、翌年の盛岡少年刑務所さんでの講師を依頼されるというシステム?になっているようで、一昨年には渡辺えりさん、昨年は先述の舟越保武の息女・末盛千枝子さんが務められました。そんなわけで、末盛さんの近著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘― 』に、昨年の様子が触れられています。

さて、今年の第39回高村光太郎祭。会場は講堂という建物です。向かって右半分に200名ほどの入所者、左半分は主に地元の招待者(花巻高村光太郎記念館の方々もいらしていました)、総勢数百人と、かなりの人数です。

開会のあと、愛唱歌斉唱。光太郎がこちらに遺した「心はいつでもあたらしく」という句をそのまま題名にした歌で、これが毎日朝夕、館内放送で流されているということです。

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その後、光太郎遺影への献花、所長さんの式辞、来賓の皆さんの祝辞に続き、入所者の皆さんによる詩の朗読。ちなみに少年刑務所といいつつ、入所者のほとんどは成人、全員男子です。彼等が普段働いている所内の工場単位で数十名ずつの群読でした。「新緑の頃」「生けるもの」「あどけない話」「十和田湖畔の裸像に与ふ」「孤独で何が珍らしい」。気合いの入ったいい群読でした。光太郎詩の精神が、少しでも彼等の心の琴線に触れているとすれば、泉下の光太郎も満足でしょう。

続いて、作品発表ということで、更生にかける思いを綴った作文を、2名の入所者が朗読しました。こちらも立派な発表でした。

そして、当方の講演。45分ほどで、パワーポイントを使いながら、光太郎の生涯をざっと語りました。やはり刑務所ということで、順風満帆な生涯ではなく、何度もつまづいて転びながらも、そのたびにそれまでを反省して立ち上がり、「心はいつでもあたらしく」と、道を追い続けた点を強調しました。入所者の皆さんには直接感想を聞けませんでしたが、来賓の方々や、花巻高村光太郎記念館皆さんからは好評でした(お世辞半分でしょうが(笑))。

昨日の『岩手日報』さんに記事が出ましたので、載せておきます。

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閉会後、所内の見学。15年ほど前に、「心はいつでもあたらしく」の石碑は見せていただいたことがあったのですが、それ以外の場所は初めてでした。岩手らしく、南部鉄器の加工を行う工場などなど。どの作業場にも「心はいつでもあたらしく」の語が掲げてあり、光太郎の精神を生かそうと考えられている点、感動しました。

その後、昼食を頂いて、少年刑務所さんでの用件は終わりました。長くなりましたので、午後からについてはまた明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

風鈴やここ料亭の四畳半    大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃 

「料亭」は浅草駒形橋付近のようです。

盛岡北ホテルさん、光太郎が泊まった頃とは異なり、近代的なビジネスホテルになってしまっていましたが、四畳半くらいの部屋のベッドで寝ころびつつ、この句を思い起こしました。

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2泊3日の行程を終え、岩手から千葉に帰って参りましたので、レポートです。まずは一昨日、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」。午後2時過ぎ、東北新幹線新花巻駅に着き、コインロッカーに荷物を放り込み、歩くこと20分ほど。同じエリアの宮沢賢治記念館さん、花巻市立博物館さんともども、何度か訪れた場所でした。

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これには驚きました。

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さて、館内へ。展示スペースはあまり広くなく、こぢんまりした展示でしたが、内容の濃いものでした。

黄瀛は中国人の父と日本人の母を持ち、日本で青少年期を過ごした詩人です。光太郎の知遇を得、草野心平を光太郎に紹介する橋渡しを務めたり、ここ花巻で晩年の宮沢賢治に会ったりしたこともあります。戦中戦後は日中戦争や国共内戦、さらに文化大革命の嵐に翻弄され、長い獄中生活を送ったりもしましたが、晩年は名誉回復、日中の文学的交流の架け橋となりました。

黄瀛をメインにした企画展というのは、おそらくこれが初めてなのではないかと思われます。黄瀛の人となり、文学的功績などに関わる様々な展示がなされ、光太郎が序文を書いた黄瀛詩集『瑞枝』や、光太郎作の黄瀛像を表紙に使った雑誌『歴程』など、興味深く拝見しました。

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また、賢治と黄瀛の作品が、同じ雑誌に並んで掲載されているというケースが何度かあり、お互い影響しあっていたような点も見られ、ほう、と思いました。

何より、解説パネルが充実しており、感心いたしました。また、拝観後に購入した図録に、そのパネルの文章がそのまま使われていて、これは貴重な資料になります。モノクロ印刷と云うこともあって、たった300円。これは非常に得をした気分です。

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これを機に、もっともっと黄瀛について、世に知られるようになって行ってほしいものです。

上記画像の通り、10月15日(金)までと、長い開催期間になっています。ぜひ足をお運びください。


その後、また歩いて新花巻駅へ。ちょうど釜石線の快速はまゆり号盛岡行きがあり、新幹線を使うより安く済みました。盛岡についてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

おのづから雲こごりきて夏の夜(よ)の明神嶽の尾根をはなれず

                                                                                  
制作年不詳

やはり草枕の覊旅歌。「明神嶽」は信州上高地付近に聳える山ですので、智恵子と共に上高地を訪れた大正2年(1913)頃の作かも知れません。

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昨日から岩手県の県都盛岡に来ています。

宿泊は北ホテルさんというところで、戦後に光太郎が来盛した際に常宿にしていた菊屋旅館さんの後身です。

メインの目的は、今日、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭。当方が講演を仰せつかり、先程、つつがなく終えました。

明日は帰りますが、花巻で途中下車、高村光太郎記念館さんに立ち寄ります。明後日から開催される企画展「智恵子の紙絵」の報道向け内覧会がありますので、そちらに顔を出して参ります。

その他色々と用事を済ませて参りました。詳細は帰ってからレポート致します。


【折々の歌と句・光太郎】

はかなかる旅の行方は明日もあり思ふは今よ風草に吹け

                                                       明治34年(1904) 光太郎19歳


草枕の歌。盛岡はさすが東北、晴れていますが風が爽やかです。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌『トンボ』の第2号が届きました。


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PR誌、というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な感じなのかも知れません。

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M06uGl0g目次の最後、「詩歌三評 野沢一詩集 木葉童子詩経」で、光太郎に触れられています。
野沢一(はじめ)は、1904(明治37)年、山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。ちなみに光太郎からの返信2通は、一昨日訪れた山梨県立文学館さんに所蔵されています。

昭和9年(1934)、野沢は丸太小屋生活の中での詩篇をまとめ、『木葉童子詩経』として自費出版、昭和51年(1976)と、平成17年(2005)に、文治堂書店さんから再刊されました。

今回、『トンボ』に載ったのは、この再刊本を元にした三氏の野沢評。目次には詳細が記されていませんが、酒井力氏の「『木葉童子詩経』をよむ」、曽我貢誠氏で「森と水と未来を見つめた詩人」、古屋久昭氏による「自然と対話し愛した詩人」。それぞれ、光太郎との沢の交流について触れて下さっています。

そのうちの曽我氏から、『トンボ』が送られてきました。多謝。
曽我氏と古屋氏、それから野沢の子息の野沢俊之氏は、連翹忌にご参加いただいております。

さらに、平成25年(2013)、坂脇秀司氏解説で刊行された『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』に関する記述も。坂脇氏も連翹忌にご参加いただいたことがありました。


こうした光太郎と縁のあった文学者と光太郎のつながりに関しても、まだまだいろいろ知られていない事実等がたくさんあることと思われます。それぞれの研究者の方々との連携を図りたいものです。

そうした光太郎と縁のあった文学者の一人、詩人の黄瀛をメインにした、宮沢賢治イーハトーブ館さんの「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を、今日、拝見します。

 今日から2泊3日で、花巻経由の盛岡行きです。今日は花巻に寄って黄瀛展を拝見し、盛岡に。明日は盛岡少年刑務所さんで行われる第39回高村光太郎祭に出席し、講演をして参ります。一般には非公開のイベントですので、ブログではご紹介しませんでしたが、帰ってきましたらレポートいたします。明後日はまた花巻で途中下車、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄ろうと考えております。


【折々の歌と句・光太郎】

きらきらと焼野に長き線路かな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。季節的には3月中頃と考えられ、「焼野」は冬枯れた野原という意味なのでしょうが、ゆらゆらと陽炎の立つ焼け付くような野原、と捉えてもいいように思われます。

盛岡、花巻となると、自家用車での移動ではきついので、長い線路の旅になります。この句をしのびつつ、行って参ります。

昨日は、甲府市の山梨県立文学館さんに行っておりました。


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まずは同館にて先週末から開催中の「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」を拝見。

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大正のはじめ、賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間だった、山梨出身の保阪嘉内との交流に的を絞った展示でした。

比較的長命だった光太郎と異なり、戦前に数え38歳で歿した賢治ですので、遺っている書簡は多くありません。そうした中で、今回の展示では保阪に宛てた73通もの賢治書簡が展示されていました。俗な話になりますが、まず最初に、市場価格に換算したらどうなるのだろう、と思ってしまいました。一昨日、明治古典会さんの七夕古書第入札市一般下見展観を見ていたせいもあるでしょう。

しかし、賢治独特の丸っこい文字を読み進むにつれ、だんだん二人の交流の深さに引き込まれていきました。賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されています。

さらに、常設展的な展示も拝見。現在は賢治同様、光太郎と縁の深かった与謝野晶子をはじめ、山梨出身だったり、山梨との縁が深かったりした文学者に関しての展示でした。

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こちらも充実した展示で、興味深く拝見しました。

展示を見終わり、午後1時30分から、特設展の関連行事である講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」。講師は渡辺えりさんです。


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えりさんは、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られ、そこに保阪嘉内も登場。その戯曲の制作のため、保阪家の皆さんとのご交流がおありだということで、今回の講演が実現しました。

さらにいうなら、そもそもえりさんも、山梨県立文学館のスタッフの皆さんも、当会主催の連翹忌にご参加下さっており、そのご縁もあるかと存じます。また、先月、盛岡で行われた啄木祭での、えりさんのご講演は欠礼しましたので、これは行かねば、というところもありました。

当方、えりさんのご講演拝聴は三度目でしたが、いつもながらに巧みな話術にひきこまれました。お話は、賢治や嘉内の人となり、保阪家の方々との交流などはもちろん、生前の光太郎を知るお父様・渡辺正治氏との関わりから、光太郎にもかなりの時間を割いて下さいました。お父様は賢治の精神にも強く惹かれていたということもあり、光太郎からお父様への書簡(花巻高村光太郎記念館にご寄贈下さいました)には「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます」との一節があったりもします。

さらに、お父様が戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場にお勤めだった頃、空襲で亡くなったご同僚のリーダーが山梨の方で、最近になってお父様とその墓参が実現したお話などもありました。

終演後のえりさん。サイン会の合間にお話をさせていただきました。

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さて、「特設展  宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」は来月末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

飄々と富士の御霊(ミタマ)を訪ひ行けば白雲(ハクウン)満た我にしたがふ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「満た」は「あまた」と読みます。この歌が詠まれたと推定される明治32年(1899)、光太郎は祖父の兼松とともに富士登山を果たしています。

昨日、帰りがけには雄大な姿が拝めました。

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当方、甲府に4年近く住んでいました(今回初めて知りましたが、保阪嘉内は高校の先輩でした)が、最近、甲府に行くたび、甲府から見える富士山はこんなにも大きかったっけ、という感覚です。

昨日は都内に出て、2箇所を廻っておりました。

まずは文京区春日の講道館。柔道の聖地です。

息子が柔道をやっており、その息子が出場する大会が昨日と今日、行われています(今日は講道館ではなく別の会場ですが)。こちらは年に一回、全国持ち回りで行われているもので、一昨年は京都、昨年は仙台でした。さすがに千葉からそこまで観に行くほど親バカではありません。しかし、今年は東京、さらに昨日の会場が講道館ということで、観に行きました(また、後述しますが、歩いて行ける範囲にある東京古書会館での「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観もありましたので)。

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なぜ講道館にこだわるかというと、当方も講道館柔道初段を持っているということもありますが、やはり光太郎がらみです。意外といえば意外ですが、光太郎と講道館には関係があります。下記画像をご覧下さい。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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講道館柔道の祖・嘉納治五郎師範の肖002像レリーフです。この作者が光太郎なのです。昭和9年(1934)、父・光雲の代作として制作されました。

これが講道館の2階にある柔道資料館に展示されているはずですので、見てこようと思った次第です。

作品自体はブロンズですので、同一の型から取ったものが多数存在し、これまでに開催された光太郎がらみの企画展にもよく出品されていて、何度も見ています。しかし、やはり柔道の聖地・講道館に所蔵のものとなると、ある意味、別格のような気がします。

ところが、柔道資料館、土・日・祝日は休館でした。残念。

息子の試合は、一試合だけ見ました。講道館柔道を母体とする通常の国際ルールの試合ではなく、「高専柔道」という、特殊な柔道です。

試合は団体戦のみで、7チームが参加。15人対15人というすさまじい人数での闘いです。ちなみに試合時間は8分、凄い長さです(オリンピックは5分)。さらに先鋒対先鋒、次鋒対次鋒という「点取り方式」ではなく、勝った選手は相手チームの次の選手と続けて試合をするという「勝ち抜き戦」です。したがって、理論上1人で相手チーム15人を全員抜くことも可能なわけです(実際にはあり得ませんが)。

息子のチームは一昨年は準優勝、昨年は優勝しました。今年もその調子で、と思っていたのですが、何と一回戦敗北(涙)。息子は引き分けでした。勝てる相手だったのですが、相手は最初から引き分け狙い。国際ルールと異なり、消極的だという意味での「指導」がほとんど与えられませんので、引き分け狙いが可能です。息子も引き分け狙いの相手を強引に仕留めるだけの実力はなく、情けない試合でした。しかし、8分間、相手の猛攻を凌ぐというのも、それはそれで大変なことですし、高専柔道の場合にはそうした「分け役」という役どころが存在し、相手はきっちりその役を果たした、ということですね。相手を褒めましょう。

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その一回戦だけ見て、次なる目的地、神田の東京古書会館さんに移動したのですが、その後、息子のチームは敗者復活戦に廻って、そちらは勝利。今度は息子は1勝1分けだったそうで、多少は貢献できたようです。敗者復活に廻っても、その後勝ち上がれば優勝できるという変則的なルールですので、まだどうなるかわかりません。

続きは会場を移して今日行われますが、今日は当方、山梨県立文学館さんに、渡辺えりさんの講演を聴きに行って参ります。試合結果はネット上の速報で見ます。


さて、神田の東京古書会館さんでの「七夕005古書大入札会」一般下見展観。年に一度の古書業界最大の市です。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆もの等も含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

昨年は光太郎がらみの品にめぼしいものがなかったので行きませんでしたが、今年は「これは」と思うものが多く、観に行った次第です。

たまたま光太郎がらみの品の並ぶ一角に、いつも目録を送って下さり、当会顧問の北川太一先生とも関係の深い、本郷の森井書店さんが若い店員さんを連れていらっしゃっていて、一緒に拝見させていただきました。

明治44年(1911)、画家の山下新太郎に宛てた長い書簡が一番の目的でした。こちらは『高村光太郎全集』未収録で、公開されている画像は部分的にしか写って居らず、どんな内容なのか、是非読んでみたかったものです。

毛筆の崩し字で、ところどころ判読に苦労しましたが、三人寄れば文殊の知恵、ほぼ読めました。といってもほとんど森井さんが読んで下さったので、大感謝です。

最低落札価格の設定額が低かった書の二点は、予想通り保存状態が良くないものでした。筆跡的にはいいものなのですが……。その他、草稿や書簡、識語署名入りの著書など、光太郎の息吹が感じられる品々を手に取ることができ、こうした場合のいつもながらに、感激でした。

残念だったのは、最も驚いた出品物、昭和19年(1944)の詩集『記録』の草稿のみ、ガラスケースに入れられていて、手に取れなかったことでした。こちらの最低落札価格は100万円。他の作家の品も、このレベル以上のものはガラスケース入りの「特別陳列」でした。

色々な出品物、他の作家のものも含め、納まるべきところに納まってほしいものです。


さて、今日は先述の通り、山梨行きです。来週は盛岡(花巻にも寄るつもりです)、月末にまた花巻、来月前半は信州安曇野、三陸女川と、しばらく出張が続きます。風来坊(死語?)の本領発揮です(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

見ずやこれ富士は何山(なにやま)足柄の野より二尺は高しともこそ

明治34年(1901) 光太郎19歳

山梨といえば、富士山。当方、中高生の頃、4年近く甲府に住んでおりましたので、毎日のように雄大な富士山を見ていました。ある意味、人生観が変わりましたね。

ただ、短歌は足柄ですから、太平洋側のいわゆる「表富士」。しかし、山梨県民は山梨県側から見る富士山こそが「表富士」だ、と言い張ります。一昨年のNHKさんの「花子とアン」でも、主人公・村岡花子の祖父(石橋蓮司さん)のセリフにそれがありました。

注文して置いた書籍が届きました。 
2016年7月20日 北野麦酒著 彩流社 定価1,800円+税

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北海道・札幌にある親会社(ビスケットの坂栄養食品)との軋轢から存続の危機に直面している「レトロスペース・坂会館」。

本社と苦闘する坂館長と対峙した渾身のドキュメントを緊急出版します!

札幌市内の私設博物館「レトロスペース・坂会館」。 坂一敬館長は自己の好みを基準として昭和のモノをこれでもかと蒐集し、特異でかつレトロな空間を具現化。いままさに当館が直面する存亡の危機に「命を賭してココを守る!」と意気軒昂だ。

前作の『蒐める!』(彩流社刊)以上のエネルギーで坂館長がこれまでの人生を語り尽くした秘話満載。

「智恵子抄」の高村智恵子のヌード写真、レトロスペースから無くなったマネキンたち、これまで出会った有名・無名の人たち、そして館長をめぐる女性たち、 夢にまで見た幻の1冊。なぜ坂館長はこれほどのモノを蒐めたのか。 運営存続への支援の輪がいま、全国で展開中である!


「レトロスペース・坂会館」さんは、札幌にある、膨大な数のレトログッズを展示している私設博物館のような施設だそうです。花巻南温泉峡にある「昭和の学校」さんと似た雰囲気のようですが、そこに「秘宝館」的なアヤシい要素がかなり加わっているようで、あちこちのサイトなどで「珍スポット」的な紹介もされています。

書籍の方は、全8章から成り、そのうちの第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。ただし、それぞれ智恵子に触れている部分は少しずつで、大半は別件の記述です。

「智恵子のヌード写真」……いったいどういうことかというと、光太郎との結婚前に智恵子が通っていた太平洋画会美術研究所に関わっています。

坂会館さんの館長・坂一敬氏が、その作品に惚れ込み、親交を結んでいた画家の故・宮田清氏という方がいらっしゃいました。あまり有名な画家ではなかったようで、ネット上に載っている情報も多くはありませんが、裸婦画を得意としていたようです。明治22年(1889)、札幌の生まれ。明治末、太平洋画会美術研究所で、智恵子と共に学んだとのこと。明治19年(1886)生まれの智恵子の3歳年下になります。昭和61年(1986)ころ亡くなったとのことです。

その宮田氏が、晩年に坂氏に、「薪ストーブで焼いてくれ」と、段ボール二箱半のヌード写真を渡したそうです(宮田家には薪ストーブがなかったとのこと)。おそらく今で云う「終活」の一環だったのでしょう。裸婦画を描くために撮ったヌード写真、生きているうちに処分してしまいたかったというわけです。宮田氏はフィルムの現像や印画紙への焼き付けも自分で行う技術、機材を持っていたそうです。

その中に、「下宿の畳の上で撮ったもののよう」な智恵子のヌード写真が数枚あったというのです。坂氏、それ以前に智恵子と宮田氏のつながりを聞いていたし、通常の智恵子の写真も見たことがあったようで、すぐに智恵子だと分かったとのこと。

智恵子と宮田氏のつながり、というのはこうです。明治末、宮田氏と、それから仲の良かったやはり太平洋画会美術研究所に学んでいた彫刻家の中原悌二郎の二人が、揃って性病に感染、その治療費を捻出するために春画を描いて売りさばくことを考え、そのモデルを智恵子に依頼したというのです。有り得ない話ではありません。

ところが、写真は現存しません。坂氏、それら数枚に写っているのが智恵子とわかり、それらだけ抜いておこうかとも考えたそうですが、坂氏を信頼して処分を委託した宮田氏の心情を慮り、そのまま火にくべたそうです。

もしそれが残っていて、間違いなく智恵子のヌード写真であれば、とんでもない資料です。しかし、他の写真も含めて、脱いでくれた女性たちと宮田氏の間の信義、処分を託された坂氏と宮田氏の間の信義、そういったことを考えると、残っていてはいけない写真でしょう。

そういうわけで、真偽の程は明らかではありませんが、永遠の謎やロマン的なエピソードとして扱いたいと思います。

ちなみに「レトロスペース・坂会館」さん、現在、存続の危機に立たされているそうで、それを救うため、坂氏と親交のある北野氏が本書を執筆したとのこと。北野氏には同趣旨の『蒐める! レトロスペース・坂会館』というご著書もあり、今回のものと同じ彩流社さんから上梓されています。

場所は札幌市西区の手稲通り沿いだそうです。ご興味のある方は是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか
昭和22年(1947) 光太郎65歳

作歌の背景は、この年札幌青磁社から刊行された『道程』復元版にかかわります。晩年を迎え、若き日の詩群を読み返しての感想です。

当方、今日は神田の東京古書会館さんで、「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観を拝見して参ります。光太郎若き日の書簡なども手に取って見ることが出来ます。光太郎自身が見れば、やはりこの歌と同じような感想を抱くのではないでしょうか。

また、のちの智恵子が若き日の自分のヌード写真を見たとしたら……などと想像が膨らみます。

直接的には光太郎には関わりませんが、光太郎が多大な影響を受けた、ロダンの企画展。北海道札幌での開催です。 

開館35周年記念 ロダン展

会 場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
会 期 : 2016年7月9日(土)~9月25日(日) 
休 館 : 月曜日 
      7/18(月・祝)9/19(月・祝)は開館し7/19(火)9/20(火)は休館
時 間 : 10:00~17:00(入館は16:30まで) 7月17日(日) 8月27日(土)は19:30まで
料 金 : 一般 1,000(800)円、65歳以上 800(640)円 高大生 600(540)円 中学生以下無料

本郷新記念札幌彫刻美術館は今年で開館35周年を迎えます。
これを記念し、フランスの彫刻家・オーギュスト・ロダン(1840-1917)の展覧会を開催します。
パリで生まれたロダンは、ほとんど独学によって彫刻家として大成し、身体の生命感を彫刻の本質と捉えた独自の表現により、「近代彫刻の父」と称賛されました。
札幌生まれで戦後日本の具象彫刻を牽引した彫刻家・本郷新(1905-1980)は、師・高村光太郎の著作『ロダンの言葉』や、ロダンの実作を通して、この巨匠に多くを学んでいます。
本展は、日本近代の彫刻家たちに多大なる影響を与え、彫刻家・本郷新の源流ともなったロダン芸術の魅力を広く伝えようとするものです。
代表作《地獄の門》の関連作をはじめとする、国内美術館所蔵のロダンの彫刻作品22品を中心に構成します。

〔出品作品〕
 《考える人》 1880年 (静岡県立美術館蔵)
 《カレーの市民》 第一試作 1884年 (静岡県立美術館蔵)
 《パオロとフランチェスカ》 1887-89年頃 (静岡県立美術館蔵)
 《眠れる女(裸婦)》 1887年 (札幌芸術の森美術館蔵)
 《フロックコートを着たバルザック》 1891-92年 (札幌芸術の森美術館蔵)
 《ジャン・デールの裸体習作》 1868-89年頃 (中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館蔵)
 《衣をまとったバルザック》 1897年 (北海道立函館美術館蔵)
  ほか

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関連行事

ロダンナイト
開館35周年を祝い、開館時間を延長、無料で観覧いただけます。イベントも開催
日 時:7月17日(日)17:00~19:30

ギャラリートーク
日 時:7月23日(土)、8月6日(土)、9月10日(土) 各回14:00~14:40
※申込不要、要展覧会観覧料

ロダンにタッチ!
一部の出品作品にさわって鑑賞いただけます。手でロダン彫刻を味わう特別なひとときをお楽しみください。
日 時:会期中の毎週土曜10:00~11:00

ミュージアムコンサート
日 時:8月27日(土)17:00~18:00

会 場:札幌彫刻美術館 本館


館の名前になっている本郷新は、舟越保武、佐藤忠良らとともに、光太郎に影響を受けた彫刻家です。光太郎没後の10年間限定で行われた「高村光太郎賞」の選考委員に名を連ねました。

同館は「記念館」と「本館」から成り、ロダン展は「本館」、「記念館」は本郷のアトリエをそのまま使い、本郷の作品などの常設展示が為されています。

併せてご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ゆるぎなく水面(みのも)の影のこむらさき緑さすよと見れば消えたり

明治34年(1901) 光太郎19歳

「こむらさき」は美しい紫色の羽を持つ蝶です。一回り大きいオオムラサキは日本の国蝶ということになっています。

現在、NHKさんで放映中の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。5月の「第7週  常子、ビジネスに挑戦する」では『青鞜』がらみのエピソードがありました。その際には、高畠充希さん演じる主人公・常子の女学校の担任、東堂チヨ先生(片桐はいりさん)が、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号に載った平塚らいてうの「原始、女性は実に太陽であつた」という文言を生徒たちに語りました。その後、常子や妹の鞠子(相良樹さん)、親友の中田綾(阿部純子さん)らが、『青鞜』に大きな影響を受けた、という話の流れでした。

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今週放映されている「第14週 常子、出版社をおこす」で、中田綾が再登場しました。戦前、女学校を出て、すぐに
医者に嫁いだ綾でしたが、その夫は軍医として大陸に出征し戦病死、裕福だった実家も空襲で全焼、今は老母と幼い男児を抱え、苦労しています。

そして昨日のオンエアで、再び『青鞜』がでてきました。綾が、柳行李から取り出して常子に見せ、苦しい生活の中でもずっと心の支えにしてきた、と語るという場面でした。

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見逃された方、NHK BSプレミアムで、7/6(土)、一週間分の再放送があります。この回は朝10:00~のオンエアです。ご覧下さい。

また、来週放映の「第15週 常子、花山の過去を知る」でも、『青鞜』がらみのシーンがあるようです。「花山」は、唐沢寿明さん演じる花山伊佐次。のちに常子ともども雑誌『あなたの暮らし』を創刊します。モデルとなったのは、花森安治。実際に『美しい暮しの手帖』(のち『暮しの手帖』)を創刊、編集と、毎号の表紙絵を担当しました。

予定では7/13(水)放映の回で、その花山を女手一つで育ててくれた母が、やはり『青鞜』創刊号のらいてうの言葉を心のよりどころとしていた、というエピソードが語られるという設定になるようです(ただ、いわゆるネタバレサイトでの情報ですので、変更があるかも知れません)。こちらもご覧下さい。

ちなみにさらに先の放送で、片桐はいりさんの東堂先生も再登場するようです。

ところで、一昨年上期の朝ドラ「花子とアン」では、翻訳家の村岡花子、その親友の歌人・柳原白蓮が登場、それぞれ吉高由里子さん、仲間由紀恵さんが演じられました。すると、古書業界でちょっとした花子、白蓮ブームが起こり、その頃発行された古書店の目録には、二人の関連商品――書籍や自筆もの――が数多く載っていました。

このところ手元に届く古書目録には、「とと姉ちゃん」を受けて、花森安治の関連商品が目立ちます。明日から行われる明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会2016」の目録にも載っていました。

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あたたかみのある、いい絵ですね。

その花森、戦後すぐは、戦時中の戦意高揚プロパガンダへの協力(有名なコピー「ほしがりません勝つまでは」の選定にも関わっているそうです)を恥じ、筆を折っていました。このあたり、光太郎を彷彿とさせられます。その点が「とと姉ちゃん」でどう描かれるか、楽しみです。


【折々の歌と句・光太郎】

葦の葉に君は笹舟たくみなりわれは流れの淀に棹さす
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は七夕、ということで何となくそれっぽい短歌をご紹介します。

朝の時点で、自宅兼事務所周辺はよく晴れていますが、夜はどうなることでしょうか。田舎なので光源が少なく、ほんとに快晴の晩には、天の川が見える時もあります。

今月末から始まる信州安曇野の碌山美術館さんでの企画展です。
期  日 : 2016年7月23日(土)~8月28日(日) 会期中無休
場  所 : 碌山美術館 杜江館・第Ⅰ/Ⅱ展示棟  長野県安曇野市穂高5095-1
時  間 : 9:00~17:10
料  金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円)  小中学生 150円(100円) 
       ( )内団体:20名以上)
後  援 : 安曇野市 安曇野市教育委員会 安曇野市教育会 信濃毎日新聞社 市民タイムス
協  賛 : 清水建設株式会社 株式会社中村屋 医療法人仁雄会穂高病院
       株式会社とをしや薬局 
株式会社アイダエナジー

高村光太郎(1883~1956)の没後60年、高村智恵子(1886~1938)の生誕130年を記念して企画展を開催いたします。
木彫家・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、幼少期より木彫の手ほどきを受け、東京美術学校や海外での研鑽を積むことでその資質を開花し、木彫・塑像に傑作を残しています。
また合わせ持っていた文学的資質は、評論・翻訳・詩作などに結実しています。「緑色の太陽」(1910)のような啓発的な評論、『ロダンの言葉』(1916)の翻訳等は、日本近代美術界を大いに刺激しました。のみならず、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)等の詩作は現在もなお広く知られています。
高村自身は「私は何を措いても彫刻家である」「自分の彫刻を護るために詩を書く」と述べる一方で「詩精神(事物の中心に直入する精神)が言葉にあらわれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となる」とも言っています。
彫刻と詩を通して、高村光太郎の制作の根源へ思いを馳せていただければ幸いです。

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関連行事

特別企画展記念講演会 「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」

期  日 : 2016年8月7日(日)
場  所 : 碌山美術館 杜江館二階 
                          7/28追記 会場が美術館向かいの研成ホールに変更になりました。
時  間 : 13:30~
料  金 : 無料 (ただし入館料が必要です)
講  師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


というわけで、当方の講演があります。昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連などについても述べる予定です。


さて、展示の方ですが、光太郎の木彫がひさびさにある程度まとめて並びます。まだ出品目録を頂いていないので、詳細は不明ですが(いずれ続報を出します)、平成25年(2013)に千葉市美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、岡山井原市田中美術館さんを巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来です。

その他、もちろんブロンズ彫刻、絵画、詩稿などの光太郎作品、そして智恵子紙絵の現物も出ます。さらに当方の蔵書から、光太郎の詩集をお貸ししました。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は碌山美術館さんで持っているというので、それ以外の生前の単行詩集、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)、さらに没後の刊行ですが、当会の祖・草野心平が鉄筆を執ってガリ版刷りで作った光太郎七回忌記念の『猛獣篇』(同37年=1962)もお貸ししました。

そうした意味では、かなり幅広い光太郎智恵子の総合展のような企画展です。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、日本女性に失望シリーズ(笑)の一作です。

昨日の続きになります。光太郎が晩年の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建つ、高村光太郎記念館を運営されている花巻高村光太郎記念会さんからのいただきものをご紹介します。

旧太田村の高村光太郎記念館とは別に、花巻市街桜町、光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑近くに桜地人館があります。光太郎没後すぐ、現在の花巻高村光太郎記念会を立ち上げた総合花巻病院長だった故・佐藤隆房氏のコレクションなどが展示されています。今年5月に行われた花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」の行程にも入っており、久々に訪問いたしました。その際のレポートがこちら

そちらのパンフレットも新しいものが作られ、送られてきました。A4判横長三つ折り、両面カラー印刷です。


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佐藤隆房と直接親交があった光太郎・賢治の関連の品々、それ以外にも岩手を代表する芸術家ということで、萬鉄五郎や舟越保武の作品などが展示されています。また、パンフレットには紹介されていませんが、光太郎・賢治と繋がっていた草野心平の書、館の前庭には高田博厚作の佐藤隆房像なども。


それからもう一点、今年2月に放映されたテレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」を録画したDVDもいただきました。前述の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」の際に拝見し、「下さい」とお願いしておいたものです。

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この番組は、平成25年(2013)にNHKさんで放映された連続テレビ小説「あまちゃん」に登場した架空のテレビ局・「岩手こっちゃこいテレビ」制作という設定の架空の番組「5時だべ わんこチャンネル」のモデルとも云われています。

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岩手県ご出身の福田萌さんが、司会者の福田萌さん役で(笑)ご登場なさっていました。


さて、本家「5きげんテレビ」。賢治生誕120年にちなむシリーズの一環で、「賢治と光太郎」という切り口での放送でした。レポーターは六串しずかさんという方。

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まずは旧太田村の高村光太郎記念館の紹介。

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「賢治と光太郎」ということで、展示品の中のこんなものも。

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賢治の実弟・清六と光太郎が編集し、装幀・題字も光太郎が手がけた日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』です。テロップが誤っており、発行は昭和21年(1946)~24年(1949)です。こちらは元々当方の蔵書で、記念会さんにお貸ししています。

昨年のNHKさんの「歴史秘話ヒストリア ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」の回では、やはり当方がお貸しした『智恵子抄』が写りましたが、妙な気分です。

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閑話休題。続いて記念会さんで取り組んだ、光太郎日記を元にした、光太郎の食事の再現。

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これで朝昼晩の三食分ですが、そば粉パンやら馬肉入りの汁物やら、なかなか豪勢です。

さらに記念館に隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)からのレポート。当時を知る地元の方々もご出演なさり、光太郎との思い出を語って下さっていました。

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こんなコーナーもありました。

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視聴者の皆さんは、リモコンの赤青黄のボタンを押す、ではなく、電話で参加。スタジオにオペレーターさんたちがいらっしゃる、という点で笑えました。

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さて、問題は……。

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これだけだと、①、②、③、全て正解ですが、光太郎が好きで、なおかつ旧山口小学校の校章デザインに使われた、という条件がつきます。おわかりでしょうか。

正解はこちら。

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上記の幔幕は、詩集『典型』(昭和25年=1950)が第2回読売文学賞に選ばれた際の賞金が化けたものです。デザインの原案も光太郎です。

締めは高村光太郎記念館、高村山荘の案内。

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ぜひとも全国ネットでも放映してほしいような内容でした。


上記の桜地人館ともども、ぜひ足をお運び下さい。



【折々の歌と句・光太郎】

少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、昨日も同趣旨の短歌をご紹介しましたが、日本人女性をこきおろす短歌が数多く作られました。

女性の皆さん、気を悪くなさらないで下さい。あくまで光太郎独自の感想ですので、当方の見解とは異なります(笑)。

光太郎が晩年の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建つ、高村光太郎記念館を運営されている花巻高村光太郎記念会さんから、いろいろといただきものがありましたので、ご紹介します。

まず、記念館および隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)の新しいパンフレット。

A4判を横に2枚繋げた大きさで、両面カラー印刷、折りたたみ式。

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おおむね見開き2ページずつで一つの面になっています。

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なかなかの情報量ですし、よくまとまっています。また、QRコードが印刷されており、スマホで読み込むと、記念館内の360度ビューが見られるとのこと。ハイテクです。


過日ご紹介しましたが、花巻高村光太郎記念館さんでは、来週末から企画展「智恵子の紙絵」が開催されます。
下記は今月号の「広報はなまき」に載った案内です。

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ぜひ足をお運びのうえ、新しいパンフレットもご入手下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学から帰国直後の作。日本女性に対しても、光太郎は絶望していました。

昨日の『朝日新聞』さんの「天声人語」で、当会の祖・草野心平が愛した福島川内村の天山祭が紹介されました。 

天声人語 詩の響きわたる村

「歴程」は創刊80年を超す詩誌である。年ごとの「藤村(とうそん)記念歴程賞」の受賞者には金子光晴や辻井喬といった名が並ぶ。昨年は詩人ではなく、阿武隈山地にある福島県川内村の村民一同に贈られた▼毎年7月、草野心平の詩を村人が朗読する「天山(てんざん)祭り」を半世紀にわたり開いた功績が評価された。出身地ではないが、心平は毎夏をこの村で過ごした。祭りは村人との酒宴から始まり、1988年に心平が亡くなった後も続いた▼「私ら詩を作るわけでもないが、栄えある賞をもらっていいんだろうか。でも村民一同にというのはうれしかったですね」。天山祭り実行委員長の石井芳信(よしのぶ)さん(71)は話す。昨年11月、東京での授賞式に村長ら6人と出席し、「ノーベル賞以上の喜びです」とあいさつした▼村は原発事故にほんろうされた。全村民が一時は避難を余儀なくされた。いまも除染作業の車が頻繁に通過する。震災の年は祭りの開催が危ぶまれたが、「大変な時こそ」と村外の人からも励まされ、簡略ながら開催にこぎつけた▼〈けつとばされろ冬/まぶしいな/青いな/ゲコゲコグルルル――/春君/ぼくだよ〉。詩が村に響く。獅子が舞い、酒や山菜を楽しむ▼被災前、村には小中学生が175人いた。戻ったのは50人に満たない。村の将来を思うと石井さんも不安は尽きない。それでも祭りは続けたい。今月9日で51回目となる。人々が集い、大人も子どももそれぞれ好きな詩を読み上げる。震災前と変わらない時が流れる。

昨年の藤村記念歴程賞についても記述があります。


たまたま先月中~下旬、全国各地の地方紙一面コラムに心平、そして川内村の名が立て続けに出ました。この際ですのでご紹介しておきます。

6月18日の『琉球新報』さん。福島第一原発の事故からの全村避難解除を受けての内容です。 

<金口木舌>さむいね、ああさむいね

さむいね/ああさむいね(中略)どこがこんなに切ないんだらうね/腹だらうかね/腹とったら死ぬだらうね/死にたかあないね(秋の夜の会話)。カエルの詩人と呼ばれる草野心平氏の詩集「第百階級」はこの詩で始まる
▼福島県いわき市出身、戦後間もなく双葉郡川内村平伏(へぶす)沼のモリアオガエル見学に招かれた縁で名誉村民となる。政府は14日、東京電力福島第1原発事故で川内村の「避難指示解除準備区域」指示を解き、同村の避難区域を解消した
▼12日には近隣の葛尾村全域避難指示が「帰還困難区域」を除き解除された。生活不安から多くが戻れない故郷で今週、政府の解除ラッシュが続く
▼1400人余が避難する葛尾村は放射線量が比較的高い「居住制限区域」(21世帯62人)の避難指示が解除された初事例だ。対象は418世帯1347人だが、昨夏に始まった準備宿泊登録は約1割。「自分の姿を見て1泊でもして」と期待する地区唯一の帰還者の声は重い
▼昨秋に全域避難指示が解かれた楢葉町の帰還世帯も最新で1割、帰還536人のうち40歳以下は29人だ。同町で原発対応拠点を担うJヴィレッジは東京五輪サッカー日本代表合宿地となる
▼平伏沼は今、モリアオガエル産卵の最盛期を迎える。悲しい歴史をたどる今の沖縄だからこそ、福島の山に海に、戻れない人と戻る人の痛みに思いを寄せ続けよう。



続いて『福島民友』さんで6月20日 

【編集日記】「かえる かわうち」

広葉樹の林の中を歩いて行くと、神秘的な沼が突然、姿を現す。川内村の平伏(へぶす)山(842メートル)山頂に位置する平伏沼だ。モリアオガエルが繁殖する国指定天然記念物で、「カエルの詩人」といわれた草野心平が愛した地としても知られる
 ▼モリアオガエルは産卵の仕方が特徴的だ。沼にせり出すように生えている木の枝や葉に白い泡状の卵を産み付ける。卵が孵化(ふか)すると沼に落ち、オタマジャクシが水中で暮らし始める
 ▼これから7月上旬にかけてが産卵のピークだが、沼の巡視員をする猪狩四朗さんによると、今年は卵の数が例年の半分ほどしかないという。「水不足でもあるが、原因は分からない」。村のシンボルであるカエルのことを思い、心配そうだ
 ▼壁をよじ登るカエルのイラストに、「かえる かわうち」とのキャッチコピーを添えた垂れ幕が2012年の春、村役場に掲げられた。原発事故で一時は全村避難を強いられた同村に役場機能が戻った時期のことだ。村は先週、全ての避難区域が解除された
 ▼現在までに帰ってきた住民は65%ほどという。復興への壁はまだ高いが、「これからカエルが戻り大合唱を聞かせてくれるはず」との猪狩さんの言葉に村の未来を重ねたい。

「かえる かわうち」のキャッチコピー。「かえる」には「蛙」、「帰る」、「変える」など、様々な意味を込めているそうです。下記は以前にいただいた缶バッヂ。

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せっかく「天声人語」にまで紹介された天山祭ですが、今年は明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観、さらにもう一つ別件で柔道の講道館に行かなければならず、欠礼いたします。関係者の皆さん、申し訳ありません。


【折々の歌と句・光太郎】

色みては盲目(めくら)音にはみみしひのふるさとびとの顔のさびしさ

明治42年(1909) 光太郎27歳

一昨日からご紹介しています、海外留学から帰国直後の作です。

一般庶民にまで芸術を愛する心がしみついていたパリと比較し、そうした部分での日本人の無理解を嘆いています。

光太郎詩の朗読による公演、イベント等の情報です。

まずは公演の方、福井県鯖江市で。 
期  日 : 2016年7月17日(日)
時  間 : 開場 13:30  開演 14:00
会  場 : 鯖江市文化の館鯖江市図書館2F 多目的ホール) 鯖江市水落町2丁目25番28号
料  金 : 500円
出  演 : 朗読・森本宏子 オカリナ・山本幸聖 ピアノ・森本菜桜子
                       
作曲・沢崎蒼太郎 画・西條由紀夫
申  込 : 090-5178-2221(森本)

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続いて、智恵子の故郷・二本松から一般参加のイベント情報です。 

高村智恵子生誕130年 高村光太郎没後60年記念事業 「智恵子抄」朗読会

期 日 : 2016年7月17日(日)
時 間 : 午前10時〜 (9時20分に奥岳登山口ロープウェイ乗り場前集合)
会 場 : 安達太良山薬師岳
参加費 : 4,000円(ロープウェイ代、入浴料、昼食代込み)
定 員 : 30名
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ(熊谷) ☎0243(23)6743

ほんとの空がある安達太良山薬師岳で、詩集『智恵子抄』の中から一人一作品を朗読します。
智恵子と光太郎の記念の年にふさわしい素敵な朗読会へぜひ参加してください。
終了後は温泉にゆったりと入浴し、その後みんなで昼食会を行います。

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さらにもう1件、朗読つながりで、彫刻家光太郎最後の大作・「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ青森県十和田市からの情報もご紹介しておきます。

今年4月、当方執筆のジュブナイル「乙女の像のものがたり」を原作にした朗読劇を公演された劇団M’S PARTY(エムズパーティ)さんが、「平成28年度 元気な十和田市づくり市民活動支援事業 対象事業」の認定を受けました。その結果、助成金19万円が交付されるとのことです。

具体的には「50分でわかる乙女の像に込められた想い DVD及びホームページ制作事業」だそうで、さらに具体的には「十和田湖国立公園指定80周年を記念して、「乙女の像」ができるまでの物語を朗読劇にしてDVDを作成する。多方面で活用していただくことで十和田湖の奥深い魅力を広く発信する。」だそうです。

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こういう予算の使い方というのは、素晴らしいことだと思います。


公演にしても、一般参加型のイベントにしても、もっともっと広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとのちまたに立ちて故郷の言の葉をきく聞けどあかぬかも

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

昨日に引き続き、約3年半の海外留学を終えて帰国直後と思われる作です。

意外と留学先のニューヨーク、ロンドン、パリ、それぞれで留学生仲間などとの交流が多かった光太郎ですが、やはり巷間に立って聞こえてくる母語の響きは懐かしさを催すものだったのでしょう。

過日ご紹介した、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった件、新聞三紙で紹介されているのがネットで確認できました。

まずは『東京新聞』さんの埼玉版。 

光太郎との絆、後世に 東松山の田口さんが書簡など市に寄贈

 「道程」「智恵子抄」などで知られる001詩人で彫刻家の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の晩年に交流があった東松山市の元教育長田口弘さん(94)が二十四日、光太郎からの書簡や書など約百点を市に寄贈した。直筆の書簡十通はどれも、四十歳近く年下の田口さんに細かい気遣いを見せる誠実な人柄をしのばせる。田口さんは「高村さんに関心を持つ若い人の研究のために少しでも役立てたい。高村さんの高い精神にぜひ触れてほしい」と話している。

 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)三年のとき、国語教師だった柳田知常氏(後に金城学院大学長・故人)の授業で光太郎の詩に触れた。以来、新聞・雑誌に掲載される光太郎の詩や随筆のスクラップを始め、入手できなかった「道程」を柳田氏から借りて全文をノートに書き写すなど、光太郎にのめり込んだ。

 田口さんは進学した大泉師範学校専攻科(現東京学芸大)で卒業論文「高村光太郎研究」をまとめ、一九四四年春、師事を続けていた柳田氏に連れられて東京・駒込のアトリエで初めて光太郎に会う。光太郎は卒論を一ページずつめくりながら「私のことを私よりも知っているね」と笑みを浮かべたという。初対面の学生にもていねいに接する光太郎に、田口さんは感銘を受けた。

 田口さんは占領地域で日本語を教える海軍教員として南方への赴任が決まった同年夏、光太郎のアトリエを訪ね「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の書をもらったが、同年十二月、乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、書は多くの仲間とともに沈んでしまった。今回、市に寄贈した同じ言葉の書は四七年、岩手県太田村(現花巻市)山口の山小屋に光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。

 四五年から七年間、雪の吹き込む粗末な山小屋で独居生活をしていた光太郎。戦中に戦争協力詩を多く発表したことへの自省の念から、とされる。田口さんは勤めていた松山中学の教え子を連れて会いに行ったり、足が十三文(約三十一センチ)と大きく、既製品の靴下が買えない光太郎のために、妻の手編みの靴下を送るなどの交流を続けた。

 四八年に届いたはがきには「『ジャワ詩抄』は今も小生の机上にあります。山口部落(カンポン)にて」とあった。ジャワ詩抄は田口さんが復員前のインドネシアの収容所で書いた詩をまとめ、光太郎に送った詩集のタイトル。「カンポン」は詩集の中に出てくるインドネシア語の「村」の意で「あなたの詩集をちゃんと読んでいますよ」という温かい心遣いだった。

 旧制中学時代の田口さんのスクラップノート五冊は詩人の草野心平に貸し出され、草野が編集を担当して五一年から刊行された「高村光太郎選集」(全六冊)に役立てられた。光太郎は「あなたの切り抜きのおかげ」と、自ら包装した小包で配本のたびに送ってきたという。

 田口さんは「詩人、芸術家としての立派さだけでなく、人間として生きる(志の)高さ、誠実な生き方をした人だった」と振り返った。

 市は寄贈された書簡などを八月十~二十八日、市立図書館で一般公開する。森田光一市長は「素晴らしい市の宝として大切にしていきたい」と述べた。


続いて『毎日新聞』さん。こちらも埼玉版に記事が出ました。 

高村光太郎の書や交流書簡 元教育長の田口弘さん、東松山市に全資料 市立図書館収蔵、8月10日から一般公開 /埼玉

「誠実な生き方も次世代に伝えたい」 002
 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と親交があった元東松山市教育長で同市在住の詩人・田口弘さん(94)が24日、高村の書や交流書簡などを同市に寄贈した。寄贈品は同市立図書館に収蔵され、8月10~28日に一般公開される。森田光一市長は「東松山出身の梶田隆章先生のノーベル物理学賞受賞に続き、市の宝がまた一つ増えた」と感謝した。

 1922(大正11)年生まれの田口さんは旧制松山中(現県立松山高)3年の時、国語教師だった恩師から高村のことを教わり、その作品と芸術への取り組み方に魅せられるようになった。高村が書いたり、紹介されたりした新聞や雑誌の記事をもらさずスクラップしたノートは5冊を数える。
 教師を養成する当時の東京府大泉師範学校に進学後も研究を続け、卒業前に論文「高村光太郎研究」にまとめると、恩師と東京・駒込のアトリエに高村を初めて訪ねた。38年に妻の智恵子さんを亡くし「智恵子抄」で多くの人々の心をとらえていた高村は39歳離れた学生の論文に目を通し、「私よりも私のことを知っている」とユーモアを交えて語った。田口さんは高村のこまやかな心遣いに感銘を受け、卒業後、日本軍占領地で住民に日本語を教える海軍軍属になることが決まって出発する前にもアトリエを訪ねた。
 高村は45年の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治の弟・清六の招きで疎開した岩手・花巻の宮沢家でも花巻空襲で再び焼け出された。花巻郊外の粗末な小屋で7年間に及ぶ農耕自炊の生活を送った高村を、46年に復員して現在の東松山市立中の美術教師となった田口さんが訪ねたのは47年。49年には中学3年の教え子3人を連れて再訪した。
 52年に帰京するまで冬は雪が吹き込む小屋で農耕がてら詩を作っていた高村に、田口さんは誕生日の贈り物などとして妻手作りの毛糸の靴下や練乳などを送り続けた。
 今回寄贈したのは、その時の礼状を含めた高村直筆の封書2点やはがき8点、訪ねた際に書いてもらうなどした書幅4点に、関連書籍を加えた約100点。封書やはがきの字は能筆でも知られた高村らしく、丁寧でバランスも良い。
 田口さんは、49年に受け取った「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」という書を掛け軸にして特に大切にしてきた。高村は、同封した手紙に新約聖書の中で「感激」した言葉を書いたと記していた。
 田口さんは「私たちがもし、見たいと思っているものがあるなら、それはすぐに見えるものではないのだから、じっと我慢して生活する中で見つめ続けていれば体得できるという意味でしょう」と説明し、「私がキリスト教徒で、詩を書いていることをご存じだったので、『芸術を志す者は忍耐強く、自分の願っているものを終生求めなさい』という励ましを込めた言葉」と受け止めている。
 日教組中央執行委員や県教組委員長などを経て76年から同市教育長を16年間務めながら詩を書き続けてきた田口さんは「青春時代の出会いは大事。高村さんと実際に会って目を開かされた者として、詩人として立派というにとどまらない、その誠実な生き方も次世代に伝えたい。そのために役に立てば、という思いで全ての資料を寄贈しました」と話している。


最後に『産経新聞』さん。やはり埼玉版です。 

高村光太郎の書簡など寄贈 東松山の元教育長、市へ100点 埼玉

 東松山市の元教育長で詩人、田口弘さん(94)が、親交のあった彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)の書簡や書幅など約100点を同市に寄贈した。田口さんは高村と3回面会し、書簡をやりとりするなど高村が亡くなる直前まで細やかな交流が続いた。市は書簡などを市立図書館で所蔵し、今夏一般公開するほか、高村の誕生月の3月に毎年公開する予定だ。
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 田口さんは旧松山中在学中に恩師の柳田知常さんの指導で高村を研究。昭和19年、東京府大泉師範学校の卒業論文で高村論を書き上げ、柳田さんに連れられて東京・駒込のアトリエを訪問。初めて会った高村は論文を繰った後、「僕以上によく知っていますね」と笑顔を見せたという。
 その後、田口さんが海外教員として戦地に赴任する際に高村から書を贈られるなど交流は続いた。詩人、草野心平が編纂した「高村光太郎選集」(中央公論社、全6巻)では、田口さんが中学時代から切り抜いた新聞スクラップなどの高村研究ノートが資料として生かされた。
 書簡は昭和23年から高村が亡くなる3年前の同28年まで、直筆はがき8点、直筆封書2点の計10点。田口さんが書いた詩の感想や贈り物への謝礼、日々の暮らしなどが簡潔に綴られている。さらに、直筆の色紙や掛け軸など書幅4点、高村の署名入り同選集など貴重な書籍が寄贈された。
 田口さんは「高村さんは誠実な方でした。半歩でも一歩でも近寄りたいと願い、おぼつかないが生涯の弟子として生きてきた」と述懐。思い出の品の寄贈について「現物で高村さんが生きているんだと紹介できる。青春時代の文学青年は出会いが一番大事。出会いがないと目が開かれない」と話した。このほか、彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の彫刻「萩原朔太郎青銅像」(昭和49年制作)1点も寄贈した。
 同図書館は8月10~28日、書簡などを一般公開する。同21日には田口さんの展示品解説を含めた講演会も開かれる。問い合わせは同図書館(電)0493・22・0324。

その他、東松山市さんの公式ツイッター、市長の森田光一氏のブログにも記述がアップされています。ご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

わが船の鳴く声きけばわがこころ神戸の水戸に血をしぼり泣く

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

明治42年(1909)の今日、光太郎は約3年半の海外留学を終え、日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に到着しました。

欧米で世界最先端の芸術をまのあたりにし、日本美術界とのあまりの落差を感じて、これから始まる自らの苦闘を予感して作った歌です。

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