2016年03月

日本郵便東北支社さんから、智恵子の故郷、二本松のオリジナル切手に関するプレスリリースが出ました。 

オリジナル フレーム切手「ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅 あだたら桜回廊」の販売開始

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 本間 幸仁)は、下記のオリジナルフレーム切手の販売を開始します。
このオリジナル フレーム切手は、約4,500 本もの桜が咲き競う「霞ヶ城公園」や福島県緑の文化財に登録されている「合戦場のしだれ桜」など福島県二本松市の桜を題材としたもので、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

1  切手の概要
 名   称
 : ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅 あだたら桜回廊
 販売開始日 : 2016 年4 月1 日(金)
 販 売 数 : 1,200 シート
 販売郵便局 : 福島県福島市 二本松市 本宮市 伊達市 川俣町 桑折町 国見町
         大玉村の全郵便局
 計90 局
         一部の簡易郵便局、震災の影響で営業を休止している郵便局を除きます
 シート構成  :  1 シート 82 円切手×10 枚
 販   価  :  1 シート 1,300 円 シート単位で販売します。

2  切手デザイン 
別紙のとおり 二本松市を代表する桜の名所や、二本松観光協会が主催している「二本松の四季」観光フォトコンテストの入選作品などを切手の題材として選定しました。

3 その他
4月5日(火)から日本郵便株式会社Webサイト郵便局のネットショップでもお取扱いします。
http://www.shop.post.japanpost.jp/)販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

【お客さまのお問い合わせ先】
〔商品内容に関すること〕 
 日本郵便株式会社 東北支社 郵便・物流営業部(物販・広告担当) 022-267-7666
 月~金9:00~17:00(土日祝日を除く)
〔販売に関すること〕上記に記載の「販売郵便局」窓口

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調べてみましたところ、「あだたら桜回廊」シリーズのフレーム切手は、平成22年(2010)からほぼ年1回のペースで発行されていました。

平成24年(2012)に発行された「あだたら桜回廊Ⅲ」では、智恵子の母校・油井小学校の桜が用いられていました。今日の今日まで知りませんでした。

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一昨年に発行されたものから、バックシート(台紙)部分に「ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅」のコピー文が入りました。こちらは当方、以前に「二本松の菊人形」を観に行った際に購入しました。

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昨年のものにも同じコピー文。こちらも存じませんでした。

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「ほんとの空」の語が入っているとなると、手に入れなければ気が済みません(笑)。通販等で探してみようと思っております。

皆様もぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

一枝のさくら手折りて肩になどかざすをとめを見ればたふとし

大正10年(1921) 光太郎39歳

駒込林町の光太郎智恵子が暮らしたアトリエに面した本郷保健所通りにも、桜が植わっていたそうです。「ほんとの空」の語が出て来る詩「あどけない話」にも、「桜若葉の間に在るのは、/切つても切れない/むかしなじみのきれいな空だ。」というフレーズがあります。

アトリエ近くの丸善インキ工場で働く女工達を謳った「小娘」、「丸善工場の女工達」という詩が、少し前に書かれています。短歌の「をとめ」は、その辺りなのかな、とも思われます。

福岡県の地方紙『西日本新聞』さんの一面コラム「春秋」。昨日掲載分です。連翹忌に触れて下さいました。 

春秋 2016/03/29

 来月2日は高村光太郎の没後60年に当たる。教科書にも載る「道程」や「智恵子抄」で知られる詩人は、一方で戦争に協力する詩文も書いた
▼例えば、日米開戦を称揚し国民を鼓舞する詩。〈記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史改まる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。〉。西欧の芸術を学び、人の「生」を肯定、称賛した高村も、戦争へと突き進む時代の奔流にのみ込まれたか
▼戦後、多くの文学者や芸術家が、戦争に協力したことなど忘れたかのように活動を再開する中、高村は戦意高揚の旗を振ったことを深く恥じ悔いた。岩手県の山あいの粗末な小屋で7年間の謹慎生活を送り、自らの過ちと愚かさを省みる連作詩「暗愚小伝」を残した
▼安全保障関連法はきょう施行。集団的自衛権の行使を可能にするこの法律で、自衛隊の海外での活動が大幅に拡大される。日本の安全保障にとって新たな道程の始まりだ
▼過去の戦争への反省を踏まえ、歴代内閣は集団的自衛権の行使を禁じていた。それを選挙の争点とすることもなく、一内閣が独断で変更した。反対はなお根強く、憲法学者の「違憲」の指摘も相次ぐ
▼夏の参院選は衆院選と同時に、という動きが強まっている。ならば正面から争点に据え、あらためて国民の審判を仰ぐべきであろう。後に愚かだったと悔やまぬように。私たちの後ろに出来る道のために。


「我が意を得たり」という感じでした。

書かれているとおり、光太郎は戦争推進に協力する詩文を書きました。数え方にも左右されますが、その生涯に光太郎の遺した詩は700篇強。そのうち200編弱は戦争協力詩といえるものです。詩集としても、選詩集や元の詩集の改訂復刊的なものを除けば、生涯に上梓した詩集は6冊。『道程』(大正3年=1914)、『智恵子抄』(昭和16年=1941)、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)。

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この6冊のうち、『大いなる日に』、『をぢさんの詩』、『記録』の三冊、つまり半分は戦争協力詩が中心の詩集です。

中を見てみると、今の言葉で言えば「痛い」「やっちまった」作品のオンパレード。特に『をぢさんの詩』収録のものは、年少者向けのものですので、その「痛さ」はひどいものです。


  軍艦旗004

ぼく知つてるよ  軍艦旗
御光(ごくわう)のさしてる  日の丸だ
御光のかずが   十六本
ほんとにきれいな 軍艦旗

ぼく知つてるよ  軍艦旗
艦尾旗竿(きかん)に   ひらひらと
大きくつよく    たのもしく
ほんとにりんたる 軍艦旗

ぼく知つてるよ   軍艦旗
日の出日の入り  おごそかに
全員そろつて    揚げおろす
ほんとにたふとい 軍艦旗

ぼく知つてるよ  軍艦旗
いざ戦ひと     いふ時は
大檣上(たいしやうじやう)に    空たかく
さんぜんかがやく 戦闘旗


注目すべきはこの詩が書かれた日付です。草稿に書かれたメモによれば、昭和14年(1939)2月26日となっています。その3日前には、この前年秋の智恵子の臨終を謳った『智恵子抄』中の絶唱、「レモン哀歌」が書かれています。

その3日後には、こんな愚にもつかない翼賛詩を書いている光太郎。まさに智恵子を失ったことにより、精神のバランスをも失っています。

この駄作や、『西日本新聞』さんに引用されている「十二月八日」などの翼賛詩を、たしかに数は多いのですが、光太郎の真髄と捉え、涙を流してありがたがる輩がいまだに多いのには閉口させられます。昨日施行されたとんでもない法案を考え出した連中もそうなのでしょうが。

光太郎の真髄は、『西日本新聞』さんにあるとおり、「戦意高揚の旗を振ったことを深く恥じ悔いた。岩手県の山あいの粗末な小屋で7年間の謹慎生活を送り、自らの過ちと愚かさを省み」たことにあります。

光太郎歿して60年。今週土曜日は、節目の年の連翹忌です。案内状には、当会顧問北川太一先生の、次のようなお言葉を賜りました。「戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。」まったくその通りです。「私たちの後ろに出来る道のために」。


【折々の歌と句・光太郎】

人かあらずただしたはしの春の水おりし胡蝶のけさねたましき
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日、自宅兼事務所の庭で、この春初めて蝶を見かけました。

当会顧問・北川太一先生の盟友だった、故・吉本隆明関連です。

まずは新刊情報から。
2016年3月19日 晶文社 定価6600円+税000

人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家の全貌と軌跡。

第12巻には、中世初期の特異な武家社会の頭領でありながら、和歌の作者でもあった源実朝の実像に迫る『源実朝』と、同時期の評論・エッセイ、および詩を収録。単行本未収録3篇を含む。第9回配本。

月報は、中村稔氏・ハルノ宵子氏が執筆!


一昨年から刊行が始まった晶文社版『吉本隆明全集』の第7回配本です。既刊の第5巻第7巻、第4巻第10巻、第9巻でも光太郎に触れられていましたが、今回の巻でも目次に「究極の願望[高村光太郎]」という項目がありますし、他にも光太郎に触れる文章が含まれているかも知れません。


吉本がらみでもう1件。

生前の吉本と親交があったコピーライターの糸井重里さんによる、「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトがあります。その中に「吉本隆明プロジェクト」というコーナーがあり、吉本が生前に行った講演の音声データが昨年から順次公開されはじめ、全183講演が出揃いました。

光太郎に関する講演も含まれています。

A006詩人としての高村光太郎と夏目漱石 (昭和42年=1967 東京大学三鷹寮)
A013高村光太郎について――鷗外をめぐる人々 (昭和43年=1968 文京区立鷗外記念本郷図書館)

タイトルで「光太郎」の文字が入っているのは上記2件ですが、他にもあるかも知れません。

2件とも、昭和48年(1973)、勁草書房刊行の『吉本隆明全著作集8 作家論Ⅱ』に文字化されて収録されていますが、文字で読むのと音声で聴くのとでは、また違った感じですね。

ぜひお聴き下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝曇り窓より見れば梨の花       明治42年(1909) 光太郎27歳

自宅兼事務所の周囲も、ソメイヨシノがちらほら咲き始めました。近くにはありませんが、梨の花もそろそろ咲き始めているような気がします。

新刊情報です。 

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2016年3月25日 末盛千枝子著 新潮社 定価1600円+税 

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幸せとは、自分の運命を受け容れること――。

彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、本当に美しいものとは何かを教えられた幼少期。皇后様のご講演録『橋をかける』を出版した絵本編集者時代。戦争や貧しさ、息子の難病に夫の突然死、会社の倒産。そして、故郷岩手での東日本大震災……何があっても、「私」という人生から逃げずに前を向く著者の、波乱に満ちた自伝的エッセイ。

末盛千枝子スエモリ・チエコ
1941年東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武で、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられる。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社である至光社で働く。1986年には絵本『あさ One morning』(G.C.PRESS刊行)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞、ニューヨーク・タイムズ年間最優秀絵本にも選ばれた。1988年に株式会社すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を皇后様が選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』や、皇后様のご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。2010年から岩手県八幡平市に移住し、その地で東日本大震災に遭う。現在は、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めている。


光太郎に私淑した彫刻家の故・舟越保武氏のご長女で、絵本作家・編集者としてご活躍なさっている末盛千枝子さんの新著です。一昨年から昨年にかけ、新潮社さんのPR誌『波』に連載されていたエッセイ「父と母の娘」に加筆、一冊にまとめたものです。

当方、末盛さんには2回、お目にかかりました。

最初は平成25年(2013)、東京代官山で行われたイベント「読書会 少女は本を読んで大人になる」。末盛さんが講師で、『智恵子抄』を取り上げて下さった時でした。こちらは竹下景子さんや阿川佐和子さんなどとのご共著で後に一冊の書籍にまとめられました。

その後、一昨年の5月15日、花巻高村祭でもご講演。それぞれで、名付け親である生前の光太郎との思い出を語られました。

今回の『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』にも、同様のお話。さらに昨年7月、盛岡少年刑務所さんでの「高村光太郎祭」――昭和25年(1950)に光太郎本人がこちらを訪れて講演をしたことにちなんで、続けられています――で講演をなさった時のことなども書かれていました。

手元には昨日届き、まだ拾い読み、斜め読みですが、熟読するのが楽しみです。しかし、拾い読み、斜め読みでも、末盛さんのある意味ドラマチックな生き方、そして何があっても「自分」を受け入れて生きるというスタンスがページからこぼれてきます。

話が飛躍しますが、NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ながめては深き思ひに沈む身をはなちし野火はただもえて行く
明治34年(1901) 光太郎19歳

各地で野焼き、山焼きが行われています。いかにも春、ですね。

一般に、美術館さんの展示というと、「企画展(特別展)」と「常設展(通常展)」に分かれます。

一人の作家などに焦点を当てて、期間限定で開催されるのが「企画展(特別展)」。この際には他館や個人から、展示品を借り入れることがほとんどです。

それに対し、自館の所蔵品を通年で展示するのが「常設展(通常展)」。小規模な個人経営の館などには、これだけでやっている所もあります。

乱暴な云い方をすれば、ある意味、その中間が「収蔵品展(所蔵品点)」。収蔵品の点数が多い館などでは、よく行われます。他館や個人から展示品を借り入れるわけではないけれど、ある程度テーマを決めて、自館の収蔵品からセレクトして展示するという、「企画展(特別展)」に近いものと、たくさん収蔵品があって、死蔵にならないためにローテーション的に展示替えをする「常設展(通常展)」に近いものとがあります。

このブログでは、そうした「収蔵品展(所蔵品展)」に関しては、あまり取り上げてきませんでした。特にローテーション的な展示はテーマもあいまいで、紹介しにくい部分がありますし、各館でもそれほど力を入れて宣伝しないため、こちらも気がつきにくいというのがその理由です。

今後もこのブログではあまり触れないつもりでおりますが、たまたま現在もしくは近々、光太郎作品がこうした「収蔵品展(所蔵品展)」に展示されている(これから展示される)館が複数あり、今日はまとめてご紹介します。 
会 場 : 東京国立近代美術館 東京都千代田区北の丸公園3-1
会 期 : 2016年3月8日(火)~5月15日(日) 月曜休館
時 間 : 10:00-17:00、金曜日は20:00まで
料 金 : 一般430円(220円) 大学生130円(70円) ( )内は20名以上の団体料金

光太郎作品はブロンズの「手」が出品されています。
 

アート・コレクション【房総と近代美術】

会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1丁目10番1号
会 期 : 2016年1月23日(土)~4月3日(日) 月曜休館
時 間 : 9:00-16:30
料 金 : 一般300円(240円) 大学生150円(120円) ( )内は20名以上の団体料金

こちらでもブロンズの「手」が出ています。

以前にも書きましたが、ブロンズの作品は同一の型などから鋳造した作品が複数存在します。「手」も、おそらく日本全国に20点くらいはあるのではないかと思われます。完全な「常設展(通常展)」で展示している館もいくつかあるようです。

浮世絵の版画が、初刷りのものは高価で、後刷りになるとガクンと値が下がるように、ブロンズも作者生前に鋳造されたものと、そうでないものとで差があります。東京国立近代美術館さんのものは、光太郎生前の鋳造、台座部分は光太郎の手になる木彫です。


さらに絵画 。 

中村屋サロン美術館通常展示000

会  場 : 中村屋サロン美術館 
       新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
会  期 : 2016年3月19日(土)~4月24日(日)火曜休館
時  間 : 10:30~19:00
料  金 : 300円 高校生以下無料

大正2年(1913)作の光太郎油絵「自画像」が展示されています。


ついでですので、少し先の話になりますが、愛知から。 

版画と彫刻コレクション 表現×個性

会  場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧五丁目250番地
会  期 : 2016年5月14日(土)~7月10日(日) 月曜休館
時  間 : 10:00~17:00
料  金 : 一般900円(700円) 高大生600円(500円) 小中生300円(250円)
        ( )内は20名以上の団体料金および前売料金


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光太郎木彫の代表作の一つ、「鯰」(昭和6年=1931)が並びます。こちらはなかなか展示されないものなので、貴重な機会となります。


23時30分追記 先ほどメナード美術館さんからご連絡を戴きました。もう一つ、同館所蔵の光太郎木彫「栄螺」も出品されるそうです。


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上記は平成15年(2003)の新聞報道です。

さらに先の話ですが、「特別展(企画展)」系の情報も載せておきます。


詳細は未定ですが、夏には信州安曇野の碌山美術館さんで光太郎展があります。 

夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展

会  場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
会  期 : 2016年7月23日(土)~8月28日(日) 月曜日・祝祭日の翌日休館
時  間 : 9:30~17:10
料  金 : 一般700円(600円) 高校生300円(250円) 小中生150円(100円)
                        ( )内は20名以上の団体料金


また、秋には福島県二本松市の二本松歴史資料館さんで、智恵子展も。10月2日(日)~11月23日(水・祝)という日程と、会場しか決まっていませんが。

上記二つは、当方もお手伝いさせていただくことになっております。詳細が決まりましたらまたお知らせします。


【折々の歌と句・光太郎】

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも
昭和6年(1931) 光太郎43歳

メナード美術館さんに収蔵されている木彫「鯰」を収める袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。原型は大正14年(1925)、少し違うものとして作られています。

光太郎の父・高村光雲がらみの情報です。

東京表参道にイスムさんという仏像専門店があります。1階が仏像ワールド、地下1階がイスムというそれぞれのブランドで、ギャラリー的に仏像を展示、販売されています。

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興福寺さんの阿修羅像、中宮寺さんの弥勒菩薩半跏思惟像などの国宝等のレプリカ、現代の仏師の作品などが常時展示されており、表参道という場所柄、ちょっと異質な空間なので、テレビで最近流行の「散歩」番組などでも取り上げられていました。それぞれオンラインショップも展開している、新しい形の仏像専門店です。

その仏像ワールドさんでのイベントをご紹介します。 

決算特別企画 純金・銀製仏像・仏具特別受注会

会  期 : 2016年3月15日(火)~31日(木)
会  場 : イスム表参道店1F 東京都渋谷区神宮前5-48-3 サンエムビル
時  間 : 11時~20時

昨年の中国株の大暴落に端を発し、米国経済の先行き不透明感による世界的な株安不安、そして我が国でも1月29日に日本銀行がマイナス金利政策の導入を決定したことによって、ペーパー資産に対する不信感が一層拡大し、金などの実物資産に興味を示す富裕層が増えています。
仏像ワールドではこうした動きにお応えして、純金や銀などの貴金属素材で作られた仏像や仏具の特別受注会をイスム表参道店にて開催致します。会期中は日本彫刻会の巨星高村光雲の銀製聖観世音菩薩像を始め、銀製の十二支守り本尊、銀製御鈴などの展示即売会を開催致します。
また、純金製仏像・仏具の特別受注会も同時開催となります。
銀製、純金製共に日頃のご愛顧に感謝し、通常小売価格より大幅割引にてのご提供とさせて頂きます。資産としても、美術工芸品としても一級の価値を持つ名品ばかり、この機会に是非お求めください。

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上野恩賜公園の『西郷隆盛像』、皇居前広場の『楠公像』、東京国立博物館像重要文化財『老猿』の作家であり、日本彫刻界を代表する巨匠 高村光雲の作品は、明治期の躍動する魂の力強さ、深遠な美の化身ともいうべき優しさを兼ね備えています。この度ご紹介する作品は光雲の傑作が銀や金といった貴金属素材によって一層輝き増し、そのどれもが家宝にも相応しい逸品です。作品全ての桐箱には高村光雲が使用していた落款を捺印させてお納めいたします。


というわけで、純銀製の光雲の木彫レプリカが中心だそうです。

銀製 聖観音 高村光雲原型
材質 銀925 サイズ(cm)高さ20×幅6.5×奥行6.5 重量約421g 販売価格(税別)\330,000 \264,000

銀製 大黒天 高村光雲原型
材質 銀925 サイズ(cm)高さ13.5×幅6.7×奥行6.5 重量約519g 販売価格(税別)\270,000 \216,000

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銀製 大黒天 高村光雲原型
材質銀925 サイズ(cm)高さ20×幅10×奥行9 重量約1,340g 販売価格(税別)\720,000 \576,000

銀製 恵比寿 大黒天 高村光雲原型
材質銀925 サイズ(cm)各高さ7.5×幅5.2×奥行5 重量各約184g 販売価格(税別)\270,000 \216,000
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それぞれ純金での制作も可能だそうです。

和テイストのインテリアとしてもいいように思います。当方ごときでは、とても手が出ませんが(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

大男ふたり添へたる金仏(かなふつ)にことしも会ひぬ語(ご)無きに似たり
明治36年(1903) 光太郎21歳

というわけで、仏像関連の歌です。「金仏」は東大寺の大仏、「大男ふたり」は南大門の金剛力士像でしょう。

この年、光太郎は東京美術学校彫刻科の研究科に在学中。5月に与謝野鉄幹らと関西に出かけ、新詩社関西清話会に出席しています。それ以前にも光太郎は、修学旅行で東大寺を訪れたことがあります。

大仏様の右の手は「施無畏(せむい)」の相。のちの光太郎の代表作、ブロンズの「手」につながります。

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昨日、郡山市ふれあい科学館で開催中の「第4回 ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト作品展」について書きましたが、やはり昨日、福島の地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」でも同じ話題について触れられていました。 

変わらぬ輝き(3月24日)

 無限に広がる宇宙のきらめきと福島の風土が織り成す圧倒的情景―。郡山市ふれあい科学館スペースパークの宇宙劇場に続く通路に37点の写真が並ぶ。「第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト」入賞作品だ。
 コンテストは8年前、星や月の輝く夜と県内の豊かな自然・人の暮らす風景を全国に紹介しようと始まった。2年に1度の開催としたが、2回目の表彰式直後、震災と原発事故が襲う。立ち入ることができない場所や一変した光景…。県内の姿は大きく変貌したかのように思えた。しかし、頭上の星や月は変わらぬ光を注いでいた。
 予定より1年遅れて実施した第3回は、県内外で大きな反響を呼ぶ。現在、開催中の東京・三鷹市を含め全国各地で復興応援の巡回展が企画された。今回も全国から351作品の応募があった。輝く夜空と地上の景色の融合、月明かりに照らされた幻想的な景観などが本県の魅力を再発見させてくれる。
 第4回の作品展は6月30日まで。その後は全国を巡る予定だ。入賞作品を収録した写真集も今月中に刊行する。「ほんとの空」がある福島の夜空には、今も昔も変わらない「ほんとの輝き」がある。


現在、開催中の東京・三鷹市」とありますが、前回(第3回)の入賞作品が、三鷹市の三鷹中央ビル1階「天文・科学情報スペース」に巡回しているそうです。調べてみると、他の都市にも巡回されていましたし、今回の第4回に関しても、要項に「巡回展」の文字があります。今後、お近くに巡回があった場合には、ぜひ足をお運びください。



また、同じ「あぶくま抄」で、今月19日にも「ほんとの空」の語が使われていました。 

全盲乗り越え国際貢献(3月19日)

 「ほんとの空」が広がる安達太良山麓に国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所はある。今年度第4次隊の訓練生が70日間の課程を修了し、間もなくそれぞれの任地へ出発する。
 訓練生の中に全盲の女性がいる。発足から半世紀、4万人を超す青年海外協力隊の歴史の中で全盲の隊員は初めてだ。大阪府出身、病気で2歳の時に視力を失った。大学で国際貢献を学びJICA職員となった。「開発途上国で活動したい」との思いが強まり、休職して協力隊に応募した。タイに2年間派遣され、視覚障害者らを支援する。
 女性に気負いはない。不安よりも新たな世界で経験を積める期待の方が大きいという。訓練期間中、二本松市内の仮設住宅に数回足を運び、浪江町民と交流した。「目が見えないからと特別扱いせず、自然に接してもらえたことがうれしかった」。心が通い合うのを感じた。長引く仮設住宅暮らしの苦労や故郷を離れたままのつらさも実感した。
 タイでは災害時の障害者支援にも関わりたいと意気込む。「避難者と直接話し、現状に触れたのは貴重な体験だった。福島の本当の姿を伝えたい」。被災地への思いも胸に女性は旅立つ。


これもいい話ですね。

JICAさんの二本松訓練所は、岳温泉の奥にあります。以前に岳温泉に泊まった際、看板を目にし、「こんなところにそんなものが……」と思った記憶があります。


阿多多良(安達太良)山の山の上に毎日出てゐる青い空が「ほんとの空」だと、智恵子はつぶやき、光太郎がそれを詩に謳いました。しかし、智恵子はそれを意識できなかった為に心を病んでしまったのでしょうが、その空は、全国に、そして全世界に、全ての人の頭上につながっているものです。タイで目の不自由な方の支援にあたるというJICA職員の方の話から、特にそう感じました。

さらに、脊髄損傷のため、口に筆をくわえて作品を作り続けている星野富弘さんの詩を連想しました。

  たいさんぼく011

ひとは 空に向かって寝る
寂しくて 空を見上げ
疲れきって 空を見上げ
勝利して 空を見上げる
 
病気の時も
一日を終えて床につく時も
あなたがひとを無限の空に向けるのは
永遠を見つめよと
いっているのでしょうか
 
ひとは 空に向かって寝る


画像は当方自宅兼事務所の連翹です。光太郎終焉の地、中野の中西家アトリエに咲いていた連翹の子孫です。この季節、空の青と花の黄色のコントラストが大好きです。


【折々の歌と句・光太郎】

この色ぞこの空の色さやさやと晴れたる空のいろぞ汝が眼は

明治42年(1909) 光太郎27歳

というわけで、空の歌です。

先日、「第4回 福島の桜フォトコンテスト写真展 東京展」について書きましたが、同様のフォトコンテストの入賞作品展が、福島郡山で開催されていました。テーマは「桜」ではなく「 “ほんとの空” のある、ふくしまの星・月の風景」とのことです。 
期 間 : 2016年3月19日(土)~6月30日(木)
時 間 : 平日:10:00~16:15 金曜:10:00~19:45 土日祝:10:00~17:45
場 所 : 郡山市ふれあい科学館 23階宇宙劇場ホワイエ
                    福島県郡山市駅前二丁目11番1号 ビッグアイ
展示物 : 第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト大賞・特別賞・入賞作品
休館日 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)

郡山市ふれあい科学館の23階 宇宙劇場ホワイエでは、さまざまな天体写真などを中心に、美しく神秘的な宇宙の姿を紹介する「ホワイエ企画展」を開催しております。入場無料となっておりますので、ぜひお気軽にご覧ください。
コンテスト選出作品を展示いたします。 “ほんとの空”のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。

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このコンテストでもそうですが、光太郎が詩「あどけない話」で使った「ほんとの空」の語、いろいろな場で、ある意味、福島県のキャッチフレーズ的に使われています。

東日本大震災から間もなく、福島県立あさか開成高校演劇部さんが上演した演劇のタイトルが「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」。さらに「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか? 第二章ばらあら、ばらあ」ということで、福島県立光南高校演劇部さんに受け継がれました。このブログでも何度か取り上げさせていただきました。

BS12(トゥエルビ)さんで放映されている「復興支援ドキュメント 未来への教科書 ~For Our Children~」という番組で、これらの取り組みがやはり何度か取り上げられました。つい最近、今月5日の放映で、<あのころの子供たちを訪ねて>ということで、あさか開成高校演劇部で最初の公演に出演された香西佳菜子さんの「今」が紹介されました。

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被災の当事者として、演劇でその思いを発信していたあの頃を回想し……。

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しかし、それはつらい体験でもあったそうです。

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なるほど。

香西さん、卒業後は上京して一度は演劇を続ける道を選んだそうですが、いろいろ考えて、地元に帰ったそうです。

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そして現在、演劇の経験を生かし、郡山市ふれあい科学館さんで勤務中。

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「復興」のあり方を考えさせられる話でした。

「第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト 作品展」、6月まで開催されていますし、智恵子がらみでまた二本松に行く機会があるので、拝見し、香西さんにもお会いできればと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨やダンテが曾て住みし家      明治42年(1909) 光太郎27歳

ダンテは「神曲」で有名なイタリア・フィレンツェ出身の詩人です。

光太郎が敬愛してやまなかったロダンの代表作「考える人」は、当初、「地獄の門」のてっぺんに配されたものでしたが、地獄の様相を見るダンテをイメージしているといわれています。

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当然、光太郎もそのことを知っていた上で、フィレンツェのダンテ生家を訪れたものと思われます。ただし、これは観光用に再建されたもので、実際にはダンテ存命中に破壊されてしまったそうですが。

昨日の岩手の地方紙『盛岡タイムス』さんに載った記事です。 

首都と県都に生きる歌人 東京・文京区 盛岡市 啄木の顕彰に協力 終焉の地歌碑や展示室

 盛岡市と東京都文京区は、石川啄木の縁で地域文化交流に関する協定を結び、それぞれが歌人を顕彰している。昨年3月22日には同区小石川5丁目に石川啄木終焉(えん)の地歌碑が建立、顕彰室が開設された。1年後の今年は生誕130年を迎え、訪れる人が増えている。顕彰室には盛岡市や啄木記念館が協力し、直筆原稿(複製)などを展示。生没の地が手を結び、啄木の歌を今に伝える。文京区には新渡戸稲造、宮沢賢治、高村光太郎の旧居跡もあり岩手、盛岡と縁が深い。先人が生きた時代の風を、首都と県都で現代に受け渡す。

  啄木は1902(明治35)年16歳で初めて上京し、文京区に滞在した。渋民への帰郷や北海道の流浪を経て再び上京し、1908(明治41)年から12(明治45)年まで4年間住み、26歳で没した。

  顕彰室と歌碑は2013年に同区の諮問機関として石川啄木終焉の地歌碑等検討会の設立に始まり、地元の努力で実現した。区立小石川五丁目短期入所生活介護施設等の一角に、寄付を募った文京区石川啄木基金を活用して整備した。啄木の足跡や文京区との関わりを中心に、パネル、年表、書簡などで紹介している。

 現地にはもとは東京都旧跡石川啄木終焉の地の石柱が建っていたが、再開発に伴い撤去され、啄木ファンや住民を寂しがらせていた。歌碑を建立してよすがとし、「悲しき玩具」冒頭の二首を記した。石材は盛岡産の姫神小桜石を用い、渋民建立の最初の啄木歌碑と同じ材質に、望郷の念を刻んだ。昨年3月22日には成澤廣修文京区長、谷藤裕明盛岡市長らが参列し、除幕式が行われた。

  文京区アカデミー推進課観光担当の諸久子主査は「文京区は東大はじめ大学が19ある文化と教育の区であり、名前に文が付く文学の都。森鴎外や夏目漱石はもとより、啄木、樋口一葉、坪内逍遙が住み、宮沢賢治の旧居跡もある」と話す。文壇の奥座敷として都心部にあり、多くの名作の舞台となってきた。

  盛岡市とは区市の共催で啄木学級文の京講座を開くなど、文化や観光で協力してきた。盛岡市教委歴史文化課の岡聰学芸主査は「東京との間に築いた協力の間柄を続けながら、お互いに啄木を顕彰していきたい。文京区は上京した先人たちが一度はお世話になったところだ」と話し、新渡戸や賢治も含めた縁を大切にしている。


というわけで、啄木が取り持つ縁で、盛岡市と東京都文京区の地域交流が行われているとの内容です。調べてみたところ、両市区は、東日本大震災を受け、「「石川啄木ゆかりの地」災害時における相互応援に関する協定」も結んでいました。ある意味、すばらしいですね。

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行政レベルで地方自治体同士が、一人の人物を媒介にして交流。調べれば他にもあるのでしょうが、あまり多い例ではないと思います。

そういえば、戦後、光太郎が暮らした岩手県花巻市と、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が設置された青森県十和田市は、友好都市ということになっています。ただ、そもそもは、花巻出身の新渡戸稲造の祖父・傳(つとう)と父・十次郎、兄・七郎の三代が、十和田三本木原の灌漑開発に功績があったことから結ばれたそうです。

しかし、後付けですが、両市とも光太郎に縁が深いということで、その点からの友好都市交流も行われています。昨年は十和田市主催の花巻市探訪ツアーで、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)と、リニューアルなった花巻高村光太郎記念館の見学、逆に花巻市太田地区振興会の皆さんが十和田湖を訪れての交流会などがありました。

さて、上記『盛岡タイムス』さんの記事にもあるとおり、文京区は光太郎が最も長く暮らしたところです(当時は本郷区でしたが)。また、盛岡にもたびたび足を運んでいます。そして啄木と光太郎も与謝野夫妻の新詩社や雑誌『スバル』を通し、縁がありました。光太郎が脚本を書き、啄木が出演した素人演劇なども上演されています。また、智恵子が通った日本女子大学校も文京区(こちらも当時は小石川区でしたが)です。

そんなこんなで、やはり後付けで、盛岡市さと文京区さんの交流に、光太郎もからめていただきたいものです。

そう考えると、光太郎智恵子に深く関わる自治体さんは他にもたくさんあります。それぞれの地でいろいろやっていただいている部分はありますが、そういったところ同士での、光太郎智恵子を縁(えにし)とする交流も活発になってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寝顔よき女や春の汽車の中        明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎の短歌、俳句は、その詩と同様に、直截なものが多いのが特徴です。これなどはその最たる例の一つですね。

東京・内幸町から舞台公演の情報です。

第29回ゆーりんプロデュース公演・新人公演 ~詩と語りと芝居で紡ぐ~「智恵子抄」

期   日 : 2016年4月7日(木)~10日(日)
会   場 : 千代田区立内幸町ホール 千代田区内幸町1-5-1
時   間 :
 4月 7日(木) 18:15開場 19:00開演 プロデュース公演☆    
 4月 8日(金) 18:15開場 19:00開演 プロデュース公演◎
 4月 9日(土) 12:15開場 13:00開演 プロデュース公演◎
                    17:15開場 18:00開演 プロデュース公演☆
 4月10日(日) 12:15開場 13:00開演 新人公演
                     17:15開場 18:00開演 新人公演
劇作・脚本 : よこざわけい子
演   出 : こじま智之
音   楽 : 石山理
出   演 : 
 プロデュース公演☆ ・・・ 北斗誓一 池田祐子 山端零     他
 プロデュース公演◎ ・・・ 長野伸二 近藤波美 池田拓馬   他
 新人公演        ・・・ 眞對友樹也 石原佳奈 高塚智人 村上奈津実 他
料   金 : 前売り4000円  当日4300円 (全席指定)

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声優としてもご活躍中のよこざわけい子さんが代表を務められる「ゆーりんプロ」さんの公演です。複数回公演がありますので、行きやすいのではないでしょうか。

このところ、この手の公演が立て続けにあって、ありがたいかぎりです。


奥深く示唆に富む光太郎智恵子の世界、様々な解釈はあるかと思いますが、それぞれの視点で料理していただいて結構ですので、どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

しろ菫落しゝながらその水のその平和(やすらぎ)にたゞまかせつる

明治34年(1901) 光太郎19歳

春本番、あちこちで菫の花も目に付くようになりました。

東京でもソメイヨシノの開花宣言がなされそうです。

当方自宅兼事務所の庭では、ソメイヨシノではありませんが、早咲きの何とか桜が既に満開です。震災の年に苗を買ってきて植えました。

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さて、智恵子の故郷・福島二本松の桜がらみの展覧会を二つご紹介します。 

第4回 福島の桜フォトコンテスト写真展 東京展

期 日 : 平成28年3月26日(土)~4月3日(日)
時 間 : 午前11時~午後9時
会 場 : 丸ビル 3階回廊(東京都千代田区丸の内)東京駅丸の内南口より徒歩1分
主 催 : NHK福島放送局 福島民報社 福島民友新聞社 福島県写真連盟
共 催 : 福島県
内 容 :6c2092aa

 【展示作品】入賞作品10点 入選作品40点
 【テーマ】「春を彩る福島の桜」
 【審査委員長】写真家 大石芳野
入場方法: 入場自由
問 合 せ:
 ●写真展について
 NHK福島放送局  電話 024-526-4660(平日 午前9時30分~午後6時)
 ●会場案内について
 丸の内コールセンター 電話 03-5218-5100(午前11:00~午後9:00)※日曜・祝日は午後8:00まで

福島には数多くの桜が咲き誇ります。東日本大震災と原発事故から4年、今年も福島を美しく彩る桜は、人々を和ませ、勇気づけてくれました。
4回目となるNHK「福島の桜フォトコンテスト」には県内外の557名の方から1346点の作品をご応募いただきました。これら作品を通じて、復興のシンボル「福島の桜」が美しくも力強く咲く様子をお楽しみいただければ幸いです。

たまたまテレビでNHKさんを見ている時に案内が流れ、知りました。第4回ということで、3年前から実施されていたようです。上記に「東日本大震災と原発事故から4年」とあるのは、募集の時点での話ですね。

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昨春募集があった応募作品のうち、入選作品50点が展示されます。どれも素晴らしい写真ばかりでした。

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調べてみましたところ、二本松の智恵子生家裏の鞍石山にある、光太郎詩「樹下の二人」碑で撮られた作品も含まれていました。

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こうした展覧会が東京で開催されるというのはいいことですね。

第5回の募集も始まっています。来春にはやはり東京展があるのでしょう。

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また、「東京展」とわざわざ銘打っているということは、他にも巡回があるのでは、と思い、調べてみましたところ、福島県内各地と大阪で既に行われていました。気付きませんでした。第5回に関しては早めの情報収集を心がけます。


もう1件ご紹介します。 

二本松さくら展

期 日 : 平成28年4月9日(土)~5月8日(日) ※期間中無休
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場 : 
二本松市大山忠作美術館  福島県二本松市本町二丁目3番地1
料 金 : 一般410(300)円、高校生以下200(150)円
                       ※( )内は20名以上の団体料金
主 催 : 二本松教育委員会
企画・協力 : 「二本松さくら展」実行委員会

門外不出の東山魁夷「花明り」をはじめ、日本画の巨匠達が描いた約30点の桜が館内に咲き誇ります。ぜひ二本松城(お城山)など市内を埋めつくす満開の桜と併せて、ご覧下さい。

出品作家一覧
 伊藤深水 上村松園 奥村土牛 奥田元宋 岡信孝 大山忠作 川合玉堂 川端龍子 後藤純男
 佐藤太清
 高山辰雄 田渕俊夫 中島千波 浜田泰介 東山魁夷 平松礼二 平山郁夫 稗田一穂 
    前本利彦 牧進
 森田曠平 森田りえ子 山本丘人 室井東志生 横山大観

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二本松出身の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する美術館での企画展です。大山画伯には同郷の智恵子を描いた作品も複数有ります。チラシに使われている「花霞」は、背景に安達太良山。また、「花霞」というのは、智恵子の実家・長沼酒造で作っていた清酒の商標名でもあります。

そんなご縁で、画伯のご長女で女優の一色采子さんからご案内を戴きました。一色さん、今年の連翹忌にもご参加下さるそうです。

こちらもぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

「ガルソン」が何やら言ひぬ春の宵    明治42年(1909) 光太郎27歳

「ガルソン」は「Garçon(ギャルソン)」。「ウェイター」と訳すと、ちょっと興が削がれます(笑)。

青森の地方紙『デーリー東北』さん。先週、一面コラムで光太郎について触れて下さいました 

天鐘(3月15日)

彫刻家で詩人だった高村光太郎の手と足は並外れて大きかった。国産の革靴は入らず米国人から譲り受けた13文半(32センチ)を愛用。長靴は靴屋で一番大きい12文半(30センチ)を調達したが小さくて我慢して履いていたという▼花巻市の記念館が所蔵する革靴と長靴を改めて測っていただいた。12文半で窮屈だから32センチ近かったのだろう。身長は6尺(180センチ)で当時としてはかなりの偉丈夫だが、体躯(たいく)にも増して手足が大きかった▼32センチなら身長209センチのジャイアント馬場と同じ。「16文キック」は米靴規格の号を文と取り違えたためで実際は14文だった。光太郎は大きな四肢を気にしていたが、自身の左手を描いた塑像は指が長くて美しい▼24歳の時、留学先の米国で自作にいたずらした学生の腕を締め上げた。すると柔道と勘違いされ、レスリング選手と闘うはめに。柔道は未経験だったが逆手で押さえつけたら相手は悲鳴を上げて降参したとか▼頑丈な体躯をサンドー体操(今のボディビル)で鍛え、腕っ節も人一倍強かった。戦争を賛美した芸術家が素知らぬ顔で転向していく中、彼は戦争詩を書いた贖罪(しょくざい)から花巻の山麓で独居生活に入り、自らを戒めた▼明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。輸入軍靴が大き過ぎたためだが、逆に手足が国際規格の光太郎を悩ませた。和製ロダンの秘話である。


意外と知られていない光太郎のエピソードを紹介して下さり、ありがたく存じます。

30㌢の靴が小さくて我慢して履いていたというのは本当のようで、常に靴や靴下には困っていたことが、いろいろな文献から伺えます。

つい昨年発見した書簡にも記述がありました。

 本当にあるのですね。
 あたたかい十三文の靴下。送つていたゞいて、小生の特大の足もよろこんでゐます。ばけもの屋敷で、あたたかい冬がこせそうです。有り難う存じます。
(昭和16年=1941 12月10日 西倉保太郎宛はがき)

「ばけもの屋敷」は、智恵子没後の駒込林町のアトリエ。近所の子供達がそう呼んでいたそうです。


それから花巻高村光太郎記念会さんで復刊した『高村光太郎山居七年』という書籍にも。

 山口に移った旧冬、先生が戸来恭三さんの所へ来た時、
「冬になって雪が降ってきたが、下駄があるだけで、はきものがなくて困りました。何しろ僕の足が特別大きいので、はき物を探すには大変苦労します。」
「それあ、ことだなす。先生などにお使いってもらうのは、ほんとに笑いごったどもが、こっちの方では藁であんだつまごというのめいめいの家でつくってはくもなす。そんなもんでよくおでれば、何時でもつくって上げあんす。」
「つまごというのは藁の靴のことでしょうね。……それはまことにいい話を伺いました。藁は毛皮についで保温の性能がよいということだから、藁の靴ならまことにあたたかでよいでしょう。是非一つお作りになっていただきます。僕の足はとても大きいのだから。十三文位あるんだから。そこをよくしってつくっていただきたいです。」
 恭三さんは、藁細工の上手な老父に頼んで早速大きなつまごを作って貰いました。そのつまごは、編上げの靴風に足くびも隠れる半長の吟味したものでした。
 その靴を先生に届けた所、手にとり色々にもちかえて眺め、靴の中へ手を入れてみたり、足袋の足にあわせてみたりして大変喜ばれ
「これは素晴らしい。これがあれば雪の道も暖かく歩けます。大きさもたっぷりできてるし、それに美しい。」
 先生は冬を通して此の靴を愛用しました。春になってその藁靴が要らなくなった時、小屋の東側の水屋に近い柱にかけておきましたが、その藁靴が何枚かのスケッチの材料となりました。

昭和20年(1945)、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に移り住んで間もなくのエピソードです。

光太郎が愛用したつまごの実物は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。また、昭和22年(1947)、甥の故・高村規氏に送ったはがきに、このつまごが描かれています。

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他にもやはり米兵用と思われる特大の靴下をもらって喜んだ話も載っています。


再び「天鐘」。怪しげな柔道技で米国人学生をギブアップさせた話、ボディービルの話も実話です。4年程前にこのブログでもご紹介しました。

こうした人間くさいエピソードを知ると、ぐっと身近に感じると思うのですが、どうでしょうか。


ちなみに「天鐘」末尾に「明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。」とありますが、その工場を造ったのが西村勝三。のち、明治39年(1906)になって、東京向島の西村家別邸に、光太郎の父・光雲が原型を作った西村の銅像が建立されています。

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【折々の歌と句・光太郎】

自転車を下りて尿すや朧月       明治33年(1900) 光太郎18歳

軽犯罪法違反ですが(笑)、これも人間くささの表れ、ということで。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。昨日始まった、鎌倉市川喜多映画記念館さんの「特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子」を拝見して参りました 

特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子

期  日 : 2016年3月18日(金)~7月10日(日)
会  場 : 鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2番地12号
時  間 : 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
料  金 : 一般300円(210)円 小・中学生150円(105)円 ( )内は団体20名以上

〜 美しき微笑と佇まい、スクリーンに輝いた大スターを偲んで 〜
戦前から戦後にかけて日本映画の黄金期に活躍し、こつ然と銀幕を去った後、鎌倉で終生を過ごした原節子。昨年、その訃報が届き、多くの人々が偉大な映画女優の逝去に深い追悼の意を表しました。小津安二郎監督による『晩春』『麦秋』『東京物語』で演じた「紀子」の品性に満ちた美しさや、成瀬巳喜男監督、黒澤明監督などの作品で演じた女性像は、映画を愛する人々の心に永遠に刻まれていることでしょう。
本企画展では、公私ともに親交の深かった写真家・秋山庄太郎による他では見る機会の少ない貴重なポートレートの数々を展示いたします。また、日独合作映画『新しき土』のドイツ公開にあわせて渡欧した際の写真アルバムや特別映像もご覧いただきます。関連作品の上映では、鎌倉文士の永井龍男、今日出海原作の映画化作品の上映もございます。鎌倉における本企画展にて、映画女優・原節子を偲び、皆様の思いを馳せていただく機会になれば幸いです。

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昨秋亡くなった伝説の映画女優・原節子さん。昭和32年(1957)には、熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。この際には、福島二本松の、智恵子の生家や二本松霞ヶ城などでもロケが行われました。

「智恵子抄」関連の展示があるかどうか、実際に行って見てみないとわからないので、半分賭けでしたが、時間もあったので、鎌倉まで車を走らせました。

川喜多映画記念館さんは、鶴岡八幡宮にほど近いところにあります。鎌倉駅からですと、小町通りを北上し、八幡宮に出る直前を左折するとすぐ見えてきます。当方は八幡宮近くに車を駐め、八幡宮の前を通って行きました。

先日閉館した「カマキン」こと神奈川県立近代美術館・鎌倉館さん。当初は閉館に伴って建物も取り壊される予定でしたが、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品ということで、遺されることになりました。

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さて、川喜多映画記念館さん。

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当方、中に入るのは初めてです。

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受付で入館料300円也を払い、左手の展示室へ。

早速、「智恵子抄」の立看用のポスターが壁面に飾られているのに気付きました。「来た甲斐があった」と胸をなで下ろしました。

その後、順路に従って拝観。原さんの年譜や故・秋山庄太郎氏撮影のポートレート、当時の雑誌、出演作品に関する資料などなど。

原さんの出演作品は少なくなく、代表作の「東京物語」や「青い山脈」などは大きく取り上げられていました。反対に、初期の頃などのあまり有名でない作品は簡単な説明。「智恵子抄」はその中間といった扱いで、最初に見た立看用の縦長のポスター以外にも、通常サイズ(B2判)のポスターやスチール写真などが展示されていました。

当方、原さんの「智恵子抄」ポスターは10種類近く所蔵しています。最初に目に付いた立看用のものは同じものを持っていますが、通常サイズ(B2判)のものはまだ入手できていません。今回展示されているものとは異なるバージョンは持っています。今回のものも、いずれは入手したいものです。

こちらには上映室も完備されており、以前にも「智恵子抄」の上映がありました。来月から、「智恵子抄」を含む原さん主演の映画、計12本が順次上映されます。また近くなりましたら改めてご紹介しますが、「智恵子抄」は最後、7月の上映です。

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ぜひ足をお運びください。

ところで当方、原さんの「智恵子抄」がらみの資料をコツコツ集め続け、気付いたらかなりの量になっています。ポスター、チラシ、パンフレット、スチール写真、撮影風景のスナップ写真、カメラテスト用に撮られたと思われるポートレート、当時の雑誌などなど。「原節子と映画「智恵子抄」」という企画展が出来る程度の量です。この際に、どこかでやっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寺に入れば石の寒さや春の雨     明治42年(1909) 光太郎27歳

やはり欧米留学中のイタリア旅行での作ですので、「寺」は仏教寺院ではなくキリスト教の教会、修道院の類です。ただ、日本の風景としてイメージしても通用する句ですね。

今週月曜日の「しんぶん赤旗」さんの記事です。 智恵子の故郷、福島二本松から。 

平和な故郷願って 福島に生きる 『風船爆弾になった和紙』冊子にまとめた 安斎克仁さん(79)

 「原発両稼働も、安保関連法(戦争法)にも反対です」。福島県二本松市の安斎克仁(あんざい・かつに)さん(79)は、今の政治を許さない決意をそう語ります。

■ほんとの空守れ
 「私たちは安達太良山を『お母さんの山』と言っています。原発は『母さんの山』にふさわしくないのです」と安斎さん。山頂に乳首のような突起があり、別名「乳首山」とも言われています。
 高村光太郎の『智恵子抄』で「安達太良山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だ」と詠われました。
 安斎さんは言います。「母なる山が原発事故で汚されました。『ほんとの空』を守るためには自然エネルギーに転換しないといけません」
 安斎さんの次男の妻と当時7ヵ月だった孫は2年間長野県に避難しました。
 「古里に戻るためには平和でないと」と考える安斎さん。このほど『風船爆弾になった和紙』を冊子にまとめました。
 安斎さんが住む二本松市上川崎地域は「千年以上の歴史を誇る手漉(す)き和紙の産地」でした。
 平安時代に「みちのく紙」と呼ばれました。紫式部や清少納言たちに愛された「まゆみ紙」は上川崎地域で漉かれたと伝えられています。
 戦中、上川崎村には和紙製造工場は239戸ありました。
 1944年から45年にかけて軍用紙の生産割り当てがなされました。福島県への割り当て枚数は50万枚。そのうち上川崎村は約40万枚を納めたと記録されています。
 須賀川市史には、「陸軍の依頼で、コンニャク糊(のり)塗り加工作業に須賀川町第二国民学校高等科生徒男女百五十名が動員された」と書かれています。「機密保持のためか、上川崎村で漉かれた和紙とは、知らされても、書かれてもいない」
 安斎さんがこうした郷土の歴史に関心を持つようになったのは「国民学校」3年生の時の戦争体験でした。
 45年7月12日深夜、何十機もの米軍機が飛来し、照明弾が投下され、その後に農家を狙って焼夷(しょうい)弾の爆撃が繰り返されたのです。
 全焼した農家は2戸、ボヤ2戸。幸い死傷者はありませんでした。「紙漉きの村がなぜ爆撃されたのか」。安斎さんの長年の疑問でした。当時は「誤爆」だったと言われてきました。

■自分が加害者に
 安斎さんは、関係郷土史と米国側の資料などを研究。それらを総合すると「和紙は風船爆弾の第一番の材料。その生産地となった和紙の里をねらってアメリカが報復爆撃した」のが真相ではないか?と推論しました。
 風船爆弾は44年11月から福島県勿来、茨城県大津、千葉県一宮から飛ばされました。計9300個飛ばされて偏西風にのってアメリカ大陸に到達した数は推定1000個とみられています。
 45年5月5日、オレゴン州の村で5人の子どもと、牧師の妻が風船爆弾で死亡しています。
 「オレゴンの悲劇」と言われ、上川崎村への爆撃はそれから2カ月後のことでした。
 「戦争の被害者とばかり思っていたのが知らぬ間に加害者の立場になっていたのかもしれません。戦争は二度と繰り返してはなりません」  (菅野尚夫)



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東日本大震災に伴う福島第一原発の事故に、「ほんとの空」の語をからめるのはよくあります。それがメインの記事かなと思って読んでいたら、さにあらず。特産の和紙が戦時中の兵器「風船爆弾」に使用されたかもしれず、その報復的な意味合いであろう空襲を受けた、とのこと。この件は当方、全く存じませんでした。当方、二本松に行った際、便箋などの上川崎和紙の製品をよく買っています。

ちなみに「風船爆弾」を飛ばした場所のうち、記事にある「千葉県一宮」は、昭和8年(1933)、智恵子が療養していた九十九里浜の南端です。この件は知っていましたが、その材料の和紙が二本松の上川崎和紙だった可能性が高いというのは驚きでした。

そう考えると、本当に戦争は憎しみの連鎖を生み出すものだ、と感じました。現代においても空爆とテロのいたちごっこが続いています。そこに我が国も荷担せざるを得なくなるような法整備は、断じて許してはいけないと思いますね……。

放射線も戦闘機も飛んでいない、「ほんとの空」が世界中に広がってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

草青しロムバルヂアの大平        明治42年(1909) 光太郎27歳

「ロムバルヂア」はイタリア北部、スイスとの国境に接するロンバルディア州です。107年前の今頃、光太郎は留学先のパリを発って、スイス経由のイタリア旅行に出ました。

昨日は、過日ご紹介した朗読公演「朗読人の四季~2016春」を聴いて参りました。

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このブログで何度かご紹介している作曲家の野村朗氏が所属されている。国際芸術連盟さんという音楽事務所の主催で、会場は東京都江東区清澄白河の深川江戸資料館さんでした。

杉山典子さんという方による「智恵子抄」からの朗読がプログラムに入っており、それが目あてでした。

取り上げられたのは6篇。光太郎智恵子婚約の年(大正2年=1913)に書かれた「僕等」、智恵子が心を病み、九十九里浜で療養していた当時を回想して書かれた「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(同14年=1939)、没後の智恵子を偲ぶ「亡き人に」(同)と「梅酒」(同15年=1940)、そして戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活の中で生まれた「案内」(同25年=1950)。

非常に落ちついた深みのあるお声で、変な抑揚などは付けず(時折そういう朗読に出会って閉口することがあるのですが)、それでいて随所に工夫が施されていました。例えば、「レモン哀歌」では、「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして/ あなたの機関はそれなり止まつた」の改行の箇所(「/」の部分)では、音楽でいうと長い休符を入れ、実際に深呼吸されていました。

終演後に少しお話をさせていただきましたが、杉山さん、福島の猪苗代にお住まいだそうです。同じ福島の智恵子に対する思い入れがおありなのでしょう。

それにしても、杉山さんの朗読を聴きつつ、光太郎の詩は朗読に向いている詩だと、改めて感じました。詩の朗読というと、定型詩または自由詩でも定型詩に近いものこそ、朗読向きだと考える傾向があるようですが、はたしてそうなのでしょうか。

光太郎にもそういう作品がありますが、五七調、七五調の定型におさめるために、不要な単語が入っていたり、無意味な倒置などが使われたりと、不自然な日本語になっている場合が多々あります。やはり詩にしても散文にしても、自然な日本語であることが望ましいと思います。その上で、声に出して読んで、しっかりと美しい語感が表現されていることが実感できるもの、それこそが「名詩」「名文」の名にふさわしいのではないでしょうか。

その点、光太郎の詩にはそういうものが多いように思われます。この辺は感覚の問題なので、理論的に説き明かすことは不可能に近いのですが……。

文学を含む芸術に限らず、あらゆる表現活動に共通していえることとして、「何を」「いかに」表現しているかという点で、評価が為されるのだと思います。どんなに素晴らしい内容を伝えようとしていても、その表現方法がまずければ伝わりませんし、技巧を凝らした表現方法を工夫したところで、では、何を伝えたいの? というものに出くわすこともあります。

こうした点は、二次創作的な場合にも当てはまるでしょう。

様々な示唆に富む奥深き光太郎智恵子の世界、「何を」の部分は申し分ない素材です。それを「いかに」表現するか、杉山さんのような素晴らしい朗読もその一つの方法でしょうし、様々な二次創作により、いろいろな分野の表現者の方々がそれに取り組んで下さっています。飽くなき探求心を持って、優れた素材の魅力をより一層輝かせる取り組みが行われ続けることを願います。
「お前の書いているものはどうなんだ?」と言われると、ぐうの音も出ませんが……。

ちなみに昨日の公演、「智恵子抄」以外には、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「蜜柑」、京極夏彦氏の「旧(ふるい)怪談―耳袋より」から、谷崎潤一郎「春琴抄」が取り上げられ、杉山さんの他、3名の方が朗読なさいました。それぞれに好感の持てるいい朗読でした。


【折々の歌と句・光太郎】

春風や屋根ささやかな駒形堂   大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃

駒形堂」は隅田川沿いに立つお堂で、少し離れていますが、浅草寺の伽藍の一つです。

毎年ご紹介していますが、4月2日の光000太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さん(先頃、閉店が発表されたマルカンデパートさんの裏手)で、花巻としての連翹忌が開催されます。それぞれ花巻高村光太郎記念会さんの主催です。

昨日発行の『広報はなまき』に案内が載りました。

ちなみに東京では日比谷公園内の松本楼さんで行っていますが、今年は「第60回」です。光太郎一周忌の昭和32年(1957)に、「第1回」を行い、カウントが続いています。

花巻の方は「61回忌」として行われるはずです。「~回忌」は、年令の数え年と同じで、亡くなった年の葬儀を「0」ではなく「1」と数え、翌年のみ「一周忌」と表しますが、さらにその翌年が「3回忌」となり、以後、数字が増えていきます。したがって、東京日比谷での連翹忌とは数字が異なります。


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当方、東京での連翹忌を進行しなければなりませんので、花巻の連翹忌に参加したことはありませんが、光太郎第二の故郷ともいえる花巻での取り組みも、末永く続いてほしいものです。お近くの方で、東京には来られないという方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

石崩(いしくへ)の崕(がけ)のはざまのほけ土も足るや花さき瑠璃の色しぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

「ほけ土」は『広辞苑』によれば「ねばりけがなく草木の生育に適さない土」。漢字では「壚土」と書きます。

東京は北区王子からの舞台公演情報です。 

劇団東京イボンヌ第3回企画公演「コンサートと無伴奏 ~永遠の愛~」

期  日 : 2016年3月29日(火)・30日(水)・31日(木)
会  場 : 北とぴあ カナリアホール 東京都北区王子1丁目11−1
時  間 : 3/29 19:30開演   3/30 14:00開演 19:30開演   3/31 12:00開演 16:00開演
料  金 : 前売り・当日 3700円
出  演 :
 【演奏家】のコンサート
  小松真理(ピアノ) 土田卓(コントラバス) 松谷明日香(特別ゲスト・チェロ)
  柴田真理(クラリネット) 吉澤正一郎(クラリネット) 大平治世(フルート)
  数馬尚子(チューバ) 安岡亜佳音(トランペット)
 【声楽家】のコンサート
 河野鉄平(バス) 中村祐哉(テノール) 浅川荘子(ソプラノ) 岡﨑麻奈未(ソプラノ)
 齋藤麻衣子(ソプラノ)
 【朗読】~「智恵子抄」より~  俳優 伊達裕子 ソプラノ 浅川荘子
 【演劇】~「無伴奏」ダイジェスト~
 河野鉄平 渡辺多恵子 濱仲太 (特別ゲスト) 鹿目真紀 大澤慶祐 中村祐哉 藤田幹彦
主  催 : 劇団東京イボンヌ

桜が咲く頃、劇団東京イボンヌは~永遠の愛~をテーマに盛り沢山の演奏、歌、言霊をお届けいたします。春爛漫の饗宴を是非お楽しみくださいませ。桜吹雪のように乱れ散りませう。

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「東京イボンヌ」さんは、「クラシックの楽曲をテーマに、 曲に込められた魂を物語に紡ぎだす演劇集団」だそうです。「智恵子抄」を取り上げていただけるそうで、ありがたく存じます。

伊達裕子さんという方の朗読と、浅川荘子さんという方のソプラノでの構成だということです。

光太郎智恵子の世界を広めていっていただきたいもので、こういう企画を通じてのそれも大歓迎です。数十年後くらいに「えっ? 「智恵子抄」? 何、それ?」という世の中になっていないことを祈ります。


【折々の歌と句・光太郎】

あな薫り夢か春の野むらさきのやわきちひさき征矢(そや)ふりそそぐ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「やわきちひさき征矢」は、柔らかな春の日の光を矢に例えています。関東地方、今朝は久々に晴れました。ただ、若干冷たい風が強めに吹いており、布団を干すかどうか、今、悩んでいます(笑)。

名古屋から朗読劇の情報です。 
期  日 : 2016年3月29日(火)・30日(水)
会  場 : HITOMIホール 名古屋市中区葵三丁目21番19号メニコンアネックス5F
時  間 : 3/29 18:45開演 3/30 1回目 15:00開演 2回目 18:45開演
料  金 : 1,500円(全席自由)
出  演 : 間瀬礼章(朗読) 斎藤美七海(智恵子役) 水野慎太郎(ヴァイオリン)
       河井裕二(チェロ)千葉周平(ピアノ) 宗川諭理夫(企画・作曲)
主  催 : メニコンビジネスアシスト(MBA)イベント事業部
問い合せ : メニコンビジネスアシスト(MBA)イベント事業部
電話予約 : 052-938-6232(平日10:00~17:00)
メール予約   : mba-event@menicon-net.co.jp
※お名前、チケット枚数、ご連絡先電話番号、チケット郵送先ご住所を明記のうえ、メールを送信ください。

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昨年、同じ会場で「智恵子抄~故郷 福島への想い」という、舞踊系の公演がありました。何かそういう土壌があるのかな、と思って調べたところ、コンタクトレンズメーカーのメニコンさんが持っている施設で、「「視ること」の素晴らしさを多くの方に届け、また、その喜びを分かち合いたいという願いから、社会貢献活動の一環として、さまざまな形で芸術や文化、福祉の支援を行っています。」だそうです。そういう企業さんも少なくはないとは思いますが、素晴らしいですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨やジヨツトの壁画色褪せたり   明治42年(1909) 光太郎27歳

「ジヨツト」はジョット・ディ・ボンドーネ。ゴシック期のイタリア人画家です。後のルネサンスに多大な影響を与えました。

「壁画」は、おそらくパドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画でしょう。光太郎はイタリア旅行の際にパドヴァも訪れています。

今日は光太郎の誕生日です。戸籍上は明日、3月14日を誕生日としていますが、家族も光太郎自身も、13日を誕生日と認識していました。

存命であれば、満で言うと133歳。ただ、この時代の人はまだ数え年で数えていましたので、このブログでも光太郎の年令は数え年で表記しています。児童生徒の「1年生」「2年生」のように、出生の時点で「生まれて1年目だから1歳」と数える方式です。学校に「0年生」がいないのと同じで、「0歳」というのは存在しません。

閑話休題。

昨日は、当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市と隣接している旭市に行っておりました。用件自体は光太郎がらみではなく、趣味で取り組んでいる音楽関係の用事でしたが、それが終わった後で、光太郎にからめました。

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旭市の東端に「刑部岬」というところがあります。北の銚子から連なる屏風ヶ浦と、南の九十九里浜との境界で、飯岡灯台も設置されています。

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さらに「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜」という施設があります。

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展望館という名の通り、ここに上がると眺望が開けます。

南に目をやると、弧を描く九十九里浜。

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その中央やや南寄りのあたりが、昭和8年(1933)、智恵子が療養していた片貝(現・九十九里町)

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ちなみによく晴れた日には、ここから富士山も望めます。

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ただ、当方、ここには5~6回行きましたが、空が霞んでいる時が多く、富士山が見えたのは1度だけでした。

北に目を転じると、銚子の犬吠埼が見えます。

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大正元年(1912)、写生旅行に来ていた光太郎を追って智恵子も来、愛を確かめた場所です。光太郎にはこの年発表された「犬吠の太郎」という詩もあります。

というわけで、今日誕生日を迎える光太郎を偲んで参りました。

高台にある刑部岬を下りると、飯岡漁港です。展望館から漁港が一望できます。

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3.11翌日ということもあり、そちらにも足を運んでみました。

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昨日も書きましたが、この辺りは東日本大震災で津波が押し寄せ、尊い命が奪われています。3.11当日の一昨日は、旭市で県と市による合同慰霊祭が行われました。5年が立ちましたが、ひん曲がった杭などにまだ傷跡が残っています。

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さらに南下すると、九十九里浜に出られます。

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5年前のあの日、この海が牙を剝いたのです。ここ飯岡で亡くなった方々、そしてやはり5年前のあの日、宮城県女川町で津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんを偲び、手を合わせました。下記は当時の旭市の様子。

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帰りがけ、高台の畑作地帯を通りました。たくさんの風車が回っています。

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銚子ウィンドファーム」と言って、大規模な風力発電施設です。他に耕作放棄地に設置されたソーラーパネルもかなり目に付きました。やはり、当方毎年訪れている川内村など、福島第一原発を抱える福島に思いを馳せざるを得ません。これがもっと広まれば、それで充分じゃないか、という気がします。

風力発電、太陽光発電とも、いろいろ課題はあるのでしょうが、少なくとも壊れても放射線を垂れ流すことはありません。いい加減、原子力ムラの利権に群がる人々には目を覚まして欲しいものです。

東北の被災地に光太郎智恵子ゆかりの地が多いということで、当方、復興支援の問題に非常に関心を持っておりますが、これも光太郎智恵子のもたらした縁と考え、今後も活動を続けたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

春の草ふみてあるきたや友おくりたや   昭和20年(1945) 光太郎63歳

駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、宮澤賢治の実家の招きで花巻に疎開、直後に肺炎で臥床していた折の作品です。花巻まで行き添ってくれた年若い友人・宮崎稔の帰京に際しての作と推定されます。

シチュエーションは違えど、当方も昨日、九十九里浜で、志を同じうした亡き友・貝(佐々木)廣さんを偲びました。

これまでも時折紹介してきましたが、各地で開催される市民講座的なもので、光太郎智恵子の世界を扱ってくださる企画がありますので、ご紹介します。 

平成27年度あきたスマートカレッジ連携講座 支え合う文学者たち 『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛(同人)

期 日 : 2016年3月24日(木)
会 場 : 秋田県生涯学習センター講堂
時 間 : 午前10時から午前11時30分まで
講 師 : 秋田県生涯学習センター シニアコーディネーター 北条常久氏
受講料 : 無料
申込法 :
次の事項を、県生涯学習センターまでお伝え下さい。<電話やFAX、E-mailでも可>
①受講者番号 (受講者番号をお持ちでない場合には、住所・電話番号) ②氏名 ③希望講座
問合せ・申込先 :
 秋田県生涯学習センター 〒010-0955 秋田市山王中島町1 -1
 TEL:018-865-1171 FAX:018-824-1799 E-mail:sgcen002@mail2.pref.akita.jp

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講師の北条常久氏には、『詩友 国境を越えて―草野心平と光太郎・賢治・黄瀛』というご著書があります。講座の題名にもなっている4人の詩人の交友を追った力作です。

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当方、平成25年(2013)秋、福島県川内村で行われている心平を偲ぶ集い・「かえる忌」にて「高村光太郎と草野心平の交流」と題して講演をさせていただきましたが、その際には大いに参考にさせていただきました。

今回の講座も、近くであればぜひ行きたいのですが……。


続いて茨城水戸から。 

日本の詩をよむ-人と作品の魅力 ~高村光太郎と室生犀星~

期 日 : 2016年4月5日、5月31日、6月7日、7月5日、8月2日、9月6日 (全て火曜日)
会 場 : NHK文化センター水戸教室 茨城県水戸市三の丸1-5-38 三の丸庁舎2F
時 間 : 各回とも10:15~12:15
講 師 : 日本文藝家協会会員 成井惠子氏
受講料 : 12,960円(税込み)

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さらに同じNHK文化センターさんの講座で、東京青山教室で開催される講座。  

【1年で学ぶ教養】美のコトバ ~芸術家たちの言葉の世界~

期 日 : 2016年4月6日~2017年3月8日 全12回(すべて水曜日)
会 場 : NHK文化センター青山教室 東京都港区南青山1-1-1 新青山ビル西館4F
時 間 : 各回とも10:30~12:00
講 師 : 批評家 若松英輔氏
受講料 : 38,880円(税込み)

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全12回のうち、4/6の第1回が「高村光太郎と近代日本の彫刻家たち」、11/9で第2回「ロダンの言葉」、来年2月に開催される第11回では「岸田劉生と白樺派の芸術」となっています。


こうした市民講座的なものでも、光太郎智恵子、光雲などについて、もっともっと取り上げていただきたいものです。関係者の皆さん、ご検討を。

当方も毎年、二本松市で開催されている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」で講師を務めさせていただいております。昨年は全体のテーマが「高村智恵子に影響を与えた人々」、その中で当方の受け持ちが「成瀬仁蔵と日本女子大学校」というわけで、NHKさんの連続テレビ小説「あさが来た」の広岡浅子などについて講義しました。

講師のあてがない、という場合、日程さえ調整できればお引き受けしますし、こういう講師を捜している、という場合、ご紹介することもできます。こちらまでご連絡下さい。光太郎、智恵子、光雲に関する内容であれば、たいがいの内容はリクエストにお応えできます。


【折々の歌と句・光太郎】

龍宮へ我は来にけり春の海     明治42年(1909) 光太郎27歳

今日は光太郎がらみではない用事があって、九十九里浜の北端、千葉県旭市に行って参ります(当方の自宅兼事務所のある香取市と隣接していますので、行って参りますという程の距離ではないのですが)。東日本大震災では、東北地方の大きな被害の陰に隠れてあまり知られていませんが、やはり津波の被害を受け、全壊家屋300戸以上、半壊も約1,000戸、確認されているだけで14名の尊い命が犠牲となり、2名の方はいまだ行方不明です。

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ちょうど昨日は3.11でしたし、津波被害の大きかった地区を見てこようと思っています。

「あの日」から5年目を迎えました。

「もう5年」、「まだ5年」……感じ方はそれぞれだとは思いますが、前向きに捉えたいと思います。

そこで、甚大な被害を乗り越え、一歩一歩復興へと歩み続けている、宮城県女川町からの情報です。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅して歩きました。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港の海岸公園に光太郎の文学碑が建てられ、翌年からその碑の前で、女川光太郎の会の皆様により、「女川光太郎祭」が開催されるようになりました。
 
連翹忌にもご参加下さり、女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんが津波に呑まれて亡くなり、石碑も倒壊、繁華街は壊滅状態になるなどしましたが、震災の年から奥様の佐々木英子さんが遺志を継がれ、女川光太郎祭は毎年続いています。

さて、その女川町でのイベントです。こちらも毎年行われてきましたが、今年は5年目の節目の年ということもあり、さらに盛大に開催されるようです。  

夢を叶える町がある 女川町復幸祭2016

開催日 : 平成28年3月26日(土)
 間 : 10:00〜16:00(予定)
会 場 : 女川駅前広場シーパルピア女川周辺
問合せ : 女川町観光協会 TEL:0225-54-4328

 『女川町復幸祭』は、東日本大震災から新生女川へ向けて進む姿を全国の人に見て頂きたいという想いと、『千年に一度の町づくり』への夢と希望を託し、大震災の起こった翌年2012年の3月に初めて開催致しました。
 2016年で5回目を迎える『女川町復幸祭』、今回は2015年12月23日にオープンした駅前プロムナードでの開催となります。
 炭火焼き秋刀魚の無料配布、多数の出店、魅力あるステージ等、一日中楽しめるイベントです。

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会場の「シーパルピア女川」は、昨春のJR石巻線女川駅が復旧したことにともない、新たに駅前に建設中のショッピングモールです。昨年暮れにオープンしましたが、今も拡充が続いています。

そちらのエリアマップがネット上にアップされています。

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故・貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんが店主をなさっている佐々木釣具店さんにもリンクが貼られていました。

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さらに、画家でもあった故・貝氏の紹介も。

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改めてご冥福をお祈り申し上げます。


こうした動きに対し、まるで逆に水を差すように、「東北観光復興元年」などと、まるで説得力のないきれいごとを選挙対策のための思いつきで言っているようなズレたお坊ちゃまの発言が報じられています。だいたい今年を「元年」と位置づけるなら、これまでの5年は何だったんだ? という感じですね。これまでも頑張ってこられた東北の皆さんに、非常に失礼です。地道に努力している皆さんの神経を逆なでして逆効果になるという予測ができない愚かさには、開いた口がふさがりません。さらに復興とか何とか言いながら、その反対側では稼働させてはいけないものをやっきになって再稼働させているこの矛盾……。本当の復興のためには、何を為すべきか、国民一人一人がよく考えたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

わが心はじめて怖るあめつちに一あり二なき力にふれて

明治38年(1905) 光太郎23歳

この歌の詠まれた経緯は今一つ不明ですが、災害を題材にしているようにも読み取れます。

「あめつち」=「天地」の力には逆らえませんが、その被害を最小限に食い止めることや、ましてやそれに伴う「人災」を無くすことは不可能ではないでしょう。「あの日」から5年目の今日、考えたい課題です。

NHKさんで現在放映中の連続テレビ小説「あさが来た」。主人公・白岡あさのモデルとなった広岡浅子を始め、成澤泉こと成瀬仁蔵、田村宜こと井上秀など、光太郎智恵子と縁のあった人々が登場しています。

昨日のこのブログで書きましたが、光太郎の父・光雲と縁のあった人物も既に登場しています。松坂慶子さん演じる大隈綾子です。

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昭和4年(1929)、萬里閣書房から刊行された『光雲懐古談』という書物があります。大正11年(1922)から、光太郎と、光太郎の友人で作家の田村松魚が光雲の談話を聴き、田村がそれを書き留めたものが中心になっています。

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その中に、「大隈綾子刀自の思い出」という一項が設けられています。田村による聞き取りが行われていた大正12年(1923)、綾子が亡くなったことを受け、ちょうどいいい機会だから、と語ったものです。

それによると、綾子は御徒町に住んでいた旗本・三枝家の娘で、その三枝家が光雲の師匠・東雲の得意客であったことに端を発します。

一度は東雲が間に入って綾子が大工棟梁の家に嫁いだり(程なく不縁となり、出戻りましたが)、東雲が三枝家の屋敷を買い取ったり(移築されて、後に徴兵逃れのため光雲の養母となる東雲の姉・悦が暮らしました)、綾子の兄で当主の竜之介が東雲に大黒様の像を彫って貰ったところ、間もなく綾子と大隈重信の結婚がまとまり、大黒様の御利益だと評判になって、三枝家の親類筋からも大黒様の注文が入ったり……若き日の光雲はそうした経緯をそばで見聞きしていました。

また、綾子が大隈家に嫁いだ後、綾子が実家に残した厖大な「南無阿弥陀仏」の願文を、光雲が師匠に命じられて、川施餓鬼の時に、二、三時間かけて吾妻橋から隅田川に流したこともあるそうです。

光雲の綾子評。

噂に聞けば大隈夫人綾子と云ふ人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、成程、娘時代からあれ丈けの辛抱をして心を錬つて居られた丈あつて、今日天下一二と云はれる政治家の夫人となつてもやはりその妻としての役儀を立派に仕終せるといふは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。

綾子が亡くなった後、綾子の過去に関する誤った風聞――光雲曰く「元、料理屋の女中であつたなど、誰々の妾であつたなど」――が広まり、それを憂えた光雲が、懐古談の中で、特に綾子の話をしたというわけです。

ところで、年令の関係ですが、光雲は嘉永5年(1853)の生まれ。綾子は2つ上の嘉永3年(1851)生まれです。ちなみに広岡浅子は嘉永2年(1850)生まれ。浅子の方が年上です。

「あさが来た」では波瑠さん(あさ)と松坂慶子さん(綾子)で、どう見ても綾子の方が年上に見えますが、そこはドラマの演出上、仕方がないのでしょう。


ところで光雲の語った「大隈綾子刀自の思い出」、「青空文庫」さんで読むことが出来ます。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

春をりをり雨の寒さよ一人旅       明治42年(1909) 光太郎27歳

やっと暖かくなったと思ったら、寒の戻りで冷たい雨。「三寒四温」とはよく言ったものですね。

一昨日の『日本経済新聞』さんの教育面に載った記事です。 

キャンパス新発見 日本女子大 建学の精神伝える講堂 1階700席、最近まで活用

 日本女子大学目白キャンパス(東京・文京)の正門をくぐると、右手に教会を思わせる木造の建物が見えてくる。成瀬仁蔵による建学の精神を今に伝える成瀬記念講堂だ。
 1901年(明治34年)、成瀬は大隈重信、渋沢栄一、広岡浅子ら多くの支援者を得て日本女子大学校を創立する。5年後には講堂が完成。2階に書架を備え、「日本唯一の婦人図書館」として一般開放を考えていたという。
 しかし相次ぐ災害が講堂を襲う。14年には火災が発生し、図書館計画が頓挫。関東大震災ではレンガが崩れるなど大きな被害に見舞われた。その後の修復工事で木造に改築された。
 講堂内部は創建当時の姿を今に伝えている。特徴的なのは天井部分。広い天井と独特なはりの形は西洋の教会のよう。日本では珍しいハンマービーム工法と呼ばれる建築方法だ。演台の上にある成瀬の胸像は高村光太郎の作。ステンドグラスも当時のままだ。貴重な建築物として、東京都文京区の有形文化財に指定されている。
 講堂には1階に約700席、2階に約400席があり、1階部分は最近まで式典や講演などで使っていた。歴代校長・学長が受け持つ授業もここで行われたという。創立者が書いた建学の理念を示す言葉が飾られるなど、「宗教色がない学校の校風を醸成する場でもあった」(成瀬記念館学芸員の岸本美香子さん)。
 現在は耐震工事を控えて一般公開はしていないが、講堂のすぐ近くにある成瀬記念館では創立者の生涯を常設展示している。4月8日までは「女子大学校創立の恩人―広岡浅子展」を開催中。NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなった広岡が成瀬宛に出した書簡や、写真などを展示している。記念館は一般の人も見学できる。

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というわけで、NHKさんの「あさが来た」にからめ、光太郎作の成瀬仁蔵胸像が納められた成瀬記念講堂が紹介されています。

以前にも書きましたが、この像は成瀬が亡くなる直前の大正8年(1919)に、光太郎に制作が依頼されました。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、光太郎自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

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画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

いい加減なところで妥協して「はい、完成」とはしない、こうした光太郎の制作態度は、智恵子の絵画制作にも影響を与えたかも知れません。心を病む直前の智恵子も、取りかかった絵画を結局完成させられなかったことがたびたびあったということです。そしてそれが智恵子の場合、どんどん自信の喪失に繋がっていったようです。

さて、「あさが来た」。先頃、新キャストの発表が行われました。その中で、智恵子と同じ家政学部の1級上でテニス仲間、のちに『青鞜』を主宰し、智恵子にその表紙絵を依頼した平塚らいてうが登場することが明らかになりました。演じるのは元AKB48の大島優子さんです。実際のらいてうによく似ていますね。

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残念ながら「長沼智恵子」の名はありませんでしたが、ちょい役でもいいので、智恵子らしき人物程度でも登場して欲しいものです。

また、以前のこのブログで、日本女子大学校名物で、寮では智恵子が一番に乗りこなしたという自転車について書きました。やはり予想通り今週の放映で、自転車の話になるようです。ただ、あさ、女子大学校ではなく、大阪の銀行の前で練習していますね。

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本篇が駄目なら、スピンオフで、と期待していましたが、やはり先頃発表されたスピンオフ(4/23・BSプレミアム)の内容は、三宅弘城さん演じる加野屋で中番頭を務める亀助が主人公の物語で、女子大学校創立前の話だそうです。


ところで、すでに何度か登場していますが、若い頃の光雲と縁の深い女性も、重要な役どころで出ています。明日はその辺を。


【折々の歌と句・光太郎】

雨降れば羅馬はくらし桃の花       明治42年(1909) 光太郎27歳

「羅馬」は「ローマ」の漢字表記です。

ローマを含むイタリアでは、昨日、3月8日は「ミモザの日」だったそうです。男性が日ごろの感謝の意を込めて、女性にミモザの花を贈る習慣があるとか。

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当方自宅兼事務所の庭のミモザも咲き始めました。

昨日は、同時に「国際女性デー」でもあったそうです。国連主導で、女性の平等な社会参画などが呼び掛けられています。そう考えると、100年以上前の日本で、すでにそうした動きを進めていた広岡浅子や平塚らいてうの先駆性は、やはり凄いことだったのだと思います。

福島から合唱イベントの情報です。 

第9回声楽アンサンブルコンテスト全国大会-感動の歌声 響け、ほんとうの空に。-

平成28年3月18日(金)~21日(月・祝)福島市音楽堂大ホール 福島県福島市入江町1-1

声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名の少人数編成の合唱団によるコンテストです。
 平成19年度の第1回大会から毎年、福島県で開催されており、全国から集まったトップレベルの合唱 団が、中学校、高等学校、一般の各部門で競います。各部門の金賞受賞団体(上位5位)は、最終日の 本選に出場。部門の枠を超え、総合第1位を目指して華麗に競い合います。



主 催
福島県 福島県教育委員会 声楽アンサンブルコンテスト全国大会実行委員会

共 催
 全日本合唱連盟 全日本合唱連盟東北支部 福島県合唱連盟 福島市 福島市教育委員会

スケジュール
3月18日(金)    部門別コンテスト(中学校部門)、表彰式
3月19日(土)    部門別コンテスト(高等学校部門)、表彰式
3月20日(日)    部門別コンテスト(一般部門)、表彰式
3月21日(月・祝)  各部門金賞受賞団体による本選  特別企画、表彰式
3月22日(火)    海外団体との文化交流ワークショップ
※大会各日、開場9:30 開演10:00

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福島県は「合唱王国」と呼ばれる県で、通常の全国コンクール等では必ずといっていいほど、福島県の団体が上位入賞しています。その福島で、平成20年(2008)からこの時期に行われている大会で、平成23年(2011)の東日本大震災の年に予定されていた第4回大会はやむなく中止となりました。平成25年(2013)の第6回大会からは、震災からの復興を祈念する意味もあって、光太郎詩「あどけない話」から採った「ほんとうの空に」というサブタイトルが冠されています。

残念ながら、事前に出場団体の演奏曲が発表されませんので、光太郎智恵子にからむ作品が演奏されるかどうか不明です。

ただ、昨秋行われた平成27年度(第68回)全日本合唱コンクール高校部門で光太郎作詞、鈴木輝昭作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」中の「裸形」を自由曲に選んで出場した日本女子大学附属高校コーラスクラブの皆さんが、こちらにも出場されます。今回演奏する曲はやはり不明ですが。

他の団体さんも含め、サブタイトルの通り、感動の歌声がほんとの空に響きわたってほしいものです。


ところで、先述の全日本合唱コンクールのライブ録音CDを購入しました。日本女子大学附属高校さんの演奏の入ったものと、同じく光太郎作詞、三好真亜沙さん作曲の「冬の奴」を自由曲に選んでし、みごと銀賞に輝いた東京の豊島岡女子学園高等学校コーラス部さんの演奏が入ったものです。

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さすがにどちらも素晴らしい演奏でした。

が、主催の全日本合唱連盟さんで刊行している雑誌『ハーモニー』の2016/1月号に載ったコンクール評は、けっこう辛口でした。審査員を務められた指揮者の浅井敬壹氏・樋本英一氏によるものです。

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長文になるので引用はしませんが、要約すると、丁寧な演奏はいいけれど、会場全体に響いてこない無表情な聞こえ方になっているというのです。このあたりは、実際に会場にいないと、録音で聴いても解りかねます。

当方も合唱に取り組んでおり、先日は所属する合唱団の35周年記念演奏会なるものを行いました。また、かつてはその団で各種コンクールにも出場しました。せいぜい県で銀賞、とてもとても全国まで行けるレベルではありませんが。ただ、あまり音楽で競う、というのは好きではありません。やはり音楽は「楽」の字が入っているとおり、楽しむものですから。しかし、低レベルの演奏では、なかなか人の心を動かすまでのことは出来ず、自己満足しか残らないでしょう。そういう意味では高みを目指すことも楽しさに繋がるのは理解できます。高みを目指した結果として、賞がついてくるというのが望ましいのではないでしょうか。

さて、声楽アンサンブルコンテスト全国大会、サブタイトルの通り、福島の皆さんに感動をもたらす歌声を、ほんとうの空の下で響かせていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ドナテロの騎馬像青し春の風       明治42年(1909) 光太郎27歳

一昨日に続き、イタリアルネサンスの彫刻家、ドナテロがらみの句です。

一昨日の3月5日、葛飾区のプラネターリアム銀河座さんでのプラネタリウム上映「智恵子抄と春空」を拝見して参りましたが、そちらに着く前の話です。

当日は高速バスで東京駅に出、八重洲地下街で昼食を摂りました。その後、JR東京駅の八重洲地下中央口を目指して歩いていると、こちらのイベントに出くわしました。

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「東北復興 報道写真展」。仙台に本社を置く『河北新報』さんの肝煎りで、この時期、毎年行われています。昨年の紙面に載った震災復興関連の主な記事が、5つのテーマでパネル展示されています。

同時開催で「東北復興展」も開催中。今年は大船渡市観光物産協会さんの共催で、同地の名産品などが販売されていました。

「そういえば、今日は愛知大学さんでシンポジウムだったっけ」と思いながら、拝見しました。

翌日、ニュース検索してみました。 

「3間」喪失、肥満増に影響 子どもの空間・時間・仲間

福島民友新聞 3月6日(日)

 福島大は5日、名古屋の愛知大車道キャンパスでシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える」を開いた。本県の現状に理解を深めてもらう県外シンポジウムは5回目だが、中京圏では初。松本幸英楢葉町長が参加したパネル討論では、地域の絆をいかに構築するかなど、震災と原発事故から得た教訓を来場者に伝えた。
 パネル討論に参加したのは、松本町長のほか、震災発生後からボランティア活動に尽力しているタカラ印刷(福島市)の林由美子会長、震災時に郡山市のビッグパレットふくしまに設けられた県内最大規模の避難所を運営した天野和彦福島大うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)客員准教授、いわき市で避難者の生活状況を調査している土屋葉愛知大准教授ら4人。
 シンポジウムでは子どもをテーマにした鼎談(ていだん)「悲しみ乗り越え前に進む子ども達、進めずにいる子ども達」も行われた。本多環FURE特任教授(こども支援担当)は、本県で震災後に全国平均に比べ不登校や肥満の増加、学力低下の傾向が表れたことについて「震災と原発事故による避難により、子どもたちの生活環境で重要な空間、時間、仲間の『3間(さんま)』が福島県だけ急激に失われたことが原因」との見解を示した。
 本多特任教授は、1980年代にも子どもにとって必要な「時間、空間、仲間」の環境が失われ校内暴力などの荒れた教育環境が表面化したと分析する。
 しかし、それは全国的な現象だったため特定の都道府県が目立つことがなかったが「今回は福島県だけ急激に奪われた」と指摘し、一見すると違う原因があるように見える子どもたちの変化の背景には、共通した教育環境の変化があるとした。
 鼎談では、相馬市出身のシンガー・ソングライター堀下さゆりさん、FUREの中田スウラセンター長と意見交換した。


昨日の『朝日新聞』さんでは、東北地方の首長の皆さんへのアンケート調査が掲載されていました。その中で、「被災地への関心が薄れていると感じるか」との質問にはほぼ全員が「感じる」「時々感じる」と回答されていました。悲しい現実ですね。記憶を風化させないために、まだまだいろいろな取り組みが必要だと思います。復興展やシンポジウムなどもその一つでしょう。ただ、マンネリ化しないことが重要だと思います。

さて、葛飾のプラネターリアム銀河座さんに行く前に、常磐線の南千住駅で途中下車しました。方角的には一緒なので、同駅近くにある円通寺さんという寺院に参拝してから銀河座さんへと、当初からの予定でした。

比較的有名な寺院です。名前は知らなくとも、画像を見れば、ああ、ここか、という方は都内には多いのではないでしょうか。

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本堂の上に、像高12㍍の巨大な観音像。国道4号線沿いですので、非常に目立ちます。この像の原型は光太郎の父・光雲の作です。当方、機会があるたびに光雲作の仏像が納められている寺院を参拝しており、一昨日もその一環でした。

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こちらは幕末の彰義隊隊士の墓などもあります。当方、判官贔屓の傾向が顕著でして、幕末であれば新選組、旧会津藩、彰義隊、遊撃隊などなどの生き様には常々感服しています。

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こちらは移築された、上野戦争で焼け残った寛永寺の黒門。近くまで寄ってみると、弾痕が生々しく残っています。

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さらに戊辰戦争最後の闘い、北海000道函館で、新選組副長土方歳三らと共に闘った松平太郎の墓や、同じく榎本武揚、大鳥圭介、永井玄蕃頭尚志らの追弔碑も。

そこで頭上を見上げれば、再び光雲原型の観音像。

これらの人々、さらには震災で亡くなった多くの皆さんの彼岸での安寧を願い、手を合わせました。

円通寺さんをあとに、国道4号を北上、京成電鉄の千住大橋まで歩き、青砥駅へ。その後、プラネターリアム銀河座さんでの「智恵子抄と春空」拝見、というわけで、時間軸は昨日のブログに戻ります。

もうすぐ3.11。「ほんとの空」が本当に戻り、本当の意味での復興が為される日が来ることを、切に祈ります。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や稍ゝ水たまるかなたらひ          
明治33年(1900)頃 光太郎18歳頃

関東地方は昨夜から雨です。しかしもう冬の氷雨という感じではありません。一雨ごとに春、ですね。

昨日は、東京下町区域に出かけておりました。

メインの目的は葛飾区立石のプラネターリアム銀河座さんでのプラネタリウム上映「智恵子抄と春空」の拝見でした。

京成電鉄の青砥駅で下車、案内にしたがって歩くこと数分、いかにもプラネタリウムというドームのある建物が目に入り、すぐにわかりました。

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こちらは證願寺さんという寺院に併設されているという珍しいプラネタリウム施設です。ところが、会場は、通りから見えたいかにも、という建物ではなく、寺院の庫裡のような棟でした。


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この中にドームがあるのです。驚きました。

始めにこの季節の星空が投影され、今見える惑星や星座の説明。プラネタリウムを観るのは数十年ぶりでしたが、機器やソフトの進歩はすごいものがありますね。昔は投影中もドームの内側にうっすらと線が見えたりしていたような気がしますが、そんなこともなく、本当に星空を観ているような感覚でした。

その後、「智恵子抄と春空」。こち002らはスライドショー的な形での上映でした。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「あどけない話」どんよりけむる地平のぼかしを軸に、春の空についてのお話がなされました。


   あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながら言ふ、
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。


日本人の感覚では「春」といえば「霞」ですね。

しかし、気象用語では「霞」の語は使われず、「雲」か「霧」、あるいは「靄」だそうです。地面に接していないものが「雲」、地面に接していて、視界1㎞以下なら「霧」、それ以上なら「靄」。「春霞」というのは文学としての表現であって、科学的な用語ではないとのこと。勉強になりました。

その「春霞」も、湿気によるものではなく、この季節に大陸から飛んでくる「黄砂」によるもものだというお話でした。この季節に飛来が多く、何とアメリカ大陸にまで到達しているそうです。

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昨今は健康への影響が懸念されるPM2.5(微小粒子状物質)の飛散も問題視されていますね。「あどけない話」が書かれた昭和初期の頃は、まだそうした懸念はなかったのでしょうが、光太郎よりも結核が早く進行した智恵子は、黄砂であっても敏感に反応したとも考えられます。

文学的に考えると、智恵子の言う「東京に空が無い」は、東京の閉塞感を表していると考えられます。絵画修行のため、日本女子大学校卒業後も望んで帰郷しなかった智恵子ですが、アトリエに専用の画室まで作ってもらいながら思うように伸びない自分の力量に対するいらだちはかなりのものだったでしょう。対するにパートナー光太郎の芸術はどんどん世に受け入れられ、明らかにその光太郎は智恵子の絵画を高く評価していません。しかし、実生活の部分では、光太郎は「智恵子によって私は救われた」と公言。それがアイデンティティーの喪失感につながったことは想像に難くありません。

また、もともと社交的でなかった智恵子ですが、光太郎も「俗世間」との交渉をなるべく断とうとしました。後に光太郎はその頃の生活を「智恵子と私とただ二人で/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。二人で築いた夢のかずかずは/みんな内の世界のものばかり。/検討するのも内部生命/蓄積するのも内部財宝。」(連作詩「暗愚小伝」中の「蟄居」昭和22年=1947)と表現しています。二人の間には子供も出来ませんでしたし、まさに「閉塞」ですね。

ところで、昨日のプログラムでは、連翹忌にも触れて下さいました。

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当方自宅兼事務所の庭には、光太郎がその目で見て「かわいらしい花」と言った、終焉の地・中野アトリエに咲いていた連翹の子孫が植わっています。そちらはまだ咲きませんが、剪って花瓶に生けてある方は、室温で暖められ、もう咲き始めました。


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連翹は中国原産です。「黄砂」と同じ「黄色」でも、大違いですね(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

ドナテロの石と対坐す朧月      明治42年(1909) 光太郎27歳

天体系の俳句です。「ドナテロ」はルネサンス初期のイタリア彫刻家。光太郎は高く評価していました。「石」はおそらく野外彫刻でしょう。

ドナテロの彫刻に月光が当たっている、ではなく、「石と対坐」する「朧月」。いいですね。

フィレンツェで詠まれた句ですが、この「朧月」も、サハラ砂漠から飛んできた黄砂の影響なのでしょうか。

まずは昨日の『岩手日報』さんの一面コラム。  

風土計 2016.3.4

詩人の高村光太郎は終生、妻の智恵子を愛した。無二の女性との出会いから、光太郎は退廃的な生活と決別。美に生きる人生へ踏み出す
▼智恵子は心の病を患い、光太郎の手が届かない世界に向かう。その時、真の美が立ち現れる。「あなたはだんだんきれいになる」「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子のうしろ姿がぽつんと見える」
▼「智恵子抄」につづられた光太郎のまなざしは、どこまでも愛をたたえる。この詩集が不朽の名作たるゆえんは、文学的高みに加え、病気や障害がある人に寄り添うとはどういうことか、心の琴線に触れるからでもあろう
▼超高齢社会の今、愛のまなざしは、監視の目線に取って代わられようとしている。認知症患者の徘(はい)徊(かい)事故で、家族が賠償を求められるケースが相次いでいるからだ。2人が現代に生きていたら、光太郎は智恵子の後ろ姿を慌てて追いかけ、家に閉じ込めたかもしれない
▼愛知県で起きた徘徊事故をめぐり、最高裁は家族の監督義務について、防ぎ切れない事故の賠償責任までは負わないとする初判断を示した。在宅介護に苦悩する家族に朗報となった
▼とはいえ、免責される基準は明確ではなく、家族の負担はなお重い。社会で見守る仕組みがない限り、介護の哀歌は生み出され続ける。


岩手は光太郎の第二の故郷ともいえます。そこで『岩手日報』さんや『岩手日日』さんの一面コラムには、かなりの頻度で光太郎智恵子が登場します。

しかし今回の内容は、その件にからめますか、という感じでした。

たしかに実際、智恵子の心の病が昂進した時期には、どうしても出かけなければいけない用事があると、光太郎はアトリエの戸に釘を打って出かけたとのこと。それでも智恵子は戸をこじ開けて往来に出、大騒ぎをしていたそうです。

明日は我が身、かもしれません。


岩手つながりでもう1件。

過日、『岩手日日』さんの記事から、戦後の太田村時代に撮られた光太郎が写った写真の発見をご紹介しました。

その後、『読売新聞』さんと『朝日新聞』さんの岩手版にも記事が載りましたので、ご紹介します。 

高村光太郎 花巻での姿…民家に写真、市へ寄贈

 詩集「智恵子抄」などで知られ、晩年を旧太田村(現花巻市)で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が写ったスナップ写真が、花巻市内の民家で見つかった。手のひらサイズの白黒写真で、最前列中央に腰掛けた高村は眼鏡に国民服姿。帽子を左手につかみ、柔らかな表情を浮かべている。
 写真が見つかったのは、花巻市太田の主婦、安藤幸子さん(78)宅。地域の役員など十数人と撮影した集合写真とみられ、右端には民生委員を務めた安藤さんの母・アンさんの姿もある。
 東京のアトリエを空襲で失った高村は1945年から7年間、太田村の山あいにある粗末な小屋「高村山荘」で独居自炊生活を送り、地域住民と交流を続けた。没後60年の今年、太田地区の住民らが高村に関する勉強会を開く中で、安藤さん宅に保管された写真の存在に気付き、花巻市に寄贈した。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「個人所蔵のスナップ写真が見つかるのは珍しい。写真はほかにも存在すると思うが、ここ数年は見つかっていなかった。地域住民との交流を裏付ける貴重な写真」と話している。
 市は写真を修復し、撮影時期を特定したうえで、高村光太郎記念館(花巻市太田)で展示することにしている。
2016年02月28日
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岩手)光太郎先生と貴重なショット 花巻の女性が寄贈

 花巻市太田002の安藤幸子さん(78)が、詩人で彫刻家の高村光太郎が写った写真資料を同市に寄贈した。高村光太郎は1945年から7年間、当時の旧太田村で暮らしており、後半期の撮影とみられる。花巻高村光太郎記念会は「光太郎先生と住民との交流が分かる貴重な資料」と説明する。
 当時の医院の前で撮影したとみられ、向かって光太郎の右隣に医師家族、左隣に太田村長を務めた高橋雅郎氏が写っている。市は今後、撮影日時などを調べ、高村光太郎記念館での展示を予定している。
 安藤さんは子どもの頃、光太郎が住んでいた山荘を訪ねたことがあり、部屋中が本でいっぱいだったと記憶している。「大きな人で迫力があった」と話す。(石井力)
2016年3月4日

この記事を執筆なさった石井氏は同紙北上支局長さんです。昨年、「戦争協力、自ら罰した光太郎」というコラムで、当方もご紹介下さいました。


しつこいようですが、光太郎の第二の故郷ともいえる岩手。本来の故郷の東京は有名人の出身者が多く、光太郎レベルでも出身者としては埋没しています。そういう意味で、第二の故郷・岩手での顕彰がもっともっと進む事を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

くれなゐの蕾うれしき春の朝あなこは小雨さく花の白き
明治34年(1901) 光太郎19歳

いよいよ春本番となって参りました。

「あな」は感動詞。「ああ」といったところ。「こ」は「これ」。紅の蕾で咲いたら白いのは、梅でしょうか。

舞台芸術系のイベントを2つご紹介します。

まずは東京から朗読で。 

朗読人の四季~2016春

期  日 : 2016年3月16日(水)
時  間 : 18:30開場 19:00開演
会  場 : 江東区 深川江戸資料館 小劇場  東京都江東区白河1-3-28
料  金 : 2,500円(全席自由)
出演/演目 :
 杉山典子
  高村光太郎『智恵子抄』より「僕等」「レモン哀歌」「梅酒」 他
 勝田のぞみ
  旧怪談『耳袋』より「小さな指」「頭痛の神の事」
 岩井奈美
  J.R.ヒメネス『プラテーロとわたし』より「秋」「四月の牧歌」 他
  芥川龍之介『蜜柑』
 桑原美由紀
  谷崎潤一郎『春琴抄』

申  込 : JILAチケットセンター Tel:03-3356-4140

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もう1件、九州から。 

宮城愛 巡り繋がる人と歌 LIVE

期  日 : 2016年3月26日(土)
時  間 : 17:00開場 17:30開演
会  場 : 八幡朝見神社 大分県別府市朝見2-15-19
料  金 : 予約1,500円 当日2,000円 中学生以下無料
出  演 : 宮城愛(ギター/ヴォーカル) 風の音書店with足立弓子
                       小椋穂澄(アフリカンハープ)
申  込 : 090-4210-3866(小椋) tomotribe@gmail.com (井藤)

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3/26にご出演のパフォーマンストリオ「風の音書店with足立弓子」さんが、「智恵子抄」を演じられるそうです。先月は大分市で公演をなさったとのこと。その様子がこちら

光太郎智恵子の世界を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。

今月から来月にかけ、同様の催しがけっこうたくさんあるようです。今後、順次ご紹介していきます。


【折々の歌と句・光太郎】

春着きて寺に女の急ぎけり       明治42年(1909) 光太郎27歳

以前にも注釈を加えましたが、欧米留学中の作で、「寺」は仏教寺院ではなくキリスト教の教会です。ただ、日本画舞台で和装の美人さんが仏教寺院に、というイメージで読んでも絵になりますね(笑)。

今日も「ほんとの空」ネタで。テレビ放映情報です。 

復興支援ドキュメント 未来への教科書 ~For Our Children~ #116 『特別編 ~子供たちのために~(前編)』

BS12(トゥエルビ) 2016年3月5日(土)6:30 ~ 7:00   3月5日(土)27:00 ~ 27:30(=3/6(日) 午前3:00~3:30)

地域のキーパーソンの言葉をそのまま届け、大震災を乗り越え、立ち上がろうとする東北の人々の力強い姿を広くお伝えします。言葉から浮かび上がる真実を発信していきます。

今回は特別編・前編。
復興支援メディア隊の代表である榎田竜路との対談形式で、精神科医でみんなのとなり組代表理事でもある堀有伸さんをゲストに迎えてお話を伺った。
前編のテーマは”福祉・医療”
東日本大震災から5年が経過しようとしている今、医療や福祉のあり方はどうあるべきなのか?
過去に番組で取り上げた、みんなのとなり組のコミュニティを繋ぐ活動や、堀さんたちが制作した震災後の心のケアをまとめたプログラムを紹介していきながら、一緒に考えていく。
<あのころの子供たちを訪ねて>
以前番組で取り上げた子供たちの、あの時の気持ちと今を追いかけるコーナー。
福島県立あさか開成高校演劇部の演目『この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?』は、福島第一原子力発電所事故によって引き起こされた生徒たち自身の不安や葛藤を、セリフやエピソードに入れ込むことによって反響を呼んだ。その演劇に出演していた香西佳菜子さんに当時の葛藤や現在の思いを伺った。

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「以前番組で取り上げた」は、震災翌年の平成24年(2012放映の、#22「あさか開成高校演劇部」#32「あさか開成高校演劇部~心を語り、心が繋がり、心を継ぐ」。それから昨年放映された#93特別編『東日本大震災から4年〜新しい物語のはじまり』でも取り上げられました。


原作はこちら

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もうすぐ震災から5年。節目の3.11となります。新聞各紙で特集が組まれていますし、テレビでも被災地の現状や課題に注目した特番がいろいろと組まれています。光太郎智恵子や草野心平など周辺人物に関わりの深い、女川、二本松、川内村などが続々取り上げられます。

ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

たはむれや春の夜すがらその雛につけし齢をただあらそひぬ
明治34年(1901) 光太郎19歳

このお雛様は何歳だ? ということが原因で他愛もない争いになった、の意。

今日は3/3、桃の節句ですね。当方自宅兼事務所でも数年ぶりに雛人形を出しました。

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昨日は陽気が良かったので、歩いて30分程の旧市街まで犬の散歩に行きました。当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区の旧市街は、江戸の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。そちらでは「さわら雛めぐり」が開催中。老舗の商家などが店頭に雛人形を飾っています。中には江戸時代のものも。こういう伝統は大切にしたいものです。

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智恵子の故郷・二本松市で、昨日発行の「広報にほんまつ」3月号に以下の記事が載りました。 

〜新日本歩く道紀行百選「ふるさとの道部門」で認定〜ほんとの空が広がる道

新日本歩く道紀行百選選考委員会が選定している「新日本歩く道紀行百選ふるさとの道」に、二本松駅から霞ヶ城公園まで続く約12キロのコースが認定されました。
ふるさとの道百選には、東北からは7件、福島県からは2件が認定されました。
これから暖かい季節がやってきます。ぜひウォーキングコースとしてご利用ください。
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智恵子生家の裏手、智恵子はもちろん、ここを訪れた光太郎も智恵子とともに歩いたという「智恵子の杜公園」が含まれています。

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新日本歩く道紀行百選」は、道の活用により地域の活力創出を目指す自治体や団体、 企業、個人から広くエントリーを受け付け、同選考委員会の選で決定しています。昨秋には第1期493コースが決定、そこに二本松市の「ほんとの空が広がる道」も選ばれたというわけです。

エントリーはまだ受付中。最終的には10のテーマで100ずつ、計1,000コースの認定を目指しているようです。

また、ウオーキング愛好家の「歩きんぐくらぶ」さんという団体も結成され、この「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く企画が用意されています。

さらにBS-TBSさんがこの企画に賛同、「新・日本歩く道紀行」という番組がスタートしました。先月は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市を含む千葉・茨城の水郷地帯を4回連続で取り上げて下さいました。いずれ「ほんとの空が広がる道」も取り上げていただきたいものです。

テレビ、といえば、過日のこのブログでご紹介した「15分でにっぽん百名山 安達太良山」、残念ながら「智恵子抄」がらみの部分はカットされていました。残念に思っておりましたところ、なんと「15分で……」ではなくオリジナルの「にっぽん百名山」の方の安達太良山の回が再放送されます。  

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2016年3月7日(月) 19時30分~20時00分 
                                再放送 3月13日(日) 6時30分~7時00分

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介。

出演 林千明   語り 山崎岳彦,吉川未来

こちらではばっちり光太郎智恵子が取り上げられますので、ぜひご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

底の岩底の砂利より走せのぼるあぶくは肌につきて離れず
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日に引き続き、温泉を謳った短歌です。炭酸系の温泉でしょうか。

2/28(日)、郡山市で開催中の「第二楽章 男鹿和雄展―吉永小百合と語り継ぐ―」/「未来のわたしたちへ~ほんとの空~」絵画展覧会」会場をあとに、いわき市上小川地区にある、当会の祖にして光太郎と最も縁の深かった詩人の一人、草野心平の生家へと愛車を走らせました。

この日は、心平の弟で、没後に第2回高村光太郎賞を受賞した、草野天平の誕生日というわけで、「草野天平の集い」の開催でした。仙台を拠点に「智恵子抄」の朗読などもなさっている、荒井真澄さんがご出演ということで、寄らせていただきました。

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まずは生家近くの常慶寺さんに。心平の墓参です。その代わりといっては何ですが、車を駐めさせていただきました。

その後、歩いて生家に。ここを訪れるのは三度目です。

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庭には天平の詩碑も立っています。

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入ってすぐの壁に、心平はじめ、家族一同の写真パネルが掲示されていて、以前は気付きませんでしたが、天平も写っています。

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正面にも天平の大きな肖像写真。

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時間となり、開会。

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まずは荒井さんによる天平作品の朗読でした。

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兄・心平の詩が、ある意味「ぶっ飛んでいる」のに対し、弟・天平の詩はかなり穏健です。しかしそこはやはり兄弟、相通じるものを感じました。詩だけでなく、散文の朗読もありましたが、そちらも骨太で芯のしっかりした文体、きまじめな天平の性格がよく表れていました。荒井さんの朗読も相変わらず心地よい響きで耳に入ってきました。

その後はギターソロで、天平が愛したというシューベルトの「鱒」やイギリス系のスタンダードナンバー、さらに再び荒井さんが合流して今度は歌を。荒井さんの歌は初めて拝聴しましたが、かわいらしい歌声でした。

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約1時間、肩の凝らないプログラムでした。

終演後、天平のご子息・草野杏平氏のご挨拶。

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杏平氏、かつて連翹忌にご参加いただいていました。

その後、杏平氏や荒井さんとお話をさせていただき、帰途に就きました。

時間的にまだ早かったので、いわき市街に出、いわき湯本温泉の日帰り入浴施設「さはこの湯」さんに寄り、温泉を堪能しました。何と230円で入れます。

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3年半前、川内村での心平を偲ぶ「かえる忌」の帰途にもここに寄りました。その際は「智恵子抄」などの光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄われているモンデンモモさん、ピアニストの砂原ドルチェ嘉博さんらと一緒でした。

その時はそうでもなかったのですが、一昨日はかなり混んでいました。震災からの復興もある程度進み、人が戻ってきているのだな、と実感しました。いいことですね。


【折々の歌と句・光太郎】

天然の湯に身をひたしわがきくは遠き地中の隠密の声
大正13年(1924) 光太郎42歳

というわけで、温泉を謳った作品です。生涯「自然」を愛した光太郎ですので、温泉にも地球のエネルギー的なものを強くイメージしているようです。

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