2016年02月

昨日は福島県に行っておりました。今年初の東北行でした。


状況をわかりやすくするため、昨日の『福島民報』さんの記事を引用いたします。 

富岡・夜の森の桜並木など100点 男鹿さん絵画展開幕

 画家男鹿和雄さんの作品展「第二楽章 男鹿和雄展-吉永小百合と語り継ぐ-」は27日、福島県郡山市のビッグパレットふくしまで開幕した。3月21日まで。男鹿さんは、女優吉永小百合さんが東京電力福島第一原発事故の被災者の詩を朗読したCD・詩画集「第二楽章 福島への思い」の挿絵を担当した。
 会場には約100点が並ぶ。富岡町の夜の森地区の桜並木や川沿いの風景などが温かみのある色彩で描かれている。初日は男鹿さんのサイン会を催し、来場者は詩画集を買い求めて列をつくった。折り紙の絵柄を描いて折り鶴を作るワークショップも開いた。男鹿さんは「多くの人に絵を見てもらい、復興へ向かうきっかけになればうれしい」と話している。
 開館時間は平日は午前11時から午後5時まで、土、日曜、祝日は午前9時から午後5時まで。観覧料は一般800円、高校生以下400円、未就学児は無料。問い合わせは郡山青年会議所(JC) 電話024(932)2289へ。
 作品展は郡山JCの主催で創立55周年の記念事業として開いた。スタジオジブリなどが協力した。


こちらが会場のビッグパレットふくしま。一見、サッカースタジアムのような、複合コンベンション施設でした。

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2階に上がると大きな看板が出ていました。

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やわらかな色遣いの男鹿氏の絵。

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小中学生の作品展の看板も。

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3階に上がり、まずは男鹿氏の展覧会を拝見しました。

最初は福島。
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吉永さんの朗読CDのジャケットに装画として使われた作品などの原画やスケッチが中心でした。

ところどころにCDに収められた和合亮一さんや若松丈太郎さん、佐藤紫華子さん、そして福島の一般の皆さんの詩が大きなパネルに掲載され、男鹿氏の絵が添えられていました。

立ち入り禁止のバリケードの向こうに咲く桜、町中を彷徨う牛、除染廃棄物を入れた黒い袋、防護服姿の人々、津波でひっくり返ったまま放置された乗用車……。

それらがおどろおどろしい筆致ではなく、ジブリ映画風の優しいタッチで描かれていることで、よりいっそう悲哀が伝わって来ます。

そして原発事故とはかかわりなく美しい福島の野山や草花、人々の営み。看板に描かれているのは、原発事故前の様子です。しかし、それらが一瞬にして奪われる危うい立ち位置にあることが痛感させられました。

「復興支援になれば」と思い、男鹿氏の画集を会場で買い求めました(CDは昨年、発売時に買い求めていましたので)。表紙は看板に描かれている画です。

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そして裏表紙がこちら。

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表紙と裏表紙で「befor」「after」になっているわけです。それが単なる怒りの表象ではなく、「after」の「after」で、また「befor」の状態に戻って欲しい、という切なる願いが感じられました。

その後、沖縄、広島、長崎を舞台にした作品の数々。ある意味、踏みにじられてきた(今も踏みにじられ続けている)場所です。それでもそれぞれの場所に、それぞれの美しさがあり、それが表現されていました。

隣の会場では、地元小中学生による「未来のわたしたちへ~ほんとの空~」絵画展覧会が開催されています。

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会場内には小中学生の作品以外にも、大小さまざまたくさんの折り鶴が並んでいました。テーブルがセットされ、折り紙が置いてあって、会場内で創られたもののようです。これらはあとで広島に送られるそうです。

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小中学生の描いた「ほんとの空」の青が目に染みました。

会場のビッグパレットふくしまから見た安達太良山です。春らしく霞んでいました。

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この展覧会、昨年は広島、長崎で開催されました。ぜひ東京など大都市圏でも開催していただきたいものです。また、鹿児島や福井の皆さんにもご覧頂きたいと思います。「あなた方の街が、こうなる覚悟はありますか?」という問いを込めて……。


その後、いわき市に向かいました。上小川地区の草野心平生家で開催された「草野天平の集い」に出席のためです。そちらについてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな
大正14年(1925) 光太郎43歳

昨日ご紹介した短歌の異稿です。

木彫「うそ鳥」を収めた桐箱の蓋裏にしたためられました。

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昨日の『岩手日日新聞』さんに、以下の記事が出ました。 

光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈

 花巻市に疎開した彫刻家で詩人の003高村光太郎(1883~1956年)の新たな資料が26日、市に寄贈された。住民との交流を示す集合写真で、関係者は貴重な資料の発見を喜ぶとともに、光太郎に関する資料について新たな情報提供に期待を寄せている。
 寄贈したのは、同市太田の安藤幸子さん(78)。2015年10月に開かれた光太郎に関する太田地区振興会の勉強会をきっかけに、安藤さんが自宅で光太郎の写真を見たことを思い出し、母親アンさん(故人)のアルバムから見つけた。高村光太郎記念館の市川清志館長に拡大した写真を自宅で手渡した。
 当時の太田医院と思われる建物を背景に撮影された写真で、中央に光太郎が写っているほか、同医院の関係者や旧太田村役場職員らと共に、アンさんの姿も納められている。
 光太郎は1945年5月から52年10月まで市内太田地区に疎開していた。花巻高村光太郎記念会事務局企画担当の高橋卓也さん(39)は「手にしたブッシュハットを見ると、撮影されたのは疎開後半の頃では。報道関係など公の写真は多いが、当時は写真機を持っている人が少ないため貴重なスナップ写真。地域の人々との交流を裏付ける資料。光太郎は各地で講演を行っているので、写真が残っているのでは。これをきっかけに、新たな情報提供を期待したい」と話している。
 安藤さんは「中学生の頃に友達と光太郎先生の山荘にお邪魔した記憶がある。玄関先からたくさんの本が積まれていた。そんなに偉い先生とは思っていなかった」と当時に思いを寄せている。
 市川館長は「埋もれている資料が見つかって良かった。光太郎についての地元の顕彰活動を一緒に盛り上げたい」と話している。同館では写真資料を保管し、撮影年代や住民を特定したい考え。


ときおりこういうケースがあって、ありがたいかぎりです。特に光太郎の岩手時代(昭和20年=1945~27年=1952)の写真、書、書簡類はまだまだあちこちに埋もれているはずです。光太郎が居た花巻周辺や、たびたび訪れた盛岡方面など。また、講演などで東北各地に足跡が残っていますので、そういう所でも。

実は当方が昨年暮れに訪れた秋田の横手にも書が複数残っているらしく、時間を見つけて調査に行こうと思っております。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。

「うちにも光太郎先生の写真やら書やらがある」という方は、花巻の高村光太郎記念館、または当方までご一報いただければ幸いです。
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【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその来てなく武蔵野のあかるき春となりにけらしな
制作年不詳

大正14年(1925)制作の木彫「うそ鳥」に関わると考えられますが、細かな制作年は不詳です。

「なりにけらしな」は「なったに違いない」。明治生まれなので、ある意味当然かも知れませんが、こうした古語に対する光太郎の知識や、自然にそれを使えるところには舌を巻かされます。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

雑誌の新刊です。 

こころ Vol. 29

2016/02/24 平凡社 定価800円+税

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「特別企画 再録・『心』名作館」という項に、光太郎詩「人体飢餓」が収められています。

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平凡社さんの『こころ』は、かつて武者小路実篤が主宰していた雑誌『心』の後継誌としての位置づけだそうで、「再録」と銘打たれているというわけです。武者小路の時代も発売元は平凡社さんでした。

右下は『心』の昭和31年(1956)6月号。光太郎の追悼特集号です。

「人体飢餓」は『心』の創刊号、昭和23年(1948)7月号に掲載されました。花巻郊外太田村の山小屋で、自らの戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」を書き終え、その罪深さに恐れおののき、自らを厳罰に処するために彫刻を封印していた時期の作です。

長大な詩なので、冒頭部分のみ抜粋します。003

    人体飢餓

  彫刻家山に飢ゑる。
  くらふもの山に余りあれど、
  山に人体の饗宴なく

  山に女体の美味が無い。
  精神の蛋自飢餓。
  造型の餓鬼。
  また雪だ。

  渇望は胸を衝く。
  氷を噛んで暗夜の空に訴へる。
  雪女出ろ。
  この彫刻家をとつて食へ。004
  とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
  その時彫刻家は雪でつくる。
  汝のしなやかな胴体を。
  その弾力ある二つの隆起と、
  その陰影ある陥没と、
  その背面の平滑地帯と膨満部とを。



彫刻の封印は、天性の彫刻家であった光太郎にとって、何より厳しい罰でした。その結果、自分の暮らす山中に現れた雪女の姿を雪で彫刻するという夢想にまで至っています。

この切実な思いが、4年後には青森県からの依頼で封印を解くことになり、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として結実します。かつて当方、この詩を引用しながら、そうした光太郎の思いを、昨年刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中のジュブナイルの部分に書きました。


武者小路が主宰していた頃の『心』に、光太郎は最晩年まで多くの詩を寄せています。昔は普通の雑誌にも詩がかなり載っており、『中央公論』や『週刊朝日』、『婦人公論』、最近何かと話題の『文藝春秋』などにも光太郎の詩が掲載されました。昨今のそれらに現代詩人の詩が載ることはほとんど無いでしょう。

いつのまにか詩というものが大衆から離れていってしまったのかな、という感じですね。


【折々の歌と句・光太郎】

春の風ふきて君が美くしの御筆をさへやさそひ来ぬらし
明治36年(1903) 光太郎21歳

関東では、どうやら冬の寒さは昨日までで、今日からはかなり春めいてくるようです。嬉しいかぎりです。

テレビ放映情報です。 

15分でにっぽん百名山 安達太良山

NHKBS1 2016年2月29日(月)  18時30分~18時45分
 再放送 3月7日(月) 午前4時30分~ 午前4時48分

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉から、ブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。

出演 林千明   語り 三浦祥朗


NHK BSさんでは「にっぽん百名山」という30分番組を放映しています。そこで取り上げた山をさらに15分間のダイジェスト版にしたのが「15分でにっぽん百名山」。

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智恵子が愛した「ほんとの空」のある安達太良山は、昨年2月に30分の「にっぽん百名山」で取り上げられました

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その際には、光太郎智恵子についても紹介して下さいました。

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今回は15分のダイジェスト版ですが、この部分が含まれるかどうか……。期待はしていますが……。


もう1件。 

みつけよう、美 荻原守衛“女”(長野・碌山美術館)

NHKEテレ1 2016年3月2日(水)  23時50分~23時55分

「日曜美術館」40年目を機に掘り起こした映像記録を、全国の美術館の大切な所蔵作品を中心に再構成。全都道府県分47本を制作し、美術館情報とともに5分のミニ番組として放送します。あの美術館の知られざる美の宝物について、作者本人やゆかりのある人物から、とっておきのエピソードが語られます。今回は1997年の番組から彫刻家荻原守衛の「女」。守衛を励まし支えた、パトロン・相馬黒光との恋と制作を解き明かす。

語り 石澤典夫
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光太郎の盟友にしてロダンの愛弟子、碌山荻原守衛の絶作「女」が取り上げられます。元ネタは平成9年(1997)の「新日曜美術館 荻原守衛の女 〜彫刻に秘められた情念〜」。


公式サイトを見ると、他にも守衛の「坑夫」もラインナップに入っています。また、他にも光太郎と縁の深い作家の作品が。彫刻ではロダン、舟越保武、佐藤忠良、平櫛田中など。絵画では藤田嗣治、村山槐多、松本竣介など。すでに取り上げられたものもあるかも知れません。

ぜひご覧下さい。



【折々の歌と句・光太郎】


髯そつてスヰスの春の寒きかな     明治42年(1909) 光太郎27歳


3年余の欧米留学の最後近く、スイス経由でイタリア旅行をした際の作です。日本の春もまだまだ寒いですね。

まずは今週初めの『日刊スポーツ』さんの記事です。 

競歩で高橋英輝が連覇、リオ五輪代表に決定

<陸上:日本選手権>◇21日◇神戸市六甲アイランド甲南大周辺コース◇20キロ競歩

 リオデジャネイロ五輪代表選考会を兼ねた日本選手権20キロ競歩で、男子は高橋英輝(23=富士通)が1時間18分26秒で2連覇を果たし、五輪代表内定を決めた。派遣設定記録だった1時間20分12秒を悠々と突破。「何度もダメかと思ったのですが、最後まで頑張れた。(これから)メダルを目標に頑張りたい」と喜びを語った。
 
 岩手大の学生として臨んだ昨年の同選手権では、1時間18分3秒の当時日本新記録を樹立。後に世界記録を打ち立てる鈴木雄介(28=富士通)に食らいつき、残り1キロで引き離す展開だった。今回は鈴木が欠場。20日には「去年まで雄介さんの力を借りていた。自分でレースをコントロールしたい」と意気込んでいた。序盤から先頭集団を引っ張ると、17キロ辺りからスパートして優勝。新たな可能性を示した歩みになった。
2016年2月21日


それを受けての『岩手日日新聞』さんのコラムです。 

コラム(2/22)

その青年を間近で見たのは、1年前のことだ。陸上競技の選手らしく体形は細身。背広姿であったが、ステージを歩く際には背筋がピンと伸びていた。まずは姿勢の良さが目に付く。「やっぱりトップアスリートともなると随分と違うな…」と感心した
▼いつになく凡夫が熱視線を送った人物とは、競歩界のホープであった高橋英輝選手。彼は岩手大の4年生だった2014年12月、長崎県で開かれた大会の男子1万メートルで日本新記録を打ち立てて優勝。昨年2月26日に岩手日日学生賞が贈られている
▼その贈呈式に出席した人々は、彼のスピーチにも耳をそばだてた。何しろ次のリオデジャネイロ五輪も狙える逸材である。皆が「リオ」や「五輪」の言葉を待ったが青年は謙虚そのもの。「自分は大きなことを言うタイプではありませんから」と語った
▼あれから1年。青年は21日に神戸市で開かれた陸上の日本選手権20キロ競歩で優勝。五輪代表の座を勝ち取った。決してリオ五輪という4文字を口にはしなかったが、「自分のペースで一歩一歩小さな目標をクリアしながらステップアップしたい」と言う、あの日の決意が花開いた
▼改めて記すまでもないが、彼は花巻北高から岩手大に進んだ岩手人。多くを語らず…の姿を見て、高村光太郎の詩「岩手の人」が頭に浮かんだ。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す」
▼今年は「希望郷いわて国体」の開催年でもあり、われわれ県民にとっては、これ以上ない大きな喜びである。さあ、次はブラジルの地での晴れ姿。楽しみがまた一つ増えた。


岩手の皆さんにとって、光太郎詩「岩手の人」はかなり馴染み深いものなのでしょう。いろいろな場面で引用されています。

    岩手の人
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岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。004
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。

斧をふるつて巨木を削り、

この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

上の画像は高橋選手の母校・花巻北高校の校庭に立つ高田博厚作の光太郎像にはめ込まれたプレートです。像は右の画像。同校と光太郎には直接の関わりはないようですが、光太郎の精神に共鳴した卒業生保護者の拠金で建立されました。

もしかすると高橋選手、これを見てその後の人生が変わったのかも知れません。

寡黙で謙虚な戦士、高橋選手の活躍に期待しております。


【折々の歌と句・光太郎】

河を擁す余寒の窓や筏舟
明治33年(1900)頃 光太郎18歳頃

立春は過ぎましたので、「余寒の候」です。しかし、昨夜から今朝にかけ、当方の住む千葉県北東部でも雪が降りました。積もりはしませんでしたが、我が家の老犬は大喜びでした。


一昨日の『読売新聞』さん、愛媛版の記事です。 松山市で行われた「響け!!言霊 第8回“ことばのがっしょう”群読コンクール」についてです 

言葉 小中生が体で表現 ◇松山で群読コンクール500人競う

 複数人による詩の朗読のコンクール「響け!!言霊“ことばのがっしょう”群読コンクール」が21日、松山市堀之内の市民会館であった。小中学生の22グループ約500人が響き合う表現の美しさを競った。
 子規のまちとして言葉を大切にしていこうと、松山市などが2009年から続けている。今回のテーマは「伝えたいメッセージ」。各チームは詩や歌詞などを3分以内の群読作品に構成。高村光太郎や谷川俊太郎さんの詩、槇原敬之さんの歌「世界に一つだけの花」などを、舞台で身ぶりを交えながら群読した。
 最優秀の大賞に輝いたのは、松山市立伊台小3年のチーム「とにかくわっしょいIdai3」。お祭りを表現した北原白秋の詩を、約50人で威勢よく表現した。河野若菜さん(9)は「お祭りの詩を群読していると楽しい気持ちになってくる。みんなで練習した力を出し切れた」と誇らしげだった。


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「ことばのがっしょう」というコンセプトがいいですね。本当の合唱となると、ある意味、敷居が高い部分がありますが、朗読であれば、奥は深いものの、とりあえず入り口はそれほど抵抗なく入れるような気がします。さらに群読となると、助け合うことができますし、役割分担などの面でも教育的効果が期待できるのでしょう。

そして何より、こうした活動を通じてやはり「ことば」を大切にする姿勢を身につけてほしいものです。そうした部分では、光太郎の詩は、やはり奥深いものがありながら、入り口は小学生でも入りやすい部分があります。当方も小学生の時に「道程」や「智恵子抄」の詩篇に触れたのがこの世界に入ったきっかけでした。

さらに願わくは、奥深いその奥まで興味を持ってくれるお子さんが増えてほしいものですね。




追記 YouTubeさんに動画がアップされていました。光太郎詩「怒」(昭和2年=1927)を群読してくださった、愛媛大学教育学部附属中学校さんのものです。

【折々の歌と句・光太郎】

隧道を出れば雪なり国境      明治42年(1909) 光太郎27歳


有名な川端康成「雪国」の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を思わせますね。しかし「雪国」の執筆は昭和10年(1935)。25年以上前に光太郎が同じような発想で句を詠んでいます。

今朝も冷え込んでいました。本格的な春までもう少しの辛抱かな、と思います。

昨日に引き続き、NHKさんの「連続テレビ小説 あさが来た」ネタです。

新刊のムックをご紹介します。 

日経BPムック 広岡浅子のすべて 仕事と生涯

2016/02/20 日経BP社発行 定価815円+税

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約250点の写真、初公開史料、関係者インタビューで綴る「本当の広岡浅子」。
浅子の姉・春(ドラマでは「はつ」)、嫁いだ天王寺屋の末路は?
浅子死す! ―― その“最期”の状況は?
ドラマでは語られていない「真実」が、この1冊に!

今から約100年前、日本の経済、社会の豊かな発展と女性たちの輝かしい未来を祈った女性がいました。その人の名は、広岡浅子。

時代が大きく転換した幕末から明治の時代を駆け抜け、歴史に名を残す偉人に劣らぬ功績を、いくつも残した女性実業家でした。広岡浅子の生涯は今なお色褪せることのない学びや人生哲学に満ちています。

約250点の豊富な写真、初公開の最新史料、関係者インタビュー。そこから見える「広岡浅子」のすべてを、お伝えします――。

≪主な内容≫
NHK朝ドラのヒロインは“広岡浅子”がモデル
『あさが来た』で注目! 「白岡あさ」の物語

【第1章】 広岡浅子が生きた「九転十起」の人生
【第2章】 浅子が守った「加島屋」と文明開化の日本
【第3章】 浅子の仕事と明治の偉人たち
【第4章】 浅子が育てた人材、築いた「新しい時代」


B5判104頁で、なかなか読みごたえがありました。メインは実在の広岡浅子の紹介ですが、NHKさん提供のスチール写真もふんだんに使われ、番組の紹介も充実しています。

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さらに「【第4章】 浅子が育てた人材、築いた「新しい時代」」の中で、日本女子大学校つながりの智恵子も紹介されています。

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その他、光太郎智恵子と関係の深い平塚らいてう、小橋三四子、井上秀(ドラマでは田村宜)、一昨年の朝ドラ「花子とアン」の主人公・村岡花子らの紹介も充実しています。

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ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ばえや氷河下界に流れ去らず      明治42年(1909) 光太郎27歳

春とはいえ、まだまだ寒い日が続きます。インフルエンザ等も流行中。皆様もご自愛ください。

明治の女性実業家・広岡浅子を主人003公としたNHKさんで放映中の連続テレビ小説「あさが来た」。 いよいよ女子大学校設立に向けての話になって参りました。モデルとなっている学校は、智恵子の母校・日本女子大学校。「日の出女子大学校」という仮名で扱われます。再来週の第23週で、ついに女子大学校開校が扱われるそうです。

同校の開校は明治34年(1901)、智恵子の入学は同36年(1903)。智恵子と浅子、さらに光太郎、そして初代校長・成瀬仁蔵(朝ドラでは成澤泉)との関わりについては、昨年末のこのブログでご紹介しました。

成瀬仁蔵(成澤泉)役の瀬戸康史さんも、なかなかはまり役ですね。ヘンデル作曲の「O' load correct me」を唄うシーンがありましたが、この歌は日本女子大学校の愛唱歌として受け継がれているそうです。「智恵子抄」などの光太郎の詩にオリジナル曲を付けて歌われているモンデンモモさんは、同校の附属高等学校のご出身ということもあり、「智恵子抄」を扱うコンサートではよくこの曲を歌われています。


あさの娘・千代(広岡亀子)の親友で、吉岡里帆さん演じる田村宜のモデルは、同校一回生にして、のちの第4代校長となる井上秀。秀と光太郎智恵子の関わりについても、昨年のこのブログでご紹介しました。

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秀の同級生である一回生には、他にも小橋三四子、柳八重、服部マスなど、光太郎智恵子と関わりの深い人物がたくさんいます。また、ゲスト的に出演なさった三宅裕司さん演じる渋沢栄一は、のちに同校の第3代校長になります(秀が就任するまでの短期間、つなぎのような感じだったようですが)。

また、あさと、既に亡くなってしまった五代友厚(ディーン・フジオカさん)との会話の中で、自転車に関する話題が何度かありました。

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同校ではいち早く自転車を取り入れました。そのための伏線なのでは、と思って見ていましたが、考えすぎでしょうか。ちなみに智恵子のいた寮では智恵子が一番乗りでマスターしたそうです。

今後も目が離せません。


【折々の歌と句・光太郎】

おたがひにおとしめなげく人間のあぢきなきゆゑ寂しさきはまる
大正13年(1924) 光太郎42歳 

朝ドラ「あさが来た」では、女子大学校の開校までの道のりがかなり険しかったこともきちんと描かれています。今朝の回は、あさが刺されて入院している場面でしたが、じっさいにそういうことがあったそうです。お互いに貶め、嘆く悲しき人間の性(さが)と言ってしまえばそれまでですが。

京都の古刹、知恩院さんの情報です。

知恩院 春のライトアップ2016

期  間  2016年3月12日(金)~21(祝・月)
拝観時間  18時00分~21時30分(21時受付終了)
場  所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 ) 友禅苑、阿弥陀堂、女坂
拝  観  料 : 大人 500円  小中学生 300円

主な見どころ】

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。

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阿弥陀堂
明治43(1910)年に再建。本尊は御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。様々な法要儀式を執り行う堂宇です。堂内に並べられている木魚は自由に叩いて頂けます。法然上人のみ教え「お念佛」に触れて下さい。

【聴いてみよう! お坊さんのはなし】
ライトアップ期間中、阿弥陀堂にて毎日開催
開始時間:(Ⅰ)18時15分~、(Ⅱ)19時~、(Ⅲ)20時~(各回15~20分)
※状況により開催時間が変更になる場合がございます
今年は初の試みとして「聞いてみよう!お坊さんのはなし」を開催いたします。「なぜ祈りが必要なのか」「お寺のお参りの心構え」「極楽と天国の違い」など、知恩院のお参りを通して、より仏教を身近に感じていただけるような内容になっています。お話の後には皆さんと一緒に木魚を叩きながら「南無阿弥陀佛」とお念佛をお称えします。
知恩院の荘厳な空間の中、お坊さんと一緒に貴重な体験をしてみませんか?


知恩院さんでは、毎年紅葉の時期にライトアップをされていますが、おそらく今年から春にも実施するとのこと。来月中旬からで、桜の時期とは少しずれているような気もしますが、どうなのでしょうか。早咲きの桜などはもう咲いているのでしょうか。

当方、昨春、知恩院さんに行って参りました。光雲作の聖観音像、京都で露座の光雲作品は珍しく、興味深く拝見しました。

いよいよ春本番間近、という感じですね。


【折々の歌と句・光太郎】000

仁丹の広告よりは右にして明るき窓の五つ目の家
明治42年(1909) 光太郎27歳

ライトアップではありませんが、夜の東京の広告塔を謳ったものです。

「仁丹」。亡くなった祖父が愛用していました。「懐かしい」というイメージですが、今もちゃんと販売されているのですね。

画像は次の年の雑誌『スバル』に載った光太郎の手になるイラストです。

東京大田区からの朗読系公演情報です。 

朗読劇「レモン哀歌」

期  日 : 2016年3月6日(日)
時  間 : 開場 19:15    開演 19:30
会  場 : 大田区民ホール・アプリコ(小ホール) 大田区蒲田5-37-3
出  演 : 西村守正 成瀬麻紗美 小堀好美 菊川竜馬 三木理恵子 國山菜穂子 高山真利
演  出 : 柳原さや
料  金 : 2,500円(全席自由・前売当日共)

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平成25年(2013)にも、同一のデザインのチラシが使われた公演がありました。よくわかりませんが、内容も同一なのでしょうか。

3月から4月にかけ、この手の公演で光太郎智恵子の世界を扱うものをいくつか把握しています。順次ご紹介していきます。


【折々の歌と句・光太郎】000

天そそる家をつくると女(をみな)より生れし子等は今日も石切る
明治40年(1907) 光太郎25歳

光太郎滞米中の作品です。建材用の石を切り出す職人さんたちを謳ったもの。

ところで、「天そそる家」とまでは行きませんが、今週から当方自宅兼事務所に、屋根と外壁のリフォーム工事が入っています。

現在、足場に囲まれて居る状態で、毎日、職人さんたちが入れ替わり立ち替わりいらして作業されています。

不耕貪食の身としては、ものを作ったり直したりの職人さんたちを本当に尊敬します。

東京葛飾区のプラネタリウム施設「プラネターリアム銀河座」さんでの上映情報です。 
高村光太郎の詩集・智恵子抄の「あどけない話」で春の空を考えます。
「桜若葉の間に在る、、、」空の話です。000
春の湿気ある空、春霞を文学とともに考えてみませんか?


投影日と解説員(通常の勤務と違います) 
第1週土曜日 2016/3/5 西かおり・春日了
第3週土曜日 2016/3/19福田弥生・春日了

会  場 : プラネタリーアム銀河座
 
      東京都葛飾区立石7-11-30 證願寺(ショウガンジ)内
時  間 : 15:00~15:50
料  金 : 大人1000円  子供500円(10歳~中学生まで)
定  員 : 22名(予約制)

当方、学生時代、よく池袋サンシャイン60のプラネタリウム施設に行きました。単なる天体などの解説にとどまらず、ストーリーのあるプログラムで、さまざまな内容が楽しめるようになっていました。お約束のギリシャ神話的なものや、現在当方の住む千葉県香取市の偉人・伊能忠敬と天体観測の話などなど。

葛飾のプラネターリアム銀河座さんでも、そのようにストーリー性のあるオリジナルのプログラムを毎月上映されているようで、来月のプログラムが「智恵子抄と春空」だそうです。

こういった分野で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さるのは、有り難いかぎりです。


【折々の歌と句・光太郎】

あかつきは早まもあらぬ星かげにおく霜まもる神のみすがた
明治33年(1900) 光太郎18歳

というわけで、星を詠った短歌です。

雑誌の新刊です。 

月刊『美術手帖』2016年3月号「超絶技巧!!宮川香山と明治工芸篇」

2016/02/17 美術出版社 定価1,600円+税

SPECIAL FEATURE 超絶技巧!! 宮川香山と明治工芸篇 山下裕二=監修
PART1 “美しい畸形”の陶芸家を再発見せよ! 宮川香山
PART2 極限の技が炸裂する、職人魂に驚嘆! 明治工芸の“必殺”仕事人!!
PART3 3人の現代作家が迫る、技巧と表現の世界 現代の超絶技巧

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少し前から再評価が進んでいる明治工芸、いわゆる「超絶技巧」の特集です。

メインで取り上げられているのは、真葛焼の陶工・宮川香山ですが、「PART2 極限の技が炸裂する、職人魂に驚嘆! 明治工芸の“必殺”仕事人!!」で、光太郎の父・光雲も取り上げられています。

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また、光雲が代表作の一つ、「老猿」を出品した万国博覧会や、光雲も任ぜられた帝室技芸員制度などにも触れ、非常に示唆に富んでいます。

京都清水三年坂美術館さんの収蔵品による、いわゆる「超絶技巧」の数々を集めた企画展。光雲の木彫も展示され、一昨年の日本橋三井記念美術館さんを皮切りに、静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、福島郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さんと巡回し、昨年末の岐阜県現代陶芸美術館さんでとりあえず終わりました。その間にはNHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられています。

一過性のブームで終わることなく、今後も広く取り上げられてほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ちちのみのちち老いましてよねんなくしごとしたまふ春あさき日を
昭和8年(1933) 光太郎51歳

晩年の光雲を謳った短歌です。「ちちのみ」は「父のみ」。光雲妻・わかに先立たれたことを表します。

今朝の『朝日新聞』さんの奈良版に以下の記事が載りました。 

戦時下を生きた詩人 奈良大で池田克己展

 明治末の吉野で生まれ、22歳で初の詩集を世に出した。戦時下の中国・上海で創作に力を注ぎ、文学界で光を放った。半ば忘れられた詩人の陰影を追う展示「海の彼方(かなた)の日本語文学 詩人・池田克己(かつみ)とその時代」が、奈良市山陵町の奈良大学図書館で開かれている。3月26日まで。
 豚の絵と「PIG」の文字を大書きした詩誌「豚」。表紙に写真やイラストをあしらったモダンな雰囲気の俳句雑誌「地図」、詩句誌「風地」……。いずれも池田克己(1912~53)が20代で刊行に関わったものだ。展示室には、大学や木田隆文准教授(43)が集めた古い雑誌が並ぶ。
 時は、軍靴の足音が近づく昭和10年代。吉野に暮らした池田が全国に呼びかけ、洗練された印刷物をつくっていたことについて、日本近代文学が専門の木田准教授は「林業で栄えていた当時の吉野には、最先端の情報も入ってきたのだろう」と見る。
 44年の3作目の詩集は高村光太郎が序文を寄せ、高見順らと詩誌を創刊するなど、日本を代表する詩人と交流があった。
 展示ケースには、「法隆寺土塀」という48年の作品もある。展示室では中身まで読めないが、中国で終戦を迎え、ぼろぼろに傷つき帰郷した池田が、白鳳・天平以来の時を超えた土塀を目の当たりにした心持ちをつづっている。
     ◇
 一方、「日本統治下上海の文化政策」「戦時上海の日本人文学者たち」と題した展示コーナーでは、占領政策を広めるために「大陸新報社」が出した雑誌、池田が始めた「上海文学研究会」の雑誌など、当時の出版物を紹介している。
 徴用が終わった後も上海にとどまった池田は、邦字紙「大陸新報」記者として活動する傍ら、現地の文学者仲間と創作に打ち込んだ。
 木田准教授はしかし、この時期のほとんどの資料が既に失われた、と指摘する。文学者や記者たちは占領政策に加担していた側面もあり、その仕事を顧みられることはあまりなかった。古書店などで集めたという書物は、歴史の大切な「証言者」だ。
 「複雑な国際関係の中を生きて、創作活動をやめなかった人たちがいた。彼らの行動を丁寧に捉え直すことが、この先の未来を考えるためにも必要ではないか」
 無料で、学外の人も見られる。2月29日~3月10日は蔵書点検で休み。開館時間などの問い合わせは図書館(0742・41・9507)。(栗田優美)
     ◇
■法隆寺土塀
 帽子にたまつた雨水をはらい000
 靴底につもった泥水を雑草になすり
 頬につたう雫をぬぐい
 龍田川からの一本道
 土砂降りしぶく一本道
 とうとう私はかえつてきた
 (略)
 私の中華民国十年の
 雑多矢鱈のボロボロの
 息せき切った一散の
 昏昏迷迷の
 びしょ濡れの
 前に立つ荒壁
 法隆寺土塀
     ◇
 〈池田克己〉 今の吉野町で生まれ、小学校卒業後、吉野工業学校(現・吉野高校)で建築を学ぶ。上京して写真を学び、地元に帰って写真館を営む傍ら、22歳で初詩集「芥は風に吹かれてゐる」を出版。1939年に上海へ派遣され、軍関係の建築にあたる。その後、邦字紙「大陸新報」記者に。45年11月に帰国し、40歳で他界するまで詩作を続けた。47年に創刊した詩誌「日本未来派」は、今も年2回発行されている。


この展覧会は存じませんで、早速調べてみました。 
期 間 : 2016年1月18日(月)~3月26日(土)
場 所 : 奈良大学図書館展示室(奈良市山陵町1500) ※一般の方も入館できます。
入場料 : 無料
 間 : 図書館開館時間に準じる(http://library.nara-u.ac.jp/nara/yotei.htm)。
     ※大学春休み期間は開館日が変動しますので、ご注意ください。

展覧会で取り上げる池田克己(1912-1953)は、奈良県吉野生まれの詩人です。
戦前の彼は、吉野を拠点に詩作を行い、詩雑誌「豚」を主催、全国的に注目される詩人となりました。
その後日中戦争に徴用、除隊後も上海に残り、その地で長江一帯に住む日本人・中国人の文学者を結集した上海文学研究会を結成。戦時下の上海でさまざまな日本語文学書を出版します。
そして戦後になって日本に帰国したのちも、日中で交流した詩人たちを再結集した詩サークル「日本未来派」を結成。戦後日本の現代詩の基礎を築きあげる活動をしました。
本展示では、その池田克己の足跡を関連する書物を取り上げながら紹介してゆきます。
展示図書のうち、特に戦時下の中国大陸で発行された日本文学関連図書は、国内外の図書館にも所蔵がないものがほとんどです。
なかには今回が新発見・初公開のものも多数含まれています。
 戦前期の奈良吉野でモダンな近代詩運動が繰り広げられていたことは、奈良県民の皆さんもあまりご存知ないことだと思います。
また〈日本文学〉が、海外にも広がっていたこと、そして〈日本人〉だけがそれを担っていたのではないということも今回の展示からは浮かび上がります。
 一人の詩人の足跡をたどりながら、〈日本語文学〉の多様さを感じていただければ幸いです。


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池田克己は明治45年(1912)生まれの詩人。特殊建設の現場監督として徴用され、中国大陸に渡って復員。昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。

こちらは昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレート。

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また、当方、池田の名が記された光太郎書簡を持っております。昭和23年(1948)5月、札幌の『日本未来派』発行所の八森虎太郎に送ったものです。

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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。

厚く御礼申上げます。

『朝日新聞』さんの記事に紹介されている『法隆寺土塀』についても触れられています。

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上記は昭和23年(1948)7月刊行の『日本未来派』第13号。『法隆寺土塀』の広告が出ています。


こういうマイナーな文学者を取り上げる企画展、各地の文学館さんでもちょっと難しいところがあると思います。そういう意味では大学さんで企画していただくのは非常にありがたいところですね。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
昭和28年(1953) 光太郎71歳

池田の急逝に際し、光太郎が送った弔電に載せられた短歌です。当時の電報は片仮名のみでした。漢字平仮名交じりにすれば「我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと」。上記のポートレートに関わります。


弔電、といえば、昨夜、当方も地元の郵便局から弔電を発送しました。

名古屋学芸大学教授で、『智恵子抄の新見と実証』(新典社 平成20年=2008)、『『智恵子抄』の世界』(同 平成16年=2004 奥様の裕子様と共編著)などのご著書のある大島龍彦氏が亡くなられました。

当方が現今の立場になる以前、光太郎忌日・連翹忌の仕切りを数年間やってくださり、高村光太郎研究会、名古屋高村光太郎談話会などでご活躍でした。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第60回連翹忌御案内

                                        
日 時  平成28年4月2日(土
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)


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第60回連翹忌へのお誘い

 高村光太郎さんを偲ぶ連翹忌も、新しい運営委員会の方々におまかせしてから、瞬く間に10年目が来ようとしています。有能で機動力に富むその絶え間ない努力によって、未知の資料の発掘や回想の集積は、全集に増補の巻を加えなければならないほど充実して来ています。

 戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。例年のように楽しい催しもいろいろ用意されるでしょう。

 是非、いつもの日比谷松本楼の一夜にお出かけ下さいますよう、お誘いいたします。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(火)002までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


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今年は光太郎没後60年の節目の年です。また、閏年の関係で、4/2は土曜日となっています。例年「年度はじめの平日では無理」という方も、ぜひご参加下さい。

過去3年間の様子はこちら。



【折々の歌と句・光太郎】

もちくさをくさもちにして箱につめたのしきものか友のくる日は
大正14年(1925) 光太郎43歳

4月2日の連翹忌にて、志を同じうする全国の皆様とお会いできることを楽しみにしております。

昨日は埼玉県加須市に行って参りました。

サトヱ記念21世紀美術館さんで開催中の「生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」の関連行事、第2回ミュージアムトーク拝聴のためです。

同展には昨秋に行って参りまして、2度目の訪問となりました。


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講師は美術文献研究家の佐々木憲三氏。斎藤与里、そして光太郎らを中心に、明治末に結成されたヒユウザン会(のちフユウザン会)の機関誌『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)の復刻などに関わられた方です。連翹忌の御常連でもあります。

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演題は「斎藤与里・画家としての軌跡」。約2時間、与里の人となり、業績、さらに光太郎を含む周辺人物との関わりなどのお話でした。

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同展は来月13日までの会期です。

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ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

今おもふ人のことこそをかしけれけものとなりて湯にひたる時
大正13年(1924) 光太郎42歳

温泉につかりながら思う人は、やはり智恵子なのでしょうか。

最近入手した2枚組CDです。発行は先月でした。声優の能登麻美子さんの朗読CDです。 
2016年1月8日 文化放送 定価3,000円
出演 能登麻美子  ジャケット AYA KAKEDA

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CD-1「シグナルとシグナレス」(宮沢賢治)

CD-2「能登麻美子おはなしNOTEアーカイブ」*データCD
 1 録り下ろしトークパート
 2 サラダの謎  中谷宇吉郎
 3 雨ふり坊主  夢野久作(香具土三鳥)
 4 雨と子供  宮本百合子
 5 珈琲店より  高村光太郎
 6 兵士と女優  渡辺温
 7 碁石をのんだ八ちゃん  有島武郎
 8 赤いろうそくと人魚  小川未明
 9 卵  夢野久作
 10 詩の特集(2014夏)
 11 停車場の少女  岡本綺堂
 12 かちかち山  楠山正雄
 13 ブレーメンの町楽隊  グリム兄弟
 14 秋の幻  豊島与志雄
 15 月下のマラソン  牧野信一
 16 竹取物語  訳:和田万吉
 17 椎茸の話・美味い豆腐の話  北大路魯山人
 18 詩の特集(2014秋)
 19 子供に化けた狐  野口雨情
 20 最後の晩餐  フィオナ・マクラウド
 21 猿蟹合戦  芥川龍之介
 22 蜘蛛の糸  芥川龍之介
 23 薄田泣菫の随筆特集  薄田泣菫
 24 みみず先生の歌  村山壽子
 25 『若草物語』より「たのしいクリスマス」 ルイーザ・メイ・オルコット
 26 手袋を買いに  新美南吉


文化放送さんが運営しているインターネットラジオ、「AG-ON」で放送されている「能登麻美子おはなしNOTE」という番組で扱われた朗読を集めたものです。

パリ留学中の出来事を回想して書かれた光太郎のエッセイ「珈琲店より」(明治43年=1910)が含まれています。パリジェンヌと一夜を過ごした翌朝、鏡の中の自分を見て、ある種の人種的劣等感を感じ、また、結局、西洋人は理解不能なのだとの思いを改めて感じた、という内容です。青空文庫さんで読むことができます。

能登さんは以前から光太郎作品の朗読に取り組んで下さっています。昨年のこのブログに毎日掲載していた【今日は何の日・光太郎 拾遺】でご紹介させていただきましたが、平成17年(2005)に発行された雑誌『アニメーションRE 創刊号』付録のDVDには、能登さんによる、『智恵子抄』巻末近くの光太郎詩「亡き人に」の朗読が収められていました。

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今回の「珈琲店より」の朗読も、しっとりと落ちついた美声での朗読で、女性の声でありながら違和感なく耳に入ってきます。


ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

をのこにてさふらふゆゑにくちあけばをみなのことをつねいひはべる
明治42年(1909) 光太郎27歳

今日はバレンタインデー。光太郎が歿した昭和30年代くらいから、チョコレートを贈るという習慣が日本に広まり始めたそうです。

しかし光太郎、正直ですね(笑)。

一昨日、福岡県の地方紙『西日本新聞』さんに載った記事です 

「道程」刻字で寄贈 書道家の宇野美江さん [福岡県]

011 中間市の書道家宇野美江さん(51)=雅号・星河=が10日、同市中尾の中間東小(495人)に、高村光太郎の詩「道程」を彫った刻字作品を贈った。同小6年の長男佑哉君(12)と森岡重義校長(60)が今春、「卒業」するのを記念した寄贈で、刻字は同小の児童用出入り口に飾られた。
 宇野さんは山口県出身。結婚を機に20年ほど前に同市に移り住んだ。市内外で個展を開き、自宅で書道教室を主宰しているほか、刻字に約6年前から取り組み、日本刻字展にもたびたび入賞した。2人の娘も同小を卒業しており、PTA役員をしていた関係で、森岡校長が同小の教頭だった約7年前から親交があった。森岡校長はこの春、定年退職する。
 寄贈した刻字(縦50センチ、横1メートル)は「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」という名言をカツラの板にのみなどで彫り、紫の下地に金箔(きんぱく)を張っている。4年前の制作で3カ月ほどかかったという。作品はコンクールで入選した。「子ども3人がお世話になったお礼に」と今月上旬、寄贈を申し出て了承を得た。
 この日、職員室で森岡校長に刻字を手渡した宇野さんは「自らの努力で道を切り開いてほしいという思いを伝えられるよう、いつか小学校に贈りたかった」と語った。森岡校長は「刻字を見た子どもたちが、自分が歩んできた足跡を心の中でじっくり振り返ることができる。最高の贈り物だ」と喜んだ。
=2016/02/11付 西日本新聞朝刊=

刻まれているのは、大正3年(1914)、雑誌『美の廃墟』に発表されたオリジナルの102行ある「道程」の一節です。のち、同じ年の10月に刊行された詩集『道程』では、9行に圧縮された、現在よく知られている形に改められました。

最近、オリジナルの「道程」が取り上げられる機会が増えてきました。

昨年4月にリニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館では、声優の堀内賢雄さんによるこの長いバージョンなどの朗読が聴けるコーナーを設けてあります。

また、同じく昨年、歌手の西城秀樹さんが、「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」というイベントで朗読し、テレビでも紹介されました。

詩集『道程』に収められた9行の完成型はよく知られていますが、102行の原型はあまり知られて居らず、こういうバージョンがあったのか、これはこれですばらしい、と、新鮮な驚きから取り上げられる機会が多くなっているようです。

もちろん、9行の完成型もいろいろと取り上げて下さっているようです。どちらの形にしろ、どんどん取り上げていただきたいものです。特にこれから卒業シーズン、さらに4月からは新生活スタートのシーズンです。若い人々へのはなむけや、エールとして、日本中で「道程」が引用されてほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

けだものといふにはあらずしかねどもまるであたらしき別のいきもの
大正13年(1924) 光太郎42歳

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と宣言した光太郎。自らの荒ぶる魂を「猛獣」に仮託し、道を切り開いていこうとしていました。








福島から展覧会情報です。 
会  期 : 2016年2月27日(土)~2016年3月21日(月・祝)
会  場 : ビッグパレットふくしま 福島県郡山市南2丁目52 
時  間 : 平日 11:00~17:00(入館は16:30まで)
          土日・祝 9:00~17:00(入館は16:30まで)
料  金 : 一般800円・高校生以下400円・未就学児無料
主  催 : 公益社団法人郡山青年会議所
協  力 : 福島県 スタジオジブリ 第二楽章を語り継ぐ会 ビクターエンタテインメント
       徳間書店 (公社)日本青年会議所東北地区福島ブロック協議会 
後  援 : 郡山市  富岡町  郡山市教育委員会 郡山市文化協会 郡山市PTA連合会、
       郡山商工会議所 福島県中小企業家同友会郡山地区 福島民報社 福島民友新聞社
       福島テレビ(株)(株)福島中央テレビ(株)福島放送(株)テレビユー福島
       (株)ラジオ福島 ふくしまFM 郡山コミュニティ放送ココラジ
       街こおりやま社 
週刊ザ・ウィークリー(株)ガイドポスト
       福島リビング新聞社 .ru.ku出版 
情報誌だいすき 月刊こおりやま情報

2016年、私たちは東日本大震災から5年目の節目を迎えます。
復興への歩みを進めるなかで多くの人々の記憶から震災の記憶は失われつつあります。女優.・吉永小百合は「平和の貴さ」を次世代に伝えるため、1986年から原爆詩の朗読を続けてきました。東日本大震災発生後は福島に思いを寄せ、震災の記憶を次世代に伝える活動を行っています。2015年3月11日には東日本大震災で被災された方の詩を朗読した詩画集「第二楽章・福島への思い」を発表しました。そして、その挿絵を担当したのが「となりのトトロ」などスタジオジブリの美術監督も努めた男鹿和雄です。男鹿の作品は、生命感にあふれ、どこかノスタルジックで暖かい雰囲気が漂います。多くの人々が男鹿の作品に心魅かれるのは、綿密な取材に裏付けられた巧みな構図や光、描写技術はもちろん、男鹿のおだやかな人柄が、その筆跡からにじみ出ているからとも言えるでしょう。そして、吉永もそんな男鹿の作品に魅了された一人です。
本展では、震災後5年を迎えるにあたり、吉永のライフワークと男鹿の絵筆によって生まれた『第二楽章』の挿絵原画やスケッチなど約100点を通じて、平和へのメッセージと男鹿の描く故郷の風景を通して3.11を風化させないためのメッセージを次世代へ伝えます。

男鹿和雄(おが かずお)
1952年、秋田県生まれ。1972年、アニメーション背景美術の会社・小林プロダクションに入社。「樫の木モック」で初めて背景を手がけ、その後、「はだしのゲン」などマッドハウスが制作する劇場映画の美術監督を手がける。1987年、宮崎駿監督作品「となりのトトロ」に参加。以後、スタジオジブリ作品「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「かぐや姫の物語」で美術監督を務める。現在まで数多くのアニメーション作品の背景美術に携わる。


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このブログで以前にご紹介した吉永小百合さんの朗読によるCD「第二楽章 福島への思い」のジャケットを手がけられた男鹿和雄さんの展覧会です。

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昨年、広島で開催されましたが、その際は光太郎智恵子と関係がなかったのでご紹介しませんでした。

2016/2/29追記 長崎でも開催されていました。存じませんでした。

今回は、関連企画として光太郎智恵子に関わるものが計画されています。 

「未来のわたしたちへ~ほんとの空~」絵画展覧会

福島県内の小中学生を対象に“心に残った風景”“自分のすむまちの風景”をテーマとした絵画を募集し、展示するとともに、代表作品に顕彰します。応募作品が多数の場合は1週間ずつローテーションで展示します。
応募して頂いた方は、無料で「男鹿和雄展」をご覧になれます。

応募受付期間 2016年1月下旬~2016年3月12日(土)

作品
1.テーマは”心に残った野山の風景””自分のすむまちの風景”とします。
2.作品の素材は水彩画・クレヨン画とします。
3.応募作品のサイズは、団体応募でB全判画用紙(765mm×1085mm)・個人応募で四つ切判画用紙(382mm×542mm)とし、額装は不要です。
4.応募作品は、未発表の作品に限り、1人1点とします。また1団体50点以内でお願いいたします。
 
応募部門
1.小学生の部(作品搬入時を基準)
2.中学生の部(作品搬入時を基準)
 
応募方法
応募申込書に必要事項を記載の上、下記の公益社団法人郡山青年会議所事務局へ郵送いただくか、2月27日以降はビッグパレットふくしま3階へ直接お持ちください。

応募先
公益社団法人郡山青年会議所 青少年育成委員会 宛
 〒963-8877 福島県郡山市堂前町5-19 日専連郡山ビル3階 TEL 024-932-2289

展示期間
2016年2月27日(土)~2016年3月21日(月・祝)



小中学生の皆さん、及び小中学生のお子さんをお持ちの皆さん、小中学校の先生方、ご参考までに。


東日本大震災後、特に福島では、光太郎詩「あどけない話」に使われた「ほんとの空」の語が復興への合い言葉としてよく使われ、定着した感があります。

来月には震災から満5年。「ほんとの空」が本当の意味で広がる福島となることを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

むら竹の夕のさやぎ胸にしめて空をながめてふと思ふこと

明治33年(1900) 光太郎18歳

この時、数え18歳の光太郎は「空をながめて」何を思っていたのでしょうか……。

広島に本社を置く地方紙『中国新聞』さんに、今週、光太郎の名が出ました。 

[Peaceあすへのバトン] 広島大4年・福岡奈織さん

広島大4年 福岡奈織さん無題(23) 体験の共有 皆が「主役」

 「おしゃれに、気軽に、対話する」。友人と一緒につくった広島県内の大学生グループ「リンガ・フランカ」の活動方針です。被爆した人と若者が語り合う会「はちろくトーク」を開催しています。  
 「原爆って何?」と質問する同世代は多くいます。「核や平和の話題は真面目」「勉強したことがなく、どう考えればいいのか分からない」とも聞きます。それでも、約100人の大学生が会に来てくれます。みんな「知りたい」という意欲はあるのです。  
 一方的に講演を聞くのではありません。一人一人が「主役」になって証言を聞き、次のステップを踏み出すにはどうしたらいいか。相手を「被爆者」ではなく「あなた」と捉え、若い「私」たちが言葉を交わす場にしようと思い付きました。バーで開いたり、カフェで企画を練ったりして若い感性を生かしています。  
 40代で亡くなった祖父は10代の時に被爆。死後に生まれた私は体験を直接聞くことも、「3世」という意識も持つこともないまま生活していました。それが、一つの話を聞いて気持ちが変わりました。東京の非政府組織(NGO)主催の船旅で、アウシュビッツ強制収容所跡(ポーランド)を見学した時でした。  
 あるイスラエルの20代の女性は、アウシュビッツに来て初めて自分の祖父がホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生還者だと知り、ショックを受けたそうです。悲劇の重みを感じた彼女の話に、同じ3世という自らの姿を重ねました。自分の生きている意味を考えざるをえませんでした。  
 祖父が死んでいたら自分もいなかった―。そう想像すると、被爆3世という事実を大切にしようと決めました。帰国後、親族たちに会いに行って話を聞き、祖父の姿を探りました。  
 卒業論文では、フランスの核実験が続いた南太平洋ポリネシアを訪れ、実験場で働いたタヒチ島の7人にインタビューしました。広島と同じく、拾わないとなくなってしまう声です。  
 高村光太郎の「智恵子抄」の一節にあるように、見えないもの、聞こえないものを、見えるもの、聞こえるものにして、発信していくことが私の目標です。  
 広島は被爆という痛みを抱えたからこそ、世界の他の悲しみと向き合い、分かり合える可能性を持っています。みんなが心を通して感じていける土台をつくっていきたいです。(文・山本祐司、写真・福井宏史) 無題2

10代へのメッセージ
いーっぱいの心をつかって、今を生きる。

ふくおか・なお
 広島市出身。中学時代、講演を機に平和に関心を持つ。2014年、NGOピースボートの旅で世界を巡る。帰国後、リンガ・フランカを結成、若者と被爆者との距離を縮めようと努める。安芸区在住。  
(2016年2月8日朝刊掲載)


見えないもの、聞こえないものを」云々は、「智恵子抄」中の「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)という詩が元ネタでしょう。


   値(あ)ひがたき智恵子

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、002
出来ないことを為る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。


画像は昭和42年(1967)公開、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」のスチール写真です。

「値(あ)ひがたき智恵子」は、心を病んだ智恵子を謳った詩です。したがって、ちょっと場違いな引用かな、という気がしないでもありませんが、かえって智恵子は心を病んだことで、通常の状態では見えないもの、聞こえないものに気がついたと考えれば、そうした鋭い感覚、的な意味での引用はありかなとも思いました。

特に今日のような日――朝っぱらから大音量のイタい軍歌を流す街宣車が走り回っているような――に、こうした問題を考えることは重要なことだと思います。



【折々の歌と句・光太郎】

につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に
大正7年(1918) 光太郎36歳

「田夫」は明治28年(1895)生まれの画家・宅野田夫(たくのでんぷ)。洋画を岡田三郎助に、日本画を田口米舫に学びました。そしてさらに南画の技法をものにするため、この年、中国に渡ります。その送別の際に贈った歌です。

グローバルな視点で貪欲に絵画を習得しようとする若者には、アカデミズム主導のこの国の美術界は狭すぎると感じ、エールを送ったものと思われます。

光太郎の父・光雲の作品が並ぶ企画展の情報です。 

かざり -信仰と祭りのエネルギー

会 期 : 平成28年3月1日(火)~5月15日(日)
会 場 : MIHO MUSEUM 滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300
時 間 : 午前10時~午後5時
休館日 : 毎週月曜(3月21日は開館)、3月22日
料 金 : 一般1,100円 高大生800円 小中生300円

煌びやかな仏教荘厳の世界、伎楽や舞楽の色彩と歌舞の世界、信仰の中の動物たち、祭りの賑わいなど、「かざり」をキーワードに日本人の精神世界を読み解いていく展覧会が、MIHO MUSEUMで開催されます。深く仏教に帰依した伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」(展示3月1日~4月17日)と「樹花鳥獣図屏風」(展示3月1日~13日)との競演や、滋賀県の水口曳山祭、大津祭、長浜曳山祭を彩る曳山懸装品など、神仏への信仰に根ざした「かざり」の世界が幅広く展観されます。

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毎年9月、神奈川横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭で街を練り歩く、光雲の手になる「火伏神輿」及び「獅子頭」が展示されます。当方、一度、現物を見て参りましたが、ともに見事な作でした。

ともに普段は神奈川県立歴史博物館に展示されていますが、この企画展のために貸し出すそうで、搬出の様子がTVKテレビ神奈川さんのローカルニュースで取り上げられました。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

正直にまをせばかかる荒山に棲む四足のわれは族かも
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日ご紹介した短歌同様、自らの内なる荒ぶる獣性を謳った歌です。「まをせば」は「申せば」。

テレビ放映情報です。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2016年2月10日(水)  6時45分~6時55分  再放送 17時10分~17時20分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親を対象に制作。番組を通して、日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけてもらうことをねらいとしている。今回は、僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、ひこうきさんようしゅんしゅん旬~冬~/ゆきおとこ、うた/スキー、道程

出演 小錦八十吉,神田山陽,おおたか静流 ほか

この番組では、時折光太郎作品を取り上げて下さっています。昨年暮れに亡くなった浪曲師・国本武春さんの歌による「ベベンの冬が来た」が定番の一つでしたが、もう一つ定番で、「道程」がよく取り上げられます。

子役たちの朗読によるバージョンと、坂本龍一さん作曲のうたによるバージョンとがありますが、今回の放映はどちらになるか不明です。また、過去の映像の使い回しか、新作かもわかりません。

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ついでに光太郎の周辺人物に関わるテレビ番組をご紹介しておきます。 

黒柳徹子のコドモノクニ 「宮沢賢治が残したメッセージ 童話から広がる宇宙への旅」

BS朝日 2016年2月10日(水)  22時00分~23時00分

BS朝日開局15周年特別企画▽大正から昭和にかけて発刊され、一流画家や詩人、作曲家がこぞって作品を寄せた伝説の絵雑誌『コドモノクニ』。藤田嗣治、東山魁夷、竹久夢二、野口雨情、北原白秋…。絵画、詩、童謡など様々なジャンルで、子どもたちのために本気になった大人たちの思いとは?黒柳徹子が今、未来へ続くメッセージを届ける。現代の芸術家・著名人が『コドモノクニ』からインスピレーションを得て生み出す新作にも注目!

宮沢賢治は、後に「イーハトーブ」と名付ける自然豊かな故郷、岩手県花巻で野山を散策して石を集め、満天の星空に思いをはせて少年時代を過ごした。このときの「夢」が賢治の童話の世界を生み出すことになった…。賢治と同様に、石を集めることを趣味とする写真家・浅井愼平が賢治の作品の世界を探る。

死の2年前、小さな手帳にメモのように書き記した「雨ニモマケズ」。2011年の東日本大震災では、被災された方々へのエールとして多くの人々が「雨ニモマケズ」を朗読した。今も受け継がれる賢治の魂をたどる。

出演 黒柳徹子 浅井

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プレミアムカフェ(1)猫を愛した芸術家の物語(2)迷宮美術館 猫の展覧会

NHKBSプレミアム 2016年2月11日(木)  9時00分~11時13分  再放送 2月19日(金) 午前1時30分〜

(1)おまえなしでは生きていけない~猫を愛した芸術家の物語~藤田嗣治 パリで拾った愛と成功
(2)アートエンターテインメント 迷宮美術館 猫の展覧会

特集 愛すべきパートナー・ねこ (1)おまえなしでは生きていけない~猫を愛した芸術家の物語~藤田嗣治 パリで拾った愛と成功(初回放送:2011年)女と猫の画家とも称された藤田嗣治。天才の孤独を癒やした猫たちとの物語 (2)アートエンターテインメント 迷宮美術館 猫の展覧会(初回放送:2005年)名画に登場する猫たちがスタジオに集合!専門家を招き、猫学の視点から画の謎を読み解く

司会  段田安則,住吉美紀
 ゲスト 高木美保,吉村作治,濱田マリ,川崎麻世,千代間咲恵,中村有志

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ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

何ならん人間界に立ちまじるこのうつそ身の外なるものは
大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎は関東大震災後の、不穏な世の中、さまざまな社会の矛盾に対しての怒りを露わにします。詩ではそうした荒ぶる魂――人間界に立ちまじるうつそ身の外なるもの――をさまざまな猛獣に託した「猛獣篇」の連作が書かれました。

まず先週末に始まった青森十和田湖での観光イベント「十和田湖冬物語2016」開幕に関する続報です。 

<十和田湖冬物語>夜空焦がす花火 20038日まで

 青森県十和田市の休屋地区で5日、雪祭り「十和田湖冬物語」が開幕した。かまくらバーや花火、16万個の発光ダイオード(LED)が湖畔を彩る。28日まで。
 日が暮れると、乙女の像や遊覧船がライトアップされ、ステージで津軽三味線などが演奏される。午後8時からは10分間、音楽に合わせて「冬花火」が夜空を焦がす。週末の日中はバナナボートなどが楽しめる。
 初日の夜の気温は氷点下4度。来場者は地酒や屋台料理を楽しみ、幻想的な花火に見入っていた。
 連絡先は十和田湖国立公園協会0176(75)2425。
(『河北新報』 2016/2/7)
 

国立公園指定80周年アピール 十和田湖冬物語開幕

 2月1日に指定80周年を迎えた十和田八幡平国立公園。その十和田湖畔休屋の特設会場で5日、「十和田湖冬物語2016」が始まった。毎年恒例だが、ことしは80周年にちなんだ巨大雪像が登場するなど、国立公園を前面にアピールする。苦境が続く十和田観光。それでも、3月には北海道新幹線が開業するなど明るい話題もある。関係者は冬の一大イベントを、再生につなげたい考えだ。
  光と雪が幻想の世界を描き出す冬物語。光のゲートやスノーランプの明かりがともる中、来場者は青森、秋田両県のグルメを味わったり、かまくらバーでくつろいだり。名物の打ち上げ花火が寒空を照らした。
  会場に堂々と陣取るのは、高さ8メートル、幅23・4メートルの巨大雪像。陸上自衛隊八戸駐屯地が制作に当たった。国立公園指定80周年の「80」を中央に刻み、迫力ある十和田湖伝説の竜や修行僧が来場者を迎えた。
  「ことしは記念の年で、さまざまな催しを考えている。地域一丸となって十和田湖の魅力をアピールしていく」。十和田湖国立公園協会の中村秀行理事長は、開会式で強調した。
  県内外から多くの観光客が訪れる冬物語は、国立公園をあらためてPRする絶好の機会。青森、秋田両県の関係者からは、十和田観光の再生への決意表明が相次いだ。
  青森県上北地域県民局の山田裕局長は、三村申吾知事のメッセージを代読。「北海道新幹線の開業で、青森と歴史的なつながりのある道南が一つの旅行エリアになる。国内外から新たな需要が喚起できる」と活性化へ期待を込めた。
  十和田市の小山田久市長は、冬物語について「青森、東北の冬のイベントとして定着してきた」とした上で、「北海道新幹線で十和田湖へ誘客を図るためにも、盛り上げていきたい」と意欲。
  これに呼応するように、秋田県小坂町の細越満町長も「十和田湖の旅行商品をつくり、誘客を図りたい」と意気込んだ。
(『デーリー東北』 2016/2/6)
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続いて、福島二本松から、

【二本松】『智恵子の生活』感じて! 二本松で生家の2階を「特別公開」

 詩人・彫刻家高村光太005郎の妻で光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で6日、智恵子の居室を含む2階部分の特別公開が始まった。
 特別公開は同市合併10周年記念で、大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」期間中や夏休み、菊人形期間中に続く公開となる。公開は週末と祝日で、今月の7、11、13、14、20、21、27、28の各日に公開される。
 元造り酒屋の生家2階にある智恵子の居室は4畳半で、急な階段を登った最初の部屋。弟や妹が暮らしたとされる木葉屋根の部屋にも隣接している。特別公開では普段立ち入りを制限している座敷なども公開されている。初日に訪れた東京都多摩市の小柳進さん(60)は「当時の様子を知ることができて感慨深い。これから『智恵子抄』もじっくりと読んでみたい」と語った。
 公開時間は午前11時~午後0時30分と午後1時30分~同3時。特別公開期間の入館料金は一般410円、高校生以下200円。問い合わせは智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。
(『福島民友』 2016/02/07)


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

きびもちのあさき黄いろの切り口のつやつやしきはきさらぎにをせ
大正14年(1925) 光太郎43歳

「をせ」は「食べる」の古語「食す(をす)」の命令形。

きびもちの切り口に現れた薄い黄色の光沢に着目するあたり、造形作家としての本領発揮です。

びもち あさきいろ り口の つやつやしは さらぎにをせ」、頭韻、脚韻もみごとです。

沖縄の地方紙『八重山毎日新聞』さんの社説です。 

新空港の悪夢再現避けよ

自衛隊配備で利益誘導の八重山建産連
 
■「琉球決戦」想起させる訓示
 航空自衛隊は1月31日、尖閣諸島などの防衛強化のため、那覇基地に51年ぶりと言われる航空団「第9師団」を新たに編成し、F15戦闘機部隊2隊(40機)を配備した。式典では若宮健嗣防衛副大臣が「国防の最前線という地域・任務に真摯(しんし)に向き合うことで、領土、領海、領空を確実に守り抜くことが可能となる」と訓示した。
 若宮防衛副大臣の訓示は、詩人高村光太郎が沖縄戦の最中に書いた「琉球決戦」を想起させる。高村は「琉球や、まことに日本の頸動脈、万事ここにかかり万端ここに経路す。琉球を守れ、琉球に於いて勝て。全日本の全日本人よ。琉球のために全力をあげよ。敵すでに犠牲惜しまず、これ吾が神機の到来成り。全日本の日本人よ、起って琉球に血液を送れ」と記している。
 高村の「日本の頸動脈」と若宮防衛副大臣の「訓示」は同一基盤に立つものであろう。「血液」は送られず、沖縄県民の普天間基地の県外移設も、どこも受け入れない。沖縄は犠牲を強いられるだけだ。
 石垣市の自衛隊配備計画の賛成反対の運動も活発化している。基地建設予定地の三公民館が反対を表明し、防衛局の説明会も拒否した。
■市議会議長は軽率な行動慎め
 これに対し建設関連10団体で構成する八重山建設産業団体連合会(黒嶋克史会長)が防衛省を訪ね、「外国船の領海侵犯対応、災害時における対応への期待」を表明。①水源地の増設②海水の淡水化施設③浄水場整備水産資源の開発④産業廃棄物処理場の建設⑤川平半島周回道路の建設⑥各地区災害時避難場所などの6項目を要望したという。
 防衛省に要望したのは自衛隊誘致を前提とした「特定防衛施設周辺整備交付金」を狙ってのことであろう。「防衛施設の設置または運用により生じている影響の軽減などを図るため、特定防衛施設関連市町村が行う公共施設の整備、またはその他の環境の改善、開発の円滑な実施に寄与する事業に対し、交付金を交付することにより、関係住民の生活の安定および福祉の向上に寄与することを目的とする」(防衛省平成25年行政事業レビューシート) 防衛省への要望が自衛隊の宣撫工作に沿った誘致活動であるのは一目瞭然であろう。要望には知念辰憲市議ら2人も同行した。「石垣市自治基本条例」第2項は「議員は市民全体の代表者としての品位と責務を忘れずに、常に市民全体の福利を念頭におき行動しなければならない」とある。知念議員は議長である。島を二分する重大な問題で軽率な行動は慎むべきだ。
■市の「情報が不足」は疑問
 1月27日「八重山大地会」が自衛隊配備計画の情報公開を求めたのに対し、漢那副市長は「市役所としても情報が足りず、判断の段階ではない」と述べている。中山市長は昨年6月、配備先選定で調査に協力すると述べ、沖縄防衛局の森部長は「詳細は市の担当者と調整して行いたい」と語った。市の協力なくして選定はできなかったはずだ。説明に疑問を感じる。
 防衛省は三公民館の反対を受け、配備先候補地周辺や市民の理解と協力が得られるよう適切な情報提供に努めたいと述べている。
 新石垣空港建設で白保公民館が二分し住民が激しい対立した悪夢の再現があってはならない。三公民館の意見を尊重し、静かな生活環境のためにも石垣市への自衛隊配備計画は断念すべきだ。
2016年02月06日


引用されている光太郎詩「琉球決戦」は、昭和20年(1945)4月1日作。翌日の『朝日新聞』に掲載されました。当時は『朝日新聞』ですら、国策協力の最先鋒という立ち位置でした。

  琉球決戦

神聖オモロ草子の国琉球、
つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
あらゆる暴力を傾け注がんずる。
琉球やまことに日本の頸動脈、002
万事ここにかかり万端ここに経絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の全日本人よ、
琉球のために全力をあげよ。
敵すでに犠牲を惜しまず、
これ吾が新機の到来なり。
全日本の全日本人よ、
起つて琉球に血液を送れ。
ああ恩納(おんな)ナビの末孫熱血の同胞等よ、
蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ


数ある光太郎の翼賛詩―負の遺産―のうち、負のベクトルの最たるものの一つです。

この詩の書かれた4月1日、まさにその日に米軍は沖縄本島に上陸、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されます。「起つて琉球に血液を送れ。」とばかりに、無謀な海上特攻を仕掛けた戦艦大和は7日には沖縄にたどり着くことなく撃沈。その後、沖縄戦では約20万人の日本人犠牲者が出ました。そのうちの約3分の2は沖縄の人々でした。

終戦後も永らく占領が続き、現在に至っても在日米軍基地の7割以上は沖縄に集中。普天間基地の移設問題、オスプレイの配備問題など、問題は山積しています。

それに加えて自衛隊の基地も存在。ただし、石垣島を含む八重山諸島には、自衛隊基地はないとのことです。しかし、ここにきて誘致の計画が浮上。それが一概に悪いとは言いません。人工衛星の打ち上げと称する事実上の大陸間弾道ミサイルをぶっ放す国がすぐ近くにあるなど、防衛の必要上、不可欠なのかも知れません。でも、有事の際に真っ先に攻撃目標にされるのは米軍や自衛隊の基地ですね。また、誘致の裏に利権目当ての胡乱な輩の影もあるようです。

大戦中、ある意味、軍の尻馬に乗って翼賛詩を乱発し続けた光太郎は、沖縄戦真っ最中の4月13日の空襲で、亡き智恵子と共に過ごした思い出深い東京のアトリエを失います。手痛いしっぺ返しを喰らったようなものですね。

現在の我が国も、手痛いしっぺ返しを喰わないようにしていきたいものだと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

高きものいやしきをうつあめつちの神いくさなり勝たざらめやも
昭和19年(1944) 光太郎62歳

負の遺産ついでに、戦時中の作品です。結局、うたれたのは「いやしき」日本の軍閥でした。

光太郎最晩年の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖で、先だってご紹介した観光イベント「十和田湖冬物語2016」が開幕しました。

地元紙『東奥日報』さんから。 

花火、冬の夜空照らす 十和田湖冬物語開幕

 真冬の十和田湖を幻想的な光で演出する「十和田湖冬物語」が5日、青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。冬花火が湖畔の夜空を鮮やかに染めた。
 今年の大型雪像は「十和田湖伝説」がテーマ。南祖坊と竜の八之太郎が迫力いっぱいの表情で向かい合っている。両者の間には、十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域の指定80周年を記念し「80」の数字がデザインされた。
 オープニングセレモニーで、小山田久市長らが雪像に点灯。午後8時、花火の打ち上げが始まると、色とりどりの200発が次々夜空を照らし、来場者が見入っていた。
 会場には、青森県と秋田県の郷土料理などを味わえる「ゆきあかり横丁」や、雪のテーブルで飲み物を楽しめる「かまくらBar」などのブースが設けられた。実行委員会の橋野修一委員長は「寒い日が続いたため雪像がきれいに仕上がった。節目の年に多くの人に楽しんでもらいたい」と話した。
 冬物語は28日まで。会期中は毎日午後8時から花火を打ち上げるほか、約16万個の発光ダイオード(LED)を使ったイルミネーションが会場を彩る。

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「乙女の像」のライトアップもなされ、地元の十和田湖小学校さん、十和田西高校さんの児童生徒の皆さんが作ったスノーランプが彩りを添えています。

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今月28日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

何となく神したはしきこの夕野火のささめき吾聞えたり
明治34年(1901) 光太郎19歳

ライトアップならぬ野火。この場合は焚き火ですが、炎に幻想的なものを感じています。

愛知でのイベント情報です。開催はまだ先ですが、申し込み期限が近いのでご紹介します。 

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター名古屋シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える―」

東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故から5年を迎えようとしています。
福島では、コミュニティーの崩壊、震災関連死、中間貯蔵施設、廃炉、子ども達の孤立化、住民の帰町・帰村、食の安心安全、風評などの課題が未だ解決されていません。しかしながら、すでに、「福島」が風化しているとの声も聞かれます。地震・津波・原発事故という人類が初めて直面する複合震災からの復興に挑む福島が抱える課題は、これからの日本が21世紀を切り拓き持続可能な社会を創造する上でも重要な課題です。これを時間の経過の中に埋没させ「風化」させることは、人類の未来を拓こうとする一つの扉を見失うことにも等しく、こうした「風化」を看過することはできません。今回のシンポジウムにおいては、今の福島を中京圏の方々に正しく伝えることにより、福島の経験を「復興知・支援知」として活かし、これからの地方創生に繋げていくことを目的に開催いたします。

日 時 : 平成28年3月5日(土)13:00~17:30
会 場 : 愛知大学 車道キャンパスコンベンションホール  名古屋市東区筒井二丁目10-31
参加募集人数 : 200名
  参加費無料 事前申し込みが必要です。2月19日(金)までにお申し込みください。

【プログラム】

Ⅰ部 鼎談 「悲しみを乗り越え前に進む子ども達、進めずにいる子ども達」
 登壇者
  堀下さゆり氏 シンガーソングライター
  中田スウラ  福島大学うつくしまふくしま未来支援センター長
  本多環    福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任教授


Ⅱ部 福島の現状報告 「―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える―」
  福島の現状と課題 中田スウラ センター長
    ~復興を拓く(学び合うコミュニティ)の形成に向けて~
  産業・街づくり支援担当報告       初澤敏生 地域復興支援部門長
     原子力災害被災地の復興の課題~避難者・まちづくり・産業~
  食・農復興支援担当報告         小松知未 特任准教授
     放射能汚染からの食と農の再生を~5年間の挑戦と到達点~
  放射能汚染対策担当報告                      河津賢澄 特任教授
     福島県における放射線(能)の現状


Ⅲ 部 パネルディスカッション
 モデレーター 山川充夫氏 帝京大学経済学部教授(福島大学名誉教授)
 パネリスト     松本幸英氏 楢葉町長
         林由美子氏 タカラ印刷株式会社 取締役会長
         土屋葉氏  愛知大学 文学部教授
         天野和彦  福島大学うつくしまふくしま未来支援センター客員准教授


○ 参加対象者  一般市民 大学関係者 学生 行政職員 福島県から避難している方 他
○ 主催     国立大学法人福島大学 福島大学うつくしまふくしま未来支援センター
   共催     愛知大学 愛知大学中部地方産業研究所
   後援(予定)   文部科学省 復興庁 福島県 双葉地方町村会 公益社団法人経済同友会 他



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福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんによるシンポジウム。昨年のこの時期には京都秋には東京で開催されました。中京圏では初の開催です。

福島の現状、そして「ほんとの空」を取り戻すための数々の活動について知る良い機会だと思います。お近くの方、ぜひどうぞ。



【折々の歌と句・光太郎】

わたくしの悲みなれど極まればこれ万人の悲みと泣く

大正8年(1919) 光太郎37歳

もうすぐ東日本大震災から5年。今年1月の警察庁による発表では、直接震災により亡くなった方は15,894人、行方不明の方は 2,563人。さらに、復興庁によれば、負傷の悪化等により亡くなられた「震災関連死」と認定された方が、昨年9月現在で3,407人ということでした。

それぞれのご遺族、関係者に、それぞれの悲しみがあり、それが万人のものとして共有されるような優しい社会であってほしいものです。

智恵子の故郷、福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』の今月号から。 

拝啓 ほんとの空体操で元気に長生きしませんか?

「ほんとの空体操」は、市民の皆さんが住み慣れた地域でいつまでも元気に過ごすことができるよう「二本松市民の歌」に合わせた介護予防のための健康体操です。生活機能の維持・向上のための「運動」のきっかけづくりに活用ください。
今回は、二本松少年隊の皆さんにご協力いただき、「ほんとの空体操」をご紹介します。

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ほんとの空体操」は、「二本松市民の歌」に合わせて振り付けられた介護予防のための健康体操とのことで、市役所さんでは、職員の皆さんも朝礼で取り組まれているそうです。

動画も公開されています。


広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ともすれば冬の襲いのきびしきに春のみ軍弓をひかへぬ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は立春です。したがってこれからは「余寒」ということになるのですが、まだまだ寒いですね。今朝の冷え込みはここ房総でもちょっとしたものでした。

「み軍」は「みいくさ」。「軍勢」といった意味です。

昨日、予約注文しておいたDVDが届きました。

ローカル路線バス乗り継ぎの旅 《米沢~大間崎編》

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太川陽介&蛭子能収のコンビにマドンナ1名を迎え、男女3人が路線バスだけを乗り継ぎ3泊4日で目的地を目指すガチンコ旅。今回はマドンナとしてさとう珠緒を迎え、山形は米沢市から本州最北端・青森県大間崎を目指します。道も無い! 宿も無い! バスもそれほど走ってない!! 魅惑の酒造やバラ園を尻目に、ひたすら続くのは炎天下の徒歩の旅!? 数々の超絶トラブルを乗り越えて、果たして三人は大間のマグロにたどり着けるのか!? 蛭子とエビ子の迷(?)コンビも必見です!!

出演 太川陽介、蛭子能収、さとう珠緒、キートン山田(ナレーション)

特典
蛭子能収描きおろしイラストジャケット仕様 旅の経路マップ封入
<音声特典>  オーディオコメンタリー(太川陽介×蛭子能収×さとう珠緒)
<映像特典>  ・歴代マドンナ集合!大感謝祭 未公開映像集 <後編>
                        ・太川&蛭子DVD発売コメント
                        ・「ローカル路線バス乗り継ぎの旅 THE MOVIE」予告編
本編収録時間 : 約109分
定価 : 3,800円+税

テレビ東京系の人気番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」の第15弾として、平成25年(2013)8月31日にオンエアされた《米沢~大間崎編》を核に、特典映像をおさめたものです。

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太川陽介さん、蛭子能収さんのお二人と、毎回変わる「マドンナ」――この回はさとう珠緒さん――が、路線バスを乗り継いで目的地を目指すというコンセプト。毎回、3泊4日という時間制限があり、さらに路線バス以外の交通機関利用禁止というルールがあります。

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この回は、山形県の米沢から本州最北端の青森県大間崎を目指す、走行距離約510㌔というものでした。

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4日目(最終日)の朝、一行は秋田の大湯温泉を出発、十和田湖に立ち寄っています。

光太郎関係の展示もある観光交流センターぷらっと(放映当時にはまだオープンしていませんでした)のすぐ前にあるバスターミナルに到着。

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続いて焼山行きのバスに乗り換える予定でしたが、待ち時間を利用して、このブログでもご紹介した喫茶店「茶房憩い」さんで一休み。

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光太郎作の「乙女の像」も写りました。

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その後、当方も何度か利用したJRさんのバス「みずうみ号」に乗り、奥入瀬渓流を通って先を目指します。

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果たしてゴール成るか、というところですが、それはご購入してのお楽しみ。

通常の旅番組と異なり、ある意味行き当たりばったりの珍道中。それでいて、訪れた場所の魅力もしっかり表現され、また、お三方の掛け合いも絶妙です。

テレ東さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母(ちちはは)います地より吹く風
明治39年(1906) 光太郎24歳

今日は節分。各地の寺社などで豆まきなどが行われます。当方事務所兼自宅近くの香取神宮には大相撲の錣山親方(元寺尾関)と豊真将関、成田山新勝寺には市川海老蔵さん、横綱白鵬関、大関稀勢の里関、NHK大河ドラマ「真田丸」にご出演の草刈正雄さん、高畑淳子さん、西村雅彦さん、藤本隆宏さん、藤岡弘、さんなどがいらっしゃいますが、インフルエンザウィルスをもらいに行くような気もしますので行きません。

ところで節分は、元々は季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払いの儀式であった宮中の伝統行事・「追儺(ついな)」に端を発します。「追儺」は「鬼追儺(おにやら)い」などとも称されました。

さて、明治39年(1906)の今日、光太郎は横浜港からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。

まるで自分が邪鬼で、日本から追われるように感じたというところですね。

昨日、光太郎作「乙女の像」にからめ、十和田湖関連の情報をご紹介しましたが、もう少し。

地方紙『デーリー東北』さんには、箴言ともとれる記事が載りました。 

再生 十和田観光 ―国立公園80周年― (1)開発の代償

 十和田八幡平国立公園の十和田八甲田002地域が1936年2月1日に「十和田国立公園」として指定されてから、2月1日で80周年の節目を迎えた。観光再生への模索が続く十和田八甲田地域の課題と展望を探る。

 十和田湖を象徴する高村光太郎作の「乙女の像」を訪ね、写真に収める観光客。その後ろでは遊覧船が優雅に湖上を進む。穏やかな十和田観光の一こまだ。美しい景観とは裏腹に、近くの休屋の目抜き通りは、休廃業したホテルや食堂が並び、景観を損ねている。
 国立公園として“傘寿”を迎えた十和田八甲田地域。近年の旅行スタイルの変化に加え、2011年の東日本大震災による打撃から、観光客は震災前の水準に回復しておらず、多くの課題を抱え、自然景観を生かし切れない状況に陥っている。
 青森県観光客入込統計によると、2014年の国立公園十和田地区の観光客は192万人。震災が発生した11年に風評被害もあり、161万人まで落ち込んだのに比べると、回復傾向にあるとはいえ、震災前年(10年)の234万人には戻っていない。
 この統計は10年に集計方法が変わったため、単純に比較できないが、十和田地区の観光客が300万人を超え、にぎわいを見せたのは03、04年。以降、景気が後退して団体旅行が減少するとともに、個人旅行を取り込む対応も遅れた。観光客が減少する中、震災が追い打ちを掛けた。
 05年度は湖畔休屋地区の宿泊施設や商店、売店が50件以上も営業していた。それが13年度には30弱に急減。観光地の基盤が縮小し、休廃業施設が〝負の遺産〟として重くのしかかる。「開発の代償」は大きいと言わざるを得ない。
 宿泊客の全体の収容数は大きく落ち込み、繁忙期にはすぐに満員になりやすい課題も浮上している。さらに、経営側は、繁忙期に合わせてスタッフの雇用や施設の整備を維持する必要があり、閑散期の宿泊客の確保も重要となる。
 十和田湖国立公園協会理事長で、休屋で最も規模の大きいホテル・十和田荘の中村秀行代表は「5月の連休明けから8月ぐらいまでの観光客が、震災前の水準に戻らないのが痛い」と厳しい表情を浮かべる。
 青森県や環境省などと共に、十和田湖観光再生行動計画を策定し、観光振興に取り組む十和田市。横道彰観光商工部長は「余暇の時間を持つ中高年層に平日の利用を期待したい。旅行会社の協力を得て、冬のツアーを増やせないかと思っている」と話す。
(2016/02/01)


当方、一昨年に3回、昨年は1回、十和田湖を訪れました。たしかに記事にあるように、湖畔に急廃業施設がそのまま残り、ゴーストタウン化している現状には心を傷めました。

地元でも黙って腕を組んでいるわけではなく、観光客を取り戻すさまざまな取り組みをおこなっているのでしょうが、なかなか決定打に欠けていると言わざるを得ないのかも知れません。

そんな取り組みの一つが、今月から始まる「十和田湖冬物語2016」。地元紙の報道から。 

十和田湖冬物語 巨大雪像作り始まる001

2月5日に始まる「十和田湖冬物語2016」に向け、陸上自衛隊八戸駐屯地(篠田光正司令)による巨大雪像の制作が14日、十和田湖畔休屋のイベント会場でスタートした。雪像の題材は「十和田湖伝説」。隊員35人が寒さをものともせず、懸命に雪像作りを進めている。
(『デーリー東北』 2016/01/15 )

有名な札幌の雪まつり同様、こちらでも自衛隊さんが訓練の一環として協力してくださっています。
 

わくわく雪ランプ作り 十和田湖冬物語に向けて100個

 青森県十和田市の十和田西高校観光科の1年生34人と十003和田湖小学校の児童7人が1月29日、十和田湖畔休屋地区で2月5日に開幕する「十和田湖冬物語」会場でスノーランプ作りを行った。
  ランプは会場前の道路沿いに設置され、来場者をほのかな明かりで出迎える。作り方は45リットルのプラスチックのバケツにスコップで雪と水を交互に入れ、湯飲みのような形に押し固めたらバケツをひっくり返し、明かり窓を開ける。
  最初のうちは型どりがうまくいかず、雪が崩れるなどミスもあったが、だんだんと“腕前”が上達。この日は80個の予定が100個のランプが出来上がった。
  十和田西高の川崎美桜さん(16)は「寒かったけど、小学生と協力しあって、気持ちを込めて作業ができた。本番でどんな明かりになるかワクワク。十和田湖を訪れるお客さんに楽しんでほしい」と話した。
  十和田湖冬物語は28日まで開催する湖畔のイベント。陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員が制作するメーン雪像のほか、雪の滑り台、「かまくらBar」などの会場の設営が進んでいる。
(『東奥日報』 2016/02/01 )

このスノーランプは「乙女の像」の周囲にも設置され、幻想的な雰囲気の演出に効果を発揮します。十和田湖小学校さんのブログでも紹介されました。


ほんとうに、多くの皆さんが十和田湖を訪れ、その魅力を味わってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

いかに見よわかきが信(しん)の一しづくまなじり空の日をも消つべし
明治35年(1902) 光太郎20歳

「消つ」は「消す」の古語。空の日を消すほどの強い信念を持って生きていこうというところでしょうか。十和田湖再生に関わる皆さんも、そうした気概で臨んで下さい。

青森県十和田市さんで、本日発行の『広報とわだ』。裏表紙に今週末から始まる「光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016」の案内が大きく出ています。

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過去の画像だとは思いますが、ライトアップされた光太郎作の「乙女の像」の写真も。

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それから、地元紙『東奥日報』さんに昨日載った記事です。 

人間の姿十和田・八甲田地区 1日国立公園指定80周年

 十和田八幡平国立公園(青森県)の十和田・八甲田地域が2月1日、指定80周年を迎える。奥入瀬渓流や十和田湖、八甲田連峰などの豊かな自然が国内外からの観光客を魅了し続けてきた。同日には、環境省などが記念のロゴマークを発表する。
 同公園は、本県と岩手、秋田の三県にまたがり、湖沼や渓流、山岳からなる。総面積は8万5千ヘクタール。1936(昭和11)年に十和田湖、奥入瀬渓流、八甲田連峰一帯(十和田・八甲田地域)が指定を受けた。十和田湖・奥入瀬渓流を世に紹介した明治・大正期の文人、大町桂月は、国に請願文を提出し、国立公園指定に尽力した。
 また、20年後の56年には、八幡平、岩手山、秋田駒ケ岳の一帯(八幡平地域)まで国立公園の範囲が拡張された。
 ロゴマークは、環境省東北地方環境事務所と同地域に関係する自治体などで構成する選考委員会が一般から募集、審査した。節目の年を広くアピールするために活用される。
 記念式典(環境省と青森県、秋田県3者の共催予定)は7月9日、十和田湖畔休屋地区で実施する。フォーラムなどを通じてこれまでを振り返るとともに、同国立公園の将来の方向性を探る。

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十和田湖畔休屋の御前ケ浜にたたずむ「乙女の像」。十和田湖を広く世に紹介した文人・大町桂月らの功績をたたえるとともに、国立公園指定15周年を記念して県が1953(昭和28)年に建立した


キャプションにあるとおり、「乙女の像」は国立公園指定15周年を記念して、当地の景勝美を広く世に紹介した大町桂月、道路整備等に腐心した元知事の武田千代三郎と元法奥沢村長の小笠原耕一の功績をたたえるために建てられました。したがって、正式名称は「十和田国立公園功労者顕彰記念碑のための裸婦像」といいます。

毀誉褒貶いろいろある像ですが、それでも何だかんだいいながら、ある意味十和田湖のシンボルとしてすっかり定着していますね。詳しくは昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』をご参照下さい。

今夏には記念の式典・フォーラムが催されるそうですし、今日は環境省から記念のロゴマークが発表されるそうです。続報に注意しようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

きさらぎや町ゆけば何ぞ女多き     明治42年(1909) 光太郎27歳

既に何句かご紹介したスイス経由イタリア旅行中の作です。パリに居た留学生仲間の津田青楓に送った書簡にしたためられました。書簡の日付は4月2日ですが、この年の旧暦に換算すると、閏2月12日。「きさらぎ」ですね。遠く欧州に居て、日本を離れること既に3年あまり経っていましたが、旧暦をちゃんと知っていたというのも面白いと思いました。

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