2016年01月

昨日は、福島県いわき市の草野心平記念文学館さんの企画展「所蔵品展「草野心平のスケッチ」」をご紹介しましたが、同館でもう一つ、別の展示も行っています。 

スポット展示 草野天平

会 期 : 2016 年1月2 日(土) ~3月27 日(日)
時 間 : 9:00 ~ 17:00
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館常設展示室前
       福島県いわき市小川町高萩字下夕道1番地の39
休館日  月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日
料 金 : 無料 (観覧券が必要)

草野天平(くさのてんぺい)は、1910(明治43)年2月28日、東京市小石川区(現在の文京区)に父馨、母トメヨの三男として生まれました。草野心平は7歳年上の次兄にあたります。1915(大正4)年、本籍地である福島県石城郡上小川村(現在のいわき市小川町)に移り、祖父母に育てられていた心平とともに約5年間暮らしました。
1920年に上京後、京都、群馬などを経て、1933(昭和8)年4月、東京の銀座8丁目に喫茶店「羅甸区(らてんく)」を開店。同店で働いていた三原ユキと結婚し、1935年には長男杏平が生まれますが、この間に「羅甸区」は閉店となり、生活に困窮します。天平はこの頃から文学に興味を抱き、心平が持参した岩波文庫などを耽読。1941年頃から詩作を始めたとされています。
1942年1月、妻ユキが亡くなると、幼い杏平を連れて故郷に帰り、雑誌などに作品を発表。1947年に詩集『ひとつの道』を刊行しました。
1950年6月、天平は滋賀県大津市坂本の比叡山に行き、8月には飯室谷の松禅院(しょうぜんいん)への入居を許されて、詩作に専念する生活を送ります。同年10月、鈴木梅乃と結婚。梅乃は天平とその詩作を支えましたが、天平は徐々に体調を崩し、1952年4月25日、詩業半ばにして生涯を終えました。享年42。天平は、松禅院にほど近い、琵琶湖が見える西教寺に眠っています。
天平が亡くなった後、梅乃は天平の作品の顕彰を続け、1958年に刊行した『定本 草野天平詩集』が第2回高村光太郎賞・詩部門を受賞。その後、1969年、『定本 草野天平全詩集』『《挨拶》草野天平の手紙』、2002(平成14)年、『《三重奏》草野天平への手紙』などを刊行しました。
一方、1986年、かつて天平が滞留した比叡山西塔に、詩碑〈弁慶の飛び六法〉を、そして2006年、草野心平生家敷地内の蔵跡に詩碑〈幼い日の思ひ出〉を建立しました。また、2002年、「うえいぶの会」による詩碑〈一人〉(文学館敷地内)の建立に協力しています。
2006年7月30日、梅乃は半世紀余りに及ぶ顕彰活動とともに85年の生涯を終え、天平に寄り添うように西教寺で眠っています。


というわけで、心平の弟にしてやはり詩人であった草野天平に関わる展示が為されています。

42歳での早世でしたので、その詩業は道半ばでしたが、上記紹介文にもあるとおり、没後の昭和34年(1959)に『定本草野天平詩集』で第2回高村光太郎賞(詩部門)を受賞しています。

光太郎は昭和27年(1952)の天平死去に際し、心平に以下の書簡を送っています。

御無沙汰していましたが、先日のおハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、 「火の車」のお店の事も心配してゐます、貴下も健康に気をつけて下さい。小生ともかくも平穏、来月の十和田湖行を今ではたのしみにしてゐます、現地に行つた上で又大いに考へます、

十和田湖云々は、心平も同行した「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。

また、昭和28年(1953)10月の雑誌『心』には、こんな文章も寄せています。

 本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。


さて、関連行事も企画されています。 

草野天平の集い

期  日 : 2016 年2月28 日(日)
時  間 : 13:30 ~ 14:30
会  場 : 草野心平生家(いわき市小川町上小川字植ノ内6番地の1)
料  金 : 無料

詩人草野天平(心平実弟)の誕生日にちなんだ催しです。天平の作品や彼が愛した音楽を朗読、演奏します。

出演 Happy Pockets(ハッピーポケッツ) 2006年から活動している二人組の音楽ユニット。
ギター奏者:小関佳宏(こせきよしひろ 仙台市在住)ギターソロをはじめ、多様なアンサンブルにおいて生の音色を生かしての演奏活動を展開。仙台市内を中心に楽曲提供、コンサートプロデュース等活動の場を広げている。東北福祉大学クラシックギター部講師。
ボイスパフォーマー:荒井真澄(あらいますみ 仙台市在住) 2004年より仙台、東京で朗読パフォーマンスも開始。これまでに読んだナレーションは2,000本以上。CMソングも歌っている。大人から子供まで、10種類以上の声を駆使し、物語をカラフルに描きだす。
 
内容 天平の作品(「私のふるさと」ほか)を、ゆかりの曲(シューベルト「鱒」、天平作詩「幼い日の思ひ出」ほか)の演奏とともに紹介する。

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たびたび「智恵子抄」がらみの朗読公演をなさっている荒井真澄さんがご出演。今年の荒井さんからの年賀状にご案内が書かれており、知った次第です。

荒井さんに関してはこちら。

会場となる心平生家についてはこちら。

当方も聴きに行って参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

寺の塔を圧して雪の何山ぞ        明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の終わり近く、スイス経由のイタリア旅行に際しての作です。従って「寺」は仏教寺院ではなく、カトリックの教会を指します。明治期には光太郎に限らず一般的に、教会を「寺」と表記することがしばしばありました。

ただ、日本のどこかの雪国にある三重の塔、といったイメージで捉えてもいいように思われます。

当会の祖にして、光太郎と縁の深かった草野心平がらみの企画展です。 

冬の企画展 所蔵品展「草野心平のスケッチ」

会 期 : 2016 年1月9 日(土) ~3月27 日(日)
時 間 : 9:00 ~ 17:00
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下夕道1番地の39
休館日 : 月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日
料 金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
      小・中生 160円(120円)( )内は20名以上団体割引料金

 詩人・草野心平(1903〜1988)は、1,400篇余の詩や随筆などの文筆にとどまらず、書画をはじめ多彩な創作活動を展開しました。
 心平の創作との出会いは詩よりも絵画の方が早く、1916年、福島県立磐城中学校(現在の福島県立磐城高等学校)に入学すると、美術部「X会」に入部し、水彩画を描きました。生家のある石城郡上小川村(現在の小川町)内をスケッチしたこともあったといいます。彼の作品が校内の回覧雑誌「文林」の表紙を飾ったこともあり、同級生は「心平の絵は抜群で、私達は、心平は将来画家になるものと思って疑わなかった。四月の創刊号に描いた小川の山は現在でも私の眼底に残っている」と回想しています。
 その後、詩人として活躍の場を広げていた1956年、アマチュアのデッサングループ「竹林会」結成に参加したことがきっかけで油彩画を手がけ、頻繁にスケッチも描くようになりました。
 本展では、当館の所蔵品から心平のスケッチを取り上げ、詩人独特の感性によって描かれた線と色彩の魅力を紹介します。


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関連行事等
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ギャラリートーク  学芸員による展示内容の解説です。
日時 2016年2月6日(土)14時〜14時30分
会場 文学館企画展示室
聴講 観覧券が必要です。申し込みは不要ですので、会場にお越しください。

朗読サロン  朗読を楽しく学びます。お気軽にご参加ください(文学館ボランティアの会事業)。
日時 2016年2月6日(土)11時〜12時
      3月5日(土)11時〜12時
会場 文学館会議室
参加 無料です。申し込みも不要ですので、会場にお越しください。


身近に光太郎という大美術家がいた心平。他にも画家の村山槐多、版画家の棟方志功などとも交流がありました。

もともと絵画にも興味を抱いていましたし、周囲の美術家の影響もあるのでしょうか、心平自身も玄人はだしの絵画をものにしています。ちなみに昨日のこのブログでご紹介した姫路市立美術館さんで始まる企画展「画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」にも、心平の作品が展示されます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ここの国ここなる里のここの戸に一たび湧きし想(おもひ)の子なり

明治35年(1902) 光太郎20歳

何だか、心平を詠んだ一首のようにも読めますね。

兵庫県姫路市立美術館さんでの企画展情報です。

画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく

会 期 : 2016 年2月13 日(土) ~3月27 日(日)
時 間 : 10:00 ~ 17:00
会 場 : 姫路市立美術館 姫路市本町68-25 
休館日
 : 月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日
料 金 : 一般900円、大高生600円、小中生200円

「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。ときに絵は詩のように語りかけ、詩は絵のような豊かな色と形をありありと提示します。日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。青木繁、村山槐多、長谷川利行など詩歌と画技において秀でた作家や、宮沢賢治、富永太郎、立原道造など絵を描いた詩人も少なくありません。本展は、明治から現代までの画家と詩人の詩と絵を一堂に集め紹介します。


昨年、神奈川平塚市美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さんと巡回した企画展が、今度は姫路で開かれます。図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』は広く販売中です。

光太郎の油絵も3点展示されます。大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」、同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。当方、平塚展を観て参りました。こちらでは「日光晩秋」は展示されなかったのですが、今回は並ぶそうです。

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姫路市立美術館さん、調べてみましたところ、世界遺産姫路城のすぐ近くです。併せて足をお運び下さい。

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ただ、講演会、ギャラリートーク等の関連行事について、まだ不明です。判明次第ご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

佐渡が島荒き波路にまもられて我が魂は常久に生く
大正7年(1918) 光太郎36歳

上記「渡辺湖畔の娘道子像」を描く関係もあり、この年10月に光太郎は佐渡島の渡辺湖畔邸を訪れています。この歌は帰京後、湖畔に送った書簡にしたためられました。

智恵子の故郷・二本松から。イベント自体はまだまだ先ですが、報道がありましたのでご紹介しておきます。 

「世界に誇れる日本人」 外国人誘客元年アピール 二本松

 今秋の第62回二本松の菊人形は「あっぱれ!ニッポン!~世界に誇れる日本人~」をテーマにする。二本松市が外国人観光客誘客に力を入れる「インバウンド(訪日)元年」と掲げているのに合わせ、偉人を菊人形で紹介して県内や日本の魅力を世界にアピールする。会期は10月10日から11月23日まで。菊人形を主催する二本松菊栄会理事会で決まった。
 菊人形で紹介する偉人は市内出身の世界的歴史学者・朝河貫一博士、猪苗代町出身の世界的細菌学者・野口英世博士らを想定し、偉人に合った有名な場面を設定する。
 市内出身の洋画家・高村智恵子生誕130年を記念した展示や平成32(2020)年東京五輪に向けた企画も検討している。
 開場時間は午前9時から午後4時まで。入場料金は27年同様に大人700円、中学生以下無料とする。
 理事会には代表理事会長の新野洋市長、専務理事の後藤宏迪副市長ら約10人が出席した。
( 2016/01/24 『福島民報』)

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秋、二本松市の霞ヶ城で開催されている「二本松の菊人形」。毎年この時期にはテーマを決め、それに向けての準備が始まります。今年は智恵子の生誕130年ということで、関連する展示も検討中とのこと。ありがたいことです。

一昨年は「二本松築城600年「にほんまつヒストリア」」というテーマの中で、光太郎智恵子の人形が展示された「あどけない話 ~詩人高村光太郎と妻智恵子~」という場面があり、昨年はテーマとは別に智恵子の菊人形も並び、テレビ東京系BSジャパンさんの「空から日本を見てみよう+ 福島県郡山~二本松 東北第二の都市から絶景安達太良山へ」で紹介されました。上記記事の画像に写っている人形も智恵子です。

今年はさらなるバージョンアップを期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

我庭にききける音とはわかちありや神の宮居にうたふ鶯
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

気がつけばもうすぐ1月も終わり。じきに立春ですね。当方の住む千葉県はここ数日、また日中は穏やかな陽気になっています。さすがにまだウグイスの声は聞こえませんが。

神奈川は小田原からの情報です。 

生誕130年記念交流特別展「北原白秋-詩人の見た風景-」

会   期 : 平成28年1月23日(土)~3月16日(水) ※会期中無休
会   場 : 小田原文学館(小田原市南町2-3-4)
時   間 : 午前9時00分~午後5時00分(入館は午後4時30分まで)
料   金 : 一般250円、小・中学生100円
         (20名以上で団体割引有、障害者手帳をお持ちのかた割引有)

平成27年に生誕130年を迎えた、詩人・童謡作家として知られる北原白秋(1885~1942年)は、水郷で有名な福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)に生まれ、豊かな環境の中で多感な幼少期を過ごしました。
明治37(1904)年に上京すると、詩集『邪宗門』(じゃしゅうもん)、歌集『桐の花』を上梓し、詩壇・歌壇で活躍します。さらに小田原時代には児童雑誌「赤い鳥」で童謡面を担当するなど、その才能はいよいよ輝きを増しました。
一方で、白秋は生涯に30回以上の転居をしたほか、九州巡遊や北海道・樺太旅行など、各地を旅してまわったことでも知られています。
本展では、故郷である柳川市をはじめとしたゆかりの地での白秋の足跡をたどり、生涯にわたる創作活動をご紹介します。

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同時開催「佐藤北久山 白秋挿絵スケッチ創作木版画展」   
白秋没後70年(平成24年)に松永記念館で展示した、佐藤北久山(ほくざん)氏による白秋挿絵スケッチの創作木版画を展示します。
 場所:白秋童謡館 (文学館本館と共通のチケットでご入館いただけます)

関連行事

学芸員による展示解説   
本展担当学芸員が、展示の見どころをご案内します。
日時 平成28年1月31日(日) 2月20日(土) 午前11時00分~ 午後1時30分~(各日2回)
申込不要(当日、直接会場までお越しください)

学んでガッテン学芸員講座   
本展担当学芸員によるギャラリートークと、終了後に懇親会を行います。
日時 平成28年2月6日(土)午後1時30分~3時00分
費用 500円(入館料込み、茶菓付)
申込 清閑亭に電話(0465-22-2834)で。受付時間 午前11時00分~午後4時00分 火曜定休

白秋ミニ・コンサート   
白秋童謡のミニ・コンサートを行います。
日時 平成28年2月20日(土)正午~、午後2時30分~(各30分)※荒天中止
会場 小田原文学館 庭園
出演者
 菊地貴子(ソプラノ)、安藤香織(ソプラノ)、福田美香(ピアノ)、
 吉田裕美子(フルート)
申込不要

白秋をめぐるまち歩き   
展示を観て童謡を聴いて、ゆかりの地を訪ね、白秋をめぐる1日をお楽しみください。
日時 平成28年2月20日(土)午前11時00分~午後3時00分
定員 20名(申込み先着順)  参加費 3,000円(昼食代・ガイド料・入館料込み)
集合・解散小田原文学館
申込 清閑亭に電話(0465-22-2834)で。受付時間 午前11時00分~午後4時00分 火曜定休


北原白秋は、光太郎より2つ年下の明治18年(1885)生まれ。昨年が生誕130年でした(ちなみに今年は智恵子の生誕130年です)。

2人の交流は、明治末の「パンの会」に遡ります。明治44年(1911)に刊行された白秋の詩集『邪宗門』第2版の装幀、表紙装画は光太郎が手がけました。その後も白秋が弟・鉄雄と共に興した出版社・阿蘭陀書房や、それを引き継いで鉄雄が経営したアルスから、光太郎は著書を出版したり、刊行物に寄稿したりしています。

感覚的なところで詩を作る白秋と、論理的に志を述べる詩を得意とした光太郎、そのスタイルは異なりますが、お互いに認め合っていたようです。

昭和17年(1942)、白秋が亡くなった際の光太郎の談話には、こうあります。

 北原白秋を一言にしていへば、非常に大きな偉大な子供といつてよい。これは初めの頃の詩集で「邪宗門」といふ詩集から、以後幾十といふ詩歌集があるが一貫してゐるものは、大人の計らひの世界ではなく、子供が、生まれて来たまゝの純真さの深い智慧を備へてゐて、少しも歪んでゐなかつた。さういふ点で天性の詩人であつた。決して勉強づくで出来る詩人ではなかつた。近代日本で天性の詩人と自分が思へるのは、「北原白秋」と「萩原朔太郎」の二人であると、かねて思つてゐた。いま、今年になつてから、二人とも亡くなつて了つた。今年は詩人にとつて、ひどく悪い年だと思ふ。
(「童心と叡智の詩人――北原白秋の業績――」 『読売報知新聞』)

白秋は詩人としてもかけ代へのない人であり、立派な芸術家であつたのだが、人間としても立派に完成された人だつた。明治大正昭和の三代を貫いて全く新興詩歌といふものの、一つの世界を創り上げて、一面に偏しないで大きな円を描いたやうな世界を造り出されたのは偉大だと思ふ。
(略)
純真な子供の魂に宇宙をも動かす深い叡智と、哲学の眼をもつた人こそ、ほんたうの詩人ではないのか? 白秋はそれにその言葉の前にはずかしくない人だつたと思ふ。
(「天性の詩人白秋」 『文化情報』


さて、小田原文学館さんでの企画展。全5章での展示構成だそうで、以下のような章立てになっています。「1.誕生――柳川」、「2.上京――東京」、「3.流浪――三崎、小笠原、葛飾」、「4.再起――小田原」、「5. 新生――再び東京」。非常に交流の幅の広かった白秋ですので、光太郎との絡みはどの程度紹介されるのか不明ですが、「2.上京――東京」で明治末前後にスポットが当てられ、関連人物として光太郎の名も挙がっています。

時間を作って観に行こうと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

大正10年(1921) 光太郎39歳

「雀のたまご」は本物の卵ではなく、この年に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。「つま」はもちろん智恵子。「二階の出窓」は駒込林町のアトリエ。智恵子はここで鉢植えなどを楽しんでいたという事です。

一昨日拝観した、神奈川県立県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」レポートの2回目です。

水沢勉館長のトークを聞き終え、いよいよ展示を拝見しました。

光太郎作品は2点。

2階の第一展示室に入ってすぐ、油絵の「上高地風景」(大正2年=1913)。下記はNHKさんの「日曜美術館」から採らせていただきました。左端が「上高地風景」です。

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智恵子との婚約を果たした信州上高地での作品です。昨年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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「こんなに大きな絵だったっけか?」というのが正直な感想でした。この絵の実物を見るのは4度目くらいのはずですが、過去3回は他の光太郎絵画と共に展示されたのを見ており、この絵だけの印象はあまり残っていませんでした。

改めてよく観てみますと、フォービズム風の荒い筆触、色遣いの中にも繊細な神経が行き届いており、さらにやはり画面の大きさからくる迫力に圧倒されました。


続いてブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎が敬愛したロダンの「花子の首」と同じコーナーに並んでいました。光太郎メインの企画展で、ロダン作品を参考出品することはよくありますが、それとは違った主旨で2人の作品が同じコーナーに並んでいることに感慨を覚えました。しかも、モデルの女優・花子はロダンのモデルを務めたほとんど唯一の日本人ということで、光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を評伝『ロダン』に書き残しています。

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前列中央が「裸婦坐像」、左端が「花子の首」です。その間にはブールデル、後列には中原悌次郎など、やはりロダン、光太郎と縁の深い作者の作が並んでいます。


その他、柳敬助、梅原龍三郎、松本竣介、難波田龍起といった、光太郎と縁の深かった人々の作品なども興味深く拝見しました。


再び1階に下りました。館長トークの間に、こんなコーナーがあったのに気付いていて、そちらを拝見しました。

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来館者の皆さんが、自由にメッセージを書き込み、それが掲示されています。

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「日曜美術館」にもそういう部分がありましたが、スタッフ以外にもこの館に対する深い思い入れを持つ方が、非常にたくさんいらっしゃるようです。

こんな書き込みも。「裸婦坐像」についてでしょう。

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企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」、1/31(日)までです。そして最終日には閉館を迎えます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】無題

少女子は兎の族(やから)ま裸になりてきよとんと坐りたるかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

「少女子」は「おとめご」。時期的に少しずれていますが、「裸婦坐像」制作に関わるかもしれません。

詩人の真壁仁による「高村先生の彫刻」(昭和27年=1952)には次のように記されています。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。

昨日は鎌倉に行っておりました。

今月いっぱいで閉館する神奈川県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」を見て参りました。

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同館は昭和26年(1951)開館、日本で最初の公立近代美術館、世界で3番目の近代美術館という歴史ある館です。2代目館長の土方定一は、文学趣味もあり、草野心平主宰の『歴程』同人で、その縁もあって、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員に名を連ねるなど、光太郎と縁が深かった人物です。

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その関係もあって、光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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もう少し早く行きたかったのですが、いろいろあり、また、昨日は午後2時から水沢勉館長のトークがあるということで、昨日に致しました。

鎌倉に着いたのは午後1時過ぎ。運良く八幡宮西側の、最も近い有料駐車場に車を入れることが出来ました。昼食は門前で蕎麦でも、と思っていましたので、途中で食べませんでした。昼食の前に券だけ買っておこうと思い、受付を目指すと、なんとまあ、長蛇の列でした。並ぶこと30分くらい。結局、昼食は後回しにしました。

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長年、この鎌倉の地で親しまれてきた館ですので、別れを惜しむ人々の来訪が絶えないのでしょう。また、元々休日でしたし、さらに、企画展も光太郎を含め、内外の有名作家の作品がたくさん出ており、それに加えて水沢館長のトークもあるということで、こうなったと思われます。

それから、先月にはNHKさんの「日曜美術館」で、「さよなら、わたしの美術館~“カマキン”の65年~」の放映があり、それがまたいい内容でしたので、それも大きいのではないでしょうか。

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番組では水沢館長、今回の企画展を担当された主任学芸員の長門佐季さん、そして、かつてこの館にスタッフとして関わられた皆さんの思いが語られました。

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館の建物自体が、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品です。そこでともに写真撮影が趣味だという、伊藤敏恵アナと共に司会を務める俳優の井浦新さん、ゲストで鎌倉出身・女優の鶴田真由さんが、館内外で入魂の写真撮影。

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当初は、閉館後は取り壊される予定でしたが、建築史的に貴重ということで、保存されることになりました。


さて、中に入って、展示の観覧は後ほどにし、まず水沢館長のトークが行われる中庭へ。こちらは光太郎とも縁のあったイサム・ノグチの作品です。

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定刻の2時少し前、水沢館長がご登場。トークが始まるまでの間、お話をさせていただきました。水沢館長は、平成25年(2013)に、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の愛知碧南会場・藤井達吉現代美術館さんで記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさり、当方、それを拝聴、さらに帰りの新幹線でご一緒させていただきました。その後も長門さんともども、一昨年の連翹忌にご参加下さいました。

まだ先の話ですが、今回閉館する鎌倉館とは別の鎌倉別館で、平成31年(2019)かその翌年に、光太郎智恵子展をやりたいとのことです。別館も近々大がかりな改修工事が入るそうで、それが終わってからのことになります。ありがたいことです。
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水沢館長のトーク、黒山の人だかりとなりました。

鶴岡八幡宮の一角に、回廊(ピロティ)のようなスタイルで造られたこの館、まるで絵馬堂のようだというお話。さらに光太郎とも縁の深かった村山槐多やイサム・ノグチのお話。示唆に溢れるものでした。


その後、実際に展示を拝見しましたが、長くなりましたので、また明日。


【折々の歌と句・光太郎】

なびき行く野火の烟を指さして星なき宵よ友と別れし
明治34年(1901) 光太郎19歳

この年1月3日、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社の集まりが鎌倉で行われ、由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうで、その際の作です。

水沢館長他、近代美術館鎌倉館に関わった人々の思いは「友と別れ」るようなものなのではないでしょうか。

日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。このブログでもたびたびご紹介しています。


光雲作の木彫が時折出品され、1,000万円単位で落札されています。

さて、今月30日開催の、「近代美術、近代陶芸PARTⅡ」で、またもや光雲作の木彫が出品されています。

Lot.43 高村 光雲 本居宣長翁木彫無題

H21.1cm  木彫

底部に刻名「高村光雲刀」

高村豊周箱    高村達鑑定書付

¥1,000,000 ~¥1,500,000


こちらのオークションに出る光雲作品としては、格安です。弟子の手がかなり入った工房作なのかも知れません。それにしても、画像で見る限りでも見事な作だとは思いますが。


もう1件、別件です。

一昨日の山口県の地方紙『山口新聞』さんに掲載された一面コラム「四季風」で、光太郎に触れて下さいました。 

四季風 2016年1月22日(金)

粉雪が舞い、雪景色が目の前に広がる街の中で、葉ひとつ無い、真っ裸の街路樹が寒さに震えているのに気づかされた。裸木の風景は随分前からあったのに、底寒さが心象風景を変えるのだろう
▼真冬の当たり前のような寒さが体の奥深くにしみ込み、暖冬慣れした体には異様な冷えに感じられる。日差しはあるのに色は薄く、発する熱がまるで感じられない。でも、これが四季のある日本の冬なのだと思えば、どこかほっとする自分がいる
▼肩をすぼめて街行く人たちの姿を見ながら、冬はこうでなくてはと、子供のようにうれしくなる。「想定外」の気象に泣かされ、四季感が薄くなるなかでの、予定調和の冬らしさ
▼昨日は二十四節気の大寒だった。一日だけをさす意味もあれば、立春までの半月を大寒とする解釈もある。どちらにしても日本列島の寒さが最も厳しくなるころ。「きっぱりと冬が来た」(高村光太郎)のである
▼俳句でよく見る「冬ざれ」という言葉がある。木の葉もなく物寂しく感じられる冬時分、と辞書にある。突き刺すような荒涼感が広がる印象だが、春に向けての気力を、じっと静かに蓄えるときなのだと捉えるなら、まだ続く厳寒も受け入れやすい。(佐)

雪国の皆さんには怒られてしまいそうですが、たしかにここに来て、ようやく冬らしくなってきたような気がします。それでも冬至を過ぎて約1ヶ月。確実に日は長くなっていますし、晴れた時の日ざしには、暖かさが感じられます。春遠からじ、ですね。

当方の犬の散歩コースでも、蝋梅はもう満開ですし、普通の梅もかなり咲き始めました。

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というわけで……

【折々の歌と句・光太郎】

冬かけてまづ春に匂ふうめの花春のみ神のしるべなるらむ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳

昨日、たまたま街の郵便局とスーパーに行った際、最寄りのJR佐原駅近くの踏切を通りました。すると、ホームに蒸気機関車・D51が停車しているのが見えました。

JR東日本千葉支社さんのイベントで、成田線の佐原-銚子の間を、D51が来週末に運行されることは存じていましたが、そのための試運転だったようで、それが昨日とは知りませんでした。

そこで、車を置いて、入場券を買い、駅に入って見てみました。下記はガラケーのカメラで撮影しました。

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当方、鉄道マニアではありませんが、この機関車、光太郎を乗せた客車を牽引して走った可能性もあるので、興味深く拝見しました。

3年前にも同様のイベントがあって、その際には、蒸気機関車C62-20号機がやってきました。この時は東日本大震災からの復興イベント的な意味合いでした。当地もそれなりの被災地でしたので。こちらは昭和24年(1949)から、永らく青森機関区や仙台機関区に配属されていたもので、花巻郊外太田村に暮らしていた光太郎が、盛岡などに出かける際に利用した可能性がありました。

今回やってきたのはD51-498号機。こちらは昭和28年(1953)12月に、平機関区に転属されたそうです。既に十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を作り終えた光太郎が、前月には一時的に東京中野のアトリエから花巻郊外太田村に帰り、この月に再び中野に戻っています。もしかすると、その際にこの機関車の牽引する客車に乗ったかも知れません。そう思うと感慨深いものがありました。

客車もレトロで、いい感じです。

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「オハ47」という型番で、ネットで調べてみたところ、「スハ43」という方の客車を改造したものだそうで、「スハ43」は昭和20年代の製造。もしかしたら光太郎が乗った車両も含まれているかも知れません。

最後尾にはディーゼル機関車。佐原→銚子間はD51、逆の銚子→佐原間はディーゼルが先頭になります。こちらは1970年代のものだそうで、若干新しいもののようです(当方、鉄道マニアではありませんので、詳しいことはよくわかりません。間違っていたらごめんなさい)。

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小さな男の子が、駅員さんの帽子を借りて記念撮影。微笑ましいですね。

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さて、本番の運行は来週末です。以下、JR東日本千葉支社さんのサイトから。 

房総観光キャンペーン ~ちょっとひと息、房総休日。~第3弾! あのSLデゴイチが、再びやって来る!

「房総観光キャンペーン~ちょっとひと息、房総休日。~」の開催を記念して、SL(D51)が房総を走ります。SLの運転に合わせ、各種イベントやびゅう旅行商品をご用意し、お客さまをおもてなしします。

⑴ 運転日・運転区間
運 転 日  2016 年1月29日(金)・30日(土)・31日(日)(往復運転)
運転区間
 DL佐原
        銚子   ⇒      笹川      ⇒   佐原
 (時 刻)  (10:27 発)  (11:07 着)(11:22 発)  (12:10 着)
 SL銚子
        佐原   ⇒      笹川      ⇒   銚子
      (14:16 発)  (14:46 着)(15:12 発)  (15:50 着)
 編成  DE10+旧型客車6両+D51
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←佐原方面(DL佐原)                (SL銚子)銚子方面→


⑵ 出発セレモニー
「SL銚子」「DL佐原」の運転を記念して、出発セレモニーを実施します。
開 催 日 2016 年1月29 日(金)
開催場所 銚子駅、笹川駅、佐原駅

⑶ 地元のおもてなし・イベント
銚子駅、笹川駅、佐原駅にて地元物産展等のおもてなしイベントを実施します。お子さま向けのお楽しみ企画もご用意しております。

⑷ 北総に笑顔の花を咲かせよう
「SL銚子」「DL佐原」を沿線にお住まいの方々が地元ならではのおもてなしでお出迎えします。SLに向かって手を振る、叫ぶ、地元の踊りを披露する、仮装する、横断幕を掲げる等、思い思いの表現でおもてなしします。
開 催 日 2016 年1月29 日(金)・30 日(土)・31 日(日)
場 所 佐原駅~銚子駅間の沿線


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ちなみにこちらは昨日の『毎日新聞』さんの千葉版。 

「デゴイチ」29〜31日運行 火入れ式で安全祈願 成田線佐原−銚子間 JR千葉支社 /千葉

 房総への観光客誘致キャンペーンの一環として、JR東日本千葉支社は29〜31日、成田線佐原−銚子間で蒸気機関車(SL)を走らせる。運行に先立ち、JR銚子駅で21日、安全を祈願する「火入れ式」があった。
 運行されるのは「デゴイチ」の愛称で知られるD51形498号。1940年に製造され、72年に引退したものの、88年から各地のイベントで再び活躍している。この日の火入れ式では、雷(らい)神社(旭市)の宮司による神事があり、運転席の釜にたいまつを入れて点火すると、黒光りするSLは低い音を立てて黒い煙を上げた。
 成田線でのSL運行は3年ぶり。住民による歓迎イベントや特産品販売も予定されている。藤森伸一支社長は「沿線を笑顔で明るくし、観光活性化の一助になるよう安全第一で運行したい」と述べた。
 運行ダイヤは3日間とも、銚子発午前10時27分と佐原発午後2時16分の1往復。銚子からの往路はディーゼル車がけん引する。22〜23日と25〜27日には、本番と同じダイヤの訓練運転もある。座席指定のみの乗車券は完売しているが、宿泊とのパック商品は発売中で、千葉支社ホームページに案内が掲載されている。【武田良敬】

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ぜひ、足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

笛吹けば汽車が答へぬ春の旅     明治42年(1909) 光太郎27歳

汽車がらみの作品を探したところ、こんな俳句がありました。ただし、日本での作ではなく、欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリアを旅行した際の作です。

前後の作からわかりますが、旅芸人の一座と同じ列車に乗ったようで、芸人の吹く笛と呼応するように汽車の汽笛が鳴った、というシチュエーションでしょう。

智恵子の故郷、福島県二本松の観光協会さんのサイトから。 

2015「二本松の四季」観光フォトコンテスト作品展開催中!

【場所】市民交流センター3階市民ギャラリー前通路 福島県二本松市本町二丁目3番地1
【期間】平成28年1月14日(木)~2月3日(水)9時30分~17時00分
市民交流センター3階市民ギャラリー前通路にて 、2015「二本松の四季」観光フォトコンテスト「夏」「秋」「菊人形」部門に応募いただきました全作品を展示しています。是非お立ち寄りください!
※月曜日は大山忠作美術館は休館ですが、市民ギャラリー前通路、展望ラウンジスペースは出入り可能となっており、月曜日も観覧できます。 また、現在「冬」部門の作品を募集中です。沢山のご応募、お待ちしております。

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コンテストは、「二本松市内の様々なスポット、名所、四季の風物等の観光資源を、写真を通じて紹介でき、ポスターやパンフレット等で使用できる作品を募集」というコンセプトで行っているものです。

智恵子ゆかりの地を撮影した作品も多く、今回、「秋」部門の最優秀作が、紅葉の安達太良山頂付近で撮影された「ほんとの空の下」という作品。また、「菊人形」部門では、「菊花にかこまれた智恵子さん」という作品が優秀賞に選ばれています。

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その他の入選作もすばらしいものばかり。で、現在、二本松駅前の市民交流センターで、展示が行われているそうです。

せっかくの素晴らしい作品群ですので、市内で展示するだけでなく、市外、県外、特に首都圏などに持って行っての展示などもなされるといいと思うのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

いたづらに富士を負ひ立つ国かこれ島か小島か人なき土か
明治35年(1902) 光太郎20歳

手厳しいですね。今月から通常国会(常会)が始まりましたが、早速話題になっているのは政治とカネの問題。現今のこの国を見たら、光太郎はどういう歌を残すのでしょうか……。

青森からイベント情報です。 

光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016

冬の澄んだ夜空に打ちあがる花火をはじめ、乙女の像ライトアップ、ゆきあかり横丁、人気のグリューワイン、幻想的なイルミネーション…
この他、様々なイベントをご用意しております。
ご家族、ご友人、恋人と…十和田湖の冬をお楽しみください♪

 間 : 平成28年2月5日(金)~2月28日(日)
時 間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会 場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場
      青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地


イベント内容
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このほか、スノードーム作り、ワックスボール作り、灯篭作り(平日)、ホーストレッキングなどなど、たくさんの体験があります!!
◆2月13日(土)には、歩くスキーや雪上カーリングなどが楽しめる十和田湖大運動会があります☆
◆2月14日(日)にはバレンタインデー企画として、チョコレート作りもあります。
限定の体験もあったりと、盛りだくさんのイベントをぜひお楽しみください♪
問合せ先 : 十和田湖冬物語実行委員会【事務局:(一社)十和田湖国立公園協会】
       0176-75-2425


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当方、一昨年にお邪魔しました。極寒の清冽な空気の中でライトアップされた光太郎作の乙女の像(十和田湖畔の裸婦群像)の姿には感動を禁じ得ませんでした。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

雲にほふかなたギリシヤのあめつちに立たむ日までのせばきすみかぞ

明治35年(1902) 光太郎20歳

数え20歳の光太郎、その目は「せばき(狭い)」日本を突き抜け、広い世界に向けられています。実際に留学で世界に飛び出すのは4年後。ただしギリシャには足を踏み入れることはありませんでした。

地方紙のコラム、記事から2件ご紹介します。

まずは『佐賀新聞』さんの一面コラム。 

有明抄 復興災害

2016年01月18日
 <孤独の痛さに堪へ切った人間同志の/黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ>。詩人高村光太郎の「孤独が何で珍しい」は、孤独への肯定感がにじむ。<孤独の鉄(かな)しきに堪へきれない泣虫同志の/がやがや集まる烏合(うごう)の勢に縁はない>。つらさを乗り越えた者への連帯感が支えなのだろう◆思いをはせる縁(よすが)があればこそ生きる力もわく。何のつながりもなければ力尽きる。「社会的孤立の果ての死」をいう孤独死。言葉から伝わるのは過酷な現実の響きだけだ◆21年前の昨日、6434人が犠牲となった阪神大震災が起きた。この数字に孤独死は含まない。20年間、仮設住宅や復興公営住宅で約千人が人知れず息を引き取った。東京などでも孤独死はある。ただ1万世帯当たりの発生率は東京23区の約2倍という(塩崎賢明『復興<災害>』)◆16年前、神戸の復興住宅を訪ねた。新築団地の部屋はバリアフリーで、緊急時通報装置もあった。ただ戸外や隣室の音は聞こえない。「隣近所は知らない人ばかり。気を遣う」。お年寄りのつぶやきが耳に残った◆復興事業による災厄を「復興災害」という。皮肉に満ちた言葉だ。抽選入居の復興公営住宅がコミュニティー崩壊を招き、孤独死の遠因となったとの指摘もある。被災者に差し出されたのは、その痛みを知る手だったのだろうか。(梶)


阪神淡路大震災からもう21年経ったか、という感じです。同時にもうすぐ東日本大震災からも5年。「復興災害」などという矛盾した言葉は消えてほしいものです。


続いて、『福島民友』さん。 

朝礼で「ほんとの空体操」 二本松・市職員実践、市民へ浸透図る

 二本松市は10008日、昨年誕生し、市民への普及を図っている健康体操「ほんとの空体操」を、朝礼時に全職員が実践する取り組みを開始した。
 ほんとの空体操は「元気な高齢者」を増やし、介護予防につなげるのが目的。2013(平成25)年3月に誕生した「市民の歌」に合わせて六つの動きを左右で行い、普段動かさない筋肉をほぐしたりするストレッチの動きが基本。同市の快フィットネス研究所の吉井雅彦所長が、高齢者でも気軽にできる体操として考えた。
 市は、市民への浸透が遅れている市民の歌とセットにして「運動する習慣」を目指す方針だが、まずは職員から実践しようと、朝礼時に市民の歌を流し、全職員が取り組む。各課にほんとの空体操のDVDを配布し、マスターを呼び掛けた。
 初日の体操を終え、男性職員の一人は「朝、体が起きていない時に体操をすることで、仕事の効率化にもつながるのでは」と話した。担当の高橋久美子市高齢福祉課介護保険係主査は「職員のマスター度は思ったより高かった。機会があるごとに個人や団体に実践を呼び掛けてほしい」と話している。


昨年、このブログでご紹介した「ほんとの空体操」に関してです。

下記は二本松市さんのサイトから採らせていただきました。


皆さんで取り組むことで、『佐賀新聞』さんにあったような孤独死の防止にも役立つのではないかという気がします。そこまで極端な話にならなくとも、最近話題の「生活不活発病」の予防にはなりそうですね。広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

旅なれば一人なればの御情(みなさけ)かゆるせ夕野をただ徒歩(かち)ゆかむ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「生活不活発病」、当方には無縁だろうなと思っております。年間20回前後は東北に足を運び、数回は中部、関西にも。さらに毎朝夕、犬の散歩で合計1時間以上は歩くようにしています。

昨日の夕雲は見事でした。

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光太郎智恵子の世界は、様々な分野で活躍されている表現者の皆さんの表現意欲をそそるようです。ネットで見つけた近々行われる『智恵子抄』を題材とした公演の情報を2件。 

言葉と音の交差点

期   日 : 2016年1月22日(金)
時   間 : 開場 19:00  開演 19:30
会   場 : ライブハウス アピア40 東京都目黒区碑文谷5-6-9 B1 03-3715-4010
料   金 : 前売2200円+1drink / 当日2500円+1drink
出   演 : 
 伊藤美友(演劇)
 飯塚直(いいづかなお/各種リコーダー&古楽のパーカッション)
 仁木恭子Niki Yasuko Aizawa(朗読)
 航KOH(ピアノ)

~演劇・音・朗読・歌が出会い、歩み、弾け、放たれる。
永遠 時の流れ 私たちの交差する瞬間を!ご来場を心よりお待ちしております。~
1stステージは『永遠』をテーマに演劇と音楽そして歌、2ndステージは『智恵子抄』の朗読と音楽のコラボをお送り致します。

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続いて九州大分から。ただし、既に満席だそうです。しかし、キャンセル等もあるかもしれませんし、とりあえずご紹介しておきます。 

風の音書店 with 足立弓子「智恵子抄」

期   日 : 2016年2月6日(土)
時   間 : 開演 19:30
会   場 : アートプラザ市民ギャラリーA 大分市荷揚町3-31
料   金 : 無料
出   演 : 
 風の音書店 (語り部カズミ・ライア弾きKodama・歌うたいShin)
 足立弓子 (魂のダンサー)

魂のダンサー 足立弓子 & 風の音書店 幻のコラボが4年ぶりに復活します。

題材は高村光太郎「智恵子抄」。

音楽はイギリス・ルネサンスのリュート奏者&作曲家ジョン・ダウランド(Joho Dowland 1563?-1626 )のリュート歌曲。
今回のライブは、カラフル・モノクローム~豊田照郊追悼水墨画作品展 (2月1日~7日)への、友情出演として開催されます。 豊田照郊氏の水墨画は水墨画の固定概念を覆すモダンさ。そのカラフルモノクロームな空間に此の花さくやAkemiの大胆な花あそび。

ステージは完璧です。そしてライアと歌と語りをバックに弓子の即興の舞。どんな世界が展開されるのか、 幕を開けてみるまで分かりません(笑)。


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こうした取り組みがもっともっと広がって欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

乗るとすぐひゐきのゝ字を書いて落ち  明治38年(1905) 光太郎23歳

昨日ご紹介した「横町の狗まで地図にかいてなし」と同じく、小説家・山岸荷葉にあてて書かれた絵葉書にしたたtめられました。やはり自転車での転倒に題を採った川柳です。「ひゐき」は「力を込めて」の意。

前年から光太郎は神田の高折周一音楽講習所でのヴァイオリンのレッスンに通い始めたとのこと。束脩(入門料)は1円、月謝は1円50銭。自転車の荷台にバイオリンをくくりつけて通ったそうです。

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智恵子の故郷・福島県二本松市からの情報です。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。

この機会に是非ご覧ください。

冬季期間(平成28年2月)  2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間  午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分
入館料金  
一般410円 ※20名以上の団体は360円 子ども(小・中学生)200円
                    ※20名以上の団体は150円

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昨年のふくしまデスティネーションキャンペーンにともない、6月に公開を始め、その後、夏休み期間の7・8月、菊人形期間の10・11月にも公開が行われました。

当方は菊人形期間の10月に行って参りました。その際のレポートがこちら

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二階だけでなく、一階部分も歩けます(通常は一階部分、外から見るだけです)。

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智恵子やその血縁者の息吹が感じられます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

横町の狗まで地図にかいてなし     明治38年(1905) 光太郎23歳

五七五の形をとっていますが、季語はなく、俳句と言うより川柳です。「狗」は犬です。

小説家・山岸荷葉にあてて書かれた絵葉書にしたためられました。犬に驚いて倒れている自転車に乗った男の絵が描かれていますが、光太郎が描いたものではなく、既製品のようです。

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当方も会員に名を連ねさせていただいている高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、光太郎没後50年を記念して、当会顧問・北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、その後も続々と補遺作品が見つかり続けるため、現在はほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成として雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形で続けております。
  
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。

短歌
金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
九段下の書道用品店・玉川堂さん所蔵の短冊から採らせていただきました。明治末と推定できます。

散文
「貧弱なる個性の発露」 明治45年(1912)5月1日『東洋時論』第三巻第五号
信州安曇野の碌山美術館さん学芸員の武井敏氏からご教示いただきました。長い美術評論です。

「希望 親切な案内役を」 昭和23年(1948)11月7日『花巻新報』第七十二号
「岩手は日本の背骨 ノロイが堅実」 昭和24(1949)年9月28日『花巻新報』第百十五号
ともに岩手の地方紙『花巻新報』から。前者は創刊に寄せた談話筆記、後者は宮澤賢治に関わる講演の筆録です。後編のみ『高村光太郎全集』に既収ですが、前編を新たに見つけました。

「高村光太郎先生説話」
花巻郊外太田村の山口小学校で折に触れて語った光太郎の講演、談話を、同校校長の故・浅沼政規氏が筆録していたものです。膨大な量なので分割して掲載。今回は昭和25年(1950)上半期の分を掲載しました。

翻訳
「モンテスパンの序」 昭和4年(1929)3月10日『南方詩人』第六輯
ロマン・ロラン作の戯曲「モンテスパン夫人」の序文の訳です。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。昨年、雑誌『日本古書通信』に紹介されました。

書簡
長沼せき子宛 室生犀星宛 翁久允宛 「夜の鏡」幹事宛 佐伯郁郎宛(2通) 松下英麿宛 石川佀宛 西倉保太郎宛(4通) 旭谷正治郎宛(4通) 内村皓一宛(2通) 黒須忠宛
参考書簡 丹塚もりえ宛
書簡は毎年のようにたくさん見つかっています。リンクを貼った部分をご参照いただければわかりますが、足で集めてもいます。

アンケート000
a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか 昭和14年(1939)12月25日『美術文化』第二号

短句
針は北をさす
岩手県奥州市の佐伯郁郎生家・人首文庫さん所収の色紙から採録しました。

題字
『花巻新報』
『高村光太郎全集』別巻に不完全な記述がありますが、詳細な点が判明したので掲載しました。


ご協力いただいた団体、個人の皆様には感謝申し上げます。

『高村光太郎研究』第37号、4月2日の第60回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円の予定です。上記以外に北川太一先生の玉稿、やはり当方編集の「高村光太郎没後年譜 平成27年1月~12月/未来事項」なども載る予定です。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

ふと見えて消しは神か水色のみけしさながら夜はあけにけり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「みけし」は「御衣」。貴人の衣服を言う尊敬語です。「けし」は「着る」の尊敬語「けす」の名詞化。夜明けの清澄な空を「さながら」「水色のみけし」のようだと謳っています。

兵庫県姫路市から、光雲がらみのイベント情報です。 

ちょこっと関西歴史たび 書寫山 圓教寺

 JR西日本では、平成25年春から、「歴史を知ると散策がさらに楽しくなる」をテーマに、地域と連携し、個人やグループのお客様でもお楽しみいただける期間限定の特別公開、特別講座など魅力的な企画をご紹介する「ちょこっと関西歴史たび」キャンペーンを四季ごとに開催しております。
 平成27年度冬季は、映画のロケ地としても有名な「書寫山 圓教寺(兵庫県姫路市)」を取り上げます。キャンペーン期間中は、通常非公開の「六臂如意輪観音像(ろっぴにょいりんかんのんぞう)」を特別公開するほか、国指定重要文化財の「四天王像(してんのうぞう)」をはじめ寺宝の特別公開など、さまざまな特別企画をご用意いたします。

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期間
 平成28年1月9日(土曜日)から3月31日(木曜日)
開催場所
 書寫山圓教寺(兵庫県姫路市)
協力
 姫路市、公益社団法人姫路観光コンベンションビューロー、神姫バス株式会社
拝観時間
 8時30分から16時(3月1日以降は17時)
 ※注釈 入山時、志納金として500円をお願いしております。(中高生以下、無料)
アクセス
 JR神戸線「姫路駅」より神姫バスで約30分、その後ロープウェイで約4分。
    摩尼殿(まにでん)まで徒歩20分。
 ※注釈 ロープウェイは毎時15分ごとに発車

キャンペーン特別企画
「六臂如意輪観音像」特別公開
 摩尼殿本尊。通常年一回、1月18日の鬼追い会式の時にだけ開帳される六臂如意輪観音像を特別拝観できます。
 ・期間
 平成28年1月9日(土曜日)から3月31日(木曜日)
 行事のため、毎月28日および1月18日(月曜日)、2月3日(水曜日)、3月21日(月曜日)
 の13時から15時はご覧いただけません。
 ・場所・時間
 場所 摩尼殿、公開時間 9時から16時(3月1日以降は17時まで)
 ・料金
 無料(予約不要)

この「六臂如意輪観音像」が光雲作のようです。また、やはり光雲作の鬼の面―1/18(月)に開催される修正会(しゅしょうえ)=鬼追い式会で使用されるもの―も展示されているようです。

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気付くのが遅れ、ご紹介するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。

秘仏の御開帳といえば、昨年は高野山金剛峯寺で開創1200年記念大法会があり、やはり光雲作の秘仏・薬師如来が初公開されました。こういうケースはまだまだあるのでしょうね。


【折々の歌と句・光太郎】

いかにして何をたのみしわれならむつひに消ゆべき此の光なり
明治34年(1901) 光太郎19歳 

何やら宗教的な煩悶といったものが背後に見えるような気がします。

翌年には東京美術学校彫刻科の卒業制作で、日蓮の塑像である「獅子吼」を作り、田中智学の法華経に熱中して本門寺の説教に通ったり、光雲の高弟・平櫛田中の手引きで西山禾山の臨済禅の提唱を聴いたりしています。

やはり幼い頃から仏師としての光雲の姿を見て育ち、「仏」の世界を身近に感じていたのでしょう。

昨日は、銚子の犬吠埼に行って参りました(生活圏内なので、時折行くのですが)。

第一目的地は、「スパ&リゾート犬吠埼太陽の里」。宿泊施設もありますが、泊まりではなく「日帰りスパ一望の湯」に浸かってきました。

単に寒いから温泉、というのもあるのですが、一昨夜、真夜中に犬の散歩をするはめになり、結果、風呂に入るタイミングを失してコタツで寝てしまい、さっぱりしたかったというわけです。割引券もありましたし。

犬吠埼太陽の里さんは、大正元年(1912)、光太郎と智恵子が愛を誓った暁鶏館(現・ぎょうけい館)にほど近いところにあります。元は、伏見宮貞愛親王別邸だったところに建てられたもので、平成22年(2010)に開業しました。

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ペッパーくんがお出迎え。従業員だそうです。

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ゆっくり温泉を堪能し、その後、灯台方面に向かいました。

大正元年(1912)、まず数え30歳の光太郎が油絵を描くために犬吠埼にやってきます。宿泊したのは暁鶏館。すると、それを追って数え27歳の智恵子も犬吠埼に現れます。最初は日本女子大学校時代からの友人・藤井勇(ゆう)、妹のセキと3人で、御風館という宿に泊まっていました。その後、藤井とセキは先に帰り、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ります。

二人が結婚の約束をしたのは、翌年の上高地旅行の際だと光太郎は書き残していますが、この時点で、二人は共に生きていくことを決意したと考えられます。

犬吠埼行きに先立って、光太郎は次の詩を書きました。

N――女史に
003
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 002
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方

それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと001
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな

あなたがお嫁にゆくなんて
 

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
004
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで

乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
005
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
006
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――


おそらく智恵子は、光太郎を追って犬吠に来る前、この詩を読んだのだと推測されます。


ところで、最初に智恵子が泊まった御風館という宿。こちらは既に残っていません。少し前に、それがあった場所が判明しましたので、行ってみました。灯台の南西、数百㍍の、犬吠埼に行った際には必ず通る道沿いでしたが、そこに御風館があったというのは、少し前まで存じませんでした。

ちなみにこちらは昔の絵葉書です。

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現在は更地と藪になっています。

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一角には廃屋もあり、もしかすると廃業直前の御風館の建物かも知れません。なんとなくそれっぽい作りでした。

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104年前の光太郎智恵子に思いを馳せながら、帰途に就きました。


それにしても銚子は温暖でした。沿道では農家の方々が春キャベツの収穫真っ最中。

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銚子、そして隣の東庄町、さらに隣接する当方の住む香取市では、この時期、イチゴ狩りの最盛期です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夢はみなはかなきものとさもあらむ恋の組絲われ解くと見し
明治34年(1901) 光太郎19歳

智恵子と出会う10年前の作です。与謝野夫妻の新詩社で歌作に励んでいましたが、この時期の恋の歌はどうも架空の恋を謳ったものと思われます。

10年後には智恵子と出会い、こうした気持ちが実感できたのではないでしょうか。

先週、『毎日新聞』さんの山梨版に、光太郎の名が載りました。

「小さな里に大きな宝」という連載で、これは以下のコンセプトでした。

山梨には地域を元気にする「宝」が数多く眠っている。それも都市部ではなく、小さな田舎に。その土地ならではの暮らしの知恵、文化、特産物を生かしながら、地元に新たな活力を吹き込もうとする動きも各地で相次いでいる。今年は、地方創生や人口減少対策など地域活性化の事業が本格化する。そのヒントを探るべく、各地の「宝」を訪ね歩いてみた。

その第6回(最終回)が以下の記事。

小さな里に大きな宝 富士川町高下地区 雄大な富士に抱かれて 当たり前のものが「特別

 かじかむ手で、かまど000にまきをくべる。赤い火がぱちぱちと音を立てた。カボチャや大根の入った鍋から白い湯気が上がる。「ほうとう、少し待ってね」。山口博子さん(37)が、ほの暗い土間から、大きな声を上げた。「こっちもまだまだだよ」。まきで風呂を沸かそうしていた、夫の宗一郎さん(33)が返した。

 二人が仕事を辞め、都心に近い千葉県市川市から、富士川町高下(たかおり)地区に移り住んで今年で3年目になる。標高400~500メートルの集落は人口130人ほど。70代以上が4割近くを占める。空き家も目立つ。居間で寝息を立てている生後11カ月の長女未生(みお)ちゃんにとっては、ここが古里だ。
 夫妻は、築130年といわれる古民家を改修して、農家民宿を営んでいる。ガスを引かず、田畑を耕して自給自足に近い生活をしようとしてきた。「田舎暮らしをスローライフなんて言うけれど、実際には忙しくて忙しくて」。そうこぼしながら、二人は高下地区の美点をいくつも挙げる。
 「古い家を大切に残しているところ。おいしいユズがたくさん取れるところ。毎日、富士山を間近に見られること。受け入れてくれる地域の人の心が温かいこと……」。そしてこう漏らす。「素晴らしいところがいっぱいあるのに、ここの人たちは気づいていない。もったいないです」
 夫妻は、地域の人を巻き込み、いくつか企画を立ててきた。昨年復活させた秋祭りもその一つ。甲州弁の「一緒に行こう」から取って「えべし高下秋祭り」と名づけた。山口さんのところに、年に何度も泊まりに来る千葉県市川市の自営業、島田憲二さん(61)、千恵さん(57)夫妻は話す。「ここに泊まると、お湯を沸かすのにさえ時間と手間がかかる。そんな生活をたまに味わえるのが楽しい」
 高下地区で育った大森昭雄区長(75)は淡々と語る。「移住してくる人はいるけど都会育ちで、物珍しいから来るだけ。すぐ出て行ってしまう人もいる。田舎暮らしなんて魅力ないよ」。県内のあちこちで、似たようなセリフを聞く。
 しかし大森さんの言葉には続きがある。「住民には、富士山も水も自然もマンネリになっている。でも、当たり前のものが特別なんだと、外から来た人は言いたいのかもしれないな」。口元は緩んでいた。掘り起こされていない宝は、きっと足元に埋まっている。【藤渕志保】=おわり

 ■ことば
高下地区
 高下地区には県が選んだ「新富嶽百景」の一つ高村光太郎文学碑がある。近くの日出づる里農村公園は「ダイヤモンド富士」の撮影スポットとして知られ、毎冬、県内外から多くの人が訪れる。ユズも特産で、日中と夜の温度差が大きい山間地の気候などが適しているという。ここから下った所にある小室地区を含めた旧穂積村では毎年11月に「ゆずの里まつり」を開いている。山口夫妻の宿泊施設「ワールドカフェゲストハウス」でも12月ごろ、ユズの収穫体験を楽しめる。


舞台は山梨県南巨摩郡富士川町。かつて増穂町と行っていた区域です。記事にもあるとおり、「ダイヤモンド富士」のスポットとして有名です。これは、冬至の前後、日の出が富士山頂に重なるという現象です。

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ここになぜ光太郎の碑があるのかというと、昭和17年(1942)、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問したことに由来します。
 
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
 
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
  山道のをばさん001

汽車にのり乗合にのり馬にのり、
谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
甲州南巨摩郡の山の上、
上高下(かみたかおり)といふ小部落の
通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、
筒つぽのをばさんは頭をさげた。
何も変つたところの無い、あたり前な、
ただ曲つた事の何より嫌ひな、
吾身をかまはぬ、
働いて働いて働きぬいて、
貧にもめげず、
不幸を不幸と思ひもかけず、
むすこ二人を立派に育てて、002
辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
一人を靖國の神と捧げて
なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
このただのをばさんこそ
千萬の母の中の母であらう。
あけつ放しなをばさんはいそいそと、
死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
手帳やナイフやビールの栓ぬきを
余念もなくいじつてゐる。
村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、000
をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
よばれるをばさんもさうだが
よぶ人々もありがたい。
いちばん低い者こそいちばん高い。
をばさんは何にも知らずにただうごく。
お国一途にだた動く。
「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
山道のをばさんはうどんを出す。
ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
轟くやうに眉にせまる。
この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
「日本の母」が居るのはあたりまへだ。


昭和62年(1987)には、光太郎が高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。

悲惨な戦争の被害者を美化する詩、という意味では負の遺産ともいえるものですが、当時の国民一般の心境としてはこうだったわけです。


さて、富士川町高下地区、この碑があるからといって、多くの人が訪れるわけではありませんし、ダイヤモンド富士も期間が限られています。普段は本当に記事にある通り「住民には、富士山も水も自然もマンネリになっている。」状態なのでしょう。しかし、「当たり前のものが特別なんだと、外から来た人は言いたいのかもしれない」という部分にもうなずけます。

「当たり前」の良さを「当たり前」に継承して行くことこそ、真の地方創成につながるような気がします。


【折々の歌と句・光太郎】

オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ
昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外太田村での作。「八つか」は現地の方言だと思いますが、ハンノキのことです。

この季節、深夜2時頃にはオリオン座が西の空に傾いています。昨夜というか、今日未明、我が家の老犬と散歩しながらそれを見て、この歌を思い出しました。

老犬、北方系の血を色濃く受けているようで、毎年、真冬になると恐ろしく元気になり(光太郎か! と突っ込みたくなります)、真夜中に「散歩に連れて行け」と吠えます。無視すると吠え声が近所迷惑なので、しかたなくつきあっています。

名古屋から演奏会情報です。 

以前から光太郎の詩に曲を付けた独唱歌曲を連作されている野村朗氏の新作初演が含まれます。 
日  時 : 2016年1月31日(日)  開場 13:30  開演 14:00
会  場 : 電気文化会館 ザ・コンサートホール 名古屋市中区栄2-2-5
料  金 : 1,000円 全席自由
主  催 : Gruppo Giglio
後  援 : 名古屋音楽大学 名古屋音楽大学同窓会
   : 0561-76-5418 中村様
プログラム :
 Pfデュオ 杉本知世、中村あゆみ
  シベリウス:「クオレマ」より「悲しきワルツ」
  ベートーヴェン:「エグモント」より「序曲」
 ヴォーカルソロ・ピアノソロ 上木愛李、永坂夕貴
  グラナドス:「演奏会用アレグロ」/マスネ:「ウェルテル」より
 Pfソロ 鈴木まどか
  ショパン:「スケルツォ 第2番 変ロ短調」
 Pfソロ 柴田志穂
  グリーグ:「抒情小曲集 第3集 Op.43」
 トリオ (Vn)高嶋耕二 (Vc)小林 薫 (Pf)鹿島敬子
  シューマン:「ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調」より
 作曲 野村朗 バリトン 森山孝光 pf 森山康子
  連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」

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野村氏からご案内を戴きました。

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演奏される森山夫妻、こうした場合の野村氏専属といった感があります。当方、5回ほど聴きましたが、素晴らしい技倆の持ち主で、野村氏が頼りにされるのもうなずけます。

下の動画は平成25年(2013)、日暮里サニーホールでの模様。野村氏の「連作歌曲 智恵子抄」です。



ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

君が文よみつつをればそれとなくゆかしき人の息の香ぞする

明治33年(1900) 光太郎18歳

同年の雑誌『明星』に掲載されました。『明星』に載った最も古い短歌です。

新刊情報です。 

妖怪と小説家

2015年12月15日 野梨原花南著 KADOKAWA(富士見L文庫) 定価560円+税

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帯文より
 ここは東京・吉祥寺。小説家の太宰先生と、その担当編集である水羊の行く手には、なぜか怪異がつきまとう。
 原稿から逃げたり、中原先生や谷崎先生と揉めたり、自分の命を削って原稿を書いたり。
 そんな日々の中で、当たり前のように怪異が起きて、当たり前のように太宰先生と水羊は巻き込まれるけれど―やっぱり良い小説を書くために、懸命で。
「僕、太宰先生といるときだけですしこういうの!」
 東京の町で繰り広げられる、文豪たちの不思議な日々の物語。


昨今、実在の文学者を主人公にしたり、モデルにしたりという小説、漫画が静かなブームです。このブログでも、光太郎智恵子が登場する清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』を何度かご紹介しました。

こちらの『妖怪と小説家』、いわゆるライトノベルです。

舞台は現代の東京。小説家の「太宰先生」と担当編集者の「水羊」が、時に異界から現れた物の怪(もののけ)と遭遇したり、異界や幻想の世界に迷い込んだりしながら、不思議な体験をする、といったストーリーです。

けんかっ早いイラストレーターの「中原先生」、食道楽の「谷崎先生」、皆から尊敬を集める「宮澤先生」などにまじって、カフェギャラリーの女主人にして、自らも絵を描く「長沼さん」が主要登場人物となっています。「長沼さん」は、天才だけれど経済観念のない彫刻家の「高村さん」と離婚して店を開いた、という設定です。

「高村さん」は本編には登場せず、「太宰先生」と「水羊」の迷い込んだ幻想の世界に登場、また、「長沼さん」と「宮澤先生」の会話に語られるのみです。

「長沼さん」に向けて「宮澤先生」曰く、

「反省頻(しき)りの様子ですが、絆(ほだ)されてはいけませんよ。彼はわたしたちにとってはいい男ですが、あなたにとってはいけないひとだ。」

笑えます。

ところで、この小説では、智恵子を含め、太宰、中也、賢治など、比較的早逝した人々を登場人物のモデルとしながら、誰一人死にません。そのあたりに作者・野梨原氏の強い意図が感じられます。

「長沼さん」と「宮澤先生」の間に、こんな会話もありました。

「先生、それでトシ子さんはお元気です?」
「はい。すっかりよくなりまして」
「それはようございました。ほっとしましたわ。」
「……そのことについて、名前は伏せますが酷いことを言われて傷つきました」
(略)
「あの、何を言われたのですか……。おいやなら答えなくても」
「トシが死ねばさぞ美しい詩ができたでしょうね、と」

念のため解説しますが、現実の賢治には、詩「無声慟哭」に謳われた、妹のトシ(大正11年=1922、数え25歳で病没)がいました。

続く「宮澤先生」と「中原先生」の会話。

「作家をなんだと思っているのでしょう。人間だと、全く思っていないのか、それともその人にとっては他の人間はそのようなものなのでしょうか。愛するものが死ねば傑作がかけるのならば、世の中にはもっと傑作が満ちあふれているでしょう」
(略)
「作家が死ねば話題になって本が売れるから死ねばいいと、世の中に思われているのは知っています」
「それについてはどう思われますか」
「お前が死ねと思って聞いてます」
「おや、過激だ」

結局最後はハッピーエンド。この小説自体、早世していった智恵子達に対するオマージュなのだと言って良いでしょう。


こうした入り口からでも、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる若い世代が増えれば、と思いました。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の夜はきりこがらすにきらきらと白きしじまのひかるなりけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

このブログを書いている今、南関東には珍しく粉雪が舞っています。夜ではありませんが。

一昨日、東京本郷で、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加していまいりました。

この会には、早めに自宅兼事務所を出、そう遠くない場所にある、光太郎智恵子にからむ施設を訪れてから参加することにしています。一昨年は太平洋画会での智恵子の師・中村不折を紹介する台東区立書道博物館さん、昨年は、光太郎彫刻「黒田清輝胸像」が出迎えてくれる東京国立博物館黒田記念館さん。

今年は光太郎と同時代の彫刻家・朝倉文夫の旧居を改装して作られた、台東区立朝倉彫塑館さんに足を運びました。

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朝倉は光太郎と同じ明治16年(1883)、大分県の生まれ。やはり東京美術学校彫刻科出身(学年はずれていますが)です。国指定の重要文化財「墓守」や、たくさん作った猫の彫刻で有名です。

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留学の経験はなく、長沼守敬などから続く穏健な作風を継承し、光太郎や荻原守衛などのロダニズムとは一線を画しています。彫刻家として独り立ちしてからは、文展などのアカデミズム系を活躍の場としていました。そのため、光太郎はその作を余り高く評価していません。新聞等に発表した文展などの観覧記では、酷評を与えています。

当方、朝倉の作品をまとめて観るのは初めてでしたが、これはこれで美術史上、重要な位置を占めるものだと思いました。こうしたアカデミズム系の流れがあるから、光太郎や守衛の彫刻の特異性が際立つわけで、光太郎や守衛を飛沫を上げて迸る奔流、激流とすれば、朝倉はとうとうと流れる穏やかな大河、といった印象を持ちました。

建物自体も国の有形文化財に登録されています。昭和10年(1935)に完成したそうですが、アトリエ部分のおそろしく高い天井、茶室まで構えた純和風の居住空間、4階にあたる屋上に造られた庭園など、興味深く拝見しました。同じ区域と言っていい光太郎のアトリエが、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したのが、返す返すも残念です。

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残念、と言えば、同館には光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」―それも大正期に鋳造され、台座の木彫部分は光太郎が彫ったもの―が収蔵されているのですが、展示されていなかったことです。昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展」で、現物は見ていますが。


さて、朝倉彫塑館を後に、本郷までぶらぶら歩き、北川先生を囲む新年会に出席いたしました。


その後、地下鉄で銀座に出ました。次なる目的地は、東銀座の「いわて銀河プラザ」さん。岩手県のアンテナショップです。

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過日、このブログでご紹介した、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事の載った花巻市発行の情報誌『花日和』をゲットするのが目的で、ちゃんと置いてありました。

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ところで、意外と思える程に多くのお客さんで賑わっていました。東日本大震災からの復興支援にもつながりますので、ありがたいことです。当方も愚妻の好物・ゆべしと、帰省している息子の好物の100%林檎ジュースを購入しました。驚くほど安い価格でした。だから繁盛しているのか、と納得しました。

皆様も是非足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

倦めば楽(がく)さむれば匠(たくみ)ぬればうた老(おい)はわが世の道になきもの
明治35年(1902) 光太郎20歳

今日は成人の日です。当方の息子も新成人ですが、当方の住む市では昨日、成人式が行われました。

というわけで、光太郎20歳の歌。

「匠」=彫刻、「うた」=短歌や詩、「楽」は音楽だと思いますが、光太郎が神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンを習い始めるのはこの2年後なので、今一つ謎です。聴くのは既に好きだったということでしょうか。やることが多すぎて、自分が老いることなど考えられないという青春の日々です。

現代の新成人諸君もそうなのでしょうが、光太郎のように、何度もつまづきながらであっても、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という気概で、自分の道を切り開いていってほしいものです。

昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。

昨日のこのブログでは、原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映情報を書きました。

同様に追悼的な内容の雑誌、ムック等がいろいろ刊行されていますが、その中から一つ。 

週刊朝日増刊 昭和の美神 原節子去りぬ

2015/12/20 朝日新聞出版 定価780円

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目次

秋山庄太郎 写真館 永遠の恋人 銀幕スター原節子 千葉伸夫 (映画評論家)「永遠の処女 原節子の輝き」
「新人女優、原節子」 貴田庄 (ノンフィクション作家)
節子の休日 本誌オリジナル秘蔵写真 再録・あなたはどう答えますか?
原節子を観る 映画ベスト20 植草信和
評伝「沈黙のまま表舞台を去った」 朝日新聞・ 石飛徳樹 編集委員
横尾忠則(美術家)寄稿 「原節子 物質世界を超えた魂の美」
四方田犬彦 (映画史・比較文学研究家) 寄稿「不死の人、原節子」
さよなら節子さん 岡田茉莉子 宝田 明 有馬稲子 香川京子 松島トモ子 佐藤忠男 
         大林宣彦 司 葉子
 山田洋次 仲代達矢 川又 昂
原節子を知る book list
「買い出し女優とピカピカの民主主義」 宮本治雄 (編集者)
原節子をたどる 生涯&全出演作リスト
評伝 「会田昌江と原節子」 河谷史夫
彼女は何を語り、どう書かれたか 朝日新聞記事で振り返る原節子


元『キネマ旬報』編集長の植草信和氏による「原節子を観る 映画ベスト20」という項で、東宝映画「智恵子抄」が紹介されています。使われているスチールは、二本松霞ヶ城でのカットです。背後には「ほんとの空」と安達太良山。

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原さんの出演作品の中では、「智恵子抄」は高い評価を得ているとは言い難い作品ですが、原作の知名度的な部分と、3本しかない熊谷久虎作品のうちの一つ、といった観点からランクインしているように思われます。

ちなみに同じ年に制作された小津安二郎監督・松竹配給で「東京暮色」では有馬稲子さんが妹役でした。こちらは比較的高い評価を得ています。


ところで「智恵子抄」。かなり前にVHSテープで販売されました。「日本映画傑作全集」というラインナップでした。

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しかし、DVD、ブルーレイ等でのデジタル化はされていません。この際、「原節子コンプリート」的な企画でボックス化していただきたいものです。ただ、そうなると、「分売不可」というケースもあり、悩みどころですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

雪の朝高楼に朱簾まくは誰    明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「すだれ」を単に「簾」とせず、「朱簾」としているところが肝ですね。白妙の雪と朱色の簾とのコントラストが絶妙です。

同時に、それを巻く「誰」かも、否応なしに原節子さんのような美女を想像させられます。これがいかつい男では絵にも何にもなりません。「朱」一文字でそれをやってのける弱冠数え17歳の文才には脱帽です。

昨秋、ご逝去された原節子さん。追悼特集的な取り組みがいろいろと行われています。

そうした中で、昭和32年(1957)、原さんが智恵子役を演じた熊谷久虎監督による東宝映画「智恵子抄」の上映があります。2件、情報を得ています 

銀幕に輝きつづける、永遠のヒロイン 追悼 原節子

池袋新文芸坐 東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F

◆一般1300円 ◆学生1200円 ◆友の会1050円 ◆シニア・障がい者・小学生以下(3歳以上)1050円
◆ラスト1本850円

1/17(日) 東京暮色(1957/松竹/140分)/18:00東京物語(1953/松竹/136分)
18(月)   美しき母(1955/東宝/98分)/巨人傳(1938/東宝/127分)
19(火)   安城家の舞踏会(1947/松竹/89分)/誘惑(1948/松竹/85分)
20(水)   青い山脈(1949/東宝/91分)/続・青い山脈(1949/東宝/91分)
21(木)   白雪先生と子供たち(1952/KADOKAWA/89分)/白痴(1951/松竹/167分)
22(金)   河内山宗俊(1936/日活/82分)/新しき土〈日独版〉(1937/T&Kテレフィルム/106分)
23(土)   山の音(1954/東宝/95分)/めし(1951/東宝/97分)
24(日)   小早川家の秋(1961/東宝/103分)/秋日和(1960/松竹/129分)
25(月)   路傍の石(1960/東宝/104分)/智惠子抄(1957/東宝/98分)
       9:40/13:25/17:10/20:55終映22:35
26(火)   慕情の人(1961/東宝/96分)/愛情の決算(1956/東宝/112分)
27(水)   女ごころ(1959/東宝/95分)/(1958/東宝/101分)
28(木)   大番(1957/東宝/117分)/ふんどし医者(1960/東宝/115分)
29(金)   娘・妻・母(1960/東宝/123分)/驟雨(1956/東宝/90分)
30(土)   晩春(1949/松竹/108分)/麦秋(1951/松竹/126分)

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日本映画傑作選

川崎市市民ミュージアム 神奈川県川崎市中原区等々力1-2(等々力緑地内)

2016年01月26日 10:30-/14:00

「智恵子抄」 原作:高村光太郎 監督:熊谷久虎  昭和32年 モノクロ

入場無料



他にも上映の情報がありましたら、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

はこべらを朝のさ粥に摘みいれてわが初春の乏しともなし  制作時期不詳

「はこべら」は「はこべ」。春の七草の一つですね。七草すべてとはいかなくとも、みずみずしいはこべを摘み入れれば、お粥もプチ贅沢になり、自分の生活も決して悲観するほどひどくはないよ、というところでしょうか。

いつ作られた歌か不明ですが、昭和23年(1948)に刊行された歌集『白斧』に収録されています。おそらくその頃の、花巻郊外太田村に移ってからの作品ではないでしょうか。

一昨日、アメリカ文学者・文芸評論家の佐伯彰一氏のご逝去が報じられました。新聞各紙には昨日掲載されています。 

文芸評論家の佐伯彰一さん死去 「三島由紀夫全集」編集

 米文学者で、比較文学や伝記研究の手法を用いた評論で知られる000文芸評論家の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため亡くなった。93歳だった。葬儀は近親者で営まれた。
 富山県出身。東京大や中央大で教壇に立ち、アーネスト・ヘミングウェーやフラナリー・オコナーの翻訳を手がけた。80年に日本翻訳文化賞を受賞。同年「物語芸術論」で読売文学賞、86年、「自伝の世紀」で芸術選奨文部大臣賞を受けた。「三島由紀夫全集」の編集を担当し、三島由紀夫文学館や世田谷文学館の館長も務めた。
(『朝日新聞』 2016/01/05)
  

<訃報>佐伯彰一さん93歳=米文学者、文芸評論家

 国際的な視野をもつ批評で活躍した文芸評論家で米文学者、東京大名誉教授の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。93歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男で東京工業大教授(米文学・米文化史)の泰樹(やすき)さん。
  1922年生まれ、富山県育ち。43年東京大英文科卒。米ミシガン大などで日本文学を講じた。ヘミングウェーやフォークナーらの研究・翻訳のほか、戦前、戦中に知識人の転向や挫折を見せつけられたのを原点に50年代から文芸評論に取り組んだ。68年から東京大、83年から中央大の教授を歴任した。
  三島由紀夫研究の第一人者としても知られ、新潮社刊行の全集(35巻・補巻1、76年完結)の編集を担当。95年に東京・世田谷文学館、99年には山梨県・三島由紀夫文学館のいずれも初代館長を務めた。谷崎潤一郎らが自己の資質を見いだす過程を追った「物語芸術論」で80年読売文学賞。他の著書に「日本人の自伝」(74年)、「評伝三島由紀夫」(78年)、「自伝の世紀」(85年)など多数。保守系の論客としても知られた。
  評論家の業績で82年日本芸術院賞。88年日本芸術院会員。99年に正論大賞(特別賞)。
(『毎日新聞』2016/01/05)


当方、佐伯氏のご著書を一冊持っております。

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昭和59年(1984)、文藝春秋社さんから刊行された『日米関係の中の文学』。当時の日米貿易摩擦を背景にしています。初出は同社刊行の雑誌『文學界』への連載でした。

全13章のうちの第8章にあたる「ジャップの「憤り」」で、光太郎のアメリカ留学をメインに扱っています。改めて読み返してみました。

光太郎は明治39年(1906)、数え24歳で欧米留学に出ます。2月末、最初の目的地であるニューヨークに到着。翌年6月にホワイトスターラインの豪華客船・オーシャニックでロンドンに向けて船出するまでをアメリカで過ごしました。私費留学のため、自分で金を稼がねばならず、彫刻家ガットソン・ボーグラムの通勤助手として働いたりもしました。後にボーグラムは現代でもアメリカの観光案内などによく写真が使われる、マウント・ラッシュモアの巨大彫刻を手がける彫刻家です。しかし、ボーグラムの元で働いたのは4ヶ月ほど。あとはどのようにして収入を得ていたのか、よくわかりません。日本から持っていった2,000円を小出しにして使っていたのでしょうか。倹約のため、窓のない屋根裏部屋に下宿をしたりもしました。

10月から翌年5月までは、ボーグラムが講師を務めていたアート・スチューデント・リーグの夜学に通い、特待生の資格を得、その賞金をボーグラムの好意によって現金で受けとり、イギリスへと旅立ちます。ほぼ時を同じくして、父・光雲の奔走で農商務省の海外実業練習生に任ぜられ、月々の手当が支給されるようにもなりました。

さて、佐伯氏の論考。滞米中の体験を基にした詩「象の銀行」(大正15年=1926)、「白熊」(同14年=1925)を中心に、光太郎の内面を分析しようとする試みです。どちらの詩も、滞米時から20年ほど経ってからの作品であること、これらを含む連作詩「猛獣篇」の問題、この後展開されて行く翼賛詩の濫発、そして戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活などに触れられます。さらには比較文学論的に、やはり滞米経験のある永井荷風や有島武郎、岡倉天心などとのからみ、当時のアメリカの世相などにも論が及びます。それぞれ周辺人物の遺した手記などにも材を取り、非常に示唆に富んだ論考でした。もちろん、滞米時の光太郎のエピソードもふんだんに紹介されています。柔道技で米国人学生をたたきのめしたことなど。


ちなみに氏は、戦時中に光太郎の講演を生で聴かれたこともあるそうです。

経歴でわかるとおり、氏は右寄りの立ち位置にい000らした方です。しかし、氏は光太郎の翼賛詩を良しとしません。そのあたりは現今のレイシストどもとの大きな相違ですね。

また、氏は90年代に日本図書センターさんから刊行されていた「作家の自伝」シリーズ第一期の監修にも携わっていらっしゃいました。この中には『高村光太郎 暗愚小伝/青春の日/山の人々』もラインナップに入っています。年譜及び解説は、当会顧問・北川太一先生でした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

摘みてこし川上とほくみかへりてふたり指さす春の山うすき
                                        明治34年(1901) 光太郎19歳

河原か堤防か、川上から川下へ、おそらく七草摘みでしょう。ふと振り返ると、その先に見える山は、まだ春は名のみのたたずまい……。いいですね。

当方、野草にはあまり詳しくありませんが、こちらは春の七草の一つ、ゴギョウだと思います。自宅兼事務所の庭のプランターに勝手に生えています。

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また、犬の散歩コースでは、三が日には記録的な暖かさで、これも七草の一つ、ホトケノザが既に花をつけていました。

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雪国の皆様には申し訳ないような気持ちです。

岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。 

いわて国体 成功へ年頭の気勢 大会実行委事務局 開幕へ準備も追い込み

 希望郷いわて国体・大会の開催の今年に控えた希望郷いわて国体・大会実行委員会事務局は4日、仕事始めを迎えた。岩間隆事務局長が職員約100人に「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。2007年に国体開催の内々定を受け、今まで積み重ねてきたもの、携わってきた関係者、県民の方々の思いをしっかりと形にするという、集大成の年になる」と訓示した。

 岩間事務局長は「被災地で初めて開催する両大会。全国からの注目も非常に大きいものがあり、全国の方々にこれまでに頂いた支援にしっかりと感謝を示す。さらに、将来の岩手づくりのために大いなるきっかけとなる大会にしたい。オール岩手で引き続き準備を進めていきたい」と説いた。

  職員に対し「われわれの役割は大きく二つ。国体、大会の主役である選手の方々がこれまでの練習の成果をいかんなく発揮できるような大会運営に万全を期す。もう一方の主役である県民の方々が、国体・大会に参画する環境を整えること。ぜひ全体的な視点、広い視野を持って関係者の方々と連携を取りながら、自らの責任を果たしてもらいたい。皆さんの奮励努力を」と期待した。

  「岩手で開催してよかったと全国の方々、県内の方々、全ての方に思ってもらえるような大会にしたい。まずは冬季大会に全力を尽くし、その成功を弾みに本大会、障害者スポーツ大会に結び付けたい。全力で取り組もうう」と結び、全職員のガンバロー三唱で開催の意気を上げた。


今年は岩手会場で、「第71回国民体育大会 希望郷いわて国体」「第16回全国障害者スポーツ大会 希望郷いわて大会」が開催されることを受けての記事です。国体の方は、早くも今月末からスキー、スケートなどの冬季大会が始まります。一般競技及び障害者大会の方は秋だそうです。

記事にもあるとおり、東日本大震災後、被災地で初めて開か無題れるそうで、その意味でも注目されますね。調べてみたところ、震災のあった平成23年(2011)は山口県会場。以後、岐阜、東京、長崎、和歌山と回って、今年の岩手です。

ちなみに震災の前年、平成22年(2010)は、当方自宅兼事務所のある千葉でした。当方、柔道有段者でして、当時中学生だった息子(こちらは今も柔道を続けています)と一緒に柔道競技を見に行きました。成年男子団体決勝は千葉対東京。1-1で迎えた大将戦、千葉県警の加藤博剛選手(90㌔級)が100㌔超級の立山選手(JRA)から小内巻き込みで技ありを奪って破り、優勝。感動しました。右はその時買ったストラップ。柔道着姿のチーバくん(千葉県のゆるキャラ)です。

さて、「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。」とありますが、こちらは昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された光太郎の詩「岩手の人」が元ネタです。
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   岩手の人 

岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


昨年、ラグビーワールドカップが一躍脚光を浴びましたが、同大会、2019年には日本で開催されます。岩手でも、釜石市が会場に選定され、それを報じた『岩手日報』さんの「論説」でもこの詩が取り上げられました

牛のように愚直(というと失礼かも知れませんが)で勤勉な県民性を活かし、国体系も、ラグビーW杯もともに成功に導いていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

こほり結ぶ霜もものかは父君の雪の旅路にいます思へば
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「ものかは」は「問題にならない、物の数ではない」の意。この頃の光太郎は、まだ孝行息子でした。父・光雲が雪国を旅していることを思えば、東京の寒さなど「ものかは」だ、というわけですね。

明治32年(1899)、光雲は古社寺保存会の命で福井、石川方面に出張に行った記録が残っています。

昨日の『日本経済新聞』さんの紙面から。 

生きる命 十選 掌編の試み (1)高村光雲「老猿」

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作家の丸山健二氏が、「危機と緊張感に満ちた生をおのれの本能と才知のみで生きる命」を宿した美術品10種を選び、それぞれを評する連載です。「掌編」と謳っており、評と言うより、短編小説の趣さえあります。

第1回で、光雲作の「老猿」を取り上げて下さいました。「感情や本能の高い障壁を乗り越えてきた証としての、強い意志に支えられた心組み」を持ち、「深い孤独を背負ってはいても、しかし、鋭い眼光には啓発されること大なるものがあり」、「心魂の奥深くには、他者の心中を思いやる、門外不出の宝物を秘めている」と描写されます。

そのまま作者・高村光雲その人を評しているようにも感じられます。そして、そうした血脈は、長男・光太郎にも受け継がれているのではなかろうかとも思いました。

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左が光雲、右が光太郎。明治24年(1891)、光雲39歳、光太郎8歳のカットです。


さて、「老猿」。上野の東京国立博物館さんに収められ000ていますが、残念ながら現在は展示されていません。同館では「博物館に初もうで」ということで、「えとの申の特集、そして松竹梅に鶴亀など、吉祥をテーマにした作品の数々」などを展示中ですが、「老猿」はラインナップに入っていません。なんだかもったいないような気がしますが、作品保護などの観点もあって、「あるから展示する」というわけにもいかないのでしょう。

一昨年昨年と、夏の時期に展示されていますので、今年もそうなるのかな、と思っています。

詳細が解りましたらまたお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】001

寒き日の自炊の水を運びけり
明治39年(1906) 光太郎24歳

画像は我が家の「老猿」ならぬ「老犬」です。つい先だって、12歳になりました。寒くなるとこの犬の水も凍るのですが、今シーズンはまだそうなっていません。

ここ数日、関東地方は記録的な暖かさでしたが、このあとは冬らしくなるそうです。

光太郎が晩年を過ごした岩手県花巻市の情報誌『花日和』。県外向けに発行しているPR誌です。時折、光太郎がらみの記事を載せて下さっています。

先月刊行されたそちらの2015年冬号に、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事が掲載されています。

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平成27年4月28日にリニューアルオープンした高村光太郎記念館。常設展示室二室に企画展示室も新たに整備され、彫刻や書の展示、映像や詩の朗読などにより光太郎をわかりやすく紹介。平成28年2月22日までは、開館記念企画展「山居七年」を開催中。

以下はPDFファイルでご覧下さい。光太郎の生涯、花巻と光太郎との関わり、もちろん記念館の様子も詳しくレポートされています。

冊子になっている現物は、市のサイトによれば「首都圏のほか、市内では花巻市観光協会、花巻観光案内所などで配布しています。」とのことです。


【折々の歌と句・光太郎】

うたがるたひとつひとつによみて見てよせてそろへて憂き思あり
明治34年(1901) 光太郎19歳

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「うたがるた」は、正月の風物詩の一つ、百人一首ですね。華やかな札を見ながらも、「憂き思」。青年期のやるせない煩悶が表されています。

雑誌新刊情報です。 

『男の隠れ家』 2016年2月号

株式会社三栄書房 2015.12.26発売 特別定価730円

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特集「文豪の描いた世界へ 名作の舞台を往く」の中に、「高村光太郎『智恵子抄』を往く 智恵子生家(福島県・二本松市)」があります。


他のラインナップは以下の通り。

故郷への思いを捨てきれなかった「太宰治」 太宰治『津軽』を往く(青森県・津軽半島)
自身の体験を投影した「川端康成」の自伝的小説 川端康成『伊豆の踊子』を往く(静岡県・伊豆半島)
果てなき故郷への「島崎藤村」の眼差し 島崎藤村『夜明け前』を往く(岐阜県・馬籠宿)12人の子供たちへの「壺井栄」の想い 壺井栄『二十四の瞳』を往く(香川県・小豆島)
懸命に生きた若者の群像を描いた「司馬遼太郎」 司馬遼太郎『坂の上の雲』を往く(愛媛県・松山市)
作品を制作することへの「夏目漱石」の想い 夏目漱石『草枕』を往く(熊本県・熊本市~玉名市)

三島由紀夫『潮騒』を往く 神島(三重県・鳥羽市)
志賀直哉『城の崎にて』を往く 城崎温泉(兵庫県・豊岡市)
伊藤左千夫『野菊の墓』を往く 矢切(千葉県・松戸市)
三浦綾子『氷点』を往く 見本林(北海道・旭川市)
織田作之助『夫婦善哉』を往く 法善寺 夫婦善哉(大阪府・大阪市)

永井荷風が愛した浅草を食べ歩く 
雑司ヶ谷・染井霊園で文豪のお墓参り


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太宰から漱石までは扱いが大きく、各8頁。三島、志賀直哉が各1頁。光太郎を含め、伊藤左千夫から織田作之助までは各半頁。光太郎の扱いが小さいなとは思いますが、まあ、こういうこともあるでしょう。

智恵子の故郷・二本松の智恵子生家/智恵子記念館を取り上げて下さっています。

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それから、「雑司ヶ谷・染井霊園で文豪のお墓参り」の項で、染井霊園の高村家墓所が紹介されています。

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2月号の扱いですが、発売は昨年暮れ。現在も店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


昨日のこのブログでご紹介した、NHKさんで放映された新春スペシャルドラマ「富士ファミリー」。劇中に「光太郎」が出て来ましたが、高村光太郎とは直接の関係はありませんでした……。すみません。

こちらは確実に高村光太郎・智恵子にからむドラマの放映です。 

浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎

BSフジ 2016年1月 6日(水)12:00~13:57

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

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初回放送はもともとは平成18年(2006)。年に1~2回、再放送されています。岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

うつぶきてわれうなづかむえにしありそのかきぞめのこころを問ふな

明治34年(1901) 光太郎19歳

与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた頃の作品です。この頃の作には、鉄幹の添削がかなり入っているそうですし、内容的にも架空の恋を謳ったものなども多いのですが、とりあえず。

戦後、花巻郊外太田村の山小屋に移ってからの光太郎は、毎年1月2日に書き初めをする習慣があったことがはっきりしていますが、おそらく若い頃からそうだったのではないかとは思われます。

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地方紙の一面コラムから。

まずは昨日の『岩手日報』さん。 

風土計 2016.1.1

「老猿」は明治大正期の木彫家高村光雲の代表作。力と威厳に満ちた姿が真に迫る。著書「幕末維新懐古談」にある制作秘話は含蓄がある
▼白猿を彫るため光雲は純白のトチノキを求め栃木の山村へ。山猿のような老人から良材を3円で買うが、問題は東京への運搬。結局、運賃など200円も掛かった。いよいよノミを入れたら純白どころか茶褐色。そこで、野育ちの猿を彫ることに
▼こうして傑作は生まれた。自然を生かし、生かされてこそ真実に到達する。長男光太郎は詩「道程」で「僕を一人立ちにさせた広大な父よ」とうたうが、父とは光雲であり、自然という大いなる父でもあることだろう
▼彫刻家、詩人として名をはせた光太郎。太平洋戦争末期、空襲で東京のアトリエを失い、花巻に疎開した。玉音放送、一億号泣、そして山小屋での独居自炊生活へ。そこには戦時中、戦意を鼓舞する詩をつくったことへの深い悔恨の念があった
▼深い雪に閉ざされた冬の山小屋で独り、自らの内面を見つめ、戦争責任に向き合い続ける日々。厳しくも豊かな岩手の自然に包まれた7年もの歳月を経て、芸術家として再出発した
▼2016年が始まった。後ろには戦後70年の道。だが、私たちの前に道はない。清らかな岩手の自然のただ中に立ち、確かな一歩を踏み出したい。


続いて青森の地方紙『デーリー東北』さん。こちらは昨年暮れに掲載されたものです。

天鐘(12月29日)

 高村光太郎は昭和28年、完成させた十和田湖畔の裸像に寄せて「銅とスズの合金が立っている。どんな造形が行はれようと(略)はらわたや粘液や脂や汗や生きもののきたならしさはここにない」という一編の詩を綴(つづ)った
▼亡き妻智恵子そっくりの「乙女の像」に自身の魂を吹き込んだのであろう。無機質の造形には穢(けが)れがなく、自然と堂々調和して永遠に残ってほしいとの願いを込めた
▼同じブロンズだがソウルの日本大使館前にある「少女像」は慰安婦を象徴したものだという。4年前、市民団体が設置し始め、今では韓国内に10数体、米国にも2体ある
▼碑文には慰安婦を「性的奴隷」と英訳。日本政府に「慰安婦問題の障害」とまで言わしめた象徴である。穢れなき無機質の造形のはずが両国を分かつ高い障壁となり、反日感情を扇動する動力源となってきた
▼28日の日韓外相会談で日本が反省し、新設する財団に資金拠出することで50年来の懸案が氷解することになった。日韓に刺さった棘(とげ)のため日米韓の連携も長く機能不全に陥っていたが、やっと足並みが揃(そろ)いそうだ
▼だが政府間は合意しても反日感情は沈静化するのか。鍵を握る少女像は拳を握り締め口を閉ざしたままだ。像に罪はないが韓国内に「日韓が背を向けたのは像のせい」との批判も出ているとか。脂や汗を洗い流し、早く少女らしい明るい笑顔を取り戻してほしいものだ。


昨年は戦後70年ということで、いろいろと検証が為されました。しかし、まだまだ充分とは云えません。逆に戦前のような世の中に戻そうという輩も横行。今こそ光太郎の精神に学びたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

初夢の棄てどころ無し島のうち
大正末期 光太郎44歳頃

「歌と句」ということで、このコーナーでは俳句もご紹介します。

友人の作家・田村松魚に宛てた葉書の末尾に記された句です。消印が不鮮明で年月日は特定できませんが、葉書の様式や、多くの書簡を田村に送っていた時期から、大正末期と推定されます。

この時期の光太郎は、関東大震災(大正12年=1923)後に露わとなった社会の矛盾に対し憤りを感じ、プロレタリア文学者たちと近い立ち位置にいました。大正13年(1924)には、詩「清廉」を書き、外部社会への鋭い批判と生の決意を謳う「猛獣篇」の時代に入ります。

この句の書かれた葉書にも、以下の文言があります。

今のままで貧乏しながら行けるところまで行きませう。いよいよせつぱつまつたら ずつと遠い処へ旅立つばかり。僕のやうな性情のものが今日の世に生きてゐるのは時代錯誤と思ひます。

「島」は「日本」。この国に対する「棄てどころ」のない怒りが見て取れます。

ところで、初夢と言えば「一富士 二鷹 三なすび」。それにまつわるNHKさんのスペシャルドラマ「富士ファミリー」が今夜、オンエアされます。


富士山のふもとにある小さなコンビニ『富士ファミリー』には近所で評判の美人三姉妹がいた。長女の鷹子(薬師丸ひろ子)は、一家の大黒柱。自由奔放な次女・ナスミ(小泉今日子)は、東京から夫の日出男(吉岡秀隆)を連れて帰るとすぐに、病気で亡くなってしまう。三女の月美(ミムラ)は面倒な店の経営から逃げるため、さっさと嫁いでいた。
年の瀬もせまったある日、笑子バアさん(片桐はいり)の前に死んだはずのナスミが現れ、あるメモを見つけて欲しいと言う。ケーキ、懐中電灯、四葉のクローバー、光太郎……ナスミの文字でメモに残された脈絡もない7つの言葉。このメモをきっかけに騒動が巻き起こる…。

この「光太郎」が「高村光太郎」なのかどうか、わかりません。とりあえず今夜、視聴してみます。

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改めまして、新年明けましておめでとうございます。今年も高村光太郎・智恵子、光雲の世界を広めるため、さまざまな情報をご提供して参りますので、よろしくお願いいたします。


それ以外の部分では、昨年までの3年間、毎日、【今日は何の日・光太郎】シリーズで、その日にあった光太郎智恵子、光雲関連の出来事をご紹介していました。さすがに3年間でネタが苦しくなりましたので、今年は方向性を変えます。

というわけで、早速。

【折々の歌と句・光太郎】

年ごとに年はむかへつたぐひなき今年の年のいよよまさきく
昭和22年(1947) 光太郎65歳

彫刻家、そして詩人として名高い光太郎ですが、その生涯に数多くの短歌や俳句なども残しています。そこで、かつて『朝日新聞』さんに詩人の大岡信氏が約30年連載した「折々のうた」(第1回が光太郎の短歌でした)に倣い、一日一首・句ずつ、折々の光太郎作品を取り上げていく予定です。

さて、昭和22年(1947)、光太郎は花巻郊外太田村の山小屋で、2度目の新年を迎えました。移住当初は本阿弥光悦へのリスペクトから「昭和の鷹ケ峯」を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えでしたが、山林孤棲、独居自炊の生活の中で、自らの戦争責任を省察する毎日を送るうちに、ある意味ストイックな修行僧のような暮らしへと、その意義が変容していきました。

そうした中で生まれたこの一首。「まさきく」は「真幸く」。「幸せに」の意の副詞です。



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画像は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市、利根川河畔での初日の出です。

ほんとうに今年一年が「まさきく」あってほしいものです。


作品の表記は筑摩書房『高村光太郎全集』、そこに未収のものは当方編集の「光太郎遺珠」に従い、光太郎の年令は数え年で表記いたします。

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