2015年12月

一昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は9月から12月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。


9月2日(水) 名古屋市のメニコンアネックスにおいて、舞踊公演「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート1  あわい 愛~」が開催されました。10月5日(月)、「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート2  あわい 淡~」が追加公演されました。

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9月5日(土) 岐阜県関市中池公園内旧徳山村民家において、語り人あきと弦術師aokiによるユニット梅弦が「梅弦ワンマンコンサート」を開催、「智恵子抄」の朗読を行いました。
 同日、二本松市の現代詩研究会から文芸同人誌『現代詩研究 第75号』が発行されました。智恵子のまち夢くらぶ会長・熊谷健一氏の「「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」報告」が収められました。
 さらにこの日、元女優の原節子さんが老衰のため死去しました。95歳。昭和32年、東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で智恵子役を演じました。

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9月8日(火) 女優の宝生あやこさんが老衰で死去、97歳。昭和42年、松竹制作の映画『智恵子抄』で智恵子の母、長沼センを演じました。

9月12日(土) 筑波大学東京キャンパス文京校舎において、国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」が開催されました。第3部・討議で矢野千載氏(盛岡大学教授)による「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」の提言がありました。


9月13日(日) 山形市中央公民館多目的ホールにおいて、「山形大学特別プロジェクト いま、言葉を東北の灯(ともしび)に 第8回山形大学高校生朗読コンクール」が開催されました。課題は「智恵子抄」でした。
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9月18日(金)~22日(火) 福島県いわき市のワタナベ時計店特設ギャラリー「ナオ ナカムラ」において、「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会今日も きこえる」 が開催されました。共に映像作品を主とする現代アート作家で、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を、光太郎詩「あどけない話」にからめたメッセージ性溢れるものでした。

9月18日(金)~12月20日(日) 栃木県佐野市の佐野東石美術館で、「木彫の美―高村光雲と近現代の彫刻―」展が開催され、光雲木彫「牧童」「狛犬」が展示されました。

9月19日(土) 晶文社から『吉本隆明全集10[1965‐1971]』が刊行されました。春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録しています。

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9月19日(土)~11月8日(日) 神奈川県平塚市美術館に於いて企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。光太郎油彩画「静物(瓶と果物)」「渡辺湖畔の娘道子像」が展示されました。

9月19日(土)~11月29日(日) 和歌山県高野山霊宝館において、光雲作の金剛峯寺秘仏本尊薬師如来像の頭部試作品が展示されました。

9月20日(日) 二本松市智恵子の生家近くの智恵子純愛通り石碑前で、智恵子純愛通り記念碑第7回建立祭が開催されました。地元小中高生による朗読等が行われました。

9月26日(土) FTV福島テレビで「いっしょに歩こう―ふくしま・わがまま!気まま!旅気分 愛か、お笑いか⁉初恋カップルIN福島~城下町・二本松の旅」が放映されました。出演、タレント・白鳥久美子さん他。智恵子生家等で撮影が行われました。10月3日、BSフジで全国放映されました。

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10月1日(木) NHK出版より『NHKテレビテキスト 趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門』が刊行されました。11月放映の同名のテレビ番組テキスト。「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×高村智恵子」が収められました。
 同日、無明舎出版から成田健著『「智恵子抄」をたどる』が刊行されました。地方紙『北鹿新聞』に連載されたものの単行本化です。
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10月2日(金) 光太郎詩に自作の曲を附けて歌うモンデンモモの東北ツアー「モンデンモモ日本を歌う!/モンデンモモ 智恵子抄を歌う!」が始まりました。2日(金)、秋田県鹿角市旧関善酒店特設ステージ、3日(土)、二本松市鐵扇屋酒蔵。これに合わせてCD「モンデンモモの智恵子抄」がリリースされました。

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10月3日(土) 『産経新聞』にコラム「日本の書〈37〉近代篇⑨高村光太郎「うつくしきものみつ」」が掲載されました。

10月4日(日) 二本松市らぽーとあだちにて、第21回レモン忌が開催されました。智恵子の里レモン会主催。特別講演は児童文学者・金田和枝さん。

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10月4日(日)~11月1日(日) 和歌山県の高野山金剛峯寺で、 金堂御本尊の秋の特別開帳が行われました。春に続き、秘仏である光雲作の薬師如来坐像の特別公開がありました。

10月9日(金) 京都外国語大学国際交流会館において、「日本ソロー学会創立50周年記念2015年度全国大会」が開催されました。記念シンポジウムで立正大学教授・齊藤昇氏「ソロー・野澤一・高村光太郎」の発表がありました。

10月9日(金)~11月10日(火) 光太郎の実妹・しづの孫にあたる山端通和夫妻が経営する鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」が開催されました。光太郎書作品、書簡等が展示されました。

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10月9日(金) 平成28年2月22日(月)迄の予定で、花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示です。

10月10日(土) 青幻社から『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』が刊行されました。平塚市美術館他で開催された同名の企画展の図録を兼ねています。

10月11日(日) 名古屋市のドルチェ・アートホールNagoyaで「作曲野村朗・フルート吉川久子 智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」が開催されました。

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10月12日(月) 二本松市市民交流センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」が始まりました。第1回は智恵子の里レモン会会長・渡辺秀雄氏「長沼家の家族とふるさと二本松」。

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10月14日(水) 秋田公立美術大学サテライトセンターで、公開講座【明治の彫刻と工芸性】が開催されました。光雲に触れました。講師は同大教授・志邨匠子氏でした。

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10月17日(土) 文治堂書店から、北川太一先生著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』が刊行されました。著者自選の随想集。随所で光太郎に触れています。

10月17日(土) 神奈川県立近代美術館鎌倉館で「鎌倉からはじまった 1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」がはじまりました。平成28年1月31日(日)まで。同館閉鎖に伴う最後の企画展で、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」、油彩画「上高地風景」が展示されました。

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10月23日(金) 講談社から清家雪子さん著の漫画『月に吠えらんねえ』第4巻が刊行されました。「第十七話 あどけない話」が収められました。

10月24日(土)~12月23日(水) 秋田県横手市の雄物川郷土資料館で、第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編~あの人はこんな字を書いていました~」が開催され、同市出身の画商・旭谷正治郎に宛てた全集等未収録の光太郎書簡が展示されました。

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10月24日(土) 平成28年3月13日(日)迄の予定で、埼玉県加須市のサトヱ記念21世紀美術館において、「生誕130年記念 斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」が始まりました。光太郎の戯画が描かれた与里書簡など、ヒユウザン会展関連の資料も多数展示されました。

10月27日(火) 平成28年2月15日(月)迄の予定で、盛岡市の盛岡てがみ館で第48回企画展「宮沢賢治を愛した人々」が開催され、同館所蔵の光太郎書簡5通が展示されました。

10月29日(木)・30日(金) 神戸アートビレッジセンター KAVCホールにおいて、舞踊「Tubular Bells」の公演が行われました。「智恵子抄」をイメージし、智恵子と彼女の幻影を対比的に描かれました。

10月29日(木)~31日(土) 世田谷区「劇」小劇場で、「J-Theater日本人作家シリーズ ドナルカ・パッカーン第一回公演2015年秋 「暗愚小伝」」が開催されました。作・平田オリザ氏。

11月2日(月) 女優の加藤治子さんが心不全のため死去しました。92歳。昭和37年、文化放送からオンエアされたラジオドラマ「智恵子抄」で、智恵子役を演じました。

11月3日(火) NHKEテレで、「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第五回「高村光太郎×高村智恵子」が放映されました。ナビゲーター、書家・石川九楊氏、女優・羽田美智子さん。再放送、11月5日(木)、11月10日(火)。

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11月8日( 一橋大学一橋講堂、シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-が開催されました。

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11月14日(土) 十和田市主催で、友好都市花巻を訪れる「花巻探訪ツアー」が開催され、十和田市民が花巻高村光太郎記念館、高村山荘などを訪れました。
 同日、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった画家・藤田嗣治を描いた映画「FOUJITA」が封切られました。小栗康平氏監督、オダギリジョーさん主演。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中で使用されました。

11月15日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第2回が開催されました。講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭・小島喜一氏、題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。

11月17日(火)~12月20日(水) 愛知県碧南市003藤井達吉現代美術館で、企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。9月~11月の平塚市美術館に続いての巡回で、平塚で展示された2点に加え、光太郎油彩画「日光晩秋」も展示されました。

11月21日(土) 文京区アカデミー音羽で第60回高村光太郎研究会が開催されました。発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」、高村光太郎研究会員・西浦基氏「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」。

12月11日(金)~13日(日) 大阪市ABCホールに於いて、劇団レトルト内閣 第24回本公演「まことに神の造りしをんな―智恵子抄―」が公演されました。作・三名刺繍氏。

12月20日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第3、4回が開催されました。題はそれぞれ「松井昇と太平洋画会研究所」(講師、太平洋美術会員・坂本富江さん)、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」(講師、当方)でした。

12月24日(木) 浪曲師の国本武春さんが亡くなりました。55歳。NHK Eテレで放映中の「にほんごであそぼ」で、「うなりやベベン」として、たびたび光太郎詩に曲をつけた作品を披露なさいました。


というわけで、今年一年、実にいろいろなことがありました。いろいろな方が、いろいろな分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、ありがとうございました。

来年以降も引き続き、この世界がもっともっと広がっていくことを願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月31日

昭和39年(1964)の今日、東京宝塚劇場で開催された「第15回NHK紅白歌合戦」で、二代目コロムビア・ローズさんが「智恵子抄」(作詞・丘灯至夫、作曲・戸塚三博)を歌いました。

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二代目コロムビア・ローズさん。昭和37年に「白ばら紅ばら」でデビュー、「智恵子抄」でブレイクし、紅白歌合戦出場を果たしました。当時は紅白に出る、というのは大変なことでした。現在は米国・ロサンゼルスにお住まいで、時折日本に帰ってきてテレビ出演等をされています。

今年3月には、「コロムビア・ローズ三代そろい踏み」 ということで、中野サンプラザで開かれたコンサート「コロムビア大行進2015」で、初代、三代目のコロムビア・ローズさんと共演なさいました。

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さて、このブログ、一昨年は【今日は何の日・光太郎】、昨年は【今日は何の日・光太郎 補遺】、そして今年は【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、まる3年間、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介して参りました。

どうにもネタが見つからず、周辺人物の話になったり、日常の些細な出来事を取り上げたりもしましたが、365日×3年間=1,095件をご紹介する事ができました。

さすがにこれ以上は無理です。来年以降は別の方向性で行きますので、お楽しみに。

昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は5月から8月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

5月6日(水) 大田区のライブハウス・風に吹かれてに於いて、シンガーソングライター潮見佳世乃さん演奏の「歌物語コンサート 智恵子抄」が開催されました。

5月15日(金) 岩手花巻の高村山荘敷地で第58回高村祭が開催されました。特別講演は当方の「高村光太郎と花巻・山口」でした。

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同日、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(前期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示でした。9月28日(月)まで。

また、花巻高村光太郎記念会より佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』が復刻されました。元版は昭和37年(1962)でした。

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やはり同日、日本古書通信社から月刊で発行されている『日本古書通信』第1030号で、廣畑研二氏「幻の詩誌『南方詩人』」の連載が始まりました。鹿児島の詩誌『南方詩人』に関しての調査で、これまで知られていなかった光太郎の翻訳等が掲載されていたことが報じられました。8月15日発行の第1033号まで連載されました。

5月17日(日) 仙台市Jazz Me Blues Nolaにおいて、「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」」の公演が行われました。ヴァイオリン・佐藤実治氏、朗読・荒井真澄さんでした。

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5月25日(月) 幻戯書房から奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』が刊行されました。「パンの会」会場にもなったメイゾン鴻乃巣店主・奥田駒蔵評伝。随所で光太郎に触れています。

5月25日(月)~8月16日(日) 武蔵野美術大学美術館に於いて「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が開催されました。1月~4月、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにて開催されたものの日本巡回。日本展では、木彫「白文鳥」、東京国立近代美術館及び台東区朝倉彫塑館所蔵の、二種類のブロンズ彫刻「手」(ともに光太郎自身が台座を木彫で制作したもの)が展示されました。ブロンズ部分を取り外して撮影された珍しい写真を含む図録が刊行されました。

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5月27日(水)~31日(日) 千葉県流山市の生涯学習センターで「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」が開催されました。「参考借用陳列敬仰作品」に、明治末と推定できる光太郎の未知の短歌が記された短冊(神田玉川堂さんの所蔵)が出品されました。

5月31日(日) NHKEテレで「日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道」が放映されました。再放送、6月7日(日)。

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6月6日(土) 福島二本松市の智恵子生家で、智恵子の部屋を含む通常非公開の2階部分限定公開が始まりました。8月23日(日)まで、10・11月と平成28年2月の土日祝日に実施されました。

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6月9日(火) 静岡沼津の地方紙『沼津朝日』に「沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す」という記事が掲載されました。坂本富江さんによる沼津での大正年間の智恵子足跡調査を報じています。

6月16日(火) 『朝日新聞』の東北版に「戦争協力、自ら罰した光太郎」と題する記事が掲載されました。同紙北上支局長・石井力氏の執筆でした。

6月17日(水)~21日(日) 東京芸術劇場ギャラリー1に於いて、「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」が開催されました。東京精神科病院協会主催。智恵子の紙絵(複製)、書簡類などの関連資料が展示されました。図録には北川太一先生の「智恵子の場合」が収められました。

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7月1日(水) 青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』に「特集 十和田湖再発見」が組まれ、「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」について詳しく紹介されました。

7月7日(火) 虹の会より文芸同人誌『虹』第6号が刊行されました。豊岡史朗氏「〈高村光太郎論〉晩年」が収められました。

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7月26日(日) 仙台に本社を置く東北の地方紙『河北新報』に「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事が掲載されました。

7月29日(水) 十和田湖畔の観光交流センターぷらっとにおいて、「「乙女の像」でつながる花巻市太田地区のみなさんと十和田湖関係者との交流会」が開催されました。十和田市と花巻市が友好都市交流を行っている縁で、光太郎が戦後の七年間を暮らした旧太田村の太田地区振興会が十和田湖を訪問、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなどがこれを迎えました。

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7月30日(木) 晶文社から、森まゆみ氏著『「谷根千」地図で時間旅行』が刊行されました。古地図や絵図などを読み解くことで、光太郎ら千駄木周辺で生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトでした。
 同日、文芸同人誌『青い花』第四次81号が発行されました。宮尾壽里子氏「「第59回連翹忌」に参加して」を収めています。

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8月3日(月) BSフジで「発掘!歴史に秘めた恋物語〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されました。ゲストコメンテーターは、詩人・郷原宏氏、女優・石田えりさん。北川太一先生、智恵子の里レモン会副会長・根本豊徳氏らがビデオ出演しました。

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8月7日(金) 紅書房から星野晃一編『多田不二来簡集』が刊行されました。詩人・多田不二のもとに寄せられた、光太郎からの5通を含む各界著名人194名からの書簡集です。

8月9日(日) 宮城県女川町きぼうのかね商店街で、第24回女川光太郎祭が開催されました。町内外の人々による朗読、当方による記念講演、北川太一先生の講話などが行われました。

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8月18日(火)~31日(月) 千葉県勝浦市芸術文化交流センター・キュステにおいて、第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」が開催され、千葉県立美術館所蔵の光太郎ブロンズ6点が展示されました。

8月19日(水) 『東京新聞』の千葉中央版に「〈九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年〉智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い」が掲載されました。

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8月24日(月)~10月30日(金) ノエビア銀座ギャラリーにて、銅版画家山本容子さんの「山本容子のアーティスト図鑑」展が開催されました。雑誌『本の話』(文藝春秋)の表紙画として作成されたアーティストの肖像画32点が並び、光太郎と智恵子のそれも展示されました。

8月28日(金) 書肆心水から『異貌の日本近代思想1』が刊行されました。「高村光太郎……美と生命/日本美の源泉」を含みます。


明日は最終回的に、9月から12月篇をお届けします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月30日

平成9年(1997)の今日、元花巻高村記念会事務局長、浅沼政規が交通事故で歿しました。

浅沼は宮澤賢治の教え子で、戦後、光太郎がいた頃の太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。

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ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。

早いもので、今年もあと残すところ3日となってしまいました。

今日から3日間、4ヶ月ずつ区切って、今年あった光太郎智恵子000、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

1月2日(金) 台東区東京国立博物館内の黒田記念館が、約三年間かけての耐震工事を終え、リニューアルオープンしました。二階黒田記念室入り口には、昭和7年、光太郎作の黒田清輝胸像が再び据えられました。

1月10日(土) NHKEテレにて、「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回吉本隆明」が放映されました。当会顧問・北川太一先生がビデオ出演し、吉本と光太郎について語りました。再放送、17日(土)。

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1月16日(金)~19日(月) 兵庫県伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて、劇団青年団主催の演劇公演「暗愚小伝」が行われました。作・平田オリザ氏。光太郎が主人公。前年10月の東京公演の地方巡回でした。22日(木)~24日(土)、香川善通寺市四国学院大学ノトススタジオに巡回公演されました。

1月17日(土)~3月22日(日) 福島県いわき市立草野心平記念文学館で、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎往復書簡にみる交友」が開催されました。戦後、光太郎と心平の間に交わされた四十通余りの往復書簡、心平「高村光太郎病床日記」他が展示されました。

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全く同一の日程で、群馬県立土屋文明記念文学館において、第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」が開催され、光太郎書も展示されました。2月15日(日)、記念講演会「編集者の仕事とは」。講師・石原正康氏(幻冬舎取締役兼専務執行委員編集本部本部長)。

1月28日(水)~4月19日(日) 英国リーズ市ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて、武蔵野美術大学との共催による「A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。光太郎彫刻「白文鳥」「手」、他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎の作品が展示されました。

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1月31日(土) 東洋出版社から『未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動』が刊行されました。全国連合退職校長会編。光太郎が卒業生である荒川区第一日暮里小学校の元校長・天野英幸氏「バトンを繋ぐ」を収めます。学校図書館の活用により、6年生の総合的な学習の時間に於ける、先輩・光太郎についての調べ学習や、全校生徒による光太郎詩の群読などについて述べられています。

2月9日(月) NHKBSプレミアムで、「にっぽん百名山 安達太良山」が放映され、「智恵子抄」に触れられました。再放送、15日(日)、19日(木)。

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2月11日(水) NHK総合テレビで「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されました。北川太一先生、作家・津村節子氏、太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんらがビデオ出演しました。司会、渡邊あゆみさん。再現ドラマの部分は、光太郎役を鈴木一真さん、智恵子役を前田亜希さんが演じました。再放送、2月18日(水)、11月4日(水)。

2月14日(土) ネイチュアエンタープライズから山岳雑誌『岳人』第813号が刊行されました。特集「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」。当方執筆の「高村光太郎と智恵子の上高地」を含む他、草野心平、尾崎喜八等にも触れています。

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2月20日(金) 八木書店から日本近代文学館編『近代文学草稿・原稿研究事典』が刊行されました。「第四部 作家的事例」で、群馬県立女子大学教授・杉本優氏が光太郎の項を担当しました。

2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館で、「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」が開催されました。前年4月から日本橋三井記念美術館他で開催された展覧会の地方巡回。光雲作「西王母」「法師狸」の木彫二点が展示されました。郡山市立美術館(4月21日(火)~6月14日(日))、富山県水墨美術館(6月26日(金)~8月16日(日))、岐阜県現代陶芸美術館(9月12日(土)~12月6日(日))にも巡回しました。

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2月21日(土)〜5月17日(日) 京都市の清水三年坂美術館で、企画展「明治の彫刻」が開催され、光雲木彫「聖観音像」「月宮殿天兎」「老子出関」「西行法師」が展示されました。

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2月25日(水) ハーツ&マインズから品川区の地域情報誌『月刊おとなりさん』第380号が刊行されました。「特集 智恵子 愛と芸術の生涯」を収めています。

3月1日(日) 『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第四十三号』が発行されました。佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の短歌と美術評論 ―留学直後の作品を中心に―」を収めています。

3月10日(火) 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会編刊『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されました。平成25・26年度、十和田市づくり市民活動支援事業の助成により、建立から60年を経た「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の背景を多方面からまとめたもの。当方が監修と一部執筆を担当させていただきました。

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3月12日(木) 現代企画室から『少女は本を読んで大人になる』が刊行されました。クラブヒルサイド+スティルウォーター編。平成25年から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたもの。彫刻家・舟越保武の長女、末盛千枝子さんの「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」を含みます。

3月20日(金) 日本近代文学館から『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』が発行されました。上智大学教授小林幸夫氏「〈軍服着せれば鷗外だ〉事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎」を含みます。

3月21日(土)~6月21日(日) 宮内庁三の丸尚蔵館において、「第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」が開催され、光雲木彫「松樹鷹置物」「矮鶏」が展示されました。

4月1日(水) 東京国際芸術協会から、野村朗氏作曲『連作歌曲智恵子抄~その愛と死と~』楽譜集が刊行されました。森山孝光、康子夫妻演奏による同曲のCDも同日発行されました。

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4月2日(木) 第59回連翹忌が、日比谷松本楼に於いて開催されました。

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この日、『光太郎資料43』が参加者に無料配布されました。当会の刊行です。

また、高村光太郎研究会より『高村光太郎研究36』が刊行されました。北川太一先生「高村光太郎・最後の年 1月⑵」、山田吉郎氏「高村光太郎と雑誌『創作』―自選短歌を中心に」、坂本富江さん「詩人野澤一という人―そして高村光太郎との関係性―」、当方執筆の「光太郎遺珠⑩」「高村光太郎没後年譜」、野末明氏「高村光太郎文献目録」「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

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同日、文治堂書店から、北川太一先生の『ヒユウザン会前後―光太郎伝試稿―』が刊行されました。『高村光太郎研究』連載の単行本化です。

やはり同日、岩手花巻でも、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くで詩碑前祭、松庵寺にて花巻連翹忌が開催されました。

さらに同日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺で、開創千二百年記念大法会が始まりました。これまで開帳された記録が残っていない、高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来像(光雲作)の特別開帳が行われました。5月21日(木)まで。

この日はいろいろ重なり、港区の増上寺でも、新たに宝物展示室がオープンしました。光雲が監修に名を連ね、東京美術学校が制作した英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」(徳川二代将軍・秀忠霊廟)が展示されています。明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品されたものです。

4月16日(木) 墨田区すみだトリフォニーホールに於いて「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」が開催され、森山孝光、康子夫妻により、野村朗氏作曲『連作歌曲智 恵子抄~その愛と死と~』が演奏されました。

4月20日(月) 小学館より石川拓治氏著『新宿ベル・エポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン』が刊行されました。中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻、碌山荻原守衛を中心とし、光太郎にも触れています。

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4月22日(水) 碌山美術館より『荻原守衛書簡集』が刊行されました。守衛の書簡約百五十通、光太郎を含む守衛宛の書簡が、原本が残る物は全て写真付で収められています。

4月28日(火) 花巻高村光太郎記念館がリニューアルオープンしました。平成25年5月から、元の花巻市歴史民俗資料館を改装し、暫定オープンしていたものが、全面的な改修工事を行い、展示室面積はおよそ2倍となりました。

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4月30日(木) 邑書林からわたなべじゅんこ氏著『歩けば俳人』が刊行されました。光太郎を含む十五名の文化人の俳句に言及しています。

明日は、5月~8月の出来事を。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月29日

平成16年(2004)の今日、東海テレビ・フジテレビ系で放映されていた昼の帯ドラマ「愛のソレア」が最終回を迎えました。

荻野目慶子さん主演。東海テレビさん制作のいわゆる「ドロドロの昼ドラ」です。昭和30~50年代を舞台とし、随所に光太郎の詩が用いられました。

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昨日まで延々と約一週間、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしてきました。その間に全国の新聞各紙で光太郎智恵子の名が出ていますので、ご紹介します。 

まずは『長崎新聞』さんの一面コラム。 

水や空 言うまいと思えど…

「You might think but today 's some fish.」。冬が来るたびに中学時代のある日の英語の授業を思い出す。黒板にこう書いた先生がニヤリと笑って「和訳してごらん」▲広く知られる言葉遊びらしい。正解は「言うまいと/思えどきょうの/寒さかな」...。めったに冗談など言わないタイプの人だったから、あ、笑うところか、とクラスの皆が気づくのに、微妙な間が空いたことまで覚えている▲「暖冬」の予測がなかったか、と思わず記憶を確認したくなるような「言わずにいられない寒さ」がここ数日続いている。秋の気温が高めだったことも、いくらか体感には影響しているだろうか▲この季節を「きりきりともみ込むような」「人にいやがられる」「草木に背かれ、虫類に逃げられる」と表現したのは高村光太郎。こちらは国語の教科書が懐かしい▲凡人のわが身は「僕に来い、僕に来い」「しみ透(とお)れ、つきぬけ」と、厳しさを迎え撃つ心境にはなれない。でも、春がうれしいのは、冬の向こう側にあるから、ということぐらいは分かる。受験生はいよいよスパートの頃か▲あすは冬至。一年で最も昼が短いこの日を「冬が至る」と名付けた先人のセンスに脱帽しつつ、それぞれの春を目指す皆さんにエールを送る。(智)
(2015/12/21)

めっきり「冬」となりました。


続いて、同じ日の『朝日新聞』さんの「朝日俳壇」。

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「レモン香る智恵子の空を見しことも」 (東京都)大澤都志子

清々しいレモンの香りは、冬の凛とした空気によく似合うような気がします。


さらに同日の『福島民友』さん。過日の「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々」第3、4回の模様を報じています。

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12月23日には青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム。 

天鐘

 奥入瀬渓流の名所・銚子大滝の近くに詩人佐藤春夫の作品を刻んだ岩が残る。「おちたぎり急ぎ流るるなかなかに…」。渓流の美しさをたたえた長歌「奥入瀬谿谷(けいこく)の賦(ふ)」の返歌だという▼詩碑は国立公園指定15周年を記念し、湖畔休屋に立つ高村光太郎の「乙女の像」と同じ1953年10月21日に除幕された。今では十和田湖のシンボルとなった一対の裸婦像とは対照的に、詩碑は見ることも難しい▼遊歩道からほど近い場所なのに、岩は草木に覆われてしまい、苔(こけ)むして文字が容易に判別できない。何より詩碑の位置確認を困難にしているのは、自然保護の観点から、近づかないように規制されているためだ▼同じ理由からだろうか。環境省は、奥入瀬渓流の石ケ戸付近で以前は見られなかった藻が2年ほど前から急激に増えているという市民団体の指摘に対し、自然現象として推移を見守る構えだという▼小紙の報道によれば本格的な調査をしておらず、どんな藻なのか特定されていない。生態系に害を及ぼす恐れのある特定外来生物に指定されている植物は13種。その中にはオオフサモという藻もある▼幸い、奥入瀬渓流の藻は特徴が異なり、該当しないようだ。それでも、環境省が植生の変化に無頓着でいいはずがない。単に時の流れに委ねるなら無為無策のそしりは免れない。些細(ささい)な変化を見逃して手遅れの事態を招く愚挙だけは避けたい。


記述があるとおり、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と同じ日に除幕され、光太郎もその除幕式に立ち会った佐藤春夫の碑に関してです。

昨年、当方も現地に行きました。たしかにもはや石碑であることすらわからない状態です。しかし、当の佐藤春夫はそうなるならそれはそれでいい、的な発言をしていました。

自然保護の観点がからみ、難しい問題ですね。



訃報も出ました。 

浪曲師の国本武春さん死去 「うなるカリスマ!」

 「うなるカリスマ!」で知られる浪曲師で、NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」出演でも親しまれた国本武春(くにもと・たけはる、本名加藤武〈かとう・たけし〉)さんが24日、脳出血による呼吸不全のため亡くなった。55歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。

 千葉県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、1981年に東家幸楽に入門した。曲師が弾く三味線を伴奏に演目を語る従来の浪曲にとどまらず、三味線の弾き語りのスタイルで活躍。浪曲界の牽引役(けんいんやく)の中核だった。2000年には芸術選奨文部大臣新人賞を受賞し、テレビや舞台にも数多く出演した。日本浪曲協会副会長も務めた。

 10年12月、公演中に意識を失って入院。リハビリを経て5カ月後に舞台に復帰したが、今月、脳出血で救急搬送され、休養していた。

 代表作は古典「赤穂義士伝」、三味線弾き語りでは「ザ・忠臣蔵」シリーズなど。
(『朝日新聞』 2015/12/24)
 

浪曲師、国本武春さん死去 55歳

 浪曲師の国本武春氏(くにもと・たけはる、本名・加藤武=かとう・たけし=)が24日、急性呼吸不全のため死去した。55歳。通夜、葬儀・告別式は近親者による密葬、後日、東京都内でお別れ会を行う予定。喪主は妻、桂子(けいこ)さん。

 12日の公演リハーサル中に脳出血を起こし、治療中だった。浪曲師の母の勧めで、三味線を学び、昭和56年東家幸楽に入門し浪曲師に。「忠臣蔵~殿中刃傷編」が十八番。三味線の弾き語りで、ロックやバラードを演奏。忠臣蔵や民話・昔話などを題材にしたオリジナル作品を数々発表した。ブロードウェイ・ミュージカル「太平洋序曲」(宮本亜門演出)に出演するなど幅広く活動した。NHK・Eテレの子供番組『にほんごであそぼ』にも出演、うなりやベベン役で子供から人気を集めた。平成11年度第50回芸術選奨文部大臣新人賞、13年度花形演芸大賞など受賞。日本浪曲協会副会長。
(『産経新聞』 2015/12/24)


つい最近、今月放映されたNHKさんの「にほんごであそぼ」でも、光太郎の詩に曲をつけた「ベベンの冬が来た」の演奏が放映されました。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月28日

昭和27年(1952)の今日、ブロンズ彫刻「腕」の箱書きをしました。

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作品自体は大正7年(1918)のものですが、戦後になって、画商が箱書きを頼みにやってきました。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしておりますが、今回で終わります。

今回、まずは智恵子と同じく東北出身で、智恵子と深く関わった人々をご紹介します。

服部マス(明治11年=1878~昭和23年=1948)003。智恵子の恩師です。明治30年(1897)、智恵子は故郷・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科に進みますが、同じ年、福島師範学校を卒業した服部も油井小学校に赴任、智恵子の唱歌の授業を担当しました。明治33年(1900)には二本松小学校に転任しましたが、翌34年(1901)、日本女子大学校が開校するや、退職して国文学部に一回生として入学しました。

マスが三年生になった時、智恵子が福島高等女学校を終えて同校普通予科に入学。これに際し、服部は進学許可を渋る智恵子の両親に説得の手紙を書いたといいます。智恵子の両親も「服部先生が通っている学校なら……」と、進学を認めました。

卒業後は北京予教女学堂、奉天女子師範学堂に勤務。帰国後、大正11年(1922)頃から中華民国留学学生援護機関日華学会理事、中国留 日女子学生寮寮監を務め、「中国人留学生の母」と称されました。


幡ナツ(旧姓・小松 明治19年=1886~昭和37年=1962)。智恵子と同じ家政学部四回生でした。二本松に隣接する本宮町出身で、卒業後すぐ、福島市明治病院長・幡英二と結婚しました。明治42年(1909)、卒業後も智恵子が住んでいた女子大学校楓寮が閉鎖となり、住む所に困っていた智恵子を、自身が下宿していた日本画家・夏目利政宅に住まわせました。

明治45年(1912)、智恵子が福島の明治病院に滞在。ここで絵を描いたそうです。智恵子はこの年、太平洋画会展覧会に油絵「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品しており、それかもしれません。明治病院さんには、ほぼその当時のまま中庭が残っていて、「高村智恵子ゆかりの中庭」として整備されています。

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左から智恵子、幡英二、ナツ。ナツが抱いているのは長男・研也です。さらにその子息の研一氏は、昨年の智恵子命日の集い、レモン忌にご参加下さいました。

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野村ハナ(旧姓・橋本 明治21年=1888~ 昭和無題43年=1968)。岩手県出身。教育学部二回生(同部は遅れて開設されたため、他学部で云うと七回生に当たります)。智恵子のすぐ下の妹、セキと同級生でしたが、セキより智恵子と仲良くなったと云うことです。帰省や上京の際には、福島の智恵子の実家に寄って泊まることがあったそうです。

同郷の、「銭形平次」シリーズ作者で、音楽評論家でもあった野村胡堂と一大ラブロマンスを経て結婚しました。その際に智恵子がハナの、金田一京助が胡堂の介添えを務めました。胡堂は絵の才能もあり、智恵子がそれを担当するようになる前、女子大学校名物の「文芸会」(文化祭的な)の演劇の背景画を頼まれて描いたそうです。それが智恵子の役目となり、「彼氏の仕事を奪ってしまったわね」と、智恵子とハナは笑いあったとのこと。

また、血のつながりはないそうですが、花巻の宮澤家と遠縁で、赤ん坊の頃の賢治をだっこしたこともあるそうです。


長沼セキ(明治21年=1888~昭和50年頃=1975頃)。智恵子の004すぐ下の妹で、野村ハナと同じく教育学部二回生でした。明治43年(1910)に卒業、大正4年(1915)、児童学研究 の名目で渡米します。その間も郷里に帰らず、東京にいましたが、何をして生活していたのか不明でした。しかし、徐々にわかってきました。

まず、明治45年(1912)7月の、東京高等女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の卒業生名簿にセキの名を見つけました。日本女子大学校を終えたあと、入学し直したようです。

また、同じ年には博文館から発行されていた少女雑誌『少女世界』に少女小説を寄稿しています。同じ雑誌の別の号には、智恵子の絵も掲載されています。

さらに、前後しますが、明治43年(1910)、日本女子大学校の同窓会である桜楓会編集部会報『桜楓会通信』の編輯員に任命、という記録も見つけました。

大正2年(1913)、智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野ヤス の婚家(静岡・沼津)で、漱石門下の小宮豊隆(妻子あり)の子を出産。渡米は日本に居づらくなってのことだったと思われます。彼の地で日本人移民と結婚、二子をもうけ、昭和50年(1975)頃歿したそうです。

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セキと野村ハナが一緒に写った写真もありました。中央がセキ、右が野村ハナです。

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宮崎千代(生没年不明)。家政学部一回生。山形米沢出身。弟の省吾は光太郎も参加したヒユウザン会(のちフユウザン会)に所属した画家でした。同じ東北、ということで智恵子と親しくなり、大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席しています。智恵子から千代宛の書簡5通が現存しており、貴重な資料です(智恵子書簡は70通たらずしか見つかっていません)。


その他、東北出身ではありませんし、これまでにご紹介して005きた『青鞜』や桜楓会本部ともほとんど関係ない、しかし智恵子と関わった女子大学校出身者をざっと紹介します。

永野初枝 家政学部三回生
 明治42年(1909)、楓寮解散後、一時期、智恵子を自宅に下宿させる。右の画像は『花紅葉』第7号、明治42年(1909)より。

秋広あさ子 中退のため卒業生名簿に記載なし 学部等不明
 明治36年(1903)当時、女子大学校自敬寮で智恵子と同室。智恵子の女子大時代のエピソードの大半は、秋広の回想による。ゼームス坂病院入院前の智恵子を見舞う。昭和21年(1946)、義子と孫が花巻郊外太田村の光太郎を訪問。光太郎晩年まで文通。

旗野八重 国文学部四回生
 歴史地理学者・吉田東伍の姪。智恵子と親しかった。卒業直後、病没。

佐藤澄子 家政学部七回生
 旧姓旗野。八重の妹。在学中、松井昇の助手として勤務していた智恵子に画を教わる。大正2年(1913)、新潟の実家に智恵子を招いて共にスキーに興じた。大正5年(1916)にも智恵子は旗野家別荘に滞在(下写真)。
 のち、立川農事試験場長佐藤氏(姉も女子大学校四回生)と結婚。光太郎詩「葱」のモチーフとなる。智恵子歿後の戦時中には光太郎を援助。

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藤井勇(ゆう) 英文学部四回生
 大正元年(1912)、智恵子、セキとともに、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼へ同行。

廣瀬さき 家政学部五回生
 明治39年(1906)、文芸会の背景を描く智恵子の助手を務めた。

内田龍子
  光太郎と交流のあった真壁仁による「高村智恵子の一生」(『高村光太郎と智恵子』  草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959)に、在学中の智恵子と自敬寮で一緒だったとして紹介。卒業生名簿に「内田龍子」名なし。国文学部三回生・山本龍か?


この他にも情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。特に「うちのばあさんが智恵子さんと親しかったので、手紙や写真が残っている」などは大歓迎です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月27日

昭和4年(1929)の今日、『東京朝日新聞』読書欄に散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」を発表しました。

「ホヰツトマン」はアメリカの詩人、ウォルター・ホイットマン。光太郎は大正10年(1921)、ホイットマンの『自選日記』翻訳を叢文閣から刊行するなど、彼に傾倒していました。

この年11月、長沼重隆訳のホイットマン詩集『草の葉』が刊行され、それを受けて書かれました。書き出しはホイットマンに傾倒していた光太郎らしく、「ブラボオ! と叫びたい事がある」としています。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の中心にいたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と浅からぬ縁のある人物がいろいろいます。

小橋三四子(みよこ 明治16=1883~大正10031=1922)。国文学部卒、一回生です。

卒業後、桜楓会の機関誌『家庭週報』の編集に携わりました。その後もその経験を生かし、女性編集者として活躍し、『読売新聞』記者を経て、雑誌『婦人週報』を創刊します。広岡浅子の薫陶を最も強く受けた一人で、浅子の随筆集『一週一信』の編集にも携わっています。

光太郎と智恵子を結びつけるのにも一役買っています。智恵子は明治末頃、いろいろな先輩芸術家に話を聴くと云うことを繰り返していましたが、その中で、雑誌『スバル』に「我が国初の印象派宣言」とも云われる評論「緑色の太陽」を発表した光太郎にも眼をつけ、小橋に相談。小橋はさらに同じ国文学部一回生だった柳八重に話を持って行きます。八重の夫・敬助は、画家で、明治39年(1906)、アメリカ留学中に光太郎と知遇を得ていました。

そういうわけで、柳八重(旧姓・橋本 明治16=1883004~昭和47=1972)。小橋とともに『家庭週報』の編集に携わり、やはりその後も女性編集者として活躍しました。

明治44年(1911)末、小橋から頼まれた八重は、駒込林町の光雲宅に居候していた光太郎のもとに、智恵子を伴います。これが光太郎智恵子、二人の運命的な出会いでした。

その後も、夫・敬助と共に大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席していますし、夫婦ぐるみでの交際が続きました。

光太郎智恵子、それぞれが八重に宛てた書簡が複数残っています。以下は結婚披露直後のもの。

拝啓 この間はお忙かしい中をおいで下さつて恐入りました それに美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別ニあなたにお礼を申さねばならない様な気がします 今度は結婚といふ事についていろんな事を考へました 此から少しは落ちついて製作の出来る様になればいいと思つて居ます 何れ又お目にかかつて御礼を申し上げますが取りあへず手がみにて 二十七日 高村光太郎 柳八重子様
(大正3年=1914 12月27日 光太郎から八重)

 お目出度う存じます
 どうぞ相変りませず御願ひ申上げます
 旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます その御礼をも申上げませんうちまたこの程わざわざ御光来被下重ねがさね恐れ入りました あのバタは新らしくてほんとにバタらしいにほひです ありがたう存じあげます そのうち是非御伺ひ申上様と存じて居ります 御主人様御母上様にも何卒よろしく御願ひ申上げます 先づは幾重の御礼かたがた御わびまで早々申上ました
智恵
 柳八重子様
  どうぞまた御ゆるりと御越を願ひます
(大正4年=1915 1月3日 智恵子から八重)

微笑ましいですね。


今回、市民講座の講師を仰せつかって、小橋と八重、二人についても改めて調べたところ、こんな評を見つけました。

 柳八重子、(旧橋本)(三十一)は国文科一回の出で、今は西洋画家柳氏の令閨である。在学中校内評判の美文韻文家として、其艶麗な筆は今も尚ほ母校の語り草になつてをる。
 小林(注・小橋の誤り)三四子(三十)八重子と同期同科の卒業生で、桜楓会から発刊する家庭週報に毎号掲げる論文の巧みなのは、校中に比較する者なく、前者の美文に対し後者の論文は供に双璧の噂さ専らにて、尚ほ永く人の記憶に残るであらうとのこと。
(平元兵吾著『八大学と秀才』 大正元年=1912より)005

二人が編集に携わり、さらに智恵子も詩文を寄稿している『家庭週報』についても、こんな評がありました。

 特に注意すべきは桜楓会家庭週報が単に卒業生五名の手によりて毎週発刊せられつゝあることにして、欧米の諸大学に於ては日刊をも発行し居るのに比すれば敢て珍しき事にはあらずと雖も、我帝国大学にすら学生の手になる日刊は愚か週刊すらなきに比すれば、才媛諸子の活動寔に敬服の外なし、況や其内容も整頓し、記事の明確なる等到底之が斯の如き少数女性の経営に成るものと信ずること能はざるの観あり、想ふに本邦に於て女子の経営する週報は実に之を以て嚆矢となす、
(雑誌『新日本』第四号 明治39年=1906 7月 「女子大学校と其桜楓会の活動」芙蓉子 より)

画像は『家庭週報』の広告です。

さらに井上秀(明治8年=1875~昭和38年=1963)も006外せません。

井上は、日本女子大学校第四代校長を務めました。在任期間は昭和6年(1931)~同21年(1946)です。家政学部一回生で、卒業後、欧米留学を経て明治43年(1910)から女子大学校教授を務め、桜楓会初代幹事長でもありました。

京都府立第一高女で、広岡浅子の娘・亀子(朝ドラ「あさが来た」では「千代」)と同窓。その関係で浅子に女子大学校進学を強く勧められました。入学時には既に既婚、子供もいたということです(そういう女性も特に珍しくはなかったと云うことですが)。小橋と共に浅子の薫陶を最も強く受けた一人です。

光太郎が成瀬仁蔵胸像を制作中に、アトリエを訪問していますし、昭和13年(1938)10月の智恵子葬儀に際し、女子大学校代表として参列してもいます。

智恵子の葬儀後の、光太郎から井上宛の書簡も残っています。

拝啓 先般妻智恵子死去の節は御多忙中を御会葬下され千万忝く存上候
このたびは智恵子の同期生諸姉を始め大方の御哀悼を辱うし難有事と存居候ところ中陰の期も追々すゝみ候については一々御答礼可仕筈に候へ共本人の素志もあり母校たる御校へ些少ながら金三百圓御寄附いたして一々の答礼に代へ度本来小生出頭可仕なれど略儀を以て右為替同封致候間御受納下され度奉願候
         敬具
     昭和十三年十一月三日                    高村光太郎
    日本女子大学校長 井上秀子様

光太郎との関わりは、戦後まで続いています。光太郎最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京してから、井上が光太郎に講演の依頼をし、実現しています。

 今、井上先生が僕についてエラク能書を申し上げたが、こんなに思われているとは考えなかつた。有り難いんだが。また面はゆい気もする。どうか皆さん、余り期待しないで聞いて下さい。期待しすぎると、期待はずれということがある。陰で考えるとそう悪くないが本物を見るとつまらない、こなければよかつた(笑)……こんなことになるかも知れない。

 元来、僕はしやべるのが苦手で、あまり人前ではしやべらないことにしている。それがこうしてのこのこ出て来なければならなかつたのは、亡くなつた妻の母校の校長さんをしておられた井上先生に頼みに来られたからである。井上先生に頼まれたんでは仕方がない。絶体絶命である。悪るい人がいてくれたもんだと思う。(笑)しかし考えてみればこれも縁で。機縁を尊ばなければならぬ。機縁を尊び、いたるところに種をまいてゆく。とすれば、しやべるということもまた一つの菩薩行であろう。自分も一生懸命勉強するが、人にも勉強させる。自分の勉強したところを独り占めしないで、人にも話す、自分の見出したもの、得たもの、或いは自分の苦しみや喜びを人にも訴える、これも人間の務ぢやないかと思う。僕は矢張り話す機会を与えて下さつた井上先生に感謝しなければならない。
(「炉辺雑感」 昭和28年=1953 6月1日発行『女性教養』第173号。「本稿は昭和二十八年二月二十八日 中山文化研究所婦人文化講座の講演筆記であります。」の前書きがある。)


もう一人、仁科節。智恵子の一学年下にあた007 (2)る国文学部五回生で、小橋や八重ののちに『家庭週報』編輯に携わりました。光太郎による成瀬仁蔵胸像制作に際し、実質的に光太郎とのパイプ役を務めたようです。その関係で駒込林町アトリエを訪問し、その様子は『家庭週報』に3回ほどレポートされています。

そのうち、昭和4年(1929)6月の第990号には、駒込林町のアトリエの写真も掲載されています。現存するアトリエ外観の写真は少なく、貴重なカットです。

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繰り返しご紹介していますが、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」。日本女子大学校設立に尽力し、開校後も学生や卒業生と交流が深かった広岡浅子が主人公です。今回ご紹介した小橋三四子や井上秀は、特に浅子と縁の深かった人物。おそらく「あさが来た」にも登場するでしょう。期待しています。


次回は最終回として、智恵子と縁のあった東北出身の同校卒業生をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月26日

平成21年(2009)の今日、地上波テレビ朝日系で「はぐれ刑事純情派 最終回スペシャル さよなら安浦刑事!命を懸けた最後の大捜査!  福島二本松、岳温泉に消えた、“母と呼べない息子”の連続殺人トリック! 人情刑事・安浦、衝撃の過去が明らかに!」が放映されました。

昭和63年(1988)に連ドラとして放映が始まり、平成17年(2005)で一旦終了。「必殺シリーズ」で伝説の殺し屋・中村主水を演じた故・藤田まことさんが、一転してヒューマニティーあふれる役どころで新境地を開きました。その後、スペシャル版として4本が制作された人気ドラマの最終回でした。

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悪人たちの罠に嵌り、殺人事件の容疑者にされた実は無実の青年――安浦刑事と旧知の仲――が、故郷の二本松に潜伏したという設定で、二本松でのロケが敢行されました。

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智恵子生家も登場。

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山手中央署の刑事さんたち、何故か観光スポットのみで聞き込み捜査(笑)。

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二本松市や岳温泉観光協会さんのバックアップなので(笑)。

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クライマックスは岳温泉に近い岳ダムでした。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、雑誌『青鞜』に関わった日本女子大学校出身者について。

まずは平塚らいてう(明治19年=1886 ~ 昭和46年003=1971)。家政学部三回生で、智恵子と同じ生年ですが、早生まれのため、智恵子の一級上になります。しかし、卒業後の明治41年(1908)、漱石門下の作家・森田草平と心中未遂事件を起こし、学校の名誉に傷をつけたと云うことで、卒業生名簿から除籍されてしまいました。処分が解除になり、ふたたび卒業生として認められたのは没後の平成4年(1992)のことでした。

高級官僚だったらいてうの父は、これにより、らいてうがまともな結婚をすることをあきらめたといいます。その結婚資金としてためていた資金を使って、明治44年(1911)に創刊されたのが『青鞜』。らいてうはその表紙絵を智恵子に依頼しました。女子大学校時代の絵画の才能を知っていましたし、テニスを通じ、智恵子の芯の強さ的な部分を認めていたのでしょう。

追記 智恵子の手になる『青鞜』創刊号の表紙絵についてはこちら


もう一人、作家の田村俊子(明治17年=1884 ~ 昭004和20年=1945)。国文学部一回生ですが、病気中退のため、卒業生名簿には名前がありません。やはりらいてうの呼びかけで、『青鞜』創刊号に寄稿しています。その時点で既に俊子と同じく幸田露伴門下の田村松魚と結婚しており、田村姓でした。

『青鞜』メンバーの中では、特に智恵子と仲が良く、どこまで真実か解りませんが、一種の同性愛的な部分もあったことが、俊子の作品に描かれています(「二三日」、「魔」、「わからない手紙」、「悪寒」(以上明45年・大正元年=1912)、「女作者」(大正2年=1913))など。

また、明治45年(1912)には、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で、智恵子との二人展「あねさまとうちわ絵」を開催しています。俊子が千代紙であねさま人形、智恵子がうちわ絵を出品しました。

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その後、光太郎と結婚した智恵子と、夫婦ぐるみの交無題際が続きますが、やがて松魚と別れ、大正7年(1918)、新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ります。その際には光太郎智恵子は、横浜港まで見送りに行っています。鈴木が亡くなって、昭和11年(1936)に帰国。その際には智恵子はもはや心の病でゼームス坂病院にいました。歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もっとも仲の良かった俊子が日本にずっといたら、智恵子の心の病ももしかしたら回避できたかも知れません。


智恵子と俊子は、『青鞜』メンバーの中ではちょっと浮いた存在だったようです。智恵子は俊子とはよく行動を共にしましたが、らいてうをはじめとする『青鞜』中心メンバーとは、少し距離を置いていました。智恵子が中心メンバーとの大きな集まりに顔を出したのは、確認できている限り2回のみです。

初めは明治45年(1912)、大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会。写真が残っています。

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智恵子がこういう会合に顔を出すのは珍しい、ということで、中央に据えられたのではなかろうかと思われます。右から二人目がらいてうです。

『青鞜』第2巻第2号(明治45年=1912 2月 この号も智恵子の表紙絵)に、新年会のレポートが掲載されています。智恵子に関わる部分のみ抜粋します。

正月二十一日と云ふ日曜日大森藤ヶ崎の富士川で新年会をした。在京社員全体とは行かなかつたが、松村とし、武市綾、小磯とし、長沼智恵、荒木郁、林千歳、宮城房、らいてう、白雨等が午前から初大師の人の波を押し分けて、集つたので楽しい、盛んな会合だつた。
 会合は翌日の午前二時頃迄続いた。女の世界、全世界の女は皆幸福な者としか思へなかつた。

 長沼氏と荒木氏とらいてう氏と林氏とはいつまでも泡立つコツプに未練を残して席を立たない。「ええゝゝ、さうです、さうです、それです」と我が意を得た人の話を幽に胸息をはづませながら、受け取るは朦朧体の長沼氏で生れて以来青空を見た事がないと云つた様子に、顔を火鉢より低く垂れて、ぐつたりと川土左宜敷、夢のやうに話しては皆んなを悩した。
 「あたし鏡花が大好き、エヽ夏目さんも好きよ。けれどもまだ他に今の若手で二人好きな人があるの、それはおしくてとても云へないわ、」前に延した首は三間も先きの方でかう云つた。撫で肩すらりつと着流した羽織を後にさばいて、品を作つて、こゝみがたに顎をつき出して居る。時々白い歯を見せて笑ふ鏡花式の、はなやかな方は宮城氏で、長沼氏と相隣り、一つの火鉢に睦じそうだつた。

そろそろ隠芸がはじまる。皮切はいつも荒木氏だ。「三味線がなければ」とか何とか難題を持ち出すのは長沼氏だ。

三人丈は雨の止むと共に遅く帰つた。

らいてうは狸寝だらう、何と話しかけても返事をしない。ふと昼間写真をとつた時、「どうすれば美人らしく見えるでせう」と長沼氏を捕へて真顔に訊いて居たのを思出して可笑しくなると共に、脱がさうとする荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が浮んだ。

100年以上前ですが、現代の女子会のようですね(笑)。

この時書かれた寄せ書きも、この号に掲載されています。智恵子の筆跡もあるはずなのですが、不鮮明なので解りません。

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2回目はぐっと時代が下って、昭和4年(1929)。「旧青鞜同人のあつまり」ということで、新宿中村屋で行われました。

『朝日新聞』に予告と報告の2回、記事が出、報告の方には写真も載りました。しかし、智恵子は野上弥生子が壁になって、顔の右側の輪郭しか解りません。2年後には心の病が顕在化、悲劇的な末路へと進む運命を暗示しているように見える、というと考えすぎでしょうか。

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その他の初期『青鞜』メンバー中の日本女子大学校出身者には、次のような人々がいました。家政学部四回生だった智恵子と近い年次の人々のみ載せました。

発起人
 保持研子  国文学部四回生 途中退学 のち復学し八回生として卒業
 中野初子  国文学部四回生005
 木内錠子  国文学部四回生
社員
 井上民   国文学部一回生
 大村かよ  国文学部一回生
 山本龍   国文学部三回生
 龍野ともえ 英文学部三回生
 上田君   国文学部四回生
 佐久間トキ 国文学部四回生
 茅野雅子  国文学部四回生 (歌人)
 阿久根俊  国文学部五回生
 松村とし  英文学部五回生
   武市綾子  英文学部六回生 など  
その他006
 木村政   補助団員 家政三
 潘しん   寄付者  家政三
 竹井たかの 賛助員  英文三
 平塚孝   寄付者  国文一 
    (らいてう姉・病気中退)
 上代たの  賛助員  英文七
   (後の女子大学校第6代校長)
 鈴村不二  賛助員  英文七  他

初期『青鞜』の活動は、世間から受け入れられていました。「新しい女」と揶揄されたり、罵詈雑言を浴びせられたりするのは、後に女子美術学校卒の尾竹紅吉が加わり、「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」を起こしてからのことです。

こうした『青鞜』の活動も、成瀬仁蔵による個性的な教育の影響が見て取れるような気がします。


次回は、女子大学校同窓会の桜楓会で活動していたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と深く関わった人々がいます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月25日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、クリスマスケーキを野生動物に食べられてしまいました。

翌日の日記の一節に、こうあります。

昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

熊は冬眠に入っているはずです。狐か狸かもしれません。先だって、花巻を訪れた際、花巻高村光太郎記念館近くにお住まいの花巻高村光太郎記念会高橋事務局長が、「今朝は犬の散歩中に狐と狸の両方に遭遇した」とおっしゃっていました。

この年6月には、明確な印税制を採らなかった龍星閣(『智恵子抄』版元)が罪滅ぼし的に費用を出して、山小屋に新棟が増築され、寝泊まりはそちらでして居ました。新棟は現在は50㍍ほど移築され、倉庫として使っています。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回から、日本女子大学校における、智恵子をとりまく人々。

まずは創立者にして初代校長の成瀬仁蔵。003

安政5年(1858)、周防国(現・山口市)に長州藩下級武士の子として出生、明治初期から教育者の道を歩み始めました。2度のアメリカ留学を果たし、その経験から女子教育の必要性を痛感、大阪梅花女学校や新潟女学校で教鞭を執り、やがて女子大学校設立の構想を持ちます。そして広岡浅子や渋沢栄一、大隈重信等の援助を取り付け、明治34年(1901)に日本女子大学校を設立します。

以後、校長として個性的な学校運営を推進するかたわら、自らも教壇に立ち、全校生徒対象の「実践倫理」という講義を受け持ちました。

歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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校長時代の成瀬は、教育者としての厳格な一面も当然ありましたが、決して融通の利かない石頭ではなく、生徒たちに愛される存在でもあったようです。

「偉人は子供である」とは何人(なんびと)でもがいふ校長の総評である。
 一事をばかり熱心に考へていらつしやるので、その余のことは、ぬかつて失敗ばつかり。つひこの間も、欧州からお帰りの渋沢男爵を横浜まで迎へに行つたのに、上着を着て居なかつたさうである。男爵にお目にかゝつて挨拶をしようとして外套を脱ぎにかゝると、はじめて心づいた。
 上着を着て居ないのである。チヨツキの上に外套をかけたまま来てゐる。
 先生の大勢の子供たちが、この事をきいてもう笑ひころげてしまつた。
(『目白生活』 滝本種子 大正3年=1914)

大正期の生徒の回想です。特筆すべきは、こういう失敗をやらかしたことよりも、それを隠さずに生徒に語っているということ。生徒に対する成瀬のスタンスが見て取れます。

さて、智恵子。当然、『実践倫理』の講義は受けていますし、それ以外にも成瀬との個人的な関わりがあります。卒業後の明治43年(1910)11月に、旅行先の群馬赤城山から成瀬に送った絵葉書が現存しています。保存状態が良くなく、□の部分は判読不能です。

 葉鬱せし木も今は骨露はなる冬の赤城 牛は郷に帰り山は眠りに入て風のみ独り暴威を振ひ候 昨今の山籠りはあまり識れる□□□□□なく候へども余り□故にのみ止まりて少しばかりスタデーはし居り申候 御健祥に渡何よりと嬉しく存上まつり候 来月に入りての上帰京し伺申上たく候 御健康を切に願上げ候 早々

すでにご紹介したとおり、智恵子は卒業後、松井昇の助手として母校の教壇に立っていましたし、同窓会である桜楓会の業務にも携わっていました。そこで、在学中よりも卒業後の方が、成瀬との関わりは深まっていたのかも知れません。


続いて、広岡浅子。現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロインです。

浅子は嘉永2年(1849)の生まれ。世代的には光太郎智恵子の一世代前で、嘉永5年(1852)生まれの光太郎の父・光雲より年上です。朝ドラを見ていると、波瑠さん演じる若々しい姿しか思い浮かびませんが。

浅子は成瀬の女子教育推進に共鳴、いろいろと援助を行います。このあたりもやがて朝ドラの重要な展開として描かれるでしょう。ちなみに成瀬役は瀬戸康史さん、役名は「成澤泉」だそうです。「あさが来た」では、実名で登場する人物(五代友厚、土方歳三、大久保利通、福沢諭吉ら)と、仮名になっている人物とが入り乱れています。「泉」は成瀬の雅号「泉山」に由来するのでしょう。

ちなみに「あさが来た」、9月の第一回放送は、日本女子大学校(これも仮名で「日の出女子大学校」)の第一回入学式のシーンから始まりました。これが明治34年(1901)、浅子は数え53歳です。

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その後も浅子はたびたび同校を訪れ、生徒や卒業生と交流していたということで、明治36年(1903)入学の智恵子との関わりもあるのでは、と、いろいろ調べてみました。

はたしてありました。

こちらは智恵子卒業時(明治40年=1907)の集合写真です。

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左の方に智恵子、右下に成瀬仁蔵校長、そして浅子。同じ写真に写っていました。こちらは『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』という書籍から採らせていただきました。福島市に現在も続く同院の創設者、幡英二の妻・ナツ(中央の赤丸)が、智恵子と同級生で、しかも二本松に隣接する本宮出身ということで、仲が良かったそうです。明治病院についてはこちら

そして、智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会。ここで智恵子が自らの絵画修行について発表したことは昨日触れましたが、その智恵子の発表の前に浅子が発言していました。

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こんな縁もあったのです。

また、浅子は御殿場にあった別荘を開放し、女性たちの啓発セミナーのような活動も行っていました。ここには女子大学校卒以外でも、市川房枝や村岡花子なども参加していたとのこと。残念ながら智恵子が参加したという記録は見つかっていませんが可能性はゼロではありません。

さらに、これは以前にもご紹介しましたが、光太郎がやはり日本女子大学校卒の小橋三四子(こちらも後ほどご紹介します)に宛てた書簡に、浅子の名が出て来るものがあります。浅子が歿した大正8年(1919、成瀬と同じ年でした)のもの。

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拝啓
今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました
先達て頂戴した一週一信をよんではじめて刀自の真生活を知つたばかりの時此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません
あなたの御心もお察し出来る気がいたします
しかし刀自の魂は此から後どの位実際的に人〻を導くか知れない事と信じます
どうも黙つてゐられない気がして此の手がみを書きました
刀自に対する尊敬と吊意とをおくみ取り下さい
一月十六日
            高村光太郎
 小橋三四子様


文面にある「一週一信」というのは、前年12月に刊行された浅子の随筆集です。

浅子自身に送った書簡類は確認できていませんが、もしかすると光太郎、さらには智恵子から浅子宛のものが残っているかも知れません。期待したいところです。

成瀬仁蔵・広岡浅子と因縁浅からぬ光太郎智恵子夫妻。というわけで、朝ドラにもぜひ登場させてほしいものです。


明日は同じく日本女子大学校での智恵子をとりまく人々のうち、雑誌『青鞜』を巡る人々をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月24日

昭和49年(1974)の今日、銀座吉井画廊で開催されていた「白樺派とその周辺――書画展」が閉幕しました。

光太郎の作品も並びました。日本近代文学館所蔵の、美術史家・奥平英雄に贈った書画帖「有機無機帖」です。最晩年の昭和29年(1954)、奥平に贈られました。

12/20(日)に、智恵子の故郷、福島県二本松市で行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は日本女子大学校入学後の智恵子について。003

明治36年(1903)、福島高等女学校を卒業した智恵子は、日本女子大学校普通予科に入学します。翌年には四回生として家政学部に進みました。この四回生というのは、第四回入学生という意味です。

単なる良妻賢母教育にとどまらなかった同校で学ぶことによって、智恵子の才能が開花します。

まず絵画への傾倒。

一昨日のブログでご紹介した松井昇が同校で絵画の指導に当たっており、必修科目ではありませんでしたが、智恵子はそれを選択しました。福島高等女学校時代にも絵の才能は見せていましたが、そのころ取り組んでいたのは岩絵の具を使った日本画。おそらくここではじめて油絵の具に出会います。

智恵子の絵の才能は周囲も認め、女子大学校名物の一つ、秋季文芸会(文化祭的な)では、生徒による演劇の背景画を任されました。夜遅くまで講堂の地下でそれに取り組んでいた智恵子の姿が記憶されています。卒業後も智恵子は母校に残り、松井の助手として勤務、さらに太平洋画会に入会して、洋画家への道を目指します。『三つの泉』、『家庭』といった同校の刊行物や、雑誌『青鞜』などを、智恵子の描いた画が飾りました。

さらにテニス。家政学部で智恵子の一年上にいた平塚らいてうの回想が残っています。

 どちらが先にテニスをやりだしたか、それは忘れましたが、とにかくこのひとの打ち込む球は、まつたく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるので悩まされました。あんな内気なひと――まるで骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひとのどこからあれほどの力がでるものか、それがわたくしには不思議なのでした。
(『高村光太郎と智恵子』 筑摩書房 昭和34年=1959収録、「高村智恵子さんの印象」より)

下記は平成22年(2010)に朝日新聞出版さんから刊行された『週刊マンガ日本史44 平塚らいてう』です。

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智恵子、完全に悪役顔です(笑)。

らいてうは「どちらが先にやりだしたか、それは忘れましたが」と書いていますが、智恵子は福島高等女学校時代には既にテニスに取り組んでいました。

明治36年(1903)、智恵子が普通予科に入学した年の『日本女子大学校学報』第四号に、この年の運動会の様子がレポートされています。正式種目ではなく、オープニングアクトの「番外」で、テニスがプログラムに入っており、附属高等女学校生を含む15組が対戦したとあります。その選手の中に普通予科の「長沼ならゑ」という名が見えます。

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ところが、後の卒業生名簿を見ると、この年に普通予科だった智恵子と同級の生徒の中には、「長沼」という苗字は智恵子しか居ませんし、「ならゑ」という生徒も居ません。これはもしかすると「長沼ちゑ」を「長沼ならゑ」と書き誤ったのかな、などとも思えます。しかし、中退者も多かったので、卒業生名簿にはなくても「長沼ならゑ」という生徒が存在していたのかも知れません。また、智恵子の一学年下に「中西ならゑ」という卒業生がおり、そのあたりと混同していた可能性または「中西」は結婚後の性で旧姓・長沼可能性もあります。ただ、一つ下では計算が合わないのですが……。智恵子が入学早々に選手として活躍していたとすれば、素晴らしいですね。

さらに女子大名物の自転車も、智恵子は早々と乗りこなしたとのこと。

智恵子と寮の同室だったという秋広あさの回想。

その頃自転車は全く珍しい乗り物でしたが、寮にも一台備えられ、時間決めで練習させられました。皆は“珍しいけど厄介なこと”と云い乍らも誰が最初に乗れるか興味を持つておりました処、他ならぬ智恵子様が一番乗りしたのでした。それと申しますのも、雨の日には雨天練習場に乗り入れて練習したからだつたのでしよう。
(『高村光太郎資料第六集』 文治堂書店 昭和52年=1977収録「智恵子様のこと」より)

他にも秋広の回想は多方面にわたります。たたむ必要のない「無精袴」を考案したり、寮内で堂々と禁止されている間食をしたり、秋広が事情があって中退する時には涙を流して見送ってくれたり……。


卒業後も智恵子は同窓会である「桜楓会」の仕事にも携わっています。機関誌『家庭』や『家庭週報』に、絵や詩文を寄せていますし、同窓会大会の分科会で絵画修行について発表したという記録も見つけました。

当時の桜楓会の組織は「家庭部」「教育部」「社会部」の三つに分かれ、智恵子は「社会部」に所属しました。「社会部」の中に「出版部」があり、その関係で『家庭』や『家庭週報』と関わったと推測されます。

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そして明治43年(1910)4月5日から7日にかけて行われた桜楓会第七回総会の2日目、分科会である社会部大会で、智恵子が絵画修行について発表したことが、同会の年刊誌『花紅葉』第8号に記録されていました。これは従来の智恵子年譜には漏れていた事実です。ちなみにその前年にも社会部大会に出席しています。

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智恵子が光太郎と巡り会うのは、翌明治44年(1911)。今回講師を務めさせていただき、いろいろ調べる中で、光太郎と知り合う前の智恵子のきらめく青春時代が、改めて実感できました。


日本女子大学校で智恵子が関わった人々も、綺羅星の如し。明日以降、それらの人々をご紹介していきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月23日

昭和6年(1931)の今日、春陽堂から『明治大正文学全集 第三十六巻 詩篇』が刊行されました。 

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光太郎作品9篇が掲載されました。こうしたアンソロジーの類は多いのですが、光太郎自身が作品の選択、詩句の校訂に関わっていると確認できているものは少なく、これはその一つです。

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一昨日、智恵子の故郷・二本松での市民講座「智恵子講座’15」の講師を仰せつかり、講義をして参りました。今日から数回、その内容を換骨奪胎してお届けします。

講座全体のテーマが「高村智恵子に影響を与えた人々」ということで、10月の第1回は智恵子の里レモン会会長の渡辺秀雄氏による「長沼家の家族とふるさと二本松」、先月行われた第2回は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」、そして午前中の第3回が、太平洋美術会会員の坂本富江さんによる「松井昇と太平洋画会研究所」。

さらに当方が「成瀬仁蔵と日本女子大学校」。明治36年(1903)から同40年(1907)まで智恵子が学び、そして卒業後も少なからず関わった日本女子大学校を軸に、そこで出会った人々をご紹介しました。


こちらは女子大学校時代の智恵子です。

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こんな写真もあります。中央が智恵子ですね。

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まずは大学校そのものについて。

こちらは昔の絵葉書です。

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日本女子大学校は、明治34年(1901)、女子高等教育の第一人者、成瀬仁蔵によって、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針を掲げ、創立されました。成瀬は明治初期から教育者として活動、大阪や新潟でも高等女学校の教壇に立ったりしていました。

ところが、高等女学校を終えた女子のさらなる行き場が少ないことを憂い、女子大学校設立を画策したわけです。そのために政財界にも働きかけます。そこで、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロイン、広岡浅子(朝ドラでは「白岡あさ」)もからんできます。広岡浅子に関してはまた後ほど。

アメリカ留学の経験もある成瀬は、実に幅広い視野を持ち、女子大学校では様々な取り組みを行います。こちらも古絵葉書ですが、校内に茶室や、農園、牧場なども設けられました。

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また、運動会や文芸会(文化祭的な)は、評判を呼びます。智恵子が入学した明治36年(1903)の運動会は、5,000人を超える観客が集まったとのこと。

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さらに、自転車。運動会のプログラムにも自転車が取り入れられていましたし、運動会以外でも自転車に乗ることが奨励されていたそうです。

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こちらは文芸会の会誌『三つの泉』。明治40年(1907)に刊行されたもので、表紙は智恵子の手になります。国立国会図書館さんのインターネット公開デジタルデータで閲覧が可能です。この中で、智恵子はカットも担当しています。

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こうした運動会や文芸会、その他の部分でも、生徒の自主性が尊重せられ、通り一遍の良妻賢母教育ではなく、自分で考え、行動する女子がどんどん育っていきました。

そうした部分は、寮生活にも関わります。

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こうした寮が最盛期には30近くあり、それぞれの寮で「お主婦さま」というリーダーの下に、整理係、風儀係、体育係、文芸係、園芸係、衛生係など、さまざまな役割を設け、交替でそれぞれの任を担って、自治を行っていました。

さらに卒業後も、同窓会である桜楓会という組織がさまざまな事業を行っていました。上記の農園や牧場、そして銀行業務的なことにまで取り組んでいたといいいます。それから年刊(『花紅葉』)、月刊(『家庭』)、週刊(『家庭週報』)などの出版。これには智恵子もかなり関わっています。

そういう意味では、当時としては、男子校と比べてもかなり画期的な実践が行われていました。そうした中で、たくさんの才媛が輩出され、智恵子もまたその才能を開花させて行きます。

そのあたりは次回に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月22日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野のアトリエに、青森の地方紙『東奥日報』の記者が十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作の取材に来ました。

この取材の様子は、翌年元日の『東奥日報』で大きく報じられました。光太郎の長い談話も掲載されており、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集、雑誌『高村光太郎研究』に連載中)でご紹介します。

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昨日は、智恵子の故郷、福島二本松の福島県男女共生センターに行っておりました。

智恵子講座’15」。地元で智恵子の顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶさんの主催で、今年度は「高村智恵子に影響を与えた人々」というテーマで行ってきて、昨日が最終回でした。

10月の第1回は智恵子の里レモン会会長の渡辺秀雄氏による「長沼家の家族とふるさと二本松」、先月行われた第2回は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」でした。

昨日は第3回と第4回をぶっ続けで行い、午前中が第3回で、太平洋美術会会員の坂本富江さんによる「松井昇と太平洋画会研究所」。本来、こちらが第4回の予定でしたが、坂本さんのお母様が亡くなり、昨日はお通夜だというので、急遽、午前と午後が入れ替わりました。

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地元誌の取材を受ける坂本さん(右)。

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熊谷会長のあいさつ。

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坂本さんのご講義に依れば、松井昇は安政元年(1854)の生まれ。川上冬崖の画塾に学んだ画家で、我が国西洋画家のはしりの一人です。明治34年(1901)~45年(1912)にかけ、智恵子の母校・日本女子大学校で西洋画の指導に当たっています。明治37年(1904)、同校普通予科に入学した智恵子は、同40年(1907)に卒業するまでの間、何年生かで松井の授業を受けています。西洋画の授業は必修科目ではなかったにもかかわらず、智恵子はこの授業に熱心に取り組み、後の人生に大きな影響を受けています。そして卒業後は母校で松井の助手として勤務もしました(期間が不明なのですが)。

坂本さんのご講義、松井の絵や、松井が日本女子大学校の教壇に立つ前に勤務していた東京帝大の植物園(現・小石川植物園)の写真などを使いながら、わかりやすくご説明なさいました。植物園に勤務していた頃に植物標本を描いた松井の作品は、写真と見まがう出来で、写真技術が進んでいなかったこの時代、その代わりを務めていたのだと思われます。そうした細密描写を智恵子も教えられたのでは、と感じました。

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さらに智恵子はおそらく松井の紹介で、太平洋画会に入会、頭角を現しました。現存する智恵子の作品からは、松井から叩き込まれたであろう細密な描写力が息づいているようです。

そして、太平洋画会で指導を受けたのが、中村不折。智恵子のエメラルドグリーンの多用を戒めたことで有名です。中村は絵に対する自説を曲げない部分があって、それが長所でもあり、短所でもあって、同時代の美術評論家から「余りに異説者を軽蔑し過ぐるのは感心しない」などと評されていたそうです。これは初めて知りました。

ご講義は、太平洋画会時代の智恵子のエピソード、さらに現在の太平洋美術会さん、それに隣接する光太郎の母校・第一日暮里小学校さんなどにも言及されました。お母様のお通夜当日にもかかわらず、気丈に、そしていつも通り明るく講義をなさったお姿には感心いたしました。

昼食をはさんで、午後は当方の講義「成瀬仁蔵と日本女子大学校」。そちらは明日から詳述します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月21日

明治41年(1908)の今日、『東京美術学校校友会月報』に「英国に於る応用彫刻に就て」を発表しました。

欧米留学中の光太郎は、父・光雲の奔走で農商務省の海外実業訓練生に任命されました。もともと私費留学、現地で生活費を工面という苦学生でしたが、これにより、レポートの提出が義務づけられましたが、代わりに毎月60円ずつ支給されることとなりました。そのレポートの第一報(未完)です。

東京調布市の武者小路実篤記念館さんから、図録を戴いてしまいました。現在開催中の特別展「我が家の実篤作品展」のものです。 

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調布市制施行60周年・武者小路実篤記念館開館30周年・武者小路実篤生誕130周年記念特別展 「我が家の実篤作品展」第2部

会 期 : 2015年12月12日 ~ 2016年1月24日 
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時 
休館日 : 月曜日(祝日のときはその翌日) 年末年始(12月29日から1月3日)
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

武者小路実篤の絵や書は、独特の暖かい作風と味わい深い言葉で、広く親しまれています。
実は、武者小路実篤の作品は、その多くが美術館などではなく、個人のお手元で大切にされてきました。
実篤は昭和4 年以来毎年のように個展を開き、また、自らが主宰創刊した雑誌『心』では、実篤を含む同人の書画の即売会で発行資金を捻出していたため、こうした機会に作品を求めた方も多くいらっしゃいます。
転居の多かった実篤は、絵に本格的に取り組んだ昭和初期以降でも、小岩・落合・成城・吉祥寺・三鷹牟礼と、あちこち移り住みましたが、その時々に近隣で親しくなった方や世話になったお店に作品を差し上げています。また学校などにたのまれると気軽に筆を執りました。
講演などで各地へ旅することも多く、旅先で請われて原稿や書画をかくことも珍しくありませんでした。また、実篤は筆まめで、手紙も多く書いています。
調布市仙川に移り住んでからは、地元の自治会やお店に作品を差し上げたほか、調布市の福祉祭の景品として毎年色紙を提供していたといい、調布市民にはくじ引きであたってお持ちの方がいらっしゃるとお聞きしています。
こうして個人のお手元に届いた作品には、所蔵者の想い出があり、またそれぞれの家族と共に歴史を刻み、様々な逸話を持っています。
本年、武者小路実篤生誕130 年、調布市武者小路実篤記念館開館30 周年を迎えるのを機会に、これまでわからなかった個人でご所蔵の作品について、情報を収集することといたしました。
武者小路実篤の自筆作品・資料をお持ちの方は、ぜひ情報をお寄せください。
また、この調査の結果を踏まえ、地元調布市近隣でご所蔵の作品を中心に、許可をいただいた作品について、12 月12 日から開催予定の特別展「我が家の実篤作品展」第二部で展示することを企画しています。
普段ご家庭で秘蔵され、所蔵者以外は見ることの出来ない作品を、作品に秘められたエピソードとともに、ご覧いただきたいと存じます。


同じ白樺派ということで、武者と親交のあった光太郎も、武者の作品を手元に置いていました。

今回、そのものは展示されませんが、写真での展示があるようです。いただいた図録に掲載されています。

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また、図録には光太郎も写った集合写真が2葉。

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このあたりは「芸術家たちが愛した実篤作品」というコーナーで、各地の文学館や美術館、著作権継承者の皆さんなどの協力により集められた中のものです。ちなみに「芸術家たち」、例えば志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生、芥川龍之介、林芙美子、六代目市川歌右衛門、棟方志功などなど。

もちろん写真より実篤作品が中心です。上記図録表紙は新宿区立林芙美子記念館内部に復元された林芙美子邸の客間だそうです。かけられている武者の絵はレプリカで、本物が今回借りられて展示されているようです。

その他、一般の方から提供を受けた実篤の書画もずらり。


こうした企画の開催、なかなか大変だとは思いますが、美術館、文学館の企画展の新しい形として、一石を投じたような気がします。

光太郎の書なども、各地の文学館、美術館に納まっているはずですし、そしてやはり個人のお宅にはまだまだ未知のものも眠っていそうです。「我が家の光太郎作品展」もありかな、と夢想します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月20日

昭和11年(1936)の今日、初めて結核による喀血の症状を起こしました。

2年後に亡くなる智恵子と、おそらく同根の結核。この後、約20年間の付き合いとなります。

新刊情報です。 
2015/12/11 牧歌舎 坂本富江著 定価2,200円+税

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著者の坂本富江さん、このブログでもたびたびご紹介していますが、智恵子がかつて在籍していた太平洋画会の前身、太平洋美術会の会員であらせられます。

その坂本さんが、光太郎智恵子ゆかりの地を歩かれ、書きためられたスケッチとエッセイで構成されています。3年前に初版が刊行され、今回は増補改訂版ということで、約20頁増えています。当方、校正をさせていただいており、既に3回ほど目を通しましたが、色鮮やかなスケッチと、軽妙な文章のコラボレーションが見事です。

帯に印刷された推薦文は、初版に続き女優の渡辺えりさん。お父様が光太郎と知己でした。

目次
はしがき
① 故郷
 智恵子の故郷 福島県
  旅情さそうレトロな安達駅/誕生/生家/よみがえった長沼家は不滅/
  ローゼットと掘りごたつ/花園/美しいトイレ/米蔵/智恵子記念館/
  智恵子の杜(愛の小径)/鞍石山/『万葉集』から『智恵子抄』へ/樹下の二人/
  長沼家の菩提寺満福寺/コスモスゆれる安達ヶ原/智恵子物産の戸田屋商店/
  小高い丘の油井小学校/初挑戦の紙芝居/
智恵子マーチングパレードと紙絵/
  空を染める提灯祭り/智恵子の答辞文
② 学び舎の頃
 都会の生活① 東京
  夢いだき日本女子大学校/設立者 成瀬仁蔵/最初の運動会/音楽教育/
  倫理学からの抜粋/
成瀬講堂/成瀬校長の告辞/学友が語る智恵子のエピソード/
  青春輝く学び舎/智恵子のことば/
現存する成瀬仁蔵旧宅/
  芸術家サロンの街雑司ヶ谷/愛の告白/鬼子母神
③ 画家への道
 都会の生活② 東京
  太平洋画会研究所/智恵子の幻のデッサン見つかる/画学生智恵子/智恵子の美意識/
  最も新しい女流画家/中村不折と正岡子規/太平洋美術会と著者の出会い/
  光太郎の母校・荒川区立第一日暮里小学校/新宿「中村屋サロン」に花開いた芸術家/
  中村彝アトリエ再現
④ 光太郎との恋
 都会の生活③ 東京
  「青鞜」と智恵子/運命の花「グロキシニア」/青鞜を去る/日比谷公園松本楼と氷菓/
  首かけイチョウ/銀ブラの二人
 犬吠埼 千葉
  早春の犬吠埼/銚子電鉄/灯台
 上高地 長野
  山上の恋・上高地
 裏磐梯・五色沼 福島
  エメラルドグリーンの五色沼
 上野公園 東京
  精養軒で披露宴/料理メニューはハイカラ/木更津まで響いた「時の鐘」
⑤ 愛の暮らし
 都会の生活④ 東京
  夢抱きしアトリエ 千駄木林町二十五番地/アトリエでの苦悩/お化けやしき/
  巴そば店/順天堂病院
⑥ 病と転地療養
 九段坂病院 東京
  白亜の九段坂病院/智恵子の入院した頃の旧館
 不動湯温泉 福島
  山峡の宿・不動湯温泉/私道・専用道路の開削/不動湯温泉/旧館十六号室/
  夕食の献立/
心の御馳走/宿帳のこと/幽谷のホタル鑑賞/入籍のこと
 九十九里浜 千葉
  灼熱の九十九里浜と田村別荘/九十九里浜/田村別荘のこと/田村別荘内部/
  糸日谷さんのこと/
智恵子の印象/光太郎のこと
⑦ ゼームス坂病院と紙絵
 晩年の生活 東京
  芸術家智恵子蘇生/病室は智恵子にとってのアトリエ/智恵子抄文学碑/
  紙絵に残した「楠公像」/守られた紙絵/桜舞ふ東京都立染井霊園
⑧ 晩年の光太郎
 高村山荘 岩手
  みちのくの高村山荘へ/高村山荘/甥が語る光太郎の素顔/智恵子とともに/
  未見の詩人・野澤一との交流/三畝の畑/智恵子の丘/高村光太郎記念館
 十和田湖 青森
  十和田湖畔と奥入瀬渓谷/黄金に染まる乙女の像/秘められた『乙女の像』/
  東京中野の中西アトリエ/『智恵子抄』が世に出るまで~光太郎の苦悩
⑨ 智恵子の油絵が展示されている山梨の美術館
 清春白樺美術館 山梨
  清春芸術村・山梨県清春白樺美術館/梅原龍三郎と光太郎/小林秀雄氏の枝垂桜/
  ラ・リューシュ/運命の出会い/大村智氏ノーベル医学・生理学賞
⑩ 絵が誘う点と線
 「樟」の誕生 静岡県
  智恵子と沼津/絶景の千本浜と千本松原/沼津垣の垣根/蛇松線跡は花の散策路/
  日本最古の沼津市立第一小学校/「道喜塚」今昔/大久保忠佐と「道喜塚」/
  「樟」は残った/
「樟」との宿命的出会い
⑪ 新作能「智恵子抄」
 赤坂日枝神社 東京
  山王、日枝神社で薪能「智恵子抄」を鑑賞
 新作能 智恵子抄詞章
  僕等/樹下の二人/あどけない話/人生遠視/風に乗る智恵子/千鳥と遊ぶ智恵子/
  山麓の二人/
レモン哀歌/荒涼たる帰宅
⑫ 智恵子さんへの手紙
 拝啓高村智恵子さまへ
年譜 あとがき 参考文献


このうち、沼津の部分や中野アトリエの部分などは、初版にはなかった増補の部分です。その他の部分でも、使われているスケッチが替わったりといった改訂があります。

ぜひお買い求めを。

ところで、坂本さんといえば、明日、二本松市の福島県男女共生センターで行われる「智恵子講座’15」 講師を、当方と共になさいます。当初予定では当方が午前中、坂本さんが午後、というはずでしたが、なんと昨日、坂本さんのお母様がお亡くなりだそうで、その関係で午前と午後が入れ替わります。坂本さんが午前中で「松井昇と太平洋画会研究所」、当方が午後で「成瀬仁蔵と日本女子大学校」です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月19日

昭和30年(1955)の今日、生涯最後の詩作品「お正月の不思議」「生命の大河」を書きました。

それぞれ翌昭和31年(1956)―この年4月2日に光太郎は歿します―の元日、「お正月の不思議」はNHKラジオで放送され、「生命の大河」は『読売新聞』に掲載されました。この時代には既に新聞は新仮名遣いに変わっています。

   生命の大河

生命の大河ながれてやまず、002
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん。
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。
 
人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝とうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために自己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかい、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到着した。
 
科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変え
想像しがたい生活図の世紀が来る。
 
そういう世紀のさきぶれが
この正月にちらりと見える。
それを見ながらとそをのむのは
落語のようにおもしろい。
芸術倫理の如きは
うずまく生命の大河に一度は没して
そういう世紀の要素となるのが
解脱ねはんの大本道だ。

13日日曜日にお邪魔しました花巻高村光太郎記念館

受付脇には物販コーナーがあり、書籍や複製の色紙などなど、さまざまな光太郎グッズが並んでいます。行くたびに新商品が増えているのも感心させられます。

定番のポストカード。新たなものがラインナップに入っていました。

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毎年5月15日に敷地内で行われている高村祭会場の「雪白く積めり」詩碑前広場を描いた水彩画。

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光太郎最後の大作、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を描いたものもありました。

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それから、最近流行のA4判クリアファイル。

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半分の大きさのA5サイズのものもありました。

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なかなかもったいなくて使えないのですが(笑)。

その他にもTシャツやら手ぬぐいやら、一筆箋にマグネットなどなど、いろいろと取りそろっています。ほとんどすべて、ここ以外では入手できません。

それから、隣接する高村山荘の無料パンフレットも新しくなっていました。A4判三つ折りです。

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ぜひ足をお運びの上、ゲットして下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月18日

昭和24年(1949)の今日、蕨登という人物に書を発送しました。

この時期の日記は現存が確認できていないのですが、郵便物の授受を記録したノートが残っており、そこに「蕨登といふ人へ揮毫(子供は地上の星云々)」という記述が見えます。

「蕨登」という人物、1980年代の『千葉日報』に光太郎の親友・水野葉舟がらみの寄稿をしていることは解りましたが、それ以上、よくわかりません。

また、「子供は地上の星云々」という書も、他に類例が確認できません。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

先週土・日の東北行、最終目的地の佐藤邸編です。

一昨日も書きましたが、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、花巻桜町の佐藤邸離れで暮らしました。元々昭和20年(1945)に、東京を焼け出されて宮澤賢治の実家に疎開してきたものの、再び空襲の被害に遭ってのことです。当時の当主で賢治の主治医だった佐藤隆房は、光太郎を花巻に招いた張本人の一人でした。

現在も隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、ここを来年5月14日(土)、一般公開するということで、その下見。以前から奥様には「機会があったらお寄り下さい」とおっしゃっていただいておりました。

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こちらが元の母屋の正面玄関。昭和初期の建築だそうです。現在は新たに母屋を造られ、そちらで主に生活されているとのこと。とにかく敷地が広大なので、それも可能なのでしょう。

裏手に2階建ての離れがあり、光太郎はこの2階を借りて住んでいました。当方、20年以上前に敷地外から望見したことがありますが、間近で拝見、ましてや内部に入れていただくのは初めてでした。

屋外をぐるりと一周するとこんな感じです。

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すぐ近くを豊沢川が流れ、当時はせせらぎの音がよく聞こえたそうです。そこで、光太郎はこの建物を「潺湲楼(せんかんろう)」と命名しました。「潺湲(せんかん)」とは、水がさらさらと流れるさまです。

さて、いよいよ内部へ。

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正面玄関から入り、渡り廊下的な処を通って離れへ。さらに狭い階段を上がります。すると、四畳半が二間。両側が大きな窓のある廊下になっているのと、ごちゃごちゃ物が置いていないのとで、広く感じられます。

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座卓も当時のもの。それから押し入れには光太郎が使っていたという火鉢もありました。

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下記はここで暮らしていた時か、後に太田村に移ってからのものかよく分かりませんが、この部屋での光太郎です。

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窓からの眺め。

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北側に豊沢川。

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南は母屋の屋根。日当たりも良さそうです。

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このような快適な環境での暮らしを棄て、光太郎は7年間の山小屋暮らしに入ります。他人の家に厄介になるという気苦労は確かにあったでしょうが、ここで暮らし続けていれば、何不自由ない生活だったのに、です。そこに光太郎という人間の生きざまが端的に表されているような気がしました。


その後、母屋の洋間でお茶を戴きました。昔の映画にでも出て来そうなお部屋です。

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ここで撮られた光太郎の写真もあります。左が佐藤隆房です。

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窓外には百日紅の大木。花をつけるとさぞ見事でしょう。

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さらに辞去する前にはお庭も案内して下さいました。こちらは昭和初期、賢治が取り寄せたというバラの子孫。よくぞ残っているものだと感心しました。

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最初に書きましたが、こちらを来年5月14日(土)、一般公開するそうです。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。


というわけで、秋田横手から始まった全ての行程を終え、帰途に就きました。一昨日ご紹介した光太郎も訪れた伊藤屋さん、昨日レポートした光太郎がらみの二つのお寺、そして佐藤邸潺湲楼など、思いがけず訪問することが出来、非常にありがたい限りでした。花巻高村光太郎記念会・高橋事務局長、佐藤様に改めて御礼申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月17日

昭和15年(1940)の今日、大政翼賛会本部で開催された臨時中央協力会議で「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて提案、発言をしました。

下記は会議を前に語った光太郎の談話の冒頭部分です。『読売新聞』に掲載されました。

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記事にも名が上げられている大政翼賛会文化部長だった岸田国士が、光太郎を委員として推薦しました。

この時点では、「今回限り」と言っていた光太郎ですが、翌年の第1回(6月)、第2回(12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日)の中央協力会議にも出席しました。

12/13(日)、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長にお迎えに来ていただき、旧太田村の高村光太郎記念館に参りました。

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数日前に大雨だったり暖かかったりで、雪はほとんど残っていません。

まずは10月から開催中の企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見。旧太田村時代の光太郎の作品や遺品類がいろいろと並んでいます。藁で作られたツマゴ(雪靴)など、季節にこだわったものも。

入り口にはA5判18頁のパンフレット『山居七年 年譜』が置かれています。この企画展のために当方が作成したもので、企画展示室内にパネルとして展示してあるものを、冊子にしてくださいました。光太郎日記、書簡、周辺人物の証言記録などから作成したもので、無料で配布しています。

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こんな感じで18頁です。

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企画展「高村光太郎山居七年」(後期)、2月22日(月)までです。ただし、12/28~1/3が休館です。ぜひ足をお運びください。

その後、隣接する高村山荘へ。基本的に山荘は冬期間閉鎖ですが、役得で中まで入らせていただきました。

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草野心平筆による「無得殿」の扁額。山小屋の廻りを覆う套屋(とうおく)に掲げられています。

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内部には、光太郎がここで暮らしていた頃使っていたものがそのまま残っています。

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ここに入るたびに、粛然とした思いにさせられます。


その後、また高橋事務局長のお車で、昨日も少しご紹介した、この山小屋に入る直前に暮らしていた花巻市街桜町の佐藤家へ。しかし、約束の時間にまだ間があるので、行き道、山荘・記念館近くにある寺院2ヶ所に立ち寄りました。

いずれも光太郎ゆかりのお寺で、まずは音羽山清水寺さん。坂上田村麻呂の勧進による創建ということで、京都の清水寺とつながるお寺です。光太郎は昭和27年(1952)、ここで高村東雲作の聖観音像開眼供養に参加しています。東雲は光太郎の父・光雲の師。前年には東雲の孫に当たる高村晴雲が山小屋を訪れており、その関係もあるようです。

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山門は昭和初期、本堂は江戸時代のものだそうですが、それぞれ立派なものでした。


続いて法音山昌歓寺さん。こちらは光太郎がこの地にいた頃のご住職と親交があり、たびたび訪れたお寺です。毎年、花巻町の松庵寺さんで行っていた光雲・智恵子の法要を、昭和25年(1950)だけはこちらで行っていますし、昭和27年(1952)には、消防団主催の相撲の会を見物したりもしています。

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特筆すべきは、木像十一面観音像。光太郎にその制作を依頼したものの、結局それは果たされず、代わって光雲の弟子筋に当たる森大造が制作しました。昨年、それにまつわる文書が出て来まして、このブログにてご紹介しました。

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いいお顔をなさった立派な仏様です。

こちらはこの像の願主である八重樫甚作の像。やはり森の手になるものだそうです。

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他にも光太郎に絡む品がありそうなので、またゆっくり訪れたいと思っております。皆様も高村山荘・記念館に足をお運びの際はぜひどうぞ。

その後、花巻市桜町の佐藤邸へ。続きは明日。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月16日

昭和25年(1950)の今日、新潮社から新潮文庫版『高村光太郎詩集』のための検印紙5,000枚を受け取りました。

昔の書籍は奥付に検印紙といって、著者の印鑑を押したものが貼られていました。検印紙の発行枚数イコール出版部数とカウントし、著者に払う印税の計算のためのものでした。現在はこうしたシステムは廃止されています。

新潮文庫版『高村光太郎詩集』、編者は伊藤信吉で、結局初版はさらにプラス5,000で、一万部だったようです。

現在も版を重ねています。

12/12(土)、雄物川郷土資料館さんで第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」を拝観するなどした秋田横手をあとに、夕方には花巻に到着しました。

在来の花巻駅で花巻高村記念会の高橋事務局長のお出迎えを受け、まずは宿屋に荷物を置きに行きました。今回は急に決めての東北行だったので、宿も駅前の商人宿に素泊まりです。荷物を置いた後、高橋事務局長のご案内で、歩いて夕食を摂りに行きました。

花巻駅、そして宿のすぐ近くにある伊藤屋さんという大衆食堂です。下の画像は、翌朝撮影しました。

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建物自体は新しくなっていましたが、ここはかつて光太郎が食事をした店だそうで、帰ってから調べてみましたところ、なるほど、戦後の光太郎日記に記述がありました。

朝会計をすまし、山にゆかんとせしがリユツクが重すぎるので花巻駅にゆき、伊藤屋にて中食、ハイヤーをたのみて院長さん宅に来る。二三日又滞在のつもり。(昭和26年=1951 2月2日)

会計云々は、前月23日から宿泊していた大澤温泉です。「花巻駅」は今は廃線となった花巻電鉄。当時、大澤温泉を含む花巻南温泉峡とつながっていました。


畑の手入れ後花巻に出て院長さん宅に泊まる、 伊藤屋にて中食中院長さん車で迎に来らる、八戸の弟さん同乗、(昭和27年=1952 7月10日)

花巻郊外太田村の山小屋から花巻町に宿泊に来た時の日記をあたってみると、以上の記述がありました。日帰りで町に出て来た時については調べていませんので、もしかするとまだあるかもしれません。また、日記も欠落が多いので、記録に残っていない来店もあるのではないでしょうか。

さて、当方、伊藤屋さんでさらに花巻市役所の方と合流。いろいろと打ち合わせをしました。また近くなって正式に決まりましたらご紹介しますが、いろいろと新しい事業を計画中だとのことです。

まず、佐藤隆房邸の一般公開。計画では来年5月14日の土曜日(翌日は旧太田村の高村山荘敷地内で高村祭です)。上記光太郎日記にある「院長さん宅」というのがそれで、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、ここで暮らしました。

順を追って説明しますと、この年4月13日に、智恵子と暮らした東京駒込林町のアトリエが空襲で全焼。しばらくは近所にあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎は、5月15日に花巻に向けて東京を発ちます。賢治を広く世に紹介してくれたということで、恩義を感じていた宮澤家、そして賢治の主治医だった総合花巻病院長・佐藤隆房の招きに応じてのことでした。

花巻では最初に宮澤家に厄介になりましたが、8月10日の花巻空襲で宮澤家も全焼。そこで花巻町南舘の元花巻中学校長・佐藤昌宅に移ります。さらに9月10日は佐藤隆房邸に移ったわけです。

佐藤邸では離れの2階を借り、ここを「潺湲楼(せんかんろう)」と命名、その後、太田村に移ってからも、花巻町に出て来た時にはよく泊めてもらっていました。これも上記日記の通りです。

こちらは現在も佐藤隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、来年5月14日(土)に一般公開するという予定だそうです。時間を決めて公開し、三々五々自由に来てもらうか、市民講座のような形で参加者を募集してバスツアーのような形にするか、そうすると県外などからの希望者はどうするかなど、詳細はこれからです。


2点目、光太郎縁戚の方の手記。盛岡に光太郎の縁戚―それも父方、母方双方につながる―の方がいらっしゃり、今年、そちらのお宅に伝わる光雲・光太郎関係資料等をまとめた手記を書かれました。それを高村記念会として出版するという計画もあるそうです。コピーを戴いて、帰りの新幹線の車中で拝読しましたが、今まで知られていなかったエピソード、見たことのない写真、『高村光太郎全集』未収録の光太郎書簡などが満載で、実に貴重なものです。母方でみれば光太郎の従姉妹にあたる方が98歳でご存命。高橋事務局長がその方のお宅でインタビューなさっているDVDをいただきましたが、それを見ると、まだまだお元気でしっかりされています。手記を書かれたのはその方のご子息です。


その他にも、佐藤家の関係で光太郎筆の色紙が寄贈されるとか、記念館のパンフレットを新たに編集して刊行するとか、記念館の企画展で智恵子紙絵の現物を展示するとか、実に様々な話になりました。それぞれ時期は未定ですが、おおむね来年の話です。詳細が決まったらお知らせします。


かくて伊藤屋さんでの夜も更け、宿屋に退散。翌日は高村光太郎記念館、高村山荘、そして先述の佐藤隆房邸などを回りました。その辺りは、また明日以降に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月15日

昭和44年(1969)の今日、箱根彫刻の森美術館で企画展「近代日本の彫刻」が開幕しました。

翌年3月31日迄の会期で、光太郎彫刻も7点展示されました。下記は図録の表紙。光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年=1930)の写真が使われました。

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一昨日(12/12・土)、午前4時30分に自宅兼事務所を出、一路、秋田県横手市を目指しました。

横手駅に到着したのは午前11時28分。JR北上線で奥羽国境山脈を越えるあたりは一面の銀世界でしたが、山を下ると雪は消え、少し拍子抜けでした。

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上は駅前のショーウィンドウで見つけたLEDを使ったミニかまくら。実際の雪は日陰に残っている程度でした。

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朝が早かったので早めに昼食を摂り、横手バスターミナルから路線バスの本荘線に乗り込みました。のどかな田園風景を揺られること30分あまり。

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途中、車窓から見た「なまはげ」。

降り立ったのは「新道角」というバス停。「新道」と言いながら、旧道の情緒が残っており、当方の大好きな雰囲気の道を歩くこと10数分、目指す雄物川郷土資料館さんに着きました。

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こちらでは第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が開催中で、『高村光太郎全集』等に未収録の光太郎の書簡も展示されているとのこと。期待が高まります。

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入場料100円也を払って、さっそく展示室に入いると、正面に光太郎書簡がありました。いずれも横手出身の画商・旭谷正治郎に送った封書が1通、葉書が2通の計3点でした。

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昭和21年(1946)、光太郎が隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋に、旭谷から麹が届けられたことに対する礼状(葉書)、後日、麹の返礼に書を贈った際の添え状(封書)、そして時期は不明ですが、山小屋生活の報告的な葉書。どれも興味深く拝見しました。

さらにパネル展示で、横手での光太郎の写真も。おそらく旭谷の麹の入手元、近野麹屋でのカットでした。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。その際に泊まったのが近野麹屋でした。店主・近野廣は趣味人としても名が通り、さらに高校のPTA役員をしていた関係で、講演の企画やら光太郎の接待やらに奔走したそうです。『高村光太郎全集』には、講演が終わって太田村に帰ってからの近野宛の光太郎書簡が掲載されています。さらに翌年、近野から麹と秋田銘菓の「もろこし」を小包で受け取った礼状も。

さて、「横手ゆかりの文人展」、光太郎以外にも様々な人物から旭谷宛の書簡などがずらりと並んでいて、壮観でした。光太郎と縁のあったところでは、白樺派での盟友・武者小路実篤。武者は書簡だけでなく絵も展示されていました。さらに石井柏亭、梅原龍三郎、安井曾太郎といった、光太郎と旧知の画家達。

そして東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生、藤田嗣治。藤田には「秋田の行事」(昭和12年=1937)という大作があります。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」も取り上げられる映画「FOUJITA」(小栗康平監督・オダギリジョー主演)が公開中ですが、この映画のロケが、横手でも行われたとのことで、映画のチラシも置いてあり、いただいてまいりました。

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先月、封切りの日に千葉市の京成ローザさんで拝見した際に、館ではもうチラシが残っていなかったので残念に思っていましたが、意外な所でゲットできました。

ちなみにチラシ裏面がこちら。一番上の、オダギリさんと妻・君代役の中谷美紀さんが能面を観ているシーンなどは、当方の住む千葉県香取市でロケが行われました。不思議な縁を感じました。

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ゆっくり拝観したかったのですが、バスの都合があり、急いで館を後にし、バス停まで走りました。あやうく横手駅前で食べた昼食のカツカレーをリバースしそうになりました(笑)。どうにかバスには間に合ったものの、真冬の東北にもかかわらず、汗だくになりました(笑)。

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横手駅から北上線が出るまでの待ち時間、駅からほど近い横手図書館で調べ物。上記の近野廣と光太郎の関わりなどを記した文献を見つけ、コピーして参りました。それによると近野家には光太郎の書がたくさん残されたとのことで、こちらも現存するものであれば見てみたいものです。大半は他の人にも同じ文句を書いて贈ったものですが、一点、他に類例の確認できていない言葉を書いた色紙があるようです。

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その後、北上線に乗り込み、北上駅から東北本線に乗り換えて花巻へ。以下は明日、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月14日

平成4年(1992)の今日、東北の地方紙『河北新報』に「光太郎日記のこと」というエッセイが掲載されました。

筆者は宮城県母子愛護病院長(当時)・熊谷一郎氏。『高村光太郎全集』に収められた昭和27年(1952)の日記に、ご自分が花巻郊外太田村の山小屋を訪れた際の記述を見つけた、という内容でした。

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実際にその日の日記を読むと、「学生」とは記されていますが、熊谷氏のお名前はありません。しかし、後になって当事者の証言でその正体(笑)が判明した稀有な例です。

昨日から1泊2日で秋田横手、岩手花巻を回って参りました。


花巻では昨夜、光太郎ゆかりの食堂で夕食を摂りながら、花巻高村光太郎記念会の方、花巻市役所の方と、いろいろ打ち合わせ。今日は高村光太郎記念館企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見、さらに急遽、花巻市街の光太郎が山荘に移る直前に暮らした佐藤家の離れを見せていただきました。

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新資料がたくさん見つかったり、新しい情報も続々と入ったり、実に有意義でしたし、これからが楽しみです。

これから、といえば、これからまた光太郎智恵子と全くの別件で、出かけねばなりません。

詳細は明日以降、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月13日

昭和26年(1951)の今日、NHKラジオで放送された「婦人の時間」で光太郎詩が朗読され、光太郎自身も花巻郊外太田村の山小屋でオンエアを聴きました。

草野心平が解説、朗読は俳優の石黒達也でした。

近々放映されるテレビ番組情報です。再放送も含みます。 
NHK Eテレ 2015年12月13日(日)  9時00分~9時45分
                     再放送 12月20日(日) 20時00分~20時45分

1月に閉館する神奈川県立近代美術館・鎌倉は“カマキン”の愛称で親しまれてきた。鶴田真由さんと最後の展覧会を訪ね、美術館の意義、収蔵作品や建物の魅力を紹介する。

“カマキン”の愛称で親しまれてきた神奈川県立近代美術館・鎌倉が、1月に閉館する。65年前日本最初の公立美術館として誕生、クレーやムンクを初めて本格的に紹介するなど先端的な存在であり続けた。番組では、幼いころからカマキンに親しんできた鶴田真由さんとともに最後の展覧会「鎌倉からはじまった。」を訪問。坂倉準三設計の建物の“ひかれる場所”を写真撮影しながら、美術館が人の心にどんな贈り物をしたのか振り返る。

司会 井浦新,伊東敏恵003

ゲスト
鶴田真由さん(女優)
長門佐季さん(神奈川県立近代美術館主任学芸員)
酒井忠康さん(世田谷美術館館長)
水沢勉さん(神奈川県立近代美術館館長)


10月のこのブログでご紹介した、光太郎彫刻・油彩画も展示されている神奈川県立近代美術館・鎌倉館「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」からの番組内容です。

出演者のうち、水沢勉さん(神奈川県立近代美術館館長)、長門佐季さん(神奈川県立近代美術館主任学芸員)は、昨年の連翹忌にご参加下さいました。

実は今日、水沢館長のギャラリートークがあるというので、「カマキン」さんにお邪魔する予定でした。しかし、急遽、秋田横手の雄物川郷土資料館さんに行く先を変更しました。第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」を拝見してきます。  

宿泊は花巻。花巻高村光太郎記念会の方々と、いろいろ打ち合わせ、さらに明後日は高村光太郎記念館企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見してきます。
 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」

NHK総合 2015年12月14日(月)  23時20分~23時25分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組む。

12/7(月)の昼間に本放送があり、今回は再放送です。同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトなどが取り上げられます。5分間の短い番組ですが、感動ものです。
 
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にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2015年12月17日(木)  6時45分~6時55分  再放送 17時10分~17時20分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、コニちゃんの相撲の決まり手/特殊技、文楽/白雪姫、ちょちょいのちょい暗記/7級「十二ヶ月」岐阜県 白川郷、うた/村の鍛冶屋、ベベンの冬が来た

出演者 豊竹咲甫大夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,うなりやベベン,小錦八十吉,おおたか静流 ほか


こちらも再放送。本放送は12/3(木)でした。

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英雄たちの選択「藤田嗣治“アッツ島玉砕”の真実」

NHKBSプレミアム 2015年12月17日(木)  20時00分~21時00分

戦前、フランスに渡った藤田嗣治は、「乳白色の肌」の裸婦で高い評価を受け、本場の画壇で成功を収めた。しかし、時代が戦争へ傾くと、戦火を避け帰国、軍の要請を受諾し戦争画を制作する。1943年(昭和18年)、藤田が描いた「アッツ島玉砕」。藤田が、この戦争画にこめた思いは?戦意高揚のプロパガンダなのか、あるいは芸術なのか?「アッツ島玉砕」制作の真実に迫る。

司会  磯田道史,渡邊佐和子,
出演  一ノ瀬俊也,中野信子,高橋源一郎,三浦瑠麗,
語り  松重豊

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光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が取り上げられる映画「FOUJITA」が公開中で、やはり我が国を代表する小栗康平監督作品ということもあり、関連番組も多く作られています。おそらく今回も映画「FOUJITA」の紹介があるでしょう。

光太郎は詩文による戦争協力、藤田は絵による戦争協力。そこには相通じるものがあるように感じます。そうした話が出ればなおよいのですが……。


以上、ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月12日

慶応元年(1865)の今日(旧暦ですが)、江戸浅草で大火がありました。

現在の駒形あたりから出火、強風にあおられて燃え広がり、浅草のランドマーク、浅草寺の雷門も焼け落ちました。

数え14歳だった光雲は、師匠・高村東雲のもとで年季修行中。師匠の家も焼け、命からがらの目に遭ったことが、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記されています。画像は『光雲懐古談』に載った類焼地域の図です。

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ところでこの大火の日付ですが、ネットで調べると「12月12日」と「12月14日」と、2種類あります。『光雲懐古談』では14日。しかし、当時のかわら版などによると、どうも12日が正解のようです。浅草寺さんのHPなどでも12日説を採っています。

なにはともあれ、火の用心、ですね。

福島県中通り、智恵子の故郷、二本松に隣接する大玉村という小さな村からのニュースです。 

福島)ペルーの空へ 長靴よ届け

『朝日新聞』 福島版 2015/12/7003

 「ほんとの空」からペルーの空へ飛んでけ~! 大玉村で6日、マチュピチュ村との友好都市締結を記念した長靴投げ大会と牛乳早飲み大会が開催された。農業と畜産業が盛んな村で、多くの人がお世話になっている「長靴」への感謝を込めたという。
 安達太良山のふもとに広がる大玉村ふれあい広場。風が強く吹く中、長靴投げ大会は始まった。上投げや下投げ、普段は履いているゴムの長靴をめいっぱい空へ向かって投げる。
 玉井小学校5年の官野祐太君(10)は「長靴を飛ばす機会が来るとはおもわなかった。なかなか飛ばなくて悔しい。来年こそは」と誓っていた。マチュピチュ村までの距離約1万5千キロ。今回の最高記録は35・3メートルだった。
 同時に開催された牛乳早飲み大会では、コップの牛乳をストローで飲む時間を競った。寒さで手を震わせながらも、親子ともども必死に飲み干していた。
 大玉村とマチュピチュ村は10月、村出身の野内与吉氏がペルー移住後にマチュピチュ村長を務めたことなどから、友好都市提携を結んだ。今後も様々なイベントを開催し、PRしていきたいという。
 

「長靴」マチュピチュに届け~! 友好都市締結の大玉で催し

『福島民友』 2015/12/9

 南米ペルーのマチュピチュ村と友好都市協定を結んだ大玉村の若手有志らでつくる「ブルースカイおおたま」(鈴木正広代表)は6日、国道4号沿いの同村ふれあい広場で「マチュピチュに届け~長靴投げ・牛乳のみ大会」を開き、参加者が寒空の中、元気いっぱいに動き回った。東邦ゴム工業、東北協同乳業の特別協賛。
 友好都市締結を地元から盛り上げようと9月に発足した同団体の初イベント。多くの村民が参加し、牛乳早飲みや長靴投げに挑戦した。
 同団体は今後、定期的に地域活性化に向けたイベントに取り組んでいく予定。

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友好都市提携については、9~10月に報じられていました。
 

マチュピチュ村、福島の恩忘れず 大玉村と友好都市に

『朝日新聞』 2015/9/4005

 「空中都市」と呼ばれる世界遺産のマチュピチュ遺跡があるペルーのマチュピチュ村と、福島県大玉村が友好都市提携する。3日、ペルーのエラルド・エスカラ大使らが発表した。マチュピチュ村が提携するのは初めて。村に移り住み、世界的な観光地になる礎を築いた村長が大玉村出身だったことから、マチュピチュ村が提携を申し入れた。
 安達太良山(あだたらやま)のすそ野に広がる大玉村(人口約8500人)で記者会見を開いたエスカラ大使によると、マチュピチュ村は遺跡のある山のふもとに約3千人が住む。世界中から多くある友好都市提携の申し入れを「縁や関わりがないから」と断り続けてきたという。「恩人、野内与吉さんの故郷と真っ先に提携を結びたかった」と村の意向を説明した。
 野内さんは1917年、21歳の時に移民としてペルーへ渡った。国鉄に勤め、マチュピチュ村までの線路敷設に携わった後、遺跡の美しさを世界に広めたいと移住。何もなかった村に水力発電設備を作り、ホテルを建てた。2年間村長を務め、69年に亡くなった。
 マチュピチュ村は以前から大玉村に提携を申し入れていたが、大玉村側の渡航資金不足などで実現していなかった。2012年、野内さんの孫で名古屋市に住むセサル良郎さん(39)の働きかけで、大玉村民らがマチュピチュを訪問。提携の機運が高まった。
 提携式は10月、マチュピチュ村で開かれる。今後、学生の交流や農業研修を進める予定。良郎さんは「マチュピチュに電気という希望の灯火をつけた祖父の功績が、今度は原発事故で苦しむ福島の明かりとなるのならうれしい」と話す。
 大玉村の押山利一村長は「世界で最も有名な村の友好都市になることで大玉村を知ってもらえる。先祖が残した大いなる遺産だ」と笑顔を見せた。(江戸川夏樹) 

友好都市協定を締結 世界初大玉村とマチュピチュ村 遺跡で式典

『福島民報』 2015/10/28

【ペルー・マチュピチュ村で田口敏啓本宮支局長】大玉村は26日(日本時間27日午前)、ペルーのマチュピチュ村と友好都市協定を結び、末永い交流を誓った。
 大玉村にとって初めての友好都市で、マチュピチュ村が海外の自治体と相互に連携する取り決めを結ぶ第一号となった。
 締結式は空中都市として知られる世界遺産「マチュピチュ遺跡」で行われた。羽織はかま姿の押山利一大玉村長と、ペルーの伝統衣装を着たダビ・ガヨソ・ガルシアマチュピチュ村長が協定書にサインした。遠藤義夫村議会議長、野内文孝村国内外交流推進会議会長、株丹達也駐ペルー大使らも出席した。
 ペルーの山間地帯は現在、雨期。インカの司祭による儀式の最中、晴れていた空に突然雷鳴が響き、神秘的な場面を演出した。
 協定書は7項目からなり、農業分野では両村の農業技術や成功事例について情報交換するとしている。文化面ではマチュピチュ村が織物などの伝統技法や考古学の知識を大玉村に伝える。防災面では大玉村が消防ポンプ車をマチュピチュ村に贈る計画を進める。地域づくり、教育分野の交流なども項目に盛り込まれた。
 協定締結は大玉村出身の移民・故野内与吉氏が初代マチュピチュ村長を務めた縁がきっかけとなった。

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縁は異なもの味なもの、という感じですね。世界遺産のマチュピチュ遺跡同様、「ほんとの空」のある安達太良山も世界的に注目されてほしいものです。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月11日

昭和52年(1977)の今日、千葉県成田市の成田山史料館で開催されていた「没後30年記念 水野葉舟―三里塚の文人たち―」展が閉幕しました。

水野葉舟は明治16年(1883)、光太郎と同じ年の生まれです。与謝野鉄幹・晶子の新詩社に依り、光太郎と知り合いました。その後、小説家に転じましたが、思うところあって大正13年(1924)千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)に移り住み、昭和22年(1947)に歿するまで、晴耕雨読の生活を続けました。後の光太郎の花巻郊外太田村での隠遁生活に影響を与えた一人です。

光太郎は葉舟の著書の装幀などにかかわり、遠山村もたびたび訪れました。そうした関係で、光太郎に関する資料も多数並びました。

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このブログで先月お伝えした、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」で智恵子を演じた元女優の原節子さん。


先週、二本松から、映画「智恵子抄」がらみの続報が舞い込んできました。 

福島)昭和の大横綱と大俳優 二本松市に足跡あり

『朝日新聞』 福島版 2015/12/2

 はりのある肌、浮き出る筋肉。九州場所中に急死した大横綱・北の湖理事長を描いた肖像画の展示が大山忠作美術館(二本松市本町2丁目)で始まった。同市出身の画家大山さんが1982年、60歳の時に、当時横綱だった北の湖関にほれ込んで描いたという。
 北の湖関に父のように慕われ、酒を酌み交わした大山氏。ポーズをとる横綱をスケッチし、数カ月かけて絵に命を吹き込んだ。和紙に岩絵具を何度も重ねた絵は立体感にあふれる。
 お礼に、と渡されたのが土俵入りに使ったしめ縄だ。丸く結ばれた雲竜型は小さく見える。だが大人2人でやっと運べるという重さだという。肖像画と共に来年4月まで展示される。
 二本松は9月に亡くなった原節子さんが映画「智恵子抄」(1957年)のロケで訪れた場所でもある。市智恵子記念館(同市油井)に残されたアルバムには、二本松城跡の天守台でほほえむ写真が収められている。
 当時の新聞記事によれば、智恵子を演じた原さんと高村光太郎役の山村聡さんは2日間、城跡や智恵子の生家で熱演。2、3千人の見物人が詰めかけたそうだ。アルバムにはロケの合間にご飯を食べる原さんの写真や、「郷土二本松本格的ロケ敢行」とうたった新聞広告もある。
 新野洋市長は11月27日の定例会見で「二本松にいた原さんの姿をぜひ映像で見せられるような企画をたてたい」と話した。

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「二本松にいた原さんの姿をぜひ映像で見せられるような企画」という新野市長のご提案、ぜひとも実現して欲しいものです。

当方の手もとにもいろいろと関連資料がありますが、二本松市近辺でも個人のお宅などにこうした写真類などが探せばありそうな気もします。

記事の前半にある故・大山忠作画伯は、「智恵子に扮する有馬稲子像」など、智恵子をモチーフにした作品も何点か遺されています。そのご縁で、お嬢さんである女優の一色采子さんは、4/2の連翹忌にご参加下さっています。そのあたりもからめた企画もありなのではないでしょうか。

ところで、昨夜、BS-TBSさんで放映された「美しい日本に出会う旅」を拝見しました。サブタイトルが「 憧れの紅葉・絶景スペシャル~錦秋の北アルプス・京都・奈良」。「福島」の文字が入っていなかったのですが、磐梯山、会津若松、そして安達太良山が取り上げられました。どうも当初の予定では福島を取り上げる予定ではなかったのが、急遽、入れたように思われます。ネットのテレビ番組情報サイトでも、放映前日の一昨日になって「安達太良山」の検索ワードで網に引っかかりました。

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安達太良山は、10月中旬のロケだったそうです。

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歌舞伎俳優・中村七之助さんのナレーションで、光太郎詩「あどけない話」も紹介して下さいました。

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こういう場合、画面に詩句がテロップで流れるのが普通です。

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上は今年2月にNHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽん百名山 安達太良山」。下は昨年11月、BS-TBSさんで放映された「日本の名峰・絶景探訪 #58 「紅葉色めく湯の山 安達太良山」」。

今回、それはありませんでした。こうしたところも、急遽、福島編を追加したからではないかと思われます。

まあ、それでも「ここにほんとの空がありました」的なナレーションが入ったので、よしとしましょう。来年の紅葉シーズン前にでも再放送していただき、観光客誘致につながってほしいものです。

ところで、先月、NHKBSプレミアムさんでは、「にっぽん百名山SP あなたが好きな山!深田久弥が愛した名峰へ」という番組があり、その中でも安達太良山と「あどけない話」が紹介されました。しかし、その時には番組情報サイトに「安達太良山」の文字が入っていなかったため、事前に把握できずにこのブログでご紹介できませんでした。

明日も「ほんとの空」系のネタをご紹介します。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月10日

昭和13年(1938)の今日、詩報発行所から『新日本詩鑑 第一輯 1938』が刊行されました。

有名無名併せて250余名の詩人の作品を集めたアンソロジーです。

光太郎は「天日の下に黄をさらさう」という詩を寄稿していますが、これが全作品の最初に掲載されており、当時の光太郎の「格」が象徴されています。

3年後の太平洋戦争開戦後は、翼賛詩一辺倒になって行く光太郎ですが、この時期にもすでにその萌芽が見られます。


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昨日、地上波フジテレビさんの系列で放映されている情報番組「ノンストップ!」で、西城秀樹さんによる光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の朗読の話題が紹介されました。

テレビ番組情報サイト等で、「高村光太郎」「道程」といった単語が使われていなかったので見落としていたのですが、一昨日、花巻高村光太郎記念会さんから「光太郎肖像写真の画像を提供した」旨のメールを戴いて知った次第です。

先週のこのブログで2回にわたりご紹介した「「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」 (渋谷Bunkamuraシアターコクーンで西城さんは12/3(木)、12/4(金)にご出演)の様子と、楽屋でのインタビューなどから構成されていました。

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2回、脳梗塞を発症した西城さん、後遺症と闘いながら、今回初めて朗読に挑戦。

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光太郎の「道程」を取り上げて下さいました。

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よく知られている9行の短い決定型(大正3年=1914の10月、詩集『道程』に収めたバージョン)ではなく、同じ年の2月に雑誌『美の廃墟』に発表した102行ある長いバージョンの中から抜粋して朗読されたようです。

長い原型バージョンはこちら。ちなみに今年4月にリニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館さんでは、声優の堀内賢雄さんによるこの長いバージョンなどの朗読が聴けるコーナーを設けてあります。

西城さん、報道で脳梗塞からのリハビリ中とは存じていましたが、映像で見ると、ほんとうに一語一語、絞り出すように語られていて、「ここまでの状態なのか」と、ある意味、ショックでした。しかし、そういうご自分の状態を隠さずに、あえて現状を公表する姿に感銘を受けました。

その後、楽屋でのインタビュー。

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旋律に乗せて「歌う」より、「喋る」方が困難だそうです。そういわれてみると、吃音の障害のある人も、歌になると滑らかに歌える場合があり、なるほど、と納得しました。

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あえてその困難な朗読に挑戦する姿には、頭が下がります。同様のご病気などで闘病中の皆さんの励みになるのではないでしょうか。

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その意気で、今後もがんばり続けて下さい!


さて、テレビついでに今夜の番組をご紹介します。昨日になって詳細情報が出ました。

美しい日本に出会う旅 憧れの紅葉・絶景スペシャル~錦秋の北アルプス・京都・奈良

BS-TBS 2015年12月9日(水)  19時00分~20時54分

美しい日本へ!行ってみたいあこがれの地。この目で見てみたい、あの絶景。味わってみたい絶品料理。今回は日本全国紅葉の絶景を楽しむ2時間スペシャル。
日本の秋の醍醐味は、錦に染まる紅葉。名所から穴場まで、2015年の紅葉を味わい尽くす2時間スペシャルです。京都では、秀吉が夢見た紅葉狩りの地から、とっておきの隠れ紅葉を訪ねます。東北の百名山・安達太良山は、見渡す限りの紅葉に染まります。奈良の聖地・天川村も紅葉一色。名物・柿の葉寿司も秋だけの紅葉色に!そして上高地へ抜ける、憧れの北アルプス紅葉街道へ。白骨温泉のにごり湯で、贅沢な紅葉狩り。もう一度、今年の紅葉を心に焼き付けましょう。

旅の案内人 中村七之助

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智恵子が「ほんとの空」(「あどけない話」)があるといった、安達太良山が取り上げられます。ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月9日000

平成21年(2009)の今日、桑田佳祐さんのシングルCD「君にサヨナラを」がリリースされました。

カップリング曲に「声に出して歌いたい日本文学 <Medley>」。18分42秒の大作で、「あどけない話」を含む近代日本の名作文学の一節を歌詞としています。ラインナップは以下の通り。

汚れつちまつた悲しみに(中原中也)/あどけない話(高村光太郎)/人間失格(太宰治)/みだれ髪(与謝野晶子)/蜘蛛の糸(芥川龍之介)/蟹工船(小林多喜二)/たけくらべ(樋口一葉)/一握の砂(石川啄木)/吾輩は猫である(夏目漱石)/銀河鉄道の夜(宮沢賢治)

この曲は、平成24年(2012)発売のアルバム「I LOVE YOU -now & forever-」にも収録されました。

昨日、NHK総合さんで、先週ご紹介した「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~宮城県女川町 勝又愛梨さん」の放映がありました。

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津波で甚大な被害を受けた女川町の高校生・勝又愛梨さんが取り上げられました。

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勝又さんも、津波でひいおじいさん、ひいおばあさんを失ったとのこと。

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その思いから、また同じような災害が起こった時に、恩師や同世代の若者達と共に、「女川1000年後のいのちを守る会」を結成、人々を救うための活動に取り組みます。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――。

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それにとどまらず、「いのちの教科書」というプロジェクト。


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それをもとにして、中学校などでゲストティーチャーとして出張授業。

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頭が下がります。


こうした出張授業、地元だけでなく、先月には千葉県でも行われました。 

東日本大震災:命守る方法考えて 体験基に津波対策語る 女川中卒業生が千葉の中学生と対話集会

『毎日新聞』 2015年11月29日 宮城版/千葉版001

 東日本大震災で被災した女川町で、津波到達地点を知らせる石碑を設置する活動を続けている町立女川中の卒業生12人が28日、千葉県船橋市の市立湊中(太田保校長、生徒数382人)を訪れ、「1000年後の命を守るための対話集会」を開いた。高校2年になった卒業生たちは、被災体験を基に中学生と命の大切さについて話し合い、「身近な命を守る方法を考え続けてほしい」と訴えた。【金森崇之】
 女川町は震災で住宅の9割が被災し、人口の約8%に当たる872人が死亡・行方不明となった。震災直後に女川中に入学した卒業生たちは「私たちと同じ思いをしてほしくない」と、授業で独自の津波対策案を検討。家族や友人を亡くした経験を語り合いながら、住民同士が助け合える絆づくり▽広い避難路と高台のまちづくり▽震災を記録に残す??という三つの対策案をまとめた。
 「1000年後の命を守る」を合言葉に、町内21カ所に津波最高到達点を知らせる石碑を作ることも計画。1000万円の寄付を集め、これまでに9基を完成させた。中学卒業後は、教訓を伝えるための「いのちの教科書」作りも続けている。
 対話集会は日本防災士会首都圏支部連絡協議会が企画し、湊中の全校生徒や地域住民約500人が参加した。女川中の卒業生は三つの対策案や活動をスライドを使いながら報告し、「悲しみは今もそばにあるけれど、前を向き続けて生きていく」などと決意を語った。
 湊中を含む船橋市立4、浦安市立1の計5中学の生徒34人とのディスカッションもあった。女川の卒業生が被災体験を伝えると、中学生も祖父母を亡くした経験やいじめ自殺の問題を踏まえて命の尊さについて思いを語り、「感謝の気持ちが命を大切にすることにつながる」「あいさつなどの小さい積み重ねで絆ができる」と意見を出し合った。
 女川中の卒業生で、曽祖父母やいとこ2人が行方不明のままの県立石巻北高校2年、勝又愛梨さん(16)は「当たり前にいた人たちが急にいなくなってしまうことを、私は小学6年で知った。中学生たちは話を真剣に聞いてくれた。命を守るにはどうしたらいいか考えて行動に移してくれると思う」と笑顔。湊中1年、村山翼空(たすく)君(13)は「話し合うことで震災のことが近くに感じられた。同じ悲劇が少しでも減るように、今日の話を帰って家族に伝えたい」と話した。
 

被災地 女川の高校生と対話交流 命と防災を考える機会

『東京新聞』 2015年11月29日 千葉版

 東日本大震災で町人口の一割近い命が奪われた宮城県女川(おながわ)町の高校生が二十八日、船橋市の湊中学校を訪れ、船橋市と浦安市の中学生と、命や防災をテーマに話し合った。高校生は、日常の何げない行動が、大きな災害時に命を守るのに役立つことがあると指摘。中学生は四年半前の震災を思い出しながら、あらためて命の尊さを考える機会になったようだ。 (服部利崇)
 訪れたのは、震災直後の四月に女川第一中(当時)に入学、現在は高校二年生になった十二人。中学一年の社会の授業の取り組みをきっかけに、高校生になった今も活動を続ける「女川1000年後の命を守る会」のメンバーでもある。
 生徒らは、津波被害を最小限にする三つの対策案を提案した。その一環で、災害から命を守る「いのちの教科書」づくり、募金を集めて津波到達地点より高い場所に建てる「いのちの石碑」などユニークな取り組みを続ける。この活動で、同会は社会貢献支援財団から本年度の社会貢献者として表彰される。三十日の表彰式で上京するのに合わせ、日本防災士会首都圏支部連絡協議会が旗振り役となり対話交流が実現した。
 高校生との対話に、船橋、浦安両市の五つの中学校から三十四人が参加した。六グループに分かれ、高校生の司会で「命の尊さ」を感じた体験や、千年後の命を守るために今できることを話し合った。
 高校生は「地域行事に極力参加している。いざという時に助け合える雰囲気づくりに役立つから」と、日常の行動が命を守ることにつながるとアドバイス。触発された中学生は「スマホをしながら自転車に乗る友達を注意する」「毎日、感謝の言葉を口に出す」「地域の人にあいさつし、顔見知りになる」などと次々にアイデアを出していった。
 参加した湊中三年の石野彩さん(15)は「命を守ることは、身近な行動から始められる、という高校生の意見に共感した。明日から、できることをしたい」と話していた。


『東京新聞』さんの記事にある社会貢献支援財団から本年度の社会貢献者として表彰」に関して調べたところ、今年度、「社会貢献の功績」ということで表彰を受けた全国47件の個人、団体の中に「女川1000年後のいのちを守る会」さんも含まれていました。


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そちらによると、「いのちの教科書」のプロジェクトは、日本だけでなく、アジアの国々をも視野に入れているそうです。確かに平成16年(2004)には、スマトラ沖地震による大津波で、東南アジアの国々も大きな被害を受けています。そういう意味では、日本の経験を他国に伝えることも大切なことです。ただただ頭が下がります。

泉下の光太郎も、若い世代のこうしたがんばりには、目を細めているのではないかと思います。


あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」

NHK総合東京 2015年12月14日(月)  23時20分~23時25分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組んでいる。


ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月8日000

大正13年(1924)の今日、詩人の山村暮鳥が歿しました。

半年程前にも書きましたが、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。


 山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
 あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
 晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載年月日も大正13年(1924)12月という以外は不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。

「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

秋田県から企画展情報です。

まずは概要を分かりやすくするため、地元紙『秋田魁新報』さんの記事から。 

文人の書簡ずらり、横手の逸話も

 大正から昭和にかけ活躍した文人の書簡を集めた「横手ゆかりの文人展」が、秋田県横手市の雄物川郷土資料館で開かれている。展示しているのは、昭和中期の東京で芸術家や作家との交遊があった同市出身の画商旭谷正治郎(1899〜1975年)宛ての手紙、はがきなど約80点。横手に関わる逸話や思い出の記述が多数見られる。市教育委員会の主催で23日まで。

 市教委は今年7月、旭谷の七男文和さん(70)=茨城県土浦市=から依頼されて手紙、はがきなど約3千点を保管。今回展示しているのはその一部で、彫刻家高村光太郎や作家武者小路実篤ら22人が旭谷に宛てたもの。

 旭谷の案内で横手を訪れた一人、版画家棟方志功のはがきは、勢いのある大きな字で「横手町は未知の所でミリョク大有りです」と記す。別のはがきでは「かやき、キリタンポの力でわめき抜くつもりです」と創作意欲を伝えている。

 高村は戦後間もなく横手を訪れ、地元の麹(こうじ)屋に立ち寄った。その後、横手から小包で麹が届けられたことを喜び、「早速甘酒を仕込みました」と、旭谷にはがきで報告している。

 武者小路は、戦時中に探していた疎開先について「秋田がいいと思う。意見を聞かせてほしい」との手紙を寄せた後、現在の湯沢市秋ノ宮の温泉に疎開した。


というわけで、秋田県横手市の雄物川郷土資料館さんでの企画展です。 

第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編」 ~あの人はこんな字を書いていました~    

会  期 : 平成27年10月24日(土)~12月23日(水・祝) 
         前期10/24~ 後期11/28~ 展示替えあり        
会  場 : 雄物川郷土資料館 秋田県横手市雄物川町沼館字高畑366
開館時間 : 午前9:00~午後5:00(入館 4:30まで)
入  館  料  : 一般100円(80円) 高校大学生50円(40円) 中学生以下無料 
       ※()内は団体料金(15名以上)
休  館  日  : 月曜日(祝日と重なる場合はその翌日)及び祝日の翌日

 雄物川郷土資料館では、「横手ゆかりの文人展」と題し、大正から昭和初期にかけて活躍した作家、画家、文化人たちの直筆原稿、手紙や葉書などを展示いたします。

 東京で文化人と交流のあった横手市出身の画商 旭谷正治郎氏のコレクション約600件が市に寄託されたことで実現したもので、ほとんどが初公開の貴重なものばかりです。横手とゆかりのある文人たち約30名には、日本の近代を担った著名人が多くみられます。歴史の1ページを飾った先人の文字には、その人柄や息づかいまで感じることができます。

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公式サイトにあるように、旭谷正治郎は、横手出身の画商です。調べてみると、『高村光太郎全集』では、第十二巻、戦後の日記に名前が出ていました。

旭谷氏より麹たくさん送り来、 (昭和21年=1946 1月21日)

『秋田魁新報』さんの記事と一致します。

午前揮毫送附の為テガミ書き、 水原宏氏(雪白くつめり)、旭谷正治郎氏(うつくしきもの、最後にのこるもの美なり)、 (同2月7日)

ひる頃石井鶴三、笹村草人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。助教授笹村氏専らしやべる。 横手町の画商旭谷正治郎氏が鶴三氏を案内して十和田湖に赴き、写生に数日間滞在。(略)談話、学校の話、彫刻の話、余が東京に帰らぬ旨の話、其他いろいろ。五時過辞去。部落のはづれの馬頭観音のところまで送りて別れる。 (昭和23年=1948 6月20日)

石井鶴三、笹村草家人は彫刻家、有賀剛は笹村の友人で神田小川町の汁粉屋主人、千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家です。

旭谷にあてた光太郎の書簡は確認できておらず、真筆であれば(まず間違いないと思いますが)、新発見です。
館の方に問い合わせ中ですが、場合によっては現物を見せてもらいに行ってこようと思っています。

こんな感じで、現在も後から後から光太郎の書簡が出て来ています。毎年4月2日の連翹忌の日に、高村光太郎研究会から発行される『高村光太郎研究』という雑誌で、当方、「光太郎遺珠」という連載を持っており、1年間で見つけた『高村光太郎全集』未収録の作品を紹介しています。毎年のように10通を超える書簡が見つかっていて、来春の「光太郎遺珠」にも、花巻の写真家・内村皓一氏にあてたものや、九段下の書道用品店・玉川堂さんから出て来た書簡など、既に15通を掲載予定です。

まだまだ光太郎書簡はいろいろなところに眠っているはずです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月7日

昭和26年(1951)の今日、草野心平と共に花巻郊外台温泉松田屋旅館に宿泊しました。

松田屋さんは今も健在です。HPで見ると、建物はきれいになってしまっているようですが。いずれ泊まってみたいと思っています。

追記 松田屋さん、当時のままの建物でした。

テレビ放映を拝見しました。

まずは昨日、テレビ東京系で放映された「美の巨人たち 藤田嗣治 寝台の裸婦キキ」。先月、小栗康平監督の映画「FOUJITA」が封切られるなど、再び脚光を浴びている藤田嗣治が取り上げられました。

以前にも書きましたが、藤田は東京美術学校西洋画科で、光太郎と同級生でした。映画「FOUJITA」にも、光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」が使われています。

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映画で藤田を演じたオダギリジョーさんがビデオ出演。

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上の画像は、パリのカフェで青木崇高さん扮する日本からやってきた画学生が、光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読し、それを聴くシーン。

この詩にもそうした要素があるのですが、当時の美術家たちは、どのように日本(東洋)と西洋を融合して行くのかが問われていました。

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光太郎は塑像彫刻に木彫の技法を、木彫に塑像彫刻のエスキスを取り入れました。藤田の出した答えは、浮世絵の技法を油彩画に取り込むこと。番組では、藤田の最大の特徴、「乳白色」を例に、そのあたりを解説していました。

BSジャパンさんで2016年1月13日(水)、23時00分~23時30分に再放送があります。地上波テレビ東京系が受信できない地域の方々、こちらでご覧下さい。


もう一つ、3日の木曜日に放映された「にほんごであそぼ」。

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光太郎詩「冬が来た」」(大正2年=1913)が取り上げられました。

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子供たちによる朗読。

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うなりやベベン(浪曲師・国本武春)さんによる歌「冬が来た」は、以前に放映されたものの使い回しでした。

こちらも再放送があります。12月17日(木)  6時45分~6時55分  17時10分~17時20分、ともにNHKEテレさんです。

あわせてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月6日

昭和27年(1952)の今日、銀座の新富寿しで夕食を摂りました。

十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため再上京して二ヶ月弱。花巻郊外太田村の山小屋で生活していた7年間では、寿司など思いもよらなかったことでしょう。ちなみに『週刊朝日』のおごりだったとのこと。

新富寿しさんは、大正期創業。池波正太郎も愛した店だそうです。

昨日ご紹介した西城秀樹さんの「道程」朗読について、やはりスポーツ紙各紙が取り上げています。 

西城秀樹 脳梗塞の後遺症でまひ残るも朗読劇出演、4曲熱唱

 歌手の西城秀樹(60)が出演する朗読劇「キミに贈る物語~観て聴いて・心に感じるお話集~」が3日、東京・渋谷のシアターコクーンで初日を迎えた。

 高村光太郎の詩「道程」を朗読。2度の脳梗塞を患い右半身まひの後遺症があるだけに、発声に苦労する場面も見られた。朗読だけでなく、デビュー曲「恋する季節」(72年)など4曲を歌唱。歌声はしっかりとした印象で、座りながらの熱唱に満場の拍手が起きた。

 師走を迎え「体調は良くない。寒いから」と説明。「公園を歩く練習をしている」とリハビリの様子を明かした。取材陣から「一年を振り返ると?」と聞かれ「女房によくしてもらったこと」と、笑みを浮かべた。

 市原悦子(79)浅野温子(54)らが出演。6日まで。西城のステージは4日まで。
(スポーツニッポン 12月4日(金)8時9分)
 
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西城秀樹が朗読劇に初挑戦「僕の今にぴったりだな」

 脳梗塞で闘病中の西城秀樹(60)が3日、初めて朗読劇に挑戦した。

 「リーディング名作劇場 キミに贈る物語」(東京・渋谷のシアターコクーン、6日まで)の出演者の1人として、デビュー曲の「恋する季節」など交えながら高村光太郎の「道程」を朗読した。「『道程』は僕の今にぴったりだなと思って選びました。感じるものがありますね」。懸命のリハビリを続けているが、右半身と言葉に障害が残る。朗読はリハビリにいいと今回の挑戦となった。西城の出演は今日4日まで。
(日刊スポーツ 12月4日(金)8時5分) 

市原悦子、完全復活アピール「舞台に立つことが楽しいわ」

 歌手、西城秀樹(60)が3日、東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで行われた朗読劇「キミに贈る物語~観て聴いて心に感じるお話集~」(6日まで)の初日を迎えた。

 2003年以降、2度の脳梗塞を発症したが、デビュー曲「恋する季節」の歌唱や高村光太郎の詩「道程」の朗読を力強く披露。「リハビリで公園を歩く練習をしています」と報告し、「今年は女房に良くしてもらった」と笑顔をみせた。

 先月12日の同舞台の製作発表を風邪のため欠席した女優、市原悦子(79)は「舞台に立つことが楽しいわ」と完全復活。浅野温子(54)も出席した。
サンケイスポーツ 12月4日(金)7時0分


同様の病などで闘病中、といった方々の励みになれば、と思います。いつまでもお元気で!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月5日

昭和17年(1942)の今日、岩波書店のPR誌『図書』第83号終刊号が発行されました。

「終刊号」と謳っていますが、戦後になって復刊、現在も続いています。

この号には、前月3日に大東亜会館で行われ、光太郎も来賓として出席したた岩波書店の回顧三十年感謝晩餐会のレポートが大きく掲載されました。

光太郎は挨拶の中で、岩波書店を讃える詩「三十年」を朗読。また、岩波合唱団により、光太郎作詞・信時潔作曲の岩波書店店歌「われら文化を」が披露されました。

また、「三十年」、「われら文化を」(楽譜も)ともに掲載されました。

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昨日夕刻以降、スポーツ新聞各紙のサイトに「高村光太郎」の文字が多発しました(笑)。

闘病中の西城秀樹「リハビリにいい」初朗読劇に挑戦

 脳梗塞と闘病中の西城秀樹(60)が3日、初めて朗読劇に挑戦した。
 「リーディング名作劇場 キミに贈る物語」(東京・渋谷のシアターコクーン、6日まで)の出演者の1人として、デビュー曲の「恋する季節」など交えながら高村光太郎の「道程」を朗読した。「最初に読んだとき、あっ僕の今にぴったりだなと思って選びました。感じるものがありますよね」。2011年に脳梗塞が再発し、懸命のリハビリを続けているが、右半身と言語に障害が残る。
  「公園を歩く練習をしていますが、寒くなると(体調は)あまりよくない」という。朗読はリハビリにいいと今回の挑戦となった。
  今年1年を振り返って「早い感じがするね。いいこともあり悪いこともありだけど、思い出に残るといえば女房に良くしてもらったこと」と話す西城の出演は4日まで。
(日刊スポーツ 12月3日(木)17時13分配信)
 

西城秀樹 リハビリしながら舞台に!「今は良くない」

 歌手・西城秀樹(60)が3日、都内で朗読舞台「キミに贈る物語~観て聴いて、心に感じるお話集~」(3~6日・Bunkamuraシアターコクーン)の公開リハーサルを行った。
 公演は浅野温子(54)が童謡を、市原悦子(79)が歌を交えた昔話を朗読したり、バラエティーに富んだステージを展開。
 その中で西城は「不死鳥~ヤングマンよ永遠に~」と題した歌唱ステージを披露する。
 ヒット曲「ブルースカイブルー」などを熱唱した西城。合間には高村光太郎の詩「道程」を朗読した。高村の詩について「今のぼくにぴったりの詩で感じるものがあった」と笑顔を見せる。
 2度の脳梗塞から復帰し、現在もリハビリをしながらステージに立ち続ける。師走の寒さもあり「今は良くない」と体調について語るも「リハビリとして公園を歩く練習をしています」と語った。
 今年1年を「早い」と振り返ると「いいことも悪いこともある1年。思い出に残ることといえば、女房に良くしてもらったことかな」と伝えた。
(東京スポーツ 2015年12月3日 17時31分)
 

西城秀樹、今年の良い思い出は「女房」

 歌手の西城秀樹(60)が3日、都内で「キミに贈る物語~観て聴いて・心に感じるお話集」(3日~6日、Bunkamuraシアターコクーン)公開リハーサルに登場し、今年の思い出を聞かれ「女房に良くしてもらったこと」と語り、同席した女優の市原悦子(79)、浅野温子(54)から拍手を浴びた。
 西城は今回の舞台では数々のヒット曲に乗せて、高村光太郎の有名な詩「道程」を朗読する。「最初に読んだ時、僕の今、という感じがした。感じるものがあった」と感銘を受けたことを告白。2度の脳梗塞を乗り越え、今回の舞台に立つ自分の姿と詩を重ねている様子だった。
 体調に関しては「あまりよくない。寒いから」と語り、万全ではないようだが、「リハビリで公園を歩いている」と体調の回復に努めていることを明かした。
(デイリースポーツ 2015年12月3日 17時01分


まだありましたが、ほぼ同一の内容なので割愛します。


「ほう、そんなイベントがあるのか」ということで、調べてみました。 
公演日程
 2015/12/3(木)19:00開演
 2015/12/4(金)19:00開演
 2015/12/5(土)15:00開演/19:00開演
 2015/12/6(日)15:00開演
会   場 : Bunkamuraシアターコクーン 東京都渋谷区道玄坂2丁目24-1
主   催 : リーディング名作劇場公演実行委員会
制作協力 : エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ プロデュースNOTE
出   演 :
12/3(木)19:00開演 
 市原悦子 浅野温子 西城秀樹 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 菜月チョビ(劇団鹿殺し) 増田有華
12/4(金)19:00開演
 市原悦子
浅野温子 西城秀樹 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 竜小太郎・カムイ(大衆演劇)
 内田恭子
12/5(土)15:00開演
  市原悦子 浅野温子 中川晃教 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 竜小太郎・カムイ(大衆演劇)
 ※ゲスト・加賀美幸子(元NHKアナウンサー)
12/5(土)19:00開演
  市原悦子 浅野温子 中川晃教 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 菜月チョビ(劇団鹿殺し)
 ※ゲスト・加賀美幸子(元NHKアナウンサー)
12/6(日)15:00開演
  市原悦子 浅野温子 大空祐飛 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 折井あゆみ 内田恭子
 ※ゲスト・加賀美幸子(元NHKアナウンサー)

市原悦子 歌語り「日本昔ばなし~年老いた女役者の歌~」
どこからか女役者が現れ、日本昔ばなしを語りはじめる......。素晴らしい日本語から生まれた心に響く詩の数々を朗読しながら、自らの人生をも歌いだす。語りあり、歌ありの一人芝居の幕が開く。

浅野温子 よみ語り「古事記神話ものがたり~義父が与えた試練~」ほか
神々はどうしてこの世に現れ、素敵な国を作られたのか。また恋はどうして生まれたのか。日本の原点ともいわれ、古くから伝わる「古事記」の物語を、素敵な音楽とともに読み語る。

西城秀樹 歌語り「不死鳥~ヤングマンよ永遠に~」
二度の病に遭われても、再び立ち上がった西城さん。ご自身の人生を心温まる歌声で響かせる。

大空祐飛 歌語り「歌こそわが愛~世界名作集より~」
宝塚のトップを務めた彼女が、世界の名作集から有名なお話を美しく語る。素敵な歌声に思わず耳を傾ける、愛のドラマ。

中川晃教 歌語り「百万本のバラ」
ロシアで生まれたこの曲は、加藤登紀子さんが自ら日本語に翻訳し、多くの人を魅了してきた。今回は、この歌ができるまでの心温まる物語を歌で語りながら、名曲が生まれきたドラマをご紹介する。

佐藤正宏(WAHAHA本舗) 紙芝居「黄金バット」
当時、こどもから大人までが酔いしれた紙芝居「黄金バット」。今回はこの作品がなぜ生まれたのか、そして多くの人たちをどのように救ったのか、ヒーロー伝説を各回ごとにご紹介する読み切り紙芝居。

竜小太郎&カムイ(大衆演劇)舞語り 「曽根崎心中」
近松門左衛門の名作浄瑠璃「曽根崎心中」。お初と徳兵衛が描き出す"死の恋路物語"を艶やかな姿で語り合う。歌で舞う初の舞語りに、今、若手大衆演劇で注目を浴びる二人が挑戦する。

菜月チョビ(劇団鹿殺し) 朗読「いのちのケイタイ~葉っぱのフレディーより~」
今や、誰にとっても無くてはならない時代になった携帯電話。そこから、生き別れた我が子に最後のメッセージを読み聞かせる、心温まるお話。

増田有華 朗読 「マッチ売りの少女」
今なお世界中のこどもたちに読み継がれている、アンデルセン童話「マッチ売りの少女」。冬空の中にたたずむ少女のせつない思いを、心を込めてお届けする。

折井あゆみ 朗読「北風と太陽」
寓話と呼ばれ、こども向けでありながら大人も考えさせられるイソップ物語。多くの人が、こどもの頃に耳にしたこのお話を、楽しくユーモラスに語る。

内田恭子 朗読「蜘蛛の糸」
日本の文豪・芥川龍之介が手掛けたはじめての児童文学作品。この名作から紡ぎ出された素敵な日本語を伝える。

ゲスト:加賀美幸子(元NHKアナウンサー) 朗読「楽しく・やさしく読む漢詩」
長年NHKでアナウンサーを務め、数多くの名作を語ってきた中から、日本語の原点ともいえる漢詩の魅力を、わかりやすく、楽しく披露する。解説を交えながら、古典文学の素晴らしさや真髄を語る。


2015年6月、好評を博したリーディングが装いも新たに帰ってきました。 よみ語りあり、歌語りあり、もちろん紙芝居もあり。
 日本語による心温まる沢山の「キミに贈る物語」再度、幕が開く!!
古くから日本は、物事を伝えるために日本語を巧みに使うとともに、よみ語り、歌語り等、様々な伝達方法をも生み出し、育てて来ました。
時代とともに作り上げ、鍛え抜かれ、そして滋養に満ちた日本語の言葉を綴った小説・詩から童話・昔話や、浄瑠璃や能・狂言、そして、芝居・落語・歌詞など数々の作品の中から選りすぐり、老若男女、様々な方々に堪能頂ける語り手とで織りなす公演を開催。
今回も語り手は俳優、歌手、そしてタレントの第一人者の方々にご出演頂き、朗読あり、歌あり、観て聴いて心で感じることのできるお時間をお届けします。

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なるほど、そういうことでしたか、という感じでした。公式サイトには「光太郎」とか「道程」とかの文字が入っていないので、網に引っかかりませんでした。

西城さんのご出演は、昨日と今日限りなのですね。続報的に「西城秀樹(60)が、高村光太郎の「道程」を力強く朗読した。」的な記事が出ることを期待します。

それにしても、西城さんももう還暦ですか……。渡辺えりさんが還暦だと言われても、全く違和感なく納得なのですが……(笑)。

リハビリ中だそうですが、光太郎の如く、不屈の精神で道を切り開いていっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月4日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、穴蔵に農作物を入れました。

当日の日記の一節です。

穴ぐら(室内)整備、大根、ジヤガ、白菜、キヤベツ、リンゴ等を入れる。

雪国では今も屋内の地下等に穴蔵を設け、野菜類を土に埋めて保存している家庭があるそうです。

昨日、作家の高田宏氏のご逝去が報じられました。 

作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞

 言語学者として国語の統一に尽力000した大槻文彦の伝記「言葉の海へ」で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。

 エッセー「木に会う」で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。
(『朝日新聞』 12月2日)


当方、高田氏のご著書を一冊持っています。

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平成元年(1989)、文化出版局さんから刊行された『もう一度読む』。元々、同社で発行の雑誌『季刊 銀花』に連載されたものの単行本化で、古今東西の名著を「もう一度読む」ことにより、以前には見えてこなかったものが見えてくるという読書体験を綴ったエッセイ集です。

「『智恵子抄』偏読」という章があり、およそ15頁。氏の訃報を受けて、当方も「もう一度読」み返してみました。「偏読」といいつつ、それは韜晦というか、謙遜というか、リスペクトの念に溢れたいい文章でした。

花巻郊外旧太田村の、光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)の話から始まり、戦後の詩篇や日記が引用され、さらに話は戦時中の翼賛詩に及びます。

 昭和十五年に中央協力会議議員になり、昭和十七年には文学報国会詩部会会長に就任した高村光太郎は、第二次大戦のあと、多くの人から非難を受けた。今も光太郎を難ずる人はいる。だが、それらの人々のうち一人でも、あの小屋の老年の日々を送れるものだろうか。

 この詩(注・「琉球決戦」)を書いた詩人は、少なくとも卑劣漢ではない。一途であった。部下の若者に特攻出撃を命じて自分はひそかに安全地帯へ脱出した将軍とはちがう。権力欲や名誉欲や物欲のために戦争にかかわった者ともちがう。ただ一途であった。

さらに『智恵子抄』。氏は「あどけない話」「樹下の二人」などの詩篇もよしとしながら、特に散文「智恵子の半生」に注目しています。

 こういう散文は、高村光太郎ほどの人にしても、めったに書けるものではない。ほとんど偶然の産物と呼びたいようなものである。無技巧と言ってもいい。堂々と言ってもいい。臆面もなく、といっても言い。現実の智恵子がどうであったかは知らないが、光太郎の智恵子像がここに刻み出されている。純度の高い一人の女性が、おそろしいばかりに輝いている。

そして結末。

これだけみごとに「一人の女性の底ぬけの純愛」に執した男が、ただ時流に乗って戦争協力をしたなどとは私には信じられない。

 高村光太郎のあの山小屋の七年間という時間を、私は思わないわけにはいかない。その自己処罰を、また、それをも越える老年の生を、思わないわけにはいかない。


短く、それから残念なことに書き出しの部分で事実関係の勘違い(高村山荘の套屋に関し)があるのですが、それを差し引いても慧眼と言わざるを得ません。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月3日

平成9年(1997)の今日、ビクター伝統文化事業財団から、人間国宝の横笛奏者・寶山左衛門のCD「笛のこころ」がリリースされました。

「智恵子と空」という曲を含みます。しみじみといい曲です。

昨日もご紹介した宮城県女川町の「いのちの石碑」」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――。先月には新たな碑の設置が報じられていました。  

東日本大震災:女川中卒業生、離島に初「いのちの石碑」 「津波の記憶伝え続ける」 出島の2地区 /宮城

『毎日新聞』宮城版 2015年11月01日無題
 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する女川町立女川中の卒業生グループ「女川1000年後の命を守る会」は31日、津波到達地点を知らせる「いのちの石碑」の8、9基目を町内の離島、出島(いずしま)の2地区に設置した。住民らは「子どもたちが未来を運んできてくれた。津波の記憶を伝え続ける」と約束。高校生も「もっと活動を続けなければ」と決意を新たにしていた。【百武信幸】
 出島は女川港から片道約1時間の定期便で1日3便結ばれている。震災時は2地区に約500人が暮らしていたが、25人が死亡・行方不明となり、全島避難は約4カ月に及んだ。島にあった小中学校は本土の学校に統合され、住民によると、居住者は100人以下に減少しているという。
 女川中卒業生は寄付金をもとに在学中の2013年11月から石碑の設置に取り組んでおり、町内で計21基の設置を予定している。離島は今回が初めて。
 8基目が設置されたのは島北部の出島地区にある永清寺の境内。震災時は約40人が避難した。地区の高齢者ら10人は、当時と同じように助け合いながら階段を上って除幕式に参加し、卒業生が読み上げた「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」という碑文の言葉に聴き入った。区長の酒井実さん(74)は「碑を見守り、頑張って出島の再生に尽くしていく」と力を込めた。
 9基目は島南部の寺間地区にある厳島神社の参道に建てられた。区長の須田菊男さん(66)は、小学5年の時にチリ地震津波に遭った記憶を卒業生に語り、「当時は人的被害がなく、その経験があだになって震災の時に家に戻ってしまった人もいる。この石碑で、1000年後まで教訓を伝えてほしい」と呼びかけた。
 参加した阿部健さん(81)は「震災後、島に子どもの姿がなくなり希望を失った気がしたが、この子たちが碑とともに未来を運んできてくれた」と笑顔で話した。
 この日参加した卒業生はメンバー23人のうち高校2年の3人。伊藤唯さんは「助けられた感謝の気持ちをもっと形にして残したい」。山下脩(しゅう)さんは「観光で島に来る人もおり、一緒に逃げて命を守ってもらえたら」。神田七海さんも「『石碑を見守っていく』という言葉がうれしかった。自覚と責任を持ってこれからも活動を進めたい」と、それぞれ今後への決意を語った。
 

取材帳から:離島の石碑 /宮城

『毎日新聞』宮城版 2015年11月22日
 「なんかやー、心に栄養が入ってきた気がしたよ。子どもらの思いで生き返ったよう」
 相好を崩す男性の顔が、海で反射した光に照らされ輝いていた。
 10月31日、女川町の出島であった「いのちの石碑」除幕式での光景。東日本大震災の教訓を1000年後に伝えるという女川中卒業生の願いがこもった石碑を前に、地元住民は心を打たれた様子だった。「心に栄養が入ってきた」と笑顔を見せたのは、寺間地区の阿部健さん(81)。震災後、島の小中学校が閉校となり、子を持つ世帯は島を離れた。若者の姿が消え、希望をなくしていたという。「子どもたちが未来を運んできてくれた。長生きして教訓を伝えないと」。卒業生たちも石碑に込めた思いを新たにしていた。
 石碑を通じ、住民たちは地域へ、若者たちは未来へ、教訓を語り継ぐ。地域という横糸と次世代という縦糸を連綿とつむいだ先に、1000年後の命がつながっていくのだろう。【百武信幸】

宮城)「この上まで逃げて」いのちの石碑、計10基 

『朝日新聞』宮城版 2015年11月1日000
 「大きな地震が来たらこの上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」2基が31日、女川町の離島・出島(いずしま)の出島、寺間両地区でお披露目された。21カ所ある町内の浜の津波到達点に、女川中学校の卒業生たちが建立をめざすもので、10月に完成した江島(えのしま)の1基を含めて、計10基になった。
 1基目ができたときは中学3年だった生徒たちも高校2年になった。以前のようには集まれないものの、この日は3人が訪れ、島の人と除幕式に臨んだ。
 それぞれの石碑には、子どもたちが作った「あの時の 悲しみ苦しみ 忘れない」「がれき見て 空に誓った 涙こらえて」の句が碑文とともに彫られている。読み上げる神田七海さん(17)の姿を島の人は目を細めて見つめ、声を合わせて一緒に読む人もいた。
 震災前は500人ほどいた島民も、今は100人を下回るといわれる。「後ろしか向いていなかったような島に、子どもたちが石碑をつくってくれて、希望もたててもらった」と話す人もいた。石碑に込めた思いは「千年後の命を守るために」。伊藤唯さん(17)は「島や町の方にがんばってねと言われ、『千年後まで残ってほしい』という気持ちが日に日に強くなっています」と話した。(中林加南子)


頭が下がります。さらにこのプロジェクトのメンバーが、千葉県の中学校を訪れて「出張授業」を行ったことも報道されていますが、そちらはまたのちほど。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月2日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、分教場から小学校に昇格し、翌日に開校式を迎える山口小学校の門標を揮毫しました。

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こちらは翌年に撮影された写真ですが、背後に門標が写っています。

現在、この門標は花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)にて展示中です。

このブログでテレビ放映情報をよくお届けしています。ネットのテレビ放映情報サイトで「高村光太郎」とか「智恵子抄」「高村光雲」「ほんとの空」など特定のキーワードをいくつか登録しておき、番組名や番組説明そのキーワードを含む情報が得られるように設定してあります。

さらに地名として「十和田」「花巻」「女川」「安達太良山」「千駄木」「上高地」など、光太郎智恵子ゆかりの地もキーワードとして登録してあります。それらは番組説明を精査し、光太郎智恵子にからみそうだという場合には、このブログでご紹介しています。

さて、キーワード「女川」で1件ヒットしました。 

伊藤整のあの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」

NHK総合東京 2015年12月7日(月)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組む。


「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」は、平日の昼間に毎日放映されている5分間番組です。震災の翌年に始まり、その名の通り、東北を中心に、東日本大震災被災者のみなさんの声を届けるという番組です。

女川町民の方の証言が取り上げられるのは初めてではありませんが、証言者の「勝又愛梨さん」に当方のアンテナが反応しました。このブログにも検索機能を設定していますので、「勝又愛梨さん」で検索したところ、2年前の「東日本大震災から1,000日。 」という記事にその名がありました。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――に関する記事です。

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このブログ内で、「いのちの石碑」に関する記事は下記の通り。 
 

勝又さんをはじめ、これに関わった若者たちは、石碑だけでなく「いのちの教科書」というプロジェクトも進めているそうです。来週放映の「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」では、そのあたりが紹介されるようです。

女川といえば、今春、JR石巻線の女川駅が4年ぶりに復活しました。

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町の広報紙『広報おながわ』の今月号では、駅前に新たに大規模商業施設がオープンすることが報じられています。

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毎年8月9日の、女川光太郎祭の勧進元・佐々木釣具店さんも、現在地の「きぼうのかね商店街」から駅前に移転するようです。

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月末にはいろいろとイベントも予定されているようです。追ってご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月1日

平成8年(1996)の今日、京都市左京区の思文閣美術館で開催されていた「智恵子抄 鮮烈な生の試み」展が閉幕しました。

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紙絵の実物等も多数出品され、光太郎よりも智恵子をメインとした企画展でした。

来年は智恵子生誕130年、光太郎歿後60年です。メモリアルイヤーということで、こうした企画がまた行われてほしいものです。

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