2015年07月

青森レポートの2回目です。

7月29日、定宿にしている十和田湖山荘さんで、朝、5時前に目覚めました。それでも前夜8時過ぎには眠ってしまったので、睡眠時間は十分です。旅先ではいつもこんな感じです。早速、温泉で朝風呂。その後、朝食は7時半ということなので、その前にいったん宿を出て、あちこち動きました。今回はレンタカーを借りていたので、少し足が伸ばせます。

まず、何はなくとも湖畔の乙女の像。前日は宿に伝えてあったチェックイン予定時刻を過ぎての十和田湖到着で、もう日も暮れていましたので、行っていませんでした。親子連れなど、他にもすでに散策している人がいましたが、いつもの昼間のように混雑はなく、ゆっくり見られました。

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波打ち際には鴨がのんびりと餌を探していました。

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さて、像と対面。昨秋以来、9ヶ月ぶりです。

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その顔は、やはり智恵子を彷彿とさせられます。

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そして若き日に作ったブロンズの「手」にも通じる像の手。

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光太郎は、二人の像の間にできるこの空間に注目してほしい、と語っていました。

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少し引いて、平成6年(1994)に建立された「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑を通しての眺め。

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こちらが詩碑の碑面。

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その後、近くの十和田神社に参拝、道中安全と、この地の平安を祈願しました。

まだ朝食までには時間があるので、やはり湖畔の宇樽部地区に車を向けました。ここには「東湖館」という宿がかつてあり、昨日レポートした浅虫温泉の「東奥館」同様、光太郎が昭和27年(1952)の下見の際に1泊、乙女の像の除幕式があった翌28年(1953)にも1泊しています。除幕の際は日記には「宇樽部泊」としか書いていないのですが、おそらくここでしょう。

浅虫の「東奥館」はもはや建物自体なくなっていますが、宇樽部の「東湖館」は、昭和50年代ぐらいで営業はやめたものの、当時の建物が残っています。そうと気づかずに何度かその前を通っていたのですが、今回、事前に調べてそれを知り、見に行くことにしていました。

乙女の像のある休屋地区から5㌔㍍あまり、ものの数分で着きました。平成18年(2006)にトンネルが開通したためです。

こちらが東湖館です。

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看板も残っていました。「A級旅館」とあります。当時の格付けでしょうが、それに恥じない立派な造作です。大正13年(1924)の建築で、皇族方や大町桂月なども宿泊したとのこと。また、昭和42年(1967)公開、加山雄三さんや司葉子さんが出演された映画「乱れ雲」のロケに使われたそうです。監督は成瀬巳喜男。前年には「智恵子抄」をモチーフに使い、安達太良山の麓の福島県本宮を舞台にした「こころの山脈」(山岡久乃主演)の監督も務めています。不思議な縁を感じました。

9/3追記「こころの山脈」は吉村公三郎監督でした。まちがいました。

周囲を歩いていろいろな方向から撮影しました。非常にいいレトロな感じです。せっかくの由緒ある建物ですが、現在は廃墟。何とか有効活用する方法はないものでしょうか。

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↓おそらくこの棟に光太郎も宿泊したのではないかと思いました。

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昭和27年(1952)の下見は6月17日。前夜は蔦温泉に1泊し、この日は船で十和田湖を一周しました。翌日も湖を船で渡り、秋田県側の和井内でヒメマス養殖場を見学、休屋の観光ホテルで1泊しています。

昭和28年(1953)の乙女の像除幕に際し、光太郎の近くにいて、下見にも同行したり、像の製作中も何くれとなく世話を焼いたりした草野心平が作った詩「高村光太郎」の一節です。

たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸か000をつくろうと決めた。
  (略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
  (略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。


この「十和田の宿屋」というのが、東湖館か、翌日に泊まった休屋の観光ホテルのどちらかです。

追記 東湖館、平成29年(2017)に解体されてしまいました。残念です。

東湖館の前はすぐ湖畔です。

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さて、東湖館を後に、十和田湖山荘に戻りました。帰りはトンネルのできたバイパスでなく、光太郎も車で通ったであろう御倉半島を通る旧道を使いました。途中にあったキャンプ場から撮った宇樽部の集落がこちら。

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さて、宿に戻って朝食、チェックアウト。メインの目的である岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に向け、ふたたび休屋地区に車を走らせました。

会場となっている十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」に車を駐め、まだ時間があるので周囲を散策しました。

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「ぷらっと」の向かいにある「喫茶憩い」。先日のこのブログでご紹介しましたが、NPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さんが貸し出した光太郎関連の蔵書が並んでいます。残念ながらまだ開店前でしたので、外から撮らせていただきました。

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秋田県寄りに建つ「十和田ビジターセンター」。初めて足を踏み入れました。

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動植物など、自然科学系の展示がメインなのですが、一角に古い写真が展示してありました。

乙女の像、建立当初の数年間、厳冬期には雪囲いをしていたという話は知っていましたが、このようにしていたと初めて知りました。当方のイメージとは違いました。

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女優の原節子さんが写っている写真もありました。原さんといえば、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)での智恵子役です。十和田湖にもいらしていたのか、と驚きました。


花巻の皆さんが到着する時刻が近づきましたので、いざ、「ぷらっと」へ。以下、また明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月31日

昭和30年(1955)の今日、茨城に住む実弟の藤岡孟彦から鉄道便で桃が届きました。


孟彦は光雲の四男ですが、藤岡家に養子に行きました。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。

旧制一高時代には明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、乙女の像は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で青森に行って参りました。今日明日明後日でレポートいたします。

一昨日、東京駅発10時20分のはやぶさ13号(この列車を利用することが多々あります)に乗り込み、目指すは新青森駅です。そもそもの第一目的は、昨日行われた岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に参加することでしたが、ついでに現地調査を、と考えておりました。

13時30分には、新青森駅に到着。予約していたレンタカーを借り、まずは青森市民図書館さんに向かいました。こちらには、地元紙『東奥日報』のマイクロフィルムが揃っており、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の関係で光太郎が青森を訪れた際の記事などを調べるのが目的でした。1年前には青森県立図書館さんに行き、昭和28年(1953)乙女の像除幕前後の記事などはコピーしてきたのですが、その時は時間がなく、昭和27年(1952)に、十和田湖の下見に行った際の記事などを調べることができませんでしたので、今回はそのリベンジでした。

乙女の像の建立は、当時の青森県知事にして太宰治の実兄、津島文治の肝煎りだったためか、下見の際にも記事が何度も出ていました。同行した草野心平の寄稿なども載っていました。

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さらに像の制作にかかっている最中の、昭和28年(1953)元日の紙面には、東京支局の記者による中野のアトリエ訪問記。こちらには光太郎の長い談話も収録されています。

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また、見出しには「乙女」の語。「乙女の像」という通称がいつ頃から使われるようになったのか、実は不明です。除幕された昭和28年(1953)10月の段階で、光太郎自身が青森市の野脇中学校で行った講演の中に、「乙女の像」の語が既に使われていますが、その源流がここに見えるように思いました。今回の談話の中には、以下の記述があります。

大体自然を性で区別すれば湖というのは女性になるが、十和田湖の場合は乙女ともいうべきもので本当に『聖』そのものだ。

湖の景観の中に、光太郎は「乙女」の姿を見ていたのです。

ただし、「乙女の像」という語は、固有名詞ではなく、一種の普通名詞―「騎馬像」「仁王像」のように、像のジャンルを表す語―として、光太郎以外の彫刻家による若い女性の像全般に使われていた形跡もあり、はっきりしたことは何とも言えません。この前後、各地に「××の乙女の像」といった彫刻がいくつか見られるのです。ただ、現代ではそれらの大半は忘れ去られており、光太郎の「乙女の像」と他にあとわずかのみが生き残っているという感じです。

さて、青森市民図書館さんでの調査を終え、次に向かったのは同じ青森市の浅虫温泉。市中心部から東に15㌔㍍ほどのところにある温泉地です。

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ここにあった「東奥館」という旅館に、光太郎が宿泊しました。十和田湖下見の際の昭和27年(1953)に1泊、乙女の像除幕の際の昭和28年(1953)には3泊しています。東奥館自体は既に無くなっていることは事前にネットで調べて分かっていましたが、とりあえず光太郎の滞在した場所ですので、その息吹が感じられるかと思い、行ってみました。

浅虫温泉は、陸奥湾沿いに開けた温泉地です。大正5年(1916)、竹久夢二が文通していた青森の少女と逢うためここを訪れたとのことで、夢二の歌碑が建っていました。

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さて、めざす「東奥館」という旅館が何処にあったのか、わかりません。そこで聞き込みを開始。まずは現代風のホテルの前で、宿泊客の車の誘導に当たっていた男性に尋ねましたが、解りませんでした。「こういうことなら古くからここに住んでいそうな人に訊くのがよかろう」と思い、目についた和菓子屋に入りました。これがビンゴ。「あのあたりにありました」と教えられたのが、何のことはない、当方が車を駐めた広い駐車場のあたりでした。たまたまその店内には、浅虫温泉街の古い写真も飾ってあり、許可を得て撮影させていただきました。

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こんな風に聞き込みなどをしていると、何だか、内田康夫氏原作のシリーズに登場する探偵・浅見光彦になったような気分でした。そういえば、浅見も時折、旅先でレンタカーを使っています。しかし、浅見は行く先々で美人の地元新聞記者や、眉目麗しい地元観光協会の女性職員などと懇意になりますが、当方はそういう機会にめぐまれません(笑)。逆に、浅見と違って事件に遭遇することもないので助かっていますが(笑)。

さて、「東奥館」があったというのはこの辺り。そう思って見ると、やはり感慨深いものがありました。

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近くには元の東北本線だった「青い森鉄道」の浅虫温泉駅。足湯もありました。

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その後、一路、この日の宿の十和田湖へ。この日は東北北部はまだ梅雨明けが宣言されておらず、雨中の運転でした。宿は3度目の宿泊となる十和田湖山荘さん。

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1泊2食付きで7,660円。それでいて十和田湖名物のヒメマスや、B-1グランプリ獲得の「十和田バラ焼き」も出て、かなりお得です。

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温泉にゆっくり浸かり、旅先ではいつもそうですが、さっさと床につきました。

続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月30日

大正2年(1913)の今日、光雲と共に東京美術学校に奉職し、同時に帝室技芸員を拝命した彫刻家、石川光明が歿しました。

石川は象牙彫刻で名を成しましたが、元々は神社仏閣の外装を手がける宮彫師の家系。のちに木彫に転じています。昨年から全国を巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展でも、光雲作品と共に石川の作品も展示されています。

当方の住む千葉県香取市佐原地区の大祭は夏と秋、年に2回行われていますが、引き回される山車の彫刻の中に、石川の家系が関わったものが複数あります。

先ほど、青森方面1泊2日の行程を終えて、千葉の自宅兼事務所に帰り着きました。

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すみません。さすがに疲れました。詳細は明日以降、レポートいたします。

上記画像をご覧の上、内容をご想像下さい(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月29日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を、盛岡の大村服飾学校の生徒、10名ほどが訪れました。

山林孤棲の生活を送る光太郎の生きざまに感銘を受けた岩手の教育者達が、たびたび生徒を連れて光太郎の山小屋や、近くの山口小学校を訪問し、光太郎の話を聴かせました。同校以外にも、やはり盛岡の生活学校、美術工芸学校、花巻町近辺の小中高校など。光太郎も若い世代との交流は喜んでいたようです。

大村服飾学校については、先月書いた「豚の頭を食う会」の記事をご覧下さい。

今日から1泊2日で、青森は十和田湖に行って参ります。

光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした、岩手県稗貫郡太田村(現・花巻市)の太田地区振興会の皆さん、約40名が、明日、研修旅行的に十和田湖を訪れ、光太郎最後の大作彫刻である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流を図るそうで、それに便乗します。

乙女の像観覧の他、遊覧船でのクルーズ、昨秋開館した「十和田湖観光交流センターぷらっと」の見学などを行うそうで、「ぷらっと」で地元の方々との交流会が行われ、その席上、当方の講演もプログラムに組み込まています。

まぁ、どうしても当方が参加しなければならないというわけでもないのですが、当方、片雲の風に誘われて漂白の思いやまぬ百代の過客を自認しておりまして、自宅兼事務所にくすぶっていると、そぞろ神が心を狂わせ、道祖神の招きにあって取るものも手につかない状態になることがしばしばあり、表八句は残しませんが、行って参ります。

冗談はさておき、こういうご縁は大切にせねば、という思いがありますので。

ついでに青森市民図書館さんで調べ物、さらに現地ではレンタカーを借りますので、浅虫温泉やら十和田湖畔の宇樽部やら、光太郎の足跡の残る場所をたどろうと考えています(奥入瀬渓流や蔦温泉、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉などには昨年、足を運びました)。

ところで、十和田といえば、先頃、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんの方から、地方紙『デーリー東北』さんのコピーを戴きました。先月の記事ですが、ご紹介します。

高村光太郎の図書貸し出し 蝦名さん、十和田湖畔の喫茶店に

 十和田市のNPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さん(60)=三沢市=が、十和田湖を訪れる観光客に乙女の像の作者高村光太郎に親しんでもらおうと、関連図書約80冊を湖畔休屋の喫茶店「茶房憩」に貸し出した。年末まで同店に置く予定。
 蝦名さんが本を収集するきっかけは6年前、同法人のガイド養成研修を受講し、光太郎の像がなぜここにあるか説明できなければと思ったことから。
 最初は県内の古本屋を回って購入。最近はネット上での収集にも力を入れている。気軽に本を手に取ってもらえるようにと、喫茶店に設置を依頼。和紙が使われた1941年製本の「智恵子抄」の初版本をはじめ、全集や画集も含まれている。
 蝦名さんは「自分の本棚に飾っておくのももったいない。高村光太郎像が近くにあるので、寄ったついでに書に触れてほしい。光太郎のことを知って、好きになってくれればいいな」と十和田湖の活性化に期待を寄せた。

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蝦名氏とは、一昨年の智恵子の命日の集い・「レモン忌」でご一緒させていただきましたが、こういうことをなさったとは存じませんでした。素晴らしいと思います。また、こういう記事を載せて下さる『デーリー東北』さんも素晴らしいと思います。

ちなみに茶房憩さんは「ぷらっと」の向かい、遊覧船の桟橋広場の一角にある喫茶店で、当方も一度、花巻高村記念会の事務局の方とお邪魔したことがあります。今日か明日、余裕があればまた寄ってみたいと思っています。

というわけで、行って参ります!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月28日

昭和23年(1948)の今日、茨城県取手町(現・取手市)の長禅寺に、光太郎が題字を揮毫した「開闡」(かいせん)郷土」碑が除幕されました。

取手には、戦前から光太郎と交流のあった詩人の宮崎稔が住んでおり、その父親で、地元の有力者にして文化人であった仁十郎も光太郎に親炙しました。その関係で、取手随一の古刹である長禅寺に建てられた碑に、光太郎の筆跡が使われました。

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他にも長禅寺には、やはり光太郎が題字を揮毫した「小川芋銭先生景慕之碑」(建立・昭和14年=1939)も現存します。

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当方が訪れた際、どちらも光太郎筆跡が使われていることが大々的に説明されておらず、ひっそりと建っていました。現在はどうなのでしょうか。

テレビ放映情報です。 

発掘!歴史に秘めた恋物語「~高村光太郎と智恵子~決して女神でない」

BSフジ・181 2015年8月3日(月)  22時00分~22時55分

高村光太郎が『智恵子抄』に描いた童女のような智恵子と美しい愛の物語。しかしその陰には智恵子の限りない苦悩が!そして光太郎と智恵子に訪れた奇跡とは?.
今から70年以上前の戦時中に売り出されベストセラーとなった一冊の詩集・智恵子抄。 作中では夫に献身的な愛を注ぎやがて精神を病んで死んでいく妻の姿が描かれた。 作者は詩人で彫刻家の高村光太郎。妻の名は智恵子。光太郎が美しく描いた智恵子は本当の智恵子の姿ではなかった。本当の智恵子はどんな女性だったのか。女優・石田えり、詩人・郷原宏とともに紐解いて行く。

出演者 勝村政信 石田えり 郷原宏(文芸評論家)


BSフジさんで、昨年始まった番組です。これまでに竹久夢二や谷崎潤一郎、岡本一平・かの子などを取り上げてきています。始まった段階で、タイトルを見て「いずれ光太郎智恵子を取り上げてほしいものだ」と思っていましたところ、5月くらいでしたか、当会顧問の北川太一先生から、8月3日オンエアで、番組制作会社のテレコムスタッフさんが取材に来る、というお話を聞きました。先生のお手元にある智恵子書簡などの資料を使うとのこと。当方も連絡をとってみましたが、結局こちらには協力要請は来ませんでした。

余談になりますが、秋に放映予定のNHKさんの番組でやはり光太郎智恵子が取り上げられます。そちらの協力要請は少し前にありました。また近くなりましたら詳細をお伝えします。

さて、「歴史に秘めた恋物語」。MCの勝村政信さん以外に、ゲスト二人のスタジオトークが入るというのは制作会社さんに伺い、どなたがご出演されるのかと気になっていましたが(妙な人に依頼が行って、番組をぶちこわされると困りますので……)、石田えりさんに郷原宏氏と知って、安心いたしました。

石田さんは、平成16年(2004)に、柄本明さんとの二人芝居「れもん」で智恵子役を演じられました。

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郷原氏は、昭和58年(1983)に、未来社から『詩人の妻 高村智恵子ノート』という書籍を刊行されています。もとは同社の雑誌『未来』に昭和55年(1980)から17回にわたり連載されたものです。

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また、平成10年(1998)、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?! 高村智恵子」にもコメンテーターとしてご出演されました。

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当方、今回は制作に関わっていませんので、どういう話になっているかわかりませんが、楽しみです。

ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月27日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、ネズミがわなにかかりました。

当日の日記の一部です。

夜鼠ワナにかかる。一匹。

太田村の山小屋での7年間は、ネズミなどの動物や虫との戦いの日々でした。同じ月の日記にもたびたびネズミについての記述があります。「アンツウ」は殺鼠剤です。

鼠気息えんえんの状態にてあるきまはり居り、一匹。捕らえんとすればにげる。アンツウの為ならん。(7/9)

鼠大なるもの昼間出る、アンツウ入ソバ団子を五個つくりて所々に置く。中に唐辛子も入れる、(7/22)

後刻水汲みの時、鼠一匹井戸の中にて溺れてゐるのを発見、引き上げて南瓜の肥料に埋める。多分薬をくつた鼠ならん。井戸の蓋を必ずすることにする。(7/23)


この年の冬には、こんな短歌も詠んでいます。

毒物を置きて鼠にあたえむとしつつきびしき寒夜を感ず

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり

新刊です。
2015/07/13 半藤一利著 ポプラ社 定価1,600円+税

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著者の半藤氏は、保守派の論客として知られていますが、靖国神社へのA級戦犯合祀には極めて批判的であったり、昭和天皇の戦争責任についても否定しなかったりなど、幼稚な右翼とは一線を画しています。今年は戦後70年ということで、書店の店頭に関連の特設コーナーなどが設けられていることが多いのですが、『日本のいちばん長い夏』など、氏の著書や編著なども平積みで並んでいます。

さらに氏の奥様は夏目漱石の孫にあたり、『漱石先生ぞな、もし』などの漱石関連の著書も多数あります。本書も七話に分かれているうちの「第三話 漱石『草枕』ことば散歩」がまるまる漱石がらみですし、他の章でも折に触れ、漱石の話が出てきます。

先週の『産経新聞』さんに書評が載りました。

【編集者のおすすめ】85歳の啖呵にしびれる 『老骨の悠々閑々』半藤一利著

 85歳にして、いまなお旺盛な執筆活動を続ける半藤一利氏。その創作の傍らには版画がありました。資料を読んだり原稿を書くことに疲れたりすると、版木に向かい、気持ちをリセットしていたそうです。打ち合わせでご自宅にお伺いしたときに、アトリエから持ってきてくださった秘蔵の版画の数々が実に素晴らしく、多くの方に見ていただきたいと思ったのでした。
 本書は「昭和」を描く作家として知られる氏が、博識と教養を駆使して近代文学、文化についてユーモラスに論じた書き下ろし原稿と単行本未収録の随筆、それに数々の版画が彩りを添えた永久保存版の一冊となりました。
 なんと言っても秀逸なのが、言葉遊び。夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉のあざやかな啖呵(たんか)をひきあいに出し、「語彙を豊かに、バシバシ重ねてやらないと」と喝采を浴びせ、昨今の紋切り型表現の多用や言葉狩りの風潮を風刺します。
 一方で、高村光太郎の詩「根付(ねつけ)の国」をひきつつ、今の日本人を“茶碗のかけら”のようだと評します。「何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけない」といいます。戦後70年、何かときな臭い情勢に、自らを老骨とうそぶく著者の軽やかな言葉が、時に重く響きます。(ポプラ社・1600円+税)
 ポプラ社一般書編集局 木村やえ


というわけで、先週も別件でご紹介した光太郎詩「根付の国」が取り上げられています。

  根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


これとよく似ているのが、漱石や一葉、芥川が作品中に書いた啖呵や罵詈雑言だというのです。現代の社会通念上、不適切な表現も含みますが、原文を尊重し、そのままとします。

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこつかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいい」(『坊っちゃん』)

「仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの活地(いくじ)なしめ、」(『たけくらべ』)

「意地わるの、根性まがりの、ひねツこびれの、吃(どんも)りの、歯つかけの、嫌な奴め」(同)

「この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥雑な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだろう。」(『河童』)

たしかに似ています。そして、こうした罵倒の仕方は、古典落語から学んだのではないかとのこと。

「揉みくちゃばばあ、ちり紙ばばあ、反故紙(ほごがみ)ばばあ、浅草紙ばばあ、落とし紙ばばあ、小半紙ばばあの端切らずばばあ、ってえんだ」(「山崎屋」)

光太郎も落語はよく聞いていたと推測できますし、『坊っちゃん』や『たけくらべ』も読んでいたと思われます。特に『坊っちゃん』の一節は、「ももんがあ」がかぶっています。ただ、明治期には「ももんがあ」を悪口に使う例はかなり一般的だったようではあります。

さて、半藤氏の筆は、「根付の国」から次のように展開します。

 この辛辣な批評、そのまま今の日本人に当てはまる。
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本人にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。

その通りですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月26日

昭和24年(1949)の今日、詩人・文芸評論家の野田宇太郎から野田の著書『パンの会』を贈られました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの記述です。

〔受〕市川二巳氏よりハカキ 菊池暁輝氏よりテカミ(写真同封朗読会) 麻野和子さんといふ人よりハカキ及遺稿集「柊」 野田宇太郎氏より「パンの会」小包

『パンの会』はこの年7月10日、六興出版社から刊行され、光太郎も参加した明治末年の芸術運動、「パンの会」についての詳細を記しています。光太郎はこの労作を高く評価し、対談などでこれに触れています。

2年後に増補版として『日本耽美派の誕生』と改題、刊行されています。

8月5日には野田への礼状を書きました。

昨日ご紹介した、東京都美術館さんでの「「伝説の洋画家たち 二科100年展」について、いろいろと報道されていますので、ご紹介します。

まず『日本経済新聞』さん。22日の水曜日、文化面にてカラーで紹介されています。光太郎の名も。

 明治末に高村光太郎が評論「緑色の太陽」で芸術家の表現の自由を高らかに宣言してから4年。二科会では留学帰りの画家らが中心となり、海外で吸収した新しい美術を世に問うた。

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光太郎自身は二科会には所属しませんでしたが、昨日ご紹介したとおり、縁の深い画家・彫刻家が名を連ねています。彼等が光太郎の「緑色の太陽」に触発されたであろうことは想像がつきます。その二科展に対して、光太郎は好意的な展覧会評も書きました。

ちなみに「緑色の太陽」は、明治43年(1910)、『スバル』に発表された日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。


続いて『産経新聞』さん。21日(火)の記事です 

小倉智昭さん、「二科100年展」を絶賛

 人気キャスター、小倉智昭さん(68)が21日、東京都台東区の東京都美術館で開催中の展覧会「伝説の洋画家たち 二科100年展」を訪れた。東郷青児や岡本太郎ら多くの芸術家が発表の舞台としてきた二科展の作品約120点を鑑賞し、「100年通してみられる機会はそうない。面白い」と絶賛した。
 小倉さんは鑑賞後、岡本太郎の作品「裂けた顔」(昭和35年、川崎市岡本太郎美術館蔵)を前に、「大阪万博の『太陽の塔』は有名だが、その10年前に二科展に出されていたとは。岡本作品はあまり外に出てこないので貴重」と感慨深げだった。
 日本三大公募展の1つ「二科展」は今年9月で100回を迎える。

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産経さんは同展の主催団体に名を連ねており、紙面での紹介にも力を入れているようです。先週には開催告知の大きな記事が出ましたし、一昨日には同展出品作の紹介「【伝説の洋画家たち 二科100年展】(上)岸田劉生 徹底した写実が生む神秘性」という記事も載りました。「(上)」ですので、さらに続きが出るのでしょう。


さて、「伝説の洋画家たち 二科100年展」ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月25日

明治45年(1912)の今日、詩「N――女史に」を執筆しました。

この年(ただし7月30日に大正改元)9月1日発行の雑誌『劇と詩』に発表されました。

   N――女史に000

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――

 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな

種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方
それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で001
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から

万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで
乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい003
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――

のち、この詩は大正3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、細部もいろいろと手が入ります。さらに昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることとなります。その際の題名は「人に」と帰られました。


   人に005

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を

どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な006
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて


詩としての完成度はこちらの方が高いといえます。しかし、原型の「N――女史に」の方が、ある意味、直裁に感情をぶつけている生々しさが感じられます。

改稿の際に削除された「あの醜(みにく)い猿の児を生んで/乳をのませて/おしめを干して」といった部分や、改稿後は単に「サンタマリア」という聖母マリアへの呼びかけだけになっている部分が、「サンタマリア!/あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい」と、恋の妄念、我執に囚われる自らの救済を乞い願う内容だったりと。「あの恐ろしい悪魔」は、智恵子ではありません。念のため(笑)。

東京都美術館さんで開催中の展覧会。主に絵画の分野で光太郎と縁の深かった諸作家の作品が多数展示されています。 題して「二科100年展」。大正3年(1914)に創立され、今年、100回展を迎える在野の美術団体・二科会の回顧展です。

二科会には第6回展から彫刻部が置かれ、光太郎は好意的に紹介していました。

二科の彫刻は数量的に小さい割にしつかりしてゐる。藤川勇造氏、ザツキン氏、渡邊義知氏等は十分研究に値する。二科の絵画部には新感覚の最先端から超現実派の新鋭まで存在するが、彫刻の方ではザツキン氏を除いては、概してハイカラではあるが素朴質実な道を歩いて居る。(「上野の彫刻鑑賞」 昭和4年=1929)

二科の彫刻部は一見渾沌としてゐるやうであるが、そのハイカラ性は現社会の所謂インテリゲンチヤ層の嗅覚に属する基調を持つてゐる。何処かブツキツシユであり、何処か中間的であり、何処か示唆的であり、何処か国際貿易的であり、何処か知的感傷性を持つて居り、また何処かに現社会の謂ふ所のエログロ的感電の萌芽が見える。まだ概して此の部の人達は消極的にしか、或は内部的にしか仕事してゐないからすべて之等の特性も表面に露骨には出てゐない。けれども嗅ぎわければさういふ匂がするのである。此の部がもつと隆盛になり、もつと多種の要素が加はつてその特色の発揮せられるのも遠くないだらうと思はれる処に興味がある。(「上野の彫刻諸相」 昭和5年=1930)


期 日 : 2015年7月18日(土) ~ 9月6日(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 東京都美術館 企画棟 企画展示室 東京都台東区上野公園8-36
休館日 : 月曜日
時 間 : 9:30~17:30 (入室は閉室の30分前まで)  金曜日は9:30~21:00
観覧料 : 前売券  一般 1,300円 / 学生 1,000円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
         当日券  一般 1,500円 / 学生 1,200円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円

当館創設の機をもたらした美術団体展の中でも在野の雄であった二科会。岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、藤田嗣治、松本竣介、岡本太郎、東郷青児など、実に様々な作家たちが発表し、海外からはマティスらも参加した二科会の100年の歴史から、20世紀の日本美術史を展観します。

関連行事 : イブニングレクチャー 19:00~19:30  聴講無料
      ただし本展観覧券(半券可)が必要
 7月24日(金)「100回展、そして…」 生方純一(公益社団法人二科会 常務理事)
 7月31日(金)「二科草創期の個性派たち」 川内悟(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月7日(金)  「戦後からの二科会」 松室重親(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月14日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月21日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月28日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)

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「光太郎と縁の深かった諸作家」と書きましたが、出品リストで見ると、以下の名前が挙げられます。

有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、熊谷守一、坂本繁次郎、津田青楓、中川一政、藤川勇造、藤田嗣治、松本竣介、村山槐多、安井曾太郎、山下新太郎、萬鉄五郎、アンリ・マティス、などなど。


9月~11月には大阪市立美術館、11、12月で福岡の石橋美術館への巡回もあります。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月24日

昭和2年(1927)の今日、長野県小諸の懐古園に島崎藤村の「千曲川旅情の歌」詩碑が除幕されました。

碑面は藤村の自筆原稿から作ったブロンズのパネル。鋳造は光太郎の実弟にして、のちに鋳金分野で人間国宝となる高村豊周です。今でこそブロンズパネルの文学碑は珍しくなくなりましたが、この藤村碑をもってこの技法が確立されました。

当方の30年以上前のアルバムに、懐古園の入場券が貼り付けてありました(笑)。下の写真が藤村碑です。

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光太郎と縁の深かった彫刻家2人を中心とした企画展をご紹介します。

まずは舟越保武。戦後には岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執り、たびたび同校に招かれた光太郎と交流を持ちました。それ以前の、戦前には長女(このブログでたびたびご紹介している末盛千枝子さん)の名付け親になってもらったり、光太郎歿後の昭和37年(1962)には「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されたりしています。 

開館30周年記念 舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに

期 日 : 2015/07/12(日)~2015/9/6(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 練馬区立美術館 練馬区貫井1丁目36番16号
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日(月曜・祝日)は開館、翌21日(火曜)休館)
時 間 : 午前10時~午後6時 ※入館は午後5時30分まで
観覧料 : 一般800円、高校・大学生および65~74歳600円、
      中学生以下および75歳以上無料、


舟越保武は1912年(大正元)に岩手県に生まれ、盛岡中学時代にロダンに憧れて彫刻家を志しました。大理石や砂岩などの石による清楚な女性像で知られる舟越がはじめて石彫に取り組んだのは練馬に在住していた1940年(昭和15)のことであり、舟越は練馬ゆかりの作家でもあります。
1950年(昭和25)以降は自らのカトリック信仰に裏付けられた宗教的主題の作品で独自のスタイルを確立しました。それらは崇高な美しさをたたえており、他の具象彫刻作品とは一線を画するものです。とりわけ、長崎市に設置された《長崎26殉教者記念像》や《原の城》、《ダミアン神父》は、彼の代表作というだけでなく、戦後日本の彫刻を代表する重要な作品の一つといえるでしょう。 1987年(昭和62)に病気のために右半身不随となりましたが、その後10余年にわたり左手で制作を続け、それまでとは異なる迫力を持つ作品を生み出しました。
本展では、代表的な彫刻作品約60点に加え、初公開を含む多数のドローイングを展示し、舟越保武の生涯にわたる彫刻の仕事を回顧いたします。


関連行事 ※要事前申込 いずれも往復ハガキまたはEメールでお申し込み。

 記念講演会「舟越保武の彫刻:造形性をめぐって」 
   日時 7月25日(土曜) 午後3時~
   講師 髙橋幸次(日本大学芸術学部教授)
  
 記念講演会「手で見るという事―私の舟越保武体験―」   
   日時 8月8日(土曜) 午後3時~
   講師 萩原朔美(多摩美術大学造形表現学部教授)
  
 声優、銀河万丈による読み語り  【貫井図書館共同主催】
   日時 8月29日(土曜) 午後3時~
  
 <美術講座>石彫「身体の一部を彫ってみよう」
   日時 8月8日(土曜)、9日(日曜)【2日制】
      両日とも、午前10時30分~午後5時
   講師 石井琢郎(彫刻家)

 映画上映会「日本二十六聖人 われ世に勝てり」
  (1931年、90分、製作:平山政十、弁士:小崎登明修道士)
   日時 8月30日(日曜) 午後3時~


申し込み不要の関連行事

学芸員によるギャラリートーク
   日時 8月1日(土曜)、15日(土曜) 両日とも、午後3時~
 記念コンサート
   日時 8月22日(土曜) 午後3時~
   演者 小池ちとせ(ピアノ・武蔵野音楽大学准教授)
      河野めぐみ(メゾソプラノ・藤原歌劇団団員/武蔵野音楽大学講師)

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続いて、光太郎の盟友だった碌山荻原守衛。 

夏季・秋季特別企画展 制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty007 (2)

期 日 : 2015/08/1(土)~2015/11/8(日)  
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
休館日 : 会期中無休
時 間 : AM9:00~PM4:10(入館は30分前まで)
観覧料 : 大人 700円 高校生 300円 小中学生 150円

荻原守衛(号:碌山 1879-1910年)の残した傑作《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが《文覚》(1908年) 《デスペア》(1909年)の二つの作品です。鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚上人の苦悩を見て取り制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。最後の作品 《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にも
つながるものなのです。
個人的な思いを元にして作られた作品が普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。


「文覚」、「デスペア」、「女」。それぞれ、光太郎が激賞した守衛の作品の題名です。

以下、光太郎の詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)です。

  荻原守衛

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあつた、007
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。

単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。

――原始、008
――還元、
――岩石への郷愁、
――燃える火の素朴性。

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラツク。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。
004
粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動き出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊りを一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。


この詩を刻んだ詩碑が同館の庭に建っています。ここ最近、毎年4月22日の碌山忌の集いで朗読されてもいます。「絶望」が「デスペア」。上記のチラシに印刷されている彫刻です。


それぞれぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月23日009

昭和56年(1981)の今日、集英社から円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』が刊行されました。


この中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。

函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

他の「モデル」は、有島武郎『或る女』の佐々城信子、徳富蘆花『不如帰』の大山信子、永井荷風「風ごこち」「矢はずぐさ」の藤蔭静枝、谷崎潤一郎『痴人の愛』の小林せい子、そして竹久夢二の絵のモデルとなった山田順子です。

テレビ放映情報です。

まずは今夜。智恵子の故郷、二本松市でのロケが行われた番組です。

きらり!えん旅 ~伍代夏子 福島・川俣町 二本松市へ~

NHKBSプレミアム 2015年7月22日(水)  19時30分~20時00分 
再放送 7月28日(火) 18時30分~19時00分  7月29日(水) 11時05分~11時35分

番組内容
歌手の伍代夏子さんがまず訪ねたのは福島県川俣町。名物の川俣シャモを飼育する農家や、避難指示解除準備区域でトルコギキョウを育てる農家に会い、これまでの苦労話を聞いた。続いて訪れた隣の二本松市には、近くの浪江町から原発事故で避難してきた人たち2千人以上が暮らしている。浪江の人たちと二本松の人たちをつないだのが、野菜がいっぱい入った郷土料理「ざくざく」。伍代さんも早速ごちそうになった。

出演者 伍代夏子  語り 冨永みーな

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こちらは2012年に始まって、息の長い番組となってきました。初期の頃に由紀さおりさんによる二本松訪問の様子も放映され、光太郎智恵子がらみの内容となっていました。今回もそうした話が出ることを期待します。


続いて26日の日曜日、通称「乙女の像」の立つ十和田湖が紹介されます。また、大正2年(1913)に光太郎智恵子が婚前旅行で訪れた信州・上高地も。

夏の絶景 いい旅スペシャル

テレビ東京 2015年7月26日(日)  18時30分~20時54分

北海道・知床の滝と雲海、青森の緑溢れる奥入瀬渓流と秘湯、長野の人気の避暑地・上高地と安曇野の夏の絶景をお届け!涼やかな風景を圧倒的な映像美で魅せる旅番組。

出演者
≪旅人≫
北海道 知床   ダイヤモンド☆ユカイ、杉村太蔵、北川弘美
青森県 奥入瀬渓流~八甲田山   林家三平、国分佐智子
長野県 白馬~安曇野~上高地   野口五郎、新田恵利、秋元才加 
ナレーター 広中雅志

旅番組での夫婦共演は初めて!林家三平・国分佐智子夫妻が訪れるのは、青森県奥入瀬渓流~八甲田山。まず向かったのは夏の青森の絶景名所「奥入瀬渓流」。雲井の滝や銚子大滝ほか、300種類以上も自生しているコケの美しい世界も楽しむ。穴場のイタリアンでは青森の味覚を堪能し、さらなる絶景を求めて十和田湖へ。遊覧船からの夏ならではの絶景を堪能し、蔦温泉へ。「1000年の秘湯」と呼ばれる宿で、名曲も生まれた部屋で過ごす。
そして早朝、鏡のように八甲田の山々を映す蔦沼で、日の出の絶景を拝む。さらに足をのばし、八甲田山へ。ロープウェーで山頂に上がり、夏の絶景を望む。さらに散策路を進んで、田茂萢岳(たもやちだけ)湿原へ。八甲田の山々とそれらを映す湿原の水面の絶景に酔いしれる。下山して、萱野高原へ。新緑の絨毯を敷き詰めたような高原から、八甲田の山々を一望する絶景ポイントを巡る。

新御三家の野口五郎と、おニャン子クラブの新田恵利、元AKBの秋元才加の元アイドル3人で巡るのは、人気の避暑地・信州! 白馬では熱気球に乗って、地上30メートルから北アルプスの山々の絶景を楽しむ。 さらに長野オリンピックで日本ジャンプチームが金メダルに輝いた、白馬ジャンプ競技場へ。リフトでスタート地点へ登り雄大な景色を堪能する。
安曇野では、穂高の天然水を使ったそばに舌鼓を打ち、広大な敷地に1日12万トンもの湧水をたたえるわさび農場も訪れる。 そして、緑に囲まれた純白の白骨温泉へ。手つかずの自然の静寂の中で、名湯の源泉かけ流しの贅沢に浸る。 さらに翌日は上高地へ。穂高連峰や焼岳など雄大な自然を望む。

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こちらも、少しでも光太郎智恵子にふれてほしいものです。

ちなみに27日の月曜日にも、BSジャパンさんで「にっぽん!いい旅「夏の青森!完全制覇」」の放映がありますが、こちらは昨年放映されたものの再放送で、「乙女の像」にはふれていなかったと思います。


テレビ放映の場合、事前に細かな内容が告知されないと、実際に視聴するまで光太郎智恵子にふれるかどうかわかりません。そのため、このブログで事前の紹介が漏れるケースが多く、残念に思っております。

7月19日の日曜日には、BSジャパンさんで「美しき日本百景~Beautiful Japan」という番組が「北の春  新緑と清流 ~青森 十和田湖・・奥入瀬~」でした。「乙女の像」にふれるかどうか微妙だな、と思って、このブログでご紹介しませんでしたが、いざ放映されてみると、都合1分間ほどでしたが、像の紹介がありました。

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昨夜はNHK総合さんで「歌謡コンサート」。サブタイトルが「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」。こちらは直前にスタッフさんのブログで光太郎智恵子にふれることが紹介されましたが、ネット上の番組紹介のページではそれはありませんでした。

演奏の合間に、大竹しのぶさんが、さまざまな「手紙」の朗読をなさいました。寺山修司から九條今日子への手紙、南極観測隊員の妻から隊員である夫への手紙、福岡在住の一般女性が最近書いた70年前に戦争で亡くなった夫への手紙などなど。そして「手紙」ではありませんが、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」の一節も朗読されました。

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大竹さんといえば、平成14年(2002)に、野田秀樹作の一人芝居「売り言葉」で智恵子を演じられています。昨夜はその大竹さんも歌を披露。中島みゆきさん作詞作曲、研ナオコさんの歌唱でヒットした「かもめはかもめ」のカバーでした。


日々、洪水のように制作され続けるテレビ番組、いちいち事前に細かな内容を告知するのは不可能でしょうが、各局番宣担当の皆さん、できる限りをお願いしたいものです当方もなるべく細かい情報収集に心がけます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月22日

昭和29年(1954)の今日、所得税、地方税を銀行振り込みで納めました。

昭和27年(1952)、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手太田村から上京した光太郎でしたが、住民票はしばらくそのまま太田村に残し、したがって、税金も太田村に納めていました。それもこの年までで、翌年には東京に住民票を戻します。合併による太田村消滅もその理由ですし、もはや自らの命が永くないことを悟っていたようです。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

福島の地方紙2紙から。

まずはちょっと古い記事ですが、『福島民友』さん。

時代知る復刻雑誌展 「青鞜」や「明星」など貴重な資料

 福島市森合の県立図書館で3日、「復刻雑誌展」が始まり、展示スペースに紹介された同館所蔵の貴重な雑誌を通して明治、大正など当時の時代背景を知ることができる。8月5日まで。
 同展は、同館が雑誌に関する理解と認識を深め、図書館資料としての雑誌の利活用促進を図ることを目的に、初めて開いた。
 同館によると、展示されている雑誌は「青鞜(せいとう)」や「明星」など教科書でも知られた雑誌を中心に15タイトル約90点。このうちグラフ誌「風俗画報」では、1896(明治29)年に起きた三陸大津波の悲惨な災害の様子などが石版画で紹介されており、当時の様子を伝える貴重な資料の数々に利用者が足を止め見入っている。
(2015年7月4日 福島民友おでかけニュース)

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明治44年(1911)の創刊号をはじめ、智恵子が描いた表紙絵が繰り返し使われた『青鞜』、光太郎の文学活動の本格的な出発点となった『明星』。記事ではわかりにくいのですが、「復刻」と冠しているので、オリジナルではないのでしょうが、雰囲気をつかむのには良いかと思います。

福島県立図書館さんのサイトにある紹介はこちら


続いて『福島民報』さん。

智恵子の生家を特別公開 平成27年8月23日まで

 二本松市教委は夏休み初日の18日、市内の智恵子の生家で高村智恵子の居室などの特別公開を始めた。
 市合併10周年を記念した。特別公開したのは2階の智恵子の居室や夫・光太郎が過ごした部屋、家人や杜氏(とうじ)の寝室、1階の茶の間や奥座敷など。
 かつて智恵子が通った油井小の2年生の熊谷璃麻(りお)さんは「智恵子さんの部屋を初めて見ました。今のおうちと違うと思いました。楽しかったです」と目を輝かせていた。
 生家は木造2階建て。明治16年に造り酒屋として建てられたとされ、当時の建築様式を今に伝えている。
 夏休み期間の特別公開は平成27年8月23日までの土、日曜、祝日の午前11時からと午後1時30分からの1日2回。秋と冬にも特別公開する。問い合わせは二本松市智恵子記念館 電話0243(22)6151へ。
( 2015/07/19)

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大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」の関係で、先月から公開が始まっていましたが、DCが先月末で終了し、いったん中断していたものが再開しました。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月20日

昭和50年(1975)の今日、集英社から山本鈴美香著 『エースをねらえ!』 第9巻「全世界招待試合開始の巻」が刊行されました。

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光太郎詩「人に」と「道程」が引用されています。

「人に」は、「N――女史に」の題で大正元年(1912)の雑誌『劇と詩』に発表され、のち、改稿を経て『智恵子抄』(昭和16年=1941)の巻頭を飾りました。

『エースをねらえ!』では、主人公の高校生テニスプレーヤー・岡ひろみが、先輩であり彼氏でもある藤堂貴之の通う大学の大学祭で見た、電子工学部・心理学部・芸術学部協作の映像アトラクション「イメージの箱」に使われていました。

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「道程」は、世界の強豪高校生との試合が行われることを知らされ、決意を新たにするひろみが思い浮かべています。

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当時の少女達の中には、これで光太郎の詩に興味を持った、という人が少なからずいたようです。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」に関する情報です。
 
 
同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

「1000年後のいのちを守る」を合い言葉に、震災のあった2011年の4月に中学生になったかつての女川一中生のみなさんが、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建てる事業を進めています。その7基目の除幕式が、避難訓練を兼ねて明日行われるとのこと。コミュニティ放送局・女川さいがいエフエムさんのサイトから情報を得ました。 

絆を深めるための津波避難訓練in野々浜

日 時 : 平成27年7月19日(日)
場 所 : 女川町野々浜 野々浜港(牡蠣処理場前)
主 催 : いのちの石碑を作る女川の子どもたちを支える会
      女川1000年後のいのちを守る会
日 程 : 受付 9時30分~9時50分 避難訓練 10時~10時50分 除幕式 11時~11時50分


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TBCラジオ東北放送さんのサイトにも記述がありました。

~「いのちの石碑」を作る女川の子どもたちを支える会 阿部一彦さん~

 震災時女川一中で教頭をつとめていた阿部さんは、震災後女川中学校の1年生が提案した「1000年後のいのちを守るための石碑」を作る女川の子どもたちを支えています。石碑は7基目になりこどもたちは高校2年生になりました。「もう二度と一人の命も失いたくない」、ひとりの命を守るためにはどうするかを考え続けている子供達は今月19日(日)に「絆を深めるための津波避難訓練in野々浜」を開催することにしました。
7基目の石碑の披露式とともに1000年後の命を守る、よりよい町づくりについて女川の子どもたちと考える機会です。みなさんもいっしょに考えませんか?


まだ細かな連絡が来ていませんが、予定通りであれば来月9日には、恒例の女川光太郎祭も行われるはずです。3月にはJR石巻線の女川駅が復活した女川、震災から5度目の夏。記憶を風化させないよう、そして何より復興に向け、着実に歩んでいって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月18日

大正9年(1920)の今日、文献社から『詩集 地上の光』が刊行されました。

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50名余の詩作品を掲載したアンソロジーで、光太郎詩「師走十日」「海はまろく」も収められています。この手のアンソロジーはかなり数が多いのですが、これは光太郎の作品が載ったものとしては古い時期のものの一つです。

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「イロハ順」というところに時代を感じます。「光太郎」が「幸太郎」となっているのはご愛敬(笑)。

一昨日のことです。

昨日ご紹介した篠田桃紅さんの書籍を買いに、新刊書店に行きました。すると、毎年この時期に行われている、夏の文庫本フェア的な特設コーナーが目に付きました。「新潮文庫の100冊」、集英社文庫「ナツイチ」、「発見!角川文庫」など。

「そういえば、新潮文庫版の『智恵子抄』は、最初の頃は「新潮文庫の100冊」に入ってたんだよな……。」と思い浮かびました。この手のキャンペーンの嚆矢である「新潮文庫の100冊」は昭和51年(1976)に始まり、永らく『智恵子抄』がラインナップに入っていました。しかし、いつの間にか選から外れてしまっており、非常に残念です。復活を期待します。

また、集英社文庫さんには林静一氏の装幀による『レモン哀歌 高村光太郎詩集』、角川文庫さんには『校本 智恵子抄』があり、この辺も入れてほしいものです。

そんなことを考えながら、並んだ文庫本を見ていて、ふと、目にとまったのがこちら。

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深田久弥の名著『日本百名山』です。「あ、これも「新潮文庫の100冊」に入ったんだ。」と思いながら手に取りました。

調べてみると、一昨年くらいからラインナップに組み込まれていました(ついでに調べてみると、『智恵子抄』が入っていたのは平成21年(2009)まででした)。中高年の登山ブームを意識しての選定でしょうか。

初刊は昭和39年(1964)。以来、「なぜこの山が選ばれていないんだ」とかいった批判や、他の個人や団体の選定した「百名山」なども乱立する中、深田久弥選定の「百名山」が、確固たる地位を得ているように思われます。

やはり中高年の登山ブームを背景にしていると思われますが、「百名山」を冠したテレビ番組もいろいろと制作されており、このブログでもご紹介してきました。

TV放映情報。  絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」。  にっぽん百名山「安達太良山」。  にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。


光太郎智恵子が大正2年(1913)に婚前旅行に行った上高地に近い穂高岳、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山が「百名山」に選定されている関係です。


さて、新潮文庫の『日本百名山』。安達太良山の項で、光太郎智恵子に触れています。一部分を抜粋します。

二本松から眺めた安達太良山、それを歌った高村光太郎の詩が、この山の名を不朽にした。この詩人と絶対愛に結ばれた妻の智恵子は、二本松の作り酒屋に生れた。彼女は東京にいると病気になり、故郷の実家に帰ると健康を回復するのが常であった。その妻のあどけない言葉を、詩人はうたった。

  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空が見たいといふ。

(略)

 そしてこの詩人夫妻が二本松の裏山の崖に腰をおろして、パノラマのような見晴らしを眺めた時の絶唱「樹下の二人」の一部に、

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈(あぶくま)川。

 この詩と同様「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡」っている秋の末、私もその丘へ上ってみた。

その後、実際に深田は安達太良山に登っていきます。

この他にも、『日本百名山』には、光太郎が詩に詠んだり、実際に登ったりした山がいくつか含まれています。岩手山、早池峰、磐梯山、赤城山、富士山、そして北アルプスの山々。そういうことを考えて手にとっていたら、結局、この本もレジに持って行ってしまいました(笑)。

ところで、『高村光太郎全集』には、深田の名が1回だけですが、出てきます。昭和21年(1946)3月、養徳社という出版社で編集にあたっていた喜田聿衛に宛てた書簡の一節です。

おてがミ及小包忝く拝受、深田さんの「津軽の野づら」にはリーチなど出て来るらしいのでよむのがたのしみに思へます。

『津軽の野づら』は昭和4年(1929)に深田の名で発表された小説です。初刊は同10年(1935)で、のちに養徳社から再刊されています。喜田はこの他にも亀井勝一郎の『大和古寺巡礼』などの自社刊行物を光太郎に贈呈しています。

さて、「津軽の野づら」、実際にはのちに深田と結婚する北畠八穂の作。八穂は青森出身。標準語で文章を書くことに難があったそうで、いわば深田との合作です。他にもそうした作品があり、深田と八穂が離婚したことにより、問題がややこしくなって、深田はいったん文壇から消えざるを得なくなります。その深田が復権したのは、『日本百名山』の執筆においてでした。

そのあたり、平成19年(2007)に朝日新聞社から刊行された『愛の旅人Ⅱ』という書籍に記述があります。

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この書籍には当会顧問・北川太一先生もご登場の「『智恵子抄』 高村光太郎と智恵子」も載っており、非常にいい本ですが、残念ながら絶版です。ただしamazonさんなどでは入手可能です。また、元は『朝日新聞』さんの土曜版の連載なので、記事としてはネット上に残っています。深田に関してはこちら。光太郎智恵子はこちら

というわけで、『日本百名山』、『愛の旅人Ⅱ』、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月17日

平成13年(2001)の今日、東京オペラシティリサイタルホールで国際芸術連盟主催のコンサート「語りと音楽の世界」が開催されました。

岡野富士夫作曲、竹内知子語り、磯野鉄雄のギターで「組詩 智恵子抄 ~ギターと朗読のための~」がプログラムに入っていました。

ライヴ録音のCDがリリースされています。

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昨日の『朝日新聞』さんに、大きな広告が出ました。

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最近じわじわと話題になっている篠田桃紅さんの著書です。

篠田さんは大正2年(1913)のお生まれで、おん年102歳。墨を使った抽象芸術家として、いまだ現役という方です。アメリカを拠点に活動されていた時期もあったそうです。

こちらは新刊ではなく、昨年6月の刊行ですが、やはりじわじわと部数を伸ばし、広告にあるとおり13万部を突破したとのこと。

この中で、光太郎にちらりと触れていらっしゃいますが、それを知ったのは刊行後しばらく経ってからでしたし、あくまで「ちらり」ですので、購入せずにいました。

しかし、他の近著でも光太郎にちらりと触れて下さっていることもわかり、さらに朝日さんに大きな広告も出たので、近著共々購入して参りました。
篠田桃紅著 集英社(集英社新書) 2014年6月17日初版 新書版192ページ 定価700円+税

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篠田桃紅著 幻冬舎 2015年4月9日初版 B6変形版169ページ 定価1,000円+税

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『百歳の力』は新書の売り場に平積み、『一〇三歳になってわかったこと』は「話題の本」的な特設コーナーに置いてありました。ちなみに「一〇三歳」というのは数え年です。

それぞれ帯には「緊急大増刷!」(『百歳の力』)、「40万部突破 !!」(『一〇三歳になってわかったこと』)の文字が躍っており、ともに注目されているというのがわかります。実際、おのおのの奥付を見ると『百歳の力』は「二〇一四年六月二二日第一刷発行 二〇一五年六月二一日第六刷発行」、『一〇三歳になってわかったこと』は「2015年4月10日 第1刷発行  2015年6月26日 第11刷発行」となっています。あやかりたいものです(笑)。

さて、自宅兼事務所に帰って、双方を斜め読みしました。やはりどちらも光太郎にちらりと触れて下さっていました。

『百歳の力』は「はじめに」の中で。

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

最後の段落は帯文にも印刷されていました。

この部分を読んで、智恵子が画家の津田青楓に語ったという次の言葉を思い起こしました。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。(津田青楓『漱石と十弟子』 昭和24年=1949)


『一〇三歳になってわかったこと』でも「道程」が引用されています。

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

この部分からは、戦後、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた頃、地元の太田中学校に贈った次の言葉を想起しました。

心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する

無理矢理ですかね(笑)。


ところで、2冊を斜め読みした中で、篠田さんが女学校時代、短歌を中原綾子に師事していたという記述を見つけ、これは存じませんでしたので、驚きました。中原は光太郎と交流の深かった歌人です。

その他、光太郎と交流のあった面々の名前もあちこちに現れます。篠田さんご自身とも交流があったところでは、三好達治や草野心平など。その他、直接のお知り合いではないようですが、森鷗外や夏目漱石、与謝野晶子に太宰治、フランク・ロイド・ライトとか正岡子規などにも言及されています。

驚いたのは、女学校時代の先生が北村透谷未亡人だったとか、芥川龍之介をみかけたことがあるとか……もはや歴史の生き証人でもありますね。

これからゆっくり熟読いたしますが、斜め読みだけでも、素晴らしい年令の重ね方をされてきた方の珠玉の言葉が目にとまります。

皆様もぜひお読み下さい。

追記・篠田さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん他ご出演)の題字を揮毫なさっていました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月16日

昭和19年(1944)の今日、『週刊朝日』に散文「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」が掲載されました。

とても読むに堪えない文章ですが、最終段落のみ引用します。

 今度の世界大戦は科学の戦ひだといはれる。科学進展のもとはやはり科学者の着実な自信にある。日本には日本独特の科学の考へ方が生まれるであらうし国民の神性はこの点にも必ず現れる。日本的構想による着眼から必ず彼らの夢にも思はぬ進歩発展が遂げられるに違ひない。科学、芸文、技術、其他々々。それらがすべて一緒一体となつて全国民の気力をますます充たしめ、全国民の純一な気合が期せずして最高の一点に集中する時、御稜威のもと、皇軍は必ず彼等に最後の止めをさすであらう。

今日、戦後の安全保障政策の一大転換となる安全保障関連法案が衆議院を通過するものと思われます。またこうした文章が各メディアを賑わす日が近いのかも知れません。

雑誌としては当方が唯一定期購読しているものに、月刊の『日本古書通信』があります。

今年の5月号から、廣畑研二氏による連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が始まりました。そして昨日、連載の3回目が載った7月号が手元に届きました。

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『南方詩人』は昭和2年(1927)、鹿児島で創刊された雑誌で、同5年(1930)9月まで、全10輯が発行されていますが、今までその全貌が不明でした。国立国会図書館さんには収蔵されておらず、日本近代文学館さんでは昭和5年(1930)1月号のみ所蔵しています(それも欠ページがあるそうです)。この手の地方誌はおおむねそういうものです。

また、時折こういう例もあるのですが、地方誌でありながら、全国区のメジャーどころに寄稿を仰いでいます。廣畑氏の稿によれば、佐藤惣之助、萩原恭次郎、尾形亀之助、草野心平、尾崎喜八、竹内てるよ、木山捷平、黄瀛、小野十三郎、赤松月船、白鳥省吾らの名が執筆者として連なっています。その中に光太郎も。

以前から『南方詩人』に光太郎が寄稿していたことは判明していました。『高村光太郎全集』には、以下の作品が同誌を初出として掲載されています。

昭和4年10月1日号 散文「てるよさんの詩を読んで-詩集『叛く』について-」
昭和5年1月1日号 詩「孤独で何が珍しい」 散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」  散文「平正夫詩集『白壁』に就いて」  書簡二〇三
昭和5年9月10日号 散文「黃秀才の首」

ところが、いかんせん全貌が不明だった地方誌のため、他にも掲載されていたものが漏れていました。

廣畑氏は、沖縄県立図書館さん、いわき市立草野心平記念文学館さん、吉備路文学館さんの3ヶ所に『南方詩人』が収蔵されていることをつきとめ、それぞれの欠損を補って、全10輯の全貌を明らかにされたそうです。

昨日届いた『日本古書通信』7月号掲載の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」第3回に記述がありますが、昭和4年(1929)3月10日発行の第6輯に、ロマン・ロランの戯曲「モンテスパン夫人」の序文が、光太郎の訳で掲載されています。この光太郎訳は今までに全く知られていなかったものでした。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。

廣畑氏から当会顧問の北川太一先生に、この件についてご連絡があり、さらに当方にもそれが廻ってきたのが4月。ただ、添えられていたコピーが不鮮明で読めない、何とかならないか、とのことでした。そこで、連翹忌でお世話になっているいわき市立草野心平記念文学館さんにお願いし、当該箇所のデータを画像ファイルで送っていただきました。北川先生は、翻訳原典である米国版を神保町の田村書店さんを通じて入手なさいました。

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比較的長文の翻訳で、こうしたものが今まで埋もれていたというのが、ある意味、意外でした。全文は来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介します。

他にも廣畑氏の稿によって、『南方詩人』に光太郎作品の掲載状況がいろいろと明らかになっています。例えば大正11年(1922)の第二期『明星』に掲載されたヴェルハーレンの詩「未来」が転載されていたり、生前に活字になった記録が無かった木山捷平あての書簡2487が「詩集「野」読後感」として掲載されていたり、といったところです。

さらに草野心平の作品でも、心平の全集に未掲載のものが大量に含まれているとのこと。地方誌恐るべし、です。

廣畑氏の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」。『日本古書通信』での連載はまだ続きます。もしかしたら書簡、雑纂等で『高村光太郎全集』未掲載のものがまだあるかも知れません。

光太郎の書き残したものの全貌を明らかにする道のりは、まだまだその途上です。ライフワークとして取り組み続けていきたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月15日

昭和31年(1956)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』が刊行されました。

光太郎が亡くなる直前に、草野心平に000編集を託したものです。今日、『智恵子抄』というと、この新潮文庫版を思い浮かべる方がほとんどでしょう。現在も版を重ねています。

オリジナルの龍星閣版『智恵子抄』は昭和16年(1941)の刊行で、時間の流れとしては智恵子の死後間もない頃の作品「梅酒」あたりまでが掲載されています。戦後の昭和25年(1950)には同じ龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行され、新潮文庫版にはそのあたりの作品も収められました。

昭和42年(1967)に改訂版が出るまでの新潮文庫版には、オリジナルに収録されていた詩「或る日の記」が心平の意図で省かれていました。心平曰く、

従来の『智恵子抄』に載っていた「或る日の記」はそれは智恵子さんとの関連が詩の中心をなしていないので故意にはぶいた。

とのことでした。

この点は原著者の意向の無視ということで、のちにかなり批判されています。しかし、こういういわば「力業」が、ある意味「規格外」の詩人だった心平の本領であるとも言えます。他にも光太郎生前から、くり返しその作品集の編集に携わっていた心平ですが、誤植等をあまり気にしていません。光太郎はそういう心平を苦笑しながら見守っていた節があります。

一昨日、昨日に続き、もう一日、福島川内村ネタで行きます。

先週土曜日に行われた「第50回天山祭」の会場となった、天山文庫でのイベント情報です。
川内村の人々と豊かな自然に心を打たれ、毎年のように村を訪れた詩人、草野心平。
川内村は、そんな草野心平を昭和35年に名誉村民に任命。
褒賞として毎年木炭100俵を贈りました。
そのお礼に、今後は草野心平から川内村に、蔵書3,000冊を寄贈。
これを機に村では、文庫設立の話が持ち上がります。
 一本の木、一束の芽、一人ひとりの労力。
 天山文庫は、村びと達の奉仕によって昭和41年7月16日に建てられました。
ちょうど50年前のことです。
50周年の記念として、天山文庫のライトアップを行います。
ライトアップは土日とお盆の期間ですが、約1ヶ月の間行います。

【ライトアップ】016
時 間:日没後~午後9時
期 間:7月-10・11・12・18・19・20・25・26
    8月-1・2・8・9・10・11・12・13・14・15・16
場 所:かわうち草野心平記念館 天山文庫
その他:日程によりステージパフォーマンスが行われる予定です。
    詳しくはお問い合わせください。
 ☆開場内の看板を目印にARカメラ画面をかざしてみよう!
  3Dモリタロウと一緒に記念撮影ができるよ!
 ☆そばビールやガレットの販売も行います。

問合せ先  川内村役場 産業振興課 商工観光係TEL 0240-368-2112

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点灯式は先週金曜日でした。地方紙『福島民報』さんで報道されています。  

50周年の天山文庫ライトアップ 草野心平ゆかり 川内で11日に祭り

 川内村名誉村民の詩人草野心平ゆかりの村内の天山文庫で10日、ライトアップが始まった。天山文庫と天山祭りの50周年を記念し、「光のフォレストナイト」として企画した。
 点灯式では、遠藤雄幸村長が「心平先生と川内村を愛する人に集まっていただき感謝する。ライトアップを楽しんでほしい」とあいさつ。石井芳信天山祭り実行委員長が「祭りの前夜祭として点灯式が行われ、心平先生も喜んでいると思う」と語った。小渕優子衆院議員、横田安男村議会副議長が祝辞を述べた。
 遠藤村長らがスイッチを押すと、130基の発光ダイオード(LED)が天山文庫などを照らした。口笛奏者の柴田晶子さんのライブや現代詩の同人誌「歴程」の会員による心平の詩の朗読も行われた。
 天山祭りは11日午前11時半から天山文庫で催される。隣接する阿武隈民芸館では企画展「心平が愛したかわうち」が8月23日まで開かれる。
 ライトアップは8月16日までの週末を中心に、日没後から午後9時まで行われる。

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昨年のこのブログでご紹介した、ふくしま再生プロジェクトの会さん主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語 -再生へ祈りを込めて-」(郡山公演も含めて)にご出演された口笛奏者・柴田晶子さんが演奏を披露なさっています。

その点灯式は終わってしまいましたが、8月16日(日)までの下記期間にライトアップが行われます。ぜひ足をお運びください。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月14日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、キャビアを贈られた礼状をしたためました。

相手は舞踊家の藤間節子。この前月に東京帝国劇場で「智恵子抄」の舞踊を発表しています。

光太郎からの礼状、長文なので冒頭のみを紹介します。

昨日運送屋さんが町の駅からはるばる御恵送の小荷物を持つて来てくれました。早速開封いたしましたところ、まことに珍らしい貴重な食料がたくさん出てまゐりました驚きました。 今日の時代にこれだけのものを集められるのは大変なことと存ぜられ、ただ恐縮の外ありませんでした。おそらく東京でも珍しいであらうと思はれるカビヤのびん詰まで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。

昨日に引き続き、先週土曜日に行って参りました福島県川内村関連です。

まず、地方紙『福島民友』さんに、天山祭の記事が出ましたのでご紹介します。

「心平さん、川内は元気ですよ」 50回目の“天山祭り”

 いわき市出身の詩人草野心平が晩年、毎年のように訪れて滞在し、蔵書も保存されている川内村の「天山文庫」で11日、恒例の天山祭りが開かれた。50回の節目に当たり、村内外から集まった参加者が在りし日の心平をしのんだ。
 「蛙(かえる)の詩人」として知られる心平は、村内の平伏(へぶす)沼で繁殖するモリアオガエルを通じ村との交流が始まった。同文庫は、名誉村民となった心平のため村民が協力して1966(昭和41)年に建設し、3000冊を超える蔵書も保存している。
 祭りには村民のほか、心平らが創刊した詩の同人誌「歴程」のメンバーや県内外のファンらが出席。歴程メンバーによる心平の代表的な詩の朗読が行われたほか、村の伝統芸能「三匹獅子」や川内甚句などが披露された。祭りの冒頭にあいさつした遠藤雄幸村長は「出会いを後世につなぐことが、われわれの務め。復興に向かう姿を発信しながら、出会いを大切にしていきたい」と語った。

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その天山祭、そして会場になった天山文庫のすぐ近くにある阿武隈民芸館さんでの企画展「心平が愛したかわうち」を拝観したあと、夕方から打ち上げ的なことがあるので、それまで時間をつぶす必要がありました。

そこで向かったのが、村役場近くにある温泉入浴施設「かわうちの湯」さん。昨年オープンしたばかりのきれいな施設です。

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玄関前のロータリー的なところに、何やら石碑が。

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二代目コロムビア・ローズさんの歌った「智恵子抄」を作詞した故・丘灯至夫氏の歌碑でした。丘氏は川内村にほど近い小野町の出身で、川内村民歌や川内小学校の校歌なども作詞されているとのこと。

さて、館内に入り、ゆっくり温泉を堪能。露天風呂やサウナもあり、いい感じでした。入浴後は大広間の畳で座布団を枕にがっつり昼寝。疲れを癒させていただきました。

その後、打ち上げ会場の小松屋旅館さんへ。秋に行われる心平忌日「かえる忌」の集いでもお邪魔しているところです。築100年ほどの古民家が移築された離れには「蕎麦酒房天山」の看板が掲げられ、こちらが会場です。

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看板犬の黒柴くん。

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レトロな神棚。心平の肖像画も。

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以前にもご紹介しましたが、心平が揮毫した光太郎詩「晩餐」の一節の書。この文字を元に神戸文化ホールさんに光太郎詩碑が建っています。

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打ち上げにはいつものメンバーに加え、一橋大学さんで「自然資源経済論」というプロジェクトを立ち上げられた名誉教授の寺西俊一氏など、20名ほどが参加、盛り上がりました。

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東日本大震災から5年目に入り、まだまだ復興途上の川内村ですが、少しずつ元気を取り戻しつつあります。訪れるだけでも復興支援。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月13日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から墓標の揮毫を発送しました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートが残されており、その中に以下の記述があります。

佐野悌一氏へ墓の文字封入テカミ(「佐野修三墓」二枚)

この年の日記は失われており、名前の出てくる二人の素性、どういった事情なのか、墓の所在地など、一切不明です。

ネットで調べてみると、厚生労働省のホームページの中に、旧ソ連抑留中に亡くなった方々の名簿が載っており、昭和21年(1946)、イルクーツク地方で亡くなった岩手県出身の「佐野修三」という名が記されていますが、この人物なのかどうか何とも言えません。

「佐野悌一」という人物はネット上ではヒットしません。

今もどこかにひっそりと、光太郎が文字を書いた佐野修三氏の墓標が残っているのでしょうか。情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

追記:花巻市内で発見しました。

昨日は、当会の祖・草野心平がこよなく愛した「天山祭」ということで、福島浜通りの川内村に行って参りました。昨秋行われた心平の忌日の集い・「かえる忌」以来、約半年ぶりに訪れました。

圏央道、常磐道と順調に抜け、常磐富岡ICで高速を下りました。やはり昨秋、同じ浜通りの相馬方面に行った際もそうでしたが、富岡以北の国道6号は二輪車通行止めの措置が取られており、状況はあまり変わっていないようです。富岡IC付近も「除染作業中」ののぼりが目立ちました。

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ただし、常磐道は今年の3月に全線開通し、仙台と直結しました。来月の女川光太郎祭には、愛車で参上しようと思っております。

富岡町から山道を抜け、会場の天山文庫へ。昨年もそうでしたが、天気が良くて助かりました。第50回の記念の天山祭ですので、やはり雨天の会場変更では残念です。

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受付が混雑しており、着いてみるとちょうど遠藤村長の挨拶でした。

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心なしか、昨年より人出が多いように感じました。よいことです。

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元復興担当大臣・小渕優子氏の姿も。

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戦前に心平が主宰となって創刊し、たびたび光太郎も寄稿していた雑誌『歴程』同人の皆さんによる心平作品の群読。

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川内小学校6年生による心平作品の朗読。

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郷土芸能も披露されました。

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「被災」を忘れてのなごやかなひとときだったと思います。


天山文庫のある小高い丘の麓には、阿武隈民芸館さんがあります。

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天山祭の50回を記念して、企画展「心平が愛したかわ001うち」が開催中です。室内撮影禁止ですので画像はご紹介できませんが、村民の皆さんなどが持ち寄った心平の書、書簡などが展示されています。郵便局の看板や、敬老会で配布された心平揮毫の文字を染めた手ぬぐいなど、ほほえましく拝見しました。温かみのある心平独特の文字ならではの魅力に溢れています。

展示の最後には、心平の著書の数々が並んでいますが、その中には「富士山」(昭和18年=1943)、「天」(同26年=1951)など、光太郎が題字を揮毫したものも含まれています。こうした場合にいつも感じるのですが、いろいろ並んでいる中にふっと光太郎の筆跡を見つけると、旧友に遭ったような感覚になります(笑)。

企画展「心平が愛したかわうち」は8月23日(日)まで。また、稿を改めてご紹介しますが、期間中の土日、さらに旧盆前後には、天山文庫のライトアップ「光のフォレストナイト」も開催されます。ぜひ足をお運びください。

明日も川内村レポートを続けます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月12日

昭和7年(1937)の今日、智恵子が遺書とも取れる書簡を、母・センに宛てて書きました。

ながいあいだの病気が暑さにむかつて急にいけなくなつて来ましたので 毎晩睡眠薬をのんでゐます。あまりこれをつゞけますからきつといけなくなるとおもひます。もしもの事がありましたら、この部屋をかたつけみなさんでよいやうにきもの其他をしまつして下さい 大そう長い間のことですからいろいろたまつてしまひました、押入れや地袋、ぬりたんす、柳こり、ねだいのうへのものなどみなしまつをつけて下さい
  皆さんおからだを丈夫にして出来るだけ働き仲よくやつていつて たのしくこゝろをもつてお暮らし下さい 末ながくこの世の希望をすてずに 難儀ななかにも勇気をもつてお暮らしなさい。
  それではこれで
   母上様
   皆さん
   せきさん 修さん 皆さんへよろしく
    七月十二日


15日朝には、智恵子は目覚めませんでした。部屋には睡眠薬アダリンの空の瓶が残され、壁に真新しいキャンバスが立てかけてありました。現存は確認されていませんが、光太郎への愛と感謝、義父・光雲への謝罪の言葉が書かれた遺書もあったそうです。

一命は取り留めたものの、これを機に、智恵子は夢幻界の人となってしまいます。

標記の件、今週、各紙一斉に報道されました。代表して時事通信さんのものを引用させていただきます。

「玉音放送」原盤を初公開へ=来月1日、「聖断」の防空壕も―宮内庁

 宮内庁は9日、戦後70年に当たり、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤(玉音盤)と音声を8月1日に初めて公開すると発表した。昭和天皇が終戦の「聖断」を下した「御前会議」が開かれた皇居の防空壕(ごう)についても、内部の写真と映像などを公開する。音声などはホームページに掲載する予定。
 玉音盤は、玉音放送前日の1945年8月14日夜、当時の宮内省庁舎内の一室で録音された。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げ、計2組の玉音盤が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日正午にラジオで放送された。
 今回公開されるのは実際に放送された方のレコードで、時間は約4分30秒。宮内庁は原盤から音声を新たにデジタル録音したという。
 宮内庁関係者によると、天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは6月下旬、皇居・御所で音声を聞かれたという。玉音盤は現在、皇室の私有物である「御物」として庁内で管理されている。
 宮内庁は、昭和天皇が終戦後の46年5月23日に録音し、翌日にラジオ放送された食糧問題の重要性に関するお言葉についても、原盤と音声を初めて公表する。玉音盤と一緒に保管されていたのが今回発見されたという。
 風岡典之長官は「歴史的な意義からも国民の関心からも戦後70年の機会に公表するにふさわしいと考え、両陛下のお許しを得て公表することにした。この機会に多くの方々にご覧いただきたい」と話している。


光太郎ファンなら、この記事を読んで、次の詩を思い浮かべるはずです。

  一億の号泣001

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


放送のあった昭和20年(1945)8月15日、光太郎は岩手花巻に疎開していました。はじめに厄介になっていた宮澤賢治の実家は、5日前の8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は被災を免れた元旧制花巻中学校長・佐藤昌宅に身を寄せていました。

このあたり、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。

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そして15日の玉音放送は、花巻町の中心部にある鳥谷崎神社で聴きました。

こちらが鳥谷崎神社。戦前(おそらく)の絵葉書です。

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翌16日には上記「一億の号泣」を執筆、さらに翌日の17日にはこの詩は『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

ここには「聖戦完遂」のスローガンを信じて疑わなかった光太郎の、その目標を失った虚脱感がよく表されています。しかし、虚脱だけでなく、「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす」というある種の変わり身の早さもうかがえ、この時点ではまだまだ平和の到来を喜ぶ心情は読み取れません。ましてや自身が書き殴った大量の空虚な大政翼賛の詩を読んで、膨大な数の前途有為な若者が散華していったことになど、思い及んでいません。

二度にわたり、空襲で焼け出された光太郎にしてみれば、無理もないのかも知れません。一度目(昭和20年=1945の4月13日)には、智恵子と共に過ごした思い出深い東京本郷Ⅸ駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエを失い、二度目はつい5日前でした。

しかし、この年の秋に、花巻町郊外の太田村の山小屋で独居自炊の生活を始め、いやが上にも自らの来し方を
省察せざるをえない日々の中で、光太郎の内部世界に変化が生じました。

同じ玉音放送を題材にしたこちらの詩は、昭和22年(1947)の作。

終戦003
 
すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


これは連作詩「暗愚小伝」中の一篇として書かれたものです。

光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちは、というと、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳したり、その手の作品を書いたことをひた隠しにして「非戦の詩人」の称号を得たりしていました。それどころか、自らも戦争協力詩を書いていたにもかかわらず、やはりそれを隠して、公然と光太郎を非難した詩人もいます。

それに対し、光太郎は自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。

いったいに光太郎の生涯は、順風満帆なものでは決してなく、いわばつまづきの連続でした。青年期にはロダンに学んだ新しい彫刻理念が受け入れられず、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界との対立を余儀なくされ、それも盟友・碌山荻原守衛の早逝により、孤軍奮闘。光雲の勧める銅像会社設立や美術学校教師の話も断り、智恵子と二人、社会との交わりを極力絶って「都会のまんなかに蟄居」(詩「美に生きる」昭和22年=1947)する清貧の生活。

そんな生活の中で、智恵子は心を病み、光太郎を残して先立ちます。その反省から、一転して社会と積極的に関わり始めたところが、社会の方が泥沼の戦時に突入。その旗振り役を務めざるを得ませんでした。

そして敗戦。公的に戦犯とされなくとも、先述の通り、過酷な環境に身を置いて、自らを罰する光太郎。

最晩年に、自らに課した彫刻封印の重罰を解き、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をこの世に残すことが出来たのは、最後に訪れた幸福だったといえるかと思います。それすら残せず、寒村の山小屋で朽ち果てていたとしたら、虚しいだけの一生だったように思えます。

「玉音放送」の報道を知り、こんなことを考えました。乱筆御免。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月11日

昭和19年(1944)の今日、『日本読書新聞』にアンケート回答「読書会に薦める-中込友美著『勤労青年の教育』」が掲載されました。

 さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

『高村光太郎全集』第20巻に掲載されています。どうもどこかで誤植が生じたようで、書名やカギカッコ、カッコの位置がむちゃくちゃです。

誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行

です。

こういうところにも、戦時の混乱が見て取れます。

昨日もちらっと触れた、横浜市の神奈川近代文学館さんでのイベントです。ただし、館の主催ではなく、会場を貸してのもののようです。  

「朗読の会」発表会「ありのままに」

開催日 : 2015年7月17日(金)
 間 : 13:30
 場 : 神奈川近代文学館 横浜市中区山手町110
出演者 :  「朗読の会」A・Bグループ18名
 金 : 無料
 目 : 高村光太郎「智恵子抄」、工藤直子「ねこはしる」
 『智恵子抄』 朗読 Aグループ
  高村光太郎「智恵子抄」より  佐藤春夫「小説智恵子抄」より
  草野心平「悲しみは光と化す」より  宮崎春子  「紙絵のおもいで」より
 『ねこはしる』 朗読 Bグループ
問い合わせ :  「朗読の会」八尾 045-774-6519


調べてみたところ、「朗読の会」さんは、「かたりよみ研究所 創造の会」さんという団体の中のグループで、横浜で定期的に練習や発表などの活動をなさっているようです。講師は児玉朗氏、西本朝子氏ご夫妻で、木下順二作の舞台「夕鶴」で有名な山本安英の弟子筋に当たる方々だそうです。

演目のうち、佐藤春夫の「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社で単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入りました。文庫版の解説は草野心平です。

その草野心平の「悲しみは光と化す」は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)の解説として書かれたものです。光太郎が昭和28年(1953)に書いた秩父宮雍仁親王追悼文の題名をそのまま転用しています。

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宮崎春子は旧姓長沼春子。智恵子の姪で、看護師の資格を持ち、南品川のゼームス坂病院でその最期を看取りました。ほとんど唯一、紙絵の制作過程を実見し、それを語ったのが「紙絵のおもいで」です。

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紙絵を見る春子(昭和30年=1955)


さて、多くの皆さんが光太郎作品、特に「智恵子抄」系の朗読に取り組んで下さっています。ありがとうございます。そうした動きが下火になることなく、さらにもっともっと広がってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月10日

明治43年(1910)の今日、雑誌『方寸』第4巻第5号に、「死んだ荻原守衛君」が掲載されました。

光太郎の盟友、碌山荻原守衛の死はこの年4月20日でした。

僕は今、死んだ荻原守衛君の芸術のことを考へてゐる。しかし、どうしても一つの纏まつた、形を成した、過ぎ去つた作家として荻原君の事が頭に出て来ない。善い夢を見てゐる途中で眼がさめた、その先きが思はれてならないといふ感じである。

と始まり、終わり近くには、

それがふつと消えたのである。為方がないといふ言葉は実に惨酷な言葉である。

とあります。

この文章は同じ年9月の雑誌『日本美術』第139号、翌年に刊行された守衛の著作集『彫刻真髄』にも転載されました。

今日、7月9日は、光太郎と縁の深かった森鷗外の忌日、「鷗外忌」です。昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】にてご紹介させていただきました。

その鷗外を顕彰する文京区立森鷗外記念館さんでの展示情報です。 
 期 : 2015年7月17日(金)~9月27日(日)
休館日
 : 7月28日(火)、8月25日(火)
 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
 ※7月~9月の毎週金曜日は20時まで開館(最終入館は19時30分)
観覧料 : 一般300円 中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

公式サイトより

木下杢太郎(1885~1945、本名 太田正雄)は、医学博士として大学で教鞭をとるかたわら、文学、評論、美術など幅広い分野で活躍した文京区ゆかりの文化人です。加えて本年は、生誕130 年・没後70年という記念の年にもあたります。

杢太郎は、明治18年に現・静岡県伊東市に生まれ、13歳で上京、明治39年東京帝国大学医科大学に入学しました。在学中に与謝野寛の新詩社に入社し、詩や小説を次々に発表します。鷗外との最初の出会いは明治40年、英文学者・上田敏の留学壮行会の時でした。鷗外はその後、当時自宅で開催していた観潮楼歌会に杢太郎を招き、二人の交流がはじまりました。文学の道に進みたいと思いながら、家族のすすめにより医学を修めた杢太郎は、大学卒業にあたって、進路に悩みます。その時、助言を求めたのが鷗外でした。杢太郎はその後、満州赴任と、医学研究のための欧州留学で日本を離れ、フランス・リヨンで鷗外の訃報に触れることになりました。

二人が活動の場を同じくした機会は、多いとはいえません。しかし、鷗外をmaȋtre(巨匠)と呼んで慕っていた杢太郎は、没後の鴎外研究の中で、「鴎外は過去でなくて未来への出発点である」という結論にいたります。パート1では、二人の出会いや交流の他、杢太郎が鷗外について記した文章を通して、杢太郎がたどりついた鷗外像に迫ります。パート2では、杢太郎が創作を発表した明治40年代から、晩年までの多彩な活躍をご紹介します。

◆展示関連事業◆
○ギャラリートーク
展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月29日、8月12日、26日、9月9日(いずれも水曜日)14時~
申込不要(展示観覧券が必要です)
所要時間は30分程度を予定しています。

講演会「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎のパリ」
日 時 8月22日(土)14時~15時半
講 師 今橋映子(東京大学大学院教授)
料 金 無料
申込締切 2015年8月7日(金)必着

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杢太郎は、芸術運動「パンの会」、雑誌「スバル」などを通し、光太郎とも縁の深かった詩人です。「パンの会」の関連で、先頃、奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメメイゾン鴻乃巣』を読みましたが、杢太郎が頻出し、最近また気になっています。

「最近また」、というのは、以前にも杢太郎がらみの調査をしたことがあったためです。

神奈川近代文学館さんには、特別資料として、光太郎の自筆書簡も30通あまり所蔵されていますが、そのうち6通は杢太郎宛。さらに4通は『高村光太郎全集』未収録のものでしたので、雑誌『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介させていただきました。また、同館には智恵子と田村俊子による「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」(明治45年=1912)の案内状も所蔵されていますが、こちらも杢太郎あてのものです。これを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。

杢太郎の故郷・静岡県伊東市には伊東市立杢太郎記念館さんがあり、一度足を運ぼうと思いながらなかなかはたせずにいます。暇を見つけて行ってみようと思っています。

関連行事としての講演会、講師の今橋映子氏は、昨秋開催された明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。当方、同日に第59回高村光太郎研究会があったため、参加できませんでしたが、今度はお話を伺ってこようと思っています。

皆様もぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月9日

明治39年(1906)の今日、留学先のニューヨークから、転居の通知を送りました。

この年10月の雑誌『日本美術』第91号に掲載されました。おそらく宛先は版元・日本美術社の川崎安。

小生移転致し候。番地は
150 West 65th Street New York City

さらに、

小生唯今は下宿の最上級、すなはち四面壁にして天井に引き窓のある部屋に籠城

の記述もあります。

光太郎がニューヨークの土を踏んだのは、この年2月27日。はじめは素人下宿c/o Miss Casty,2008 5th Av.に入りましたが、彫刻家、ガットソン・ボーグラムの助手の職を得、週給6ドルを手に出来るようになって、引っ越しました。

晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の記述があります。

西六十五丁目の家の屋根裏の窓の無い安い部屋に移転して自炊しながら毎日ボーグラム氏のスチユヂオに通ひ、猛烈に勉強した。

朝はトーストに紅茶、昼は十仙(テンセンツ)食堂で何か一皿、夜は近所のデリカテツセン店で豆やハムを少し買つて食べ、たまには近くの支那飯屋で安いチヤプスイやフーヨンタンを食べた。

また、やはり晩年に高見順と行った対談「わが生涯」(昭和30年=1950)では、このような発言もありました。

高村 それからこんどは屋根裏の窓のない部屋を借りてね。とても安いんですよ。その代りに、まわりに窓がないから、牢屋と同じなんだ。天井に穴があいてて、綱をひつぱると開くんですよ。
高見 天窓ですね。
高村 そこからあかりが来る。それでも水道とガスが附いてて、そこにいてボーグラム先生の所へかよつて、夜は学校へ行つたんです。一日一ドルで、どうやらこうやら、やつていられたですね。
高見 それがおいくつくらいの時でしたか。
高村 二十四か五ですね。
高見 偉いもんですね。

各地の美術館等での展覧会情報を調べているうちに、気になる企画展を見つけました。

光雲・光太郎親子が愛した明治の噺家・三遊亭圓朝に関わるものです。 

うらめしや~ 冥途のみやげ展―全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に―

会 期 : 2015年7月22日(水)~9月13日(日) ※会期中展示替えあり
  前期 :2015年7月22日(水)~8月16日(日)
  後期 :2015年8月18日(火)~9月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 地下2階展示室
時 間 : 10:00~17:00(8月11日、21日は19:00まで開館、入館は閉館の30分前まで)
休 館 : 月曜
料 金 : 一般1,100円 高校・大学生700円
      中学生以下
障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料
主 催 : 東京藝術大学、東京新聞、TBS
後 援 : 台東区
協 力 : 全生庵、下谷観光連盟、圓朝まつり実行委員会、TBSラジオ
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

公式サイトより
東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(天保10<1839>-明治33<1900>年)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されています。本展は、この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどります。

幽霊には、妖怪と違って、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴があります。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探っていきます。

円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちによる「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となるでしょう。

なお、本展は、当初平成23(2011)年夏に開催を予定しておりましたが、同年3月に発生した東日本大震災の諸影響を鑑み、開催直前にして延期を決定したものです。今回、4年の歳月を経て、思いを新たにしての開催となります。

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三遊亭圓朝(天保10年=1839 ~ 明治33年=1900)は、明治落語界を代表する名人。あまりの話芸の巧みさに、師匠からも疎まれ、彼が演じようとしていた演目を先回りして演じられるなどの嫌がらせも受けたといいます。その結果、自作の演目を次々演じるようになり、そうした中で、新作の人情噺や怪談噺も数多く生み出されました。怪談の代表作が「怪談牡丹灯籠」や「真景累ケ淵」です。

光太郎の父・光雲は圓朝のファンでした。光太郎が書き残したエッセイ「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の部分があります。

 父はよい職人の持つてゐる潔癖性と、律儀さと、物堅さと、仕事への熱情とを持つてゐたが、又一方では職人にあり勝ちな、太つ腹な親分肌もあり、多くの弟子に取りまかれてゐるのが好きであり、おだてに乗つて無理をしたり、いはば派手で陽気で、その思考の深度は世間表面の皮膜より奥には届かなかつた。そして考へるといふやうなことが嫌ひであつた。この世は人生であるよりも娑婆であつた。学問とか芸術とかいふものよりも、芸人の芸や役者の芸の方が身近だつた。梅若の舞台からきこえてくる鼓の音にききほれ、団菊左に傾倒し、圓朝に感服し、後年には中村吉右衛門をひいきにし、加藤清正のひげのモデルになつて喜んだり、奈良の彫刻では興福寺の定慶作といふ仁王をひどく買つてゐて、推古仏は理解しなかつた。

光太郎自身も圓朝の芸を誉めています。美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(昭和28年=1953)から。

九代目団十郎とか講談の圓朝とか、みんな若い時はしようのない、脂つこくて見ていられないほどいやらしいやつだつたらしい。圓朝なんかうしろへそのころないような舞台装置をして講談なんかやつたらしい。それでいやなやつだつて言われていたのが、忽然悟つて、ああいう枯れたものになつて、扇一本で人情ばなしをやるつていうふうになつてね。せんのあくのあつたのがみんな役に立つて、それが一変すると無かつた奴にはできない厚味や深さが出てきてね。


さて、その圓朝が残した幽霊画のコレクションを軸にした企画展です。「第一章 圓朝と怪談」「第二章 圓朝コレクション」「第三章 錦絵による「うらみ」の系譜」「第四章 「うらみ」が美に変わるとき」の四部構成になっています。出品作の中には、光雲と交流のあった日本画家・柴田是真の作や、光太郎もその造型性に深く興味を引かれていた能面なども含まれています。

夏のひととき、「納涼」の意味も含めて、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月8日

昭和15年(1940)の今日、作家・稲垣足穂に葉書を書きました。

拝啓
昨日御著“山風蠱”拝受、繙読をたのしみに存じます、
小生例年の通り夏まけでさんたんたる有様ですが山下風ある卦を得て大に涼爽の気にひたりたいものです、「王侯に事へず其事を高尚にす」とは面白い象です、 とりあゑず御礼まで 艸々
七月八日

稲垣足穂は幻想文学的な方面で有名になった作家。『山風蠱(さんぷうこ)』は前月、昭森社から刊行されました。

題名の「山風蠱」は、易占における卦の一つ。山のふもとに風が吹き荒れ、草木が損なわれている状態を表し、葉書にある「山下風ある卦」がこれにあたります。「王侯に事(つか)へず其事を高尚にす」は、『易経』に記された文言で、「王侯に仕官せず、世を避けるように隠居しながらも、 志を高く清く保って節操を曲げない」といった意味です。

当方、この葉書の実物を所蔵しています。75年前の今日、この葉書が書かれ、投函されたと思いつつ手に取ると、感慨深いものがあります。

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4月に小学館さんから刊行された石川拓治氏著『新宿ベル・エポック』。

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相馬愛藏・黒光夫妻、碌山荻原守衛を軸に、昨日もご紹介した新宿中村屋サロン美術館さんの元となった、「中村屋サロン」を巡る人々の光芒を追った労作です。

先週の『朝日新聞』さんの読書面に、書評が載りましたのでご紹介します。 

新宿ベル・エポック―芸術と食を生んだ中村屋サロン [著]石川拓治

■異文化接合点で濃密な人間模様
 母の勤務地が新宿だったので、子どもの時分、たまに中村屋のカレーを食べに連れて行ってもらった。うちは貧しかったから、それはたいへんなご馳走(ちそう)だった。本書はその中村屋の物語。創業者夫婦の相馬愛蔵・黒光(こっこう)と、夫妻を慕って集まった芸術家たち、なかでも彫刻家の荻原碌山(ろくざん)が織りなす人間模様を記す。
 愛蔵と碌山は同郷で、信州安曇野の人。地域一の名家・相馬家に仙台藩の上士の家から嫁がくる。農家の五男坊だった碌山少年は、彼女を憧れのまなざしで見つめていた。話はそこから始まる。
 三人は互いを大切に思い、認め合った。それは三角関係という言葉でひとくくりにできるものではない。彼らの濃密な連関の向こうには、百年ほど前の、外国に向きあう日本社会の姿が見えてくる。
 中村屋サロンは異文化の接合点であった。インドの志士ボースのカレーも、ロダンに学んだ碌山の彫刻もその好例である。相馬夫妻は新しい文化の揺り籠を用意したのだ。
    ◇
 小学館・1944円

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史) 


相馬夫妻、守衛、そして光太郎、それから昨日もご紹介した斎藤与里、中村彝、戸張孤雁、柳敬助、ラス・ビハリ・ボース、エロシェンコなどの織りなす人間模様の格好の手引きです。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月7日

昭和26年(1951)の今日、勝手に講演会の講師として報道に名前を挙げられて憤慨しました。

この日の日記の余白メモです。

承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。

前日の日記には、

七日に太田校にて演講と新聞に出た由、無茶也

とあります。「講演」とすべきところが「演講」となっているのは、怒りに我を忘れていたためでしょうか。

翌年には同じようなケースでブッキングまで起こっています。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、先週末に始まった特別展示の招待状を戴きました。  

生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし

 期 : 2015年7月4日(土)~9月27日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
料 金
 : 300円 高校生以下無料 障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

関連イベント
 学芸員によるギャラリートーク 8/8(土) 9/12(土) 14:00~ 約50分
 メールまたは電話で申し込み 2名まで 先着15名 
         
 パリ留学でシャヴァンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、当時最先端の美術を目の当たりにした画家 斎藤与里。帰国後は、彼の地で親友となった彫刻家 荻原守衛(碌山)らと「中村屋サロン」を形成するとともに、大正期には、岸田劉生、高村光太郎らと反アカデミズムのフュウザン会を結成し、日本洋画界に衝撃を与えました。
 本展では与里の生誕130年を記念し、故郷の加須市教育委員会の所蔵作品を中心に、初期から晩年までの作品をご紹介いたします。
 パリで培われた美しい色彩と、時代によって変化する詩情豊かな画風をお楽しみください。

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新宿中村屋の創業者・相馬愛藏、黒光夫妻の元に集まった芸術家が形成した「中村屋サロン」。荻原守衛、光太郎、柳敬助らとともにその主要メンバーの一人だった、画家の斎藤与里にスポットを当てた企画展です。

斎藤は、岸田劉生、木村荘八、そして光太郎らとともに、文部省美術展覧会(文展)など、アカデミックな権威に対する反抗を旗印とした新進気鋭の美術家達の集まり、「フユウザン会」を結成した一人です。

しかし、なかなかまとめて作品を見られる機会は多くなく、貴重な機会です。

常設展示では、光太郎の油絵「自画像」も並んでいるはず。併せてご覧下さい。

7/15追記 光太郎の油絵「自画像」は並んでいないそうです。すみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月6日

平成17年(2005)の今日、キングレコードから朗読CD「心の本棚~美しい日本語 日本の詩歌 高村光太郎」がリリースされました。

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中井貴一さんによる25篇の詩の朗読が収められています。

毎年ご紹介していますが、「連翹忌」の名付け親にして、光太郎を敬愛してやまなかった草野心平が愛した福島県双葉郡川内村で、「第50回天山祭り」が開催されます。 

第50回天山祭り

日 時 : 2015年7月11日(土) 午前11時30分~14時
場 所 : 天山文庫前庭 川内村大字上川内字早渡513(雨天時 川内村体育センター)
主 催 : 天山祭り実行委員会
参加費 : 1人 500円
問合せ : 教育課生涯学習係(0240-38-3806)

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(福島県広報誌『ゆめだより』より)


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昨年の様子はこちら


併せて、会場の天山文庫さんの入り口にある阿武隈民芸館さんでは、心平に関する企画展も同日始まります。
期 間 : 7月11日~8月23日
時 間 : 午前9時~午後4時
場 所 : 阿武隈民芸館
定休日 : 毎週月曜日(祝日は営業、翌日振休)
入館料
 : 300円

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(『広報かわうち』より)


東日本大震災被災地の現状を見る、という意味合いもあります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月5日

明治42年(1909)の今日、料亭・上野常盤華壇で光雲門下の彫刻家一同による高門同窓会主催の帰朝歓迎会で欧米留学の報告をしました。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号と、毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 晩年」。昭和20年(1945)から7年間の、岩手花巻郊外太田村の山小屋での生活、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために再上京して以後、歿するまでの中野のアトリエでの生活に関してです。

「晩年の光太郎の精神生活は、自身と一体化した智恵子夫人との対話の日々だった」「いのちと世界を賛美し、清と濁をあわせもつ矛盾にみちた人間存在を、最終的に肯定」等々、首肯させられるものでした。

この手の文芸同人誌、よくいただきます。

毎号のように光太郎がらみの文章などが載っているのは、福島の渡辺元蔵氏からは、『現代詩研究』。詩人の間島康子様からの『群系』。同じく宮尾壽里子様からで『青い花』。

送っていただければ、光太郎にからむものはこのブログにてご紹介しますし、毎年の連翹忌には「1年間でこんなものが刊行されました」ということで展示いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月4日

昭和24年(1949)の今日、詩「山の少女」を執筆しました。

原題は「鎌を持つ少女」。雑誌『少女の友』に発表され、のち、詩文集『智恵子抄その後』にも収められました。

  山の少女

山の少女はりすのやうに
夜明けといつしよにとび出して000
籠にいつばい栗をとる。
どこか知らない林の奥で
あけびをもぎつて甘露をすする。
やまなしの実をがりがりかじる。
山の少女は霧にかくれて
金茸銀茸むらさきしめぢ、
どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
さういふ少女も秋十月は野良に出て
紺のサルペに白手拭、
手に研ぎたての鎌を持つて
母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
稗を刈つたり粟を刈る。
山の少女は山を恋ふ。
きらりと光る鎌を引いて
遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
ときどきそつと見たくなる。

モデルは先頃このブログでご紹介した高橋愛子さんだという説があります。

地元の少年少女にとって、光太郎は、大人達が「とても偉い人だ」と言っているからそうなんだ、と思うだけで、単なる優しい物知りなお爺さんだったとのことです。

光太郎も地元の少年少女を愛してやみませんでした。

昨日同様、十和田湖でのイベント情報です。 

「みなとオアシス十和田湖認定4周年」記念イベント ワンコインで十和田湖 湖上遊覧一周ツアー

日 時 : 2015年7月20日 (月)祝日 “海の日”  午前9時~11時30分頃(約2時間半)
内 容 : 遊覧船での十和田湖一周湖上遊覧
      ※ 定期航路にないコースも運航(北岸、西岸を含む)
料 金 : 500円(当日、受付でお支払いください) 
       小学生以下は無料。ただし保護者同伴でご乗船下さい。
申 込
 : 往復はがきに住所氏名年齢電話番号を記入し、2015年7月5(日)午後5時(必着)
当選については返信がきにてご連絡いたします。はがき一枚で、二名様までご応募できます。
募集人員  200名 (応募者多数の場合は抽選によって決定いたします)
申 込 先 〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬湖畔休屋 486一般社団法人十和田湖国立公園協会内 湖上遊覧一周ツアー係 電話 0176-75-2425 FAX 0176-70-6002
URL http://www.towadako.or.jp/


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通常の遊覧船クルーズが、十和田観光電鉄さんの「十和田湖遊覧船」で1,400円、十和田湖遊覧船企業組合さんの「りんごのマークのゆうらん船」で1,100円。500円なら半額以下ですね。湖上から見る「乙女の像」も乙なものですし、通常の遊覧船コースに入っていない区域にも船が入ります。

昨年の様子がこちら。佐藤春夫作詞で、「乙女の像」を謳ったご当地ソング「湖畔の乙女」が地元合唱団の皆さんにより演奏されたそうです。今年もこういう企画があるのかどうか不明ですが。

前日と前々日は昨日ご紹介した「第50回十和田湖湖水まつり」。あわせて足をお運び下さい。青森、八戸、三沢など県内主要都市からのバス等については、十和田湖国立公園協会さんのサイトをご覧ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月3日

平成13年(2001)の今日、茨城県取手市の埋蔵文化財センターで企画展「取手ゆかりの人びとの書」が開幕しました。

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取手には、戦前から光太郎と交流があり、戦後になって光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪の長沼春子を娶った詩人の宮崎稔が住んでおり、その関係です。

やはり光太郎と交流のあった稔の父・仁十郎は取手の素封家にして文化人。日本画家・小川芋銭との交流もありました。

8月25日には、当会顧問・北川太一先生の講演「高村光太郎と取手」が関連行事として行われました。

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こちらは市の広報誌。当方も写っています(笑)。

昨日のこのブログで、大阪・御堂筋の光太郎彫刻、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・「乙女の像」)」の中型試作について書きました。

その流れで、本家「乙女の像」に関し、ご紹介します。

まず、昨日発行の十和田市広報誌、『広報とわだ』。「特集 『十和田湖再発見』」という記事が掲載されました。「乙女の像」も大きく取り上げられています。

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ネット上でPDFファイルとして公開されていますので、ぜひご覧下さい。「乙女の像」以外についても2ページ費やされています。

下の方には、昨秋オープンした観光交流センター「ぷらっと」について、さらに「第50回十和田湖湖水まつり」の告知も載っています。

湖水まつり、詳細情報を紹介しましょう。 

第50回十和田湖湖水まつり

十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
花火大会では遊覧船が運航し、日中はよさこい演舞やフリーマーケット等のイベントが湖畔で行われます。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい! 

期日 : 平成27年7月18日(土)・19日(日)
会場 : 十和田湖畔休屋
 青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋

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2日間ともに、「乙女の像」のライトアップがなされます。他にも花火、フリーマーケットなど、いろいろな企画が用意されています。

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昨年、「第49回十和田湖湖水まつり」にお邪魔しました。「乙女の像」をバックに夜空に浮かぶ大輪の花火は幻想的でした。下記はご案内下さった十和田市役所の山本氏の作品。

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当方、今年はその10日後に、昭和20年(1945)から光太郎が7年間を暮らした、花巻郊外太田村(現・花巻市太田)の地区振興会の皆さん約40名が十和田湖をご訪問されるのに同行、というか現地で合流しますので、湖水まつりは欠礼します。

皆さんはぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月2日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、給食の脱脂粉乳を飲みました。

当日の日記から。

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等何ら問題はないそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメント。

アメリカの支援により、日本の学校給食に供されるようになり、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方がその頃入学した東京の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

昨日、智恵子の故郷、福島・二本松の景観について書きました。そこで、景観つながりで、『朝日新聞』さんの大阪版に載った記事を紹介します。  

(葦)御堂筋の彫刻の奥ゆかしさ 神田誠司

 御堂筋で見かける彫刻のことが以前から気になっていた。歩道にひとつ、少し歩くとまたひとつ。立ち止まってよく見ると、「考える人」で知られるオーギュスト・ロダンや、高村光太郎の作品があったりするのだ。
 調べてみると、南北に走る御堂筋の淀屋橋から南約2キロ区間の両側に計29点の彫刻がすえつけられている。大阪のシンボルロードにふさわしい魅力ある空間にしようと、市が沿道企業などに作品の寄贈を呼びかけ、1992年から設置をはじめたものだった。
 光太郎やロダンに限らず、国内外の著名作家の作品ばかりだが、「ひっそりと置いてあるので気づかない人も多い」(市都市景観担当課長)。4年前、一夜のうちに何者かが19点に赤い服のような布を着せかけた「赤い服事件」で存在を知った方も多いかも知れない。
 台座などに寄贈した企業名の表示はない。そこが奥ゆかしくていい。足を止めて見入っていると、街の喧騒(けんそう)が消えていく心地がする。片道ならゆっくり歩いても30分ほど。あなたも気に入る作品に出会えるかも知れない。
(神田誠司編集委員)


何度かこのブログもご紹介してきた、大阪市のメインストリート・御堂筋に立ち並ぶ彫刻群についてです。

光太郎作の通称「乙女の像」の中型試作も「みちのく」の題で設置されています。

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この像、正式な名称としては「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像中型試作」というべきですが、これでは長すぎますし、「乙女の像」としてしまうと、十和田湖畔に立つオリジナルとは違うものですので(ほぼ2分の1スケールです)、それもまずい、というわけで「みちのく」です。

現在、十和田では「乙女の像」という愛称が一般的ですが、「みちのく」という別称もかなり古くから使われていました。

例えばこちら。昭和31年(1956)4月15日発行の雑誌『サンデー毎日』。光太郎の追悼記事に載った写真です。

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記事本文にも「十和田湖畔に建てるブロンズの裸婦像「みちのく」を制作」とあります。

他にも、同じ頃出た雑誌『家の光』でも同様に「みちのく」の語を使っています。

今年4月に十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで刊行された『十和田湖乙女の像ものがたり』執筆中にこのあたりも調べたのですが、「みちのく」の別称の最も早い使用例と思われるのは、像の完成前、昭和28年(1953)7月1日発行の『毎日グラフ』に載った光太郎のアトリエ訪問記の題名で、「”みちのく”の女神」となっているものです。また、歿後の昭和35年(1960)に国立近代美術館で開かれた「四人の作家」展で、これらの像が「みちのく」の題で出品されたりもしました。

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その由来ははっきりしませんが、「みちのく」十和田に建てられ、「みちのく」福島出身の智恵子の顔を持つと言われ、「みちのく」岩手に7年あまりを過ごした光太郎の作であり、大町桂月ら「みちのく」十和田湖の開発・宣伝に功績のあった人々の功労記念碑であること、この像の建立に関わった「みちのく」の人々の「みちのく」への思いが込められた像としての愛称、といえるでしょう。

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ちなみに十和田湖の像の台座に使われている石も、「みちのく」岩手産の石です。従来、この像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。ところがネット上ではいまだに「福島産」となっているページが多く、閉口しています。
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話がそれましたが、「みちのく」を含む大阪御堂筋の彫刻群、ぜひ一度、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月1日

昭和47年(1972)の今日、雑誌『ユリイカ』が、「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」を組みました。

「大特集」とうたうだけあって、180ページ超を費やしています。

高田博厚、岡本潤、真壁仁、北杜夫、中村草田男、金子光晴、難波田龍興ら、光太郎と直接関わりのあった、今は亡き人々の論考やエッセイが満載です。

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