2015年04月

一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。
昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。
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少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。

その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。

二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。

また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、

二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。

とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。

当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。

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当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光003太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。

さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。

ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。

それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。

機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。

前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。

それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。

ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。

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翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。

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このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。

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特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。

さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。

ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。

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山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。004
右の画像は、記念館前のコブシの花です。

この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。

賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。

 私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
 私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。

賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。

昨日リニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館に関する報道です。  

花巻・高村光太郎記念館がリニューアルオープン

『朝日新聞』 岩手版 004

 彫刻家で詩人の高村光太郎の記念館(花巻市太田)のリニューアル工事が終わり、28日、再オープンした。展示面積がこれまでの3倍に広がり、市は「初心者から深く知るファンまで満足できる展示となるよう工夫した」とPRしている。
 記念館は光太郎が1945年から52年まで暮らした「高村山荘」の近くにある。以前は財団法人高村記念会が「高村記念館」を運営していたが、2013年5月に市が花巻歴史民俗資料館を改修し、「高村光太郎記念館」と改称して暫定オープンしていた。昨年12月から資料庫だったスペースも展示スペースに改修し、今回、本格オープンした。広さは約640平方メートルで、改修費は約1億6300万円。
 展示室は1と2に分かれ、1では青森県の十和田湖畔にある「裸婦像」の中型試作などの彫像を展示。映像コーナーもあり、光太郎の詩と岩手の風景を流して、「光太郎の世界に導く」という。2では、書や詩などテーマ別に作品を展示しているほか、花巻での暮らしぶりなども詳しくパネルで紹介している。展示品は全体で約110点。
 2では妻の智恵子についても紹介しており、今回、智恵子の「紙絵」の「いちご」と「あじ」の実物2点を展示している。「いちご」には光太郎直筆の短歌も添えられており、館は「唯一の合作」と説明している。紙絵の色あせを防ぐため、「当分の間」という限定展示だ。
 この日の記念式典には高村家から光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達(とおる)さん(47)=東京都文京区=も参加し、「全国でもただ一つの光太郎記念館。7年間暮らした花巻に造っていただき、ものすごくうれしい。期待以上の展示になっています」と話していた。
 入場料は高村山荘がある敷地内が一般200円で、記念館がほかに同350円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(石井力)

光太郎の作品世界を体感 花巻・記念館リニューアル

『岩手日報』

 花巻市太田の高村光太郎記念館は28日、リニューアルオープン記念式典を現地で行い、関係者ら約100人がテープカットなどで再出発を祝った。2013年に移設し暫定的に開館していたが、今回は旧収蔵庫を展示スペースに改修し全面開館。記念館は光太郎が暮らした高村山荘にも隣接し、花巻での生活とともに作品世界を体感できる。新緑のさわやかな光と風に包まれ、自然環境と調和した文化拠点に生まれ変わった。
 終戦70年の節目に重なる意義深い記念式典となった。光太郎が花巻に疎開したのは1945年。今回の全面改修で記念館の総面積は約636平方メートルとなり、展示スペースは約2倍に拡充された。
 二つの展示室は渡り廊下でつながり、入り口側の「展示室1」は白を基調とした内装。「乙女の像(中型試作)」などの彫刻作品を紹介する。
 朗読体験コーナーでは「道程」「レモン哀歌」などの音声が流れ、風景映像とともに作品世界を感じ取れる。レプリカの彫刻「手」は実際に触ることができるなど体感型コーナーが充実した。
 開館記念で29日は入館無料。  

詩の朗読、映像と共に 光太郎記念館リニューアル 愛用品、多数展示

『岩手日日』無題

 花巻市太田の高村光太郎記念館で28日、リニューアルオープン記念式典が行われ、関係者によるテープカットで新たな門出を祝った。光太郎の詩の世界を映像や音声で堪能できる機器を設置したほか、光太郎と妻・智恵子の唯一の合作とされる切り絵も実物を初めて展示。29日まで入場無料とし、来場者を歓迎する。
 約80人が出席した。上田東一市長は「記念館が全国のファンの聖地となることを祈念する」とあいさつ。光太郎の弟の孫にあたる高村達氏と上田市長、市議会の川村伸浩議長、花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長、太田地区振興会の佐藤定会長の5人でテープカットを行い、来場者を迎えた。
 記念館は旧館の老朽化に伴い、旧花巻歴史民俗資料館を活用して2013年5月に暫定オープン。その後、資料の保存や展示の環境整備、内容充実などに向けて、14年12月から全面的に改修した。
 改修後は、ゆったりした空間が特徴の展示室1でブロンズ像の「手」や「裸婦坐像」など彫刻を中心に紹介。「手」は新たに複製を設け、実際に触れて造形の奥深さを感じられるようにした。
 映像や音声で光太郎の世界を紹介する仕組みも導入。大型スクリーンに映し出される岩手の風景と共に朗読される詩を楽しむことができ、早速、来場者が光と音による演出を体感していた。
 収蔵庫を改修した展示室2では、書や詩などの作品と愛用のパイプなどを紹介。宮沢賢治らとの親交や地域住民との交流などを示す展示も含め、同記念館ならではの構成となっている。
 特に注目されるのは、初めての実物展示となる智恵子が作った切り絵。このうち「いちご」と題された切り絵には光太郎の短歌が添えられており、唯一の二人の合作とされている。
 光太郎は太平洋戦争末期から終戦後にかけて花巻に居住。同記念会事務局の高橋卓也さんは「花巻は光太郎の暮らしにゆかりのあるものがそろっている。愛用品を展示できるのはここだけ。今後もファンの声を聞きながら、展示を充実させていきたい」と話していた。
 

高村光太郎記念館がリニューアル

IBC岩手放送ニュース

改修工事が行われていた花巻市の高村光太郎記念館が28日リニューアルオープンし、記念の式典に多くの人がかけつけました。詩人で彫刻家の高村光太郎は太平洋戦争末期に花巻に疎開し、終戦後、花巻市太田に移り住みました。28日は花巻市の上田市長や光太郎の弟の孫である高村達さんがテープカットをして記念館のリニューアルを祝いました。記念館は去年末からおよそ1億6300万円をかけて改修工事が行われました。館内は展示室の広さが2倍になり、光太郎の詩を映像で表現するコーナーが設けられました。また彫刻作品や直筆の詩などおよそ110点が展示されています。高村光太郎記念館では来月15日に、詩の朗読や講演会などが行われる「高村祭」が開かれます。


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高村光太郎記念館リニューアル

NHK盛岡放送局

 花巻市にある、詩人で彫刻家の高村光太郎の記念館が彫刻の展示室や大型スクリーンなどを新たに設けて、28日、リニューアルオープンしました。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 昭和42年に開館した高村光太郎記念館はおととしから現在の場所に移って展示を行っていますが、展示内容を大幅に見直して、28日、リニューアルオープンしました。
リニューアルした記念館には、光太郎の彫刻を展示する展示室や光太郎が作った詩などを紹介する大型スクリーンなどが新たに設けられました。
 記念館には、光太郎が大正7年に制作した「手」というブロンズ像や、光太郎と妻の智恵子が合作したとされる「いちご」という切り絵などが展示されています。
 光太郎の弟の孫にあたる高村達さんは「山の中をイメージした記念館のデザインは光太郎が花巻市で滞在していた山小屋のイメージとぴったりとあっています。展示も工夫されていてとてもよかったです」と話していました。
 訪れた69歳の女性は「千葉県や埼玉県に知り合いがいるので、ぜひ案内してみたいです。すばらしい記念館になったのでみんなで大切にしていきたいです」と話していました。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月29日

平成21年(2009)の今日、「妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」DVDコンプリートBOXが発売されました。

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妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」は、地上波日本テレビ系でこの年に深夜ドラマとして放映されていたものです。吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、高橋真唯さん、田中哲司さんらが出演していました。

2月14日オンエアの第5話が「智恵子抄」。紺野さんが智恵子役、光太郎役は高橋洋さんでした。

DVDコンプリートBOXは3枚組。第11話までの全編と、メイキングの特別編が収録されています。

先ほど、昨日から行っておりました岩手花巻より帰って参りました。

今日、午前11時から、花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープン記念式典があり、その関係でした。

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昭和20年(1945)から、同27年(1952)までの7年間、光太郎が独居自炊の生活を送ったこの地に、最初の記念館が建設されたのは昭和41年(1966)。約半世紀が経って建物の老朽化が進み、2年前には、近くにあった、もともと花巻市の歴史民俗資料館だった建物を高村光太郎記念館として移転、暫定オープンいたしました。その時点では、2棟ある建物のうち、手前の1棟のみの使用でしたが、このたび、2棟めも使用してのグランドオープンとなった次第です。

テープカットは今月2日の第59回連翹忌にもご参加下さった上田東一花巻市長、昨年亡くなった、光太郎の令甥・高村規氏令息の高村達氏、㈶花巻高村光太郎記念会会長・佐藤進氏(宮澤賢治の主治医で、昭和20年=1945には光太郎が一時その邸宅に寄寓していた佐藤隆房令息)、花巻市議会議長・川村伸浩氏、そして生前の光太郎を知る、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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以前から使っていた手前の棟も、内容を一新。「展示室1」と名付けられ、彫刻作品の展示と、映像・音声を駆使したハイテク展示コーナーなどが設けられています。

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ハイテクコーナーでは、声優の堀内賢雄さんによる朗読と、岩手の四季のイメージ映像が組み合わさり、玄妙なバーチャル空間が創出されています。

さらには壁に埋め込まれたディスプレイでは、光太郎の紹介ビデオも。よくまとまっています。

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こちらは光太郎代表作、「手」のレプリカ。本物はガラスケースに入っていますが、こちらはレプリカですので、自由に触れます。

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「十和田湖畔の裸婦群像」(通称・乙女の像)のための中型試作。実物およそ2分の1です。当方監修の書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されたばかりですので、感慨深く拝見しました。


渡り廊下を通って、2棟目が「展示室2」。こちらには光太郎の遺品、書、草稿、著書、彫刻、智恵子の紙絵(本物)、その他100点ほどが並んでいます。それも雑多に並べるのではなく、小テーマごとに展示しています。光太郎と花巻との関わり、岩手ということで、石川啄木や宮澤賢治とのつながり、書、智恵子、山小屋生活、といった具合に。


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すぐ上の画像に写っているえんじ色の説明パネル、当方が執筆させていただきました。また、展示品の一部も当方がお貸ししています。2枚上の画像に写っている日本読書組合版の『宮澤賢治全集』です。こちらは賢治の弟・清六と、光太郎の編集。装幀・題字は光太郎。全10冊の予定が6冊刊行されて中断してしまったものですが、既刊6冊が揃っているのはなかなか珍しいものです。

さらに、こちらでも光太郎紹介のビデオが流れています。展示室1とは異なる内容で、一昨年、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展に際して作られたものを転用させていただきました。故・高村規氏もご出演なさっています。

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さらに、今日の段階ではまだ閉鎖していますが、来月中頃からは「企画展示室」も使用を開始します。今のところの予定では、1年間のスパンで、さらに細かくテーマを決めて、展示の入れ替えをするコーナーです。最初はこの地での光太郎の7年間の生活にスポットを当てる予定です。追ってご紹介します。

ここに来るまでの、関係者の皆様のご労苦には、頭の下がる思いです。㈶花巻高村光太郎記念会スタッフの方は、最後の頃は不眠不休に近かったとか……。

それを狙って、今日のオープンに設定したのですが、ゴールデンウィークです。さらに、こちらも追ってご紹介しますが、来月15日にはこの地で「第58回高村祭」が開催されます。5月の花巻は、一年中でもっともいい季節。ぜひぜひ、足をお運び下さい。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月28日

昭和46年(1971)の今日、日比谷芸術座でフラメンコダンサー、アキコ・カンダの第5回リサイタル「能の音によるモダンダンス―智恵子抄 Poems to Chieko」が上演されました。

演出/天野二郎、振付/アキコ・カンダ、音楽/観世寿夫でした。

昨日も、都内に出、3件の用事を済ませて参りました。

一つずつ詳しくレポートしたいところなのですが、今日から花巻に泊まりがけで出かけますので、そちらのレポートも書かねばならず、昨日の分はダイジェストで記述します。

まず、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さん。企画展「鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」を観て参りました。

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先月から始まっているのですが、一昨日から「中期」日程(5/17まで)に入り、展示替えで光雲木彫が展示されています。明治22年(1889)作の「矮鶏(ちゃぼ)置物」と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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どちらも平成14年(2002)、茨城県立近代美術館で開催された企画展「高村光雲とその時代」展で観て以来、13年ぶりに拝見しました。何度観ても、光雲の刀技の冴えは、神業の域です。

「矮鶏」はポストカードが販売されていました。さらに図録を購入。花巻から帰ってからゆっくり読みます。


続いて、都下・調布の武者小路実篤記念館さんへ。こちらはこのブログを始める前、震災の年の夏にお邪魔したことがあり、2度目の訪問でした。その際は、収蔵されている光太郎から武者小路宛の葉書の調査でした。

こちらも一昨日、春の特別展「一人の男~武者小路実篤の生涯~」が始まりました(6/14まで)。同館の特別展では、これまでに「実篤と○○」、「白樺派と××」的ないわばミクロ的視点の企画が多かったようですが、今回は、生誕130年記念やら開館30周年やらということで、実篤その人をマクロ的に取り上げ直す、といったコンセプトのようでした。すると、光太郎もからんできますし、同館から招待券を戴きましたので、観に行った次第です。

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入ってすぐ、巨大な年譜が展示されており、ざっと見ただけでも武者小路が主宰したり関わったりした雑誌で、光太郎が寄稿している雑誌が結構あることに、改めて気づきました。『白樺』をはじめ、『生長する星の群』、『大調和』、『星雲』、『向日葵』、『心』など。また、それらの現物も並んでいましたし、展示されていた写真パネルには光太郎が写っているものも。興味深く拝見しました。

こちらも詳しくレポートしたいところですが、先を急ぎます。すみません。


最後に練馬の光が丘。「智恵子抄」を中心として、光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄っているシャンソン歌手のモンデンモモさんの「ミニミニライブ 第13回」です。

何が「ミニミニ」かと言いますと、会場です。ホールやライブハウスなどではなく、民家の一室(それも一戸建てでなく、光が丘団地の集合住宅)でやってしまうという大胆な試みで、したがって、キャパシティー的に「ミニミニ」です。それでも20名ほどお客さんが集まっていました。

プログラム的には「ミニミニ」ではなく、みっちり2時間。前半が「智恵子抄」ということで、モモさんオリジナル曲を中心に、モノドラマ形式のステージでした。後半は「イタリアン・ポップス」。伴奏はもはや「相棒」と化しているピアニストの砂原dolce嘉博さん。いつもながらに息の合った演奏でした。

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民家の一室だけあって、非常に家庭的な雰囲気、さらに終演後にはお部屋をご提供下さった澤村様ご夫人の手料理を賞味しつつの懇親会も行われました。当方、帰ってやることもあり、途中で退散いたしましたが。


というわけで、またまた有意義な1日でした。先述の通り、今日から花巻です。明日は花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープンと言うことで、そちらの式典、さらに午前中は報道陣への内覧があり、当方も説明のお手伝いです。特になにもなければ1泊009で(宿泊は光太郎も泊まった鉛温泉さん)帰る予定ですが、もしかすると滞在が延びるかも知れません。いずれにせよ、有意義な旅としたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月27日

大正8年(1919)の今日、『時事新報』で連載「ホヰツトマンのこと」が始まりました。

ホヰツトマン」は、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)。アメリカの詩人です。光太郎は大正6年(1917)から、『白樺』などにホイットマンの「自選日記」の翻訳を発表、同10年(1921)には単行本として刊行しています。

昨日に引き続き、来月初めのイベント紹介です。 

第10回「好きです智恵子青空ウオーク」~ ほんとの青い空のした智恵子生誕の地を歩く~

と き : 2015年5月4日( みどりの日)  午前9 時30 分受付 10 時開会  雨天決行
ところ : 智恵子純愛通り記念碑前( 智恵子の生家近く) 集合出発
 員 : 先着5 0 名( 各自昼食持参)
参加費 : 大人1000 円 学生500 円
 込 : 智恵子のまち夢くらぶ事務局 TEL 0 2 4 3 - 2 3 - 6 7 4 3
主 催 : 智恵子のまち夢くらぶ
後 援 : 二本松市二本松教育委員会 智恵子の里レモン会 あだち観光協会 他

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毎年この時期に、智恵子の故郷・二本松で開催されているイベントです。智恵子の生家周辺のゆかりの地を歩くというもので、5月20日が智恵子の誕生日であるため、その近くに設定されています。

5連休のど真ん中ですね。ぜひご参加下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻南温泉峡の鉛温泉で、朝湯を楽しみました。

前日から藤三旅館に宿泊、深さ1.25㍍の「白猿の湯」に入りました。

当日の日記から。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

当方も明日の晩、鉛温泉さんに宿泊します。

4月も下旬となりました。今日、明日のこのブログは来月早々に行われるイベントの紹介です。

まず、音楽・演劇系で2件。

歌物語コンサート「智恵子抄」

日  時 : 2015/5/6(水・振替休日) 17:30~
会  場 : 風に吹かれて 東京都大田区大森北1丁目34-16 第二みずほビル2F
出  演 : 潮見佳世乃 (歌と語り)  たつのすけ (ギターとピアノ)
料  金 : 予約 2800円   当日 3000円 (飲食代別)
予約・問い合わせ : 風に吹かれて Atsushi Kanaya <blowind0804@gmail.com>

GW最後の日。 歌物語!都内で初披露いたします。
新緑美しい季節 光太郎と智恵子の愛を語ります。
会場にて多くの皆様とあたたかい一時をご一緒できますように
素敵な春を!


潮見佳世乃さん、今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました。以前から「智恵子抄」を扱っていらっしゃるそうですが、都内では初の「智恵子抄」だそうです。当方、彼女の演奏を聴いたことがありませんが、今回、初めて拝聴します。楽しみです。 
日  時 : 2015年5月8日(金)20:00~  9日(土)14:00~/18:00~
会  場 : シアタームーン 愛知県名古屋市千種区池下1-11-11 スタチオン池下201
  作  : 加藤 由衣
演  出 : 吉川 和典
料  金 : 予約/当日とも 1000円 
キャスト : 上田勇介 加藤聡美 河口サトー 榊原耕平(よこしまブロッコリー) 藤由依雛 田亜夜子
       吉川和典 丹羽一美(フリー) 横尾友美 他
プログラム :  『文豪座談会』   『蜘蛛たちの意図』 芥川龍之介「蜘蛛の糸」より
         『智恵子、少々』 高村光太郎「智恵子抄」より
予約・問い合わせ : 電光石火一発座 Tel :090-4257-7800  Mail:mail_denkou@yahoo.co.jp

「もう、読んだって」
と、彼女。一方で、
 「読んでないな」
と彼は言います。そんな中、とあるお方はおっしゃいました。
 「捉え方は人それぞれ」
そういえば、こうお答えになった人もいるそうです。
 「No problem、だ」
ある瞬間、読み古された一冊が‘色‘を変えることがある。
 今宵はどうぞ、電光色の名作たちを。


こちらの情報は、たまたまネットで見つけました。「名古屋市を拠点に演劇活動をする、社会人劇団」だそうです。


こうしたイベントを企画されている皆さん、こちらまでご連絡いただければ、このブログにてご紹介します。もちろん、内容等を検討させていただいてからですが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月25日

昭和43年(1968)の今日、岩手県花巻市石神町の雪印乳業花巻工場敷地内に、光太郎詩「牛」の一節を刻んだ碑が除幕されました。

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同工場と光太郎には直接の関係はありませんでしたが、岩手県酪農青年研究連盟創立十周年記念ということで、この碑が建てられています。もしかすると、関係者の中に、花巻・太田村時代の光太郎を知る人がいたのかも知れません。

同工場は10年ほど前に閉鎖されてしまっているとのこと。碑はどうなっているのでしょうか。調べてみます。

追記 工場跡地は雪印さんの系列の運送会社となり、碑も健在でした。

一昨日行って参りました長野のレポート、2回目です。

メインの目的地、碌山忌会場の安曇野市の碌山美術館さんに着きました。

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昨年までは、有志での守衛の墓参が、午後に行われていましたが、今年は午前中だったため、見送りました。まずは守衛の彫刻作品がまとめて収めてある碌山館へ。こちらの彫刻群とは1年ぶりの対面です。

続いて第1展示棟に行き、光太郎の彫刻群を拝見。新しく「十和田湖畔の裸婦群像のための小型試作」(像高約56㌢)が増えていました。中型試作(同約112㌢・小型の約2倍)は以前からあり、これで中型と小型のそろい踏みとなりました。どちらも全国各地に存在するものですが、2種類が揃っているところはここだけではないかと思われます。

ちなみに原寸(同約220㌢・中型の約2倍)のものは十和田湖畔と、箱根彫刻の森美術館さんにしかありません(石膏原型は東京芸術大学さん)。

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さらに杜江館で展示中の守衛の絵画、第2展示棟で開催中の企画展「荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-」を拝見しました。肉筆のものは、作者の体温が伝わってきます。守衛の肉筆をまとめてみるのは初めてで、興味深く拝見しました。企画展の方では、光太郎から守衛宛の葉書も展示されていました。こちらも現物を見るのは初めてでした。

企画展の会場には、この日、同館から刊行された書籍『荻原守衛書簡集』が置いてあり、パラパラめくっていると、そこにお世話になっている武井学芸員がいらして、「こちら、どうぞ」ということで、同書を一冊戴いてしまいました。定価4,000円もするものですので、有り難いやら恐縮するやらでした。

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同書、それから碌山忌に関して、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんで報道されました。 

荻原碌山、命日に理解深める 安曇野の美術館開放

 安曇野市穂高の碌山(ろくざん)美術館は、同市出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)の命日の22日、第105回碌山忌を開いた。同館を無料開放し、学芸員が彫刻作品を解説。碌山が画家を目指して上京した19歳から晩年までの書簡約150通を収録した「荻原守衛書簡集」もこの日に合わせ発刊した。

 学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。

 書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。

 碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。

 同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。

報道には記載がありませんが、守衛がロダンに宛てた書簡も掲載されており、そこには光太郎の名も。明治40年11月、当時留学でロンドンに住んでいた光太郎が守衛に会いにパリに来て、さらに二人でムードンのロダン邸を訪れた際のことが書かれています。その際はロダンは不在で、内妻のローズ・ブーレにパリ市内のアトリエを訪ねるように言われたものの、光太郎がロンドンに帰る都合でそれが果たせなかったと書かれています。この書簡については全く存じませんで、驚きました。

同書には、先述の光太郎から守衛宛の葉書も掲載されています。

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その後、杜江館2階で開催された碌山忌記念講演会「荻原守衛の書簡をめぐって」を拝聴しました。講師は信州大学名誉教授で同館顧問の美術史家・仁科惇氏。『荻原守衛書簡集』の編集委員長として、さまざまなご苦労があったというお話をされました。

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講師の仁科氏(右)を紹介する五十嵐館長(左)です。

続いて碌山研究発表ということで、武井学芸員による「新井奥邃(おうすい)と荻原守衛」。

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新井奥邃は思想家。守衛は留学に出る前、明治33年(1900)から翌年にかけ、明治女学校の敷地内に住んでいましたが、同じ時期に奥邃も明治女学校で教壇に立っており、そこで守衛は奥邃の思想に感化を得たらしいとのこと。

ちなみに光太郎も奥邃の思想に共感を示しています。守衛とも交流のあった画家の柳敬助に宛てた書簡(大正5年=1916)に奥邃の名が見えます。

余程以前に君から新井奥邃翁の「読者読」の一遍を恵まれた事がありました それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづゝ解つて来た様に思はれます 其は意味が解つたといふので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合はせる程一致して来たのを感ずる様になつたのです それて尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます 此事を君に感謝します 翁の言を集めた書が其後印行された事がありますか 若しあつたら其もいつか読みたいと思つてゐます かういふ書はくり返し読めばよむ程尽きぬ味が出て来ます

しかし、『高村光太郎全集』で、奥邃の名が出てくるのはここだけです。光太郎と奥邃については、今後の検討課題です。


講演会、研究発表が終わり、グズべりーハウスという棟で、毎年恒例の「碌山を偲ぶ会」。

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昨年から、要項に光太郎詩「荻原守衛」が印刷され、冒頭に参加者全員でそれを朗読するという試みが始められました。

参加者の方のスピーチもあり、今月2日の第59回連翹忌にご参加いただいた新宿中村屋サロン美術館さんの河野女史のスピーチも。

当方もスピーチさせていただき、来週の花巻高村光太郎記念館リニューアルオープンや、『十和田湖乙女の像のものがたり』について話して参りました。さらには来年が光太郎歿後60年、智恵子生誕130年という件も。(「企画展で取り上げて下さい」という意味です)スピーチというより、営業です(笑)。

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その後は愛車を駆って一路、千葉の自宅兼事務所まで。強行軍でしたが、有意義な1日でした。

以上、長野レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月24日

昭和5年(1930)の今日、東京向丘の大圓寺で、観音開眼大供養会が行われました。

像は光雲が顧問として監督に当たり、高弟の山本瑞雲が主任として作られた木彫仏です。さらにそれを原型として境内に露座の鋳造仏も開眼され、同じ像の木像と鋳像が同時に奉納されるという異例の事が行われました。

他にも大圓寺さんには光雲がらみの像が多く安置されており、いずれ行ってみようと思っています。

昨日は、光太郎の親友、碌山荻原守衛の105回目の命日、「碌山忌」ということで、信州安曇野の碌山美術館さんに行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

一昨年から、車でお伺いしています。その方が、電車の時間を気にしなくて済みますし、現地で動きがとれます。さらに、同じ方角で光太郎と関連のある人物を扱った美術館、文学館等を訪れるようにしています。一昨年は画家・村山槐多の作品が収蔵されている上田市の信濃デッサン館さん、昨年は安曇野市の臼井吉見文学館さん(臼井は編集者)を訪れました。

今年は、というと、2ヶ所に寄り道しました。1ヶ所目は、山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡博物館さん。中央道の釈迦堂パーキングエリア(下り線)の裏手にあり、PAに車を駐めて、歩いていけます。

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こちらに寄るのはまったく予定外でした。そういう施設があるというのは何となく知っていましたが、単純にトイレ休憩のため、同PAに寄ったところ、看板が出ていて、「ああ、歩いていけるんだ」と知り、行ってみました。当方、古代史にも興味がありますので。

釈迦堂遺跡は中央道建設に際して発見された遺跡で、特に縄文時代の地層から1,000点を超す土偶が出土し、中には重要文化財に指定されたものもあります。同館は高台にあり、甲府盆地がよく見渡せます。あちこちに桃の花も。

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行ってみて、驚きました。同じ笛吹市にある青楓美術館さんとの共催企画で「津田青楓の描いた花たち」という企画展が開催されていたのです。全く存じませんでした。

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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
また、津田は智恵子とも知り合いで、以下の智恵子の残した言葉としてよく使われるものは、津田の回想『漱石と十弟子』に書かれています。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

さて、釈迦堂遺跡博物館内へ。1階が企画展示でしたので、まずそちらを拝観。津田の描いた花の絵が約30点、展示されていました。館外の桃の花、館内には花の絵、心が和みました。

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2階は常設展示で、発掘された土偶などの遺物。こちらも興味深く拝見しました。

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時代が下って古墳時代の造型である埴輪に関して、光太郎は「埴輪の美と武者小路氏」という散文などに記述しています。ところが光太郎存命中にはまだ縄文時代についての研究がそれほど進んでおらず、土偶についての発言は確認できていません。もし光太郎が此等の土偶を見ていたら、どんな発言を残しただろうと思いました。

さて、再び中央道に戻って、八ヶ岳と南アルプスの間を抜け、長野方面へ。思ったより雲が多く、山容はきれいには見えませんでした。諏訪インターで一般道に下り、次の立ち寄り地、下諏訪町立今井邦子文学館を目指しました。今井は光太郎より7つ年下の歌人。大正4~5年(1915~1916)、光太郎彫刻のモデルを務めました。ただし、残念ながら彫刻は現存しません。写真撮影は、光太郎の実弟・豊周です。

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場所は諏訪大社の下社秋宮にほど近い、旧中山道から一本入った狭い道沿いです。邦子の父の実家で、元は茶店だった建物だそうです。幕末の和宮降嫁、江戸東下の際に行われた、現在で言うところの国勢調査的な記録が残っており、それによると間口4間半、畳数25畳だとのこと。ここで邦子は少女時代を過ごしました。

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入場は無料。2階が展示スペースになっており、原稿、書簡、作品掲載誌、遺品などが並んでいました。光太郎の彫刻の写真も。

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邦子の夫の健彦は、大正13年(1924)、当時の衆議院千葉2区から出馬し、当選。戦後まで代議士を務めました。当時の千葉2区は、当方の住む香取市や銚子を含む区域で、居住はしていなかったようですが、夫妻の足跡が残っています。健彦は銚子の名誉市民ですし、当方の住む香取市の香取神宮には、邦子の歌碑があります。そんな縁もあって、興味深く拝見しました。

その後、せっかく近くまで行ったので、諏訪大社下社秋宮へ。

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こういうところに来ると、清浄な気分になります。ところが、逆に邪悪な心で各地の文化財に油のような液体をまくという事件が発生していますが、何を考えてそういうことをやっているのか、さっぱり理解できません。先述の香取神宮も被害に遭っています。

桜もまだ残っていましたし、境内脇には展望台があって、諏訪湖が望めました。

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門前のそば屋さんで昼食。風情のある建物でした。他にも古い家並みが残り、こういうところは当方、大好きです。

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山菜そばと、天ぷらを単品で頼みました。右下はそばかりんとう。


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さて、また愛車に乗り込み、いざ、メインの碌山美術館さんへ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月23日

大正9年(1920)の今日、福島油井村の智恵子の母・センに宛てて手紙を送りました。

銀座の園芸店からダリアの球根を送る手配をした旨、記述があります。このダリアは智恵子生家で美しく咲きほこっていたとのこと。

今月17日に、以下の切手が発行されました。

特殊切手「日本の山岳シリーズ 第6集」

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日本郵便株式会社(東京都千代田区、代表取締役社長 髙橋 亨)は、日本各地の様々な名山を題材としたシリーズの第6弾として、特殊切手「日本の山岳シリーズ 第6集」を発行します。
今回の切手デザインは、春・夏の山を題材としています。

発行する郵便切手の内容

名  称 日本の山岳シリーズ 第6集
発行日 2015(平成27)年4月17日(金)
種 類 82円郵便切手

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1シート10枚(縦2枚×横5枚) イメージ 4

(1) 利尻山(りしりざん)・北海道 009
(2) 安達太良山(あだたらやま)・福島県
(3) 至仏山(しぶつさん)・群馬県

(4) 白馬三山(しろうまさんざん)・長野県
(5) 立山・富山県
(6) 槍ヶ岳(やりがたけ)・長野県

(7) 八ヶ岳・山梨県
(8) 富士山・山梨県
(9) 北岳・山梨県
(10) 宮之浦岳(みやのうらだけ)・鹿児島県
 シート余白:シバザクラのイメージ
 ※県名は山を撮影した場所です。

売 価 1シート820円
版式刷色 オフセット6色
発行枚数 1,000万枚(100万シート)

切手デザイナー 丸山 智
助言・監修 日本山岳協会顧問(前会長) 田中 文男
写真撮影・提供
 (1) 後藤昌美 (2) 田中正秋 (3)、(7) 縄手英樹 (4) 宮本孝廣 (5) 溝口けんじ  (6) 鈴木克洋
 (8) 西垣良次 (9) 深澤武 (10) 日下田紀三 


販売場所 全国の郵便局等 日本郵便株式会社Webサイト内「切手SHOP」のほか郵便振替による通信販売も行います。


というわけで、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山がデザインされた切手も含まれています。

日本郵便株式会社さんのサイトでの説明は以下の通り。

(2)安達太良山(あだたらやま)・福島県
安達太良山は福島県中北部にある火山です。更新世(約200万年前~約1万年前)末期の火山活動で東斜面に僧悟台(そうごだい)、勢至平(せいしだいら)などの溶岩台地、西斜面に沼の平(ぬまのひら)火口がつくられました。磐梯(ばんだい)朝日国立公園に含まれ、緩やかな山容のため登山・トレッキングに人気があります。

「高村光太郎の詩集『智恵子抄』で有名」の一言が入っていれば、完璧ですね(笑)。

昨日、他の用事もあって郵便局に行った際、購入してきました。皆様もぜひどうぞ。

ちなみに今日は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の命日、碌山忌ということで、上記切手の(6) 槍ヶ岳(やりがたけ)の麓、信州安曇野の碌山美術館さんに行って参ります。今日は全国的に晴れ間が広がるそうなので、上記切手の(7) 八ヶ岳・山梨県 (8) 富士山・山梨県 (9) 北岳・山梨県もよく見えると思います。また、信州の桜もまだ見頃のはず。楽しみです。

碌山忌関連行事は同館において、以下の時間で行われます。

10:30 ミュージアム・トーク
11:00 墓参
13:00~15:00 碌山忌コンサート
15:00 ミュージアム・トーク
15:30~16:50 碌山忌記念講演会 「荻原守衛の書簡をめぐって」 
         講師・仁科惇 信州大学名誉教授 美術史家 当館顧問
17:00~17:35 碌山研究発表    「新井奥邃と荻原守衛」 講師:武井敏 当館学芸員
18:00~ 碌山を偲ぶ会 会場:グズベリーハウス(会費1,000円)


さらに春期企画展ということで、以下も始まりました。

光太郎荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-

会  期:4月21日(火)~5月24日(日) 会期中休館日 4月27日(月)
会  場:第二展示棟

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こちらも楽しみです。010

さらに、毎年、碌山忌に行った際には、この地域にある光太郎と交流のあった人物に関わる美術館、文学館等も訪ねることにしており、今年は下諏訪町の今井邦子文学館に寄ろうと考えています。

詳しくは帰ってからレポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月22日

昭和33年(1958)の今日、信州穂高町(現・安曇野市)に碌山美術館が開館しました。

やはり碌山忌に合わせての開館だったのですね。

右はメインの建物の「碌山館」。入り口脇の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、光太郎の名も刻まれています。

若い力による活動を、2件ご紹介します。

まず1件目。地上波テレビ朝日さんで今日未明放映された「テレメンタリー2015「“3.11”を忘れない57 女川いのちを守る会~1000年後へのメッセージ~」から。

舞台は平成23年(2011)の東日本大震災による津波で大きな被害を受けた宮城県女川町。震災の年に当時の女川第一中学校(現在は統合された女川中学校)に入学した子供たち(昨春、卒業)が、中学校時代に授業で取り組んだ津波対策、それが「いのちの石碑」プロジェクトです。

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かつて同じ女川町に建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継いで、設置費用1,000万円は募金でまかなうことに。彼らは修学旅行先などでも募金活動を行いました。

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その結果、わずかな期間で目標額を達成(当会でも協力しています)、平成25年(2013)、彼らが3年生の秋には一基目の碑が除幕。

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今回の番組後半では、卒業後の彼らを追っています。

気仙沼の唐桑中学校では、高校生になった彼らがゲストティーチャーとして中学生に講話。

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さらに今年3月には、仙台で行われた国連防災世界会議パブリック・フォーラム中の、宮城県子ども支援会議主催のシンポジウムでの発表。

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碑はこれまでに6基が設置され、彼らが20歳になるまでに全21基の完成を目指しています。さらに現在は今年中の完成を目指し、震災体験や津波対策をまとめた「いのちの教科書」を編集中とのこと。

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頭が下がります。

大震災で、家族や友人、自宅、彼らが失ったものはたくさんありますが、逆に彼らが得たものも多いのではないでしょうか。

かつて女川に光太郎文学碑を建てるために奔走し、あの日、津波に呑まれて亡くなった、女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も、空の上から喜んでいるような気がします。


もう1件ご紹介します。

昨日午前中、このブログを書いている時に、電話がかかってきました。荒川区立第一日暮里小学校の、羽中田彩記子(はながたさきこ)校長先生からでした。

少し前に、今月2日の第59回連翹忌で参加者に配付した資料の残部、それから、当方も一部執筆した『乙女の像のものがたり』(年少者向けに書いたページもあります)を寄贈しましたので、そのお礼でした。

その中で、先週、同校であった大きなイベントの話をお聞きしました。以下、『東京新聞』さんから。  

ケネディ大使、英詩の読み聞かせ 荒川区の第一日暮里小

『東京新聞』 2015.4.15
 キャロライン・ケネディ駐日米大使が14日、英語教育に力を入れている荒川区立第一日暮里小学校(西日暮里3、羽中田彩記子(はながたさきこ)校長)を訪れ、英語の詩の読み聞かせを行った。
 2年生の児童23人が教室で「ハローソング」などの英語の歌を披露すると、「ファンタスティック!」と大使。「私の日本語よりうまい。今度は私に日本語を教えて」と英語で話し掛けた。
 読み聞かせは、幼いころから詩に親しんだ大使の希望で実現。大使就任前にニューヨーク市教育局の仕事をしていた時、貧しい地区の高校が詩など芸術をカリキュラムの中心にし、出席率などが上がったという(「キャロライン・ケネディが選ぶ『心に咲く名詩115』」、早川書房刊)。
 この日、大使が選んだのは「ザ・リトル・タートル」「キープ・ア・ポエム・イン・ユア・ポケット」の2編と、絵本の「グッドナイト・ムーン」。授業を終えた皆川輝太朗(こうたろう)くん(7つ)は「めったに会えない人。うれしかった」。大沢衣栞(いおり)ちゃん(7つ)も「ケネディさんのように英語を話せたらいいな」と話した。
 荒川区は2004年度から全小学校の全学年で週1回、英語の授業を行っている。第一日暮里小は本に親しむ教育に力を注いでおり、週3回の朝には「ことばの時間」を設け、詩を読んだり、書き写したりする指導も行っている。卒業生には詩人で彫刻家の高村光太郎がいる。 

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同じ件は各紙で報道されましたが、『東京新聞』さんのみ、光太郎の名を出して下さいました。

今回の訪問先として、いくつかの学校さんが候補に挙がったそうなのですが、記事にも有るとおり、大使が幼いころから詩に親しんでいたということで、最後に決め手になったのが、光太郎だそうです。

同校は単に光太郎の母校というだけでなく、毎年、6年生を中心に光太郎顕彰、というか光太郎について学ぶ活動を継続されています。昨秋の研究発表会にもそれが盛り込まれていました。

それから、記事には書かれていませんが、5年生と6年生が、ケネディ大使に光太郎詩「道程」と「山のともだち」の群読を聴いていただいたとのこと。

これもすばらしいですね。


「求道者」としての生涯を全うした光太郎。時にけつまづき、時に良かれと思って進みながら道を外れ、その生涯は決して賞賛のみが与えられるべきものではありませんでした。しかし、外れた時には素直にそれを認め、また新たな道を追求し続けたその姿勢は、非難されるべきではありません。

若い世代には、こうした光太郎の生きざまを通じていろいろなことを学び、その若い力で、この社会をよりよくしていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月21日

平成7年(1995)の今日、日本クラウンから吾妻栄二郎のシングルCD「折鶴の舞/智恵子のふるさと音頭」がリリースされました。

2曲とも、智恵子をモチーフにしています。

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新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

一昨日からの続きで、都内レポートです。

芝増上寺新宿中村屋サロン美術館と制覇し、最終目的地が錦糸町のすみだトリフォニーホール。ここで午後7:00から「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」というコンサートですが、ここまでの行程で、ほぼ予測どおりに時間が余っていますので、時間調整をかねて次なる目的地、永田町の国立国会図書館に向かいました。


今月末にリニューアルオープンする花巻高村光太003郎記念館のために、現在、光太郎が花巻及び花巻郊外太田村で暮らしていた昭和20年(1945)から同27年(1952)までの詳細な年譜を作成中です。その中で、昭和23年(1948)に創刊された『花巻新報』について調べるためです。

『花巻新報』の題字を光太郎が書いていることは判っていましたが、その最初の号の正確な発行日が不明でしたし、実際に書かれたその題字の画像も手許の資料に見あたっていませんでした。国会図書館で『花巻新報』が見られることがわかり、見に行った次第です。

といっても、現物はありません。現物はアメリカです。「プランゲ文庫」といって、検閲のためGHQに提出されたものが、参謀第二部のゴードン・ウィリアム・プランゲによってメリーランド大学に収められており、その中に含まれているのです。国会図書館には、そのマイクロフィルムが収蔵されています。

本館の4階に「憲政資料室」という部屋があり、そこでの閲覧になります。初めて使いましたが、パソコンと連動したデジタルリーダーという機械があり、驚きました。トリミングも自由自在で、複写ができるのです。ただし、パソコンから信号を送り、コピーは新館1階のプリントアウトカウンターで印刷してもらうのですが。

さて、目当ての『花巻新報』は昭和23年11月7日に創刊されていました。一面にははなばなしく「創刊の言葉」。しかし号数は「第76号」となっています。調べてみるとやはりこの地域で発行されていた地方紙3紙が統合されて『花巻新報』となり、統合前の1紙の号数を引き継いでいました。

光太郎が書いた題字はこちら。味のある字ですね。しかし、アメリカにある現物もおそらく状態が良くなく、それをマイクロフィルム化した上、拡大してコピーを取っていますので、あまり鮮明ではありません。004

それから、驚いたことに、この号に『高村光太郎全集』等に収録されていない、未知の光太郎の文章が掲載されていました。

さらに驚いたことに、後の号で、『高村光太郎全集』に掲載されている文章の続きの部分を見つけました。第20巻所収の「岩手は日本の背骨」という文章ですが、2回に分けて掲載されているうちの、1回分のみが『高村光太郎全集』に掲載されていて、後の部分は未収録なのです。ちなみにこちらは昭和24年(1949)の9月21日、花巻文化劇場で行われた「賢治祭」での講演筆録です。

他にも細かな点ですが、光太郎生前に活字になった記録がなかった「お祝いのことば」という詩が掲載されていたりという発見もありました。こちらは太田村の山小屋近くにあった山口小学校に贈った詩です。

来年4月刊行予定の『高村光太郎研究』で詳細を報告します。


さて、国会図書館を後にし、最終目的地の錦糸町すみだトリフォニーホールへ。

今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました作曲家・野村朗氏の「連作歌曲 「智恵子抄」~その愛と死と~」がプログラムに入っている「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」というコンサートを聴いて参りました。

演奏は森山孝光様、康子様ご夫妻。お二人による生演奏は今までにも3回聴いていますし、CDやDVDも戴いているのですが、やはり素晴らしい演奏は何度聴いてもいいと思いましたし、中村屋さん同様、招待券を戴いてしまいましたし(笑)、更に云うなら、野村氏から宮澤賢治の詩に曲をつけた演奏会のお誘いを受けた際に「残念ながら光太郎がからまない演奏会に行く余裕がございません」的な返答をしてしまったので、「今度は光太郎なのになぜ来ないんだ」とお叱りを受るのが恐ろしかったというのもあります(笑)。

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今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました、詩人・野澤一のご子息・俊之氏、太平洋画会の坂本富江さん、文芸誌『青い花』同人の宮尾壽里子様もいらしていました。

さて、森山夫妻の演奏。やはり素晴らしいものでした。通常、こうした演奏会の場合、曲間に拍手等はNGですが、第2曲「あどけない話」が終わったところで、会場から「ブラボー」の声と拍手。やってしまったお客さん、よほど感極まったものと思われます。実際、バリトンの孝光氏はしっかり暗譜もなされていて、伴奏の康子様ともども情感たっぷりの演奏を披露して下さいました。

最終曲「案内」は花巻郊外太田村の山小屋に亡き智恵子を案内する内容ですが、「智恵さん気に入りましたか、好きですか。」「智恵さん斯ういふところ好きでせう。」といった呼びかけの部分は、本当に光太郎が歌っているかのような錯覚に陥りました。

前述の通り、花巻、太田村時代の詳細な年譜を作成中で、改めて光太郎の日記や書簡などを読み返している最中ですので、なおさらそう感じたのかも知れません。

終演後は電車で帰りました。その日の内には帰り着きましたが、さすがに疲れました。疲れましたが、有意義な1日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月19日

昭和20年(1945)の今日、『読売報知新聞』に「罹災の記」、『東京新聞』に「仕事はこれから」の、ともに散文が掲載されました。

どちらも花巻移住の直接の契機となった、同月13日の空襲によるアトリエ焼失に関する内容です。

自己生活の過去にれんれんたるなかれ。むしろ御破算をこそ喜び、未来に耿々たる新生の火を焚き、敵の腰砕け、敵の気力折れ尽きるまで、戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たらしめねばならない。私も老骨に鞭うつて大いにやらうと思ふ。(「罹災の記」から)

私は大切な道具箱を助けたので千万力の気がする。(略)此等さへあれば私の過去の彫刻作品など悉く不用である。これから私の本当の彫刻がいくらでも生れる。過去よ去れ、過去よ消えよ。今こそ破算と創建との切換の自然到来。私の仕事はこれからであり日本の美しい美が私を待つて其処にゐる。(「仕事はこれから」より)

潔いというか、その意気やよし、というか、そういう感じもしますが、空元気、空威張りの感も否めません……。

昨日に続き、都内レポートです。007

芝増上寺を後に、次は新宿中村屋サロン美術館さんに行きました。

現在開催中の「テーマ展示 柳敬助」を観るためです。昨秋の開館の時に続き、2度目の訪問となりました。今月2日の第59回連翹忌に、事務の方と学芸員の方、お二人がご参加くださり、招待券も戴いてしまいました。
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柳敬助は光太郎より2歳年長の画家。東京美術学校に学び、明治末、光太郎や荻原守衛と同時期に滞米しており、彼の地で二人と知り合っています(光太郎とは渡米前の東京美術学校で面識程度はあったかも知れませんが)。帰国後は中村屋の裏に守衛の設計監督で建てられたアトリエで1年ほど創作を続け、中村屋サロンの一員となりました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同年、日本橋三越で開かれた遺作回顧展の初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

信州安曇野の碌山美術館さんには柳の作品がある程度まとまって収蔵されており、今回の展示はそちらから10点あまりと、その他、「個人蔵」となっているものでした。

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碌山美術館さん収蔵のものは、同館に毎年行っていますので、何度も観たものですが、その他の「個人蔵」というものは初めて観るものばかりで、興味深く拝見しました。特に、ハガキ大の小さな板に油彩で書かれた「板絵」には「ほう」と思いました。小さな画面に魂が凝縮されている感じでした。


さらに奥のスペースでは、常設展的に「中村屋サロン 通常展」。

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光太郎作品は油彩の「自画像」と、碌山さんから借りているブロンズの「裸婦坐像」。ともに何度見ても素晴らしい作品です。もちろん他の作家のものも。

来月9日、14:00からギャラリートークがあります。ぜひ足をお運び下さい。

最後に受付前のショップを覗くと、当方の知らなかった新刊書籍が置いてあり、早速購入しました。

新宿ベル・エポック

2015/4/20  石川拓治 小学館 定価1,800円+税

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帯文から

芸術と食を生んだ中村屋サロン

インドカリーで有名な中村屋に芸術家たちが集った理由とは? 愛と情熱に溢れた知られざる新宿の良き時代

明治末期から大正、昭和前期にかけて、活況を呈した中村屋サロン。彫刻家・荻原守衛(碌山)、高村光太郎、画家・中村彝…。激動の時代、彼らを支え、世のために尽くした相馬愛蔵・黒光夫妻の物語。


ちょうど受付に、連翹忌においで下さった学芸員の方がいらっしゃいまして、「こんな本が出てるんですね。存じませんでした」と申し上げると、「昨日届いたんです」とのこと。ラッキーでした。

帰りの電車の中で早速読み始めましたが(まだ読了はしていません)、非常にわかりやすくまとまっていて良いと思いました。著者の石川拓治氏はノンフィクション作家。前述の学芸員さんに教えていただいたのですが、「奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録」という書籍も書かれています。たまたまその題材になったリンゴの無農薬栽培の話は知っていたので、意外といえば意外でしたが、「食」という点で中村屋さんと共通するのかも、と思います。

来週には碌山美術館さんの碌山忌に行って参りますので、それまでに読んで置こうと思っています。

皆様もぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月18日

昭和18年(1943)の今日、連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死しました。

それを受けて光太郎は「提督戦死」「山本元帥国葬」という詩を作り、さらに「厳然たる海軍記念日」「われらの死生」という詩でも山本の戦死に触れています(すべて昭和18年=1943)。

昨日は都内を歩き回りました。3回に分けてレポートいたします。

まず、芝増上寺さん。

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4月2日(奇しくも第59回連翹忌の当日)、本堂地下に宝物展示室がオープンし、里帰りを果たした英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」が、目玉として展示されています。この制作(明治43年=1910)には東京美術学校があたり、光雲も監修者として名を連ねています。

4月2日の『朝日新聞』さんの記事がこちら。

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浜松町駅から歩き、地名の由来ともなった大門をくぐって境内へ入り、本堂を参拝。目指す宝物展示室の入り口付近では、何やら僧侶の皆さんが読経中。密教系の護摩法要のような感じでした。増上寺さんは浄土宗なので「?」と思ってよく見ると、どうやら一般家庭から納められた仏壇のお焚き上げを行っているようでした。

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さて、地下の宝物展示室へ下り、入場料700円也を支払って、中へ。まず正面にドーンと「台徳院殿霊廟模型」。模型というよりもはや小建築です。撮影は禁止なので、いただいたチラシから画像を拝借します。

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これで10分の1スケールだというのですから、焼失した霊廟自体の大きさ、豪壮さはいかばかりであったか、と思いました。

戴いたパンフレットに載っていた昭和20年(1945)当時の境内の伽藍配置はこの通り。台徳院殿霊廟は本堂の南側にありました。現在の本堂も巨大な建物ですが、図面によればそれよりはるかに大きかったことが分かります。

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修復のため取り外された部材や説明パネル、修復の模様を追ったビデオを観、光雲が監修者として関わった意味がよく分かりました。霊廟のエクステリアや内装の、肘木、かえる又、欄間などに施された彫刻も、ちゃんと10分の1スケールで復元されているのです。この仕事は明治末には光雲系の木彫師でないと不可能だったでしょう。

ちなみにこの台徳院殿霊廟、日光東照宮の建築に先駆けて作られたもので、いろいろな意味で東照宮のプロトタイプ的な要素もあったとのことです。

平日にもかかわらず、多くのお客さんがいらしていました。高い知的好奇心を持つ方々が多く存在するというのも、この国の強みの一つですね。

宝物展示室を後に、本堂裏手に廻りました。墓地があり、その一角に納骨堂が建っています。

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この納骨堂内部には地蔵菩薩さまがおわすのですが、そちらも光雲が原型を制作したものだそうです。昭和8年(1933)の建築で、こちらは空襲の被害をまぬがれています。

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扉は時折開いているらしいのですが、残念ながら、昨日は開いておらず、光雲作の地蔵菩薩は見られませんでした。ただ、堂の周囲の四方に銅製の狛犬のような彫刻があり、光雲系の匂いがします。しかし、ざっとネットで調べてみても詳細は不明です。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただけると幸いです。

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増上寺さんを後に、次なる目的地、新宿に向かいました。以下はまた明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月17日

平成4年(1992)の今日、福島県安達町(当時)が『命と愛のメッセージ』を刊行しました。

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同日開館した智恵子記念館のパンフレット的な刊行物ですが、50ページ超、紙絵を中心に智恵子作品集の要素も持っています。その後発見された智恵子筆のデッサンを収めた改版が平成14年(2002)に発行され、現在も記念館で販売中です。

「智恵子抄」を中心として、光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄っているシャンソン歌手のモンデンモモさん。2日の第59回連翹忌にもご参加下さいました。

月末にミニミニライヴだそうですのでご紹介します。 
期 日 : 2015年4月26日(日)008
会 場 : 澤村宅 (練馬区光が丘7-6-7-304 ホテルカデンツァ近くの棟)
時 間 : 15:00~16:30 (14:50開場)
料 金 : 3,000円(おみやげ付)当日集めます

予定曲  詩と歌とお話による「やっぱり智恵子抄」
       郊外の人に から 亡き人に まで
      カンツォーネ「コメプリマ」「君に涙と微笑みを」
                「砂に 消え涙」
      他
 うたとお話  モンデンモモ               
 ピアノ      砂原dolce嘉博


当方、翌日から岩手花巻で、高村光太郎記念館リニューアルオープンに行って参りますが、景気づけに(笑)こちらにも足を運びます。

皆様もぜひどうぞ。


今日は都内で複数の用事をこなして参ります。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月16日

昭和20年(1945)の今日、智恵子の親友で作家の田村俊子が歿しました。

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俊子は智恵子より2歳年長。智恵子同様、『青鞜』メンバーでした。また、やはり智恵子同様、日本女子大学校に通っていましたが、中退。在学中には智恵子との接点はなかったようで、智恵子とのつながりは『青鞜』を通してでした。しかし、智恵子も俊子も『青鞜』の女性解放的なスローガンにはあまり関心がなく、いわば異端児同士で馬が合ったのかも知れません。

俊子の小説には、智恵子との間に軽い同性愛的な要素があったと書かれていますが、どこまでが真実か、何とも言えません。ただ、明治45年(1912)には、元は光太郎が経営しており、知り合いの画家に譲渡された神田の画廊・琅玕洞で俊子と智恵子の二人展「あねさまとうちわ絵」を開催したりしています。

俊子の最初の夫は作家の田村松魚で、光太郎と仲が良かった人物です。しかし離婚、そして次の夫になるジャーナリストの鈴木悦を追ってカナダに移住(大正7年=1918のことで、光太郎智恵子は横浜まで見送りに行きました)、彼の地で20年近くを過ごします。

その間に智恵子は心と肺を病み、歿しました。俊子が身近に居続けていたら、智恵子の生涯もかなり変わっていたような気がします。

さて、俊子が歿したのが70年前の今日。4月16日は俊子デーということで、歿後もいろいろと行われています。

昭和36年(1961)、俊子の墓がある鎌倉東慶寺に文学碑が建立されました。

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智恵子も登場する小説「女作者」の一節が刻まれています。曰く、「この女作者はいつもおしろひをつけてゐる この女の書くものは大がひおしろひの中からうまれてくるのである」。

同日、この碑の前で第一回田村俊子賞授賞式が行われました。受賞作品は瀬戸内晴美「田村俊子」。ややこしいですね(笑)。

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同賞は17回で終了したとのことです。

テレビ放映情報です。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」に関するドキュメントです。
 
 
同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。  

テレメンタリー2015「“3.11”を忘れない57 女川いのちを守る会~1000年後へのメッセージ~」

地上波テレビ朝日系 2015年4月20日(月)  26時21分~26時51分 = 4月21日(火)午前2時21分~2時51分

震災から4年。宮城県女川町も復興が進み、震災の影は少しずつ薄れてきました。「震災を記録に残そう」当時中学生だった子どもたちは、津波到達地点より高い場所に石碑を建てることを提案。震災の悲劇を語り継ぐため、そして次の震災への備えとして建設を続けています。今年3月には国際会議で世界に向けて発信することになりました。合言葉は「1000年後の命を守るために」。被災地に生きる子どもたちが1000年先まで語り継ぐ命のストーリー。

ナレーター 朝倉あき
制作  KHB東日本放送

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同番組は、テレビ朝日系列の全国24社が共同制作しているドキュメントで、系列各局での放映日程は以下の通りです。系列各局とも深夜、あるいは早朝のオンエアですので、リアルタイムで視聴するのはつらいという方、ぜひ録画予約をお願いします。

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昨年、仮設の「きぼうのかね商店街」近くに建てられ008た4号碑を実際に見て参りました。全部で21基立てる計画だそうです。

この碑を紹介するのではありませんが、女川からのレポート的ないくつかの番組で、この碑がちらっと映ることがあり、「ああ、あそこにも建ったんだ」などと、その後どうなっているのか、気になっているところでした。

女川といえば、先頃、JR石巻線の女川駅が復活しました。今年も8月9日の女川光太郎祭で講演をしに行きますので、どうなったのか、よく見てきたいと思っています。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月15日

明治19年(1886)の今日、光太郎のすぐ下の弟妹・道利と、しづの双子が誕生しました。

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左から道利、しづ、光雲、光太郎。光雲に抱かれているのは道利・しづのさらに次に生まれた豊周です。明治24年(1891)の撮影です。

昨日に続き、岩手花巻ネタで。

先週末の地方紙『岩手日日』さんの記事です。 

花巻電鉄で地域おこし 志戸平温泉「しどの日」

 志戸平温泉の恒例企画「しどの日」は10日、花巻市湯口の同温泉で開かれた。ステージイベントに加え、1970年代まで市中心部から同温泉などを結んでいた花巻電鉄を紹介する展示会を初開催。出展趣旨に賛同する市民から多くの協力が寄せられており、同社のイベントを中心に、新たな地域おこしが芽生えている。
 同社は毎年4月10日を「しどの日」と名付け、さまざまな会員参加型サービスを展開。5回目となる今年は、同社顧客通信紙の編集スタッフに同電鉄に乗車経験がある委員がいたことから、展示会の企画が持ち上がった。
 これに協力したのが、地元の記録や資料を掘り起こして研究、紹介している「Act21」主宰の菅原唯夫さん(65)=同市南万丁目=。懐かしい「馬面(うまづら)電車」の勇姿を収めた写真のほか、かつて同温泉に設置されていた遊園地の様子を収めた映像、同電車を利用する高村光太郎の姿、同温泉の絵はがきなど多彩な内容が市民の関心を集めている。
 会場には、菅原さん所蔵の物だけでなく、Act21の活動に賛同する市民が菅原さんに託した写真なども並ぶ。「こういった展示会がなかったら捨てていたアルバム。使っていただければうれしい」などと、菅原さんと同社に感謝の手紙が添えられた物もあるという。
 イベントに携わる同社宿泊部の田中弘子次長は「当初は10日だけの展示予定だったが、反響が大きく、19日まで延期することにした。多くの方に見ていただき、思い出を蘇らせてもらえたらうれしい」と、多数の来場に喜びの表情。菅原さんは「イベントをきっかけに一層の協力が得られ、回顧展の開催などにつながれば」と、地域の盛り上がりに期待する。
 来場者は「これに乗って何度も志戸平に来たよ」「高村光太郎も乗ったことがあるんだね」などと懐かしそう。藤原茂男さん(57)は「小さな電車だったけど、憧れていた。街並みに昔の面影が残っている写真が多く、何だかホッとしますね」などと語り、興味深げだった。
 展示会は観覧無料。問い合わせは同社=0198(25)2011=まで。


昭和20年(1945)に空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎は、宮澤家などの誘いで花巻に疎開、終戦後も帰郷せず、7年間、花巻からさらに山奥の太田村に独居自炊の生活を送りました。

光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)に近い花巻南温泉峡の一つ、志戸平(しどだいら)温泉でのイベントです。

光太郎は山小屋で暮らしながらも、時折花巻町まで出ることが有りました。年に数回は賢治の主治医だった佐藤隆房邸(太田村に移る前にここにも暮らしていました)に宿泊したり、納税やら金融機関での雑務やらのため日帰りで行ったりしていたのです。その際には山小屋から4㎞ほどの二ツ堰駅まで歩き、そこから花巻電鉄を利用しました。また、二ツ堰から花巻町と逆の花巻南温泉峡方面に行くために、花巻電鉄に乗ることも。

この路線は昭和44年(1969)に廃線となっています。車両は花巻駅近くの材木町公園に静態保存されています。

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下の画像、中央に立っているのが光太郎です。

この花巻電鉄に関する写真展が、志戸平温泉さんで開催中です。光太郎が写っている写真も展示されています。下の画像で、右の方の大きなパネルに光太郎の顔が見えます。

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同様の写真展は、以前に花巻に行った際、市内のショッピングモールで開催されていました。また、昨日お知らせした花巻高村光太郎記念館の企画展的な展示をするスペース――奥の副室――で、来年の展示にこういった内容をやりたいと、㈶花巻高村光太郎記念会さんの事務局の方がおっしゃっていました。

次の日曜日、19日まで志戸平温泉さんで開催中です。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月14日

昭和17年(1942)の今日、光太郎が題字を揮毫した竹内てるよ詩集『灯をかかぐ』が刊行されました。

題字のみ光太郎。装幀、表紙画は画家の古沢岩美です。竹内は戦前から、多くの詩集の題字を光太郎に依頼しています。

少し前からぽつぽつ書いていましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館のリニューアルオープンについてです。

以下、花巻市のサイトから。

高村光太郎記念館のリニューアルオープンについて

改修工事を行っている高村光太郎記念館の開館日程が決まりましたのでお知らせします。
開館に先立ち記念式典を行う予定です。
なお、高村光太郎記念館は、旧花巻歴史民俗資料館を活用して平成25 年5 月15 日から市営の記念館として暫定的にオープンしていたもので、平成26 年度において全面的に改修を行っていたものです。
記念館の展示は、彫刻をメインに映像や音響などを工夫して光太郎の世界に誘導する「展示室1」と、書や詩などを時代背景とともに解説してテーマ別に理解を深める「展示室2」の2つのゾーン構成となっております。
改修にあたっては、顕彰活動を行っている財団法人花巻高村光太郎記念会や地域の皆さんのご意見を聞きながら進めてきており、今回の記念館整備により、以前より多くの来館者においでいただけることを期待しております。

                記

1  開館日時  平成27年4月28日(火)正午から
2  式典概要  開館日の午前中に式典を実施
    市長あいさつ、来賓祝辞、テープカット等  テープカット後に式典参加者に対し展示説明
3  その他 工事に伴いまなび学園で開催中の「高村光太郎展」は4月15日まで会期を延期します。

なお、式典の内容については、詳しく決まり次第ご案内します。
開館を記念して、28日(火)29日(水・昭和の日)は入場無料。
5月15日(金)、高村山荘 詩碑前で開催される「高村祭」は開館を記念した行事として、記念講演や地域の小中学生による朗読や合唱などを行う予定です。

こちらは今月2日の第59回連翹忌にて配布されたチラシです。

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一昨年の5月に仮オープンとなった高村光太郎記念館。その時点では上記画像の展示室1のスペースのみの使用となっていました。

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それがこれまで使用していなかった奥のスペースも使用、約2倍の面積となり、さらに展示内容も一新されます。

手前の展示室1は「彫刻をメインに、映像や朗読で光太郎の世界に誘導する」というコンセプトです。朗読は声優の堀内賢雄さん。先月、東京水道橋のスタジオにての収録に立ち会って参りました。イメージ映像も流れ、ハイテクな展示となるようです。

展示室2は、書、草稿、著書、遺品などのテーマ別展示がメインです。特に書に関しては、充実しています。また、宮澤賢治や石川啄木など、岩手の人々との関わりについての展示も為されます。この部屋の説明パネルの一部を執筆させていただきました。

さらに上記図面で云うと展示室2の右側が副室となっていて、そちらは1年間のスパンで企画展的に展示を入れ替えます。最初の展示のテーマは「光太郎山居七年」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)の、この地での光太郎にスポットを当てます。ただし、副室のオープンは来月となります。


おりしもGW。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月13日

明治45年(1912)の今日、歌人・石川啄木が歿しました。

宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。光太郎より0103歳年少でしたが、明治45年(1912)の今日、数え27歳で歿しました。その短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がまだ続いていたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。

一昨日、昨日と、智恵子の故郷の二本松、安達太良山関連の情報をお伝えしましたが、また見つけてしまいましたのでご紹介します。

まずは地方紙『福島民友』さんの記事。

“春さがし”バス運行 二本松・桜の名所、旧跡巡ろう

福島民友新聞 :4月11日(土)
 春の観光シーズンに合わせて二本松市の桜の名所や名所旧跡を循環する臨時バス「二本松春さがし号」が10日、運行を開始した。
 同バスはJR二本松駅前を発着点に、亀谷坂露伴亭、智恵子の生家、霞ケ城公園、二本松少年隊の墓がある大隣寺などを巡る。5月6日まで毎日運行し、1日8本のバスが市内を循環しながら9カ所の停留所で停車する。大人(中学生以上)500円、子ども250円(乳幼児無料)の1日フリー乗車券は乗り降り自由で、同乗車券を提示すると同市の大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割り引きとなる。生活の足としての利用も可能で、料金は大人が170~500円、子どもは90~250円。
 同駅前で行われた出発式では、半沢典明福島交通二本松営業所長が「魅力再発見にもつなげたい。大型観光企画『ふくしまデスティネーションキャンペーン』も始まっており、おもてなしの心で安全運転に努めたい」とあいさつした。安斎文彦二本松観光協会長も「観光客の誘致を拡大し、二本松の良さを知ってほしい」と祝辞を述べた。半沢所長、安斎会長、横堀和博二本松駅助役がテープカットした。

「二本松春さがし号」は、福島交通さんの運行です。

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さらに安達太良山麓にある岳温泉でのイベントをご紹介します。
■開催日
 平成27年4月25日(土)、26日(日)
■時 間
 10時~16時
■会 場
 鏡ヶ池公園
■問い合わせ
 岳温泉観光協会 TEL 0243-24-2310

鏡ヶ池公園を舞台に音楽イベントや露店もでます。夜は桜の開花に合わせてライトアップあり。

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このブログで何度かご紹介した、「ほんとの空」を守り、二本松の素晴らしさを全国に伝えるのが役目という「二本松少年隊」の皆さん、「ほんとの空」を取り戻すため、安達ケ原の鬼婆伝説を基にした怪人と戦っている「光の戦士ツインウェイター」さん、トランペット奏者のNobyさんもご出演。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月12日

昭和50年(1975)の今日、雑誌『太陽』第144号で「特集 智恵子抄 高村光太郎の世界」が組まれました。

100ページほどのボリュームのある特集です。故・髙村規氏撮影の写真がふんだんに使われ、執筆陣も豪華。草野心平、松永伍一、津村節子、後藤明生、高田博厚、北川冬彦、真壁仁。

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巻末のオリンパスさんの広告まで、光太郎がらみになった特別仕様です。

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少し前に手に入れていたのですが、ばたばたしていて忘れていました。 

『放送研究と調査』3月号

2015/3/1 NHK出版 定価800円+税 

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「豊かな放送文化を創造する」という公共放送の役割の実現に向けて必要な調査研究を行う目的で活動を続けているNHK放送文化研究所さんの月報です。

メディア論、テレビ・ラジオ視聴調査結果、さらには国語学的な内容も含まれています。

3月号ですので、先月号となってしまいましたが、ネットで購入できます。

目次がこちら。

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「ことば・言葉・コトバ」という連載で、研究員の井上裕之氏による「智恵子が愛した安達太良山は?」という記事が掲載されています。国語学的なアプローチで、「××山」と云った場合にどこを指すのか、という内容です。

富士山のような独立峰であれば何ら問題はないのですが、連峰・山塊の場合、山全体を指す名と、個々のピーク名が一致していない場合がよくあります。たとえば「八ヶ岳」は山全体の名前で、個々のピークには「赤岳」「横岳」「阿弥陀岳」などの名称が付いており、それらの総称が「八ヶ岳」というわけです。

ややこしいのは、山全体の名称と同じピーク名が含まれる連峰・山塊。智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山がこれに該当し、山全体を「安達太良山」という場合もあれば、「乳首山」とも称されるピークのみを指す場合もあります。近くには「鉄山」「箕輪山」というピークもあります。

さらにややこしいのは、標高。「乳首山」ピークは1700㍍ですが、「鉄山」は1709㍍、「箕輪山」は1728㍍。したがって、連峰・山塊として捉えると、「安達太良山は標高1700㍍の山である」と書いたら誤りだということになってしまいます。

すると、「あれが安達太良山」と云った智恵子がどこを指していたのか、ということになります。

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深田久弥は『日本百名山』の中で、遠景としての山全体を指してのことだろう、と述べています。確かにそう考えた方がしっくりきますね。すると、このシチュエーションの説明で「安達太良山は標高1700㍍の山である」は使えません。気をつけようと思いました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月11日

明治37年(1904)の今日、歌舞伎座で芝居を見物しました。

演目は村井弦斎作「櫻の御所」(六代目尾上梅幸主演)、森鷗外作「日蓮辻説法」(七代目市川八百蔵主演)などでした。

4月も中旬となりました。

4月といえば、桜。千葉県北東部にある当方自宅兼事務所の近辺は、自然が豊かですので、みごとな山桜はまだ見られますし、遅咲きの八重桜はこれから開花です。ただ、桜の王様・ソメイヨシノはまだ花をつけてはいますが、もう盛りを過ぎました。

東北は、というと、これから桜の盛りですね。

今週初めの『福島民報』さんの記事です。

夜空に浮かぶ万燈桜 二本松 24日までライトアップ

 福島県二本松市の4号国道沿いにある道の駅「安達」智恵子の里下り線では、万燈(まんとう)桜のライトアップが始まった。24日まで幻想的な夜桜を楽しめる。 
 万燈桜は樹齢推定270年で高さ約15メートルの一本桜。現在、見頃を迎えている。 
 ライトアップは午後7時から同11時まで。問い合わせは同道の駅 電話0243(24)9200へ。
 

「万燈桜」は、智恵子生家にほど近い二本松の国道4号線沿いの「道の駅「安達」智恵子の里下り線」にあります。推定樹齢270年ということで、129年前に生まれた智恵子も、もしかしたらこの桜を眼にしているかも知れません。くわしくはこちら

その他の二本松の桜の名所のうち、「智恵子抄」詩碑のある霞ヶ城、光太郎が「みちのくの安達ヶ原の二本松松の根方に人立てる見ゆ」と詠った安達ヶ原などは観光協会さんのサイトに掲載されています。

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そちらには掲載されていませんが、智恵子の母校・油井小学校にはやはり智恵子が通っていた頃からある見事なしだれ桜がありますし、智恵子の実家・長沼家の墓所がある満福寺さんの桜も見事なものだそうです。くわしくはこちら
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また、二本松の北の福島市には、最近有名になった花見山もあります。

訪れることが復興支援にもなります。今週末、来週末あたりは福島へ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月10日

大正7年(1918)の今日、水野葉舟、落合太郎と三人で雑誌『智慧』を創刊しました。

光太郎作品は「花についてのロダンの言葉」、「書簡」が載っています。

寄稿者という立場ではなく、自らが中心になって出したほとんど唯一の雑誌ですが、残念ながら創刊号で廃刊になりました。

今月2日、第59回連翹忌の日に刊行された雑誌です。 

高村光太郎研究(36)

2015/04/02 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

高村光太郎・最後の年 1月(2)   北川 太一
高村光太郎と雑誌『創作』 ―自選短歌作品を中心に 山田吉郎
詩人野澤一という人 ―そして高村光太郎との関係性― 坂本富江
光太郎遺珠⑩ 平成二十七年   小山 弘明
高村光太郎没後年譜 平成二十六年(二〇一四年)一月~十二月/未来事項  小山 弘明
高村光太郎文献目録         野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介     野末  明

北川太一先生の「高村光太郎・最後の年 1月(2)」は、光太郎日記以外に、これまで公表されていない、主として金銭出納を記録した「おぼえ帖」、書簡等の授受を記した「通信事項」も使いながら、昭和31年(1956)の光太郎を追う連載です。ご自身の光太郎訪問記も記され、貴重な記録です。

山田氏の論考は、昨秋の第59回高村光太郎研究会でのご発表を元にしたものです。

坂本富江さんは、光太郎と交流のあった詩人・野澤一、そして野澤、坂本さんの故郷・山梨県と光太郎の関連について述べられています。坂本さんは太平洋美術会会員でもあり、自筆のスケッチも掲載されています。

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拙稿「光太郎遺珠⑩」、「高村光太郎歿後年譜」についてはこちら

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。

ところで「連翹忌の日に刊行」といえば、連翹忌での配付資料等。当方刊行の冊子『光太郎資料』、各種チラシ・パンフレット類など、以前はクロネコヤマトの「メール便」で、ご欠席の方などにすぐ発送していました。ところが「メール便」が3月いっぱいで終了、新たに「DM便」に移行しました。その結果、利用者登録が必要となり、申請中です。いましばらくお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月9日

昭和21年(1946)の今日、詩人の寺田弘に葉書を書きました。

拝啓 御無沙汰しましたが、「虎座」や詩壇消息の雑誌など拝受して、貴下の撓まぬ御努力をありがたい事と存じました。
四月十三日がまた廻りくるにつれ、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬ御助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮澤家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。幸に小生健康、貴下の御健勝、お仕事の進展を念じ上げます。

四月十三日」云々は、前年に駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、すぐ近くに住んでいた寺田が駆けつけてくれたことを指します。

この折の寺田の回想が、平成24年(2012)に刊002行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。元々は平成21年(2009)に同題のラジオ番組でオンエアされたものです。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。

芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードですね。

一昨日、昨日に続き、光太郎智恵子がらみの歌曲がプログラムに入っているコンサートをご紹介します。 

二期会日本歌曲研究会コンサート こころの調べ vol.18

日 時 : 2015年4月24日(金)18:30開演
会 場 : すみだトリフォニー小ホール
出演者 : 
 内田もと海、木内弘子、黒川京子、前澤悦子、山本富美(以上ソプラノ)、
 浜坂京子(メゾソプラノ)、馬場眞二(バリトン)、高木由雅(ピアノ)
曲 目 :
  「歌が生まれる」 なかにしあかね 詩/曲
 《光》より    みずかみかずよ 詩/なかにしあかね 曲
 『智恵子抄』より「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」
   高村光太郎 詩/清水脩 曲 

 《さえないこころ》より「天使たちのお母さんへ」 山岸千代栄 詩/大中恩 曲
 《小倉百人一首》より「花の色は」他 信時潔 曲
 「歌をください」 渡辺達生 詩/中田喜直 曲
 「だからその海を見ない」 山下千江 詩/中田喜直 曲
 「生きる」 谷川俊太郎 詩/青島広志 曲
 「死んだ男の残したものは」 谷川俊太郎 詩/武満徹 曲
  愛唱歌コーナー 「お菓子と娘」「この道」
主 催 : 二期会日本歌曲研究会
料 金 : 3000円(全席自由)
お問い合せ:angelongaku☆gmail.com (☆を@に変更して送信してください)


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清水脩作曲の「歌曲集 智恵子抄」から2曲がラインナップに入っています。

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楽譜は昭和53年(1978)に刊行されています。全12曲で、息の長い作曲です。今回演奏される「あどけない話」など6曲が、光太郎生前の昭和30年(1955)。「あなたはだんだんきれいになる」他2曲が昭和34年(1959)、残りが昭和46年(1971)の作曲です。

二期会さんでは、6月にも光太郎智恵子がらみの歌曲がプログラムに入っているコンサートを上演なさいますが、そちらはまた近くなりましたらご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月8日002

昭和30年(1955)の今日、新潮文庫の一冊として刊行の光太郎訳ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヴェルハアラン」または「ヹルハアラン」)詩集『天上の炎』の校正を終えました。

もとは大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されたものです。さらに昭和8年(1933)、長沼重隆等との共著『岩波講座世界文学 近代作家論』
に収められた評伝「ヹルハアラン」も収録しています。

刊行はこの年6月でした。

昨日のこのブログで、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄 ~その愛と死と~」が演奏されるコンサートについてご紹介しましたが、同様に、光太郎智恵子がらみの歌曲がプログラムに入っているコンサートが立て続けに開催されますので、順次ご紹介します。

まず、来週土曜日。 

新しい歌を求めて ~大久保豊典が歌う土屋光彦歌曲の夕べ~

期 日 : 2015年4月18日(土)
場 所 : 東京・日暮里サニーホールコンサートサロン
時 間 :  9:30開演(19:00開場)
料 金 : 全席自由 2,500円
 
 
 作曲・ピアノ:土屋光彦 テノール:大久保豊典
プログラム:
 作曲:土屋 光彦
   野ばら(詞:ゲーテ 訳:近藤朔風)
   夜(詞:宮澤賢治)
   烏の北斗七星(詞:宮澤賢治)
   少年に与う(詞:高村光太郎)
   最低にして最高の道(詞:高村光太郎)
   小景異情(詞:室生犀星)
   生への祈り(詞:ルー・ザロメ 訳:後藤信幸)
   心に太陽を持て(詞:フライシュレン 訳:山本有三)
   君達に(詞:高村光太郎)

申し込み:TIAA CD&TICKETSHOP

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作曲家の土屋光彦氏によるオリジナル歌曲が演奏されます。こちらに氏のインタビューなど詳細が載っています。ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月7日

昭和15年(1940)の今日、雑誌『造形芸術』 第2巻第4号通算第8号に評論「ロダンの素描」が掲載されました。

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筑摩書房『高村光太郎全集』第7巻に所収されています。『全集』の解題では「第2巻第8号」となっていますが、「第2巻第4号通算第8号」の誤りです。

過日の第59回連翹忌に名古屋からご参加下さいました作曲家の野村朗氏から、連翹忌当日、以前に氏が作曲された「連作歌曲 智恵子抄 ~その愛と死と~」の楽譜とCDをいただきました。

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楽譜は東京国際芸術協会からの刊行で、定価2,000円+税。ネットで購入可能です。

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CDの演奏は森山孝光・康子夫妻。昨年のテイクです。こちらは野村氏の自主制作のようです。ご入用の方、仲介いたします。こちらまで。

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楽譜とCDの両方があると、譜面を目で追いながら耳で聴き、「ああ、ここはこうして居るんだ」「さっきのテーマをここで再現しているのか」などといったことが細かく分かり、非常に有り難いものです。

ちなみに楽譜、CDとも、名古屋のイラストレーター、西尾香美さんの絵が使われています。

「連作歌曲 智恵子抄 ~その愛と死と~」、何度か上演されていますが、また来週も東京すみだトリフォニーホールでの演奏会でプログラムに入っています。

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期 日 : 2015年4月16日(木)
会 場 : 
すみだトリフォニーホール 小ホール
時 間 : 19:00開演 18:30開場
    
出演/曲目 
 八木下 茂  悲しみの意味 詩:星野富弘
  1. 今日は朝から雨
  2. 木のように
  3. 椿
  4. 愛されている
  5. 野ばら
  6. 悲しみの意味
   葛西みな子<ソプラノ> 木谷理恵<ピアノ>

 服部萬里子  帰郷 詩:中原中也
   葛西みな子<ソプラノ> 木谷理恵<ピアノ>

 野村 朗  連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~ 詩:高村光太郎
   第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」
   第2曲「あどけない話」
   第3曲「レモン哀歌」
   第4曲「間奏曲」
   第5曲「案内」
  森山孝光<バリトン> 森山康子<ピアノ>

 服部和彦  忘れられた三つの歌 詩:服部和彦
  青い蝶 詩:服部和彦
   猪口朋子<ソプラノ> 菊地沙織<ピアノ>
  幻の花 詩:石垣りん
  ドリーム 詩:小野小町
   葛西みな子<ソプラノ> 新 弥生<ピアノ>
  藤壺 「源氏物語(作:紫式部 /訳:瀬戸内寂聴)」より
  溝呂木さゆり<歌・朗読> 岩井奈美<大正琴>

料 金  3,500円 (全席自由・税込)
申 込  JILAチケットセンター Tel:03-3356-4140


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月6日

昭和60年(1985)の今日、埼玉県立近代美術館で企画展「荻原守衛と日本の近代彫刻―ロダンの系譜」が開幕しました。

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光太郎の作品も、彫刻5点、油絵1点が出品されました。

新聞各紙で光太郎智恵子の名前が出るのですが、速報性のないものは、このブログでの紹介を後回しにしてしまっています。ネタが少ない時にはすぐにでも紹介していますが、このところ、書くべきネタが多すぎて少し困っています。

ネタの少ない時期なら3回に分けるところなので、もったいないと思いつつも、あまり後回しにするのもよくないので、3本まとめてご紹介します。

まず、2日に執り行いました連翹忌がらみで、『日本農業新聞』さんの一面コラムです。

四季 2015/4/2

 公園などでレンギョウの黄色い花が満開である。桜やコブシよりも早く咲きだし、春の 先駆け役となっている。きょうは、この花が好きだった高村光太郎の命日、連翹(れん ぎょう)忌▼今年は没後59年。太平洋戦争中、多くの戦争賛美詩を書いた。結果として若者を戦場に送った自責の念にかられ、戦後は岩手の山村で独居生活を送った。その時に書いたのが連詩『暗愚小伝』▼帝国憲法発布の日の思い出から起こす。土下座する人々と見た天皇の行列。「眼がつぶれるぞ」と頭を押さえ付けられた。「禁廷さま」が文明開化だというから切りたくないちょんまげを切った祖父。御前彫刻に緊張する父や母。こうした家に反抗、パリでようやく魂の解放を得たという▼だが「真珠湾の日」にはしみついた過去が噴出する。<…/昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/…/父が母がそこに居た。/…/陛下が、陛下がとあへぐ意識は眩(めくるめ)いた。>▼戦前の特殊な雰囲気の中で「いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た」と光太郎。昨今事もなげに「八紘一宇」を口にする政治家がいる。あの時代を繰り返してはならないという『暗愚小伝』は今こそ読まれるべきだ。

まったくもってその通りです。


続いて先月26日の『日本経済新聞』さん、夕刊の「プロムナード」というコラム。雑誌『三田文学』編集長の若松英輔氏が、「語り得ない彫刻」の題で、光太郎の花巻郊外太田村での独居生活を長文で紹介して下さいました。

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これもまた光太郎の内面によく踏み込まれています。


最後にやはり4月2日、連翹忌の日の『朝日新聞』さん。「ザ・コラム」というコーナーで、駒野剛編集委員が執筆されています。題して「福島の空 不条理と闘った先人」。

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 無人の保育所、横倒しになった自動車、鉄柵で封鎖された家……。3月11日、1年半ぶりに訪ねた福島第一原発周辺は、時間が止まったまま、朽ちていた。
 大震災の被災地でも、原発被害を受けなければ、曲がりなりにも復旧、復興が進む。しかしFUKUSHIMAは違う。

と始まり、東日本大震災から4年経った福島の現状が語られます。

さらに福島同様、国策の犠牲となった(今も続いている)沖縄出身の詩人・山之口貘、太平洋戦争開戦を必死で止めようとした二本松出身の歴史家・朝河貫一の紹介が続きます。

そして結び。

 戦争は止められなかった。闘いは徒労だった。だが、混迷する権力に付和雷同せず、自立して考え、行動した市民がいたことを、日本の歴史に刻んだ意味は大きい。
 「日本が真の民主社会を願うなら、とりわけ、民主主義の政治形態は、市民一人一人が良心に対する危機感を強くし、個人的な責任を果たすことでしか、打ち立てられない、私はそうかたく信じます」
 朝河の言葉が力を失わないのは、いまだ「真の民主社会」から遠いからだろう。
 二本松市に立つ朝河の墓標から安達太良山(あだたらやま)を望んだ。高村智恵子が夫、光太郎に見たいと言った「ほんとの空」と同じ青が、福島に戻るのはいつだろうか。


ほんとにいつのことになるのでしょうか……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月5日

昭和32年(1957)の今日、筑摩書房から『高村光太郎』が刊行されました。

昨年逝去された写真家で光太郎の令甥・高村規氏撮影による、最初の光太郎彫刻写真集です。

編集委員は今泉篤男、菊池一雄、高村豊周、土方定一、本郷新。各氏と、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)の関係で谷口吉郎の文章、若き日の北川太一先生作成の年譜も掲載されています。

毎年ご紹介していますが、光太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで花巻としての連翹忌です。それぞれ報道されていますのでご紹介します。

岩手)高村光太郎60回忌 花巻で詩碑前祭

朝日新聞 岩手版 4月3日
 詩人で彫刻家の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。山荘での生活をうたった「雪白く積めり」など光太郎の詩を、参加者が朗読するなどして故人をしのんだ。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。56年4月2日に亡くなり、今年が60回忌にあたるという。
 詩碑前祭は地元住民でつくる「高村記念会山口支部」が主催。照井康徳支部長は「先生の偉業を後世に伝え、先生が愛した山荘を守ることを肝に銘じていく」と話した。

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光太郎の遺徳しのぶ 60回忌詩碑前祭 児童が「山の広場」朗読

岩手日日 4月3日 002
 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた「詩碑前祭」と「連翹(れんぎょう)忌法要」が2日、花巻市内で行われた。第60回忌に当たり、参加者が詩の朗読などを通じて、遺徳をしのんだ。
 「詩碑前祭」は、同市太田の高村山荘敷地内広場で行われた。光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が主催。光太郎が暮らした太田山口地区の住民有志を中心に約50人が参加した。
 照井康徳支部長は「今年は60回忌で、高村先生が太田山口地区に来てから70年目の節目でもある。高村先生と面識のあった人は少なくなっている。われわれが高村先生を後世に伝えていくことが大事になる」とあいさつ。
 光太郎の遺影を飾った詩碑前で、太田小学校の高橋百花さん(2年)と中島流星君(3年)が花を手向けた後、同支部の平賀仁理事が祭文を奏上。上太田子供会、太田区長会、いずれも地元住民の戸来洋子さん、浅沼功さん、高橋新吉さんが光太郎の詩を朗読した。
 このうち、上太田子供会は太田小児童5人が声をそろえて「山の広場」「山口部落」「山からの贈り物」を読み上げた。高橋梨々菜さんと髙橋誉桂さん(ともに6年)は「『山の広場』が好き。この辺の景色を思い出す感じがする」「どうやって詩を作ったのか詳しく知りたい」などと話し、地元に足跡を残した偉人に思いをはせていた。
 光太郎は戦時中の1945(昭和20)年、東京のアトリエを焼失し、宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開した。旧太田村山口の山小屋で7年間、地元住民と交流しながら農耕自炊の生活を営み、多くの詩を生み出した。


また、同じ『岩手日日』さんには、前日に花巻連翹忌会場の松庵寺さんがらみの記事も載りました。 

慰霊と更生祈る 松庵寺 小川住職が盛岡へ行脚

岩手日日 4月2日001
 花巻市双葉町の松庵寺住職、小川隆英さん(74)は1日、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めようと、盛岡市に向け追悼行脚に出発した。教誨(きょうかい)師を務めている縁で、盛岡少年院や盛岡少年刑務所を目指す。約80キロを2日間で踏破する強行軍だが「慰霊と被収容者の更生を祈りながら歩く。こんな私だが、何か一つでも皆さんの心のよりどころになれれば」と願う。
 小川住職は1961年(昭和36年)夏、東京都から本県まで、600キロを超える道のりを托鉢(たくはつ)行脚した経験を持つ。「戦後復興途上の道路は舗装されておらず、ハエや蚊が多く安眠などできなかった。震災で被害を受けた方々の苦しみはよく分かる」と避難生活を深く思いやり、今回の行脚を決めたという。
 同日はあいにくの雨模様だったが、この熱意に感銘を受けた市民約20人が同寺を訪れた。「気を付けて」「無理だけはしないで」などと言葉を掛け、早朝の出発を見送った。
 到着予定の2日は、花巻に大きな足跡を残した詩人・彫刻家の高村光太郎をしのぶ連翹(れんぎょう)忌が行われる日。同寺は市内外から多くの参列者を迎える。小川住職は「法要の時間に合わせ、光太郎の書碑がある同少年刑務所でお勤めしたい。一歩ずつ進めば必ず目的地に着く。前を向いて頑張ってほしい、という気持ちを被収容者、被災者へ伝えるためにも歩き通す」と固く誓う。
 小川住職は追悼行脚のほか、震災犠牲者の供養に役立ててほしいと託された市民からの寄付金を生かすため、慰霊碑の建立も計画している。


光太郎が智恵子や光雲の法要をしてもらっていた頃のご住職が、小川金英師。おそらく記事にある小川住職のお父様でしょう。金英師の光太郎に関する回想など、とても面白いのですが、いずれまた改めてご紹介します。


岩手ではありませんが、同じ東北青森の地方紙『東奥日報』さんは、一面コラムで連翹忌にふれて下さいました。東京日比谷での連翹忌当日、十和田奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏がわざわざ持ってきて下さいました。

天地人 2015.4.2

<連翹(れんぎょう)のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎>。連翹は黄色の花をいっぱいに咲かせる。色彩は遠目にも実に鮮やかで、花のあと小さな葉が萌(も)え出る。詩人、彫刻家でもあった高村光太郎は連翹の鮮黄色(せんおうしょく)を愛した。1956(昭和31)年4月2日の没。きょうが忌日「連翹忌」である。
  光太郎といえば、詩集「智恵子抄」が真っ先に浮かぶ。最愛の妻、智恵子の最期を綴(つづ)った「レモン哀歌」などを収める。智恵子の死後、世俗を離れ東北の山村にこもるが、彫刻家として最後の一作に渾身(こんしん)の思いを刻む。
  静謐(せいひつ)な湖を背景に、左手を合わせて向かい合う2体の裸像。十和田湖休屋の湖畔に立つ「乙女の像」がその作品だ。光太郎が亡くなる3年前に完成した。
  病弱で華奢(きゃしゃ)だった智恵子とは対照的に、2体の像は豊満で生命力に満ちあふれる。「立つなら幾千年でも立ってろ」。光太郎の言葉通り、建立から60年余を経て十和田湖のシンボルであり続ける。
  十和田湖は「ドル箱観光地」ともてはやされた。新緑から紅葉にかけ湖畔は人であふれた。乙女の像には記念撮影を待つ大きな人垣があった。往時のにぎわいよ、どこへである。八甲田・十和田ゴールドラインがきのう開通したが、今年は定番のJR一番バスの姿はなし。乗客の落ち込みを理由に運行は18日からである。栄枯盛衰、乙女の像は何を思う。

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松庵寺さんの記事でもそうですが、やはり東北、東日本大震災がからみます。津波や原発の直接の被害がなかった地域でも、観光客の落ち込みは深刻なようです。

十和田では乙女の像、花巻では高村山荘・高村光太郎記念館(今月28日にグランドオープンです)。言葉は悪いのですが、少しでも光太郎が「客寄せ」になれば、と念じています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月4日000

昭和3年(1928)の今日、書肆ARSから『ロダン』普及版が刊行されました。

光太郎による気鋭のロダン評伝。前年にはハードカバーで刊行されており、こちらはペーパーバックです。

終末部分には、ロダンのモデルを務めた日本人女優・花子を岐阜に訪問した際の体験が付されています。

昨日は高村光太郎の忌日ということで、日比谷松本楼様におきまして、第59回連翹忌の集いを開催いたしました。

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開会は午後5時半でしたが、当方、その前に、参会者を代表して、駒込染井霊園の高村家墓所に参拝しました。

例年、連翹忌の日は雨です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)の4月2日は前日から季節外れの春の大雪でしたし、その後も雨になる確率が非常に高いのです。昨年も会が終わって外に出るとぽつぽつ雨でしたし、一昨年は春の大嵐でした。しかし、昨日は珍しく快晴。名の由来となった染井、本場のソメイヨシノが見事でした。

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松本楼さんのある日比谷公園も桜が満開、というか少し散り始めており、雨や雪の代わりに桜の花びらが降っていました。「桜吹雪」と云うほどではなく、「桜小雪」の状態でした(笑)。

少し遅れて5時40分、開会。まずは光太郎に、そして、昨年8月に逝去された光太郎の令甥、高村規氏をはじめとする、この一年になくなった関係者の皆さんに、黙祷を捧げました。続いて、当会顧問、北川太一先生のご挨拶、高村規氏令息・高村達氏の御発声による献杯。

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さらに、昨年9月にコンサート もうひとつの智恵子抄」をなさった音楽ユニットPrhymx(ぷらイム)のお二人、テルミン奏者の大西ようこ様(大西様はやはり昨年10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』でも演奏なさいました)、ギターの三谷郁夫様による演奏。

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哀愁漂うカッチーニの「アヴェ・マリア」、さらに大西様の演奏に合わせ、三谷様の朗読「Nー女史に」。会に花を添えて下さいました。

その後は会食、歓談しつつ、多くの方にスピーチを戴きました。

今月28日にグランドオープンとなる花巻高村光太郎記念館がらみで、花巻市長・上田様。


過日ご紹介した、光太郎詩「四人の学生」のモデルになった深沢竜一様と、そのお話を聴く際に同道された女優の渡辺えりさん。

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つい最近も福島の地方紙で紹介された、日本画家・大山忠作氏のお嬢さん、女優の一色采子さん。

やはり生前の光太郎を知る、元建設大臣、水野清様。水野様は光太郎の親友・水野葉舟のご子息です。

『歴程』同人の伊武トーマさん

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新宿中村屋サロン美術館の太田様、河野様。太平洋画会の坂本富江様。作曲家の野村朗様。詩人・野沢一の研究者・坂脇秀治様。福島二本松の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん。山岳雑誌『岳人』編集部の加藤様。信州安曇野碌山美術館の五十嵐館長。北川先生のご著書を出版されている二玄社さん、さらに文治堂書店さん(代理で曽我様)、元かわうち草野心平記念館長・晒名様。

最後の締めを、「連翹忌」の名の由来となった、光太郎の愛した連翹が咲いていた、その終焉の地・中野のアトリエの所有者の中西利一郎様。中西様には高校生だった光太郎終焉の時の思い出を語っていただきました。

今更ながらに、たくさんの人々に愛され続けている光太郎の遺徳を、しみじみと感じました。

ご参会の皆様、さらに資料袋詰めやら受付やら物販等でお世話になった皆様、ありがとうございました。

来年は第60回連翹忌となります。したがって、光太郎歿後60年のメモリアルイヤーとなります(メモリアルイヤーといえば、智恵子生誕130年でもあり、いろいろな企画が進むことを期待します)。さらに閏年の関係で、来年の連翹忌は土曜日です。このところ、年度初めの平日と云うことで、なかなか参加したくても不可能だった方も、来年はよろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月3日

昭和37年(1962)の今日、一ツ橋の如水会館で、第6回連翹忌が開催されました。

この年は、4月2日が日曜日。会場の関係で2日に行えず、3日の月曜日に執り行いました。その後も何度かそういうことがありましたが、会場が松本楼様に移ってからは、曜日に関係なく4月2日に挙行しております。

今日、平成27年(2015)4月2日は、光太郎の59回目の命日です。午後5時30分から、日比谷公園内の松本楼様において、第59回連翹忌の集いを開催いたします。

参加申し込みは昨年を下回りましたが、生前の光太郎を知る方々が6名、さらに、初めて参加されたり、久しぶりに参加されたりする方々の中に、ビッグな方のお名前もあり、「濃い」連翹忌になりそうです。

レポートは明日以降、執筆いたします。

さて、生前の光太郎を知る方のお一人で、当会顧問にして、第50回までの連翹忌を運営されていた北川太一先生。先月でおん年90歳になられましたが、まだまだお元気で、今日もご参加下さいます。

そんな北川先生の新著が完成しましたのでお知らせします。

ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―

2015年4月2日 文治堂書店刊 定価1,800円+税

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帯文より

明治が大正に変わる1912年、光太郎は斎藤与里の熱意を受け岸田劉生、木村荘八等とともにヒュウザン会を興す。北山清太郎の支援・協力により催された展覧会は「公」に対するアンデパンダンであった。

目次
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Ⅰ プロローグ
Ⅱ さまざまな前景 装飾美術展その他
Ⅲ 展覧会前夜 明治から大正へ
Ⅳ ヒュウザン会始まる 新聞のキャンペーンが成果
Ⅴ さまざまな反響(一) 寅彦と「ツツジ」と漱石
Ⅵ さまざまな反響(二) 光太郎の詩「さびしきみち」
Ⅶ 第二回展に向かって 北山清太郎の功績
Ⅷ 第二回展覧会開催 関如来の展覧会評
Ⅸ ヒュウザン会崩壊 人見東明(清浦青鳥)のエール
Ⅹ ヒユウザン会から生活社へ 尾崎喜八ら、若き詩人との交遊
主要人物生没年
あとがき


元々は、平成14年(2002)~同23年(2011)、高村光太郎研究会発行の雑誌『高村光太郎研究』に連載されたものです。目次を見ればおおよそ見当がつくかと思いますが、明治末から大正初めにかけての、光太郎もその中心にいた画壇、特に公設の文部省美術展覧会(文展)に「対抗」して結成されたヒュウザン会をめぐる光太郎評伝です。「どうやってここまで細かく調べているんだ?」と思うほど、当時の事象が精細に網羅されています。

当方、中身の校閲をさせていただきました。元々の『高村光太郎研究』に載った段階で、きちんと校閲が為されていなかった部分があり、意外と苦労しました。そうしましたところ、「編集協力」ということで名前を載せてくださいましたし、北川先生の「あとがき」でも当方にふれて下さっています。恐縮至極です。

ご注文は、版元の文治堂書店さんまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月2日001

平成10年(1998)の今日、筑摩書房刊行の増補版『高村光太郎全集』が完結しました。

最初の『高村光太郎全集』は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から刊行が開始され、同33年(1958)に全18巻が完結しました。

平成6年(1994)、増補版全21巻+別巻1の刊行が始まり、同10年(1998)の今日、別巻が刊行され、完結しました。

上記の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』や、当方が刊行している冊子『光太郎資料』もそうですが、光太郎がらみの出版物はやはり連翹忌当日の4月2日を発行日にすることが多くあります。

別巻は、全巻の索引や詳細な年譜が載っているため、当方、毎日のように手に取っています。したがって、もはや表紙はボロボロです。

いろいろ紹介する事項が多く、間が空いてしまいましたが、先週末、京都に行って参りましたのでレポートします。

目的地は2カ所。まずは東山の知恩院さんに。

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こちらにある友禅苑という庭園には、光雲が原型を作成した聖観音像が鎮座ましましています。

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この像は秋11月、紅葉の季節にライトアップされます。

知恩院さんには何度も足を運んでおりますが、実はそのライトアップの報道を読むまで、こちらに光雲原型の観音様がいらっしゃることを存じませんで、この機会にと思い、拝見して参りました。

光雲は江戸の生まれで、東京をホームグラウンドにしていましたので、東京には光雲作の仏像を収める寺院が非常に多いのですが、京都はそうでもありません。

数年前にその発見が報じられた嵯峨野の大覚寺さん、鷹が峰の光悦寺さんなどが有名なところです。

そちらは堂内や宝物館に収められていますが、知恩院さんのものは露座です。京都で露座の仏像でちょっとしたもの、というのは珍しいのではないでしょうか。


知恩院さんを出て、そのまま歩いて南下、円山公園や祇園を抜け、清水方面へ向かいました。知恩院さんを含め、早咲きの桜がみごとでした。まだソメイヨシノはほとんど開花していませんでした。

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ただ、雨だったのが残念でした。それはそれで風情があったのですが。

次なる目的地は、清水寺近くの清水三年坂美術館さん。

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こちらでは、2月から企画展「明治の彫刻」を開催中です。

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光雲作の木彫が4点、展示されています。「聖観音像」「月宮殿 天兎」「老子出関」「西行法師」です。

他に光雲と親交の深かった石川光明、光雲高弟の山崎朝雲などの木彫、今年1月、テレビ東京系の「美の巨人たち」で取り上げられた森田藻己の根付「竹の中の大工」もありました。光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたとのこと。

木彫は見る機会が多いのですが、今回、牙彫(げちょう・象牙彫刻)がたくさん出品されており、まとめて牙彫を見るのは初めてなので、興味深く拝見しました。明治前半には牙彫が輸出品としてもてはやされましたが、光雲は師匠伝来の木彫にこだわり、廃仏毀釈で仏像の注文がほとんどなくなっても牙彫にはてをつけなかったそうです。また、金工でなく、木彫や牙彫で作られた自在置物もあり、「こんなものもあったのか」と驚きでした。

企画展は館の二階でしたが、一階は常設展的に、彫刻以外の七宝や金工、漆芸などの作品が並んでいました。こうした明治の「超絶技巧」がちょっとしたブームですが、やはり凄い、と思いました。

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同館では同館自体でこのような展示を行いつつ、さらに出張巡回で「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」も展開しています。現在は山口県立美術館に巡回中です。こちらでも光雲の木彫が並んでいます。

館の方とお話をさせていただきましたが、こちらの展示品はほぼすべて、館の所蔵する「村田コレクション」だそうで、外部から借り受けることはほとんどないそうです。「光太郎展をやりませんんか?」という営業の意図もあっておじゃましたのですが、どうもそうはいかないようです。

さて、「明治の彫刻」、来月17日まで開催中です。知恩院さんともども、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月1日

明治42年(1909)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭』が創刊されました。

この雑誌の編輯人は小橋三四子、発行兼印刷人は柳八重。いずれも智恵子と親しい同大の先輩で、1年半後には二人を介して光太郎と智恵子の邂逅が実現します。

『家庭』には智恵子の描いたカットも掲載されました。数多い挿画の中でどれが智恵子の手になるものか特定できない面がありますが、このあたりは智恵子作と云われています。

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