2014年12月

とうとう大晦日となりました。今年もいろいろありました。その都度、多くの方々にお世話になりました。今年1年をふりかえってみます。
 
メインイベントは4月2日の第58回連翹忌。光太郎忌日の集いということで、全国からたくさんの方々にお集まりいただきました。ありがとうございました。
 
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光太郎が足かけ8年を過ごした花巻でも、花巻連翹忌
  
今年は「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年の記念の年で、いろいろなイベントなどで、その件に触れて下さいました。
 
イベントも、ここですべてを振り返るわけにもいきませんので、光太郎智恵子をメインにあつかったもののみ、ご紹介します。
 
盛岡てがみ館さんでは、2月から6月にかけ、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催されました。実際に行って参りましたが、なかなかいい企画展でした。
 
同じ盛岡では、やはり2月に演劇「泣きビッチョ光太郎」が上演されました。見に行けなくて残念でした。再演を希望します。演劇系では10月から、劇団青年団第73回公演 『暗愚小傳』。11月には【じゃがいも村プロデュース公演】麦人じか~ん一人語り『智恵子とゐふ女』。12月には微笑企画第4弾「一人芝居 人に~智恵子抄より~」
 
5月には毎年恒例の花巻光太郎祭。今年の記念講演は、光太郎が名付け親となった絵本作家・編集者の末盛千枝子さんでした。
 
8月には、宮城県は女川町で、第23回女川光太郎祭。それに先立つ6月には、福島二本松の智恵子のまち夢くらぶさん一行が、女川をご訪問。『朝日新聞』さんで大きく取り上げていただきました。
 
10月には、二本松で第20回レモン忌。智恵子命日の集いです。今年は当方が記念講演をさせていただきました。同じ10月には、鎌倉の笛ギャラリーさんで、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展。書家・金子大蔵氏の作品展「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」も10月でした。金子氏が、やはり光太郎の詩を題材にしていた金子鴎亭のお孫さんだと、最近まで知りませんでした(汗)。
 
また、10月には十和田湖畔に観光交流センター「ぷらっと」がオープン。光太郎作の「乙女の像」関連の展示に協力させていただきました。
 
音楽系ですと、 「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」が5月にありました。また、テルミン奏者の大西ようこさんが中心となり、9月にはPrhymx(ぷらイム)「もうひとつの智恵子抄」、10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』。大西さんは11月の第59回高村光太郎研究会にもご参加下さいました。
 
その他、光太郎智恵子、光雲に少しだけ関わるイベント、書籍の出版、音楽CDリリース、テレビ放映などなど、細かく紹介出来ませんが、いろいろとありました。ありがたいかぎりです。
 
反面、残念だったのが訃報。光太郎の令甥で、高村光太郎記念会理事長だった写真家の高村規氏、令姪のお嬢さんで、歌手だった高村亜留さんが亡くなりました。また、俳優・高橋昌也さん、女優・松本典子さん、作家・渡辺淳一さん、李香蘭こと山口淑子さんも。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
最後に、一昨年の大晦日にも同じことを書きましたが、今年1年、皆様からいただいた郵便に貼ってあった切手を切り取り、使用済み切手を収集している団体-公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付、同会サイトに寄付団体として名前を載せていただきました。
 
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昨年も寄贈したのですが、昨年はうっかり差し出し人欄に、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として当方の名前を書いたラベルを貼ってしまい、そうすると個人名は掲載しないという同会サイトの方針で、載せていただけませんでした。
 
さて、今年も残すところあと数時間。来年もよろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月31日
 
昭和45年(1970)の今日、TBS系テレビで放映されていた「花王愛の劇場 智恵子抄」が最終回を迎えました。
 
光太郎役は故・木村功さん、智恵子役は佐藤オリエさんでした。
 
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上記は番宣用のスチール写真と、角川文庫の佐藤春夫著『小説智恵子抄』カバーです。佐藤さんのお父様は彫刻家・佐藤忠良。光太郎に心酔していた一人でした。
 
さて、昨年は【今日は何の日・光太郎】、今年は【今日は何の日・光太郎 補遺】ということで、365日×2、のべ730日分のエピソードを紹介して参りました。時には苦し紛れのネタもありましたが、つつがなく2年間書き続けることができました。ご愛読ありがとうございました。

昨日の『毎日新聞』さんの、おそらく福島版だと思うのですが、以下の記事が載りました。 

<師走の風景>「ほんとの空」求め宿泊予約殺到――安達太良山

「元旦に福島の空を見よう」――。詩人、高村光太郎の妻智恵子が「ほんとの空」があると言った安達太良山(標高1718メートル)の中腹にある山小屋「くろがね小屋」には、今年の大みそかも宿泊予約が殺到し、小屋番たちは準備に大わらわ。まさしく師走だ。
 
 宿泊客の目当ては、31日恒例の年越しそばと、餅つき。みんなでお餅を食べた後は、初日の出を見るために「天気と元気次第」で頂上を目指す。
 
 「今年こそは大みそかに泊まろうと思ったけど、両親のいる故郷に帰ることになって」。26日に埼玉県から妻と訪れた50代男性はそう語り、「今年最後の泊まり納めを楽しもうとやってきました」。
 
 厳冬の雪山だから、冬登山の装備と心得がなければ小屋にすら、たどりつけない。小屋に着いても、強風とガスで山頂は視界の悪い日が多く、冬季に「ほんとの空」を拝める日は少ないという。
 
 それでも、関東方面からの登山客は多く、「風評被害」は感じられない。客層は中高年が中心だが、最近は20代の若者も増えた。
 
 26日、記者も一足早く山頂に登ったが、強風と地吹雪で登山客の姿はなかった。元日こそは好天を!【栗田慎一】
 
なるほど、安達太良山頂から、「ほんとの空」に昇る初日の出を見るというのも素晴らしいでしょうね。
 
 
他にも初日の出名所として、光太郎智恵子がらみの地がいくつか有名です。
 
当方生活圏では、千葉県の犬吠埼。大正元年(1912)夏、結婚前の二人が愛を確かめた場所です。
 
緯度、経度等の関係で、離島や高山の山頂を除き、日本一早い初日の出が見られます。明後日は午前6寺46分です。
 
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それを目当てに訪れる方が多く、JR東日本さん、銚子電鉄さんでは終夜運転、様々なイベントが予定されています。
 
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少し南下すると、九十九里浜。その中央の片貝海岸付近には、昭和9年(1934)、統合失調症だった智恵子が療養していました。
 
こちらでも元旦祭が行われます。
 
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さらに、山梨県南巨摩郡富士川町高下地区。こちらは昭和17年(1942)、「日本の母」顕彰のため、光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑も建てられています。
 
ここでは、富士山頂から昇る初日の出、いわゆる「ダイヤモンド富士」が見られるそうです。
 
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こうしたポイントは、かなりの人出(特に犬吠埼では交通規制もしかれます)ですが、特別な場所で見る初日の出もいいものでしょう。当方、余力があれば九十九里に行ってみようと思っています。今年の元旦もそう思っていましたが、結局起きられませんでした(笑)。
 
さて、元日の夜は、再放送ですが、以下のテレビ放映があります。 

いにしへ日和 #122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉

BS朝日 2015年1月1日(木) 22時54分~23時00分
 
日本の東国各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。美しい景色の中に息づく「時の記憶」。旅をしながら、現在と過去を自由に行き来する。そんな気分を味わう番組です。時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
高村光太郎は、1945年花巻に疎開し、7年の間、この地で過ごしました。 光太郎62歳。最愛の妻・智恵子も既に他界し、東京大空襲で自宅とアトリエを失ってやってきた花巻。 そんな光太郎が「本当の温泉の味がする」と、何度も訪れた大沢温泉を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
 
本放送は先週木曜日でした。
 
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5分間番組ですが、ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月30日
 
昭和43年(1973)の今日、角川書店から伊藤信吉著『鑑賞智恵子抄』が刊行されました。

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 伊藤信吉は光太郎と交流のあった詩人です。400ページ近い大著で、的確な視点で『智恵子抄』およびその後の諸作品が解説されています。
 
当方、有名な古書店、扶桑書房さんが鎌倉に店を構えていた頃、ここで購入しました。帰宅してから気づいたのですが、見返しに著者の伊藤信吉から、やはり詩人の鳥見迅彦に宛てた献呈署名が入っていました。鳥見も光太郎と交流があり、自身の詩集『けものみち』(昭和30年=1950)の題字を、光太郎に揮毫してもらっています。
 
不思議な縁を感じました。
 
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先週、妻が買い物に行きたいというので、日本橋のCOREDO室町さん、COREDO日本橋さんに連れて行きました。
 
ついで、と言っては何ですが、東京駅丸の内口にある東京ステーションギャラリーさんにも寄りました。現在、「東京駅開業百年記念 東京駅100年の記憶」が開催されています。 
 
このブログで繰り返し書いてきましたが、今年は大正3年(1914)から数えて、光太郎智恵子結婚披露100周年、「道程」100周年です。そして東京駅の開業も同じ大正3年(1914)で100周年ということで、いろいろと記念イベント等がありました。限定Suica発売での大混乱のニュースは記憶に新しいところですね。
 
駅舎も6年にわたる改修工事が行われ、ほぼ開業当時の姿が復元されたということです。
 
で、ステーションギャラリーさんでは、この企画展です。東京駅に関わる美術作品の展示や、文学作品の紹介があるというので、また、妻が意外と鉄道好きなので、寄ってみました。
 
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展示のうち、ジオラマなどは撮影可でした。
 
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美術系では、石井鶴三(版画)、松本竣介(油絵)など、光太郎と交流のあった作家の作品が並んでいました。クロニクル的なコーナーでは、開業当時の駅付近の名所、ということで光雲作の楠公銅像の写真が載った冊子が、そのページが開かれて展示されていました。
 
また、これはちょっと驚いたのですが、つい先日のこのブログでご紹介した昭和27年(1952)12月14日の『週刊朝日』が展示されていたこと。
 
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石川滋彦の描いた東京駅丸の内口風景が表紙に使われていたためです。「この中に光太郎の文章が載っているんだよなぁ」と思いつつ、見ました。しかし、キャプションが「12月14日」ではなく「2月14日」となっていたのには閉口しました。帰りがけにアンケートボックスがあったので指摘してきましたが、その後、訂正されたでしょうか。
 
東京駅の駅舎は、関東大震災や太平洋戦争など、100年の間に何度か危機を迎えたそうです。しかし、そのたび保存の動きが起こり、今に至っています。そして今回の改修では、さらに100年後を見据えての改修がなされたとのこと。すばらしいですね。
 
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こちらはステーションギャラリーさん内部の階段です。当時の煉瓦が残っており、重要文化財です。
 
100年後、当方はもうこの世にいませんが、「東京駅開業200年」と大きく取り上げられているのではないかと想像します。もっとも、100年後にも鉄道というものがあるのかどうか、なんともわかりかねますが。一方の光太郎智恵子。100年後にも「光太郎智恵子結婚200周年」、「『道程』200周年」と、取り上げられていてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月29日
 
昭和33年(1958)の今日、画家・石井柏亭が歿しました。
 
石井は光太郎より一つ年長。病気のため中退しましたが、光太郎と同じ東京美術学校に通っていました。また、与謝野夫妻の新詩社や、「パンの会」で光太郎と親しく交わりました。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる、光太郎の有名な評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)は、その国や地域に固有の色調(地方色)を重視すべしという石井の論に反駁する、という意味合いもあって書かれました。しかし、仲が悪かったというわけではありませんでした。
 
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上記は明治37年(1904)、上州赤城山でのショット。左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、伊上凡骨、光太郎、石井柏亭、平野万里です。
 
ちなみに柏亭の弟は彫刻家の鶴三。やはり光太郎と親炙しました。上記ステーションギャラリーの企画展に鶴三作の版画も展示されています。

『朝日新聞』さんの夕刊で連載中の、女優・黒木瞳さんのエッセイ「黒木瞳のひみつのHちゃん」。先週の木曜日は、以下の内容でした。 

来年も歩く この遠い道程のため

 “僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る”
 当たり前じゃん、ってちょっと乱暴な感想を抱く少女だった頃。それでもこの、高村光太郎の「道程」(原形)という詩が好きだった。“どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない”っていう1行目。誰かが決めてくれた人生を歩いているのではない、っていうその言葉から漲(みなぎ)るエネルギーが、私の心にバンバンつき刺さった。
 実は久々にこの詩を思い出させてくれたのがKさん。兄のような人生の先輩のような存在だ。そのKさんがこの間「僕は70まで生きるとしたら、あと7年。何回のクリスマス、何回のGW、何回の誕生日、何回の春っていう風に考える。365日×7の夕食。無駄な人とは夕食はしたくないんだ」って私の目を真っ直(す)ぐ見つめて熱く語った。
 人生は、タラタラと時間に追われて過ごすのではなく、1日1日を具体的に意味のある日として歩くのだと、彼の瞳が訴えていた。影響力のある人っているけど、まさにKさんが、そう。人を虜(とりこ)にする魔法のようなオーラがKさんから迸(ほとばし)っている。
 そしてKさんは話を続けた。「地位も名誉も財産も運もない人がいて、他人から見たら、その人は可哀想な人生ねって思われたとする。でも、人の人生を他人が判断することではない。その人にとってどうだったか、ということが全てだから。僕は、自分の人生の終焉(しゅうえん)に、僕自身が僕の人生“マル”だったっていうフダをあげたい。“マル”のフダをあげられる人生を送りたい。それが、僕の夢だよ」と。
 Kさんが言うところのご自分のクリスマスはあと7回。今日は7分の1のクリスマス。勿論(もちろん)、あと7回は言葉のアヤ。今日も、いい時間を満喫していらっしゃるに違いない。
 “歩け歩け/どんなものが出て来ても/乗り越して歩け”と、詩は今も力強く私に訴えかけてくる。2015年も、どんなものが出て来ても乗り越して歩いていかなければ……。
 
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今年、執筆から100周年を迎えた、光太郎の代表作「道程」を扱って下さいました。ありがたや。
 
「道程」は、大正3年(1914)2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
 
『道程』100周年の最後に、大きくクローズアップしてくださり、ありがたいかぎりです。
 
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「2015年も、どんなものが出て来ても乗り越して歩いていかなければ……。」そのとおりですね。
 
ところで「道程」原型。当方ブログからコピペして使って下さるのは結構ですが、詩型は変えないで下さい。長くて読みにくいからと言って、途中で勝手に1行空きを設定したり、読みにくいだろうからと、もともとないところにルビを( )で書いたり、そういう行為は詩型の改変に当たります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月28日

昭和13年(1928)の今日、作曲家の箕作秋吉に書簡を送りました。
 
啓上、文部省へも此の通りなのを送りました。甚だ妙なものが出来てしまひましたが、ともかくも御送りいたします、言葉など十分御斧正を願ひます、御注意下さるところはいくらでもなほします、もつと違つた題材のも未完であるのですが、そのうち出来たらそれもおめにかけます。十二月廿八日 高村光太郎 箕作秋吉様
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これに先立つ12月11日の『朝日新聞』です。
 
新国民歌六つ 紀元節に公表
新しき時代の子の歌として今後毎年選定されてゆくことになつた文部省選定国民歌の打合せ会は既報の如く十日文相官邸で開かれたが文部当局、文壇人、楽壇人との間で協議をした結果第一回国民歌として左の六曲を作製、明春紀元節の佳き日に公表する事になつた、新国民歌は大体一章六行四章から成るもので題目は未定であるが左の六テーマのもとに作製される筈
△大陸の歌 作詞北原白秋、作曲山田耕筰△日本の自然 作詞斎藤茂吉、作曲大木正夫△農村に取材した国民生活 作詞佐藤春夫、作曲池内友次郎△自然と生活 作詞高村光太郎、作曲箕作秋吉△日本女性 作詞茅野雅子、作曲信時潔△海洋の歌 作詞土岐善麿、作曲堀内敬三
 
記事の通り、文部省が音頭を取って、「日本国民歌」なる企てがスタートしました。日中戦争はすでに激化、太平洋戦争前夜といえる時期で、国民精神高揚のため、これに先立つ昭和11年(1936)には日本放送協会大阪中央放送局がラジオ番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞、飯田信男作曲、徳山璉歌唱の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれます。国としても同様の運動の展開に本腰を入れ始めたわけです。
 
光太郎は「日本国民歌」用に、「こどもの報告」という詩を執筆、箕作がこれに曲を付け、翌年発表。関種子歌唱によるレコードも発売されました。
 
ただし、他のコンビによる作品ともども不評で、1回限りで計画はポシャりました。
 
     一
  めがさめる、とびおきる。001
  晴れても降つても、一二三。
  朝のつめたい水のきよさよ。
  こころも、からだも、はつらつ。
  お父さま、お早うございます。

  お母さま、お早うございます。
  みんなもお早う。
  テテチー テテチー
  テタテ チト テタタ ター
  かしこきあたりを直立遙拝。
  それからご飯だ、ああうれし。

  かうしてぼくらのその日がはじまる。
  その日がはじまる。
 
      二
  日がくれる、戸をしめる。
  勝つても負けても、ヂヤンケンポン。
  夜のたのしいうちのまとゐよ。002
  こころも、からだも、のびのび。
  お父さま、おやすみなさいませ。
  お母さま、おやすみなさいませ。
  みんなもおやすみ。
  タタタタ  タテタテ チー
       チテチテ  タテタト ター
  お国のまもりへ直立敬礼。
  それからお寝まき、ああらくだ。
  かうしてぼくらのその日がをはるよ。
  その日がをはるよ。
 
上記は、昭和18年(1943)に刊行された光太郎詩集『をぢさんの詩』収録詩型。作曲されたものとは若干の異同があります。
 
このあたりの詩型の変遷など、非常に興味深い背景があり、当方刊行の冊子『光太郎資料』で、3回にわたり考察を掲載中です。来春刊行予定の『光太郎資料43』で終了の予定です。ご希望の方は方はこちらまで。

来年1月―といっても、もう来週から1月ですが―の光太郎関連イベント等も、少しずつご紹介していきます。
 
タイトルの通り、上野の東京国立博物館内―正確には道をはさんで西隣―にある黒田記念館さんが、1月2日(金)、リニューアルオープンします。しばらくの間、耐震工事ということで休館中でした。
 
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「黒田」は黒田清輝。国の重要文化財の「湖畔」(光雲の「老猿」と同時に指定されました)などで有名で、「近代洋画の父」といわれる洋画家です。東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、明治38年(1905)から翌年にかけ、欧米留学前の光太郎が同科に再入学していた際に、指導にあたりました。光太郎は同校彫刻家を明治35年(1902)に卒業、研究科に残っていたのですが、西洋美術を根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したのです。
 
この時、黒田の同僚には藤島武二、光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)、望月桂らがいました。教える方も教わる方も、錚々たるメンバーですね。
 
そんな縁もあり、光太郎は昭和7年(1932)、黒田の胸像を制作しました。同館にはその像が現存しています。この像は、ここと、東京芸術大学大学美術館さんと、二点だけしか鋳造されていないのではないかと思います。昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、芸大さんのものをお借りしました。
 
さて、リニューアルオープンですが、以下の日程になっています。
 
2015年1月2日(金) ~ 2015年2月1日(日) 開館時間:9:30~17:00 
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)
 
 
館内には「湖畔」が展示されている「特別室」があり、こちらは常時公開ではなく、以下の日程でオープンです。
 
第1回:2015年1月2日(金)~1月12日(月・祝)
第2回:2015年3月23日(月)~4月5日(日)
第3回:2015年10月27日(火)~11月8日(日)
 
 
また、先述の光太郎作「黒田清輝胸像」は「黒田記念室」の入り口に常時展示されます。室内は黒田作品で、6週間ごとに展示替えだそうです。
 
観覧料は無料です。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月27日
 
昭和28年(1953)の今日、ラジオ放送のため、美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(原題「彫刻と人生」)が録音されました。
 
オンエアは翌年1月7日。文化放送でした。
 
以前にも書きましたが、かつてはカセットテープで市販されていました。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうかわかりませんが、数え71歳の光太郎、十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)の除幕を終え、今後の展望を比較的元気に語っています。

講談社さんから10月に刊行された、池川玲子さん著『ヌードと愛国』。明治期に智恵子の描いたヌードデッサンなどについて触れています。
 
早々に『日本経済新聞』さんに書評が載りましたし、その後、『読売新聞』さん、『朝日新聞』さんでも紹介されました。
 
さらに『産経新聞』さんにも載りましたので、ご紹介します。 

フォト・ライター野寺夕子が読む『ヌードと愛国』池川玲子著

■まとわない体がまとう歴史000
 
 著者池川は研究者だ。近現代女性史を専門とする。時々刑事コロンボに変身する。読者に惜しげもなく資料のヌードを見せてくれる。そして鮮やかに謎解きをしてみせる。しつこい。コロンボだから。ねばり強いのに、文は潔い。
 
 「一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた『日本』をまとった七体のヌードの謎を解く」という(七体それぞれに手掛かりの写真や絵が加わるから、本の中にはヌードがいっぱいだ)。別々に創られたヌードだが、時系列に並べてみると近現代史の見慣れた語句とつながり、生き物みたいに動き出す。帝国主義とか移民政策とか民族主義とか資本主義とか。大陸の花嫁、婦人解放と婦人警官、安保、ウーマン・リブ、大量消費…。ヌードは裸体だが「はだか」ではない。まとっていないようで、まとっている。見えない衣を見ようとしてきた先達がいて池川が自論を重ねていく。著者自身が、謎解きをする自分に刺激されてきたろう。
 
 智恵子抄の智恵子が描いた百年前のリアルすぎる男性デッサンから第一章が始まる。輸出用映画しかも官製(しかも真珠湾攻撃の年)の宣伝映画に映るヌード。女性初の映画監督がいて、異端児・武智鉄二監督がいる。第七章で凝視するのは「裸を見るな。裸になれ。」-70年代のパルコのポスターだ。アートディレクター石岡瑛子のヌードへの執着を池川は丹念に追う。70年代の女性像。70年代の東洋と西洋の色。石岡の見せた誇り(プライド)と隠した怒りを、書く。その肯定的な書き方が、新鮮だった。
 
 この章に続くあとがきに、写真集『臨月』が出てくる。百人の臨月の女性を白黒で、自然光だけで撮ったドキュメントヌード。私の本だ。1996年度の太陽賞(平凡社主催)の審査では、荒木経惟らとともに石岡瑛子も選考委員を務めた。池川の描く石岡像を読んで、20年近くも経(た)ってこの人にやっと出会った、という気がしている。
 
 あとがきで「今の女子学生が気にするヌード」を挙げたことで、池川は、さあて、またここから、と動き出すだろう。現代史家はタフだね。(講談社現代新書・800円+税)
 
 
だいぶ注目されているようですし、実際、かなりの力作です。ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月26日

昭和25年(1950)の今日、詩「遠い地平」を執筆しました。
 
  遠い地平
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なかなか危ない新年が
平気な顔してやつてくる。
不発か時限か、
ぶきみなものが
そこらあたりにころがつて
太平楽をゆるさない。
人の命のやりとりが
今も近くでたけなはだ。
日本の脊骨岩手の肩に
どんな重いものがのるかのらぬか。
都会は無力な飯くらひ、
それを養ふ田舎の中の田舎の岩手。
新年は花やかに訪れても
岩手はじつくりうけとめて、
その眼が見るのは遠い地平だ。 
 
翌年元日の『新岩手日報』のために書いた詩です。
 
人の命のやりとりが/今も近くでたけなはだ。」は、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争あたりを指していると考えられます。東京には見切りを付け、花巻郊外太田村という辺境にいながら、光太郎は世界を見つめています。
 
ところで、先の総選挙では自公が圧勝。第三次安倍政権の陣容が発表されました。改憲に意欲を示す安倍総理ですが、くれぐれも「人の命のやりとり」を「たけなは」にできる国にしてほしくないものです。しかし、どうなることやら、ですね。そういう意味でも、もうすぐやってくる平成27年(2015)も、「ぶきみなものが/そこらあたりにころがつて/太平楽をゆるさない」「平気な顔してやつてくる」、「なかなか危ない新年」だと思います。

昨日は、練馬区江古田にて、微笑企画第4弾「一人芝居 人に~智恵子抄より~」を観て参りました。
 
素晴らしい舞台でした。
 
場所は江古田駅近くの兎亭さんという、カフェ+レンタルイベントスペース。地階に会場がありました。
 
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縦長のさして広くないスペースで、舞台とギャラリーの仕切り、段差等が一切無く、それだけに一体感が感じられました。
 
一人芝居ということで、智恵子を演じ000られたのは微笑企画主宰・井餘田笑子さん。熱演でした。

まず驚いたのは、ダンスパフォーマンス的な要素がふんだんに採り入れられていたこと。それもかなり激しい動きで、昂ぶる光太郎への愛情や、結婚生活の中での煩悶といった部分が表現されていました。光太郎智恵子をあつかうものとしては、ある意味「静かな」舞台を見慣れていましたので、新鮮でした。
 
脚本的にも、いろいろと感心しました。智恵子の内面がよく剔りだされており、単なる「お涙ちょうだい」の純愛ものでなく、さりとて「智恵子を犠牲に自己の芸術を作りあげた非道な光太郎」という観点でもありませんでした。
 
『青鞜』のメンバーの一部が、結局はただの女子会的になってしまっているとか、光太郎智恵子の結婚生活において、徐々に智恵子の家事分担が増えていったことを、智恵子自身が「光太郎のために」と自分に言い聞かせ、しかし、その裏には、自分の才能不足からの逃避があった、などという点には、「なるほど」と思わされました。
 
演出的にも、スペースの狭さ、舞台とギャラリーの仕切り、段差等が一切無いことを逆手に取り、観客の眼の前まで歩み寄って語りかけたり、凝った和風のBGMが効果的に使われていたりという点が良かったと思います。
 
何より井餘田さんの、一種、きりっとした感じに非常に好感が持てました。画像は終演後、あいさつをされる井餘田さんです。
 
残念なのは、あまり宣伝もされていなかったようで、もともと狭いスペースということもあり、観客は20名程だったこと(最初から限定20名と告知されていました)と、一回限りの公演であること。もっと多くの方に観ていただきたいという意味で残念です。
 
昨日のこのブログでは音楽での光太郎作品インスパイアを取り上げましたが、演劇系でも、もっともっと光太郎智恵子の世界をいろいろな方に、井餘田さんのように、それぞれの解釈で取り上げていただきたいものです。演劇関係の皆さん、よろしくお願い申し上げます。「『智恵子抄』? 「お涙ちょうだい」の古くさい話じゃん」という考えは、違います!!
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月25日
 
昭和4年(1929)の今日、東京会館で行われた、与謝野晶子50歳の祝いの発起人を務めました。
 
当時の『朝日新聞』です。見出しは25日になっていますが、記事本文では22日となっています。見出しを優先しました。
 
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今年10月25日に、岩手県民会館大ホールにて行われた第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門で、Aグループ(8~32人)に出場し、光太郎作詞、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」から自由曲を選んだ学校が二つありましたが、ともに上位入賞を果たしました。
 
「亡き人に」を自由曲に選んだ神奈川の清泉女学院さんは、金賞。北海道の帯広三条高校さんは、「レモン哀歌」で挑み、銀賞でした。どちらも女声合唱です。
 
ブレーン株式会社さんから、ライブ録音のCDが発売されたので、注文しました。出場順の関係で、帯広三条さんはvol1、清泉女学院さんはvol2に収録されており、2枚買いました。
 
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届きましたので、早速聴いてみました。どちらも透き通った美しい声で、情感たっぷりのいい演奏でした。高校生らしい張りのある若々しい声質も好ましいと思いました。
 
ブレーンさんでは、昨年までは金賞授賞団体の演奏のみを収めたDVDを発売していましたが、今年から全出場団体のDVD、さらにブルーレイも発売されています。ただし、受注生産ということで、コスト的にCDよりもかかるようで、DVDが1枚5,000円+税、ブルーレイは同じく6,000円+税(CDは3,000円+税)です。やはり出場順の関係で、帯広三条さんと清泉女学院さんが別々のディスクに収録されており、2枚買わなければなりません。ちょっと悩んでいます。
 
こうしたコンクールだけでなく、各種演奏会でも、もっともっと光太郎作詞の(というか、光太郎の詩に作曲した)楽曲を演奏していただきたいものですし、ラインナップも増えてほしいものです。
 
 
さて、今日は、音楽でなく演劇で、「智恵子抄」を観て参ります。過日ご紹介した「微笑企画第4弾 一人芝居 人に~智恵子抄より」です。楽しみです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月24日

大正7年(1918)の今日、光太郎智恵子連名で、小橋三四子(みよこ)に宛ててクリスマスカードを送りました。
 
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小橋三四子は日本女子大学校での智恵子の先輩に当たります。洋画家柳敬助の妻・八重ともども、光太郎と智恵子が出会うきっかけを作った一人です。読売新聞記者として活躍した他、雑誌『婦人週報』を創刊したりもしました。今年上半期の朝ドラ「花子とアン」の主人公、村岡花子とも親しい間柄でした。
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文面は以下の通りです。
 
クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。
あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。
此のフラ、アンジエリコの描いた天子達の晴朗な和平を世に持ち来すことに努めませう。
 
表面の差出人の部分は智恵子の筆跡と思われ、現存数の少ない智恵子筆跡の一つとして貴重です。宛名部分と裏面は光太郎の筆跡です。
 
用紙はイタリア製の絵葉書で、ルネサンス期のフィレンツェ出身の画家、フラ・アンジェリコの描いた宗教画「聖母戴冠(部分)」が印刷されています。

テレビ放映情報です。 

いにしへ日和 #122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉

BS朝日 2014年12月25日(木)  21時54分~22時00分  再放送2015年1月1日(木) 22時54分~23時00分
 
日本の東国各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。美しい景色の中に息づく「時の記憶」。旅をしながら、現在と過去を自由に行き来する。そんな気分を味わう番組です。時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
高村光太郎は、1945年花巻に疎開し、7年の間、この地で過ごしました。 光太郎62歳。最愛の妻・智恵子も既に他界し、東京大空襲で自宅とアトリエを失ってやってきた花巻。 そんな光太郎が「本当の温泉の味がする」と、何度も訪れた大沢温泉を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
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JR東日本さん提供の5分間番組です。
 
今年5月には、「#107 福島県・二本松市・智恵子の空」ということで、二本松の智恵子生家周辺を取り上げて下さいました。公式サイトはこちら
 
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今回は、光太郎が何度も訪れた、花巻郊外の大沢温泉さんからです。宮澤賢治や相田みつをゆかりの宿としても有名です。
 
当方も定宿としています。一昨年はつごう7泊ほど泊めていただきました。しかし、今年は花巻には2回行きつつも、1回も泊まりませんでした。1度目は1月下旬。大沢さんがいっぱいで、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに泊めていただきました。2度目は5月15日の光太郎祭でしたが、この時は夜行高速バスを使い、車中泊でした。だからしばらく行っていません。テレビを見て、懐かしみたいと思います。
 
ただ、来年は既に泊めていただくことが決まっています。今から楽しみです。とにかく温泉が素晴らしいし、料理や部屋、そして宿全体の雰囲気が非常にいい感じです。
 
一年中、いつ行っても、それぞれの季節ごとの良さがありますが、一番お薦めなのは、冬です。
 
こちらは4年前の今頃撮った画像です。今の季節はこんな感じです。
 
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寒さは半端ではありませんが、雪見の露天風呂、そして温泉で火照った身体に染み渡る清冽な冷気、そして寒くなったらまたザブン。たまりません。
 
ただし、この冬は近くの高村山荘・高村光太郎記念館は、グランドオープンに向けてのリニューアルで閉鎖中ですので、お気をつけ下さい。
 
さて、「いにしへ日和」。ぜひご覧下さい。本放送は明後日、再放送が来年1月1日。再放送とはいえ、元日から光太郎がらみの放映があるというのは、幸先がいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月23日
 
昭和20年(1945)の今日、詩「雪白く積めり」を執筆しました。
 

   雪白く積めり
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雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。004
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
この年、秋、花巻町から郊外の太田村山口に移り住んだ光太郎。鉱山の飯場小屋だった建物を村人の協力で移築してもらい、7年間の孤独な山小屋(高村山荘)暮らしを始めました。北川太一先生曰く「生涯で最も鮮烈な冬」。その山小屋での冬を謳った、記念すべき第一作です。右上の画像は、昭和23年(1948)冬に撮影された光太郎の山小屋です。
 
この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
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こちらは30年程前、初めてここを訪れた時に撮影したものです。3月下旬でしたが、日陰にはまだ膝まで雪が残っていました。

『吉本隆明全集5[1957‐1959]』。注文しておいたのが、届きました。
 
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昭和32年(1957)、吉本最初の単行本、『高村光太郎』ほか、光太郎や同時代の詩人たちを論じた評論が多数収められています。
 
『高村光太郎』は、3回ほど読みましたが、また改めて読み返してみたいと思います。他の短めの評論の中には未読のものが多く、こうしてまとめていただけると、非常に有り難く感じます。
 
 
そして月報。高村光太郎記念会事務局長にて、吉本の同窓、北川太一先生の玉稿『吉本と光太郎』が掲載されています。まずこの月報から読みましたが、感動しました。人と人との出会い、絆、そういったものの不思議さ、素晴らしさを存分に感じさせる名文です。
 
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戦前の初めての出会い、戦後すぐの再会、その時点でお二人とも、光太郎を読み解くことなくして、あの時代を生きる方向性がつかめない、と考えられていたそうです。やがて光太郎没後、北川先生の編集で、昭和32年(1957)から刊行が始まった『高村光太郎全集』の月報に載った、吉本の「『出さずにしまつた手紙の一束』のこと」のお話、お二人で編んだ昭和56年(1981)の春秋社版『高村光太郎選集』増訂版のお話などなど……。
 
『吉本隆明全集5[1957‐1959]』。定価6400円+税と、値段は張りますが、それだけの価値は十分にあります。当方、自分へのクリスマスプレゼントとします(笑)。
 
 
さて、過日もちらっとご紹介しましたが、NHK Eテレさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」の詳細情報が公表されました。「第5回 吉本隆明」ということで、後半4回のトップが吉本です。

日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち 第5回 吉本隆明

 来年の戦後70 年を前に、3年がかりで取り組む「戦後史証言プロジェクト」の第5~8回を、1月10日から放送する。
 敗戦から占領下の民主化、高度経済成長...時代の分岐点で、著名な知識人は何を考え、どのような未来を思い描いたのか。関係者を幅広くインタビューし、今につながる戦後日本の課題を考えていく。
 
第5回 吉本隆明 1月10日(土) 午後11:00~午前0:30 放送
 戦後の言論界を走り続け てきた思想家・吉本隆明。膨大な仕事は、文学から政治、宗教、社会思想、そしてサブカルチャーに至るまで 幅広い。六〇年安保では学生達の先頭となり国会に突入、六八年の 大学紛争時には、 代表作『共同幻想論』を発表、個としての思考の自立を説き、大学生たちの圧倒的な支持を得た 。高度消費社会を前向きにとらえ、大衆の行動に意味を見出した。同時に、常に常識を疑い、権威と闘い、時には物議を醸す発言もした。社会学者・西部邁さん、上野千鶴子 さん、橋爪大. 三郎さん、作家・高橋源一郎さん、ミュージシャン遠藤ミチロウさん、 幅広い層からの証言で紡いでいく。
 
北川先生のところにも取材が入ったそうですので、上記の「」に、北川先生も含まれるのではないかと思われます。当方、ちょうどこの日に、北川先生を囲む新年会に参加予定でして、なにか不思議な感覚です。
 
ちなみに同番組、第6回以降は、石牟礼道子、三島由紀夫、手塚治虫というラインナップになっています。
 
ぜひご覧下さい。
 
 
吉本といえば、昨日の『朝日新聞』さんの読書欄に、筑摩書房の『吉本隆明〈未収録〉講演集』刊行開始の記事が載りました。

『吉本隆明〈未収録〉講演集』

 『吉本隆明〈未収録〉講演集』(筑摩書房、宮下和夫編)の刊行が始まった。1957年の「明治大正の詩」から2009年の「孤立の技法」までの124講演をテーマ別に、第1巻『日本的なものとはなにか』(2052円)から『芸術言語論』までの全12巻。単著に収められていなかったもののほか、新たに音源が発見された8講演を含む。第1巻には付録として「全講演リスト」がつく。今後あらたに音源が見つかった場合は、第13巻を刊行したいという。
 
全12巻(もしくは13巻)中には、光太郎がらみの講演も含まれるかも知れません。詳細が分かり次第、お知らせします。
 
 
昨日の『朝日新聞』さんの読書欄といえば、このブログでご紹介した、智恵子に触れた池川玲子著『ヌードと愛国』の書評も載りました。 『日本経済新聞』さんには早々に書評が載りましたし、先週は『読売新聞』さんにも載りました。かなり注目を浴びているようですね。 

聖火リレー池川玲子著『ヌードと愛国』

 絵画や映画、写真などで表現されてきたあまたのヌードを近現代日本文化史という視点で眺めてみると、そこには、「『日本』をまとったヌード」という系譜が現れてくるという。明治期に長沼智恵子が描いたリアルすぎるヌードから、70年代のパルコの「手ブラ」ポスターまで、7体のヌードの謎を解き、日本近現代を「はだか」にする試み。(講談社現代新書・864円)
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月22日

昭和4年(1929)の今日、雑誌『いとし児』にアンケート「児童と映画」が掲載されました。
 
質問は三項目。以下の通りでした。000
 
一、お子様に映画をお見せになりますや、否や、その理由。
二、月に何回ぐらゐ。
三、種類の御選択は。
 
それに対する光太郎の回答は、ずばり一言のみ。
 
私には子供がありません。
 
このアンケート、光太郎を含む77名の回答が載っていますが、出版社も子供がいるかいないかくらい調べてから依頼しろと言いたくなりますね。さらにこの光太郎の回答をボツにせず、そのまま載せるというのも何だかなあ、という感じです。
 
ちなみに昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に載せましたが、今日は光太郎智恵子、大正3年(1914)、上野精養軒での結婚披露100周年です。金金婚式ですね(笑)。
 
しかし、入籍は実に昭和8年(1933)。智恵子の統合失調症が進み、光太郎も健康に不安を抱え、自分に万一の事があった場合の遺産相続等を考えての光太郎の決断でした。
 
二人にはとうとう子供はできませんでした。その理由について、いろいろな憶測がなされていますが、結局は謎です。

昨日のこのブログで、光太郎の父・高村光雲作の楠正成像(楠公銅像)をあしらったご当地キティグッズ、東京限定楠正成公バージョンをご紹介しました。
 
以前にもちらっと書きましたが、光太郎がらみでも、ご当地キティグッズがありますので、ご紹介しておきます。「ご当地」的には十和田湖。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)をモチーフにした「十和田湖限定乙女の像バージョン」です。
 
まず、ハンドタオル。
 
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続いて「ご当地方言ぷっくりシール」。
 
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この中で2枚、乙女の像があります。
 
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 「けやぐ」というのは「友達」の意だそうです。
 
それから、ストラップ。
 
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この3点は、現地で手に入れてきました。
 
他に、インターネットで入手したものがこちら。
 
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シャープペンシルにボールペン、ファスナーマスコット000です。ストラップを含め、付いているマスコットは全て同一ですね。
 
今年は、十和田市の原付ナンバープレートの図柄に、乙女の像が使われたデザインが採用されたりもしました。
 
楠公銅像同様、乙女の像も、愛されていることの表れだと思います。
 
また、来春には十和田奥入瀬観光ボランティアの会さんから、『乙女の像のものがたり』という書籍が刊行されます。北川太一先生や、故・高村規氏の聞き書きも収録、当方も、一部を執筆させていただきました。編集も最終段階だそうです。
 
ところで、ハローキティ十和田湖限定乙女の像バージョン、他にもラインナップがありました。他の方のブログ等から引用させていただきますが、一番上のハンドタオル以外のハンドタオル、同じ図柄を使った平成22年(2010)のカレンダーなど。こちらは未入手でして、今後も探してみます。
 
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追記:左上のハンドタオルはメルカリでゲットできました。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月21日
 
昭和49年(1974)の今日、水野葉舟選集刊行会から、小品集『草と人』が刊行されました。
 
オリジナルは大正4年(1915)、植竹書院の刊行。光太郎が序文や挿画を担当しています。昭和49年版は、葉舟生涯の小品からの選集で、光太郎に触れた作品も多く収録されました。

昨日のこのブログ、皇居前広場に立つ楠正成像(楠公銅像)についてでした。昨日書きましたとおり、売店で、楠公銅像をあしらったA4判クリアファイルを購入しましたが、そのかたわらにこんなものも並んでいて、買ってしまいました。
 
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サンリオさんのキャラクター、キティちゃんのハンドタオルです。
 
ご当地キティということで、日本各地の観光地などでその土地々々の風物をあしらったキティちゃんグッズが売られていますが、楠公銅像のバージョンがあったとは知りませんでした。
 
また、ボールペンとシャープペンシル、それからストラップもありました。
 
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また、帰ってからネットで調べてみると、ファスナーマスコットもあり、ネットで購入しました。
 
楠公銅像、一種の東京のシンボルとして愛されている事の証左でしょうが、高村光雲も、あの世で苦笑しているのではないかと思います。
 
同じ光雲作、そして共に「東京三大銅像」に入っている上野の西郷隆盛像バージョンもあるかと思って調べてみました。しかし、西郷さんについては鹿児島限定でのバージョンがありますが、上野の西郷さんとしてのキティちゃんグッズは無いようです。上野限定はパンダがモチーフ。ぜひ、上野西郷バージョンを作っていただきたいものです。
 
では、光太郎がらみでのキティちゃんグッズは、というと、こちらもちゃんと存在しまして、明日のこのブログにてご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月20日
 
昭和4年(1929)の今日、岸田劉生が歿しました。
 
「麗子」像の連作などで有名な岸田劉生。数え39歳の早逝でした。
 
大正期の『白樺』や、フユウザン会、生活社を通じ、劉生と光太郎は深いつながりを持っていました。そのためその逝去の報には、哀惜の意を隠せません。
 
12月22日の『読売新聞』に載った光太郎の「岸田劉生の死」から、書き出しの部分を抜粋します。
 
 今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。私は食後の洗面所で立ちながら言つた。「岸田劉生が死んだのかな」さう口に出して言つたら急に胸がいつぱいになつた。走馬燈のやうにいろんな事が頭に出て来てをさまりがつかない。今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。
 此頃では人が天才といふ言葉を大変嫌ふやうだが、いくら嫌つても天才といふもののある事を打消すわけにはゆかない。ただ稀有(けう)なだけだ。画家岸田劉生は私達の身近に親しく見る事の出来たその稀有な天才の見本だ。此は二十年も前から口にしてゐた事だが今でも此言を取消すわけにゆかない。岸田劉生を除いては今日、吾が日本に天才らしい画家を一人ぐらゐしか私は知らない。彼だけは私の見る所、無條件に天才であつた。
 
続いて、翌年2月の雑誌『みづゑ』に載った「岸田兄の死を悼む」から抜きます。
 
 岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。昔荻原守衛が死んだ時もかなりの打撃をうけたが、この方はむしろ多分に友情的の分子が含まれてゐたと思ふ。友情といふ方面から言へば、最近、岸田兄と私とは以前ほどの私交的関係を持たず、文通すら殆ど絶えてゐたし、僅かに「大調和展」の会員であつた関係上、その会合などの時に旧交を温めた程度の交友状態に過ぎなかつたのであるが、私が岸田劉生に対する尊敬と評価とひそやかな景慕とは二十年来渝る事無き、言はば公人としての公けな心根であつた。そして心の奥の方では、いつも、私自身がもつと成長し、もつと成熟し得る時が来たら、又再び以前のやうに近しい、しかし以前よりも平淡な、水のやうに何でもない程親しい友交を獲たいと念願し、遠く望んでゐた事であつたのである。さういふ事は今はすべて空しくなつた。
(略)
 彼は多くの人の期待と予望とを背負ひながら死んでしまつた。神秘の扉はしまつてしまつた。彼にかはる者は無い。無いとなると世界中に無い。実に言ひやうもなく惜しい。
 
 
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上の画像は、大正8年(1919)、『白樺』10周年記念に撮られた一枚です。前列右から3人目が岸田、後列左から3人目が光太郎です。

過日、上京した折に、時間が少し余っていたことがありました。そこで寄り道。行った先は皇居前広場。ここには光雲が主任となって、東京美術学校が請け負った楠木正成の銅像があります。
 
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実は当方、ちゃんとこれを見るのは初めてでした(幼い頃に見た記憶があるのですが)。
 
実に重厚。それもそのはず、この像は「無垢」です。
 
「無垢」というと、一般に「純真無垢」など、「イノセント」という意味で使われますが、こうした金属工芸の場合、「内部が中空ではない」という意味です。通常の銅像をはじめとする鋳金では、「中型」と「外型」を作り、その間に溶けた銅を流し込む方式で、出来上がったものは中空の状態になります。ところがこの像は、外型のみの状態に溶けた銅が流し込まれ、内部まで詰まっている状態です。したがって、重量としても物凄いことになっていると思われます。
 
そう思つて見るのでそう感じるのかも知れませんが、とにかく重厚です。
 
しかし、光太郎はこの像や、同じ光雲の手になる上野の南洲西郷隆盛像など、「芸術」としては認めていません。
 
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた。(「父との関係―アトリエにて2―」 昭和29年=1954)
 
たしかに絶対的評価としてはそうなのかもしれません。しかし、相対的評価としてみると、これほどの存在感、迫力を放つ像は、他に無いように思います。
 
そこで、この像と、西郷隆盛像、さらに靖国神社にある大熊氏廣作の大村益次郎像を合わせて「東京三大銅像」とする場合があります。
 
今年、銅像を扱ったテレビ番組を2本観ました。6月21日、BS日テレさんで放映された中川翔子のマニア★まにある #32銅像男子・(ドウゾウダンシ) 銅像男子が語る銅像の魅力!?」、10月30日、同じくBS日テレさんの「木曜スペシャル #15 偉人巡礼!歴旅銅像ツアー」。どちらも、ちらっと楠公銅像、西郷隆盛像にふれていました。事前に楠公銅像に触れるかどうか分かりませんでしたし、ちらっと紹介されただけなので、放映後もこのブログでは特にコメントしませんでしたが、この際なのでご紹介しておきます。
 
まず、「木曜スペシャル」の方では、全国の坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信の銅像を紹介するのがメインでしたが、合間に「東京三大銅像」の紹介がありました。
 
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続いて「中川翔子のマニア★まにある」。こちらはサイト「日本の銅像探偵団」管理者の遠藤寛之氏が選ぶ「一度は見ておきたい銅像ベスト3」ということで、堂々の第1位に、楠公銅像を挙げて下さいました。
 
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遠藤氏によれば、楠公銅像は「キング・オブ・銅像」だそうです(笑)。
 
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ちなみに第2位は、「二本松の菊人形」会場である福島二本松霞ヶ城に建つ二本松少年隊の像でした。作者は二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」も作られた、光雲の孫弟子にあたられる橋本堅太郎氏です。
 
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さて、楠公銅像そばに売店があり、そこで楠公銅像グッズをいろいろゲットしてきました。
 
まずは最近よくあるA4判クリアファイル。中央に楠公銅像、裏面は皇居二重橋です。
 
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もったいなくて使えません。袋に入れたまま保管しています。
 
また、その他、笑える楠公銅像グッズが手に入りました。また明日、ご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月19日
 
平成18年(2006)の今日、福島二本松で、NTT DoCoMo東北のCM「智恵子のふるさと篇」の撮影が行われました。
 
 
主演は宮崎あおいさん。
 
こちらは、当時、東北で配布されていたカード型の広告です。智恵子の生家・記念館裏手の「樹下の二人」碑の前に立つ宮崎さん。裏面は安達太良山と阿武隈川、ほんとの空です。
 
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二本松で智恵子の顕彰活動を行っている「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんもご出演なさいました。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月18日
 
大正15年(1926)の今日、駒込林町のアトリエを、宮澤賢治が訪れました。
 
20日という説もあるそうですが、賢治と光太郎、二人の天才の、最初で最後の出会いでした。
 
光太郎の談話筆記「宮澤さんの印象」(昭和21年=1946 『ポラーノの広場』)、全文です。
 
 宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。
 夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。
 僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
 あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチエロを習ふ目的だつたやうです。十日間で完成するつもりだと言つてをられたさうです。
 あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。
 
 
二人を結びつけたのは草野心平でした。
 
心平と光太郎の出会いは、大正14年(1925)。心平は、中国の嶺南大学留学中に知り合った詩人・黄瀛(こうえい)に連れられて、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、以後、足繁く通うようになります。
 
心平が前年に刊行された賢治の詩集『春と修羅』を光太郎に紹介、光太郎はその詩的世界を激賞しました。また、光太郎は黄瀛からやはり同じ年に刊行された童話集『注文の多い料理店』を借り、その素晴らしさを広めるため、さらに水野葉舟に又貸しするなどしています。
 
光太郎の賢治評です。
 
内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであつた。
(「コスモスの所持者宮澤賢治」 昭和8年=1933 『宮澤賢治追悼』)
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
(「宮澤賢治に就いて」 昭和9年=1934 『宮澤賢治全集内容見本』)
 
他にも繰り返し、光太郎は賢治を激賞しています。
 
さらに三回にわたる『宮澤賢治全集』の発刊に関わり、花巻に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしたりもした光太郎を、宮澤家でも恩人として遇し、昭和20年(1945)、空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を花巻に呼び寄せたことはあまりにも有名です。その結果、賢治の父・政次郎や賢治の弟・清六は、光太郎と年齢差を越えた深い交流が生まれました。
 
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こちらは先程も名前の出て来た尾崎喜八撮影の写真。左から光太郎、心平、清六、そして賢治の甥の幸三郎です。昭和9年(1934)、駒込林町のアトリエ前です。ここで賢治と光太郎も出会いました。
 
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こちらは花巻郊外太田村山口の山小屋。政次郎・イチ夫妻と光太郎です。
  
光太郎と賢治、実は、二人が出会うチャンスはもう一度ありました。それは昭和6年(1931)夏、賢治は東北砕石工場技師を務めるかたわら、童話「風の又三郎」を書いていた時期です。光太郎は『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、女川を含む宮城、岩手の三陸海岸を旅しています。その際に賢治は光太郎が花巻に寄ってくれることを望んでいたそうですが、実現しませんでした。
 
細かな事情は不明なのですが、光太郎が旅している間に、東京では智恵子の統合失調症の症状が顕著となったということで、もしかするとその知らせを受けた光太郎、急ぎ帰宅したのかも知れません。

追記 どうも船の関係のような気もしてきました。光太郎、東京―三陸間も船で移動した可能性があり、そうすると、船の便が月2本しかなかったのです。

それにしても、賢治と光太郎、たとえ一度でも実際に出会っていることの意味は大きいでしょう。光太郎にしても、賢治と出会わずじまいであれば、どんなに書かれたものを読んで感心したとしても、あれほど激賞することはなかったのではないかと思います。 
 
この二人の最初で最後の出会いが、88年前の今日。感慨深いものがあります。
 
実は当方、賢治が書いたり発言したりした光太郎評については不分明です。詳しい方、はこちらまでご教示いただければ幸いです。

昨日のこのブログにて、近々放映されるテレビ番組の情報を載せました。記事を書いたのが午前中。午後になって、ふとテレビをつけると、地上波TBSさんで、内田康夫さん原作の浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編というドラマの再放送が放映中でした。平成21年(2009)に連ドラとして放映されたもので、光太郎彫刻の贋作を巡る事件という設定の「「首の女」殺人事件」を原作としているものです。
 
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この「蝉」は美術さんの作品と思われますが、なかなか良くできていますね。
 
浅見光彦役は沢村一樹さん。お母さんの雪江役は佐久間良子さん。
 
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ちなみに佐久間さんは平成3年(1991)11月9日にNHK総合で放映された単発のドラマ「極北の愛 智恵子と光太郎」(脚本・寺内小春)で智恵子役を演じられました。光太郎役は小林薫さんでした。
 
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昨日の「浅見光彦~最終章~」、ネットのテレビ情報欄で「光太郎」のキーワード検索にヒットしなかったため、この放送が昨日あったことを事前に気づかず、紹介しませんでした。「やっちまった」感でいっぱいです。
 
まあ、何度か再放送されていますので、また放映があるでしょうし、DVDも発売されています。
 
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ちなみにDVDには、よくある「特典映像」としてメイキング風景が収められており、第1話「恐山・十和田・弘前編」の関係で、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)が紹介されています(ただし第1話本編にはこの像は出てこなかったと記憶しています)。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
 
閑話休題。
 
日曜日の『読売新聞』さんに、智恵子について触れた池川玲子さん著『ヌードと愛国』の書評が載りましたのでご紹介します。

『ヌードと愛国』 池川玲子著 投影される深い意味

「ヌードは意味を着ている」000
 たしかにそうだ。ヌードは服を着ていないが故にヌードであるが、だからと言って服を着ることによってまとうような意味が欠落しているわけではない。
 時に、服を着ていないが故に深い意味が投影される。高尚な芸術作品にも下劣なわいせつ物にも。近代の先端にも前近代の残余にも。たくましく魅力的にも弱々しく貧相にも。
 本書は1900年代から70年代まで、その時々の社会で注目された七つのヌード作品をとりあげながら、そこにいかなる意味があるのか分析していく。ヌードとの関係で論じられる対象は竹久夢二、外国人観光客誘致映画、満州移民プロパガンダ映画など、一見脈絡がなく多様に見える。ただ、一本の筋も通っている。そこでは近代化の中で現れる日本と西洋、女性と男性の間にある緊張の変化が追われているのだ。
 例えば、高村光太郎『智恵子抄』で有名な高村智恵子が描いたヌードについて論じた章がある。智恵子は男性ヌードのデッサンの際に「おかしいほどリアル」に股間を描くと、同じ時に美術を学ぶ男子学生の回想に書かれていた。しかし、調べてみれば、実際に智恵子が描いたとされるデッサンはそのようなものではない。では、なぜ……。
 結論を言えば、このエピソードの背景には、当時の西洋の先端的な美術のあり方を知る智恵子の姿、あるいは、社会における女性への「良妻賢母」的な役割の変化などが存在する。ただ、この結論自体はそれほど重要ではない。本書の面白みは、この結論を論証するプロセスにほかならない。謎解き形式で進む文体はとても読みやすく、他の様々な事例も含めて読み通すことで、幅広い社会史・美術史の知見を得ることができるだろう。
 ページをめくるごとに明かされる、何気ない作品の細部に隠された重要な意味。それを何重にもみせる著者の力量に驚かされ続けた。
 
 
なかなか的確な書評です。実際、非常に読みごたえのある書籍でした。こちらもぜひお買い求めを。
 
 
ところで、ヌードといえば、またつい最近、芸術か猥褻物か、ということで、ある作家さんの作品が問題になっていますね。
 
上記に画像を載せた十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)もヌードですが、まったく猥褻感がありません。現在、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで発刊予定の『乙女の像のものがたり』に寄せた拙稿を校正中です。その中の年少者向けに書いた稿で、「裸婦像」の語注として「人間の肉体の美しさを表現するため、はだかの女の人を作った彫刻」と書きました。「乙女の像」、ひいては芸術表現としての「ヌード」は、そういうものだと思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月17日
 
昭和24年(1949)の今日、詩人の中原綾子、歌人の館山一子に、それぞれが主宰する雑誌の題字を揮毫したものを送りました。
 
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中原には「すばる」、館山には「郷土」。それぞれ、翌年からの号で、光太郎の揮毫が表紙を飾りました。

テレビ放映情報です。  はっきり 光太郎に関わるのは1件のみですが、ついでなので5件ご紹介します。

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014年12月22日(月) 6時35分~6時45分 
     再放送 12月22日(月)17時15分~17時25分
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、野村萬斎/冬至、うた/冬景色、道程
 
出演 小錦八十吉,野村萬斎,おおたか静流 ほか
 
この番組では「冬が来た」「道程」ともに何度か扱って下さっています。朗読的に取り上げたり、「道程」は坂本龍一さん作曲の歌にもなっていたり、そのあたりの使い回しかも知れません。むろん新作かも知れません。
 
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日曜美術館 アンコール放送「野の花のように描き続ける~画家・宮芳平~」

NHKEテレ 2014年12月21日(日) 9時00分~9時45分 再放送 12月28日(日)20時00分~20時45分
 
去年、生誕120年を記念した展覧会が開かれたのを機に注目された画家、宮芳平。知られざる魅力に迫る。
 
司 会 井浦新,伊東敏恵   ゲスト ドリアン助川
 
 いま、一人の無名の画家の絵が、人々の共感を集めている。長野の高校で美術を教えながら、生涯で数千枚に及ぶ油絵を残した宮芳平(みや・よしへい 1893~1971)。
生誕120年を記念して去年から始まった初めての大規模な回顧展が全国を巡回。すると「澄んだ魂から生まれたような絵」「自然、植物への愛情の深さを感じた」「これまででいちばん心にしみる絵画」といった感動の声が無数に寄せられ、都内で開かれた展覧会をアートシーンで紹介すると、「作品をじっくり見たい」「画家のことが知りたい」といった声が番組宛にも届いた。
宮が描いたのは、鮮やかな色と抽象的な形がおりなす長野の自然風景。優しさに満ちた母子の肖像。そして深い精神性を感じさせる、聖書を題材にした聖地巡礼のシリーズ。こうした絵の背景には、若き宮を愛した文豪・森鴎外との交流。教師と画家の狭間で揺れながら、独自の表現へと至る苦悩の日々が秘められていた。家族や教え子の証言、画家自身の言葉から知られざる実像に迫る。
 
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アンコール放送、ということで、今年8月に放映されたものの再放送です。光太郎と交流のあった画家・宮芳平の生涯を追っています。残念ながら、光太郎の名は出て来ませんでしたが、見応えのある内容でした。見逃した方、ぜひご覧下さい。
 
 
ここからは、このブログでご紹介してきたゆかりの地、特に東日本大震災被災地からのレポートです。 

震災ドキュメント2014「サッカーが勇気をくれた~コバルトーレ女川の挑戦~」

NHK 総合 2014年12月21日(日)  16時15分~16時40分
 
震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。地元を勇気づける存在がサッカーチームのコバルトーレ女川だ。将来のJリーグ参入を目指し、現在は下部リーグで戦いを続けている。チームも震災で活動中止を余儀なくされ、多くの選手がチームを去った。しかし、地元の熱い思いに応えるように年々成績を上げてきた。リーグ戦終盤、優勝を目指すコバルトーレ。果たして結果は?その戦いを追い、選手やサポーターの思いをつづる。
 
ナレーター 笠井大輔
 
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こちらも再放送です。本放送は10月でした。毎年8月に「女川光太郎祭」を開催している宮城県女川町からのレポートです。
 
同じ21日に、もう1本女川からのレポートがあります。 

学ぼうBOSAI 東日本大震災 被災者に学ぶ「看護師~宮城・女川町~」

NHK Eテレ 2014年12月21日(日) 18時30分~18時40分
 
東日本大震災の被災地を訪ね、震災を経験した人の話を聞く「東日本大震災 被災者に学ぶ」シリーズ。大災害のとき、地域住民はどのように判断し、いかに行動したのか…。小中学生の子供たちが自分で判断し行動するためのヒントを提供する。宮城県女川町の医療センターで、医療品や食料が津波で流され、多数の避難者が押し寄せた事態に看護師はどう対応したか。中学生の子供リポーター、俳優の濱田龍臣さんが被災地を訪ね話を聞く。
 
リポーター 濱田龍臣
 
 
さらに、同じ被災地ということで、草野心平ゆかりの福島県川内村からも。こちらは明日の放送です。

きらり!えん旅~マギー審司 福島・川内村へ~

NHK BSプレミアム 2014年12月17日(水)  19時30分~20時00分
 
マジシャンのマギー審司さんが福島県川内村を訪ねた。村の東部地区は福島第一原発から20キロ圏内にあり10月1日に避難指示が解除されたばかり。マギー審司さんは、原発事故後「作付け制限区域」に指定されながら米を作り続けた農家から当時の苦労話を聞き、新米で作ったおむすびをごちそうになった。また子どもたちの笑顔いっぱいの小学校やLEDを使った最新鋭の野菜工場を訪ねた。
 
出演 マギー審司  語り冨永みーな
 
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こちらは2012年に始まって、息の長い番組となってきました。初期の頃に由紀さおりさんによる二本松訪問の様子も放映されました。
 
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「被災」が続く限り、この手の番組も続けてほしいものです。
 
今回ご紹介したのは、すべてNHKさん。やはりこういう番組を作るのも、公共放送の役目でしょう。さて、上記では紹介順と放映順が一致していませんでしたので、下記にまとめます。
 
きらり!えん旅~マギー審司 福島・川内村へ~
 NHK BSプレミアム 12月17日(水) 19時30分~20時00分
 
日曜美術館 アンコール放送「野の花のように描き続ける~画家・宮芳平~」
 NHK Eテレ 12月21日(日) 9時00分~9時45分
 
震災ドキュメント2014「サッカーが勇気をくれた~コバルトーレ女川の挑戦~」
 NHK 総合 12月21日(日) 16時15分~16時40分
 
学ぼうBOSAI 東日本大震災 被災者に学ぶ「看護師~宮城・女川町~」
 NHK Eテレ 12月21日(日)18時30分~18時40分
 
にほんごであそぼ
 NHK Eテレ 12月22日(月) 6時35分~6時45分 
     再放送 12月22日(月)17時15分~17時25分
 
日曜美術館 アンコール放送「野の花のように描き続ける~画家・宮芳平~」(再)
 NHK Eテレ 12月28日(日) 20時00分~20時45分
 
それぞれぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月16日
 
平成14年(2002)の今日、牧野出版から籠谷典子編『東京ウォーキング 文学と歴史を巡る10000歩 №18文京区』が刊行されました。
 
「⑤高村光太郎居住跡」「⑥高村光雲終焉の地」000「⑦青鞜社発祥の地」などで、光太郎、光雲、智恵子に詳しくふれています。
 
こうした町歩き的な書籍で、ほんの1、2ページ、光太郎らにふれているものは実に多いのですが、この書籍は実に約30ページ、光太郎関連です。
 
他に漱石、鷗外、宮本百合子、サトウハチロー、竹久夢二、さらに歴史ということで、団子坂、須藤公園、東大などが扱われています。
 
平成17年(2005)の改版が、現在も流通しているようです。

昨日は衆議院選挙でした。結果は自公の圧勝。野党のだらしなさが目立ちました。
 
それを受けての『神奈川新聞』さんの一面コラムです。 

【照明灯】この道

 詩人・彫刻家の高村光太郎は〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉とうたった。漂泊の俳人・種田山頭火は〈この道しかない春の雪ふる〉と詠んだ。ともに人生や芸術を考え極めた末に、ほとばしり出た「道」という言葉だろう▼「景気回復、この道しかない」のキャッチフレーズを掲げ、衆院選を戦った安倍自民党が圧勝した。審判の結果を厳粛に受け入れざるを得ないとしても、経済政策に「アベノミクス」という道しかなかったのかという疑問は残る▼有権者に「この道」以外の明確な選択肢を提示できなかった野党には重い責任がある。争点を絞り込むことで選挙戦を有利に運ぼうとした安倍首相の思惑に対抗し、幅広いテーマで論戦を挑む力も乏しかった▼首相は長期安定政権を視野に入れた。この国を導こうとする道の先には「戦後レジームからの脱却」の実現による大きな変容が待つのだろうか▼〈此の道を行けば/どうなるのかと/危ぶむなかれ/危ぶめば/道はなし〉。アントニオ猪木氏が引用し、広く知られるようになった宗教家・清沢哲夫氏の詩「道」である。〈わからなくても/歩いて行け/行けば/わかるよ〉。しかし、気付いたら後戻りのできない道に踏み込んでいたという状況は困るのだ。
 
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気付いたら後戻りのできない道に踏み込んでいたという状況は困る」というのが、本当にその通りですね。集団的自衛権の問題や、右傾化の問題もそうですが、特に原発の問題でそれを特に感じます。
 
福島の小選挙区は全部で5つ。白河市をはじめとする第3区は民主党の玄葉光一郎氏、会津地方の第4区は維新の党の小熊慎司氏が当選しましたが、残る3選挙区は自民党の候補が当選、さらに比例代表でも2枠のうち1つは自民党候補でした。つまり7分の4を自民党が取ったわけですね。原発を「重要なベースロード電源」と規定する自民党が福島で過半数を取っているのです。それが福島県民の皆さんの選択なら、ここでああだこうだ言っても仕方がないのでしょうが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月15日
 
昭和29年(1954)の今日、参加予定だった「碌山を偲ぶ会」を欠席しました。
 
この月、信濃教育会から「彫刻家荻原碌山」(東京芸術大学石井教授研究室編)が刊行され、それを受けて新宿中村屋で「碌山を偲ぶ会」が開催されました。石井鶴三、相馬黒光とともに発起人に名を連ねていた光太郎ですが、体調不良のため、欠席しました。
 
光太郎はこの年6月には、雑誌『新潮』の連載「アトリエにて」の第5回として「荻原守衛」というエッセイを発表しました。44年前に逝ってしまった親友を想い、次のように結んでいます。
 
 芸術上の新気運は無限に発展してとどまるところもなく進むであらうし、造型上の革命も幾度か起るべきであるが、しかしその根元をなす人間の問題は千古不磨である。誠実ならざるもの、第二思念あるもの、手先だけにたよるもの、気概だけに終始するもの、一切のかういふものは、いつか存在の権利を失ふであらう。荻原守衛の芸術の如きは、時代的にふるくなればなるほど、人に郷愁のやうなものを感じさせ、人の心をとらへ、人を喜ばせ、美の一典型のやうなものを感じさせてやまないであらう。私はこの世で荻原守衛に遭つた深い因縁に感謝してゐる。
 
1年4ヶ月後にはこの世を去る光太郎。暮れにはやや回復しましたが、この年は病臥の時期が長く、「守衛よ、そろそろ俺もそっちに行くよ」という気持ちだったのかも知れません。
 
ところで、「誠実ならざるもの、第二思念あるもの、手先だけにたよるもの、気概だけに終始するもの、一切のかういふものは、いつか存在の権利を失ふであらう。」と言う光太郎の言葉。政治の世界にも当てはまるような気がします。何ら手を打てなかった今回の野党各党がそうですし、勝った自民党も「誠実ならざるもの」と評されればたちまち下野に追い込まれるのは、平成17年(2009)総選挙で歴史的な大敗北を喫した時の歴史が証明しています。

東京は練馬から演劇公演の情報です。 

微笑企画第4弾「一人芝居 人に~智恵子抄より~」

 時 : 2014年12月24日(水) 18:30開場 19:00開演
 場 : 江古田 兎亭 東京都練馬区旭丘1-46-15金健ビルB1
 員 : 20名(先着)
 金 : チケット 1500円 プラス、飲み物とお食事のオーダーをお願いします。
      (飲み物300円~、お食事200円~ご用意してます。)

一人芝居ということだそうで、演じるのは、微笑企画主宰・井餘田笑子さん。
 
早速、申し込みました。クリスマスイヴですが当方には関係ありません(笑)。
 
その前々日の12月22日は、光太郎智恵子の結婚記念日です。このブログで何度か記述しましたが、ちょうど100年前、大正3年(1914)のこの日、上野精養軒にて二人の結婚披露宴が催されました。親族の他に光太郎恩師の東京美術学校長・正木直彦、同教授・藤島武二、さらに与謝野鉄幹・晶子夫妻、田村松魚・俊子夫妻、そして実質的に二人を結びつけた柳敬助・八重夫妻らが参列しました。
 
二人の結婚披露100周年に花を添える舞台であって欲しいな、と思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月14日
 
昭和27年(1952)の今日、『週刊朝日』に「おろかなる都 光太郎東京を叱る」が掲載されました。
 
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この年、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、足かけ8年にわたる岩手での生活を切り上げて上京した光太郎が、久しぶりに見た東京を嘆いています。
 
曰く、「東京の街は、実に汚ないと思う。乱雑で秩序がない。」「建築では、屋根の美が貴重なものなのに、形、色、それに屋根と屋根の組合わせが何とも言えずブザマな気がする。」「空地であれば、どこでもかまわず、勝手な大きさのものを、どんどん建てるというのでは、仕方がない。野蛮だと思う。」「“東京”といつても何もないではないか。ただ、もの珍しい文化のカケラが、尖つたガラスの破片が散らばつているように、そこらにあるだけで、私は、そうしたモノにはぶつかるが、“空気”を感ずることができない。
 
耳が痛くなりますね。
 
ただし、光太郎、「東京で感心するのは、生ビールと食い物のうまいことだ。」と、「食」に関しては東京をほめ、帰京後はずいぶん食べ歩きをしていました。
 
ちなみに掲載誌『週刊朝日』のこの号の表紙がこちら。
 
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石川滋彦の描いた東京駅丸の内口風景です。赤煉瓦の駅舎や、丸ビル、東京中央郵便局などが見えますね。先程、大正3年(1914)12月22日が光太郎智恵子結婚披露100周年、と書きましたが、その2日前の12月20日に、東京駅が開業しました。

東京は渋谷の骨董品店兼ギャラリー(ということでいいのでしょうか、分類がよくわからないのですが)、しぶや黒田陶苑さんで、昨日から以下の展示が始まっています。  
期 間 : 2014年12月12日(金)~12月16日(火)
時 間 : 11:00~19:00
会 場 : しぶや黒田陶苑 東京都渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F
 
陶器、というより茶器を主に扱うお店のようで、ギャラリーも併設、週替わりで名品を展示しています。
 
で、今回の出品作家が以下の通り。
 
北大路魯山人  富本憲吉  石黒宗麿  川喜田半泥子  三輪休和  加藤唐九郎  岡部嶺男 
加藤土師萌 
黒田辰秋  加守田章二  山田光  香月泰男  山口長男 高村光太郎
 
魯山人や富本憲吉は陶芸家ですので、不思議はありませんが、光太郎がどうして? と思いました。すると、光太郎の作は書でした。晩年の光太郎が好んでよく書いた「うつくしきもの満つ」という短句で、軸装されたものだそうです。茶室には軸がつきものですから、そういう関係でした。
 
いったいに光太郎の書は非常に恬淡としており、まさしくわびさびを顕現していると言えます。茶室の雰囲気にはぴったりでしょう。しかし、光太郎の軸のかかった茶室でお茶をいただくと考えると、何とも贅沢ですね。
 
茶室というと、簡素を旨とします。しかしそこに生まれる一切の無駄を省いたことによる「美」。ある意味、何もない空間に「美」があふれているというパラドックスですね。「うつくしきもの満つ」という光太郎の短句は、それを象徴しています。
 
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こちらは類例ということで、光太郎と交流のあった美術史家・奥平英雄旧蔵の色紙です。今回の出品物とよく似たものです。
 
ちなみに以前にも紹介しましたが、光太郎は「美ならざるなし」という短句も好んで揮毫しています。この句に表されているのも、「うつくしきもの満つ」と同じ精神ですね。
 
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さて、しぶや黒田陶苑さんの展示。16日の火曜までと、短期間です。ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月13日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪ねてきた角川源義のために、宮澤家への紹介状を書きました。
 
角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。
 
また、賢治の詩集を出版したいという源義のため、賢治の父・政次郎あての紹介状を書きました。
 
東京の角川書店の御主人角川源義さんが小生編纂の宮澤賢治詩集を一冊出版させていただきたいといふ事ですが、角川さんは至極良心的な出版者であり、信用出来るので、貴家でお許しがあらば小生も承諾してもいいやうに申し上げました。よつて角川さんを御紹介いたします。一応同氏からお聞きとりの程願上げます。 十二月十三日 高村光太郎 宮澤政次郎翁台下
 
ただし、この出版は実現しませんでした。

今年10月に、福島県南相馬市で行われた邦楽奏者・浜根由香さんのコンサート「東北を謳う」のライブ録音CDが届きました。コンサートのレポートはこちら
 
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1曲目が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」で始まる光太郎詩「樹下の二人」に故・小山清茂が作曲したものです。
 
協賛チケットという形で、一口1,000円を振り込むと、こちらが送られてきます。当方、当日のコンサートも拝聴しましたが、CDも欲しかったので申し込みました。復興支援を兼ね、コンサート当日の分と合わせて、収益は市社会福祉協議会に寄付されたそうです。
 
CDと一緒に入っていた文書から抜粋引用します。
 
浜根由香~東北を謳う~南相馬コンサートのCDが完成しましたのでお届けします。
 
皆様のご支援のおかげで10月19日(日)、暖かな日差しとお客様に恵まれて無事にコンサートを終える事が出来ました。
 
そして協賛チケットの総売り上げは323枚、全国の皆様からのあたたかいご支援の気持を南相馬に届ける事が出来ました。後日、社会福祉協議会から感謝状を戴きました。
 
御協力いただき本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。 
 
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それから、「南相馬公演を終えて~今、改めて思う事~」という文書も同封されていました。
 
コンサートの打ち上げで、改めて世話人の方々に震災の話を伺いました。
 
その方達は避難せずに現地に留まった、正しくは事情があって避難出来なかった方達でした。いち早く避難した友人に「早く逃げろ」と言われても逃げるわけにはいかなかった。
とはいえ、地震直後の混乱の中では避難した方々にも正しい情報が届かないため、避難場所が南相馬よりも放射能の高い場所だったとは知らず、そこで沢の水を飲んだ人も居た…という生々しい話も沢山聞きました。
 
以前、除染のボランティアで南相馬を訪れた際、「他の場所にはボランティアはたくさん来るけれども放射能が怖いから此所にはあまり来ない。なんでわざわざ南相馬に?」との質問がありました。
「何かせずにはいられなかった。」と率直に気持を伝えましたが、
「なぜ?」の答えになっていないなぁ…と東京に帰ってからも考え続けていました。
 
「なぜ他ではなく、南相馬だったのか?」
 
今改めて考えると、原発が危ないものだと薄々知っていたのに声を上げなかった自分が許せなかったのですね。だから「何かせずにはいられなかった。」見えない放射能が残したものを自分の目で確かめなければ。と除染作業に参加したのです。それがきっかけとなり10/19のコンサート、そしてこのCDをお届けする運びとなりました。
 
今も電力が足りない訳ではないのに各地の原発が次々と再稼働を始めようとしています。今回の事故で明らかになったように人間はまだ原子力を扱いきれません。大都市の電力を賄う為に地方に原発を作るのは自分だけ良ければいいという都会的・身勝手な発想であり、政治的発想です。政治家は政治が仕。音楽家は音楽が仕事ですから、専門外の人の仕事は任せておけと言う風潮もありますが、どんな職業についてもその前に人間です。
人としてやってはいけない事には声を上げなくてはなりません。
音楽家は炭坑のカナリアと似ています。危険に気が付いたら真っ先に声を上げなければいけない、音楽の修行だけやっていればよい訳ではないと思うのです。
 
そんな思いが大層なチラシを全国に配る原動力となり、本当に多くの方達の後押しで気持ちを形にすることが出来ました。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 
東日本大震災から3年9ヶ月が経ちました。しかし、まだまだ「被災」は終わっていません。浜根さんのように、それぞれの皆さんが、それぞれの立ち位置で、できることをしていっていただきたいものです。
 
追記  浜根由香さんは、平成28年(2016)6月、胃ガンのため亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月12日
 
大正3年(1914)の今日、雑誌『美術新報』に、散文「バーナード リーチ君に就いて」が掲載されました。
 
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福島からの情報です。

ほんとの空を守るPR隊 「二本松少年隊」大募集!

二本松を活気づけるPR隊「二本松少年隊」メンバー大募集!
二本松のために頑張る方、殺陣やダンスに興味がある方、ぜひご応募ください。
二本松に熱い思いを抱く方々の応募をお待ちしております!
 
応募資格
高校生~30歳代までの健康な男女。市外在住の方でも構いません。二本松市に通える方が条件となります。
 
応募方法
応募用紙に必要事項を記入の上、二本松おもてなし隊(二本松市観光課)まで、持参・郵便・電子メールにてご応募ください。
郵便での応募の場合は16日(火曜日)まで消印有効とします。
郵送の場合 〒964-8601福島県二本松市金色403番地1 二本松おもてなし隊あて
メールの場合 応募用紙をダウンロードし、必要事項を必ず記入の上、応募してください。
送信先:
kankorisshi@city.nihonmatsu.lg.jp  応募用紙 [PDFファイル/935KB]
 
応募期限 12月17日(水曜日)まで ※郵便での応募の場合は12月16日(火曜日)まで消印有効とします。
 
オーディション
応募用紙を提出していただいた後、オーディションを行います。
•簡単な動きやセリフを読んでいただくので、動きやすい服装でご参加ください。
•12月21日(日曜日)午前10時より二本松市民交流センター(二本松駅前)で実施します。
•応募者全員に12月18日(木曜日)に確認の連絡をいたします。
 
その他
基本的にボランティアでの活動となりますが、ダンスレッスン・演技指導・メイク指導など、無料で受講できます。専用の衣装や小道具などはこちらで用意します。
 
問い合わせ
二本松おもてなし隊(二本松市観光課) 電話:0243-55-5095
 
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既に二本松では、ご当地ヒーロー「光の戦士ツインウェイターが「ほんとの空」を取り戻すため、安達ケ原の鬼婆伝説を基にした怪人と戦っていますが、これで強力な助っ人が誕生することになりますね(笑)。手を携えて「ほんとの空」を守って欲しいものです。
 
市外からも応募できますが、当方は年齢のため、応募資格に合致しません。該当する皆さん、「30歳代までで『少年』か?」という突っ込みは入れずに、ぜひとも立ち上がって下さい(笑)。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月11日
 
昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、コタツの組み立てを始めました。
 
この日の日記の一部です。
 
昨日来雪やまず一尺ほどつもる。ひる晴れて太陽あたたかし。風にて雪が空をとぶ。壮観なり。積雪のため学校にゆけず。コタツ組立にかかる、資材あしきため困難。 人来たらず、終日雪ぐもり。

今日、12月10日は「世界人権デー」だそうです。悲惨な第二次世界大戦が終わった後、昭和23年(1948)に開催された第3回国連総会で、「世界人権宣言」が採択された日にちなむとのこと。さらに日本ではそれに先立つ12月4日から10日までを「人権週間」と位置づけています。
 
このブログで何度かご紹介した、兵庫県人権啓発協会さん作成の「ほんとの空」というドラマがあります。光太郎の詩「あどけない話」にからめ、福島の原発事故による風評差別などを扱ったもので、昨年度、人権啓発資料法務大臣表彰映像作品部門優秀賞を受賞した作品です。
 
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各地の自治体や学校さんで上映会が開かれたり、地方のテレビ局さんで放映されたりしています。最近、単発の場合はこのブログでもご紹介していませんでしたが、この前の日曜日、12月7日には制作もとの兵庫県の地方局、サンテレビさんが放映して下さいました。それを御覧になった兵庫の方のブログに、感想が綴られています。この方は、最初からこのドラマを御覧になるつもりではなく、勘違いしてチャンネルを合わせたのだそうですが、ひきこまれてしまったそうです。
 
「自分でも気がつかないうちに、なんとなく人の話に流されたり、先入観や偏見から本当のことを調べもしないで人を傷つけてしまったり…といった内容でした。(略)なんか、すごくいいドラマを 何が始まるのかわからないまま見てしまって、もう涙がポロポロ出てきて、涙が出たら当然 鼻水も出るので鼻もかみながらで、突然の号泣ドラマ鑑賞となってしまいました。」
 
また、同じ兵庫県では、12月1日に開催された「阪神淡路20年―1.17 は忘れない―平成26年度人権のつどい」の中でも上映して下さいました。
 
ちなみに、ドラマ「ほんとの空」の制作地がなぜ兵庫県?と思っていましたが、上記人権のつどいの「趣旨」を見て、何となく納得できました。阪神淡路大震災の経験から、同じく震災に見舞われた東北、特にいわれのない風評差別に苦しむ福島県へのエールという意味なのだと思います。
 
東日本大震災からの復旧復興の過程で、人と人のつながりの大切さが改めて認識されています。来年1月17 日で阪神・淡路大震災から20年を迎えるこの時期に、その大切さと共に「人権週間」の意義を顧み、一人ひとりが互いに尊重され、共に生きる「共生社会」の実現に向けた人権意識の普及高揚を図る「人権のつどい」を、阪神淡路20年事業として開催します。
 
以前も書きましたが、ドラマ「ほんとの空」、全国ネットでの放映を期待します(当方はまだ観たことがありません)。広く人権問題を考えるきっかけにしてほしいものです。
 
 
しかし、逆に人権無視のヘイトスピーカーが跳梁跋扈するのもこの時期だというのが、情けないところです。12月8日が太平洋戦争開戦の日(『開戦記念日』という表記を見かけますが、記念してどうするのでしょうか?)だということで、「大東亜戦争は聖戦だった」とするヘイトスピーカーたちが世迷い言を垂れ流します。
 
そして、この時期と、8月の終戦記念日前後には、ヘイトスピーカーの中ににわか光太郎ファンが続出し、光太郎の戦争詩「十二月八日」(昭和16年=1941)や「鮮明な冬」(同17年=1942)などを持ち出して、「これぞ大和魂」と持ち上げるのです。
 
光太郎は全詩作のおよそ4分の1、約200篇の戦争詩を書きました。散文でも時局に協力するものがたくさんあります。しかし、戦後になって、そうした作品を読んで散っていった前途有為な若者の多かったことに心を痛め、自らを断罪する意味で足かけ8年にわたる蟄居生活を、岩手花巻郊外の寒村に送りました。
 
そうした経緯も知らず、または知りながら無視し、戦争詩のみをもてはやすのはやめて欲しいと思います。
 
下記は今年1月に発表された、ジャーナリスト・江川紹子氏の文章「国内問題として首相の靖国参拝を考える」からの抜粋です。
 
靖国神社の価値観は、この遊就館で上映されている映画を見ると分かりやすい。次のようなことが語られている。
日本は満州に「五族協和の王道楽土」を築こうとし、軍事行動を慎んでいたのに、中国の「過激な排日運動」や「テロ」「不当な攻撃」のために、やむなく「支那事変」に至った。そして、「日本民族の息の根を止めようとするアメリカ」に対する「自存自衛の戦い」としての「大東亜戦争」があった。この日本の戦いは、白人たちの植民地支配を受けていた「アジアの国々に勇気と希望を与えた」…。
昭和の初めから戦時中にかけての政府・軍部の宣伝そのものだ。靖国神社では、先の大戦は今なお聖戦扱い。まるで時間が止まったように、戦前の価値観が支配している。
太平洋戦争においては、日本兵の多くが餓死・病死した。その数は死者の6割に上る、との指摘もある。だが、そうした武勇にそぐわない事実や戦争指導者の責任は、ここでは一切無視されている。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓のために、捕虜になって生還することができず、民間人まで「自決」せざるを得なかった理不尽さも記されない。戦争指導者に対して批判的な考えを記した学徒兵の手記なども、示されない。
映画では、「黒船以来の総決算の時が来た」との書き出しで始まる、高村光太郎の詩「鮮明な冬」が紹介されている。そこには日米開戦の時の高揚した気持ちと当時の一国民としての使命感が高らかにうたわれている。高村は、その後も勇ましい戦争賛美、戦意高揚の詩をいくつも書いた。しかし、遊就館の映画は、その後の高村については一切触れない。
彼は終戦後、己の責任と真摯に向かい合いながら、岩手の山小屋で独居生活を送った。そして、戦前戦中の「おのれの暗愚」を見つめた「暗愚小伝」を書いた。それには全く目を向けずに、「暗愚」の時代の作品だけが高らかに取り上げられ、今なお戦争賛美に使われていることは、泉下の高村の本意ではあるまい。
 
こと光太郎に関しては、全くその通りです。
 
 
さて、折しも衆議院選挙が近づいています。どうも原発の問題、人権の問題など、今ひとつ争点になっていないような気がします。真にこの国を愛するのであれば、外せない問題だと思うのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月10日
 
昭和41年(1966)の今日、春秋社から『高村光太郎選集』全6巻・別巻1の刊行が開始されました。
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編年体によるもので、第一回配本は「一八九七 ― 一九一二年 明治三〇 ― 四五年」。筑摩書房の『高村光太郎全集』が編年体ではなく、第一巻から第三巻が「詩」、第四巻から第八巻が「評論」、第九・十巻が「随筆」といった形ですので、また違った読み取り方が出来るものです。「別巻」は「造型」の巻で、これがものすごく重宝しています。
 
編者は故・吉本隆明氏、北川太一先生。野球で言えば王・長嶋、プロレスで言えば馬場・猪木(笑)。最強黄金タッグです。
 
各巻に吉本氏の「解題」が掲載されています。一昨日昨日とご紹介した晶文社さんから現在刊行中の『吉本隆明全集』全38巻・別巻1にも、やがて収録されるのではないかと思われます。
 
右の画像は昭和56年(1981)の増訂版です。

昨日、晶文社さんから刊行中の『吉本隆明全集』全38巻+別巻1のうち、評論「高村光太郎」が掲載予定の第5巻をご紹介しました。
 
その記事を書くために調べていたところ、既刊の第7巻(第2回配本)と第4巻(第3回配本)にも光太郎がらみの文章が載っていることに気づきましたので、ご紹介します。 
2014年6月24日 晶文社 定価6300円+税無題
 
【目次】
Ⅰ丸山真男論
1 序論/2 「日本政治思想史研究」/3 総論

社会主義リアリズム/戦後文学の転換/日本のナショナリズムについて/近代精神の詩的展開/戦後文学の現実性/情況に対する問い/情況における詩/“終焉”以後/詩的乾こう(ママ)/“対偶”的原理について/反安保闘争の悪煽動について/戦後文学論の思想/「政治と文学」なんてものはない/非行としての戦争/模写と鏡/「政治文学」への挽歌/いま文学に何が必要かⅠ/戦後思想の価値転換とは何か/性についての断章/いま文学に何が必要かⅡ/「近代文学」派の問題/いま文学に何が必要かⅢ

日本のナショナリズム/過去についての自註

死者の埋められた砦/佃渡しで/沈黙のための言葉/信頼/われわれはいま――

詩のなかの女/江藤淳『小林秀雄』/斎藤茂吉/本多秋五/埴谷雄高の軌跡と夢想/埴谷雄高氏への公開状/埴谷雄高『垂鉛と弾機』/渋澤龍彦『神聖受胎』/清岡卓行論/啄木詩について/折口学と柳田学/「東方の門」私感/ルソオ『懺悔録』/高村光太郎鑑賞/中野重治/壺井繁治/金子光晴/倉橋顕吉論/無方法の方法/本多秋五『戦時戦後の先行者たち』/『花田清輝著作集Ⅱ』

「思想の科学」のプラスとマイナス/『ナショナリズム』編集・解説関連/宍戸恭一『現代史の視点』/中村卓美『最初の機械屋』/「言語にとって美とはなにか」連載第三回註記/『擬制の終焉』あとがき/『吉本隆明詩集(思潮社版)』註記/「丸山真男論」連載最終回附記/『丸山真男論(増補改稿版)』後註/『模写と鏡』あとがき/「試行」第3~12号後記/三たび直接購読者を求める/「報告」
解題〈間宮幹彦〉 
2014年10月9日 晶文社 定価6400円+税000
 
【目次】

固有時との対話/転位のための十篇

蹉跌の季節/昏い冬/ぼくが罪を忘れないうちに/涙が涸れる/控訴/破滅的な時代へ与へる歌/少年期/きみの影を救うために/異数の世界へおりてゆく/挽歌――服部達を惜しむ――/少女/悲歌/反祈禱歌/戦いの手記/明日になつたら/日没/崩壊と再生/贋アヴアンギヤルド/恋唄/恋唄/二月革命/首都へ/恋唄

アラゴンへの一視点/現代への発言 詩/労働組合運動の初歩的な段階から/日本の現代詩史論をどうかくか/マチウ書試論――反逆の倫理――
/蕪村詩のイデオロギイ/前世代の詩人たち――壺井・岡本の評価について――/一九五五年詩壇 小雑言集/「民主主義文学」批判――二段階転向論――/不毛な論争/戦後詩人論/挫折することなく成長を/文学者の戦争責任/民主主義文学者の謬見/現代詩の問題/現代詩批評の問/現代詩の発展のために/鮎川信夫論/「出さずにしまつた手紙一束」のこと/昭和17年から19年のこと/日本の詩と外国の詩/前衛的な問題/定型と非定型――岡井隆に応える――/番犬の尻尾――再び岡井隆に応える――/戦後文学は何処へ行ったか/芸術運動とはなにか/西行小論/短歌命数論/日本近代詩の源流

ルカーチ『実存主義かマルクス主義か』/善意と現実/新風への道/関根弘『狼がきた』/『浜田知章詩集』/三谷晃一詩集『蝶の記憶』/奥野健男『太宰治論』/谷川雁詩集『天山』/服部達『われらにとって美は存在するか』/島尾敏雄『夢の中での日常』 井上光晴『書かれざる一章』/平野謙『政治と文学の間』/野間宏『地の翼』上巻/山田清三郎『転向記』/埴谷雄高『鞭と独楽』『濠渠と風車』/堀田善衛『記念碑』『奇妙な青春』批判/中村光夫『自分で考える』/『大菩薩峠』/『純愛物語』

戦後のアヴァンギャルド芸術をどう考えるか/〈現代詩の情況〉[断片]/北村透谷小論[断片Ⅰ]/北村透谷小論[断片Ⅱ]/一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題
解題〈間宮幹彦〉
 
 
今回の晶文社さんの全集は、編年体による編集であるため、複数巻にまたがって光太郎論が掲載されることとなります。上記目次のうち、色つきにしたものが、光太郎に詳しく言及している評論です。他にも短く光太郎を扱っている評論も含まれているかも知れませんが、わかりかねます。申し訳ありません。
 
さて、話は変わりますが、NHK Eテレ(旧教育テレビ)さんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか」で、来月、吉本が取り上げられます。今年度は「知の巨人たち」というサブタイトルで、前半4本が7月に放映され、後半4本を来月放送予定だそうです。まだ詳細な情報が出ていないのですが、後半4本の中に吉本が入ります。
 
ちなみに7月に放映された前半4本では湯川秀樹とその共同研究者・武谷三男、鶴見俊輔、丸山眞男、司馬遼太郎が取り上げられました。そして吉本他3名(誰になるか、まだ情報を得ていません)が後半のラインナップです。先月には吉本の盟友で、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のところに取材が入ったそうです。詳細が判明しましたら、またご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月9日
 
明治39年(1906)の今日、東京市本所区須崎町(現・墨田区向島5丁目)に、光雲が原型制作主任を務めた西村勝三銅像が除幕されました。
 
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西村は明治期の実業家。像は西郷隆盛像や楠正成像同様、東京美術学校としての制作でした。残念ながら戦時中の金属供出により、現存しません。

近刊です。  
2014年12月16日刊行予定 晶文社 定価6400円+税
 
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長く深い時間の射程で考えつづけた思想家の全貌と軌跡がここにある。
第5巻には、最初の単行本である代表的作家論『高村光太郎』と、初期の重要な評論「芸術的抵抗と挫折」「転向論」、および花田・吉本論争の諸篇を収録する。そのほか、新たに1篇の単行本未収録原稿を収める。
月報は、北川太一氏・・ハルノ宵子氏が執筆!
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【目次】

高村光太郎/『道程』前期/『道程』論/『智恵子抄』論/詩の註解/戦争期/敗戦期/戦後期/年譜/参考文献目録

「戦旗」派の理論的動向/文学の上部構造性/宗祇論/抵抗詩/くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する――加藤周一に――/三種の詩器/「四季」派の本質――三好達治を中心に――/芸術的抵抗と挫折/街のなかの近代/情勢論/今月の作品から/芥川龍之介の死/転向論/中野重治「歌のわかれ」

死の国の世代へ――闘争開始宣言――

不許芸人入山門――花田清輝老への買いコトバ――/「乞食論語」執筆をお奨めする/アクシスの問題/芸術大衆化論の否定/近代批評の展開/天皇制をどうみるか/橋川文三への返信/高村光太郎の世界/戦争中の現代詩――ある典型たち――/詩人の戦争責任論――文献的な類型化――/異端と正系/十四年目の八月十五日/現代詩のむつかしさ/海老すきと小魚すき/転向ファシストの詭弁

内的な屈折のはらむ意味――『井之川巨・浅田石二・城戸昇 詩集』――/堀田善衞『乱世の文学者』/阿部知二他編『講座現代芸術Ⅲ芸術を担う人々』/草野心平編『宮沢賢治研究』/戦後学生像の根――戦中・戦後の手記を読んで――/江藤淳『作家は行動する』/武田泰淳『貴族の階段』/久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』/阿部知二『日月の窓』

『風前の灯』
『夜の牙』
『大菩薩峠』(完結篇)

飯塚書店版『高村光太郎』あとがき/『芸術的抵抗と挫折』あとがき/『抒情の論理』あとがき
解題〈間宮幹彦〉
 
 
一昨年亡くなった思想家・吉本隆明の全集です。晶文社さんが、今年3月から刊行を始め、全38巻・別巻1の予定で刊行中のものの、第4回配本です。
 
上記目次の通り、評論「高村光太郎」が収録されます。こちらは我々光太郎研究者にとってのバイブルに等しいものの一つです。吉本氏の盟友・北川太一先生の書かれた「死なない吉本」(『春秋』539号 平成24年=2012 5月)から、この評論についての部分を抜粋させていただきます。
 
工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に『高村光太郎』を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書きを取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
 
それをふまえ、単行書『高村光太郎』。
 
吉本によって高村光太郎についてのこの国で最初の単行書が鶴岡政男の装丁で飯塚書店から刊行されたのは、昭和三十二年七月のことであった。自らの青春と重ねて、戦争期の光太郎の二重性の意味をつきとめようとするところから始めたこの仕事は、五月書房(昭和三十三年 改稿版)、春秋社(昭和四十一年 決定版)と増補されつつ進化し続けた。
 
評論「高村光太郎」は、その他、勁草書房の『吉本隆明全著作集8』(昭和48年=1973 絶版)、講談社文芸文庫『高村光太郎』(平成3年=1991)にも収められました。特に勁草書房版は、光太郎に関する他の小論、講演も収めており、便利です。ただし絶版です。
 
それが今回、また収録されるということですし、目次を見ると他にも光太郎がらみの評論が収められているようです。また、月報には北川先生の玉稿が載ります。ぜひお買い求めを。
 
明日も吉本関連で。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月8日
 
昭和20年(1945)の今日、日本共産党が神田共立講堂で「戦争犯罪人追及人民大会」を開催しました。
 
以下の決議文をGHQに提出しています。
 
日本の人民大衆をして彼の恐るべき強盗侵略戦争に駆り立てゝ惨虐極まる犠牲の血を流さしめたる犯罪人に対する厳重処罰は日本勤労民衆の総意が切に希望する所であり且又、吾が日本共産党がポツダム宣言の精神に立脚し不断に強調しつゝある所である。天皇制支配機構に於ける一切の指導的分子即ち天皇を始め重臣、軍閥、行政司法の官僚、財閥戦争協力地主、貴族院衆議院議員、反動団体のゴロツキ等が犯罪的侵略戦争の指導者、組織者であることは全く疑いなき事実である。今回梨本宮、平沼を始め五十九名に対する連合軍最高司令部の逮捕命令は戦争犯罪人の牙城に対する鉄鎚として全日本の人民大衆に深い感銘を与える所である。吾が党第四回全国大会は連合軍の今回の措置を全面的に支持すると共に今日尚日本の政治経済機構に深く巣喰つている多数の戦争犯罪人に対する厳正処断が日本の民主化のための根本前提として急速になされることを茲に熱望して止まないものである。
右決議す
 
同時に昭和天皇をはじめとする1,000名の「戦争犯罪人名簿」を発表、その中には光太郎の名も記されていました。
 
この時党員として糾弾する側に廻っていた詩人の壺井繁治などは、自身も戦時中にはこんな詩を書いていました。
 
   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!
 
先述の吉本隆明も、こうした壺井の変節には怒り心頭です。
 
もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である。
(『抒情の論理』 未来社 昭和34年=1959)

だからと言って、全詩作の約4分の1、実に200篇近くに及ぶ光太郎の戦争詩が許されるか、というとそうではありませんが……。

新刊です。
2014/11/01 株式会社花美術館発行 定価1200円+税
 
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目次(抄)000
 祈り―東日本大震災
 啄木、賢治の共通性 望月善次
   長男としての誕生―戸籍と誕生日の揺れ
   誕生時の恵まれた環境
   宗教の家
   盛岡中学校入学と挫折
   先進的教育教授と中途退職
   夭死
   国民的人気と国際的展開
   献身的支援者~肉親の証言から
 明治の青春 金田一秀穂
 生涯にわたる兄への敬愛と献身-宮澤清六 宮澤明裕
 啄木、賢治の異質性 望月善次
   文学的ジャンルの相違―「童話」VS「評論・日記」
   宗教への態度―遠ざかる(拡散)VS格闘(集中)
   結婚の有無―積極的VS消極的
   美術的側面―デザインVS絵画
   全集発行時期―死後8年VS死後1年
   学問と知識―文系人間VS理系人間
   運の在り方―文学的幸運VS経済的幸運
 『一握の砂』と『注文の多い料理店』その装丁 原田光
 郷愁のモニュメント 藤田観龍
 美術館紹介 石川啄木記念館/岩手県立美術館/宮澤賢治イーハトーブ館/宮澤賢治記念館
 
というわけで、岩手の生んだ二人の天才、石川啄木と宮澤賢治について、故郷岩手を軸にした53ページの特集です。特に賢治に関し、その世界を世に広める功績のあった光太郎の名が随所に現れます。
 
後半は「現代の短詩型文学-故郷と幻想の間」「現代作家-原風景への憧憬」「現代工芸-美の精粋」ということで、各分野の現代作家の皆さんの作品がたくさん。
 
その中で白井敬子さんという歌人の方の作品です。
 
光太郎・北斎・虚子・百閒忌花の四月に皆連れ立ちて
 
4月2日、光太郎忌日連翹忌を題材になさって下さいました。ちなみに葛飾北斎の北斎忌は18日、高浜虚子の虚子忌(椿寿忌)は8日、内田百閒の百閒忌は20日。短歌ではなく、俳句としては季語にもなり、歳時記に載っているようです。
 
さて、『花美術館』、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月7日
 
平成20年(2008)の今日、愛知県一宮市尾西歴史民俗資料館で開催されていた、「特別展 花子とロダン―知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い―」が閉幕しました。
 
花子といっても、今年度上半期のNHKさんの001朝ドラ「花子とアン」の村岡花子ではなく、明治期の日本人女優、花子です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、その舞台を見たロダンの強い要望で、彫刻作品のモデルを務めました。
 
大正10年(1921)には帰国、その際、自身をモデルにしたロダン彫刻2点を持って帰りました。それらは一時、東京美術学校に寄託され、光太郎の目にとまりました。昭和2年(1927)にアルスから評伝『ロダン』を出版する取材の一環として、光太郎は花子を岐阜の実家に訪ねています。
 
同展ではその後送られた光太郎からの書簡も展示されました。
 
 
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音楽CDの新譜です。
ジョヴァンニ・レコード 2014/12/01発売 定価2,700円+税
 
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今年8月30日に、紀尾井ホールで行われた同名のコンサートのライヴ録音です。三好真亜沙さん作曲、女声アンサンブルjuri さん演奏の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」が含まれています。
 
混声合唱とピアノのための「平行世界、飛行ねこの沈黙」   作詩:宮岡絵美 作曲:増井哲太郎
 1 風
 2 うたひ手
 3 今日わたしは星をかった
 4 平行世界、飛行ねこの沈黙
指揮:雨森文也  ピアノ:平林知子 合唱:CANTUS ANIMAE
 
男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」  作詩:水無田気流 作曲:田中達也
 1 午前四時の自動販売機 
 2 名前 
 3 シーラカンス日和
 4 烏唄 
 5 音速平和
指揮:伊東恵司  ピアノ:水戸見弥子  合唱:なにわコラリアーズ
 
女声合唱とピアノのための「冬が来た」   作詩:高村光太郎 作曲:三好真亜沙
 1 冬が来る
 2 冬が来た
 3 孤独が何で珍しい
 4 冬の奴
指揮:藤井宏樹  ピアノ:五味貴秋  合唱:女声アンサンブルJuri 

 
混声合唱とピアノのための「いのち」  作詩:工藤直子 作曲:名田綾子
 1 花マルで 待つ
 2 深呼吸
 3 さようならこんにちは
 4 祝日 
 5 いのち
 6 もしも
指揮:清水敬一  ピアノ:小田裕之  合唱:松原混声合唱団
 
無伴奏混声合唱のための「花は咲く」  作詩:岩井俊二 作曲:菅野よう子 編曲:北川 昇  
指揮:清水敬一  合唱:Premiere Choir (参加者全員による合同合唱団)
 
 
それぞれ、一流の合唱団による好演です。ぜひお買い求めを。
 
また、楽譜も出版されていますので、全国の合唱団の皆さん、演奏会やコンクールなどでどんどん取り上げて下さい。特に「女声合唱とピアノのための「冬が来た」 」を扱っていただければ、このブログにてご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月6日
 
明治25年(1892)の今日、光太郎の父、光雲に対し、「西郷隆盛像木型制作に従事し格別勉励につき」ということで、慰労金45円が下賜されました。

一昨日、六本木東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんにて、企画写真展 「土門拳 二つの視点」第二部「風貌」を観たあと、目黒区駒場東大前の日本近代文学館さんに行きました。
 
閲覧室での調べ物が主でしたが、調べ物終了後、複写をお願いしている間に、2階の展示ホールで行われている以下の展示も観て参りました。 

近代文学の名作・大正

期 日 : 2014年11月29日(土)~2015年3月28日(土)
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
料 金 : 一般 100円 団体割引はありません
休館日  
: 日・月曜 年末年始(12/26~1/5) 第4木曜(1/22、2/26、3/26)
       特別整理期間(2/17~21)

 
日本近代文学館では春・秋2回の特別展の他に、主に複製資料から構成し、日本近代文学の代表的な作家や作品を通史的に紹介する通常展を年2回開催しています。
わが国の近代史上、元号「大正」はわずか15年の短い期間でしたが、明治維新以降に始まった急速な西欧化が実を結び、一挙に花開いた時代でした。
大正期の文学は、夏目漱石や森鷗外ら明治作家の作風の完成期であるとともに、雑誌「白樺」を中心に個人主義・人格主義を基にした文学が展開された時期でもありました。さらに、大正デモクラシーや労働運動が起こり、その中でプロレタリア派・新感覚派など新しい文学が芽生えました。
通常展示「近代文学の名作・大正」は、この日本近代文学の発展期である大正時代の文学の諸相や代表的な作家たちの功績を、当館所蔵の複製原稿・書簡、書籍・雑誌等で紹介するものです。
主な出品資料
<原稿・草稿(すべて複製)>
夏目漱石「こゝろ」 森鷗外「北条霞亭」 谷崎潤一郎「痴人の愛」   
有島武郎「生れ出る悩み」 室生犀星「小景異情」 葛西善蔵「暗い部屋にて」   
広津和郎「志賀さんと私」 宇野浩二「苦の世界」 菊池寛「受難華」   
芥川龍之介 「蜘蛛の糸」「侏儒の言葉」「歯車」
宮沢賢治「雨ニモマケズ」「セロ弾きのゴーシュ」
 
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残念なことに、光太郎個人の草稿や著書は展示されていませんでしたが、光太郎が寄稿していた『白樺』や、森鷗外、宮澤賢治、佐藤春夫など、光太郎関連の深い作家にまつわる品々が並んでいました。
 
ところで、日本近代文学館さんと同じ駒場公園内に、旧前田侯爵邸があります。一昨日は天気もよく、紅葉が実に見事でした。もう師走なのですが、まだまだ都内は紅葉が見られます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月5日
 
昭和17年(1942)の今日、NHKラジオで光太郎の詩「軍神につゞけ」「山道のをばさん」が朗読されました。
 
「軍神につゞけ」は午前7:00~の「愛国詩」という番組で、朗読は俳優の故・岩田直二。JOBK(大阪放送局)の制作でした。なお、この詩はのちに「みなもとに帰るもの」と改題され、詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収録されました。
 
「山道のをばさん」は午後9:00~の「詩の朗読」という番組で、JOAK(東京放送局)から和田放送員の朗読でオンエアされました。この詩は前月に日本文学報国会の事業で「日本の母」として顕彰された山梨県穂積村の井上くまを謳った詩です。
 
この時期、太平洋戦争開戦一周年が近づき、大本営や大政翼賛会は、光太郎らの戦争詩をプロパガンダとして国民の戦意昂揚に活用していました。

昨日は六本木に行って参りました。目的地は東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんです。
 
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以下の展覧会が開催中です。

「土門拳 二つの視点」 第二部「風貌」

開 期  2014年12月2日(火)~ 2015年2月2日(月) 007 (2)
時 間  10:00 ~ 19:00(入館は18:50 まで)
会 場  FUJIFILM SQUARE(フジフイルムスクエア) 写真歴史博物館
      港区赤坂9丁目7番3号東京ミッドタウン・ウェスト
入場料 無料
主  催 富士フイルム株式会社
協  力 土門拳記念館
 
第一部「こどもたち」が10月から開催されていましたが、今週から第二部「風貌」が始まりました。
 
土門撮影の、光太郎を含む26人の肖像写真が展示されています。
 
光太郎以外は以下の通り。
 
志賀直哉 谷崎潤一郎 幸田露伴 島崎藤村 永井荷風
小林秀雄 林芙美子 牧野富太郎 柳田国男 三島由紀夫
山田耕筰 志賀潔 九代目市川海老蔵 初代水谷八重子
十四世千宗室 滝沢修 濱田庄司 イサム・ノグチ 朝倉文夫
安田靫彦 小林古径 上村松園 安井曾太郎 藤田嗣治 
梅原龍三郎
 
これらは昭和28年(1953)にアルスから刊行された土門拳写真集『風貌』に収められた物だと思います。
 
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光太郎の写真は、昭和15年(1940)に駒込林町のアトリエで撮影されたもの。
 
昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも出品させていただきましたが、木彫の「鯉」(未完)を制作中の写真です。
 
ほとんど唯一、光太郎が木彫を制作している瞬間を撮影したもので、貴重なショットです。
 
この『風貌』には、光太郎が推薦文を寄せています。
 
 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
 
他にも光太郎は、前年の昭和27年(1952)に書いた「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛し、エールを送っています。
 
 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
 
ただし、この撮影が不可能となり、この文章もお蔵入りになってしまいました。
 
このように土門を高く評価していた光太郎ですが、自身が撮影されることは忌避する部分がありました。
 
 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
 
昭和27年(1952)の『岩手日報』に載った談話筆記「芸術についての断想」の一部です。これは『風貌』に載った「鯉」制作中の写真のことではなく、昭和26年(1951)の5月に、土門が花巻郊外太田村の山小屋に撮影に来た時のことを言っているようです。笑えますね。
 
さて、写真歴史博物館さんでの展示、来年2月まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月4日
 
昭和58年(1983)の今日、東京国立近代美術館の工芸館で開催されていた「モダニズムの工芸家たち―金工を中心にして」が閉幕しました。
 
光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった高村豊周の作品も8点、展示されました。図録の表紙も豊周の作品「挿花のための構成」(大正15年=1926)です。
 
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一昨日、新宿文化センターにて、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴して参りましたが、その後、同じ新宿区の神楽坂に寄ってから帰りました。
 
神楽坂というと、「一見さんお断り」の高級料亭、というイメージですが(笑)、そういう分野ではなく、ギャラリーです。以下の展覧会が催されています。

えがく展 7人の絵描きと10冊の本

会 期 : 2014年11月29日(土)~12月14日(日)
会 場 : ギャラリー「ondo kagurazaka」
       新宿区矢来町123 第一矢来ビル1階かもめブックス
時 間 : 月~土 10:00~22:00  日 11:00~20:00
 
11月29日(土)に開店をむかえる「かもめブックス」の中に開かれるギャラリー「ondo kagurazaka」。
そのこけら落とし展として開催される本展示は、大阪・東京から7名の作家が参加し、本の中に眠る美しい文章からインスピレーションを受け、絵で表現します。
テーマとなった文章は「石川啄木・宮城道雄・夏目漱石・高村光太郎・島崎藤村・夢野久作・上村松園・種田山頭火・田山花袋・太宰治」の本から選びました。
 
参加作家
 東京より……松園量介・竹谷満・日笠隼人
 大阪より……wassa・三尾あすか あづち・山内庸資
 
12月6日(土)、7日(日)の2日間、参加作家によるライブペイントや似顔絵など、かもめブックス店内でアートイベントを開催します。
 
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というわけで、行って参りました。
 
東京メトロ東西線神楽坂駅2番出口(矢来口)を出て、左折。かもめブックスさんという書店兼カフェがあり、その奥がギャラリー「ondo kagurazaka」さんです。「一見さんお断り」の高級料亭ではありませんが、実におしゃれです。さすが神楽坂。
 
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先週、麻布十番で観てきた「装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~」は、「装幀」として描かれ、本の選択も各作家さんにまかされていましたが、こちらはブックデザインというわけではなく、それぞれの本からのインスパイアというか、オマージュというか、そういったイラストでした。本の選択はギャラリーさんの指定だそうで、10冊の本に対し、7人のイラストレーターの皆さん(20~30代の若手)が1枚ずつ出品しています。即売も行っています。
 
光太郎に関しては、『智恵子抄』。さらにその中に収められている詩「あなたはだんだんきれいになる」がお題でした。
 
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会場内にはお題に出された書籍も並んでいました。
 
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『智恵子抄』を選んでいただいて、ありがたい限りです。
 
日曜を除き、夜10時までオープンしています。一つのフロアに書店とカフェとギャラリーが同居していて、珈琲でも飲もうかと思ったのですが、帰りの高速バスの時間の関係で、ゆっくりできなかったのが残念でした。ぜひ足をお運びいただき、当方の代わりにゆっくり珈琲でもご堪能下さい(笑)。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月3日001
 
昭和12年(1937)の今日、山形の銀行家・長谷川吉三郎にはがきを書きました。
 
文面は以下の通りです。
 
拝復 昨日見事な林檎たくさんいただきありがたく存じ上げました。今日おてがミ及書留小包にて軸其他たしかに落手、先日の色紙が立派に表装せられたのに驚きました、 おてがミの趣は承知いたしました、不日お手許に御返送申上る心組で居ります、 とりあへず御返事まで 艸々
 
「色紙」は、この少し前に丑年生まれの長谷川の依頼でかいた右の画像のものです。それを長谷川が表具屋さんに軸装してもらい、さらに光太郎に箱書きを依頼した、その返答が上記の葉書です。
 
ちなみに長谷川は牛の彫刻も光太郎に依頼しましたが、光太郎、そちらは断っています。翌年に歿する智恵子がゼームス坂病院に入院中で、創作意欲を欠いている部分があったようです。
 
牛の色紙軸装は「長谷川コレクション」の代表作の一つとして、山形美術館に現存し、時折、他館の企画展に貸し出しています。

昨日は新宿方面に行って参りました。
 
用件は二つありましたが、まずは新宿文化センター小ホールで開かれた、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴。
 
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講師は大原美術館館長にして美術史家の高階秀爾氏でした。
 
スクリーンを使って画像を大きく提示しつつ、碌山荻原守衛をはじめ、新宿中村屋に集った芸術家たちのプロフィール、作品、美術史的位置づけなどを非常に分かりやすくお話下さいました。
 
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光太郎については、明治43年(1910)に書かれた評論「緑色の太陽」を軸に、同時代の美術家に与えた影響の大きさを語られました。
 
「緑色の太陽」は、日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。
 
その他、柳敬助、戸張孤雁、斎藤与里、中村彝、鶴田吾郎らについて詳述。特に中村彝の画風に見られるルノワールの影響などのお話は、非常に興味深いものでした。
 
また、中村屋サロン美術館さんからのお知らせもありました。現在開催されている開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」は来年2月までですが、その後、サロンを形成した作家一人一人を取り上げていくとのこと。
 
次回企画展は柳敬助を中心にするそうです。柳といえば、やはり光太郎と親しく、また、妻の八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。光太郎と智恵子が知り合うきっかけを作った一人です。これも観に行かなければ、と思いました。
 
いずれ光太郎も単独で扱っていただきたいものです。
 
さて、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた」。まだ御覧になっていない方は、ぜひ足をお運びください。光太郎の油絵「自画像」、ブロンズの「手」「裸婦坐像」が展示されています。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月2日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、開校記念日の学芸会が行われ、光太郎が寄贈した式場用幔幕が披露されました。
 
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光太郎がデザイン案を出した校章が大きく染められています。この日の児童向け光太郎講話から。
 
 幕に染めた『校章』のことですが、『校章』は学校の印で、帽章としても使われますが、山口の学校の『校章』を、さて何にしようと考えて、結局、栗を採り入れることにしました。
 栗はここの名産です。栗の実は食べるとおいしい。栗はおいしいものの代名詞で、うまいものを栗のようだというくらいです。木は硬くて長持ちします。それに、玉の中央から上に伸びているのは雌しべで、これから大きくなるという意味です。実はふっくらと丸いのがいいのです。
 栗のことを思つていたら、、みなさんの顔も栗の実のようにつやつやして見えます。
 そういうわけで、これを採り入れたのです。
(浅沼政規著『山口と高村光太郎先生』平成7年(1995)㈶高村記念会より)

福島は二本松で智恵子顕彰活動をされている智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷氏から、パリ研修のレポートをいただきました。
 
10月27日から11月3日までの行程で、「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」と銘打ち、光太郎が住んでいたアパルトマン兼アトリエ、光太郎が訪れた場所、光太郎と関係の深い人物ゆかりの場所などを廻られたそうです。
 
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こちらは光太郎が暮らしていた建物。
 
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Boulevard de Raspail (ラスパイユ大通り)とRue Campagne-Premièr(カンパーニュ・プルミエール通り)の交わるあたりです。
 
光太郎が暮らしていた明治41年(1908)から42年(1909)頃、同じ建物の階上にはリルケが住み、ロダンもここを訪れていました。また、近くにはロマン・ロランも住み、「ジャン・クリストフ」を書いていたとのこと。
 
光太郎はアトリエに近いアカデミーグランショミエール(L'académie de la Grande Chaumière)に籍を置き、クロッキーを学びましたが、もっぱら見物に歩き回っていたといいます。
 
数年前に、光太郎帰国後の明治45年(1912)に雑誌『旅行』に載せた「曽遊紀念帖」という文章を見つけました。
 
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これを読むと、パリで何をやってたんだ? と突っ込みたくなりますが、こうした雰囲気のパリと、伝統と格式に縛られた日本のあまりの差異に打ちのめされ、かえって何もできないでいたのです。
 
いずれ当方もゆっくりとパリでの光太郎の足跡を追ってみたいと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月1日
 
平成19年(2007)の今日、テレビ東京系「美の巨人たち」で、「高村光太郎 彫刻 手」が放映されました。
 
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メインは大正期のブロンズ「手」でしたが、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の手にも触れました。
 
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