2014年09月

光太郎の父、光雲に関し、先日ご紹介した内容の追補です。
 
まず、今月初めにご紹介した「シンワアートオークション 近代美術」が27日の土曜日に開催されました。光雲作の木彫「大黒天」が出品され、落札価格は¥7,400,000とのこと。
 
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7月にあった同じシンワさんのオークションでは、やはり光雲作の木彫聖観音像が1000万超での落札でしたので、それよりは安いものの、やはり凄い金額ですね。
 
 
続いて、先週ご紹介した静岡の可睡斎という寺院に関するニュース。先週は『静岡新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『産経新聞』さんの静岡版でも報じられました。  

日清交友の歴史、「活人剣碑」再建へ 静岡・袋井の有志が寄付募る

 日清戦争当時の清国全権大使・李鴻章(り・こうしょう)と陸軍軍医総監・佐藤進の絆を現代に伝える、寺院「可睡斎」(袋井市久能)の「活人剣碑」。現在は台座のみが残されているが、地元の有志により再建が計画されている。来年9月までに寄付を募って完成を目指す方針で、関係者らは「日清両国の交友の歴史を知ってもらうことで、現代の日中友好にも役立つのでは」と期待している。
                    ◇
 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。
 
  碑には高村光雲が製作した長さ約4メートルの軍刀が安置されていたが、金属製であったため太平洋戦争の際に供出された。現在は台座のみが残されており、碑の前で足を止める人はまばら。可睡斎の僧侶、吉井敬晴(けいせい)さん(49)も「碑にまつわる言い伝えはあったが、その価値があまり知られていなかった」と振り返る。
 
  再建のきっかけとなったのは、地域の文化財を再発見する「袋井まちそだての会」の活動だ。数年前から活人剣碑の調査を進め、建立時と同じく寄付を募って再建することを決めた。同会事務局長の鈴木敬雄さん(67)は「戦争当時は日清両国で多くの戦没者が出たが、戦争の歴史の上に現在の平和があることを知ってほしい」と話した。
 
  剣の製作は金属工芸家で東京芸術大学学長の宮田亮平氏に依頼しており、碑の再建には総額3千万円ほどがかかる見込み。一口1千円から寄付を受け付けている。問い合わせは「活人剣碑」再建委員会(電)0538・42・2121。
 
当方、先週の『静岡新聞』さんの報道を読み、早速、当時の絵葉書をネットで購入しました。
 
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記事にもある通り、太平洋戦争中の金属供出で、もはや見ることができないものです。
 
かなり前のこのブログで書きましたが、同じく金属供出で失われた光雲、光太郎の彫刻がかなりありました。
 
光雲でいえば、明治39年(1906)、熊本の水前寺公園に建てられた長岡護全銅像。東京向島にあった西村勝三像(明治39年=1906)、秋田県仙北にあった坂本東嶽像(大正12年=1923)もそうです(西村像、坂本像についてはこちら)。
 
他にも制作された記録や写真はあるものの、現存しない光雲作の銅像のうち、金属供出のため無くなったものもあると思われます。
 
光太郎でいうと、岐阜にあった浅見与一右衛門銅像(大正7年=1918)、宮城にあった青沼彦治像(大正14年=1925)。これらはいずれも光雲の代作です。また、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた赤星朝暉胸像(昭和10年=1935)は、完全に光太郎のクレジットでした。
 
こういう愚かな歴史は繰り返してはいけませんね。
 
ところが、同じ銅製の彫刻でも、光雲作の仏像の類は、いまだに主に東京の多くの寺院に残っているのです。いずれ暇をみつけて見て歩こうと思っています。やはり仏像を供出したり鋳つぶしたりということには抵抗があったのでしょうか、狂気の戦争の時代にも、良心が見て取れます。しかし、仏像ではなく梵鐘はかなり金属供出の対象になったという話を聞きます。銚子にある当方の親戚の寺院でもそうでした。
 
ところで、銅像の類はなかなか文化財002指定が成されていないのが現状です。そろそろ設置場所の各自治体で、そのあたりを考慮してほしいものですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月30日
 
昭和31年(1956)の今日、角川文庫の一冊として「高村光太郎詩集」が刊行されました。
 
編集は草野心平です。
 
同じ角川文庫のラインナップに『道程 復元版』が既にあったため、こちらは『道程』以後の詩作品を収録しています。

二本松からイベント情報です。

みんなで語る「智恵子抄」しゃべり場

と  き 10月13日(月・祝) 午後2時開会  1時半会場
ところ 二本松市民交流センター2F 大会議室
参加費  無料(要予約)
プログラム(ズバリホンネで語る「智恵子抄」フリートークライブ!)
 第一部 私の中の智恵子抄   智恵子と光太郎への想いを語る
 第二部 智恵子と二本松 生誕の地二本松のこれからを語る
参加予定者 二本松市長、二本松市教育長、智恵子の里レモン会長、あだち観光協会長、
      二本松観光協会長、市文化団体連合会長、市婦人団体連合会長、
      二本松未来創造ネットワーク代表、二本松青年会議所代表、安達中生徒代表、
      智恵子のまち夢くらぶ会員・会友、一般参加の申込者
定員  60名(以前の案内より増えています)
申し込み/問い合わせ 熊谷さん 0243-23-6743
 
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主催は「智恵子のまち夢くらぶ」さん。
 
二本松には智恵子の生家、併設の智恵子記念館、その一帯の智恵子の杜公園などがありますし、いろいろなイベントや、学校教育の場でも光太郎智恵子を取り上げて下さっています。しかし、原発事故による観光客の減少、いわれなき風評被害など、深刻な仮題も。そこで、地域としての取り組みのあり方を、公開の場で論じるようです。
 
地域外の方々の御意見というのも、貴重なものです。実際、二本松に足を運ばれて、「ここがこうだともっとよかった」とか、「私たちの地域ではこんなことをやっている」など。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月29日002
 
平成6年(1994)の今日、文治堂書店から刊行されていた『髙村豊周文集』全5巻が完結しました。
 
豊周は光太郎の弟にして、鋳金の人間国宝。家督相続を放棄した光太郎に代わって、高村家を守り続けました。
 
その豊周が雑誌等に発表した文筆作品の集成です。随所で光太郎智恵子に触れるほか、日本工芸史の貴重な記録でもあります。
 
「髙村豊周文集刊行会」の編。先頃亡くなられた子息の規氏の名が代表になっています。
 

近々放映されるテレビ番組の情報です。

10min.ボックス(現代文)「道程(高村光太郎)」

NHKEテレ 2014年10月2日(木)25時20分~25時30分=10月3日(金)午前1時20分~1時30分

『道程』は、1914年、大正時代に書かれた詩です。それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。この詩の作者は高村光太郎。詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍しました。
 
この回は、朗読にこだわる。同じ作品でも、解釈の違いが朗読にあらわれる。様々な人にこの詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらう。
 
出演 加賀美幸子
 
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繰り返し何度も放映されています。ネットで見ることもできてしまいます。
  

日曜美術館「アートの海に飛び込め ヨコハマトリエンナーレ2014」

NHKEテレ 2014年10月5日(日)  9時00分~9時45分 
再放送 2014年10月12日(日)  20時00分~20時45分
 
海外からも多くのアーティストが参加する現代アートの祭典「ヨコハマトリエンナーレ」。美術家・森村泰昌が中高生と会場を巡る。アートとの出会いが生む驚きと発見の冒険。
 
3年に1度、横浜を舞台に開かれる現代アートの祭典「ヨコハマトリエンナーレ」。今回、美術家の森村泰昌がアーティスティック・ディレクターを務め、「忘却」をテーマに、海外からも多くの作品を集めた。その会場で、森村と中高生がアートを巡る冒険を繰り広げる。時に難解といわれる現代アートの世界、しかし一歩踏み出して飛び込んでみれば、驚きと発見が待っている。最先端のアートを紹介しながら、冒険の様子をドキュメント。
 
出演 森村泰昌 井浦新 伊東敏恵
 
 
横浜美術館さんで開催中の「ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」が取り上げられます。同展には、「大谷芳久コレクション」というコーナーがあり、光太郎の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)を含む、戦時下の文芸書、17点が展示されています。そこにふれるかどうかわかりませんが、とりあえず紹介しておきます。
 
 
実はBS日テレさんで先日放映された「ぶらぶら美術・博物館」という番組でも、「ヨコハマトリエンナーレ2014」が取り上げられましたが、「大谷芳久コレクション」は紹介されませんでした。
 
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月28日
 
昭和25年(1950)の今日、詩文集『智恵子抄その後』初版の稿料として30,000円を受けとりました。
 
この年の日記は現存が確認無題できておらず、書簡等の発受を記録した「通信事務」というノートの記述に依りました。
 
澤田伊四郎氏より三〇、〇〇〇円小切手(「智恵子抄その後」初版の礼として寸志) 同氏より校正刷 同氏より川根茶
 
版元の龍星閣は明確な印税制をとらず、その都度払いでした。
 
『智恵子抄その後』はこの年1月の雑誌『新女苑』に発表された同名の連作詩、「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」の六篇を根幹に、他の智恵子に関する詩文、山小屋生活に関する詩文を集めて編まれ、この年11月に刊行されました。

光太郎の父にして、重要文化財の「老猿」、上野の西郷隆盛像などの作者、高村光雲に関わる報道がありましたので、ご紹介します。 

近代彫刻家、米原雲海の作品一堂に 安来で展示会開幕

 日本を代表する、島根県安来市出身の近代彫刻家、米原雲海(1869~1925年)の作品を一堂に集めた展示会が18日、同市安来町の和鋼博物館で開幕した。日本の木彫に新風を吹き込んだ作家の代表作が、来館者を魅了している。10月20日まで。002

 雲海は1890年、安来を離れて上京し、巨匠高村光雲の門下で、目覚ましい上達を見せた。97年に種痘の創始者ジェンナー像を制作するに当たり、西洋彫刻の技法「比例コンパス」を初めて木彫に用いるなど、日本の木彫界に大きな足跡を残した。

 市内で雲海展が開かれるのは14年ぶり2度目で、10月に合併10周年を迎える市が記念事業として開催。東京芸術大学や県立美術館、長野県、茨城県の個人などから借り、前回の約2倍となる39点の雲海作品をそろえた。

 東京国立博物館の前庭に立つジェンナー銅像の原型となる等身大木像をはじめ、親交のあった日本画家・橋本雅邦の像や、竹取物語の登場人物を表現した「竹取翁」など代表作がずらりと並んでいる。

 雲海展に合わせて市は、同市広瀬町布部の加納美術館で高村光雲や兄弟弟子の作品を展示。同市安来町の観光交流プラザでは地元出身の現代彫刻家の作品展も開いている。いずれも10月20日まで。

(『山陰中央新報』 2014/9/18)
 
過日ご紹介した「新安来市発足10周年記念事業 「米原雲海とその系譜展」に関する地元での報道です。
 
 
もう一つ、別件です。 

日清戦争当時の逸話の証し「活人剣碑」再建へ 袋井・可睡斎

 日清戦争当時の中国全権大使李鴻章と日本陸軍軍医総監の佐藤進のエピソードを基に可睡斎(袋井市久能)に建てられ、現在は台座のみ残っている「活人剣碑」の再建計画が26日、同市役所で発表された。市民団体などでつくる再建委員会が事業主体となって広く資金を募る。碑は東京芸術大学長で文化審議会会長の宮田亮平氏が制作する。来年9月に完成する予定。
 碑の由来は約120年前にさかのぼる。講和条約の交渉時、李は暴漢に狙撃され顔を負傷した。主治医の佐藤の治療によって回復した李は、帯刀姿の佐藤に「医事に剣は不要では」と尋ねた。佐藤は「人をあやめる剣ではなく、生(活)かすための活人剣だ」と即答し、李はいたく感動したという。
 当時の可睡斎の日置黙仙斎主がこの逸話を後世に伝え、日清両国の戦没者の霊を弔おうと碑の建立を発案した。剣の部分は高村光雲が制作し、1898年ごろ、高さ6メートルほどの碑が完成した。ところが、剣は金属製だったため太平洋戦争時に供出された。
 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。
 再建は現存する台座と別の位置を検討する。委員会は約3千万円の資金を募る。一口千円。問い合わせは可睡斎<電0538(42)2121>へ。
(『静岡新聞』 2014/9/27)
 
当方、寡聞にしてこうした碑があったことは存じませんでした。「可睡斎」は、寺院です。「日清両国の戦没者の霊を弔おうと」というのがいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月27日
 
明治32年(1899)の今日、東京美術学校校友会の補欠委員に推挙されました。
 
翌年には、俳句一句がこの校友会発行の雑誌『東京美術学校校友会雑誌』第2号に掲載されました。現在確認されている最初の活字になった光太郎文筆作品です。

二本松ネタを続けて書いていますので、新着情報ではありませんが、ついでに。
 
昨年刊行されていた雑誌なのですが、その存在を最近知りまして、先頃入手しました。 

『地図中心』 2013年12月号 特集  二本松~ほんとの空の下に~

2013/12/10 一般財団法人日本地図センター発行   定価457円+税 
 
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「地図を楽しむ月刊誌」というキャッチコピーで、現代の国土地理院発行の地形図や古地図などをもとに、日本全国を紹介している雑誌です。
 
で、昨年の12月号の特集が二本松でした。サブタイトルには光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語。
表紙には、二本松駅前にある橋本堅太郎氏作、智恵子の像「ほんとの空」。いくつかの記事で智恵子の生家、智恵子記念館、「あどけない話」を紹介しています。
 
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もちろん、それ以外の二本松名所の数々も紹介されていますし、東日本大震災についても触れられています。
 
インターネットでの申し込みで購入可能です。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月26日
 
平成10年(1998)の今日、台東区の朝倉彫塑館で、企画展「五人の彫塑家」が開幕しました。
 
「五人」は光太郎、荻原守衛、朝倉文夫、中原悌二郎、戸張孤雁です。

智恵子の故郷、福島は二本松からイベント情報です。

第60回 菊の祭典 二本松の菊人形

 催 : 一般財団法人二本松菊栄会
 間 : 2014年10月11日(土)~11月24日(月・祝)  午前9時~午後4時
 場 : 福島県立霞ヶ城公園(国指定史跡 二本松城跡 二本松I.C.から車で5分)
テーマ : 二本松築城600年「にほんまつヒストリア」
 金 : 一般大人 500円  障害者大人 300円  高校生以下無料

同時開催
◦ 福島県菊花品評大会  ◦ 二本松菊花品評大会  ◦ 二本松観光物産展  ◦ 霞ヶ城公園紅葉まつり
 
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ここ数年、「八重の桜」や「平清盛」といったNHK大河ドラマがらみで行っていましたが、今年のテーマは「二本松築城600年「にほんまつヒストリア」」だそうで、地元にゆかりある人物や歴史に焦点を当てた内容にすることが、早くから報じられています
 
このまま大河ドラマがらみでやっていくと、今年は黒田官兵衛なので問題ありませんが、来年には仇敵の長州藩となってしまいます。突然変更するのもわざとらしいので、今回からの改変は時宜を得ていますね。
 
地元にゆかりある人物、ということで、伊達政宗や丹羽長秀、二本松少年隊や安達ヶ原の鬼女にまじって、光太郎智恵子の人形も出ます。題して「あどけない話 詩人高村光太郎と智恵子 結婚100周年」。光太郎智恵子を扱うのは初めてではありませんが、久しぶりだと思います。ありがたいかぎりです。
 
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リーフレットは、当方、東京八重洲にある県のアンテナショップ・福島県八重洲観光交流館でいただいてきました。
 
昨年は八重効果で来場者数が増加したそうですが、今年は期間も1週間延長されましたし、さらに多くのみなさんにいらしてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月25日
 
昭和63年(1988)の今日、雑誌『彷書月刊』が「特集 高村智恵子」を組みました。
 
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同誌は彷徨社、のち弘隆社から刊行されていた古書情報誌です。題字は北川太一先生です。
 
「特集 高村智恵子」は計22ページ。豪華な執筆陣です。以下、敬称略でラインナップを。
 
北川太一 尾崎実子 岡村康彦 黒澤亜里子 山本有紀乃 疋田寛吉 杉本優 加藤剛 岩下志麻 駒尺喜美 黛節子

このブログでたびたびご紹介している、兵庫県人権啓発協会さん企画、東映さん制作の40分程のドラマで「ほんとの空」。福島の原発事故による風評被害、いわれなき差別を扱っています。そこでタイトルに光太郎詩「あどけない話」から「ほんとの空」の語を採っています。白石美帆さん他のご出演です。
 
各地の自治体が中心となり、上映が繰り返されています。この20日には、滋賀県の守山市で開催された「じんけんフェスタしが2014」で上映されました。今後も全国で上映されますのでご紹介します。 

町別啓発学習会 テーマ ~あなたの思いをわたしのものに~

2014/9/27 午後7時~
内野公民館曲淵分館  福岡県福岡市早良区大字曲渕700-1
講師 早良区生涯学習推進課 人権教育推進 木村哲也氏
 

本庄市人権教育研修会

2014/10/01(水)13:30~15:20 河内生活改善センター 埼玉県本庄市児玉町河内670-10
10/08(水)  〃        児玉文化会館(セルディ)   〃     金屋728-2
10/15(水)  〃        共和公民館        〃     蛭川915-5

地区別人権学習会

2014/10/27(月) 午後2時~3時45分 豊受公民館   群馬県伊勢崎市馬見塚町1296
2014/10/28(火)     〃     茂呂公民館     〃    美茂呂町3032-7
2014/10/29(水)     〃     赤堀公民館     〃    西久保町2-81 
2014/11/06(木)     〃     南公民館      〃    上泉町619-1
2014/11/07(金)     〃     境剛志公民館    〃    境下武士862-3
2014/11/17(月)     〃     北公民館      〃    平和町27-32
 
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福島の現状、震災から3年半が経過しても、やはり厳しいものがあります。光太郎の「道程」が引用されているということで、先日、NHKEテレで放映されたETV特集「それでも道はできる~福島・南相馬 コメ農家の挑戦~」を拝見しました。
 
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震災当初の放射能汚染、さらには、昨年の夏に実施した福島第一原発での大規模ながれき撤去で飛散した放射性物質が、約20㎞離れた南相馬市の水田の米を汚染した可能性が高い、それを国や東電は地元に説明せず、今年に入ってようやく報道された、などという話も紹介されました。それでも自分たちの生まれ育ったふるさとで、米作りに取り組み続ける人々の姿が描かれていました。
 
プラス、風評被害まであったものではたまりません。そうした風潮を戒める人権啓発のための作品「ほんとの空」上映です。
 
こうした取り組みが全国的にもっともっと広まってほしいものですし、「ほんとの空」、テレビでの全国放映もしていただきたいものです。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月24日002
 
昭和9年(1931)の今日、JOBKから朗読番組「文化ラヂオ・プログラム」第五回「高村光太郎詩集より」が放送されました。
 
詩は「沙漠」「牛」他六篇。朗読は声楽家の照井栄三でした。この頃から、光太郎の詩がラジオでたびたび取り上げられるように成っていきます。照井の他に丸山定夫、映画「智恵子抄」で光太郎役だった山村聰などが朗読を担当しています。

照井は「瓔三」の名でも活動していました。

 
 

昨日、二本松に行って参りました。目的地は智恵子の母校・二本松市立油井小学校。そちらで『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を出版された坂本富江さんが、ゲストティーチャーとして授業をなさるということで、おうかがいしました。
 
ほんとうは一昨日に二本松入りし、第6回 智恵子純愛通り記念碑建立祭とプレミアム「音楽で紡ぐ純愛コンサート」を聴いて、さらに昨日の特別授業に行ければよかったのですが、一昨日は夜に自分の音楽活動があり、失礼しました。昨日も夕方から他用があり、とんぼ返りでした。
 
さて、油井小学校。周辺は黄金の稲穂状態でした。その上には智恵子の愛した「ほんとの空」が広がっています。当方自宅兼事務所のある地域も米どころですが、ほとんどが早場米なので、8月末には刈り入れがなされており、福島ではまだ稲刈りしてないんだ、と新鮮でした。
 
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 敷地内には、智恵子が通っていた明治中頃からある木が三本あり、油井小学校のシンボルとなっています。ちなみに同校は明治6年(1873)の開校ですから、創立141年という、伝統ある学校です。
 
右上の画像がポプラの木。これがとにかく大きくて、一番目立ちます。一番上の画像で、田んぼの向こうに聳(そび)えているのもこれです。根本はこんな感じです。
 
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それから、やはり明治からあるしだれ桜。咲いたら凄いのでしょうね。
  
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9時半頃、小学校に着き、校長室へ。坂本さんはすでにいらしていました。地元で顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの熊谷代表もいらっしゃいました。さらに高村光太郎研究会員の西浦基氏が、はるばる大阪から。西浦氏は一昨日の建立祭プレミアム音楽祭をお聴きになったそうです。
 
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地元紙『福島民報』さんの取材を受ける坂本さん、伊藤校長先生。
 
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今回の特別授業は、坂本さんが記念講演をなさった昨年の智恵子命日の集い「レモン忌」で、伊藤校長先生が坂本さんの講演を聴かれ、「ぜひ子供たちの前でも」とお願いし、実現したそうです。
 
同校では著名な卒業生ということで、総合的な学習の時間を使い、智恵子に関する調べ学習などを行っています。職員室前の廊下には「智恵子コーナー」が。
  
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さて、特別授業。会場は音楽室、対象は4年生の児童、2クラスで40名あまり、3、4時間目、45分×2の枠です。
 
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3時間目はパソコンとプロジェクタを使い、坂本さんが巡った全国の智恵子ゆかりの地の写真をスクリーンに投影しての説明。画像は昨年2月に坂本さんが板橋の赤塚図書館で講演なさったときにも使ったもの。上は授業の初めに坂本さんをご紹介なさる伊藤校長先生です。当方、パソコンのマウスをクリックする大役を仰せつかりました(笑)。
 
4時間目は、坂本さん手作りの、智恵子の生涯を描いた紙芝居。坂本さんは明治期に智恵子も所属した太平洋画会(現・一般社団法人太平洋美術会)の会員で、同会の展覧会では福島の風景などを描いた絵を出品なさっています。下記は昨年の出品作「智恵子抄の里(二本松市)」。100号の大作です。絵心があるというのは得ですね。
  
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坂本さん、紙芝居を読みながら、智恵子逝去のくだりでは感極まって落涙。子供たちも食い入るように引き込まれていました。
 
読み終わった紙芝居、坂本さんから学校に贈呈されました。気前がいいですね(笑)。活用していただきたいものです。
 
若い世代に光太郎智恵子の功績を伝えて行くためには、やはり学校教育の現場で取り上げていただくことが不可欠です。幸い、光太郎の詩などは小中高と、教科書に掲載されています(先月、『朝日新聞』さんの土曜版に載った「教科書に載っていた好きな詩」ランキングでは、光太郎の「道程」と「あどけない話」がランクインしました)。いろいろな部分で時代を先取りし、しかし芸術創作と実生活との狭間で悩み苦しんだ智恵子の生涯も、実に多くの示唆に富むものです。
 
基本的には、それぞれの地元の偉人(とは限りませんが)の顕彰活動が重要です。その中から、全国区になってゆくということで、地元はもちろん、全国の学校で智恵子も取り上げていただきたいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月23日
 
明治12年(1879)の今日、光雲の師匠、高村東雲が歿しました。
 
東雲は元々「奥村」姓。幕末に独立する際、師匠の高橋鳳雲から「雲」の字と、さらに「高橋」姓の「高」の字を貰い、「高村」姓を創出しました。
 
光雲は元々「中島」姓。明治7年(1874)に独立しましたが、同じ年、徴兵忌避のため、子供のいなかった師匠の姉・悦の養子となり、高村姓となりました。明治初年の徴兵制では長男は対象外でしたが、光雲には大工をやっていた異母兄がいたため、そのままでは徴兵にかかるおそれがあったのです。

気づくのが遅れまして、紹介も遅れました。申し訳ありません。  

文藝春秋 第92巻第12号 2014/10月号 

2014/9/10発売 定価880円

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作家、伊集院静氏の連載「文字に美はありや」の第10回が掲載されています。さまざまな書道作品を紹介するもので、今月号は本文3ページ、折り込みのカラーグラビアがついています。
 
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「猛女と詩人の恋」という題で、光太郎の書が取り上げられています。
 
上記グラビアは、木彫「白文鳥」と、その袱紗(ふくさ)です。袱紗には光太郎自作の短歌が記されています。
 
小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
 
光太郎はこのように、木彫を作ると、それに関する短歌も作り、それを包む絹の袱紗や袋(智恵子が縫ったものです)に認(したた)めることが多くありました。そうした場合には古式に則(のっと)り、仮名に濁点をつけなかったり、変体仮名を使ったりもしています。
 
ちなみに、昨年、全国三つの美術館で、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が開催されました。この木彫「白文鳥」は三館共に展示され、袱紗も岡山井原展と愛知碧南展で並びました。現在は東京の某画廊が所有しています。
 
もう一点、
 
小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは
 
という短歌を記した袱紗もセットです。木彫「白文鳥」が二体ですので。「小鳥らは」の方は、眼を細めている雌の文鳥を、「白のジヤケツ」の方は、一回り体の大きい雄の文鳥を包むための袱紗に記されました。
 
先月、花巻の高村光太郎記念会を通し、この袱紗の所有者を教えてほしいと依頼があってお答えしたのですが、今号の記事になることをすっかり失念していました。
 
それはともかく、実にいい字ですね。伊集院氏もほめています。
 
他には、今年100周年を迎えた詩「道程」の詩稿もモノクロで画像入りで紹介され、さらに光太郎の書論「書について」(昭和14年)などが取り上げられています。ただ、光太郎に関しては3ページのうち半分で、残り半分は正倉院に納められている光明皇后筆の古文書についてです。
 
しかし、最後に「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」とあるので、期待しましょう。
 
『文藝春秋』10月号、まだ店頭に並んでいると思います。または雑誌専門の通販サイトfujisan.co.jpから購入できます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月22日
 
昭和31年(1956)の今日、鎌倉の神奈川県立近代美術館で、この年亡くなった光太郎の最初の遺作回顧展「高村光太郎・智恵子展」が開幕しました。

昨日は東京国分寺にコンサートを聴きに行って参りました。
 
「Prhymx(ぷらイム)」というユニット――テルミン奏者の大西ようこさんのお話とテルミン、三谷郁夫さんが聞き手、歌、朗読、ギターを務められての、題して「もうひとつの智恵子抄」。すばらしいコンサートでした。
 
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会場は、民家でした。外観は普通のマンションのような建物ですが、一歩足を踏み入れると、別世界。富士吉田にあった築300年以上の古民家の部材を移築したとのことで、いい感じでした。50畳近くあるのでしょうか、大広間的な空間が、音楽サロンとして活用されているそうです。
 
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プログラム的には、アンコールを含め、全10曲の演奏。その合間に大西さんと三谷さんのトークが入るという流れでした。
 
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曲目としては、既製のものがほとん000どで、9曲目の田中修一さん作曲「三つの情景」のみ、「智恵子抄」からのインスパイアということでしたが、既製の曲もそれぞれに「智恵子抄」の雰囲気にぴったり合っていました。カッチー二の「アヴェ・マリア」など、当方も大好きな曲です。
 
テルミンの演奏は、初めて生で聴き、非常に興味深く拝聴しました。というか、テルミンの実物(右の画像)を見たのも初めてでした。どうしてこれで微妙な音程や深い曲想が表現できるのか、まったく不思議です。
 
三谷さんはギターを弾きつつ歌い、朗読をなさり(まさに「弾き語り」ですね)、いい声だな、と感じました。ラフマニノフのピアノ協奏曲に乗せての朗読がありました。「智恵子抄」にはラヴェルやドビュッシーなどのフランス近代もの、またはショパンなどを使う方が多いのですが、ラフマと「智恵子抄」という取り合わせも違和感がありませんでした。
 
そして曲間のトーク。大西さんが光太郎智恵子についてよく調べられていて、感服しました。ご来場の方々は、みなさん光太郎智恵子についてあまり詳しくない方だと拝察されましたが、そういう方々にもわかりやすく、興味深いお話だったのではないでしょうか。
 
おおむね智恵子の生涯を追ったお話でしたが、智恵子の統合失調症が顕在化し、ゼームス坂病院に入院というあたりまででした。智恵子の死、『智恵子抄』の刊行、残された光太郎、『智恵子抄その後』、十和田の裸婦像といったあたりでの続編を期待します。
 
また、昨日の演奏曲目から抜粋されたCDも販売されていまして、1枚購入して参りました。是非お買い求めを。
 
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来月には、やはり大西さんの参加されている別のユニット、「otoyomi/おとよみ」さんによる「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄」が開催されます。
 
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以下、コピペです。
 
 ■日時:2014年10月4日(土)13:30~、17:00~二回公演
 ■場所:現代座会館  JR武蔵小金井駅下車
 ■出演:otoyomi
    宝木美穂[朗読・歌]  大西ようこ[テルミン]  今井万里子[マリンバ]
 ■ゲスト:江上瑠羽[和太鼓]
 ■作曲:清道洋一 「智恵子抄」楽曲書き下ろし      
 ■入場料:<前売>一般:3,000円 中学生以下:1,500円
               <当日>一般:3,500円 中学生以下:2,000円
               ※前売は前日10/3(金)23:00締切。それ以降のお申込みは当日料金となります。
               ※未就学児のご入場はご相談ください。
   
 お問い合わせ・お申し込みはこちら
 MAIL:
otoyomi@hotmail.co.jp
 TEL :080-5910-1310 (B-project) 
 お名前・ご連絡先・公演時間・枚数をお知らせください。
 
 
よく同じことを方々で書いたり喋ったりしていますが、どんなにすばらしい芸術作品でも、我々のちの世の人間が、その価値を正しく理解し、次の世代へと受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれてしまいます。そういう意味で、音楽や舞台芸術、美術作品、文筆作品などの二次創作で、偉人たちの業績をオマージュすることも非常に有効で、こうした取り組みは、実にありがたい限りです。
 
全国の表現者のみなさん、どんどん光太郎智恵子の世界を取り上げて下さい。ただし、健全なリスペクトの念を忘れずに。また、ご連絡いただければ、こちらで紹介したり、できるだけのサポートをしたりということも可能です。あくまで健全なリスペクトの念を持つであろうものに限りますが。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月21日
 
昭和30年(1955)の今日、光太郎終焉の地、中野のアトリエで、家政婦の堀川スイ子を雇いました。
 
堀川は中野家政婦会からの派遣。光太郎が亡くなるまで約半年間、アトリエ所有者の中西家のみなさん共々、光太郎の身の回りの世話をしました。
 
光太郎歿後の昭和34年(1959)、筑摩書房から刊行された草野心平編『高村光太郎と智恵子』という80余名の回想録がありますが、堀川も「高村先生の思ひ出」と題する一文を寄せています。なかなか心打たれる文章です。

9月も下旬となりました。10月に行われる光太郎智恵子、光雲関連のイベント等を順次紹介していきます。 
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平成26年10月4日(土)~平成26年12月23日(火)
 
佐野美術館 〒411-0838 静岡県三島市中田町1−43 TEL:055-975-7278 FAX:055-973-1790
 
入 館 料  一般・大学生1,000円 小・中・高校生500円 ※毎週土曜日は小中学生無料
開館時間 10:00~17:00(入館の受付は16:30まで)
休 館 日  木曜休館
主  催  佐野美術館、三島市、三島市教育委員会、静岡新聞社・静岡放送
後  援  静岡県教育委員会
助  成  医療法人社団清風会 芹沢病院
協  賛  伊豆箱根鉄道株式会社
協  力  清水三年坂美術館
監  修  山下裕二(明治学院大学教授)
企画協力 広瀬麻美(浅野研究所)
 
鋭い観察眼から生まれた本物と見紛うほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事――明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会に出品され海外の人々を驚嘆させました。多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会はほとんどありませんでした。
その知られざる存在となりつつあった明治の工芸に魅了されたのが村田理如(むらた まさゆき)氏です。村田氏は1980年代後半、出張先のニューヨークの骨董商で日本の印籠に出会ったことをきっかけに収集を始め、2000年京都に清水三年坂美術館を設立。現在、1万点を超えるコレクションを築き上げています。
本展は、村田コレクションから並河靖之(なみかわ やすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみ かつよし)らの金工、柴田是真(しばた ぜしん)・白山松哉(しらやま しょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひ ぎょくざん)・安藤緑山(あんどう ろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など厳選した約160点により、明治の工芸家たちの気概を表した「超絶技巧」の世界を展観します。
 
 
関連イベント
 
日 時 2014年10月25日(土) 14:00~15:30 
講 師 村田理如(清水三年坂美術館館長)、山下裕二(本展監修者・明治学院大学教授)
会 場 佐野美術館講堂
定 員 60名
参加費 500円
申 込 要申込・先着順
一万点を超えるコレクションを築いた清水三年坂美術館の館長・村田理如氏と、「超絶技巧! 明治工芸の粋」展の監修者・山下裕二氏が、明治工芸について熱く語ります。
コレクターと研究者と、立場の違うお二人から、どんな話題が繰り出されるのか、どうぞお楽しみに。
 
 
今年4月から7月にかけ、日本橋の三井記念美術館さんで開催されていた同じ企画展の巡回です(その後、山口県立美術館さんが2015年2月21日~4月12日、さらに富山県水墨美術館さんで2015年6月中旬~8月上旬だそうです)。
 
三井記念美術館さんに観に行ったレポートにも書きましたが、光雲作の木彫、「西王母」と「法師狸」が並びます。
 
その他、七宝、金工、漆工、薩摩焼、刀装具、自在置物、牙彫、印籠、刺繍絵画……まさしく「超絶技巧」が目白押しです。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
当方、本日は国分寺に、テルミン奏者・大西ようこさんとギタリスト三谷郁夫さんによるコンサート「もう一つの智恵子抄」を聴きに行って参ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月20日
 
昭和15年(1940)の今日、昭森社から森谷均編、『風経』が刊行されました。
 
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光太郎をはじめ、富本憲吉、北園克衛、土方定一、佐藤惣之助、倉田叕、蔵原伸二郎ら、美術家、文学者20余名の寄稿による書籍です。表紙は棟方志功。
 
光太郎の作品は、散文「鷗外先生の「花子」」。ロダンのモデルを務めた日本人女優、花子を描いた鷗外の短編小説「花子」について述べています。

新刊です。 
2014/10/1 東京大学國語國文学会編 明治書院発行 定価1,143円+税
 
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國語と國文學』。古典から近現代まで幅広く扱う雑誌です。巻末に「投稿規定」が載っていて、それによれば「本誌は広く国語国文学研究者の発表機関としてこれを開放し、大方のご投稿を歓迎します。」とあり、原稿依頼ではなく投稿で成り立っているようです。そういう意味では書けば載る大学の研究紀要などとは違い、載せてもらうためのハードルが高そうです。ただ、今号の目次、巻頭の「前号要目」「次号予告」等を見ると、大半が国文学の論文で、国語学に関するものはほとんど無いようです。
 
さて、今号には駿河台大学准教授、長尾健氏の論考「高村光太郎『道程』前期論――巻頭三作品の解釈を中心に――」が掲載されています。
 
今年、刊行100年を迎える詩集『道程』。明治43年(1910)から大正3年(1914)までの詩、76篇が載っています。内容的に、明治44年(1911)の「泥七宝」あたりを境に、前半と後半に分けて読み取るのが一般的です。前半は欧米留学から帰朝し、北原白秋、吉井勇らと「パンの会」の狂躁に身を投じたり、吉原の娼妓・若太夫や浅草のカフェの女給・お梅に入れ込んだりしていたデカダン生活の時期のもの。後半は智恵子との邂逅を経て、頽廃生活からの脱却、『白樺』的な人道主義の影響も見て取れる、表題作「道程」を含む作品群、といった区分けです。
 
長尾氏の論考は、前半、特に冒頭の三作品「失はれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の国」を中心に展開されています。キーワードは「普遍的な美」「西洋でも日本でもないある絶対的な場所」「ナショナル・アイデンティティ」などなど。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月19日
 
昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、栗ご飯を炊いて食べました。
 
「秋の味覚」、ですね。この日の日記に以下の記述があります。
 
四時過ぎ小屋にかへる、 栗をひろふ。 夜食、炊飯(栗めし)初めてなり。
 
この前後、光太郎が7年間暮らした太田村の山小屋周辺には栗の木がたくさん自生しており、時には音を立てて屋根に栗の実が落ち、拾い放題でした。村人もよく小屋の近くに拾いに来ていたそうです。
 
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日記はさらにこう続きます。
 
南瓜一個とり。煮る、美味とはいへず。
 
自分で栽培していたカボチャは今ひとつだったようです(笑)。

テレビ放映情報です。 

ETV特集「それでも道はできる~福島・南相馬 コメ農家の挑戦~」

NHKEテレ 2014年9月19日(金)24:00~25:15 = 9月20日(土) 午前00時00分~1時15分
 
福島県南相馬市で農業再生に取り組む農家を1年追ったドキュメンタリー。放射能に対する不安を抱えながら研究を続け、今年2月にはチェルノブイリの農家を訪ねる旅に出た。
 
番組内容
原発20キロ圏の内と外にまたがる南相馬市太田地区。ここでは農家自らが放射性物質の移行を究明しようと田の水や土を細かく調べ研究者と共に試験田を作ってきた。さらに収入確保のために太陽光パネルを設置、売電事業を始めるなど農業の火を消さないよう努力を続けている。今年2月にはウクライナを訪問、チェルノブイリ原発事故で被災した農家に会い農業再生のヒントを探った。30年後の「ふるさと」を見据えた農家の取り組み。
 
語り 上田早苗
 
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再放送です。本放送は9/13のやはり深夜にありました。番組内容の説明等に光太郎や智恵子の語がないのでノーマークでしたが、番組の感想をつづったツイッターの投稿などから、番組最後に光太郎の「道程」が引用されていたという情報を得ました。まあ、それがメインではないので、番組内容の告知にそれが入っていないのは仕方がないでしょう。
 
こういうケースは結構あります。テレビ番組に限らず、イベントやコンサートなどにしてもそうですが、終わってから光太郎智恵子に絡む内容だったというのが判明するケースです。終わった後で事前の告知をネットで見つけてみても、詳細が書かれておらず、光太郎智恵子に絡む内容であることが事前にわかりようがなかったりします。
 
今回のように再放送があればいいのですが、そうでない場合はそれっきりです。イベントにしても同様ですね。そういう場合には、「こんなイベント(テレビ番組)がありました」と、このブログでご紹介するのをためらいますし、紹介しないで済ませてしまうこともたびたびです。事前の告知をきちんとやらないということで、制作者なり主催者なりの意気込みがそれほどでないのかな、と判断し、そういうものを紹介する気にならないというスパイラルです。
 
つい先日も、ある伝統芸能の公演でそういうことがありました。それを観た方のブログでそういう公演があったと知り、事前告知的なページを探したところ、やはり詳細が書かれていなかったケースです。その方のブログには「例によって特にコレといって宣伝も告知もされていなかった印象で、ガラガラというほどでもないけど、スカスカという感じ。「○○回記念公演」というには、いささか寂しい」「素朴なギモン的に、 それで結局、いったい何のためにやっているのだろう?やっぱし思い出作りかな?」といった文言が並んでいました。「例によって」とあるので、いつものことなのでしょう。しかし、終わった後に新聞では紹介されています。主催者はそういうところにあぐらをかいているのではないかとうがった見方をしてしまいます。
 
「仲間うちでこぢんまりとやる」とか、それこそ自分たちの「思い出づくりのためにやる」というのならいいのですが、だったら「公演」と銘打つなと思います。
 
話がそれましたが、「ETV特集」、ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月18日
 
平成5年(1993)の今日、埼玉県加須市の福祉会館大ホールで、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生の講演「与里と光太郎の時代」がありました。
 
「与里」とは斎藤与里。明治45年(1912)、岸田劉生や光太郎らとヒユウザン会(のちフユウザン会)を結成し、日本洋画の革新を目指した画家です。
 
加須は与里の故郷で、この日の講演は「斎藤与里記念館建設をすすめる会」の報告会の一環でした。他に光太郎詩の朗読、合唱、資料展示なども行われたとのことです。

元女優・参議院議員の山口淑子さんの訃報が出ました。 

山口淑子さん死去 女優「李香蘭」、参院議員として活躍

『朝日新聞』 2014/09/14
 
 戦時中は女優・李香蘭として日中両国の歴史に翻弄(ほんろう)され、戦後はワイドショーの司会や参議院議員としても活躍した山口淑子(やまぐち・よしこ、本名大鷹淑子〈おおたか・よしこ〉)さんが7日、心不全で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
 
 1920年、旧満州生まれ。13歳の時、奉天放送局にスカウトされ、歌手デビューした。日本人だったが、中国語が堪能で、中国人に受け入れられやすいように「李香蘭」という芸名が付けられた。
 38年、国策会社の満州映画協会(満映)の専属になる。「親日的な中国人女優」として、日本の植民地経営のスローガンだった「日満親善」「五族協和」を体現するヒロインを次々演じた。とりわけ長谷川一夫と共演したラブロマンス「白蘭(びゃくらん)の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」は大陸3部作として大ヒットした。
 一方で歌手としても人気を集めた。41年に東京・有楽町の日劇で開かれたコンサートでは観客の行列が建物を何重にも取り巻き、警官隊が出る騒ぎに。「夜来香」「蘇州夜曲」などのヒット曲が生まれた。
 その間、一貫して日本人であることを明かさなかったため、終戦時には、日本に協力した中国人として処罰されそうになった。裁判で日本人であることを証明して謝罪。46年、日本への帰国が許された。
 戦後は山口淑子として日本映画に登場。50年、谷口千吉監督「暁の脱走」や黒澤明監督「醜聞〈スキャンダル〉」などに出た。ハリウッドにも進出し、「東は東」や「東京暗黒街・竹の家」などにシャーリー・ヤマグチ名で出演した。
 51年、彫刻家イサム・ノグチさんと結婚したが、4年あまりで離婚。ブロードウェーのミュージカル出演中に知り合った外交官の大鷹弘さんと58年に再婚、一度は芸能界から引退した。
 69年にテレビのワイドショー「3時のあなた」の司会者として本格的に復帰。中東やベトナムなどの紛争地域に出向き、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長や日本赤軍の重信房子最高幹部らを精力的に取材した。
 その後、政治家に転身。74年の参院選全国区に自民党から立候補し当選した。環境政務次官、参議院外務委員長などを歴任した。
 

右は昭和26年(1951)の雑誌『毎000日グラフ』の表紙を飾った山口さんです。 
 
光太郎と山口さん、直接の面識はなかったようですが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』に、山口さんの名が2回出てきます。
 
まずは昭和27年(1952)10月に美術雑誌記者の国安芳雄と行った対談「心境を語る」。当時の山口さんの夫で、彫刻家のイサム・ノグチの話が出た流れで、次のような部分があります。
 
高村  日本タイムスを今までとつていたのだけれど、あれに出ていた野口さんの展覧会の写真はとても面白いものをとつていたのです。「独り者」という焼物ですが、ペチヤンコのせんべいぶとんからフーッというような顔を出して、その書いてある評が面白い。世界中で一番あわれな顔をしていると書いてある。なるほどそういう顔だつた。大いに山口淑子と結婚しない前の自分を思い出して書いたのでしょう。
国安  山口淑子の顔を何かで先生がほめていましたね。
高村  あれはぼくはいいと思うのですよ。だから彫刻家の野口さんが結婚したのはもつともだと思う。あれは彫刻的な顔ですもの。あれは辰野隆博士のところに、女優の連中が五、六人集つて何だかの話をさせられたのでしよう。その時の写真が出て、辰野さんをまん中に女優の首が五つばかり並んでいる。それをずつと見て来たら、一人非常に違うのがいる。それはまるで彫刻にしたらいい顔だ。名前を見たら山口淑子となつている。それであれは草野(心平)くんが山へ来たときだが、その話をしたのです。そうすると草野くんが、本気なら連れて来るかとか何とかいつていた。連れて来られては大へんだから、今ここではできないから、ただそういつたのですが、それを芸術新潮の人が聞いて、ぼくに「彫刻家が見た山口淑子」という感想を書いてくれというのです。それでまた考えちやつたのですが、ニユーヨークだの方々でとつた写真を一たば送つて来た。それがあまりよく写つているので、初めの新聞で見たのと違う感じを受けた。新聞ではこまかいところが写つていない。ぼうつとしているのがとてもいい顔だつた。あまりこまかに写つているのを見ると何も書けなかつた。けれどもあれはプラスチツクな顔ですよ。
 
「芸術新潮」の人というのは、詩人の藤島宇内のようです。昭和23年(1948)11月に藤島に宛てたはがきに、「彫刻家が見た山口淑子」という感想」についての件が記されています。
 
おてがみと写真などいただきました、御申越の原稿は暇があれば書かうと思ひますが今月中はとてもダメなのでもつとあとになるでせう。「彫刻になる顔」とでもするか、「山口淑子の首」とでも題しませうか。
 
このはがきの前に、山口淑子の顔の感想を書くことについて、「涼しくなつたら或は試みるかもしれません」と書いた書簡も藤島に送られているのですが、そちらは残念ながら失われています。
 
で、結局は「あまりこまかに写つているのを見ると何も書けなかつた。」ということで、これは幻のエッセイになってしまったわけです。
 
しかし、先の対談で、国安が「山口淑子の顔を何かで先生がほめていましたね。」と発言しています。これが草野や藤島あたりからの伝聞なのか、それとも何かで読んだのか、そのあたりがはっきりしません。可能性があるのは、昭和25年(1950)7月の『新潮』に載った草野心平の「高村光太郎」という長い山小屋訪問記です。
 
 高村さんはたって、ラジオのスイッチをひねった。(略)女のひとたちの座談会だった。その女の声で想い出したのか、
「山口淑子ね。矢張りあんな顔してんのかしら。ほんものが写真のようだったら、あの顔、つくりたいな。」
 忘れていたが、いつか高村さんが手紙できいてきたことがあった。或る婦人雑誌での座談会で私が辰野隆さんや山口淑子といっしょだったことから、その記事を見た高村さんが、本ものが写真のようであるかどうかをきいてきたのだった。
 
先の対談の内容とも一致します。
 
さらに、藤島がその晩年に書いた回想にも山口さんに関する話が出て来ます。平成7年(1995)新潮社の「とんぼの本」の一冊として刊行された『光太郎と智恵子』所収の「十和田湖の裸像」です。
 
高村さんはしばしば私に「こさえてみたい彫刻」のプランを話していた。テーマは三つあって、マッカーサー、山口淑子、智恵子だった。占領軍司令官マッカーサーは顔が彫刻向きだし、高村さんの好きなミケランジェロがローマ法王の依頼によってつくったその像は似ていないと非難されたが、すぐれた彫刻の永遠性によって実物を克服したことがヒントになっていた。山口淑子さんの場合は顔が彫刻向きであるほかに、日本と中国の戦争のはざまを生きぬいてきたその半生の苦難に高村さんは心を惹かれていた。
 
昭和27年(1952)に十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する前の話、先のはがきの頃なのでしょう。しかし、文筆での山口さんに関するエッセイ同様、彫刻の山口さんの像も実現しませんでした。
 
 
山口さんと光太郎の関わりはもう1点あります。
 
光太郎が十和田湖畔の裸婦群像制作のため上京し、借りたのが、中野に今も残る新制作派の水彩画家、故・中西利雄のアトリエでした。中西は昭和23年(1948)に歿していますが、そのアトリエを、光太郎が借りる以前にイサム・ノグチも借りていた時期がありました。それが山口さんと結婚した昭和26年(1951)頃だったとのことで、山口さんもこのアトリエに足を踏み入れています。先の藤島宇内の「十和田湖の裸像」には以下の記述が。
 
青森県側は、八甲田山中の蔦温泉にアトリエを建てたら、といったが、これは論外。東京にアトリエを見つけることで合意した。帰京すると早速、私は菊池(一雄)さんに相談してアトリエを探した。菊池さんは、東京中野区に、亡くなった水彩画家中西利雄さんのアトリエがあるという。しばらく前、イサム野口(アメリカの彫刻家)・山口淑子夫妻が借りていたが、いまは空いているとのことだ。私が菊池さんの紹介で訪ねると、中西未亡人はよろこんで承諾してくれた。
 
ノグチはその後、鎌倉の北大路魯山人のもとに移り、陶芸を学んでいます。光太郎と国安芳雄の対談にある「「独り者」という焼物」はこの時期のものでしょう。
 
 
さらにもう一点。
 
冒頭の訃報で「終戦時には、日本に協力した中国人として処罰されそうになった。裁判で日本人であることを証明して謝罪。46年、日本への帰国が許された。」とありますが、この時に便宜を図ったのが、中国国民党の将校だった黄瀛。中国人の父と日本人の母を持ち、光太郎や心平、宮澤賢治と親しかった詩人でもありました。
 
孫引きで申し訳ありませんが、平成6年(1994)、日本地域社会研究所刊行、佐藤竜一著『黄瀛―その詩と数奇な生涯―』に引用された、矢野賢太郎「黄瀛先輩との交流」から。
 
 或る日黄君のところに川喜多(長政)氏と李香蘭が訪ねてきて同席しましたが、李香蘭は中国人で漢奸だと云うことでどうしても日僑管理処から帰国許可が出ず困っていたのを日本人であることを黄君が証明したのでやっと帰れるようになったそのお礼を申述べに来たのです。
 それでは一曲所望したい、あなたの一番思い出の深いのをと云う黄君の求めに応じて、彼女は夜来香を歌ってくれました。
 
ほんとうに人と人との縁というものは、不思議なものです。
 
申し遅れましたが、山口さんのご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月17日
 
昭和8年(1933)の今日、上野松坂屋で、光雲作の、朝鮮の京畿道京城府に建立された博文寺本尊釈迦如来像の開眼供養が行われました。
 
博文寺はこの前年に建立された、初代韓国統監・伊藤博文を祀る寺院です。
 
当方、この開眼供養の時の写真と、それを報じるリーフレットを持っています。翌年には歿する光雲の最晩年の写真です。
 
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◎博文寺本尊佛開眼式
日鮮融和の大道場として故伊藤博文公に縁故ある官民有志の発起で、昨年十月に京城に落成を見た曹洞宗春畝山博文寺に納められる本尊佛は、過般来斯界の権威高村光雲翁が製作中であつたが、此程漸く等身大に及ぶ釈迦如来像を完成、十七日午前十時より伊藤公記念会主催で上野松坂屋で開眼供養を行つた。
写真は、完成した如来像と参列の高村光雲、今井田朝鮮政務総監、児玉秀雄伯

二本松市で智恵子の顕彰活動を続けられている「智恵子の里レモン会」さんの会長・渡辺秀雄氏から、いろいろと届きました。
 
まずはレモン会さん主催の智恵子命日の集い「レモン忌」案内。 

第20回レモン忌開催のご案内

 皆様には益々御健勝にてご活躍のことと拝察申し上げますとともに小会へのご協力誠にありがたく御礼申し上げます。
 さて、今年は詩集「道程」出版及び光太郎・智恵子結婚百年にあたる節目の年にあたりますが、下記の要領にてレモン忌を開催いたしますのでご案内申し上げます。
 つきましては、ご多忙のところとは存じますがお知り合いの方々もお誘い合わせの上、ご参加くださいますようお願い申し上げます。
 
 
1.期  日    2014年10月5日 9:30受付開始
2.会  場    ラポートあだち 二本松市油井字濡石16 0243-23-5250 
         (智恵子記念館ではありません)
3.内  容    ① 開会セレモニー    10:00~11:00
          ② 記念講演 『智恵子、新たなる横顔』
             講師 小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
          ③ 懇親会  軽食を摂りながら懇親を深めて下さい  15:00閉会
4・会  費    3,000円
5.申し込み   戸田屋商店 0243-23-4858
  
という日程だそうです。  
 
思えば昨年のレモン忌には、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会のみなさんがいらっしゃり、それが機縁で、当方、いろいろと十和田関連のお仕事をいただくようになりました。人と人との機縁というのは、面白いものです。
 
 
その昨年のレモン忌の様子などが書かれた先月発行の『智恵子の里レモン会報』もいただきました。
 
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『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を書かれた坂本富江さんによる昨年の記念講演の様子、それから当会刊行の『光太郎資料』についても詳細にご紹介下さっています。
 
 
さらに、先月から今月にかけ、地元紙『福島民報』さんに連載された、渡辺会長による「ふくしま人 高村智恵子」全5回分のカラーコピーもいただきました。
 
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非常によくまとまっており、感服しました。レモン忌の記念講演も、当方ごときがやらなくても、会長自らなさった方がいいのでは、と思わせる内容で、ある意味プレッシャーです(笑)。
 
 
というわけで、もうすぐレモン忌です。ちょうど二本松の提灯祭り期間に当たっているそうで、そちらも併せて足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月16日
 
昭和13年(1938)の今日、雑誌『いづかし通信』第1号に、短歌二首が掲載されました。
 
この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず
 
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき
 
他の四首とともに、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』に、「うた六首」として収められました。
 
智恵子の死を謳った詩「レモン哀歌」や「荒涼たる帰宅」のあとに掲載されているので、智恵子歿後の作品と思っている方が多いようですが、違います。
 
「この家」「此所」は、駒込林町25番地のアトリエ兼住居です。

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2回に分け、智恵子の故郷・福島は二本松からの情報をご紹介します。
 
まずは地方紙の記事から。 

秋の訪れ華やかに演出 二本松で「県芸術祭」開幕式典

福島民友新聞 9月14日(日)
 
 県内最大の芸術文化団体の祭典「第53回県芸術祭」の開幕式典は13日、二本松市で行われ、「智恵子の里に集う文化で深める絆」をメーンテーマに出演者が“芸術の秋”の訪れを華やかに演出した。県芸術文化団体連合会、県、県教委、二本松市などの主催、福島民友新聞社などの後援。
 本年度は県北を重点地区に開催。7月から12月までの期間中、県内全域で主催行事や参加行事を数多く繰り広げる。
 この日は約1200人が来場。式典では鈴木千賀子県文化スポーツ局長、高城俊春県芸術祭運営委員長、宍戸貞之県芸術祭県北地区実行委員長があいさつ。新野洋二本松市長が祝辞を述べた。
 開幕行事では、伊達市の川前愛宕神社獅子舞保存会が「川前愛宕神社獅子舞」などを披露した。
 
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以前にご紹介した、福島県芸術祭の開幕式典の報道です。芸術の秋、という感じになって参りました。
 
 
 もう一件、別件です。 

二本松の広瀬さん ご当地ヒーローに変身

福島民報 9月14日(日)
 
 福島県二本松市の飲食店経営広瀬和重さん(50)は東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で被災した市民を元気づけようと、ご当地ヒーロー「光の戦士ツインウェイター」として活動を始めた。 
 広瀬さんは20代前半に俳優の真田広之さんに憧れ、東京都のアクション俳優養成所「ジャパンアクションクラブ」に入所した。6年間活動した後、会社勤務を経て実家の飲食店を継いだ。 
 震災と原発事故後、県内の雰囲気が暗く、笑顔があまり見られなくなったように感じた。「かつて学んだアクションを生かし、ご当地ヒーローとしてみんなを元気づけよう」と考えた。本業の傍ら劇団HERO’S ACTION CLUBを設立し、団員を募った。 
 「二本松」にちなみヒーローの名前は「ツイン(2つ)ウェイター(待つ)」とし、赤と黄色の2人のヒーローが「ほんとの空」を取り戻すため、安達ケ原の鬼婆伝説を基にした怪人と戦うストーリーを作った。 
 28日に白河市で開かれる「ご当地キャラこども夢フェスタinしらかわ2014」のステージに立つ。出番は午後1時10分からで、今までで一番大きな舞台だ。広瀬さんは「ヒーロー同士の友情や悪者に立ち向かう勇気を見てほしい」と話している。 
 団員を募集中で、出演依頼も受け付ける。問い合わせは広瀬さん 電話080(6013)7378へ。
 
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子供たちに夢を与えてほしいものです。
 
 
もう一件、二本松在住の渡辺元蔵氏から、同人誌『現代詩研究』第73号をいただきましたのでご紹介します。
 
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平成22年(2010)、二本松駅前に建立された智恵子の像「ほんとの空」の作者、日展の彫刻家、橋本堅太郎氏について書かれた「橋本堅太郎作品について」、二本松市教育委員会により行われている「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」について書かれた「第十八回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール智恵子大賞について」が掲載されています。
 
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こうした地道な努力により、光太郎智恵子の名が後世に伝えられていってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月15日
 
明治42年(1909)の今日、智恵子の祖父、長沼次助が隠居しました。
 
次助は元々新潟の出身です。杜氏として二本松にやってきて、そのまま居着き、一代で長沼酒造を興しました。隠居後は智恵子の父、今朝吉に家督を譲ります。
 
今朝吉は、次助の妻・ノシの連れ子、センと結婚し、夫婦で次助と養子縁組をしたので、次助と血縁はありません。その長子が智恵子です。

昨日は、横浜伊勢佐木町に行き、先週ご紹介した日枝神社例大祭で、光雲作の彫刻を配した神輿を観て参りました。
 
午後1時から神輿の巡行というので、それに併せて自宅を出、「ヨコハマトリエンナーレ2014」会場の横浜美術館に車を駐めました。高速を下りてすぐですし、意外といつもガラガラなので、都合がよいのです。天気もよかったので、伊勢佐木町まで歩きました。ただ、汗ばむ陽気でした。
 
イセザキモールの有隣堂さんの前に神輿があるというので、そちらへ。時計を見ると12時過ぎ。ちょうど和太鼓の演奏で盛り上がっていました。
 
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少し離れたところにめあての神輿。立派な神輿でした。
 
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てっぺんには鳳凰。側面には唐獅子のレリーフ。唐獅子は丸彫りのものも四隅に配されています。
 
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さらに唐獅子と唐獅子の間には、十二支の彫刻。非常に精緻です。
 
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ただ、よく見る光雲作品と違って、彩色が施されており、木肌の感じなどがよく判りませんでした。
 
近くにはやはり光雲作の獅子頭も。こちらは木の質感がまさに光雲彫刻です。
 
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午後1時の巡行にはまだ間があったので、近くで昼食を取り、あらためて出直しました。
 
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若衆が威勢よくかつぐのもいいのですが、こういう白装束の面々がしずしずとかついでいくのもいい感じですね。
 
ちなみに『神奈川新聞』さんの記事がこちら。 

白装束で厳かに 横浜・イセザキモールで火伏神輿行列

 災難よけで知られる神輿(みこし)が練り歩く「火(ひ)伏(ぶせ)神輿行列」が13日、横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われた。日枝神社例大祭のメーン行事の一つ。今年で10回目。
 町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かに1、2丁目を往復した。
 同神輿は関東大震災や戦火を免れたことから、火を逃れた霊験をたたえ火伏の神輿と呼ばれるようになったという。
 
 
ちなみに光雲が暮らした文京区千駄木にも、光雲作の子供神輿が残っているはずなのですが、詳細が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月14日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の診療所医師・太田公俊方で村人15,6人と酒を飲みつつ座談を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する光太郎の送別会的に、村長・高橋雅郎の肝煎りで行われました。筆録が残っており、平成18年(2006)刊行の厚冊『光太郎遺珠』に掲載してあります。

先週行って参りました我孫子市白樺文学館さんにて、いろいろ手に入れて参りましたのでご紹介します。

雑誌『民藝』 第740号 特集 我孫子と柳宗悦

2014/8/1 日本民芸協会発行 定価787円+税
 
 
現在同館にて開催中の「柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-」とリンクした特集です。
 
図版も豊富です。
 
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左上は大正期の『白樺』。すべて光太郎が寄000稿している号です。右上はやはり光太郎も手にとった、ロダンから白樺派に贈られたブロンズ3点のうちの一つ、「ある小さき影」。下は光太郎の朋友バーナード・リーチや柳宗悦関連の古写真です。
 
 
ロダン「鼻のつぶれた男」ポストカード
 
昨日もこの画像を載せましたが、ポストカードになっています。
 
上記の「ある小さき影」とは違い、白樺派に贈られたものではありませんが、ロダンのブロンズ彫刻の中では有名なものの一つです。光太郎も評論などの中で、繰り返しこの彫刻に触れています。
 
 
 
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公式サイトより)
 
■白樺派のカレーとは?
大正デモクラシーの頃、白樺派の文人達が手賀沼沿いに居を構え、活発な創作活動をしていたころの話です。当時としては先進的な食文化の象徴であったカレーが我孫子で作られました。
誰もがご存知の白樺派の文人達がこのカレーを食べていたのです。

■  柳兼子さんが白樺派の文人たちに振舞ったカレーを再現!
白樺派の中心人物の一人である柳宗悦氏、その夫人の兼子さんが、陶芸家バーナードリーチの助言をうけて、おいしいカレーを作りました。
隠し味に味噌を使ったのでした。
食の研究家が当時の文献を丹念に調べ、長い歳月をかけて白樺派のカレーを再現しました。兼子さんはアルト歌手としても国内外で有名な方でした。
 
ちなみに柳兼子は、戦時中に光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」をラジオ放送で歌ったりもしています。
 
チキン、ポーク、ビーフの3種類のレトルトが販売されています。当方、ポークを買って参りました。もったいなくてまだ食べていません。
 
 
それから、こちらは今回入手したものではなく、以前に買ったものですが、やはり白樺文学館で販売していたのでご紹介しておきます。

『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』 

 2011/10/11 崙書房出版 山本鉱太郎著 定価1,300円+税
 
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版元サイトから)
 
東京から30キロ、自然豊かな手賀沼。大正時代初め、沼を一望する高台に若き日の柳宗悦、武者小路実篤、志賀直哉、バーナード・リーチら白樺派の文人たちが集った。そしてここから彼らはそれぞれの活動へと旅立つ。白樺派の我孫子時代からその終焉までを見届ける。「ふるさと文庫」200号作品。
 
それだけでなく、第一章が「リーチと高村光太郎の出会い」、第二章に「日本の頭脳上野の森に」、第三章で「「白樺」創刊のころ」となっており、ここまでで光太郎がたくさん登場します。この後の四章以降が我孫子の話になっていきます。
 
著者山本鉱太郎氏は、作曲家・仙道作三氏と組んで、平成3年(1991)に「オペラ智恵子抄」を作られました。そのあたりの話や、十和田湖畔の裸婦群像にも触れています。
 
以上もろもろ、ぜひお買い求め下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月13日
 
明治36年(1903)の今日、歌舞伎俳優九代目市川團十郎が歿しました。
 
光太郎は団十郎のファンで、残念ながらどちらも現存が確認できませんが、2度、団十郎像を彫刻で作りました。くわしくはこちら

千葉県は我孫子市にある我孫子市白樺文学館。先週、行って参りました。4年ぶり、4回目ぐらいの訪問でした。
 
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現在、下記の企画展が開催中です。 

柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-

7月3日(木曜日)から9月28日(日曜日)まで
午前9時30分から午後4時30分 休館日は月曜日。月曜日が祝祭日の場合は開館し、次の平日が休館日。
一般 300円、高校生・大学生 200円
〒270-1153 千葉県我孫子市緑2-11-8
 
 宗教哲学者、思想家、美学者、そして民藝運動の父、柳宗悦。宗悦は、1914(大正)3年9月初旬25歳の時に我孫子へ移住し、1921(大正10)年3月までを過ごしました。我孫子での活動は、宗悦にとってかけがえのないものであったといえます。
 『白樺』同人として西洋美術の積極的な紹介に努め、特にロダンとの交流により手に入れた彫刻は、朝鮮半島で教員をしていた浅川伯教を我孫子に導き、民藝運動の基礎となる朝鮮陶磁器「秋草文面取壺」との出会いをもたらします。
 陶芸家バーナード・リーチとの絆を深め、浜田庄司との出会いもここ我孫子の地でした。そして『白樺』同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだといっても過言ではありません。また我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所です。
  柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であったといえます。
 本企画展では、我孫子来訪100年を記念し、「出会い」と「絆」をコンセプトに、日本民藝館所蔵品を中心に宗悦の我孫子時代の活動を紹介します。
 
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光太郎は『白樺』の準同人のような立ち位置でした。大000正期にロダンを紹介する上で、光太郎と白樺派との接点が大きかったので、白樺派の面々と親しく交わっていました。右はロダンの「鼻のつぶれた男」。今回の企画展でも展示されています。
 
特にバーナード・リーチはロンドンでの光太郎との出会いが大きな機縁となって来日、以後も交流を続けましたし、武者小路実篤などとも晩年までつきあいが続きました。他にも有島兄弟、長与善郎、木下利玄、岸田劉生、そして柳宗悦。今回の展示では、これらの人々の集合写真で、光太郎が写っているものも並んでいました。
 
ただし、白樺派の面々が移り住んだ、この我孫子には光太郎の足跡は残っていないようです。
 
文学館のすぐはす向かいが、志賀直哉の旧宅跡。書斎として使用していた棟のみ残り、市の文化財に指定されています。母屋があった場所には、基礎部分をかたどった敷石が敷き詰められています。
 
 
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また、やはりすぐ近くの手賀沼には、昭和49年(1974)に建立されたリーチの碑も。
 
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リーチの描いた巡礼者の絵と、英文の詩が刻まれています。傍らには解説の碑。
 
我孫子には他にもジャーナリスト・杉村楚人冠記念館、柳の旧宅跡、柳の叔父の嘉納治五郎別荘跡など、文学散歩にはもってこいです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月12日
 
昭和20年(1945)の今日、親友の作家・水野葉舟にあてて、花巻郊外太田村の山小屋の図面入りの長い手紙を書きました。
 
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現在、「高村山荘」として保存されているものですが、もともと鉱山の飯場小屋だったものを買い取り、村人の協力で解体移築、翌月から7年間、この小屋み住むことになります。
 
上記画像に見える当初の構想では、「月見台」などと洒落たものを作る予定でしたが、これは実現されませんでした。また、「総板敷(彫刻製作のため)」とあります。やはり当初はここで彫刻にいそしむ予定だったのですが、戦争協力に対する深い反省から、彫刻は封印されます。簡単なものは作ったようですが、彫刻らしい彫刻は一点も作りませんでした。
 
その封印を解いたのは、7年後。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像、通称乙女の像の制作でした。

『朝日新聞』さんでいえば、「天声人語」にあたる、新聞の一面コラム。このほど地方紙2紙で相次いで光太郎智恵子を取り上げて下さいました。 

神戸新聞 正平調 2014/09/09

高村光太郎の詩「秋の祈(いのり)」で、「喨々」という言葉に出合う。漢和辞典を引くと「りょうりょう」と読み仮名が記されていた◆音が明るく響き渡るさまをいう。詩人は詩の書きだしと終わりで、この言葉を繰り返す。「秋は喨々と空に鳴り」。明るく澄み切った秋空の様子を歌っているのだろう◆秋の青空を見上げながら、そういえばあの時も青かったと思い出す空がある。決して明るい思い出ではない。12年前の9月、当時の小泉首相を乗せた政府専用機が平壌(ピョンヤン)の空港に降り立った。見守ったテレビに映る平壌の空は真っ青だった◆前後して神戸出身の拉致被害者、有本恵子さんの両親に何度か話をうかがう機会があった。神戸の街頭で支援を訴える活動の合間のことだ。いろんな情報や政治の動きが飛び交う中、こう言っていた。「楽観はしておりません。しかし何があろうと、絶対に悲観致しません」◆先日、有本さんの父明弘さんの講演を伝える記事で、「恵子を取り戻せる最後のチャンス」の言葉を読んだ。同じ日、横田めぐみさんの両親は神奈川で「願って待つしかない。本当にしんどい時期」と語った◆この秋、日朝交渉が大きな局面を迎える。被害者と家族は想像を絶する苦しみの日々を耐え忍んできた。今はただ、それぞれの再会の訪れを秋の祈りとしたい。2014・9・9
 
引用されている「秋の祈」は大正3年(1914)、ちょうど100年前の作です。詩集『道程』の最後に収められた詩で、おそらく『道程』のために書き下ろされたものと推定されています。
 
  秋の祈000
 
秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責(せめ)を思ひ
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る
 
「喨喨」。「デジタル大辞泉」によれば、「音の明るく澄んで鳴り響くさま」。いかにも「秋」というイメージの言葉ですね。画像は以前も使いましたが、二本松の智恵子の生家です。
 
しかし昨日あたりから秋晴れとはほど遠い全国的な豪雨。広島の土砂災害も記憶に新しいところですが、命を落とす方の出ないように祈るばかりです。 

福島民報 あぶくま抄 2014/09/08

〈くもとあそひ風とうたへる春秋の世の塵[ちり]しらぬやまの湯の宿〉。歌人柳原白蓮[びゃくれん]の直筆の短歌は、二本松市岳温泉の「陽日の郷あづま館」に残る。NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」で主人公の親友である葉山蓮子のモデルだ。太平洋戦争で最愛の長男を亡くす。終戦直後、半生を描いた映画「麗人」が反響を呼び、かつて絶縁状を出した炭鉱王は死去する。昭和27(1952)年秋、66歳の歌人は「やまの湯」で「世の塵」を落とす。翌年に世界連邦平和運動の婦人部長となる。文豪・幸田露伴も二本松と縁が深い。明治20(1887)年、20歳で文学を志し北海道から徒歩で上京する。苦難の旅は著書「突貫紀行」に記される。9月28日、二本松の亀谷坂で決意を新たにする。住民が運営する、にぎわいの拠点「亀谷坂露伴亭」は5周年を迎えた。露伴が訪れた記念日も営業する。11月に5周年事業を計画する。詩集「智恵子抄[ちえこしょう]」で知られる二本松市出身の高村智恵子をしのぶ「レモン忌」は10月5日の命日に行われる。12月に夫・光太郎と結婚して100年を迎える。二本松に秋の風が吹く。文学史を彩る3人の人生が重なる。
 
当方、寡聞にして柳原白蓮や幸田露伴が二本松にゆかりがあることは存じませんでした。
 
智恵子の命日「レモン忌」のつどいは、書かれている通り、10月5日に二本松市の智恵子生家に近い「ラポートあだちで行われます。今回で第20回となり、毎年、この時期の日曜日に行っているのですが、今年はちょうど智恵子の命日「レモンの日」と重なります。
 
当方、記念講演を依頼されており、「智恵子、新たなる横顔」という題でお話しさせていただきます。ただ、詳しい案内文書等、こちらにも届いておりませんので、詳細はまた追ってご紹介いたします。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月11日
 
昭和17年(1942)の今日、洛陽書院から詞華集『日本詩集』が刊行されました。
 
当代一流の詩人達による戦争協力詩を集めたアンソロジーです。同種のものには、この時期、おびただしく出版されました。そのうち大政翼賛会文化部編 『軍神につづけ』、日本文学報国会編 『辻詩集』(ともに昭和18年=1943)が、現在開催中の「ヨコハマトリエンナーレ 2014 大谷芳久コレクション」で展示されています。同展では光太郎個人の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)も並んでいます。
 
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『日本詩集』での光太郎作品は、随筆「詩005精神」、詩が9篇掲載されています。「必死の時」「危急の日に」「独居自炊」「正直一途なお正月」「事変二周年」「最低にして最高の道」「彼等を撃つ」「新しき日に」「夜を寝ざりし暁に書く」です。
 
光太郎作品を収めたこの種のアンソロジーの類は、少なく見積もっても40種類ほど刊行されています。当方手元にも30数冊あります。一部、画像を載せます。
 
戦後、昭和22年(1947)になって、蒋介石に対して書かれた、「蒋先生に慙謝す」という詩の中で、こうした自身の戦時中の行動について、光太郎はこのように述べています。
 
  蒋先生に慙謝す
 
わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、無題1
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
巌のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。004
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたともいへないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでもが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。
 
天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、無題
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、006
わたくしは言葉もないほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。
 
わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
真理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦巻く思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
真理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、無題2
自分の醜を天日の下に曝すほかない。
 
 
戦後になってこういう詩を書いている光太郎を、ヘイトスピーチ大好きなネトウヨがちやほやしている理由がよく判りません。彼等にしてみれば「変節の裏切り者」「売国奴」そのもののような気がするのですが……。
 
あの輩は、戦時中の戦争協力詩だけが光太郎詩の本質だと思っているのかも知れませんね。困ったものです。

昨日、青森は十和田の方々と、東京千駄木の高村光太郎記念会事務局長北川太一先生、そして故・高村規氏のお宅にお伺いして参りました。
 
以前にご紹介しましたが、昨年12月に破産した十和田湖観光汽船(青森市)が所有していた湖畔休屋の遊覧船ターミナルを十和田市が取得、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設することになりました。
 
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7月にはその愛称募集が始まり、今月に入って、十和田市のHPで、愛称決定の旨、報じられています。

十和田市十和田湖観光交流センターの愛称決定について

多くのご応募をいただき、ありがとうございました。
6月下旬~7月25日まで公募していました十和田市十和田湖観光交流センターの愛称について、平成26年8月25日に選考委員会を開催し、応募作品(121件)の中から、ふさわしいと思われる愛称を選考いたしました。
1 愛 称   ぷらっと
2 愛称の意味
  ・十和田市民や観光客が気軽に立ち寄れるような施設になってほしいとの意味。
  ・英語のプラットホームの意味と同様に、出発・到着の駅のホームのように、
   十和田湖観光の起点となることを願って命名。
3 提案者氏名
  ・吉田 様(秋田県秋田市)
  ・内河 様(神奈川県相模原市)
4 選考評
  ・呼びやすい。
  ・親しみやすい。
  ・気軽に立ち寄ってもらえそう。
5 その他
  ・愛称のすべての権利は、十和田市に帰属します。
  ・愛称は、施設のPR等に活用し、親しみのある施設運営を目指します。
【問い合わせ先】
〒034-8615 十和田市西十二番町6-1 十和田市 観光商工部 観光推進課 観光施設係
 TEL 0176-51-6771 FAX 0176-22-9799

その後、ネットにはこれ以上の情報が出ていませんが、10月8日(水)オープンの予定だそうです。
 
さらに、「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんが主体となり、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)の建立60周年記念誌、『乙女の像のものがたり』(仮題)が、今年12月に刊行予定だそうです。
 
そのための写真等を拝借、さらに高村家には了承を求めるといった意味合いで、両家を御訪問、双方の事業に関わらせていただいている当方も、道案内を兼ねて同行いたしました。
 
まずは千駄木二丁目の高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のお宅にお伺いしました。事前に十和田市の方から、こういう写真などを借りたいという連絡が入っていて、いろいろご準備して下さっていました。
 
「乙女の像」に関わる写真だけでも300枚ぐらいはあるのではないかと思いました。さまざまな制作段階の写真、小型、中型、手のそれぞれの試作をあらゆる角度から撮影したもの、関係者の集合写真、除幕式や除幕直後のようすなどなど。これまでに刊行された書籍に使われていないものがほとんどでした。

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特に興味深かったのは、鋳造を担当した伊藤忠雄の工房で、十和田湖に作られる台座と同じサイズの木枠を作り、二体の位置関係を試行錯誤しているもの。確かにこういう作業をしないことには、いきなり現地で設置できませんが、「こんなことをやっていたんだ」という感じでした。
 
これらは十和田湖畔にオープンする「ぷらっと」の展示、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『乙女の像のものがたり(仮題)』に使われるわけです。
 
続いて、同じ千駄木の五丁目にある、髙村家に004お邪魔しました。明治25年(1892)に、光雲一家が谷中から移って以来、住み続けた場所です。光太郎も明治45年(1912)に近くにアトリエを建ててもらうまでここに住んでいました。その前年に、智恵子が先輩芸術家を訪問し、話を聞く一環として、光太郎と初めて出会ったのも、ここです。
 
建物自体は、戦後に建て替えられれているのですが、庭の木は光太郎が住んでいた頃にはすでにあったものです。幼い光太郎が登って遊んだという椎の木です。
 
長男の光太郎に代わって家督を継いだ、三男の豊周(鋳金家・人間国宝)の子息、規氏(写真家)が、この家を守り続けてこられましたが、この夏、ご逝去。現在は、そのご子息で、やはり写真家の達(とおる)氏がお住まいです。
 
髙村家はやはり十和田のみなさんと、昨年の11月にお邪魔して以来でした。その時には、スタジオの一角で、規氏のお話を興味深く拝聴しました。その時のお話が、インタビューの形式で、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『乙女の像のものがたり(仮題)』に掲載されます。ご期待下さい。
 
当方、手土産に、当方在住香取市特産の梨を持って参りました。達氏いわく、「父の好物だった」とのことで、それはよかった、と思いました。
 
今後、十和田の方々は、持ち帰った資料を整理し、展示に、記念誌の編集にと、お忙しい日々と存じます。それぞれに立派なものが出来上がるように願ってやみません。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月10日
 
昭和33年(1958)の今日、筑摩書房から『高村光太郎全集』第18巻「翻訳三」が刊行され、全18巻の刊行が完結しました。
 
その後、平成に入って、補遺巻が3巻、別巻1巻の4巻が追加された増補版が刊行されました。その際には旧刊18巻分の解題も全て書き直されました。
 
その中心になられたのが、北川太一先生。来年には満90歳になられます。まだまだこれからもお元気で、ご活躍なさっていただきたいものです。

滋賀県からイベント情報です。 

じんけんフェスタしが2014

日時  平成26年(2014年)9月20日(土曜日) 10時00分~16時00分
     (全体開場9時00分、大ホール開場9時30分)
場所  守山市民ホール(滋賀県守山市三宅町125番地)   
主催  滋賀県  滋賀県人権啓発活動ネットワーク協議会
後援  守山市 守山市教育委員会
テーマ うたの力と人権   スローガン 支えあい、助けあい、認めあい
 
守山市民ホールの敷地、施設をフルに使って、さまざまなことが行われるようです。
 
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その中で、小ホールに「人権啓発ビデオコーナー」が設けられており、以前にご紹介しましたが兵庫県人権啓発協会さん企画、東映さん制作の40分程のドラマで「ほんとの空」という作品が上映されるようです。
 
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制作元のサイトから、あらすじを抜粋します。
 
 向井弓枝は、パート先のスーパーで、高齢の客のおぼつかない行動に不快感を持つ。自宅のマンションのエレベータでも、高齢の人や障害のある人に対してイライラを募らせる。弓枝は、面倒な人が多く住むこのマンションではなく、一戸建てや新築マンションに引つ越したいと、夫の勇に訴える。
 
 弓枝の一人息子の輝は、空オタクだ。いつも空や雲のことを考えていて友だちもいない。カメラを抱えた輝が自宅に帰つてくると、隣の部屋のドアが開き、見知らぬ外国人が引越をしている。外国人に対して偏見を持つている弓校と勇の話を聞き輝も「みんな不法滞在なんだから送り返せばいいJと言う。
 
 輝がマンションの屋上に行くと、同じ年頃の少年 龍太が空にカメラを向けていた。空好きの二人は意気投合し、輝は龍太を家に招く。夕食をいただいたお礼にと 龍太の母の美里が、故郷福島の草木染めの布を持つてくる。最初は喜ぶ弓枝だつたが、パート仲間の意見もあり 放射能への恐ろしさから布を捨ててしまう。そしてそれを、龍太がゴミ置き場で発見する。
 
 学校からの帰り道、輝は、龍太が同級生たちから放射能のことでいじめられているのを見つけ加勢するが、二人とも投げ飛ばされる。同級生を非難する輝に、「お前も同じだろ」と龍太は叫び、「草木染めをなぜ捨てたのか」と詰め寄る。それを同じマンションの高齢者、千代子とタイ人ロークが止める。帰宅した輝は母を責め、家を飛び出す。
 
 輝を探す弓枝と勇。輝は、隣のタイ人夫婦□―クとノイのところにいた。夫婦はタイ料理店で働いていて、店を持ちたいので試食してほしいと申し出る。皆で食卓を囲みながら、ノイの思いを知つた輝は、廊下の鉢植えを割つたことを謝り、勇も偏見を持つていたと告げる。握手をする勇と□―ク。その様子を笑顔で見つめる弓枝は ふと台所の隅に 自分が捨ててしまった草木染めがあることに気づく。
 
 ノイから 草木染めを譲つてもらった弓枝は 美里の家に。そして自分の気持ちを伝えようとするが……。
 
 
福島の原発事故による風評被害、いわれなき差別を扱っています。そこでタイトルが光太郎詩「あどけない話」から採った「ほんとの空」というわけです。白石美帆さん他のご出演です。
 
地方のテレビでオンエアされたり、やはり地方のイベントで上映されたりし続けています。じわりじわりと世の中に滲透していってほしいものです。そのためにも全国ネットでのテレビ放映が望まれます。当方も未見です。
 
さて、「じんけんフェスタしが2014」。滋賀県域のみなさん、ぜひ足をお運びの上、「ほんとの空」をごらん下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月9日
 
昭和51年(1976)の今日、JR東北本線二本松駅に、光太郎詩「あどけない話」の一節を刻んだ詩碑が建立されました。
 
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二本松霞ヶ城の石垣を模した駅の外壁に、黒御影のプレートが嵌め込まれ、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ/高村光太郎」と刻まれています。光太郎自筆原稿からの採字です。
 
碑にはこころもち傾斜がついており、かつてはよく晴れた日には上記画像のように、「ほんとの空」が反射して青く見えました。現在はバス停の屋根が映ってしまい、こうは見えません。残念です。

昨日に引き続き、光太郎の父・高村光雲に関する新着情報です。

シンワアートオークション 近代美術

開催日 2014年 9月27日(土)
時間 17:00
会場 シンワアートミュージアム
下見会 シンワアートミュージアム
 2014年 9月24日(水)~9月26日(金) 10:00~18:00
 2014年 9月27日(土) 10:00~12:00 
カタログ 4,000円
出品点数 176点
落札予想価格下限合計 3億6,175万円
 
主な出品作品
高村光雲 「大黒天像」 H14.9cm 木彫 大正13年作 落札予想価格:\5,000,000.~\8,000,000
 
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東山魁夷「湖光る」/荻須高徳「Marchand de Charbon à Vanve, Paris」/ピエール=オーギュスト・ルノワール「Buste de Femme」
 
以前にも光雲作品が出たのでご紹介したシンワアートオークションさんでの、新たな入札会です。
 
 
もう1件。
2014/9/12(金)~14(日)
 
年間で最も大切な祭事であり、かつ盛大に執り行われる日枝神社の例祭のことです。
また、お三の宮秋祭りでも知られており、現在は九月中旬、敬老の日前の金土日に行われ、『神奈川の祭り五〇選』にも選ばれています。

横浜随一の大神輿による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小40基にも及ぶ町内神輿連合渡御がイセザキ町などを練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会や、児童園児による書画の作品展などが催され、縁日や献灯で賑わいます。
 
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横浜は南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。年中行事ですので、このブログでも一昨年昨年と紹介いたしました。光雲作の「火伏神輿」も出ます。13日(土)の13時から、伊勢佐木町を練り歩きます。3日の間で練り歩かないときは有隣堂さんの前に、やはり光雲作の獅子頭とともに展示されるとのことです。
 
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今年は見に行ってみようかな、と思っております。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月8日
 
昭和17年(1942)の今日、光太郎が背の文字を揮毫した佐藤隆房著『宮澤賢治』が冨山房から刊行されました。
 
佐藤隆房医師は、総合花巻病院を開いた宮澤賢治の主治医。その関係で、賢治を広く世に紹介した光太郎と知り合いました。昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役かってもいます。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしました。その後も足かけ8年岩手で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後も花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
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島根から、光太郎の父・光雲の関連での新着情報です。 

新安来市発足10周年記念事業 「米原雲海とその系譜展」

新安来市発足10周年記念事業として和鋼博物館と共催。  
安来市加納美術館では 「米原雲海とその系譜展」と題し、雲海の師弟・同門の方々の作品を展示。
 
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日 時  2014年9月18日(木)~10月20日(月) 火曜休館 9:00~16:30
場 所  加納美術館  〒692-0623  島根県安来市広瀬町布部345-27
料 金  一般1,000円 高校生以上の学生500円
 
正確には、安来市内の「和鋼博物館」「加納美術館」「安来市観光交流プラザ」の3箇所で同時開催で、和鋼博物館では「米原雲海彫刻展」、観光交流プラザでは「現代彫刻家展」が開催されます。
 
加納美術館さんの「米原雲海とその系譜展」で、光雲の作品も展示されます。
 
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米原雲海は光雲の弟子の中でも、力量の高かった一人。信濃善光寺の仁王像を、光雲と共に制作しています。
 
他に雲海の兄弟弟子、山崎朝雲、加藤景雲ら、さらに雲海の弟子に当たる木山青鳥らの彫刻も、「系譜」ということで出品されます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月7日
 
明治43年(1910)の今日、光太郎が装幀と表紙の装画を担当した吉井勇歌集『酒ほがひ』が刊行されました。
 
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 ペルシャ文字があしらわれています。

やはり先月発売の雑誌から。 

山口百恵「赤いシリーズ」DVDマガジン vol.12

2014/08/12 講談社 定価1,514円+税
 
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'70年代に大人気だった、山口百恵さんと三浦友和さんによる「赤いシリーズ」。隔週火曜日発売で、全38巻、各巻に3話ずつ収録されたDVDがついているというものです。
 
この中で、やはり毎号「プレイバック 百恵の言葉」というコーナーがあり、当時のインタビューなどから百恵さんの言葉を紹介しています。この号のテーマは「愛読書」。昭和51年(1976)3月の『平凡パンチ』、同じ年4月の『週刊プレイボーイ』に載ったインタビューから、当時の百恵さんの愛読書を紹介しています。構成、文は中川右介さん。
 
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百恵さんが真っ先に挙げたのは、「智恵子抄」でした。
 
智恵子が狂っても死ぬまで愛した高村光太郎の愛に感動するのヨ。ああいう愛は、現代にはもうありませんネ。
 
私は智恵子のように深く愛されたいし愛したい。ただただそう願っているんです。
 
愛、愛というけれど、光太郎は口では愛を語らないけど、一歩さがったところで智恵子を見守っている。そんな愛ってステキ
 
やはり昭和51年(1976)刊行の『山口百恵の本 もう一つ百恵』(集英社)という本の中には、「詩情の世界 百恵の智恵子抄」という8ページの記事が載っています。
 
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百恵さんが犬吠埼、二本松と、「智恵子抄」ゆかりの地を歩くというもので、故・髙村規氏の写真が使われています。
 
この中では、こんな発言も。
 
私は中学1年の時、はじめて「智恵子抄」を手にし、その後、何度も何度も読み返し、胸を熱くさせてきました。
 
当時の智恵子は非社交的だったといわれています。私に似ていると思いませんか。
 
光太郎は智恵子のことをこういっています。「自分のつくったものを熱愛の目をもって見てくれるひとりの人があるという意識ほど美術家にとって力となるものはない」と。私には、とてもよくわかるんです。私の歌も結果的にはたくさんのファンのためのものとなることもあるでしょう。けれども歌う心はそのひとりの人に聞いてもらいたいだけで、すでにいっぱいなのだから……。
 
DVDマガジンの「プレイバック 百恵の言葉」を書かれた中川氏は、こうした百恵さんを「恐るべき17歳」と評しています。
 
それにしても、百恵・友和コンビでの「智恵子抄」というのも、見てみたかったと思います。
 
DVDマガジン、ネットで取り寄せることも可能ですし、大きめの書店なら、最新号でなくとも店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月6日
 
昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、詩人の竹内てるよが訪ねてきました。
 
光太郎は戦前から戦中にかけ、何度も竹内の詩集の題字を揮毫していましたが、実際に会うのはこの時が初めてだったそうです。

男性雑誌『BRUTUS』の、最新号ではなく、一つ前の号です。 
2014/08/16 特別定価680円
 
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メインは雑誌『暮らしの手帖』編集長で、エッセイストとしても活躍されている松浦弥太郎さんによる、「男の一流品」の紹介です。
 
ちなみに「一流品」の定義は以下の通り。
 
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なるほど、ですね。
 
で、実に雑多なものがいろいろと紹介されています、衣服、雑貨、クラシックカー、書籍、家具、スポーツ用品、食品、アナログレコード……。
 
その中の一つがこちら。光太郎揮毫の色紙です。
 
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「詩とは不可避なり」と読みます。戦後、花巻郊外太田村の山小屋時代に書かれたものと推定されます。
 
実にのびのびと書かれていますが、余白の使い方など、真似の出来るものではありませんね。「不可避」という熟語の途中で改行してしまうあたりも味噌です。これを「詩とは/不可避なり」と二行にしてしまったり、「詩とは/不可避/なり」と改行したりしては、この絶妙なバランスは生まれないように思います。
 
この色紙、松浦さんの所有ではなく、東京本郷の古書店・森井書店さんで扱っている商品です。
 
9月に入ってから、森井書展さんのサイトを見てみたところ、トップページにこの色紙が『BRUTUS』で紹介された旨の記述があり、あわててバックナンバーを版元から取り寄せた次第です。店頭に並んでいるうちにご紹介できればよかったのですが、申し訳ありません。
 
さて、もう一つ、「一流品」として、4ページにわたって、盛岡の「ホームスパン」が取り上げられています。
 
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「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた、羊毛を使った織物。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。また、松浦さんはかつて文京区にあった立原道造記念館でホームスパンを見て、ずっと憧れていたとのこと。
 
松浦さんが訪ねたのは、盛岡の蟻川工房さん。この記事では紹介されていませんが、光太郎と深い関わりがあります。
 
こちらは岩手のホームスパン普及に貢献した及川全三の流れをくむ工房です。現在、工房を切り盛りされている蟻川喜久子さんの亡くなった御主人は、及川の愛弟子・福田ハレ子の子息。光太郎は、花巻郊外太田村で暮らしていた頃、及川や福田にホームスパンの服をよく作ってもらっていました。及川の弟子の一人に、太田村出身の戸来幸子という人もいて、この人を介することが多かったようです。また、昭和27年(1952)に、十和田湖畔の裸婦群像制作のため、岩手を後にしてからも、ホームスパンの服を愛用し続けていました。
 
今年2月から6月にかけて、盛岡てがみ館さんで開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」では、福田と戸来にあてた新発見の書簡も展示されました。やはりホームスパンや及川に関する記述がありました。
 
さて、『BRUTUS』 №784 。もう店頭には並んでいませんが、版元のマガジンハウスさんのサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月5日
 
明治10年(1877)の今日、光太郎の姉・さく が誕生しました。
 
光雲・わか夫妻の初めての子供です。長じて狩野派の日本画を学び、将来を嘱望される腕前を身につけつつありましたが、明治25年(1892)、数え16歳で早世してしまいました。
 
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右上は、さくの描いた光太郎八歳の姿です。
 
光太郎はこの6歳上の姉を、非常に誇りに思っていたそうです。

昨日の『朝日新聞』さんに、第37回全日本おかあさんコーラス全国大会の模様を紹介する大きな記事が出ました。
 
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こちらは全日本合唱連盟さんの主催で、8月23日(土)24日(日)の2日間、新潟市のりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館で行われました。
 
調べてみたところ、東京代表の団体が、光太郎がらみの曲を演奏してくださったとのこと。
 
以下、朝日さんの東京版、先月末の記事から。

東京)2団体がひまわり賞 おかあさんコーラス

 新潟市中央区の新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあで開かれていた第37回全日本おかあさんコーラス全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催、キユーピー協賛)に24日、都内から4団体が東京支部代表として出場。「女声合唱団ジュディ」「舫(もやい)の会女声合唱団」が優秀賞にあたる「ひまわり賞」を受賞し、「グローリア女声合唱団」「アンサンブル ウィスタリア」が「おかあさんコーラス賞」を受けた。
 「ジュディ」と「舫の会」はいずれも指揮者の岸信介さんが指導。信長貴富作曲「世界中の女たちよ」の中からそれぞれに選曲し、反戦のメッセージを発信した。
 「ジュディ」の37人は、息子の死体を捜す母は私でありあなただと歌う曲「たくさんの私」に、戦争の残酷さを浮き彫りにした。福嶋浩美代表(55)は「女性でなければわからない悲しみや、平和を祈る気持ちを、全世界に発信したいと思って歌いました」。
 「舫の会」の75人は、白い総レースのドレスをまとい、「温かいシチュー」を披露した。鍋をかき回し、温かいシチューをつくって、男たちを戦いに行かせないようにしよう――そう世界中の女性たちに呼びかける歌詩を、力強いハーモニーでダイナミックに歌った。茂木やゑ代表(72)は「今、どうしても伝えておきたい、という思いがあって。たくさんのおかあさんたちに、この歌を歌い継いでほしいと願いながら、歌いました」と話していた。
 「グローリア女声合唱団」は2回目の全国大会。18人とは思えない豊かな声量で、美しいハーモニーを響かせた。佐藤賢太郎作詩作曲の「女声合唱とピアノのための合唱組曲『文学へ』」から「ぼうず」「君が見た空」の2曲を披露。百人一首を使ったかるた遊び「坊主めくり」がテーマのコミカルな「ぼうず」も、高村光太郎の「智恵子抄」がテーマで旋律が美しい「君が見た空」も、きれいに合わせるのが難しかったという。田中美知子代表(71)は「全国大会では初めて発信する曲なので、歌ってみたいと思ってもらえるよう頑張りました」と話した。
 藤澤幸義子さん指揮の「ウィスタリア」は初出場。団員13人は木下牧子作曲の「にじ色の魚」「鷗(かもめ)」を、戦争で死んだ若者たちを思う女性の視点に立ってしっとりと歌った。「声高に叫ぶのでなく、静かに平和を願う母なる思いを表現しました」と藤田久美子代表(55)。
2014.08.25
 
佐藤賢太郎氏作詞作曲の「女声合唱とピアノのための合唱組曲『文学へ』」、一昨年に発表されたものだそうですが、楽譜が市販されておらず、今回の報道があるまで存じませんでした。ただ市販されていませんが、PDFで見ることができます。ただし「No copy」の文字が出るのでそのままプリントアウトすることは不可能です。正式な楽譜は佐藤氏に申し込んで取り寄せるという形なのでしょう。またmp3で演奏を聴くこともできます。
 
歌詞は光太郎の「あどけない話」をベースに佐藤氏が作詞したものです。「高村光太郎作詞」というわけではないので、今まで見落としていました。
 
ゆったりとしたテンポで、記事にもある通り、メロディーラインの綺麗な曲です。安達太良山の上に広がる雄大な「ほんとの空」が目に浮かぶような曲です。
 
組曲としての他の曲は『枕草子』へのトリビュート「朝の藤棚」、『小倉百人一首』に題をとった「ぼうず」、松尾芭蕉へのオマージュ「旅に」となっています。
 
全国の女声合唱団の皆様、レパートリーに加えられてはいかがでしょうか。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月4日
 
昭和8年(1933)の今日、智恵子ともども栃木県塩原温泉を訪れました。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。昨年焼失した不動湯温泉、裏磐梯などを廻り、その最後に訪れたのが塩原です。しかし、9月中旬に東京に戻ったときには、智恵子の症状はさらに悪化していたそうです。
 
下記は塩原で撮られた一枚。現在伝わっている、智恵子最後の写真です。
 
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去る8月9日、宮城県は女川町で、第23回女川光太郎祭が開催されました。
 
いくつかのメディアで報道されていますので、ご紹介します。

女川・仮設商店街で「光太郎祭」 町の“文化遺産”しのぶ

 女川町を訪れ、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第23回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、同町浦宿浜の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で開かれた。

 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が連作詩「暗愚小伝」を題材に、生い立ちや家庭環境などを解説した。

 光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎の詩文は町の文化遺産。当時の女川をしのびながら詩を詠んでほしい」とあいさつ。遺影に献花した後、地元の小学生らが女川を題材にした「よしきり鮫」などの詩を朗読した。

 文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長の講演、歌やギター演奏の披露もあった。

 祭りは、光太郎が三陸の旅に出発した1931年8月9日にちなみ、92年から毎年開催。91年に女川港に建てられた三つの文学碑は東日本大震災で二つが倒壊し、一つは行方不明になっている。
 
『石巻かほく』2014.08.15
 
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光太郎の詩の世界に浸る 第23 回「女川・光太郎祭」

 彫刻家・詩人として知られる高村光太郎が、時事新報の委嘱で三陸地方へと旅立った8 月9 日、きぼうのかね商店街で第23回「女川・光太郎祭」が開催されました。
 この旅行中に光太郎は女川へも立ち寄り、「三陸沿岸では一番新しい、一番きれいな水揚げ場だ。(中略)女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。」と評しています。
 この日はあいにくの雨模様でしたが、しっとりとしたギターの音色をバックに詩が朗読され、参加者は光太郎の目にした女川を想い、詩が描きだす独特の世界に浸りました。
 
『広報おながわ』 2014.09.01
 
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女川「光太郎祭」で講演

 女川町でこのほど、詩人・高村光太郎の顕彰式典「光太郎祭」が開かれた。83年前に詩人が三陸へ向けて東京を出発したこの日に式典を開催して今年で23回目。連作詩「暗愚小伝」について講演があり、戦争協力に及んだ詩人の軌跡に約50人が耳を傾けた。
 式典は、仮設商店街にテントを張って開かれた。文学碑3基の大きな写真が囲むステージで、研究者の小山弘明さん(49)が「暗愚小伝」を読み解く。
 小学校時代をこう描く。「身を捧げるといふことの どんなに貴いことであるかを、先生はそのあとでこんこんと説いた。みんな胸をふくらませてそれをきいた」。小山さんは「このような教えが『三つ子の魂百まで』と言うように、戦争協力につながっていったのではないか」と解説した。
 光太郎研究の大家、北川太一さん(89)も式典に出席して、「戦争中の自分を『暗愚』と名付けたことは大事」と指摘した。「今また戦争に巻き込まれるかもしれない雰囲気が漂っている」と現代に重ねた。
 光太郎は1931年8月9日、三陸へ向けて東京を出発し、女川港で作品を残した。町で養鶏業を営んでいた画家の貝廣(かい・ひろし)さんがそれを知り、有志と共に町内外の3721人から寄付金を集め、91年に女川港のそばに文学碑を建てた。
 その後、毎年8月9日に碑の前で顕彰式典を開いている。公費に頼らない手弁当の式だ。貝さんは東日本大震災の津波で命を落とした。64歳だった。貝さんの妻や友人は遺志を継ぎ、中断させずに震災の年も式を開催した。津波で被災した碑は今、再建の日を待っている。
 毎回、町の人々が詩の朗読も行う。今回は高校生らと一緒に女川小学校6年生も参加。「道程」を千葉あいかさん(11)、「花のひらくやうに」を鈴木明梨さん(11)、「山のともだち」を成田千夏さん(12)が読み上げた。「みんなが真剣に聞いてくれたので良かったです」と鈴木さん。
 ギター奏者の宮川菊佳さんやオペラ歌手の本宮寛子さんも出演。本宮さんは強い風雨の音をかきけすようにソプラノを響かせた。
 
『朝日新聞』 2014.09.02
 
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『広報おながわ』は月刊ですので、9月1日にでるだろうと思っていたところビンゴでした。すると、翌日には『朝日』さんの宮城版に載ったようです。この手の地方でのイベントは、少し経ってから報道されることが多いものです。『石巻かほく』さんは約1週間後に掲載されました。
 
『朝日』さんからは、今年3月に表参道で行われた「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」/トークイベント、同じく6月の二本松の智恵子のまち夢くらぶさんの女川訪問の際にお世話になった、石巻支局の小野智美さんが取材にいらしていました。そのわりに記事にならなかったので、ボツかな、と思っていましたが、昨日、大きく取り上げて下さったようです。
 
8月25日、BS日テレさんの「深層NEWS」という番組に、女川の須田善明町長がご出演なさったので、拝見しました(光太郎がらみの話はありませんでした)。その中で、「人口減少率日本一」というお話が出て、驚きましたが、その後、女川再生に向けてのコンパクトな街づくり的な構想について語られていました。「光太郎ゆかりの町」的な側面でも進めて行っていただきたいものです。
 
ついでに書くと、8月30日のBS朝日さんの「いま日本は」という番組では、レギュラーコメンテーターの中村雅俊さんによる女川訪問、「中村雅俊が巡る被災地の未来 故郷・女川 おもいで旅(1)」が放映されました。女川光太郎祭の会場でもある「きぼうの鐘商店街」でのロケもありました。(2)があるはずなのですが、まだ放映予定が出ていません。
 
また、BS12(トゥエルビ)さんの「未来への教科書~For Our Children~」という番組(8月中に4回放映されました)で、仮設住宅に暮らしていく中で放課後に勉強する場を失ってしまった子供たちのために始められた事業・女川向学館が取り上げられ、中学生が英語で自分達の故郷・女川町をプレゼンテーションするという活動が紹介されていました。
 
さらについでに書くと、地上波NHKさんで、近々、以下の放映があります。 

特集 明日へ−支えあおう−「妻を探して海へ」

NHK総合 2014年9月7日(日)  10時05分~10時53分
去年秋、宮城県女川町のバス運転手・高松康雄さんは地元のダイバー高橋正祥さんを訪ねた。「妻をこの手で探したい」。勤め先の銀行で津波にあった妻は行方不明、手元に残るのは地震直後に妻から届いた「かえりたい」というメールだけだ。57歳になる高松さんは、高橋さんと厳しい訓練を重ねて潜水免許を取得。この夏、妻を探すため初めて海に潜る。手がかりは見つかるのか。訓練開始から1年、高松さんの妻への思いに密着する。

被災地からの声「宮城県女川町」

NHK総合 2014年9月8日(月)  26時15分~26時38分 =9月9日(火)2時15分~2時38分
被災地で出会った方々に、「いま一番言いたいこと」をうかがい、その思いをスケッチブックに書いてもらった上で、思いの丈を語っていただきます。今回は、宮城県女川町でお聞きした声をお届けします。
 
 
こういう番組を通し、女川の現状、町民のみなさんの今の思い等、しっかり受け止めて行きたいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月3日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、和賀郡藤根村(現北上市)の高橋峯次郎が訪れ、平和観音堂についての相談をしました。
 
高橋は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれの元小学校教師。自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、光太郎に本尊の彫刻を依頼しに来ましたが、あいにく光太郎は彫刻を封印している最中でした。代わりに光太郎は自作の詩「観自在こそ」を揮毫、高橋に贈りました。その書は石に刻まれ、現在も北上市後藤の、高橋の建てた観音堂境内に残っています。
 
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詩は以下の通り。
 
観自在こそ たふとけれ 
まなこひらきて けふみれば
此世のつねの すがたして
わがみはなれず そひたまふ
 
平安時代に流行った「今様」の形式による観音讃仰の内容です。高橋は「文字で表された仏様」と感激したそうです。
 
ちなみに高橋の元には、教え子たちからの7,000通を超える軍事郵便が届き、平成13年(2001年)には、それを紹介する岩手めんこいテレビさん制作の「土に生きる ~故郷 ・家族、そして愛~」が放映され、反響を呼びました。
 
500人もの教え子を戦地に送り、その3分の1が骨になって帰ってきたという過酷な体験から生まれた観音堂。「わが詩を読みて人死に就けり」と書いた光太郎にも、高橋の思いが我がことのように身に染みたのでしょう。高橋と光太郎、一個人によるものではありますが、どこぞの何とか神社などとは違う、これこそ戦没者追悼の顕現ですね。

岩手の地方紙、『岩手日日』さんの報道です。 

展示計画概要を説明 花巻市 光太郎記念館改修で (08/27)

 花巻市太田の高村光太郎記念館の展示改修に向けた市による2回目の説明会は25日夜、太田振興センターで開かれた。4月の説明会以降、市に寄せられた意見の検討結果を報告し、主に2014年度事業で進める展示改修の概要を説明した。

 地元の住民ら19人が参加。市生涯学習交流課が展示と施設改修の基本設計や周辺環境整備、運営方法に関わる40件余りの意見・要望への検討案を説明した。

 この中、研究者や学生が調べものをできるスペースを確保してほしいという要望に「事務室や休憩コーナーで対応する」として事務室を当初計画の約1・5倍に広げ、トイレの位置を移す設計変更を説明。高村山荘を望む窓の設置に関する要望には「建物の構造上、実現は困難」と理解を求めた。

 施設は、彫刻作品や映像中心の展示室1を「動」、作品解説と生涯を紹介する展示室2を「静」の空間とし、図書が閲覧できる休憩室、企画展示室も配置。展示室2は、山荘暮らしや県内著名人との関わりなど六つのゾーンで紹介する。

 山荘そばにある智恵子展望台への遊歩道の改修や駐車場舗装工事、屋外公衆トイレ改修、敷地内案内看板の設置のほか、15年度に予定する杉木立の伐採や詩碑前広場の改修案も説明した。

 参加者からは「開館日ごとの日付に合わせて光太郎の日記を紹介しては」「立木はどれを切るかでなく、どれを残すかの発想で取り組むべき」「山荘裏山の地滑り対策を」など貴重な意見や提案が相次いだ。

 細川祥市生涯学習部長は「地元の人たちの思いを大事に相談しながら進めたい」と語った。

 同記念館は、光太郎が晩年の7年間を過ごした高村山荘そばの旧記念館に代わり、近くの旧花巻歴史民俗資料館を活用して13年5月に暫定オープン。市は9月にも展示関係を発注し、10月から施設改修に入り、冬季は閉館して本格工事を進め、年度内の完了を目指す。
 
 
昨日発行の『広報はなまき』に関連情報が出るかと思って、ブログでの紹介を待っていましたが、ざっと見たところ、ありませんでした。
 
 
また、4月のこのブログで、その時点で公開されていた図面を載せましたが、より詳細な図面もPDFでアップされています。
 
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昨秋、施工業者のプロポーザルに委員として参加しましたが、その時点では、さっさと改修を済ませようという、いわば拙速に進める感がありました。しかし、その後、市長さんが替わり、このように住民のみなさんの意見も取り入れてじっくりやっていく方向に転換したとのことで、非常に素晴らしいと思います。これぞ民主主義ですね。
 
現在の記念館昨年5月仮オープンの段階でもかなり充実していますが、いまある展示室のさらに奥、かつて歴史民俗資料館だった頃に収蔵庫として使っていたスペースも第2展示室となるなど、さらに進化してゆきます。
 
ご期待下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月2日
 
昭和51年(1976)の今日、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の夜の部で、北條秀司脚本「智恵子抄」が上演されました。
 
智恵子役は有馬稲子さん、光太郎役は今年の初めに亡くなった高橋昌也さんでした。
 
二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏が、「智恵子に扮する有馬稲子像」としてこの際の有馬さんを描き、二本松駅前にある大山忠作美術館さんの目玉の一つとなっています。
 
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それが縁で、昨年は同館で有馬さんと、大山画伯のご長女、女優の一色采子さんとのトークショーが実現しましたし、さらにそれが縁で、一色さんは今年の連翹忌にご参加下さいました。
 
このようにして人と人との縁というものが広がって行くのですね。

昨日の続きです。
 
8/30(土)、四ッ谷の紀尾井ホールにて、合唱の演奏会「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」を聴いて参りましたが、今日はまず会場に入る前の話から。
 
四ツ屋駅から紀尾井ホールを目指して歩いていたところ、ホールの建物のすぐ隣に、こんな看板を見つけました。
 
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「尾張名古屋藩屋敷跡」は関係なく、左の方です。「ああ、ここが福田家さんか!」と驚きました。
 
福田家さんは、戦前から続く料亭で、昭和20年(1945)に紀尾井町に移転したとのこと。ここで(もっとも、建物は当時のものではなく、近代的なビルになってしまっていますが)、昭和27年(1952)の10月に、光太郎と元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよとの座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」が行われ、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。
 
さらにその前後の同誌に載った「編輯室便り」から。
 
  美しき因縁
 
「この世は美しいよ。やつぱりいゝことはするもんだなあ」
 と感激性のH記者。老詩人高村光太郎先生を囲む座談会から先生を送つて帰社するなりひどく感心した様子で語り出した――
 座談会は、千代田紀尾井町の福田家といふ旅館で開いたが、座に着いた高村先生
「僕の山の家へね、食糧不足のころ、二度も沢山の食物を送つてくれた人があるんです。紀尾井町の福田さん……この家ぢやないかな」
 と感慨深さう。
 女中さんに聞いてみると、やつぱり先生の推察どほり、贈主は、この五月に亡くなつた先代主人福田マチさんだつた。
 福田さんは隠れた篤行で、これまでもしばしば話題になつた人、新聞か雑誌で高村先生の御生活を読んだことから、慰問品を送つたものらしい。
「お礼も云はず失礼したが……」
 高村先生は滅多に書かれない筆をとつて、福田家さんのために「美ならざるなし」と色紙に認め、心からほつとした面持。
 偶然選んだ会場ながら、思はぬ美しい因縁話で、かくはH記者を感心させた次第だつた。
 
 
その際に光太郎から贈られた色紙がこちらです。
 
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上記記事、画像とも福田家さんで非売品として出した『福田マチ』(昭和28年=1953)という書籍から採りました。
 
見知らぬ光太郎に援助をした福田家さんの女将も偉いと思いますが、何年も経って、それを忘れないでいた光太郎も偉いと思います。実は光太郎に食糧を送ったという人はかなりの数に上ります。
 
そういう縁のある福田家さんが、コンサート会場紀尾井ホールのすぐ隣でした。
 
さて、「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」。光太郎作詞、三好真亜沙さん作曲になる「女声合唱とピアノのための 冬が来た」については昨日書きましたので、他の演奏について。
 
昨日も書いた通り、カワイ出版さん、ジョヴァンニレコードさんの協賛、協力により、若手作曲家に作曲の場を提供し、一流合唱団の初演と楽譜出版を同時に行い、さらにライヴ録音がCD化されるという企画です。今回は、4篇の合唱組曲と、編曲が1篇、初演されました。
 
三好さんのもの以外に初演された合唱組曲は以下の通りです。
 
宮岡絵美作詞、増井哲太郎作曲 混声合唱とピアノのための「平行世界、飛行ねこの沈黙」
水無田気流作詞、田中達也作曲 男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」
工藤直子作詞、名田綾子作曲  混声合唱とピアノのための「いのち」

何度か書いていますが、当方、混声合唱をやっております。所属する団は、指導者が大中恩先生の弟子で、千葉県のアンサンブルコンテストで銀賞をいただいたこともあり、そこそこ本格的にやっています。しかし当方は不真面目な団員で、週1の練習の時にしか楽譜を引っぱり出さず、しかも楽譜を見ながら歌う習慣が身についてしまっており、「次の本番は暗譜」と言われるとお手上げです(笑)
 
そういう立場で聴くと、それぞれ一流合唱団( CANTUS ANIMAEさん、なにわコラリアーズさん、松原混声合唱団さん)の演奏でしたので、素晴らしいものがあり、真剣に音楽に向き合っていない我が身が恥ずかしくなりました。
 
特によかったのが、名田綾子さん作曲の混声合唱とピアノのための「いのち」、終曲の「もしも」。「のはらうた」のシリーズなどで有名な、工藤直子さんの詩です。
 
 もしもいま いなくなるとしたら
 ここに こうしている
 「わたし」のままで いたい
 もしもいま いなくなるとしたら
 星のように月のように
 ほんのり光っていたい
 
 もしもいま いなくなるとしたら
 あちこちを みまわして
 すこし あわててみたい
 もしもいま いなくなるとしたら
 最後に わけしりぶって 
 少し笑っていたい
 
 もしもいま いなくなるとしたら
 空にむかって 大地にむかって
 呼びかけていたい
 
   あなたにあえてよかった
   生まれてきてよかった
   あなたに会えてよかった
   生まれてきてよかった
 
さらに北川昇さん編曲の「花は咲く」 。東日本大震災復興支援ソングということで、繰り返しNHKさんで流れています。当方も何種類かの編曲で何度も歌いました。今さらどのように料理するのだろうと思っていたら、なんとア・カペラ(無伴奏)での編曲でした。歌うはこの日の出演合唱団全員と、三好さんを含む作曲、指揮、伴奏などを務めた方々、総勢百数十人。これも感動でした。
 
周囲には聴きながら涙している人もいらっしゃいました。当方も、あの日、津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣さんを思い出し、目がうるみました。さらに、先頃亡くなった高村規氏、昨年亡くなった鋳金家の齋藤明氏にも思いを馳せました。
 
そんな思いで帰宅したところ、高村規氏の親族の方からお葉書が届いておりました。ご親族として規氏、さらに元歌手の亜留さんのご逝去が続いたことへの思い等、綴られていました。
 
規氏葬儀の御様子、さらににもはや引退されて公人ではなかった亜留さんの訃報、このブログで紹介すべきか非常に迷いましたが、ご存じなかった方、ご存知でも葬儀等に足を運べなかった方のためにも書くべきと判断し、書かせていただきました。情報の発信というのも、なかなか難しいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月1日
 
明治44年(1911)の今日、智恵子が表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が創刊されました。
 
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昭和57年(1982)、暁教育図書さん刊行の『日本女性の歴史 大正の女性群像』という書籍から画像を採らせていただきました。
 
103年前ですが、いま見てもつくづく素晴らしいデザインですね。

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