2014年07月

詩人の間島康子様から、このほど刊行された文芸同人誌『群系』の第33号「<特集>昭和戦前・戦中の文学」をいただきました。
 
間島様の論考「高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている」が、10ページにわたり掲載されています。
 
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以前にいただいた第32号掲載の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」もそうでしたが、卓見です。
 
「のっぽの奴は黙つてゐる」は、昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表された光太郎の詩。その2年前に東京会舘で開催された光雲喜寿の祝賀会での一コマをうたったものです。
 
ただ、間島様の論は、この詩の解釈が中心ではなく、様々な場面で「黙つてゐる」光太郎についてといった趣です。巨匠として世俗的名声を得た父に対しての思い、戦時には意に添わぬ戦争協力詩を書かされている思い、戦後にはそれらを書かされていたことに対する思いなどなど。
 
自己に厳しい光太郎は、そうした思いのうち、自分の暗愚に対しては発言するものの、他に責任を転嫁しません。その結果が、花巻郊外太田村での「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流刑」の意味です。
 
そうした光太郎の「自虐」「孤独」に注目した間島様の論考、卓見です。『群系』さんのサイトから入手可能です。
 
ところで間島様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月31日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、実弟の豊周・君江夫妻、姪の珊子が訪ねてきました。
 
兄弟6年半ぶりの対面です。十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、秋には上京することが決まっており、そのための打ち合わせ的な来訪でした。
 
豊周一家は昭和20年(1945)3月に、信州小諸に疎開。光太郎は「東京に天子様がいらっしゃる間は動かない」と、残ります。結果、4月には空襲でアトリエが全焼、やむなく5月には宮澤賢治の父・政次郎らの招きで花巻に移ります。
 
豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)の、この来訪時の記述が、笑えます。
 
 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
 
微笑ましいですね。

現在、茨城県各地において、第38回全国高等学校総合文化祭・「いばらき総文2014」が開催されています。「文化部のインターハイ」とも呼ばれるイベントです。高校生諸君には、甲子園やインターハイなどの運動系だけでなく、文化系の活動でも頑張ってほしいものです。
 
主催は文化庁および公益社団法人全国高等学校文化連盟(高文連)さん。そちらで、全国高等学校総合文化祭以外に行っている活動の中に、「全国高等学校文芸コンクール」があります。今年で29回目だそうですが、その応募要項の中に「高村光太郎」の文字が。
 
第29回全国高等学校文芸コンクール応募要項

1 趣 旨
 全国の高校生から広く文芸作品を募集し、日本語の力と表現の可能性についての関心を喚起することにより、学校における文芸創作活動の振興と向上を図ることを目的とする。
2 応募資格
 高等学校、中等教育学校の後期課程、特別支援学校高等部、高等専門学校(第3学年までに限る)生徒、 並びに専修学校及び各種学校の修業年限が高等学校と一致している生徒。
3 応募部門
 (1) 小説 1人2編以内(400字詰め30枚以内)
 (2) 文芸評論 1人3編以内(400字詰め20枚以内)
    自由課題 作家論、作品論、文芸思潮など。共同研究も可。
    推奨課題 中島敦(小説の分野)、高村光太郎(詩の分野)、伊藤左千夫(短歌の分野)、
          水原秋桜子(俳句の分野)、枕草子(古典の分野)、モーム(外国文学の分野)、
          共同研究も可。
 (3) 随筆(エッセイ)1人3編以内(400字詰め10枚以内)
 (4) 詩 1人3編以内
 (5) 短歌 1人3首以上10首以内を併記のこと
 (6) 俳句 1人3句以上10句以内を併記のこと
 (7) 文芸部誌 1校1点 平成25年10月1日から平成26年9月18日の間に発行されたもの(中高一貫の部誌・同好会発行によるものも可)
 
6 賞
 (1) 全国高等学校文化連盟会長賞 最優秀賞、優秀賞、優良賞、入選(文芸部誌部門は奨励賞〉
 (2) 文部科学大臣賞 最優秀賞の中から特に優れている作品3点(散文の部、韻文の部、文芸部誌の部に各1点)
 (3) 読売新聞社賞 3点以内
 (4) 一ツ橋文芸教育振興会賞 文芸部誌部門から1点
7 審査結果の発表
 都道府県高等学校(芸術)文化連盟あて通知を以て発表とする。また、上位入賞作品は12月13日刊行予定の「全国高校生文芸集」に掲載発表する。文芸集希望者は返信用の角2封筒に、住所、氏名を書き、300円分の切手を貼って、全国高等学校文化連盟宛に申し込むこと。
8 表彰式
平成26年12月13日(土) 国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて優良賞(文芸部誌部門は奨励賞)以上の表彰式を行う。
 
10 応募締切
平成26年9月17日(水)(消印有効) 受付は8月20日(水)から開始する。

 
光太郎を推奨してくださって高文連さんには、感謝いたします。現代の高校生が、どのように光太郎詩を読むのか、非常に興味があります。
 
光太郎自身、のちに「変な方角の詩」と書いた、詩人の魂の本質から大きく外れた戦時中の戦争協力詩に、なぜかことさらに注目し、「これこそ大和民族の魂の叫びだ」などと、ヘイトスピーチ的なことを平気で言っている人たちがいます。光太郎に対する冒瀆以外の何ものでもありません。
 
これからの日本を背負う若者たちには、独善的で幼稚なナショナリズムをふりかざすことのないようにと願います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月30日
 
平成17年(2005)の今日、詩人の黄瀛(こうえい)が歿しました。
 
黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中001国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。ただし、この彫刻は現存しません。右は、比較的最近見つかった画像です。
 
また、光太郎は、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いたり、さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、保証人になったりしています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
平成12年(2000)には、千葉県銚子に黄瀛の詩碑が建てられ、除幕式に参加。これが最後の来日となりました。
 
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テレビ放映情報です。

日曜美術館 「野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平~」

NHK Eテレ 2014年8月3日(日) 9時00分~9時45分 再放送 8月10日(日)20時00分~20時45分
 
去年、生誕120年を記念した展覧会が開かれたのを機に注目された画家、宮芳平。知られざる魅力に迫る。
 
司 会  井浦新,伊東敏恵
ゲスト   ドリアン助川
 
 いま、一人の無名の画家の絵が、人々の共感を集めている。長野の高校で美術を教えながら、生涯で数千枚に及ぶ油絵を残した宮芳平(みや・よしへい 1893~1971)。
生誕120年を記念して去年から始まった初めての大規模な回顧展が全国を巡回。すると「澄んだ魂から生まれたような絵」「自然、植物への愛情の深さを感じた」「これまででいちばん心にしみる絵画」といった感動の声が無数に寄せられ、都内で開かれた展覧会をアートシーンで紹介すると、「作品をじっくり見たい」「画家のことが知りたい」といった声が番組宛にも届いた。
宮が描いたのは、鮮やかな色と抽象的な形がおりなす長野の自然風景。優しさに満ちた母子の肖像。そして深い精神性を感じさせる、聖書を題材にした聖地巡礼のシリーズ。こうした絵の背景には、若き宮を愛した文豪・森鴎外との交流。教師と画家の狭間で揺れながら、独自の表現へと至る苦悩の日々が秘められていた。家族や教え子の証言、画家自身の言葉から知られざる実像に迫る。
 
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宮芳平は新潟生まれ、東京美術学校卒の画家。歌人の001宮柊二の叔父にあたるそうです。森鷗外の短編小説「天寵」の主人公としても知られています。
 
光太郎とも縁がありました。
 
宮芳平自伝』に、まだ学生の宮が、大正8年(1919)、腸チフスで駒込病院に入院していた光太郎を見舞ったという記述があります。また、宮の遺品の中から、この頃と推定される、光太郎からの葉書も見つかっています。
 
此間はだしぬけにお目にかかつたので却つて大変よろこびを感じました。
お葉書で今のあなたの生活をうらやましいほどにおもひます。 秋頃になつたら一度行つて遊びたくおもつてゐます。 砂の上をころがり廻らない事もう二年余になります。皆さんによろしく
 
そして昭和9年(1934)、信州諏訪で開かれた宮の個展の発起人に、光太郎も名を連ねました。
 
さらに、のちに宮の妻となる駒谷エンが、光太郎彫刻のモデルを務めたこともあるということです。
 
はっきりいって、マイナーな画家でしたが、昨年が生誕120年にあたり、各地で企画展「生誕120年 宮芳平展-野の花として生くる。」が巡回中で、ここにきてスポットがあたっています。同展は長野茅野市美術館、練馬区立美術館、島根県立石見美術館、新潟県立近代美術館と廻り、現在は安曇野市豊科近代美術館さんで開催中です(また稿を改めて書きたいと思っています)。
 
さて、「日曜美術館」。宮と光太郎とのかかわりが、少しでも紹介されればいいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月29日
 
昭和6年(1931)の今日、智恵子が母・センに宛てて長い手紙を書きました。
 
智恵子の実家、長沼酒造は昭和4年(1929)に破産、一家は離散しています。僅かに残った山林の所有権をめぐり、セン、智恵子、弟の啓助の間に内容証明郵便が行き交い、骨肉の争いとなっていました。
 
この頃、センは、中野にあった智恵子の妹セツの嫁ぎ先、齋藤新吉の住まいに、のちに智恵子を看取る智恵子の姪・春子とともに身を寄せていました。しかし、智恵子はこのことを光太郎には秘密にしていたそうです。
 
直後に光太郎は『時事新報』の依頼で、紀行文執筆のため約1ヶ月の三陸旅行に出ます。その間に駒込林町のアトリエを訪ねてきたセンとセツが、智恵子の「異状」に気づきます。
 
この手紙も、文脈はおかしくないものの、非常に追い詰められている様子がうかがえます。
 
母上様
 きのふは二人とも悲くわんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません。われわれは死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。心配しないでぶつ倒れるまで働きませう。生きてゆく仕事にそれぞれとつかゝりませう。私もこの夏やります。やります。そしていつでも満足して死ねる程毎日仕事をやりぬいて、それで金も取れる道をひらきます。かあさん決して決して悲しく考へてはなりません。私は勇気が百倍しましたよ。やつてやつて、汗みどろになつて一夏仕事をまとめて世の中へ出します。悲しい処ではない。そしてそれが自分の為であり、かあさん達の為にもなるのです。
(中略) 
 力を出しませう。私、不幸な母さんの為に働きますよ 死力をつくしてやります。金をとります。いま少しまつてゐて下さい。決して不自由かけません。もしまとめて金がとれるやうになつたら、みんなかあさんの貯金にしてあげますよ。決して悲観して(は)なりません。けふは百倍の力が出てきました。それではまた。

 
のちにセンともども、齋藤一家は九十九里に転居。昭和9年(1934)には、智恵子がここに転地療養することになります。

うっかり気がつきませんでしたが、青森十和田湖で先週開催された「「みなとオアシス十和田湖認定3周年」記念イベント ワンコインで十和田湖 湖上遊覧一周ツアー」の模様が、地元紙『デーリー東北』さんで報じられていました。

普段と違う魅力満喫 十和田湖遊覧ツアー

『デーリー東北』2014年7月23日(水)
 
 十和田湖国立公園協会主催の「ワンコインで十和田湖湖上遊覧一周ツアー」が21日に開催され、十和田市や八戸市など県南地域を中心にした約240人が、定期航路からは見ることのできない名所の見学や市内の合唱団の歌声に聞き入るなど、十和田湖の魅力を存分に楽しんだ。
 十和田湖畔休屋の国土交通省「みなとオアシス」認定を記念したイベントで、今年で3回目。御倉半島東側の東湖や秋田県側の和井内といった普段、遊覧船では回らないポイントを楽しんでもらおうと企画した。
 県内外から437件の応募があり、当選した100件の約200人が乗船。出港に先立ち、同協会の中村秀行理事長が「クルージングを楽しみ、口コミで十和田湖の魅力を発信してほしい」とあいさつ。特別ゲストで招かれた十和田市の合唱団「コールアゼリア」と「ポピュラーコーラス十和田」が十和田湖や奥入瀬にちなんだ歌を披露した。このうち、「湖畔の乙女」は文豪佐藤春夫作詞で、歌い継ぐ会が昨年まで湖水まつり開会式で披露し、地域に親しまれてきた歌で、乙女の像への感謝の気持ちをささげた。
 参加者は合唱団の澄んだ歌声やガイドの解説に耳を傾けながら、写真を撮るなどしてゆったりとした湖上遊覧を楽しんだ。
 五戸町に住む祖母前田愛子さん(63)と共に参加した六戸小2年林琉衣さん(8つ)は「楽しかった。合唱もきれいだった」と満足げ。前田さんは「訪れたことのあるキャンプ場や名所を船の上から眺めることができて良かった」と話していた。(三浦千尋)
 
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遊覧船のデッキで澄んだ歌声を響かせたコールアゼリアとポピュラーコーラス十和田
 
湖畔の乙女」は、光太郎と親しかった佐藤春夫が詩を寄託し、当時三本木高校の音楽教師だった長谷川芳美さん(故人)が曲をつけて誕生しました。昭和28(1953)年の除幕式で同校の生徒らによって披露され、10年後にレコード化も実現。東京・新宿の歌声喫茶で歌われるなど全国的な愛唱歌となったものです。
 
「乙女の像」という愛称がついたのは、この歌による部分もあるのでは、という説があります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月28日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑に殺虫剤DDTを散布しました。

福島からの情報です。

福島県あだたら高原リゾートあだたらエクスプレス(ゴンドラ)往復ご優待券プレゼント!

抽選でペア10組20名様にあだたらエクスプレス(ゴンドラ)往復ご優待券プレゼント!
日本百名山・花の百名山≪安達太良山≫あただら高原リゾート
「あだたらエキスプレス」でほんとの空に広がる大パノラマを満喫できます!
2014年8月6日(水)午前中応募締切
※交通費等はお客様ご自身でご負担願います。
 
安達太良連峰の主峰、標高1700mの安達太良山。どこまでも澄み渡る青空と爽やかな空気の下では、四季折々の花が咲き乱れ、小鳥たちのさえずりも聞こえてきます。高速ゴンドラリフト「あだたらエクスプレス」を利用すれば、願望抜群の薬師寺(標高1,350メールル)までわずか10分。山頂駅から薬師寺パノラマパークまで片道約10分ほどの散策を楽しむことができます。
 
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あだたらエクスプレス」は、安達太良山のゴンドラ山麓駅~ゴンドラ山頂駅間の全長1505.54メートル 高低差391.05メートルを、5~10分で結ぶゴンドラです。そちらのペア優待券が当たるキャンペーンです。通常料金は一般で往復が1,650円。2人分だと3,300円。これは大きいですね。
 
ちなみに8月2日(土)~9月23(火)まで、ゴンドラから望む20万球のLEDが奏でる幻想的なイルミネーション「天の川のかがやき」も開催されます。
 
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ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月27日
 
明治36年(1903)の今日、病床にあった文豪・尾崎紅葉を見舞いました。
 
この時の印象を元に、彫刻「尾崎紅葉像」、さらにこの年秋には紅葉が亡くなり、「解剖台上の紅葉山人」を制作しました。「尾崎紅葉像」の方は、現存が確認できていません。

昨日は福岡のギャラリーでの書展をご紹介しましたが、もう一件、福岡からの情報です。
 
JR博多駅直結の駅ビルJR博多シティ9階の映画館「T・ジョイ博多」さんでの上映。

僕等の図書室~セレクト~

2014年8月9日(土) 15:00開演
 
三上の「桃太郎」(ぼくとしょ1より三上真史、村井良大、井深克彦)
たっきーの「智恵子抄」(ぼくとしょ1より滝口幸広、中村龍介、三上真史)
りゅうの「ピーターパン」(ぼくとしょ2より中村龍介、大山真志、井澤勇貴)
<登壇ゲスト:三上真史、滝口幸広、中村龍介>
 
僕らの図書室」は、通称「ぼくとしょ」。 る・ひまわり企画・制作の朗読劇で、メインの読み手1人とサポート2人の計3人で1つの物語を朗読するスタイル、出演者を「国語の先生」、観客を「生徒」、公演を「授業」としているそうです。
 
一昨年から今年にかけ、東京や大阪で3種類の公演が行われ、そのうち初演の「僕等の図書室~みんなで読書会~」と、2度目の公演「僕等の図書室2~みんなで読書会~」で、「智恵子抄」が扱われています。
 
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その「智恵子抄」を含めた3本を、映像で上映、ということです。
 
こういうイベントを通し、若い世代にも光太郎智恵子の世界を広く知ってもらいたいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月26日
 
昭和25年(1950)の今日、書家の太田孝太郎に、詩稿「金田一国士頌」を発送しました。
 
金田一国士(くにお)は、岩手軽便鉄道や花巻温泉を001興した実業家。昭和15年(1940)に亡くなっています。その功績をたたえる石碑を花巻温泉に建てることになり、頌詩制作の依頼が光太郎にありました。それに応え、光太郎は以下の詩を作りました。
 
   金田一国士頌
 
 歳月人を洗ひ
 人ほろびざるは大なるかな
 人事茫々
 ただ遠く後人に貽(のこ)すところのもの
 その人を語る
 開発の雄
 今は亡き彼を懐ふこと多事
 
この詩は書家の太田孝太郎により揮毫、碑はこの年の秋に、花巻温泉で除幕されました。
 
生前に建てられた、数少ない光太郎詩碑の一つです。
 
ちなみに、同じ花巻の「ぎんどろ公園」にある、同じ年に建てられた賢治の「早春」詩碑と、同じ石材から切り出されたのではないか、という説があります。詳細はこちら

賢治と光太郎、花巻を代表する2人の碑が「双子」だというのも、面白いですね。

九州は福岡からの情報です。

吉村春香書作品展

会 期 : 2014年7月22日(火)~

7月27日(日)001

時 間 : 11時~19時

会 場 : ギャラリーおいし 福岡市中央区天神2‐9‐212

 

刻字を中心とした書作品。文字が持つ意味や力強さ、造形の面白さを表現することを目標としている、吉村春香氏の作品約10点。

 

(右) 高村光太郎の詩  【激動するもの】

 

 

いわゆる書家の方々が、光太郎の文筆作品を作品にされるケースがけっこうあります。

 

光太郎自身も実作としての書もよくしましたし、「書について」(昭和14年=1939)など、当時としては画期的な書道芸術論も展開しています。

 

当方、稀代の悪筆なもので、しっかりと書のできる方はうらやましいかぎりです。

 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月25日

 

平成7年(1995)の今日、新潮社から『光太郎と智恵子』が刊行されました。

 
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アート系の叢書、「とんぼの本」の一冊です。

 

北川太一先生による光太郎評伝、光太郎の甥にあたられる写真家・高村規氏のフォトエッセイ「伯父・光太郎の足跡を追って」、作家・津村節子氏のエッセイ「光太郎に捧げられた紙絵」、詩人の故・藤島宇内氏による「
十和田湖畔の裸婦像」から成ります。

 

高村規氏によるパリの写真など、図版が非常に豊富です。

福島から、スポーツイベントのご案内です。
 
「トレイルランニング」という、舗装されていない山野の路を走るというものです。 

ふくしまの名峰トレイルラン体験ツアー「魔女の瞳・ほんとの空へGо!!」

   8月16日(土)~17日(日)
   吾妻山、安達太良山
コース :(1日目)吾妻山の浄土平を起点とした周回コース(約15km)、
     (2日目)安達太良山縦走コース(約15km)
スケジュール
 (8月16日(土))
 9:30~10:00  受付(浄土平ビジターセンター前)
 10:00~10:15 オリエンテーション
 10:15~10:30 出発準備
 10:30~15:30 吾妻山トレイルランニング
 15:30~16:30 宿舎「リゾート・インぼなり」へ移動
 16:30~18:00 チェックイン、温泉を楽しむ
 18:00~    夕食、交流会
 (8月17日(日))
 7:00~ 8:00  朝食、出発準備
 8:00~ 「リゾート・インぼなり」出発
 9:00~14:00  安達太良連峰トレイルランニング
 14:00~15:30 「リゾート・インぼなり」へ戻り、温泉入浴
 15:30   解散
参加条件:
 二十歳以上で健康であること 、
 トレイルランニングの経験があり、ゆっくりペースで4~5時間トレイルランニングが出来ること、
 参加後のアンケートに協力頂けること
申込期限:平成26年7月25日
 
コースはふくしまの名峰、吾妻山・安達太良連峰です。吾妻山の「魔女の瞳」は直径約300m、コバルトブルーに輝く美しい湖。「ほんとの空」は、詩人高村光太郎が智恵子抄”あどけない話”で紹介した安達太良山のスカイブルーの空。
安全・確実・愉快にコバルトブルー・スカイブルーを堪能するイベントです。
また、宿泊は中ノ沢温泉。参加費には宿泊費(1泊2食)+交流会飲食+二日目の昼食、トレラン後の補食(旬の果物がたくさん味わえます)、二日目ラン終了後の温泉入浴、そしてなんとお土産の桃まで含まれます。そして、交流会では美味しいふくしまの地酒も飲むことができます。
 
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「魔女の瞳」という地名があるとは、寡聞にして知りませんでした。
 
それにつけても、福島で行われる各種のイベントや、さまざまな作品などに、「ほんとの空」と冠することが多くなっています。
 
背景にはあの東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故があるわけですが、1日でも早く収束し、収束した後も、「ほんとの空」の語が広く使われ続けてほしいものです。
 
ひととおり終わったようですが、広く行われた自治体の合併により、かなり奇抜な自治体名が誕生しました。福島で、今後、新しい市名をつけることがあれば、「ほんとの空市」などというのがあってもいいかもしれませんね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月24日
 
昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の村役場から、所得税の受領証を受けとりました。

大きな産業もなく、貧しい山村だった太田村。光太郎はダントツの高額納税者でした。

7/19、20の土日で青森に行って参りましたが、十和田湖の周辺で、いろいろと資料を入手して参りましたので、ご紹介します。

十和田国立公園

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森田五成著 十和田文化研究所発行  昭和27年6月5日初版/同57年6月30日改訂版
 
十和田湖国立公園婦人部副会長の森田玲子様からいただきました。森田様の舅にあたられる方のご著書だそうです。
 
十和田湖畔の裸婦群像、通称「乙女の像」についての記述もありますし、その他、十和田湖についてたくさんのことが書かれた、350ページ超の大作です。この手のものは、簡単なものしか手元になかったので、ありがたいかぎりでした。しかも、定価4800円もするのに、無料で戴いてしまいました。
 
乙女の像のある湖畔休屋地区のもりた観光物産さんで販売しています。
 
それから、同じく湖畔休屋地区の総合案内所で、無料で配布しているものを2種。ともに十和田湖国立公園協会さんの発行です。

十和田湖発!開運マンガ♥ 十和田湖にある東北最大(かも)の開運スポットとは!?


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A4判二つ折りです。能町みね子さんによるマンガ「アラサー女子が行く!青森・十和田開運の旅」が掲載されています。十和田神社がメインですが、乙女の像も登場します。
 
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もともと、今年3月刊行の旅行ガイド『じゃらん東北2014-2015完全保存版』に掲載されていたものです。
 
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十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?

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同じく能町みね子さんによるマンガで、こちらは7ページの作品です。元プロレスラーで苔玉作りインストラクターの起田高志さんも登場します。
 
乙女の像の片方(右子-みぎこ)が、「乙女の像をやめて上京する」と言いだし、もう片方(左子-ひだりこ)が、十和田湖周辺の魅力を再認識させ、引き留めるというストーリーです。笑えます。
 
こちら、十和田湖国立公園協会さんのサイトで読むことができ、「冊子にすればいいのに」と思っていたところ、すでになっていました(笑)。
 
こちらを読んで、ぜひ十和田湖に足をお運び下さい。
 
しかし、2月にお伺いした時には、大雪や訪れた時間帯のために気がつきませんでしたが、今回あらためて歩いてみて、休業した宿や店舗の多さにおどろきました。
 
先月の地元紙『デーリー東北』さんには、以下の記事が出ています。

女性記者が感じた十和田湖の魅力と課題

 青森県を代表する観光地・十和田湖の人気が低迷している。東日本大震災による風評被害を引きずってホテルや土産店の休廃業が後を絶たず、来訪客は一時、最盛期の半分程度にまで落ち込んだ。背景にあるのは観光地間の競争激化と観光スタイルそのものの変化。低迷を抜け出すために克服すべき課題は多い。
 県によると、十和田湖周辺は1990年代前半には年間300万人以上が来訪。東北新幹線八戸駅開業の2003年には最盛期の90年代を上回る約330万人を記録した。だが、鳥インフルエンザやリーマン・ショックの影響で08年に220万人となり、11年には東京電力福島第1原発事故の風評被害などで160万人にまで激減した。
 新幹線開通などで移動時間が短くなり、首都圏の観光客にも十和田湖はより身近な観光地になった。一方で、日帰りや他観光地への〝はしご〟も可能となり、観光客減少につながっているとみられる。
 県観光企画課は「宿泊を視野に入れない観光客も多く、観光スタイルが変化している」と指摘する。
 
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十和田湖周辺、本当にいいところです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月23日
 
平成18年(2006)の今日、朝日新聞社から『週刊人間国宝8 [工芸技術・金工1]』が刊行されました。
 
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光太郎の実弟で、鋳金家の高村豊周、そしてその弟子で、花巻の高村光太郎記念館や、信州安曇野の碌山美術館などに収められている光太郎作品の鋳造を担当した故・齋藤明氏(昨年亡くなりました)が取り上げられています。

7/20(日)、十和田をあとにして、青森市の青森県立図書館に行って参りました。
 
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こちらには、青森県近代文学館も併設されており、時間があればゆっくり見たかったのですが、今回は図書館での調査だけにしました。いずれまた行こうと思っております。
 
図書館での調査も、事前に目星を付けておいた、青森県関係の資料だけにしました。それでも、「大漁」と言っていい成果でした。
 
まず、昭和28年(1953)、十和田国立公園功労者顕彰会編『十和田記念碑』という冊子。光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)の制作の報告書的なものです。
 
東京の北川太一先生のお宅や、花巻の高村光太郎記念会に寄贈された図書の中に あり、その存在は知っていましたが、入手するには至っていないものです。「経過報告」という詳細な年表などが載っており、実に参考になります。
 
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それから、同じく昭和28年(1953)の地元紙、『東奥日報』。
 
『東奥日報』からひいたものとしては、筑摩書房の『高村光太郎全集』第19巻に、「視覚で変る群像」という講演筆録が掲載されていますし、当方編集の『全集』補遺作品集『光太郎遺珠③』に、「乙女の像」除幕前後のインタビューと談話を載せています。こちらは、以前、同館にレファレンス的に依頼して送っていただいたのですが、その前後の紙面をローラー作戦的に当たろうと思って、見て参りました。
 
結果、新たに光太郎談話を一篇見つけましたし、「視覚で変る群像」と同じ時の佐藤春夫、菊池一雄、谷口吉郎の講演の筆録も見つけました。また、除幕前後のいろいろな関連報道も、興味深いものでした。そしてそれらに付された写真。
 
右の画像は、「乙女の像」制作の際にモデルを務めた藤井照子です。記者の求めに応じ、「乙女の像」のポーズを取って、写真におさまっています。これなどは、初めて見るものでした。
 
このあたりの調査の結果は、十和田で刊行される「乙女の像」建立60周年記念誌的なもので、当方の担当する部分に生かしたいと考えております。
 
青森県立図書館以外に、十和田湖でも、いろいろな資料を入手しました。明日はそのあたりをご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月22日
 
平成2年(1990)の今日、茨城県近代美術館で開催されていた「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展が閉幕しました。
 
この年4月から、呉市立美術館、三重県立美術館と巡回してきたもので、茨城展が最終でした。光太郎関連の企画展の中で、出品点数の多さ、充実度で、空前絶後の企画展でした。当方、この時初めて見た作品もかなりあり、圧倒された記憶があります。
 
昨年、当方も関係した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が、千葉市立美術館、岡山井原市立田中美術館、愛知碧南市藤井達吉現代美術館を巡回しましたが、この際に展示したいと思いながら果たせなかった彫刻も、平成2年の企画展に並びました。また、「造型世界」と冠したため、彫刻に限らず、絵画や書も多数出品されました。
 
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7/19(土)・20(日)と、青森は十和田方面に出かけて参りました。そのレポート2回目です。
 
7/20(日)早朝、宿泊先の十和田湖山荘さんで目を覚ましました。さっそく24時間入浴可能の温泉に入って、頭をシャッキリさせ、朝食前に、湖畔の通称「乙女の像」まで歩きました。
 
2月に「十和田湖冬物語」で訪れた時も、それから前日の19日も、夕刻を過ぎてからライトアップされた「乙女の像」を見たのですが、朝の自然光の中で観ておきたいと思った次第です。
 
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曇り空でしたが、雨は降っておらず、空気が清涼でした。歩くこと30分程で、「乙女の像」に到着。
 
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久しぶりに細部や、かたわらに建てられた光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与う」を刻んだ碑などもじっくり観て参りました。
 
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この像がここに建てられて、昨年で60周年でしたが、まったく古びたところが感じられません。像自体、何度か補修されているのですが、そういう意味ではなく、造型としてのこの像のもつ力といいますか、何といいますか……。
 
光太郎を敬愛していた彫刻家の高田博厚の、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」という評が、まさしくその通りと思われます。
 
さて、その後、最近、パワースポットとして人気の高い十和田神社に。創建は平安時代初めという、由緒ある神社です。装飾彫刻などもみごとでした。
 
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この地の平安を祈願して参りました。
 
宿に帰る途中、秋田県側の小坂町に入ったところにある「十和田湖開発の碑」、青森県側に戻って石川啄木の歌碑などを見ました。
 
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盛岡中学生だった啄木も、明治34年(1901)頃、十和田湖を訪れているようです。
 
 夕雲に 丹摺はあせぬ 湖ちかき 草舎くさはら 人しつかなり
 
という歌が刻まれています。
 
 
その他、あちこちの標識やら柵やらに、「乙女の像」があしらわれていて、嬉しくなりました。
 
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宿に戻り、朝食を取り、チェックアウト。青森駅行きのJRバスに乗り込みました。バスはほぼ満員で、途中、前日も訪れた奥入瀬渓流や蔦温泉では、乗降する人が多く、いい傾向だと思いました。たくさんの人に、このあたりを訪れていただきたいものです。
 
バスはさらに、やはり昭和27年(1952)6月に光太郎が訪れた酸ヶ湯温泉や、八甲田山を経て、青森駅に着きました。
 
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青森駅からタクシーで青森県立図書館へ。関東の図書館、文学館等ではおめにかかれない資料を探して参りました。
 
長くなりましたので、そのあたりは次回に。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月21日
 
明治39年(1906)の今日、智恵子が、親友の大熊ヤスと共に、富士山に登りました。
 
智恵子は数え21歳。日本女子大学校在学中です。大熊の実家は静岡の沼津です。のちに病気がちになる智恵子ですが、若い頃はテニスや乗馬、自転車にスキー、水泳など、運動好きでした。

昨日から、1泊2日で青森は十和田方面に行って参りましたので、レポートいたします。
 
過日のブログでご紹介しました「十和田湖湖水祭り」、さらに、通称「乙女の像」建立60年を経たということで、記念誌などが刊行されることが本決まりになり、十和田市役所の方、観光ボランティアの方々と、その打ち合わせも兼ねての十和田行きでした。
 
昨日、東北新幹線はやぶさにて、13時53分に七戸十和田駅に着き、十和田市役所の山本氏の車で、十和田方面を目指しました。山本氏のご家族(美人の奥様、元気いっぱいの小6と小1の息子さん、お嬢さん)も一緒でした。山本家の皆様には、非常にお世話になりました。
 
まずは十和田市街で、昨日のブログでご紹介した、「看板アート」を見学。
 
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続いて蔦温泉。明治の文豪、大町桂月ゆかりの地です。十和田湖畔の裸婦群像、通称「乙女の像」は、もともと、十和田の景勝のすばらしさを広く世に紹介した大町桂月、道路整備等に腐心した元青森県知事の武田千代三郎、旧法奥沢村(現・十和田市)村長の小笠原耕一の三氏を顕彰するためのものです。そこで、光太郎も昭和27年(1952)に十和田に制作の下見に来た際に、蔦温泉を訪れ、ここにある桂月の墓に詣でています。
 
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今年2月に十和田に行った際にも、こちらを訪れたのですが、一軒宿の旅館は休業中、大雪で大町桂月の墓はたどりつけないという状況でした。今回はリベンジです。
 
旅館はやはり光太郎が1泊している、その頃の建物で、いい感じでした。
 
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桂月の墓は、苔むした林道を歩いて行った先にありました。
 
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次に、奥入瀬渓流館へ。こちらで1時間ほど、十和田市役所の皆さん、観光ボランティアの皆さんと、打ち合わせを行いました。通称「乙女の像」60周年記念誌、いいものができそうです。
 
館内には、先月、日本テレビ系列でオンエアされた「遠くへ行きたい 旅人 竹下景子「奥入瀬の森と湖に遊ぶ 青森県十和田湖」」ロケの際のスナップ写真なども飾ってありました。
 
その後、奥入瀬渓流を通って、十和田湖へ。当方は、宿泊先の十和田湖山荘さんでいったん降ろしていただき、チェックインと夕食。山本氏一家は先に十和田湖畔の湖水祭り会場に行かれました。
 
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夕食には、最近、B級グルメとして脚光を浴びている「十和田バラ焼き」もつけてもらったので、かなりのボリュームで、大満足でした。もちろん、十和田湖特産のヒメマスも膳に上りました。
 
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1時間後に、再び山本氏が迎えに来て下さり、十和田湖畔へ。綜合案内所で、2月にもお世話になったベテランボランティアの吉崎明子さんと合流、乙女の像目ざして歩きました。午後7時、夕闇の十和田湖に、遊覧船のイルミネーションが幻想的でした。
 
ただ、我々が湖畔にいた間には雨は降りませんでしたが、この日は昼間から降ったり止んだりの天気だったため、例年より人出がかなり少なかったそうです。その分、車の渋滞等には成らずに済みましたが。
 
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午後8時から、花火。ライトアップされた乙女の像の前で、たっぷりと堪能しました。当方のガラケーでも写真は撮りましたが、やはりストロボがついていないため、あまりきれいに撮れませんでした。そこで、この写真のみ、山本氏から戴いたデータを使わせていただきます。
 
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すばらしいですね。
 
花火の終了後、ホタルがいるというので、吉崎さんの案内で、湖畔の原生林に。ところが、残念ながら、この日は遭遇できませんでした。どうも花火の光や音で、おびえているのではないかとのことでした。
 
吉崎さんとは湖畔で、山本氏ご一家とは、十和田湖山荘の前で、それぞれお別れし、ゆっくり温泉につかって休みました。
 
24時間入れる熱めの温泉、こぎれいな部屋、手頃な料金、なかなかでした。
 
明日は2日目(7/20)についてレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月20日
 
明治19年(1886)の今日、光雲が龍池会主催第7回観古美術会に「蝦蟇仙人」を出品しました。
 
「光雲」の名での初の展覧会出品でした。このあたりの技倆を買われ、光雲は翌年に皇居造営事務局に白羽の矢を立てられ、皇居内の装飾彫刻を手がけることになります。

今日から1泊2日で、青森は十和田湖に行って参ります。
 
過日のこのブログでご紹介しました、十和田湖湖水祭りに行きます。さらに、通称「乙女の像」建立60年を経たということで、記念誌などが刊行されることが本決まりになりました。一部、執筆を頼まれておりまして、その打ち合わせも兼ねての十和田行きとなります。
 
それに先だって、十和田市の担当の方と、メールでやりとりしている中で、今週月曜日の地元紙『東奥日報』さんの記事を画像データで送っていただきました。

『看板アート』街彩る 美術家・中崎さん制作 あす公開  中央商店街 市民の思い描いた30枚

 かつては衣料品店が軒を並べ、にぎわいを見せていた十和田市稲生町の「中央商店街」に美術家・中崎透さん(37)の作品「看板屋なかざき」がお目見えした。レトロなアーケード街に、市民らの思いを描いた看板アートが並ぶ。一般公開は15日から9月23日まで。時間は午前10時から午後6時まで。
 
 作品展示は十和田市現代美術館で開催中の特別展「そらいろユートピア展」のプロジェクトの一つ。個人や団体、企業、商店などが中崎さんに対して“広告主”となり、それぞれのキャッチコピーや看板に盛り込んでほしい情報を伝え、作品となった。
 
 並んだ看板は30枚。白地のプラスチックの板に赤や緑、青など原色のシートを切り絵のように貼り付けた。材木などを組み合わせた土台を作り、内側から蛍光灯で看板を照らす。
 
 中崎さんは「こういうのをやりたいイメージはあった。(アーケードの雰囲気が)教会っぽくて、神々しい感じも。でも、わい雑としている。いろいろな見方をしてもらえれば」と話した。
 
 青森公立大学国際芸術センター青森の学芸員、服部浩之さん(35)は、「10年来、中崎さんの作品を見ているが、立体的に展開された作品は初めて。正面から見た雰囲気が壮観。アーケードの静かで、ちょっと暗い感じも面白い」と評した。
 
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「30枚の看板」の中の1枚に、通称「乙女の像」も描かれています。
 
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こちらの「看板アート」、現物を見て参ります。スナックの看板のようですが、そういう感じをねらっている部分もあるのだと思います。アートは奥深い……。
 
さらに、青森まではなかなか行けませんので、この機会に青森市まで足を伸ばし、青森県立図書館で、地元の光太郎関連文献を渉猟して参ります。
 
詳しくは、のちほど。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月19日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、ヘルシンキオリンピック開会式のラジオ実況放送を聴きました。
 
日本選手は、レスリングフリースタイルバンタム級の石井庄八選手の金メダルをはじめ、競泳、体操、レスリングで銀6,銅1のメダルを獲得しました。レスリングは、現在も日本のお家芸の一つですが、その裏には、敗戦後のGHQによる武道禁止の措置があります。柔道から流れていった選手が活躍したのです。

先月まで、和歌山の田辺市立美術館さんで開催されていた企画展「宮沢賢治・詩と絵の宇宙~雨ニモマケズの心」が、鹿児島に巡回されます。

宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心

期 日 : 2014年7月31日(木)―8月31日(日)
会 場 : かごしま近代文学館 (鹿児島市城山町5-1)
時 間 : 午前9時30分~午後6時(入館は午後5時30分まで)
料 金 : 
一般 600円(500円) 小中学生 300円(200円)( )内は20名以上の団体割引
休 館 : 毎週火曜日
 
 
主催  鹿児島市 鹿児島市教育委員会 公益財団法人かごしま教育文化振興財団 かごしま近代文学館
企画協力  NHKサービスセンター、アート・ベンチャー・オフィス ショウ
特別協力 宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、林風舎
 
 日本が大震災からの復興をめざす中、「雨ニモマケズ」の詩でよく知られる宮沢賢治(1896-1933)が再び注目されています。賢治自身も、生まれる二か月前と亡くなる半年前に大地震と津波に襲われています。その生涯は、まさに天災・凶作との闘いでもあったのです。そして、理想郷をめざす苦闘の跡は、多くの詩や童話にも綴られました。
 賢治が生み出したメルヘン的・幻想的な作品群は、多くの読者や芸術家に、さまざまな視覚的、聴覚的なイマジネーションを喚起させます。そんな宮沢賢治の生涯と作品を、「雨ニモマケズ」の詩が直筆で書かれた手帳や、直筆の水彩画、および数多くの詩や童話作品のために描かれた多くの作家らによる挿絵原画約200点により紹介する展覧会を開催いたします。
 死後80年経たいまでさえも、人々の心深くに強く訴えかけてくる宮沢賢治の世界を蘇らせ、視覚的に体感し、そのメッセージに強く触れ、感じていただきたいと思います。
 
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一昨年の3月から、実に2年以上にわたって、全国を巡回しています。それだけ人が集まったということなのでしょう。当方、一昨年、2館めの横浜そごう美術館で観て参りました。
 
光太郎筆の「雨ニモマケズ」書幅――花巻の羅須地人協会跡地に建てられた、賢治碑の原本――が展示されます。
 
この鹿児島展で一区切りのようですが、さらに巡回が続くかもしれません。注意して見ておこうと思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月18日003
 
昭和5年(1930)の今日、アンソロジー『生田春月追悼詩集 海図』が刊行されました。
 
萩原朔太郎、室生犀星などの作品とともに、光太郎詩「消えずの火」が掲載されています。
 
生田春月は、明治25年(1892)生まれの詩人。妻は『青鞜』同人の生田花世です。
 
この年5月、瀬戸内海を航行中の船から、投身自殺をしました。
 

2週間程前に、お茶の水の石川武美記念図書館さんに行って、明治・大正期の少女雑誌を調べて参りました。その際、智恵子の妹、長沼セキ(世喜子)の書いた物語、「忘れずの記」を見つけ、コピーして来ました。こちらは博文館発行の『少女世界』大正元年(1912)9月の第7巻第12号に掲載されていました。
 
事前に、もう一件、目星を付けていたものがありました。金港堂書籍刊行の『少女界』明治43年(1910)9月の第9巻第11号です。幸いこちらも、石川武美記念図書館さんに収蔵されており、コピーをとってきました。
 
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こちらには、「智恵子」署名の物語、「百合の精」が掲載されています。こういうものがある、という情報だけは得ていましたが、現物を見るのは初めてでした。
 
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内容的には、両親を亡くした少女が、それを不憫に思った百合の妖精になぐさめられる、というもので、6ページ程の短編です。ちなみに物語の舞台は飛騨です。
 
作者の姓が書かれておらず、「智恵子」のみのクレジットです。そこで、我らが長沼智恵子の可能性もある、と思って、いろいろ調べているのですが、どうにもよくわりません。
 
明治43年(1910)は、長沼智恵子はまだ光太郎と出会う前。明治40年(1907)に、日本女子大学校を卒業し、郷里に帰らず、太平洋画会研究所に通って、絵の修行をしていた時期です。有名な『青鞜』の表紙絵を描き、光太郎に出会うのは明治44年(1911)です。
 
長沼智恵子の年譜では、この時期に少女雑誌に寄稿していたという記録はありません。しかし、寄稿ではないものの、博文館の『少女世界』には、明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。
 
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絵ではなく、文筆作品が活字になったのは、確認できているものとしては、明治45年(1912)の『青鞜』に載った「マグダに就て」が最も古いものです(町立福島高等女学校の卒業式答辞が、明治36年(1903)の『福島民友新聞』に載りましたが、「文筆作品」とは言えますまい)。 
 
この頃、他に有名な「智恵子」としては、閑院宮載仁親王妃が智恵子という名前です。明治の元勲・三条実美の娘です。ただ、宮妃が少女雑誌に寄稿するのも考えにくいところです。ざっと調べた中では、智恵子妃がそうした活動をしていたという記録は見あたりませんでした。
 
また、のちの『青鞜』社員の中に、「伊藤智恵」という名前があるのですが、この人についてもよくわかりません。比較的有名な歌人の山中智恵子、ピアニストの原智恵子は、まだ生まれていません。
 
さらに、本名が「とら」とか「かめ」とか言う女性、または女性に限らず「権左右衛門」さんや「捨三」氏が、ペンネームとして「智恵子」と名乗ることも、全くないとはいいきれません。
 
結局、「百合の精」の作者、「智恵子」は謎のままです。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただけると、幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月17日
 
昭和30年(1955)の今日、日記に「連日の猛暑に閉口」と書きました。
 
このブログでも何度かふれましたが、光太郎は体質的に夏の暑さに弱く、冬大好きの人でした。

毎日、ネット上で高村光太郎、智恵子、光雲関連の新着情報をチェックしています。特にニュースの検索は欠かせません。それで、いろいろなイベントや企画展などの情報が得られます。
 
そんな中、競馬関連のニュースがヒットしました。

イーグルカフェ復活の舞台、七夕賞 馬じぃの継続は非力なり

(2014/07/12 『夕刊フジ』)
 
 ローカル競馬の重賞、特別レースのネーミングには、その土地、季節ならではの味のあるものが多いが、なかでも馬じぃは「七夕賞」が一番好きだ。暦に合わせたのだろうが、福島だからいい。東京には空がない、ほんとの空は安達太良山の上の空だと、智恵子が言った福島の澄み切った青い空。暮れたあと、七夕伝説の天の川を仰ぐ場所も、福島が日本一だと思う。

 今年はあいにくの天気で、七夕当日は星も見えず、レースも暦より1週遅れになったが、同じ日に織姫賞、彦星賞を並べるあたり、JRAもなかなか遊び心がある。ついでに、当日は、この3レースの1着を当てる「七夕3重勝」でも売ったらもっと盛り上がりそうだが。

 で、過去の七夕賞馬を振り返ると、こちらはやはりローカル重賞、いかにもという名前が並び、4年前など、ドモナラズなんて人を食った馬名が刻まれている。

 そんななかで目を引くのが2002年のイーグルカフェだ。3歳時の2000年にGIのNHKマイルC優勝、古馬相手に安田記念、天皇賞・秋、ジャパンCにも挑んだ早熟型戦歴の持ち主だったが、そのあとは長く勝てず。2年余を経たこの七夕賞も評価は今ひとつだったが、直線一気に差し切って復活のノロシをあげた。

 さらに鮮やかな復活劇は、海外遠征を挟んだ11月のジャパンCダート優勝だ。世界の名手・デットーリの好騎乗もあって、アドマイヤドン、ゴールドアリュールといった名だたるダート強者を退けて優勝した。生涯46戦してわずか5勝だったが、うち4勝は芝とダートの両GIなど重賞のみという、一発屋でもあった。美浦・小島太厩舎所属、勝った騎手は田中勝、岡部、デットーリの3人。父ガルチの外国産馬で、3年前に韓国へ輸出され、彼地で種牡馬生活を送っている。

 さて、この週末は台風一過、福島の青空の下で行われそうな七夕賞、うーん、やはりいかにもというローカル巧者が顔を連ねた。馬場が完全に乾くかの問題もあり、ここは福島巧者、2000メートルも得意な上原コンビ、(3)ダイワファルコン、(7)マイネルラクリマを両軸にして狙う。本来は人気になるコンビだが、トップハンデ58キロが嫌われそうなので、あえて裏の裏張り。

 
「馬じぃ」というのは、品川達夫さん。「昭和44(1969)年、夕刊フジ創刊と同時に競馬欄を手掛け、デスク兼記者・予想家として約20年間紙面を汚す。その後、別のジャンルで新聞記者を務めながら競馬は続け、気がつけば「馬じぃ」に。」だそうです。
 
「七夕賞」は、日本中央競馬会(JRA)が福島競馬場の芝2000メートル で施行する重賞競走(GIII)の名称。今年は一昨日の13日に行われました。結果はこちら
 
競馬の記事が、光太郎智恵子にからむとは思っていませんでした。
 
しかし、いろいろ調べてみると、これだけではありませんでした。
 
今週19日(土)には、やはり福島競馬場で「安達太良ステークス」というレースがあります。テレビ放映も入っています。
 
こちらは特別レースという位置づけです。特別レースの名称は、開催競馬場のある地域の地名等を冠することが多いので、福島で安達太良はあり得る名前ですね。他に「猪苗代特別」「郡山特別」「鶴ヶ城特別」などもありました。
 
さらに、日本中央競馬会(JRA)所属の競走馬にも、光太郎智恵子がからむ名前の馬がいます。その名も「トゥルースカイ」。いい名前ですね。
 
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JRAさんのデータによると、

馬名意味本当の空。父名と詩集「智恵子抄」に出てくるフレーズより
とのこと。父は「ディープスカイ」です。
 
ただ、生まれは北海道のヒカル牧場、滋賀栗東の領家政蔵厩舎所属ですので、福島と直接の関係はなさそうです。あまりいい成績は挙げていないようですが、がんばってほしいものですね。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月16日
 
昭和14年(1939)の今日、詩「亡き人に」を執筆しました。
 
雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く003
枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
 
朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
 
私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる
 
今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ
 
私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
 
あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる
 
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
 
 
筑摩書房刊『高村光太郎全集』の第1巻から第3巻は、詩の巻で、制作年代順に掲載されています。昭和14年(1939)といえば、智恵子が歿した翌年。太平洋戦争まではまだ間がありますが、すでに日中戦争は膠着しています。
 
この前後を読むと、のちに光太郎自身「変な方角の詩」と評した空虚な戦争詩(なぜかそれが光太郎詩の真髄だ、的なとんでもない勘違いをしている困った愚か者どもがいますが)が、既に乱発されており、痛々しい思いに包まれます。
 
そうした中で、こういう珠玉の詩篇が散見されるというのは、光太郎が人間性を失っていない証左ととらえたいものです。

12日の土曜日、福島川内村で行われた、草野心平が愛した祭り「第49回天山祭り」について、地元紙が報じています。

草野心平しのぶ 川内で天山祭り 児童が詩を朗読

 いわき市出身で川内村名誉村民の詩人草野心平をしのぶ「天山祭り」は12日、村内の天山文庫で催された。住民らは心平との絆を再認識し、古里の復興を願った。
 実行委の主催、福島民報社など後援。石井芳信実行委員長と遠藤雄幸村長、かわうち草野心平記念館の秋元正館長があいさつした。前記念館長の晒名(さらしな)昇さんに村から感謝状が贈られた。出席者の代表が心平の遺影に献花した。
 川内小の5、6年生6人は心平の詩「おたまじゃくしたち45匹」を朗読した。鏡開きに続いて郷土芸能が披露され、村に伝わる西山獅子舞や川内甚句が繰り広げられた。
 祭りは心平の書などを集めた天山文庫の落成を機に、昭和41年に始まった。今年で49回目。
( 2014/07/13 福島民報)
 
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そうかと思うと、同じ日に原発事故関連のニュースも入っています。

川内村の避難指示解除提案=反対多く26日は見送り

 政府は13日、東京電力福島第1原発から20キロ圏内で避難指示解除準備区域などに指定されている福島県川内村東部の住民と懇談会を開き、放射線量の低減などを理由に、26日の避難指示解除を提案した。住民側からは慎重な意見が相次ぎ、終了後、復興庁の熊谷敬統括官は26日の解除は見送る方針を明らかにした。
 熊谷統括官は「村と十分協議し適切な時期を見定めたい」と語り、帰還準備に向け4月26日から3カ月間行っていた長期宿泊の延長も含め、村と協議する意向を示した。
 懇談会では、内閣府や環境省の担当者が、避難指示区域内で除染前と比べ放射線量が平均63%下がったとのモニタリング調査の結果や、生活インフラなどの改善状況などを報告。その上で、26日の避難指示解除と、同時に居住制限区域を準備区域に再編する方針を提示した。
 これに対し、住民側から一部の場所では今も放射線量が高く、道路の改修工事も終わっていないなど生活環境が整っていないとの声が上がった。一方、区域再編に大きな異論は出なかった。
 遠藤雄幸村長は、26日の解除について「住民の理解が得られていないと感じる。もう一度、住民との協議の場を設けたい」と述べた。 
( 2014/07/13 時事通信)
 
さらに続報も。

解除時期妥協点見えず 川内の旧警戒区域対象の住民説明会 村民の不安解消に至らず

 福島県川内村の避難指示解除準備区域の解除と居住制限区域の区域変更の説明会が14日、いわき市で開かれ、2日間の日程を終了した。政府が26日の解除、区域変更を断念したことで、村と政府は解除時期の本格的な協議に入る。遠藤雄幸村長は、避難指示解除準備区域内の村道整備が終了する9月以降を解除時期の一つとして想定しているとみられる。ただ、住民からは、より充実した生活環境の整備を求める声が根強く、解除時期の妥協点は見えない。

■村長の思い
 遠藤村長は3カ所で開かれた村民との説明会を終え、「さまざまな意見を聞き、あらためて26日の解除は国に再考を求めた。今後、しっかり協議したい」と述べた。
 ただ、仮設住宅での生活が与える精神的、肉体的ストレスを考えれば、「そんなに遠くないタイミングで考えたい」とも語った。
 準備区域内の二つの村道は、8月と9月にそれぞれ舗装改修工事が完了する。村が設置した第三者の検証委員会からは今月下旬に中間答申が示される。こうした判断材料を総合的に勘案し、解除時期を検討する考えだ。
 住民の生活圏が富岡、大熊町にあることを認めつつ、「100パーセントではないが、(村内で)代替えできるのではないか」と語った。13日の説明会でも「解除を一日千秋の思いで待っている人もいる。その声にも応えたい」と難しい胸中を語った。

■村民の要求
 「戻っても買い物、病院などで余計な時間と経費がかかる」「屋内の放射線量が心配」。14日の説明会でも解除に対する懸念の声が相次いだ。
 区域内の仮置き場にある除染廃棄物も課題の一つ。政府は保管期間の3年を過ぎた廃棄物を順次、村外へ運び出す計画だが、中間貯蔵施設の設置が前提だ。「仮置き場があるうちは帰る環境にはない」と話す住民も多い。
 村の新たな商業施設、災害公営住宅は来年3月までに完成する。住民の一人は「少なくとも来年3月以降の解除を」と話す。
 また、農業、林業の再開見通しも立たない。生活の糧が絶たれている現状での解除に難色を示し、生活再建に向けた精神的賠償の継続を望む声も多い。

■政府の姿勢
 政府の担当者は説明会で、「解除は、復興につながる規制緩和」と強調した。避難指示は強制的な措置で、長期間にわたり不便な生活を強いているのが現状とする。
 帰還のための準備宿泊(長期宿泊)は25日で3カ月間の期限を迎える。復興庁の熊谷敬統括官は取材に対し、「延長はしなければならないと考えている。できるだけ早急に決めたい」と語った。延長する期間は解除時期となる可能性があるため、村と慎重に協議した上で、あらためて住民説明会を開く方針も示した。
( 2014/07/15 福島民報)
 
さすがに政府も、地元の現状、意向を無視してのゴリ押しはできないようです。しかし、そうやっていると、「最後は金目でしょ。」とか言い出す愚か者がいるから困りものです。
 
ちなみに、地図で表すと以下の通りです。
 
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一日も早く、心平の愛した美しい川内村に戻ることを期待しますが、再び「安全神話」を創り出すために、条件が整っていない中での避難指示解除はありえませんね。これ以上、この地域をスケープゴートにしないでほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月15日
 
昭和36年(1961)の今日、千葉県九十九里浜に、光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が除幕されました。
 
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九十九里は、昭和9年(1934)に、統合失調症が進んだ智恵子が療養していた地です。ほぼ毎週のように、東京から見舞いにきていた光太郎は、のちにこの地での様子を、「智恵子抄」中の絶唱、「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などに結晶させました。
 
碑は、地元の俳句愛好者の会・白濤会が中心になって発願、町ぐるみの運動に拡大し、碑陰記を書くなどで、心平も一肌ぬぎました。
 
同年10月発行の雑誌『文学散歩』第10号に、北川太一先生による、除幕当日のレポートが載っています。地元に人々に加え、心平、高村規、伊藤信吉高田博厚中原綾子、室生朝子(犀星長女)、宮崎春子らが参加したとのこと。
 
 式は白濤会による碑詩朗読、智恵子夫人令妹節子さんに抱かれた一歳のお孫さんちえ子嬢による除幕、祝辞、回想いろいろ、真亀下部落獅子連による獅子舞などもあって、一時過賑かなうちに終了した。
 式後、鈴木仙吉氏の好意による地曳網が流され、草野、伊藤、高田等の諸氏は地元の人々にまじつてパンツ一つの美事(?)な半裸で、女人禁制の漁船に同乗、はては太平洋に跳込んでの力闘、漁師顔負けで生鯵を頬ばる草野心平や、波に浮きつ沈みつする伊藤信吉、高田博厚の白髪は見ものだった。

一昨日、福島は川内村の第49回天山祭りに行って参りました。昨日に引き続き、川内村レポートです。
 
当方、天山祭り会場の天山文庫は、初の訪問でした。
 
天山文庫は、昭和41年(1966)、それまでもたびたび川内村を訪れていた草野心平の宿泊施設として、村の人々が建ててあげたものです。心平は心平で、蔵書をここに置き、そのまま村に寄付しました。
 
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天山文庫に上がっていく坂の途中に、「下馬」の文字が刻まれた石碑。心平の筆跡です。
 
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酒樽を利用して作られた書庫も2棟ありました。この村で作られたどぶろくを愛し、「白夜」と名づけた心平にぴったりです。こちらは昭和44年(1969)の竣工。
 
内部には、雑誌がぎっしり。
 
さらに、天山文庫本体。
 
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内部には、心平や、川端康成、棟方志功の書がかかっています。そして、やはり書庫。
 
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光太郎の書籍もたくさんありました。また、この建物の設立委員には、光太郎の実弟・豊周も名を連ねています。かつて心平が、ここで過ごしていたと思うと、感慨深いものがありました。
 
小高い山の中腹にある天山文庫より下に、阿武隈民芸館があり、そちらも観て参りました。
 
当方、大きな勘違いをしておりました。「民芸館」という名前なので、よくある、現地の民俗資料などを展示してある施設だと思いこんでいました。たしかにそういう展示もあったのですが、それはほんの少しで、大半は心平に関する展示でした。なぜか、智恵子の実家である二本松の長沼酒造の貧乏徳利が、民俗資料に紛れて展示されていました(笑)。
 
こちらは昭和56年(1981)の完成。看板の揮毫も心平です。
 
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心平の業績を語る上では、光太郎の存在は欠かせません。館内にズラリと並ぶ心平の著書のうち、光太郎が装幀や題字を担当したものがたくさんあります。また、光太郎に関する心平の著書もたくさんあり、さらに、飾られている写真パネルには、光太郎もたびたび写っていて、二人の結びつきの緊密さが見て取れます。
 
その後、秋に行われる心平忌日の集い「かえる忌」会場にもなっている、小松屋旅館さんに移動しました。

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一昨年には、まだ子犬だった黒柴に、子犬が産まれていました。
 
こちらでは、二次会ということで、この春まで、川内草野心平記念館長を務められた晒名昇氏をはじめ、「かえる忌」で顔なじみになった方々が集い、しばし、歓談。
 
地元はもちろん、青森やら神奈川、当方と同じ千葉の方もいらっしゃいました。
 
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心平が歿して約30年。今も多くの人々に敬愛されている様子が、よくわかりました。
 
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帰りがけに撮った一枚。夕日が沈む渓流です。こんなにいいところなのですが、まだまだ原発事故による問題が山積しています。
 
訪れるだけでも、復興支援となります。ぜひ、足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月14日
 
昭和6年(1931)の今日、新聞『時事新報』に、エッセイ「装幀について」が掲載されました。
 
一部、抜粋してみます。
 
 今日多く流布する日本の書籍の装幀には遺憾ながら高度の審美を見る事が少い。純粋比例の美による装幀を私は望んでやまない。屢見かける文芸書のやうに、表紙にべたべた絵画を印刷したやうなものは児戯に類する。中には内容とかけ離れた宿場女郎の如き体裁のものさへある。新刊書に例を取つて述べることは遠慮するが、ともかく全体にもう一段抜け出してもらひたい。書店の店頭から無駄な悪趣味を一掃したい。書店の店頭を純粋比例の美で埋めたい。
 
 阿武隈民芸館で、光太郎装幀の心平著書の数々を見ながら、光太郎の言に、首肯させられました。
 
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昨日、草野心平が愛した「天山祭り」参加のため、福島第一原発にほど近い、双葉郡川内村に行って参りました。
 
2回に分けて、レポートいたします。
 
昨日朝、愛車を駆って自宅を出、圏央道、常磐道と進みました。昨年は、原発事故の影響で、常磐道の広野IC~常磐富岡IC間の通行止めが続いていましたが、今年初めにそれも解除されており、終点の常磐富岡ICまで行きました。
 
その意味では、復興も一歩前進です。
 
しかし、常磐富岡IC周辺、行政区分で言うと富岡町は、あまりいい状況ではありませんでした。
 
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もとは田んぼだったと思える場所は、野原と化していました。除染で出たであろう廃棄物も、道ばたに無造作に積んであります。
 
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無人の家屋がつらなり、庭先には、雑草が伸び放題。使用禁止の郵便ポスト。
 
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一山こえて、川内村に入ってから、ようやく人々の営みが見えてきた、という感じでした。それでも、まだまだ被災中だというのがよく判ります。
 
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それでも、がんばろう、という村民の意気込みが伝わってきます。
 
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以前、当方も泊まった仮設のビジネスホテル。
 
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田んぼアートです。「天山 心平」の文字が。天山祭り会場の天山文庫のすぐ近くです。
 
天山祭り、今年で49回目だそうで、生前の草野心平が愛した祭りです。下記は昭和41年(1966)の第1回天山祭りで、村人と共に踊る心平です。
 
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無論、49回目の今回も、心平を偲ぶという趣旨もありますが、やはり震災の被害、原発事故からの復興という意味合いも強く込められていました。
 
さて、会場は、天山文庫。もともとは、昭和41年(1966)、心平が川内村に、蔵書を寄贈するにあたって作られた建物です。
 
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そちらの前庭が、天山祭り会場です。昨年は雨のため、村内の別の施設で行われました。当方、天山文庫で開催される天山祭りは初めてでした。
 
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午前11時30分開会。主催者あいさつは、元003教育長の石井芳信氏。連翹忌にもご参加いただいたことがあります。
 
さらに、遠藤村長。「元の川内に村に戻ることはないだろうが、それでも前に進もう」と、力強くお話しなさいました。
 
この春まで、川内草野心平記念館長を務められた晒名昇氏への感謝状の贈呈に続き、心平の肉声録音による詩の朗読が流れ、その後に心平が創刊した雑誌『歴程』同人の皆さんによる、心平詩の朗読が行われました。
 
復興支援ソング「ときよめぐれ(までいのロンド)」を作詞された伊武トーマ氏も朗読なさいました。やはり心平のスピリットを受け継ぐ方ですので、ひと味違う朗読でした。
 
さらに、川内小学校の5、6年生による朗読。
 
地域の宝として、次の世代にもしっかりと受け継がれているようです。このまま続けていってほしいものです。
 
しかし、「5、6年生」といいながら、6人しかいなかったのですが、これで全部なのか、選抜チームなのか……ちょっと不安でした。
 
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そして、心平も愛した郷土芸能の披露。アトラクションでは、地元の皆さんの歌、などなど。
 
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村内外、多くの人々、テレビ報道のクルーも入り、大いに盛り上がりました。みなさん、ひととき、「被災」という特殊な状況下にあることを忘れたのではないかと思います。
 
遠藤村長の話に戻りますが、「変えていかなければならないこと」と「頑固に変えてはいけないもの」がある、とお話しされていました。村の仕組みや今後の被災対策等々が「変えていかなければならないこと」、「頑固に変えてはいけないもの」が、この天山祭り。そのとおりですね。
 
その後、当方は、天山文庫、さらにすぐ近くの阿武隈民芸館を見学、夕方から「かえる忌」会場ともなっている小松屋旅館さんでの「二次会」に参加しました。
 
そのあたりは、明日、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月13日
 
大正6年(1917)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』第424号に、智恵子のアンケート「海か山かに――今年の夏の計画――」が掲載されました。
 
 先年一度(ひとたび)参りました信州上高地へ参るかもしれません。其の他(た)はまだ確(しか)ときめて居りませんので、申上かねますが、何れ海か山かで夏を過してしまふことかと思ひます。

一昨日、たまたま立ち寄ったコンビニで、コミックの単行本を買いました。

思い出食堂 特別編集 旅の味 なつかしい人々

2014年5月5日  少年画報社   定価 476円+税

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廉価ないわゆるコンビニコミックです。初版は今年5月でしたが、重版が並んでいました。
 
北は北海道から、南は沖縄まで、「旅の味」をテーマに、「佐世保バーガー」や「ほうとう」、「ゴーヤーチャンプル」など、各地の名物料理等をあつかった、29本の読み切りマンガから成っています。おおむね、各10ページです。
 
で、「浪江焼きそば」の中で、光太郎詩「樹下の二人」がモチーフに使われています。
 
これを購入したコンビニでは、立ち読み防止のために、ビニールのパッケージに入れられていました。
 
しかし、表紙に「浪江焼きそば」の文字を見つけ、「もしかすると、二本松や『智恵子抄』がらみの話になっているかも」と思い、購入しました。
 
帰ってから読んでみると、まさしくビンゴ。こういうときは痛快です。
 
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物語は、「浪江焼きそば」を看板メニューにしていた食堂の夫婦が、東日本大震災の犠牲になり、パン屋を開くのが夢だった息子が、自分の夢と、両親から受け継いだ「浪江焼きそば」の味を合体させ、「浪江焼きそばパン」を作る、というものです。
 
と、書いているだけで、食べたくなってしまいますが、どうやら架空のメニューのようです。
 
そもそも、「浪江焼きそば」とは、福島県双葉郡浪江町のご当地グルメ。極太の麺を使うのが特徴です。昭和30年(1955)頃には、すでにあったとのこと。
 
浪江町は、福島第一原発のある双葉町に隣接しており、東日本大震災後、町全域が「帰還困難区域」となりました。
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そして、多くの町民は二本松市に避難し、町役場も二本松市に仮庁舎を設置、今もその状態が続いています。上記画像は今年の4月現在のもの。震災から3年経っても、まだこの状態です。こういう状態でいながら、なぜ再稼働にこだわるのか、理解に苦しみます。そんなに原発が好きなら、永田町に作って下さい。
 
約20軒あった、「浪江焼きそば」を饗する店も、再開できたのは、二本松駅前の市民交流センター1階の「杉乃家」さんだけだそうです。
 
ちなみに当方、今日は、浪江町にほど近い、川内村の天山祭りに行って参ります。昨秋の草野心平を偲ぶ集い、かえる忌以来ですが、どれだけ復興が進んでいるのか、いないのか、この目で見てきます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月12日
 
明治40年(1907)の今日、農商務省の海外実業訓練生に任ぜられました。
 
光太郎は前年から欧米留学中で、この時、ロンドンにいました。もともと私費留学、現地で生活費を工面という苦学生でしたが、光雲の奔走により、海外実業訓練生任命となりました。レポートの提出が義務づけられましたが、代わりに毎月60円ずつ支給されるようになり、ぜいたくはできないものの、とりあえずの心配はなくなりました。

最近、このブログでご紹介した企画展につき、報道がなされていますので、2件、ご紹介します。いずれも光太郎の名前が入っているものです。
 
まずは、金沢で開催中の「中村好文 小屋においでよ!」 について。 

暮らし、12平方メートルに凝縮 金沢で中村好文の「小屋」展

『朝日新聞』 2014年7月9日 無題
 
 人が暮らせる最小限の空間を追求した建築展「小屋においでよ!」が、金沢市の金沢21世紀美術館で開かれている。建築家の中村好文が寝食、調理、風呂、トイレの機能を12平方メートルに凝縮した。
 
 中村が作った「小屋」は、幅3メートル、奥行き4メートル。だが天井が3メートルと高いせいか、内部は広く感じる。間取りはワンルーム。居間の窓際にソファベッドが造り付けられ、寝室を兼ねている。右手奥に台所があり、勝手口に通じる。左手奥にはシャワーとトイレ。小さなクローゼットもある。
 
 中村は武蔵野美術大在学中から、住宅の設計に興味を持った。悪条件であるほど建築家の能力が問われると考え、いわゆる狭小住宅を好んで設計してきた。今回の作品は「建築というより営巣」。「小屋をテーマに住宅の本質をあぶり出したい」と話す。
 
 設計には、名作といわれる小屋を見てきた経験が生きている。建築家ル・コルビュジエの「休暇小屋」、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に住んだ岩手県花巻の「山荘」。アメリカの文筆家ソローが「森の生活」で描いた小屋も参考にした。
 
 裏テーマは「エネルギー」だという。屋根に太陽光発電パネルをつけ、一つしかない電灯の電源を賄う仕組み。屋根の上の樽(たる)に雨水をため、シャワーは太陽熱で温めたタンクの水で、炊事は七輪の炭火で。「この家を見て、暮らしを考え直してもらうのが目的。質素で簡素な暮らしを『いいな』と思ってもらえれば」
 
 設計段階のスケッチや図面、ル・コルビュジエ、高村光太郎らの「名作小屋」の模型なども展示している。(安部美香子)
 
 
続いて、高岡市美術館の「メタルズ!-変容する金属の美-」展について。

金属の機能切り口に メタルズ!展-村上隆高岡市美術館長に聞く(下)

北日本新聞』 2014年7月8日003
 
■既成概念取り払う
 高岡市美術館で開かれている「メタルズ!-変容する金属の美」展は、全国の美術館や博物館が所蔵する古代から現代までの約100点の金属造形作品がそろう。企画・監修した村上隆高岡市美術館長がこだわったのは、その「見せ方」だ。時間軸にとらわれず、金属の機能性にスポットを当てた展示とし、これまでにない展覧会を実現させた。

 二条城に飾られていた国宝の釘隠(くぎかくし)、法隆寺伝来の重要文化財「金銅小幡(こんどうしょうばん)」、国内で唯一出土した金製の勾玉(まがたま)…。会場には、歴史的に価値が高い古代や中近世の名品が並ぶ。京都国立博物館学芸部長を務めていた村上館長のネットワークで、高岡に初めてこうした逸品が集うことになった。

 近現代の作品も、美術の教科書でおなじみの高村光太郎「手」や、芥川龍之介が「この首は生きている」と語った逸話が残る中原悌二郎「若きカフカス人」など、多様な作品がそろった。

 村上館長は「美術館、博物館という枠組みを取り払いたかった」と意図を説明する。一般的に、美術館は明治時代以降、博物館は明治以前の作品を展示するケースが多いが、そうした枠組みにとらわれると、金属の多様な美は紹介できない。目指したのは、既成概念に縛られない自由な展覧会だ。

 「お勉強の場にはしたくない」と、時代や年代別に並べることはせず「金属が持つ機能性を大事にして展示の構成を考えた」。金属は硬く強いだけでなく、独特の光沢があり、振動や熱を伝えるなどの特性を持つ。企画展会場の三つの展示室のうち、古代から近代までの金属造形を集めた第2室は「飾り」「響き」「器」など機能別に並べた。

 近現代の作品は機能ではくくりにくいため、第1室に工芸作品と具象彫刻、第3室は抽象的な造形作品を集めた。「時代とともに、金属は道具だけでなく自己表現の素材として用いられるようになる。機能で分けられなくなるのは当然」とし、それぞれの展示室の中で見せ方を工夫した。

 日本の金属造形史を美術館的な手法で俯瞰(ふかん)する「メタルズ!」展は、金工のまち・高岡を出発点に全国4市を巡回する。村上館長は「日本人の生活の中で、金属造形がどういう意味合いを持ってきたかを見てもらう場。新たな発想を生むためにも、いろんな見方をしてほしい」と語った。■第1室「二度楽しめる空間」
 村上隆館長が「メタルズ!」展の展示で最も苦労したのは、近現代の工芸作品と具象彫刻を集めた第1室だ。

 工芸は、伝統的な金工技術を踏襲しつつ新しい方向性を追求した作品群。芸術表現の素材として金属を用いた彫刻とは、性質が全く異なる。村上館長は「両者のせめぎ合いを目の当たりにし、本当に悩んだ」と振り返る。

 そこで考えたのが、二つの世界の良さを生かす展示。壁面のガラスケース内には工芸作品を並べ、中央の開けたスペースに彫刻を展示した。

 彫刻は、村上炳人(へいじん)「つめこまれたちえぶくろ」を中心に、12点を円形に配置した。時計や十二支を意識したという。にらみ合うネコ(朝倉文夫「眈々(たんたん)」)とカラス(柳原義達「道標 鴉(からす)」)など、それぞれの作品の目線の先も意識して鑑賞すると面白い。中央の「つめこまれたちえぶくろ」は正面がない全方位的な作品で、磨き上げられた金属部分が周囲の作品を映し出す効果もある。

 村上館長は「一つの空間で2度楽しめる展示になったと思う。ぜひ足を運んで展示の秘密を読み解いてほしい」と話した。(高岡支社編集部・荒木佑子)

 「メタルズ!」展は8月31日まで。高岡市美術館開館20周年・北日本新聞創刊130周年記念。高岡の後、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知)、北九州市立自然史・歴史博物館(福岡)、新潟市新津美術館(新潟)を巡回する。
 
ところで、また見落とすところでしたが、「メタルズ」展、昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を開催した、愛知碧南藤井達吉現代美術館にも巡回されるのですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月11日
 
明治28年(1895)の今日、光雲が、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に木彫「氷室翁」を出品し、妙技二等賞、「天鹿馴兎」「睡猫置物」で妙技三等賞を受賞しました。

インターネット上で、著作権の切れた文学作品等を公開している「青空文庫」というサイトがあります。ボランティアの方が電子データに入力、そのご苦労には頭が下がります。
 
さて、その「青空文庫」がらみで、株式会社MediBangさんによる、下記のイラストコンテストが作品募集中です。 

第2回 青空文庫 有名小説表紙絵コンテスト

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応募期間 2014年7月31日(木)23:59まで
 
応募資格 特になし。プロ・アマ問わず応募可能。発表済みイラストでの応募も受け付け(但し、応募者自身が権利を有するイラストに限る)。
 
応募形式
 1.画像ファイル形式 jpg、png、gif
 2.規定サイズ(横 × 縦)2100 × 2800ピクセル
 3.必須事項
 表紙イラスト内に作品のタイトル、作品の著者名、通訳者がいる場合は通訳者を含めること。 加えて、イラスト作成者自身の名前を記載。
 
人気の応募書籍はこちら!
 白痴/堕落論 坂口安吾  家/若菜集 島崎藤村  こころ/坊っちゃん 夏目漱石
 たけくらべ 樋口一葉  学問のすすめ 福沢諭吉  ドグラ・マグラ 夢野久作
 三国志/私本太平記 吉川英治  父帰る/恩讐の彼方に 菊池寛
 阿Q正伝/狂人日記 魯迅  金色夜叉 尾崎紅葉  半七捕物帳/百物語  岡本綺堂
 鼻/杜子春  芥川竜之介  人間失格/走れメロス 太宰治
 
コンテスト対象作品の著者一覧                                                   
 アンデルセン ハンス・クリスチャン グリム ヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
 ド・ラ・ラメー マリー・ルイーズ トルストイ レオ  バーネット フランシス・ホジソン・エリザ 
 ルブラン モーリス
 永井 荷風 海野 十三 宮沢 賢治 高村 光太郎 紫式部

                                                                              
受賞作の発表
 応募期間終了後、厳正な選考のうえ、受賞・入選された作品をメディバン本サイトにて発表。
 特賞(最大1本):10万円  優秀賞(最大10本):1万円 入選:1,000円
 参加賞:受賞・入選作以外の応募イラストから1枚あたり100円
 


対象となる光太郎作品は以下の通り。
 
(私はさきごろ)  ヒウザン会とパンの会  ミケランジェロの彫刻写真に題す  黄山谷について  回想録  開墾 顔  気仙沼  九代目団十郎の首  山の秋  山の春  山の雪  詩について語らず  自作肖像漫談  自分と詩との関係  書について  小刀の味  触覚の世界  人の首  蝉の美と造型  装幀について  啄木と賢治  智恵子の紙絵  智恵子の半生  智恵子抄  能の彫刻美  美の日本的源泉  美術学校時代  木彫ウソを作った時  緑色の太陽  珈琲店より
 
正確にいえば、「小説」は一篇もありませんが、まぁ、そのあたりは厳密に考えていないようです。
 
絵心のある方、応募してみてはいかがでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月10日
 
昭和34年(1959)の今日、二玄社から『高村光太郎書』が刊行されました。
 
B4判の大型本で、はじめて刊行された光太郎の書の作品集です。監修は光太郎実弟の高村豊周、編集は光太郎と親交の深かった美術史家の故・奥平英雄氏と、北川太一先生です。
 
特に晩年、独特の境地に至った光太郎の書、67点の写真が掲載されています。また、別冊には、草野心平「光太郎書の三つの時代」、西川寧「高村さんの書」、吉野秀雄「高村光太郎の書」、奥平英雄「書についての回想」が掲載されています。

二本松観光協会さんで、以下の募集を行っています。 

2014「二本松の四季」観光フォトコンテスト

二本松市内の様々なスポット、名所、四季の風物等の観光資源を、写真を通じて紹介でき、ポスターやパンフレット等で使用できる作品を募集します。
来年4月~6月は、JRグループや観光関係者、県や市町村が協力して、全国から観光客を迎える日本最大級の観光イベント「ふくしまデスティネーションキャンペーン(ふくしまDC)」が実施されます。
そこで、そのふくしまDCのPRに活用できる作品を募集するため、今年は8部門からなるふくしまDC枠を新設しました。
夏・秋・冬の作品も例年通り募集しますので、ご応募お待ちしております。
 
募集作品・募集期間
夏部門 : 平成26年8月1日(金)~9月19日(金)
秋部門 : 平成26年10月1日(水)~11月28日(金) ※菊人形、また提灯祭り等各種まつり行事を被写体とした作品は除く
菊人形部門 : 平成26年10月1日(水)~11月28日(金)
まつり(四季)部門 : 平成26年12月1日(月)~平成27年1月17日(土)
冬部門 : 平成27年1月20日(月)~2月14日(土)

応募方法
 ◦ カラー(モノクロ可)、四つ切り(ワイド含む)、単写真とします。
◦ デジタルカメラによる作品も応募できます。この場合、四つ切相当サイズでプリント、またはA4サイズでも可。
◦ 各部門「1人3点」まで応募可とします。
◦ 作品の裏面に『部門名、題名、氏名(フリガナ)、年齢、住所、電話番号、撮影地、撮影年月日』を明記(貼付)してください。(応募票備考欄への「返却希望」等の記入不可)
◦ 作品は、未発表のものに限ります。
• 応募票を作品の裏側中央に貼付し、持参または郵送でご応募ください。
 
応募上の注意
◦ 作品は、募集期間最終日から1年以内に撮影したものといたします。
◦ 被写体が人物の場合、応募に際しては、必ず本人(被写体)の承諾を得ること。
◦ 郵送中の作品の紛失や損傷については、主催者は責任を負いません。
◦ 審査結果についての異議の申し立ては、受け付けません。
◦ 応募いただいた作品は返却いたしません。

 
審査
【審査時期】
  ・夏、秋、菊人形 : 平成26年12月(予定)
  ・まつり(四季)、冬 : 平成27年2月(予定)
【審査員】 主催者及び主催者が委嘱した者
【審査基準】
  ・各部門とも、可能な限り被写体が二本松市内と特定できるもの。
  ・作品の2次利用(ポスター、パンフレット、チラシ等)を想定するもの。 表彰
【最優秀賞】 各部門1名 賞状・副賞
【優秀賞】 各部門2名 賞状・副賞
【入選】 各部門2名 賞状・副賞
※応募状況等により、入賞者数は5名と限らない場合がございますが、ご了承願います。
その他
◦ 入賞作品の版権は主催者に帰属します。ポスター、パンフレット等に全部又は一部を使用する場合があります。
◦ 入賞者には主催者へ原版(ポジ・ネガ・画像データ(jpg))を提出していただきます。
なお、原版がAPSフィルムの場合は、カートリッジごとお預かりします。
◦ ご応募頂いた作品は、審査終了後、二本松市役所1階市民ホールなどに展示いたします。
応募・問い合わせ先 二本松観光協会(二本松市役所観光課内)
 〒964-8601 二本松市金色403-1
TEL:0243-55-5122



 
『ふくしまDC』部門の募集が5月まで行われており、先月末に審査があったようで、今月に入って入賞作品がネット上にアップされています。
 
「霞ヶ城公園の桜」 「合戦場のしだれ桜」 「夜桜」 「桜(その他一般)」 「春の安達太良山」 「安達太良山山開き」 「春の花」 「春の風景」のそれぞれで、3~5点ずつ。どれもいい写真です。智恵子の愛した安達太良山をはじめ、霞ヶ城、道の駅「安達」智恵子の里など、ゆかりの場所の写真も。
 
「春の花」部門の入選作『藤花の薫り』は、智恵子生家から霞ヶ城に移植された藤を撮影したものと思われます。
 
ぜひご覧下さい。
 
また、上記の通り、夏、秋、冬、まつりなど各部門の募集があります。智恵子の愛した「ほんとの空」の下に広がる美しい風景を、しっかり世に広めていただきたいと思います。こうした活動も「復興」につながるものだと思います。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月9日002
 
大正11年(1922)の今日、森鷗外が歿しました。
 
鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で、従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっており、それが光太郎と鷗外との出会いでした。
 
その後、雑誌『スバル』の関係、すぐ近所に住んでいた関係などで、光太郎との交流は続きます。明治末、留学から帰った光太郎が徴兵免除になったのは、鷗外が裏で手を回したからという説があります。
 
光太郎は鷗外を敬愛しながらも反発し、しかし頭が上がらず、鷗外は光太郎を「しょうもない奴だ」と苦笑しながらもかわいがる、といった関係でした。

富山県高岡市から企画展の情報です。

高岡市美術館開館20周年記念 メタルズ!-変容する金属の美-

期 日 : 2014年6月28日(土)~8月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1番30号
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 
一般1,000円(前売・団体・65歳以上800円)、高校・大学生700円(団体560円)
      小中学生300円(団体240円)

休 館 : 月曜日(月曜日が祝・休日の場合は開館し、翌平日に休館)
 
 金属器生産の長い歴史を持つ高岡から発信する展覧会。古代から現代に至るさまざまな金属造形・金属工芸作品を展示します。展示構成は、時間軸にとらわれずに、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。
 
 本展は、400年にわたる金属器生産の歴史を持つ高岡からの発信として、高岡市美術館が企画し、金属産業とゆかりの深い地域の博物館・美術館と連携して開催します。各地の博物館・美術館のご協力のもと、古代から現代に至るさまざまな金属造形作品、金属工芸作品をご覧いただきます。
 その構成は、時間軸にとらわれずに、例えば、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や、道具、装飾などの機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。博物館・美術館がそれぞれの枠組みを超えて連携するのは画期的であり、美術界、さらには産業界に対しても「明日への提言」となる展覧会です。
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関連行事
 
○展覧会鑑賞と鋳造メーカー・作家アトリエ見学ツアー
第1回 7月11日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/大澤美術鋳造所/般若鋳造所/畠春斎家
第2回 7月18日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/株式会社老子製作所/平和合金株式会社/中村美術工芸
集合・解散 いずれも高岡市美術館
参加料 観覧券が必要
申込み 7月1日(火)午前9時30分から受け付け 電話(0766-20-1177)先着12名まで受付け 1回のみの参加も可能
 
○連続講演会
(1)「近代作家の工芸表現について」 7月19日(土)午後2時~3時30分
  講師 諸山 正則氏(東京国立近代美術館工芸館 工芸室長)
(2)「変容する金属の美」 7月26日(土)午後2時~3時30分
  講師 村上 隆(高岡市美術館長)
いずれも 高岡市美術館BF ビトークホール (聴講無料・申込不要)
 
○シンポジウム ・トークショー 「メタルズ!展を語ろう」
井浦 新氏(俳優、NHK日曜美術館キャスター)×村上 隆
パネルディスカッション「金属の美について語ろう」 コーディネーター:村上 隆(高岡市美術館長)
パネリスト:大澤 光民氏(人間国宝 金工作家) 能作 克治氏(株式会社能作 社長) 原田 一敏氏(東京藝術大学大学美術館 教授) 平戸 香菜氏(金屋町金属工芸工房かんか 金工作家)
とき 8月10日(日)午後1時30分~4時10分(開場 午後1時)
ところ 高岡市生涯学習センターホール(高岡市末広町1番7号ウイング・ウイング高岡4F)
参加料 無料


富山県高岡市は、鋳造による「高岡銅器」の街として有名です。そちらで館長の村上隆氏自らが企画・監修されたという企画展です。約100点の、古代から現代に至るまでの金属造形作品が展示されているそうです。ネット上で出品目録が見つかりませんが、光太郎作のブロンズ彫刻「手」も出品されているとのこと。
 
また、関連行事ではNHK「日曜美術館」でおなじみの俳優・井浦新さんもご登場。
 
お近くの方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月8日
 
昭和27年(1952)の今日、盛岡の岩手県公会堂で、ジャーナリスト・下村海南の講演会を聴きました。

昨日は東京外苑前のライヴバー、Z.imagineさんに行って参りました。光太郎の詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン歌手、モンデンモモさんのライヴでした。
 
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光太郎詩に曲を付けた「樹下の二人」「梅酒」の他、オリジナル詞の「私の智恵子抄」、それからフォーレの「夢のあとに」に乗せての朗読「あをい雨」、さらに光太郎智恵子の周辺人物、平塚らいてう、宮澤賢治に関する曲などを演奏なさいました。
 
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また、シャンソンや日本の古い歌(「ゴンドラの唄」「宵待草」)、ゲストでモモさんのお知り合いの方もステージに立たれ、もりだくさんの内容でした。
 
光太郎智恵子の世界は、さまざまな分野の表現者の感性に訴えかけるようで、音楽、演劇、絵画、文芸、朗読その他いろいろな二次創作等がなされています。こうした風潮が途切れることなく続いてほしいものです。
 
また、そうした活動に取り組まれている方、ご連絡いただければご紹介しますので、よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月7日
 
昭和59年(1984)の今日、神田の東京古書会館で明治古典会七夕古書大入札会が開催されました。
 
この年の目録のトップに、光太郎からプロレタリア詩人、中野秀人に宛てた書簡11通が大きく掲載されています。
 
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昭和2年(1927)~5年(1930)、滞欧中だった中野に宛てたエアメール……当時はまだ船便ですね。

一昨日、神田の東京古書会館に明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観を観に行きましたが、その足でもう一件、別の用事も済ませてきました。
 
行き先はJRお茶の水駅近くの石川武美記念図書館さん。以前はお茶の水図書館という名称でしたが、昨年4月に名称が変わりました。
 
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こちらは主婦の友社さんの附属施設で、石川武美(「たけよし」と読み、男性です)は同社の創業者です。そうした関係で、こちらの図書館は女性雑誌の収集に力を入れており、当方がよく利用する国会図書館や駒場の日本近代文学館、横浜の神奈川近代文学館等にもない資料があったりします。
 
所蔵和雑誌のリストがこちら。ただしタイトルと所収分の期間だけの記載で、巻号数は実際に足を運ぶか、問い合わせるかしないと判りません。
 
以前にも一度行った事があり、その際には筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品を見つけました。明治43年(1910)の『婦人くらぶ』第3巻第2号に載った長い散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」、大正11年(1922)の『主婦之友』第6巻第12号に載ったアンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答 紐育の満月」の2篇です。
 
また、作品そのものは知られていながら、初出掲載誌が不詳だった詩「保育」(昭和19年=1944)についても、掲載誌が同年発行の雑誌『保育』の第84号であることも、現物を見て確認できました。
 
さて、一昨日は、明治期の少女雑誌を調べるのが目的でした。
 
まずは博文館刊行の『少女世界』。こちらには明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。独身時代ですので、クレジットは「長沼」姓です。そちらは以前にコピーや現物が入手できています。今回探したのは、智恵子の2つ違いの妹・セキの書いた児童読み物。それが掲載されているという情報は得ていましたが、現物は未見でした。
 
調べてみたところ、幸いにも掲載号が所収されていました。大正元年(1912)9月の第7巻第12号で、「忘れずの記」という5ページ程の短い物語でした。署名は「長沼世喜子」となっています。智恵子も戸籍上の本名は片仮名で「チヱ」ですが「智恵」と漢字を当て、さらに「子」を付けています。この時代、こうした習慣は一般的だったようです。
 
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ちなみにセキは、智恵子と同じく日本女子大学校に通っており、光太郎と智恵子が愛を誓った(であろう)大正元年の犬吠埼行きの際にも、はじめ、智恵子に同道していました。卒業後は児童学研究の名目で渡米しています。
 
また、たまたま同じ年の別の号(7月5日刊行の第7巻第10号増刊星まつり号)を見ていたところ、同誌主筆の沼田笠峰の書いた「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事が目にとまりました。「福島」というのが気になって、記事を読んだところ、驚いたことに「高等女学校の長沼さん」の文字が。
 
 師範学校のお話をしまつて宿に帰りますと、留守中に高等女学校の千葉さん、長沼さん、富田さんがお出でになつてゐました。それから菊池さん、加藤さん、金子さんたちも音づれて下さいました。まる一年お目にかゝらない中(うち)に、皆様は見違へるやうになつていらッしやいます。あゝさうさう、皆様からS子さんによろしくとのことです。
 
 宿へ帰る途々、千葉さん、長沼さん、菊池さん、加藤さん、藪内さん、金子さん、湊さんたちと、さまざまのお話を致しました。S子さん、招来の日本の少女は、どんな覚悟を持たなければならないのでせう? こんなことを語り合ひながら、夕日さす市街(まち)を歩いた光景(さま)を想像して下さい。
 
改元直前の明治45年(1912)ですから、年代的に智恵子やセキではありえませんが、もしかするとさらに下の妹、智恵子と9つ違いのヨシあたりかも知れない、と思いました。ただし、ヨシが福島高等女学校に進んだたどうかは、手持ちの資料を少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おわかりの方はご教示いただけると幸いです。

追記 智恵子妹5人中、すぐ下のセキを除く4人(ミツ・ヨシ・セツ・チヨ)は福島高等女学校に通ったことが分かりました。時期的に、上記の「長沼さん」は4女のヨシが該当します。
 
ところで、この「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事、全体が「S子さん」にあてた書簡の形式で書かれています。この「S子さん」も正体不明です。ただ、福島高等女学校の長沼さんが「よろしく」と言っていたという点、2ヶ月後に「忘れずの記」を執筆している点などから考えて、「S子さん」=セキ、という仮説も成り立つかな、と思いました。
 
ただ、あまりに手がかりが少なすぎて、何とも言えません。
 
さて、石川武美記念図書館では、もう一種類、ほぼ同時期に金港堂書籍から刊行されていた『少女界』という雑誌も調べて参りました。こちらにも謎の作品が。ただ、長くなりましたので、またの機会に書きます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月6日
 
明治36年(1903)の今日、五代目尾上菊五郎の彫刻に取りかかりました。
 
光太郎数え21歳、前年に東京美術学校彫刻科を卒業し、徴兵猶予の意味もあって、研究科に残っていました。五代目尾上菊五郎はこの年2月に歿し、ファンだった光太郎は衝撃を受けています。
 
作家の山岸荷葉を介して菊五郎の音羽屋一門の知遇を得、写真を借りたりして制作にかかりました。
 
翌日の日記がこちら。
 
○きのふ(三十六年七月六日)啀権太の土型にとり懸りたり。今度は高さ三尺程にて姿勢は素より、衣服、持ち物、鬘、鉢巻その他すべてモデルも使ひ、話もきゝ、見ても貰ひてしつかり十分にやりたき心也。
 
「啀権太」は「いがみのごんた」と読み、菊五郎の当たり役で、「義経千本桜」の登場人物です。
 
この彫刻は完成しましたが、残念ながら現存が確認できていません。もし出てきたら大ニュースですね。

昨日、東京神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観(一般プレビュー)に行って参りました。昨年に引き続き、2度目でした。
 
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江戸期以前から現代までの二千数百点の出品物が所狭しと並び、全てをじっくり見ようと思ったら一日がかりでしょう。あまり時間もなかったので、光太郎がらみの出品物を中心に一部だけ観て参りました。
 
出品物は基本的に手に取って観ることができます。その点が文学館などとの大きな違いです。光太郎がらみの出品物も、ショーケースに入っていた与謝野寛宛書簡、短歌揮毫の色紙以外は手に取って観てみました(その2点も会場の方に頼めばケースから出してくれたのかも知れませんが)。
 
今回の出品物は以前から知っているものばかりでしたが、やはり生で見ると違います。特に識語署名入の随筆集『美について』は、数年前にネットの画像で観た時には筆跡的に少し怪しいかも、と思っていたのですが、実物を観るとオーラが漂っていました。不思議なもので、その手のオーラは画像では判りません。
 
その他の草稿や書名本なども、ビリビリとオーラを発していました。自宅兼事務所にも光太郎の署名本や草稿、短冊や書簡などが少なからずあるのですが、やはり違ったものに触れると違ったパワーを感じます。
 
その他、光太郎以外にも関係の深かった人物のもの……与謝野夫妻、草野心平など……さらに光太郎智恵子と直接の関連はないようですが、朝ドラ「花子とアン」で再び脚光を浴びている柳原白蓮のものなど、興味深く拝見しました。
 
いいものを観る(それも、手に取って観られるという贅沢)というのは非常にいいことですね。
 
カラー版厚冊の目録(2,000円)は、文生書院さんなど、加盟各店に注文すれば入手できます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月5日
 
昭和4年(1929)の今日、東京朝日ギャラリーで開催されていたデッサン社第三回展覧会が閉幕しました。
 
光太郎は大正期のデッサンを元に智恵子の背中を描いた「ほくろ」を出品したそうです。
 
デツサン社ではずばり「デツサン」という雑誌を刊行しており、大正15年(1926)の第三輯の表紙絵は光太郎が描いています。もしかするとその原画も展示されたのではないかなどと考えていますが、詳細が不明です。今後、調査してみます。
 
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「オークション」というシステムがあります。昨今は一般人が自由に出品できるインターネットオークションが幅広く利用されています。
 
元々「オークション」といえば、英国のサザビースのように、決まった日にちに特定の会場で競りをするもので、時折報道で「××の絵が○億円」などとあるのは、殆どがこうした「アートオークション」によるものです。
 
日本でもアートオークションを運営している企業が幾つかあり、現在は愛知のメナード美術館に収まっている光太郎作の木彫「栄螺」は、こうしたアートオークションで70余年ぶりに世の中に出て来ました。
 
さて、日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。去る6月28日(土)にシンワアートミュージアムにて「近代美術 / 近代陶芸 / 近代美術PartIIオークション」を開催しました。
 
こちらに光雲作の木彫「聖観世音菩薩像」が出品され、落札されています。
 
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落札価格は、なんと¥10,500,000=一千とび五十万円。普段、せいぜいカンマ一つの世界でしか生活していませんので、右から「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」と数えないとパッとわかりませんでした。
 
光雲作の優品であれば、このくらいの値段がついてもおかしくはありません。
 
つい先日も同じことを書きましたが、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
もっとも、同時に落札された棟方志功の板画は八千二百万でしたが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月4日
 
昭和62年(1987)の今日、八千代出版から石井昌光著『日本近代詩人論 ――高村光太郎から丸山薫まで――』が刊行されました。
 
石井氏は明治44年(1911)のお生まれ。宮城学院女子大002学の学長などを務められた方です。「あとがき」によればこの年に亡くなっています。
 
そういう大先輩に対して失礼かとは存じますが、真面目ないい論考です。
 
扱われているのは光太郎を筆頭に、萩原朔太郎、宮澤賢治、三好達治、丸山薫。それぞれの詩人に対する敬愛の眼差しが伝わってきます。
 
やはり扱う対象に対するリスペクトの念に欠けるものは、読むに耐えません。「対象の批判をするな」というわけではありませんが、その対象が「鼻持ちならない」とか云うなら、「論じるな」と言いたくなります。
 
といって、一面だけを捉えて、我田引水のリスペクトも困りものですが……。自戒のためにも書いておきます。
 
ちなみに右の画像、白っぽいのはパラフィン紙のせい。シミは古書店で購入した時からついていました。

昨日に引き続き、青森十和田ネタです。十和田市HPから。 

(仮称)十和田湖観光交流センターの愛称募集のお知らせ

(仮称)十和田湖観光交流センターの愛称を募集します。
 
市では、十和田湖休屋地区にある旧十和田湖遊覧船ターミナルを取得し、新たな観光拠点施設として活用を図ることとしています。

市民をはじめ観光客が気軽に立ち寄れるよう、また親しみのある施設となるよう愛称を募集します。
皆さまからの応募をお待ちしています。

【施設概要】
 1階 332.37平方メートル (100.5坪)  2階 362.44平方メートル (109.6坪)

【機能】
 観光案内、休憩、ヒメマス展示、和井内貞行・高村光太郎・大町桂月氏紹介、大、小会議室など
 
【応募について】
 1. 応募資格  市内在住・市外在住を問わずどなたでも応募できます。
 2. 応募方法  愛称、愛称の理由(意味)を記入し住所・氏名・年齢・電話番号を記載の上、郵便・
             FAX・メールで応募してください。  ※1人1点に限ります。    
 
3. 締め切り  平成26年7月25日(金)  
 4. 応募先   郵便の場合 〒034-8615 住所記載不要  十和田市役所観光商工部観光推進課 
         『(仮称)十和田湖観光交流センター愛称募集係 』 宛
         FAXの場合       0176-22-9799
         E-mailの場合  
kanko@city.towada.lg.jp
       
【賞品】
 優秀賞1名:賞状、副賞(十和田産品など:2万円相当)
 ※同一の愛称が複数の場合には、抽選して優秀者を特定。同じ愛称提案者には記念品を贈呈します。
 
【権利】
 愛称のすべての権利は、十和田市に帰属していただきます。
 
【問い合わせ先】
 〒034-8615 十和田市西十二番町6-1 十和田市 観光商工部観光推進課 (仮称)十和田湖観光交流センター愛称募集係  TEL 0176-51-6771  FAX 0176-22-9799
 
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昨年12月に破産した十和田湖観光汽船(青森市)が所有していた湖畔休屋の遊覧船ターミナルを市が取得、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設するという計画。今年の2月には報道されていましたが、いよいよ本格的に始動したようです。開館の時期等は明記されていませんが、近々でしょう。
 
「十和田産品など:2万円相当」という副賞、心が動きますね。ふるってご応募下さい!
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月3日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエでブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の特別上映が行われました。
 
前年に撮影が行われ、十和田湖畔の裸婦像制作のシーン、一時的に帰った花巻郊外太田村での様子などが撮影されました。
 
前月に公開されたのですが、体調の思わしくない光太郎のため、アトリエに映写装置を持ち込んでの特別上映会でした。
 
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青森は十和田湖からイベント情報です。 

第49回十和田湖湖水まつり

十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
花火大会ではイルミネーションに飾られた遊覧船が運航いたします。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい!

[会場]
 十和田湖畔休屋

[問合せ先]
 十和田湖湖水まつり実行委員会(㈳十和田湖国立公園協会内) ☎0176-75-2425

[花火]
日にち:19日(土)、20日(日)  時間:20:00~21:00
※小雨決行
 
[湖上花火観覧船]
日にち:19日(土)、20日(日)  料金:大人1,440円、小人720円
●子ノ口 18:30出航 花火終了後、子ノ口到着    ●休屋 定員になり次第出航 最終船19:40出航予定
 
[乙女の像ライトアップ]
日にち:19日(土)  時間:18:30~22:00
 
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「みなとオアシス十和田湖認定3周年」記念イベント ワンコインで十和田湖 湖上遊覧一周ツアー

日 時 : 平成26年7月21日 (月)祝日 “海の日”  午前9時~後12時頃(約3時間)
内 容 : 遊覧船での十和田湖一周湖上遊覧 定期航路にないコースも運航(北岸、西岸を含む)
料 金 : 500円(当日、受付でお支払いください)
申 込 : 往復はがきに住所氏名年齢電話番号を記入し7月5日(土)午後5時(必着)下記宛て
当選については返信がきにてご連絡いたします。はがき一枚で、二名様までご応募できます。
募集人員  200名 (応募者多数の場合は抽選によって決定いたします)
申込先 〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬湖畔休屋 486一般社団法人十和田湖国立公園協会内 湖上遊覧一周ツアー係 電話 0176-75-2425 FAX 0176-70-6002
URL http://www.towadako.or.jp/
 
 
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冬には「十和田湖冬物語」が開催されており、今年、初めてそちらに行きましたが、夏は「湖水まつり」だそうです。「冬物語」同様、光太郎作の裸婦群像・通称「乙女の像」のライトアップがあるそうで、さらに花火をバックにということで、幻想的なロケーションが楽しめそうです。
 
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さらに7/21(月)には湖上一周遊覧ツアー。ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月2日
 
昭和30年(1955)の今日、結核で入院していた赤坂山王病院で、レントゲン撮影をしました。

株式会社花美術館発行のアート雑誌『花美術館』の最新号です。
 
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特集は陶芸家の北大路魯山人ですが、後半の「現代作家――美覚と眼力」というコーナーで、青森在住の彫刻家、田村進氏の近作「冷暖自知光太郎山居」が4ページにわたり紹介されています。
 
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氏は昭和28年(1953)、十和田湖畔の裸婦群像除幕のため青森を訪れ、その後、野脇中学校で講演を行った光太郎とお会いになったことがあり、その偉大さに打たれたお一人です。一昨年にはレリーフの光太郎肖像も作製されています。
 
作品名は「冷暖自知光太郎山居」。戦後、花巻郊外太田村で独居していた頃の光太郎の肖像です。「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(『広辞苑』)の意。大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」に使われています。
 
   或る宵
 
 瓦斯の暖炉に火が燃える
 ウウロン茶、風、細い夕月

 ――それだ、それだ、それが世の中だ
 彼等の欲する真面目とは礼服の事だ
 人工を天然に加へる事だ
 直立不動の姿勢の事だ
 彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
 曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を――
 あなたは此を見て何も不思議がる事はない
 それが世の中といふものだ
 心に多くの俗念を抱いて
 眼前咫尺の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ
 それ故、真実に生きようとする者は
 ――むかしから、今でも、このさきも――
 却て真摯でないとせられる
 あなたの受けたやうな迫害をうける
 卑怯な彼等は
 又誠意のない彼等は
 初め驚異の声を発して我等を眺め
 ありとある雑言を唄つて彼等の閑(ひま)な時間をつぶさうとする
 誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて唯事件の当体をいぢくるばかりだ
 いやしむべきは世の中だ
 愧づべきは其の渦中の矮人だ
 我等は為すべき事を為し
 進むべき道を進み
 自然の掟を尊んで
 行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相戻らない境地に至らなければならない
 最善の力は自分等を信ずる所のみにある
 蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いていはいけない
 むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい
 我等はただ愛する心を味へばいい
 あらゆる紛糾を破つて
 自然と自由とに生きねばならない
 風のふくやうに、雲の飛ぶやうに
 必然の理法と、内心の要求と、叡智の暗示とに嘘がなければいい
 自然は賢明である
 自然は細心である
 半端者のやうな彼等のために心を悩ますのはお止しなさい
 さあ、又銀座で質素な飯(めし)でも喰ひませう
 
 
この詩は大正初年の作ですが、「冷暖自知」の語は、のち、太田村での農耕自炊の生活の中で、「為すべき事を為し/進むべき道を進み/自然の掟を尊んで/行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相戻らない境地に至」らんとした光太郎の内面をよく表している言葉だと思います。
 
3ページ目の画像にある背部の銘は北川太一先生の揮毫です。
 
田村氏による<製作意図>から。
 
 現今の時勢だからこそ光太郎を知らしめたいとの強い想いで制作。北川太一先生から資料の提示を仰ぎ、光太郎へのオマージュにしたいとの決意で臨んだ。
 勿論力量不足は否めない事実であるが、一人でも多くの人々に高村光太郎の偉大さを伝えたいとの一念に押された。
 詩人、歌人、評論家、書家そしてなにより彫刻家を自認、標榜した作家であった。美術家はもとより特に小学校高学年、中学生には人生の応援歌として詩『牛』を読んで欲しい! 加えて文芸評論の全てや、十和田湖休屋の『乙女の像』には日本民族の精神の指針、人生への示唆が溢れているのを確認して欲しい。

「牛」はこちらをご覧下さい。
 
『花美術館』、amazonなどから購入可能です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月1日無題
 
昭和22年(1947)の今日、雑誌『展望』に連作詩「暗愚小伝」が掲載されました。
 
「戦争責任」を柱に、幼少期からの自らの来し方を20篇の連作詩にまとめたもの。光太郎、一つのターニングポイントになった作品群です。
 
これ以前の太田村での農耕自炊は、「文化集落の建設」といった無邪気な夢想ともいえる部分がありましたが、「自己流謫」=自分で自分を流刑に処する、という方向に変わっていきます。
 
まさしく「冷暖自知」の境地に入って行くわけです。

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