2014年05月

5月29日、午後1時半。与謝野晶子ゆかりの堺市覚応寺にて、晶子命日の集い・第32回白桜忌が開催されました。
 
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昨年も書きましたが、やはり寺院での開催と言うことで、本格的な読経があったりと、仏教色の強い催しですが、地元の方々による献歌などやコーラスなどもあり、堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。われらが光太郎に関しては、東京出身とはいえ、東京都民に「おらが光太郎」という意識はほとんどないと思います。
 
後半は与謝野夫妻の研究者・逸見久美先生のご講演、「想い出すままに……与謝野晶子・寛の研究より」でした。失礼ながら、先生は大正時代のお生まれですが、まだまだエネルギッシュにご活躍なさっています。勉誠出版さんで編刊されている『鉄幹晶子全集』は、本文篇は完結したものの、まだ続くそうです。
 
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しかし、その先生がお若い頃には、与謝野晶子を研究対象にするなど、いかがなものかという空気があったそうです。まるで安藤緑山の牙彫などの明治工芸のようだな、と感じました。さらにそれより昔、それこそ『みだれ髪』のころには破廉恥極まりないといった評もされていたわけで、そう考えると、時代と共に評価が変わって行くのだなと実感させられました。光太郎智恵子の世界は、この後、どのように評価されて行くのでしょうか。
 
やはり周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも、もっと目を向けなければ、と思うので、与謝野夫妻にももう少し目を向けようと思いました。
 
終了後、楽屋(?)で逸見先生にご挨拶、先月の連翹忌にご参加下さった御礼を申し上げ、来年もご参加下さるお約束を取り付けました。その後、高村光太郎研究会の西浦基氏にまた車を出していただき、南海線の堺東駅まで送っていただいて、帰路につきました。非常に有意義な大阪行きでした。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月31日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑にキュウリの種を蒔きました。

昨日、大阪は堺市で行われました与謝野晶子命日の集い、第32回白桜忌に行って参りました。今日明日と2回に分けてレポートします。
 
一昨日、当方の住む千葉県香取市から夜行高速バスに乗って大阪を目指しました。千葉交通さんのバスで、銚子発大阪なんば高速バスターミナル行きです。この便は京都まで利用したことが3回ほどありますが、終点の大阪まで乗ったのは初めてでした。時間はかかるのですが、経費節減のためです。
 
事前に調べたところ、終点のなんば高速バスターミナルは御堂筋に近いことがわかりました。御堂筋といえば、つい先だってのブログでもご紹介しましたが、「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数設置されています。光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」も、通称の「みちのく」という名で並んでいます。約20年ぶりに見に行ってみました。
 
場所は地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅近く。高速バスターミナルからは、歩いていけない距離ではありませんが、時間の都合もあり、地下鉄を使いました。
 
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続いて鉄道を乗り継いで、JR阪和線堺市駅へ。次なる目的地は駅前にある堺市立文化館。こちらは「与謝野晶子文芸館」と「アルフォンス・ミュシャ館」が併設されています。こちらで高村光太郎研究会会員で、大阪在住の西浦基氏と合流、展示を拝見しました。
 
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晶子文芸館は3階。晶子の自筆資料、著書、遺品などが並び、パネルで年譜や解説がなされていました。
 
昨秋、山梨県立文学館さんの企画展「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を拝見して参りましたが、そちらと同一の出品物もあり、懐かしく感じました。
 
また、「コーナー展示」ということで、現在は「与謝野晶子と石川啄木」という一角もありました。啄木も光太郎同様、新詩社で与謝野夫妻に世話になっていますし、光太郎とも面識がありました。
 
啄木が早逝してだいぶ経ってから、昭和6年(1931)に啄木ゆかりの函館に旅行した晶子の歌「なつかしき函館に来て手に撫づる亡き啄木の草稿の塵」が展示されており、感動しました。
 
4階はミュシャ館。アルフォンス・ミュシャは、チェコ出身のアール・ヌーボーの画家で、日本でも根強い人気があります。当方、自宅兼事務所の執務室に複製を飾っています。
 
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調べてみたところ、『高村光太郎全集』で、一ヶ所だけミュシャの名が出て来ました。明治44年(1911)の『白樺』に載った「消息――『白樺に』――」と題する散文です。
 
 ――「白樺」毎号ありがたく存じます。世間の例にならつて「六号」を拝読しました。中にMuchaの事がありましたね。此はフランスの画かきで、重に装飾画をかく奴です。此奴の画いたサラ、ベルナアルのLorenzaccioやLa Samaritaineの「アフイシユ」は有名なものです。写生画や模様や図案を集めた本があります。かなり高価です。京都の田中喜作君が持つて居ませう。心づいたまま一寸。
 
光太郎、「此奴」呼ばわりしています(笑)。
 
続いて、晶子文芸館にほど近い堺女子短期大学さんに行きました。こちらには晶子の詩碑が建っています。
 
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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に寄せた有名な詩「そぞろごと」の一節が刻まれています。『青鞜』主幹の平塚らいてうは、届いたこの原稿を読み、いたく感動したとのこと。もしかすると智恵子あたりも心揺さぶられたのではないかと想像されます。
 
さらに西浦氏に車を出していただき、晶子生家跡に行きました。
 
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晶子の生家、鳳家は紀州街道沿い、大道筋という昔のメインストリートにあった「駿河屋」という菓子店でした。建物は現存しませんが、跡地に碑が建っています。これも有名な「海こひし潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」の歌が刻まれています。
 
さらに近くに大道筋の説明板もあり、何気なく見てみると、光太郎が在学中、東京美術学校の校長だった正木直彦の名が記されていました。正木もこの界隈の出身とのことで、それは知らなかったので、驚きました。
 
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白桜忌は午後1時半からということで、まだ時間があったため、光太郎とは直接関係ありませんが、堺市内の名所巡りを少し。
 
千利休の屋敷跡、面積的には世界最大の墳墓、大仙古墳(伝・仁徳天皇陵古墳)など。

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しかし、大仙古墳は上空からは見えないので、その規模がよくわかりませんでした。
 
函館五稜郭は近くに五稜郭タワーがあり、足下に五稜郭の全貌が見えるようになっていて、特徴的な星形がよくわかります。
 
そういう展望塔のようなものがあればいいのに、とも思いましたが、さすがに天皇陵を足元に見るというのは不敬、という考えなのかも知れません。
 
その後、昼食に「美々卯」さんという店でうどんすき、「かん袋」さんという甘味処で氷くるみ餅を御馳走になりました。どちらも凄いボリュームで、味もよし、大満足でした。
 
いよいよ白桜忌会場の覚応寺さんに向かいました。続きは明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月30日006

昭和25年(1950)の今日、朝日新聞社から木村艸太著『魔の宴』が刊行されました。
 
木村艸太(荘太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。明治末に吉原の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と恋のさや当てから決闘未遂騒ぎまで発展しました。
 
『魔の宴』は木村の自伝的小説で、光太郎と三角関係となった「パンの会」当時の話など、当時を知る上で、一級の回想です。

今日は大阪に行っておりました。与謝野晶子の忌日、第32回白桜忌の集いが堺市の覚応寺というところで行われ、そちらに参加、また、その前に堺市を中心にいろいろと廻って参りました。
 
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詳細は明日以降レポートいたします。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】
 5月29日

平成10年(1998)の今日、郡山市民文化センター展示室において、企画展「智恵子 その愛と光彩 高村光太郎の彫刻と智恵子の紙絵展」が開幕しました。
 
この郡山展を皮切りに、翌年にかけ、岩手、広島、東京、北海道、島根を巡回し、好評を博しました。
 
当方、東京展(大丸ミュージアム)を観て参りました。

北海道文学の研究者、盛厚三氏から北方文学研究会発行の同人誌『北方人』第19号を戴きました。ありがたいことです。
 
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光太郎は、その度に頓挫しましたが、何度か北海道移住を企てており、北海道在住だった詩人等との交流もいろいろとありました。今号に掲載されている盛氏の「評論/釧路湿原文学史(2)」にも、そうした詩人のうち、更級源蔵、猪狩満直といったあたりが紹介されており、興味深く拝読しました。
 
また、以前のブログでご著書『序文検索―古書目録にみた序文家たち』をご紹介させていただいた、かわじもとたか氏も「書誌/個人名のついた雑誌―日本人編(3)」を寄稿されています。
 
当方、やはり北海道出身(と思われる)詩人・編集者の八森虎太郎にあてた光太郎書簡(ハガキ)を2通持っています。一通は昭和24年(1949)9月のもので、以前のブログでご紹介しました。
 
もう一通がこちら。昭和23年(1948)5月のものです。
 
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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。
厚く御礼申上げます。
 
『落下傘』は金子光晴の詩集です。『池田克己詩集』『法隆寺土塀』とも、札幌にあった日本未来派発行所から上梓されたもの。こちらは雑誌『日本未来派』を発行しており、光太郎も寄稿しています。昭和23年(1948)7月刊行の第13号。「十年前のあなたは 十年後のあなたは」というアンケートへの回答です。
 
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ただし光太郎が答えているのは「十年前のあなたは」の項のみ。この時点では、健康に不安を抱え、十年後にはもうこの世にいないだろう、などと考えていたのでしょうか。実際、8年後に亡くなっています。
 
昭和23年(1948)の十年前は同13年(1938)、智恵子がこの年10月に亡くなりました。 
 
ちなみに上記ハガキに出てきた三冊、すべてこの号の裏表紙に広告が出ています。
 
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更級源蔵や猪狩満直、そしてこの『日本未来派』の面々、さらにマイナーな北海道詩人(島田正など)との交流、内地出身ながら北海道と縁のあった詩人(猪狩もそうですが、他に宮崎丈二など)との交流もあり、そのあたり、もっと掘り下げなければ、と思っているところです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月28日000

平成19年(2007)の今日、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」第8回「「西郷さん」で会いましょう~童子のこころで」で、光雲作西郷隆盛像が取り上げられました。
 
ナビゲーターは彫刻家の藪内佐斗司氏。飛鳥時代の広隆寺弥勒菩薩像、天平期の興福寺阿修羅像、さらに定朝、運慶、快慶と、仏像彫刻の流れを追う番組でした。

その最終回で光雲作西郷像。渋谷のハチ公同様、ランドマークとして待ち合わせの場所に使われたことから、「「西郷さん」で会いましょう」というサブタイトルになっています。
 
日本放送出版協会からテキストも発行されました。

石川は金沢より、先月から開催されている企画展情報です。 

中村好文 小屋においでよ!

会  : 金沢21世紀美術館 石川県金沢市広坂1丁目2番1号
会  : 2014年4月26日(土) - 8月31日(日)  10:00〜18:00 (金・土曜は20:00まで)
料 金 : 無料
 
概要 (公式サイトから)
建築家・中村好文は、長年にわたってクライアントの暮らしに寄り添った普段着のように居心地のいい住宅をつくってきました。この展覧会は、中村が子供のころから心奪われ、同時に「住宅の原型」として位置づけてきた小屋に関する考察と展示を通じて「住宅とはなにか?」を問い直す企画です。会場は「長期インスタレーションルーム」と「光庭」ですが、光庭には、エネルギー自給自足を目指すひとり暮らし用の小屋「Hanem Hut」を原寸サイズで展示いたします。
3.11以降、エネルギー問題や環境汚染の問題は、ますます避けて通ることのできない重要なテーマとなってきています。この小屋の展覧会が、そうした問題解決への糸口となり、提案となることを願ってやみません。
 
関連書籍 『中村好文 小屋から家へ』 TOTO出版、2013年
 
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昨年、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さんで開催された企画展の地方巡回です。古今東西の小屋の中から「7つの名作」を紹介するコーナーがあり、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋(高村山荘)も含まれています。 
 
先月から始まっているのですが、つい最近知りました。和歌山の田辺市立美術館で開催中の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」同様、知ったのが遅く、面目ありません。
 
さて、知ったのが遅く、関連行事がいくつか終わってしまっていますが、これから開催されるもののみご紹介します。
 
つのだたかし「小屋に捧げるリュートの夕べ」
 日時:5月31日(土)19:00~20:00
 会場:金沢21世紀美術館光庭(雨天の場合、館内別会場)
 参加費:無料
 
「職人衆、Hanem Hutを語る」
 日時:6月14日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館レクチャーホール
 定員:先着80名(予約不要)
 参加費:無料

中村好文×皆川明対談「小屋から学ぶこと」
 日時:8月2日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館シアター21
 定員:180名
 チケット料金:1,000円
 チケット取扱: 金沢21世紀美術館ミュージアムショップ  TEL 076-236-6072
 
「Hanem Hut」内部公開 光庭に展示する「Hanem Hut」の内部を限定公開します。(予約制)
 公開日時:毎週土日 14:00〜18:00
 予約方法:当日13:00より、「Hanem Hut」のある光庭にて予約を受け付けます。
 ※天候等の事情で公開できない場合もございます。あらかじめご了承ください。
 
 
今回の「小屋においでよ!」は、たまたま中村氏のインタビューをネットで見つけて知りました。「高村光太郎」の語が入っていたので検索の網にひっかかりました。
 
毎日、「高村光太郎」「高村光雲」「智恵子抄」等のキーワードでネット上の新着情報を渉猟していますが、限界があります。美術館・文学館などの企画展の地方巡回(特に関東以外)に関する情報収集が今ひとつできていません。何かこの手の情報をうまくゲットできる(キーワード検索などで)いいサイトなどがあれば、ご教示いただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月27日

大正14年(1925)の今日、『東京日日新聞』に、談話筆記「悪趣味を排す」、さらに「自筆」カット「自画像」が掲載されました。
 
これを受けて5月30日に詩人の田内静三にあてた書簡が伝わっています。
 
此間の日日新聞のには全く閉口しました。 画は鉛筆でかいたものをペンか何かでなぞったらしく、記事は記者が勝手に書き上げて意味の正反対の事さへ書いてありました。友達ならば分かるでせうが、甚だ迷惑なものですね。取消正誤を出す程の事でもなし、尚更困ります。
 
こういうケースがあるので注意が必要ですね。

一昨日、浅草はアミューズミュージアムさんで、「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~ レジェンド・太宰治」を聴いて参りました。
 
出演者の中村雅子様塙野ひろ子様須賀雅子様のブログにレポートがありますので、リンクさせていただきます。
 
浅草といえば、光雲・光太郎親子のホームグラウンドです。特に光雲は浅草の生まれです。そこで、朗読会が始まる前、少しだけ二人の足跡をたどってみました。
 
まず、浅草寺観音堂前の手水舎。光雲作の「沙竭羅龍王像」。
 
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明治36年(1906)の建立です。ただし、はじめは観音堂裏手にあった池に噴水があり、その噴水塔の上に鎮座ましましていたもので、のちに移転されています。
 
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こちらは当時の絵葉書。一見カラーですが、「手彩色」といって、色は手で塗ったものです。
 
像の迫真の表情、それから東韶光による天井画の龍も実に迫力があります。
 
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続いて観音堂の前を左折、奥山方面へ。奥山門を出ると「浅草花やしきさんがあります。
 
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光太郎、ここには美術学校時代によく通っていました。
 
動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。(「モデルいろいろ」 昭和30年=1955)
 
そんな無理が通った背景には、光太郎の祖父・中島兼吉がこの辺りの香具師(やし)の組、花又組の親分だったことも無関係ではないでしょう。
 
花やしきの前を過ぎ、少し行ったアーケード街を北上すると、老舗の牛鍋屋「米久さんがあります。
 
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光太郎は大正10年(1921)、この店を舞台に「米久の晩餐」という長大な詩を書きました。
 
    米久の晩餐
 
八月の夜は今米久(よねきう)にもうもうと煮え立つ。
 
鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
べつたり坐り込んだ生きものの海。
バツトの黄塵と人間くさい流電とのうづまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシヤツポと鉢巻と裸と怒号と喧騒と、
麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京米と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱氣の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあの隠れた第六官の眼と耳とを手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

室に満ちる玉葱と燐とのにほひを
蠍(さそり)の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛闊な風が、
程よい頃にさつと吹き払つて
遠い海のオゾンを皆(みんな)の團扇(うちは)に配つてゆく。
わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンパレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすつかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音。
まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下のお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら、酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいう社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁(とうりやう)、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい……
きびきびと暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉(ぎよく)にビールの、一円三十五銭……
おつと大違ひ、一本こんな處にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓樂をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平氣でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を氣にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたへ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声をきき、
むしろこの世の機動力に欺かる盲目の一要素を与へたものの深い心を感じ、
又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切つた言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり、
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な溌溂の力を心に育(はぐく)みながら静かに座を起つた。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 
ここで昼食、と考えていましたが、まだ開店前でした。
 
この界隈にはその他にも光太郎光雲ゆかりの場所がまだまだあります。ただ、花やしきさんや米久さんのように、今も続いているところはそう多くはないのですが。また時間を見つけて、古地図片手に足跡をたどってみようと思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月26日

平成12年(2000)の今日、俳優の山村聰が歿しました。
 
山村さんといえば、昭和32年(1957)封切りの東宝映画「智恵子抄」で光太郎役を演じられました。その時の智恵子役は原節子さんでした。
 
以前にも書きましたが、山村さんと光太郎の関連は、映画「智恵子抄」だけではありません。山村さんがまだ若手俳優だった戦前から戦時中、ラジオ放送で何度も光太郎詩の朗読をなさっていました。戦時中には「シンガポール陥落」「山道のをばさん」といった戦意昂揚の詩を朗読しています。
 
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画像は映画「智恵子抄」のパンフレットから。
 
山村さんご自身の言葉も載っています。
 
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昨日は浅草に行き、過日のブログにてご紹介した「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~ レジェンド・太宰治」。を拝聴して参りました。
 
街自体にあまり用事がなく、久しぶりの浅草訪問でした。
 
東京メトロ銀座線の浅草駅から吾妻橋のたもとあたりで地上に出ると、まず目に入ったのはそびえ立つ東京スカイツリー。駅前には人力車に乗った新郎新婦。いい感じですね。その後、会場のアミューズミュージアムに行くため、浅草寺方面へ。そこは観音堂のすぐ隣です。混雑しているとわかっていながら、やはり正面から、と思い、雷門をくぐって仲見世通りを歩きました。

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明日また詳しくレポートしますが、観音堂前の手水舎には光雲作の銅像、「沙竭羅龍王像」があります。そこを右折して二天門を出れば会場のアミューズミュージアム。また時間が早いので、場所だけ確認して逆方向の奥山方面に進みました。こちらにも光太郎ゆかりの場所がありますが、そちらのレポートも明日。
 
さて、アミューズミュージアム。公式サイトによれば「布文化と浮世絵の美術館、和のセレクトショップ、ライブスペースが一体となった複合型アートビル」とのことで、朗読会の前に美術館部分を拝見しました。
 
レトロな道具類、古布の端切れ、青森南部地方の「南部菱刺し前かけ」、考古資料まで並んでいました。上の方の階は浮世絵関連で、現物の他、「浮世絵シアター」で俳優の小倉久寛さんナレーションの動画も放映されていました。
 
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屋上は展望スペース兼喫煙所。足下に浅草寺が俯瞰できます。振り返ればスカイツリーも。
 
 
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さて、いざ、会場の6階ホールへ。いよいよ朗読会開始です。
 

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いきなり光太郎の「智恵子抄」より。中村雅子様、塙野ひろ子様、須賀雅子様、宮崎泉様、4名の出演者の皆さんがお一人ずつご登場、5篇の詩を朗読なさいました。
 
 「樹下の二人」「あどけない話」「山麓の二人」「レモン哀歌」「亡き人に」。福島関連の詩が3篇含まれていたのは、「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会」と謳われている関係でしょうか。
 
また、全員、コスチュームのどこかしらにさわやかなブルーを配していらしたのも、偶然ではなく、サブタイトルの「届けよう笑顔!~東北に初夏の風~」ということで、初夏の青空をイメージなさっていたのではないかと思いました。

その後は太宰治の短編小説を4篇、お一人1篇ずつ朗読なさいました。皆さん、現役や元アナウンサー、劇団四季ご出身などの方々ということもあり、メリハリのついた非常に聴きやすい朗読。聞きほれてしまいました。
 
トリを務められた中村雅子様は、驚いたことに原稿なし(音楽演奏でいえば暗譜)でのご朗読。すばらしいですね。
 
最後は聴衆を巻き込んでの歌、「雨のち晴レルヤ」でした。
 
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プログラム的にも長すぎず、短すぎず、何よりお美しいすてきな皆様の素晴らしい朗読で、非常によかったと思いました。
 
終演後、出演者の皆様にご挨拶させていただき、さらに例によって連翹忌の営業をして参りました。どなたかお一人でも来年の連翹忌にご参加いただければ、朗読を披露していただきたいと考えております。
 
先程も書きましたが、周辺での光太郎光雲関連スポットも廻ってきましたので、明日はそのレポートを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月25日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエにブリヂストン美術館の映画撮影班が入り、美術映画「高村光太郎」の撮影が行われました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のシーンが撮影されました。
 
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テレビ放映情報です。 

いにしへ日和 #107 福島県・二本松市・智恵子の空

BS朝日 2014年5月29日(木)  21時54分~22時00分
     再放送
 2014年6月5日(木) 21時54分~22時00分
 
時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
“あれが阿多多良山、あの光るのが阿武隈川 ここはあなたの生まれたふるさと…"二本松市は「智恵子抄」のモデルとなった高村智恵子が生まれた地。造り酒屋だった生家が今も残され、光太郎との結婚後も1年の半分をここで過ごしたといわれています。
 
智恵子は、この故郷の空を「ほんとの空」だと言いました。 彼女が愛した故郷を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
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5分間番組です。とはいえ智恵子をメインにあつかっていただけるので、ありがたい限りです。
 
放送予定が変更になったようで、実は2週間ぐらい前にこの内容が予告で出たのですが、すぐに取り消されました。「まさかお蔵入りか?」と思ったのですが、無事放送されるようで何よりです。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月24日000

平成7年(1995)の今日、日本放送出版協会から『みちのく文学散歩』が刊行されました。

当時、NHK-BSで放映されていた同名の30分番組全20回を出版化したものです。
 
メディアプロデューサー・残間里江子氏による「高村光太郎-『詩集・典型』を含みます。この項では、詩集『典型』(昭和25年=1950)が編まれた、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)をメインに、十和田湖も取り上げられています。
 
当時、この放送を見逃してしまいました。NHKさんの過去の番組は、一部のものが埼玉川口のNHKアーカイブス施設などに行けば「番組公開ライブラリー」ということで視聴可能なのですが、この番組は入っていません。販売用DVD等にもなっていません。
 
同じ番組の石川啄木を取り上げた回は、昨年、やはりBSの「プレミアムアーカイブス」という枠で再放送されました。これはNHKさんのBSや総合テレビで放送された番組の中から、反響の大きかったものをもう一度放映するというもの。光太郎の回もぜひ放映してほしいものです。
 
また、他にも光太郎智恵子を扱った番組が多数ありますので、そちらも観たいものです。

過日、花巻の第57回高村祭に行った折、入手してきたチラシです。
 
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花巻で運行されている観光タクシー「あったかいなはん花巻号2014」の案内です。昨年から始まった企画ですが、レトロジャンボタクシーで花巻市内の観光施設等を廻って、半日1,000円、1日で2,000円という値段です。
 
半日コースは午前コースと午後コースに分かれており、両方通しで1日コースとなります。午後コースの方に、高村光太郎記念館・高村山荘が含まれています。その午後コースは、他に宮澤賢治記念館マルカン百貨店大展望大食堂を巡回します。なぜにデパートの食堂?と思われるかも知れませんが、ここの巨大ソフトクリームが花巻名物の一つで、最近、旅番組などでもよく取り上げられているからです。しかも「ツアーの参加特典」となっていますので、タクシー料金に含まれているようです。ただ、巨大ソフトクリーム、もともと150円ですが……。こちらは割り箸で食べるのが正式な作法です。当方も話の種にと思い、一度食べたことがありますが、半端なものではありません。
 
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「あったかいなはん花巻号」、要予約ですが、ネットのいわて花巻旅行社さんのページから可能です。
 
以前は在来の花巻駅から高村光太郎記念館・高村山荘行きの路線バスがあったのですが、数年前に廃線となり、公共交通機関で行こうと思ったら、通常のタクシーか、この「あったかいなはん花巻号」しかありません。通常のタクシーは花巻駅から片道3,000円ちょっとですので、往復となると7,000円ほどになってしまいます。まして東北新幹線の新花巻駅からですと、さらに距離があります。
 
ぜひご利用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月23日

昭和12年(1937)の今日、新潟長岡で「光雲遺作木彫展観」が開催されました。
 
新潟に光雲支援者が多くいたことから開催の運びとなりました。光太郎も観に行っています。
 
この時に、光太郎の文章「〔高村光雲作木彫展観〕」が載っているパンフレット的なものが発行されました。文章は『高村光太郎全集』に掲載されているのですが、パンフレットそのものを探しています。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

連翹忌ご常連で、元・日本女子医大図書館にお勤めだった細井昌文氏から、今月、新潟で発行された冊子を戴きました。
 
題は『洗心』第24号。発行元は糸魚川市歴史民俗資料館《相馬御風記念館》内の「御風会」さん。詩人の相馬御風の顕彰団体のようです。
 
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細井氏ご執筆の000「御風と高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。
 
相馬御風は光太郎と同じ明治16年(1883)、糸魚川の生まれ。明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っています。
 
明治36年(1903)、同37年(1904)の光太郎日記には御風の名が記されている他、戦時中に御風に宛てた書簡2通、さらに御風に触れた随筆「彫刻その他(二)」(昭和19年=1943)が『高村光太郎全集』に収録されています。
 
また、御風の長女で、智恵子と同じ日本女子大学校卒の文子も本郷の東京帝大史料編纂所に勤務し、光太郎の元を訪れたりしています。『高村光太郎全集』には文子宛の書簡(御風追悼の内容・昭和25年=1950)も掲載されています。
 
細井氏の論考では、御風と光太郎のつながりを解くいくつかのキーワードが挙げられています。
 
その一つ、「口語自由詩」。
 
光太郎が本格的に詩作を始めるのは、海外留学から帰朝後の明治43年(1910)のことです。初めのうちは文語詩が多いのですが、徐々に口語自由詩に移行、大正に入るころにはほぼ文語詩は見られなくなります。
 
一方の御風は光太郎留学中の明治41年(1908)にはすでに口語自由詩を発表しています。他にも口語自由詩に先鞭を付けたのは川路柳虹、三木露風、人見東明など。帰朝語の光太郎はそうした先例に触発されて口語自由詩に傾いていったのだと思われます。
 
また、戦時の体制協力という点もキーワードの一つです。光太郎は文学者の統制団体、日本文学報国会の詩部会長を務め、御風も会員に名を連ねています。光太郎には膨大な数の戦争詩があり、御風もその売上金を海軍省に献金するために発行された『辻詩集』(昭和18年=1943)に作品を寄せるなどしています。もっとも、こうした活動は当時の殆ど全ての文学者に当てはまることですが……。
 
細井氏は、おそらくこの頃に一時途絶えていた光太郎と御風の交流が復活したのではないかと論じられています。また、戦後の光太郎の花巻郊外太田村での隠棲にも触れ、「新しき村」の武者小路実篤や、三里塚に隠棲していた水野葉舟などとともに、既に大正期に糸魚川に帰住していた御風の影響も見て取れるとしています。首肯できる御意見です。
 
ところで、惜しむらくは、おそらくそれなりに数があったであろう御風からのものを含め、戦時中までの光太郎宛の書簡がほとんど残っていないこと。それらは多くの彫刻原型などとともに、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰していまいました。戦後のものはほとんど未整理のまま某所に保管されているのですが、それらの整理も今後の重要な課題です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月22日

昭和35年(1960)の今日、福島二本松の霞ヶ城跡に、光太郎詩碑が建立除幕されました。
 
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霞ヶ城敷地内に、元々あった「牛石」という石に3枚のブロンズパネルを埋め込んだ碑です。
 
表面には光太郎詩「樹下の二人」の一節「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」が、裏面には光太郎詩「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」が、さらに草野心平による碑陰記がそれぞれ刻まれています。
 
光太郎の筆跡は、智恵子と交流のあった二本松出身の彫刻家、斎藤芳也が木彫で原型を作りました。
 
「あれが阿多多羅山……」の部分の拓本、当方書斎にインテリアとして掲げてあります。
 
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来月開催される音楽イベントを二つご紹介します。 

第九回 邦楽器とともに 新しい日本歌曲の夕べ ~再演作品を揃えて

日時 2014年6月2日(月) 18:30~
料金 3,500円
曲目 出演 
 「冬の雅歌」〜句集「途上」より〜  高原桐[詩] 松村百合[曲]
     伊藤香代子[ソプラノ] 松尾慧[篠笛] 三森未來子[チェロ] 大上茜[琵琶]
 「七夜月」「花のみちゆき」-「恋ひ歌」三章より-  伊豆裕子[詩] 小山順子[曲]
    山本有希子[ソプラノ] 福永千恵子[十七絃] 野澤徹也[三絃]
 「天女」  太田眞紗子[詩] 小室美穂[曲]
    林廣子[ソプラノ] 松尾慧[篠笛]
 「宵待人」 木下宣子[詩] 池上眞吾[曲]
    武田正雄[テノール] 池上眞吾[筝] 平野裕子[十七絃] 田嶋謙一[尺八]
 「荒涼たる帰宅」 高村光太郎[詩] 田丸彩和子[曲]
    福嶋勲[バリトン] 設楽瞬山[篠笛・尺八] 岩佐鶴丈[薩摩琵琶]
 「アダジオ」 齋藤磯雄[詩](フランソワ・コペ原詩)千秋次郎[曲]
    関根恵理子[ソプラノ] 重成礼子、木村麻耶[筝]
 「しだれ桜ー紫の上ー」 藤井慶子[詩] 高橋久美子[曲]
    百合道子[メゾソプラノ] 松尾慧[篠笛] 久保田晶子[琵琶]
 「鑿(のみ)と桜」 山根研一[詩] 中島はる[曲] 
  
  森田澄夫[テノール] 砂崎知子[筝] 田辺頌山[尺八]
 
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同じ波の会さん主催で昨年も「荒涼たる帰宅」が演奏されたコンサートがありました。
 
 
もう一件、直接は光太郎と関わりませんが、連翹忌ご常連の作曲家・仙道作三氏によるものです。 

ひとりオペラ「与謝野晶子みだれ髪」(全2幕8場)

日時 2014年6月7日(土)昼:午後3時30分開演・夜:午後7時開演(各30分前開場)
主催 命と愛のメッセージ委員会 センドー・オペラ・ミュージカル・カンパニー
料金 前売4,000円、当日4,500円
出演 山口佳子(ソプラノ) 矢島祐果(朗読) 水村浩司(Vn) 白佐武史(Vc)
   菊地邦茂(Pf) 斉藤裕子(Perc)
作曲・演出・指揮 仙道作三
台本 持谷靖子

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作曲の仙道氏は、オペラ「智恵子抄」も作曲なさっています。この「与謝野晶子みだれ髪」は平成20年(2008)の初演だそうです。
 

与謝野晶子は光太郎と縁が深く、当方、このところ晶子に対する関心も高まってきており、聴きに行くことにしました。
 
それぞれ上記主催団体リンクから申し込めますので、001よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月21日
平成9年(1997)の今日、日本コロムビアからCD「ボニージャックスの日本の唱歌」がリリースされました。
 
光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩くうた」が収録されています。
 

一昨日の日曜日、二本松市コンサートホールでは「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」が開催されましたが、同じ日に安達太良山では「第60回安達太良山山開き」でした。
 
地元紙に報道されていますのでご紹介します。 

「ほんとの空」目指し頂へ 安達太良山開き

 福島県内の主要な山のトップを切り、安達太良山(1700メートル)が18日、山開きした。60回の節目を迎え、過去最多となる1万5000人(主催者発表)が山頂を目指した。
 県内外から訪れた登山客が奥岳、塩沢などの登山口から入山した。互いに声を掛け合い、「智恵子抄(ちえこしょう)」でうたわれる「ほんとの空」を見上げながら、一部に雪が残る登山道を歩いた。
 「乳首山」と呼ばれる岩峰の山頂付近は濃いガスに覆われていたが、晴れ間が広がると安達太良連峰や吾妻連峰、猪苗代湖などの雄大な景色を見渡すことができた。
 60回目の山開きを祝い、餅つきなどの記念行事が催された。
(『福島民報』)
 
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「安達太良山」山開き 過去最多1万5000人“絶景”満喫

 日本百名山で知られる安達太良山(1700メートル)の第60回山開きは18日行われ、登山者は岩場やぬかるみを踏みしめながら山頂を目指し、眼下に広がる絶景のパノラマを満喫した。
 節目の山開きとなった今回は、県内外から昨年を約7000人上回る過去最多の約1万5000人が訪れた。登山者は新緑と残雪が入り交じる雄大な景観を堪能しながら、登山道を一歩一歩進んだ。時折、晴れ間がのぞくと、猪苗代湖や阿武隈山系、吾妻連峰などの景色が広がり、登山者が疲れを癒やした。
 山頂では、60回記念行事の餅つきと恒例の安全祈願祭が行われ、安達太良連盟会長の新野洋二本松市長をはじめ関係団体の代表が玉串をささげ、シーズン中の安全を願った。ミズあだたらコンテストでは、ミズあだたらに福島大4年の桑名真美さん(21)=福島市=が選ばれた。
(『福島民友』)
 
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桑名さん(福大)ミズに 安達太良山開きでコンテスト

 第50回ミズあだたらコンテストが安達太良山頂付近で催され、ミズは福島大4年の桑名真美さん(21)、準ミズは福島市臨時職員の今泉綾さん(22)が輝いた。
 桑名さんは初めての安達太良山登山で、景色を楽しみながら登ったという。「選ばれると思っていなかった。素晴らしい賞を頂きうれしい」と白い歯をのぞかせた。今泉さんは小中高と安達太良山に親しんできた。山開きに合わせた登山は今回が初めてだった。「なじみの山。60回の節目に選ばれてうれしい」と満面の笑みを見せた。
 2人には後援の福島民報社提供のトロフィーなどが贈られた。コンテストは年齢不問で、50人が出場した。着こなしなどが評価対象となった。
(『福島民報』)
 
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60回というキリ番の山開きに、過去最多の人出。よかったと思います。「智恵子抄」中の「ほんとの空」というキャッチフレーズが一役買っているのであれば、嬉しい限りです。
 
秋の紅葉冬の幻想的な樹氷、これからも四季折々に美しさを見せる安達太良山。山開きだけでなく、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月20日

昭和31年(1956)の今日、光太郎四十九日。智恵子も眠る駒込染井霊園の高村家墓所に、光太郎の遺骨が埋葬されました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】でご紹介しましたが、今日は奇しくも智恵子の誕生日です。

昨日は、福島二本松市コンサートホールにて開催された「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」を拝聴して参りました。
 
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午前9時過ぎ、愛車を駆って自宅を出ました。先月、圏央道が自宅近くまで延伸されたので、通ってみたところ、これまでよりだいぶ早く行けるようになりました。
 
圏央道→常磐道→磐越道→東北道と乗り継ぎ、昼食は東北道の安達太良SAでとりました。
 
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安達太良SAから見た安達太良山。昨日は山開きもあり、こちらも多くの人でにぎわったようです。
 
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同SA、下り線2階の蕎麦屋さんには、智恵子に関するミニ展示があります。お立ち寄りの際にはぜひご覧ください。
 
東北道二本松ICで降りて、コンサートホールへ。ここは昭和63年の開館ですが、二本松ゆかりの声楽家・関屋敏子に因んだイタリア風の外観をもつ瀟洒な建物です。館内には関屋敏子のポートレートや肖像画が飾ってありました。関屋は先祖が二本松藩の御殿医だったそうです。
 
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さて、午後2時、開演。二本松在住の河田富士雄さんの語り、連翹忌や女川光太郎祭ご常連の宮川菊佳さんのギターに載せ、ラジオ福島アナウンサー・菅原美智子さんによる光太郎詩朗読。
 
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光太郎智恵子の出会いから、智恵子死後の光太郎の独居生活までを6章に分け、それぞれ3~5篇ずつ、計23篇の朗読で、光太郎智恵子の世界を表現されました。
 
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プロジェクタで関連する画像を映写したりといったビジュアル的な工夫もあり、なんといっても菅原さんの情感たっぷりの朗読が素晴らしいと思いました。当方、菅原さんの朗読を聴くのは初めてでしたが、このイベントの主催団体である「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表から、とてもいいと聞かされており、今回、実際に聴いてみて、納得いたしました。
 
この後も「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベント、また、同じく二本松で活動されている「智恵子の里レモン会」さん主催のイベントなどがいろいろとあります。また近くなりましたらご紹介いたしますが、1件だけ先の話を。
10/5(日)、智恵子忌日の「レモン忌」が「智恵子の里レモン会」さん主催で行われます。今年は当方が記念講演をすることになりましたのでよろしくお願い申し上げます。詳細は後日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月19日

昭和25年(1950)の今日、日本書籍株式会社から1,600円の書留を受けとりました。
 
大正13年(1924)作の詩「春駒」が同社刊行の教科書に掲載されたため、その転載料です。

5/15(木)、岩手花巻で行われた第57回高村祭。地元紙に報道されましたのでご紹介します。 

光太郎しのび朗読や合唱 花巻で高村祭

『岩手日報』
 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第57回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、郷土ゆかりの先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。太田小児童の楽器演奏、西南中の合唱に続き、花巻北高の遠藤鮎喜(あゆき)君(3年)と佐々木愛美さん(2年)が「晴天に酔う」「レモン哀歌」を朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年の佐藤百(もも)さん(18)は1945年8月の花巻空襲時に、危険を顧みず負傷者救護に尽力した看護師らをたたえた詩「非常の時」を情感を込めて読み上げた。佐藤さんは「戦争作品はあっても、看護師などに目を向けた詩は少ない。意味を調べながら練習した」と話した。
 同看護専門学校のコーラス披露もあり、訪れた市民ら約300人とともに光太郎に思いをはせた。
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光太郎精神 現代に 地元学生ら詩朗読、合唱 名前の由来は光太郎の妻 名付け親に持つ末盛千枝子さん

『岩手日日』
 花巻市ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する高村祭が15日、同市太田山口地区の高村山荘詩碑前で開かれた。地元の学生たちによる光太郎作品の朗読や、編集者の末盛千枝子さん(八幡平市)の特別講演などを通じ、参加者が偉人の足跡に思いをはせた。

 光太郎が東京から花巻に疎開してきた日を記念し、花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が毎年主催。57回目の今年は、詩集「道程」刊行100周年が重なった。

 各地から450人以上が参加。開会に先立ち光太郎の遺影が飾られた詩碑に太田小2年生の中島流星君と石川澄花さんが献花し、三彩流新茗会新田社中が献茶して開会。参加者全員が詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読した。

 続いて地元の学生たちが出演し、新緑に包まれた会場で光太郎の残した言葉を響かせた。太田小2年生21人は光太郎と交流のあった旧山口小の校歌を元気いっぱい歌ったほか、「かっこう」をピアニカで演奏、光太郎の詩「案内」を暗唱した。

 西南中学校1年生49人は「心はいつでも新しく、毎日何かしらを発見する」という光太郎の言葉を取り入れた精神歌を合唱。県立花巻北高校の遠藤鮎喜君(3年)と佐々木愛美さん(2年)、花巻高等看護専門学校の佐藤百さん(1年)による光太郎の詩の朗読後、同校1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」のコーラスを披露した。

 特別講演では、本県出身の彫刻家・故舟越保武氏の長女で、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、「私にとっての高村光太郎」と題して光太郎との縁を振り返った。

 末盛さんの父は光太郎が訳した本「ロダンの言葉」を読んで彫刻家になろうと決心した経緯があり、29歳の時に初めての娘である末盛さんが東京で生まれた時、全く面識のない光太郎を突然訪ねて名前を頼んだという。

 光太郎は妻智恵子を亡くしてから3年しか経っていない頃で、「女の名前は智恵子しか浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」と言って名付けてくれた-と末盛さんは聞かされてきた。

 末盛さんは「自分はそんな大切な名前に値しない。父が無理難題を言って申し訳ない」と感じてきたが、「最近になって父は彫刻家としてやっていく励ましをもらいたくて高村さんを訪ねたのだろう、高村さんは大変さを身に染みて分かっていたから、若い彫刻家の頼みを断れなかったのではと思えるようになった」と心境の変化を語った。

 盛岡にいた当時、光太郎から「おじさんのことを覚えていてください」と言われたことにも触れ、「父が彫刻家になることが高村さんの励ましに応えることだった。弟2人(舟越桂氏、舟越直木氏)も彫刻家になり、曲りなりにも応えられたのでは」と思いをはせた。
 
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それから、撮ってきた写真を整理していたら、過日のブログに載せ忘れていたものがありましたので、ついでに。
 
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左はポスター、右は会場正面に掲げられた光太郎肖像写真です。
 
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会場のゴザの上を飛び跳ねていた蛙。思わず「心平先生、いらしてたんですか?」と呼びかけてしまいました(笑)。
 
今日は福島二本松の智恵子生誕祭に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月18日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに入れるベッドの購入契約をしました。
 
メーカーはエムプレス。光太郎、約2年後に、このベッドの上で終焉の時を迎えました。
 
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大阪からイベント情報です。  

まちあるき「御堂筋は名彫刻の宝庫だ(東側コース)~グレコも高村光太郎も~」

御堂筋は日本が誇る名彫刻の宝庫であることをご存知ですか?「大阪あそ歩」で、じっくりと鑑賞歩きをしてみましょう、まず、御堂筋東側。ブールデルの妻の像「休息する女流彫刻家」と「腕を上げる大きな女」、グレコの「坐る婦人像」、高村光太郎の「みちのく」、ルノワールの(そう、あの画家の)「ヴェールを持つヴィーナス」、佐藤敬助お淀井俊夫も・・・・!!!美術評論家柳亮を父にして育った伊藤義麿が直接ご案内します。
 
<コース>
北から南へ。ブールデル~グレコ~中村晋也~高村光太郎~佐藤敬助~朝倉響子~桜井祐一~ブールデル~淀井俊夫~船越保武~メッシー~ルノワール~チャドウィック~(地下鉄心斎橋駅)
 
日 時 : 2014年5月20日(火) 13:30~
集 合 : 地下鉄御堂筋線淀屋橋駅北改札口前
所 要 : 約2~3時間
費 用 : 1500円(小学生以上)※集合時に支払い。お釣りのないようにしてください。
定 員 : 15名
問合せ先 大阪あそ歩委員会050-3672-8327(申込専用、平日13時-17時)
申込方法 ホームページから
 
大阪市の中心街を通る御堂筋には、「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数展示されています。今回のイベントは、その東側の彫刻を観て廻る、というもののようです。
 
光太郎の「みちのく」。これは十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作(昭和28年=1953)です。他に一昨日の花巻高村祭でご講演なさった末盛千枝子さんのお父さま、舟越保武の作品「道東の四季 春」も入っています。
 
また、今回は御堂筋東側だけのようですが、西側にはロダンや佐藤忠良など、やはり光太郎と縁の深い彫刻家の作品も並んでいます。ぜひ一度、足をお運び下さい。
 
ちなみに御堂筋の彫刻といえば、3年前、一夜にして19体の彫刻にそれぞれ測ったようにぴったりの赤い服が着せられる、という「事件」がありました。

誰が何のため…一夜で銅像19体に赤い服

2011年7月27日 スポニチアネックス
 
大阪市の目抜き通り、御堂筋の歩道に設置されたブロンズ製の人物彫刻29体のうち19体に、洋服をかたどった赤い布が着せられる不可思議な現象が起きた。24日夜から25日未明にかけての数時間で何者かが取り付けたとみられる。“真夏の浪速のミステリー”に市の担当者は「何の目的があってのことか、さっぱり分かりまへん」と戸惑いを見せている。

 御堂筋はキタ(梅田周辺)とミナミ(難波周辺)の2大繁華街を通るメーンストリート。市は92年以降、淀屋橋交差点から心斎橋交差点の間に文化・芸術面のモデルとして銅像設置を進めてきた。現在はロダン作「イヴ」や高村光太郎作「みちのく」など29体が並ぶ。これらの一部に何者かが一夜のうちに“赤い服”を着せた。

 19体は約1キロの間に並んでいる。それぞれ胴や肩の部分をビニールひもで縛られ、ワンピースやドレスなどに見えるように形を整えて、体形にフィットするように寸法も合わせてあった。

 市によると25日午前9時ごろ、通勤中の人から通報を受けた。市は、いたずらとみて大阪府警東署に事実関係を伝えた。彫刻本体に傷や破損、落書きなどはなかったため、被害届は提出していない。

 市はその後、3人がかりで約1時間かけて布を撤去。彫刻を管理する市計画調整局の開発調整部都市景観担当課は「最初はきちょうめんに脱がせていたがうまく脱げないので、途中でカッターを買って裂いた。それでも1時間かかったので、着せた人はだいぶ手間がかかったんちゃいますか」と話す。

 誰が、何のためにやったのかは不明。同課は「大阪のいたずらにしてはオシャレですわな。正直意味がよう分からん」。標的になった19体はすべて女性像でもなく、残り10体の中にも女性像はあることから「何の基準で19体を選んだのかすら分かりません」と首をひねるばかり。

 同課によると過去、スプレーなどによる落書き被害などがあったほか、今年4月には銅像1体が台座から切り離されて歩道に放置される事件があった。ただ、「今回のように像自体に害がないのは初めて」という。目撃者もおり「何かのイベントでやってるのかと思った」と話している。

 ≪平松市長「罪問わないので名乗り出て」≫大阪市の平松邦夫市長は26日の記者会見で「罪は問わないので、どういう人たちがやったのか知りたい」と“犯人”に名乗り出るよう呼び掛けた。「怒られるかもしれないが、現物を見たかった」とも述べた。赤い布を着せた行為については「何かメッセージがあるように見える。たぶん単独では無理」と推理。「毎回この彫刻がキャンバスになると思われるのは困る」とした上で「(市は)ほかにもアートなどのやり方(場)を用意している。そこで一緒にやりませんかと言いたい」と語った。
 
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この「事件」、その後どうなったのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月17日

昭和17年(1942)の今日、日本文芸家協会が解散しました。
 
太平洋戦争まっただなかです。他にも文筆家の団体がたくさんあったのですが、軒並み解散し、光太郎が詩部会会長となる日本文学報国会に吸収されて行きます。「バスに乗り遅れるな」という合い言葉があったそうです。美術関係も美術報国会という団体に一元化されるなど、どんどん国民総動員の動きが加速していきました。恐ろしい時代です。

昨日、岩手花巻で行われた第57回高村祭をレポートします。
 
夜行高速バスで花巻駅前に着いたのが朝6時30分過ぎ。駅の売店で買ったパンとコーヒーで朝食。タクシーで会場の高村山荘―昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が暮らした山小屋―に向かいました。会は10時からなのですが、早めに行って周辺散策、それから敷地内の高村光太郎記念館を観ようと思った次第です。
 
東北北部もようやく新緑の季節となり、昨日は光太郎関連のイベントにしては珍しく雨も降っておらず、いい感じでした。記念館のかたわらの山桜はまだ花を付けていました。
 
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会場の設営を終えて、いったんお帰りになるという花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋氏、山口支部の浅沼さんなどにご挨拶、その後、周辺を歩きました。
 
山荘の向かって右手は光太郎が使用していた便所ですが、「月光殿」という洒落た名前が付けられていたものです。明かり取りのために「光」一字が壁に彫りつけられています。
 
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裏手に回ると、中からの様子が見えるようにしてありました。以前はこうなっていなかったので、興味深く拝見しました。
 
記念館は8時30分開館ですが、少し前に入れていただき、お茶まで戴いてしまいました。ショップでは、復刊された花巻版『高村光太郎詩集』も並んでいました。
 
そうこうしているうちに参会の皆様が集まり始め、当方も会場に移動。会場はやはり敷地内の「雪白く積めり」詩碑前の広場です。もともと第1回の光太郎祭(昭和33年=1958)は、この詩碑と山小屋の套屋(とうおく=建物全体のカバー)落成記念を兼ねて開かれたという経緯があり、ここが伝統的に会場になっています。
 
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さて、開会。献花、献茶、参会者全員による「雪白く積めり」朗読、主催者挨拶と続き、これも伝統的に、地元の小中高生、花巻高等看護専門学校生徒の皆さんによる朗読や器楽合奏、合唱などが行われました。
 
小学生の器楽合奏は、もともと光太郎が旧山口小学校に楽器を寄附したことに由来します。おそらく初期の高村祭ではその光太郎寄附の楽器が使われていたと推定されます。

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その後、特別講演。講師は光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご令嬢、末盛千枝子さん。講師紹介で「ご令嬢」と紹介されると、ご来場の末盛さんのお友達の皆さんが非常にウケていました。
 
当方、昨秋、東京代官山でのイベントで末盛さんのお話を伺いましたが、その折りのお話プラスアルファで、興味深い内容でした。やはり直接光太郎をご存知で、家族ぐるみ光太郎と縁のあった方のお話ですので、そうでない方のお話とは違います。
 
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右上は終了後のサイン会の様子です。
 
その後、お昼の弁当を戴いて、さらに当方は記念会スタッフの方と記念館改修についての打ち合わせ。現在は手前の展示スペースのみを使っていますが、その奥のスペースを使い、倍近い広さになるとのことで、図面を見ながら現場を拝見しました。1年後には新規オープンの予定ですが、今年就任された新市長の方針で、地元の皆さんの声も反映させていくとのことです。当方もまた関わらせていただきます。
 
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その後、末盛さんともども山荘内部に特別に入れていただきました。2年ぶりに中に入りましたが、やはり感慨深いものがありました。
 
そして花巻駅まで送っていただき、千葉へと帰りました。
 
高村山荘、記念館、新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運び下さい。来年には記念館改修完了の予定ですし、また第58回高村祭もあります。そちらもよろしくお願い申し上げます。
 
昨年運行され、好評だったレトロジャンボタクシー「あったかいなはん花巻号」、今年も運行されています。そちらについてはまた日を改めて書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月16日

昭和25年(1950)の今日、花巻の寿デパートで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち花巻にあったものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはここに保管されている等の情報をお持ちの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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東北新幹線はやぶさ車中にて書いております。

昨夜は池袋から夜行バスに乗り、今朝、花巻に着きました。今日は花巻郊外、旧太田村の光太郎が暮らしていた山小屋・高村山荘敷地内にて、第五十七回高村祭でした。

詳しくは明日、また投稿いたします。

【今日は何の日・光太郎 補遺】5月15日

昭和33年(1958)の今日、花巻で第1回高村祭が行われました。


当時の呼称は「高村記念祭」。記念講演の講師は草野心平、伊藤信吉でした。

岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

国語教育の向上へ〜高村光太郎詩集 県内学校施設に贈る (05/13)

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念して刊行した「高村光太郎詩集」を花巻市内をはじめ、県内の学校施設に贈った。晩年を過ごした花巻市で12日に贈呈式が行われ、光太郎研究の第一人者北川太一氏(東京都)による解説付きの資料として国語教育の向上に役立つことを願った。
 
  同詩集は、「道程」「智恵子抄」「典型」など代表作91編を収めたB6判、320ページ(定価1400円)。一編ごとに北川氏が詩の制作背景や用語などの解説を添え、光太郎の詩を読み解く資料として好評を得ている。
 
  もともとは1969年に旺文社文庫として発刊され、92年に旧高村記念会(現記念会の前身)として再発行。今回、昨年の節目の年を記念して光太郎の誕生日(3月13日)に改定新版として3000部を作った。

同市役所に佐藤会長ら記念会関係者4人が訪れ、贈呈の趣旨説明後、佐藤会長が上田東一市長に詩集を手渡した。

 上田市長は「花巻の子供たちがこれを読んで心を豊かに、光太郎さんと花巻のつながりも学んでもらえればうれしい」と感謝し、佐藤会長が「よろしくお願いします」と思いを託した。

 詩集は「各学校の書架に納めてほしい」と市内の小中学校30校を含め県内の全小中学校、高校、大学の計625校に3月中に寄贈された。

 寄贈に当たっては、光太郎が花巻在住当時に取材を通じて交流のあった写真新聞記者阿部徹雄さんの子息の力(つとむ)さん(静岡県在住)から東日本大震災の復興支援への意味を込めて寄せられた寄付金も役立てられており今後、図書館施設などにも贈る予定。
 
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明日行われる「第57回高村祭」を主催されている一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんが、同会刊行の『高村光太郎詩集』を岩手県内の学校に寄贈したという内容です。
 
この『高村光太郎詩集』、記事にあるとおり、元は昭和44年(1969)に旺文社文庫の一冊として刊行されたものの復刻です。100篇ほどの詩を収め、そのすべてに、北川太一先生による詳細な脚注がついています。
 
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さらに同じく北川先生による巻末の解説も非000常に充実しており、この手のものの中では白眉です。昔の文庫本はものすごく手間がかかっていたというのがよくわかります。
 
ちなみに表紙は、旺文社文庫では洋画家の故・深尾庄介氏のイラスト(これも豪華な起用です)。
 
一方の花巻版は、光太郎自身が大正9年(1920)に、与謝野晶子著『晶子短歌全集』第三巻の挿画として描いたペン画の「手と星空」を使っています。
 
自作のブロンズ彫刻で、光太郎の代表作の一つ「手」をモチーフにしています。
 
この他にも花巻の高村光太郎記念会さんでは、昭和37年(1962)に筑摩書房から無題1刊行された『高村光太郎山居七年』という書籍の復刻版も刊行しています。
 
こちらは故・佐藤隆房氏編。佐藤氏は初代の花巻高村光太郎記念会会長で、宮澤賢治の主治医でもありました。先の記事にもお名前が上がっている現会長・佐藤進氏はそのご子息です。この書籍は題名の通り、光太郎が花巻に住んでいた7年間の様々なエピソードを、地元の皆さんの証言等で構成したもので、非常に貴重な記録です。
 
こちらも何度か再版がかけられていますが、そろそろ在庫が払底してしまっているそうなので、近々再刊する予定とお聞きしています。あるいはもうされているでしょうか。
 
この手のご当地限定光太郎書籍、なかなか花巻でしか手に入りません。明日の高村祭を含め、ぜひとも花巻光太郎山荘付近へお越し下さいませ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月14日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋戸外で誤って転倒、肋骨を傷めました。
 
転倒した際に石油ランプを破壊し、痛みが引くまで1週間かかるほど激しく転んだようです。太田村は無医村でしたので、病院にも行かずに耐えていましたが、日記には毎日のように肋骨の痛みを綴っています。見かねた村人が温泉での湯治を勧めました。高齢者の転倒事故、昔からあったのですね。

光太郎と深い関わりのあった与謝野晶子の忌日・白桜忌が開催されます。

第32回 白桜忌

晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
逸見久美氏による講演、堺市更生保護女性会コーラス部による合唱を予定しています。

【日 時】5月29日(木曜)午後1時30分から
【場 所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ約100メートル 堺市堺区九間町東3-1-49)
【参加費】1,000円
【主 催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
◇講演会「想い出すままに -与謝野晶子・寛の研究より-」
〈講師〉逸見 久美
◇合唱「君死にたまふことなかれ」他
〈出演〉堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会 電話:072-258-0948
 
白桜忌には昨年、はじめて参加させていただきました。今年はどうしようかと思っていたところ、記念講演の講師が、今年の連翹忌にご参加下さった逸見久美先生とのことで、これは行くしかない、と思っております。
 
昨年は京都嵯峨野大覚寺新たに見つかった光雲の木彫を観るのを兼ねての強行日程でしたが、今年は他用がないので、堺で晶子生家跡などを見て回ろうと思います。
 
白桜忌、特に事前申し込み等は不要です。ぜひ足をお運びください。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月13日
 
平成18年(2006)の今日、仙台文学館で開催されていた「高村光太郎智恵子展―その芸術と愛の道程―」の関連イベントとして、北川太一先生の記念講演「高村光太郎のみちのく」が行われました。
 
おまけ
当ブログ、閲覧数40,000件を超えました。ありがとうございます。

昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館000」を拝見しました。
 
日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展にリンクして制作されており、非常に見応えがありました。
 
同展出品作の中から、主に3つが大きく取り上げられました。
 
まず、安藤緑山作の牙彫「筍」。明珍一派の手になる自在置物、西村総右衛門による刺繍絵画「孔雀図屏風」。
 
それぞれ、現在も類似の作品を作っている工芸家の方にインタビューしたり、技法を再現してもらったりしながら紹介されており、興味深い内容でした。
 
それらの方々や、コメンテーターとしてご出演なさった同展監修者の山下祐二明治学院大学教授の語録です。
 
「人の手で出来る限界を追求している」
「人間3Dプリンター」
「誰が見たってびっくりする凄いもの」
「スポーツ選手が技の極限に挑戦するアスリート的な意識に似ている」
 
言い得て妙、です。
 
また、MCの井浦新さんが、自在置物の数々を実際に手にとられていました。画像の「蛇」など、すべての接合部が可動する仕組みになっており、どれだけ手間がかかっているんだと、舌を巻く思いでした。それは「筍」や「孔雀図屏風」にもいえることです。「孔雀図屏風」は、人間国宝の福田喜重氏によれば、「制作に3年かかるだろう」とのこと。
 
ちなみに自在置物の作者、「明珍」は、甲冑師の家系です。江戸時代になって、甲冑の需要が激減したことにより、その技術を応用してこうした自在置物に転じたとのことです。
 
ただ、明珍一派の全てが自在置物に転じたかというとそうではありません。東京美術学校で光太郎の一学年下だった明珍恒夫は、光雲の元で仏像彫刻の技術に磨きをかけ、卒業後は奈良美術院で古仏修復の仕事にあたりました。
 
こうした「工芸」の数々。評価が難しいところだと思います。技術的には本当に素晴らしいもので、まさに「超絶技巧」です。日本の職人の「ものづくり」に対する精神の極致といえるでしょう。
 
しかし、「芸術」という観点からみたらどうなのでしょうか。
 
光太郎晩年の談話筆記「炉辺雑感」(昭和28年=1953)の中に、おそらく自在置物を指すと思われる次のような一節があります。
 
 世間にはよく実物そつくり創ろうとする人がいる。ことに金でつくつたのなんかには、実に巧みに本物と似せてつくられているものがある。例えば、エビやカニの場合だつたらその足が動くようにできている。しかし、そういうものはいかに本物そつくりにできていても本物をへだゝること遙かに遠い。本物を創る為には本物にとらわれてはいけない。本物にとらわれて、本物に似せようとすると、本当の造型にはならないで、おもちやになつてしまう。
 
その前後にはこういう言も。
 
 蟬のあの脚を木でこしらえるのは、実に大変な仕事だ。芸術は一つの創造だから、事実ありのまゝの模写じやいけない。細いものを細く創つたんじや駄目。蟬の羽根は非常に薄いが、あれをそのまゝ薄く創つたんじや変なものになつてしまう。決して薄くなんて見えない。厚く見える。思いきつて厚く創ると却つて薄く見える。これが芸術というものである。
 
 彫刻は、蟬なら蟬を創るにしても一遍蟬から離れて、別の立場に立つて創らなければならない。そうすることによつて、はじめて蟬が模写にもおもちやにもならず、本当の蟬となることができる。人間の顔でも、その人を生写しにするというのでは彫刻にならない。たゞその人らしいものはできる。その人らしいもの、その人の影法師みたいなものはできるが、その人はできない。本物の影のようなもの、泡みたいなものを掴んでこれが彫刻だと喜んでいる人も少くないが、僕らはそんなものは彫刻と思えない。彫刻は、本当に出来れば、その人以上にその人となる。蟬以上に蟬、石以上に石となる。実物そつくりというわけじやないが、実物以上に実物となる。――これが造形芸術の奥の手である。
 
一言で言えば、方向性の違いだと思います。
 
光太郎は具象彫刻の作家だと言われますが、「人間3Dプリンター」のような方向性ではなく、具象の中にも抽象的な表現を取り入れています。それこそ蟬の羽根の厚さに対する処理などです。
 
それに対して安藤緑山の牙彫や明珍一派の自在置物などは、具象の極致。そこには「芸術」という意識はないのかも知れません。すると、どちらが上、どちらが優れている、そういう議論は不毛のような気がします。目指すものが違うのですから。
 
ともあれ、三井記念美術館さんで開催中、さらには来年まで全国巡回されるこの展覧会、ぜひご覧頂きたいと思います。
 
また、「日曜美術館」、今回の内容が来週日曜日、午後8時00分から再放送されます。ご覧になっていない方はこちらもお見逃しなく。同展に出品されている光雲作の木彫について言及されていなかったのが残念ですが……。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月12日

平成10年(1998)の今日、広島県立美術館において「南薫造展―イギリス留学時代を中心に」が開幕しました。
 
南薫造は広島出身の画家。東京美術学校卒、光太郎と同年です。明治末にイギリス、フランスに留学。ロンドンでは光太郎と留学の時期が重なり、同じく画家の白瀧幾之助を交え、よく行き来していました。
 
同展では、明治40年(1907)と推定される光太郎から南に宛てた絵手紙も出展されました。
 
昨夕引越し申候。
ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。午後二時頃には小生大抵帰宅致し居候。夜は大方在宅の筈に候。
高村光太郎
 
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先日のブログでご紹介した、岩手花巻で開催される「第57回高村祭」。いよいよ今週となりました。
 
昭和20年(1945)から同27年(1952)にかけ、光太郎が独居自炊の生活を送った花巻郊外・旧太田村山口の山小屋が「高村山荘」として今も保存されています。昨年、山荘近くの花巻市立民俗資料館だった建物を「高村光太郎記念館」にリニューアル、仮オープンしました。
 
「高村山荘」「高村光太郎記念館」とも、花巻の一般財団法人・花巻高村光太郎記念会さんで管理をなさっていて、「高村光太郎記念館・高村山荘」のタイトルでHPも開設されています。「高村祭」もこちらの主催です。
 
「高村光太郎記念館・高村山荘」のHPで、「高村祭」のチラシがPDFでアップされています。
 
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今回の「高村祭」で特別講演をなさる編集者・絵本作家の末盛千枝子さんの詳細なご紹介、交通案内も。
 
午前9時40分発で、JR東北本線花巻駅西口から無料のシャトルバスが出ます。それ以外に路線バスはありませんので御注意下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月11日

昭和21年(1946)の今日、連作詩「暗愚小伝」の制作を始めました。
 
この日の日記に以下の記述があります。
 
夜は読書せず。詩の事。「余の詩を読みて人死に赴けり」を書かんと思ふ。
 
のちに少し題名を変え、次の詩の断片が書かれました。
 
   わが詩をよみて人死に就けり
 
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞が読んだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
しかし、結局この詩は未完のままお蔵入りに。代わって、20篇から成る連作詩「暗愚小伝」へと発展していきます。
 
「暗愚小伝」は翌年7月、臼井吉見が編集していた雑誌『展望』に発表されました。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫(るたく)」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
光太郎の太田村での7年間の「自己流謫」に思いを馳せながら、今年も花巻光太郎祭に行って参ります。

智恵子の故郷にそびえ立つ、福島は安達太良山関連の情報です。

安達太良山山開き

2014年5月18日(日)
今年で記念すべき第60回を迎える安達太良山山開き。日本百名山の一つに数えられている安達太良山は『智恵子抄』で有名な高村智恵子が「ほんとの空」がある山として愛したことでも知られる。山開き当日は、毎年恒例の記念ペナント配布、安全祈願祭、ミズあだたらコンテストに加え、第60回記念イベントとして、山頂での餅つき・餅配布、お楽しみ抽選会、記念グッズ配布の他に奥岳登山口付近では福島県内の郷土料理の提供も行われる。前夜祭は、安達太良山の麓でイルミネーションイベントやコンサートのアトラクションも企画されている。
(「るるぶ・com」より)
 
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安達太良山は標高約1,700メートル。天候さえよければ、陽気のいい季節ですから爽快でしょう。JR二本松駅からシャトルバスで30分、奥岳登山口→ゴンドラで10分、8合目→徒歩90分だそうです。
 
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前夜祭もあるそうですし、当日もいろいろイベントが盛りだくさんのようです。
 
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前夜祭には、地元在住のトランペッターで、智恵子関連のイベントによくご出演なさっているNobyさんがご登場なさいます。
 
当方、山歩きも好きなので、行きたいのはやまやまなのですが、この日はやはり二本松で「智恵子生誕祭」です。
 
『福島民報』さんに、予告の記事が出ています。

光太郎との愛の軌跡 詩の朗読聴いて 18日 二本松智恵子の生誕祭

詩人高村光太郎の妻・智恵子の生誕祭「朗読とギターで綴(つづ)る智恵子と光太郎の道程」は18日、智恵子の古里・二本松市で開かれます。
主催する市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」事務局の熊谷さつきさんは「今年は2人の結婚、光太郎の詩集『道程』の出版がともに100周年となる記念の年です。詩とギター演奏を聴いて、夫妻の人生に思いをはせてみませんか」と誘っています。
ラジオ福島アナウンサーの菅原美智子さんが詩集「道程」「智恵子抄」などから詩23編を朗読します。ドラマ仕立てで、2人の純愛の軌跡をたどります。フラメンコギターの演奏が雰囲気を盛り上げます。
 
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「『道程』100周年」とうたって下さっていますので、000当日は当方手持ちの初版『道程』をお持ちして、御来場の皆様にお目にかけようかと考えております。
 
「安達太良山山開き」、「智恵子生誕祭」、どちらもよろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月10日

昭和46年(1971)の今日、明治図書から伊藤栄洪著『ああ光太郎・智恵子』が刊行されました。
 
「明治図書中学生文庫」シリーズの一冊で、中学生対象の評伝です。
 
古書市場等でほとんど見かけることがありませんが、非常にわかりやすく書かれた優れた評伝です。

朗読のイベント情報です。 

東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~レジェンド・太宰治

 時 : 2014年 5月24日(土) 1回目 午後1時~、 2回目 午後4時~
 場 : アミューズミュージアム(東京都台東区浅草2-34-3) 6Fイベントホール
 金 : 前売り:2000円  当日:2200円 (全席自由、税込価格)
 目 : 太宰治「燈籠」「リイズ」「饗応夫人」「黄金風景」
      高村光太郎「智恵子抄」より
 演 : 塙野ひろ子  須賀雅子  宮崎泉  中村雅子(順不同)
問 合 : 「笑顔を届けよう実行委員会」代表 中村雅子さん
       電話090-1606-9822(9時~18時)
       アミューズ ミュージアム 03-5806-1181(10:00〜18:00)
 
「女性4人のプロの語り手がお届けする東日本大震災支援復興チャリティ朗読会 ≪届けよう笑顔!東北に初夏の風≫ 。
今回は初めて浅草で行わせていただくことになりました!
今年生誕105年を迎える太宰治作品を中心に、津軽弁あり、詩あり、歌あり・・
東北に思いをよせたプログラムでお送りいたします。
収益金は、「ふくしまキッズ実行委員会」に寄付させていただきます。
公演をご覧いただくことがチャリティにつながります!
皆さま是非お越しください。」
 タイトル・・「届けよう笑顔!~東北に初夏の風~」
 
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いつも同じようなことを書いていますが、こうした取り組みで光太郎智恵子の世界を取り上げて下さるのは、非常にありがたいことです。
 
当方、午後1時の回を申し込みました。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月9日
 
明治44年(1911)の今日、札幌に着きました。
 
札幌郊外、月寒の農商務省の牧場が目的地でした。ここで古い日本美術界と縁を切って、酪農をやりながら芸術制作をする生活を考えていましたが、現実にはそんな生活など夢でしかないと思い知らされ、中旬にはすごすごと帰京しています。
 
くわしくはこちら
 
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和歌山県の田辺市立美術館さんから企画展のご案内を戴きました。

宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心

期 日 : 2014年4月19日(土)―6月22日(日)
会 場 : 
田辺市立美術館 和歌山県田辺市たきない町24-43
時 間 :  午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 600円(480円)( )内は20名様以上の団体 ※学生及び18歳未満の方は無料
休 館 : 毎週月曜日(ただし、5月5日は開館)・4月30日(水)・5月7日(水)
 
企画協力  NHKサービスセンター、アート・ベンチャー・オフィス ショウ
 
宮沢賢治の生涯は、1896(明治29)年から1933(昭和8)年までのわずか37年間の短いもので、そのほとんどを生まれ育った岩手県で過ごし、農業の指導を主とする「科学者(サイエンチスト)」として活動しました。
その一方で宗教や芸術についても深い思索を重ねていた宮沢賢治は、わきあがってくる自身の思想を詩や童話にして表現し、音楽や絵を描くことについても強い関心をもち続けました。
生前に発表された作品は限られたものでしたが、遺された原稿も理解者の尽力によって日の目を見、それらの作品は没後80年たった今も、私たちに感動をあたえ、人と自然との関係や、人の生き方について考えさせられるものとなっています。また宮沢賢治の作品に触発されて制作をおこなった後世の芸術家も少なくありません。
宮沢賢治の文学と、それにインスピレーションを受けて生まれた作品の世界とを、この展覧会によってご紹介したいと思います。
 
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昭和11年(1936)、光太郎が遺族の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」後半部分の書が展示されています。ここから筆跡を写し、花巻の羅須地人協会跡地に碑が建立されました。
 
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以前も書きましたが、後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎立ち会いの下、訂正されました。「野原ノ」のあとに「松ノ」が、「稲ノ束」の前に「ソノ」、「コワガラナクテモ」の前に「行ツテ」が抜けていた他、賢治が書いた仮名遣いとして「デクノバウ」は正しくは「デクノボー」です。これらは光太郎が碑面の行間に直接訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むという方法で訂正されました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。光太郎による訂正の際にもここは直されませんでした。そのことの是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎が勝手にその改変をした」という記述を見かけます。確かにこの書でも「ヒリ」になっています。これを根拠に、光太郎が「無神経な改竄の犯人」だと決めつけているのです。
 
しかし、光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。光太郎は花巻の関係者から送られた原稿の通りに書いただけで、この改変には一切関わっていません。
 
四箇所の訂正も、光太郎には責任はありません。昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著「山荘の高村光太郎」から関連する部分を抜粋します。
 
 花巻にある宮澤賢治の雨ニモマケズの碑は本文の傍のところどころに、後からの書き入れがあって、ちょっと人にふしぎな感じをあたえます。石碑に後から書き入れ(彫り入れ)があるのはずいぶんめずらしいことでしょう。
 この詩を書いた高村先生が、思わず書き落しをやったために、後から書き込んだように見えます。
 それはこういう事情です。
 ある時私が先生に、桜(碑のある場所)の詩碑は、どうして詩の後半だけを、それも原文とは少し変えて彫り込んだのでしょうかとおききしました。
 先生は例のぎょっとした表情をなさいました。
「あれは違うんですか」
 全く意外だというように答えられました。
「僕は花巻の宮沢さんから送ってきた通りを書いたですよ。
 僕も詩の半分だけではおかしいと思って、その事は聞いてみたのですが、余り長いから前半を略したというので、そのまま書いたのです。
 (それ以外に)どこか違うんですか。」
 そこで私は、原文を口誦しながら、碑との違いを説明しました。先生は全く初耳だ、それはどうにかしなければならないと言われます。
「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です。何かのまちがいだろう」
 先生は憤然となさいました。
「花巻に行ってきいてみましょう」
 先生はこの事のためにわざわざ花巻へ出かけられたと思います。
 あの、省いた「松ノ」と「ソノ」という文字はあまりたびたび重なるので、宮沢清六氏の提案で、原文から取ることを関係者たちが決め、それを先生に送ったのだそうであります。
 先生は何も知らずに、送られてきた原稿を忠実に書かれたのであります。
 この事は余程先生は気になったものとみえて、間もなく、碑に書き入れをして来ましたよと言って、花巻から帰って来られたことがありました。
 だから桜の詩碑は、世界でもめずらしい書き入れがあるのであります。
 
というわけで、光太郎は「何も知らずに、送られてきた原稿を忠実に」書いたにすぎません。「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です」と言っている光太郎が、「ヒドリ」では意味がわからないから「ヒデリ」の間違いだろう、などと勝手に改竄することはありえません。くどいようですが、光太郎の名誉のために。
 
さて、この企画展、2年以上前から全国各地を巡回しています。当方、2年前に横浜のそごう美術館での開催時に観に行ってきました。
 
その時点では、その後の巡回は福島県のいわき市立美術館さんのみの予定でした。そこで、このブログにもそれ以上書かなかったのですが、おそらく好評だったため、巡回先が一気に増えました。途中で気づいたのですが、機を逸してしまい、紹介しませんでした。すみません。
 
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現在、日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」も、当初予定にプラスして巡回先が増えています。こういうことも往々にしてあるのですね。
 
「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」は、来月、田辺市立美術館さんでの巡回が終わると、次は鹿児島です。もしかするとさらに巡回先が増えるかも知れません。注意していたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月8日

昭和24年(1949)の今日、詩「女医になつた少女」を執筆しました。
 

   女医になつた少女
 
 おそろしい世情の四年をのりきつて
 少女はことし女子医専を卒業した。
 まだあどけない女医の雛(ひよこ)は背広を着て
 とほく岩手の山を訪ねてきた。001
 私の贈つたキユリイ夫人に読みふけつて
 知性の夢を青青と方眼紙に組みたてた
 けなげな少女は昔のままの顔をして
 やつぱり小さなシンデレラの靴をはいて
 山口山のゐろりに来て笑つた。
 私は人生の奥に居る。
 いつのまにか女医になつた少女の眼が
 烟るやうなその奥の老いたる人を検診する。
 少女はいふ、
 町のお医者もいいけれど
 人の世の不思議な理法がなほ知りたい、
 人の世の体温呼吸になほ触れたいと。
 狂瀾怒涛の世情の中で
 いま美しい女医になつた少女を見て
 私が触れたのはその真珠いろの体温呼吸だ。
 
この少女は細田明子さん。戦時中、光太郎が行きつけにしていた三河島のトンカツ屋・東方亭の娘さんです。
 
東方、昔の連翹忌で細田さんにお会いしたことがあります。今もお元気でしょうか。

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

作家の渡辺淳一さんの訃報が出ました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

作家の渡辺淳一さん死去=ベストセラー「失楽園」―80歳

 ベストセラー「失楽園」や「愛の流刑地」など恋愛小説の名手として知られた作家の渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)さんが4月30日午後11時42分、前立腺がんのため東京都内の自宅で亡くなったことが5日、分かった。80歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻敏子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。
 北海道上砂川町出身。札幌医科大学卒業後、同大で整形外科の講師などを務める傍ら小説を執筆。1968年に同大で行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」(後に「白い宴(うたげ)」に改題)を書いたことをきっかけに同大を退職し、執筆活動に専念した。
 デビュー直後は主に医療をテーマにした作品を発表していたが、恋愛物や歴史物のジャンルにも進出。70年には、西南戦争で負傷した2人の軍人のその後を描いた「光と影」で直木賞を受賞した。97年に出版された「失楽園」は大胆な性愛描写が話題となり、250万部を超える大ベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、タイトルが流行語となるなど、社会現象を巻き起こした。このほかの代表作に「阿寒に果つ」「遠き落日」「女優」など。「鈍感力」のような軽妙なエッセーでも腕を振るった。
 2003年には紫綬褒章を受章。直木賞や吉川英治文学賞などの選考委員も務めた。
 出版社の担当編集者によると、渡辺さんは数年前から前立腺がんを患い、治療を続けていた。昨年末に体調を崩し、自宅で静養中だったという。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんには光太郎智恵子にも触れたご著書があります。平成14年(2002)、小学館さん刊行の『キッスキッスキッス』。
 
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同社サイトから。
 
明治から大正・昭和へ、かつての文豪・才人たちが綴った十九通のラヴレター
太宰治、谷崎純一郎、平塚らいてう、高村光太郎等が綴った熱情あふれる十九通のラヴレターを素材に、恋愛小説の名手・渡辺淳一氏が読み解く。谷崎などの高名な文人以外にも、山本五十六のような軍人がきわめて素直に、ありのままの恋心を綴った手紙を、その時代背景とともに渡辺氏が考察を加えるもので、不倫関係であったり、戦時下での極限の恋であったりと赤裸々に思いの丈をぶつけたラヴレターは実に感動的である。明治・大正から昭和にかけての時代史としても貴重な資料であり、また、昨今見直されている日本語の魅力も再発見できよう。著者自らの若き日のラヴレターも収録!
 
光太郎のラヴレターというのは、大正2年(1913)の1月28日、結婚前に智恵子に宛てて書かれたものです。こちらに全文を載せてあります。
 
その手紙を巡って、渡辺さんは『キッスキッスキッス』中で、このように述べられています。
 
 まさしく智恵子の一生は、光太郎という偉大な芸術家に憧れ、愛され、自らも深く愛しながら、自分本来の才能を開花させることができず、むしろ萎れていく。その愛の喜びと自分の才能への絶望と、二つのジレンマの中で傷つき、精神まで傷め、狂い死にしたともいえる。
(略)
 いま二人のあいだに残された唯一通のラヴレターを見るとき、そこにすでに、光太郎の詩人としての才能と、そんな詩人と接して、先に埋もれていく智恵子の運命を予言しているかのようでもある。
 
「化身」「失楽園」「愛の流刑地」などで、男女の愛の形を追い求め続けた渡辺さんならではの恋愛観のつまった一冊です。
 
新刊書店で追悼フェアなどが催されると思います。もしこの『キッスキッスキッス』が並んでいたら、お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月6日

明治38年(1905)の今日、彫刻調査のため奈良興福寺に向けて東京を発ちました。
 
中旬まで百花園に滞在しながら、興福寺の諸堂に通い、調査にあたりました。

テレビ放映情報です。 

日曜美術館 「明治の工芸 知られざる超絶技巧」

NHKEテレ 2014年5月11日(日)  9時00分~9時45分 再放送 5月18日(日)  20時00分~20時45分
 
万国博覧会などを舞台に西欧に輸出され、爆発的な人気を誇った「明治の工芸」。時代が変貌する中、危機に見舞われた職人たちが、技の限りを尽くして生み出した驚異の世界。
 
象牙で作られた本物そっくりのタケノコ。体が自由自在に動く金属のヘビ。刺しゅうで描かれた巨大なクジャク。激動の時代、日本人の技と誇りをかけて生まれた驚異の世界がある。「明治の工芸」。万国博覧会などを通して西欧に輸出されたため、作品の多くが海外のコレクターの手に渡った。日本では長く忘れ去られた存在だったが「現代では再現不可能」とまで言われる超絶技巧にいま注目が集まっている。技の再現に挑み、秘密に迫る。
 
出演 明治学院大学教授…山下裕二, 司会 井浦新,伊東敏恵
 
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日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」に関連しての番組です。出展中の光雲作木彫「西王母」「法師狸」も紹介されるといいのですが……。
 
ところで、番組公式ページに依れば、同展の巡回情報が更新されています。期日未定だった山口県立美術館さんが2015年2月21日~4月12日、さらに巡回先が一つ増えています。富山県水墨美術館さんで2015年6月中旬~8月上旬だそうです。
 
展覧会、番組ともにご高覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月5日

大正5年(1916)の今日、雑誌『婦人週報』に、智恵子のアンケート回答「女なる事を感謝する点」が載りました。
 
曰く、
 
 私に恋愛生活(現在の)が始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。
 
いかにも智恵子らしい発言ですね。

GWということで、近場ではありますが、女房孝行に軽く出かけて参りました。行き先は銚子。当方は生活圏ですが、妻はめったに銚子まで足を伸ばしません。
 
まず市内中心部にある妙福寺さんというお寺に行きました。鎌倉時代開山の古刹。樹齢750年という藤の古木が有名で、ちょうど花の盛りです。龍が地に臥している姿に似ているという事で「臥龍の藤」と名付けられています。
 
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昨日と今日、「藤まつり」なるイベントも開催中でした。東日本大震災被災者慰霊も兼ねており、境内でコンサートがあったり、神輿が出たりというイベントです。コンサートはパスしましたが、神輿にはちょうど行き会いました。
 
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東日本大震災では、銚子でも津波に遭い、幸い、死者は出ませんでしたが、マリーナなどは甚大な被害を受けました。その後、観光客が激減、老舗のホテルが廃業に追い込まれたりしました。現在も家屋の修復等、まだまだです。
 
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妙福寺さん、本堂では僧侶の方々や一般の皆さんも混じって、読経祈願がなされていました。本当に少しでも早い復興を望みます。
 
続いて近くにある浄国寺さんというお寺に。こちらには光太郎と交流のあった銚子出身の詩人、宮崎丈二の墓があります。以前から一度お参りしたいと思っていましたが、なかなか果たせず、初めての墓参でした。光太郎の代参のつもりで手を合わせてきました。
 
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墓石に書かれているのは宮崎の自筆。「心月孤円」と読みます。道元禅師の言葉だそうです。
 
宮崎は明治30年(1897)、銚子の生まれ001。生家は材木商や茶の輸出も手がけていたそうです。「丈二」という名は、父・清兵衛が、尊敬する合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンからとったとのこと。大正時代に中央大学、専修大学などに通いましたがともに中退。岸田劉生らの草土社に参加し、まず画家として名をなしました。
 
大正9年(1920)、千家元麿らと詩誌「詩」を創刊し、さらに同じく詩誌「太陽花」「河」を創刊。このころから光太郎との交流が始まります。「太陽花」「河」ともに光太郎も寄稿者の一人でした。
 
晩年、昭和40年(1965)に銚子に帰り、同45年(1970)に歿するまで銚子に住み、絵を描き、詩を書いていました。
 
銚子でも宮崎の名は忘れられつつあるようです。少し前までは市内の青少年文化会館というホールのロビーに、郷土の偉人ということで、宮崎のコーナーもあって、光太郎からの書簡なども展示されていたのですが、先月、同館に行ったところ、別の展示に変わってしまっていました。残念です。
 
さて、浄国寺さんを後にして、ぶらぶら歩きました。ヤマサ醤油の工場裏手の銚子電鉄仲ノ町駅付近では、ちょうど銚子電鉄に行き会いました。
 
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かつて京王線で走っていた2000系という緑色の車両。当方、子供の頃に東京多摩地域に住んでいた時期があり、よくこのタイプの緑の車両に乗りました。
 
意外と乗客も多く、妙福寺さんの藤まつりもだいぶにぎわっていましたし、行き帰りの国道356号もけっこう混雑していました。観光客の皆さんの客足も戻りつつあるようで、何よりです。
 
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「藤まつり」は終わりましたが、まだまだ妙福寺さんの藤は花盛りです。しばらくは夜間のライトアップもあるそうです。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月4日

昭和12年(1937)の今日、詩人の中原綾子に宛てて手紙を書きました。
 
かつて中原に対しては、ゼームス坂病院入院前の智恵子の病状を細かく記した書簡を送っています。77年前の今日の手紙は、中原が小野俊一(かのオノ・ヨーコの伯父)と再婚したことに対するお祝いのメッセージでした。

岩手花巻の㈶高村記念会さんからご案内をいただきました。 

滴一滴第57回高村祭

日 時 : 平成26年5月15日(木) 午前10時から午後14時30分頃まで
場 所 : 岩手県花巻市太田3-91 高村山荘詩碑前
      (雨天時はスポーツキャンプ村屋内運動場)
主 催 : 一般財団法人花巻高村光太郎記念会 同山口支部
共 催 : 花巻市 花巻市教育委員会 一般社団法人花巻観光協会
内 容 : 式典 地元学生による詩の朗読 器楽演奏 コーラス等
 
特別講演 末盛千枝子先生(編集者) 演題『私にとっての高村光太郎』
 
5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエを空襲で焼け出された光太郎が、宮澤家の招きで花巻に疎開するために東京を発った日です。それを記念して、毎年この日に光太郎がかつて暮らしていた旧太田村山口の山小屋(高村山荘)で、高村祭が行われています。
 
昨年は山荘近くにリニューアルオープンした高村光太郎記念館の仮オープンも兼ね、お父さまが光太郎と交流があった女優の渡辺えりさんによる特別講演があり、多くの方でにぎわいました。
 
今年の特別講演は末盛千枝子さん。やはりお父さまの彫刻家、故・舟越保武氏が光太郎と交流があり、ご自身も光太郎と面識がおありです。昨秋、東京代官山でのイベント、読書会「少女は本を読んで大人になる」にご出演、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は「智恵子」にちなんで光太郎が名づけてくれたというお話、その後、成長なさってから光太郎と実際にお会いになった時のお話など、興味深い内容でした。今回もそのあたりが聴けると思います。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月3日

大正15年(1926)の今日、詩人の尾崎喜八に宛てて、自作木彫「鯰」をプリントした絵葉書を送りました。
 
大正末から昭和初めにかけ、光太郎はこのように自作の彫刻や自分と智恵子の写真を使った絵葉書をよく使用していました。「鯰」はこの時開催されていた「聖徳太子奉賛美術展覧会」に出品したものでした。
 
おまけ
 
このブログ、本日をもって、3年目に突入しました。昨日までまる2年、主に新しい情報を中心に、1日も休まず更新して参りました。時折、ネタに苦しむこともありましたが、探せばネタは結構転がっているものですね。
 
地味なブログですのでなかなか閲覧数が伸びませんが、これからもよろしくお願い申し上げます。

一昨日、東京国立博物館で光雲作「老猿」、光太郎作「老人の首」を観た後、日本橋の三井記念美術館さんに行きました。こちらでは「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」が開催中です。
 
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上記はチラシですが、ここにあるとおり、「七宝」「金工」「漆工」「薩摩」「刀装具」「自在」「牙彫・木彫」「印籠」「刺繍絵画」の各テーマ別に、百数十点の作品が並んでいます。
 
どれもこれも舌を巻くような技巧がこらされ、しかも趣味がいい作品ばかりです。副題にある「村田コレクション」とは、京都・清水三年坂美術館館長の村田理如氏の収集による同館収蔵品ということです。
 
明治期のこうした工芸については、近年まで正当な評価がされてきませんでした。一つには、主に輸出用に作られたため、国内に現物があまり残っていないという理由があります。村田氏は海外から買い戻したりして収集にあたられたとのこと。頭が下がります。
 
また、一部には度を超して技巧を凝らしすぎた作品があったのも事実です。そのため、永らくゲテモノ扱いされていたという部分があります。
 
そうした経緯は同展図録に掲載の村田氏「明治の工芸に魅せられて」、それから同展監修者の明治学院大学教授・山下裕二氏「超絶技巧の逆襲――明治工芸の再評価に向けて」に詳述されています。
 
1970年代刊行の日本美術史の書籍では、明治期の工芸はほとんど黙殺。「明治以降を専門領域とすることなど、アカデミックな研究者としてはいかがなものか、というような空気がたしかにあった」というのです。
 
上記画像のタケノコの作者、牙彫の安藤緑山などは、未だに生没年すら不詳ですし、弟子もとらなかったとのことで、その着色の方法もよくわかっていないそうです。昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。
 
明治の工芸に光があたるようになって20年くらいでしょうか。当方、平成7年(1995)3月刊行の『芸術新潮』を持っていますが、「日本人が見捨てた明治の美「置物」彫刻の逆襲」という特集記事が載っています。
 
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第一部が「明治の木彫王高村光雲ものがたり」32ページ、第二部が「異人さんに買われていった明治輸出工芸の底力」27ページ。
 
この頃から、ようやく明治期の工芸が無視できない風潮になってきましたが、この時点では、まだゲテモノ扱いです(光雲作品は違いますが)。曰く、
 
悪趣味なまでに大胆、過剰なこのデザイン! これでもか、これでもかと持てる技巧を尽くしたこの出来ばえ……明治の職人たちが生き残りを賭けて生んだ異形の工芸品は、それが輸出用であったがために日本では忘れ去られて、欧米で静かに眠り続けてきた。
 
その後、平成5年(1993)に開館された宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品に注目が集まるようになり、昨年には京都国立近代美術館で「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展が開催され、それをもとにNHKさんで「皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男た救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」」が放映され、ここにきてとみに明治工芸に注目が集まっています。
 
確かに悪趣味なまでに装飾過剰のものも存在したのですが、000そうではない佳品もたくさん存在するのです。今回の三井記念美術館さんの展覧会を観ればよくわかると思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今回、光雲の木彫が2点並んでいます。「西王母」(昭和6年=1931)、 「法師狸」(制作年不詳)です。大作の「老猿」とはまた違った、小品ならではの魅力に富んでいます。
 
以前にも書きましたが、下記日程で巡回されます。

佐野美術館(静岡県三島市) 
 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)
 2015年2月末~4月下旬
 
さらに、NHKさんの「日曜美術館」、5月11日の放送が「知られざる明治工芸の超絶技巧」という副題ですので、この展覧会を扱うものと思われます。同番組MCの井浦新さんは、この展覧会の関連行事のトークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」で、山下氏とともにご出演されるそうです。
 
「日曜美術館」については、新たな情報が入りましたらまたお伝えします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月2日

明治37年(1904)の今日、神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンのレッスンを受けました。
 
日記によれば、四月からレッスンに通い始めたとのこと。束脩(入門料)は1円、月謝は1円50銭。自転車の荷台にバイオリンをくくりつけて通ったそうです。
 
高折周一は東京音楽学校出身のヴァイオリニスト。のちに渡米し、明治45年(1912)、有名なポトマックの桜の植樹式で、高折の曲が演奏されたという記録があります。
 
ポトマックの桜をアメリカまで運んだのは、日本郵船の阿波丸(Ⅰ世)という船。この船は、かつて明治42年(1909)、欧米留学から帰る光太郎が乗った船です。不思議な縁を感じます。

昨日は都内に出かけて参りました。
 
まずは上野の東京国立博物館さん。連休谷間の平日、しかもそこそこ雨が降っていましたが、多くの人でにぎわっていました。
 
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特別展「キトラ古墳壁画」が目的の方が多かったようで、ご覧の通りの行列。興味はあるのですが、40分待ち、と言われ、そちらはパスし、本来の目的のジャンル別展示だけ観ることにしました。
 
本館1階第18室が「近代の美術」となっており、光太郎のブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)、光雲の木彫で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されています。
 
00418室の入り口近くに「老人の首」がありました。同じ型から作ったものは、昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも並んでいたのですが、こちらの方が古い鋳造のようです。
 
キャプションには「江渡幹子氏寄贈」とあり、光太郎と交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)の縁者かな、と思いました。狄嶺の妻がミキという名です。当時、女性は戸籍上の名に「子」がついていないことが多く、一種の敬称として互いに「子」をつけて呼び合ったり、自分でも「子」をつけて名乗ったりすることが一般的でした。また、やはり戸籍上の名に漢字が使われていなくても、自分で漢字をあてることもよく行われていました。智恵子も与謝野晶子も、それから現在NHKの朝ドラ「花子とアン」で扱われている村岡花子もそうです。「花子とアン」にはそういうエピソードもありました。

追記 やはり寄贈者は江渡の妻・ミキでした。

 
光太郎の回想に依れば、モデルは駒込林町のアトリエに造花を売りに来る老人。昔、旗本だったそうで、江戸時代の面影を残すその顔に惹かれてモデルとして雇ったそうです。
 
ただ、光太郎の縁者によると、光雲の異母兄・中島巳之助に甚だよく似ている、という証言もあります。
 
そして18室の終わり近くに「老猿」。
 
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圧倒的な存在感です。「高さ90センチ」というデータは頭に入っているのですが、どうみてもそれ以上の大きさに見えます。
 
こちらはあまり目にする機会が多くなかったので(平成14年=2002の茨城県近代美術館「高村光雲とその時代」展、同19年=2007の東京国立近代美術館「日本近代の彫刻」展に続き、3回目です)、興味深く観ました。
 
やはり彫刻は3次元の作品なので、観る角度によって見え方が違いますし、写真等ではわからない細部もよく観られました。
 
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「老人の首」「老猿」の展示は5月25日(日) まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
その後、上野を後に、一路日本橋へ。三井記念美術館さんでの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」を観て参りました。そちらのレポートはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月1日

明治26年(1893)の今日、シカゴ万国博覧会が開幕しました。
 
はるばる海を渡って「老猿」が展示されました。アメリカの人々は、その技術の巧みさに驚いたといいます。
 
そうした彫刻としての凄さとは別の面でも話題になりました。この「老猿」は、そもそも老いたニホンザルが猛禽と格闘した後、飛び去って行く猛禽を見上げている構図だそうです。左手には逃げた猛禽の羽根を握りしめています。
 
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これが物議をかもしました。シカゴ万博日本パビリオンのすぐ前、一説によると「老猿」の視線の先にはロシアのパビリオンがありました。そのロシアの国章が鷲。
 
当時の日本は東アジアの覇権を巡ってロシアや清とにらみ合いを続けている時期でした。教科書にも載っているビゴーの風刺画が有名ですね。
 
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翌年には日清戦争、さらにその翌年、講和のための下関条約に対しては、ロシアが中心になっていわゆる「三国干渉」を仕掛けてきます。そこで、「老猿」が握りしめている猛禽の羽根はロシアを象徴し、日本のロシアに対する威嚇だ、ととらえられたのです。
 
しかし、光雲はそうした外交や政治には疎かったといいます。どうもこの説は牽強付会に過ぎるように感じます。

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