2014年03月

戦後に光太郎が7年暮らした花巻市郊外太田村山口(現・花巻市太田)に、昌歓寺という曹洞宗の寺院があります。戦国時代には既に当地にあったという古刹です。光太郎の暮らした山小屋とそう遠くなく、光太郎も時折足を運んでいました。
 
つい先だって、この昌歓寺から光太郎にまつわる文書が出てきました。
 
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書かれたのは光太郎晩年の昭和30年(1955)2月。十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した後のことです。この直前に太田村は花巻町などと合併して消滅、花巻市の一部になっています。筆者は当時の昌歓寺住職と思われます。ほれぼれするような筆跡ですね。
 
内容的には、光太郎に十一面観音像の制作を依頼し、承諾を得たらしいことが記されています。
 
  十一面観音菩薩建立趣意
私は、終戦直後から今時戦役の戦歿勇士の慰霊と社会の混濁を浄化せんとの見地から観世音菩薩の建立を発願しておったことは皆様御承知の通りであります。而も三十三観世音菩薩方の中でも願力の強大なそして功徳力の広大な十一面観世音菩薩の勧請を冀って居た者であります。
然る処宿世の因縁が熟したとでも申しましょうか、現代彫刻界の至寶高村光太郎先生の思召しに依り大体の御約束が結ばれて御病気全快を期とし今年中に記念作品として先生の御作にかゝる佛像が昌歓寺に安置さるゝ運びに至りつゝあることは、当寺院としては勿論、花巻市民否岩手県民として歓喜に堪えない次第であります。
観音経の中に、観音の妙智力はよく世間の苦を救い給うと示された通り、抜苦与楽であって、いわゆる人の意見をよく聞き、立場を替えて物を考え、衝突しそうな時にはどちらかが自主的にバックして自他共に傷つかぬお互いに許し合える場を見つける自由な働きをし、その力のお蔭で危い世間を安らかに渡らせていたゞける大功徳がもたらされるのであります。平和観音と終戦後名づけられたのも、此の辺の消息を申したのでありましょう。
岩手の記念作品ともなしたい此の佛像の製作に対する報謝のしるしとして、広く浄財の喜捨を仰ぎ、先生に御贈りしたいと存ずるものであります。
厚く佛法僧の三寶に帰依せる十方の施主よ、此の悲願に答えられて、此の事業の達成に満腔の御法援あらんことを冀うものであります。
かくすれば世界恒久平和のシンボルともなり、併せて英霊並に施主の供養も成就され、現当二世の安楽も招来されるでありましょう。
茲に此の問題の中心ともなって、因縁をもたらした八重樫甚作氏を願主に依頼し、駿河重次郎氏並びに高橋吉一氏を世話人に依頼して準備にとりかゝりたいと思います。
伏して三寶に祈誓して、此の願成就に邁進するものであります。
 昭和三十年二月二十六日
 観音像建立発願者
 発願主 花巻市太田 昌歓寺三十世天海大典
 願 主 花巻市太田 檀徒 八重樫甚作
 世話人 花巻市太田 信徒 駿河重次郎
 世話人 花巻市太田 檀徒 高橋吉一
 
旧太田村の人々の、光太郎を敬愛してやまなかった念がよく見て取れます。
 
しかし、この観音像、光太郎の手で作られることは叶いませんでした。翌年には宿痾の肺結核のため、光太郎は還らぬ人となってしまいました。
 
この文書、続きがあります。
 
高村光太郎先生の御遺志により同先生厳父故高村光雲翁の上足当代佛像彫刻界の龍象東京世田ヶ谷の森大造先生の手によって成さるゝの因縁が圓熟し時恰も四月二日中𡌛に亡き高村先生の御霊前に弔問の際に於て決定大本山総持寺に参拝して佛前に於て奉告し以て十方施主の檀信徒諸彦に報告するものである
昭和三十一年四月五日契約之日
 於大本山総持寺
       発願主 昌歓寺三十世天海大典
  弔問者 願主  八重樫甚作
       会計  沢田喜代松
右事実を證明する
 昭和三十一年四月五日
  大本山総持寺 監院 岩本勝俊
 
亡くなった光太郎の後任として、十一面観音の制作を、同じ東京美術学校卒(そこで光雲の上足=高弟となっているのでしょう)の彫刻家・森大造に依頼したというわけです。
 
森の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、先頃見つけた雑誌『九元』掲載の、光太郎を講師に招いての座談会「第二回研究部座談会」(昭和15年=1940)に、その名が見えます。
 
この座談は、昨秋当方私刊の『光太郎資料40』及び、明後日、高村光太郎研究会より刊行予定の『高村光太郎研究35』に掲載しました。この時期に森の名を眼にし、不思議な縁を感じます。
 
森の故郷、滋賀県米原には森の個人美術館・醒井木彫美術館があり、一度行ってみようと思っていましたし、次に花巻に行く際には、昌歓寺にも寄って、問題の仏像も見てこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月31日

明治42年(1909)の今日、イタリア・フィレンツェからパリ在住の画家・津田青楓に宛てて絵葉書を出しました。
 
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今朝ヹニスを出でてフィレンツセに来る。愈々伊太利亜のまんなかに来りたる訳なり。ヹニスの面白かりし事よ。
  春雨や南へいそぐ旅烏
  「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色
  「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風
  赤き屋根のあちこちにあり青畠
             三月三十一日 光
  安井君にもよろしく
  
 光 Le31 Mars 1909 â Firenze
 
三年余の欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリア旅行をした際のものです。「ヹニス」はヴェニス。この時期に津田に宛てた葉書には、このように俳句が記されているものがいくつかあります。

女優の松本典子さんの訃報が各種メディアに出ました。

松本典子さん死去

松本 典子さん(まつもと・のりこ=俳優、劇作家000清水邦夫さんの妻、本名清水和子〈しみず・かずこ〉)26日、間質性肺炎で死去、78歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は夫邦夫さん。連絡先は彩の国さいたま芸術劇場(048・858・5500)。
 東京生まれ。59年劇団民芸に入団。「にんじん」「三人姉妹」などに主演。76年、夫らと演劇企画グループ「木冬社」を結成。「楽屋」「夢去りて、オルフェ」など多くの清水戯曲で、硬質な強さの中に悲しみをたたえた女性像を切れ味鋭いせりふ術で演じ、演出も手掛けた。「タンゴ・冬の終わりに」などで87年芸術選奨文部大臣賞。79年、84年の2回、紀伊国屋演劇賞個人賞を受けた。
 
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松本さん、平成3年(1991)に、木冬社の舞台「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」で智恵子役を演じられました。001
 
作・演出はご主人の清水邦夫氏。光太郎役は小林勝也さんでした。
 
同4年(1992)には清水氏の『清水邦夫全仕事 1981~1991』(河出書房新社・絶版)に脚本が載り、その翌年には再演もされています。
 
右の画像が初演パンフレット、下が再演パンフレットです。
 
時に昭和11年(1936)、智恵子が入院していた南品川のゼームス坂病院裏の教会(おそらく架空)を舞台に、虚と実がないまぜになった不思議なドラマです。
 
当方、この舞台は観ておりません。再々演を期待していたのですが、残念です。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月30日

大正2年(1913)の今日、福島・会津東山温泉から、光雲らに宛てて絵葉書を出しました。
 
この際、光太郎が逗留していたのは、現在も続く老舗の宿・新滝。明治初年には、かの新選組副長・土方歳三もここで傷を癒しました。
 
現在判明している送り先は光雲、編集者の前田晁、親友で作家の水野葉舟、歌人で編集者の内藤鋠策。まだ他にもあるかも知れません。

昨日は都内に出て参りました。
 
まずは4/2(水)の第58回連翹忌会場、日比谷松本楼様に。今回の連翹忌では、フルート奏者の吉川久子様が演奏と朗読で、華を添えてくださることになり、そのための打ち合わせでした。
 
吉川様は、昨年6月に横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートを開かれました。連翹忌では、昨年のコンサートで伴奏を務められた海老原真二さん、三浦肇さんにも加わっていただき、昨年のコンサートのダイジェストをやっていただきます。ありがたいことです。
 
 
ちなみに日比谷公園の桜は7~8分咲きといったところでした。
 
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その後、上野に行きました。上野の桜も同じような感じでした。上野では、東京藝術大学大学美術館へ。先週始まった「藝大コレクション展―春の名品選―」を観て参りました。
 
 
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「2013年度新収品」ということで、光雲の木彫「鷹(寿老)」(昭和3年=1928)が展示されています。光雲は同一のモチーフで複数の作品を作ることも多かったのですが、これは他に類例が無く、非常に興味深いものでした。
 
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実際に観るまでどういうものかさっぱり解らなかったのですが、キャプションを読み、帰ってからネットで調べてみてよくわかりました。
 
元和7年(1621年)、徳川幕府二代将軍・秀忠の江戸城への帰途、その愛鷹「寿老」が、日本橋本町にあった「木屋」という雑貨屋の店内に舞い込み(「屋根にとまり」とする資料もありました)、そのまま戻らなかったため、この鷹を下賜されたという逸話があるそうです。
 
この彫刻は木屋の後裔が光雲に依頼して作らせたとのこと。鷹はもちろん「寿老」で、とまっている米俵は「寿老」の飼育のために毎年給されていた米を表しているそうです。
 
いつ見ても光雲の木彫は、その超絶技巧に舌を巻かされます。
 
他の出品リストは以下の通りです。
 
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チラシがこちら。
 
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厚冊の豪華図録は作られていませんが、無料の簡易図録が配布されていました。ありがたや。
 
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会期は来月13日(日)までです。その後、現在、仙台市博物館で開催中の「東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち」展が巡回してきます。こちらは来月26日(土)~6月22日(日)まで。やはり光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。
 
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ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村で、地元の方が村長選挙に立候補、応援演説を頼まれましたが断りました。
 
戦時中の大政翼賛会文化部や日本文学報国会といった「前科」を自ら問題にしてのことです。同様の「前科」がありながら、そしらぬ顔をして、本人が国政選挙に打って出た文学者もいたのですが……。

先日のこのブログで、作家・津村節子さんについて書きました。ご主人の故・吉村昭氏ともども、岩手の田野畑村とのご縁が深く、東日本大震災後には、村の復興のために骨を折られているとのこと。
 
当方も微力ながら、同じ三陸の女川の復興支援に少しだけ関わっておりますので、興味をひかれ、津村さんの近著を2冊購入しました。
 
まず1冊、昨年6月、集英社より刊行された『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』を読了しました。
 
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やはり作家の加賀乙彦氏との対談です。加賀氏は奥様に、津村さんはご主人にそれぞれ先立たれていて、それを軸にしたトークです。
 
泣けます。
 
加賀氏――
日曜日には女房と二人で聖イグナチオ教会に行っていました。(中略)春は堤に連翹と桜が満開でね。連翹の花というのは十字架の形ですから、十字架がたくさんあるような感じがして。二人でよく教会の帰りに四谷から市谷のあたりまで歩きました。
 
津村さん――
私は今でも、公園の中を歩いて「ああ、ここ、一緒に歩いたなあ」って、そういうことが始終あるんです。退院して再入院するまでの間、二人でよく、歩きました。公園のあたりで「このベンチに一緒に腰かけたな」とか……。
 
お二人のお話から、智恵子を失った後の光太郎を彷彿とさせられます。
 
ちなみに光太郎曰く、
 
智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
「智恵子の半生」(昭和15年=1940)
 
幸い当方の伴侶は元気です。しかし、いずれこういう立場になるのだろうか、などと考えさせられました。または逆に当方が先に逝き、伴侶が残されることもあり得るな、とも。そうなった場合、「せいせいした」と言われるのではないかと、それが心配です(笑)。
 
もう一冊、やはり昨年の11月に講談社から刊行された『三陸の海』。こちらはまだ読んでいる最中です。
 
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夫妻共に縁の深い田野畑村が描かれています。田野畑は光太郎と縁の深かった宮澤賢治ゆかりの地でもあり、熟読前にざっと斜め読みしたところ、賢治についての記述もありました。
 
以下、講談社さんのサイトから。
 
震災を経て、再びかの地へ――
2011年3月11日。「私」が新婚時代に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。
三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、「私」にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
 
ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

平成3年(1991)の今日、文治堂書店から北川太一著『高村光太郎ノート』が刊行されました。
 
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高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問もお願いしています北川太一先生の著作集です。書き下ろしではなく、あちこちに発表された文章の集成で、編集は北川先生が高校教諭だった頃の教え子の会「北斗会」の皆さんです。どこをとっても示唆に富む内容です。

昨日、長野県の碌山美術館さんの館報をご紹介しましたが、お隣山梨県立文学館さんからも最新の館報を頂きました。ありがとうございます。
 
昨秋開催された企画展「与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ」の報告が掲載されています。
 
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4/2(水)の連翹忌には、同館の三枝昻之館長と、同展担当学芸員の保坂雅子さんがご参加の予定です。
 
それから4/12(土)から開催される企画展「村岡花子展 ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ~」について詳しく紹介されています。
 
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NHKの朝ドラ、来週から「花子とアン」の放映が始まりますから、非常にタイムリーですね。
 
村岡花子は甲府出身。日本で初めて「赤毛のアン」を翻訳紹介しています。
 
年齢的には光太郎のちょうど10歳下です。残念ながら『高村光太郎全集』には村岡の名は出てきません。しかし、光太郎が詩部会長だった戦時中の日本文学報国会で、村岡も女流文学者委員会の委員を務めていますし、昭和17年(1942)11月に開催された大東亜文学者会議には、二人とも参加しています。おそらく面識はあったでしょう。また、詩人の永瀬清子、編集者の前田晁など共通の知人も多く、そういった部分での接点もありました。
 
NHKの朝ドラ「花子とアン」、戦時中の村岡をどのように描くか、非常に興味があります。別に戦争協力を糾弾するわけではありません。日本文学報国会にしても、加入していなかった文学者を捜す方が難しい状態で、当時としては、ある意味しかたのないことです。
 
先月亡くなった「ぞうさん」のまど・みちお氏にしても、戦時中には戦争協力の詩を書いています。まどさん自身、それを隠さず平成4年(1992)に刊行された『まど・みちお全詩集』にそれらを収録、さらに「あとがき」ではその点や、戦後には一転して反戦運動に関わるようになったことを、流される自分のなさけなさとして述懐しているそうです。
 
光太郎も戦後は花巻郊外太田村での隠遁生活を「自己流謫(=流刑)」と位置づけ、あえて不自由な生活を続けました。
 
そのあたり、村岡がどうだったかというのが興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和27年(1952)の今日、NHKラジオ放送「朝の訪問」のため、花巻温泉松雲閣で、詩人の真壁仁と対談しました。

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松雲閣 戦前絵葉書

信州安曇野の碌山美術館様より、同館館報の第34号をいただきました。B5判、72ページもある分厚いものです。ありがとうございます。
 
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表紙は同館にて新しく収蔵した光太郎彫刻「倉田雲平胸像」。長野出身の彫刻家・酒井良氏が解説されています。
 
十和田湖畔の裸婦像制作後に取り組み、結局、未完のまま光太郎は歿してしまいました。しかし、未完ゆえの荒々しいタッチが不思議な迫力をかもし出している彫刻です。モデルは日華ゴム(現・ムーンスター)の創業者・倉田雲平です。
 
後半、光太郎の甥・高村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」が掲載されています。
 
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昨年4月、同館で催された碌山忌記念講演会の筆録です。
 
こちらは18ページもあり、非常に読み応えがあります。内容的にも、近親者として見た光太郎の様々なエピソードが紹介されており、非常に興味深いものです。表紙の「倉田雲平胸像」についても記述があります。
 
他にも学芸員の武井敏氏による「碌山研究 荻原守衛のイタリア・エジプト旅行② ―フィレンツェ篇―」、「美術講座 ストーブを囲んで 名誉副館長荻原孝子さんを語る 碌山の芸術に捧げた生涯」など、興味深い記事が満載です。
 
4/2(水)の連翹忌にご参加頂ける方には、無料でお配りいたします。
 
それ以外の方、お問い合わせはこちらまで。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月26日

昭和19年(1944)の今日、茨城取手の長禅寺で、講話を行いました。
 
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取手には、光太郎と親交の深かった宮崎仁十郎・稔の親子が住んでいました。のちに戦後になって、光太郎が仲介して、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と稔が結婚します。
 
宮崎家との関係から、長禅寺には光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基現存しています。一基は昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。小川芋銭(うせん)は日本画家。取手に近い牛久に暮らし、河童の絵を描き続け、やはり宮崎家と交流がありました。もう一基は昭和23年(1948)建立の「開闡(かいせん)郷土」碑。ともに題字のみ光太郎の揮毫です。
 
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左:「小川芋銭先生景慕之碑」  右:「開闡郷土」碑
 
長禅寺は戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたとのことで、ここで光太郎の講話が行われました。やはり宮崎家の肝煎りです。聴衆は40名程。母についての話があったということですが、それ以上詳しいことは不明です。

一昨日になりますが、千葉県東端の銚子に行って参りました。といって、生活圏なので、時々行くのですが……。昨日のブログにもちらっと書いたとおり、当方、合唱をやっており、その関係です。
 
目的地は市内中心部、新生町にある公正市民館というところ。公民館的な施設です。銚子を代表する企業・ヤマサ醤油の10代目濱口儀兵衛が大正末に建て、戦後になってから市に寄贈されました。大正末の建築ということで、レトロな感じがたまりませんね。
 

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道路を挟んで目の前がヤマサ醤油の本社工場、そしてその東隣に、かつては国鉄貨物線の駅がありました。現在は「中央みどり公園」となっています。
 
こちらには、光太郎と縁の深い詩人・黄瀛(こうえい)の詩碑があります。
 
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黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。右の画像です。ただし、この彫刻は現存しません。また、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いてやったりしています。さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、光太郎が保証人になっています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
その後、昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
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銚子に詩碑が建てられたのは平成12年(2000)。碑文は「銚子ニテ」という詩の一節です。
 
  風ノ大キナウナリト
  利根川ノ川波
  潮クサイ君ト僕ノ目
  前ニ荒涼タル
  阪東太郎横タハル
       黄瀛
 
昭和4年(1929)の作で、銚子在住だった詩人の関谷祐規を訪ねて銚子を訪れた際に書かれた詩だそうです。
 
「阪東太郎」は正しくは「板東太郎」で、利根川の別名です。
 
下記は詩碑建立の際の新聞記事。
 
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記事にもあるとおり、除幕式の際には黄瀛本人がまた来日しました。
 
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ぜひお会いしたかったのですが、都合がつかず、果たせませんでした。残念です。
 
この後、平成17年(2005)に、中国重慶で白血病のため死去。享年98歳の大往生でした。
 
銚子には、大正元年(1912)に光太郎智恵子が逗留し、愛を確かめた宿「暁鶏館」(現・ぎょうけい館)もあり、黄瀛以外にも光太郎と縁の深い文人が訪れたり、出身だったりということもあります。また、折を見てそのあたりをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月25日
 
昭和30年(1955)の今日、岩波書店から岩波文庫の一冊として『高村光太郎詩集』が刊行されました。
 
光太郎自らが校訂した最後の選詩集です。編集は美術史家の奥平英雄でした。

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福島の原発被害からの復興支援の合い言葉として、「智恵子抄」中の詩「あどけない話」に使われている「ほんとの空」の語がよく使われています。または「う」が入って「ほんとうの空」。
 
 
3/20(木)から昨日までの4日間、福島市音楽堂で、第7回声楽アンサンブルコンテスト全国大会が開催されました。こちらもサブタイトルが「-感動の歌声 響け、ほんとうの空に。-」。

 
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「アンサンブル」ですので、基本的に少人数での演奏。要項によれば2名以上16名以下での演奏という規定でした。
 
福島県は「合唱王国」と言われ、各種の全国コンクールで上位入賞を果たす団体が多いことで有名です。智恵子の母校、福島高等女学校の後身・県立橘高校合唱団も全国大会上位常連です。平成21年(2009)から23年(2011)には、委嘱作品で、光太郎の詩に作曲家の鈴木輝昭氏が曲を付けた「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」から自由曲を選び、全国大会上位入賞を果たしています。

その福島県が主催して、毎年この時期に行われているのが「声楽アンサンブルコンテスト」。第1回は平成20年(2008)でした。
 
平成23年(2011)は、東日本大震災直後ということあり、中止。昨年からサブタイトルに「-感動の歌声 響け、ほんとうの空に。-」が使われるようになりました。福島の皆さんの切実な思いが込められているように感じられます。
 
当方、地元・千葉で混声合唱をやっているのですが、実はこうした経緯、最近まで知りませんでした。汗顔の至りです。
 
さて、昨日までの「第7回声楽アンサンブルコンテスト」。高等学校部門、中学校部門、一般部門が1日ずつ開催され、最終日には各部門上位団体による本選という流れでした。結果、上位5位までに、福島からの出場団体が4組入っています。ホームタウンデシジョンというわけではないはず。「合唱王国」の面目躍如、そして「ほんとの空」を求める切実な思いの表れなのでしょう。
 
彼らの歌声によって、一日も早く「ほんとの空」が戻ることを願います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月24日

大正14年(1925)の今日、詩「傷をなめる獅子」を書きました。
 
翌月の雑誌『抒情詩』に発表され、さらに光太郎没後の昭和37年(1962)、草野心平が鉄筆を執って作ったガリ版刷り詩集『猛獣篇』に収められました。
 

  傷をなめる獅子000
 
獅子は傷をなめてゐる。
どこかしらない
ぼうぼうたる
宇宙の底に露出して、
ぎらぎら、ぎらぎら、ぎらぎら、
遠近も無い丹砂(たんしや)の海の片隅、
つんぼのやうな酷熱の
寂寥の空気にまもられ、
子午線下の砦(とりで)、
とつこつたる岩角の上にどさりとねて、
獅子は傷をなめてゐる。
 001
そのたてがみはヤアヱのびん髪、
巨大な額は無数の紋章、
速力そのものの四肢胴体を今は休めて、
静かなリトムに繰返し、繰返し、
美しくも逞しい左の肩をなめてゐる。
 
獅子はもう忘れてゐる、003
人間の執念ぶかい邪智の深さを。
あの極楽鳥のむれ遊ぶ泉のほとり
神の領たる常緑のオアシスに、
水の誘惑を神から盗んで、
きたならしくもそつと仕かけた
卑怯な、黒い、鋼鉄のわなを。
 
肩にくひこんだ金属の歯を
肉ごともぎりすてた獅子はかう然とした。
憤怒と、侮蔑と、憫笑と、自尊とを含んだ
ただ一こゑの叫は平和な椰子の林を震撼させた。
さうして獅子は百里を走った。
 
今はただたのしく傷をなめてゐる。
どこかしらない
ぼうぼうたる
つんぼのやうな孤独の中、
道にはぐれても絶えて懸念の無い
やさしい牝獅子の帰りを待ちながら、
自由と闊歩との外何も知らない、
勇気と潔白との外何も持たない、
未来と光との外何も見ない、
いつでも新らしい、いつでもうぶな魂を
寂寥の空気に時折訪れる
目もはるかな宇宙の薫風にふきさらして、
獅子はをなめてゐる。

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4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

福島からコンサートの情報です。 

福★モモ プロジェクト 復興支援コンサート ~”花見山”と”智恵子抄”を愛する福島の皆様方へ~

期 日 : 2014年4月16日(水) 
会 場 : 福島ビューホテル 3階 安達太良の間 JR福島駅西口
時 間 : 
16:00~17:30
料 金 : 
無料
  : 「智恵子抄」「シャンソンメドレー」「花見山伝説」「百万本のバラ」他

ピアノ 砂原嘉博

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このブログで何度もご紹介している、「智恵子抄」等の光太郎詩篇にオリジナルの曲を附けて歌われているモンデンモモさんのコンサートです。
 
「智恵子抄」以外にも福島市の花見山を謳った「花見山伝説」などの曲も。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月22日

昭和30年(1955)の今日、平凡社刊『書道全集 第七巻 中国・隋、唐Ⅰ』の月報に「黄山谷について」を発表しました。
 
「黄山谷(こうさんこく)」は、中国北宋の進士、黄庭堅(こうていけん)の号。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。
 
光太郎は山谷の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁に複製を貼り付け、毎日眺めていたとのことです。そういえば、どことなく光太郎の書にも通じる雰囲気が見て取れます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月21日001
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村山口の小屋に、建築家の谷口吉郎、詩人の藤島宇内が訪ねてきました。
 
二人の用件は、青森・十和田湖畔に立てる十和田国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼でした。これが十和田湖畔に立つ裸婦群像(通称・乙女の像)に繋がっていきます。
 
その前年から青森県では佐藤春夫ら、中央の著名文化人等に相談するなど、いろいろと段取りを立て、この日の二人の訪問に至ります。二人には佐藤春夫からの丁重な手紙が託されていました。
 
4月には県の関係者も山小屋を訪問、ともかくも現地を見てから、という光太郎の要望で、6月には関係者一同で十和田湖の現地視察。この際にも谷口と藤島は同行しています。
 
下記の画像が6月の現地視察時のもの。左端から草野心平、光太郎、松下英麿(編集者)、谷口、菊池一雄(彫刻家)、佐藤春夫夫妻、藤島です。
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そのあたりの事情は、この画面左の「ブログリンク」にも登録してありますが、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのHP「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」に詳しい経緯が書いてあります。
 
「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」中の「「乙女の像」の歴史と魅力にせまる ろまんヒストリー」lというメニューです。
 
昨年、像の除幕から60周年を迎えたのを機に、十和田市さんや地元ボランティアの皆さんが中心となって、像をめぐるいろいろな顕彰活動が展開されています。
 
過日は像の設置工事に直接携わった技師の方への聞き取り調査もなさったとのこと。今まで活字になっていなかったような当時の様子等が、やはり「十和田奥入瀬ろまん新聞」中にアップロードされています。
 
今年も引き続き、いろいろと顕彰活動が行われるとのこと。当方も少しばかりお手伝いしています。今後の活動については、順次、ご紹介していきます。

3月も下旬となりました。
 
来月に行われるイベント情報を少しずつご紹介します。 まず、「智恵子抄」の詩に曲を付けた連作歌曲を発表された、野村朗氏関連です。

第15回 TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会

2014年4月12日(土) 13:30開演(13:00開場 13:10表彰式)
 
東京・日暮里サニーホールコンサートサロン  全席自由 前売2,000円 当日2,500円
 
島田康子 作曲/郵便馬車 演奏:島田康子(ピアノ)

内匠悠歌 作曲/ハザードシンボル(警告) 演奏:内匠悠歌(ピアノ)
関口ちあき 作曲/真珠はパリ色の夢を見ている 演奏:関口ちあき(ピアノ)
馬場洋子 作曲/鼓動 演奏:馬場洋子(ピアノ)
中堀海都 作曲/Cracked 5-2-in the garden for flute and cello/Deliberation 3 for cello solo 演奏:未定
中村昭彦 作曲/A Mysterious Bell ~木管五重奏のための「神秘的な鐘」~ 演奏:木村美紗季(フルート、ピッコロ)河村玲於(オーボエ)清水理絵(クラリネット)城田美咲(ホルン)栗林愛理(ファゴット)
田島眞理 作曲/自作主題による6つの変奏曲 ~ フルートとピアノのための/坂輪綾子の詩による4つの歌曲 Ⅰ.きんのゆびわ Ⅱ.黒ねこ Ⅲ.竹藪 Ⅳ.眠りの森 演奏:田島眞理(ピアノ)新山麻美(フルート)室井葉子(ソプラノ)北澤幸(メゾ ソプラノ)
野村朗 作曲/歌曲「レモン哀歌」(詩:高村光太郎)/ 間奏曲/ 歌曲「案内」(詩:高村光太郎) 演奏:森山孝光(バリトン)森山康子(ピアノ)

沈 佳女 作曲/サーカス 演奏:山本直輝(チェロ)中江早希(ソプラノ)
 
 
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野村氏については、このブログでも何度かご紹介いたしました。
「連作歌曲智恵子抄」、何度か演奏されていますが、今回も同じく森山孝光さん・康子さん御夫妻による演奏です。こちらのお二人は、曲のバックボーンをよく理解されていて、非常に素晴らしい演奏を披露してくださいます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月20日

昭和19年(1944)の今日、詩集『智恵子抄』の第13刷が発行されました。
 
オリジナルの『智恵子抄』、最後の版です。この後、太平洋戦争の激化に伴い、戦後まで版を絶ちます。初版は昭和16年8月。それ以来、3年足らずで13刷まで刊行されました。戦時中の物資欠乏を考えれば、驚異的な数字です。もっとも、1回に何部印刷されたのかは不明ですが、それにしても13刷。同時期の他の書籍では、ほとんどありえなかったのではないでしょうか。
 
冒頭の詩「人に」の最初のフレーズ、「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」が、戦地に赴く若者の後ろ姿に重ねて読まれた、という説もあります。

4月2日は光太郎の命日、連翹忌。1周忌の昭和32年(1957)に第1回の連翹忌が開催され、今年で58回目となります。
 
東京では日比谷松本楼さんを会場に行っており、現在、参加者募集中です。昨年と比べ、今のところの申し込みが若干少なく、残念に思っております。こちらをご参照の上、お申し込み下さい。
 
さて、毎年同じ4月2日に、光太郎が足かけ8年間過ごした岩手・花巻でも連翹忌が開催されています。
 
以下、花巻市の広報紙『広報はなまき』3月15日号から。 
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高村光太郎の連翹忌(れんぎょうき)

彫刻家で詩人の高村光太郎をしのび、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(水曜日)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内電話29-4681)
 
会場の松庵寺さんは、花巻滞在中の光太郎が毎年のように父・光雲や妻・智恵子の法要をやってもらっていたお寺です。花巻市街・マルカンデパートさんの裏手の方、双葉町にあります。
 
東北在住の方で、東京の連翹忌にご参加できない方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月19日

平成5年(1993)の今日、鋳金家の故・齋藤明氏を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定する旨、文化財保護審議会から文部大臣への答申がありました。
 
斎藤氏は光太郎の弟、豊周の工房で主任を務め、光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を多数手がけられました。昨年11月にご逝去。東京の連翹忌には昨年までご参加下さっていました。
 

埼玉県飯能市にある駿河台大学発の情報です。

オープンキャンパス模擬授業 詩という形のラブレター ―高村光太郎『智恵子抄』入門

期 日 : 2014年3月22日(土)
会 場 : 駿河台大学  埼玉県飯能市阿須698
時 間 : 13:00~ 事前申し込み不要

料 金 : 無料
  
講師 現代文化学部 長尾建准教授
 
 「いやなんです
 あなたのいつてしまふのが―」
 
 この場合「いつてしまふ」というのは、恋愛相手が誰かよその人間と結婚することを表しています。つまり、詩人は恋愛相手がよその人間と結婚することに、詩という形で全力で反対しているのです。
 
 これは一種のラブレターと言えるでしょう。この行間からは、よその人間ではない、私とあなたが結婚するべきだ、という思いがにじみ出ています。これを読んだ一女性は、何と幸福な思いを抱いたでしょう。
 
 ところが、このラブレターは雑誌に公開されたのです。高村は実直な青年であったので、または恥じらいの気持ちから、この詩を公開したのでしょう。そもそも、ラブレターというものは、非公開性と言うか相手以外見ることがない、そのような状況で書かれるものです。これを公開された智恵子はどのようにこれを受け取ったのでしょうか。
 
 一般にこの詩を読んだ女性は、この話はフィクションであり、作られたものと考えるでしょう。その上で、このような発言をする男性が私のまわりに現れたならな~と、あたかも自分自身にあてられたラブレターとして読むでしょう。まさにそれが『智恵子抄』が現代まで読み継がれる要因なのですが、一方で、「あなた」と呼ばれた智恵子はどのようにこの詩を受け止めたでしょうか?
 
 他の読者は知らない、まさに長沼智恵子にあてられたラブレター。二人だけに共有される私秘性、そこには強烈なロマンティシズムがあるのではないでしょうか。
 
 模擬授業では、照れずに愛について語りましょう。

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講師の長尾さんは高村光太郎研究会の会員。おもしろい模擬授業が受けられるのではないでしょうか。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月18日

大正6年(1917)の今日、福島磐城から、親友で作家の水野葉舟に宛てて絵葉書を書きました。
 
曰く、
 
 大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう 帰つたら行きます 光 1917
 
大理石は石灰岩の一種。日本でも産出されています。絵葉書は「磐城炭鑛株式会社小野田坑」。一帯はかつて炭坑が数多く掘られ、石炭は「黒ダイヤ」と言われていました。
 
現在は採炭はほとんど行われておらず、温泉を活用し、炭坑跡に「フラガール」で有名な現在の「スパリゾートハワイアンズ」が作られています。東日本大震災直後のフラガールたちの活躍は記憶に新しいところですね。

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東北レポートの最終回です。

3/9(日)、盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」を見終わり、最後の目的地に向かいました。
 
てがみ館のほど近く、同じ中津川沿いにある「深沢紅子野の花美術館」です。

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深沢紅子(明治36=1903~平成5=1993)は、盛岡出身の画家。夫の省三ともども、盛岡での美術教育にも力を注ぎ、後進の育成に功績があり、やはり省三ともども、光太郎と交流がありました。
 
野の花美術館、こちらは直接光太郎と関わる展示はないのですが、数年前に立ち寄った際に、非常にいい感じだったので、リピーターとして行ってきました。
 
紅子は生涯野の花を描き続け、そちらの展示がメインです。下の画像は買ってきたポストカード。当方、柄にもなく花々が大好きです。
 
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さらに企画展として「深沢省三 童画原画展」が開催されていました。
 
本当に小さな美術館ですが、味わい深い作品の数々に出会えます。ぜひ足をお運びください。
 
その後、盛岡駅まで歩きました。歩いてみると、いろいろ思いがけない発見があるものです。
 
こちらは岩手県公会堂。昭和27年(1952)に光太郎がここで講演をしています。おそらく当時のままの建物でしょう。
 
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 盛岡市街、この手の古い建物が結構残っています。左下は「もりおか啄木・賢治青春館」。もと第九十銀行だった建物を転用しています。こちらは今回、前を通っただけで中はパスしたのですが、いずれよく観てみようと思っています。
 
街角には啄木もいました(笑)。
 
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 その後、盛岡駅から東北新幹線で帰りました。今回も充実した東北紀行でした。
 
これを読んで行ってみようという気になられる方がいらっしゃったり、あちらの方面に行かれる方のご参考になったりすれば幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月17日

大正4年(1915)の今日、上野精養軒で開かれた作家・歌人の平出修の追悼会に出席しました。
 
平出は与謝野鉄幹の新詩社同人。弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。前年のこの日に若くして亡くなっています。
 
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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

3/9(日)、紫波町の野村胡堂・あらえびす記念館を後に、一路、盛岡に向かいました。目指すは今回の東北紀行最大の目的地、盛岡てがみ館さんです。
 
同館では、先月末から第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催中です。
 
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さらに3/9は、関連イベントとして、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」があり、この日にお伺いしました。
 
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同館は石川啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と詠んだ盛岡城にほど近い、中ノ橋というところにある観光文化交流センター「プラザおでって」の6階です。エレベータで上がっていくと、眼下に中津川。いい感じのロケーションです。
 
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館長さんや学芸員さんにご挨拶、早速、展示を拝見しました。
 
展示スペースはあまり広くありませんが、写真パネル等効果的に使い、見やすい展示になっています。
 
展示されている書簡は20通あまり。同館所蔵のもの、それから同じく盛岡にある盛岡先人記念館さんや盛岡市で所蔵しているのものなどでした。書簡以外にも肉筆の詩稿も展示されています。
 
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「そうだったらいいな」と思っていたのがまさにビンゴでした。『高村光太郎全集』等に未収録の書簡もあったのです。聞けば、盛岡先人記念館さんにて最近入手されたものだそうです。いずれ当方編集の「光太郎遺珠」にてご紹介したいと思っております。 
 
光太郎関連以外にも常設展示ということで、宮澤賢治や石川啄木の書簡なども並んでいます。この二人はともに夭折していますので、残っている書簡の数も少なく、非常に貴重なものです。
 
そうこうしているうちに、花巻の財団法人高村記念会の高橋邦広事務局長がいらっしゃいまして、お土産をいただきました。つい先日、花巻のお寺で見つかったという、仏像の縁起書のコピーです。光太郎とも関わっており、のちほどこのブログにてもご紹介します。
 
さて、午後2時となり、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」が始まりました。驚いたことに、展示スペースに椅子を並べてイベント会場としていました。ギャラリーなどではそういうこともしばしばあるのですが、文学館の類では別室で行うことが普通です。まぁ、展示資料を視界に入れながら聞く、というのもよいものでした。
 
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朗読されたのは、光太郎の詩、水沢町出身の美術評論家・森口多里宛の書簡や、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』の一節など。先日このブログでご紹介した、昭和25年(1950)の光太郎誕生日に関するものでした。
 
同館ではこうした朗読イベントも不定期に行っているそうです。
 
第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」、会期は6月までと、かなり長めです。また、4月、5月にも関連行事が予定されています。
 
ふみの日ギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」   [開催日]4月23日(水)

館長によるギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」  [開催日]5月31日(土)

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月16日

平成14年(2002)の今日、NHKラジオ第2放送「NHKカルチャーアワー文学と風土」で「北国名作探訪 第24章 雪中独居……高村光太郎『典型』ほか」がオンエアされました。
 
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ナビゲーターは作家の高田宏氏。花巻郊外旧太田村の山小屋での光太郎が取り上げられました。上記画像のテキストも販売されています。2枚目のゴム長靴の写真は、十和田湖畔の裸婦群像制作のため上京した昭和27年(1952)10月、上野駅での一コマです。

昨日は都内2ヶ所を廻ってきました。
 
1ヶ所め、三鷹。
 
福岡を拠点に「智恵子抄」などのひとり芝居をなさっている玄海椿さんの東京公演「ロックンロール黒田官兵衛」、それからアクタースクール講師もされている玄海さんの教え子さん達のミュージカル「キッド」を観て参りました。
 
戦国や幕末の歴史物は大好きですし、ミュージカルの方も、頑張っても頑張っても光が見えず、夢と現実のはざまで苦悩する劇団員たちを描いた内容が、金にならない文化活動を続ける我が身とダブり、自虐的に面白く感じました。
 
終演後、玄海さんには「ぜひとも東京で「智恵子抄」を」とお願いしておきました。期待したいものです。
 
2ヶ所め、表参道。
 
 
講師は宮城県女川町立女川中学校教諭 佐藤敏郎先生と、朝日新聞石巻支局記者 小野智美さん。
 
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佐藤先生は、旧女川第一中学校(現・女川中学校)で、震災直後の2011年5月から、俳句の創作の授業をなさり、小野さんがそれを編集し、一冊の本になっています。題して「女川一中生の句 あの日から」。

 
さらに佐藤先生は「「いのちの石碑」建立プロジェクト」にも関わられ、小野さんはそれも記事に書かれています。



 
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さらに言うなら、佐藤先生の末のお子さんは、3.11当時、津波で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった石巻市立大川小学校6年生。そして74人のうちの1人だそうです……。その後、「小さな命の意味を考える会」を設立、代表を務められているとのこと。
 
そのお二人によるトークということで、その当時の女川の様子、授業風景、「いのちの石碑」建立の舞台裏など、興味深い、そして感動的なお話がたくさん聴けました。001
 
トークイベント終了後、お二人と少しお話をさせていただきました。お二人とも、当方も関わっている女川光太郎祭に何度か足を運ばれたそうですし、特に小野さんは、現在、女川光太郎祭を取り仕切られている佐々木英子さん(女川の光太郎文学碑建立に尽力された故・貝(佐々木)廣さん夫人)とツーカーだそうで、世間は狭いな、と感じました。
 
先の話になりますが、今年も8月9日(土)に女川光太郎祭が開かれるはずですので、みなさんにもよろしくお願い申し上げます。
 
また明日から東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月15日

明治45年(1912)の今日、美術新報社主催の「第三回美術展覧会」が開かれ、日本画「無題」を出品しました。
 
美術学校での授業には日本画の臨画がありましたし、卒業後も与謝野晶子が短歌を揮毫し、光太郎が絵を描いて屏風に仕立て、新詩社の支援者に買って貰う、などといったこともやっており、実は光太郎の日本画、少なからず残っています。
 
ただ、右の画像(「無題」)のように、臨画ではない作品はかなり斬新なものです。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

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入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

3/8(土)、山形の最上義光歴史観を後にし、仙台へ向かいました。
 
仙台での目的地は、伊達政宗公の青葉城の一角にある仙台市博物館です。こちらでは以下の企画展が開催中です。 
 
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東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

会期:平成26年3月1日(土)~4月13日(日) 月曜休館 9:00~16:45(入館は16:15まで)
 
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公式サイトより。
 
 飛鳥時代に聖徳太子によって建立された法隆寺は、日本を代表する寺院として多くの人々に親しまれています。天智天皇9年(670)の落雷による火災で大きな被害を受けたとされ、和銅4年(711)頃に現在の中心伽藍が整ったと考えられています。復興された法隆寺は、聖徳太子と関わりの深い仏像が安置されるなど太子信仰の寺院として多くの信仰を集めます。約1300年にわたり保護されてきた世界最古の木造伽藍は、1993年に日本で初めて世界文化遺産に登録されました。
 本展は、東日本大震災の発災から3年を迎えるにあたり、震災からの復興を祈念して開催するものです。法隆寺がたどった復興から現在へと至る歴史を踏まえながら、同寺の宝物をはじめとする様々な美術品を一堂に展示します。
 また、岡倉天心(1863-1913)以来、法隆寺宝物の保存と継承に携わってきた東京美術学校(現 東京藝術大学)の関係者が同寺へ奉納した絵画や什物などを展示し、法隆寺が日本の文化興隆に果たした役割と、そこに携わった人々についても紹介します。
 
展示は三部構成となっており、第一部が「法隆寺-その美と信仰 法隆寺の仏教美術」、第二部が「法隆寺と東京美術学校」、第三部が「法隆寺と近代日本美術」です。
 
光雲が教授を務め、光太郎も在籍した東京美術学校と法隆寺は、密接な関係があります。古くは美校設立に尽力した岡倉天心とアーネスト・フェノロサによる救世観音像等の調査などが有名ですし、その後も寺宝の保存、継承のために美校の果たした役割には大きなものがありました。
 
そこで、第二部では美校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)が並んでいます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
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聖徳太子像の方は高さ約16㌢の小さなものですが(それでも、というかそれだけに非常に精緻です)、佐伯定胤像の方は同じく約90㌢。光雲作の木彫の中では大作の部類に入り、非常に迫力があります。約90㌢という数字は図録で調べましたが、実際に見た感じはもっと大きな感じです。この像は、頭部の原型を光太郎が作っており、その意味では光雲・光太郎親子の合作といってもよいと思います。
 
その他、飛鳥時代から近現代に至る寺宝の数々が展示されており、見応えのある企画展でした。
 
さて、この企画展、以下の日程で巡回となっています。
 
仙台展 仙台市博物館      2014年3月1日(土)~4月13日(日)
東京展 東京藝術大学大学美術館 2014年4月26日(土)~6月22日(日)
新潟展 新潟県立美術館     2014年7月5日(土)~8月17日(日)
 
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図録にはもう一点、光雲作の聖徳太子像が掲載されています。こちらは新潟展のみの出展です。
 
ぜひお近くの会場へ足をお運び下さい。
 
さて、企画展を見終わり、せっかくなので周辺を少し歩きました。山形は雪でしたが、仙台は晴れていました。
 
博物館の裏手には、かつて東北大学医学部の前身・仙台医学専門学校に留学していた魯迅の顕彰碑と胸像。
 
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さらに伊達政宗公の胸像もありました。
 
政宗公には有名な騎馬像がありますが、光太郎や光雲作の銅像と同じく、ご多分にもれず戦時に金属供出の憂き目にあいました。この胸像は供出されたあと、上半身部分のみ鋳つぶされずにうち捨てられていたものだそうです。
 
その後、たまたま残っていた原型を元に、2代目の騎馬像が鋳造されたそうです。それがこちら。博物館の裏手を登っていったところにあります。
 

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ここからの仙台市街のながめはgoodでした。
 

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その後、この日は仙台駅前に宿を取りました。続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月13日

昭和25年(1950)の今日、岩手黒沢尻の森口多里(美術評論家)の疎開先で、誕生日祝いの会食をしました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕131年ということになりますね。
 
で、昭和25年(1950)の今日、講演旅行の帰りに寄った森口の疎開先で饗宴にあずかりましたが、参会者の誰もその日が光太郎誕生日とは言われるまで知らず、全員サプライズの誕生祝いになったとのこと。こちらも昨年のこのブログに書きましたのでご覧下さい。

昨日は3.11。東日本大震災からまる3年が経ちました。
 
少し前から、各地で行われたイベントや、その報道などで光太郎智恵子に関わるものがあります。
 
当方は、銀座永井画廊さんで開催中の「高村智恵子紙絵展」に行って参りました。
 
永井画廊さんでは2012年以後、毎年3月に「被災地への祈りのメッセージ展」を開催していて、その一環です。更に昨日は関連行事として、光太郎の弟で鋳金の人間国宝・高村豊周の孫・朋美女史と、高村光太郎研究会員で、かつて群馬県立土屋文明記念文学館の学芸員だった佐藤浩美さんによるトークショーが行われました。

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トークショーの後、午後2時46分には、参会者による黙祷が捧げられました。
 
さて、一昨日のものですが、各地の地方紙の報道をご紹介します。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。
 
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もう故郷に戻らない 「なみえ焼そば」店主決意

2014年3月10日 東京新聞
 東京電力福島第一原発事故のため全町避難を強いられている福島県浪江町。ご当地グルメ「なみえ焼そば」が全国的に脚光を浴びる中、町を離れて同県二本松市で営業を再開した「杉乃家」店主、芹川輝男さん(64)は、もう浪江町には戻らないと心に決めた。震災から三年。古里に帰らない選択をする被災者が、増えている。 (谷悠己)
 うどんのような極太麺にたっぷりのもやし、豚バラが中華鍋で「ジュジュッ」と音を立て、甘口の濃厚ソースと絡み合う。
 「浪江の人は年取ってても結構、大盛りを注文するんだ」。鍋を自在に操る芹川さんが話す。浪江町の仮役場がある二本松市は二千五百人の町民が暮らし、店は社交場となっている。
 芹川さんは原発事故後、家族で福島県内の避難所などを転々。釣り仲間だった二本松市の男性が空き店舗を探し、震災の四カ月後に店を再開できた。なみえ焼そばを作る店は町内に約二十店舗あったが、再開したのは杉乃家のみだ。
 以前の店では、東電社員や原発作業員も多かった。「町はずいぶん東電の世話になっていた。事故の賠償はしっかりしてほしいが、東電だけ責める気には今もなれない」。むしろ事故直後、関東の市民が「福島から電気が送られていたと初めて知った」と話していたことが悲しかった。
 浪江町の自宅兼店舗には盆や正月に一時帰宅する。室内のネズミが芹川さんと目線を合わせた後、一斉に姿を消す。部屋中が荒らされ、臭いがひどい。「あれを見たら、もう帰る気なくなるよ。悔しいけど、諦めがついた」。ずっと「浪江に帰りたい」と言っていた義父も二〇一二年六月に肺炎で亡くなった。
 昨年末に愛知県豊川市で開かれたB級グルメの祭典「B-1グランプリ」で、浪江の町おこし団体が作った焼きそばが優勝。それ以降、市外からも大勢の客が訪れる。「全てを失った後の再出発だから、今の方が楽しいかも。まだ仕事が見つからない避難者の人には言いづらいんだけど」
 店内には「がんばろう!浪江 ありがとう二本松」と書いた青地の横断幕を掲げる。青色は、美しかった浪江の海の色。そして、詩人・高村光太郎の妻智恵子が、二本松の生家から眺めて愛した安達太良(あだたら)山の空の色を重ね合わせた「故郷を離れた俺にとって、この街で長く店を続けることが生きる希望だからね」
 
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ちなみにこの店は、大山忠作美術館さんが入っている二本松駅前の市民交流センター1階にあり、当方もよく行く店です。
 
避難生活を続けられている方々はまだ26万人。事故を起こした福島第1原発はとても「コントロールされている」状態ではありません。大震災の記憶、まだまだ風化させるわけにはいきません。「被災」はいまだに続いています。
 
明日からまた東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月12日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光太郎の曾祖父・中島富五郎が歿しました。
 
富五郎の父、長兵衛までは鳥取藩士だったとされています。富五郎の代から町人となり、浅草で魚屋などをやっており、富本節の素人名人だったとのこと。ところがその技倆を妬まれ、毒を盛られて半身不随に。それからは子供向けの玩具などを木工で作って生活していたそうです。光雲や光太郎に伝わる手先の器用さがここに見て取れます。

3/8(土)、9(日)と、山形、宮城、岩手と東北3県を歩いてきました。
 
まずは山形市の最上義光歴史館に行きました。現在開催中の企画展「第6回 市民の宝モノ2014」を観るためです。『高村光太郎全集』等に未収録と思われる昭和30年の光太郎葉書が展示されているとのこと。
 
東京発9:48の山形新幹線つばさ177号に乗り、一路山形へ。福島で仙台行きのやまびこ177号と切り離され、県境を越える頃には一面の銀世界、さらに吹雪になりました。
 
山形駅には12:39到着なので、途中で車内販売の駅弁で昼食。山形県産米「どまん中」を使った「牛肉どまん中」という人気の駅弁です。
 
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降り立った山形駅もやはり雪。目的地の最上義光歴史館まで15分程歩きました。
 
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さて、戦国武将・最上義光の記念館であるのに申し訳ないのですが、常設の義光関連の展示は飛ばし、目的の光太郎葉書に一直線。ありました。
 
表の宛名面は現物、裏の通信文の面はカラーコピーで展示されていました。まごうかたなき光太郎の筆跡、消印その他にも不審な点は一切ありません。間違いなく本物、しかも『高村光太郎全集』等未収録のものです。
 
受付でいただいたチラシの裏面に画像が載っていましたので、そちらは公開させていただきます。
 
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日付は昭和30年(1955)8月1日。宛先は花巻税務署。以前に書いた予想通り、花巻から東京中野に住民票を移したことについての内容でした。
 
この葉書により、住民票を移した日付が6月1日であることが明らかになりました。6月4日の日記に転出証明書が届いたという記述があり、その頃だろうとは推測できていましたが、はっきりした日付は不明でした。4月30日から7月8日まで、光太郎は赤坂山王病院に入院しており、その前後の日記は一日分の記述が非常に短いので、転出の届け出についても詳しく書かれていないのです。それが特定できたのは大きいと思います。
 
同館を通じて、所有者の方と交渉中です。文面など、当方編集の「光太郎遺珠」にて紹介できれば幸いです。
 
それにしても、「市民の宝モノ」という企画展。テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」あたりにヒントを得ているのでしょうが、うまいことを考えるものだと感心しました。全国の自治体の皆さん、参考になさってはいかがでしょうか。
 
さて、再び山形駅まで歩き、高速バスを使って次の目的地、仙台を目ざしました。JR仙山線を使う手もあるのですが、高速バスの方が早い、安い、本数が多いと3拍子揃っています。
 
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仙台には午後3時前に着きました。ここでの目的地は仙台市博物館。情報が不十分だったので、行く前のブログには書きませんでしたが、現在、「東日本大震災復興記念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺-祈りとかたち」という企画展が開催されています。こちらには光雲の作品が2点。詳しくはまた後日書きます。
 
ところで今日は3.11。あの日から3年経ちました。震災関連の企画展ということで、今日は銀座の永井画廊さんでの「被災地への祈りのメッセージ展 高村智恵子紙絵展」に行って参ります。
 
明日は東北レポートをいったん中断、そちらをレポートすると思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月11日

大正12年(1923)の今日、詩「樹下の二人」を執筆しました。
 
     樹下の二人
 
   ――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
 うつとりねむるやうな頭(あたま)の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 ここはあなたの生れたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 
詩集『智恵子抄』の中で、最も有名な詩の一つですね。
 
この年、福島に帰省中の智恵子のもとを訪れ、二人で歩いた智恵子生家周辺の自然の美しさに触発されて作ったものです。

013昨日、1泊2日の東北出張から帰りましたので、そのご報告を、と思っておりましたが、別件での情報ご提供があり、そちらを優先します。
 
何といっても明日は3.11ですので。
 
宮城県女川町。津波で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの地です。当方、8月に女川で開催されている女川光太郎祭での講演をやらせていただいており、このブログで何度も女川について書きました。つい先日も、女川の話題をいろいろ書きました。
 
すると、今朝、このブログを開きましたところ、一昨年の記事に関し、コメントが入っていました。文京区の書肆・羽鳥書店さんからでした。同社では「女川一中生の句 あの日から」という文庫本が上梓されています。
 
3.11ということで、今日から関連イベントがあるそうです

●女川だより――あの日からの「家族の肖像」展

会 期 : 2014年3月10日(月)~19日(水)
会 場 : ギャラリー山陽堂(山陽堂書店2・3F)
      東京都港区北青山3-5-22  最寄駅:東京メトロ 表参道駅(A3 出口)
【営業時間】
 平日11:00~19:00  土 11:00~17:00  日祝休
  ※会期中13(木)・14(金)は18:30 まで
【問合せ】 03-3401-1309(山陽堂書店)

東日本大震災の震源地にもっとも近い場所、
宮城県の牡鹿(おしか)半島の付け根に位置する女川町(おながわちょう)は、
震災で甚大な被害に遭いました。

津波が町を襲ったあの日から、人々は何を思い、どう暮らしてきたのでしょうか。

半年後の2011年9月、一人の新聞記者が自ら願いでて、この地へ赴任してきました。それからのさまざまな出会いのなかに、女川第一中学校の生徒と教師のみなさんとの日々があります。女川一中では、2011 年の5月と11月に俳句の授業が行われました。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。そこにこめた思いを記者は丹念にたどり、『女川一中生の句 あの日から』として本にまとめました。
 
あの日から3 年。いまも女川町を中心に半島一帯を取材してまわる記者、小野智美さんは、“いま”の女川に暮らす人々の思いに耳を傾けつづけています。記者として記事を書くだけなく、限られた紙面では伝えきれない家族の肖像を「女川だより」(羽鳥書店HP にて連載中)で紹介しています。
 
『女川一中生の句 あの日から』と「女川だより」を中心に、あの日からの女川町を伝える文章や写真を展示します

●女川だより トークイベント

『女川一中生の句 あの日から』の編者である小野智美さんと、俳句の授業を担当された旧女川第一中学校(現・女川中学校)の教諭 佐藤敏郎さんのトークイベントを開催します。

女川第一中学校では、震災後の5 月に全校生徒約200 人で俳句づくりを始め、国語教師の佐藤敏郎さんが指導の中心を担いました。俳句づくりは女川中学校になった今も続いています。
佐藤さんは昨年11 月、震災で教職員と児童84 人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族らによる「小さな命の意味を考える会」をつくりました。保護者として、そして、生徒たちの命を守る教師として、日々考え、取り組んでいる佐藤さんをお招きして、お話をうかがいます。
 
【講師】 宮城県女川町立女川中学校教諭 佐藤敏郎氏
     朝日新聞記者 小野智美氏
【日時】  2014 年3 月14 日(金)  19:00 開始(終了後30 分ほど懇親会あり)
【会場】 ギャラリー山陽堂  定員: 25 名(要予約)
【参加費】  2000 円(含本代945 円。事前のお支払い。返金はできませんのでご了承ください。)
※必要経費を除いた金額は、KIKKAKE BUS 47(http://kikkakebus.tasukeaijapan.jp/)に寄付させていただきます。
【申込方法】 山陽堂書店 店頭・メール・電話・ファックス
         e-mail info@sanyodo-shoten.co.jp  Tel 03-3401-1309 Fax 03-3401-1358

 山陽堂書店HPでの案内は
こちら 
 
【プロフィール】
小野智美(おの さとみ)
朝日新聞記者。1965 年名古屋市生まれ。88 年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005 年に新潟総局、07 年に佐渡支局。08 年から東京本社。2011 年9 月から仙台総局。宮城県女川町などを担当。東松島市在住。著書に『50 とよばれたトキ─飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)、編著に『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012 年)。

佐藤敏郎(さとう としろう)
宮城県女川町立女川中学校教諭。1963 年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。宮城教育大学を卒業後、87 年度から国語教員に。2002 年度から、宮城県の派遣により、女川町教育委員会の社会教育主事を務め、05 年度に女川第一中に着任した。教務主任を経て、12 年度、県教育委員会が震災時の教訓を踏まえて新設した防災担当主幹教諭に就任。13 年度、女川第一中と女川第二中が統合して女川中に。

●女川の会 佐藤敏郎先生ご講演

【日時】 2014 年3 月15 日(土)14:00~16:00(開場13:30)
【会場】 文京区汐見地域活動センター2F 会議室(洋室A・B)
     東京都文京区千駄木3-2-6
     最寄駅:東京メトロ千代田線千駄木駅(出口1:団子坂方面)
【定員】 90 名(要予約/自由席)  【参加費】 1000 円(当日受付にて) 
【申込方法】 羽鳥書店(担当:矢吹) メール・電話
   e-mail info@hatorishoten.co.jp  Tel 03-3823-9319(平日10:00 ~ 18:00)
 
 女川第一中学校では、震災後の5月に全校生徒約200 人で俳句づくりを始め、国語教師の佐藤敏郎さんが指導の中心を担いました。俳句づくりは女川中学校になった今も続いています。
 佐藤さんは昨年11月、震災で教職員と児童84人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族らによる「小さな命の意味を考える会」をつくりました。保護者として、そして、生徒たちの命を守る教師として、日々考え、取り組んでいる佐藤さんをお招きして、お話をうかがいます。
 
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当方、早速、14日のトークショーの申し込みを致しました。
 
明日はやはり3.11関連で、銀座・永井画廊さんで開催中の「被災地への祈りのメッセージ展 高村智恵子紙絵展」に行く予定です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月10日

明治7年(1874)の今日、光雲が年季奉公と1年の御礼奉公を終え、独立しました。

昨日から1泊2日で、山形、宮城、岩手と東北3県を歩いてきました。
 
今回は博物館、文学館、美術館を5ヶ所廻って参りました。我ながらすごいと思いました(笑)。
 
昨日は山形市最上義光歴史館さん、仙台市立博物館さん。今日は岩手紫波町の野村胡堂あらえびす記念館さん、盛岡市の盛岡てがみ館さん、同じく盛岡市の深沢紅子野の花美術館さん
 
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いろいろと新発見等があり、有意義な2日間でした。
 
例によって明日以降詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月9日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光雲が仏師高村東雲に弟子入りする話がまとまりました。

初め、大工に弟子入りするはずが、髪を整えに行った町内の床屋さんの紹介で、急遽そういうことになりました。歴史に「たられば」は禁物ですが、もしそれか無かったら、と考えると、ある意味ぞっとします。

東京から企画展の情報です。
 
 
期 日 : 2014年3月21日(金・祝)- 4月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 展示室1
時 間 : 
午前10時 - 午後5時 4月11日(金)は午後8時まで
休 館 : 毎週月曜日
料 金 : 一般300(250)円 高校・大学生100(50)円(中学生以下は無料)
 
     ( )は20名以上の団体料金

東京藝術大学のコレクションは、前身である東京美術学校の開校に先立って開始された芸術作品・ 資料の収集にはじまります。以来125 年余り、収集された作品は28500 件以上、教育資料として古今の優品や貴重な資料が収集されただけでなく、本学に学び、また教えた歴代の学生と教員たちによっても多くの作品が残されています。

東京藝術大学大学美術館では、この多彩なコレクションを広く展観する機会として、毎年春にコレ クション展を開催しています。本年は、特に絵画作品に光をあてて、皆様のお目にかけます。上代絵 画の名品≪過去現在絵因果経≫[国宝]から、2013 年度新収蔵品の高村光雲作≪鷹(寿老)≫まで、 バリエーション豊かな藝大コレクションをお楽しみください。
 
東京藝術大学は、前身である東京美術学校の時代から、120年以上の長きにわたって古今東西の芸術資料・作品の収集につとめてきました。28,500件以上の多様なコレクションはその成果であり、藝大の歩みを映し出すものです。本展覧会では春の名品選と題して、藝大コレクションを代表する作品を展示、その豊かな魅力をお伝えします。また特集展示として、二つのテーマを設けて近世・近代の絵画をご紹介します。

特集展示1 女性を描く/ヌードと出会う
特集展示2 近世の山水/近代の風景 ―富士山図を中心に― 

 
というわけで、光雲の作品が展示されます。《鷹(寿老)》という作品、調べてみましたがよくわかりません。同館のサイトには収蔵品のデータベースがあるのですが、ヒットしませんでした。「2013年度新収品」とあるので、まだアップされていないのかもしれません。

時間を見つけて観に行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月8日

大正9年(1920)の今日、『続ロダンの言葉』の翻訳が完了しました。
 
単行書『続ロダンの言葉』は、この年5月に叢文閣から出版されました。

戦国武将・最上義光(もがみよしあき)を顕彰する最上義光歴史館さん。平成元年(1989)、義光の居城であった出羽山形城の近くに建てられました。
 
その最上義光歴史館さんで、以下の企画展が開催中です。 
 
期 日 : 平成26年1月16日(木)~平成26年4月6日(日)
会 場 : 最上義光歴史館 (山形市大手町1-53) 第一展示室北側展示ケース
時 間 : 午前9時から午後4時30分まで
休 館 : 月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)
料 金 : 無 料

 
公式サイトより
さあさあお立会い!!今年も山形市民の「宝モノ」を紹介します!!
この展覧会は、山形市民を対象に、所蔵する「宝モノ」を募集して、歴史館の展示室に展示し、広く一般に公開する市民参加型の展覧会として企画しました。今年で6回目になります。
宝モノの名前と解説やコメントはすべて出品者にお願いしています!!
自慢の宝モノとそれにまつわる楽しいエピソードをご覧ください!!
 
現在出品中の「宝モノ」たち 件数40件 点数132点 出品者25名 ※宝モノの名称は出品者によります。
「上村松篁画伯干支飾扇」「鞍馬天狗(第1巻~第10巻)」「文政・天保 國郡全圖並大名武鑑」「蔵王高速電鉄(未成線)」「日本遊覧旅行地圖」高村光太郎(詩人・彫刻家)の葉書「縄文土器」「刀剱 脇指(拵付) 丹波守吉道」「刀剱 脇指(拵付) 近江守忠吉」「陸運会社看板」「連歌」「書状 文政年代 嘉永年代」「御手本(嘉永年代)」「集書」「掛軸(堀田備中守像)」「山水図 沈周」「山水図 狩野山楽」「山水図 岡田半江」「山水図 菱田春草」「蓮池図 富岡鉄齋」「壺」「贈答用掛け袱紗」「鶴松・梅・桜それぞれ図」「懐中手信号器」「茶の湯茶碗」「高嶋祥光 木版画」「一期一会」「拓本(中国名山八景)」「風鎮」「読売巨人選手 寄書扇子」「戦後50年メモリアルアルバム シリーズ切手第1~5集のうち 第5集私の選んだ懐かしのスター切手6種及びメロディアルバム(台紙)」「佐藤朝山(号)玄々 軸『仏頭』」「蓄音機2台(大小) SPレコード数枚」「焼き物」「銅製品」「鋳鉄製釣り灯籠」「リモコン怪獣バラゴン」「イコン」「70年前頃の霞城公園南門からの風景(西方向)」「富士山の掛軸」
 
というわけで、光太郎の葉書が展示されているとのこと。『高村光太郎全集』等に未収録の可能性もあると思い、問い合わせてみました。
 
すると、過日、ご丁寧に電話を頂き、光太郎晩年の昭和30年(1955)8月1日付けで、花巻税務署に送った葉書である旨、ご教示いただきました。調べてみましたところ、やはり『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。

また、この日の日記を調べてみると、<第一期納税、中野署へ払ズミ 花巻署へ通知>とありました。まさしくこの花巻署への通知というのが今回展示されているものでしょう。
 
昭和27年(1952)、光太郎は十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、花巻郊外太田村から東京中野に出てきましたが、住民票はそのまま太田村に残していました。そのため税金は太田村に納めていたのですが、もはや健康状態が山での生活を許さず、さらに同29年(1954)には太田村が花巻町などと合併、花巻市となったこともあり、翌30年には中野に転出の手続きをとっています。そのあたりの事情が記されているのでは、と思われます。
 
さて、当方、明後日9日に盛岡てがみ館での企画展「高村光太郎と岩手の人」を観に行くので、明日は山形に寄り、問題の葉書を観てきます。詳しくは帰ってから。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月7日

平成14年(2002)の今日、山梨県増穂町(現・富士川町)の町立文化会館で、「『智恵子抄』を謳う」集いが開催されました。
 
ふじかわ文化倶楽部の主催で、県内若手音楽家が歌と朗読による「智恵子抄」を披露しました。
 
同町高下(たかおり)地区には、昭和17年(1942)、日本文学報国会の企画「日本の母」顕彰のため、光太郎が訪れています。また、それを記念して昭和62年(1987)には、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の短句を刻んだ碑も建立されました。

今日も宮城・女川の話題をお送りします。
 
昨日、高村光太郎文学碑近くの津波で倒れたビル解体に関するニュースについて書く都合上、女川町のホームページを調べたところ、町の広報誌がPDFで出てきました。
 
その中で、このブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立に関しても記述がありました。
 
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いのちの石碑除幕式 千年後の君へ、想い届け

 「千年後の命を守るために」そう刻まれた石碑が姿を現した時、それは生徒たちの〝想い〞がようやく形になった瞬間でした。
 
 震災直後に入学した女川中学校の3年生が、社会科の授業を通じて作り上げた防災プラン。「絆を深める」「高台への避難ルートの確保」「記録を残す」、この3つを机上のアイデアにとどまらせないよう踏みだしたのが、いのちの石碑プロジェクト。
 
 中学生たちは町にある21の浜に石碑を建てるため、多方面で津波対策案を発表しながら募金活動を実施し、約半年で1000万円超に。さらに、その想いを知った山田石販の山田政博氏が石材を寄贈し、11月23日、約300人の関係者が見守る中、1碑目の除幕式が女川中学校で行われました。
 
 当日は、津波対策実行委員会の中心メンバーがこれまでの経緯や石碑に込めた想いを報告。また、流木から作られたTSUNAMIヴァイオリンを使って渋谷由美子さんが「花は咲く」を演奏し、参加者それぞれが千年後の女川の姿に思いを巡らせました。
 
 「子どもたちが〝行動〞することでプロジェクトが動きだし、応援が起き、今日につながりました。
それが大事。この子どもたちの行動に拍手を送りたい。アクションを起こし、動きださなければ変わりません。子どもたちが自らまちの再生へ、そしてこれからの日本を大きく支えてくれると思います」とは須田町長。
 
 高橋校長も「今の3年生は震災の年に入学しました。彼らの素晴らしいところは発信しただけでなく〝行動〞したということ。 10年後、20年後の未来を担うのは彼ら中学生です」とエールを送った後、全国から支援いただいたみなさんに感謝の意を述べました。 
石碑は幅1メートル、高さ2メートルで、その右肩上がりのデザインは復興を目指す女川の姿そのもの。そこに刻まれた生徒たちの真摯な想いが、後世まで末永く届きますように。
 

ぼうさい甲子園でグランプリを獲得

 それぞれの石碑には、生徒たちが震災を詠んだ俳句が各地域で内容を変えて刻まれ、女川中学校の石碑には「夢だけは壊せなかった大震災」が選ばれました。石碑裏面には防災プランが英語、フランス語、中国語にも訳されています。
 
 また、兵庫県・毎日新聞社・(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構が行う「ぼうさい甲子園(1.17防災未来賞)」において、同プロジェクトを進めた女川中学校がグランプリを獲得。表彰式は1月12日に兵庫県公館で行われます。
 
以前にも書きましたが、かつて平成3年(1991)、女川港に高村光太郎文学碑が「100円募金」で建立されたのにあやかって、生徒たちが募金活動を行ったそうです。高村光太郎文学碑建立に尽力した故・貝(佐々木)廣さんの魂が息づいています。
 
さて、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」サイトというがあります。
 
以下、利用ガイドから。
 
2011年3月11日に発生した東日本大震災。
この出来事を記録した、より多くの写真や動画、ウェブページなどを後世に伝えるため、インターネット上の記録を紹介する機能を追加しました。
●目的「東日本大震災 写真保存プロジェクト」(以下「本プロジェクト」)は ・震災前の、美しい日本の記録を保存すること
・未曾有(みぞう)の震災を風化させず、後世に伝えること
・将来の防災研究などに役立てること
を目的とした、非営利目的のプロジェクトです。
●募集内容
次の内容が記録された「写真」をはじめ、「動画」、「ウェブページ」、「ブログ記事」、などを広く募集いたします。
・東日本大震災のありのままの状況
・震災前の、かつての日本のすがた
・復興のようす

正確な資料として後世に役立てるため、「撮影日」「撮影場所」の正しい記載にご協力ください。
 
というわけで、震災前後の被災地の様子を永久に残していこうというプロジェクトです。
 
この趣旨に賛同し、当方も自分で撮影し、このブ001ログでご紹介してきた女川や石巻の様子を投稿しました。
 
その他にも今日現在で6万件超の投稿があります。震災の記憶を風化させないためにも、ご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月6日

昭和22年(1947)の今日、花巻光が太田村山口の光太郎の山小屋を、筑摩書房の編集者・竹之内静雄が訪れました。
 
竹之内と光太郎は戦前からの旧知の仲で、旧交を温めました。この時の様子は光太郎日記に記されている他、昭和61年(1986)の花巻光太郎祭で竹之内が行った記念講演で語られ、竹之内の著書、講談社文芸文庫『先知先哲』に「戦中戦後の高村光太郎」として収められています。

昨日のこのブログでも少し書きましたが、もうすぐ3・11ということで、新聞紙上などでも特集が組まれたりしています。
 
特集というわけではありませんが、光太郎ゆかりの地、女川からのニュースが、昨日の『朝日新聞』さんに載りました。

津波で倒れたビル、解体 宮城・女川

 宮城県女川町で3日、東日本大震災の津波で横倒しになったビルの解体が始まった。ビルが津波で倒れた例は世界でも珍しく、震災遺構として保存をめざす動きもあったが、周辺の復興工事の支障になるため、町は取り壊すことにした。1967年ごろに建てられた4階建ての「女川サプリメント」。ここに住み、健康食品の店を営んでいた千葉進さん(52)の一家6人は、高台に逃れて無事だった。震災の後、妻の郷里の青森県へ引っ越し。撤去については「私は離れていますから」と言葉少なだった。
 女川町には津波で倒壊したビルがほかに2棟残る。町は4階建ての「江島共済会館」は今秋までに撤去し、2階建ての「女川交番」は保存する方向だ。

 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くため女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に女川港に、4基の光太郎文学碑が建てられました。
 
3・11には巨大津波が町を襲い、甚大な被害。街は消滅、女川光太郎の会事務局長として、碑の建立に奔走された貝(佐々木)廣さんも津波に呑まれ、亡くなりました。光太郎碑もあるいは横倒しとなり、あるいは海に流失……。
 
津波で倒れたビルは光太郎碑のすぐ近くです。当方、一昨年昨年と、現地を訪れた際に見てまいりました。三棟あったのですが、そのうちの二棟は撤去されるそうで、一棟めの解体が始まったとのこと。
 
気になったので、女川町の公式サイトから調べてみました。
 
すると、今年1月発行の『広報おながわ』がPDFで見られ、その中に以下の記述がありました。

震災遺構の保存方針 女川サプリメント・江島共済会館は解体 女川交番を保存の方針、活用方法を検討

11月27日、須田善明町長が記者会見を開き、震災遺構の解体・保存に関する本町の方針を表明しました。

震災遺構については、今後の津波被害軽減のための学術的価値や損傷の激しさ、「震災を思いだしたくない」という町民の心情、造成工事スケジュールや財政面など、保存と解体をめぐって総合的に検討してきました。
 
町長は会見で、倒壊した3つの建物について①女川サプリメントは早ければ1月ごろから解体・撤去に着手、②江島共済会館は損傷の度合いが一番高く最終的には撤去するが、大勢の方が関心を持つ施設だけに造成工事の着手時期まで現状を維持、③女川交番は保存の方針で検討中だと述べました。

なお、震災遺構は今後の研究材料となることから、東北大学における3Dモデル化や町におけるレーザー測量等の記録にも努めていく点、また、これらの方針を踏まえて次回定例議会で予算化していく考えなどを示しました。
 
震災遺構の保存方針
女川サプリメント
港湾の復旧工事範囲であり、建物は1月ごろから解体・撤去に着手。
江島共済会館
鷲神浜エリアに位置し、今後盛土の造成工事、道路敷設が必要。最終的には撤去の方向だが、    当該地の造成工事の着手時期まで現状を維持。
女川交番
保存の方針で検討中。当該地の造成工事の着手時期は一番遅いため、何を後世に伝えるか議論   したうえで、保存・活用の方法について検討。
 
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保存されるという女川交番のすぐ隣が貝(佐々木)廣さんのご自宅でした。
 
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一帯は光太郎碑、保存の方向の女川交番も含め、震災メモリアル公園的な形に整備していく計画とのこと。
 
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こうした建物の保存。いろいろ難しい問題も含んでいることと思われます。地元被災者の皆さんには、つらい記憶を呼びさまされる、ある意味負の遺産であるという面があります。しかし、後の世代の人々が防災意識を高く保つために、震災の記憶を風化させないことも大切です。
 
そういう意味では、原爆ドームのある広島の平和記念公園のようなイメージと言っていいかも知れません。
 
明日も女川の話題を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月5日

大正3年(1914)の今日、雑誌『美の廃墟』に詩「道程」が掲載されました。
 
というわけで、今日が「道程」表表100周年です。
 
2/9のこのコーナーにも書きましたが、発表時は102行もある大作でした。それが10月に刊行された詩集『道程』に収録の際に、現在流布している9行の短い形に削られました。
 
  道程
 
どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め
 

先週、千駄木のカフェギャラリー幻さんにて開催中の「谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ」を観てきましたが、そちらに行く前に、駒場の日本近代文学館さんにも足を伸ばしました。例によって調べものです。
 
館内のカウンターに各地の文学館等の企画展チラシ、各種イベント案内等が置かれていますので、4月2日の連翹忌の案内も置かせていただこうと、若干部、置いてきました。
 
ちなみに連翹忌案内はこちら。ご参加お待ちしております。
 
入れ替えに頂いてきたのが下記です。
 
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NPO法人・現代女性文化研究所さんで刊行している『現代女性文化研究所ニュース№37』。1月31日発行でした。
 
同研究所は『読売新聞』の記者で、『青鞜』の関係者―平塚らいてう、尾竹紅吉、伊藤野枝など―を直接知っていた望月百合子の顕彰なども行っているようです。
 
昨年、平凡社さんから刊行された青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』に関し、作家の森まゆみさんの文章が載っていました。智恵子にも言及されています。
 
 
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昨年11月30日、同研究所にて開催された森さんの講演会の内容をまとめたものでした。ご希望の方は、同研究所ホームページより注文できます。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月4日

昭和27年(1952)の今日、十勝沖地震が発生しました。
 
震源地は北海道襟裳岬東方沖約50km、地震の規模を表すマグニチュードは8.2、北海道では震度6を観測しました。厚岸湾が最高で6.5m、青森県八戸市で2mの津波が発生、厚岸郡浜中町の中心部霧多布地区では津波による被害で壊滅、死者は28人にのぼったそうです。
 
光太郎の住む花巻郊外太田村山口の山小屋でも強い揺れを感じたようで、この日の日記に記述があります。
 
三月四日 火 くもり、時々雪、 午前十時過かなりの地震あり、後三陸に津波ありし由(略)夜、コタツ、ラジオ。ニュースをきく。
 
もうすぐ3・11です。新聞等でも関連記事や特集が目立ってきました。明日はその当たりを書いてみます。

東京渋谷にある名画座系の映画館、シネマヴェーラ渋谷さんにて、今週土曜日から「日本のオジサマ 山村聰の世界」という特集が組まれます。

日本のオジサマ 山村聰の世界

俳優にして監督、総理大臣から情けないオジオジサンまで。
山村聰の全貌に迫る!
 
上映予定作品一覧(全18本)
 
 『女優須磨子の恋(16mm)』
 『流星(デジタル)』
 『お国と五平(35mm)』
 『蟹工船(35mm)』
 『黒い潮(16mm)』
 『智恵子抄(35mm)』 3月08日(土) 03月11日(火)
 『夜の蝶(35mm)』
 『穴(35mm)』
 『夜の配役(35mm)』
 『鹿島灘の女(35mm)』
 『闇を横切れ(35mm)』
 『河口(35mm)』
 『背徳のメス(35mm)』
 『家庭の事情(35mm)』
 『河のほとりで(35mm)』
 『からみ合い(35mm)』
 『あの人はいま(35mm)』
 『傷だらけの山河(35mm)』
 
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というわけで、昭和32年(1957)公開の熊谷久虎監督作品「智恵子抄」がラインナップに入っています。山村さんは光太郎役、智恵子役には原節子さんでした。
 
今年1月には、鎌倉の川喜多映画記念館さんで上映されました。その時は「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」というイベントがあって、その中での上映でした。
 
今回のシネマヴェーラ渋谷さんは、山村さんの出演作品の特集です。
 
山村さんというと、当方は子供の頃にテレビで見ていた初期「必殺シリーズ」での殺しの元締め役(「必殺仕掛人」・音羽屋半右衛門、「助け人走る」・清兵衛)のイメージが強いのですが、シネマヴェーラ渋谷さんのラインナップ解説を見ると、本当にいろいろな役柄をなさっていたんだな、という感じです。

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山村さんと光太郎の関連は、映画「智恵子抄」だけではありません。山村さんがまだ若手俳優だった戦前から戦時中、ラジオ放送で何度も光太郎詩の朗読をなさっていました。戦時中には「シンガポール陥落」「山道のをばさん」といった戦意昂揚の詩を朗読しています。他に尾崎喜八や野口米次郎、西条八十、坂本越郎、佐伯郁郎などの戦争詩の朗読もされていました。
 
そういう時代だったので、そのこと自体を云々するつもりはありません。
 
「智恵子抄」が映画化されたのは昭和32年(1957)。その前年には経済企画庁の経済白書「日本経済の成長と近代化」に、有名な「もはや戦後ではない」の語が記されました。そういう時期に、かつてその戦争詩を朗読した光太郎の役を演じられた山村さんの胸中はいかばかりであったのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月3日

昭和21年(1946)の今日、『週刊朝日』に談話筆記「光太郎の言葉」が掲載されました。
 
「老詩人高村光太郎氏が傾倒する『ロダンの言葉』にならって、雪深き岩手なる『光太郎の言葉』を、彼を愛する人々に伝へよう。」という前書きが付されていました。

いわゆる「オマージュ」。
 
光太郎・智恵子の世界も、さまざまな表現者の方が、それぞれの世界で表現してくださっています。ありがたいことです。
 
昨日は東京・千駄木のカフェギャラリー幻さんに行って参りました。こちらでは一昨日から「谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ」が開催されています。
 
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カフェギャラリー幻さんは、千駄木二丁目、不忍通りから谷中方面に一本入った路地にある貸しギャラリー兼カフェで、「文化系喫茶店」と標榜しています。その語感といい、たたずまいといい、いわゆる谷根千の雰囲気に非常にマッチしていました。

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ちなみに不忍通りを反対側の白山方面に入っていくと、高村光太郎記念会事務局兼・北川太一先生のご自宅ですので、この界隈はよく行くのですが、こういうスペースがあるとは存じませんでした。
 
路地裏ですのでそうと知らなければまったくわからないような所ですが、それだけに表通りの喧噪から遮断された一種のエアポケットのような空間でした。
 
中に入ると、適度の広さのスペースに、出品作が並んでいました。
 
胡子 × 夢野久作 『ドグラ・マグラ』006
     胡子 / Coco(写真)
さつかわゆん × 江戸川乱歩 『人間椅子』
    さつかわゆん / Satsukawa Yun(絵画)
皇流那 × 宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』
   皇流那 / Sumeragi Runa(絵画)
高橋まや × 森鴎外 『舞姫』
   高橋まや / Takahashi Maya(絵画)
田島綾 × 内田百閒 『冥途』
   田島綾 / Tajima Aya(写真)
東マユミ × 夏目漱石 『虞美人草』
   東マユミ / Higashi Mayumi(銅版画)
連使 × 幸田露伴 『ねじくり博士』
   連使 / Renshi(立体造形)
 
そして光太郎・智恵子がらみで、
 
emi ogura × 高村光太郎 『智恵子抄』
   emi ogura / エミ オグラ(絵画・写真)
虚狐風雅 × 谷根千の文人たち
   虚狐風雅 / Kogitune Fooga(絵画)
 
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いい感じでした。
 
その後、こちらのオーナーで、イラストレーターもされているという小林義和氏とお話をさせていただき、御好意で4月2日の連翹忌の案内を置かせていただけることになりました。ありがたいことです。
 
会期は3/9(日)まで。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月2日

昭和53年(1978)の今日、日本橋高島屋において「花巻山居七年 高村光太郎展」が開幕しました。

新刊です。

覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻

 2014年1月30日 ブックワークス響発行   中島悠子編   定価 1,400円+税

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詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
 
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
 
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
 
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
 
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
 
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
 
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
 
皆様もぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日

昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
 
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「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。

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