2014年01月

本日も盛岡関連情報です。
 
盛岡市にある盛岡てがみ館さんで、以下の企画展が行われます。
開催期間:2014年2月25日(火)~6月16日(月)
 
彫刻家で詩人の高村光太郎は昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家を頼って疎開し、以後約7年間を花巻で過ごしました。岩手の人と風土をこよなく愛した光太郎は盛岡へも足を運んで講演会を行ったほか、昭和23年(1948)に創設された県立美術工芸学校の運営を援助するなど、岩手の文化発展にも貢献しています。光太郎の岩手における人々との交流と足跡を手紙や原稿を通して紹介します。
 
【開館時間】 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
【休 館 日】  毎月第2火曜日 展示入替のため臨時休館有
【入 館 料】 個人 一般200円 高校生100円  団体 一般160円 高校生80円 (20人以上)
▼中学生以下、及び65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。
【住  所】 盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階(地図・アクセス方法)
【電話・FAX】019-604-3302
 
 
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関連行事として、こちら。 
 開催日・期間:2014年3月9日(日)
 時間:14:00~15:00
 場所:盛岡てがみ館 展示室
 講師:大塚富夫(IBC岩手放送アナウンサー)
 料金:入館料が必要です。
 お申込み・受付方法:当日、直接当館にお越しください。
 
一通一通の手紙が織り成すストーリー。朗読を通して伝わる人間の心の機微にふれてみませんか?
☆テレビ、ラジオで活躍中のアナウンサー・大塚富夫氏を講師に迎え、著名人の手紙や第43回企画展に関連した高村光太郎の詩などを朗読していただきます。

 
盛岡てがみ館さんは、公益財団法人盛岡市文化振興事業団さんの運営で、公式サイトによれば、
 
盛岡市の中心部を流れる中津川河畔にある当館は、先人の書簡(てがみ)を中心に原稿・日記等を収蔵・調査研究・展示する、全国でもユニークな施設です。
郷土の発展には、先人の生きた知恵を学ぶことが大切だとよく言われています。 盛岡市には盛岡にゆかりのある著名人やその関係者の書簡(てがみ)、原稿、日記、ノート、筆墨など貴重な資料が数多く残されています。
個人のてがみは、執筆者の知られざる素顔をのぞかせながら、その時代の息吹きを鮮やかに伝える第一級の遺産です。これらの文化遺産を守りながら、多くの人たちに公開していくことが、私たちが未来に先人の知恵を手渡していくことになるのではないかと考えます。
  
とのこと。
 
当方、10年近く前に一度お邪魔したことがあります。こちらには『高村光太郎全集』等に収録されなかった光太郎の書簡がけっこうたくさんあり、その情報を提供していただいた関係です。宛先は石川啄木研究者の吉田孤羊、新岩手日報社関連などでした。
 
今回の企画展でも、『高村光太郎全集』等に収録されていない書簡が並ぶことを期待しています。
 
公式サイトから引用させていただいた011上記画像に写っているのは、詩人の故・宮靜枝。岩手県南部・江刺の出身で、昭和26年(1951)秋に、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れています。宮はその時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。
 
上記の写真はその折のもの。これを含め、光太郎が写った写真20葉ほどを収めたアルバムが盛岡市立図書館に寄贈されており、そちらも見たことがあります。
 
光太郎の元にもこれらの写真が送られましたが、光太郎は宮宛の葉書に「写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。」としたためています。
 
光太郎から宮宛の書簡は、『高村光太郎全集』に2通収録されており、今回も並ぶのではないかと思われます。
 
ちなみに宮が訪れた時、裁縫は得意でなかった光太郎、宮に遠慮がちにお願いしてカーテンを縫ってもらっています。ほほえましい交流ですね。
 
この企画展が開催されると知り、こちらから、岩手の公共施設等に収蔵されている光太郎書簡の情報を提供しました。先日、返答を戴き、それらの一部を展示する方向で考えているとのこと。少しはお役に立てたかなと想っております。
 
 当方、3月9日の関連行事に合わせて行ってみようと思っています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月31日

平成9年(1997)の今日、二元社から『智恵子その愛と美』が刊行されました。
 
智恵子の紙絵と文章、光太郎の詩文、自筆詩稿から採った文字で構成された美しい本です。
 
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気がつけば1月も明日で終わりです。そこで、来月行われるイベントをご紹介します。 
 
岩手は盛岡での演劇公演です。

宮沢賢治没後80年記念事業・畑中美耶子『モリーオ童話館』100回記念事業 第12回おでってリージョナル劇場  「泣きビッチョ光太郎」~昭和21年の星めぐり~

作:上田次郎 演出:坂田裕一、中村一二三 作曲:田口友善  
      
~あらすじ~      
時代は、昭和20年戦争末期から戦後。宮沢家に疎開していた高村光太郎を中心に、賢治を慕う大勢の人々が、「雨ニモマケズ」の教科書改ざん騒動を足がかりに、歌あり踊りありのドタバタな楽しい舞台を繰り広げる。      
      
【会 期】 平成26年2月21日(金)~平成26年2月23日(日) ◆4回公演      
                ①2/21(金)開場18:30 開演19:00
                ②2/22(土)開場13:30 開演14:00
                ③2/22(土)開場18:00 開演18:30
                ④2/23(日)開場13:30 開演14:00      
【会 場】 プラザおでって 3階おでってホール (盛岡市中ノ橋通1-1-10)
【入場料】 (前売)大人1,500円 大学生以下1,000円
        (当日)大人1,800円 大学生以下1,300円 (期日指定・全席自由)
【主 催】 盛岡市・公益財団法人盛岡観光コンベンション協会      
【提 携】 いわてアートサポートセンター      
【後 援】 岩手日報社、NHK盛岡放送局、IBC岩手放送、テレビ岩手、めんこいテレビ、 
      岩手朝日テレビ、エフエム岩手、岩手ケーブルテレビジョン、
      朝日新聞盛岡総局、
毎日新聞盛岡支局、読売新聞盛岡支局、
      産経新聞盛岡支局、盛岡タイムス社、 河北
新報社盛岡総局、岩手日日新聞社、
      ラヂオもりおか、月刊アキュート、 マ・シェリ、
情報誌游悠      
【プレイガイド】 プラザおでって、盛岡市民文化ホール、 盛岡劇場、都南文化会館、
         カワトク      
【お問い合わせ】 (公財)盛岡観光コンベンション協会 企画管理部 019-604-3300
 
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「泣きビッチョ」とは「泣き虫」といった意味でしょうか。
 
主演? の畑中美耶子さんという方は、盛岡で宮澤賢治作品の朗読等に取り組まれている方です。
 
明日詳しく紹介しますが、同じプラザおでって内の「盛岡てがみ館」さんでは、25日から「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が開催されます。日程が重なっていればgoodだったのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月30日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から「光雲懐古談」が刊行されました。
 
光太郎の父・光雲が語った自己の半生、同時代の美術界の様相などをまとめたものです。
 
前半は「昔ばなし」。後書きによれば、大正11年(1922)に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したとあります。
 
後半は「想華篇」。やはり光雲が、美術界の社交機関「国華倶楽部」で語った内容や、雑誌に発表された談話などの集成です。
 
前半の「昔ばなし」の部分のみ、その後何度も版を改めて刊行されています。
 
オリジナル萬里閣書房版の題字は光太郎、装幀は豊周。幕末から明治にかけての、当時の美術界の様子や、それにとどまらず、世相、江戸の街の様子などなど、多岐にわたる内容で、非常に貴重な回想です。また、光雲の軽妙洒脱な語り口も優れています。
 
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さて、前半の「昔ばなし」編。先述のとおり、後書きによれば、大正11年に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光雲の懐古談を聞き、それを筆録したとのこと。他に同席者は居なかったそうです。
 
その後再刊された各種の版についている解説等、すべてこれを鵜呑みにしていますが、どうも事実とは異なる部分があるようです。
 
『光雲懐古談』にさかのぼる昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍があります。「同好史談会」という団体の編纂ということになっていますが、中心は市島春城。春城による「はしがき」には以下のような記述があります。
 
 吾等は近年十数の同人と同好史談会と云ふを設け、折々会して維新当時の事につき互ひに知ることを語り合ひ、往々他から故老を招待してその談話を聴き、時には会員を諸方に派して故老の談話を筆記せしめたりして、其筆記が今は漸く積んで堆を為すに至つた。(略)春陽堂主人聞きつけてぜひ出版せよと勧めらるゝので、先づ明治十年頃までのものを選んで刊行することにした。
 
この『漫談明治初年』の中に、光雲の談話筆録も多数収録されているのですが、『光雲懐古談』の昔話と重複しています。部分によっては「国醇会講話」という説明も見えます。「国醇会」とは日蓮宗の運動家・田中智学を中心とする会でした。
 
光太郎アトリエや光雲邸で、田村と光太郎のみが聴いたはずの談話と、一字一句違わない談話が2年前に刊行された『漫談明治初年』に載っており、しかもそれが国醇会で語ったという説明がある。どう考えても矛盾していますね。
 
田村が光雲の懐古談を聞いて筆録したのはおそらく事実でしょう。しかし、刊行にあたって、田村が聴いた以外の談話も使用されていると考えるのが自然だと思います。あるいは『漫談明治初年』に収録されているのとほぼ同じ内容の話を聴いた田村が、それなら『漫談明治初年』に書かれている部分をそっくり引用してしまえ、と考えたのかも知れません。
 
または田村も「同好史談会」の構成員で、光雲に話を聴くのは会の事業だったのかもしれません。
 
いずれにせよ、「『光雲懐古談』の「昔ばなし」編は、田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したものである」と断言するのは危険ですのでよろしくお願いします。

こんなものを手に入れました。
 
『日曜美術館新聞』新春特別号。A2判二つ折り、全4頁です。
 
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NHKEテレさんで、日曜日の朝(本放送)と夜(再放送)に放映されている「日曜美術館」のPR誌のようです。
 
同番組では昨秋、「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」と題し、光太郎をメインで取り上げて下さいまして、当方もアドバイザーとして参加させていただきました。
 
最近も、1/19の放映で東京美術学校で光太郎と同級生だった藤田嗣治を取り上げて下さっています。
 
で、『日曜美術館新聞』。この中で、現在東京国立博物館で開催中の「人間国宝展-生み出された美、伝えゆくわざ-」が大きく取り上げられています。
 
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曰く、
 
工芸は時代に合わせて、伝統的な技の上に創作性や個性的なデザインが加わり、変化し広く受け入れられてきた。作家の創意工夫によって多様化した日本の工芸。“クラフト”でなく、世界に誇る日本の“コーゲイ”の奥行き有る美しさを再発見し、伝統の枠組みを超え未来へ託される可能性を展望する機会となるにちがいない。
 
まさしくその通りですね。
 
以前にも書きましたが、同展では光太郎の弟で鋳金家の高村豊周、その弟子で光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を手がけた斎藤明の作品も展示されています。
 
会期は来月23日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月29日

明治44年(1911)の今日、智恵子の祖父・長沼次助が歿しました。
 
次助は新潟県南蒲原郡田上町の出身。郷里に妻子を残し、杜氏として二本松に来ていた際に、智恵子祖母の安斉ノシと所帯を持ち、長沼酒造を興しました。智恵子の母・センはノシの連れ子。したがって智恵子と次助に血のつながりはありません。それでも次助は智恵子をかわいがってくれたそうです。
 
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前列左端が次助、その後ろが智恵子。明治41年頃、長沼家の庭で撮られた一枚です。

一昨日、茨城県笠間市に、映画「天心」を見に行くと共に、日動美術館さんにも行って参りました。
 
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こちらは銀座の日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により創設された美術館で、光太郎の作品は収蔵されていないようですが、彫刻や絵画で、光太郎と深い交流のあった作家の作品がたくさん並んでいます。
 
一度は行ってみようと思いつつなかなか果たせず、一昨日、初めて行ってみました。
 
正面入り口を入ると右手に「パレット館」。名だたる画家達が愛用したパレット、さらにパレットに絵を描いたものが展示されています。
 
左手が「フランス館」。こちらに光太郎と親交のあった画家たちの作品が展示されています。具体的には岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、梅原龍三郎、安井曾太郎などなど。それらが並ぶ1階の展示室は「長谷川仁・林子記念室」という名前になっていますが、その室名を書いた扁額は草野心平の揮毫でした。意外なところで意外な人の名を目にしました。
 
2階展示室は、フランス印象派系の作品など。こちらも光太郎が評論で取り上げたり、知遇を得たりしていた作家の作品が多く並んでいました。ルノワール、ドガ、セザンヌ、モネ、マチス、ピカソ……。
 
やはり本物は違いますね。収蔵作品は3,000点ほどだそうで、展示替えもあり、下のパンフレットにある高橋由一「鮭」などは見られませんでした。
 
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「フランス館」入り口あたりから、奥の「野外彫刻庭園」にかけて、やはり光太郎と親交のあった彫刻家の作品もたくさん並んでいました。佐藤忠良、舟越保武、本郷新、菊池一夫などなど。
 
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これで、屋内展示でもいいので、何かしら光太郎の作品があればいうことなしです。
 
「野外彫刻庭園」を通り抜けると、「企画展示館」です。「世界文化遺産登録記念 東海道五十三次と富士山写真展」が開催中でした。富士河口湖町立河口湖美術館さんとのコラボ企画で、広重の「東海道五十三次」、そして公募入選の富士山の写真がずらっと並んでいます。富士山と、それを取り巻く四季折々の自然。やはり日本人の魂をゆさぶる風景ですね。 
 
同館には、徒歩20分くらいのところに「春風萬里荘」という別館がありますが、こちらには行きませんでした(映画「天心」を観る都合がありましたので)。こちらは陶芸家の北大路魯山人の旧居を移築したものだそうで、茅葺き入母屋造りの重厚な建築だそうです。
 
魯山人は光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれ。今のところ、二人の間に直接のつながりは見いだせていませんが、どこかしらで接点はあったのではないかと想像しています。ちなみに「春風萬里荘」にも心平の書が展示されているそうです。また折を見て、こちらにも行ってみたいと思っています。
 
というわけで、日動美術館。都会の喧噪を離れた雰囲気も非常に好ましいと感じました。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月28日

昭和9年(1934)の今日、草野心平により『宮澤賢治追悼』が刊行されました。
 
光太郎は「コスモスの所持者宮澤賢治」を寄稿しています。歿後間もなく、まだ一般にはほとんどその存在を知られていなかった賢治に対し、光太郎は以下のように語りました。
 
内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する 。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。

昨日は、茨城は笠間に行って参りました。笠間といえば茨城県の中央部、笠間稲荷神社と陶芸の笠間焼で有名な街です。
 
一番の目的は映画鑑賞でした。他にも日動美術館というところに行って参りましたが、そちらは明日書きます。
 
当方が観てきた映画は、昨年、岡倉天心を主人公として製作され、全国各地で順次公開されている「天心」という映画です。ただ、大手配給会社によるものではないので、どこでも観られるわけではなく、当方生活圏内では公開されていません。昨年のうちに都内か横浜あたりで観ようと思っていたのですが、なかなか日程が合わず、昨日になってしまいました。
 
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岡倉天心といえば、明治新政府の文明開化政策の一環としての廃仏毀釈、西洋化による日本伝統文化の衰退を憂い、アーネスト・フェノロサともども仏教美術の保存に尽力した人物です。また、東京美術学校開設に奔走し、光雲を美校に招聘したほか、光太郎在学中には校長も務めていました。
 
昨年、福島二本松「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’13」で講師を務めさせていただき、その辺りに関して講義をいたしましたので、ぜひ観たいと思っておりました。
 
天心は美校辞職(罷免)後、日本美術院を創立、日本伝統美術の保護とさらなる進化に取り組みます。しかし、天心とその薫陶を受けた画家たち―横山大観ら―の新しい試みは「朦朧体」と揶揄されなかなか受け入れられず、現在の北茨城市五浦(いづら)に「都落ち」し、苦闘の日々を送りました。
 
その天心を主人公とした映画、というわけです。公式サイトはこちら
 
キャストは天心役が竹中直人さん、横山大観に中村獅童さん、菱田春草の平山浩行さん、下村観山で木下ほうかさん、木村武山を橋本一郎さん、狩野芳崖には温水洋一さんなど。
 
美術学校時代のシーンで、光太郎や光雲が登場するかと期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでした。美校時代のエピソードは少なく、五浦に移ってからの苦闘の日々がメインだったので、いたしかたありません。
 
ところでこの映画、「復興支援映画」と謳っています。東日本大震災では、天心が建てた五浦の六角堂が津波に呑まれてしまうなど、茨城県にもかなりの被害がありました。同作品公式サイト内には以下の記述があります。
 
本作品は、明治にあって日本の美を「再発見」し、新しい美を生み出そうと苦闘する天心と 若き画家たち - 横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山 - らとの葛藤と師弟愛をテーマとして描くべく、今から3年ほど前に企画がスタートいたしました。
 
そして忘れもしない 2011年3月11日14時46分18秒「東日本大震災」が発生。千年に一度とされる大地震と津波は、多くの方々の「家」や「命」を奪い去りました。
 
茨城県でも沿岸部を中心に甚大な被害を受け、天心が思索に耽った北茨城市・五浦海岸の景勝地にある貴重な文化遺産の「六角堂」も流出、海中に消失しました。
 
主なロケ地である茨城県の被災に、本作品も一時は映画化を危ぶまれましたが、一日も早い 復興を願う県内の行政・大学・企業・美術界・市民団体などで構成される「天心」映画実行委員会 が発足し、本作品映画化のプロジェクトが再始動いたしました。
 
2013年には生誕150年・没後100年を迎える岡倉天心が終生愛した茨城の美しい自然を織り込んだ 映画「天心」は、茨城を日本をそして世界を「元気」にすることをめざします。
 
そんなわけで、渡辺裕之さん(九鬼隆一)、本田博太郎さん(船頭)、キタキマユさん(菱田春草の妻)など、茨城出身の俳優さんが多く出演なさっています。他には神楽坂恵さん、石黒賢さんなどなど。

当方が観に行ったのは、笠間市のショッピングセンター内の「ポレポレホール」。笠間は木村武山の故郷です。現在、関東で公開されているのはここだけのようで、ロビーには映画で実際に使われた小道具類が並んでいました。
 
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忘れ去られつつある伝統を継承しつつ、さらに新しい美を生み出そうと苦闘する登場人物たちの描写には感銘を受けました。特に肺を病んでの病床で「仁王捉鬼図」「悲母観音」を描き続けた狩野芳崖、失明の不安を抱え、さらに生活の困窮にさらされながら「賢首菩薩」の制作に取り組んだ菱田春草のエピソード。それぞれを演じた温水洋一さん、平山浩行さんの鬼気迫る演技は白眉でした。
 
そういう意味では光雲や光太郎も苦闘の時代が長く、相通じるものがあるように思いました。
 
少し不満だったのは、春草の「黒き猫」や「落葉」といった当方の大好きな作品が扱われなかったこと、それからなぜか天心の盟友として日本美術院創設に関わり、春草や大観の直接の師だった橋本雅邦がまったく登場しなかったこと。まぁ、いろいろ権利の問題等も絡むのかも知れませんが。
 
映画「天心」、大規模ではありませんが、全国で公開が続きます。ぜひご覧下さい。
 
明日は同じ笠間の日動美術館をレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月27日

昭和27年(1952)の今日、『毎日新聞』で評論「日本詩歌の特質」の連載が始まりました。

最近放映されたテレビ番組のレポートを書きます。
 
まずはBS朝日さんで1/21(火)にオンエアされた「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」。

 
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作家の島田雅彦氏が、光太郎と親交の深かった蛙の詩人・草野心平のゆかりの地を歩きました。心平の故郷・福島県いわき市小川地区、そしてモリアオガエルが縁で心平が愛した地・川内村。
 
川内村では、同村商工会長にして、天山・心平の会代表の井出茂氏が島田氏を御案内なさっていました。モリアオガエル生息地の平伏(へぶす)沼や、村人が心平のために建ててあげたという天山文庫、そして草野心平を偲ぶ集い「かえる忌」の会場となっている、井出氏が営む小松屋旅館さん。
 
その囲炉裏端で、井出氏が語られた、原発事故による全村避難を思い出して語られた言葉には、ぐっときました。村境の峠から川内村を振り返り、涙が止まらなかったというお話、「無くなっていい場所、無くなっていい故郷なんてどこにもない」というお言葉……。重たいものがありました。
 
それから、放映を見るまでまったく知らなかったのですが、昨秋の「かえる忌」の様子も映りました。テレビカメラが入っていたのには気づいていましたが、てっきり福島のローカルニュースか何かだと思っていました。当方の姿も約20秒。自分の姿をテレビ画面で見るというのは妙な気分ですね。それも映ると知らなかったのでなおさらです。


続いて、昨夜9時からBS-TBSさんで放映された「日本の名峰・絶景探訪 #32 雪煙舞う厳冬の安達太良山」。

 
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番組冒頭近く、俳優・津嘉山正種さん(やはり福島を舞台にした昨年の大河ドラマ「八重の桜」で会津藩家老・神保内蔵助役)による「安達太良連峰。その山の上に広がる空は、一つの詩によって、多くの日本人の心に刻みこまれた。」というナレーションのあと、「あどけない話」の後半部分が朗読され、智恵子生家裏の鞍石山に建つ「樹下の二人」詩碑から、ナビゲーター役の女優・春馬ゆかりさんのレポートがありました。
 
この番組は登山系の番組なので、そのあとは最後まで春馬さんの登山の様子のレポートでした。
 
昨秋、NHKさんで放映された「小さな旅 シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」では、やはり「智恵子抄」にからめ、錦秋の安達太良山が紹介されました。
 
今回は厳冬期。アイゼンを付けなければ登れないとか、樹氷ができていたりとか、同じ山でも季節が変わるとここまで違うのか、という感じでした。それが日本という国の良さでもありますね。
 


さらに連続して10時から、地上波テレビ東京さんの「美の巨人たち 荻原碌山(守衛)『女』」。

 
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実はこの放送があるというのは、朝、新聞のテレビ欄を見るまで気がついていませんでした。この番組はほぼ毎週欠かさず見ており、次週の内容を知らない、ということは滅多になかったのですが、たまたま先週の土曜日はテレビ東京系の局がない岩手県に逗留していたため、そうなったわけです。したがって、このブログで事前に紹介出来ませんでした。すみません。しかし、テレビ東京系BSジャパンさんで2/19(水)に再放送されますので、見逃した方はそちらをご覧下さい。
 
この番組、毎回、作品の紹介・解説の部分と、作品にまつわるミニドラマの部分が交互に進む構成になっています。紹介・解説の部分では、連翹忌ご常連の碌山美術館学芸員・武井敏氏がご登場。これも事前に知らされていなかったので、驚きました。そしてミニドラマの部分は「親友 故人荻原を偲ぶ」という題で、光太郎と戸張孤雁、そして相馬良(黒光)が、守衛の没後、思い出を語るという構成でした。
 
光太郎役は俳優の大浦龍宇一さん。実は昨秋、大浦さんのブログで「一日だけ高村光太郎さんになってきます。」という記述を見つけ、いろいろ検索したのですが、舞台、映画等の情報も引っかからず、「?」と思っていました。その疑問が氷解しました。オンエア情報も。
 
相馬良は夫の愛三とともに、新宿に、かの中村屋を開いた人物です。守衛は少年時代から良に惹かれ、しかし相手は人妻。その苦悶が彫刻「女」に表されているというのが通説です。そのあたりを武井氏は実にうまく解説されていました。また、光太郎は良に対していい感情を持っておらず、ある意味、守衛の夭折は良のせいだと考えていたふしがあります。ミニドラマでは、そのあたりの光太郎の複雑な思いもよく表現されていました。光太郎は写真を撮られるのが好きではなかった、という小ネタも「そのとおり」、という感じでよく調べているな、と感心しました。
 
先述の通り、BSジャパンさんで2/19(水)に再放送されますので、見逃した方はそちらをご覧下さい。22:54~のオンエアです。
 
短い間に光太郎に関わる番組がたくさん放映され、有難い限りです。もっともっと増えてほしいものですが。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月26日

大正15年(1926)の今日、築地小劇場で上演されていた、ロマンロラン作・片山敏彦訳の演劇「愛と死の戯れ」が千秋楽を迎えました。
 
初日は同月20日。公演期間中、毎日、光太郎を含む十人の講演者が、毎日二名ずつ交代で講演をしたそうです。

群馬発のイベント情報です。 

写真展「昭和初期の赤城山を見る」

(1)主催:中部行政事務所、NPO法人赤城自然塾
(2)写真提供:小竹 恵美子 氏
(3)写真監修:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)協力:前橋市
(5)内容:
志賀直哉、高村光太郎らと交流があり、日本スキー界の草分けとして知られる猪谷六合雄(息子は日本人初の冬季オリンピックメダリストとなった猪谷千春氏)の孫である小竹恵美子氏のもとから、昭和5年(1930年)から昭和8年(1933年)の赤城山の写真が発見されました。これらの写真95枚を拡大して展示します。
(6)観覧料:無料
(7)会場、開催日など
  ●赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
   開催日:2月1日(土)~2月7日(金) ※2月3日(月)休館
    時間:9:00~15:00
     ※2月1日(土)12:45~13:00は「ぐんまちゃん」がやってきます。
   ●群馬県前橋合同庁舎1Fロビー(前橋市上細井町2142-1)
    開催日:2月12日(水)~3月7日(金) ※土、日曜日閉庁
     時間:8:30~17:15
               ※2月12日(水)は13:00から。3月7日(金)は13:00まで
   ●前橋プラザ元気21 3F 中央公民館ホワイエ(前橋市本町二丁目12-1)
     開催日:3月10日(月)~3月17日(月) ※休館日なし
   時 間:9:00~22:00
               ※3月10日(月)は13:00から。3月17日(金)は13:00まで
(8)写真説明会
  日時:2月1日(土)13:00~  (「赤城山雪まつり」の開催日)
  会場:赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
  内容:写真監修者で上毛新聞社刊「なるほど赤城学」の著者・栗原久氏による写真説明会
  料金:無料  ※事前の申し込みは不要です。直接会場にお越しください。
 
2 写真展を記念した講演会「赤城山の魅力を探る」
(1)日時:2月13日(木)13:30~15:00 (※前橋合同庁舎で写真展も開催)
(2)会場:前橋合同庁舎6F大会議室(前橋市上細井町2142-1)
(3)講師:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)内容:
    赤城山の歴史、文化など意外と知られていない赤城山のいろいろについて、「なるほ
    ど赤城学」の著者が語ります。(※中部県民局県政懇談会の中で実施)
(5)参加料:無料
(6)定員:100名(先着順)
(7)参加方法:事前の申込みが必要です。
   開催日前日までにFAXで代表者氏名、電話番号、参
加人数をお伝えください。
   (様式はありません。)
 
3 問合せ、申し込み先  中部県民局中部行政事務所 
             電話:027-231-2765  FAX:027-234-9333
 
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光太郎の父・光雲は赤城神社を産土神として信仰しており、その影響で、光雲ともども光太郎自身も赤城山に何度も足を運んでいます。また、光太郎は赤城を舞台にした連作短歌「毒うつぎ」(明治38年=1905)なども書いています。
 
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こちらは昭和6年(1931)、赤城神社で撮られた光雲と光太郎です。
 
さらにその影響もあって、光太郎の朋友・水野葉舟や、与謝野鉄幹をはじめとする新詩社の同人も光太郎を案内役に、赤城に逗留しました。そうした際にこ光太郎らが定宿としたのが、猪谷(いがや)旅館、猪谷六合雄の実家です。光太郎や葉舟と、六合雄の姉・ちよとの間には、そこはかとないロマンスがあったとかなかったとか。
 
六合雄と光太郎も親しく交わり(光太郎の方が7歳年上)、明治37年(1904)に光太郎が猪谷旅館に逗留した折に描かれたスケッチ『赤城画帖』(昭和31年=1956、龍星閣より上梓)の解説を、六合雄が執筆したりしています。
 
その六合雄旧蔵と思われる95枚の写真が展示されるとのことで、ちょうど光太郎が足しげく通っていた当時の赤城山のものですね。当時とは赤城神社の位置が変わっていたりするので、貴重なものだと思われます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
ちなみに当方も、同じ頃、猪谷旅館が発行した絵葉書セットなどを持っています。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月25日

昭和57年(1982)の今日、日本経済新聞社からバーナード・リーチ著『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳)が刊行されました。
 
リーチはイギリス留学中の光太郎とロンドンで知り合い、元々持っていた日本熱が更に昂じて来日し、陶芸家となります。本書には、光太郎に関する回想も書かれています。

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東北レポート最終回です。
 
1/19(日)、花巻を後にして、東北本線でさらに北に向かいました。次なる目的地は岩手郡岩手町。盛岡よりさらに北、青森との県境に近い地域です。
 
昨秋、その岩手町の川口公民館に、光太郎自筆の看板が2枚あるという情報を得まして、見に行ったわけです。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
また、同じく4月29日には
 
川口村立図書館、川口村公民館を板に揮毫、
 
の記述があり、同じく5月10日の日記は以下の通りです。
 
川口村の帷子氏看板2枚受け取りに来る、川魚クキ20尾程ヒエ一升もらふ。
 
ちなみに川口村は昭和30年(1955)には合併で岩手町となっています。
 
盛岡で第3セクターのIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、岩手川口駅を目指しました。途中、「渋民」という駅がありましたが、こちらは石川啄木の故郷です。
 
午前10時30頃、岩手川口駅に到着、そこから川口公民館まで歩きました。空は晴れていましたが、雪がちらついていました。
 
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あらかじめお伺いすることを伝えてありましたので、職員の方が待っていて下さいました。早速、木箱に収められた2枚の看板を出していただきました。
 
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上の2枚が「川口村公民館」、下006の2枚が「川口村立図書館」。墨で書かれたものですが、残念ながら、どちらも文字はほとんど読めなくなっていました。
 
裏面の碑陰記的なものは裏面なので墨痕鮮やかに残っていました。ただし、こちらは光太郎の筆跡ではありません。
 
実際に看板として屋外に掲げられ、風雨や雪に晒され続けたため、文字が薄くなってしまったのでしょう。最初の段階で墨ではなく油性の塗料で書くとか、透明なニスなどでのコーティングでもされていればこうはならなかったのだと思いますが、昭和27年当時ではそれも望むべくもなかったのでしょう。
 
しかし、実用されたた結果、文字が薄れたことについては、泉下の光太郎もかえって喜んでいるのではないかと思います。
 
逆に、文字が薄くなったからといって、誰かが上からなぞって濃くするというような乱暴な処置がされていないのは幸いでした。
 
ところで現在、同公民館の玄関には、下の画像の看板が掲げられています。こちらも結構年期が入っています。どうも書体の特徴から、もともとの光太郎の筆跡から「村」を除いて写し取ったもののように思われます。

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「関連する資料があればコピーをいただきたい」と、事前にお伝えしておいたため、2枚の看板を紹介する『岩手日報』さんの記事、公民館移転の際の行事に盛り込まれた故・帷子敏雄氏の談話筆録、昭和30年代に当時の公民館長が書き残した覚え書きなどをいただきました。有り難いかぎりです。
 
さらに、これが最も驚いたのですが、光太郎から帷子氏宛の自筆葉書のコピーもいただきました。4月29日付けで、揮毫が終わった旨の報告でした。『高村光太郎全集』等に未掲載のもので、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(今春発行のものには間に合いません)、当方刊行の『光太郎資料』にてご紹介します。
 
そしてこれも驚きましたが、たまたま公民館に帷子氏のご子息がいらしていましたので、お話を聴くことも出来ました。いただいた資料と合わせ、当時の経緯がよく分かりました。それによると、村の若者が集まっての炉端談義の中で、公民館、図書館の看板を立派なものにしようという提案が出、一流の文化人に書いてもらおうということになったそうです。そして同じ岩手県内に住んでいた光太郎に白羽の矢が立ち、花巻出身の村内教育委員の親類筋のつてで依頼したとのこと。こちらの経緯なども「光太郎遺珠」、『光太郎資料』にて詳述します。
 
かくて予定していた目的は全て終了。岩手川口駅の隣、いわて沼宮内から東北新幹線で帰りました。
 
1泊2日の東北紀行でしたが、いつにもまして実り多い調査行でした。今回も行く先々でいろいろな方々のお世話になり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月24日

昭和16年(1941)の今日、有楽町産業組合中央会間で開催された「講演と朗読-愛国詩の夕」で「詩人の魂」と題して講演を行いました。

東北レポート4回目になります。もうしばらくおつきあい下さい。
 
1/19(日)、花巻南温泉峡鉛温泉藤三旅館をあとにし、タクシーで太田地区に向かいました。目指すは光太郎が7年間暮らした山小屋「高村山荘」、そしてすぐ近くに建つ「高村光太郎記念館」です。この区間はタクシーを利用せざるを得ません。
 
以前は冬期間閉鎖でしたので、当方、この時期に行ったことはありませんでした。それが、記念館の方は昨年5月のリニューアルオープンを機に花巻市営となり、他の市営施設同様、通年開館となったので、雪に埋もれる様子を実際に観て、光太郎のいた冬を実感してみようと考えた次第です。
 
鉛温泉からタクシーで約20分、現地に着きました。やはり一面の銀世界です。
 
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記念館が開くのは午前8時30分。まだ少し間があるので、先に高村山荘を目指しました。駐車場から歩くこと数百㍍、途中までは道らしき形になっていましたが、あと百㍍くらいのところで、道は山荘の方から外れた山の上に向かっていました。後で聞いたところでは、道的なものはロスカントリースキーの練習コースだそうです。しかたなく、道から外れ、ほとんど道なき道を山荘に向かいました。地面の積雪は1㍍くらいでしょうか。晴れていたのが幸いで、吹雪いている時などはまず歩けないところです。
 
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奥の白い建物が山荘。ただし中尊寺金色堂のように、套屋(とうおく)というカバーの建物が二重にかぶせてあり、その外側の第二套屋です。通常は第二套屋の中に入って、第一套屋のガラス越しに山荘を見る形になります。しかし、この時期は錠をあけていないとのこと。ここに至るまでの雪かきが事実上不可能だからだそうです。ただ、記念館の方で頼めば開けてくれないでもないそうです。また、記念館で長靴を貸して下さるとのこと。
 
手前の小さな建物は、便所として光太郎が使用していたもの。草野心平の命名で「月光殿」というしゃれた名が付いています。こちらにもトタン板の簡素な套屋がついています。
 
さらに近づいてみるとこんな感じです。
 
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 月光殿の方は、ガラス越しに光太郎が彫った明かり取りのための「光」一字が見えます。
 
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「ミニかまくら」というか「雪見だいふく」というか、この丸いのは灌木です。
 
山荘の前を通り過ぎ、南西方向から撮ったショットがこちら。
 
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この套屋のないむき出しの山小屋で、光太郎は7回も冬を越したわけです。当時(今も)、一番近い民家まで数百㍍。日記を読むと、冬場には誰一人訪ねてこない日も珍しくありませんでした。どんな思いでここに住み続けたのか、その思いに少しでも近づけたら、と考えています。
 
ここからさらに奥に、光太郎の「雪白く積めり」石碑、佐藤隆房博士顕彰碑、智恵子抄泉、智恵子展望台などがあるのですが、さすがにそちらまで行くのは断念しました。遭難しかねません。
 
そろそろ記念館の開館時間なので、そちらに向かうと、女性職員の方が駐車場からの道の雪かきをなさっていました。さらに記念館のすぐ近くでは、小型除雪車が雪を吹き飛ばしています。と、運転していた方が当方に気づいて「や、どうも」と言いつつ降りてきました。何と、㈶高村記念会の高橋卓也氏でした。当方がうかがうことは事前に連絡してあったので、待っていてくださったわけです。
 
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二人で中に入り、現状をうかがいました。とりあえず来館者は毎日いるとのこと。「ワンコインタクシー」なるものが運行されていて、それを利用する方がけっこういらっしゃるそうです。
 
「ワンコインタクシー」。半日で一人500円とのこと。東北新幹線の新花巻駅を午後1:05に出発し、宮澤賢治記念館→花巻新渡戸記念館→高村光太郎記念館→花巻温泉郷→花巻空港→新花巻駅というコースで、最後は在来東北本線花巻駅に18:00着だそうです。
 
これで500円は確かに安すぎですね(各施設の入館料は別ですが)。しかも宿までいけてしまうというのも便利だと思います。「花巻温泉郷」というのは、鉛温泉や大沢温泉などを含む「南花巻温泉峡」とはまた別の、高級ホテルが並ぶ区域(そちらにも光太郎賢治ゆかりの宿等があります)ですが、南花巻温泉峡もまわるようです。
 
ただし、要予約、さらに基本コースは上記のとおり既定ということです。また、他のコースも設定されています。
 
さて、高村記念館を後にし、待っていていただいたタクシーに再び乗り込んで、在来の花巻駅に向かいました。結局、料金は6,000円ちょっとでした。当方のたどった南花巻温泉峡→高村光太郎記念館→花巻駅というコースを普通にタクシーを利用すると、このくらいはかかってしまいます。逆のコースでも同じでしょう。以前は「高村山荘行」という路線バスがあったのですが、今は廃線になっています。これから行かれる方、ご参考までに。
 
さて、在来の花巻駅から東北本線でさらに北を目指しました。次なる目的地は岩手郡岩手町。そちらはまた明日。
 

 
別件です。俳優の高橋昌也さんの訃報が出ました。
 
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高橋さんは、昭和51年9月、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の「智恵子抄」(北条秀司作)で、光太郎役をなさいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月23日

明治45年(1912)の今日、光太郎が扉の図案を描いた与謝野晶子の歌集『青海波』が刊行されました。
 
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東北レポートの3回目です。
 
1月18日(土)、午前中は福島市での調査、午后には新花巻駅近くの花巻市博物館の企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」を拝見しました。その後新花巻駅に戻り、そこから宿へと向かいました。
 
宿は花巻南温泉峡の鉛温泉藤三(ふじさん)旅館さん。当方、花巻での定宿は、同じ花巻南温泉峡の、光太郎、そして宮澤賢治ゆかりの宿大沢温泉さんですが、今回はそちらが取れませんでした。そこで、大沢温泉さんより少し奥地にある鉛温泉さんに宿を定めました。こちらも光太郎・賢治ゆかりの宿なので一度泊まろうと思っており、ちょうどよかったと言えます。
 
花巻南温泉峡に行く手段としては、タクシー、岩手交通さんの路線バス、そして温泉組合的なところで運行している無料のシャトルバスがあります。昔は花巻電鉄というローカル線が走っていましたが、廃線となってしまいました。
 
鉄道の駅は、新幹線の新花巻駅が温泉峡と市街地をはさんで反対側の東部なので若干遠く、アクセスしやすいのは在来の花巻駅からの方です。ただ、無料のシャトルバスは新花巻駅から出て在来の花巻駅を経由するので、当方、今回はこれを利用しました。下記が時刻表です。
 
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光太郎は、昭和31年(1956)2月、亡くなる2ヶ月前の談話筆記「花巻温泉」で、鉛温泉について以下のように述べています。
 
 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 
他にも賢治の童話「なめとこ山と熊」にも鉛温泉が登場しますし、昭和25年(1950)には作家の田宮虎彦が滞在、ここを舞台にした小説「銀心中」を執筆したそうです。
 
新花巻駅の観光案内スペースに置いてあった花巻市発行の情報誌『花日和』の2013年冬号を1冊頂きました。旧太田村の光太郎が暮らした山小屋付近の風景や、鉛温泉さんが大きく扱われていたためです。
 
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そちらによれば、藤三旅館は鉛温泉の一軒宿で、天明6年(1786)の開業。開湯はさらに古く、室町時代にさかのぼるとのこと。オーナーの先祖が、この地で白猿が傷を癒していた温泉を見つけたのが始まりだそうです。
 
名物は深さ約130㌢という、立ったまま入る岩風呂「白猿の湯」。上の2枚目の画像にうつっています。光太郎の談話筆記で「その様を小高い所から見下せる」とあるのが、ここのことだと思われます。現在は光太郎の時代とは異なり、また混浴に戻っています(女性専用の時間帯あり)。しかし、当方が入った時には残念ながら男性しかいませんでした(笑)。他にも男女別の露天風呂や内風呂がいくつかあり、24時間入浴可です。当方、1泊2日で3回入浴しました。
 
昭和16年(1941)竣工という本館は非常に趣がありましたし、何より料理が美味しく、手が込んでいました。また、夜は窓を開けると豊沢川の流れにライトアップが施され、幻想的な雰囲気でした。
 
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というわけで、温泉と料理を堪能し、翌朝、宿を出ました。手配して置いたタクシーに乗り、高村山荘・高村光太郎記念館へ。そちらについてはまた明日レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月22日

昭和26年(1951)の今日、花巻の靴屋で12文(約30㌢㍍)の長靴を買いました。
 
光太郎、身長もそうですが、手足が異様に大きかったことも有名です。
 
ちなみにこの時、昨日ご紹介した佐藤隆房宅に1週間ほど逗留していました。その後は大沢温泉に行き、10日ほど宿泊しています。

前回からの続きです。
 
福島市を後に、再び東北新幹線に乗って、次なる目的地、花巻を目指しました。途中、仙台を過ぎても平地には雪がほとんどありませんでしたが、やがて岩手県内に入ると徐々に雪が積もっている様子が目につくようになりました。新花巻駅に着いた頃は、すっかり白銀の世界でした。
 
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新花巻駅の観光案内的なコーナーでは、光太郎が出迎えてくれました。
 
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普段、花巻に行く時は、北上で東北新幹線から在来の東北本線に乗り換えることが多く、新花巻駅に降り立ったのは久しぶりでした。そのため、こういうコーナーがあることを存じませんでした。
 
新花巻駅から雪道を歩くこと約15分、花巻市博物館に到着しました。
 
 
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こちらでは、企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」が開催中です(2/11まで)。
 
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佐藤隆房は明治23年(1890)、栃木那須の生まれ。千葉医専(現・千葉大学医学部)卒業後、医療施設の少なかった東北での医療活動に従事することを志願、縁あって大正12年(1923)、花巻に花巻共立病院(現・総合花巻病院)を開業しました。
 
地元の有力者だった宮澤家も開院に協力、その関係で賢治晩年の主治医を務め、その最期を看取りました。賢治の詩「S博士に」は佐藤のことを描いたものだそうです。
 
さらに宮澤家の関連で、光太郎とも知遇を得、交流を深めました。宮澤家の意向を受けて既に戦時中に東京で光太郎に会い、花巻疎開を勧めたといいます。
 
光太郎が花巻に来てからは、旧太田村の山小屋に移る前、一時、自宅の離れに光太郎を住まわせたり、その後も折に触れ、行き来をしていたりしました。
 
光太郎歿後は財団法人高村記念会を創設、花巻での顕彰活動を牽引し、昭和54年(1979)歿。現在は子息・進氏が理事長を務めています。
 
企画展では佐藤の生涯と業績をたどる品々の他、賢治の草稿や光太郎の揮毫、彫刻なども展示されていました。一見の価値はあります。ぜひ足をお運びください。
 
その後、新花巻駅に戻り、そこから無料送迎バスでその日に泊まる鉛温泉藤三旅館に向かいました。そちらについてはまた明日。
 

 
BS-TBS 2014年1月25日(土)  21時00分~21時54分
 
「阿多多羅山(あだたらやま)の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
安達太良山は、高村光太郎の『智恵子抄』に歌われたことで広く知られるようになりました。
 
南北9キロに渡って連なる安達太良連峰のひとつで、標高は1700メートル。なだらかに美しい稜線を引き、山頂には突き出た岩峰があるため遠目には女性の乳房のようにも見え、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも言われています。
 
智恵子のふるさとの山であり、また、そのたおやかな山容から女性的なイメージを持たれる山ですが、実際に登って見るとまた別の姿を見せます。北西からの季節風が遮られることなく吹き付けるため、この時期の稜線は突風が吹き荒れます。また、連峰の山頂部には大きな火口跡があり、荒々しい景観が広がっています。安達太良山は火山活動によって生まれた山で、最近では明治時代に爆発を起こしています。
 
厳冬期の安達太良山を雪山初挑戦の女優の春馬ゆかりさんが目指します。雪の状態を見極め、アイゼンとスノーシューを履き替えながらの山行となりました。
 
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さすがに標高1700㍍の山ですね。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月21日

昭和3年(1928)の今日、丸の内中央亭で開かれた第一回詩人協会総会に出席しました。
 
この席上、光太郎は年鑑編纂委員、評議委員を引き受けたそうです。同年6月には実際に『詩人年鑑1928』がアルスから刊行されました。
 
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いわゆる詩壇の大御所とは深いつきあいをしなかった光太郎ですが、この「詩人協会」はどちらかというと若い詩人を中心に結成されたもので、この時期の光太郎は若い詩人達にカリスマ的存在と見られていました。
 
しかし、その活動は長くは続かず、昭和6年には解散してしまいます。年鑑も1回限りの刊行でした。

今日からしばらく、土・日と1泊2日で出かけて参りました東北地方のレポートをいたします。
 
まずは福島駅で東北新幹線から福島交通飯坂線に乗り換え、美術館図書館前駅(ある意味すごい駅名ですね)で下車、福島県立図書館に参りました。
 
最近は、ほとんどの図書館で、居ながらにしてインターネットで蔵書のキーワード検索等が可能です。以前に同館の蔵書を「智恵子」のキーワードで検索してみたところ、当方の足しげく通う首都圏の図書館、文学館等にはないものが何件かあぶり出されました。やはり地方で刊行されたものなど、その地方でしか所蔵されていないものが多いのです。
 
また、最近はレファレンスサービスも充実しており、現地に足を運ばなくても「××という書籍の○○に関する部分のコピーを送って欲しい」というお願いをして送っていただくことも可能です。ただ、内容がしっかり分かっていないと無駄なものを手に入れることになったり、手続きが煩瑣だったりします。親身になって資料探しをして下さる館も多いのですが、逆に中にはあからさまに面倒がったり、簡単な話が通じなかったりする館もあり、不愉快な思いをしたことも一度ならずあって、だったら「レファレンス受け付けます」などと謳うな、といいたくなります。やはり可能であれば現地に行って、自分の目で資料を確かめるのが一番ですね。
 
そういうわけで、以前にあぶり出した未見の資料を閲覧し、必要な部分は複写して参りました。その中で、特に『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』(平成24年=2012)という書籍は凄い、と思いました。美術館などの企画展図録のような体裁で、200頁弱あり、しかもオールカラーです。
 
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明治病院は、福島市内で開業している個人病院で、創立は明治43年(1910)。創設者幡英二の妻・ナツは二本松の隣・本宮町の出身で、日本女子大学校での智恵子の先輩にあたります。同書では随所に幡夫妻と智恵子との関わりが記述されています。
 
智恵子は卒業後も女子大が運営する寮に住み続けていましたが、明治42年(1909)に突如その寮が閉鎖されることになりました。その際に、途方に暮れる智恵子に手をさしのべたのがナツと、さらにすでにナツと結婚していた幡です。二人は二人が当時暮らしていた駒込動坂町の日本画家・夏目利政の家に智恵子を住まわせてくれました。下の写真は夏目家で撮影されたもの。左端が幡英二、一人おいて智恵子、右端がナツです。
 
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他にも、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の005口絵に使われている、幡夫妻と、息研也氏と一緒に撮った写真もあります。
 
幡夫妻は同じ年に福島に戻り、明治病院を開院しますが、その後も智恵子との交流は続き、智恵子も何度か明治病院を訪れたそうです。智恵子は明治45年(1912)4月に開かれた太平洋画会の展覧会に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」の2枚の油絵を出品しましたが、このうち「雪の日」は、同年2月に明治病院に滞在した折りに、同院の中庭を描いたものではないかという説があるそうです。
 
さらに同書によれば、この当時の中庭や建物がまだ残っているとのこと。これはやはり現地を見なければ、と思い、県立図書館を後にし、明治病院を目指しました。実は行く前からネットで有る程度の情報を得ており、場合によっては現地に行くつもりだったので、予定の行動でした。

福島駅から歩くこと約10分、受付の方に来意を告げると、「それでは事務部長を呼びます」とのことで、出ていらしたのはなんとナツの曾孫に当たるという幡哲也氏でした。快く問題の中庭を見せて下さり、いろいろレクチャーもして下さいました。
 
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東日本大震災の折には灯籠が倒れたり、それ以前にも少し手を入れたりということがあったそうですが、基本的に智恵子が訪れた当時のままだとのこと。感慨深いものがありました。
 
帰り際、ダメ元で「『明治病院百年のあゆみ』はまだ残っていますか?」と訪ねたところ、なんと、一冊いただけてしまいました。非売品なので手に入れようと思ってもなかなか手に入るものではありません。実にありがたい限りでした。
 
早速、福島からさらに北上する新幹線の車中で詳しく読んでみたところ、東日本大震災がらみの記述も多くありました。
 
震災当時は外来診療中でしたが、壁に亀裂が入るなど、建物が危険かも知れないという判断で、職員、患者さんたちすべて広い駐車場に移動したところ、一人の妊婦さんの陣痛が始まってしまったそうです(同院は元々産科医院)。そして、駆けつけたご主人の車の中で無事出産したそうです。
 
それにしても、震災からもうすぐ3年になりますが、福島もまだまだ復興途上ですね。街頭ではこんな署名活動をやっていました。
 
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除染作業中の場所もありましたし、下記のステッカーもまだあちこちに掲示されています。
 
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当方のいろいろな活動が、少しでも復興支援になればと念じております。
 
明日は花巻のレポートを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月20日

昭和15年(1940)の今日、朝日新聞本社で行われた「朝日賞贈呈式並に記念講演会」で、「「和気清麻呂公」銅像について」の題で講演をしました。
 
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この年の朝日賞受賞者は以下の通りです。
 
石原忍色盲検査表の研究
川合玉堂絵画「彩雨」
佐藤清蔵銅造「和気清麻呂公像」
滝精一「国華」による東洋美術文化の宣揚
柳田国男日本民俗学の建設と普及
山田耕筰
交響楽運動と作活動
 
このうち佐藤清蔵は光雲の孫弟子にあたり、かつては「朝山」と号していましたが、師匠との不仲から、この時期は本名の「清蔵」を名乗っていました。さらに後に「玄々」という号も使用します。日本橋三越の巨大彫刻が有名です。
 
「朝山」時代の作品がいくつか、光太郎とほぼ同時期ということで、昨年各地で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で参考出品されました。
 
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さて光太郎の講演。新聞報道に「高村光太郎氏が品格の高い清浄さの感じられる名作と絶賛」とある程度で、具体的な内容の筆録等が確認できていません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
 
「和気清麻呂」銅像は大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会が銅像作成を計画し、朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵の三人によるコンペが行われ(朝倉はコンペと知らず途中で辞退)、佐藤の作品が選ばれました。今も東京メトロ竹橋駅近くにあるそうです。

昨日から1泊2日で、福島、岩手を巡って参りまして、先ほど帰宅いたしました。覚悟はしていたものの、積雪がすごく、さらには強行日程でしたが、いつにもまして実りある2日間でした。
 
今回廻ったのは、005
 
① 福島市・福島県立図書館さん
② 福島市・明治病院さん
③ 花巻市・花巻市博物館さん
④ 花巻市・鉛温泉さん
⑤ 花巻市・高村山荘/高村光太郎記念館さん
⑥ 岩手郡岩手町・川口公民館さん
 
です。
 
詳細は明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月19日
 
昭和28年(1953)の今日、丸善で開かれた彫刻家・土方久功(ひさかつ)の展覧会を観ました。
 
土方は、戦前から戦中にかけ、当時日本領だった南洋パラオで暮らした彫刻家です。

昨日は都内に出かけました。
 
まずは、上野の東京国立博物館平成館で15日に始まった「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」を観て参りました。
 
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同館の資料館には調べ物で時々行くのですが、展示を見に行ったのは久しぶりでした。
 
ちなみに平成館のある一角は、大正6年(1917)から同11年(1922)まで、帝室博物館総長だった森鷗外の執務室があった区画だと言うことで、説明板があります。
 
さて、展示ですが、いわゆる「人間国宝」、正しくは重要無形文化財保持者のうち、工芸技術分野の歴代150余人の作品がずらっと並びました。どの作品をとっても、舌を巻くような技術、そして技術のみならず、この日本という国にはぐくまれた芸術性を感じさせるものばかりで、非常に見応えがありました。
 
光太郎の弟で、鋳金家だった豊周も人間国宝の一人、「鼎」が展示されていました。そしてその豊周の工房で主任を務めていた斎藤明氏の「蠟型吹分広口花器「北辛」」も。斎藤氏は連翹忌ご常連でしたが、昨秋に亡くなられました

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昨年の連翹忌にて、氏より「こんなものがあるんですが……」と、渡されたのが、平成9年(1997)に花巻で行われた第40回高村祭の記念講演「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」の講演筆録。各地に残る光太郎ブロンズ作品を実際に鋳造された経験が記されていました。一読して、美術史上、大変に貴重なものであると確信し、昨年10月に刊行した『光太郎資料40』に掲載させていただきました。
 
その直後に氏の訃報に接し、残念な思いでいっぱいでした。今回の展示も、存命作家の作品を集めたコーナーに並び、氏が昨秋亡くなった由、キャプションが追加されていました。
 
ちなみに氏の作品は、銅と真鍮、異なる金属を使っての鋳金です。その境界(といっても、継いであるわけではないのですが)の部分の微妙な味わいは、不可言の美を生み出しています。
 
画像は図録から採らせていただきました。この図録、2,300円もしましたが、300頁余で、近現代の日本工芸の粋がぎっしり詰まっており、観ていて飽きません。
 
実際の展示を観ながらもそう思ったのですが、光太郎と関連のあった人物で言えば、陶芸の濱田庄司、富本憲吉など、「この人も人間国宝だったんだ」という発見(当方の寡聞ぶりの表出ですが)もいろいろありました。
 
ところで人間国宝の制度ができて60年だそうで、もっと早くこの制度があったら、光雲やその門下の何人かは間違いなく選ばれていたでしょう。
 
光雲といえば、東京国立博物館には光雲の代表作の一つ、「老猿」も収蔵されています。ただ、展示替えがあるので常設展示ではなく、昨日は並んでいるかなと思い、本館にも寄りましたが、残念ながら並んでいませんでした。
 
そういうわけで国立博物館を後にし、その後、池袋に向かいました。過日のブログでご紹介したイラストレーターの河合美穂さんの個展「線とわたし」を観るためです。

こちらの会場は要町のマルプギャラリー。普通の民家と見まごう建物で、すぐに見つかりませんでした。
 
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中に入ると、やはり普通の民家を改装007してギャラリーにしてある風で、玄関で靴を脱いであがる様式でした。展示スペースは5坪ほどでしょうか、ペンと水彩を中心にしたかわいらしい作品が20点ほど掛かっていました。
 
宮澤賢治や中原中也へのオマージュ的なイラストに混じって、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品が一点。琥珀色の梅酒で満たされたガラス瓶の周りに微妙な色のグラデーションで描かれた梅の実が三つ。詩の中の「早春の夜ふけの寒いとき」のイメージでしょうか、背景の一部に使われた群青色もいい感じでした。
 
受付に賢治の「銀河鉄道の夜」による作品のポストカード的なものがあり、一枚、頂戴して参りました。これもあたたかみのあるいい絵ですね。「梅酒」のイラストもポストカード的なものにしてくださってあればなおよかったのですが……。
 
さて、賢治、光太郎と来れば花巻。今日から1泊2日で花巻方面に行って参ります。途中で福島市に寄り、調べ物。午后には花巻に入り、花巻市立博物館の企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」を観て参ります。
 
それからもちろん、この冬から通年開館となった郊外旧太田村の新装高村光太郎記念館にも行きます。この季節に訪れるのは初めてで、どれほど厳しい環境なのか、確かめて参ります。
 
定宿の大沢温泉さんがとれず、今回はさらに奥地で、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに宿を取りました。詳しくは帰ってからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補008遺】 1月18日

平成16年(2004)の今日、角川春樹事務所刊行の「ハルキ文庫」の一冊として「高村光太郎詩集」が上梓されました。
 
解説は詩人の瀬尾育生さん。歌人の道浦母都子さんのエッセイ「七.五坪の光と影」も収録されています。「七.五坪」とは、旧太田村の光太郎が七年暮らした山小屋ですね。
 
最近は売れっ子作家の小説などが文庫書き下ろしで続々刊行されていますが、こうした古典的な作品も、文庫のラインナップとして残していって欲しいものです。
 
帯には「道程」の一節が印刷されていますね。しつこいようですが、今年は「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。

足立区西新井を拠点に活動されているシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんから、自作のCDをいただきました。題して「詩と旋律の日本文学」。リリースされたのはごく最近、というわけではなさそうです。
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曲目は以下の通り。
 
1.「月夜の浜辺」中原中也
2.「サーカス」中原中也
3.「山麓の二人」高村光太郎
4.「黒手帳」宮沢賢治
5.心よ(インスト)
6.「八木重吉詩集」八木重吉


というわけで、光太郎の「山麓の二人」が入っています。
 
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北村さんとは昨年の10月、福島二本松で開かれた智恵子忌日の集い「レモン忌」で初めてお会いしました。その際には「レモン哀歌」と「あどけない話」をギター弾き語りで披露なさいました。
 
今回の「山麓の二人」、また、他の詩人の詩に曲をつけた作品も含め、軽妙かつ力強く、非常にいい感じです。
 
附属のブックレットに書かれた北村さんの言葉から抜粋させていただきます。
 
新しい世界は新しい媒体の中で成り立ち、006
古いモノは選別されてゆく。
 
誰がどんな想いで
過去を未来へ繋げてゆくのか?
 
私は私の出来うる形でそれを繋げてゆこうと
想っています。
 
そして百年後、
先人達の詩とメロディとが1セットで
まだこの地球上に残っていたとしたら、
 
このうえないほどしあわせなことだろうなぁ
 
百年前の言葉に旋律をつけるという行為は
自分の存在しない百年後を想う機会となりました。
 
当方もよく、100年後にも光太郎智恵子の名がメジャーであり続けてほしいと思います。そのためには後世の人間が次の世代へと引き継ぐ努力をしなければなりません。そしてそれは一人や二人の力でできることでもありません。どうぞお力添えを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月17日

昭和14年(1939)の今日、『読売報知新聞』および『朝日新聞』に、「文部科学省選定日本国民歌」のうちの、光太郎作詞・箕作秋吉作曲の「こどもの報告」が完成したという記事が載りました。
 
確認できている限り、光太郎が歌曲の歌詞として作った2作目です。1作目は昭和12年(1937)の「わが大空」。作曲は坂本龍一氏などの師にあたる松本民之助です。
 
「文部省選定日本国民歌」は、他の詩人(歌人)・作曲家による5曲とともに6曲でワンセットとなり、演奏会やラジオ放送で扱われ、さらにはレコード化もされました。しかし6曲ともあまり評判がよくなく、いつの間にか忘れ去られてしまいました。
 
そのあたりの経緯は当方が編集・刊行しています『光太郎資料』という冊子にて詳述しております。次号は4月2日、連翹忌に刊行予定で、現在、鋭意作成中です。ご連絡いただければ送料のみにておわけします。

光太郎と交流の深かった草野心平関連の情報です。
 
まず、過日のこのブログでご紹介した福島県立光南高校演劇部さんによる演劇公演「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか? 第二章ばらあら、ばらあ」について、『東京新聞』さんが報道しました。

福島事故後の生活 演じきる 矢吹の高校生 長生で上演

 福島県矢吹町の県立光南高校演劇部が十三日、東京電力福島第一原発事故後の生活を描いた演劇「この青空は、ほんとの空ってことで、いいですか? 第2章 ばらあら、ばらあ」を長生村の文化会館で上演した。(内田淳二)
 
 事故から間もなく三年となる福島でいまも約十五万人が避難するなど被災地の苦しみや閉塞(へいそく)感について、大勢の観客が舞台を通じて思いをはせた。
 登場人物は旅に出た高校の演劇部員たち六人。目的地の海にたどりつけないまま、雑談や仲たがい、仲直りをする様子を等身大で生き生きと演じた。
 何げない会話の中にも「ガイガーカウンター」「リンゴの風評被害」といった言葉が登場。いまだに収束しない原発事故が生活に影を落とすが、高校生たちは福島県いわき市出身の詩人、草野心平の言葉に導かれるように元気を取り戻す。
 劇中で引用されたのは「カエル語」で書かれた詩。日本語訳は「幸福といふものはたわいなくつていいものだ」と始まる。
 公演は有志でつくる「ほんとの空」上演実行委員会(森山佳代委員長)が企画した。
 家族で観劇したいすみ市の会社員男性(39)は「福島の人たちがもやもやしたものを抱えていることがよく分かった。それでも生きることが大事だというメッセージを感じました」と話した。
 
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BS朝日1 2014年1月21日(火)  21時00分~21時54分
 
詩人・草野心平が愛した風景とは?故郷の福島県小川町や川内村に残る、美しい里山や、心平が名付けた紅葉の溪谷、カエルの生息地などを作家・島田雅彦が旅します。
福島県いわき市出身の詩人・草野心平は、自然をモチーフにして多くの詩を書きました。その根底には「すべてのものと共に生きる」という独特の共生感があったと言われ、故郷を詠んだ詩を数々残しています。また心平は福島県川内村にある天然記念物の平伏沼でモリアオガエルに出会い、毎年のように訪ねました。福島第一原発から30キロ圏内の川内村では、故郷を想う心平の詩や言葉が心の支えとなっています。
 
出演者 島田雅彦(作家・法政大学教授) 
ナレーター 村上祐子(テレビ朝日アナウアナウンサー)
朗読 森下桂吉(テレビ朝日アナウアナウンサー)

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番組公式サイトによれば再放送とのことで、どうも昨年に本放送があったようです。その時点では気づきませんでした。
 
中央の画像には、川内村で行われている草野心平を偲ぶ集い、かえる忌の会場となっている小松屋旅館さんの主、井出茂氏が写っています。囲炉裏も小松屋さんのそれです。

光太郎がらみの話も出るかと思われます。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月16日

明治28年(1895)の今日、智恵子の妹、ヨシが誕生しました。
 
ヨシは昭和2年(1927)、数え33歳の若さで歿しています。ヨシの没年令に関しては、『高村光太郎全集』等に所載の年譜等、数え29歳と誤って表記されています。

昨日の『朝日新聞』さんの記事です。元メジャーリーガー・野茂英雄さんに関して。

野茂の前に道はなかった

 果たして彼は日本の野球殿堂に入れるだろうか。野茂英雄だ。
 
 先日、米国野球殿堂にノミネートされた。落選したが、日本人で初めての候補者。名前が挙がっただけでも大変な名誉だった。
 
 日本の野球殿堂入りは17日に発表される。15年以上の野球報道経験を持つ記者が候補の中から最大7人まで投票し、75%以上の票を獲得した者が殿堂入りとなる。
 
 プレーヤー表彰の対象者は現役引退後5年以上経過した人で、野茂は今年が資格を得た1年目となる。1年目で選ばれるのは日本では非常に難しく、過去、スタルヒンと王貞治しかいない。長嶋茂雄でさえ、1年目は落選している。
 
 日本で78勝、メジャーで123勝、日米通算201勝が野茂の成績だ。野球殿堂入り選考の定義は「日本野球の発展に大きな貢献をした人」。彼の功績は数字だけでははかれるものではないだろう。
 
 野茂の前に道はなかった。彼の後ろに道はできた。ドジャース元監督のトミー・ラソーダは黒人初の大リーガーに例えて「野茂は日本のジャッキー・ロビンソンだ」といった。彼が橋を架けなければ、イチローも松井秀喜も、そして楽天の田中将大も海を渡ることは、できなかったかもしれない。
 
 日米の架け橋となり、パイオニアとして道なき道を切り開いていった野茂はまさに「日本の野球に大きな貢献をした人」といえるだろう。
 
 資格獲得1年目で野球殿堂入りなるか。17日の発表を日本中の野球ファンが、注目している。

1990年代、独特の「トルネード投法」を無題1ひっさげ、本場メジャーリーガーをキリキリ舞いさせて、「ドクターK」の異名を取ったた勇姿は今も目に焼き付いています。しかも、現在のように日米間の移籍制度がきちんと確立されていなかった時代、いわば身一つで挑戦し、そして見事に成功したことは本当に素晴らしかったと思います。まさに「野茂の前に道はなかった。彼の後ろに道はできた」ですね。
 
ちなみに元ネタは、言わずと知れた光太郎詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ですが、「高村光太郎の詩にあるように」といった枕詞がないのは、それだけ「道程」もメジャーだということでしょうか。しつこいようですが、今年、平成26年(2014)は「道程」執筆および詩集『道程』刊行100周年です。
 
ぜひとも野茂さんには殿堂入りを果たして欲しいと思います。その上で改めて「野茂の前に道はなかった。彼の後ろに道はできた」という賛辞を送りたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月15日

昭和41年(1966)の今日、新潮社から『高村光太郎全詩集』が刊行されました。
 
A5判上製1,022ページ、重量1.63㌔㌘(函を含む)。この時点で把握されていた光太郎詩729篇を全て収録した書籍です。これ以前に筑摩書房から刊行された『高村光太郎全集』の詩の巻(第1~3巻)が完全な編年体で、制作順の配列だったのに対し、こちらは光太郎生前に刊行された単行詩集を中核にした配列です。
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すなわち、
 1 「道程」以前
 2 詩集「道程」
 3 「道程」時代
 4 「道程」以後
 5 「猛獣篇」
 6 「猛獣篇時代」
 7 詩集「大いなる日に」
 8 詩集「記録」
 9 「記録」以後
 10 詩集「をぢさんの詩」
 11 「をぢさんの詩」以後
 12 詩集「智恵子抄」
 13 詩集「典型」
 14 「典型」時代
 15 「典型」以後
という構成です。
 
よく「無人島に一冊だけ本を持って行けるとしたら」という命題が出されますが、当方、「一冊だけ」と言われたらこれを選びます。

東京で北川太一先生を囲んでの新年会を行った11日(土)、青森十和田では、十和田湖奥入瀬観光ボランティアガイドの皆さん、地元の自然ガイドクラブの方々を中心に、十和田湖畔の裸婦群像―通称「乙女の像」―に関する勉強会を行ったそうです。
 
昨秋、当方も同行した北川太一先生宅と、光太郎の令甥・規氏が住まわれる高村家訪問の様子のビデオを観ながらだったとのこと。
 
 
毎日まじかに見ている湖畔休屋の方が「乙女の像は高村光太郎の作品である。とはご紹介しますが、『裸婦群像(乙女の像)は十和田の深く美しい自然から、世界に向けて発信する命を繋ぐ愛と救済のシンボル』だったとは知りませんでした。ご案内の際は、乙女の像に込められた光太郎の深い想いを伝えたい。」と感想を述べていました。
 
今回の企画テーマ「乙女の像を探る」から地元の私達は、十和田湖畔に建つ「乙女の像・裸婦群像」の意味を少し分かった気がします。
 
十和田湖の美しさも深いけど、乙女の像も深いなぁ〜・・・
 
その通りですね。
 
ちなみに十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイト、今月初めにも「十和田湖畔に建つ裸婦群像[2]」と題して記事が書かれています。
 
本当にそんじょそこらに無秩序に建つ銅像や野外彫刻とは違い、彼の地の宝ですので、大切にしていっていただきたいものです。
 
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画像は昔のテレホンカード。今の季節、こんな感じなのかなと思います。当方、来月には十数年ぶりに対面してきます。
 
ところで十和田といえば、やはり11日(土)、地元青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」に光太郎が紹介されました。
 
 

天鐘(2014/01/11掲載)

  高村光太郎は、動物篇という詩の連作でさまざまな動物を取り上げた。ニューヨークにある動物園のオリの前で、シロクマを見つめる男がいた。せっかくの日曜日にである▼〈彼は柵にもたれて寒風に耳をうたれ/蕭条(しょうじょう)たる魂の氷原に/故しらぬたのしい壮烈の心を燃やす〉という一節がある。オリの中に閉じこめられたシロクマに許されていたのは、北極圏に広がる氷原の記憶を呼び起こして、懐かしむ以外になかった▼さらに詩では〈白熊といふ奴はつひに人に馴(な)れず/内に凄(すさま)じい本能の十字架を負はされて紐育(ニューヨーク)の郊外にひとり北洋の息吹をふく〉とその孤独を歌う。人間に捕獲され、自由だった北極から連れて来られたのだろう▼シロクマにとっては、平成も決して平穏な時代ではない。生息地から無理やり引き離されるのではなく、生息地の北極圏で生き、子孫を残していくことが極めて困難になっているからである。絶滅の恐れも指摘される。これもまた、人間に起因する▼人間活動を原因とする地球温暖化は、異常気象や氷雪の融解などさまざまな異変を地球上にもたらしている。国連の気象変動に関する政府間パネルは、警鐘を鳴らし続けている▼地球温暖化によって食糧生産が減少し、人間の安全が脅かされると予測する。適応できる限界を超える異変さえ見込まれる。国家・国益の狭い枠にとらわれない〝地球的な思考〟がなければ、難局を解決できないのではあるまいか。
 
引用されているのは大正14年(1925)に書かれた「白熊」という詩です。明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ滞在中の経験を元に書かれたもので、遠く故郷を離れた、異郷にある自分と動物園の白熊を重ねています。
ちなみに「動物篇」とあるのは「猛獣篇」の誤りです。
 
コラムでは地球温暖化の問題に話を広げています。今年元日のブログに書きましたが、通称「乙女の像」を作った頃の光太郎は、日本とか西洋とかいったくびきから解放され、地球規模の視点を得ていたといえます。
 
光太郎もさすがに地球温暖化までは予想していなかったとは思いますが、地球規模の視点を得ていた光太郎の作品として、通称「乙女の像」に対峙していただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月14日

明治36年(1903)の今日、光雲が第5回内国勧業博覧会審査官に任命されました。
 
当ブログ、閲覧数30,000件を超えました。ありがとうございます。

一昨日、本郷で開かれた北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。そちらが午後1時からだったので、午前中は会場にほど近い谷根千地区を歩きました。東京の中でも当方の大好きなエリアです。ただ、正確に言うと千駄木には足を踏み入れませんでした。
 
スタートは鶯谷の台東区立書道博物館さん
 
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昭和11年(1936)の開館という老舗博物館で、元々は洋画家の中村不折が旧宅跡地に建てたものを、後に台東区が寄贈を受けて運営しています。
 
中村は慶応2年(1866)、江戸の生まれ。幼少期に維新の混乱を避けるため信州に移住、明治21年(1888)、23歳で再上京、小山正太郎の不同舎に入門します。後輩には荻原守衛がいました。その後、正岡子規と出会い、子規の紹介で新聞の挿絵を描いたり、子規と共に日清戦争に従軍し、森鷗外と知遇を得たりしています。
 
ちなみに書道博物館の向かいは、子規の旧宅・子規庵です。
 
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中村はその後、島崎藤村『若菜集』『一葉舟』、夏目漱石『吾輩は猫である』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀、挿画に腕を揮います。
 
前後してフランスに留学(明治34年=1901)、光太郎も学んだアカデミー・ジュリアンに通ったり、ロダンを訪問し署名入りのデッサンをもらったり、荻原守衛と行き来したりしています。帰国は同38年(1905)で、翌年から欧米留学に出る光太郎とはすれ違いでした。
 
帰国した年から太平洋画会会員、講師格となり、日本女子大学校を卒業して同40年(1907)に同会に通い始めた智恵子の指導にも当たりました。
 
その際、比較的有名なエピソードがあります。人体を描くのにエメラルドグリーンの絵の具を多用していた智恵子に、中村が「不健康色は慎むように」と言ったというのです。しかし智恵子は中村に反発するように、さらにエメラルドグリーンの量を増していったとのこと。
 
中村は中国滞在を通して書にも強い関心を抱き、彼の地の書をたくさん集めた他、自身でも書に取り組みました。書道博物館はそうした中村のコレクション、中村自身の作品などを主な収蔵品としています。
 
現在、企画展「没後70年 中村不折のすべて―書道博物館収蔵品のなかから―」が開催中です(3/23まで)。
 
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中村の書画、装幀や挿画を手がけた書籍、子規や漱石、鷗外、伊藤左千夫らからの書簡や揮毫、ロダンのデッサン、不折が手がけた鷗外や守衛の墓標や新宿中村屋のロゴ(守衛の関係でしょう)の写真などが並んでいました。光太郎智恵子関連もあればいいな、と思っていましたがそちらはありませんでした。
 
面白いな、と思ったのは中庭にある小さな蔵。つい一昨年、道路拡張工事のおりに近くで偶然発見され、明治の写真から不折が建てさせたものと判明し、修復して移設されたそうです。
 
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こういうこともあるのですね。
 
その後、書道博物館を後にし、言問通り沿いに谷中、根津を歩きました。
 
途中に台東区立下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」がありました。
 
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明治43年(1910)に建てられた005商家建築で、入場無料です。
 
外国の方を含め(写真を撮ってあげました)、けっこう観覧者がいらっしゃいました。
 
店内には当時のものと思われるレトロな看板やポスターも。着流しにハンチングを被った光太郎が貧乏徳利を提げて今にも出てきそうです。
 
ただ、当方の住む千葉県香取市佐原地区にはこの手の古い商家建築が多く、しかも現役で営業しています。何軒か有る酒屋さんもまさに似たような感じで、店内にはこうした看板やポスターが無造作に貼られています。
 
それで思い至ったのですが、自分の住む街と似ているのでこのエリアに親近感を抱くのだと思います。
 
今週また、上野の東京国立博物館で始まる「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出されされた美、伝えゆくわざ―」を観に行きますので、近くを歩いてみようと思っています。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月13日

大正7年(1918)の今日、『読売新聞』に雑纂「白樺美術館について」が掲載されました。
 
この当時、「白樺美術展」を開催していた同派は美術館の建設を構想しており、光太郎も賛同していました。しかし諸般の事情で実現には至りませんでした。

昨日は斯界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長であらせられる北川太一先生を囲んでの新年会にお招きいただきまして、参加させていただきました。
 
主催は北川先生が都立向丘高校に勤務されていた頃の教え子の皆さんである「北斗会」さん。何人かの方は連翹忌にもご参加下さっていますし、一昨年、昨年と、8月に宮城・女川で開催されている「女川光太郎祭」にも足を運ばれています。
 
会場は東大前のホテルフォーレスト本郷さん。そちらのレストランを借り切って、30名ほどの参加でした。
 
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今年は北川先生から年賀状が来ず、お加減がよろしくないのでは? と心配しておりましたが、昨日、宴席の名札を兼ねた形で直接いただきました。
 
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「美し国 迅く甦れ うまの年」。「美(うま)し」は万葉の時代から使われている語で、満足すべき状態、十分で申しぶんない、といった意味ですね。今年の干支の「午(うま)」と「うまし」をかけてらして、ウマいと思いました。
 
北斗会の皆さんは、教え子とは言う条、終戦直後、新制高校になってすぐの頃に高校生だった80代の方もいらっしゃり、70代の方がご挨拶の中で「私ごとき若輩者が……」とおっしゃっていました。ある意味凄い世界です。
 
北川先生の奥様、ご子息、また、向丘高に勤務されていた方々もご参加されました。その中のお一人、北川先生の御同僚だった高原二郎氏は、『有島武郎全集』の編者。同時期に有島研究、光太郎研究それぞれの泰斗が机を並べられていたという、これもまたある意味凄い世界です。
 
ちなみに当方の学生時代の恩師も有島研究者ですので、もしやと思ってお訊きしてみたところ、ツーカーの仲だそうで、世間は狭いな、とも思いました。
 
世間は狭い、といえば、昨日、一昨日のこのブログにご登場いただいた高村光太郎研究会主宰の野末明氏も向丘高勤務経験がおありだということで、会に参加されていました。そうとはつゆ知らず、『高村光太郎研究』の原稿を郵送してしまいました(笑)。
 
こちらの新年会は午後1時からでしたので、午前中は会場にほど近い谷根千エリアを歩きました。明日のブログにてレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月12日

昭和10年(1935)の今日、雑誌『上州詩人』第17号にアンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」、書簡が掲載されました。
 
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10年ほど前に群馬県立土屋文明記念文学館様のご協力により見つけました。光太郎、こうした地方の同人誌的なものに作品を発表する機会が多く、なかなかその全貌がつかめません。
 
書簡はこの前年『ボオドレエル詩抄』を刊行した同人の松井好夫に宛てたものです。
 
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昨日の【今日は何の日・光太郎 補遺】でご紹介した「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、当方、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、現在は「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形になっております。
 
年刊誌の連載ですので、ほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成ですが、次から次へと見つかり続け、気がつけば9年目です。
 
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿、昨日、研究会代表の野末明氏にデータとプリントアウトしたものを郵送しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。
 
散文
 「ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た」
   大正六年二月二日『東京日日新聞』
 「帽子に応用したアイリツシユレース」 大正十三年四月一日『婦人之友』第十八巻第四号
 「倫理の確立」 昭和十五年七月一日『東亜解放 日本版』第二巻第七号
 「彫刻について」 昭和十五年九月一日『新制作派』第五号
 
書簡
 平櫛田中宛 津田青楓宛  室生犀星宛 上田静栄宛(6通) 高祖保宛
 伊藤祷一宛(2通) 岩田シゲ宛 鈴木政夫宛 池田克己宛 田口弘宛
 
翻訳
 「死者」(ヴェルハーレン) 大正十四年二月一日『虹』第二巻二月号
 
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2015/1/9追記 この「死者」は訳詩集『天上の炎』の一篇として、『全集』第十八巻に収録されていたため、抹消します。
  
アンケート
 「口語歌をどう見るか(批判)」 大正十四年一月一日『芸術と自由』第一巻第八号
 「新婚旅行通知状(葉書回答)」 昭和十一年十一月一日『婦女界』第五十四巻第五号
 「昭和二十二年に望む事」 昭和二十二年一月一日『人間』第二巻第一号。
 
雑纂
 「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」 直筆
 「高村光太郎氏の話」 昭和二十五年十一月三日発行『山形新聞』
 「‶詩だけはやめぬ″」 昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』
 
座談
 「第二回研究部座談会」 昭和十五年三月二十日発行『九元』第二号
 
短句
 「世界はうつくし」 直筆
 
参考資料
 「東京仮装会」 印刷案内状
 
我ながらよく見つけたものだと思います。しかし、当方一人の力ではここまで見つかりません。「こんなものを見つけた」と教えていただいたり、他の方の書かれたものの中から「光太郎がこんなものを書いている」という記述を見つけたりで、これだけ集まっています。ご協力、ご教示いただいた皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
また、刊行物であれば、それらを所蔵し、閲覧の用に供して下さっている図書館、文学館さまのご協力も欠かせません。こちらにも感謝です。さらには書簡を所蔵され、情報を提供して下さった個人、団体の皆様にも。
 
さて、『高村光太郎研究』。先述の通り、4月2日の光太郎忌日・連翹忌に刊行予定です。ご入用の方はご連絡いただければ仲介いたします。このところ、頒価は税込み1,000円ですので、今年も同じだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月11日

昭和59年(1984)の今日、光太郎と交流のあった山形出身の詩人、真壁仁が歿しました。
 
戦時中、空襲による焼失を避けるため、亡き智恵子が残した千数百枚の紙絵を、光太郎は3箇所に分けて疎開させました。そのうちの1箇所が真壁の元で、真壁は戦後しばらくの間もそれを預かり、昭和24年(1959)に山形で開催された初の智恵子紙絵展では、この中から作品が選ばれました。

たまたまネット検索で見つけました。 イラストレーターの方の個展です。

「線とわたし」 河合美穂展007

場所:マルプギャラリー 東京都豊島区池袋3-18-5

2014年1月6日(月)〜31日(金) 10:00~19:00
※初日、14:00より。※最終日は、17:00まで。
休廊日:土、日、祝日
 
特別開廊日
11日(土) 13:00~17:00(お茶会)
19日(日) 13:00~17:00 25日(土)  同
 
作者のメッセージ
 
憧れのマルプギャラリーで、イラストレーターになってから初めての個展をさせて頂きます。
お茶会はささやかな飲み物などをご用意させて頂く予定ですので、どなた様もお気軽にいらして下さい。どうぞよろしくお願い致します。
 
今回の展示では、智恵子抄の一節を絵にしたものがあります。実は私、大の光太郎と智恵子ファン。
智恵子抄は、初版本と智恵子の記念館近くで買った絶版と3冊も持っている位で、智恵子の紙絵も大好きで4~5冊はあるでしょうか。私の中の究極の愛の形です。
 
また、今回宮沢賢治を題材としたものが多くありますが、高村光太郎と宮沢賢治は深い関係があったようで、私も嬉しくなりました。
ギャラリーでかけて頂く音楽は、銀河鉄道の夜のアニメで使われた細野晴臣さんの素晴らしいサントラです。
 寒い季節ですが、皆様どうぞお出かけ下さいませ。

 
このブログで同じことをよく書いていますが、いろいろな方が様々な分野で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さっています。こうした絵画などの造型作品、演劇、音楽、朗読、文筆作品、書、などなど。非常にありがたいかぎりです。
 
時間を見つけて行ってみたいと思っております。みなさんもどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月10日

昭和51年(1976)の今日、高村光太郎研究会が発足しました。
 
前身は光太郎と交流のあった詩人、故・風間光作氏が立ち上げた「高村光太郎詩の会」。
 
その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、斯界の権威、北川太一先生を顧問に頂き、年に一度、研究発表会を行っている他、雑誌『高村光太郎研究』を年刊で出しています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

青森からのイベント情報です。 

十和田湖冬物語 2014

[期間]   2014年02月07日~2014年03月02日

雪と氷に覆われる神秘的な冬の十和田湖では、十和田湖のシンボルともいえる乙女の像が闇に浮かび上がります。また、周辺の散策路も雪明かりでほんのりと照らされ幻想的です。イベントでは「雪月花」をテーマとした冬花火とライトショーが行われるほか、郷土芸能や郷土料理、かまくら内でお酒も楽しめます。

[会場]   十和田湖畔休屋 特設イベント会場
[住所]   〒018-5501 十和田市十和田湖畔休屋

[問合せ先]   十和田湖冬物語実行委員会(十和田湖総合案内所内)  ☎ 0176-75-2425

[イベント内容]
  ■冬花火:期間中毎日 20:00~20:10
  ■乙女の像ライトアップ:期間中毎日 17:00~21:00
  ■津軽三味線ライブ:平日/19:00・20:30、土日祝/20:30
  ■ステージイベント:土日祝/19:30~
  ■ゆきあかり横丁:平日15:00~21:00、土日祝11:00~21:00
  ■酒かま蔵:期間中毎日 19:00~21:00
  ■かまくらBar:期間中毎日 18:00~21:00
  ※この他にも、様々なイベントが行われます。
  ※予定が変更になる場合もあります。
 
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昨年は乙女の像建立60周年で、今年にかけ、さまざまな顕彰活動が企画されています。こちらは恒例のイベントですが、真冬の十和田も乙なものだと思います。ぜひ足をお運び下さい。今年は当方もうかがう予定です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月9日

昭和10年(1935)の今日、智恵子の親友だった秋広あさ子に葉書を書きました。
 
拝啓 只今小包にて結構な林檎をたくさん頂戴仕り難有存上げます、ちゑ子の大好物ゆゑ病中にても林檎だけは喜んでいただきます、 小生寸暇無きため御返礼もお送りいたしがたく失礼仕候へどもとりあへず畧儀ながら葉書にて御礼まで申述べます、
 
秋広は日本女子大学校での智恵子の同窓。同じ寮で暮らしたこともあり、当時の回想などが「智恵子様のこと」という題名で、昭和34年(1959)の草野心平編『高村光太郎と智恵子』(筑摩書房刊)に掲載されています。
 
智恵子が統合失調症を発症したのち、親身になって心配し、智恵子を訪ねてきたり、この葉書にあるように見舞いの品を送ったりしました。
 
以下、「智恵子様のこと」より。
 
お二階の機(はた)に腰かけて無心に筬(おさ)を動してた智恵子様が、人の気配に目を上げられた時、遠くをみつめる様な目指しで何か一生懸命に思い起そうとしてらつしやる御様子。‶智恵子さん、おぼえてらつしやる? アサ子ですよ!″遠くから一本の綱を漸く探り当てた様に微笑んでうなずいた智恵子様は、もうお話の出来ない美しい人形になつてしまわれたれたのでした。

今朝の『朝日新聞』千葉版に以下の記事が載りました。
 
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一昨年、福島県立県立あさか開成高校演劇部さんにより、「第一章」が渋谷、横浜で上演されました。「ほんとの空」ということで、光太郎の「あどけない話」がモチーフに使われていました。


 
それが反響を呼び、漫画化もされ、日本文教出版さんのサイト内で電子ブックとして配信されています。
 
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今回は「第二章」ということで、光太郎智恵子より草野心平をモチーフにしているようです。
 
以下、『朝日新聞』デジタル版から。

福島県立光南高等学校演劇部公演 福島の高校生の生の声を聴く

3・11-福島第一原発の事故。目に見えずとも、放射性物質は確実にそこにあるという現実の中、口に出せない生徒たちの声をつむいだ芝居「この空は、ほんとの空ってことでいいですか?」が誕生。この公演は、2012年に東京、神奈川で上演され話題を呼んだ第一作の「第二章」。草野心平の詩「ごびらっふの独白」を引用し、夕焼け空の向こうに明日を見出す物語。上演後のトークを通して、高校生たちの「今」の思いに寄り添う。

 
もうすぐ震災から3年。しかし、まだまだ東北は復興途上です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月8日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋を訪ねてきた小学校の教師4人の持参した詩集『典型』にサインをしました。
 
『高村光太郎全集』第13巻所収の日記です。
 
一月八日 月
朝晴 午后雪 稍温 ねてゐ(る)うち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる、豚鍋をつくりて食事。ジン酒一本もらふ。皆「典型」持参。署名。
 
『典型』は前年秋に刊行された詩集です。

昨年、6月の千葉市美術館さんを皮切りに、岡山県井原市田中美術館さん、愛知県碧南市藤井達吉現代美術館さんと、3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。好評のうちに12月15日、閉幕しました。
 
さて、その最後の会場となった藤井達吉現代美術館を運営する愛知県碧南市のサイト内に、碧南市長・禰宜田政信氏が動画で語るページがあり、毎月更新されています。自治体の首長が毎月動画でメッセージを発信するというのは、全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。
 
昨日、今月分がアップされました。題して「高村光太郎と碧南市」。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、そして光太郎と交流のあった藤井達吉にからめ、約7分間のメッセージが流れます。


 
市長さんのお話によれば、碧南展での入場者数はのべ16,600人、1日平均420人だったそうです。
 
ぜひご覧下さい。
 
ちなみにバックナンバーを見ると、初期の頃を除き「××と碧南市」で統一されています。「××」は、愛知県という土地柄上、織田信長や徳川家康、武田信玄などの戦国武将が多いのはうなずけますが、光太郎や三島由紀夫、高浜虚子、富岡鉄齋といった文化人、そうかと思うとミスタードーナツ、アンコール遺跡など、「どういう関係があるんだ?」というものまで広範囲にわたっています。
 
また、碧南市の広報誌「広報へきなん」の今月号もネット上にアップされています。24ページもある豪華な広報誌ですが、15ページ目、「まちかどフォト ホットニュース」欄に「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に関する記事があります。こちらもぜひご覧下さい。

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【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月7日

平成6年(1994)の今日、TBS系テレビの「金曜ドラマ」枠で「いつも心に太陽を」の放映が始まりました。
 
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全11回の連ドラでした。スタッフ、キャストは同じ「金曜ドラマ」枠で、この1年前に放映されていた「高校教師」と共通する方が多用されていました。のちに全4巻のVHSテープが販売されました。
 
キャストは西田敏行さん、小林稔侍さん、観月ありささん、遠山景織子さんほか。『智恵子抄』を一つのモチーフとし、ヒロイン・観月さんの役名が「高井智恵子」、中盤には袴田吉彦さん演じる『智恵子抄』大好き文学青年が登場していました。ただ、後半にはまったく『智恵子抄』がらみの話はなくなってしまいました。
 
まだ無名だった大杉漣さんや温水洋一さんがほんのちょい役で出演なさっていて、笑えます。

昨日は二十四節季の一つ、「小寒」でした。冬の寒さが一番厳しい時期となる節目ですが、生涯、冬を愛した光太郎にとっては、本領発揮の時候です。
 
さて、その小寒の日の『神奈川新聞』さんのコラムです。朝日新聞における「天声人語」のような位置づけでしょうか。

照明灯 

 冬型の気圧配置が平年よりも強まり、気象庁の予想では1月から3月は東日本の気温は平年より低くなるそうだ。太平洋側ではからりと晴れの日が多くなる見込みだという
 
 ▼「秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして来た冬/そして、関八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騒ぎ廻る冬」。高村光太郎の詩の一節。冷厳なこの季節を愛した高村は冬の詩人とも呼ばれる。力強く人を鼓舞する詩句が好きで、青春時代、よく親しんだ
 
 ▼冬の詩人が「ひとちぢみにちぢみあがらして」と難じる中年者となった今だが、澄んだ外気に身をさらせば、正月の酒席でほてった酔顔もいやおうなく寒風にはたかれ、がつんといさめられたような気分となる。何やら凜(りん)として、心地がいい
 
 ▼昨年、世界の平均気温は平年を0・2度上回り1891年の統計開始以来2番目の高温。史上最高だった1998年はエルニーニョ現象の影響が顕著だったが昨年は特殊事情がなく、「地球温暖化の傾向が明瞭に示された」と専門家は言う
 
 ▼「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。「こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね」。こわばる頬も緩む。温暖化の今、冬らしい冬がいい。小寒。寒の入りだ。

 
引用されている光太郎の詩は、大正2年(1913)に書かれた「冬の詩」。「冬だ、冬だ、何処もかも冬だ」で始まり、150行を超える長大な作品です。数年前に黒木メイサさん、松田龍平さんがご出演されたユニクロさんのCMで使われていたので、耳に残っている方も多いのではないでしょうか。


 
からっ風にさらされる関東平野の冬もきついのですが、北国はもっとすごいことになっているでしょう。皆様、どうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月6日
昭和2年(1927)の今日、詩集『智恵子抄』に収録された「あなたはだんだんきれいになる」を執筆しました。
 
  あなたはだんだんきれいになる005
 
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。  
 
智恵子歿後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた散文「智恵子の半生」で、この詩について次のように語られています。
 
私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、
 
 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属
 
と私が書いたのも其の頃である。
 
木々は葉を落とし、澄み切った空気に包まれる「冬」。木々と同じように、余計な装飾を落とし、凛とした雰囲気を身にまとう智恵子に、「冬」のイメージを重ねていたのかもしれません。

暮れに岩手花巻の浅沼隆様から地元紙『岩手日日』さんが送られてきました。
 
浅沼さんは花巻郊外旧太田村にお住まいで、太田村時代の光太郎をご存じの方です。昨秋、NHKさんで放映された「日曜美術館」で、その頃の思い出を語られました。現在は農業のかたわら、花巻の財団法人高村記念会理事として、現地での光太郎顕彰活動に取り組まれています。
 
送っていただいた『岩手日日』さんの記事のうち、先月6日の記事がこちらです。
 
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光太郎の業績伝えて 高村記念会 市へ美術品5点寄付

 財団法人高村記念会(佐藤進会長)は5日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作した美術品5点(評価額6400万円相当)と記念館整備資金として500万円を花巻市に寄付し、同市太田の高村光太郎記念館で後世に伝えていくよう願った。
 
 寄贈された美術品は▽十和田湖畔裸婦像原型▽光雲還暦記念像(光雲の首)▽少年の首(薄命児頭部)▽裸婦坐像▽手。
 同記念会の佐藤会長、宮澤啓祐理事ら関係者が市役所を訪問、父親の故隆房さんが光太郎と親交のあった佐藤会長は「高村先生のことを忘れてもらいたくない。市から支援を頂いて後世に残したい」と語り、美術品と寄付金の目録を受け取った大石満雄市長は「本物の作品が花巻にあるのはすごいこと。後世に残すため十二分に対応していきたい」と応じた。
 東京出身の光太郎は、宮澤賢治との縁で花巻に疎開し7年間暮らした。
 市は、同市太田の旧花巻歴史民俗資料館を活用し、同記念会が設置・運営して老朽化していた高村記念館の収蔵資料を全て移す計画で「高村記念館」を整備している。光太郎の生誕130年に当たる2013年度は、5月15日の高村祭に合わせてプレオープンした。
 新しい記念館では、今回寄贈された美術品5点を含む光太郎の彫刻、書画、文芸、愛用品などを展示している。光太郎の顕彰施設としては国内唯一で、市賢治まちづくり課によると入館者数は着実に伸びているという。
 14年度も施設や周辺環境の全体整備を継続し、光太郎の疎開70年目に当たる15年度の本格オープンを目指している。

というわけで、昨春仮オープンした高村光太郎記念館で展示されている光太郎ブロンズ彫刻のうち、5点が財団法人高村記念会から花巻市に寄贈され、所有権が移ったという記事です。
 
彫刻の名前が、多少誤解を招きそうなので補足しますが、「十和田湖畔裸婦像原型」とあるのは「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」が正しい名称で、七尺の十和田の裸婦群像の2分の1スケールで作られた試作です。
 
「光雲還暦記念像(光雲の首)」とあるのは、「光雲の首」を正しい名称としています。明治44年に作られた「光雲還暦記念像」そのものは空襲で焼け、現存しませんが、こちらはそのための試作として作られたと推定されているものです。石膏のまま高村家の蔵から見つかり、昨秋亡くなった人間国宝の鋳金家・斎藤明氏がブロンズに鋳造しました。
 
ところで記事にもあるとおり、今後も花巻の記念館の整備が続きます。当方、そちらにも関わっております。
 
それからやはり記事にあった高村記念会の創設者・佐藤隆房に関する企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」が、現在、花巻市博物館で開催中です。当方、来週、観行く予定です。
 
花巻の今後にご注目下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月5日

大正4年(1915)の今日、北原白秋に宛てて年賀状を書きました。
 
麻布区坂下町十三 北原白秋様
 
賀正 大正四年一月五日 駒込林町二十五 高村光太郎 <いつも貴重な雑誌を頂いて居りましてありがたく存じます。>
 
当方、今年もたくさんの年賀状を頂いております。ありがとうございます。

かつて光太郎が暮らした東京千駄木からのイベント情報です。

谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ

 
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谷根千ゆかりの文芸作品へのトリビュート美術展
カフェギャラリー幻のある谷中・根津・千駄木(略して谷根千)界隈は、夏目漱石・森鴎外・江戸川乱歩・川端康成など、多くの文人の旧居・旧跡がある「文豪に愛された町」です。
 
そこで、谷根千にゆかりある文人・文芸作品をモチーフとした美術展を行います。
 
2014年2月28日(金)~3月9日(日)
企 画 カフェギャラリー幻 東京都文京区千駄木 2-39-11
     笠原小百合(WEB文芸誌「窓辺」編集長)
休廊日 未定(期間中2日ほど)
時 間 15:00~22:00
人 数 7名前後(うち公募参加枠は4名ほど予定)
関連イベント
◆オープニングレセプション:2月28日(金)
◆谷根千文学さんぽツアー:3月2日(日)、8日(土)
 文人ゆかりの旧跡をめぐるお散歩ツアー。
◆クロージングパーティー:3月9日(日)
 
申込
 募集期間:2013年12月26日(木)~1月10日(日) /選考制
 ※選考は過去作をもとに行います。出展作品は会期までにご準備ください。
費用
 出展料:無料
 販売手数料:売上価格の40%※
 ※作品・グッズが売れた際のみ頂戴致します。
お申込方法
 当ページをお読みの上、下記内容をメールにてお送りください。
 Mail:
info@cafegallerymaboroshi.com
 •作家名: グループの場合は団体名および各作家名。
 •参考作品: 過去作品を拝見できるウェブサイトや、作品画像など。実際に出展する作品ではなく、作風が分かるもので構いません。創作にあたってのコンセプト・説明文などがあればお書き添えください。
 •作品形態: 出展作品の大きさ・形式(平面か立体かなど)のおおまかな予定をお教えください。特に立体やインスタレーションなどはスペースが限られるためご相談ください。後日の変更も可能な限り ご対応します。
 •モチーフとする文人と作品(第1希望)
 •モチーフとする文人と作品(第2希望)
 お申込みいただいた方全員にメールにて結果をご連絡させていただきます(2014年1月中旬予定)。
 諸注意
 ・複数名で1団体としてもご参加いただけます。
 ・他の展示・公募等に出品された作品も出展可。
 ・著作権存続作品の二次創作は不可(権利許諾を得たものは可)
 ・作品は販売を行います。非売品とする場合はご相談ください。
 ・作品制作・搬入出にかかる諸費用は作家様にてご負担お願い致します。
 ・選考は展示全体のバランスなども考慮して判断させていただきます。
 
谷根千ゆかりの文人(例)
 下記以外でも、谷根千地域にゆかりある小説家・詩人などの作品、谷根千を舞台とした作品であれば構いません。
 ・森鷗外:この地に居住。「雁」「青年」などの舞台にも。森鴎外記念館あり。
 ・夏目漱石:この地で「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などを著す。「三四郎」の舞台にも。
 ・江戸川乱歩:団子坂上にて古本屋「三人書房」を営む。団子坂は「D坂の殺人事件」の舞
  台。
 ・高村光太郎:「智恵子抄」の智恵子とともにこの地に居住。
 ・川端康成:この地に居住。
 ・石川啄木:近隣の本郷に居住。鴎外宅の歌会に参加。
 ・北原白秋:この地に居住し、鴎外宅の歌会にも参加。
 ・幸田露伴:この地に居住。谷中霊園は「五重塔」のモデル。
 ・樋口一葉:近隣の本郷に居住。鴎外宅での批評会にて「たけくらべ」を激賞される。
 ・平塚らいてう:青鞜社を千駄木に構え、女流文芸誌『青鞜』を発刊。
 ・二葉亭四迷:近隣に居住し、界隈が「浮雲」の舞台となる。
 ・正岡子規:近隣に居住し、「自雷也もがまも枯れたり団子坂」と詠むなど。
 ・室生犀星:詩「坂」の舞台。
 ・竹久夢二:隣接する弥生に竹久夢二美術館あり。画家だが、詩人・童話作家としても知ら
  れる。
 ・ほか坪内逍遥、宮沢賢治、内田百閒などが近隣に居住。
 たくさんのご応募お待ちしています。
 ※出展作品のジャンルや数は問いません(絵画、写真、彫刻、工芸、服飾、文芸、映像、音楽、インスタレーションなど)。
 
要するに、光太郎や漱石、鷗外など、谷根千ゆかりの文学者たちへのオマージュとしての展示があり、一般公募もします、ということですね。
 
絵心のある皆さん、応募されてはいかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月4日

明治45年(1912)の今日、新聞『二六新報』に談話筆記「詩壇の進歩」が掲載されました。
 
「僕は詩人ぢや無い。只自分の思つて居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ。」と、のっけから爆弾発言です。
 
最後は「今のやうな時には、僕はポエムといふ作品よりも、寧ろ周囲の空気とか、人間そのものとかを尚ぶ。作品は多く出ないでも、さういふ風に向つて行く処を大いに尚ぶ。僕は全然製作品だけを味うて居るのでは足りない。その人を味ふ為に作品を見るのだ。地面を歩く芸術、力強い芸術に近づくのが嬉しい。四十四年の詩壇を顧みると、此の傾向が明らかに見られるやうになつて来た。」と結びます。
 
浅薄な美辞麗句の羅列に過ぎなかった文語定型詩全盛の時代をぶち壊して行く気概が見て取れますね。2年後の詩集『道程』でそれが結実するわけです。
 
しつこいようですが、今年、平成26年は詩集『道程』刊行百周年です。

昨日も自宅でテレビ三昧でした。
 
16:00からBS朝日さん放映の「惜櫟荘ものがたり」。岩波書店創業者の岩波茂雄が、昭和16年、熱海に建てた別荘「惜櫟荘」の解体修復を追ったドキュメントでした。
 
番組公式サイトで光太郎もここを訪れ、滞在したことがある由、記述がありました。ところが『高村光太郎全集』や、その他当方所有の文献にはおそらく「惜櫟荘」に関する記述がありません。
 
しかし番組内で、しっかり「惜櫟荘」で撮られた光太郎の写真や、岩波書店本社に保管されているという「惜櫟荘」訪問者の芳名帳に残る光太郎の名が映されました。
 
気になったのでさらに調べたところ、「惜櫟荘」現在の所有者である時代作家・佐伯泰英氏のエッセイ集『惜櫟荘だより』(当然のように岩波書店刊行)が出版されており、早速注文しました。

 


 
19:00からはNHKBSプレミアムさん放映の「皇室の宝 第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」。
 
現在、京都国立近代美術館にて開催中で、光雲の作品も複数出品されている「皇室の名品-近代日本美術の粋」展に関わる番組で、今回は彫金の海野勝珉、日本画の竹内栖鳳をメインに取り上げていました。番組終わり近くになって、光雲の 「猿置物」(大正12年=1923)が映りました。
 


 
このあとも、光太郎がらみの番組がいくつか放映されます。

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014/01/08(水)8:40~8:50、17:15~17:25
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親を対象に制作。番組を通して、日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけてもらうことをねらいとしている。今回は、僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、ひこうきさんようしゅんしゅん旬~冬~/ゆきおとこ、うた/スキー、道程。
出演者 小錦八十吉,神田山陽,おおたか静流 ほか
 
おそらく坂本龍一さん作曲の「道程」がオンエアされると思います。この番組では昨年末にも「道程」や「冬が来た」を扱って下さいましたが、おそらくまた新作だと思います。

<ドラマ名作選>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ・181 2014/01/09(木)12:00~13:55
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!
 
出演者 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
もともとは平成18年2月24日に金曜プレステージの枠で放映された2時間ドラマの再放送です。BSフジさんで、たびたび再放送しています。今はもう使われていない、花巻の古い高村記念館でロケが行われました。

木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~スペシャル

テレビ東京 2014/01/09(木)19:58~21:48 004
 
新春最初の放送は2時間スペシャル。「モクハチ歌う新年会」ではゲストが好きな歌を続々披露。名曲の数々をたっぷりとお楽しみください。
 
ゲスト 大月みやこ、梶光夫、金沢明子、小金沢昇司、伍代夏子、ささきいさお、城之内早苗、城みちる、千昌夫、高田美和、田川寿美、新沼謙治、二代目コロムビア・ローズ、氷川きよし、藤あや子、水森かおり、宮路オサム、森進一、吉幾三、ロス・インディオス(50音順)  司会 宮本隆治、松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)
 
曲目 「きよしのソーラン節」氷川きよし 「北国の春」千昌夫 「伊勢めぐり」水森かおり 「襟裳岬」森進一 「大東京音頭」金沢明子 「女人高野」田川寿美 「津軽恋女」新沼謙治 「イルカにのった少年」城みちる 「鳴門海峡」伍代夏子 「なみだの操」宮路オサム <モクハチ新年会> 「ペッパー警部」「夜霧よ今夜も有難う」「曼珠沙華」「Dream」「別れても好きな人」「時の流れに身をまかせ」「嫁に来ないか」「わが愛を星に祈りて」「おひまなら来てね」「宇宙戦艦ヤマト」「夢の中へ」「智恵子抄」「リンゴの村から」 「ひとひらの雪」小金沢昇司 「乱れ花」大月みやこ 「満天の瞳」氷川きよし 「海峡しぐれ」藤あや子 「酒よ」吉幾三 「富士山」森進一
 
二代目コロムビア・ローズさん、アメリカ在住ですが、時折帰国して演歌番組等にご出演なさっています。曲目は「智恵子抄」。昭和39年(1964)、ちょうど50年前のヒット曲です。

10min.ボックス(現代文)「道程(高村光太郎)」

NHKEテレ 2014/01/10(金) 午前1:40~1:50

『道程』は、1914年、大正時代に書かれた詩です。それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。この詩の作者は高村光太郎。詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍しました。
 
こちらも何度も放映されています。ネットで見ることもできてしまいます。

 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月3日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『ポラーノの広場』臨時発行新年号に、「消息二」が掲載されました。
 
 何もかも生れてはじめての新年を迎へました。祖国の運命は開闢以来の難関にさしかかつてゐるし、私自身としては自分の故郷を離れて新年を祝つたのは、これまでにたつた一度銚子の海岸へ初日出を拝みに行つたことがあるだけで、毎年必ず自分の家の神だなの下で祖先を偲びながら、お雑煮をいただいたものでした。
 しかし私は今、希望に満ちてゐます。
 山に来てから健康は倍加するし、未来の仕事は大きいし、独居自炊孤坐黙念、胸のふくらむ思です。
 謹んで諸兄に年頭の賀をおくります。
 
 光太郎、花巻郊外太田村山口の山小屋に移って初めての新年でした。しかし、「私自身としては自分の故郷を離れて新年を祝つたのは、これまでにたつた一度銚子の海岸へ初日出を拝みに行つたことがあるだけ」は間違いで、明治末の欧米留学で日本を離れていたことを忘れていますね(笑)。

年が改まりました。この時期、テレビでは意外といい番組の放映が続きます。
 
昨日は、暮れのこのブログでご紹介したNHKBSプレミアムさんの「皇室の宝 第1夜 日本の危機を救った男たち」を観ました。
 
現在、京都国立近代美術館さんにて開催中で、光雲の作品も複数出品されている「皇室の名品-近代日本美術の粋」展に関わる番組で、光雲も取り上げられるかな、と思って観ましたが、昨夜に関しては名前のみの紹介でした。
 
メインで紹介されたのは、七宝の並河靖之、織物の川島甚兵衞。この二人は京都出身ということで、「作品が京都に里帰り」的な観点がありました。NHK京都さんの制作ですので、まぁしょうがないかな、と思いました。しかし、殖産興業の国是の中で、外貨獲得や万博で好評を得るといった、明治期工芸の流れがよくまとまっていました。
 
今夜は「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」が放映されます。予告編では、海野勝珉「蘭陵王置物」が大きく取り上げられていました。海野は京都ではなく水戸の出身です。光雲もぜひ取り上げてもらいたいものです。
 
その後、地上波NHK総合さんでオンエアされた「1914 幻の東京~よみがえるモダン都市~」を観ました。以下、NHKさんサイトから。
 
今から100年前の1914年(大正3年)、東京で最新の西洋文化を紹介する「東京大正博覧会」が開かれた。大観衆を集めた博覧会は、明治のエリートが独占していた西洋文化を急速に大衆化させていくきっかけとなる。同年、日本橋に三越新館が誕生し、日本初の常設エスカレーターが登場、大衆消費社会の幕開けに花を添える。東京駅の開業、日本初の流行歌、いずれも1914年に誕生した。浅草の活動写真、銀座ファッション、都市の大衆文化が一斉に開花し、東京は新興のモダン都市へと生まれ変わっていく。しかし、その9年後には関東大震災が襲い、当時の街並みは幻と化した。

 7年後のオリンピック開催が決まり、今もこれからもダイナミックに発展・変容していく東京。現代東京の“ルーツ”ともいえる100年前の東京の街と人々の暮らしをドラマと4Kの高精細VFXを駆使して再現・再発見し、新しい年の始まりに、日本の来し方行く末に思いを馳せる。

 100年前と現代を行き来するサラリーマン夫婦を演じるのは新進俳優・淵上泰史と長澤奈央。主題歌「カチューシャの唄」を歌うのは、実力派のボーカリスト、UA。
 
1914は大正3年。光太郎が第一詩集『道程』を上梓し、智恵子との結婚披露を行った年なので、もしかしたらちらっとでも紹介されるかな、と思ってみました。しかしこちらも空振り。ただし、智恵子が表紙を描いた『青鞜』や、光雲が出品鑑査官、審査員を嘱託された東京大正博覧会が紹介されました。その他、シーメンス事件や第一次世界大戦による好況、モダン都市化した東京の様子など、当時を知るには非常にいい番組でした。
 
今年は東京駅開業100周年にもあたるので、例年より「100年前」が注目されているようです。その流れの中で、詩集『道程』100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年を取り上げてほしいものです。
 

さて、本日夕刻には、BS朝日さんで以下の番組が放映されます。  

BS朝日1 2014年1月2日(木)  16時00分~17時54分
 
日本の歴史的建築物「惜櫟荘(せきれきそう)」を守るため、歴史作家・佐伯泰英が立ち上がった。70年の時を経て、岩波茂雄、吉田五十八という二人の天才の夢が引き継がれる…

番組内容
日本の歴史的建築物を守るために立ち上がった歴史作家・佐伯泰英の情熱の物語。「惜櫟荘」という、日本を代表する数寄屋造りの取り壊しから修復・再建までを追いかけた、2年以上にわたるドキュメンタリー。

出演者 ナビゲーター 三上博史

昨年5月にオンエアされたものの再放送です。その時点で気づかなくて、このブログでは紹介しませんでしたが、番組サイトでは光太郎の名が記されています。
 
昭和16年9月。真珠湾攻撃の3か月前、一軒の小さな別荘が熱海に建てられた。 その名は惜櫟荘(せきれきそう)。ここに、志賀直哉や高村光太郎、幸田露伴、湯川秀樹ら日本の文豪や知識人が集い原稿をしたため、明日の日本を論じた。
 
もとはといえば、岩波書店の創業者・岩波茂雄の別荘だった。 この家を設計したのは、吉田五十八(よしだいそや)。歌舞伎座や吉田茂邸、文学賞の舞台である築地新喜楽などで知られる近代数寄屋建築の名手である。
 
あれから70年。
売却の憂き目に会おうとした惜櫟荘を、一人の作家が救った。時代小説で1500万部という人気を誇る、作家・佐伯泰英。名建築が無くなるのは忍びないと、私財を投じ、番人を買って出た。
 
日本の教養文化を育んだ出版人、岩波茂雄と稀代の建築家、吉田五十八。 二人のぶつかり合いから生まれた惜櫟荘の、解体から復元までの3年間を追いながら この30坪の小さな家に秘められた昭和のドラマを描きます。
 
後でこういう番組があったことを知り、残念に思っていたのですが、再放送されるということで、ありがたいかぎりです。
 
『高村光太郎全集』には岩波茂雄の名も何度か出てきますが、この惜櫟荘に関する記述が見あたりません。番組サイトにある「ここに、志賀直哉や高村光太郎、幸田露伴、湯川秀樹ら日本の文豪や知識人が集い原稿をしたため、明日の日本を論じた。」という事実もこちらでは確認できていません。どういうことなのか、放映をよく見てみようと思っています。

 追記 惜櫟荘で撮影された光太郎の写真を見つけました。

他にも光太郎に絡む、または絡みそうな番組の放映が続きます。そのあたりはまた明日。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月2日

昭和28年(1953)の今日、年下の友人達のために揮毫書き初めをしました。
 
美術史家の奥平英雄に「うつくしきもの」、詩人の宮崎稔が保管していた智恵子紙絵の箱に「高村智恵子遺作紙絵」、北川太一先生所蔵の『智恵子抄』特製本に詩「樹下の二人」の一節(画像参照)、同じく詩「晩餐」の一節をそれぞれ書きました。
 
書、さらに書き初めというのも日本の素晴らしい文化、そして風習ですね。当方は悪筆なのですが、いずれは取り組んでみたいと思っています。
 
002







イメージ 1
 
というわけで、平成26年(2014)となりました。
 
上記画像にもあるとおり、今年は大正3年(1914)の詩集『道程』刊行、そして光太郎智恵子の結婚披露から数えて100周年です。それらを軸に顕彰活動を展開して参りますので、よろしくお願いいたします。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月1日

昭和25年(1950)の今日、『読売新聞』に詩「この年」が掲載されました。
 
  この年005
 
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
イメージ 3
雪に覆われた光太郎居住の山小屋(高村山荘)
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。
 
さて、昨年のこのブログで、365日、【今日は何の日・光太郎】を書き続けました。年月日の特定できる主な事象はあらかた書き尽くしました。
 
とはいうものの、時には大きな出来事が見あたらず、日常の些細な出来事を記したり、光太郎生誕以前や歿後のことを書いたりした日も多くありました。しかし、逆にたまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛しました。
 
そこで、【今日は何の日・光太郎 補遺】。もう一年、続けてみようと思っています。お楽しみに。

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