2013年12月

平成25年(2013)も、とうとう今日で終わりです。
 
昨日からの続きで、光太郎智恵子をめぐるこの一年を振り返ります。
 
日本各地での顕彰活動も盛んでした。
 
青森十和田。今年は十和田湖畔の裸婦群像建立60周年ということで、来年にかけてもいろいろと動きがあるようです。
 
岩手花巻。昨日もご紹介しましたが、光太郎が暮らした太田地区の山小屋「高村山荘」、その近くの高村光太郎記念館を拠点に、財団法人高村記念会様によって、各種活動が行われています。

 高村記念館仮オープン、第56回高村祭報道。

 
宮城女川では、震災による津波の被害にもめげず、女川光太郎祭。かつて建てられた光太郎文学碑を範として、100円募金による「いのちの石碑」も建てられました。
 
福島二本松では、智恵子命日の「レモン忌」、智恵子のまち夢くらぶさんによる「智恵子講座'13」、「智恵子に扮する有馬稲子像」も展示された「五星山」展。かつて舞台で智恵子を演じられた有馬稲子さんのトークショーもありました。
 
東京では高村光太郎研究会様による活動。
 
荻原守衛草野心平など、周辺人物の顕彰活動の中でも、光太郎に触れていただきました。
 
こうした動きが途絶えることなく、さらに盛り上がって行ってほしいものです。
 
しかし、残念なニュースもいろいろありました。
 
まずは訃報。生前の光太郎を知る方々で、連翹忌にもご参加いただいていた皆さんとしては、3月に詩人の寺田弘氏、6月に鋳金家の西大由氏、11月に同じく鋳金家の齋藤明氏。文筆作品や演劇などの分野で光太郎を取り上げて下さった方々で、西沢利明氏(俳優)、佐野洋氏(作家)、夏八木勲氏(俳優)、やなせたかし氏(詩人)、すまけい氏(俳優)。他に一般の方でも、連翹忌にご参加いただいていた方々の訃報が届いております。
 
昨日は昨日で、仏教学者の紀野一義氏の訃報が出ました。

仏教学者の紀野一義さん死去 真如会を設立(2013/12/29) 

紀野一義さん(きの・かずよし=仏教学者、真如会主幹、元宝仙学園短大学長)が28日、肺炎で死去、91歳。葬儀は親族と近親者のみで行い、お別れの会を後日開く。喪主は長男真輝(まさき)さん。 著書に「生きるのが下手な人へ」、共訳注に「般若心経・金剛般若経」など。在家仏教団体の真如会を設立した。
 
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氏には光太郎に触れたご著書が何冊かありました。
 
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左から『遍歴放浪の世界』 昭和42年 日本放送出版協会、『般若心経の風光 観自在の世界』 昭和57年 実業之日本社、『死にざま生きざま 美しき人になりたく候』 昭和53年 PHP研究所。
 
それから、8月には、昭和8年に光太郎智恵子が滞在し、その当時の部屋がそのまま残っていた、福島の不動湯温泉が全焼、従業員の方が亡くなりました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今年一年、お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月31日

昭和45年(1970)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』第47刷が刊行、現在と同じ智恵子紙絵を用いたカバーデザインとなりました。
 
こちらのコーナー【今日は何の日・光太郎】も、365日、つつがなく書き終えました。ご愛読ありがとうございました。

昨日の『山陽新聞』さん掲載のコラムです。『朝日新聞』さんでいえば「天声人語」にあたる欄でしょうか。昭和22年(1947)の、花巻郊外太田村山口の山小屋で書いた光太郎日記が引用されています。

[滴一滴]   

 〈一月七日 午前まだあたたか。朝食、粥(かゆ)。セリを入れる。七草粥のつもり。雪に埋れて青いものなし。芹(せり)だけ入れる……夜又寒くなる。雲あれど月あかるし。時々雪ふるらし…〉
 「智恵子抄」などで知られる高村光太郎が、晩年の60代のときにつづった日記の一部である。無駄のない、詩的な響きが心地よい。特段変わりばえのしない一日が、何ともきれいに記されるものだ
 年が改まるこの時季、日記が書店の売り場で“主役”になっている。5年や10年連用できるもの、学校での大切な日などを書き込める小学生向け、献立付きの主婦向けなどさまざまだ。日本人ほど日記を書くのが好きな民族はいない、という説もうなずける
 本紙ちまた欄にも、日記を習慣にしている人の投稿がしばしば登場する。30年、50年と続けている人もいる。もう立派な「自分史」「家族史」だろう
 流儀はさまざまだ。楽しいこと以外は書かない。あるいは誰にも言えない愚痴を文字に託す。毎日欠かさぬのが目標という人もいれば、何日分かのまとめ書きを勧める声もある。記憶をたどり、出来事を思い出そうとする努力は脳を活性化させるという
 ブログなどを楽しむ「ネット派」も隆盛だが、心を静めて向き合う手書きの日記帳にはぬくもりがある。つづる文字もどこか優しい。
 
いかにもいよいよ年の瀬、という内容ですね。
 
そこで、今日、明日と2回にわたって、今年1年を振り返ってみます。
 
今年、平成25年(2013)は、光太郎生誕130年ということで、色々と大きな動きがありました。
 

早速手前味噌で申し訳ありませんが、0064月2日、第57回連翹忌を当会主催にて開催し、多くの方にお集まりいただきました。
 
 
5月には先の日記が書かれた花巻郊外の高村山荘近くに、元の歴史民俗資料館をリニューアルして、高村光太郎記念館が仮オープンしました。元々、昭和41年(1966)、近くにこじんまりした記念館が建てられましたが、そちらが手狭となり、設備も整っていないための措置でした。仮オープンは例年行っている高村祭の日に合わせ、渡辺えりさんに記念講演をしていただきました。007
おかげさまで入場者数も伸び、さらに今年から通年開館。来年以降も本格整備が続きます。ぜひ足をお運びください。
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6月から12月にかけ、『生誕130年 彫刻家高村光太郎展』が、千葉市美術館さん、岡山井原市田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さんで巡回008開催されました。ひさしぶりの大規模な光太郎展ということで、いろいろなメディアで取り上げて下さり、3館累計でのべ4万人超の方に御来場いただきました。最後の碧南では、会期終了を待たずに図録が完売とのこと。ありがたいやら申し訳ないやらです。

千葉


10月にはNHKさんの「日曜美術館」で光太郎を取り上げて下さいました。題して「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。 なかなか好評だったようです。
日曜美術館、10月6日の放送。
「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。
ネタバレ注意、「日曜美術館」。
レモン忌報道/「日曜美術館」。

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それぞれの関係者の皆様、お疲れ様でした。当方も微力ながらそれぞれに関わらせていただき、望外の喜びです。
 
他にも光太郎智恵子・光雲に関わる展覧会、出版、テレビ放映、公演等、たくさんありました。とりあげてくださり、ありがとうございました。
 
明日もこの項、続けます。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月30日

平成3年(1991)の今日、長く北川太一先生のお手伝いをされていた堀津省二氏が亡くなりました。
 
北川太一先生が刊行されていた頃の『光太郎資料』、そこから生まれた何冊かのご著書、当方も活用させていただいて居ります。

光雲の作品も出品され、京都国立近代美術館で開催中の「皇室の名品-近代日本美術の粋」展が、テレビで大きく取り上げられます。

皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」

NHKBSプレミアム 2014年1月1日(水)  19時00分~20時00分
NHKBSプレミアム  2014年1月2日(木)  19時00分~20時00分
 
豪華けんらん、唯一無二。皇室が収集してきた究極の宝が京都に集結。美術品に課せられた使命とは?かつて日本を救った職人たちの物語に女優の栗山千明が迫る。
 
宝石のように輝く七宝、再現不可能とされる謎の金属置物。明治以降、皇室が収集してきた究極のコレクションが京都に集結している。そんな名品ぞろいの展覧会を取材することになったのは新人ディレクターの宮崎京子(栗山千明)。静まり返った会場で不思議な光景を目にする。なんと作品たちが動き出したのだ!美術品に託された国家の命運、かつて日本の危機を救った職人たち。作品たちが物語る秘話に次第にのめり込んでゆく。
 
出演 栗山千明 井上順 山崎樹範 飯尾和樹 語り 國村隼
 
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NHKさんサイトから
 
現代技術では再現不可能と言われる色を放つ「七宝」、世界に衝撃を与えた超細密「金属工芸」、世界初の技術を駆使して織り上げた豪華絢爛「西陣織」など、明治から昭和にかけて皇室が集めた秘蔵コレクション。
 
これらの美術品が生まれたのは開国間もない明治時代。諸外国の干渉を退け、急速に近代化を推し進めるには、日本は工業も未成熟で、まだ体力が足りなかった。
 
そこで美術品を輸出し、大量に外貨を獲得しようという国家プロジェクトがあった。いわば国策によって生まれた究極の美術品たち。
 
しかしその後日本が成長し、西洋文化が入り込むにつれ、美術品とそれを作り上げた匠たちの技や思いは薄れていった。
 
番組は、ドラマ仕立ての中で、実際に取材したVTRを紹介する形で進行。主人公は、栗山千明さん扮する「宮崎京子(みやざききょうこ)」。京都にある架空の番組制作会社「京都町家(きょうとまちや)テレビ」に勤務するアシスタントディレクター。
 
その京子が、「京都町家テレビ」の社長兼プロデューサー・藤田(井上順)の命令で、先輩ディレクター・池田浩一(山崎樹範)と共に、京都国立近代美術館で開かれる「皇室の名品」展の取材にいく所から番組は始まる。
 
美術館の広報担当・林(飯尾和樹)の案内をうけ取材を進めていくと、突然、美術品たちが動き、京子にしゃべり出す。そこで語られるのは、美術品に駆使された高度な職人技や、生み出した職人達の埋もれた秘話。2夜連続でお伝えする。
 
番組サイトでは、二代 川島甚兵衞の綴錦「百花百鳥之図壁掛」、川之邊一朝、海野勝珉、六角紫水ほかによる「菊蒔絵螺鈿棚」、海野勝珉「蘭陵王置物」、並河靖之「七宝四季花鳥図花瓶」などの画像が使われています。
 
番組では光雲作品も取り上げていただけると有り難いのですが……。ちなみに光雲がらみの出品物は以下の通りです。
 
「矮鶏置物」(明治22年=1889)、「鶴亀置物」(明治40年=1907、竹内久一と合作)、「萬歳楽置物」(大正5年=1916、山崎朝雲と合作)、「猿置物」(大正12年=1923)、「松樹鷹置物」(大正13年=1924)。
 
新春を彩る絢爛たる世界。ぜひご覧下さい。
 
「皇室の名品-近代日本美術の粋」展についてはこちら。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月29日

昭和27年(1952)の今日、浅草のストリップ劇場「フランス座」に行きました。
 
数え70歳の光太郎、性的な関心というより、美しいものを観たいという欲求なのでしょう。ある意味、尊敬します。

今月26日、岩手の地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

入館者1万2000人超 高村光太郎記念館

 花巻市は、同市太田に今春仮オープンした高村光太郎記念館の入館状況を11月末現在でまとめた。総入館者数は1万2000人を超え、財団法人高村記念会(佐藤進会長)が運営していた旧記念館の2012年度実績を上回る状況。通年開館となり、この冬の入り込みが注目される。

 高村祭に合わせた5月15日の仮オープンより前の旧記念館分を一部含む4月以降の総入館者数は1万2558人。旧記念館の前年度実績(4月1日~12月15日)は1万1143人で、12月分を残して既に前年度の総数を上回っている。

 入館者の内訳は、一般が1万1112人、高校・学生が217人、小・中学生1229人。個人が9695人で全体の77・2%、団体が2863人(63団体)で同じく22・8%。一般は個人観光客、小・中学生は修学旅行などの団体客が8割強を占め、高校・学生は6対4で個人が多い。

 市賢治まちづくり課の高橋久雄課長は「個人客が目立つが、団体客も少しずつ入るようになった。まだ周知不足の面もあり、徐々に広がれば」と期待。さらに「通年開館で、これからの時期は光太郎が過ごした冬の厳しさの一端も感じ取ることができるはず」と話している。

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は、宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、晩年を過ごした。同記念館は光太郎が独居自炊した小屋(高村山荘)奥の旧高村記念館が手狭で老朽化したため、山荘の手前にあった市の花巻歴史民俗資料館を活用した。

 彫刻作品や文芸、愛用品など約150点を展示し、光太郎の生誕130年に合わせて展示室のみで暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向け、併設の収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を14年度中に進める計画。
 
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記事にあるとおり、今春仮オープンした花巻の高村光太郎記念館ですが、入館者数の昨年実績を上回っているそうです。ただ、実は、対前年比がもう少し伸びていてもいいのかな、というのが正直な感想です。その分、こうして宣伝していただくことが人寄せになるかと思いますので、ありがたいことです。
 
以前は冬期閉鎖でしたが、今年から通年開館。これも記事にあるとおり、これから雪に覆われる時期で、隣接する高村山荘での光太郎の暮らしを偲ぶにはもってこいですね。当方も、来月、また訪れる予定です。みなさんもどうぞ。
 
『岩手日日』さん、前日には当方に関する記事も載せて下さいました。
 
年2回、4月2日の連翹忌と、10月5日のレモンの日に合わせ、当方が刊行している冊子『光太郎資料』。今年10月に出した第40集を紹介していただきました。
 
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当会名簿に載っている方と、光太郎智恵子に関連のありそうな機関に勝手に送りつけているものですが、『岩手日日』さんにも送っており、紹介して下さった次第です。過分なお褒めのお言葉をいただき、恐縮しております。
 
早速問い合わせも何件かあり、ネットとはまた違う「新聞」の力を実感しました。
 
当方が刊行した第37~40集、まだ若干の残部があります。また、来春刊行予定の第41集、現在、鋭意作成中です(そのために一昨日、国会図書館に調査に行って参りました)。必要な方、このブログのコメント欄等からご連絡下さい。送料のみでお頒けしております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月28日

昭和28年(1953)の今日、十和田湖畔の裸婦像建設委員会がその役目を終え、解散しました。
 
除幕がこの年10月でした。以前にも書きましたが、ちょうど60年です。

新刊です。 

森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生

野澤一著 坂脇秀治解説 彩流社刊 定価1,600円+税
 
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彩流社さんサイトから。
 
山梨県四尾連(しびれ)湖畔の小屋にひとり暮らし、詩と詩作に明け暮れた青年がいた……
《日本のソロー》野澤 一(はじめ)の『木葉童子詩経』から素朴で澄明な、心優しい詩をセレクション。

1904(明治37)年生まれの野澤一は、法政大学在学中にヘンリー・D・ソローに触発され、山深い湖畔での独居生活を実践。
野山をかけ、生き物を慈しみ、思索し、そして詩を詠んだ。高村光太郎への200 通に及ぶ手紙でも一部に知れられる稀有な詩人の、知られざるひととなりの詳しい解説をも付す。
 
野澤 一(ノザワ ハジメ)
1904(明治37)年生まれ。24 歳のとき、四尾連湖で生活するために法政大学を中途退学。5 年近くの独居生活を経て東京に戻り、湖畔在住中に書きためた詩約200 篇をまとめ『木葉童子詩経』と題し自費出版。1945(昭和20)年、終戦をみることなく41 歳の若さで病没。
 
坂脇 秀治(サカワキ シュウジ)
1955 年兵庫県生まれ。週刊誌記者、出版社勤務を経てフリーエディターに。

 
野澤の詩は、文治堂書店さんから平成17年(2005)に復刻された『木葉童子詩経』で読んだことがありましたが、今回のものには坂脇秀治氏による40ページ近い解説が載っているということで、購入しました。
 
野澤は山梨県出身の詩人で、法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。坂脇氏曰く「光太郎からの返信は数通あったようだが、ほぼ一方通行の文通だった。」とのこと。
 
光太郎はその野澤に関し「あの人の文章は癖のある文章ですが、とにかくちょっとほかの人には見られない稀らしい才能を持った人なんですね。」と語り、昭和15年(1940)に書いた「某月某日」というエッセイで、野澤を激賞しています。4月2日の連翹忌には、ご遺族の方にご出席いただいております。
 
その詩も独特のもので、戦前の作ながら、もはや「近代詩」の枠には収まりきれず「現代詩」の範疇に入るのでは、と思われます。そんな野澤が心の師と仰いだのが、アメリカの詩人、ヘンリー・D・ソロー。エコロジストとして名高い詩人です。そこで本書では副題に「日本のソロー」とあるわけです。
 
それから野澤は「現存している詩人でぼくが尊敬しているのは高村さん一人くらいです」と述べています。
 
そんな野澤の詩が32編、おそらく四尾連湖と思われるたくさんのモノクロ写真(これがまたいい感じです)とともに紹介されています。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月27日

昭和27年(1952)の今日、中野のアトリエの大掃除をしました。駆けつけた詩人の藤島宇内、十和田湖畔の裸婦像製作の助手・小坂圭二が手伝ってくれました。
 
年の瀬といえば大掃除ですね。しかし当方、まだ大掃除らしい大掃除をしていません。昨日も国会図書館さんに行っていましたし……(汗)。

素敵なクリスマスプレゼントをいただきました。
 
贈り主は、二本松在住の詩人で、昨年、「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で開催された「智恵子講座'12」の講師を務められた木戸多美子さん。
 
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現代詩集や雑誌『現代詩手帖』の版元として名高い思潮社さんからの上梓で、『メイリオ』という詩集で、木戸さんの第一詩集だそうです。
 
帯文は以下の通り。
 
満身創痍の大地に一匹の黎明が立ち上がる  カタストロフ、砕けた言葉、解かれたいのち―― 星の光に深まる夜、地に根をおろし空の底へと両手をひろげる。
 
冒頭の「満身創痍の大地に……」は詩集に収録されている「希土黎己」という詩の一節です。
 
ちなみに上の画像では、帯文が見えるように帯を上にずらしています。
 
「満身創痍」とか「カタストロフ」でおわかりになると思いますが、東日本大震災をモチーフにしている部分があります。全編そうというわけではないようですが。
 
当方の勝手な印象ですが、「希土黎己」という詩からは、光太郎の「猛獣編」の詩群を彷彿とさせられました。また、当方、現代詩には詳しくありませんが、さまざまな実験的な試みがなされ、面白いと感じました。
 
光太郎や萩原朔太郎らによって口語自由詩が確立されておよそ百年(しつこいようですが来年は詩集『道程』刊行百周年です)。詩はまだまだ多くの可能性を秘めていると思います。
 
ぜひお買い求めを。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月26日

昭和20年(1945)の今日、光太郎が出雲の神となって、智恵子の姪、春子と詩人宮崎稔が結婚しました。
 
春子は看護婦として、ゼームス坂病院に入院した智恵子に付き添い、その最期を看取りました。宮崎稔は、光太郎の花巻疎開の際に花巻まで同行したりと、戦前戦後を通じて光太郎のそば近くで何くれとなく働いた人物です。

2週間ほど前に、このブログで、彩流社刊・近藤祐氏著『脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する』をご紹介しました。
 
12月22日付の『朝日新聞』に、作家の荒俣宏氏による書評が出ました。
 
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◇別角度の文学史が見えてくる

 日本近代の精神科病院は、公立施設に限定するならば、都市の美観と治安を守るために路上生活者を一掃する政策から誕生した。明治5年にロシア皇太子が訪日するのに合わせ、困窮者や病者を収容すべく設置された「養育院」内の「狂人室」が起源である。
 
 病者には背に「狂」の字を染めた衣服が着せられ、手枷足枷(てかせあしかせ)を付けられた。明治12年にはこれが独立して東京府癲狂(てんきょう)院となるのだが、やがて有名な相馬事件が発生、発狂と称して癲狂院に押し込められた旧相馬藩主を忠臣が救いだすという大騒動となった。
 
 監獄まがいの悪いイメージを嫌った病院側も、癲狂という語句を抹消するが、「内分泌の多い患者の睾丸(こうがん)を別の患者の腕に移植する」怪実験が行われた戸山脳病院が業務停止になるなど、おぞましい話に付き纏(まと)われた。
 
 本書は知られざる脳病院の歴史を東京エリアに絞って詳述した後、後半で精神科病院が林立する大正期前後に精神を病んだ著名文学者の運命を検証する。
 
 芥川龍之介や宇野浩二の眼(め)に「死ぬまで出られぬ監獄」と映った脳病院の情況を筆頭に、高村光太郎が妻の智恵子を入院させることを最後まで躊躇(ちゅうちょ)し、結局は入院後すぐに彼女を亡くした事情、その脳病院で治療する側にいた歌人斎藤茂吉の心情などを読み進むうちに、精神科病院を介して意外なほど多数の文学者が深く関係を結んでいたことに驚かされる。この文脈で別角度の文学史が語れる。
 
 ただ、本書では作家たちの病歴や妄想幻覚の深い分析が慎重に控えられている。精神科病院に入院させられた中原中也が自宅の屋根に座って弟を見送る場面で、芥川龍之介最後の映像がやはり高い木に登っているシーンだったとする指摘などが興味深いだけに、もう少し突っ込んでもよかった。蛇足だが、中村古峡や石井柏亭の人名が誤植のままなのは、稀(まれ)な書だけに残念。
 
なかなか的確な評です。
 
実は当方、まだ読んでいる途中です。荒俣氏も指摘していますが、時代遅れで、牽強付会に過ぎる精神分析学的手法を取っていないため、読んでいて納得いかない部分はありません。また、芥川や辻潤、宇野浩二らがどんな病状だったのかというあたりを、当時の社会状況や思想史的な潮流に当てはめた論旨が非常に興味深いのですが、やはり何というか、読んでいて非常に痛々しいものがあります。そう感じさせる著者の筆致に感心させられる部分が大きいともいえます。
 
この後、太宰治、中原中也と続いていきます。近いうちに読み終えようと思っています。
 
ところで版元の彩流社さん。今度は光太郎と特異な交流を持っていた詩人、野澤一(のざわ・はじめ)関連の書籍を刊行しました。題して『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』。さっそく注文しましたので、届き次第詳しくご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月25日006

昭和21年(1946)の今日、宮澤清六と共に編者を務めた日本読書組合版『宮澤賢治全集』全6巻の刊行が始まりました。
 
第一回配本の「第二冊」は、『春と修羅』などの詩を収めています。
 
装幀、題字も光太郎。実にいい文字だと思いませんか?
 
黒いもやもやはシミではなくそういうデザインです。

昨日に続き鎌倉ネタです。
 
鎌倉は鶴岡八幡宮にほど近いところに川喜多映画記念館さんがあります。こちらで現在、「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」という企画展示および映画上映を行っています。
 
同館サイトから。
 
『ためらふ勿れ若人よ』でデビューとなった15歳の新人女優は、役名の一部から「原節子」と名付けられました。類まれなる美貌でたちまち注目を浴び、16歳で日独合作映画『新しき土』のヒロインを演じ、映画は大ヒットを記録します。戦後は『わが青春に悔なし』、『東京物語』などに出演、日本映画界を代表するスター女優として、多くの名作を残します。しかし、昭和37年『忠臣蔵』への出演を最後に、表舞台には一切出ることなく、その存在は永遠の伝説として人々の心に深く刻み込まれました。
 本企画展は、写真家・秋山庄太郎、早田雄二によるポートレートや映画資料などの展示、出演作品や『新しき土』関連映像の上映を中心に、鎌倉にゆかりの深い大女優・原節子の軌跡を辿ります。今も多くの人々を魅了し続けるその美しさを、名作の数々とともにぜひご覧ください。
 
原節子さんといえば、伝説の映画女優ですね。同じく伝説的な映画監督・小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男らの作品に出演しています。引退後は一切メディアに出ず、鎌倉で暮らされているそうです。
 
その原節子さんが智恵子役、光太郎役に山村聰さんを配した熊谷久虎監督作品「智恵子抄」が、光太郎の歿した翌年の昭和32年(1957)に封切られました。
 
川喜多映画記念館での「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」の一環として、「智恵子抄」も上映されます。
 
期間は来年1月7日(火)~9日(木)。7日は午前10:30からと、午後2時からの2回、8日と9日は午後2時からの1回のみの上映です。
 
昨日ご紹介した神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」と併せて是非ご覧下さい。
 
ちなみに原節子さんの映画「智恵子抄」、20年ほど前にVHSテープで市販されました。現在は版を絶っており、時折中古市場でかなりプレミアの付いた価格で売りに出ています。
 
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その他、当方、こつこつと集めたポスター、パンフレット、チラシ、シナリオ、スチール写真、記事の載った当時の雑誌などを持っています。その一部を、一昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の際にお貸しし、展示されました。年配のお客様には「あらー、原節子よー」ということで、好評だったそうです。
 
こうしたものに限らず、当方手持ちのものは、各種企画展、イベントなどにお貸しすることは可能ですので、必要とあらばお声がけ下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月24日

昭和16年(1941)の今日、大政翼賛会会議室で催された文学者愛国大会に出席、日本文学者会設立委員に任じられました。
 
翌年設立された日本文学報国会につながって行く流れです。 

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
第一の目的は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」を観るためでした。
 
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こじんまりとした企画展示でしたが、内容は濃いものでした。
 
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まず会場にはいるとロダン作「花子のマスク」。明治41年(1908)の作です。ただし、「鋳造1974年」と特記してありました。
 
以前にも書きましたが、花子はロダンのモデルを務めた日本人女優で、光太郎は昭和2年(1927)に岐阜まで会いに行っています。
 
それからロダンの素描が1点、展示されていました。
 
他はロダンに影響を受けた後進の彫刻家達の作品。海外ではブールデル、ジャコメッティなど、日本では中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門など。
 
そして光太郎。大正6年(1917)の「裸婦坐像」と、同15年(1926)の「大倉喜八郎の首」が並んでいました。
 
それから特集展示ということで、チェコの彫刻家ズビネック・セカールの作品が約20点。庭にも本郷新や柳原義達など、やはりロダンや光太郎の影響を受けた彫刻科の作品がありました。
 
正直、荻原守衛や舟越保武、佐藤忠良なども並んでいるともっとよかったかな、と思いましたが、ぶらっと立ち寄るにはちょうどいい規模かもしれません。
 
会期は来年3月23日までです。
 
こちらがあまり時間がかからなかったので、古都・鎌倉を歩きました。以前から行ってみたいと思いつつ、未踏の場所があったからです。
 
材木座にある長勝寺さん。日蓮宗の古刹で、元々日蓮が草庵を結んだ地だそうです。
 
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こちらの境内に立つ日蓮上人の銅像が、光雲の作です。
 
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上の画像、対象物がなくて大きさがわかりにくいと思いますが、高さ約8メートルだそうで、巨大な像です。日蓮と言えば辻説法。その姿をとらえています。
 
この像、もともとここに建てられたものではなく、東京の洗足池畔にあったものを移したとのことですが、詳しい経緯などは書かれていませんでした。
 
日蓮といえば、光太郎も東京美術学校の卒業制作(明治00635年=1902)で日蓮を作っています。題して「獅子吼」。こちらは経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿、とのことですが、腕まくりをして、今にも殴りかかってきそうなポーズです。腕を組んでいる、と勘違いしている方が多いのですが、右腕は垂らしています。
 
やはり光太郎の日蓮の方が、近代的ですね。おそらく光雲の日蓮は上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像同様、原型は木型でしょう。衣の波打ち方など、様式にはまっていて、リアルさには欠けています。迫力はあるのですが……。
 
さて、今日は自家用車でなく、公共交通機関で行きました。鎌倉駅に行くのも一つの目的でしたので。
 
今年6月に、横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをされたフルート奏者の吉川久子さん。

今年7月から、JR鎌倉駅の発車メロディーとして、吉川さんの演奏による「鎌倉」(♪しーちりがーはーまーのー、いーそづーたーいー)が流れているとのことで、聴いてみたかったのです。いい感じでした。通常の発車メロディーは電子音によるもので、やはり機械的な感じが否めませんが、JR鎌倉駅のものは吉川さんのフルート演奏を録音して使っているため、温かみがあります。古都の雰囲気にぴったりですね。
 
鎌倉駅をご利用の際には、ぜひ耳をお傾け下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月23日

昭和63年(1988)の今日、東京地方裁判所民事法廷において、長く争われていた『智恵子抄』著作権に関する裁判の判決が言い渡され、著者側の勝利となりました。
 
その後の控訴審も同様の判決が出、著作権に関する代表的な判例ということで、法曹界では有名な事象です。

昨日、小学館さんで刊行している雑誌、『サライ』の12月号を取り寄せて手に入れました。
 
実は、現在、店頭で販売されているのは1月号です。ではなぜ先月号を手に入れたのか、と申しますと、ネットで調査中、12月号の付録「平成26年『サライ』特性カレンダー 「日本美術の名宝」暦」に光太郎の木彫「鯰」が使われているという情報を得たからです。
 
喜び勇んで書店に行ったのが14日。その時点では毎月10日発売というのを知らず、既に12月号は売られていませんでした。あきらめきれずにネットでバックナンバーが購入できないかと試み、ようやく手に入れた次第です。
 
早速開封してみると、こんな感じでした。
 
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そして6月が「鯰」。竹橋の東京国立近代美術館が所蔵しているもので、今年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の千葉展と岡山展で出品されたものです。
 
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他のラインナップは以下の通り。
 
1月:国宝「普賢菩薩像」、2月:狩野山雪「雪汀水禽図屏風」、3月:俵屋宗達「風神雷神図屏風」、4月:岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」、5月:円山応挙「藤花図屏風」、7月:狩野永徳「洛中洛外図屏風」、8月:葛飾北斎「諸国瀧廻り」、9月:久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」、10月:快慶「阿弥陀三尊像」、11月:狩野秀頼「高尾観楓図屏風」、12月:雪舟「秋冬山水図」。
 
こうしてみると、近代は光太郎だけですね。
 
それから本誌の方では光雲が紹介されています。
 
10月にこのブログで紹介した京都国立近代美術館で開催中の「皇室の名品-近代日本美術の粋」展の記事が載っており、光雲の「松樹鷹置物」が大きく載っています。
 
この雑誌は美術関連にも力を入れています。7月号では「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を取り上げて下さいました。ありがたいことです。
 
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当方、時折利用する雑誌専門の通販サイト「Fujisan.com」で入手しましたが、小学館さんのサイトからもバックナンバーが取り寄せられます。ともに定価750円。ぜひお買い求めを。

【今日は何の日・光太郎】 12月22日

大正3年(1914)の今日、上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われました。
 
99年前の今日が、二人の結婚記念日というわけです。まぁ、共棲生活に入ったのはもっと前と推定されますし、逆に入籍したのは昭和8年(1933)ですから実に20年近く後ですが。
 
雨男光太郎の面目躍如で、この日も冬には珍しい豪雨だったそうです。
 
以前にも書きましたが、第一詩集『道程』の刊行も同じ大正3年です。したがって、来年・2014年は『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚100周年ということになります。そのあたりの線で顕彰活動を進めていこうと考えております。

南関東は昨日まで3日ほど雨や雪が続き、都心でも初雪を観測したそうです。が、基本的に冬の関東は乾燥したカラカラ陽気で、火災が発生しやすい状態です。
 
111年前の今日、光太郎も火災に泣かされました。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月21日

明治35年(1902)の今日、駒込林町155番地の光雲宅に作った光太郎アトリエが火災で焼失しました。
 
東京美術学校彫刻科を卒業した年で、まだ光雲宅に同居していた時代の話です。この年の3月に、一部を光雲と共用する形で、自宅敷地内にアトリエを建ててもらったのですが、わずか1年足らずで燃えてしまいました。
 
以下、その直後に光太郎の書いた「工場失火についてのおぼえがき」から。
 
 明治三十五年十二月二十一日午前三時半彫塑室焼失し参考品書籍類及雑具悉皆烏有に帰せり。
 源因は暖炉の落し灰なるべし。
 彫塑室はこの三月の新築に係り、三間に四間の土蔵造りにして北に明取りの窓あり、来年博覧会に出品すべき油土の原型も製作中のこととてまたこの内にありしが皆燃え果てたり。
 
 
以下、「おぼえがき」ということで、火事見舞いに来てくれた人々の名前等が列記されています。
 
光太郎の弟の豊周による『定本光太郎回想』(昭和47年=1972)にも記述があります。
 
 外から火を被っても中の物は安全にして置きたいという配慮から土蔵造りになって居り、天井はガラス張りで明りをとる、当時としては立派ないいアトリエだったのだが、春に出来て十二月には燃えてしまったのだから、ほんのわずかな寿命だったし、家としては莫大な損害だった。
 普請の時に残っていた縁の下のカンナ屑に、ストーブの残り火がうつり、発見した時にはすっかり火の手がまわって、危くて入れない。近所にあった大阪屋という下宿の主人が火事なれている人でよく働いてくれたりして、ようやく火は消しとめたけれど、とうとう中のものは、父や兄の作品をはじめ一物も持ち出さずに灰になってしまった。焼跡の灰を兄はいつまでも掘り返して、未練深く参考写真の使えそうなのを丁寧に探し出していたのだが、いかにも気の毒だった。この失火の時の覚え書が兄の手で残されていて、全集十一巻に入っている。アトリエは取り壊され、そのまま建て直されなかった。
 
現在、写真だけは残っている初期の彫刻「仙」「まぼろし」などは、この時に燃えてしまったと推定されます。画像はこの年3月に発行された美術学校生徒の作品写真集『第弐回彫塑生面』から取りました。
 
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火災には気をつけたいものです。

新刊コミックスです。

くーねるまるた 第3集

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小学館『ビッグコミックスピリッツ』連載の漫画の単行本・第3集です。作者は高尾じんぐさん。
 
主人公は、日本の大学院修了後、そのまま日本に居着いてしまったポルトガル人女性といういっぷう変わった設定です。、同じアパートに住む女性達との「食生活」を軸に話が展開、毎回、お金を使わない安上がりな、しかししゃれた料理のレシピが掲載されています。
 
このほど刊行された第3巻の「第36話 青梅」で、『智恵子抄』に触れています。「梅」ということで「梅酒」です。
 
  梅酒006
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
 
この回では梅酒以外に、「梅醤油」、「梅ドリンク」などが紹介され、さらにメインは梅酒の梅を具に使った「梅酒カレー」。レシピも載っています。
 
ところで、今年の初め頃、その名もズバリ『梅酒』という題名のコミックスを紹介しました。
 
こちらの作者は幸田真希さんという女性漫画家。
 
そして今回の高尾じんぐさん、ということで、女性は『智恵子抄』の「梅酒」が好きなんだな、と思ったところ、今日の記事を書くために調べていて、高尾さんは実は男性だと知りました。上記の絵柄で、料理漫画。登場人物のほとんどが女性。てっきり作者も女性だと思いこんでいました。
 
「そういうのが封建時代的性差別観念だ」と、ジェンダー論者のコワいお姉様方に糾弾されてしまいそうです(笑)。

【今日は何の日・光太郎】 12月20日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養していた智恵子を再び駒込林町のアトリエに引き取りました。
 
福島の智恵子の実家・長沼家破産、一家離散後、九十九里に移っていた智恵子の妹・セツの婚家に、母・センともども身を寄せていた智恵子。この年5月からの九十九里生活の中で、「尾長や千鳥と相図」(詩「風にのる智恵子」)し、「人間商売さらりとやめて」(同「千鳥と遊ぶ智恵子」)、「限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出」(同「値ひがたき智恵子」)てしまいました。いわば人格崩壊……。
 
九十九里の家には幼い子供もおり、ギブアップ。しかしアトリエに戻っても智恵子の病状は昂進するばかりで、翌昭和10年(1935)2月末には、南品川ゼームス坂病院に入院させることになります。
 
上記の梅酒は、おそらく九十九里に行く前に智恵子が作ったものでしょう。

展覧会情報です。 
 
上野の東京国立博物館と東京都美術館のコラボレーションにより、両館で開催される三つの展覧会を結ぶプロジェクト「日本美術の祭典」が開催されますが、その中の一つがこれです。
 
人間国宝に認定された全物故作家の作品約100件、さらに存命中の作家の作品も並ぶとのことで、光太郎の弟で、鋳金家の高村豊周、そしてその弟子で光太郎ブロンズ作品の鋳造を多数手がけられた斎藤明氏(本年ご逝去)の作品も展示されます。

日本伝統工芸展60回記念 人間国宝展 ―生み出された美、伝えゆくわざ―

会期  2014年1月15日(水)~2月23日(日) 午前9時30分~午後5時 月曜休館
会場  東京国立博物館 平成館 
 
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(12/4 朝日新聞)
 
以下、公式サイトより。
 
日本では、伝統の「わざ」を受け継ぐ優れた工芸家を重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定しています。工芸大国日本ならではの制度といえるでしょう。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の各分野で多くの人間国宝を育ててきた「日本伝統工芸展」の6 0回記念として、「人間国宝展」を開催いたします。
全物故作家の作品約100件、さらに古代から、中世、近世へと連綿と伝えられてきた国宝や重要文化財を含む工芸品約30件を向き合わせて展示し、卓越したわざの美をご覧いただきます。伝統と現代とのつながりを見る、これまでにない画期的な展覧会です。

 
同じ東京国立博物館での「クリーブランド美術館―名画でたどる日本の美」、東京都美術館で開かれる「日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』」を併せた「日本美術の祭典」としては以下のように紹介されています。
 
 2014年、上野の新春は「日本美術の祭典」で幕を開けます。
 東京国立博物館と東京都美術館のコラボレーションにより、両館で開催される3つの展覧会を結ぶ特別なプロジェクトが実現しました。
 時代を超えて輝きを放つ絵画や工芸の名品に触れることで、さまざまな日本の美を再発見していただこうという新しい試みです。
 東京国立博物館では2つの特別展を同時開催します。「クリーブランド美術館―名画でたどる日本の美」は、全米屈指といわれる同館の日本美術コレクションから、仏画や肖像画、花鳥画、山水画などを選りすぐって公開するものです。日本伝統工芸展60回記念「人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」では、歴代の人間国宝や先人が残した古典の名作を展観し、日本が誇る工芸の精華を紹介します。
 一方、東京都美術館で開かれる「日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』」には、近代日本画の巨匠たちの代表作が勢揃いします。
 日本美術の粋が集結するまたとないこの機会、素晴らしき三重奏をお楽しみください。


ぜひ足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月19日

平成16年(2004)の今日、下北沢のザ・スズナリで上演されていた、光太郎智恵子演劇「れもん」が千秋楽を迎えました。
 
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光太郎役が柄本明さん、智恵子役が石田えりさん。キャストはそれだけの二人芝居でした。

先日、代官山のクラブヒルサイドサロンで行われた、編集者・絵本作家で、光太郎と交流のあった彫刻家・故舟越保武氏のお嬢さんでいらっしゃる末盛千枝子さんによる「読書会「少女は本を読んで大人になる」第6回高村光太郎『智恵子抄』」の模様が、主催のクラブヒルサイドさんのサイトにアップされましたので、ご紹介します。当方レポートと併せてご覧下さい。

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それから、一昨日ご紹介したけせんぬまさいがいエフエムさんの「水上洋甫のポエムディスカバリー」。3回に分けて光太郎を取り上げて下さり、そのうち2回分が動画サイト「youtube」にアップされましたのでご紹介しましたが、残る1回分も投稿されました。


  
太平洋戦争から終焉までの光太郎生涯の解説と、詩「案内」の朗読で構成されています。
 
こちらもご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月18日

昭和63年(1988)の今日、静岡県立美術館で開催されていた「近代日本彫刻の歩み展 西欧との出会い」が閉幕しました。
 
光太郎彫刻が4点出品されました。

一昨日、今年最後の二本松行きでした。なんだかんだで今年は7回二本松を訪れまして、通算では何回になったかわかりません。非常に愛着のある街です。
 
一昨日は雪雲に覆われていて、安達太良山は見えませんでしたが、よく晴れた日の安達太良山は、それは見事なものです。その上に広がる「ほんとの空」も。
 
さて、本日はその安達太良山関連の情報を。
 
まずはテレビ放映情報です。 

BSジャパン 2013年12月24日(火)  22時54分~23時24分

番組内容
福島県本宮市。古くは奥州街道と会津街道が交わる宿場町として栄えました。本宮市郊外にある「蛇の鼻遊楽園」にある「蛇の鼻御殿」は、明治末期に土地の豪農が8年の歳月をかけて建てた別荘で、その贅を尽くした造りが、当時の農村の繁栄を今に伝えています。そして今でも、駄菓子屋さんに映画館、コッペパンが売り物のパン屋さんなど、どこか懐かしい、昭和の情緒が息づく風景と共に暮らす人々がいます。

◆ナレーション  荻野目洋子
 
本宮市は二本松市の南に隣接しています。東北自動車道では、二本松ICの一つ手前が本宮ICです。当方、今の今まで「本宮町」だと思いこんでいましたが、6年前に「本宮市」になっていました。
 
二本松まで行ってしまうと、かえって近すぎて安達太良山の山容がよく見えなかったりします。その点、山裾にある本宮から見る安達太良山は、非常に美しく見えます。
 
002昭和41年(1966)には、この本宮を舞台にした映画「こころの山脈」が公開されました。右の画像は、当方の持っているポスターです。
 
以下、『福島民友』さんのデータベースから。
 
映画「こころの山脈」(本宮市)
 
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 ここはあなたの生れたふるさと

 阿武隈川にかかる昭代橋(下の橋)で、安達太良山を望みながら産休補充教師の本間秀代が教え子の清に「智恵子抄」(高村光太郎著)の詩の一節を語る。旧本宮町を舞台に教師と児童の心温まる交流を描いた映画「こころの山脈」(1966年)のワンシーンだ。
 作品は、良質な映画を子どもたちに見せようと、旧本宮町の母親たちが中心となりつくった「本宮方式映画製作の会」が、近代映画協会の協力で制作した。脚本は本県出身の千葉茂樹さん。映画監督吉村公三郎さんがメガホンをとり宇野重吉さん、山岡久乃さん、吉行和子さん、殿山泰司さんら一流俳優と本宮小の児童が出演。65(昭和40)年秋、本宮小、昭代橋などで撮影が行われた。
 「心豊かな子どもたちが育つようにと始めた。行動力はすごかった」と同会事務局の本田文子さん(84)は振り返る。撮影で使う着物や米びつなどを持ち寄り、運動会シーンでは町民が重箱を持ち大勢集まるなど町ぐるみで支援。制作費を集めるため全県にチケット購入を呼び掛けたという。本田さんは「この映画は本宮の一つの文化財」と話す。
 昭代橋のシーンでは問題児だった清が「先生、おれこれからうんと勉強する」と誓うと、本間先生が「子どもにはね、無限の可能性がある。清君のこと楽しみにしてるよ」と励ます。本宮の母親たちが映画を通して子どもに託した思いは、今も変わらない。
 
上記「みんなのまち」はその本宮を紹介する番組です。ぜひご覧下さい。
 
もう1件、来年のイベントです。 

日本百名山そしてあの有名な智恵子抄で御馴染みの安達太良山を走り抜けてみませんか?
 
開催日 2014年8月24日 (日) 
開催地 福島県(安達郡大玉村)
エントリー期間  2013年12月18日 0:00~2014年7月20日
主催 緑豊かな福島路を走ろう会
種目・参加資格 25km
男女別18歳以上 制限時間:6時間
参加料 6400円
 
だいぶ先の話なのですが、明日から受け付け開始ということで……。
 
まだまだ復興途上の福島県。もっともっと盛り上げていきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月17日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエに、花巻のリンゴ農家・阿部博からリンゴが届けられました。
 
リンゴの美味しい季節になりました。コタツでミカンもいいものですが、当方、ルーツは信州ですのでリンゴも大好物です。
 
それはさておき、阿部博は花巻農学校の卒業生で、晩年の宮澤賢治とも知遇を得ていた人物。昭和21年(1946)、賢治の命日に宮澤家へリンゴを届けた折に光太郎を紹介され、以後、親しく交わるようになりました。光太郎が花巻を離れてからもリンゴを送り続けたとのこと。
 
昭和24年(1949)頃、光太郎は、「酔中吟」という即興の詩を阿部に贈っています。その自筆揮毫を刻んだ碑が花巻市石上に現在も続く阿部家のリンゴ園に建てられています。
 
 奥州花巻リンゴの名所
 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた
 国光紅玉デリシヤス

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宮城県気仙沼市のローカルFMで、「けせんぬまさいがいエフエム」という局があります。
 
そちらで「水上洋甫のポエムディスカバリー」という番組がオンエアされているそうです。
 
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その中で、今年10月に光太郎が扱われました。さすがに当方の住む千葉県では宮城のFMは受信できませんが、動画サイト「youtube」にアップされましたのでご紹介します。全3回のうち、2回分ですね。




 
第1回は10/16オンエアで「道程」、第2回は10/30オンエアの「レモン哀歌」。それぞれ詩の朗読だけでなく、その頃の光太郎について解説がなされています。
 
気仙沼といえば、このブログでたびたび紹介している女川や石巻同様、昭和6年(1931)に光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くために訪れています。平成5年(1993)には、旧唐桑町に、短歌「黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり」を刻んだ歌碑が作られました。当方、10年以上前になりますが、ここを訪れたことがあります。
 
 
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当時はのどかな漁村の風景を楽しんだのですが、やはり東日本大震災による大津波……。
 
その気仙沼で、光太郎を扱ったラジオ番組ということで紹介させていただきました。
 
この碑は健在だそうですので、また折を見て、行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月16日

昭和27年(1952)の今日、丸ビル内の中央公論社画廊でこの年11月に開催された「高村光太郎小品展」御礼として一万円を受け取りました。
 
光太郎生前に開かれた唯一の個展です。
 
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 そういえば、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。昨日をもって全国3館巡回、全て終了しました。またそちらについては書きますが、ご来場下さった皆様、本当にありがとうございました。

今日は福島県・二本松に行って参りました。
 
「智恵子のまち夢くらぶ」さんにより、4月から開催されていた「智恵子講座’13」が今日で閉講ということで、お邪魔した次第です。
 
「安達太良山はもう雪化粧」という情報は、事前に得ていまして、「それなら途中では名残の紅葉が見られるかな」などと考えておりましたところ、どうも福島を甘く見ていました。常磐自動車道から磐越自動車道に入るあたりで雪がちらつき始め、阿武隈高原の辺りからは銀世界でした。
 
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安達太良山も雪雲に覆われ、ご覧の通りでした。
 
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ただ、吹雪くということはなかったので助かりました。それでも郡山ジャンクションから東北道に入ってすぐあたりで、乗用車2台大破の事故のため渋滞になっていました。改めて気をつけようと思いました。
 
さて、午前中はいわき市暮らしの伝承郷館長の小野浩氏による講座・「草野心平と宮澤賢治」。2人が光太郎とどのように関わったか、というか3人のつながり、といった点でお話がありました。
 
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午後は閉講式ということで、受講された皆006さん一人一人、感想や光太郎智恵子に関する思いを語る時間が設けられ、当方も話をして参りました。
 
地元の方がほとんどでしたので、やはりいかに二本松という地域に根ざした活動を続けていくか、といった話題にもなりました。日本中どこでもそうですが、今後の課題ですね。
 
それから今年の活動記録、新聞報道のコピー、受講者の皆さんや我々講師の文章をまとめた文集も配布されました。講座の企画から運営、こうしたものの作成、さらに講座以外に研修旅行などの手配もされた熊谷代表、本当にお疲れ様でした。
 
来年は「智恵子のまち夢くらぶ」さん結成十周年だそうで、これまでと活動内容を大幅に変え、講座は行わず(光太郎智恵子を語るつどい的なことはやられるようですが)、研修旅行系の部分を充実させるそうです。6月には女川、そして秋にはなんとパリに行かれるとのこと。凄い行動力ですね。
 
当方も女川や語るつどいなどの部分は、やはりできる限りお手伝いするつもりでおります。
 
「講座」といえば、名古屋在住の高村光太郎研究会会員・大島裕子様からメールをいただきました。ご主人の名古屋学芸大学教授とお二人で、「名古屋・高村光太郎談話会」という講座を始められる由。「田舎の小さな出来事なので、公開には及びません」とのことでしたが、せっかくですのでとりあえず簡単にご紹介いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月15日

昭和14年(1939)の今日河出書房から『現代詩集』第一巻が刊行されました。
 
光太郎は「猛獣篇其他」として近作22篇を載せました。
 
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気がつけば12月も中旬。年の瀬の雰囲気が漂ってきましたね。
 
1月に行われるイベント等をいくつか把握していますが、来年の話だからまだいいか、と思っていましたが、考えてみればあと半月で来年なのですね。
 
まずは元旦に行われるイベントです。  

片貝中央海岸 初日の出 九十九里町元旦祭

昭和9年(1934)、智恵子が半年余り療養のため滞在し、詩集『智恵子抄』中の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などの歌枕となった九十九里浜でのイベントです。
 
観光スポット・イベント情報サイト「じゃらん」から。
 
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片貝中央海岸では、太平洋の地平線から昇る初日の出を見ることができます。九十九里町は見渡す限り果てしなく続く九十九里浜の中央部に位置し、太平洋の海原が一望できます。午前5時30分頃から、甘酒やいわしの丸干しが集まった人々に無料で配られます。
 
開催場所:千葉県九十九里町 片貝中央海岸
所在地:〒283-0104 千葉県九十九里町片貝
交通アクセス:JR東金線「東金駅」から片貝線のバス約25分「西の下」~徒歩10分、または東金九十九里有料道路「九十九里IC」から車約5分
開催期間:2014年1月1日 5:30~
主催:九十九里町観光協会
 
「人気の周辺観光スポット」ということで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑も紹介されています。ただ、イベントの行われる地点から3㎞ほど離れているようですが。
 
 
主催の九十九里町観光協会さんのサイトから。

九十九里町のビックリ鏡餅イベント開催!!

「もういくつ寝ると、お正月~♪」こんな歌がそろそろ聞こえてくる時期となりました。
 九十九里町では、これからの正月の時期に様々なイベントを開催いたします。今年で9回目を数える「もちつき大会」。前回以上の出来栄えを目指し、もちつきに参加してみませんか。また、その他イベントを掲載いたしますので、ご確認ください。
 
元旦祭
  ・日 時  平成26年1月1日(水・祝) 午前5時30分
  ・場 所  片貝中央海岸
  ・問合せ  九十九里町観光協会 TEL 0475-76-9449
 
その前後に行われる「大もちつき大会」「006大鏡開き」とあわせて紹介されています。
 
大もちつき大会
日時 平成25年12月23日(月・祝) 午前9時
会場 JA山武郡市片貝支所
大鏡開き
日時 平成26年1月13日(月・祝) 午前10時
会場  九十九里町商工会前駐車場


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九十九里周辺は、緯度・経度の関係で、離島を除く日本本土でもっとも早く初日の出が見えるスポットです。しかも東は広大な太平洋。水平線から昇る初日の出を見ながら、光太郎智恵子に思いをはせるのもいいのではないかと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月14日

明治19年(1886)の今日、光太郎一家が下谷区仲御徒町に転居の登記をしました。
 
それ以前は、同じ下谷区の西町(現・東上野)に住んでいました。この後、やはり下谷区の谷中町を経て、本郷区駒込千駄木林町に移ることになります。

新刊です。 

脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する

近藤祐著 彩流社刊 定価2500円+税
 
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戦前の東京地図に散見し、しかし現在はその場所から消失した「脳病院」とは何か!?
 
芥川龍之介が神経衰弱の末に自殺した昭和二年以降、文学史にさまざまな狂気が連鎖する。辻潤は天狗となって二階窓からの飛翔を試み、太宰治はパビナール中毒で強制入院させられる。愛児を失った中原中也は忘我状態となり、高村智恵子は精神分裂病で生涯を終えた。わずか十年余りに連鎖するこれらの狂気には、何か共通因子があるのか。また彼らはどのような治療を施されたのか。明治・大正・昭和と帝都東京における脳病院の成立と変転を辿り、都市と人間、社会と個人の軋轢の精神史を探索する。
(帯より)
 
目次は以下の通りです。
 
プロローグ
第一部 
 第一章 初期癲狂院
 第二章 正系としての帝国大学医科大学・呉秀三・府立巣鴨病院
 第三章 脳病院の登場
 第四章 郊外へ
第二部
 第一章 芥川龍之介の小さな世界
 第二章 辻潤または飛翔するニヒリスト
 第三章 家族はどうしたのか ―高村光太郎と長沼智恵子―
 第四章 ここほ、かの、どんぞこの ―太宰治の分岐点―
 第五章 中原中也 暴走する精密装置
エピローグ
主要参考文献
年表
あとがき
 
昨日手元に届き、まだ光太郎智恵子に関する章しか読んでいませんが、それだけでもなかなかのものです。
 
著者の近藤氏はその道の専門家ではない、とのことですが、かえってそれだけに同じく専門家でない我々にわかりやすい書き方になっています。といって、門外漢が浅薄な知識で論じているものではなく、精神医学史についての調査は綿密に行き届いています。智恵子発病時に光太郎が短期間治療を依頼した諸岡存についての記述など、当方も知らなかったことがたくさんありました。
 
また、光太郎がなぜ智恵子の入院先として南品川のゼームス坂病院を選んだか、といった点の考察も、なるほど、と思わせるものでした。
 
惜しむらくは年代の記述で若干の事実誤認があるのですが……。
 
版元・彩流社さんのサイトへから注文可能です。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月13日

平成4年(1992)の今日、日本テレビ系の教養番組「知ってるつもり?!」で、光太郎がメインで取り上げられました。
 
関口宏さんの司会で、比較的長寿の番組でしたので、ご記憶の方も多いでしょう。かつてはこういう番組がけっこうありましたが、最近、特に民放ではこの手の番組は減ってしまいましたね……。

昨日、名古屋在住の作曲家・野村朗氏から先月、愛知碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として行われたリサイタルのDVD、パンフレットをいただいた件を書きました。
 
氏の「智恵子抄」系リサイタルパンフレットやチラシによく使われているイラストがあります。
 
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智恵子をイメージして描かれたものですが、前々から「なかなかいい絵だな」と思っていました。
 
そう思っていたところ、先般、野村氏から届いた荷の中に、こちらのイラストを描いた方が作られた来年のカレンダーが入っていました。
 
 
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作者はやはり名古屋在住(だと思われます)のイラストレーターで、西尾香美(くみ)さん。

カレンダーは2ヶ月で1枚になっているタイプで、野村氏のリサイタルで取り上げられた日本の詩をモチーフにしたイラストが描かれ、詩の一節が印刷されています。それぞれ素晴らしいイラストです。
 
名古屋イラストレーターズクラブさんのサイトで見ることができますが、ダイレクトにリンクが貼れません。
 
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7・8月のページが「レモン哀歌」。いいですね。
 
 
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名古屋市のセントラル画材さんで扱っており、セントラルアートビル本店画材売り場、及びセントラル出力センターにて1部500円で販売、とのことです。
 
オンラインで入手できないというのがちょっと残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月12日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村山口の高橋家で、「法隆寺幻灯会」を行いました。
 
今で言うプロジェクタのように、スクリーンに静止画を映し出す機械として、スライド映写機がありました。そのスライド映写機や、その原型となった機械を「幻灯機」と言っていました。宮澤賢治の童話によく出てきます。
 
光太郎はその幻灯機と、ソフトとして法隆寺に関するフィルムを入手、村人に対して日本美術に関する講話を不定期に行っていた一環として、65年前の今日、「幻灯会」を行いました。

名古屋在住の作曲家、野村朗氏からいろいろいただきました。
 
氏は「智恵子抄」などの光太郎の詩に曲を付けた歌曲作品をいくつか作曲なさっています。

 
愛知碧南の藤井達吉現代美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、11月9日に行われた「連作歌曲「智恵子抄」全曲演奏会」のパンフレットと、当日の模様を撮影したDVD。
 
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早速拝見しました。
 
新曲として、「歌曲 「冬の言葉」」がラインナップに加わっていました。原詩は昭和2年(1927)の作。「智恵子抄」に含まれるものではありません。
 

   冬の言葉007

冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が洗ひ出すのは萬物の木地。

天はやつぱり高く遠く
樹木は思いきつて潔らかだ。

蟲は生殖を終へて平気で死に、
霜がおりれば草が枯れる。

この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
冬はいきなり蹂躪する。

冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
人間手製の価値をすてよと。

君等のいぢらしい誇りをすてよ、
君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。
 
金銭はむかし貴族を滅却した。
君達は更に金銭を泥土に委せよと。

冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が求めるのは萬物の木地。

冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
一生を棒にふつて人生に関与せよと。
 
パンフレットに記された野村氏の言葉から。
 
 新作歌曲「冬の言葉」は、智恵子のこころが壊れて行く直前の作で、「人間の生き方」を問う作品です。人工透析を40年近く続けつつ作曲活動と市立大学法人職員の業務とを続けてきた私にとって、私の「生きる信念」と相通じるものがあり、強く励まされました。そして、光太郎が晩年、7年間の隠棲により「身をもって示した」ものも、この詩の中に予言されているように思います。願わくば、皆さんもご自身に問いかけてみて下さい、「一生を棒にふって人生に関与せよ」と。
 
その後は、以前にも演奏された「連作歌曲 「智恵子抄」」。「千鳥と遊ぶ智恵子」「あどけない話」「レモン哀歌」「間奏曲」「案内」の5曲でした。
 
演奏は3月に野村氏の地元・名古屋でのリサイタル、5月に東京日暮里であったリサイタルと同じ、森山孝光様、康子様でした。相変わらず熱のこもった好い演奏でした。
 
こういう形で光太郎智恵子の世界を広めていただけるのも非常にありがたいことです。
 
野村氏からは、もう一つ、素敵なものをいただきました。明日のこのブログでご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月11日

平成3年(1991)の今日、水道橋の宝生能楽堂でNHK能楽鑑賞会が催され、舞囃子「智恵子抄」が上演されました。
 
演者は観世流の皆さんでした。

俳優のすまけいさんの訃報が出ました。 

「アングラの帝王」俳優すまけいさん死去 78歳

1960年代にベケット劇などを斬新な翻案・演出で演じて「アングラの帝王」と呼ばれ、映画「男はつらいよ」シリーズやドラマなどでも名脇役として活躍した俳優のすまけい(本名・須磨啓〈すま・けい〉)さんが7日、肝臓がんのため死去した。78歳だった。通夜は12日午後6時、葬儀は13日午前11時から東京都新宿区上落合3の4の12の最勝寺で。喪主は妻洋子さん。
 
 国後島生まれ。芸術劇場を経て66年、新宿のジャズ喫茶などを拠点に俳優の故・太田豊治さんと「すまけいとその仲間」を結成。東京の小劇場でベケット「ゴドーを待ちながら」、オールビー「動物園物語」などを翻案した舞台を上演し、話題を集めた。72年に解散後は一時舞台から遠ざかったが、85年にこまつ座「日本人のへそ」で復帰。映画やドラマにも多数出演した。
 
 99年に膀胱(ぼうこう)がん、01年脳梗塞(こうそく)を発症。闘病しつつ俳優活動を続け、今年3月に千葉市で演じた朗読「天切り松 闇がたり」が最後になった。紀伊国屋演劇賞個人賞、ブルーリボン賞助演男優賞などを受賞した。
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すまさんといえば、平成6年(1994)に、テレビ東京系で放映された単発ドラマ「日本名作ドラマ 智恵子抄」で、光雲役でご出演されました。
 
こうしたドラマ・映画などでの光雲の描き方は、木彫界の巨匠として、また、光太郎にとっては非常に厳格な父親として描かれるのがほとんどで、重厚な雰囲気の俳優さんが多くキャスティングされていました。
 
ところがすまさん演じる光雲は、少し違っていました。いい意味で「軽い」のです。酒に酔って、智恵子役の南果歩さんの唄う「会津磐梯山」に合わせて踊り、泥酔して眠ってしまうシーンが印象的でした。といって、しょうもない人物というわけではなく、世間的には巨匠であっても、息子夫婦を思う気持ちは人一倍という感じで描かれていました。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月10日

昭和9年(1934)の今日、光太郎が題字を揮毫した中原中也の第一詩集『山羊の歌』が刊行されました。
 
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先月、十和田の皆様を東京千駄木の高村家、そして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生のお宅にご案内しました。
 
その時の話、それからそれを十和田市長に報告したという件が彼の地で報道されたそうです。
 
高村家、北川邸訪問については、青森テレビの川口浩一氏の書かれた文章が『毎日新聞』さんに載りました。
 
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市長への報告については『東奥日報』さん。
 
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全文ご紹介します。
 
今年で建立60周年を迎えた十和田湖畔の「乙女の像」について調査研究に取り組んでいる十和田市の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が11月中旬、制作者・高村光太郎のおいや光太郎研究の第一人者を訪ね、乙女の像にまつわるエピソードを聞いた。会のメンバーは27日、十和田市役所を訪れ、小山田久市長に調査成果を報告、像に込められた光太郎の思いなどを次世代に伝えていく決意を示した。
 
 乙女の像は、詩人で彫刻家の高村光太郎が制作した1対のブロンズ裸婦像。十和田湖を広く世に紹介した文人・大町桂月、当時の県知事・武田千代三郎、地元村長・小笠原耕一の3氏の功績をたたえ、国立公園指定15周年を記念して1953(昭和28年)に県が建立した。
 会のメンバーは11月15日、光太郎のおいに当たる高村規さん(83)=東京在住=と、光太郎全集を編集した研究者・北川太一さん(88)=同=を訪問。両氏は、乙女の像が前のめりの2体により無限性を意味する三角形を構成していることや、光太郎自身は「十和田のための裸婦群像」と呼んでいたことなどを指摘した。
 また、妻・智恵子がモデルになったとの定説については、北川さんは「必ずしもそうではない」とした上で、「裸婦群像は、3人の功労者への思い、平和への祈り、十和田の深く美しい自然から世界に向けて発信する、命をつなぐ愛と救済のシンボル。生身の智恵子でもない、もっと永遠のもの」と解説したという。
 さらに、光太郎が家族から「みつたろう」と呼ばれていたが、父・光雲と彫刻上の意見が合わず、反抗心から意識して「こうたろう」の名を使い続けたこと、智恵子の本名はカタカナの「チヱ」であることなど、新たな発見があった。
 訪問調査に参加した吉崎明子さん(73)は「十和田湖の自然を大切にした光太郎の思いをあらためて知ることができた」と話し、同会の小笠原哲男会長(84)は「今後、調査結果などをマンガにして子供向けのガイド本を発刊し、次の世代に伝えていきたい」と話した。
 
「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトには、この記事についての記述があります。
 
また、市のホームページでしょうか、こちらのサイトには市長への報告について記載されています。
 
今後も光太郎顕彰の拠点の一つとして、十和田の皆さんには頑張っていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月9日

明治33年(1900)の今日、与謝野鉄幹晶子夫妻の新詩社茶話会に出席、初めて多くの新詩社同人と顔を合わせました。

昨日は、茨城県つくば市に行き、先月のブログでご紹介した「語りの会「いっきゅう組」 発表会2013」を聴いて参りました。

 「いっきゅう組」さんは、文学座所属の俳優・声優の塾一久氏が講師を務める朗読サークルで、年2回ほど発表会を行っているとのこと。昨日は、つくば西武6階のつくば西武ホールが会場でした。
 
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前半はサークルの皆さんによる朗読で、この中に「智恵子抄」が含まれており、「巻末のうた六首」に始まって、戦後の作まで、上記の通りの作品が取り上げられました。
 
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それぞれに工夫された朗読で、感心しました。やはり詩は文字として視覚的に捉えるだけでなく、音声として聴覚的に捉えることも大切だと改めて思いました。
 
日本語の場合、漢字の読み方がやっかいです。どう考えても一つしかないという場合はともかく、そうでない場合があります。
 
先頃、当方がアドバイザーとして関わらせていただいたNHKさんの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」放送終了後、ディレクターの山中氏から電話がありました。放映の中のVTRで、朗読された花巻時代の光太郎の詩「案内」の一節についてでした。
 
うしろの山つづきが毒が森。
 
この「毒が森」を「ぶすがもり」と読んだところ、やはり朗読を長年やっているという視聴者の方から問い合わせがあり、あれは「どくがもり」ではないか? というのだそうです。
 
正解は「ぶすがもり」です。現地では間違いなく「ぶすがもり」という地名で読んでいます。元々毒草のトリカブトの別称が「附子(ぶす)」で、「不美人」という意味の「ブス」という語は、「附子(トリカブト)を食べて苦悶するような顔」というところから生まれたと聞いたことがあります。そこで正式な訓読みとして登録されていませんが「毒」の字を「ぶす」と読むケースは結構ありますね。
 
その後、北川太一先生ともこの件でお話をしましたが、北川先生の見解は少し違っていました。すなわち、原文にルビがなければ光太郎がどう読んでいたか分からないし、地名が「ぶすがもり」であっても、朗読の際には語感を大切にしたいというなら「どくがもり」と読んでもかまわないのではないか、ということでした。なるほど、と思いました。たしかにありえない、という読み方でなければ可でしょうし、そこに工夫の余地もあるのかな、などと思いました。ただ、地名などの固有名詞はやはり現地の読み方に従うべきかな……と思いますが。
 
実は安達太良山も現地では「あたらやま」と発音していますが、光太郎詩「樹下の二人」では「あたらやま」とルビが振られています。残された詩稿にはルビがありませんが、詩集『智恵子抄』ではそうなっています。もっとも、このルビもくせ者で、散文を含め、どこまで光太郎がルビに関与しているか何とも言えない場合があります。ただ、『智恵子抄』に関しては、改版のたびに光太郎が納得いかない部分に手を入れているので、このルビには光太郎の意志が介在しているはずです。
 
光太郎詩を歌曲にしている方々、シャンソン歌手のモンデンモモさんや作曲家の野村朗さんなどから同じような質問をよく受けます。その都度「こうでしょう」と自分の思うところを伝えてきましたが、今後は少し方向転換します。比較的自由に読んでいいですよ、ということで。
 
昨日のいっきゅう組さんの朗読を聴いていて、この件を思い出しました。
 
というのは、「郊外の人に」という詩で智恵子をして「愛人」と書いているのですが、これを昨日の朗読では「めでびと」と読んでいたのです。確かに「あいじん」と読むと不倫というイメージがどうしてもつきまといますね。浮気相手のことを「愛人」というようになったのはいつ頃のことなのか、この詩が書かれた大正元年(1912)頃はそういう意味があったのか、そういったことは分かりませんが、少なくとも現代においては「あいじん」というといいイメージはありません。そこでいっきゅう組さんでは「めでびと」と読まれていたのでしょう。こういうのはありだと思いました。
 
他にもそういう箇所がいくつかあり、おそらくメンバーのみなさんでいろいろ検討なさったんだろうな、と想像いたしました。
 
さて、後半は「映像ナレーター」という肩書きでラジオやテレビにもご出演なさっているという佐藤美生さん、そしていっきゅう組主宰の塾一久氏の朗読、さらには落語までありました。こちらも素晴らしいものでした。それでいて入場無料。得をした気分でした。
 
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いつも同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、一昨日の末盛千枝子さんのイベントなども含め、光太郎智恵子の世界を取り上げて下さるのはありがたいことです。どんなに優れた芸術作品でも、後の時代の人間がその価値を正しく受け止め、さらに次の世代へ伝えていく努力をしなければ、やがて歴史の波に飲み込まれ忘れ去られてしまいますので。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月8日

昭和16年(1941)の今日、第2回大政翼賛会中央協力会議に出席しました。
 
その会議中に太平洋戦争開戦の詔勅が出され、会議は繰り上げ終了。用意した光太郎の議案「工場施設への美術家の動員」は上程されずに終わりました。

昨夜は東京・代官山に行って参りました。
 
過日のブログでご紹介したクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」を拝聴して参りました。
 
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ゲストは編集者・絵本作家の末盛千枝子さん。光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だそうです。
 
お話の中には光太郎智恵子、そして智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』をお書きになった津村節子さんと同じく作家の故・吉村昭さんご夫妻、そしてご自身のご両親、さらにご自身など、さまざまな「夫婦」のありようについてのお話もありました。
 
末盛さんはお子様がまだ幼い頃に最初のご主人を急に亡くされ、再婚されたご主人も今年亡くされたそうですが、そうした深い悲しみを伴うはずのご体験もそうと感じさせせずにお話下さいました。もはや人生を達観なさっているという感じでした。
 
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光太郎という偉大な芸術家に名前を付けても000らったことに対し、お若い頃(失礼)には反発を感じる部分もあったそうですが、今では光太郎の思いをしっかり受け止められているようで、光太郎智恵子の事績についても的確なお話をなさいました。
 
また、末盛さんは岩手県八幡平市にお住まいだそうです。元々お父様の故・舟越保武氏は一戸のご出身で、盛岡にお住まいだった時期もあるので、そういう関係でしょうか。末盛さんご自身、盛岡にお住まいの頃、お父様に連れられて光太郎にお会いになっているとのことです。
 
そこで、東日本大震災の復興支援ということで、「絵本プロジェクトいわて」という活動にも携わっていらっしゃいます。
 
これは「被災地の子どもたちへ絵本を届ける」というコンセプトで、少し前までは絵本の寄贈も受け付けていましたが、現在はそちらは締め切り、現在は絵本を子どもたちへ届けるとともに、 「えほんカーを被災地へ」プロジェクトなどを行っているそうです。
 
ところで、休憩時間に末盛さんにご挨拶いたしましたところ、会の終了間際にいきなり当方に振られ(よくあることなのでもう慣れっこですが)、ご参会の皆様の前で連翹忌の宣伝をさせていただきました。
 
とにかく光太郎智恵子を敬愛する人々のネットワークを広げていくことが大切だと考えておりますので、このブログをお読み下さっている方々も、ぜひ連翹忌にご参加下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月7日

明治20年(1887)の今日、皇居造営事務局の命を受け、光雲が皇居化粧の間鏡縁「葡萄に栗鼠」を制作しました。
 
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平成14年(2002)に茨城県近代美術館他で巡回開催された「高村光雲とその時代展」に出品され、当方、実物を見ましたが、舌を巻くような精緻な彫刻、まさに超絶技巧でした。

展覧会情報です。  

ロダンからはじまる 彫刻の近代

2013年12月14日~2014年3月23日
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 鎌倉市雪ノ下2-8-1
近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家ロダンとその弟子ブールデル、彼らの影響を受けた高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らのほか、海外の20世紀彫刻からはアルプやジャコメッティなど、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約30点を紹介します。併せて、チェコスロバキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示を行います。
 
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先日、同館館長の水沢勉氏にお聞きしたのですが、光太郎作品は、同館で所蔵している「裸婦坐像」が展示されるとのことです。
 
12/22追記「大倉喜八郎の首」も展示されていました。
 
チラシ右上の画像はロダンの「花子の首」ですね。光太郎はロダンの評伝執筆(昭和2年=1927)に際し、モデルになった日本人女優・花子こと太田ひさに会いに岐阜まで行っています。

他にも光太郎と交流のあった彫刻家の作品が並び、彫刻史の中で光太郎を捉えるには恰好の機会でしょう。冬の鎌倉も乙なものと思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
展覧会がらみでもう一件。現在、愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」についての報道がありました。 

高村光太郎展、入場1万人に 愛知・碧南、15日まで

2013年12月5日03時00分 朝日新聞
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「彫刻家 高村光太郎展」(同美術館主催、朝日新聞社など共催)が4日、入場者1万人を達成した。
 1万人目は、初めて同館を訪れた半田市上池町の主婦広瀬和子さん(66)。彫刻家としての光太郎に興味があり、友人と一緒に訪れたという。
 広瀬さんは「力強いブロンズの『手』や、可愛らしい『蝉(せみ)』『柘榴(ざくろ)』などの木彫に感動しました。彫刻家としての才能も感じた」と話し、木本文平館長から認定書や同展の図録、藤井達吉の陶板などが贈られた。
 同展は、光太郎の生誕130年を記念して開催。妻智恵子の切り紙絵なども展示されている。
 15日まで。一般700円、高大生500円、小中学生300円。問い合わせは同美術館(0566・48・6602)へ。
 
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先日も書きましたが、3館巡回のうち、既に終了している千葉市美術館ではのべ2万人近く、岡山井原の田中美術館でも同じく1万人以上の方がご来場下さったそうです。ありがたいことです。
 
こちらは来週末までとなっています。あと10日ほどでどれだけ入場者数が伸びるでしょうか。本当に一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月6日

昭和30年(1955)の今日、『国立博物館ニュース』掲載のため、美術史家の奥平英雄と対談を行いました。
 
原題は「高村光太郎氏にきく/芸術について私はこう思う/自然に残る伝統芸術/詩精神と彫刻の問題など」。「芸術について」の題で『高村光太郎全集』第11巻に収録されています。

智恵子の故郷・二本松情報です。
 
まず智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座'13」。今年は「光太郎に影響を与えた人々」というテーマで行っており、その最終回と閉講式が行われます。
 
日時:2013/12/15(日)
会場:二本松市市民交流センター
 
講義:「草野心平と宮沢賢治」 小野浩氏(いわき市く暮らしの伝承郷館長) 午前10:00~
閉講式及び「智恵子抄」を語る集い:午後1時~
 
今回で第6回となりますが、単発での参加も可能(参加費1,000円)ということです。
連絡先は智恵子のまち夢くらぶ・熊谷さん 0243-23-6743
 
当方も行って参ります。今年最後の二本松となると思いますが、安達太良山は既に冠雪しているとのこと。きれいでしょうね。
 


 
それから二本松の国道4号線沿いにある「道の駅「安達」智恵子の里」がらみの報道が何件かありましたのでご紹介します。

来場者100万人を達成 道の駅「安達」 智恵子の里下り線

福島民報 11月12日(火)10時19分配信
 福島県二本松市米沢の4号国道沿いにある道の駅「安達」智恵子の里下り線は10日、今年4月5日の開業以来、来場者100万人を達成した。 
 100万人目は同市渋川の会社員大藤健次さん(53)。同道の駅を運営する二本松市振興公社社長の三保恵一市長から記念品として岳温泉のペア宿泊券を贈られた。前後の20人にもコシヒカリの新米や道の駅「安達」の商品券などを贈呈した。 
 大藤さんは「地元の農産物や食品などを買いに、よく利用している。まさか自分が100万人目とは」と驚いた様子だった。 
 同道の駅は既設の上り線に次いで開業し、農産物直売所や地元物産コーナーに加え、焼きたてパンのベーカリー、レストランなどが人気を集めている。振興公社によると、当初の予想より1カ月ほど早く100万人を達成したという。 

夜空に浮かぶ「万燈桜」 二本松でイルミネーション点灯

福島民友新聞 11月24日(日)13時14分配信
 
来年2月16日まで冬の夜空を彩る万燈桜のイルミネーション
 二本松市米沢の道の駅安達智恵子の里下り線の入り口にある桜の名所「万燈桜(まんとうさくら)」のイルミネーションが「冬の万燈桜さくらまつり」と題して22日始まった。同日は点灯式が行われ、夜空に浮かび上がった冬の桜を来場者が楽しんだ。
 イルミネーションは来年2月16日まで毎日午後4時30分から午前3時まで。12月下旬にはクリスマスイベントも予定している。
 式では関係者らがスイッチを押して点灯。高さ約15メートルで、樹齢約270年の高く伸びた枝ぶりに約1万個の発光ダイオード(LED)の電飾が施され、幻想的に映し出された。
 


 
さらにテレビ放映情報です。

東北トラベラー! #26

CS旅チャンネル
2013/12/07(土)6:00~6:30 20:00~20:30 
2013/12/08(日)4:30~5:00  9:30~10:00 
2013/12/10(火)9:00~9:30  15:00~15:30  21:00~21:30 
 
旅チャンネルは東北の観光を応援します! 東日本大震災で様々な影響を受けた東北各地の観光地。復興に向かい懸命に頑張る現地の方々のメッセージを交え、東北各地の観光情報を東北在住女性リポーター二人が紹介します。
 
旅の舞台は福島県中通り地方。二本松伝統の菊人形祭り、東北サファリパーク、奥州三名湯・飯坂温泉を訪れ、福島の旅を満喫!

番組内容

東北の魅力あふれる旅を紹介する観光情報番組。絶景スポットや新旧ご当地グルメ、癒しの温泉宿など、旅に欠かせない要素が盛りだくさん!震災からの復興を目指す現地の人々のメッセージとともに、東北の元気をお伝えします。  旅人:さとう千日(宮城県出身) 佐々木麻美(宮城県出身)
第26話「福島県」  今回は福島県中通り地方を旅します。二本松市では定番観光スポット「二本松城」を訪れ、伝統の「菊人形祭り」を鑑賞。野生の王国「東北サファリパーク」では、全国でも数か所の動物園でしか見られないホワイトライオンを見学します。奥州三名湯に数えられる飯坂温泉を散策しながら、名物料理を堪能!見どころ満載の福島市を巡ります。
 
昨日も書きましたが、あの東日本大震災から1,000日が経ちました。津波被害とはまた違った意味で復興途上の福島県。ぜひこの冬は福島の温泉地、スキー場等をご利用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月5日007

大正4年(1915)の今日、抒情詩社から『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』が刊行されました。
 
抒情詩社は光太郎の第一詩集『道程』(大正3年=1914)の版元でもあります。ただし、『道程』が自費出版だったのに対し、こちらは光太郎を援助する意味合いでの厚意で出版されました。
 
ただ、光太郎は初期の短歌は鉄幹の添削が激しく、自分のものという感が乏しかったため、ありがた迷惑と思う部分もあったようです。

一昨年の東日本大震災から、今日で1,000日だそうです。
 
そういうわけで、今朝の『朝日新聞』さん紙上では関連記事がたくさん載っていました。
 
そんな中で、教育面でも震災がらみの連載がスタートしました。題して「千年後の命のため」。昭和6年(1931)に光太郎が訪れた宮城県女川町からのレポートです。
 
実は、先月末にも以下の記事が載り、今日明日じゅうには紹介しようと思っていましたので、タイムリーでした。

津波の記録、石碑に刻む 「100円募金」で建立 宮城・女川中3年生

 「千年後の命を守るために」と刻まれた石碑が、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校に建てられ、23日に除幕式があった。震災を記録に残そうと、同中の3年生66人全員で建てた。町内にある全21カ所の浜の津波到達点の上に建てる計画で、同校の碑は1基目になる。
 
 津波が流し去った町中心部を一望できる同校での除幕式。「今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」。3年生の鈴木智博君が、自分たちで考えた碑文を朗読した。
 
 3年生は入学後最初の社会科の授業で、「ふるさとのために出来ること」を考え始めた。11年冬には(1)高台へ避難できる町づくり(2)助け合える絆づくり(3)震災を記録に残す――の三つの津波対策を練り上げた。
 
 石碑は記録に残す具体策の一つ。約1千万円の費用は、今春から3年生が町内外で「100円募金」を呼びかけて集めた。3年生の木村圭さんは「活動は始まったばかり。千年先まで石碑を残すよう伝えなければ」と話した。(小野智美)
 
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8月にこのブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立プロジェクトに関する記事です。
 
子供たちの書いた「企画書」がこちら。

 
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 平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。その碑を建てるために奔走し、あの日、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいています。
 
当会としてもささやかながら出資しました。とはいいながら、1,000万円を募金で集めるのは無理なんじゃないか、と思っていました。しかし、あにはからんや、集まったそうです。この国の人々の優しさ、潜在的に持っている力というものを実感させられました。
 
そして今日から教育欄で始まった連載。このプロジェクトの軌跡が描かれるそうです。
 
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記事は『朝日新聞』さんのデジタル版でも読むことができます。ただ、長いので全文を読むには会員登録が必要です。
 
一部を抜粋させていただきます。
 
 国語の授業で1年生の時から作ってきた俳句から碑に刻む21句の候補を求め、短文や長文のメッセージの案も募集した。
 それから5日後の放課後。記録班の4人が教室に残った。班長の阿部由季さん(15)、須田美紀さん(15)、勝又愛梨さん(14)と鈴木君。メッセージを練り上げるためだ。
 阿部さんが、文言の案を見ながら「『あの苦しみ悲しみをもう二度と繰り返さないために』を入れたら」と切り出した。
 須田さんは「冒頭に由季ちゃんの『これから生まれてくる人たちに』をつけよう」と即座に返した。
 別の生徒の文も読み上げた。「大地震が来たら上に逃げてください。家にとどまる人がいたら……」。その先を阿部さんが引き取って「なんとしても引っぱり出しましょう」。
 鈴木君も大きな声で加わった。「なんとしても連れ出してください。ぜったいに引きずりだしてください」
 3人の活発なやりとりを聞いていた勝又さんが、小さな声で言った。「家に戻ろうとする人は、絶対に引き留めてください」。メッセージには、この言葉も使うことになった。
 この放課後の時間を勝又さんは忘れられない。
 「千年後まで残すための大事な話し合いだったから」
 鈴木君は、実行委員長として各地で募金を呼びかけてきた。今も見たくはないあの日の写真をスクリーンに映し、説明に立っている。あの日を突きつけられる質問にも嫌な顔を見せたことはない。「千年後の命を守りたい」。その一念だ。
 
 【碑文要約】 これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみをあわせたくない! その願いでこの碑を建てました。絶対に移動させないでください。大地震が来たらこの碑より上へ逃げてください。逃げない人は無理やりでも連れ出し、家に戻ろうとする人は絶対に引き留めてください。今、女川町はどうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 
恥ずかしながら涙がこぼれてしまいました……。
 
当方、8月9日に行われている女川光太郎祭に参加しております。来年の光太郎祭の折には(機会があればもっと早く)この碑を見てこようと思っています。
 
ぜひ皆さんも足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月4日

明治27年(1894)の今日、光太郎の妹・よし(喜子)が誕生しました。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町のアトリエを焼け出された光太郎は、翌月に花巻の宮澤賢治実家に移るまで、近所にあったよしの婚家である木彫家・藤岡幾の家に身を寄せていました。 

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。12月に入007り、いよいよ大詰めとなってきました。おそらくあと2回で最終回だと思います。智恵子と同じく福島出身の女性・新島八重が主人公ということもあり、欠かさず見続けています。
 
二本松を舞台にした回では、八重役の綾瀬はるかさんが「あれが安達太良山」とつぶやくシーンもありました。
 
昨日放映の第48回は、明治22年(1889)から翌23年(1890)が舞台でした。既に光太郎・智恵子は生誕し、光雲が東京美術学校に奉職しはじめた時期です。
 
というわけで、「八重の桜」登場人物の中には、光太郎や光雲と縁の深い人物が何人かいます。
 
まず、吉川晃司さんが演じていた西郷隆盛。直接面識はなかったと思われますが、光雲が制作主任となって、明治東京美術学校総出で上野にその銅像が造られました。竣工は明治31年(1898)です。
 
それから光雲がらみでいうと、伊藤博文。キャストは加藤虎ノ介さん。こちらも光雲と直接面識があったかどうか微妙ですが、昭和7年(1932)に朝鮮の京畿道京城府に伊藤の菩提を弔うべく建立された博文寺の本尊は光雲の作です。
 
 
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左端が光雲、右端に伊藤の遺影が写っています。
 
光雲と直接面識があったのが確かなのが、反町隆史さん演ずる大山巌。西郷像の制作に関わり、会っています。
 
光太郎がらみの人物としては、蘇峰徳富猪一郎(キャスト・中村蒼さん)。光太郎が詩部会長を務めた日本文学報国会(昭和17年=1942結成)の会長を務めていて、『高村光太郎全集』にもその名前が散見されます。
 
それから非常に細かい話ですが、前々回の第47回で、オダギリジョーさん演ずる新島襄が、東京で財界人相手に同志社大学設立のための募金呼びかけを行ったシーン。参加者の名簿の中に大倉喜八郎の名がありました。大倉はホテルニューオークラなどの大倉財閥を築いた人物。昭和2年(1927)に、光雲が大倉の肖像を木彫で作っています。さらに肖像をやや苦手としていた光雲のために、原型はその前年に光太郎が粘土で作成。その時の様子を光太郎は、のちに詩「似顔」(昭和6年=1931)に書いています。曰く、「九十一歳の鯰」(大倉のこと)、「このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国主義発展の全実歴」等々。
 
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左が光雲作の木彫、右はその原型として光太郎が作った塑像をブロンズに鋳造したものです。
 
とりあえず気づいたところではこんなところですが、あと2回のオンエアでさらに関連する人物が出てくるかもしれません。
 
逆に「八重の桜」キャストをみると、以前に光太郎がらみの映像作品等に出演されていた方がたくさんいらっしゃいます。以前に連続テレビ小説「あまちゃん」に関して同じようなことを書き、好評でしたのでまた書いてみます。
 
まず主演の綾瀬はるかさん。平成21年(2009)に映画「おっぱいバレー」でやはり主人公の寺島美香子を演じられました。この映画は光太郎の詩集『道程』が重要なモチーフになっていました。
 
同じ「おっぱいバレー」で、綾瀬さんの少女時代を演じていたのが大後寿々花さん。「八重の桜」では、同志社女学校の生徒・小松リツ 役でしたが、かつて会津戦争で薩摩藩士だった父親を八重に射殺されたという設定でした。
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続いて会津藩家老・西郷頼母役の西田敏行さん。平成0086年(1994)オンエアの連続ドラマ「いつも心に太陽を」で主演。これはやはり光太郎の詩集『智恵子抄』が重要なモチーフになっていました。ちなみに準主役の観月ありささんは「智恵子」という役名でした。
 
会津藩がらみでいくと、藩主・松平容保(綾野剛さん)の姉・照姫(稲森いずみさん)の侍女・滝瀬役の筒井真理子さん。昨年公開の反原発映画で、やはり『智恵子抄』へのオマージュにもなっていた「希望の国」にご出演。故・夏八木勲さん演じる主人公の隣人で、原発から20キロ圏内に自宅があって強制的に待避させられる役でした。
 
同じ「希望の国」では、「八重の桜」で土方歳三役だった村上淳さんが、主人公の息子役で出演されていましたし、避難民役の並樹史朗さんも共に会津藩士役で「八重の桜」に出演なさっていました。 

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さらに会津藩勘定役・中野平内の長女で、娘子隊を率いて薙刀をふるい、壮絶な戦死を遂げた中野竹子役の黒木メイサさん。平成22年(2010)にユニクロのCM「何処もかもだ」篇にご出演。これは光太郎詩「冬の詩」を使っていて、かなりインパクトのあるものだったので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
 
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ユニクロのCMで黒木さんと共演した松田龍010平さんは「あまちゃん」でミズタクこと能年玲奈さん演じる天野アキのマネージャー・水口琢磨役でしたが、以前にこのブログで「あまちゃん」について書いた時にうっかり失念していました。追記しておきます。
 
やはり会津藩大砲奉行で壮絶な戦死を遂げた林権助役は風間杜夫さん。TBS系の「浅見光彦シリーズ」で沢村一樹さん演じる浅見光彦の兄にして警察庁刑事局長の浅見陽一郎役をなさっていました。このシリーズでは平成21年(2009)に、連ドラ枠として「浅見光彦 最終章」がオンエアされましたが、その最終回が「草津・軽井沢編」。光太郎の彫刻の贋作を巡る事件が扱われました。
 
その際に犯人役を演じたのが清水綋治さん。「八重の桜」では新島襄の父親・新島民治役で重厚な演技を見せて下さいました。
 
浅見陽一郎といえば、フジテレビ版の中村俊介さん演じるシリーズでは榎木孝明さんが演じられています。フジテレビ版でも光太郎の贋作を巡る「「首の女」殺人事件」がオンエアされました(平成18年=2006)。榎木さんは「八重の桜」では井伊直弼役でした。
 
とりあえず思いついたのは以上です。
 
さて、「八重の桜」。本編はあと2回でしょうし、例年通りなら年末に総集編が放映されるはずです。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月2日

昭和18年(1943)の今日、光太郎が委員として関わり、東京都美術館で開催されていた藤島武二遺作展覧会が閉幕しました。
 
藤島は、黒田清輝などとともに、光太郎が留学直前の明治38年(1905)に再入学した東京美術学校洋画科で教鞭を執っていました。
 
光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)などがいました。教師も生徒も錚々たるメンバーですね。

注文していた楽譜が届きました。  

「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」

作詞 高村光太郎  作曲 鈴木輝昭
2013/12/10(奥付記載) 音楽之友社 定価 2,000円+税
 
高村光太郎の詩集『智恵子抄』による女声合唱とピアノのための作品。智恵子の死の瞬間を詠った〈レモン哀歌〉に始まり、智恵子の死後を連綿と綴った〈亡き人に〉〈裸形〉へと続く全3曲から成る組曲。
「音楽は、調的な背景を媒質として成立しているが、その中にあって狂気を含む逸脱した音群、劇性の強い増幅された表現が色濃く投影される。また、冒頭ピアノによって提示される上行音形は、組曲全体の気配を象徴する統一主題として、持続の中で反復、循環して語られる」(作曲者)
福島県立橘高等学校により委嘱、初演された。(指揮=大竹隆/ピアノ=鈴木あずさ)
(同社サイトから)
 
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作品紹介にあるとおり、福島県立橘高等学校合唱団による委嘱作品です。以前にも書きましたが、橘高校さんは、智恵子の母校・福島高等女学校の後身です。
 
これも以前にも書きましたが、同校合唱団は、この組曲全3曲の中から1曲ずつを自由曲とし、平成21年(2009)から3年間、全日本合唱コンクール全国大会に出場し、上位入賞しています。
 
第62回大会 平成21年(2009) 高等学校部門Bグループ 自由曲「レモン哀歌」 金賞
第63回大会 平成22年(2010) 高等学校部門Bグループ 自由曲「裸形」 銀賞
第64回大会 平成23年(2011) 高等学校部門Bグループ 自由曲「亡き人に」 銀賞
 
全国大会に出場するだけでも大変だと思いますが、なおかつ上位入賞を続けているというのはものすごいことだと思います。その後も橘さんは、光太郎がらみの曲ではありませんが、昨年、そして今年も同大会で銀賞に輝いています。
 
それぞれのライブ録音が、ブレーン株式会社発行のCDで発売されています。
 
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また、同じく橘高校さんの演奏で、ライブではないホールでの録音によるテイクを収めたCD「鈴木輝昭 合唱の地平」も、日本アコースティックレコーズさんからリリースされています。
 
で、今回の楽譜出版。あらためて上記CDを、楽譜を見ながら聴いてみました。
 
はっきり言って、非常に難易度の高い組曲です。同社サイトでは「[対象]中学生・高校生・一般合唱団」となっていますが、この曲の演奏、一般のアマチュア合唱団にはまず無理ですね。
 
細かくみていきます。
 
1曲目、「レモン哀歌」。女声四部です。通常、女声合唱はソプラノ、メゾソプラノ、アルトの三部ですが、ソプラノがⅠ、Ⅱに分かれています。さらに歌い出しは5拍子ですが、途中でめまぐるしく拍子が変わり、2拍子から6拍子までが混ざり合っています。
 
2曲目、「亡き人に」。ドッペルコールです。ソプラノ、メゾソプラノ、アルトでワンセットとして、それが二組、さらにパート内で2部に分かれ、最大7声になっている箇所があります。また、「レモン哀歌」ほどではないものの、やはり変拍子があります。
 
3曲目、「裸形」。これも四部。「♯」「♭」「♮」が雨あられで、一貫した「調」が存在しないという感じです。やはり変拍子も雨あられで、なんと2.5拍子とか3.5拍子、さらには1.5拍子という小節があります。
 
3曲ともソプラノの最高音はb(シの♭)。五線を突き抜けています。ポリフォニー(パート間で異なるリズム)、2度や7度のぶつかる音程はあたりまえに出てきます。逆に平易な当たり前の和音だったり、全くのユニゾン(全てのパートが同じ音程)の箇所もあったりして、そのギャップがまた効果的です。
 
これほどの曲をしっかり歌え、全国上位入賞を果たした橘高校合唱団さん、本当に凄いと思いました。
 
一般のアマチュア合唱団は無理だと思いますが、プロの方々、アマでもコンクール全国大会を目指しているような団体の皆様、レパートリーに加えてみてはいかがでしょうか。
 
 
音楽ネタついでに、テレビ放映情報です。

クラシック倶楽部 第82回 日本音楽コンクール~作曲部門~

NHKBSプレミアム 2013年12月6日(金)  6時00分~6時58分
 
第82回日本音楽コンクール本選会~作曲部門~▽59作品の応募の中から7作品が本選に進出▽2013年10月30日 東京オペラシティコンサートホール

番組内容

第82回日本音楽コンクール本選会~作曲部門~▽佐原洸/引地誠/今野哲也/杉本友樹/中村ありす:RCH(NH2)COOH for Clarinet in B♭ & Piano forte/松波匠太郎:DISSOLUTION for Flute,Clarinet,Horn and Piano/網守将平:Drunky Jet Addiction -for 6 players-

出演者

  • 佐原洸,引地誠,今野哲也,杉本友樹,中村ありす,松波匠太郎,網守将平,ソプラノ…佐竹由美,テノール…布施雅也,指揮…安良岡章夫,小鍛冶邦隆,演奏…アール・レスピラン

過日、このブログでご紹介した「第82回日本音楽コンクール本選会」の録画です。
 
今野哲也氏の「『智恵子抄』への月影─「慈悲深き箴言」を擁する」もエントリーされましたが、残念ながら1~3位には入りませんでした。12/6は抜粋で放送されるようです。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月1日

昭和30年(1955)の今日、雑誌『新潮』のために散文「生命の創造」を書きました。

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