2013年11月

東京本郷の古書店、森井書店さんから在庫目録が届きました。
 
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4月末から5月頭に前号をご紹介しました。

前号に引き続き、新蒐品でみごとなものがたくさん掲載されています。
 
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高村光太郎詩稿額 250,000円
 
昭和14年に書かれた詩「へんな貧」の草稿2枚です。006
 
この男の貧はへんな貧だ。
有る時は第一等の料理をくらひ、
無い時は菜つ葉に芋粥。
取れる腕はありながらさつぱり取れず、
勉強すればするほど仕事はのび、
人はあきれて構ひつけない。
物を欲しいとも思はないが
物の方でも来るのをいやがる。
中ほどといふうまいたづきを
生まれつきの業がさせない。
妻なく子なきがらんどうの家に
つもるのは塵と埃と木片ばかり。
袖は破れ下駄は割れ、
ひとり水をのんで寒風に立つ。
それでも自分を貧とは思へず、
第一等と最下等とをちやんぽんに
念珠のやうに離さない。
何だかゆたかな有りがたいものが
そこら中に待つてゐるやうで
この世の深さと美しさとを007
身に余る思でむさぼり見る。
この世に幸も不幸もなく、
ただ前方へ進むのみだ。
天があり地面があり、
風があり水があり、
さうして太陽は毎朝出る。
この男のへんな貧を
この男も不思議におもふ。
 
前年に智恵子を亡くし、空虚な気持ちで日々を送っていた頃(右上写真がちょうどその頃)の作品です。一方で「勇ましい」戦争詩を書き、その一方でおのれを見つめる眼はかくもニヒリスティックです。
 
「高村光太郎短冊」 350,000円
 
制作年代不詳の短歌を短冊に認(したた)めたものです。短冊自体の揮毫の時期もよくわかりません。
 
山の鳥うそのきてなくむさしのゝあかるき春となりにけらしな
 
目録キャプションでは「うそきて」となっていますが「うそきて」です。うそはつきません。また「あうるよ」ではなく「あかるき」です。
 
おそらく大正14年(1925)、木彫「うそ鳥」の桐箱に書いた次の短歌の異稿といったところでしょうか。
 
山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな
 
『万葉集』に収められた志貴皇子の「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を彷彿とさせます。
 
 
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「高村光太郎「某月某日」「をぢさんの詩」 葉書1枚共」 400,000円
 
今年の明治古典会七夕古書大入札会 に出たものです。森井さんが落札したのですね。当方、7月に現物を見て参りました

すべて詩人の高祖保にあてたもので008す。高祖は光太郎の詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)の編纂を行ってくれた詩人で、その件に関しての礼状、同時に献呈された随筆『某月某日』、そして献呈識語入りの『をぢさんの詩』。

献呈署名には「昭和十八年十一月 一十六歳 高村小父」と書かれています。数え六十一歳だった光太郎が洒落を効かせて「六十一」を「一十六」と倒置しています。
 
此の詩集の成る、まつたく
あなたのおかげでありました
印刷の字配り、行わけ、の比例
から校正装幀などの御面倒
まで見てくださつた事世にも
難有、茲に甚深の謝意を表します
   昭和十八年十一月
      一十六歳 高村小父
 高祖保雅友硯北
 
その他、新蒐品以外でも書簡など光太郎関係のものが在庫として載っていますし、もちろん他の文学者のものも満載の目録です。
 
また、文学というよりは山岳関連の在庫が実に充実しています。辻まこと、串田孫一、畦地梅太郎などなど。
 
森井書店さんサイトのこちらのサイトから目録が請求できます。 
 
【今日は何の日・光太郎】 11月30日

昭和36年(1961)の今日、平河町の砂防会館で開催された「花柳照奈 第五回創作舞踊リサイタル」で、清水脩作曲による「智恵子抄」が発表されました。
 
この時のプログラム等探しています。よろしくお願いいたします。

先月のこのブログに少し書きましたが、JR東日本さんが提供する会員組織、大人の休日倶楽部会員向け雑誌の12月号で光太郎が取り上げられ、このほど発行されました。
 
『大人の休日倶楽部ジパング』『大人の休日倶楽部ミドル』の2誌で、共通の連載コラム「一枚の手紙から」というページです。毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。今月号が光太郎というわけです。
 
 
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取り上げられているのは明治44年(1911)、画家の津田青楓に送った葉書で、現物は花巻の財団法人高村記念会さんで所蔵しています。
 
文面は以下の通り。
 
僕は北海道へ行く。
『琅玕洞』はよす。つぶす。
又今にやればやる。
芸術家もよす。つぶす。
又今にやればやる。
 
これだけだと、何のことやら……という感じですね。そこで、この時期の光太郎の動向をざっくりと解説します。
 
光太郎は明治42年(1909)、彫刻をはじめ、最新の芸術に対する000眼を開かされた3年余の欧米留学から帰国しますが、帰ってきた日本は旧態依然。父・光雲を頂点とする古い日本彫刻界と相容れず、対立を余儀なくさせられます。
 
翌明治43年(1910)には、自らの生活のため、また、志を同じくする芸術家仲間の作品を世に知らしめるため、神田淡路町に日本初といわれる画廊を開きました。それが「琅玕洞(ろうかんどう)」です。名前の由来は、アンデルセン作・森鷗外訳『即興詩人』の中に出てくるイタリア・カプリ島の観光名所から。これは現在では「青の洞窟」というのが一般的です。
 
右の画像が「琅玕洞」。藤井達吉現代美術館刊行の『藤井達吉のいた大正』から引用させていただきました。
 
琅玕洞では柳敬助や斎藤与里、浜田葆光などの個展を開催したり、藤井達吉の工芸作品や与謝野夫妻の短冊などを販売したりし、それなりに好評を得たのですが、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で閉鎖。画家の大槻弍雄(つぐお)に譲渡されます。光太郎は、というと、北海道に渡り、酪農のかたわら、彫刻や絵を作ろうと考えました。ただ、実際に北海道札幌郊外の月寒まで行ってみたものの、少しの資本ではどうにもならないと知り、すぐに帰京しています。下記は月寒種羊場。戦前の絵葉書です。
 
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今回『大人の休日倶楽部』さんで取り上げられている葉書は、琅玕洞を手放し、北海道へ渡る直前のものです。
 
墨書の荒々しい筆致、詩のような文面、紙面にあるとおり「旧体制のしがらみを捨てて新天地で生きる決意表明」が一種、悲壮感さえ漂わせながら伝わってきます。
 
ところで今回の記事、花巻の高村記念会さんを通じて協力要請があり、実際に執筆されるライターさんに当方自宅兼事務所までお越しいただき、上記のこの当時の背景などについてレクチャーいたしました。そのため記事の下部キャプションには「取材協力」ということで名前が載っています。ありがたいことです。
 
ちなみに「大人の休日倶楽部」さんのホームページでは、来年・2014年版のカレンダーの無料ダウンロードサービスを行っています。JR東日本さんなので、12ヶ月分、東日本の観光地の水彩画でいろどられ、いい感じです。
で、1月がいきなり十和田湖。

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湖畔には高村光太郎作の「乙女の像」をはじめ、十和田ビジターセンターや温泉など、様々な施設が点在している。毎年2月に開催される「十和田湖冬物語」では、雪像やかまくらなどはもちろん、夜を彩る冬花火も打ち上げられ、冬ならではの幻想的で美しい十和田湖を楽しむことができる。
 
というキャプションが入っています。001
 
ご活用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月29日

昭和44年(1969)の今日、早稲田大学文学碑と拓本の会編『宮澤賢治高村光太郎の碑』が二玄社から刊行されました。
 
A5判64ページ。この当時、全国に建てられていた賢治と光太郎の文学碑を写真入りで紹介するものです。
 
この時代の大学生は渋い調査をしていたのですね。

もう1日、十和田ネタで書きます。
 
一昨日、BSジャパンで「空から日本を見てみよう+ 青森県八戸から 紅葉の奥入瀬渓流、十和田湖へ」が放映され、湖畔の裸婦像、通称「乙女の像」が紹介されましたが、来週も十和田湖周辺がテレビ放映で扱われます。 

美しい日本に出会う旅 憧れの紅葉 絶景スペシャル~京都・日光・奥入瀬・北アルプス

BS-TBS 2013年12月4日(水)  19時00分~20時54分
 
美しい日本に出会う旅に出かけましょう!行ってみたい、あこがれの地。この目で見てみたい、あの絶景。味わってみたい絶品料理の数々。日本の美しい魅力を訪ねます。
 
日本全国、紅葉の大絶景を楽しむスペシャルです。北アルプス、立山黒部アルペンルートではロープウェイで紅葉を天空散歩。雄大な立山連峰を彩る錦の紅葉に出会います。青森、十和田湖から奥入瀬渓流へ。清流の流れと紅葉の彩りを堪能します。秘境蔦温泉では絶景の沼めぐり。秋田では角館武家屋敷散策と乳頭温泉を楽しみます。日光、世界遺産輪王寺の庭園「逍遥園」で安らぎの庭園美を感じます。“もみじ”日本一の名所と言われる愛知、香嵐渓。山を彩る4000本のもみじは圧巻の絶景です。紅葉の京都では、和菓子や和紙細工など、職人の手仕事からも季節を感じ、寺社仏閣の彩りを満喫します。
 
旅の案内人 中村勘九郎
 
また裸婦像が紹介されるといいのですが……。
 
ところで、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんからいただいたペットボトル入りの「十和田湖美水」、おいしくいただいております。そのまま飲むもよし、珈琲やお茶を淹れるのに使うもよし、で、重宝しております。
 
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ついでにもう1件、テレビ放映情報です。ただ、過去に放送されたものの使い回しかも知れません

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2013年12月2日(月)  8時40分~8時50分 再17時15分~17時25分
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親を対象に制作。番組を通して、日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけてもらうことをねらいとしている。コミュニケーション能力や自己表現する感性を育てる番組。今回は、きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、野村萬斎/冬至、うた/冬景色、道程
 
出演 小錦八十吉,野村萬斎,おおたか静流
 
【今日は何の日・光太郎】 11月28日007

大正3年(1914)の今日、『時事新報』に彫刻制作のモデル募集広告を出しました。
 
●モデル  体格よき婦人を求む当方彫刻家 午前在宅(本郷区駒込林町二十五 高村光太郎)
 
彫刻制作において、モデルの手配には常に苦労していました。依頼を受けての肖像彫刻であればその本人をモデルにすればよいのですが、そうでなければ友人知己を拝み倒してモデルになってもらったり、智恵子をモデルにしたりしています。
 
008変わったところでは、大正6年(1917)作の「裸婦坐像」。画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。詳しいいきさつが不明なのですが、駒込林町のアトリエに一時かくまった横浜のチャブ屋(外国人相手の売春宿)で働いていた百合子という女性をモデルにしています。
 
この彫刻のモデルを智恵子だと勘違いしている記述を時折見かけますが、違います。
 
また、ある時雇った男性のモデルが、いわゆる露出狂で、宴会などの席上で得意になって全裸になるなどということがあり、結局は光太郎曰く「日比谷公園の入口に立つて演説をはじめ、火星から地球攻撃の軍隊が来るといつて絶叫し、つひに病院に入れられて、そこで死んださうである。」とのことでした(「モデルいろいろ-アトリエにて6・7-」昭和30年=1955)。
 
同じ文章によれば『時事新報』の広告も、応募者はたくさんあったものの、よい体格の者がおらず、逆に「めいめいに窮迫した身上話などを長々と述べ立てて、是非使つてくれといふやうに要請されるので、これを断るのに骨が折れ、おまけにその日一日分の日当を払はなければ、気の毒でかへせなかつた。」ということでした。

 
湖畔の裸婦像、通称「乙女の像」が約20秒紹介されtました。最近、十和田湖周辺を紹介する番組があっても、この像は紹介されないケースが多かったので、よかったと思います。

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その他にも十和田湖周辺に関する豆知識が満載で、「そうだったのか」という点が多くありました。地元の方にはあたりまえなのかもしれませんが、十和田湖が二重カルデラ湖だとか、紅葉のシーズンには遊覧ヘリコプターが出るとか、当方の知らないことばかりでした。
 
まさに「錦秋」の映像も美しく、この番組のコンセプトである「空撮」がうまく活かされていました。公式サイトはこちら

この番組、好評だった回はDVD化されて販売されています。今回の2週にわたる青森編もそうなることを望みます。
 
ところで、以前にご紹介した「十和田湖畔遊歩道の愛称募集」、結果が出ました。以下、十和田湖国立公園協会さんのページから。 

十和田湖畔遊歩道の愛称決定!

経過概要
十和田湖畔遊歩道の愛称募集は8月から9月末の間で募集して参りましたところ、465件のご応募をいただき、愛称選考委員会による審査の結果、下記のネーミングが最優秀賞に決定いたしました。
たくさんのご応募をいただき、誠にありがとうございました!

最優秀賞
 
乙女の湖道 (おとめのこみち)

応募総数
 全国39都道府県から465件の応募がありました。

決定理由

親しみやすいこと、呼びやすいこと、幅広い年代層に受け入れられること、周辺観光スポット名(十和田神社から乙女の像~御前ヶ浜~開運の小道~桂ヶ浜)と調和すること、オリジナリティであること等を基本として選考いたしました。

 
「乙女の湖道」、いいセンスですね。
 
これを機に錦秋の十和田湖、さらに「空から日本を……」でも少し紹介されましたが、2月には「十和田湖冬物語2014」というイベントも開かれます。ぜひ足をお運び下さい。当方も機会を見て行って参ります。
 
ちなみに下の画像は昔のテレホンカードです。今、こんな感じなのでしょうね。
 
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【今日は何の日・光太郎】 11月27日

大正5年(1916)の今日、光太郎翻訳『ロダンの言葉』が刊行されました。
 
光太郎が敬愛していた彫刻家、オーギュ007スト・ロダンが折に触れて語った言葉を、近しい人々が筆録していたものを集めての翻訳です。したがってロダンの母国・フランスに『ロダンの言葉』という書籍があったわけではありません。
 
版元は北原白秋の弟・鉄雄が経営していた阿蘭陀書房。右がその画像ですが、保存のためのパラフィン紙を函にかけてあるので薄ぼけています。すみません。題字は光太郎の書です。白抜きの文字にする籠書きという手法で、光太郎はこれを得意にしていました。味のある文字ですね。
 
光太郎はさらに大正9年には『続ロダンの言葉』を翻訳刊行、正続併せて後に普及版や文庫版などが出て、美術を専攻する若者に大きな影響を与え続けました。
 
特に舟越保武、佐藤忠良ら、一世代後の彫刻家達は、こぞってこの本に大きく影響を受けたと公言しています。

もう1日、愛知ネタで書かせていただきます。
 
愛知碧南を訪れるのは先週末で3度目でした。以前の2回は日帰りで、目的地の藤井達吉現代美術館以外は立ち寄りませんでした。しかし先週末は、併せて小牧市のメナード美術館の「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ」にも行くので、1泊2日の日程を組みました。日帰りでも不可能ではなかったのですが、途中で電車の遅延等が発生すると困りますし、時間を気にしながら慌ただしく鑑賞するのはよくないと思ったからです。
 
それがやはり正解でした。特に2日目の午前中に歩いた碧南の街並みが非常にいい感じでした。太平洋戦争中に空襲の被害を受けなかったということで、古い街並みがよく残っているのです。その点、当方の暮らす千葉県香取市佐原地区とよく似ており、親近感を抱きました。
 
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カメラ好きの方などには非常におすすめです。
 
ただ、惜しむらくはせっかくのこうした街並みが活用されていないと感じること。ほとんどが現役の住居なので、なかなか内部を公開するというのは難しいのかも知れませんが、中を見られるところが少ないのです。それでも藤井達吉現代美術館のすぐ近くにある清澤満之記念館内の清澤旧宅や九重みりん時代館などは中に入れます。
 
それから電線。こうした街並みを活かそうと考えるなら、地中に埋設すべきですね。
 
手前味噌になりますが、当方の暮らす千葉県香取市佐原地区は、元々が商都だったこともあり、古い街並みの商家がそのまま営業していたり(創業数百年前という店も珍しくありません)、しもた屋もリフォームされてカフェやレストランになったりしていますし、電線の埋設も進んでいます。
 
ただ、逆にそれをやり過ぎると生活臭が薄れ、かえって人工的なテーマパークのようになってしまうので(F県A郡のO宿やS県K市の蔵作りの街並み、G県T市の街並みとG造りの集落などはそういう感じがします。申し訳ありませんが)、そういう意味では碧南の街並みは自然体でいい感じです。特に表通りから入った路地裏の感じは、今にも光太郎智恵子が街角からひょっと現れそうな雰囲気です。
 
「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」と併せ、碧南の街並みもぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月26日

昭和28年(1953)の今日、花巻郊外太田村山口でブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケに参加しました。
 
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十和田湖畔の裸婦像の除幕式に参加したのが前月。その後、また東京中野のアトリエに戻りましたが、11月に一時的に花巻郊外太田村山口の小屋に帰っています。そして60年前の今日、太田村でのロケが行われました。
左上は山小屋の囲炉裏端、右上は山小屋近くの道、左下は「馬面電車」と言われた花巻電鉄の内部、右下は山小屋近くの民家の軒先です。
 
光太郎本人には、裸婦像完成後はまた太田村で暮らすつもりもあり、住民票も残していたのですが、健康状態がそれを許さず、結局は中野のアトリエに戻り、そこで終焉を迎えることとなります。

一昨日、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、碧南展は3回目の訪問です。ちなみに千葉展は3回、岡山展も1回行きましたので、つごう7回目でした。
 
一昨日は最後の大きな関連行事として、神奈川県立近代美術館館長の水沢勉氏による記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」がありました。
 
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彫刻を中心に、光太郎の造形作品を取り上げ、その背景や意義などをわかりやすく解説され、非常に興味深く拝聴しました。単に即物的な彫刻の解説にとどまらず、人間・光太郎の道程を下敷きにし、さらに光太郎絵画と智恵子絵画の比較といった点まで踏み込まれ、ある意味目から鱗でした。光太郎の絵画はやはり彫刻家としてのそれで、対象の扱い方も彫刻家的、それにひきかえ智恵子の方がもっと自由に捉えており、もっと智恵子の造型にスポットがあたってもいいのではないか、など。
 
智恵子の油絵で現存するものは三点しか確認されていませんが、その他の造型作品として、デッサンが2点、雑誌の口絵として油絵をカラー印刷したものが2点、やはり雑誌のカット(ペン画?)や、今回も展示されている紙絵などが残されています。また、手芸作品なども。
 
来年は光太郎智恵子結婚100年(ついでにいうなら詩集『道程』出版100年)。美術館、文学館関係の方、こうした企画展示を計画されてはいかがでしょうか。
 
さて、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。6月に千葉市美術館で始まり、岡山井原市の田中美術館を経て、現在は最後の碧南市藤井達吉現代美術館ですが、碧南展も折り返しを過ぎました。いよいよ大詰めです。
 
折り返しを過ぎたところで入場者6,000名を超えたとのこと。後半はさらに伸びて欲しいものです。リピーターが多いそうで、ありがたいかぎりですが、まだの方にもぜひご覧いただきたく存じます。
 
下記は『岐阜新聞』さんのサイトから。
 
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さらにこちらは東海地区で載った『朝日新聞』さんの全面広告です。
 
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会期は12/15(日)まで。いよいよ大詰めです。本当に1人でも多くの方に観ていただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月25日007

昭和22年(1947)の今日、戦後の詩2篇を補い、白玉書房から詩集『智恵子抄』を再刊しました。
 
オリジナルの『智恵子抄』は、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、戦時にも関わらず13刷まで版を重ねましたが、やはり戦争の影響で龍星閣が休業、昭和26年(1951)に同じ龍星閣が復元版を出版しますが、その間、白玉書房版が刊行されていました。昭和25年(1950)の第5刷まで確認できています。
 
補われたのは「松庵寺」(昭和20年=1945)、「報告」(同21年=1946)の2篇でした。どちらも智恵子の命日(10月5日)に書かれたものです。
 
ただ、白玉書房の鎌田敬止は、元の版元である龍星閣の澤田伊四郎と十分に連絡を取っていなかったようで、この出版には若干のトラブルが生じました。

一昨日になりますが、愛知県小牧市のメナード美術館さんに行って参りました。
 
現在、同館では「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」を開催中です。
 
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「近代日本洋画」といいつつ、彫刻や海外作家の作品も展示されています。チラシの表に印刷されていますが、光太郎の木彫「鯰」、そして「栄螺」も。下記画像は同館発行のポストカードです。
 
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同じく現在愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に、この2点も並べさせて欲しかったのですが、メナードさんの「開館25周年記念 コレクション名作展」の目玉の一つとしたい、という意向でかないませんでした。まあ、仕方がないでしょう。
 
で、一昨日はこちらを観て参りました。当方、これを目にするのは10年ぶりでした。他の光太郎木彫にしてもそうですが、面の取り方、刀痕の冴えなど、舌を巻くような技術です。その技法がいやらしく目に付くことがなく、出来上がったものは実物以上に実物に見えます。
 
光太郎以外の出品物。下記が出品目録ですが、錚々たるメンバーの作品が並び、光太郎と交流のあった作家も多く、興味深く拝見しました。
 
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同展は12/23(月・祝)まで。
 
さて、同館を後にし、少し小牧市内を散策しました。館への道々、あちこちにのぼりが立っており、「小牧山城築城450年」とのことでした。織田信長が築き、後に徳川家康が小牧・長久手の戦で布陣した城ですね。行ってみました。
 
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うっかり写真を取り忘れましたが、なかなかの眺望でした。
 
その後、刈谷市で一泊、昨日は碧南に参りました。そのあたりは、また明日。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月24日

大正6年(1917)の今日、雑誌『週』に散文「巨匠ロダン翁」を発表しました。

18日に亡くなったロダンの追悼談話です。

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昨日から一泊で愛知でした。只今、帰りの新幹線車中です。

昨日は小牧市のメナード美術館さんに行って参りました。現在開催中の所蔵品展「近代日本洋画 時代を代表する巨匠たち」に、同館所蔵の光太郎木彫「栄螺」と「鯰」が展示されているためです。

そして今日は碧南の藤井達吉現代美術館さんへ。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏の講演がありました。

なかなか有意義な二日間でした。詳しくは帰ってからレポートします。

【今日は何の日・光太郎】 11月23日

昭和11年(1936年)の今日、花巻羅須地人協会跡地に、光太郎揮毫になる宮澤賢治「雨ニモマケズ」詩碑が除幕されました。

今週火曜日、BSジャパンにて放送された「空から日本を見てみよう+ 青森県八戸から 紅葉の奥入瀬渓流、十和田湖へ」を拝見しました。
 
八戸からスタートし、十和田市、奥入瀬渓流が詳しく紹介されていました。そしていよいよ十和田湖へ、光太郎作の裸婦像が映るかな、と思ったところで番組終了。なんと青森編は2週連続でした。
 
というわけで、来週火曜日の放送内容をご紹介します。 

空から日本を見てみよう+ 絶景! 紅葉の青森県十和田湖から雄大な秋田県八幡平へ

BSジャパン 2013年11月26日(火)  20時00分~20時55分
 
紅葉の最盛期を迎える青森県十和田湖の絶景を堪能し秋田県へ。鉱山で栄えた小坂町や鹿角市を経て雄大な山並みの広がる八幡平まで、不思議な発見をしながら眺めて行きます。
 
全国屈指の人気紅葉スポット十和田湖からスタート。色づく紅葉と青い湖のコントラストが織りなす絶景を眺めて行きます。湖に突き出る半島の断崖や鱒の養殖場、70年を超える歴史を誇る木造三階建ての十和田ホテルなどを見ながら、山を越えて鉱山で栄えた秋田県小坂町の中心へ。かつての栄華を今に伝える味わい深い娯楽施設などを見て行きます。その後鹿角市では田んぼの中に不思議なストーンサークルを発見。十和田南駅からJR花輪線に沿って飛んで行きます。きりたんぽ鍋を味わいさらに進むと、巨大な煙突が建つ一角が。ここも鉱山の跡地。日本で最も多い採掘量を誇った時期もある尾去沢鉱山は鉱脈に沿って掘り進んだ地下トンネルが実に総延長700kmにも及ぶ、想像を絶する規模です。紅葉の美しい湯瀬渓谷沿いの温泉を経て、雄大でなだらかな山並みの八幡平へ。山頂からの絶景を堪能します。

出演者

伊武雅刀(くもじい) 柳原可奈子(くもみ)
 
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ついでにもう一つ、テレビ放映情報です。  

もっと温泉に行こう! #49「福島県 岳温泉・土湯温泉編」

フジテレビNEXT 2013年11月28日(木)  23時00分~24時00分
 
今回訪れるのは、福島県二本松市にある岳温泉と福島県福島市にある土湯温泉。 岳温泉の泉質は無味澄透で無臭、天然湧泉の中でも珍しい酸性泉で、他の温泉では体験することのできない湯上り後の爽快感を、心ゆくまで感じてほしい温泉である。 土湯温泉は、古より湯治場として利用されており、自然環境にも恵まれ、豊富な泉質・湯量が特徴の温泉地である。
 
#38の「花巻編」を以前にこのブログでご紹介しました。番組紹介では「かの文豪、宮沢賢治や高村光太郎も愛した温泉地として知られる。」と紹介され、花巻の風景として、光太郎が碑文を揮毫した宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑が映ります。こちらは不定期に再放送され続けています。
 
で、今回の#49「福島県 岳温泉・土湯温泉編」は最新作で、初公開になります。岳温泉は智恵子の愛した安達太良山の「ほんとの空」の下にあり、土湯温泉は光太郎智恵子そろって訪れています。
 
以前にも書きましたが、この番組は「※撮影のためバスタオルを着用しています」というテロップが出ません。そのテロップを出す必要がない珍しい番組です。そのためオンエアは深夜限定。ただし、有料のCS放送ですので、契約していないと見られません。007
 
【今日は何の日・光太郎】 11月22日

昭和27年(1952)の今日、中野のアトリエにガスを引きました。
 
炊事、それから暖房にも使用していたようです。
 
花巻郊外太田村山口の山小屋では、右の画像のように囲炉裏で生活していたわけで、それから考えると雲泥の差ですね。

女優の渡辺えりさんからお葉書をいただきました。新春コンサートのご案内です。
 
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渡辺さん、このブログで何度もご紹介させていただいておりますが、お父様が光太郎と交流があった方で、えりさんご自身、幼い頃からそのお父様の薫陶を受け、光太郎を敬愛なさっています。
 
先日、当方が花巻に行った折、えりさんがご両親と一緒に花巻にいらしたと聞きました。お父様、しばらく入院なさっていたとのことですが、めでたくご退院ということで、十和田から花巻と、光太郎ゆかりの地をご両親と旅されたそうです。花巻高村記念会高橋氏曰く、お父様も実にお元気だったとのこと。
 
以下、えりさんのブログにリンクします。
 
 
その後もえりさん、名古屋の高校で講演をなさったそうで、その中で光太郎にも触れられたそうです。ありがとうございます。
 
そしてご案内をいただいたコンサート。もしかしたらMCで光太郎がらみのお話があるかも知れません。
 
もうお一人、光太郎の詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン歌手、モンデンモモさん。「モモの智恵子抄2013秋」ということで、二本松、福島市、そして原宿でコンサートをなさいました。
 
当方、このところ地方出張が多く(また明日から愛知です)、日程が合わずに参上できませんでしたが、成功裏に終わったようで何よりでした。
 
以下、モモさんブログから。
 
 
ちなみにモモさんのピアノ伴奏を務めていらっしゃるピアニストの砂原嘉博さん、以前に渡辺えりさんのピアノ伴奏もなさったことがあるそうで、世間は狭いものだと思いました。
 
お仲間の皆さんがそれぞれに活躍なさっています。こちらも頑張らねば、と決意を新たにいたしました。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月21日

昭和28年(1953)の今日、『昭和文学全集008 第二十二巻 高村光太郎集 萩原朔太郎集』の印税として、角川書店から1,570,205円の小切手を受け取りました。
 
現在でも150万円といえば大金ですね。ましてや昭和20年代の150万円というと、現在の価値に換算したらどのくらいになるのでしょうか。
 
実は晩年の光太郎、この手の収入がかなりありました。しかし生活は質素。そこも光太郎の偉いところだと思います。
 
ちなみにこの書籍の月報には前年、十和田湖上で撮った光太郎スナップが載っています。いい写真です。

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鋳金家で人間国宝の齋藤明氏の訃報が出ました。 

鋳金作家の人間国宝、齋藤明さん死去

 齋藤明さん(さいとう・あきら=鋳金作家、人間国宝)が16日、老衰で死去、93歳。通夜は20日午後6時、葬儀は21日午前10時30分から東京都練馬区春日町4の17の1の愛染院会館で。喪主は長女愛子(あいこ)さん。
 父の指導を受けて伝統的な金属の鋳造技術を習得。伝統を踏まえながら近代感覚にあふれる造形を追求し、1993年に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。
(朝日新聞)
 
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文中にある「父」は齋藤鏡明(きようめい)(明23=1890~昭13=1938)。東京・巣鴨で鋳物工房を営む鋳金家でしたが、明氏18歳で他界。以後、明氏は父の弟子や友人等の指導を得て研鑽を積んだそうです。
 
昭和24年(1949)に、光太郎の弟で無題やはり鋳金家の高村豊周の工房に入り、主任として実績を積み上げ、平成5年(1993)には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。
 
その間、光太郎の塑像の鋳金をたくさん手がけ、長野・碌山美術館や花巻の高村光太郎記念館に収められている光太郎作品は、ほとんど氏の鋳造になるものです。したがって、現在愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んでいる作品にも、氏が鋳造なさったものが含まれています。また、十和田湖畔の裸婦像の修復等にもあたられました。
 
昨年の連翹忌ではスピーチをしていただき、今年の連翹にも元気にご参加くださいました。また、その席上で「以前、こんな講演をしました」ということで、平成9年(1997)5月15日、花巻の高村山荘で行われた第40回高村祭記念講演の筆録を渡されました。題して「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」。
 
一読して、美術史上、非常に貴重な記録であると確信し、当方の刊行している冊子『光太郎資料』の今年10月発行分(第40集)に収録させていただきました。ご希望の方には送料のみでお分けしています。下記コメント欄等からご連絡下さい。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
実は、気がつくのが遅れて紹介しなかったのですが、今年3月には日本詩人クラブ会長を務められた詩人の寺田弘氏、6月にはやはり鋳金家の西大由氏と、相次いで生前の光太郎を知る方が亡くなっています。
 
寺田氏は光太郎が序文を書いた「傷痍軍人詩集」(昭和18年=1943)の編集にあたったり、光太郎とともに座談会に参加したりしています。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町の光太郎アトリエが炎上した時に真っ先に駆けつけたのが寺田氏だそうで、その時の回想が昨年刊行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。
 
西氏は高村豊周の弟子にあたる鋳金家。かつて行われていた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」を昭和38年(1963)に受賞されました。
 
花巻の光太郎山荘近くに立つ「雪白く積めり」、成田三里塚に立つ「春駒」、群馬草津に立つ「草津」などの光太郎詩碑パネルの鋳造を手がけたのも西氏です。

 
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併せてご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月20日

明治43年(1910)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれたパンの大会に世話人として参加しました。
 
この時には有名なエピソードが二つありました。
 
まず一つ、光太郎が長田秀雄、柳敬助の入営祝の幟(のぼり)に黒枠を書きました。この出来事は『萬朝報』に「非国民」と叩かれ、「黒枠事件」と称されました。光太郎自身は深い意図はなかったとうそぶきましたが、本当はどうだったのでしょうか。
 
もう一つ、この頃光太郎が「モナ・リザ」と呼んで入れあげていた吉原河内楼の娼妓・若太夫に、作家の木村荘太がそれと知ってちょっかいを出し、さらに光太郎を挑発、決闘になりかけました。谷崎潤一郎は木村に味方し、介添えに付いてやると息巻いたそうですが、その場になってみると何も起こりませんでした。光太郎はそういうこともあるだろうと若太夫をあきらめ、木村は自分の子供っぽい行為を反省。しかし若太夫は木村を選びました。

【今日は何の日・光太郎】 11月19日
 
大正10年(1921)の今日、智恵子とともに新詩社房州旅行に参加しました。
 
というわけで、今回は「今日は何の日・光太郎」ネタで。
 
同じ大正10年11月に雑誌『明星』が復刊、光太郎はその復刊号に長詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのを皮切りに、昭和2年(1927)の再びの終刊まで、詩、短歌、翻訳、散文、時には素描も発表し続けました。
 
その『明星』発行元の新詩社としての一泊旅行があり、光太郎智恵子も参加しています。他には与謝野鉄幹・晶子夫妻、歌人の平野万里、詩人の深尾須磨子、版画家の伊上凡骨、文化学院の創立者・西村伊作、画家の石井柏亭などが同道しています。19日には現在の館山市北条に泊まり、翌日、同じ館山の那古、現在の南房総市白浜などを巡って帰ったとのことです。
 
昭和41年(1966)に書かれた深尾須磨子の「高村智恵子」という散文に、この時の回想が書かれています。ただ、半世紀近くを経て書かれたものなので、時期などに若干の記憶違いがあるようで、深尾はこの旅行を「たしか大正十一年早春だつた。」としています。光太郎智恵子関連でも、古い文献はこの旅行を深尾の回想を元に大正11年としていますが、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜などでは大正10年になっています。
 
それはともかく、この時期としては数少ない智恵子の様子が描かれていますので、引用しましょう。ちなみに深尾と智恵子、この旅行が初対面でした。
 
 翌日は午後の出発まで、うららかな日ざしのなかを、めいめい思いおもいに、なぎさからなぎさを伝つて歩いた。私のかなり前方に光太郎のうしろ姿があり、そのまたはるかな前方に智恵子のうしろ姿があつた。よく見ると、砂に足をとられながらも、智恵子は前へ前へとぐんぐん歩いていくのだつたが、その早いこと、彼女を呼ぶ光太郎のほうは振りかえりもせず、まるでなにかに追いすがるように、飛鳥の早さで遠ざかつていく智恵子の姿をみつめつつ、私は一種異様な予感めいたものを覚えずにはいられなかつた。
 その智恵子が帰りの車中では私のとなりに座つたので、なにか話しかけたいような気持ちにかられたが、わざと黙つていた。やがて智恵子がとぎれがちに私に声をかけた。彼女がいつたのは、良人に死別してまもない私へのいたわり言葉ではなく、孤独がほんとうの人間の姿だから、というようなつきつめたものだつた。ちなみに、そのときの旅装といえば、晶子が洋装、私とあや(注・西村伊作長女)も洋装、智恵子は黒つぽいきものを着ていた。
 
智恵子が統合失調症を発症したのがいつか、正確なところはわかりません。昭和6年(1931)夏、『時事新報』の依頼で光太郎が三陸方面へ約1ヶ月の旅行に出ている間に訪ねてきた智恵子の母と妹が、智恵子の異状に気づいたといわれています(自殺未遂はさらにその翌年)が、それ以前からその兆候があったとしても不思議はありません。
 
少なくとも深尾はその10年前の智恵子に、すでに異様なものを感じていたのです。
 
光太郎自身も、昭和15年(1940)に書かれ、詩集『智恵子抄』にも収められている「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)という散文の中で、次のように語っています。
 
だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

ここがあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩ずつ最後の破綻に近づいて行つたのか、病気が螺旋のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。
 
さらに深尾の回想では、次のようなエピソードも語られます。
 
 二度目に智恵子に会つたのは、昭和五、六年のころ、本郷駒込の光太郎のアトリエをおとずれたときのことだつた。そのころ、ある新聞社から、婦人欄の文化批評を担当するようにと、社長みずから足を運んでの再三の懇望がことわりきれず、さりとて引受ける気にもなれず、思いあまつたあげくのはて、ふと、わんぱく呼ばわりされていた光太郎のことを考えつき、ずばりその裁断にまちたいと、近よりがたい気持ちをおさえて出かけたわけである。
 入口のとびらの右手にのぞき窓があり、そこから訪問客のだれかをたしかめ、来意をきいたうえでとびらをあけるという順序どおり、智恵子が私を迎えいれた。黒いセーターに光太郎のおさがりの、黒いズボンをはき、ぞうきんがけをしていた智恵子は、アトリエから仕事中の光太郎を呼びよせ、二人で私の話をきいた。そのとき、即答をしぶる光太郎に引きかえ、智恵子は大賛成、自分もその新聞社で働いたことがあり、不思議な縁だ、視野をひろげるためにもぜひ承諾するようにといい、自分も思いきつて働きたいなどともいうのだつた。
 
智恵子が新聞社で働いていたという事実はありません。うそいつわりを言うシチュエーションではないので、妄想でしょう。こうなると、明らかに統合失調症の症状だと思われます。時期がはっきりしないのですが、早ければ昭和5年(1930)にはこういう出来事があったのです。
 
だからどうというわけではないのですが、時折、智恵子が突然変調をきたした、的な記述などを見かけることがありますので、そうではなさそうだ、ということを記しておく、というわけです。
 
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画像は大正14年(1925)、千駄木林町のアトリエでの光太郎智恵子。昭和31年(1956)筑摩書房発行の草野心平編『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されていますが、それ以外にはこの写真はほとんど掲載されていないようです。参考までに。

文学作品の朗読が静かなブームのようですね。あちこちの朗読イベントで光太郎作品が取り上げられています。
 
先日、このブログでご紹介した「声の会」さんのイベントが終了。同会のHPに詳しく様子がレポートされています。
 
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これからあるイベントが2件。 

”大人向け古典講座” 朗読 耳から味わう日本文学の傑作

予備校講師・カルチャースクール講師などを務められている「国語教師」吉田裕子さんの講座です。
 
以下、吉田さんのサイトから。
 
長年愛されてきた文学作品は、その内容だけでなく、言葉自体、強い魅力を持っています。声に出してこそ、その力が感じられることもあるでしょう。古典講座を数多く開催してきた講師が、「朗読」という形での作品表現に挑戦いたします。ぜひ作品との新鮮な出会いをお楽しみください。

・日時 2013年12月7日(土)10:30~12:00 
・会場 御殿山コミュニティセンター(吉祥寺駅徒歩6分)
・定員 15名
・参加費 500円

【朗読予定の作品】
・芥川龍之介「蜘蛛の糸」「蜜柑」  与謝野晶子『みだれ髪』ほか短歌 高村光太郎「智恵子抄」
 三浦哲郎「とんかつ」 枕草子
方丈記 平家物語 おくの細道
 
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語りの会「いっきゅう組」 発表会2013 テーマ「愛とミステリー」

アニメ「攻殻機動隊」などでご活躍中の俳優・声優の塾一久氏による朗読イベントです。
 
・日時 2013年12月7日(土)14:00~ 
・会場 つくば西武ホール つくばエクスプレスつくば駅すぐ 西武デパート6F
・入場無料
 
1 智恵子抄より 詩16編 歌6首:高村光太郎
2 日本ミステリー「アパートの貴婦人」:赤川次郎
  海外ミステリー「ばっちゃまの話」:ルイーズ・マードリック
3 文藝百物語より 7編:森真沙子ほか
4 ゲストコーナー (お楽しみ^^)
5 塾一久による 短編ミステリーと落語「芝浜」
 
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この手のイベントを企画されている方、ご連絡いただければこのブログにてご紹介させていただきます(内容にもよりけりですが)。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月18日

大正6年(1917)の今日、光太郎が敬愛していた彫刻家、オーギュスト・ロダンが歿しました。

 
いい番組でした。
 
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光太郎・智恵子の話を枕に、澄み切った青い「ほんとの空」と、まさしく「錦秋」の安達太良山山腹の画像。こういう風景を見ると、つくづくこの国に生まれてよかったと思います。
 
そして、安達太良山を訪れたり、そこで働いたりしている人々の横顔。美しいだけでないこの国の現状が凝縮されていました。
 
沢登りが趣味だという男性。毎月、山を歩きながら放射線量を測定、ネットで公開しているそうです。
 
標高1400㍍付近の山小屋・くろがね小屋で働く会津の男性。長引く不況で職を失い、ハローワークを通して山小屋の仕事に就き、単身赴任中だそうです。
 
登山に訪れた初老の夫婦。福島第一原発のある大熊町から避難しているとのこと。
 
最後は、安達太良山で訓練中の地元・安達高校山岳部女子部員。最近の若者は本格的な登山など敬遠するのではないかと思っていましたが、二本松で生まれ育ち、毎日安達太良山を見上げ、6歳で初めて登った安達太良山の「ほんとの空」が心に残ったとのこと。そして、一昨年の震災。自宅も学校も除染対象となり、大変な思いをしたそうですが、「くじけずに、立ち向かう心を持ちたい。」ということで、今年入学した高校で、山岳部を選んだそうです。
 
それぞれの思いを胸に、「ほんとの空」の下に暮らし、そこを訪れる人々がいます。そうした人々に思いをはせて下さい。
 
今回の「小さな旅」、NHK総合、以下の日程で再放送されます。見逃した方、ご覧下さい。
11/23(土) 午前5:15~
 
11/21(木) 午前11:05~にも、一部地域で放映があります。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月17日

昭和24年(1949)の今日、盛岡の岩手県立美術工芸学校で講演を行いました。

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東海道新幹線のぞみ号車中にて書いております。真上の画像は名古屋駅で見た黄色い新幹線。正体はドクターイエロー」という保守点検用の車両で、あまりお目にかかれないものだそうです。たしかに当方、初めて見ました。「見ると幸せになれる」という都市伝説があるそうで、ラッキーでした。そこで、おすそ分けします(笑)。

今日は愛知碧南の藤井達吉現代美術館に行って参りました。現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、同館学芸員の土生和彦氏による講演「木彫家・高村光太郎」を聴くためです。

土生氏、碧南の前に巡回だった岡山井原の田中美術館でも講演をされたのですが、それを聴き逃したので、今日、参上した次第です。

スクリーンに画像を映しつつ、碧南市が野外彫刻による町作りに力を入れていることに始まり、藤井達吉の紹介、光太郎との関わり、そして主に光太郎の木彫について、専門的な内容を実に分かりやすく語られました。

聴衆は地元の一般の方が大半だったと思いますが、十分にご理解頂けたのではないでしょうか。

おそらく搬入などの際に撮影されたらしい画像、手板の裏面など、めったに見られぬカットもありました。

企画展会期は来月15日迄。来週は神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏の講演もあります。ぜひ足をお運び下さい。

【今日は何の日・光太郎】 11月16日

昭和61年(1986)の今日、二本松歴史資料館で開催された「光太郎・智恵子の世界―その愛と美の生涯―」展が閉幕しました。

今日は東京・千駄木に行って参りました。
 
青森・十和田から、奥入瀬観光ボランティアの会の方が上京、十和田湖畔の裸婦群像建立60周年ということで、改めて像の意義、背景を学びたいということで、高村光太郎記念会理事長で、光太郎の令甥・高村規氏、それから同事務局長の北川太一先生それぞれのお宅でお話を聞かれるのに同行しました。
 
他に十和田市役所の方、青森テレビのクルーもご一緒で、青森テレビさんでは今日の様子を番組で取り上げるとのことでした。
 
当方、十和田の皆さんが、高村邸、北川邸にいらしたことがないというので、道案内でした。東京駅で一行と待ち合わせて合流、一路、千駄木に向かいました。まずは北川太一先生のお宅、その後、昼食を近くの食堂で取り、午後は高村邸へ。道々、千駄木駅や団子坂、不忍通りから入った路地、さらに光太郎アトリエ跡などでもロケを敢行しました。こういう場合のご多分に漏れず、やはり雨でした。
 
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高村規氏、北川太一先生、ともにお元気で、主に裸婦像をめぐっての当時のお話などを聴かせていただきました。当方も見たことのない、当時の写真や光太郎自筆の構想メモなども拝見でき、非常に有意義な時間でした。
 
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高村邸
 
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北川太一先生とボランティアの会の方
 
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光太郎自筆構想メモ
 
十和田では今後もいろいろと光太郎顕彰活動的なところを進めて行くとのことで、有り難いかぎりです。そのため、みなさん光太郎智恵子についてかなりお調べになっていて、感心させられました。
 
また、お土産までいただいてしまいました。
 
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その名も「湖畔のおとめ」というブッセ。早速、帰っていただきました。チーズクリームを使った素朴な味わいがいい感じでした。
 
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さらに事前には観光ボランティアの会の方から、段ボールで宅配便が。何かと思って開けてみると……
 
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「十和田湖美水」が24本! 二酸化ケイ素(シリカ)が溶け込んでいるというミネラルウォーターです。感謝、感激。ありがとうございました。
 
ところで十和田といえば、テレビ放映情報があります。 

空から日本を見てみよう+ 青森県八戸から 紅葉の奥入瀬渓流、十和田湖へ

BSジャパン 2013年11月19日(火)  20時00分~20時55分
 
番組初の青森県。漁業の盛んな八戸市から、紅葉の最盛期を迎える奥入瀬渓流沿いに進み十和田湖まで、絶景を堪能、そして不思議な発見をしながら空から眺めて行きます。
 
八戸市を河口とする奥入瀬川沿いに十和田湖まで飛んでゆきます。八戸市に入るといきなり見たこともないスケールの巨大な穴を発見。これは海抜マイナス160mまで掘り進めた石灰石の鉱山で不思議な景色を形成しています。続いて奇妙な土偶の親子の像を発見。その先の八戸漁港はイカの水揚げが日本一。朝市も活気で溢れています。奥入瀬川を遡った畑が広がる一帯では野菜の栽培が盛ん。青森県はリンゴの他、ゴボウやニンニクの生産が日本一で、変わった種植えや収穫の様子を見学します。その先の十和田市は、かつては馬の生産で栄えた町で、最近は町じゅうがアートで彩られています。さらに奥入瀬川を進むと紅葉が広がり渓流の入口に着きます。滝の見える露天風呂の温泉ホテルを経て、渓流沿いの紅葉を眺めて行きます。奥入瀬渓流はコケが育ちやすく、渓流沿いを散策しながら様々な形のコケを発見できます。銚子大滝を過ぎるといよいよ十和田湖が見えてきます。

出演者  伊武雅刀(くもじい) 柳原可奈子(くもみ)

 
ぜひご覧下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 11月15日

昭和2年(1927)の今日、上野の日本美術協会で「大調和第一回展」が開幕しました。光太郎は「某夫人の首」など彫刻五点を出品、展覧会委員も務めました。
 
「大調和展」。官設の展覧会ではなく、武者無題小路実篤、岸田劉生等が音頭を取って始まった展覧会です。
 
「某夫人」とは智恵子です。右がその彫刻の画像。
 
残念ながらこの作品は現存が確認できていません。この他にも智恵子を造った彫刻がありましたが、すべておそらく昭和20年(1945)、太平洋戦争下の空襲で焼失してしまったと考えられています。「いや、これなら、うちの蔵にあるぞ」ということにでもなれば、「超」のつく大ニュースです。蔵をお持ちの方、お調べになってみては?
 
今日も話題になりましたが、十和田湖畔の裸婦群像、「顔は智恵子」とよくいわれますが、光太郎自身は公には明言していません。

広島からイベント情報です。

あきクラシックコンサート vol.141 メイドインジャパン

   2013年12月7日(土) 14:00開演
   広島市安芸区民文化センター・ホール
   無料
 
出演
 工谷明子・平福知夏・佐々木有紀・浦池佑佳・飯島聡志
 林皐暉・大田響子・大下由紀江・三島良子
 
第1部 
組曲「四季」全曲 / 滝廉太郎
「野薔薇」、「からたちの花」 / 山田耕筰
「平城山」、「うぬぼれ鏡」、幻想曲「さくらさくら」 / 平井康三郎
 組曲「あんこまパン」全曲 / 伊藤康英
第2部 
「秋の野」、「紫陽花」、「ファンタジア第一番」 / 團伊玖磨
「はなやぐ朝に」、「木菟」 / 中田喜直
「サッちゃん」、「いぬのおまわりさん」、「サッちゃんの家」 / 大中恩
「ぼろぼろな駝鳥」 / 弘田龍太郎

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プログラム最後の「ぼろぼろな駝鳥」が光太郎作詞です。この曲が現代の演奏会で演奏されるのは非常に珍しいと思います。008
 
「現代の」と書きましたが、作曲の弘田龍太郎は生年・明治25年(1892)、没年・昭和27年(1952)。童謡「春よ来い」などを作曲しています。この「ぼろぼろな駝鳥」の正確な作曲年がわからないのですが、昭和18年12月にニッチク(現・コロムビア)からSPレコードがリリースされていますので、その頃のものでしょう。
 
同じ「ぼろぼろな駝鳥」でも、昭和8年(1933)に橋本国彦によって作曲されたものは、現在でも楽譜・CDが入手可能なのですが、弘田龍太郎のものは楽譜・CDとも当方不分明です。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月14日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋に村の青年達が集まって、「ヤトジ」を作ってくれました。
 
「ヤトジ」とはこの地方の方言ではないでしょうか。家の周囲に作る雪囲いです。

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花巻郊外の高村光太郎記念館で購入したグッズの数々です。クリアフォルダ、ポストカードなどは以前からありましたが、一筆箋、レターセット的なものがごっそり増えており、思わずたくさん買ってしまいました。それ以外にも、タオル、日本手ぬぐい、コースターなどなどいろいろ増えています。
 
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花巻市役所近くにある「やぶ屋」さん。稗貫農学校に勤務していた頃の宮澤賢治が通い、光太郎も行ったことがある店です。賢治は天ぷらそばとサイダーを注文することが多かったとか。ショーウィンドウには、賢治をあしらった三ツ矢サイダーの看板が出ていました。
 
なぜか店内レジのそばに光太郎の「初夢まりつきうた」の詩稿(コピー)が額に入って飾られていました。「初夢まりつきうた」は昭和26年、『花巻新報』に発表された詩で、花巻商人をモチーフにしています。のちに作曲され、SPレコードにもなり、数年前にそのレコードが花巻市内で見つかったことがニュースになりました。
 
なぜその詩稿のコピーがここにあるのか、お店の方に伺おうと思ったのですが、当方が行ったのはちょうど昼の混雑時でお店の方も忙しそう。迷惑かなと思い、出直すことにしました。まだすいているであろう時間帯に夕食を早目に食べに来て、お尋ねするつもりでした。しかし、夕方来てみると、「本日都合により午後3時まで」の貼り紙。また一つ宿題が増えました(笑)。
 
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「花巻市博物館だより」です。先日のブログでご紹介した企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」の記事が2ページ載っています。㈶高村記念会さんでいただいてきました。2ページ目のスナップは佐藤隆房夫妻と光太郎です。
 
高村記念会さんといえば、テレビ朝日さんから協力要請があったそうで、その情報をゲットしました。明後日11/15、テレビ朝日系の夕方の情報番組「スーパーJチャンネル」の中で、「誰も知らない紅葉巡り、都電で見つけた小さな秋」という15分のコーナーが放映されるそうです。ただ、その部分は全国放映ではなく、首都圏ローカル枠のように思われます。
 
都電荒川線沿線の「誰も知らない紅葉スポット」ということで、椿山荘近くの水神社、雑司ヶ谷鬼子母神、王子飛鳥山、そして光太郎はじめ高村家の人々も眠る駒込染井霊園が紹介されるそうです。染井霊園の部分で、高村家の墓所、そして高村記念会さんの提供により光太郎の肖像写真が写るとのこと。首都圏の方、ご覧下さい。
 
そして昨日は岩手町での光太郎直筆の看板探訪。現物は見られませんでしたが、所在は確認できました。「佐藤隆房展」とあわせ、また近々行くしかないな、と思っています。 

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おまけ。昨日、盛岡駅で買った駅弁です。ウニが食べたくてこの弁当にしたのですが、偶然にも箸袋の文字と絵は、『白樺』で光太郎と交流のあった武者小路実篤。驚きました。他の方のブログによると、系列のホテルに武者が泊まった時に残した書画を使っているとのことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月13日

昭和50年(1975)の今日、東大地震研究所が創立50周年記念に光太郎木彫「鯰」のレプリカをあしらったペーパーウェイトを作成、関係者に配布しました。
 
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地震といえば鯰ですが、東大さんもなかなか洒落っ気が利いていますね。意外と重宝しています。

昨日は夕方まで花巻市役所がらみの仕事だったもので、花巻駅前の商人宿に一泊、今日は盛岡のさらに北、岩手郡岩手町というところに行って参りました。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
この年の日記は筑摩書房『高村光太郎全集』第13巻に載っており、北川太一先生が書かれた巻末の解題の部分では「川口村は現在の岩手郡岩手町。この看板は現存するという。」とあります。ただ、それ以上具体的なことは不明で、当方、未だこの看板の現物を見ていません。おそらく北川先も伝聞で書かれたのでしょう。
 
少し前に、ネットでこの看板に関しての記述も見つけました。数年前に書かれたもので、岩手町のいわて沼宮内駅の駅ビル内に郷土資料館があり、そこに展示されているとのこと。
 
そこで、花巻に行ったついでに見てこようと思い、行ってきたわけです。
 
さて、いわて沼宮内駅に着き、駅ビル内のネットに書かれていた場所に行ってみました。しかし、郷土資料館なる施設はありません。該当の場所は「会議室」になっていました。ただ、数年前の書き込みだったので、そういうこともあるだろう、と予想はしていました。その場合には聞き込み捜査をするつもりでいましたので、途中で目を付けていた観光案内所に行きました。すると、「町役場で訊けば分かるかも知れません」との答え。役場の場所を教えていただき、行ってみました。
 
役場では受付の女性職員の方があちこちに内線やら外線やらをかけて下さり、最終的に岩手町の川口公民館につないで下さいました。電話を替わって、これこれこういう物を探している旨を伝えると、の方からは「それならここにある」という答。なんのことはない、元の場所に戻っていたのです。
 
下手すると行方不明になっていたり、廃棄されていたりということもあり得るかな、と思っていたので(実際、他でそういう例があり、憤慨したことがあります)、安心しました。
 
ただ、今日は既に帰りの新幹線の切符を取っていて、川口公民館に廻る時間はありませんでした。また近々行って見てこようと思っています。
 
それにしても、岩手県内陸部は今日も小雪がち008らつき、岩手町では日陰にはかすかに積雪もありました。改めて東北の自然の厳しさを知った道中でした。
 
明日も岩手レポートを書かせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月12日

昭和63年(1988)の今日、光太郎を敬愛し続けた詩人・草野心平が歿しました。
 
昭和32年(1957)、第一回連翹忌の発起人の一人として案内文を書いた心平。その後も自身が亡くなるまで光太郎顕彰に取り組み続けました。いわば当会の祖、当方の大先輩です。

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岩手花巻に来ています。

7月以来、久しぶりに郊外太田地区にある、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで暮らした高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館に行って参りました。

予想通りに紅葉がいい感じに色づいていました。

記念館で驚いたのは、グッズがかなり増えていたこと。帰ってから画像入りで紹介します。

市街地に戻って、昼食を宮沢賢治がよく行った「やぶ屋」という蕎麦屋で食べました。ここは光太郎も行ったことがある店です。賢治がよく注文したというてんぷらそばを食べました。なかなか美味でした。こちらについても帰ってからレポートします。

そのうち空模様が怪しくなって来たと思ったら、雨が降り出し、さらに夕方には雪に変わりました。積もるような勢いではありませんが、11月中旬にもう雪とは……。

明日は盛岡方面です。

【今日は何の日・光太郎】 11月11日

昭和31年(1956)の今日、TBS系テレビでドラマ「智恵子抄」が放映されました。
 
映画も含め「智恵子抄」初めての映像化でした。キャストは光太郎役が宮口精二さん、智恵子役で新珠三千代さんでした。

テレビ放映情報です。

シリーズ山の歌 秋「ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」

NHK総合1 2013/11/17(日)8:00~8:25 
紅葉の福島県・安達太良山。高村光太郎の妻、智恵子は「ほんとの空」があると言った。
山小屋で再起を目指す人、地元高校の女子山岳部員。故郷の空に抱かれた人に出会う。
語り 山田敦子
 
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この番組、かつては「関東甲信越小さな旅」というタイトルでNHK首都圏さんの放送でしたが、現在では一部地域を除き、全国放送になっているようです。ぜひご覧下さい。
 
東北や高山地帯では、紅葉も見頃でしょう。先日、有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーで二本松に行きましたが、途中の磐越自動車道・阿武隈高原付近はかなり木々が色づいていました。また、明日から一泊で花巻に行きます。高村山荘周辺もいい感じになっているのでは、と期待しています。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月10日008

昭和10年(1935)の今日、東京美術学校校庭に光太郎作「光雲一周忌記念胸像」が除幕されました。
 
この彫刻は、現在でも東京美術学校の後身・東京芸術大学の中庭で見ることができます。光太郎作の数少ない野外彫刻の一つです。
 
現在、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館にて開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも、同じ型から作ったものが並んでいます。
 
それから同展では、明治45年(1912)に作られた「光雲の首」も展示されています。こちらはおそらく光雲還暦記念に作られたものの試作(還暦記念胸像自体は現存が確認できていません)。
 
約20年を経て、同じモチーフをどう扱い分けているか、ぜひ見比べていただきたいものです。

東京は代官山からイベント情報です。  

読書会「少女は本を読んで大人になる」 第6回 高村光太郎『智恵子抄』 

主 催  クラブヒルサイド
日 時  2013年12月6日(金) 19:00~21:00
会 場  クラブヒルサイドサロン 東京都渋谷区猿楽町30-2 ヒルサイドテラス アネックスB棟2F
参加費  一般3,500円 学生2,500円 ミニサンドウィッチ、紅茶付
ゲスト  末盛千枝子
 
同会サイトから
『智恵子抄』は、彫刻家・詩人である高村光太郎が、妻・智恵子との出会いからその死の時まで、30 年にわたって書いた詩や短歌をおさめた一冊です。光太郎にとって最愛かつ創作のミューズであった智恵子は、自身もまた芸術家であり、平塚らいてうらとも親交を深める「新しい女」でした。しかし、創作と家庭生活の間での葛藤、実家の破綻も原因し、やがて精神を病み、52 歳で亡くなります。  今回は、高村光太郎を名付け親にもち、美しい絵本の数々を世に送り出してこられた編集者・末盛千枝子さんをゲストにお迎えします。果たして「夫婦」として生きるとはどのようなことなのか――。光太郎と智恵子の有り様を通して、末盛さんと共に考えてみたいと思います。
取り上げる本:高村光太郎『智恵子抄』(新潮文庫他)

 
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ゲストの末盛千枝子さん。「高村光太郎を名付け親にもち」とありますが、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武のお嬢さんです。舟越はかつて行われていた彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」に輝いたこともあります。
 
昭和51年(1976)に読売新聞社盛岡支局から刊行された『啄木 賢治 光太郎 ―201人の証言―』には、このように書かれています。
 
 光太郎と舟越の初対面は昭和十六年、舟越の長女が生まれた時だった。舟越は当時、光太郎が訳したロダンの言葉に心酔しており、長女の名付け親になってもらうべく、一面識もなかった光太郎を、駒込のアトリエに訪ねたのだという。舟越は練馬にアトリエを持っていた。
 花巻の光太郎は、ずいぶん多くの人たちから名付け親を依頼された。詩人はそのたび「女の子なら智恵子としかつけませんよ」と笑ったが、舟越に対しても同じ意味のことを言い、漢字だけ変えてチエコと名付けてくれた。
 
また、昭和58年(1983)講談社から出た舟越保武・佐藤忠良の『対談 彫刻家の眼』には以下の部分があります。
 
佐藤 二人共、高村さんとは娘で縁があるんだな。君が高村さんに“千枝子”と名付け親になってもらったり、うちのオリエが智恵子を演ったりして。
 
舟越 ああ、そういえばそうだねえ。
 
佐藤 君の場合は、自分の子供の名前を自分でつけないで、他人に付けて貰おうというんだから、それは高村さんへの最大の尊敬だよね。
 
舟越 確かに尊敬の的だった。これはこの間テレビでしゃべったことだけど、高村さんが盛岡へ講演に来られて、花巻へ帰る時に、うちの娘の千枝子がまだ高村さんに会っていなかったので、その時に何とはなしに、きょう合わせた方がいいな、という予感みたいなものが僕にあった。それで娘を連れて、高村さんを盛岡駅へ見送りに行った。「これが先生に名前をつけていただいた千枝子です」と紹介したら、高村さんの表情がいつもと変わったような気がした。娘のおかっぱ頭を撫でて、「おじさんを、覚えておいて下さいね」と言った。その時の様子をはっきり憶えている。
 それから間もなく高村さんは東京へ出て、そしてあの仕事を終えて死んでいるわけ。盛岡駅で感じたあの予感みたいなものね。この小さい娘は自分が死んだ後にもずっと生きてるだろう。ということで高村さんの訣別の言葉だったのだと思う。
 
佐藤忠良も舟越同様、光太郎を敬愛していた彫刻家で、やはり「高村光太郎賞」受賞者です。そのお嬢さんは女優の佐藤オリエさん。昭和45年(1970)、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。舟越保武が「テレビでしゃべった」というのはNHKの「新日曜美術館」でしょう。
 
「あの仕事」は十和田湖畔の裸婦像ですね。
 
末盛さん、その後、編集者・絵本作家としてご活躍。記録によれば初期の頃の連翹忌にご参加いただいています。
 
当方、早速申し込みをしました。どんなお話が聴けるのか、楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月9日

明治25年(1892)の今日、光雲が西郷隆盛像木型制作主任に任命されました。
 
今も上野のランドマークとして愛されている上野の「西郷さん」。竣工は同31年(1898)ですから、かなりの期間がかかっています。下は当時の手彩色絵葉書(カラー印刷でなく人の手で彩色されたもの)です。
 
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花巻市の東方、宮沢賢治記念館近くにある花巻市博物館で、来月から以下の企画展が開催されます。

共同企画展 ぐるっと花巻再発見! 佐藤隆房展―醫は心に存する― 

期 日 : 平成25年12月1日(日)~平成26年2月11日(火・祝)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休館日 : 12月28日から1月1日まで
料 金 : 小、中学生 150(100)円 高、学生 250(200)円 一般 350(300)円
 
 花巻における近代病院の礎となった花巻共立病院。(現【公財】総合花巻病院)を創立し、花巻の先進医療化に寄与するとともに、町政・市政へ多大な貢献をされた佐藤隆房博士。
また、宮沢賢治、高村光太郎など花巻ゆかりの文人と広く親交を持ち、芸術・文化の世界にも深い理解と造詣を有した一面もありました。
今回の展覧会では、御子息の佐藤進氏、(公財)総合花巻病院の全面的な御協力のもと、医師としての活動、市政功労者としての活動、文化・芸術の理解者、庇護者としての活動、さらに乗馬や狩猟、俳句・絵画など趣味人としての活動等、佐藤隆房博士を多角的に顕彰・紹介していきます。(同館サイトより)
 
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佐藤隆房医師は、宮澤賢治の主治医。その関係で、昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
この企画展では、おそらく光太郎関連の品々もいろいろ展示されると思われます。これから雪深い時期となりますが、雪の花巻も乙なもの。また、今年5月にリニューアルとなった花巻郊外の高村光太郎記念館も、かつては冬期間閉鎖でしたが、今年から通年開館となります。併せて足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月8日

平成9年(1997)の今日、洋画家・難波田龍起が歿しました。
 
難波田は北海道旭川の生まれ。幼少時に父の仕事の都合で東京に移り、数え9歳の時に駒込林町の光太郎アトリエのすぐ裏に転居。十代の頃から詩を携えて光太郎アトリエに出入りしていました。その後、光太郎の勧めもあって洋画の道に進んでいます。往年は連翹忌にも参加していました。

過日のブログでご紹介しましたピアニスト・荒野(こうの)愛子さんのCD「『智恵子抄』によるピアノとクラリネットのための小曲集」が届きました。
 
早速聴いてみました。
 
「ピアノとクラリネットのための小曲集」ということで、当然ですが全てインストゥルメンタルです。ピアノは荒野さん、そこに新實(にいのみ)紗季さんのクラリネットが入ります。曲は全て荒野さんのオリジナルです。曲目は以下の通り。
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 1. アトリエにて
 2. 人類の泉
 3. 深夜の雪
 4. 僕等
 5. 樹下の二人
 6. あどけない話
 7. 分岐
 8. 風にのる智恵子~千鳥と遊ぶ智恵子
 9. 値ひがたき智恵子
 10. 同化
 11. 終曲Ⅰ--亡き妻智恵子
 12. 終曲Ⅱ--夜風も絶えた
 
以下、あくまで当方の個人的感想です。全体に切ない感じのメロディーラインで統一されていますが、決して暗い雰囲気ではなく、一種の清澄さを感じます。宗教曲にも通じるような。詩の「言葉」に頼らず、音楽のみで表現するのはかなり難しいと思いますが、あえてそれに挑戦したところにピアニストとしての荒野さんの矜恃が感じられましたし、実際、それが成功していると思います。
 
「あどけない話」を聴けば、安達太良山の山の上に広がる智恵子の「ほんとの空」が目に浮かびますし、「風にのる智恵子~千鳥と遊ぶ智恵子」では、九十九里浜の千鳥の鳴き声がピアノで表現されています。荒野さんのピアノに寄り添うような新さんのクラリネットも澄んだ音色で、音楽世界の幅を広げています。
 
ぜひお買い求めを。荒野さんのブログから註004文できます。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月7日

明治8年(1875)の今日、光太郎の両親・光雲とわかが結婚しました。
 
その前年に年季奉公が明けて独立した光雲ですが、この年数えで24歳でした。わかは光雲の師・東雲の妹の日本橋小舟町の穀物問屋・金谷善蔵に嫁いでいたおきせの養女(わかは実父の呉服商・金谷浅吉が亡くなり、子供がなかった浅吉の弟・善蔵の養女となりました)。この年、善蔵が病没、店も閉めることとなり、不憫に思った光雲がわかを見そめたというところです。光雲より6歳下の数え18歳でした。

またまた二本松ネタです。012
 
二本松市で智恵子顕彰活動を続けられている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催による「智恵子講座'13」。第5回ということで、以下の日程・内容で行われます。
 
日 時 : 2013年11月17日(日) 午前10時~12時
会 場 : 二本松市市民交流センター
講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)
内 容 : 「与謝野鉄幹と水野葉舟」
参加費 : 1,000円
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん tel/fax0243-23-6743
 
講師の澤氏は、『福島県文学全集』(郷土出版社・平成14年=2002)の編集をされた他、平成13年(2001)には翰林書房から『詩の成り立つところ 日本の近代詩、現代詩への接近』というご著書を刊行されています。
 
同書には「与謝野晶子と高村光太郎」という1章がある他、他の章でも光太郎・智恵子に触れています。
 
11月17日、ちょうどこの日は、同じ二本松市交流センター内の大山忠作美術館で開催中の「五星山」展最終日にもあたります。
 
併せて足をお運びいただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月6日

明治42年(1909)の今日、本郷区千駄木町の森鷗外邸・観潮楼で催された観潮楼歌会に出席しました。
 
観潮楼歌会は、光太郎留学中の明治40年(1907)から始められました。一説には歌壇内部の勢力争い的なものを融和しようと考えた鷗外が広く声をかけ、毎月第一土曜日に開催、与謝野晶子、伊藤左千夫、石川啄木、北原白秋、斎藤茂吉等、錚々たるメンバーが集まったとのことです。
 
筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜には、「鷗外邸の観潮楼歌会例会に出席するが、つまらなくて一度でやめる。」とあります。与謝野夫妻の新詩社系の歌会にはよく参加していた光太郎ですが、こちらは肌に合わなかったようです。
 
その際の光太郎の詠歌。
 
一力の小てるとわれと酒のめば飯をつぐとて盆を出すひと
 
この夜は「盆」を題詠として行われたそうですが、どうもふざけた作品ですね。

昨日の続きで、福島二本松の大山忠作美術館での「五星山」展、関連行事としての有馬稲子さん・一色采子さんのトークショーについてです。
 
今日の『福島民報』さんに記事が載りました。

女優有馬さん招きトークショー 二本松

 福島県二本松市の大山忠作美術館で開催している「五星山展」を記念した女優有馬稲子さんのトークショーは4日、同美術館がある市民交流センターで開かれた。

 同展PR委員会の主催。同市出身の日本画家、大山忠作氏の長女で女優の采子さん(同展実行委員長)との対談形式で進められた。有馬さんは、同展に出品されている大山氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」の制作秘話を語った。

 モデルになるよう大山氏から熱心に働き掛けられた。舞台公演が重なり多忙な中、30分だけ時間が取れた。貞淑でおとなしい智恵子をイメージして大山氏と向き合った。

 「こんな素晴らしい絵に仕上げてもらい、感謝している。私が死んでも作品はずっと残る。これからもこの絵を愛してほしい」と詰め掛けた観客約180人に語り掛けた。「本当にいい絵ばかり。日本中で開いた方がいい」と展覧会の印象を話した。

 五星山展は17日まで。大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏ら文化勲章受章者5人の作品35点を展示している。
 
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時に昭和51年9月。有馬さんは新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の最中。昼の部は榎本滋民脚本「富貴楼お倉」、夜の部が北條秀司脚本「智恵子抄」でした。
 
昼の部と夜の部の間に衣装を替えたり、食事を取ったりというわけですが、その時間は余り長くなかったそうです。その短い時間でいいから、ということで大山忠作画伯に請われ、劇場舞台裏の廊下で椅子に座り、ポーズをなさったとのこと。大山画伯はものの30分でスケッチをなさり、写真も撮られたそうですが、それがこの「大作になったとのこと。
 
背景は安達太良山、そしてその下に広がるススキ野原ですが、これは舞台の背景というわけではなく、故郷・二本松を思い描いての画伯の心象風景だということです。
 
造型作家の制作過程、ということで、ひとつ興味深いエピソードでした。
 
ちなみに上の画像は「五星山」展図録。トークショー終了後に有馬さんに連翹忌の営業を敢行、どさくさに紛れてサインをいただきました。
 
大山画伯のご長女・一色采子さんにも。
 
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こちらの絵は題して「童女」。モデルは一色さんです。対象を捉える暖かい眼差しが感じられますね。
 
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こちらが図録の表紙です。以前も書きましたが題字は片岡鶴太郎さんの揮毫。「文化勲章受章画伯による心の復興支援」。いいキャッチフレーズですね。
 
「五星山」展は17日(日)まで開催されています。
 
話は変わりますが、東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズを制し、みごと日本一に輝きました。闘将・星野監督、試合後のインタビューで「まだまだ被災者の皆さんは苦労し ているので、すずめの涙でも癒やしてあげられたらと思っていた。」とおっしゃっていました。これも立派な「心の復興支援」だったと思います。
 
がんばれ、東北。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月5日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で舞踊家・石井漠の舞踊生活30周年記念公演として、光太郎の詩「地理の書」による新作舞踊が発表されました。
 
作曲・石井五郎、朗読・南部邦彦、合唱・玉川学園合唱隊、石垣蓉子、李彩娥ら10人の踊り手によって演じられたそうです。
 
この時のチラシ、プログラム類を探していますが見つかりません。情報を求めます。

今日は福島二本松の大山忠作美術館に行って参りました。
 
10月12日より、同館にて「五星山展」が開催されています。過日もこのブログでご紹介しましたが、大山忠作氏は二本松出身の日本画家。その歿(平成21年=2009)後にご遺族から多くの作品が二本松市に寄贈され、市では二本松駅前の市民交流センター3階に大山忠作美術館をオープンさせました。
 
「五星山」展は、「文化勲章受章画伯による心の復興支援」というサブタイトルで、東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、そして大山忠作と、「山」のつく五人の日本画家の作品が集められた企画展です。
 
その関連行事として、今日は女優の有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーが行われました。
 
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有馬さんは大山忠作の代表作の一つ、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを昭和51年(1976)に務められたということでのご登場。一色さんは大山忠作のお嬢さんです。
 
開場30分前に市民交流センターに着いたら、やはり大女優のお出ましということで、既に長蛇の列でした。笑ったのは、「智恵子に扮する有馬稲子像」を使った顔ハメが設置されていたこと。「ここまでやるか」と思いました。
 
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午後二時、トークショーが始まりました。まずは有馬さんによる智恵子の姪・宮崎春子の回想「紙絵のおもいで」、光太郎詩「あどけない話」「樹下の二人」の朗読から。その後は一色さんが聞き手となり、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを務められた時の思い出や、舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた時の思い出などを有馬さんが話されました。
 
その他にも健康法や震災後の復興支援にも話が及び、あっという間の約1時間でした。
 
有馬さんは「五星山」展をぜひ全国巡回で、とおっしゃっていました。確かに二本松だけではもったいない展覧会です。実現してほしいものですね。
 
一色さんのお話では、既に「五星山」展での入館者が1万人を超えたとのこと。同展のキャッチコピーのひとつに「展覧会へ行くという復興支援がある」というものもあります。まさしくその通り。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月4日

昭和17年(1942)の今日、大東亜文学者会議に出席しました。

もう1日、愛知碧南でのネタを書かせていただきます。
 
先日、藤井達吉現代美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展開会式・内覧会での出来事です。当方、まず正面玄関でなく地下1階の裏口的な所から入り、地階で木本文平館長や来賓の方々とお話をさせていただいてから、1階の開会式会場へ参りました。
 
すると、横切った正面玄関前に、ほぼ等身大のブロンズ彫刻がありました。光太郎像です。「こんなところにこんなものが」と驚きました。
 
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012光太郎展会場ですから光太郎像があってもおかしくはないのですが、今までに見たことのない光太郎像で驚いたわけです。ただ、その時は人が多く、また開会式が間もなく始まるのとで、近くでじっくり見られませんでした。
 
さて、内覧会後、問題の像に近寄ってよく見てみました。すると、光太郎像と思ったのは当方の早とちりで、藤井達吉の像でした。
 
左は晩年の光太郎の写真ですが、よく似ていると思いませんか。
 
禿頭、丸眼鏡、和服にちゃんちゃんこ……。ただし藤井像、よく見ると見事な髭があり、そこは違っていました。
 
同時代の交流があった芸術家同士、やはり似てくるものなのだな、と思いました。
 
「やはり」というのは理由があります。
 
やはり光太郎と同時代の歌人・斎藤茂吉と光太郎もその晩年の風貌が似ている、と、これは比較的よく言われることです。
 
下の画像は昭和21年(1946)2月の『週刊朝日』の記事です。「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」という題での、山形に疎開していた茂吉と、花巻郊外太田村の光太郎の訪問記です。
 
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右の方に双方を拡大してみましたが、いかがでしょう。似ていますよね。上が茂吉、下が光太郎です。
 
話は変わりますが、開会式での木本館長のご挨拶の中で、光太郎が稀代の雨男である旨のお話がありました。
 
そのとおりで、光太郎はその生前、人生の節目節目に必ずといっていいほど雨、もしくは雪に見舞われています。
 
欧米留学に旅立った明治39年(1906)2月3日・雪。智恵子との結婚披露宴の大正3年(1914)12月22日・真冬にも関わらず土砂降り。十和田湖畔の裸婦像除幕式の昭和28年(1953)10月21日・雨。その終焉の日の昭和31年(1956)4月2日・春の大雪……数え上げればきりがありません。高村家でもそれは有名で、光太郎が何かやるときには雨や雪が降るので、「お印が来た」と言っていたそうです。
 
光太郎歿後もそれが続き、4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です。実際、昨年も今年も雨でした。その他、当方が光太郎顕彰に本格的に取り組んだ昨年から、光太郎がらみで遠出すると、本当に必ずといっていいほど雨か雪です。
 
開会式での木本館長のお話。今年の連翹忌が雨、碧南の前の巡回先だった岡山井原の田中美術館での開会式が雨、館長が再び井原に出向いての「日曜美術館」ロケの日も雨、ところが碧南での今日の開会式は晴れ。館長は晴れ男だそうで、「私が勝ちました」とおっしゃっていました。実際その日は朝からいい天気でした。
 
ところが内覧会が終わって、先の藤井達吉像を見ていると、館長が笑いながら近づいてきて、「やられました」。何事かと思ったら、外は雨。これには驚きました。天気予報では降水確率10パーセントぐらいっだったはず。光太郎、意地を見せました(笑)。
 
さて、明日は二本松の大山忠作美術館で開催中の「五星山」展での記念イベント、有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーに行って参ります。
 
天気はどうなることやら……。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月3日

明治32年(1899)の今日、光太郎をかわいがってくれた祖父・兼吉が歿しました。
 
光太郎の彫刻作品に、祖父・兼吉のレリーフがあります。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展にも並んでいます。

昨日から愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館において、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が開幕しました。
 
ところで館の名前に冠されている「藤井達吉」とは? 今日はそのあたりを書いてみます。
 
一言で言うなら、明治・大正・昭和三代に活躍した工芸家、ということになるでしょうか。
 
生まれは明治14年(1881)、現在の碧南市です。光太郎より2歳年上になります。
 
専門の美術教育は受けておらず、17歳で七宝工芸の店に入ります。折からの博覧会ブームで、明治36年(1903)には内国勧業博覧会、翌年にはセントルイス万国博覧会に出品。そうした中で新しい美術工芸への目を開かれ、店を辞め、作家として立つ道を選びました。
 
明治44年(1911)には、光太郎が経営していた日本初の画廊・琅玕洞に藤井の作品が並んでいます。琅玕洞の名目上の経営者は、光太郎の次弟・道利で、主にその道利の手になる琅玕洞の出納帳的なものが残っています(『高村光太郎全集』別巻に掲載)。そこには藤井作の「土瓶」「茶碗」「湯呑」「茶道具」などが記録されています。
 
さらに藤井は大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のちフユウザン会)に加わっています。光太郎は同会の中心メンバーの一人でした。
 
実は、光太郎本人と藤井とのつながりはこの辺りまでしかたどれません。『高村光太郎全集』で藤井の名が出てくるのは先の琅玕洞文書だけなのです。光太郎から藤井宛の書簡なども確認できていません。ただ、今後、出てくる可能性がありますので、期待したいところです。
 
ただし、藤井はその後、光太郎の三弟で、鋳金家の豊周と密な関係になります。藤井も豊周も、工芸界の革新運動に取り組み、装飾美術家協会、无型(むけい)などの団体で歩を同じくしています。
 
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写真は昭和2年(1927)の无型第一回展同人。後列中央が藤井、前列左端が豊周です。
 
昭和43年(1968)に刊行された豊周の『自画像』、平成4年(1992)から刊行が始まった『高村豊周文集』(全五巻)には、藤井の名があちこちに出てきます。以下、『自画像』から。
 
富本憲吉のほかに、新興工芸の啓蒙期に忘れられない恩人は藤井達吉と津田青楓である。
(略)
藤井達吉も、伝統やしきたりに拘泥しないで、自由に材料を使って自分の作りたいものを作った。確か三笠という美術店で藤井達吉の個展を見たが、壁掛けに大変打たれた。それまで壁掛けというと、みんなエレガントな貴族趣味のものばかりだったが、藤井達吉の壁掛けは全く庶民的で、生地には普通の木綿やビロードやコールテンなどの端切れを、はぎ合わせたものが無造作に使われている。壁掛けのアップリケに竹の皮が使われているのを見て、私はあっと思った。模様も実に自由で、蝶々とか、とんぼとか、いろいろな野の草を表現し、今まで人が振り返りもしなかった題材や材料を使って、非常に新鮮な面白い効果をあげている。
(略)
藤井達吉のものは、ヨーロッパの影響はまず考えられない。彼は非常に多才な人で、染織も、刺繍も、木彫も、七宝もやった。木彫も全然今までの木彫のやり方に拘泥しないで、まったく自分の感じ方だけでやっている。新しい生命を吹き込むというか、作られたものは何も彼も生き生きとしていた。この人たちは、ようやく胎動期に入った新興工芸の先駆者とも恩人ともいうべきで、私たちばかりでなく、当時新しい工芸の行き方に煩悶していた若い工芸家に大きな影響を与えたといえよう。
 
今年の6月、京都国立近代美術館で開催された企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観て参りました。光太郎の水彩画が並んでいるというので行ったのですが、思いがけず藤井の作品もずらっと出ていました。当方、藤井の作品をちゃんと見るのはこの時が初めてでしたが、そのバリエーションの豊かさに驚きました。同展図録から画像を拝借します。
 
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いかがでしょうか。
 
さて、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中ですが、四室中の一室のみ、常設展ということで藤井の作品も見られます(なんだか庇を借りて母屋を乗っ取っているようで心苦しいのですが)。併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月2日

昭和45年(1970)の今日、TBS系テレビで「花王愛の劇場 智恵子抄」の放映が始まりました。
 
光太郎役は故・木村功さん、智恵子役は佐藤オリエさんでした。佐藤さんは光太郎を敬愛していた彫刻家・佐藤忠良のお嬢さんです。
 
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放映は月から金の13:00~13:30。この年大晦日が最終回だったそうです。
 
主題歌は西尾和子さんで「智恵子抄」。昭和39年(1964)の二代目コロムビア・ローズさんのカバーです。
 
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「流行歌」とか「テレビ映画」という語に昭和の薫りが色濃く漂っています(笑)。

今日から「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、最後の巡回先である愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんで一般公開が始まります。
 
昨日は開会式・内覧会ということで、お邪魔して参りました。

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ここに行くのは初めてでした。名古屋から東海道本線、名鉄線を乗り継ぎ、碧南駅から館まで歩きました。意外と駅から近く助かりましたし、古民家等が残る街並みがいい感じでした。館のすぐ近くには歴史のある味醂工場などもあるようで、再訪の際には街並み探訪もしてみようと思いました。
 
着くと、担当学芸員の土生和彦氏が出迎えて下さいました。館長室にて木本文平館長、それから6月から8月、同展が最初に公開された千葉市美術館の河合正朝館長もいらしていて、お話を伺いました。千葉展は結局2万人近くの方がいらしたそうでしたし、2館目の岡山井原市立田中美術館も、「日曜美術館」の放映後に入館者数が跳ね上がり、1万人以上とのこと。藤井達吉現代美術館も問い合わせ等非常に多いそうです。ありがたいかぎりです。
 
午後3時半から開会式。木本館長のごあいさつや来賓祝辞、担当学芸員の紹介などがあり、テープカットも行われました。
 
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その後、2階の会場へ。3館目ともなると、どのような展示の工夫をしているのかと、そちらがまず気になりました。
 
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入り口には巨大なパネル。今回はポスター、チラシ等、木彫の「柘榴」をメインに使っています。昨日もいらしていましたが、株式会社アーティカルの小島邦康氏の力作です。
 
会場は3室に分かれており、1室目はブロンズ彫刻が中心。光太郎以外にもロダンや荻原守衛など周辺作家の作品もあって、比較ができます。
 
2室目の前半は木彫が中心。鏡を使って「蟬」の腹部が見えるようにしてあったり、木彫を包んでいた袱紗や布を一緒に展示したりという工夫がされていました。ブロンズ同様、同時代の光雲や佐藤朝山の作品も並んでいます。2室目後半は光太郎晩年にスポットを当て、十和田湖畔の裸婦像試作などが中心でした。
 
1階の3室目は智恵子紙絵が26点並ん014でいます。面白いなと思ったのは、通常、壁に垂直に掛ける智恵子の紙絵を、展示ケースを使って床と水平に置き、いろいろな角度から観られる点。22点は壁に垂直の展示ですが、4点だけこのように展示しています。紙絵なので2次元の作品と思われがちですが、厚さコンマ何㍉ながら紙の重なりが感じられる展示方法でした。
 
また、同館は美術普及教育的な部分にも力を入れているそうで、子供向けの工夫も随所にされていて感心しました。入り口には「キッズガイド」というA4判二つ折りの冊子があり、それと対応して、いくつかの展示作品の低い位置に子供向けのキャプションが設置されています。小さい頃からいいものを観ることは大切だと思います。
 
さらに4室目として常設展。館の名前に冠されている藤井達吉の作品が展示されています。藤井は光太郎と縁の深かった工芸家。藤井については明日のこのブログで詳しく書きます。
 
会期は12月15日まで。月曜休館ですが、基本的に午後6時まで開館しています。何度も書いていますが、この機会を逃すと、これだけの光太郎彫刻が集められる機会がまたいつあるかわかりません。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月1日

大正10年(1921)の今日、雑誌『明星』が復刊。光太郎は詩「雨にうたるるカテドラル」を寄稿しました。
 
「雨にうたるるカテドラル」は、パリ留学中に訪れたノートルダム寺院をモチーフにした長い詩(93行)です。壮大なゴシック建築、そこに刻まれた数々の歴史、それをとりまくイル・ド・フランスの空気、さらにそれと対峙する自己の姿を鮮やかに描き出しています。
 
光太郎は粘土で彫刻を作り、木で彫刻を作り、そしてこの詩のように言葉で彫刻を作ったとも言われています。

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