2013年10月

今日は「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の最後の巡回先、愛知県碧南市藤井達吉美術館にての開会式・内覧会(一般公開は明日から)に行って参ります。帰りは夜中となりそうなので、日付が変わった未明のうちに今日の分を書いてしまいます。
 
出先からケータイで短めに投稿する事も可能なのですが、早めに書いてしまいたい事情もあります。
 
このブログでは光太郎智恵子がらみのさまざまなイベント等をご紹介しています。そのために情報収集はおさおさ怠りなくやっているつもりなのですが、こちらの網の目から漏れる情報も多いようです。
 
終わってしまってからこんなイベントがあったというのをネットで見つけることもしばしばありますし、昨日書いた田沼武能「アトリエの16人」のように、終了間際に気がつく場合もあります。当方の情報収集力もまだまだです。
 
今回もそう。明後日に行われるイベントを昨日になって知りました。反省しきりです。というわけで、間がないのでできる限り早くご紹介します。 

リーディングドラマ「智恵子の空は」

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『朝日新聞さいたま版マリオン』さんの記事から。
 
朗読グループ「声の会」による公演。浅川安子(構成、演出)。音楽、動きなどを取り入れ、高村光太郎の「智恵子抄」をもとに智恵子の生涯を語る。ピアノとクラリネットの演奏も。1000円。要予約。電話中村さん(048・641・6753)。
 
日 時:2013年11月2日(土) 昼の部13:30~ 夜の部18:00~
会 場:彩の国さいたま芸術劇場小ホール(最寄り駅 与野本町)
料 金:1000円 全席自由
 
同会HPによれば、「リーディングドラマ」とは、以下の通りです。
 
 昨今、朗読の持つ力が見直され、朗読劇や朗読構成劇などという名前で舞台上演されることも増えてきました。これは日本語の持つ生命力を目や耳を通して回復させたいというあらわれだと思います。
 私たち「声の会」のリーディングドラマも、朗読に美術や音楽、照明、動きを取り入れ、総合的な舞台表現を目指しています。私たちの発する言葉が、舞台空間をより際だたせることによって、何倍もの力を得て、ストレートに観るものの心に伝わることを切に願うからです。
 
ぜひ行きたいのですが、なにせ急に知ったもので都合がつきません。残念です。

【今日は何の日・光太郎】 10月31日

昭和16年(1941)の今日、牛込矢来町の城西仏教会館で催された「文芸講演と詩朗読の会」で講演をしました。
 
上記と同じ朗読の会ですが、その趣旨は大きく違います。
 
当方、この時のプログラム(B4判二つ折り)を所蔵しています。裏面に書かれた趣意書的なものを引用しましょう。
 
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 変転きはまりない時代に最も肝要にして不動不退転の国民の生活を樹立させる底のものは国家の力であり、国民の固き信念であります。大日本帝国臣民であるわれわれはこの力を充分蓄積し、この固き信念を深く身につけて一旦緩急の際には、すみやかに勇往邁進凛々真摯敢闘の精神を内に充溢しのぞまねばなりません。われわれ青年はすでに銃剣の林を征き砲煙をおかして帝国の威力を世界に轟かして参りました。今日われわれの思はねばならぬ責務の重大は、銃前と云はず銃後と云はず、現代日本の各方面より要望されており、われわれ青年はわれわれ青年の意気と熱情とを以てこれに当るべき秋であります。
 このとき文化面に於て、われわれは青年詩人の新しい声と盛り上がる熱情とをかたむけて新文化銃後翼賛の微力をつくしたいと思ふものであります。たゞならぬ今日のあらねばならぬ方向はこの巨大な歴史的現実の下に厳然として唯一つ存在して居る、捨身即ち祖国を愛する日本民族の血の伝統に生きる事であります。われわれ青年詩人は今こそ現代日本の輿望に応へて詩精神の覚醒と正しい履践をせねばならぬのであります。
 民族が興隆せんとするときには必ず民族の詩は栄えるのであります。現代日本の直面してゐる情勢は新しき東亜の黎明へ、十億の民の共栄へ向つて輝かしい任務を遂行する努力でもありまして、この偉大なる希望のもとにわれわれの血はたぎつてゐるのであります。文字通りわれわれは詩を以て聖業に翼賛し奉る秋であります。大政翼賛会文化部に於てもかゝる時代にかゝる詩の国民に与へる力の重大を惟ひ既に「詩の朗読」の運動が始められて居ります。
 詩と詩人社もこゝに「文芸講演と詩の朗読会」を催して現代青年詩人の志向とその自主的精神を明らかにし詩によつて民族精神の高揚を為す運動の一としたいと考へる次第であります。
 昨秋及今春名古屋に於ける「文芸講演と詩の朗読会」に引続き催される今回の会は現代詩精神社の後援の下に、一つには同人山田嵯峨の大浪漫主義を盛つた詩集「四方天」の出版を記念し、又一つには徳安攻略戦に散華した詩友田中清司を偲ぶために開催されるものであります。したがつて今迄在来の出版記念会や追悼会の旧套を打破する意味も含み、こゝに詩壇新体制確立の為青年詩人を中心に溌剌清新の新風を盛りうる事と信ずるものであります。
 幸ひ詩壇の耆宿高村光太郎氏と詩朗読の先輩照井瓔三氏の賛助御快諾を得ました事はわれわれのもつとも光栄とするところであります。就而此青年詩人の一大快事に御集り願ひ度く御友人御誘ひの上御来場下さいます様御案内申上げます。
 昭和十六年十月   詩と詩人社同人識
 
まるで某半島の某独裁国の「ナントカ日報」という新聞のような感じですね。日本もつい数十年前にはこうだったのです。
 
この時はまだ太平洋戦争開戦前です。しかし既に日中戦争は泥沼化していました。国家総動員法はこれにさかのぼる昭和13年(1938)には制定されており、各種団体は大政翼賛会の旗の下に統合が進み、文学もその例外ではありませんでした。
 
詩人はその作品の執筆や朗読で、国策に協力する事が義務づけられた時代だったのです。
 
「詩と詩人社」は新潟・魚沼に本部を置いた詩人結社です。やはりプログラムの裏に同人の一覧が載っていました。
 
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当方、寡聞にして田村昌由、浅井十三郎、武井京史(「武井京」とあるのは誤り?)山田嵯峨くらいしか知りません。
 
田村にしても前後3回ほど光太郎に詩集の序文を書いてもらっているから知っているようなもの。浅井・武井・山田は昭和18年(1943)に行われ、同社発行の「詩と詩人」に載った座談で光太郎と同席しているから知っているようなものです。
 
それにしても戦死した同人の追悼を兼ねるとか、名簿に「出征中」の文字があるとか、本当に嫌な時代です。詩人が銃を手に取って戦うとか、銃後の者たちもこんなイベントで国策協力とか、そしてそこに光太郎も絡んでいるとか、そんな時代だったわけです。

今日は日比谷・銀座に行って参りました。 
 
いろいろ用事を片付ける中、銀座6丁目の株式会社ノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催中の田沼武能写真展「アトリエの16人」を観て参りました。
 
8月末から行われていたのですが、気がつくのが遅く、このブログで紹介していませんでした。申し訳ないので実際に足を運んでのレポートといたします。
 
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田沼武能氏は現在も活躍中の写真家。人物写真を多く手がけられ、特に子供の写真で有名ですね。
 
その田沼氏が、かつてそれぞれのアトリエで撮影した16人の美術家のポートレートが並んでいます。
 
以下、ノエビアさんのHPから。
 
「美術家にとってアトリエは戦場である」という田沼武能氏が、アトリエで作品に挑む16人の姿をとらえた写真展です。 美術家の風貌はもちろん、アトリエの空間を通して、その芸術と作品を生み出した時代がよみがえってくるようです。
奥村土牛、岡本太郎、福田平八郎、駒井哲郎、杉山寧、川合玉堂、高村光太郎など、2010年から2013年にかけて都内及び関東近郊の美術館で企画展が開催された美術家も多数含まれています。

 
というわけで、光太郎のポートレートも1枚。昭和28年(1953)、中野のアトリエで撮影されたものでした。光太郎は十和田湖畔の裸婦像を制作していた時期でしたが、像自体は布が巻き付けられた状態で写っています。キャプションには、光太郎が制作途中のものは見せない、と言った旨の記述がありました。
 
しかし、先日も少しご紹介したブリヂストン美術館制作の美術映画では、像の手の部分を制作中のカットがあり、ちょっと矛盾しています。ただ、ブリヂストンの動画でも、顔には布が巻き付けられたままでした。
 
さて、田沼氏の作品。肝心の光太郎は小さく写っています。しかし、その眼光は炯々と光り、まさしく「美術家にとってアトリエは戦場である」との言が納得いきます。その点は他の美術家も同じでしたが。
 
この古武士のような光太郎の風貌には、いろいろな写真家が惹きつけられたようで、早いところでは戦前から、土門拳などが撮影していますし、花巻郊外太田村山口の山小屋にも、土門が再訪したのをはじめ、阿部徹雄、濱谷浩らが撮影に訪れています。
 
それから、光太郎の弟・豊周の子息の高村規氏も、後に写真家となりますが、学生時代に晩年の光太郎をよく撮影していました。連翹忌で飾る遺影は規氏の撮影したものを使わせていただいています。
 
さて、「アトリエの16人」。会期は明後日11/1まで。時間は午前10時~午後6時、入場は無料です。紹介するのが遅くなり、まことに申し訳ありません。お近くの方、銀ブラついでにどうぞ。
 
明日は「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の最後の巡回先、愛知県碧南市藤井達吉美術館にての開会式・内覧会(一般公開は明後日から)に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月30日6c2092aa

明治36年(1903)の今日、作家・尾崎紅葉が胃癌で歿し、光太郎が東京帝国大学での解剖に立ち会いました。
 
のち、この時の印象を元に「解剖台上の紅葉山人」という彫刻を制作しています。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展にももちろん並びます。

画像は髙村規氏撮影。光太郎令甥にして、田沼氏と同じく木村伊兵衛に師事した写真家です。

6月に千葉市美術館さんを皮切りに始まった「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展。8月には岡山井原市の田中美術館さんに巡回、先週日曜日に閉幕しました。
 
そしていよいよ今週金曜日、最後の巡回先である愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんで開幕します。
 
さて、同じ愛知県の小牧市にあるメナード美術館さんでは、「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」が開催中です。
 
同館は常設展示は行わず、企画展のみ。時々このように館蔵名作展的なものを行っています。
 
「近代日本洋画」とタイトルにありますが、彫刻や西洋の絵画も展示されています。その彫刻作品の中に、光太郎の木彫「栄螺(さざえ)」と「鯰」があります。
 
栄螺」は永らく行方不明で、もはや失われてしまったとまで思われていたのが、平成15年に70余年を経て所在が明らかになったものです。

 
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「鯰」は現在3点の現存が確認されています。メナードのものは我々の世界では分類整理上「鯰3」とナンバリングしています。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、千葉で「鯰2」、井原で「鯰1」と「鯰2」が展示されました。今度の碧南では「鯰1」のみ展示されます。それに対しての「鯰3」です。
 
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「鯰1」は個人蔵。「鯰2」は竹橋の東京国立近代美術館所蔵。そして「鯰3」がメナード美術館蔵というわけです。
「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展で、ぜひとも3尾の「鯰」を一堂に会させたかったのですが、こればかりは所蔵者の方々の都合もあり、どうしようもありません。
 
というわけで、碧南の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展、メナードの「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」、併せてご覧下さい。ただ、同じ愛知県内ですが碧南~小牧は2時間近くかかるようです。
 
ちなみに「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」、日本洋画は岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、小出楢重、梅原龍三郎、熊谷守一、長谷川利行、佐伯佑三……まだまだメジャーな名前が続きます。西洋の作品もセザンヌ、モネ、ゴッホ、ピカソ、マチス、シャガール、ヴァン・ドンゲン、ルオー、ブラマンク……。彫刻の部も光太郎以外に高田博厚、佐藤忠良、舟越保武(すべて光太郎に関わる彫刻家です)。
 
会期は12/23までです
 
【今日は何の日・光太郎】 10月29日

昭和9年(1934)の今日、編者として名を連ね、装幀や題字を担当した文圃堂版『宮沢賢治全集』の刊行が開始されました。
 
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編集実務は草野心平。毎日のようにこのブログに心平の名が出てきますが、それだけ光太郎との縁が深かったということですね。

先日、このブログ内の【013今日は何の日・光太郎】で、十和田湖畔の裸婦像(通称「乙女の像」)除幕式について書きました。

そちらが昭和28年(1953)の10月21日ということで、今年は60周年を迎えたわけです。そこで、地元・十和田では60周年を記念して、いろいろと顕彰活動が行われています。
 
例えば記念講座
 
 
さらに智恵子忌日・レモン忌へのご参加。

などなど。
 
来年には「子供たちにも理解できるもの」ということで、マンガによるガイド本の作成が企画されているそうです。
 
当方、レモン忌会場にて十和田の皆さんの知遇を得、お手伝いをすることとなりました。
 
その関係で、「研究の資料となれば」ということで、十和田市のまちづくり支援課様からDVDが送られてきまして、早速拝見しました。
 
驚きました。なんと昭和28年10月21日に行われた、裸婦像除幕式の模様を撮影した動画が入っていたのです。
 
元は青森県の社会教育センターに保管してある16㍉フィルムで、約8分間の動画です。はじめは同じ日に除幕された奥入瀬渓谷・銚子大滝の佐藤春夫詩碑除幕の様子。続いて裸婦像除幕式の模様でした。
 
残念ながら音声はないのですが、銚子大滝でも十和田湖畔でも、立って歩いて喋っている光太郎の姿が映っています。
 
光太郎が写っている動画としては、同じ年にブリヂストン美術館が作成し、翌年公開された「美術映画 高村光太郎」というものがあり、こちらは有名です。先日のNHKさんの「日曜美術館」でも、「こういうものがありますよ」とお教えし、番組内で使ってもらいました。それが唯一、生前の光太郎の写った動画だろうと長らく思っていたところに、除幕式の動画があったということで、非常に驚いたわけです。
 
戦時中の大政翼賛会中央協力会議を撮影した動画も現存しますが、光太郎が中心に写っているカットはないようで、写っているとしても隅の方だと思われます。
 
ちなみに除幕式の動画には、佐藤春夫、谷口吉郎(裸婦像台座設計者)、津島文治(太宰治実兄・当時の青森県知事)、藤井照子(裸婦像制作時のモデル)、そして草野心平の姿も。銚子大滝のカットでは、心平、足下の覚束ない佐藤春夫の手を引いて歩いています。佐藤春夫碑についてはこちら
 
DVDが届いたのが川内村の「かえる忌」前日で、当方講演の中に心平と光太郎の交流の一つとして裸婦像の件も話す予定でしたので、不思議な縁を感じました。
 
当日の光太郎のスピーチが載った青森県の『教育広報』の存在を知ったのも数年前ですし、同時に地元紙などに載った光太郎郎談話もいくつか見つけてはいます。ただ、まだまだ地元にはこの手の資料が眠っていそうな気がするので、これを機に調べてみようと思っています。
 
ところで裸婦像。先週の『デーリー東北』さんで紹介されました。 

十和田湖畔に紅葉シーズン到来(2013/10/23 08:49)

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔が紅葉シーズンを迎え、全国から訪れる観光客らが木々の色づきを楽しんでいる。十和田湖国立公園協会によると、22日現在は5割程度。見頃は今月末まで続く見込みだ。
 同日の休屋地区は曇りで時折小雨がぱらついた。湖畔のシンボルで建立から60周年を迎えた高村光太郎作による乙女の像周辺の樹木も黄や赤に染まり始め、観光客を引き付けていた。
 乙女の像と同じ〝還暦〟を記念し、夫婦で旅行に訪れた埼玉県上尾市の会社員赤尾友康さん(60)は「秋に来たのは初めて。すごくきれい」と喜んだ。
 
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本当に、多くの人でにぎわってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月28日

昭和62年(1987)の今日、草野心平が文化勲章受章者に選定されました。
 
心平がらみのネタが続いたところで、今日のこのエピソード。これも不思議な縁を感じます。
 
たびたびこのブログでご紹介している二本松出身の画家・大山忠作も文化勲章受章者ですが、氏の伝記『安達太良の虹―大山忠作伝―』(2012 栗城正義著 歴史春秋社)によれば、福島県出身の文化勲章受章者は5人しかいなかったそうです(今年、郡山出身の磁気記録工学研究者・岩崎俊一氏が選定されたので6人目)。そのうち2人が光太郎と縁があるというのも面白いですね。

昨日は福島・川内村に行って参りました。詩人の草野心平を偲ぶ集い「第3回天山・心平の会かえる忌」に参加のためです。昨年に引き続き二度目の参加でした。
 
会場は川内村中心部にある小松屋旅館さん。座敷の囲炉裏を囲んでの集いとなりました。
 
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午後3時に開会。川内村遠藤村長や013かわうち草野心平記念館長・晒名氏のご挨拶の後、心平も好きだった濁酒で乾杯。さらに心平生前の肉声の録音で、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、心平の「ごびらっふの独白」などを聴きました。
 
その後、当方の講演。題は「高村光太郎と草野心平の交流」。光太郎は明治16年(1883)、心平は同36年(1903)の生まれで、ちょうど20歳離れていますが、大正の末頃知り合ってすぐに意気投合、お互いを大いに認め合い、お互いのためにいろいろな仕事をしました。光太郎は心平の詩集や編著(『宮沢賢治全集』など)の序文や装幀をし、心平の編集していた『銅鑼』、『歴程』、『東亜解放』などに寄稿、心平は光太郎についての評論や詩、随想を書きました。また、光太郎は心平の経営する居酒屋に足しげく通い、心平は晩年の光太郎の身の回りの世話をしたりと、実生活の部分でもいろいろと助け合っています。
 
そうした二人の交流を、年譜にまとめて発表させていただきました。
 
特筆すべきは光太郎歿後。心平は昭和32年(1957)の第一回連翹忌で発起人を務めました。そういう意味では当方の大先輩です。
 
その他にも自身の晩年(昭和63年=1988没)まで、ことあるごとに光太郎についての仕事をしています。
 
自身で光太郎の詩集や光太郎に関する書籍を編んで刊行したのをはじめ、いろろな雑誌で光太郎特集を組めば寄稿し、光太郎の石碑ができれば碑文や碑陰記を書き、講演やテレビ番組で光太郎を語り続けました。
 
また、同じ福島県人という事で、心平は智恵子に関する顕彰活動も行いました。
 
「去る者は日々に疎し」と申します。しかし、心平の中では、その歿後も光太郎・智恵子が生き続けていたのでしょう。といっても、なかなかできる事ではありません。
 
今日、まがりなりにも光太郎・智恵子の名がメジャーなものとして伝えられ続けている陰には、心平のこのような努力があったわけで、光太郎顕彰の大先輩として尊敬します。
 
心平は昭和43年の「大いなる手」という文章で次のように書いています。
 
 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。(略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。

 
対する光太郎も、心平という稀代の詩人の本質を鋭く見抜き、心平の詩集『第百階級』の序(昭和3年=1928)で、次のように評しています。
 
 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

 
今回、心平と光太郎の交流について調べてみて、人と人とのつながり―言い換えれば「絆」―の美しさ、強さ、重要性を改めて感じました。
 
さて、右上の画像は当方講演のレジュメです。光太郎・心平それぞれの、それぞれに対して行ったりしたことについてまとめた年譜が中心です。残部が少しあります。ご希望の方には送料のみでお分けします。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。ただし、モノクロ印刷です。
 
ところで川内村。
 
昨日はカーナビが常磐自動車道の常磐富岡ICで下りろ、と指示してきました。広野IC~常磐富岡ICは震災から2年半経った今も通行止めが続いています。しかたなく広野で下りて、一般道に入りました。福島第二原発のある富岡町を通り、本当にもう少し行けば立ち入り禁止区域、というところまで行って、川内村に入りました。
 
通行可能区間でも、除染のための重機や除染によって出た落ち葉などの廃棄物を詰めてあると思われる巨大なビニール袋などが目につきました。シャッターを下ろした店舗も多数。また、山間部の道路では、未だに崩落し、片側対面通行になっている箇所も複数ありました。かえる忌会場でも地元の方々から、帰還の状況などまだまだであることを伺いました。
 
そんな中、懇親会の席上では、逆に東京から川内村に移り住んだ若者が紹介されたりという明るい話題もありました。しかし、もちろん喜ばしいことですが、一人の若者が移り住んだというだけで大喜びという状況、おかしいとは思いませんか? 美しい紅葉を目にし、新そばや巨大なイワナの塩焼きに舌鼓を打ち「こんなにいい所なのに……」と、思いは複雑でした。
 
当方、来年は川内村で行われる市民講座的なもので、複数回講師を依頼されました。微力ながら少しでも復興支援となればと、お引き受けしました。
 
まだまだ復興途上です。最近は一頃はやった「絆」という合い言葉もあまり聞かれなくなってきました。しかし、「絆」の一語、風化させるにはまだ早いと思います。皆さんもできる範囲での支援をよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月27日

昭和27年(1952)の今日、紀尾井町福田屋で、詩人の竹内てるよ、栄養学者の川島四郎との座談「高村光太郎先生に簡素生活と栄養の体験を聞く」を行いました。

山梨レポートの2回目です。
 
山梨県立文学館さんの「与謝野晶子展」に行く前に、寄り道をしました。目的地は笛吹市立青楓美術館さん。中央高速を勝沼インターで下り、10分程のところにあります。
 
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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
話は変わりますが、JR東日本さんで運営している「大人の休日倶楽部」という会員組織があります。吉永小百合さんご出演のTVコマーシャルをご記憶の方も多いのではないでしょうか。入会すると期間限定の会員限定割引きっぷなどの特典があります。
 
その「大人の休日倶楽部」の会員向けの雑誌に「大人の休日倶楽部ミドル」「大人の休日倶楽部ジパング」という2種類があるそうです。その2誌共通の連載で「一枚の手紙から」というコラムがあり、毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。ちなみに9月号は樋口一葉から半井桃水宛、10月号は堀辰雄から婚約者の多恵子宛、11月号は有島武郎から木田金次郎宛のものです。
 
そして12月号では、光太郎から津田青楓宛の葉書が扱われることになっています。実物は花巻の高村記念会さんで所蔵しているものです。先日、実際に執筆されるライターさんに、当方自宅兼事務所に来ていただき、その葉書の書かれた背景について取材を受けました。くわしくは12月号が世に出てからまた書きます。
 
青楓宛の書簡類は『高村光太郎全集』に9通掲載されていますが、それ以外にもまだまだありそうです。実際、今度の葉書も『全集』未収録。花巻の記念会では東京の古書店から入手したとのことです。また、数年前には、現在北海道にある葉書の情報を得、当方執筆の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
そこで、山梨の青楓美術館にも、もしかしたらあるかも知れないと思い、立ち寄った次第です。
 
結果として、そういったものは所蔵されていませんでしたが、青楓の画業の一端に触れることができ、有意義でした。青楓は与謝野晶子とも交流があり、青楓が絵を描き、晶子が短歌を書いた作品や、青楓が装幀を手がけた晶子歌集の装幀原画なども並んでおり、これから与謝野晶子展を観に行く上で予習にもなりました。他にも夏目漱石や本郷新、伊上凡骨など、光太郎と縁のある人物に関わる展示もあり、興味深く拝見しました。
 
今年は、東京芸術大学美術館で開催された「夏目漱石の美術世界展」に所蔵作品を3点ほど貸し出したとのこと。それらの作品にはそういうキャプションが附けられており、さながら凱旋帰国したかのようでした。
 
山梨と言えば富士山。2階の展示室には、世界文化遺産登録を記念して、青楓が富士山を描いた作品を集めていました。
 
ところで、青楓美術館。もともとは青楓と親交のあった当地出身の個人が開設した美術館だそうです。その後、旧一宮町に経営が引き継がれ、市町村合併で笛吹市が誕生し、現在に至っています。その間、閉館の危機にも見舞われたそうですが、入館者数の増加に向けた取り組みが効果を上げ、存続しています。
 
同館パンフレットの表紙には「ぶどう畑の中にある小さな小さな宝箱!!」のキャッチコピー。ある意味、開き直っていますが(笑)、実際その通りで、大きな街道沿いではなく、小さな路地を入っていったぶどう畑の中に建っています。
 
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しかし「山椒は小粒でぴりりと辛い」。いい所です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月26日

明治39年(1906)の今日、日本女子大学校で、多くの皇族方を迎え、「秋期文芸会」が催されました。演劇も上演され、舞台の背景(大道具)は智恵子が描いたということです。

昨日、山梨県に行って参りました。
 
山梨県立文学館さんで開催中の「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」観覧のためです。
 
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同館は平成19年(2007)には企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催、今度は光太郎と関連の深い晶子の企画展ということで、馳せ参じました。
 
昼食時間帯に現地に着き、文学館の目の前にある「小作」さんに入りました。当方、山梨に行くことも多く、そのたびにここで山梨の郷土料理・ほうとうを食べています。
 
偶然にも文治堂書店さんの勝畑耕一氏が友人の方とお二人で食事に見えられ、驚きました。勝畑氏、今春、『二本松と智恵子』というジュブナイルを上梓されています。やはり晶子展を観にいらしたとのこと。
 
他にも文治堂さんでは光太郎に関わる書籍を何点か刊行して下さっており、ありがたい限りです。
 
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さて、いざ会場へ。
 
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晶子の生まれ育った大阪堺の菓子商・駿河屋関連に始まり、女学校時代、『明星』時代、『みだれ髪』前後、渡欧、古典研究、そして晩年と、ドラマチックな晶子の生涯が俯瞰できる数々の資料が並んでいました。
 
短歌以外にもその才能を遺憾なく発揮した詩(日露戦争に出征した実弟に対して語りかける「君死にたまふこと勿かれ」など)、小説、童話、評論などの活動もテーマ別に紹介されていました。
 
やはり実物を見ることで、晶子なら晶子の「息吹」のようなものを感じます。画像で見るのとは違いますね。
 
そして「晶子と「明星」の人々」ということで、光太郎、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎に関する展示も。
 
光太郎関連は初めて光太郎の短歌が載った明治33年(1900)の『明星』(先日の【今日は何の日・光太郎】でご紹介しました。)、光太郎の書いた晶子の戯画が載った明治43年(1910)の『スバル』(巳年ということで、当方、今年の年賀状に使いました。晶子が口から蛇を吹いています。)、光太郎が装幀した鉄幹の歌集『相聞』(明治43年=1910)などが展示されていました。
 
光太郎のコーナー以外にも、光太郎に関わる資料が点々とあり、光太郎と与謝野夫妻の縁の深さを改めて実感しました。晶子の歌集『流星の道』(大正13年=1924)には「高村光太郎様に捧ぐ」の献辞がありますし、遺作となった歌集『白桜集』(昭和17年=1942)の序は光太郎が執筆しています(雑誌『冬柏』に載ったものの転載ですが)。それから光太郎が扉の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)も展示されていました。
 
また、晶子の短歌も載った合同作品集『白すみれ』(明治39年=1906)も展示されていましたが、この装幀も光太郎だという情報があり、こちらは調査中です。確定すれば光太郎が手がけた最初の装幀ということになるのですが、はっきりしません。この件については稿を改めて書きます。
 
さらに、晶子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号の巻頭を飾った詩「そぞろごと」を執筆しており、こちらも展示されていました(復刻版でしたが)。この詩は「山の動く日来る」で始まるもので、『青鞜』主宰の平塚らいてうはこの詩にいたく感動したそうです。ただ、のちにらいてうと晶子はいわゆる「母性保護論争」で論敵同士となりますが。
 
展示をざっと見終わった後、担当学芸員の保坂雅子様による講座「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」を拝聴しました。晶子は10回ほど山梨県を訪れており、その経緯や作品の紹介でした。光太郎とも親交のあった山梨出身の詩人、中込純次が絡んでおり、興味深いものでした。
 
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講座修了後は保坂様によるギャラリートークもあり、もう一度展示室へ。先ほどはざっと見たたででしたので、今度は詳しい解説付きで観られ、ラッキーでした。
 
展示の後半は講座にもあった晶子と山梨関連の資料の数々でしたが、「百首屏風」などの自筆の書、写真など、関係者の方々がよくぞ散逸させずに遺しておいてくれた、という感じでした。
 
そして保坂様は今回の企画展全体を担当され(当然、図録の編集もでしょうし)、昨日は講座にギャラリートークと、八面六臂の大活躍です。ご苦労様です。
 
というわけで、なかなか立派な企画展です。会期は11/24まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月25日

大正3年(1914)の今日、第一詩集『道程』が刊行されました。
 
『明星』時代には秀抜な「歌人」であった光太郎ですが、海外留学を経て、明治42年(1909)頃から「詩人」へと変貌します。後に「短歌では到底表現し尽くせない内容をもてあまし、初めて自分でも本気で詩を書く衝動に駆られた。」(「詩の勉強」昭和14年=1939)と語っています。
 
社会的には大逆事件や日韓併合、光太郎の身辺でも盟友・荻原守衛の死やパンの会の狂騒といった出来事があり、光太郎自身、自己の目指す新しい彫刻と、光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界の隔たりに悩み、吉原の娼妓や浅草の女給との恋愛、画廊琅玕洞の経営とその失敗、北海道移住の夢とその挫折など、まさに混沌とした時代でした。
 
そして智恵子との出会いをきっかけに転機が訪れ、とにかく自分の道を自分で切り開くベクトルが定まります。
 
おそらくは2ヶ月後の智恵子との結婚披露を控え、それまでの自己の「道程」を振り返り、一つのしめくくりとして、この『道程』刊行が思い立たれたのでしょう。
 
回想に依れば、光雲から200円を貰って、刊行部数200部ほどの自費出版。まだ口語自由詩が一般的でなかったこの時代を突き抜けた詩集は、一部の人々からは強い関心を持って受け止められましたが、ビジネスライクの部分では散々でした。後に残本を奥付だけ換えて改装し、何度か再生品を刊行しています。国会図書館の近代デジタルデータに登録されているのはこれです。のちに近代文学史上の金字塔となるとは、誰も思っていなかったことでしょう。 
 
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画像は当方所蔵の初版『013道程』です。残念ながら刊行時に着いていたカバーは欠落しています。
 
ちなみに大正3年(1914)は99年前。つまり、来年は『道程』刊行100周年ということになります。
 
表題作「道程」もこの年の発表ですし(雑誌発表形は102行にも及ぶ大作でしたが、詩集収録の段階でバッサリ9行に削られました。)、来年は「「道程」100周年」というコンセプトで企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。当方所蔵のものは喜んでお貸しします。
 
詩集『道程』はその後、昭和に入り、「改訂版」(昭和15年=1940)、「改訂普及版」(同16年=1941)、「再訂版」(同20年=1945)、「復元版」(同22年=1947)、「復元版文庫版」(同26年=1951)、「復刻版」(同43年=1968)、「復元版文庫版リバイバルコレクション版」(平成元年=1984)などが刊行されています。このあたりの変遷を追うだけでも面白いと思います。
 
ついでに言うなら、後ほどこの項で紹介しますが、智恵子との結婚披露も同じ大正3年ですので、やはり来年は「光太郎智恵子結婚100周年」と言えます。企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

光太郎の詩に自作の曲を付けて歌われているシャンソン歌手・モンデンモモさん情報です。
 
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「モモの智恵子抄2013秋」ということで、福島と東京、3カ所のツアーが予定されています。
 
2013/11/16(土) 二本松コンサートホール 18:00~ 1500円 問 0243-24-2830 鈴木
2013/11/17(日) 福島市古関裕而記念館  19:00~ 2000円 問 090-4476-0223 白川
2013/11/19(火) 原宿アコスタディオ 19:00~ 3000円 問 080-6772-3746 モンデンビューロ
 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月23日

大正12年(1923)の今日、柳八重に手紙を書きました。
 
柳八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。その夫・敬助は画家で、光太郎とは留学中から親交がありました。そうした関係もあり、明治44年(1911)の光太郎と智恵子の出会いをお膳立てしたのが八重です。
 
敬助はこの年5月に病没、9月から遺作展が日本橋三越で始まりましたが、その初日に関東大震災が起こり、三越は炎上、多くの作品が灰燼に帰しました。
 
そのことに対してのお悔やみの手紙が、90年前の今日、書かれたというわけです。光太郎の痛恨の意が良く表されています。
 
 暫く御無沙汰しました。
 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。
 それで柳君帰朝後間もなく(〇九年)かかれた画で私の大事にしてゐた人物画(十号)を柳君にお返し為ようと思つて今日持参しました。此は柳君の精神的一面をよくあらはした好い画で私の愛好措かないものです。どうかアトリエにお置き下さい。額ぶちが手許に無いので額ぶち無しで持参しました。
 いづれ又おめにかかつた時、
   十月二十三日                                     高村光太郎
  柳八重子様
 
敬助の作品は、やはり交流のあった荻原守衛の個人美術館である信州安曇野の碌山美術館などで見ることができます。

京都から展覧会情報です。 

皇室の名品-近代日本美術の粋-

 
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会 期 : 2013/11/9(土)~2014/1/13(月・祝)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町(岡崎公園内)
入場料 : 当日一般1,300円 学割・前売り割引あり
 
記念イベント
11/16(土) 記念講演会 「皇室と日本近代工芸」 京都国立近代美術館学芸課長 松原龍一
11/23(土) 記念鼎談 「皇室が護り育てた日本近代美術」
 大原美術館長 高階秀爾・前京都国立近代美術館長 尾﨑正明・宮内庁三の丸尚蔵館研究官 太田彩
12/14(土) 記念講演会 「皇室と明治の美術」 東京芸術大学 古田亮
同展サイトから
 本展は、代々の皇室に引き継がれてきた美術品群が国に寄贈されたことを受け、平成5(1993)年に開館した宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する美術工芸品の中から、選りすぐった近代以降の作品約180点を、六つの章に分け体系的に紹介するものです。日本画の横山大観、竹内栖鳳、油彩画の高橋由一、彫刻の高村光雲、七宝の並河靖之、金工の海野勝珉など、内国勧業博覧会や万博への出品作、御成婚や御即位を祝して制作された作品など、皇室ゆかりの名品が一堂に会します。
 本年12月に天皇陛下は傘寿を迎えられます。その佳き年と、京都国立近代美術館の開館50周年、宮内庁三の丸尚蔵館の開館20周年が重なりました。各館の記念事業の一つとして、皇室とは特別にゆかりの深い京都の地で、皇室が守り育んでこられた、まさに近代日本美術の粋をご観覧いただけるまたとない機会となります。
 
上記チラシにも載っていますが、光雲の作品も展示されます。
 
大正13年(1924)の作、「松樹鷹置物」。宮内庁001の三の丸尚蔵館に所蔵されているものです。ただし後期のみの展示となっていました。前期は11/9~12/8、後期が12/11~1/13で、前後期でかなり展示品の入れ替えがあるようです。
 
他には以下の通り。
「鶴亀置物」 明治40年(1907) 竹内久一との合作 後期
「萬歳楽置物」 大正5年(1916) 山崎朝雲との合作 前期
「猿置物」 大正12年(1923) 前期
「矮鶏置物」 明治22年(1889) 後期
 
光雲と皇室との関連は深く、明治20年(1887)の皇居造営の際に内部の装飾彫刻を手がけたのを皮切りに、同23年(1890)には帝室技芸員に任命、同26年(1893)には皇居前広場に建つ楠木正成像原型を完成させ、その他、何度も御前彫刻を仰せつかっています。
 
せっかくの機会ですので、足をお運び下さい。当方も「松樹鷹置物」が並ぶ後期に行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月22日

昭和17年(1942)の今日、詩人の風間光作、西山勇太郎と群馬県宝川温泉湯ノ小屋を訪れました。
 
この時、宿の主人・鈴木重郎の日記帳に言葉を書き残しています。

ネット検索で見つけました。 

第82回日本音楽コンクール作曲部門本選会

 時 : 2013年10月30日 17:00開演
 場 : 東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル(東京都新宿区西新宿3-20-2)
料 金 : 2,000円 
 東京オペラシティチケットセンター 03-5353-9999
 チケットぴあ各店、電子チケットぴあ 0570-02-9999
 JTB各支店、JTBトラベランド各店、JTB総合提携店、JTBエンタメチケットデスク 0570-030311
 
予選通過作品
 網守将平(あみもり しょうへい)  = Drunky Jet Addiction – for 6 players –
 佐原洸(さはら こう) = Ferrum 
 中村ありす(なかむら ありす) = RCH(NH2)COOH for Clarinet in B♭ & Piano forte
 引地誠(ひきち まこと)  = -call- 詩編第44篇より
 今野哲也(こんの てつや) = 『智恵子抄』への月影─「慈悲深き箴言」を擁する
 杉本友樹(すぎもと ゆうき) = Switch Module for ensemble
 松波匠太郎(まつなみ しょうたろう) = DISSOLUTION for Flute, Clarinet, Horn and Piano
 
演奏:安良岡章夫、小鍛冶邦隆指揮、アール・レスピラン
 
ラジオのNHK FM、テレビのNHK BSプレミアムでの放送もあるそうです。
 ラジオ 11月18日(月)19:30~21:10
 テレビ 12月6日(金)6:00~6:55
 
さらに12月上旬にはやはりNHK BSプレミアムにてドキュメンタリー番組として取り上げるそうです。ただし、声楽、ピアノなど他にも5部門あり、どなたがクローズアップされるか不明です。
 
今野氏の作品が栄冠に輝くことを期待します。001
 
【今日は何の日・光太郎】 10月21日

昭和28年(1953)の今日、十和田湖畔の裸婦像の除幕式に参加しました。
 
ある意味、光太郎彫刻の集大成といえる大作です。
 
ただし、長いブランクや光太郎自身の健康状態、その他もろもろのマイナス要因も重なり、「傑作」とは言い難いというのが正直なところです。
 
光太郎自身もあまりこの像の出来には満足していなかったようで、サインが入っていません。
 
しかし、そうした点を差し引いても、この彫刻の持つ意味は大きいものがあると思います。
 
ところでこれが「光太郎最後の彫刻作品」と紹介されることがありますが、それは誤りです。
 
未完に終わりましたが、昭和29年(1954)には日華ゴム(のち月星化成、現ムーンスター……運動靴のメーカー)社長の倉田雲平像を手がけていますし、完成品としても裸婦像完成後に「大町桂月記念メダル」という小品を仕上げています。
 
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除幕式の一コマ 左から光太郎、佐藤春夫、谷口吉郎、土方定一、伊藤忠雄
 
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左:光太郎と裸婦像      右:モデルを務めた藤井照子と

数年前、この時のスピーチの載った翌月発行の青森県の『教育広報』を見つけました。筑摩書房の『高村光太郎全集』に収録されていないものでした。現在全国巡回中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」図録に、この全文が載りました。また、最初の会場だった千葉市立美術館では、担当の学芸員氏がこの文章をいたく気に入り、パネルに全文印刷して会場内に展示、さらに図録の見返しに冒頭の一文「人間の心の中を、内部を見る」がキャッチコピー的に使われています。

講談社さんから刊行されているコミック誌に『月刊アフタヌーン』という雑誌があります。
 
現在、11月号が発売中。この号からの新連載ということで、清家雪子さん作「月に吠えらんねえ」が巻頭カラーで掲載されています。
 
サブタイトルが「近代詩歌俳句幻想譚」。最初に前書き的に以下の文言が。
 
このお話の登場人物は000
近代詩歌俳句の
各作品から受けた印象を
キャラクター化したものです
各作家自身のエピソードも
含まれますが
それも印象を掬(すく)い取った
ものであって
実在の人物 団体等とは一切
関係ありません
 
過激な表現も多々含まれますが
作品世界に真摯に向き合った
結果であることを
ご理解くださいますよう
お願いするとともに
各作家の方々に
深く敬意を表します
 
「月に吠えらんねえ」という題名でおわかりでしょうが、主人公は萩原朔太郎です。
 
第一回のその他の登場人物は北原白秋、中原中也、三好達治、正岡子規、室生犀星、西脇順三郎、大手拓次、尾崎放哉、若山牧水、石川啄木、草野心平……。
 
この錚々たるメンバーが架空の都市「近代□(シカク=詩歌句)街」で織りなす幻想的な世界が描かれています。
 
一昔前に、近代文士をリアルに描いたコミックがいろいろありましたが(関川夏央/谷口ジロー『坊っちゃんの時代』シリーズ、古山寛/ほんまりう『事件簿』シリーズなど)、それらとは一線を画しています。
 
何しろ主人公の朔太郎は真性の屍体愛好者、中原中也は盗んだバイクで走り出し、草野心平にいたっては人間ではなく蛙です。
 
そして登場人物の台詞に光太郎智恵子の名が出、最後に光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)をバックに夜空に現れる全裸の巨大美女……。
 
前衛演劇を思わせる、シュールな世界です。しかし単なる悪ふざけでなく、「詩歌」と「小説」の間で揺れ動く犀星とか、引きこもりになった大手拓次とか、それぞれの登場人物についてさもありなんという設定がされています。
 
同誌は毎月25日発売だそうですので、もう次の号が出てしまいます。お早めに書店まで。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月20日

明治43年(1910)の今日、上野精養軒で開かれた、美術新報社主催の新帰朝洋画家の会合に出席しました。

年2回、当方が刊行しております004冊子『光太郎資料』の第40集、当会の名簿に載っている方や、全国の主要な図書館、光太郎智恵子に関わりそうな文学館・美術館等に発送いたしました。
 
以前にも書きましたが、元々は昭和35年から平成5年にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が刊行されていたものの名跡をお譲りいただきました。
 
内容的には以下の通りです。
 
光太郎遺珠から 第4回 造形作家として(二) 昭和戦前
・ 昭和2年(1927) 福田正夫宛書簡
・ 同         八束清宛書簡
・ 昭和4年(1929) 中込純次宛書簡
・ 昭和5年(1930) 木彫「栄螺」短歌
・ 昭和8年(1933) 「『画工志願』読後感」
・ 昭和11年(1936) 「『青沼彦治翁遺行録』序」
・ 昭和13年(1938) 雑纂 高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布
・ 同         森川勇作宛書簡
・ 昭和15年(1940) 雑纂「(私信より)」
・ 同         座談 「第2回研究部座談会」008
・ 同         散文 「仕事場にて」
 
筑摩書房『高村光太郎全集』補遺作品です。テーマ別、時期別にまとめています。 
 
光太郎回想・訪問記 高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり 斎藤明
光太郎の弟で鋳金家の高村豊周の助手を長らく務めた人間国宝の鋳金家・斎藤明氏の回想です。実際に各地に残る光太郎ブロンズ彫刻を鋳造した時の経緯等が語られています。
 
光雲談話筆記集成 『漫談 江戸は過ぎる』より 両国の夕凉み(二)
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三陸海岸(宮城・岩手)
 
音楽・レコードに見る光太郎 松本民之助作曲「わが大空」
 
高村光太郎初出索引 た行(一)
 
第五十七回連翹忌報告

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上記画像は原稿をプリントスクリーン機能で画像化したものです。したがって、カラーになっていますが、実際に印刷製本したものはモノクロです。
 
ホチキス留めの手製のもので(印刷のみ印刷屋さんに依頼)お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも少々残っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月19日

明治33年(1900)の今日、東京美術学校の修学旅行で伊豆修善寺を訪れています。
 
光太郎は東京美術学校本科三年生。同四年生(最終学年)の修学旅行は以前にも紹介しましたが、2週間にわたる奈良・京都方面でした。この年は2泊3日、現代の感覚では「修学旅行」というより「宿泊学習」という感じかも知れません。ちなみに1年生では日光に2泊3日、2年生では箱根に1泊2日。毎年「修学旅行」という名称で行っていました。

過日、目黒区駒場の日本近代文学館さんに行って参りました。
 
現在、2階の展示室では秋の「特別展 新収蔵資料展」が開催されています(11/23まで)。
 
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並んでいるのは2010年以降に同館で新しく収蔵した資料の中から選りすぐりの特色のある品々。
 
以下、出品リストです。
 
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まさに宝の山、という感じでした。
 
夏目漱石の「猫の死亡通知」、太宰治の学生時代のノート、三島由紀夫自筆の屏風、江戸川乱歩の草稿、室生犀星の自筆訂正本……。第二展示室では同時開催で川端康成限定のコーナーもありました。近代文学マニアにはたまらないと思います。
 
光太郎に関しても、親交のあった作家・田村松魚に宛てた葉書が4通並んでいました。こういう機会にいつも思うのですが、たくさん並んでいる展示品の中から光太郎の筆跡を見つけると、ふと旧友と再会したような気分になります。
 
ある意味驚いたのは、吉本隆明や干刈あがたの草稿。たしかに故人ですが、過去の文豪たちと同じところに並ぶことで、もう「歴史」の一部になっているのか、という感覚でした。
 
2階の展示を見る前に、1階の閲覧室を利用させていただきました。実はこちらの方がメインの目的でした。
 
やはり新収資料(だと思います。以前にネットで蔵書検索をかけた時にはヒットしませんでしたので)の、大正時代の短歌同人誌『芸術と自由』が目当てでした。同誌の第1巻第8号(大正15年=1926)に、『高村光太郎全集』等に未収録の作品が載っているという情報だけは得ており、確かめようと思ったわけです。
 
すると、「口語歌をどう見るか(批判)」というアンケートでした。短い文章ですが、『高村光太郎全集』等に未収録ですので、貴重な発見です。来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
先の展示にしてもそうですが、同館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からの寄贈によるものだそうです。こうして公の目に触れる形で残されるというのはすばらしいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月18日

昭和26年(1951)の今日、光太郎危篤というデマが流れ、東京本社から電話を受けた読売新聞の支局の記者が、花巻郊外太田村山口の山小屋に確認に来ました。
 
笑えるような笑えないようなエピソードですね。光太郎、どんな顔をして記者に会ったのでしょうか。

名古屋在住の作曲家で、光太郎の詩を使った歌曲を作られている野村朗氏からご案内をいただきました。
 
11/1開幕で、先にご紹介した愛知碧南市藤井達吉現代美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事としてのコンサート以外に、下記のコンサートで光太郎の詩に作曲した歌曲が披露されるとのことです。 

名古屋音楽大学同窓会演奏会  第6回”響きあう仲間たち”

日 時 : 2013年10月30日(水) 午後6:30~
会 場 : 電気文化会館ザ・コンサートホール
料 金 : 1000円
問い合わせ:名古屋音楽大学同窓会事務局 052-411-1111
 
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以前からたびたび演奏されている「連作歌曲「智恵子抄」より」と、新作の「冬の言葉」が演奏されるそうです。
 
この演奏会を含め、名古屋音楽大学さんでは、10/29~11/4の1週間、同大学を中心に名古屋市内各所で「第1回めいおん音楽祭」を開催するとのこと。地方の小都市に住んでいる身にはうらやましい限りです。
 
話は変わりますが、「歌」つながりで。
 
明後日、10/19(土)にテレビのCS放送(有料)で、二代目コロムビア・ローズさんがご出演、昭和39年(1964)リリースの「智恵子抄」を歌われます。 

塩わが心の演歌 #37 長崎

2013年10月19日(土)  17時30分~18時00分 歌謡ポップスチャンネル(CS329)
 
♪蜩/長山洋子 ♪命火/キム・ヨンジャ ♪命かれても/森進一 ♪智恵子抄/二代目コロムビア・ローズ ♪絶唱/舟木一夫 ♪命くれない/瀬川瑛子
 

【今日は何の日・光太郎】 10月17日

昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村山口・現花巻市太田)の山小屋での生活を始めました。
 
この山小屋は現在も「高村山荘」として二重の套屋(とうおく)がかぶせられ(イメージ的には中尊寺金色堂)、保存されています。基本的に内部には入れません。

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「山荘」というと何やらしゃれたイメージですが、元々は鉱山の飯場小屋だったのを譲り受け、村人の手を借りて移築したもの。屋根は杉皮、天井はなく、壁は粗壁。囲炉裏のまわりに畳三枚。もちろんガラス戸などはなく、障子です。3年以上電気もひいていませんでした。
 
冬にはメートル単位で雪が積もり、気温はマイナス10℃台、万年筆のインクも凍る寒さです。壁の隙間から寝ている布団の上にうっすらと雪が積もっていたというエピソードも伝わっています。

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 当方、初めてここを訪れたのは学生時代。3月下旬でしたが日陰にはまだ膝まで雪が残り、低温のためカメラが凍り、正常に作動しませんでした。
 
夏は夏で山の麓のため湿気がひどく、光太郎自身「水牢」と称していました。
 
熊は出るマムシは出る鼠も出る、当方、近くの森で全長10㌢ぐらいの巨大ナメクジに遭遇して絶叫しかけたこともあります。特に熊は今でも危険で、夏期は熊よけに森の中でラジオをガンガン鳴らしています。
 
老人の一人暮らしにはあまりにも過酷すぎる環境でした。それを支えていたのが村の皆さんとの心温まる交流です。その生活に思いをはせる時、涙が出そうになります。
 
ここでの暮らしが丸7年、十和田湖畔の裸婦像制作のため上京するまで続きます。裸婦像完成後にはまたここに戻るつもりで住民票はそのままにしてありました。しかし、健康状態がそれを許しませんでしたが……。
 
この山荘近くに今年、高村光太郎記念館がリニューアルオープンしています。以前は冬期閉鎖でしたが、今年から通年開館となります。ぜひ足をお運びの上、光太郎に思いをはせて下さい。ここを訪れることによって光太郎観が変わることうけあいです。
 
ただし花巻駅からの路線バスは廃線となっていますのでご注意を。

やなせたかしさんが亡くなりました。010
 
やなせさんといえば「アンパンマン」。大学生と高校生の当方の子供二人も、「アンパンマン」で育ちました。上の子供(娘)は何だかんだと突っ込みを入れながら高校生になってもアニメの「アンパンマン」を観ていました。
 
やなせさん、「アンパンマン」だけでなく、詩人でもあり、編集者でもありました。
 
かつてサンリオさんから発行されていた『詩とメルヘン』という美しい雑誌がありました。その編集をなさっていたのがやなせさんでした。
 
『詩とメルヘン』では、平成7年(1995)の6月号で、「智恵子抄」の小特集を組んで下さいました。
 
そこに掲載されたやなせさんの「智恵子抄」評は実に的確なものでした。それだけでなく、その評自体が「美しい」評なのです。 
 
一部引用させていただきます。
 
 詩を書くことによって詩人と呼ばれている人は実は本当の詩人ではない。その人の生きる軌趾がそのまま詩になる人が詩人なのだ。
 その意味では高村光太郎は詩人の中の詩人といえる。そしてその中核になるものが「智恵子抄」だ。
 はじめての愛の詩「人に」は実に「智恵子抄」刊行の三十年前である。
 「智恵子抄」は構想されたのではなく、いつのまにか降る雪のようにつもった。
 あるいは光太郎の人生の足跡の上に自然に咲いた美しい花だ。
 詩とは元来そういうものである。
(略)
 そして、もし詩に関心のない人でも「智恵子抄」は読める。
 有名な「智恵子は東京に空が無いといふ」ではじまる「あどけない話」は小学生でも理解できる。甘い抒情性と通俗性さえもある詩だと思う。
 しかし、その現実は愛する妻が狂ってしまうという耐えがたい悲劇から生まれている。
 純粋に芸術の核心に迫るとすれば無駄なものをすべて剥ぎ落していかなくてはならない。
 光太郎と智恵子はその部分に到達してぼくらに宝石のような詩集を遺した。
 
いかがでしょうか。
 
同じ評の中で、「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」で始まる「智恵子抄」巻頭の「人に」について、「最近の現代詩の難解さにくらべれば明快すぎてむしろびっくりしてしまう」とあります。正鵠を射ています。
 
そして同じことはやなせさんの書かれた評にも言えると思います。そして同時に「明快」だけでなく「美しい」。一般向けの評とはかくあるべきではないでしょうか。
 
「視点」がどうの「人称」がどうのと末節にこだわって「木を見て森を見ず」に陥っているもの、「アンチテーゼ」だの「詩的ナントカ」だの、ムズカしい言葉の羅列でお茶を濁して結局何が言いたいのかさっぱり分からないもの、当方、そういう評に触れるたび、やなせさんの「明快」な、そして「美しい」評を思い出していました。
 
心よりご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月16日

大正2年(1913)の今日、神田三崎町のヴヰナス倶楽部で生活社主催油絵展覧会が開かれ、彫刻1点、油絵21点、スケッチ3点を出品しました。
 
昨日のこの項で ふれたヒユウザン会(のちフユウザン会)は、同人の間の方向性の相違から長続きせず、光太郎は同人中の岸田劉生らと新に生活社を立ち上げます。
 
出品した油絵、スケッチはこの年の夏、智恵子と共に滞在した上高地での作品でした。

昨日、智恵子の故郷、二本松に行って参りました。数えてみたら今年に入って5回目でした。5回目にして初めてといっていいくらいの快晴で、安達太良山がよく見えました。
 
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まずは二本松駅前の市民交流センターでの「智恵子講座'13」の第4回。6月の第3回では当方が講師を務めましたが、昨日は受講の方に回りました。
 
昨日の講師は福島県立美術館・主任学芸員の久慈伸一氏。今年は講座全体のテーマが「高村光太郎に影響を与えた人々」という題で、昨日はロダンと荻原守衛についてのお話でした。
 
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その後、天気が良かったので、車は交流センターにおいたまま歩いて霞ヶ城(二本松城)まで行きました。有名な「二本松の菊人形」が開催されていたからです。
 
今年は地元・福島も舞台にしていたNHK大河ドラマ「八重の桜」がメインで、多くの観光客でにぎわっていました。
 
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綾瀬はるかさん演じる山本八重の人形、顔が綾瀬さんそっくりに作ってありました。
 
その後、市民交流センターまで戻りました。センター3階には二本松出身の日本画家・大山忠作の作品を集めた「大山忠作美術館」があります。「智恵子に扮する有馬稲子像」「霧(高村智恵子)」など、智恵子をモチーフにした絵も複数あり、以前にも何度か訪れたことがあります。
 
こちらでは先週の土曜日から企画展「五星山」展が開催されています。
 
「五星山」とは、東魁夷・高辰雄・平郁夫・加又造・大忠作。すべて文化勲章を受章した日本画家です(全て故人)。
 
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以下、同館のサイトから、大山忠作長女の大山采子さん(女優・一色采子さん)のメッセージです。
 
2011年3月11日、私達は日本人は未曾有の災害にみまわれました。
 
殊に福島県はあってはならない原発事故により、12市町村が生まれ育った郷里を追われ避難を余儀なくされました。
 
福島県にある人口約6万人の二本松市に建てられた小さな美術館も地震の被害を受け、その美術館が含まれている市民交流センターも被災者の一時避難場所となり、 今なお二本松市は浪江町をはじめ多くの方々の受け入れ地となっております。
 
この小さな美術館に”山”のつく現代の巨匠達の作品を一同に介し、それを被災された方々、福島の方々、そして日本の方々に見ていただくことが出来たら どんなに素敵だろうという夢を抱いて立ち上がった企画が、この「五星山展」です。
 
時代・団体を超えて小さな田舎の美術館に集まった作品は、まさに日本人としての「絆」の象徴であり、日本国から最高の栄を浴された先生方のお作品を 一同に味わえるこの幸せは、被災された方々また多くの日本の方々に強い感動と日本人としての誇りと希望を抱いていただけるものと確信しております。
 
どうかこの小さな田舎町から発信する想いにご賛同戴き、是非ともご支援・ご協力を賜りたく、伏してお願い申し上げる次第でございます。
                         「五星山展」実行委員会委員長 大山采子

関連行事として、以下の通りになっています。
 
記念講演会 「大山忠作と戦後日本画の巨星たち」
開催日時:平成25年10月27日(日) 午後2時~
講師:福島県立美術館館長 早川博明氏
 
トークショーⅠ
片岡鶴太郎トークショー「流れのままに」
平成25年10月19日(土) 午後2時~
 
トークショーⅡ
有馬稲子トークショー 「私と《智恵子に扮する有馬稲子像》」
平成25年11月4日(月・祝) 午後2時~

問い合わせ先 「五星山展」PR委員会二本松事務局(岳温泉観光協会) TEL:0243-24-2310
 
鶴太郎さんは上記チラシにも使われている「五星山」の題字を揮毫されました。有馬さんは昭和51年(1976)に新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じ、同館の目玉作品の一つで今回も展示されている「智恵子に扮する有馬稲子像」はこの際に描かれたものです。
トークショーは有馬さんと一色さんの豪華共演です。
 
当方、11/4のトークショーのチケットを手に入れ、そちらにうかがいます。そこで、昨日はオープン直後で人も多かったし、展覧会自体も11/4にゆっくり見ようと思っていたのですが、思いがけず昨日も一色さんがいらっしゃり、しかも一色さんによるギャラリートークがあるというので、予定を変更して拝見して参りました。
 
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一色さん曰く、「一粒で五度おいしい」。それぞれの画家の特色がよく表されている作が集められていること、同じモチーフ(富士山や牡丹)をどのように描きわけているかの比較ができることなどを指しています。そのとおりでした。全体の点数はあまり多くないものの、これだけのビッグネームの作品を一度に(しかも400円で(笑))観られるのはたしかにめったにない機会です。
 
しかし、一色さん、さすが女優さんです。人前で話すことには慣れていらっしゃいまして、ギャラリートークも非常にわかりやすく、面白く、さらにさすが大山画伯のお嬢さん、造詣の深さにも感心しました。
 
当方、ギャラリートーク終了後には、あつかましくも一色さんを呼び止め、いつものように連翹忌の営業をして参りました。
 
今年に入ってからも以下の方々に営業活動を行いましたが、来年の連翹忌で何人釣れるでしょうか(笑)。
フルート奏者の吉川久子さん宇宙飛行士の山崎直子さんNHKの伊東敏恵アナシンガーソングライターの北村隼兎さんなどなど。
 
ところで、「五星山展」。キャッチコピーは「心の復興支援」。経済的な部分だけでなく、と謳っているのが素晴らしいと思います。日展、院展、創画会と、会派も違う五人の巨匠の作品を集めるのにはいろいろ面倒な問題もあったと思いますが、出品作家それぞれのご遺族なども、「そういうことなら」と、こころよくご協力して下さったそうです。
 
「五星山展」PRサイトのキャッチコピーは「展覧会に行くという復興支援がある」。実際、昨日も二本松の街を歩いていて、まだまだ復興途上というのを痛感しました。
 
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 皆さんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月15日

大正元年(1912)の今日、読売新聞社三階で第一回ヒユウザン会展覧会が開かれました。
 
光太郎は「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」の油絵四点を出品しました。智恵子の出品も予定されていましたが、実現しませんでした。一説によるとふさわしい額縁が入手できなかったとのこと。
 
同人には岸田劉生、木村荘八、万鉄五郎、斎藤与里らがおり、彼ら自身はあまり意識していなかったようですが、メディアでは「反文展美術家の大同団結」と騒がれました。結果的には、アカデミズムに依らない新しい美術の潮流を作ったという意味で美術史上重要な展覧会でした。

このブログに何度もご登場いただいている、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された 坂本富江さんからご案内を戴きました。
 
今度は坂本さんの故郷、山梨県韮崎市の市立図書館で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画展と講演会だそうです。 

追体験! スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 講演会&原画展

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プレ原画展 2013年11月9日(土)~11月9日(土)
原画展・講演会 2013年11月16日(土) 15:15~16:45
場所:韮崎市立図書館
入場無料
定員30名(申し込み先着順) tel 0551-22-4946(韮崎市立図書館)
 
山梨では先に紹介した甲府の山梨県立文学館で「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催しています。
 
また、下記【今日は何の日・光太郎】でふれている「うつくしきものみつ」の碑が甲府の南、富士川町にあります。
 
秋の行楽シーズン、ぜひ山梨にもお出かけ下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 10月14日010

昭和17年(1942)の今日、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問しました。
 
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。
 
軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
 
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
昭和62年(1987)には、光太郎が上高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。
 
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最近、ある高名な芸術家のブログで、この碑の文言を「うつくしきもの三つ」と書いていますが誤りです。光太郎は仮名書きで文字を書く際、変体仮名的に「み」を「ミ」と書くことが多く(「おてがミ」など)、これもその例です。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。
 
山梨と言えば富士山。この碑のある場所から見える富士山は本当に見事です。特に冬至の前後には「ダイヤモンド富士」といって富士山の山頂部と日の出の太陽が重なる現象が見られるそうです。

当方、あちこち出かけておりますが、基本的にいつも一人です。
 
すると妻が「日帰りでいいから、たまにはどこかちゃんとした温泉に連れて行け」と言い出しました。
 
そこで、一昨年、全線開通した北関東自動車道を使えば、栃木までは比較的楽に行けるので、塩原温泉に行って参りました。
 
二人とも塩原には行ったことがありませんでしたし、訪れてみたい場所があったからです。
 
こんな写真があります。
 
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昭和8年(1933)9月、光太郎智恵子、塩原で撮影された一葉です。
 
光太郎智恵子が一緒に写っている写真で、現在でも普通に見られるものは6葉しかありません。
 
大正15年(1926)に、駒込林町のアトリエで撮られた3葉、その翌年に箱根大湧谷で撮られた2葉、そしてこれです。つまり、光太郎智恵子がそろって写っている最後のものです。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。8月24日のことです。
 
ちなみにその前日には、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
巡った温泉は福島の川上、青根、土湯など。今年8月末に全焼してしまった不動湯を訪れたのもこの旅の途次でした。
 
そして塩原。おそらくここが最後に寄った温泉だろうと推定されています。
 
しかし、9月中旬に東京に帰ってみると、智恵子の病状は出発前より悪化していたと言われています。
 
さて、上記の写真。二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたとのこと。そこでこの場所に行ってみたいと思い立ったわけです。
 
こんな時にも光太郎がらみか、と突っ込まれそうですが、妻も当方の仕事には理解を示してくれているので甘えました。
 
さて、柏屋旅館さんは今も健在。
 
 
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調べてみると、本館は昭和10年(1935)の竣工。惜しいところで光太郎智恵子が訪れた時期に重なっていません。ただ、看板はもっと古いもののような気がしました。
 
さて、問題の写真が撮られた場所、柏屋さんのサイトの記述をたよりに探してみました。
 
初めは林道から渓谷へ下りる道の入り口が分からず、一度通り過ぎてしまいましたが、何とかたどり着けました。
 
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この鹿股川、大雨で氾濫することも多いようで、さらにちょうど80年経っているので、多少は地形も変わっているかと思いますが、まずここで間違いないと思います。感慨深いものがありました。
 
ちなみに光太郎智恵子が柏屋さんから智恵子の母・センに送った葉書が残っています。
 
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帰りがけに塩原によりました 智恵
此間福島のそばやで二本松の久保さんに偶然あひました 光太郎
 
光太郎との連名ですが、これが確認されている智恵子最後の直筆書簡です。
 
また、旅から帰って、光太郎はやはりセンに、上記の二人の写真を絵葉書にして送っています。
 
しばらく方々を歩いてゐましたが、先日帰宅しました、
秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、
高村光太郎 智恵
 
こちらは署名のみ智恵子自筆と思われます。
 
ところでこの一角、実は塩原温泉の中心部からはけっこう離れています。下記画像で赤マルが柏屋さんのあるあたり、青マルが塩原温泉の中心部です。
 
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他の温泉を巡った時-焼失した不動湯さんにしてもそうだったようですが、智恵子を落ち着いてゆっくり静養させるため、わざわざ中心部から離れた静かな宿を選んで泊まっていたとのこと。
 
さて、当方夫婦、その後、塩原温泉の中心部に行き、上記地図にもある「塩原もの語り館」というところに入ってみました。
 
塩原周辺出身だったり、塩原を訪れたりした文人墨客に関する展示があるというので、光太郎智恵子も紹介されているかと思ったわけです。
 
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ありました。塩原に関する大きな年011表があり、昭和8年(1933)の項には光太郎智恵子の名。それから二本松市教育委員会さん発行の『アルバム 高村智恵子』も手に取ってみられる状態で置いてありましたし、例の写真もパネルに拡大されて展示されていました。
 
ただ、光太郎は塩原では詩歌を作っていないということもあり、あまり深く紹介されていませんでした。
 
ここでは室生犀星や尾崎紅葉などが大きく取り上げられていました。
 
その後、新そばを食べ、温泉につかり、足湯も堪能し、帰りました。紅葉にはまだ早かったのが残念でしたがなかなか有意義なプチフルムーン旅行でした。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月13日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野桃園町のアトリエに入居しました。
 
智恵子の顔を持つ、といわれる十和田湖畔の裸婦像制作のため、7年半ぶりに上京した光太郎は、水彩画家の故・中西利雄のアトリエを借りました。それまで住んでいた花巻郊外太田村山口の山小屋では、大きな彫刻を作る事は不可能だったためです。
 
本日、夜8:00からNHKEテレで「日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」」の再放送があります。この中野のアトリエ、さらに塩原での写真も映ります。先週の本放送を見逃された方、ぜひご覧下さい。

現在、岡山県井原市の田中美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。11月からは愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館に巡回となります。
 
過日、同館よりチラシその他届きました。
 
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以下、同館サイトから。 

生誕130年 彫刻家高村光太郎展 

会期   平成25(2013)年 11月1日(金)から 平成25(2013)年 12月15日(日)まで
 
観覧時間
10:00-18:00 ※11月9日(土)は21時までの夜間特別開館
 
休館日
月曜日(ただし11月4日は開館し、翌11月5日は休館)
 
観覧料
一般700(560)円  高校・大学生500(400)円  小・中学生300(240)円 ※()は20名以上の団体
 
関連行事
 
■記念講演会① 
日 時 2013年11月16日(土) 午後2時~3時30分
講 師 土生 和彦 (当館学芸員)
内 容 「木彫家・高村光太郎」
場 所 大浜まちかどサロン(美術館向かい)
定 員 先着60名 (定員になり次第締切)

■ 記念講演会② 
日 時 2013年11月23日(土) 午後2時~3時30分
講 師 水沢 勉 氏 (神奈川県立近代美術館 館長)
内 容 「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」
場 所 大浜まちかどサロン(美術館向かい)
定 員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ ミュージアムコンサート 
日 時 2013年11月9日(土) 午後7時~8時
内 容 光太郎の詩の世界を歌曲で味わってみませんか。当日は展覧会場も午後9時までの夜間特別開館となります。
 作 曲  野村 朗 氏
 演 奏  森山 孝光 氏(バリトン) 森山 康子 氏(ピアノ)
 定 員   100名 (定員になり次第締切)
 曲 目  歌曲「冬の言葉」(詩:高村光太郎)、連作歌曲「智恵子抄」(詩:高村光太郎)
参加費 無料(展覧会場観覧には別途観覧料が必要です)
場 所 美術館1階 ロビー

■ワークショップ
日 時 2013年12月1日(日) 午前10時~午後4時
内 容 「塑像に挑戦!光太郎の手を作ろう」
彫刻家が作った「手」の作品は、本物以上に表情豊かで迫力があります。自分の手と一日じっくり向かい合い、粘土で手を作りましょう。
講 師 小島 雅生 氏(造形作家・東海学園大学 准教授) 
対 象 小学3年生~中学生
定 員 10名 (定員になり次第締切)
参加費 500円
持ち物 昼食、汚れてもよい服装
場 所 美術館地下1階 創作室

【講演会、コンサート、ワークショップ申込方法】  2013年10月22日(火)午前10時より受付を始めます。お電話にて、①氏名、②住所、③電話番号、④参加人数をお知らせください(先着順)。
tel 0566(48)6602
 
■ギャラリー・トーク
当館学芸員が展示作品の解説を行います(約30分)。
日 時 11月: 2日(土)、9日(土)、30日(土)  12月: 7日(土)、14日(土) 午後2時より
予約不要 観覧券をお持ちの上、美術館2階ロビーにお集まりください。
 
過日のNHKさんの「日曜美術館」の反響として、実物を見てみたい、というのを多く目にしました。この機会にぜひどうぞ。特に木彫の数々は、この機会を逃すと次はいつ見られるか分かりません。
 
ところで、岡山井原展の方も、今月20日まで開催中ですのでよろしく。

【今日は何の日・光太郎】 10月12日

明治33年(1900)の今日、与謝野鉄幹の新詩社刊行の雑誌『明星』に、初めて作品が載りました。
 
「大我小我」という欄に載った短歌五首です。
 
君が文よみつつをればそれとなくゆかしき人の息の香ぞする
君こよひ来べしとききて人知れずかきし障子の歌を消すかな
実の二つ成りし無花果(いちぢく)けさ見れば一つはあらで歌むすびあり
里とほく荒磯づたひさまよひて岩かげに泣く海人(あま)を見しかな
それゆゑに智恵を忘れんものならば筆も我折らむ書(ふみ)も我裂かむ
 
与謝野晶子の「みだれ髪」にも通じる、いかにも『明星』の星菫調ですね。ただし、光太郎初期のものは、鉄幹の添削がかなり入っているということで、後に光太郎自身、この時期のものは自分の作とは言い難いと発言しています。

日本経済新聞社さんの関連会社・日経BPさん刊行の月刊誌『日経おとなのOFF』。今月発売の11月号に、光太郎智恵子関連の記事がありますのでご紹介します。
 
まず書家・木下真理子さんによる連載「木下真理子の大人の書道塾」。
 
光太郎が戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に暮らしていた頃の書「吾山のうた」を紹介して下さっています。
 
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書かれている文言は短歌です。
 
吾山になかれ無題1
てやまぬ山ミ
つのやミかた
くして道は
ゆくなり
 
わかりやすく表記すると、
 
吾山に 流れてやまぬ 山水の
やみがたくして 道はゆくなり
 
となります。
 
中国の古碑の拓本を愛した光太郎の書は、木下さん曰く「単に文人の書といって片づけられるものではありません。」「彫るような感覚で書作していた」「光と影によって浮き彫りになった「文字という彫刻」を見ていたはずです。」。
 
いちいちごもっともです。
 
戦後の光太郎は十和田湖畔の裸婦像を手がける昭和27年(1952)まで彫刻を封印、その代わり、というわけではありませんが、多くの書作品を残しました。
 
それら戦後の書作品、今回紹介された短歌の揮毫もそうですが、今年5月にリニューアルされた花巻の高村光太郎記念館にたくさん収められています。昨年いただいたリストに依れば毛筆の書作品が40点ほど、ペン書きの草稿等も同じくらい、その他書簡類もあります。一部は記念館で展示されていますが、数が多いため、全ては並んでいません。
 
美術館・文学館等での企画展、今回のようなメディアでの利用など、出来る限り協力して下さるとのこと。「死蔵」にしないためにも、皆さんにどんどん活用していただきたいものです。
 
さて、『日経おとなのOFF』。明日開幕する福島二本松の大山忠作美術館での「五星山展」の紹介記事も載っていました。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月11日

明治23年(1890)の今日、光雲が帝室技芸員に任命されました。
 
元々町の仏師だった光雲は、明治維新からしばらくの間は、廃仏毀釈のあおりで注文が激減、その日暮らしを続けていました。光太郎が生まれた明治16年(1883)ころは、最も苦しい時期。それが明治20年(1887)の皇居造営で装飾彫刻を担当した頃から境遇が激変、同22年(1889)には東京美術学校に奉職、そして123年前の今日、帝室技芸員に任ぜられ、「巨匠」への道を歩んでいくこととなります。

そろそろ次のネタに行010こうと思っていたのですが、レモン忌ネタがもう一つ入りましたのですみません。
 
調べ物があったので、午前中、隣町・成田の市立図書館に行って参りました。
 
とりあえず調査が終了し、帰りがけ。ふと出入り口のドアを見ると貼り紙が。福島県の避難者支援事業の一環として、福島の地方紙『福島民報』さんと『福島民友』さんのバックナンバーを置き始めたとのこと。 
 
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そこで、10月6日のレモン忌の記事が載っているかと思い、館内に引き返し、ページをめくってみました。
 
すると、7日付の『福島民友』さんの方に右の記事が載っていました。
 
ネット検索では見つからなかったのですが、ちゃんと記事になっていたのですね。ありがたいことです。
 
それにしても、関東の普通の図書館で福島の新聞を置くというアイディアは素晴らしいと思いました。
 
福島からこちらの方に避難している方に向けてという配慮がメインなのでしょうが、被災地の現状をご存じない方に対しての情報発信という意味でも、意義深いことだと思いました。これも立派な復興支援ですね。
 
こうした取り組みが全国でどの程度行われているのか存じませんが、未実施の各自治体の方々、ご一考を。
 
話は変わりますが、昨日、NHK『日曜美術館』担当ディレクター氏から、同じ10月6日オンエア分のDVDが届きました。あたりまえですが、家庭で録画したものより格段に画質が良く、ありがたいかぎりでした。
 
お見逃しの方、13日の夜に再放送があります。ぜひご覧下さい。 

日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」

2013年10月13日(日)  20時00分~20時45分 NHKEテレ

番組内容

『智恵子抄』で知られる高村光太郎。今回は、日本の近代彫刻を切り拓いた偉大な彫刻家としての人生に注目する。傑作誕生の陰には、妻・智恵子との知られざる物語があった。
まっすぐに天をさす人差し指。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻「手」。日本近代彫刻のれい明期を告げる作品の作者は、「智恵子抄」で知られる高村光太郎だ。明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれ、フランス留学をきっかけに独自の彫刻を模索。そんな光太郎を支えたのが妻・智恵子の存在だった。最晩年の大作など傑作の数々を紹介しながら、生涯を智恵子の面影と共に生きた、彫刻家・高村光太郎の実像に迫る。

出演者

  • 出演 芥川賞作家…平野啓一郎 
  • 司会 井浦新 伊東敏恵
また、担当デレクター氏から、番組に寄せられた感想について教えていただきました。内部情報にあたる部分もあり、詳しくはご紹介できませんが、おおむね好意的なご意見が寄せられていました(少し手厳しいご意見もあったようですが)。ネット上のいろいろな方のブログ等でも同様です。
 
ただ、一般の方々の持つ光太郎のイメージは、やはり「『智恵子抄』の詩人」というのが第一なのだな、と改めて知りました。光太郎自身は「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。」(「自分と詩との関係」昭和十五年)と述べています。もちろん「詩人」としての光太郎も魅力的ですが、もっともっと「彫刻家」としての光太郎にもスポットが当てられるべきだと思います。
 
そういう意味では今回の「日曜美術館」、そして開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、非常によい企画だと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月10日

昭和9年(1934)の今日、光雲が胃癌のため歿しました。享年満82歳でした。
 
智恵子は九十九里で自らも千鳥となっていた時期です。光雲の遺産はその後の智恵子の療養費に充てられました。
 
光太郎が若い頃には留学の費用、画廊・琅玕洞の開店費用、詩集『道程』の出版費用などを全て出してくれた光雲。自らの歿後には、その遺産で智恵子の療養費をまかなってくれました。こうした経済的な部分だけでなく、本当にさまざまな面で光太郎智恵子を支え続けた一生でした。

もう1日、レモン忌関連のネタで行かせていただきます。
 
10/6の第19回レモン忌、来賓として智恵子の母校である二本松市立油井小学校の伊藤校長先生がご参会、同校での智恵子顕彰に関する取り組みをご紹介なさいました。
 
以下、レモン忌にていただいた学校便り「油井っ子」から。
 
まず、9/13に行われたモンデンモモさんを招いての活動
 
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9/15には「第5回智恵子純愛通り記念碑建立祭」への参加。

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9/24には油井小学校さんの主催で「第7回智恵子記念マーチングパレード」が行われたそうです。

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光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでは、光太郎顕彰活動に取り組まれているそうです。また、5月15日の花巻光太郎祭では、山荘近くにあった山口小学校の後身・太田小学校さんや、同じく太田中学校の後身・西南中学校さんの児童生徒の皆さんが、詩の朗読や合唱、合奏で花を添えてくれています。
 
このように、小さな頃から自然と顕彰活動に取り組むことで、子供たちに自然と光太郎智恵子への敬愛の念が育ってゆくのではないでしょうか。
 
今後も継続的に取り組んでいっていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月9日

大正6年(1917)の今日、森鷗外に自宅に呼びつけられ、鷗外について陰口を叩いていることについて釈明させられました。
 
鷗外曰く、
 高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年10月)
 
 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。
(略)
 わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。
(略)
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。
(同 大正7年1月)
 
光太郎曰く(川路柳虹との対談)、
川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)
 
何だか現代の若者がネットに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが。
 
ところで、この鷗外と光太郎が見たという「「新潮」か何かのゴシツプ欄」というのが確認できていません。当時の「新潮」はすべてあたったのですが発見できず、他の雑誌等だったと思われます。情報をお持ちの方、出典を教えていただければ幸いです。

10/6(日)、福島は二本松旧安達町地区で行われた智恵子忌日の集い「レモン忌」。昨日も書きましたが、青森は十和田から、22名もの皆さんが参加なさいました。
 
レモン忌に来られる前に花巻の山荘や記念館を観てこられたとのこと。熱心ですね。当方が説明ボードを執筆したと言ったら驚かれていました。
 
なぜ十和田から大挙して? ということになりますと、今年は光太郎作の「十和田湖畔の裸婦像」(乙女の像)が建立されて60周年ということで、彼の地ではいろいろと記念事業的なところに取り組まれている、その一環としての研修旅行的な意味合いだそうです。
 
「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトに、「レモン忌」のレポートがアップされています。
 
その席上、いろいろな情報やらお土産やらをいただきましたのでご紹介します。
 
まず情報。
 
「乙女の像建立60周年記念事業」とのことで、残念ながら先月で募集は終わってしまいましたが、像に通じる湖畔の遊歩道の愛称募集が行われていたそうです。
 
こういう募集があったとは存じませんでした。まだまだ情報収集力が足りません。反省しました。
 
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遊歩道にフットライトを設置、像まで行ける時間を延長したそうです。いずれ愛称が決定したらまたお伝えします。010
 
その他にも、こちらはこのブログで以前にご紹介しましたが、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが中心となって、裸婦像の背景を探る講演などの「ろまんヒストリー講座」が行われています。来年には講演の内容などをまとめた書籍を発行したいとのことでした。
 
ところで、5月頃、当方自宅兼事務所に東京のイベント会社から、今年の秋に裸婦像に関わる企画展を行いたいとの協力要請の電話がありましたが、その後、なしのつぶてでした。どうなっているのかな、と思っていましたところ、企画展示の案は予算の都合で立ち消えになったとのこと。残念です。
 
十和田の皆さんからはお土産もいただきました。奥入瀬源流水のペットボトルです。ありがとうございました。
 
もったいなくてなかなか飲めません。キンキンに冷やして飲む、珈琲を淹れるのに使う、などと考えています。
 
それから、10/1には日本郵政さんの東北支社で、オリジナル フレーム切手『十和田湖畔「乙女の像」建立60 周年記念』が発行されたとのこと。

 
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「レモン忌」会場に20セットほどお持ち下さり、希望者に販売して下さいました。通信販売は行って居らず、青森県内の郵便局でしか手に入らないとのこと。これはレアです。これこそもったいなくて使えません。
 
ちなみに50円が10枚。ですから額面500円なのですが、頒価は900円。日本郵政さん、商売がうまいですね(笑)しかしネット販売等に対応すれば売り上げはもっと伸びるような気もするのは素人考えでしょうか。
 
というわけで、今回のレモン忌では、二本松の皆さんと十和田の皆さんの交流が実現しました。さらに花巻の皆さんも含め、東北圏で交流を深めていきたい由。すばらしいお考えだと思いました。出来ることはどんどん協力していこうと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月8日
 
昭和13年(1938)の今日、駒込林町のアトリエで、智恵子の葬儀が執り行われました。
 
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3年後の昭和16年(1941)8月、詩集『智恵子抄』が刊行されますが、おそらくそのための書き下ろしとして、この日のことを謳った詩「荒涼たる帰宅」が作られました。
 
  荒涼たる帰宅011
 
あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 
感情を表す言葉を一切排除し、淡々と経過を追っています。逆にそれだけに光太郎の空虚感がクローズアップされています。
 
この後、戦後になるまで、発表された詩の中に智恵子が謳われることはなくなります。
 
愛する者の死を謳い、愛する者に別れを告げ、「詩人」としての光太郎も、一度、死にました。この後はひたすら空虚な戦争詩のオンパレードとなっていくのです。

一昨日・10/5は智恵子命日「レモンの日」でしたが、昨日・10/6、智恵子の故郷福島県二本松市に於いて、智恵子を偲ぶ集い「第19回レモン忌」が開催され、行って参りました。
 
会場は智恵子生家に近い「ラポートあだち」さん。JAさんの施設です。参加された方の大半は地元の方でしたが、今年は青森は十和田から、社団法人十和田湖国立公園協会の方、十和田市役所の方をはじめ、現地で観光ボランティアをされている方など、総勢22名の皆さんが貸し切りバスで駆けつけられました。いろいろ貴重な情報等戴きましたが、スペースの都合上、明日、ご紹介します。
 
さて、午前10時半、開会のことばに続き、智恵子への献花・献果。献花はよく聞きますが、「献果」というのは珍しいですね。「果」は「果実」。ではなんの果実かというと、そう、レモンです。
 
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さらに参会者全員で光太郎詩「風に乗る智恵子」を朗読(群読)。その後、主催されているレモン会の会長・渡辺秀雄氏のご挨拶、二本松市の教育長さんなどの来賓祝辞と続きました。
 
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そして記念講演。昨年、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された坂本富江さんによる講演「~旅のエピソード そして紙絵からのメッセージ……」がありました。
 
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御著書を書かれるにあたって訪れられた光太郎智恵子ゆかりの地での思い出などを、時に感動的に、時にユーモラスに語られ、皆さん非常に興味深そうに聴き入っていました。
 
ちなみに坂本さんになりかわり宣伝いたしますが、呼ばれればどちらででも講演なさいますのでお声がけ下さい(笑)。こちらに連絡いただければ仲介致します。
 
ところで、坂本さんはかつて智恵子が通っていた太平洋画会の会員でいらっしゃり、そこで太平洋画会さんで発行した智恵子素描2点の複製をお土産に持参され、参会者全員に配布されました。レアなものをいただけて、サプライズでした。この素描は平成11年(1999)、九州のやはり太平洋画会会員だった方の遺品の中からひょっこり見つかったものです(このニュースも衝撃的でした)。太平洋画会さんで複製を発行しているというのも存じませんでした。
 
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その後は会食しながらのスピーチ。先述の十和田の方々、地元二本松で智恵子生家の復元にあたった方、二本松市教委が発行した『アルバム高村智恵子』製作に当たられた方、智恵子母校の油井小学校校長先生など、いろいろ興味深いお話が聞けました。当方も喋って参りました。
 
さらにアトラクションとして、シンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんによるギター弾き語り。「あどけない話」「レモン哀歌」にオリジナルの曲を附けて熱唱されました。当方と腐れ縁、もとい縁の深いシャンソン歌手・モンデンモモさんも光太郎詩に自作の曲を附けて歌われていますが、モモさんの「智恵子抄」とはまたちがった素晴らしさがありました。
 
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失礼ながらこういう方がいらっしゃるとは存じませんで、もっけの幸い、瓢箪から駒、棚からぼた餅、連翹忌にお誘いして参りました。西新井在住だそうで、日比谷にはそう遠くありません。いずれ連翹忌でも演奏していただきたいものです。ちなみに北村さん、光太郎以外にも宮澤賢治や中原中也などの詩に曲を附けて歌われているそうです。
 
先日の劇団空感エンジンさんにしてもそうですが、若い方々が光太郎智恵子の世界を取り上げてくださるのが非常に嬉しい限りです。そうしてさらに次の世代、その次の世代と、100年、200年、いや、永久に光太郎智恵子の世界が語り継がれていってほしいものです。
 
最後は十和田の皆さんによる「湖畔の乙女」(十和田湖畔の裸婦像へのオマージュとして、その建立に関わった詩人・佐藤春夫が作詞した歌です。後に本間千代子さんの歌唱でレコード化されました)、会場全員による二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」斉唱で幕を閉じました。
 
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いつもいつも同じことを書いていますが、こうした地域の取り組みには本当に頭が下がります。連翹忌同様、レモン忌も末永く続けていっていただきたいものです。
 
千葉の自宅に帰ってから、録画しておいたNHK Eテレさんの「日曜美術館」を観ました。ある意味手前味噌になってすみませんが、こちらも改めて素晴らしいと思いました。Vは先日渋谷の放送センターさんで見せていただいたとおりでしたが、何度観てもいいものだと思いました。スタジオでの伊東敏恵アナ・ARATA改め井浦新さん、ゲストの作家・平野啓一郎氏のトークもよかったです。
 
ただ、平野氏ご自身、ツイッターでつぶやかれていますが、スタジオ収録の段階では今日のオンエアの3倍位話されていまして、それが3分の1に編集されているのが残念です。45分という枠があるので仕方がないのですが……。それはVでも同様です。二本松や九十九里などの映像が入りませんでしたし。もう、それをいいだしたらきりがありませんね。
 
昨日の放送を見逃した方、次の日曜日(10/13)、午後8:00~やはりNHK Eテレさんで再放送があります。お見逃しなく。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月7日

昭和23年(1948)の今日、『新岩手日報』に、石川啄木と高等小学校・盛岡中学校で同級生だった伊東圭一郎と光太郎の対談「清談を聴く」の後編が掲載されました。

昨日は智恵子命日「レモンの日」ということで、染井霊園の高村家墓所に行って参りました。
 
生憎の雨でしたが(というか、わりと有名な話ですが、光太郎がらみの日は見事なくらいいつも雨です)、香華とレモンをお供えして参りました。
 
高村家墓所の周りになぜか黒猫が二匹。睦まじくじゃれあっていました。光太郎智恵子夫妻も駒込林町のアトリエで黒猫を飼っていたことを思い出し、猫たちが光太郎智恵子に見えました(笑)。
 
その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台、「チエコ」を見て参りました。
 
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演劇等で、アイロニカルな視点で光太郎智恵子を描く場合も少なからずありますが、この舞台では最期に智恵子が救われるような、そしてそれによって光太郎も救われる的な終わり方で、なかなかいい感じでした。
 
さりとて全てを肯定するのでなく、よく言われる「光太郎が智恵子を追い詰めた」的な光太郎を糾弾する部分も、智恵子の親友・田村俊子の台詞で表されていました。俊子は、智恵子の絵画作品が放っていた輝きが結婚後に失われたことを残念がり、あまっさえ夢幻界の住人として逝ったことを抗議します。しかし、七年にわたる光太郎の看護の苦労を知り、さらに夢幻の縁で智恵子が作った紙絵を見て、矛先を収めるという流れでした。
 
キャストは7人(光太郎智恵子夫妻、田村俊子、智恵子の姪・宮崎春子、光太郎の弟・豊周、光太郎を敬愛する後輩詩人・草野心平と中原綾子)。若い役者さん達のフレッシュな体当たりの演技で、好感が持てました。
 
脚本的にも、それぞれの登場人物がその当時こんなことを言っていたとしてもおかしくない、またはこんなエピソードが実際にあったかも知れないと思わせるような無理のない、わかりやすいものでした。
 
時折、前衛的すぎて何を表現したいのかさっっっぱりわからない舞台もありますが、今日の「チエコ」は非常にわかりやすいものでした。そういう意味では「レモンの日」の今日、智恵子に対してのよい供養となったのではないでしょうか。
 
公演は明日10/7(月)までと、10/9(水)~14(月・祝)。1日2~3回の公演で、それぞれ3班にわかれて、6班のべ42人の役者さんが出演されます(一部、重なっているようです)。こうした若い方々に頑張っていただき、さらに光太郎智恵子の世界を広めていっていただきたいものです。
 
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さて、当方、今日は福島二本松での智恵子を偲ぶ集い「第19回レモン忌」に行って参ります。
 
例の「日曜美術館」は録画予約済み。帰ってからじっくり観ます。ご覧下さった方、ご感想等お寄せいただければ幸いです。ただし、当方あくまでアドバイザーですので苦情を持ち込まれても困りますが(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月6日

平成元年(1989)の今日、赤坂草月ホールで仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」初演が行われました。
 
型破りのキャスト2人だけのオペラで、智恵子役は010連翹忌や女川光太郎祭ご常連の本宮寛子さん、光太郎役は高橋啓三さん。伴奏は田中信昭さん指揮の10人編成管弦アンサンブルでした。
 
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山梨県からイベント情報です。 

与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ

与謝野晶子(18781942)は、歌人として知られていますが、短歌だけでなく詩・童話・小説・評論・古典研究など幅広い創作活動を行っています。山梨とのゆかりも深く、富士北麓、富士川町、上野原市などを訪れ、豊かな自然や風物を詠んだ歌を残しています。63歳の生涯を華麗に生きた晶子の人生と作品とともに、山梨での足跡を約150点の資料で紹介します。
(公式サイトより)
  
会 場:山梨県立文学館 甲府市貢川一丁目5-35
会 期:2013年9月28日(土)~11月24日(日)
観覧料:一般310円 大高生210円 小中生100円
 
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関連行事
◎講演会
 ○金井 景子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
 「「自立」を問う人―与謝野晶子の評論を読む―」
 日 時:11月4日(月・振休) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
  
 ○三枝 昻之(当館館長)
 「星君なりき―晶子晩年の魅力」
 日 時:11月14日(木) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
 ○今野寿美(歌人)
 「あらためて読む『みだれ髪』」
 日 時:11月23日(土・祝日) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
◎講座
 ○保坂 雅子(学芸員)
 「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」
 日 時:10月24日(木)午後2:00~3:10   場 所:山梨県立文学館 研修室
 
実はうっかりご紹介するのを失念しており、初日の9/28(土)には作家の林真理子さんの講演もあったそうです。終わってしまいました。
 
また、うっかりご紹介するのが遅くなり、11/14(木)以外の講演、講座は定員に達してしまったそうです。
 
当方はちゃっかり10/24の講座に申し込みました。すみません。担当なさる学芸員の保坂女史は連翹忌のご常連なので、どうせ行くならこの日と決めておりました。
 
先ほど、保坂女史と電話で話させていただき、展示内容についていろいろ教えて下さいました。予想していましたが、『明星』同人に関する展示もあり、光太郎に関する展示も少しあるとのことでした。
 
例を挙げますと、明治44年(1911)、雑誌『スバル』に掲載された詩「ビフテキの皿」の草稿、光太郎が扉や表紙の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)・夫の鉄幹歌集『相聞』、光太郎が晶子を戯画化した「SALAMANDRA」が掲載された『スバル』(明43=1910)、など。他にも光太郎がらみの出品物があるかもしれません。観るのが楽しみです。
 
山梨県立文学館さんは、平成19年(2007)に企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催なさった他、各種の資料・情報等も快く提供して下さり、また、保坂女史や近藤信行前館長には毎年のように連翹忌に駆けつけて下さるなど、当方、大変お世話になっております。
 
企画展以外の常設展でも、山梨出身やゆかりの文学者――樋口一葉、太宰治、井伏鱒二、芥川龍之介、飯田蛇骨、村岡花子(来年のNHK連続テレビ小説「花子とアン」で吉高由里子さんが演じられます)など――についての展示も充実しています。
 
さらに言うなら、お隣はミレーの「種まく人」を所蔵していることで有名な山梨県立美術館。一帯は公園となっており、ロダンやブールデル、マイヨールの野外彫刻などもあります。まさに「芸術の秋」を堪能するにはもってこいです。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月5日

昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院にて智恵子が歿しました。享年、数えで53歳でした。
 
というわけで、智恵子のいまわの際を謳った光太郎詩「レモン哀歌」にちなみ、今日は「レモンの日」とされています。
 
さらにというわけで、当方、今日は染井霊園の高村家の墓所にお参りに行って参ります。その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台「チエコ」を観てきます。

岩手からイベント情報です。 

岩手大学ミュージアム10周年記念事業 大学収蔵美術展 ~教材としてのアートの魅力~

期間:2013年9月27日(金)~11月3日(日)
会場:岩手大学情報メディアセンター(図書館) 盛岡市上田3-18-8
入場無料
 
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岩手大学さんの美術・デザインコース(特設美術科)で教材として提示するために収集された美術品を一般公開するというものです。
 
光太郎の代表作「手」も含まれているとのこと。
 
以前にも書きましたが、ブロンズの作品は同じ型から鋳造したりということで、複数存在するものがあり、「手」も全国に10点以上あるのではないかと思われます。
 
他にサモトラケのニケや萬鐵五郎の作品なども展示されているようです。
 
同大の特設美術科は、光太郎と交流のあった盛岡出身の画家・深沢紅子、美術史家の森口多里(水沢町出身)らが昭和22年(1947)に開いた岩手美術研究所を母体としているそうで、のちに岩手美術工芸学校、そして岩手大学特設美術科へと発展していったとのこと。
 
光太郎は花巻時代に美術工芸学校で講演を行ったり、卒業式などには祝電を送ったりしています。当方、この頃森口に送った葉書を5通所蔵しています。
 
というわけで、光太郎と縁浅からぬ岩手大学さんで、光太郎の作品も展示されているイベント。お近くの方はぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月4日

昭和28年(1953)の今日、後楽園に「ホリデイ・オン・アイス」を観に行きましたが、満員で入れませんでした。
 
「ホリデイ・オン・アイス」といえば、アメリカのフィギュアスケーターによるアイスショーで、当方が子供の頃(昭和40年代)、テレビのCMもやっていた記憶があります。昭和20年代にすでに日本公演があったというのは驚きでした。
 
光太郎、この後しかたなく草野心平が経営していた居酒屋「火の車」に出かけています(笑)。

昨日、渋谷のNHK放送センターに行って参りました。10/6(日)放送の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録を観るためです。

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司会は伊東敏恵アナと俳優のARATA改め井浦新たさん、ゲストは美術にも造詣の深い作家の平野啓一郎氏でした。
 
驚いたのは、ほとんどぶっつけ本番だということ。収録本番前に軽くリハーサルもあったのですが、それも「カメラ戻し」―VTRが終わってスタジオの映像に戻ること―のタイミングの確認ぐらいで、実際のトークは撮り直しを一切せず、一発収録でした。
 
お三方とも、光太郎・智恵子についてよくお調べになっていたようで、話ははずみ、結局カメラが回っていたのは1時間近くだったでしょうか。45分の番組中、VTRが約30分、逆算するとスタジオでの部分は約15分ということになります。お三方のお話の部分もこれから編集し、それくらいの時間にまとめるとのこと。つまり放映されるのはスタジオでのお話の約3分の1というわけです。いろいろいいお話だっただけに、残念な気もします。逆に言うと、当方は全部のお話が聴けてラッキーでした。
 
約30分のVTRもよくできていました。8月からの短期間でよくぞこれだけ作ったという感じです。ネタバレになるのであまり細かくご紹介できませんが、千駄木や品川、花巻や十和田など光太郎ゆかりの地の映像、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が次に巡回される愛知県碧南市藤井達吉現代美術館木本館長、高村光太郎記念会事務局長北川太一先生の的確な談話、そして花巻時代の光太郎の思い出ということで、花巻高村記念会理事の浅沼隆さんのお話がありました。その他、当時の写真や動画(昭和29年=1954、ブリヂストン美術館作成の美術映画『高村光太郎』から抜粋)、そして井原市立田中美術館で実際にいろいろな角度から撮影された光太郎彫刻の数々……十分ネタバレになっていしまいました、すみません(笑)。
 
伊東敏恵アナのナレーション、バックに流れる音楽も素晴らしく、これぞテレビの持つ威力、という気がしました。Vを観終わる頃にはなぜか涙が出そうになりました。
 
ただ、番組全体の方向性が、どちらかというと彫刻の技法やら美術史上における位置づけといったことよりも、人間・光太郎に突っ込んだ作りになっており、特にサブタイトルにもあるとおり、智恵子との関わりがかなり深く追求されています。その意味では「日曜美術館」といいながら、彫刻や美術史の専門家の方々には不満の残る内容かも知れません。
 
しかし、これは一般向けのテレビ放送であって、学会での研究発表等ではありません。スタジオでのお話も、出演者の方々それぞれの個人としてのご発言ということで、お考え下さい。当方のような立場の人間がああいう発言をすると問題があるかな、という部分もあります。ですが、一般向けに光太郎智恵子の世界を紹介するには、十分すぎる内容だと思います。
 
惜しむらくは45分という時間の枠ですね。また別の機会に「日曜美術館 高村智恵子」または「高村光雲」、さらには他の番組でも取り上げられることを期待します。
 
さて、昨日発売のNHKさんのPR誌『NHKウィークリーステラ』で、今回の放送について1ページ、紹介が載っています。一般書店でも販売されています。前田敦子さんの表紙が目印です。ぜひお買い求め下さい。
 
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【今日は何の日・光太郎】 10月3日

昭和6年(1931)の今日、新聞『時事新報』で、光太郎の紀行文「三陸廻り」の連載がスタートしました。
 
実際に旅したのは8月から9月ですが、その旅の間に留守を預かる智恵子に統合失調症の症状が顕在化したそうです。日本という国時代も泥沼の戦争に向かう時期。光太郎にとって大きな転機の時期の始まりです。

昨日に続き、今月行われる光太郎がらみのイベントのご紹介です。
 
まずはネット検索で見つけました朗読のイベントです。 

青山の昼下がりⅥ

期 日 : 2013年10月25日 (金)
会 場 : 東京都 アイビーホール青学会館4F「クリノン」
時 間 : 
14時00分開演(13時30分開場)
料 金 : 2500円 要予約
関連web: 後援 NPO日本朗読文化協会 
内容:朗読へのおさそい 「青山の昼下がりⅥ」
 
◆プログラム
「蜘蛛の糸」芥川龍之介作  見澤淑恵  ファゴット演奏 蛯澤亮 作曲 加藤史崇
「姫椿」  浅田次郎作  池田美智恵
「刺青」  谷崎潤一郎作 望月鏡子
「鼓くらべ」山本周五郎作 近藤とうこ
「智恵子抄より」 高村光太郎作   山川建夫
 
◆後援 NPO日本朗読文化協会
◆お問合せ・お申込み 望月様 03-5716-5767 080-1190-4868
 
元フジテレビアナウンサーの山川健夫氏による「智恵子抄より」がトリのようです。
 


 
続いて福島川内村から草野心平忌日「かえる忌」のご案内が届きましたのでご紹介します。 

第3回天山・心平の会「かえる忌」

  : 2013年10月26日(土) 午後3:00~6:00
  : 小松屋旅館 福島県双葉郡川内村大字上川内字町分211
  : 2,500円
 
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翌日には心平墓参も行われるそうです。
 
原発事故による全村避難が解除されましたが、まだまだ帰村者が少ない状況だそうです。復興支援のためにも足をお運び下さい。
 
ちなみに当方の講演も予定されております。心平と光太郎の関わりについて話すつもりでおります。
 
さて、今日は渋谷のNHK放送センターに行って参りました。10/6放送の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」のスタジオ収録を観させていただきました。
 
明日、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月2日

昭和63年(1988)の今日、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・宮崎春子が歿しました。
 
昭和10年(1935)、智恵子が南品川のゼームス坂病院に入院した後、看護婦の資格を持っていた春子に光太郎が請い、昭和12年(1937)から約2年、春子は智恵子の付き添い看護にあたりました。智恵子の紙絵制作の現場に立ち会った、ほとんど唯一の人物です。
 
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紙絵を見る春子(昭和30年=1955)

10月となりました。
 
10月前半に行われるイベント情報は紹介しましたが、10月後半のイベントを何回かに分けてご紹介します。
 
まず、ピアニスト荒野愛子(こうのあいこ)さんのコンサート。
 
荒野さん、平成18年(2006)にリリースされた「オトヒトシズク」というピアノインストゥルメンタルのオリジナル曲を集めたアルバムで、「レモン哀歌」という曲をラインナップに入れられました。
 
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さらに10月20日には以下のアルバムがリリースされます。 

『智恵子抄』による ピアノとクラリネットのための小曲集

荒野愛子 ピアノ010
新實紗季 クラリネット
 
1. アトリエにて
2. 人類の泉
3. 深夜の雪
4. 僕等
5. 樹下の二人
6. あどけない話
7. 分岐
8. 風にのる智恵子~千鳥と遊ぶ智恵子
9. 値ひがたき智恵子
10. 同化
11. 終曲Ⅰ--亡き妻智恵子
12. 終曲Ⅱ--夜風も絶えた


さらにCDの発売を記念してコンサートも開かれるそうです。
 
<日時> 2013年10月26日(土) 開場 18:00  開演 18:30
<出演> 荒野愛子 ピアノ  新實紗季 クラリネット  田辺日太 朗読
<料金> 2,500円
<場所> 両国門天ホール 墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階 Tel:080-3172-3891(黒崎)

 
荒野さんブログ http://aikokono.blogspot.jp/
 
光太郎の詩を歌詞にしたり、あるいはオリジナルの詩を作ったりで、歌で光太郎智恵子の世界を取り上げるケースは結構ありますが、インストゥルメンタルでどのようにその世界を表現されるのか、非常に興味があります。
 
コンサートにはぜひ行きたいのですが、同じ日に福島川内村での草野心平忌日の集い「かえる忌」があり、講演を頼まれており、そちらに参ります。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月1日

明治39年(1906)の今日、ニューヨークの美術学校・アート・スチューデント・リーグの夜学に通い始めました。
 
講師には、それ以前に光太郎を通勤助手として雇ってくれた彫刻家のガットソン・ボーグラムがいました。
 
ボーグラムはその名前より作品で有名です。代表作は、どなたも一度は画像や映像でご覧になったことがあるのではないでしょうか。これです。画像はフリー百科事典「ウィキペディア」さんからお借りしました。
 
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現在でもアメリカの観光案内などでよく紹介されるもので、サウスダコタ州キーストーンにあるマウント・ラッシュモアの岩壁に作られた巨大彫刻です。制作は1927(昭和2年)~1941(同16年)。モチーフはすべてアメリカ大統領のワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーン。
 
ボーグラムはこの作品以前にもジョージア州のストーンマウンテンの岩壁に作られた、南北戦争の英雄、リー将軍やジャクソン将軍などの巨大レリーフを手がけています。こちらは1910年代。ただ、途中でスポンサーと対立して手を引いていますが。
 
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昭和26年(1951)に発表された光太郎の談話筆記「青春の日」によれば、このレリーフを作る際、ボーグラムは光太郎に手伝いに来いと手紙を送ったそうです。
 
しかし光太郎、こういう彫刻には関心を示せず、また、ボーグラムに対しても人間的には尊敬していたようですが、彫刻家としては余り高い評価を与えていなかったようで、協力要請を断っています。
 
歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし断らずに、このレリーフや後のマウント・ラッシュモアの巨大彫刻などのプロジェクトに参加していれば、光太郎の名も今とは違った形で伝わっているのではないかと思います。

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