2013年09月

次の日曜日(10/6)、午前9時からNHK Eテレで「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。が放映されます。 

日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像

NHK Eテレ 2013年10月6日(日)  9時00分~9時45分
       再放送
 10月13日(日) 20時00分~20時45分
 
『智恵子抄』で知られる高村光太郎。今回は、日本の近代彫刻を切り拓いた偉大な彫刻家としての人生に注目する。傑作誕生の陰には、妻・智恵子との知られざる物語があった。

番組内容

まっすぐに天をさす人差し指。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻「手」。日本近代彫刻のれい明期を告げる作品の作者は、「智恵子抄」で知られる高村光太郎だ。明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれ、フランス留学をきっかけに独自の彫刻を模索。そんな光太郎を支えたのが妻・智恵子の存在だった。最晩年の大作など傑作の数々を紹介しながら、生涯を智恵子の面影と共に生きた、彫刻家・高村光太郎の実像に迫る。

出演者

  • 出演 芥川賞作家…平野啓一郎,
  • 司会 井浦新,伊東敏恵

同番組の公式サイトにも詳細情報がアップされました。

 
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まっすぐに天をさす人差し指、呼応するようにほかの指は内側に力強く折り込まれていく。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻『手』。日本近代彫刻のれい明期を告げるこの作品、作者は『智恵子抄』の詩で知られる高村光太郎(1883~1956)だ。

明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、将来を約束された日本彫刻界のプリンスだった。しかし、東京美術学校・彫刻科在学中に近代彫刻の父・オーギュスト・ロダンの存在を知り、日本独自の近代彫刻を創造する決意をする。フランス留学を経て帰国した光太郎は先鋭的な活動をスタート。旧態依然とした日本の美術界を徹底的に批判し、どこまでも理想を求める中で孤独を深めていくようになる。そんな光太郎を絶望の淵から救い出し、一変させたのが妻・智恵子との出会いだった。「智恵子の純愛に接し、退廃生活から救い出された」と語る光太郎は、以後、智恵子ともに手に手を取り合って、彫刻に打ち込み、数々の作品を生み出していく。

しかしその幸せは長くは続かなかった。智恵子の死、戦争、そして戦争賛美の詩人というレッテル・・・。さまざまな紆余曲折の中で、一生を通じて智恵子の面影とともに生きた彫刻家・高村光太郎。その実像に迫っていく。
 
アドバイザーとして番組制作に関わらせていただきましたが、驚きました。何に驚いたかというと、45分の番組を制作するのにここまでこだわるか、という姿勢です。
 
担当ディレクター氏からは3日にあげずメールやら電話やらが入り、質問攻勢でした。たとえば……
 ・ 光太郎が生まれた旧下谷区西町3番地の現在の正確な番地は。
 ・ 光太郎がロダンの存在に衝撃を受けたことを示す文筆作品というと。
 ・ 光太郎が死んだはずの智恵子とビールを飲んだというエピソードがあるようだが、その出典は。
 ・ 光太郎の木彫作品の制作過程にどのような試行錯誤があったのか。
 ・ 木彫作品を入れていた袋や袱紗は智恵子が縫ったという説があるが本当か。
 ・ 智恵子が懐に入れて歩いたという木彫作品は特定できるか。
 ・ 『青鞜』創刊号の智恵子の表紙絵は何を描いたものか。
 ・ 光太郎がパリでロダンの「考える人」を実際に見た事が証明できるか。
 ・ 智恵子が好きだった花は。
などです。
 
担当ディレクター氏曰く「五月雨式」にそれらの質問が矢継ぎ早に来て、その都度分かる範囲のことはお答えしました。「豚もおだてりゃ木に登る」というわけで、「この度の番組制作では、そちらがいてくださるだけで、どれだけ心強いかわかりません。本当にありがとうございます。」という言葉にまんまとのせられてしまいました(笑)
 
それにしても、「事実ではないことは盛り込みたくない」ということで、かなり細かい点まで突っ込まれています。その姿勢には感心しました。昨今、番組制作の在り方についていろいろ批判が起こることがありますが、この番組については素晴らしいと思いました。
 
ぜひご覧下さい!
 
さて、明後日10/2にはスタジオ収録が行われます(放映直前に収録というのには驚きました)。当方、出演はしませんが、撮影に立ち会わせていただけることになりましたので、渋谷のNHKさんに行って参ります。
 
また、同じく10/2発行のNHKさんのPR誌「NHKウィークリーステラ」に今回の放送の紹介が載るそうです。一般書店で販売していますので、ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月30日

1950(昭和25年)の今日、光太郎が部分的に解説を担当した『世界美術全集 第24巻 西洋十九世紀Ⅲ』が平凡社から刊行されました。
 
光太郎が担当したのはロダン作「考える人」「姉と弟」の解説。以後、断続的に昭和28年(19853)まで、『世界美術全集』の解説を手がけています。ロダン以外にはミケランジェロや古代エジプト彫刻、光雲などでした。

昨日、NHKさんの連続テレビ小説「あまちゃん」がとうとう最終回を迎えました。
 
震災の被災地が舞台ということで、当方、被災地の方々といろいろ付き合いがあるため、4月の放映開始から毎日観ていました。
 
三陸といえば光太郎とも縁の深い土地柄です。昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、三陸沿岸に約1ヶ月の旅をしています。ただ、物語の舞台「北三陸市」のモデルとなった久慈市までは足をのばさず、少し南の宮古までだったようですが。ちなみにBGMとして、岩手出身の宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりのうた」が使われてもいました。
 
もう一つ、「あまちゃん」を見始めた理由として、渡辺えりさんが出演されていたこともあります。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんは、お父様が光太郎と直接交流があり、その関係でご自身も光太郎を敬愛、光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られました。
「月にぬれた手」「天使猫」レポート。
 
連翹忌にもご参加いただき、さらに今年は5月15日の花巻光太郎祭、更に翌日には花巻市文化会館で光太郎に関する講演をなさいました。


 
渡辺さん演じる天衣無縫な海女の弥生さん、渡辺さんご自身は「わけの分からないキャラクター」だとおっしゃっていましたが、毎回笑わせて下さいました。
 
ところで、「あまちゃん」のキャストには、他にもかつて光太郎智恵子がらみの演劇、映画、ドラマなどに出演された方がたくさん名を連ねていました。
 
やはり海女の長内かつ枝役の木野花さん。渡辺さんの書かれた「月にぬれた手」に、光太郎の暮らす花巻郊外太田村山口の農婦役でご出演。
 
光太郎に投げつける「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞、重たいものがありました。
 
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画像は「月にぬれた手」のパンフレット。サインは直筆です。
 
木野さんといえば、当方が「月にぬれた手」の公演を観に行った日、舞台がはねた後、高円寺の駅でお見かけしました。女優さんというとタクシーで移動というイメージでしたが、普通に電車に乗って帰られるところでした。かえってそういうところに好感が持てました。
 
同じく海女の熊谷美寿々役・美保純さん。
 
光太郎詩「樹下の二人」の朗読が入っていた映画「春色のスープ」(平成20年=2008)に、盲学校で朗読のボランティアをしている女性の役でご出演。

 
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漁業組合長で木野花さんのご主人・長内六郎役のでんでんさん、商工会長で渡辺えりさんのご主人・今野あつし役の菅原大吉さんは、「智恵子抄」オマージュの要素もあった反原発映画「希望の国」(平成24年=2012)でも共演されていました。
 
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でんでんさんは、故・夏八木勲さん演じる主人公の隣人で、原発事故の直後に半ば強制的に待避させられる役。菅原さんは頑固に自宅にとどまる主人公に待避を勧める役場職員の役でした。
 
ちなみに菅原さんは、平成18年(2006)にオンエアされたフジテレビ金曜プレステージ「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」で、中村俊介さん演じる主人公・浅見光彦とともに事件解決に当たる橋田刑事の役もなさっています。
 
浅見光彦といえば、平成21年(2009)・TBSの沢村一樹さん主演のシリーズ「浅見光彦~最終章~」の「最終話 草津・軽井沢編」(『首の女殺人事件』)で、光彦の幼馴染みという設定の宮田治夫(内田康夫氏の原作とはかなり設定が違います)役を、北三陸市観光協会長役の吹越満さんが演じていました。

 
探せば他にもいらっしゃるかもしれませんんが、思いつくのは以上です。
 
それにしても「あまちゃん」。パ・リーグ楽天同様、東北をだいぶ元気づけてくれたと思います。終盤の震災後の描写は、当方も訪れた石巻や女川などの様子とダブって見えました。肩肘張らず「復興」への歩みを描いた手法には感心しました。
 
ところで、世間では少し前から「あまロス症候群」なる語がささやかれています。「あまちゃん」放映終了後に訪れるであろう虚脱感、ということですね。放映終了前からそうなるのが怖い、という声がネットを賑わせていました。当方もそうなりそうです(笑)
 
スタッフ、キャストの皆さん、お疲れ様でした。そして感動をありがとうございました。
 
12/2追記
同じNHKさんの「八重の桜」について同じようなことを書いていて気づきました。
 
ミズタクこと能年玲奈さん演じる天野アキのマネージャー・水口琢磨役の松田龍平さんが、平成22年(2010)にユニクロのCM「何処もかもだ」篇に、黒木メイサさんとご出演。これは光太郎詩「冬の詩」を使っていて、かなりインパクトのあるものだったので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月29日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる画廊・琅玕洞で開催されていた洋画家・斎藤与里の個展が閉幕しました。

昨日のブログで秋に関する光太郎の詩をいくつか紹介しました。昨日紹介したのは大正末から昭和戦前の作で、素直に秋を謳ったもの(部分)でした。
 
「素直」でなく秋にからめた詩も存在します。どうも秋の到来を、それから起こるであろう泥沼の戦争の予感とオーバーラップさせているようです。

   北東の風、雨
 014
 軍艦をならべたやうな
 日本列島の地図の上に、
 見たまへ、陣風線の輪がくづれて、
 たうとう秋がやつて来たのだ。
 北東の風、雨の中を、
 大の字なりに濡れてゐるのは誰だ。
 愚劣な夏の生活を
 思ひ存分洗つてくれと、
 冷冷する砲身に跨つて天を見るのは誰だ。
 右舷左舷にどどんとうつ波は、
 そろそろ荒つぽく、たのもしく、
 どうせ一しけおいでなさいと、
 そんなにきれいな口笛を吹くのは誰だ。
 事件の予望に心はくゆる。
 ウエルカム、秋。

 
昭和2年(1927)の作。
 
その前年、中国では蒋介石の国民党政府による反帝国主義を掲げる「北伐宣言」が出され、昭和2年に入ると、
日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃(南京事件・漢口事件)などが起こり、それに対して日本は山東出兵を行っています。さらに翌年には関東軍による張作霖爆殺、国内では主義者弾圧のための特高警察の設置など、時代は確実にきな臭い方向に進んでいました。
 
事件の予望」には、そうした背景が見て取れます。そして、「どうせ一しけおいでなさい」「ウエルカム、秋。」には、それを必然と見る姿勢が読み取れるように思われます。
 

   秋風辞
     秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南帰
                   -漢武帝-
 秋風起つて白雲は飛ぶが、
 今年南に急ぐのはわが同胞の隊伍である。015
 南に待つのは砲火である。
 街上百般の生活は凡て一つにあざなはれ、
 涙はむしろ胸を洗ひ
 昨日思索の亡羊を嘆いた者、
 日日欠食の悩みに蒼ざめた者、
 巷に浮浪の夢を餘儀なくした者、
 今はただ澎湃たる熱気の列と化した。
 草木黄ばみ落ちる時
 世の隅隅に吹きこむ夜風に変りはないが、
 今年この国を訪れる秋は
 祖先も曾て見たことのない厖大な秋だ。
 遠くかなた雁門関の古生層がはじけ飛ぶ。
 むかし雁門関は西に向つて閉ぢた。
 けふ雁門関は東に向つて砕ける。
 太原を超えて汾河渉るべし黄河望むべし。
 秋風は胡沙と海と島島とを一連に吹く。
 
昭和12年(1937)の作。この年には盧溝橋事件が起こり、日中間は全面戦争状態に突入しています。
 
実は昨日部分的に紹介した「日本の秋」にも、昨日紹介しなかった部分にこうした内容が含まれています。
 
 ああいよいよ秋の厄日がそこに居る。
 来なければならないものなら、
 どんなしけでもあれでも来るがいい。
 
どうやら光太郎、台風の嵐を戦争の嵐にたとえているようです。そして台風一過の状況を、昨日紹介した部分の
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 
で、戦争に勝つこととして表現しているのです。
 
ところがそう簡単に事は運ばず、日中戦争は泥沼化、さらに太平洋戦争へと突入し、昭和20年(1945)には敗戦。
 
この間、光太郎は膨大な数の戦争詩を書き殴ります。それら(「北東の風、雨」「秋風辞」も含め)は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などに収められ、国民を鼓舞する役割を果たしました。
 
敗戦後はそうした自己を反省して、花巻郊外での山小屋生活に入るのです。
 
以上、ざっくりと光太郎の「秋」を見てきましたが、すっきりしませんので、「きな臭い」内容を含まない「素直な」秋の詩をもう一つ紹介して終わります。大正3年(1914)、おそらく詩集『道程』のために書き下ろされた詩です。
 
   秋の祈
 
 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り016
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る
 
【今日は何の日・光太郎】 9月28日

昭和26年(1951)の今日、光太郎が題字を揮毫した草野心平の詩集『天』が刊行されました。
 
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「素直な」心で、秋の「天」を眺めたいものです。

【今日は何の日・光太郎】 9月27日

大正15年(1926)の今日、詩「秋を待つ」を書きました。
 
   秋を待つ017
 
 もう一度水を浴びよう。
 都会に居れば香水くさくなるし、
 山にのぼれば霧くさくなるし、
 たんぼにゆけばこやしくさくなる。
 良心くさいのさへうれしくないのに、
 ああ己はそこら中がべとべとだ。
 太陽や神さまはいつでも軌道のそつちに居てくれ。
 あの西南の空の隅から
 秋がばさりとやがて来る日を
 胸のすくほど奇麗になつて待つ為にも、
 さあもう一度水をあびよう。
 さうしてすつかり拭いた自分の体から、
 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ
 あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、
 生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
 
9月末としては少し季節外れの内容にも思えます。大正15年も残暑が厳しかったのでしょうか。
 
ちなみに右は現在の千葉県北東部の空です。気持ちよく晴れています。ただし、まだ裏山ではツクツクホーシとミンミンゼミが鳴いています(笑)
 
以前にも書きましたが、光太郎は生来、夏の暑さを苦手としていました。逆に冬の寒さは大好きで、冬を謳った詩は数多くあります。また、暑さが去る秋の訪れを懇願したり、喜んだりといった内容の詩もいくつかあります。
 
   秋が来たんだ(部分)
 
 すずしい秋がやつて来たんだ
 星が一つ西の空に光り出して
 天が今宵こそ木犀色に匂ひ016
 往来にさらさら風が流れて
 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる
 さういふ秋がやつて来たんだ
 ……
 すずしい秋がやつて来たんだ
 こんないい空気が落ちて来る秋の夕方がやつて来たんだ
 
 
   日本の秋(部分)
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 風と雨とで一切を洗ひ出してしまつた朝、
 塩でもいいからきりりと口を浄め、
 水を一ぱいぐつとのんで、
 からりと日の照る往来にとび出すのはいい。
 あの日本の秋が又来たな、
 秋はいいなと思ふのはいい。
 
それぞれその通りですね。
 
ただし、光太郎は昭和戦前には「秋」を「大和魂」と結びつけ、日中戦争から太平洋戦争に向かってゆく-というかゆかざるをえない-この国の姿を描いてもいます。明日はそのあたりを書いてみます。
 
「秋」といえば、宮城女川光太郎の会・佐々木英子様が秋の味覚の王様・女川特産のサンマを送って下さいまして、早速いただきました。脂がしっかりのっていて、美味。何より目を見張る大きさです。ありがたいことです。
 
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ところで、パソコンのインターネットのブラウザで、YAHOO!JAPANのページを見ますと、一番下に「復興支援 東日本大震災」というリンクがあります。
 
その中にある「復興デパート」というリンクでは、東北の特産品などがネット販売されています。現在のイチオシはやはり三陸のサンマ。ぜひお買い求め下さい。

 
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「復興支援」といえば、プロ野球パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝を決めましたが、東北を元気づけるという意味でも、非常に喜ばしいことですね。CS、そして日本シリーズとさらに頑張ってほしいものです。

昨日、光太郎の肉声が収められたカセットテープ『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』を紹介しましたが、同様に光太郎の肉声を収めた音声ソフトが数種類発行されていますので、ご紹介します。
 
ぜひお買い求めの上、聴いてみて下さい。 絶版のものが多いのですが、中古市場で出ることがあります。

NHKカセット 文学の心 文豪は語る1012

昭和27年(1952)3月、NHKラジオ番組「朝の訪問」のために詩人の真壁仁と行った対談(『高村光太郎全集』第11巻)が収録されています。また、光太郎本人による自作の詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」の朗読も収められています。同じ年3月にオンエアされました。昭和50年(1975)、NHKサービスセンターの発行です。現在は絶版です。
 
「千鳥……」には、「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい」という千鳥の鳴き声の擬音が出てきます。後世の人達の朗読では、ここを付けられている読点の通りゆっくり刻みながら「ちい、ちい、ちい」と読むのが普通です。ところがその部分、光太郎は非常に早口で読んでいます。光太郎の朗読を文字で表せば「ちいちいちいちいちい」。確かにそう読んだ方が千鳥感がよく出ます。
 
朗読は朗読する人それぞれの解釈でやってよいのだとは思いま011すが、作った本人はそのように読んでいる、ということもお忘れなく、と言いたいところです。特に朗読で光太郎作品を取り上げられる方にはぜひ聴いていただきたいものです。
 
ちなみに「千鳥……」と「梅酒」の朗読は、平成14年(2002)山川出版社発行の中学校教材用CD中学校 音の国語にも収められています。こちらは現在でも新品が入手可能です。ただしCD3枚組+解説書つきで18,000円+税。ちょっと高いのが難点です。

 
また、『文学の心 文豪は語る1』の内容に、昨日ご紹介した草野心平との対談「芸術よもやま話」も収録した『昭和の巨星 肉声の記録 文学者編 室生犀星高村光太郎』もNHKサービスセンターから発行されています。カセットテープ版とCD版があり、基本、全12巻のセット販売でした。現在は絶版ですが、こちらも時折、中古市場で見かけます。

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新潮カセットブック 高村光太郎詩集

平成2年(1991)発行のカセットテープです。基本は石坂浩二さんの朗読ですが、B面の終わりに約7分間、昭和28年(1953)に、美術史家の奥平英雄と行った対談「芸術と生活」(『高村光太郎全集』第11巻)の一部が収録されています。対談「芸術と生活」は、翌年、文化放送でオンエアされました。
 
同じ対談「芸術と生活」のテープは、奥平の著書『晩年の高村光太郎』特装本(昭和51年=1976 瑠璃書房)に付録として添えられています。こちらはノーカットです。
 
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どちらも絶版です。
 
以上、市販された光太郎肉声を含むものはこんな所だと思います。「もっとこんなものもある」という情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月26日

明治24年(1891)の今日、光雲が戸籍上の本名を「光雲」に変更しました。
 
元の光雲の本名は「光蔵(みつぞう)」、通称「幸吉」でした。

福島は二本松から、近々行われるイベント情報の情報を2件紹介します。

五星山展記念しトークショー

10月12日から二本松市の大山忠作美術館で011開かれる5人の文化勲章受章画伯による心の復興支援「五星山展」を記念し、タレントの片岡鶴太郎さんと女優有馬稲子さんのトークショーが開催される。

 片岡さんは10月19日に登場する。画家としても知られる片岡さんは「五星山展」の題字を書いた。公開される5人の巨匠とその作品への思い、自身の創作などについて語る。

 有馬さんは11月4日に出演する。大山氏の代表作「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルとしての制作秘話や高村智恵子を演じた思い出を、大山氏の長女の女優一色采子さんとの対談形式で語る。
 会場は美術館が併設されている市民交流センター1階多目的室。時間はいずれも午後2時から。チケットは2000円(展覧会入館料込み)で各150席限定。主催する「五星山展」PR委員会はチケットを今月24日午前9時半から市民交流センターと事務局の岳温泉観光協会で直接販売する(電話予約は不可)。問い合わせは同協会 電話0243(24)2310へ。

 「五星山展」は日本画壇を代表する大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏(いずれも故人)の作品を一堂に展示する。11月17日まで。入館料は一般400円、高校生以下200円。
(福島民報社)
 
二本松駅前の市民交流センター内にある大山忠作美術館で行われる企画展「五星山展」の関連行事です。
 
昭和51年(1976)、新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じた有馬稲子さん。二本松出身の大山忠作画伯が、その有馬さんをモデルに「智恵子に扮する有馬稲子像」を描きました。そのあたりのお話が聞けそうです。
 
もう一件。6月に当方が講師を務めさせていただいた「智恵子講座’13」の第4回があります。

智恵子講座’13 「ロダンと荻原碌山」 

日 時  10月14日(月・祝) 10:00~
会 場  二本松市市民交流センター
講 師  久慈伸一さん(福島県立美術館学芸員)
参加費 1,000円
申し込み 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん TEL/FAX 0243-23-6743

 
二本松。町おこし、震災からの復興といった意味合いでもこうしたイベントで盛り上がってほしいものですね。関係者各位のご努力に頭が下がります。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 9月25日003

昭和30年(1955)の今日、NHKラジオ放送のため、草野心平との対談「芸術よもやま話」が録音されました。
 
オンエアは10月18日と25日。
 
この時の音源を用いて、平成2年に『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』が発行されました。カセットテープです。
 
光太郎の肉声が聴けるとあって、貴重なものです。光太郎、なかなかいい声です(笑)。
 
こうした録音資料、昭和から平成の初めころには何種類か発行されています。明日はそのあたりを紹介してみようかと思っています。

閲覧数が20,000回を超えました。ありがとうございます。
 
昨日は外苑前のライヴハウス・Z IMAGINでの、シャンソン歌手・モンデンモモさんのライヴレコーディング「G-MAGIC MOMO LIVE」に行って参りました。
 
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「土地★人★神話」(仮題)という新作アルバムのためのもので、来年3月リリース予定だそうです。モモさん曰く「ご当地ソング集のようなもの」とのことですが、出雲や福島でも活動なさっているということで、「智恵子抄」や出雲神話などに関する歌、それから「人」ということで宮澤賢治の「雨ニモマケズ」、平塚らいてうの「元始女性は太陽であつた」などにオリジナル曲を付けたものも含まれます。
 
以前も書きましたが、継続してやられているというところが素晴らしいと思います。
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月24日

平成15年(2003)の今日、70余年の時を経て、行方不明だった木彫「栄螺(さざえ)」の発見が報じられました。
 
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これは昭和5年(1930)、大阪の高島屋長堀店で開催された「木耀会木彫展覧会」に出品され、即売会も兼ねていたためにそこで買われ、以後、行方が不明でした。というか、「木耀会木彫展覧会」に出品されたということもわかっていませんでしたし、正確な製作年代もわかっていませんでした。
 
ただ、光太郎が自作の彫刻を語った昭和20年の「回想録」(『高村光太郎全集』第10巻)では、この作品が一つのエポックメーキングだったと記されていて、重要な作品です。
 
見つかった「栄螺」には絹の袋がついていました。そこには光太郎自筆の短歌。
 
いはほなす さざえの 貝の かたき戸の うごくけはひの ほのか なるかも
 
光太郎はこのように自作の木彫に袋や袱紗(ふくさ)をつけ、自作の短歌を添えることが多くありました。ちなみに袋や袱紗は智恵子が縫ったそうです。現在、岡山県井原市立田中美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」では、こうした袋や袱紗が多数展示されています。
 
ところが、この「栄螺」、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に出品されていません。もちろん袋も。所蔵している愛知県のメナード美術館さんが、自館の所蔵名品展で展示したいとのことです。そちらの情報も入り次第お伝えします。

目黒区駒場にある日本近代文学館でのイベント情報です。 

「秋の特別展 新収蔵資料展」


期 日 : 2013年9月28日(土)~11月23日(土)
会 場 : 日本近代文学館  東京都目黒区駒場4-3-55
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
休 館 : 日・月曜日、第4木曜日(10月24日)
料 金 : 一般 200円 (20名以上の団体 100円、維持会・友の会会員 無料)
監 修 : 池内輝雄
 
日本近代文学館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からのご寄贈によるもので、その貴重な資料を展示・公開する新収蔵資料展を定期的に開催しています。
 
本展覧会では、2010年以降に新しく収蔵した資料のなかから、特色のある品々をご紹介いたします。
この3年間で新たに加わった「内村鑑三研究所文庫」「紅野敏郎文庫」「齋藤磯雄文庫」の資料をはじめ、本年春に寄贈を受け話題となった太宰治の学生時代のノート・教科書類や、夏目漱石が門下生の鈴木三重吉に「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死を通知した「猫の死亡通知」など、貴重な資料を多数展示いたします。
 
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」(明治41年9月14日)
鈴木三重吉宛夏目漱石(明治41年9月14日)
「猫の死亡通知」
また、三島由紀夫が自死する直前の1970年11月に池袋の東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」のために揮毫した屏風は、同展以来の公開となります。
 
主な出品資料
太宰治の学生時代のノートや教科書、およびそれらを保管していた信玄袋
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」
村上浪六・信彦資料より 浪六画「赤裸ニ窺天下」
中野重治原稿「『平和革命』と文化ということ」
中村真一郎日記
内村鑑三研究所文庫の蔵書
齋藤磯雄文庫より 齋藤著「ピモダン館」原稿
紅野敏郎文庫より 谷崎潤一郎「近松秋江『黒髪』序文」原稿
登張竹風・正実資料より 竹風宛泉鏡花書簡
田村松魚資料より 松魚宛高村光太郎書簡
北村孟徳資料より 孟徳宛内田百閒書簡
楠山正雄資料より 『新訳イソップ物語』初版本
香西昇旧蔵直木三十五資料より 直木「大阪落城」原稿
寺崎浩資料より 「ゴルキー通りの女」原稿
芥川賞・直木賞コレクション新規収蔵原稿
 
同時開催 川端康成記念室 「モダニズムと浅草」

田村松魚(しょうぎょ)は幸田露伴門下の作家。昭和4年(1929)に刊行された光雲の『光雲懐古談』主要部分の聞き書きをするなどしています。妻も作家の田村俊子、智恵子の数少ない親友の一人でした。
 
光太郎・智恵子夫妻もかなり独特の夫婦でしたが、輪をかけてドラマチックだったのが松魚・俊子夫妻(後に離婚)でした。
 
高村夫婦との交流を含め、詳細は以下の書籍等でわかります。
 
 

 ところで問題の書簡は、平成17年にその存在が報じられました。その数なんと55通。翌年には笠間書院さんから『高村光太郎進出書簡 大正期 田村松魚宛』田村松魚研究会間宮厚司編が刊行され、その全貌が明らかにされました。
 
『高村光太郎全集』補遺作品集として当方が手がけている「光太郎遺珠」には、最初に発表された6通のみ掲載させていただきました。残りは数が多すぎるので、いまだ収録していません。いずれ、第3次の『高村光太郎全集』が出るとしたら、組み込ませていただきたいと考えています。
 
この55通はその後、同22年に日本近代文学館さんに寄贈されています。今回の展示ではその中から出品されるのでしょう。何通ならぶのかは不明です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月23日

大正10年(1921)の今日、光太郎が設計した府下高井戸村の可愛御堂が落成、献堂式に出席しました。
 
可愛御堂は光太郎とのちのちまで交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)が開いた百姓愛道場内に建てられました。建立の趣旨は、その趣意書によれば、子を失った親たちのために一つの庵を建て、天上の子供らの霊が睦み遊んでいるように、地上の親兄弟姉妹もここで一つになって睦み合うようにとのことでした。元々はやはり愛児を失った江渡がその遺骨を寺に預けるに忍びず、百姓愛道場内に祀っていたことに始まるそうです。
 
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光太郎、駒込林町のアトリエも自分で設計しましたが、建築設計にもその才を発揮していました。舌を巻くマルチさの一端が見て取れます。

8月19日のこのブログで、秋田から新たに光太郎の直筆詩稿が見つかったニュースをご紹介しました。
その後、過日、続報が出ましたのでご紹介します。  

「一億の号泣」の直筆詩稿を寄託 由利本荘市教委へ

 高村光太郎が終戦の翌日に書いた詩「一億の号泣」の直筆詩稿を所有する由利本荘市矢島町の佐藤和子さん(70)と親類が10日、「多くの市民や光太郎ファンに見てもらいたい」と市教育委員会に詩稿を寄託した=写真。市教委は今後、詩稿の複製を公開する考え。

 詩稿は、光太郎が戦時中に疎開した岩手県花巻市で親交を深めた故佐藤昌(あきら)さんに渡したもの。矢島町立農業補習学校農業専修科(現矢島高)の初代校長を務めた昌さんは、終戦後、文通相手だった教え子の佐藤勘左エ門さん=矢島町、1988年に78歳で死去=に詩稿を譲り渡した。

 詩稿は一時紛失したが、2年半前に矢島町内で見つかり、勘左エ門さんの次男の妻である和子さんが所有、勘左エ門さんの五男重さん(64)と弟の東海林良介さん(86)が保管していた。
(『秋田魁新報』 2013/09/11)
 
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「一億の号泣」は光太郎の詩としては有名な方ですし、太平洋戦争の終戦という、光太郎にとっても日本にとっても一大転機となったできごとを題材にしているということで、重要な作品です。
 
したがって、売りに出せばかなりの値段がつくものなのですが、持ち主の方は市に寄贈されたとのこと。すばらしい。
 
今後は死蔵されることなく、活用されてほしいものです。
 
東北にはこういうケースで寄贈され、常時見ることのできる光太郎資料が意外と多くあります。
 
盛岡市の盛岡てがみ館さん。やはり光太郎の詩稿「岩手山の肩」が常に展示されていますし、他にも光太郎書簡を多数所蔵しています。来春の企画展では光太郎書簡も展示されるようです。
 
東北新幹線のいわて沼宮内駅内にある郷土資料館には、光太郎直筆の村立図書館・村立公民館の看板が展示されているとのこと。当方はこれは見たことがないのですが、いずれあちらに行く時に足をのばしてみようと思っています。
 
11/12追記 現在はいわて沼宮内駅内の郷土資料館は閉鎖、この看板は元々あった岩手町川口公民館に戻っているとのことです。
 
もちろん、花巻の高村光太郎記念館や二本松の智恵子記念館。
 
ただ、気をつけなければいけないのは、「光太郎直筆の○○」と大々的に宣伝していながら、どうも怪しいものもあることです。営利目的や功名心でやっているわけではなく、「善意」で公開しているのでしょうが、それだけに困ったことでもあります……。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月22日

昭和60年(1985)の今日、NHKFMで、原嘉壽子作曲・まえだ純台本による「歌劇 智恵子抄 高村光太郎による 四幕」がオンエアされました。
 
昭和62年(1987)には楽譜(ヴォーカル・スコア)が全音楽譜出版社さんから刊行されています。

演劇公演の情報です。 

チエコ

期 日 : 2013/10/02(水) ~ 10/07(月)  10/09(水)~ 10/14(月)
会 場 : 両国・エアースタジオ   東京都墨田区両国2丁目18-7 ハイツ両国駅前 地下1階
時 間 : 10/02(水) ~   10/09(水)~
料 金 : 3,000円
 
出演
五十里直子、清水知世、西田啓佑、平岡美保、古川原香織、音崎結映、小森毅典、畑野菜々、入江悠、木村ゆめこ、SHUN、芹沢結海子、日高翔太、吉野家菊之介
脚本・演出 野口麻衣子
主催 劇団空感エンジン
 
高村光太郎のアトリエ。高村光太郎と姪の春子が暮らしている。草野心平・中原綾子がアトリエを訪ねてくる。光太郎の亡くなった妻・智恵子への詩集『智恵子抄』を作る相談に乗ってもらう為に二人を呼んだのだ。智恵子との思い出を話しながら過去へと回想する。
 
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出演者の方々のブログ等


「中原綾子」は第二期『明星』に依った歌人・詩人017。そうした関係で光太郎と知遇を得、のちに自ら主宰した雑誌『いづかし』や自身の詩集『悪魔の貞操』に、光太郎の寄稿を受けています。
 
それより有名なのは、昭和31年(1956)6月に発行された『婦人公論』の光太郎追悼特集の中で、昭和9年(1934)から翌年にかけての光太郎書簡を発表したことです。智恵子の統合失調症が昂じて九十九里から連れ帰り、ゼームス坂病院に入院させた頃のもので、当時の智恵子の様子が克明に記されています。
 
ここまで詳しい智恵子の病状の描写が他に見つかっていないため、この書簡群は現在でも研究者の間ではよく利用されています。
 
ところで、光太郎と綾子の間を怪しむ説もあります。智恵子の病状を記した書簡が他の誰にも送られていない(であろう)こと、他にもいろいろと光太郎が便宜を図ってあげていること、この時期に綾子が離婚していること、綾子が流行の言い方をすれば「美人過ぎる」歌人だったこと(右下の画像参照)などがその理由です。
 
さらに書簡にある「あなたの御親切を実にありかたく思ひます。あなたの同情は私に絶大の力を添へてくれます」「あなたの慰めがどんなに私の力になつてゐるか知れません」といった部分が深読みされてもいるようです。
 
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やはり演劇で、野田秀樹作・大竹しのぶ主演の「売り言葉」(平成14年=2002)には、智恵子のこんな台詞があります。
 
その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎を智恵子は食べさせられたのであります。
 
林檎うんぬんは、先の『婦人公論』に載った光太郎書簡に記述があります。
 
しかし、だからといって光太郎と綾子の間を怪しむのはどうでしょうか。あまりに材料が少なすぎますので。
 
まあ、創作作品やエッセイなら許されることだと思います。しかし、「論文」としてそう書いてしまっては駄目ですね。
 
もっとも、エラいセンセイ方の「論文」も、実に噴飯ものの内容だったりすることが多く、いかにも「研究実績」として「論文」を書かなければいけないから苦し紛れに書いているんだろうな、というものが多いのが現状ですが。
 
話がどんどんそれましたが、劇団空間エンジンさんの「チエコ」、公演期間が長いので都合がつきまして、観に行くことに致しました。また観終わったらレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月21日

昭和8年(1933)の今日、宮澤賢治が歿しました。
 
光太郎は賢治の原稿等が散逸するのをおそれ、金を工面して草野心平を花巻に派遣しました。結局、賢治の弟の清六がきちんと管理をしてくれていて、取り越し苦労でしたが、宮澤家ではこの配慮に感激したそうです。
 
光太郎と賢治についてはいずれまた書くことがあるでしょう。

ネット検索で見つけました。三重県は志摩地域からのイベント情報です。  

大人のための朗読ライヴ 第7回 花笑み朗読会

日 時  2013年10月6日(日) 午後1:30~3:30ころ
会 場  コミュニティースペース花笑み (志摩市磯部町上之郷市営プールとなり)
入場無料
 
プログラム
『マラソン』堀ななえ 作/朗読 堀八重子
『子そだてゆうれい』民話/朗読 岡野恭子
『きまもり』杉みき子 作/朗読 岡野秋子
『芋ころりん』福島県 昔話/ストーリーテリング 森本時子
『注文の多い料理店』宮沢賢治 作/朗読 森下雅子
『チーン、ブツブツ』佐野洋子 作/朗読 江坂淳子
『智恵子抄』高村光太郎 作/朗読 牧野範子
 
 
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以前、朗読家の荒井真澄さんをご紹介した時にも書きましたが、光太郎の詩は意外と朗読向きです。
 
例えば「樹下の二人」のリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」という短いフレーズも、「があたたらやまのひるのがあぶくまがわ」という「あ」そのものや母音の「A」の多用、光太郎ははっきり意識しているはずです。
 
「レモン哀歌」にしても「そんなにも/あなたはレモンをまっていた」と、日本古来の五音・七音(前後)での構成になる箇所も多く見受けられます。
 
朗読は静かなブームだそうで、全国の愛好家の方、どんどん光太郎作品を取り上げて下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 9月20日

明治34年(1901)の今日、東京美術学校での京都・奈良方面への修学旅行に出発しました。
 
この修学旅行で、特に奈良で白鳳・天平といった頃の仏像をたくさん見たことが、光太郎にとっての一つの転機となります。仏師の息子として生まれた光太郎ですから、仏像自体は子供の頃から見飽きるほど見ていたはずですが、江戸の様式化された仏像にはない迫力に打たれたのです。曰く、
 
本物とは似ても似つかない形のものが、素晴らしい迫真力をもつて迫つてきた。それで、学校で自分達がやつた柔弱な人形みたいなものは、実にくだらなく感じられてきた。そして奈良の仏像の、――本物とはまるで離れたようないろいろな恰好をした仏像が、何故そんなに強く人を感動させるのかということについて深く考えさせられた。なんだか彫刻というのは、いままでやつていたものと違うと言うことを感じた。あの修学旅行が、わたしたちを啓発したことは大変なものであつた。
(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)
 
ここでいう「本物」とは「人間の肉体」という意味です。
 
「わたしたち」とありますが、他の生徒も同じだったようです。特にこの後、目をみはるほど進歩したのは、かつて美学の授業で空気を読めない素っ頓狂な質問をして講師の森鷗外を怒らせたりし、同級生からは一番出来が悪いと馬鹿にされていた生徒だったとのこと。
 
この後、光太郎は留学を経験し、ロダンを初めとする西洋近代彫刻にも打ちのめされることになりますが、単に打ちのめされただけでなく、修学旅行で学んだ日本古来の彫刻の要素と、西洋近代彫刻の要素を見事に融合させ、独自の境地を開いてゆくのです。
 
ちなみに「修学旅行」というと、現代では2泊3日とか3泊4日とかのイメージですが、この時の修学旅行はなんと2週間にも及んだそうです。

来月5日は智恵子の命日ですが、それに合わせて智恵子の故郷、福島・二本松にて智恵子を偲ぶ集い・レモン忌が開かれます。  

第19回レモン忌

日 時  10月6日(日) 10:30~15:00
会 場  ラポートあだち 福島県二本松市油井濡石16
会 費  3,000円
主 催  智恵子の里レモン会
 
記念講演:坂本富江先生「―智恵子抄を訪ねて―旅のエピソード……そして紙絵からのメッセージ」
 
申込先:〒969-1404 二本松市油井漆原34 戸田屋商店  FAX 0243-23-4858
 
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毎年、講演が行われていますが、今回の講師は昨年『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された坂本富江先生です。
 
この日は先日のブログでご紹介したNHK Eテレさんの「日曜美術館」放映の日なのですが、そちらは録画予約し、こちらに行こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月19日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『労農』の編集顧問に就任しました。
 
『労農』というと戦前に山川均や荒畑寒村等によって刊行されていたアナーキズム系の雑誌が有名ですが、そちらではなく、詩人・森英介が中心になって山形で刊行された雑誌です。

福島発のイベント情報です。 

【募集中】智恵子さんの故郷/福島で「ほんとの星空」、体験できます。

標高1,575メートル。一般公開されている天文台の中では、日本で最も星空に近いのが浄土平天文台(福島市)。「智恵子は東京に空がないという。ほんとの空が見たいという」(あどけない話/高村光太郎)。智恵子さんの故郷/福島で「ほんとの星空」、体験できます。
 
浄土平秋の星空観察バスツアー(お弁当付き)は9月27日(金)18:00出発です。お申し込みは9月20日(金)まで!お一人様3,800円、募集定員は40名様(^_^)
詳しくはこちらから!
≪旅*東北イベント情報≫
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月18日

平成9年(1997)の今日、講談社から津村節子著『智恵子飛ぶ』が刊行されました。
 
津村さんは芥川賞作家。夫はやはり作家の故・吉村昭氏。一昨年、吉村氏の闘病の日々を綴ったノンフィクション小説『紅梅』が話題となりました。
 
『智恵子飛ぶ』は、講談社の雑誌『本』に平成7年(1995)から連載されていた長編小説で、智恵子を主人公としています。光太郎智恵子と同じく芸術家夫婦であった津村さん独自の視点が随所に見え、すぐれた作品です。
 
刊行翌年の平成10年(1998)にはこの小説で芸術選奨文部大臣賞受賞、同12年(2000)には新橋演舞場で片岡京子さん(智恵子)、平幹次郎さん(光太郎)主演で舞台化されています。
 
この時の智恵子役は、当初、大物女優のMでしたが、身内の薬物事件で初日1週間前に降板を発表、もともと妹セキの役だった片岡さんが急遽智恵子役に抜擢され、見事に演じきりました。
 
舞台『智恵子飛ぶ』は同13年(2001)には京都南座で京都公演も行われました。智恵子役は同じく片岡京子さん、光太郎役は近藤正臣さんでした。
 
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智恵子役の片岡さん、セキ役は渡辺多美子さん、ともに1週間で仕上げてしまうのですからプロはすごいものです。右下は当時のスポーツ紙の記事です。
 
ちなみに以前も書きましたが、片岡017さんのお父さん、仁左衛門さんは「片岡孝夫」時代の昭和48年(1973)にNHKの銀河テレビ小説「生きて愛して」で光太郎役を演じられました。当方、この番組は記憶に残っていません。「片岡孝夫」というと「眠狂四郎」のイメージです……。
 
津村節子さんの『智恵子飛ぶ』、その後、平成12年(2000)には講談社文庫に入り、さらに平成17年(2005)から刊行が始まった岩波書店の『津村節子自選作品集』にも収められています。
 
文庫化の際にはハードカバーの内容を一カ所訂正したそうです。時代考証的に事実と合わないところがあったとのこと。
 
その経緯は津村さんのエッセイ「筆を執るまで」(『似ない者夫婦』平成15年=2003河出書房新社所収)に書かれていますが、曰く「小説といえども、あり得ぬことは書きたくない」。すばらしい。
 
津村さん、以前は光太郎忌日の連翹忌の集いにもご参加いただいていましたし、今もこちらから何かお送りするとご丁寧にお礼状を返して下さいます。これもすばらしい。
 
『智恵子飛ぶ』、『似ない者夫婦』、ぜひお読み下さい。

昨日ご紹介したNHKさんの「日曜美術館」、10月6日放送の「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」。現在岡山県井原市の田中美術館さんで開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にからめての内容になります。
 
当方、先月30日、オープニングの日に行って参りましたが、その後どういう状況かと思い調べてみました。
 
まず9月9日付の『中国新聞』さんの記事。

全国の光太郎彫刻115点展示

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念した特別展「彫刻家・高村光太郎展」が、井原市井原町の田中美術館で開かれている。同市出身の彫刻家平櫛田中=ひらくしでんちゅう=(1872~1979年)も高く評価した彫刻作品を並べ、美術家としての足跡に光を当てている。10月20日まで。
 全国の美術館や個人が所蔵する光太郎の木彫や塑像、スケッチなど計115点を並べる。代表作で、仏像の手に着想を得たブロンズ像「手」や、果物の種を宝石のように削り、みずみずしさを表現した木彫「柘榴(ざくろ)」などがある。
 詩集「道程」「智恵子抄」でも知られる光太郎。展示品の中には、妻智恵子が、果物や花を題材に、色紙を切り貼りした「紙絵」43点もある。
 福山市引野町の無職藤井俊昭さん(63)は「光太郎の作品は、細部にこだわる繊細さと、大胆な彫り方が同居していて魅了される。趣味で彫刻をしているので勉強になる」と話していた。
 一般700円、65歳以上350円、高校生以下無料。9月11日、10月9日午後1時半からは、同館でギャラリートークもある。
 9月29日午後1時半からは井原市井原町の市民会館で、学芸員の記念講演会がある。入場無料。同館=電話0866(62)8787。
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続いて9月12日付の『山陽新聞』さん。

彫刻家高村光太郎の背景探る 井原・田中美術館で作品解説

 特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」を開催中の井原市井原町、市立田中美術館で11日、作品解説があった。美術ファンら約50人が生命感あふれる作品が生まれた背景に耳を傾けながらじっくりと鑑賞した。
 最初に青木寛明主任学芸員が、詩集「道程」などで知られる詩人の顔とは違う彫刻家の姿を紹介。妻・智恵子をイメージした「裸婦坐像」は「結婚直後に作られたもので智恵子との安定した生活が如実に感じられる」と説明した。
 ロダンの影響を受けた代表作「手」については「見る向きによって指が細く見える。いろいろな角度から眺めてみて」と呼び掛けた。
 井原市制施行60周年記念展。光太郎の彫刻48点にロダンらの作品を加えた計115点を展示している。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。山陽新聞社など共催。
 作品解説は10月9日午後1時半からも行う。
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11日に行われたギャラリートークの報道です。
 
ギャラリートークは10月9日にも行われる由。それから井原の次に巡回になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館の学芸員・土生和彦氏による記念講演が29日に隣接する市民会館で開催されます。

8d5a5e3c-sそれから、報道ではありませんが、田中美術館の学芸員、青木寛明氏からメールを頂きましたので抜粋します。 

入館者数はまだまだですが、来館者の皆様には好評です。「こんなに良いとは思わなかった」という感想が多々あります。ありがたいことです。先日来館された老婦人は蝉1のご所蔵者に少女の頃、作品を見せてもらったことがあるとのことで、袋があったはずだがと言われ、展示していることを言うと喜ばれていました。
 
こういうエピソードは心が温まりますね。画像は光太郎令甥・髙村規氏の撮影になるものです。

会期、10月20日までです。ぜひ足をお運び下さい。

ae050c75【今日は何の日・光太郎】 9月17日

大正10年(1921)の今日、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン著、光太郎訳『自選日記』が叢文閣から刊行されました。
 
光太郎は彫刻家としてはあまり金が稼げませんでした。一つの彫刻を仕上げるのにも徹底的にこだわりぬいていたためで、父・光雲のように彫って彫って彫りまくるということはできなかったのです。
 
語学に堪能だった光太郎はこうした翻訳も多く手がけています。この頃、翻訳が一番手っ取り早く稼げる手段だったとのことです。
 
他にも有名な『ロダンの言葉』をはじめ、エリザベット・ゴッホ(画家ゴッホの妹)、ヴェルハーレン、ロマン・ロランなどの訳を手がけています。

昭和51年(1976)に放映が始まったNHK Eテレ(旧教育テレビ)さんの「日曜美術館」。美術番組の嚆矢ですね。
 
これまでの放送で光太郎がメインで取り上げられたことはなかったそうですが、10月6日のオンエアでついにそれが実現します。題して「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」。同番組のサイトで予告が出ましたのでお知らせします。
 
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岡山県井原市立田中美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にからめての内容になります。制作はNHK広島放送局です。
 
先月はじめ、田中美術館の次に巡回される愛知県碧南市藤井達吉現代美術館を通し、協力要請がありました。そして広島放送局の担当ディレクター氏に当方事務所兼自宅までお越しいただき、いろいろと打ち合わせを致しました。その後、メール等でやりとりしながらあちらのご質問に答えたり、種々の情報をご提供したりで、現在番組制作中です。田中美術館や東北各地でのロケはもう行われ、北川太一先生の談話も撮られたそうです。
 
光太郎の彫刻家としての歩みに智恵子との関わりをからめ、その歩みの集大成として十和田湖畔の裸婦像にたどり着くという流れでの45分間だそうです。
 
本放送は10月6日(日)9:00~、NHK Eテレにて。再放送は特に何もなければ同じくNHK Eテレにて、1週間後の10月13日(日)20:00~になるはずです。ぜひご覧下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 9月16日011

昭和48年(1973)の今日、兵庫県神戸市の神戸文化ホールが開館しました。外壁に智恵子の紙絵「紫陽花」をあしらった田中岑氏による巨大モザイクが作られました。
 
同時に壁画の下には草野心平筆による光太郎詩「晩餐」の一節、「われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ」を刻んだ碑も設置されました。
 
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 この碑の元になった心平の揮毫は、心平を偲ぶ集い「かえる忌」の会場となっている福島県川内村の小松屋旅館さんに現存します。

追記:どうも工芸による複製のようです。
 

昨日に続き、福島レポートの2回目です。
 
午前中、智恵子の母校・油井小学校での音楽集会を見せていただいた後、安達太良山の麓を通り、岳温泉郷を越え、土湯温泉方面に向かいました。先月29日に全焼した不動湯温泉をの様子をこの目で見るためです。
 
昭和8年、統合失調症の進んだ智恵子の療養のため、光太郎と智恵子は福島・栃木の温泉巡りをし、その際に不動湯にも滞在しました。「二人が宿泊した旅館」というだけなら他にもたくさんあるのですが、不動湯の場合、二人が泊まった部屋が特定でき、さらにそのまま残っていたこと、それからおそらく確認できているものとしては唯一、光太郎が書いた宿帳が残っていたという点で貴重でした。それらが灰燼に帰してしまったわけです。
 
さて、土湯の温泉街からさらに数キロ入った山の中に不動湯温泉がありました。当方、約10年ぶりに現地に立ちました。10年前は自分の運転ではなかったのですが、今回、自分で運転して行ってみて、あらためてとんでもない山の中だというのを再確認しました(そのため消火作業がはかどらなかったそうです)。
 
現地に着き、まず目に飛び込んできたのは、道沿いにあった母屋から離れた車庫でした。
 
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そこから山の斜面を下りていくと、かつて母屋のあった場所につきました。火災から2週間経っていましたが、まだ焦げ臭いにおいが立ちこめていたのには驚きました。
 
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建物は跡形もなく焼け落ち、周りの森の立木まで真っ黒に焼けています。さらに下を見ると、渓流沿いの露天風呂に通じる階段の跡。この階段も不動湯名物の一つでした。
 
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かつて玄関だった辺りだと思いますが、花が供えられていました。従業員の方が一人、亡くなっていますので、そのためでしょう。当方も手を合わせ、ご冥福をお祈りして参りました。
 
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おそらく帳場があった辺りには、燃え残った書籍類や食器などが見て取れました。
 
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例の光太郎が書いた宿帳は燃え残っていないかと探してみました。それより新しいと思われる宿帳―それもほとんど黒焦げの状態でした―は見つかりましたが、光太郎が書いたものは見つかりませんでした。

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迷ったのですが、このままここで土に帰るよりはと思い、見つけた宿帳の切れ端を持って帰ることにしました。「土湯村」の文字が見えるので、これも相当古いものでしょう。保管して不動湯を偲ぶよすがとしたいと思います。
 
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以下、火災から2日後の『福島民報』さんの記事です。

秘湯、消火作業阻む 温泉街から4キロ、険しい道、水利悪く鎮火に7時間

 福島市土湯温泉町の「不動湯温泉 白雲荘」で29日夜に起きた火災は、焼け跡から一人が遺体で見つかる惨事となった。旅館は大正6年創業の老舗で、詩人高村光太郎・智恵子夫妻が宿泊したことで知られる秘湯。険しい山道と水利の悪さが消火作業を阻んだ。「浴衣のまま、はだしで逃げた」。30日に無事が確認された男性宿泊客は福島民報社の取材に対し、出火当時の緊迫した様子を語った。

 土湯温泉街から山道を約4キロ上った先にあった秘湯。一軒宿で周辺は水利が悪い上、狭い道がつづら折れになっていた。大型水槽を備えたタンク車が火災現場まで入れず、消火作業は難航を極めた。
 消防署12隊、消防団12隊の合わせて約120人が駆け付けた。地元消防団員の先導で小さな沢などを探し、土湯温泉街近くまで小型動力ポンプを運び、ホースを何本もつないで中継放水した。
 鎮火したのは、日付が変わった30日午前4時40分。火災発生から約7時間がたっていた。

 県消防保安課によると、昨年6月に福島市消防本部が同旅館に立ち入り検査した際、自動火災報知器や誘導灯、消火器などの安全を確認していた。旅館の延べ床面積は666平方メートルで、消防法で定めるスプリンクラーの設置義務はなかったという。

■無事確認の男性宿泊客 迫る炎、はだしで避難
 30日に無事が確認された神奈川県鎌倉市の男性客(46)は、旅館から着の身着のまま逃げた状況を生々しく振り返った。
 「もう駄目だ、逃げろ」。消火活動をしていた男性従業員の叫び声が響き渡った。出張で福島市を訪れていた男性は29日夕、宿泊の手続きを済ませ、名湯に漬かり、晩酌を楽しんでいた。午後9時半ごろ、「赤い明かりが見える」と切迫した大おかみの声が聞こえた。男性が廊下につながるふすまを開けると、白い煙と真っ赤な炎が辺りを包んでいた。惨事を予感し、浴衣姿のまま、はだしで車に駆け込んだ。
 秘湯を後にし、市内の飲食店駐車場で一夜を明かした。「二度とこんな経験はしたくない」。男性の表情に疲れの色が見えた。
 大おかみの阿部美千子さん(77)は、客の誘導中に旅館内が瞬く間に炎に包まれていくのを目撃した。「どうにもできなかった」と、力なく振り返った。

■老舗旅館惜しむ声 原発事故後も人気「貴重な存在」
 土湯温泉では、東日本大震災で被災し、廃業に追い込まれる旅館もあったが、大正時代に建築された白雲荘の本体は震災に耐えた。
 破損した約80段の外階段を4月から6月にかけて県の補助金で補修したばかり。9月から11月にかけて秘湯と歴史を満喫してもらうモニターツアーを企画し、参加者を募集中だった。おかみが大正時代から続く同旅館の歴史を「語り部」として説明する時間も設けていた。
 土湯温泉観光協会事務局長の池田和也さん(55)は「秘湯と歴史で、全国の温泉通の間で人気が高く、原発事故後も県外からお客を呼べる貴重な存在だった」と惜しんだ。

■智恵子の宿帳、焼失か
 白雲荘には高村光太郎、智恵子夫妻が昭和8年9月に宿泊し、その筆跡が残る宿泊者名簿も焼失したとみられる。
 智恵子の研究を続ける二本松市文化財保護審議会委員の根本豊徳さん(62)は「光太郎と智恵子の最後の旅行の行程を裏付ける貴重な証拠だっただけに、大きな損失だ」と嘆いた。
 
色即是空、諸行無常と申しますが、それにしても……です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月15日

昭和26年(1951)の今日、「創元選書」の一冊として、『高村光太郎詩集』が刊行されました。編集に当たったのは草野心平でした。

昨日は福島二本松方面に行って参りました。2回に分けてレポートします。
 
まずは午前中、智恵子の母校である二本松市立油井小学校さんにお邪魔しました。
 
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3年生以上の児童さんが参加しての音楽集会的な活動で、「智恵子抄」にオリジナルの曲を付けて歌われているモンデンモモさんがご参加なさいました。
 
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約1時間の中で、モモさん作曲の「智恵子抄」をはじめ、いろいろな曲を演奏。ただ歌って聴かせるだけでなく、子供たちと一緒に動きを入れながらだったので、子供たちも飽きることなく参加していました。
 
最後には子供たちが、ご当地ソング・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を演奏しました。
 
油井小学校さん、他にも智恵子の顕彰活動をいろいろとすすめられてきたようで、職員室前の廊下には智恵子コーナーなどもあり、感心させられました。また、敷地内には明治6年(1873)の開校時に植えられた松の木をはじめ、智恵子在学中から植わっている木が3本あったりもします。
 
夜は会場を二本松駅前の二本松市市民交流センターに移し、「福モモプロジェクト・復興支援コンサート」。二本松ロータリークラブさんの主催でした。
 
モモさん以外にも地元の音楽家の方々、トランペット・Nobyさん、メゾソプラノ・紺野由香里さん、ピアノ・本多裕子さんを交えてのコンサートで、こちらも様々に趣向を凝らしたコンサートでした。
 
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最後には会場の皆さんと共に、復興支援ソング「花は咲く」を大合唱しました。
 
モモさんは11月にも福島でいろいろとステージをなさいます。近くなりましたら、またお伝えします。
 

さらに今回共演されたメゾソプラノの紺野由香里さんとトランペットのNobyさんは、明日、二本松安達地区の「智恵子純愛通り記念碑 5周年記念式典」にもご参加なさるそうです。
 
さて、午前中が油井小学校、夜が市民交流センター。午後は何をしていたかと申しますと、先頃ニュースで痛ましい全焼火災が報じられた不動湯温泉に行っておりました。明日はそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月14日017

昭和61年(1986)の今日、山梨県清春白樺美術館で開催されていた「生誕100年記念 高村智恵子紙絵展」が閉幕しました。
 
清春白樺美術館さんは昭和58年(1983)、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった「幻の美術館」を実現させようと作られたものです。
 
同館では現在3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1点「樟」を所蔵しています。

神奈川発の情報を2つご紹介します。
 
まずは昨年の今頃も同じネタを書いたのですが…… 。

お三の宮日枝神社で「例大祭」-市内最大の神輿の巡行も

 「お三の宮」(おさんさま)として市民に親しまれている「日枝神社」(横浜市南区山王町5)の「例大祭」が9月13日~15日の3日間にわたり開催される。(ヨコハマ経済新聞)

 日枝神社は「横浜関外総鎮守」といわれ、寛文年間(1661年~1673年)に、当地では「吉田新田」開墾者として知られる吉田勘兵衛が江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)から分霊してまつったのが創建とされている。

 勘兵衛は摂州能勢郡(現在の大阪府能勢町付近)出身で、江戸へ出て一代で財を成した材木商。「釣鐘型」をした横浜の入海が埋立てに適している点に注目し、幕府の許可を得た後、新田開発事業に着手。地元の村民達の協力のもと、11年余りの歳月と多くの資金を投じて完成させた。この新田開発が後の横浜発展の礎になったとも言われている。

 日枝神社の例大祭は「かながわのまつり五十選」に選ばれている祭事。13日は、13時30分頃から伊勢佐木町1・2丁目で、彫刻家・高村光雲作の火伏神輿(ひぶせみこし)行列。14日には、市内随一の大きさの「千貫神輿(せんがんみこし)」(高さ約3メートル70センチ)が丸一日かけて氏子町内を巡る。最終日の15日には、大小約40基の氏子神輿による神輿パレードを実施。14日と15日には、有隣堂前で和太鼓演奏を行う。

 イセザキ・モール1・2 St.の石田隆さんは「火伏神輿行列は、2005年から行列を再現して今回で9回目。通常、神奈川県立歴史博物館に展示されている高村光雲作の火伏神輿を特別に展示・行列するのでぜひご覧いただければ」と話している。
 
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続いて合唱のコンサートです。  

洋光台男声合唱団 第11回演奏会

9月28日(土) 14:30開演
会場 神奈川県立音楽堂
入場料 1,500円
 
昨日のブログにも書いた作曲家・清水脩の合唱曲「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されます。ただし演奏は客演の常磐ひたちメンネルコールさんのようです。
 
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「芸術の秋」と申しますが、その名の通り、各地でいろいろと光太郎智恵子がらみのイベントがあるようです。
 
 
今日はその1つ(2つ)で、二本松に行って参ります。どちらもモンデンモモさんがらみで、午前中は油井小学校での子供たちとのイベント、夜は二本松交流館でのコンサートです。
 
その他にもネット検索でいろいろひっかかっていま011すので、おいおいご紹介します。
 
主催者の方や情報をお持ちの方、「こういうイベントがあるよ」との情報提供もお待ちしています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月13日

明治43年(1910)の今日、親友の水野葉舟とともに、浅草雷門近くのレストラン「よか楼」で夕食を摂りました。
 
まだ智恵子と出会う前で、この頃は吉原河内楼の娼妓・若太夫に惚れ込んでいました。若太夫との破局の後、明治44年(1911)には、この「よか楼」の女給・お梅に入れあげることになります。

昨日、箏曲奏者の下野戸亜弓さんの新しいアルバム「万葉の恋歌 箏歌〈Koto Uta〉をうたう」をご紹介しました。
 
他にも光太郎がらみの箏曲作品などを収めた音盤、楽譜類がいろいろあるのでご紹介します。

日本の唄 友渕のりえの世界

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平成3年(1991)リリースのCDです。廃盤となっており、入手は困難かと思います。
 
下野戸さんの「万葉の恋歌 箏歌〈Koto Uta〉をうたう」にも収録されている小山清茂作曲「樹下の二人」が収められています。唄と箏は友渕さん。
 
もともとこの曲は昭和50年(1975)、友渕さんにより委嘱されて作られたものです。
 
その楽譜がこちら。

赤土になる妹・樹下の二人

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昭和52年(1977)全音楽譜から刊行。こちらは現在でも入手可能です。
 
 
楽譜、といえば当方、こんなものも入手しました。

坂本勉作曲箏曲楽譜 地上のモナ・リザ

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光太郎の詩「地上のモナ・リザ」に曲を付けたもので、楽譜自体の刊行は昭和54年(1979)。初演は光太郎存命中の昭和30年(1955)に京都で行われたそうです。解説によると、「独唱・合奏からなり、さらに洋楽器を加えた、邦楽的なオーケストラと、合唱のための曲」とのこと。
 
カセットテープも販売されています。
 
この時のプログラム、パンフレット等を探していますが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。
 
先述の「樹下の二人」の楽譜はまがりなりにも五線譜で書かれています(それでも一般的な器楽や声楽の楽譜とはいろいろ異なりますが)ので、判読できます。しかしこちらは箏用の楽譜で、さっぱりわかりません。暗号のようです(笑)。

 
もう一点、別の曲が収められたCDです。

人間国宝 米川敏子 箏の魅力~オリジナル作品編

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題名の通り、人間国宝に認定された箏曲奏者・米川敏子さんのCDです。こちらも廃盤ですが、通販サイトなどでぎりぎり在庫が残っているようです。平成9年(1997)の発行。元はアナログレコードだったものの覆刻のようです。
 
やはり光太郎存命中の昭和28年(1953)に作曲され、その年の芸術祭奨励賞を受けた「千鳥と遊ぶ智恵子」が収められています。演奏は箏高音・米川敏子、十七絃・米川裕枝、ソプラノ・長門美保となっています。

さらにもう一点。

現代箏曲 清水脩作品集

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LPレコードで、発行年は不明です。
 
昭和34年(1959)に作曲された「智恵子抄より」が収められています。箏・松尾恵子、伴奏・ルビーノ・アンサンブル、歌詞ではなく朗読で竹脇無我さんと栗原小巻さん。ラインナップは「人に」「晩餐」「樹下の二人」「狂奔する牛」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」です。復刻版CDが出ているようです。

 
さまざまな方が光太郎智恵子の世界を表現して下さっていて、ありがたいかぎりです。

 
【今日は何の日・光太郎】 9月12日

昭和54年(1979)の今日、『読売新聞』で、千駄木の高村家から光太郎の姉・咲の膨大な画稿と光太郎の臨画5点が発見されたことが報じられました。
 
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光太郎の臨画は全て明治30年(1897)前後のもの。東京美術学校に入学したのが明治30年、数え15歳。その前年には美校の予備課程的な共立美術学館に通っています。その頃に学校の課題として描いたものと推測されますが、少年の作品とは思えない出来ですね。

先月リリースされたCDです。 

万葉の恋歌 箏歌<KotoUta>をうたう

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箏曲奏者・下野戸亜弓さんの新作です。昭和50年(1975)に、作曲家・小山清茂によって作られた光太郎詩「樹下の二人」が収録されています。
 
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下野戸さんは山田流箏・三味線・歌、古典からオリジナルを含めた現代曲までさまざまな曲を演奏されているそうです。特に宮澤賢治の詩に曲を付けたものを多く手がけられているようです。
 
「樹下の二人」は下野戸さんの平成17年(2005)のライヴ録音CD「下野戸亜弓箏曲リサイタル2005」にも収録されており、当方、そちらも持っていますが、今回のものとは別テイクです。
 
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先日のこのブログの「今日は何の日・光太郎」で、戦時中に箏曲奏者の今井慶松が光太郎の「真珠港特別攻撃隊」に曲を付け、演奏した旨書きましたが、光太郎作品が箏曲で取り上げられるケースが意外にたくさんあります。
 
CDや楽譜等も複数販売されており、明日はその辺りをご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月11日

大正3年(1914)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』に、智恵子の詩「無題録」が掲載されました。
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  無題録
 
 いとほしい髪の一すじより
 感情のはげしい瞬刻の閃光まで
 私にとつては宝玉だ
 抜きさしならない玉條だ
 よろこびは朗らかに魂身に燃え
 日輪は大なるひまはり草に祝福す
 いのちは一切の生にとゞまる
 抹殺と添削との卑穢な人間の想像こそは痛ましけれ
 そのアツピアランスの魂こそは痛ましけれ
 われを嘆けば
 あまくいたきアマリリスの赤さ
 直覚をすつるは
 罪悪に値す
 きりぎりす
 すいつちよう
 啼くはわれのみかは
 君ゆゑに
 あひたさゆゑに
 つくづくし
 うらの森にしぐれふる
 青いしぐれ――
 散る木の葉
 
現在確認できている智恵子の唯一の詩です。

福島の現代詩研究会様より、同人誌『現代詩研究』71号をいただきました。
 
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二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」代表の熊谷健一氏が書かれた「智恵子光太郎婚約の地を訪ねて ―智恵子のまち夢くらぶ 第九回研修の旅―」が2ページにわたり掲載されています。
 
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夢くらぶさんでは毎年、光太郎智恵子ゆかりの地への研修旅行を行っており、今年は信州上高地、安曇野へ行かれた由。
 
同人誌の刊行にしても、研修旅行にしても、それから過日ご紹介したモンデンモモさんのように音楽を通しての顕彰活動。こうした地道な取り組みには本当に頭が下がります。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月10日

大正14年(1925)の今日、光太郎の母・わかが大腸カタルのため歿しました。
 
わかは数え68歳でした。昨日は光太郎の姉・咲の命日。今日は母・わかの命日。こういうこともあるんですね。
 
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昨日、奥出雲で歌われたモンデンモモさん情報です。
 
今週金曜日(9/13)、二本松市でコンサートだそうです。 

福モモプロジェクト・復興支援コンサート「音楽と歌で楽しいひとときを!」

2013年9月13日(金)
時間/18:00~20:00 
場所/二本松市市民交流センター 1F 多目的室
入場無料
出演/歌手 モンデンモモ ピアニスト 砂原dolce嘉博 
賛助出演/トランペッタ― 長屋伸浩 メゾソプラノ 紺野由香里  ピアノ 本多裕子
主催 二本松ロータリークラブ お問合せ 090-2270-4460 【高橋】
 
また、この日、午前中には智恵子の母校・二本松市立油井小学校で児童たちとの音楽集会的な活動に参加されるそうです。子供たちは鼓笛隊で二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を演奏するとか。
 
 
それから9/23(月・祝)には外苑前でライヴレコーディング。 

G-MAGIC MOMO 6

2013年9月23日(月・祝)
時間/17:00~
場所/Z.imagine 港区北青山2-7-17 青山鈴越ビルB1F 03-3796-6757

無題2 
光太郎との関わりで宮澤賢治「雨ニモマケズ」、智恵子との関わりで平塚らいてう「元始女性は太陽であった」など、モモワールドがどんどん拡大中のようです。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月9日

明治25年(1892)の今日、光太郎の姉・咲(さく)が肺炎のため歿しました。数え16歳の早逝でした。
 
さくは日本画を狩野派に学び、かなりの力量を持っていたといわれ、光雲にとっては期待の娘、光太郎にとっては自慢の姉でした。
 
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先ほど、出雲から帰って参りました。
 
今日は午前中、シャンソン歌手のモンデンモモさんと、奥出雲町のアマチュア合唱団・コールしゃくなげさんのジョイントコンサートを聴きました。
 
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数年前、当方が合唱編曲した「樹下の二人」(モモさん作曲)が本邦初演(おそらく)。編曲しながらキーボードやパソコンで聴いていましたが、人間の肉声で聴くのは初めてでした。やはり機械ではなく人間の声は温かみが感じられ、いい物だと再認識しました。
 
他にもコールしゃくなげさん、モンデンモモさんともに定番の曲をたくさん演奏して下さったので、心地よいコンサートでした。
 
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出雲は光太郎・智恵子とはおそらく直接の関係はありません。こういう土地でもその魅力を多くの人々に分かっていただきたいもので、その意味では非常にありがたい企画でした。
 
近々、松江でも他の合唱団のみなさんが、「樹下の二人」を演奏される由。午後はその団の方々がご案内してくださり、亀嵩温泉(松本清張の『砂の器』の舞台だそうです)や、弥生時代の銅剣が大量に出土した荒神谷遺跡などを廻り、空港まで送っていただきました。感謝に堪えません。
 
出雲というと縁結びの神様の地。こうして人と人との縁が広がってゆくのだなと実感した2日間でした。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月8日

昭和17年(1942)の今日、『都新聞』に詩「真珠港特別攻撃隊」が掲載されました。
 
この詩はこの年11月、箏曲奏者・今井慶松によって箏曲作品として作曲され、共立講堂で演奏されました。この時のプログラム、パンフレット等を探していますが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

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今朝、千葉の自宅を発ち、島根県は出雲地域に来ています。ローカル線を乗り継ぎ移動中です。

明日、シャンソン歌手・モンデンモモさんと地元のアマチュア合唱団の皆さんによるジョイントコンサートがあり、そちらを聴きに行きます。

プログラムの中に、光太郎の「樹下の二人」にモモさんが曲をつけた歌が含まれています。おそらくは混声四部合唱バージョンで、さらにおそらくは当方が数年前に編曲したものでしょう(そういう仕事もしています)。

今日は出雲大社と県立古代出雲歴史博物館に行って来ました。今年は遷宮があり、TVでも随分取り上げられていているためか、雨にもかかわらず多くの観光客で賑わっていました。博物館では東日本ではあまり見られぬ銅鐸などを興味深く拝見しました。

しかし、ブロンズ彫刻の鋳造と関連づけて見ている自分に苦笑しました。

コンサートについてはまた明日。

【今日は何の日・光太郎】 9月7日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで通いの家政婦さんを雇いました。

新刊です。

東京叙情詩集 I LOVE TOKYO

日本文学館刊行 津守秀祐輝著 文庫判 価格 630 円(税込)

佃島、表参道、聖橋。世界に類を見ない巨大都市にぎっしりと詰まった地名を追っていると、この町がのっぺりした首都機能の所在地ではなく、人々の生活の集合体であることが実感できる。都会人の控えめな郷土愛が光る叙景詩集。(同社サイトより)
 
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「安達太良山の青い空――長沼智恵子に捧ぐ」という詩が載っている他、光太郎と関連のあった土地――千駄木、上野など――、関わった人物――森鷗外、黒田清輝、八木重吉、草野心平など――をモチーフにした作品もあります。
 
版元は日本文学館さん。自費出版系の出版社です。名前が似ていますが、駒場の日本近代文学館とは関係ありません。
 
自費出版系というと、ひところ「S舎」という出版社があり、盛んに書籍を刊行し、日本一の出版点数などと豪語していましたが、販売には全く力を入れず、とにかく出版することで著者から金をふんだくるという商法を展開していました。それが問題となり、訴訟も起こされ、結局つぶれました。他にも同じような出版社がたくさんあり、刊行されるものは玉石混淆――ほとんど「石」――の状態でしたが、最近はどうなのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月6日

昭和26年(1951)の今日、『岩手日報』のために「岩盤に深く立て」という詩を書きました。
 
2日後のサンフランシスコ講和条約調印を題材にした作品です。この時期はメディアも混乱しており、旧仮名遣いと新仮名遣いが混ざっています。
 
  岩盤に深く立て
 
四ツ葉胡瓜の細長いのをとりながら1011
ずゐぶん細長い年月だつたとおもう。
何から何までお情けで生きてきて
物の考へ方さへていねいに教えこまれた。
もういい頃と見こみがついて
一本立ちにさせるという。
仲間入りをさせるという。
その日が来た。
ヤマト民族よ目をさませ。
口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。
オツチヨコチヨイといわれるお前の
その間に合わせを断絶しろ。
その小ずるさを放逐しろ。
世界の大馬鹿者となつて
六等国から静かにやれ。
更生非なり。
まつたく初めて生れるのだ。
ヤマト民族よ深く立て。
地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。
 
写真は花巻郊外太田村山口の山小屋前にあった畑で撮影されたもの。胡瓜ではなくキャベツですが(笑)。

京都からイベント情報です。  

京のみちと街道を知る―道文化を考えるシンポジウム

趣旨
毎日歩いている道路が、どんな道であり路であったのか、知れば知るほど深いお話があります。
人と人をつなぐ大切な道について、まず知ることあら始め、その意義を尊び、建設・維持・管理という不断の努力が支えていること、知らない道を行く旅の意味、また人生の道についての思いを語り、「道文化」の醸成をはかりたいと思います。  

日時など
主催:NPOうるわしのまち・みちづくり 
協賛:社団法人 近畿建設協会  協力:日本国際詩人協会
日 時:平成25年9月27日(金)13:30~16:00(予定)
場 所:ANAクラウンプラザホテル
(旧京都全日空ホテル京都市営地下鉄東西線二条城前下車)
参加費:無料  先着100名で受付終了

プログラム
「わたしの道:高村光太郎の『道程』をめぐって」講師 尾崎まこと氏(詩人)
「京みちと欧米のみち」  講師 宗田好史氏(京都府立大学教授)
「街道の文化・みちの文化」講師  藤本貴也氏 (全国街道交流会議 代表理事)
 
光太郎には「求道者」のイメージがつきまといます。「道」は、時に「道」を踏み外すこともあった光太郎を読み解く一つのキーワードと言えるでしょう。
 
詩では「道程」をはじめ、「さびしきみち」「老耼、道を行く」「詩の道」「最低にして最高の道」「根元の道」「永遠の大道」「われらの道」など、「道」を謳った作品が多く存在します。
 
短歌でも昭和24年(1949)の作で、次のようなものがあります。
 
 吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
 
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光太郎の生き様が端的に表されています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月5日

昭和20年(1945)の今日、8月の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった総合花巻病院の職員表彰式に出席、自作の詩「非常の時」を朗読しました。
 

  非常の時
 
 非常の時012
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。
 非常の時 
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて013
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱き者亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。
 
花巻空襲や職員表彰式については、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。
 
この詩は毎年5月15日に開催される花巻光太郎祭で、ほぼ毎回、花巻高等看護学校の学生さんによって朗読され続けています。

昨日のブログで十和田市の「ろまんヒストリー講座」をご紹介しましたが、来週のテレビ放映で十和田湖が取り上げられます。 

にっぽん原風景紀行 青森県 稲生川に息づく開拓の歴史~青森県・十和田市

BSジャパン 2013年9月9日(月)  21時00分~22時00分  

番組内容
郷愁を誘う原風景…。今回は青森県・十和田市を訪ねる。旅人は、女優・西原亜希。名勝として知られるカルデラ湖“十和田湖"。古くから続くヒメマス漁。十和田湖を水源とし太平洋に注ぐ奥入瀬川…その上流にある名勝“奥入瀬渓流"。新渡戸稲造の祖父による開拓の歴史…江戸時代に作られた奥入瀬川から分かれる人工の川“稲生川"は十和田の農業の生命線。いまも残る稲生川の水が荒れ地にもたらした初田の水田。

出演者 西原亜希  ナレーター 平田満
 
ついでといっては何ですが、明日は宮城女川も扱われます。 

きらり!えん旅~八神純子 宮城・女川町へ~

NHKBSプレミアム 2013年9月5日(木)  19時30分~20時00分
再放送 2013年9月11日(水)  11時00分~11時30分

番組内容
歌手の八神純子さんが宮城県女川町を訪れた。八神さんは米国在住だが震災後たびたび被災地を訪れ支援活動を行ってきた。今回、仮設住宅などで暮らす女性たちの布草履作りの輪に加わったり、トレーラーハウスのホテルを訪ねた後、独特の製法で作られた名産のぎんざけをごちそうになる。旅の終わりに八神さんは「みずいろの雨」などを熱唱した。八神さんは女川のリーダーたちの「最初の勇気ある一歩」に感銘を受けたという。

出演者 八神純子  語り 冨永みーな
 
どちらも光太郎に関わる部分があるかどうか微妙ですが、とりあえず。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月4日

大正元年(1912)の今日、智恵子と過ごした千葉・犬吠埼の旅から帰りました。
 
「智恵子抄」が映画やドラマ、小説、漫画などになった際、一つの山場となる銚子・犬吠埼への旅。お互いに惹かれ合いながらも、光太郎は自分の生活力のなさなどが原因でふんぎりがつきません。智恵子は智恵子で郷里に縁談が持ち上がっていました。
 
光太郎は8月に犬吠埼に写生旅行に出かけ、暁鶏館(ぎょうけいかん)という宿に滞在します。智恵子は遅れて妹・セキ、それから日本女子大学校英文科に学んだ友人・藤井勇(ゆう)を伴って犬吠を訪れ、御風館(ごふうかん)という別の旅館に宿をとります。これを偶然とする説もありますが、智恵子が光太郎を追っていったというのが真相でしょう。
 
その後、セキと藤井は先に帰京、智恵子は光太郎と同じ暁鶏館に移ります。なかなか大胆です。
 
そして光太郎が帰京したのが9月4日。従来、この旅の細かな日程がわかっていませんが、数年前に見つけた編集者の前田晁に送った5日付の絵葉書に「昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました」とあることから帰京の日は判明しました。
 
それ以外に光太郎がいつから犬吠に滞在していたのか(同じ前田宛の別の絵葉書では8月31日付で「ふいと出てきたので又出直さうとおもつてます」とあり、8月も下旬だったとだけは言えそうです)、智恵子が追いかけていった日はいつなのか、セキと藤井が先に帰ったのはいつか、智恵子は光太郎と一緒に帰京したのか、などなど、わからないことだらけです。
 
いずれまたこの件に関しては詳しく書くつもりです。

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暁鶏館

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暁鶏館から見た犬吠埼灯台

先月のブログでご紹介した青森・十和田湖での「ろまんヒストリー講座」、第一回の模様が報道されています。

建立60周年「乙女の像」 誕生秘話など紹介

 十和田市の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)は8月29日、市視聴覚センターで「ろまんヒストリー講座」を開き、元青森県近代文学館室長で、市教育長の米田省三さん(64)が「乙女の像誕生秘話」と題し、像の作者高村光太郎の人生を紹介した。
 講座は、十和田湖の魅力に導かれて建立された乙女の像60周年を機に、あらためて歴史を振り返ろうと、同会が進めている「ろまんヒストリー発信事業」の一環。約60人が興味深く聞き入った。
(『デーリー東北新聞』 2013.9.2)
 
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主催する「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトにも紹介されています。

 
今月末には第2回の講座があるとのことです。
 
9月26日(木) 19:00〜
十和田市視聴覚センターAV研修室
講師 川口浩一(ATV青森テレビアナウンサー)
入場無料
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月3日
 
明治37年(1904)の今日、智恵子の妹・チヨが誕生しました

生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開催中の田中美術館がある岡山県井原市。光雲の高弟だった平櫛田中の故郷ということで、街のあちこちに田中の彫刻が配されています。
 
特に田中美術館にほど近い「田中苑」という公園には、たくさんの田中作品、田中の筆跡を刻んだ碑などがあります。また、田中美術館ロビーにも。
 
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「鏡獅子」
 
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田中筆跡
 
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 左:「岡倉天心胸像」  右:「西山公」
 
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左:田中筆跡  右:「鏡獅子」石膏原型
 
他にも市立図書館や福祉センター前にも田中の彫刻、それから町中至る所で現代作家やロダンの野外彫刻が観られます。
  
「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」と併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月2日

昭和20年(1945)の今日、宮澤賢治の会主催の「高村先生からお聞きする会」で「美しく懐かしき国、日本」と題して講話を行いました。

岡山県井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。共催に入って下さっている『山陽新聞』さんで報道されました。 

井原で高村光太郎展が開幕 生命感あふれる彫刻ずらり

 井原市立田中美術館(同市井原町)で30日、特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」(同美術館主催、山陽新聞社など共催)が開幕。生涯にわたって制作を続けた彫刻作品を通して、詩集「道程」「智恵子抄」などで知られる詩人の顔とは違った芸術家の姿を紹介している。
 光太郎は、木彫家の父・光雲に幼少から彫刻を学び英仏など海外にも留学、創作に励んだ。同展は現存するほぼ全てという48点を核に、同時代の彫刻家の作品や妻・智恵子の美しい切り絵など計115点を展示している。
 会場には、西洋的なモチーフと仏教の印を融合した代表作「手」や、人物の内面までとらえた胸像、動植物の木彫などがずらり。傾倒したロダンや、親交のあった荻原守衛らの彫像も並び、入場者らは作風を見比べながら堪能していた。
 井原市制施行60周年記念展。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。


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井原は他にもいろいろと見所があります。明日はその辺りを書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月1日

大正12年(1923)の今日、関東大震災に遭いました。
 
この日、智恵子は福島に帰省中で難を逃れました。光太郎はアトリエで彫刻制作中でしたが、幸い駒込林町のアトリエは無事。その後、被災者のためにアトリエを開放したり、智恵子の実家から製品の日本酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めたりしました。

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