2013年08月

昨日、岡山県は井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開会式に行って参りました。
 
6月から8月20日にかけての千葉展に続いての巡回開催です。田中美術館は光雲の高弟だった平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の個人美術館として昭和44年に開館したものです。井原市は田中の故郷です。
 
午前10時から隣接する井原市民会館で開会式、市長や議員さんの挨拶の後、美術館に移動してテープカットが行われました。
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井原市のゆるキャラ、「でんちゅうくん」も駆けつけました。平櫛田中作の彩色木彫「鏡獅子」をモチーフにしています。

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その後は展覧会を観ました。
 
出品されているのは千葉展とほぼ同一ですが、いろいろ違いもあります。
 
まず木彫「鯰」。千葉では1点だけでしたが、こちらでは2点並んでいます。
 
それから千葉では2点のみ展示されていた木彫を包む袱紗(ふくさ)。光太郎が自作の短歌をしるしているものですが、こちらでは「蓮根」や「鯰」のものなど、多数出品されています。
 
また、田中美術館がもともと所蔵していた光太郎から田中にあてた書簡も3通並んでいます。このうち1通、留学先のパリから送られたものは未発表のもの。来春刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。
 
そして田中の作品の数々も観られます。光雲の系譜を引きつつも独自の世界に達した見事なものです。
 
逆にスペースの関係で智恵子の紙絵は千葉より少ない展示ですが、それでも43点並んでいます。
 
千葉展の際にも書きましたが、光太郎智恵子に関し、これだけの規模の展覧会はめったにありません。特に西日本では久しぶりの開催です。ぜひ多くの方に観ていただきたいものです。
 

【今日は何の日・光太郎】 8月31日007

昭和35年(1960)の今日、龍星閣から『光太郎智恵子』が刊行されました。
 
光太郎智恵子の詩文、書簡のうち、お互いに関するものをピックアップして一冊にまとめたものです。
 
昭和43年(1968)には増補版も刊行されています。
 
一昨日の火災で全焼した福島の不動湯温泉から、光太郎智恵子連名で、智恵子の母・センに送った葉書も収録されています。日付は昭和8年(1933)9月2日。この葉書は現在、二本松の智恵子記念館に展示されています。
 
青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。もう二三日ここにゐるつもりでゐます 九月二日
 
不動湯さんは本当に残念でした。
 
当方のコメントがNHK福島さんで流れ、ネットにも載りました。
光太郎智恵子が泊まった部屋や自筆の宿帳が焼けたのは残念ですが、それ以上に亡くなった方がいらっしゃるというのに心が痛みます。

井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の開会式が行われ、そちらに出席、先ほど、帰って参りました。そちらのレポートは明日以降書きます。
 
開会式が終わり、展示を観て、コインロッカーから荷物を出し、携帯を見ると、花巻の高村記念会様から着信が入っていました。折り返し電話してみると、「不動湯温泉が全焼したのをご存じですか?」とのこと。
 
実は開会式の後で、参加されていた方の一人が「そういえばニュースで光太郎ゆかりの旅館で火事だったそうですよ」とおっしゃっていて、「まさか不動湯じゃないだろうな」と思っていました。他の旅館ならいい、というわけではありませんが……。
 

旅館火災、2人不明 高村光太郎夫妻も宿泊の老舗 福島

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 29日午後9時半ごろ、福島市土湯温泉町大笹の老舗旅館「不動湯温泉」で火災があり、旅館がほぼ全焼した。市消防本部によると、宿泊客や旅館の従業員ら計9人のうち7人の無事が確認されたが、男性客と旅館関係者の女性で、いずれも50代の2人の行方が分からなくなっているという。
 旅館のホームページによると1917(大正6)年創業で、宿泊者名簿には療養のため訪れたとみられる詩人の高村光太郎、智恵子夫妻の名前も残る。大正時代に建築されたという旧館も焼失したという。
 土湯温泉街から山道を約4キロ入った、秘湯として知られる一軒宿。
(『朝日新聞』)
 
 その後、NHK福島放送局さんからも携帯に電話が入り、不動湯温泉と光太郎智恵子について質問されましたのでお答えしましたが、できればこのような報道に対してではなければ……との思いでした。
 
 結局、夕方の続報では、従業員とみられる方、一人の死亡が確認されたとのこと。謹んでご冥福をお祈りいたします。 

福島「不動湯温泉」火災で1遺体が見つかる

 29日午後9時30分ごろ、福島市土湯温泉町、不動湯温泉「白雲荘」=阿部久雄社長(80)=から出火、温泉旅館の木造2階、地下1階建て本館と棟続きの旧館約667平方メートル、隣接する木造平屋の物置約33平方メートルを全焼した。市消防本部によると、出火当時、旅館には宿泊客、従業員合わせて9人がいたが、焼け跡から1人の遺体が見つかった。所在が分からない従業員の50代女性とみられる。8人は逃げて無事だった。
 その後の調べで、阿部社長がけがを負っていたことが分かった。
(『福島民友新聞』)
 
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(『テレビ朝日』)
 
【今日は何の日・光太郎】 8月30日008

昭和40年(1965)の今日、社会思想社から現代教養文庫の一冊として『紙絵と詩 智恵子抄』が刊行されました。
 
不動湯を訪れた直後に回った裏磐梯での作、「山麓の二人」も含みます。

最近、新刊書店で「現代教養文庫」を見かけないな、と思って調べてみましたところ、平成14年(2002)に同社は事業停止だそうでした。なかなか硬派の出版社が生き残れない時代なのですね……。

「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。千葉市美術館での千葉展は好評のうちに幕を閉じ、明日から岡山県井原市の田中美術館(でんちゅうびじゅつかん)さんに会場を移して開催されます。
 
 
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井原市制施行60周年記念 田中美術館秋季特別展 「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」

会期 平成25(2013)年8月30日(金)~10月20日(日)  8月30日は開会式のため、10時30分より開館
 
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 
休館日 月曜日
 ただし、9月16日、9月23日、10月14日は開館、9月17日、9月24日、10月15日は休館
 ※8月24日(土)~8月29日(木)は、展示替えのため休館
 
主催 井原市立田中美術館
 
共催 NHKプラネット中国、山陽新聞社
 
企画協力 NHKプラネット中部
 
入館料 •一般:700円(560円)•65歳以上:350円(280円) •高校生以下 無料 ※( )内は有料団体20名以上の料金
            
(問)井原市立田中美術館(℡0866-62-8787)         
〒715-8601 岡山県井原市井原町315 井原市立田中美術館
         
記念講演会
日 時:平成25年9月29日(日) 13時30分~15時         
講 師:土生 和彦 氏 (碧南市藤井達吉現代美術館 学芸員)         
会 場:井原市民会館 鏡獅子の間         
演 題:木彫家・高村光太郎         
入場料:無料         

概要
髙村光太郎(1883-1956)は江戸末期から明治期に活躍した木彫家・高村光雲(1852-1934)の長男として東京・下谷に生まれ、幼い頃より後継者としての修練を与えられました。父から江戸時代そのままの指導方法によって木彫の基礎を学んだ光太郎は東京美術学校で木彫の他に塑造を学び、卒業後アメリカそしてフランスに留学します。
帰国後の光太郎の活動は、彫刻よりも文筆活動によって広く知られるようになります。日本最初のポスト印象派宣言とも、あるいはフォーヴィズムの先駆とも評される「緑色の太陽」(1910)に代表される評論、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)などの詩業、そして『ロダンの言葉』(1916)といった翻訳は、芸術家である彼の存在を印象付けました。
その一方で光太郎は、彫刻の制作とその発表については慎重であり続けました。残念なことに1945年の空襲によって彼のアトリエは被災し、多くの彫刻作品が失われ、彫刻家としてのあゆみは全体像が見えにくいものとなってしまいました。そして、疎開による環境の変化は、彫刻を制作する機会の妨げとなりました。
最晩年、光太郎は自ら「私は今でも自分を彫刻家だと思つているし、私の彫刻の仕事をかえり見て、それが詩の仕事に及ばないとは思わない。また、明治以來の日本の彫刻の中で自分の彫刻がどういう役割を果たしているかも知つている。そしてまだ相當の可能性を保持していることも信じている」(「自傳」)と記しました。彫刻家の歿後、戦災を免れた作品によって直ちに遺作展が開催され、今日に至るまで数多くの展覧会で彼の彫刻は近代日本を代表する作品として取り上げられています。
生誕130年の節目を迎えて開催される今回の展覧会では、光太郎の原点ともいえる木彫作品をはじめ、彼が参照したロダン(1840-1917)や同時代の佐藤朝山(1888-1963)、中原悌二郎(1888-1921)などによる作品と妻・智恵子(1886-1938)が制作した紙絵をあわせて展示します。本展が光太郎の彫刻作品を見直す契機となると共に、今日活発化している近代日本彫刻をめぐる研究への一助なとなることを願います。

出品作品
•高村光太郎作品(彫刻)48点、(スケッチブック)2冊、(クロッキー帳)1冊 
•高村智恵子作品(紙絵)43点
•光太郎周辺の彫刻家たち:ロダン3点、ブールデル1点、マイヨール1点、
 高村光雲1点、荻原守衛2点、毛利教武1点、佐藤朝山7点、中原悌二郎2点
•その他:土門拳撮影光太郎彫刻写真1点、デスハンド1点、
 高村光雲愛用で光太郎が受け継いだ彫刻刀1揃 
 
特に西日本在住の皆様、ぜひ足をお運び下さい。
 
当方、今夜から夜行高速バス、新幹線を乗り継いで岡山入りし、明日の開会式に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月29日

昭和62年(1987)の今日、愛媛松山いよてつそごうで開催されていた「高村光太郎と智恵子の世界」展の関連行事として、愛媛松山子規記念館を会場に、北川太一先生が記念講演をされました。
 
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9/1追記 不動湯温泉全焼のため、当該番組は内容差し替えとなりました。
 
つい先日、昭和8年(1933)に光太郎・智恵子が立ち寄った福島の不動湯温泉をこのブログで紹介しましたが、タイムリーなことにテレビで放映されます  

湯のまち放浪記「福島県~天空の秘湯をめぐる 土湯温泉、ぬる湯温泉、高湯温泉」

BS-TBS 2013年9月3日(火)  22時00分~22時54分
 
番組内容
今宵の放浪は、福島県土湯温泉、ぬる湯温泉、高湯温泉。高村光太郎と智恵子が立ち寄ったという秘湯や、ビックリするくらいぬるい「ぬる湯温泉」に宿泊したりと、智恵子の云う「ほんとうの空」のもと、ゆったりと温泉を楽しみます。

出演者 温泉バガボンド 清水国明 湯のまちパートナー 矢野直美

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今も残る光太郎智恵子の泊まった部屋、光太郎直筆の宿帳などが映るといいのですが……。ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎】 8月28日

大正4年(1915)の今日、光雲が農商務省より第三回図案及応用作品展覧会審査委員を嘱託されました。

東京日野市での市民講座的なものの案内をネットで見つけました。
 
主催は公益財団法人社会教育協会さんです。 

こんなに面白い 近代文学入門コース 宮沢賢治と昭和の作家たち

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2013年秋季 宮沢賢治と昭和の作家たち
2013年 9/26 10/10・24 11/14・28 12/12 (全6回)
第②・④木曜日 10:00~12:00
講 師 青木登(紀行作家)
場 所 公益財団法人社会教育協会ゆうりか 日野市多摩平1-2-26 シンデレラビル
参加費 10,710円 教材費1,200円別途
 
宮沢賢治 は明29年、岩手県花巻市に生まれ、岩手県に理想郷ドリームランド・イーハトヴを建設しようとた。しかし、冷害や旱魃に見まわれ、世界恐慌に直面して挫折し、傷つき倒れた。
しかし賢治が夢みた理想の世界は賢治が残した童話や詩によって、私たちの胸に生き、限りない感動を与える。
取り上げる童話は、「どんぐりと山猫」「注文の多い料理 料理店」「なめとこ山の熊」「雪渡り」「セロ弾きゴーシュ」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「おきなぐさ」「よだかの星」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」。
詩集「春と修羅」から妹の死を悲しんで詠んだ「無声慟哭」三部作、「岩手山」「小岩井農場」「岩手軽便鉄道」「雨ニモマケズ」「もうはたらくな」「原体剣舞連」。
 
賢治の生前に賢治の作品を評価した著名人の高村光太郎。光太郎は昭和20年に賢治の弟宮沢清六の招きで花巻に疎開し、花巻郊外の山小屋で農耕自炊生活をした。高村光太郎から取り上げる作品は、「智恵子抄」「典型」「智恵子抄その後」。
 
申し込み等は以下のリンクを参照して下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月27日

明治42年(1909)の今日、上州磯部温泉、赤城山などへの旅から帰京しました。
 
この年7月には3年半にわたる欧米留学から帰国しています。赤城山は光太郎が自分の中の日本の原風景と位置づけていたようで、留学前から何度も訪れ、そして帰国早々また訪れています。
 
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昨日の新聞から。
 
まずは『日本経済新聞』さんです。
 
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1面のコラム、「春秋」欄。光太郎がメインではありませんが、光太郎ともつながりのあった詩人・八木重吉にからめ、光太郎の名が出ています。
 
千葉県北東部、今朝は快晴です。気温も涼しく、文中にあるとおり「秋」の様相です。
 
続いて『朝日新聞』さん。
 
読書面に8/1のこのブログでご紹介した森まゆみさんの『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』の評が載りました。
 
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いずれもネットで閲覧可能です。ただし会員登録が必要ですが。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月26日

昭和11年(1936)の今日、亡母・わか(通称とよ)を追憶する随筆「揺籃の歌」を書きました。
 
この「揺籃の歌」、光太郎の随筆集『某月某日』に収められていますが、それ以前に雑誌等に発表されていると考えられます。しかし、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。

たびたびこのブログにご登場いただいているシャンソン歌手のモンデンモモさん。
 
社会教育的な活動にもご関心がおありで、各地で市民ミュージカル等のご指導に当たられています。
 
島根県の出雲地域でもそうした活動をされているとのことですが、さらに活動の輪が広がり、地元のアマチュア合唱団「コールしゃくなげ」さんとジョイントコンサートをなさる由。

モンデンモモ&しゃくなげふれあいコンサート

日時:9月8日(日) 10:00開演
会場:カルチャープラザ仁多 島根県仁多郡奥出雲町三成436
入場無料
 
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モモさん作曲で、光太郎の詩にメロディーを付けた「樹下の二人」を演奏されるとのこと。いつも同じようなことを書いていますが、こうした草の根的な活動で、光太郎智恵子の世界がどんどん広まっていってほしいものです。
 
昨日、今日と、島根は記録的豪雨に見舞われたとのことですが、被害の少ないことをお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月25日

明治42年(1909)の今日、福島安達の長沼家が本籍地を油井村漆原町21番地に移しました。
 
造り酒屋だった長沼家はこの頃が絶頂期。周辺の地所を買って敷地を広げたための措置と思われます。

【今日は何の日・光太郎】 8月24日

昭和8年(1933)の今日、智恵子とともに、東北・北関東の温泉巡りの旅に出ました。
 
同じ年の昨日、入籍を果たした光太郎と智恵子。進行する智恵子の統合失調症を恢復させようと、智恵子の故郷、安達(現・二本松市)にある長沼家菩提寺満福寺に墓参、その後、川上温泉、青根温泉、土湯温泉不動湯、塩原温泉などを巡り歩きました。また、その途中に通った裏磐梯での体験を元に作ったのが、「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な詩、「山麓の二人」です。
 
結局、翌月に東京に帰った時には、智恵子の症状はさらに進行していました。
 
さて、その福島土湯温泉からタイムリーなニュースです。 

歴史ある秘湯楽しんで 土湯温泉でモニターツアー

福島民報 8月23日(金)9時50分配信
 
 福島県の土湯温泉観光まちづくり協議会は東日本大震災からの復興事業の一環として「土湯秘湯と大正の宿ロマンモニターツアー」を9月から11月までの週末を中心に実施する。
 日帰りと1泊2日の2コースを用意。大正6年創業の老舗旅館・不動湯温泉で温泉を楽しみ、高村光太郎、智恵子夫妻も宿泊したという長い歴史を誇る同旅館や土湯温泉についての話を聞く。さらに、ガイド付きで土湯温泉の源泉を訪れ、噴気や、バイナリー発電計画地を見学する。

 料金は日帰りコースが大人2000円(最低催行人員5人)、1泊2日コースが大人1万1000円(同1人)。申し込みは開催日の10日前まで。問い合わせは同協議会 電話024(595)2217へ。
 
 
不動湯さんは、土湯温泉の中心街から山深く入っていった所にある一件宿です。まさに「秘湯」の名にふさわしい場所です。
 
光太郎智恵子が訪れた当時の部屋が残り、さらに光太郎が書いた宿帳も奇跡的に保存されています。

追記・平成25年(2013)8月の火災で、建物、宿帳とも焼失しました。その後、焼け残った露天風呂を使って日帰り温泉施設としてリニューアルオープンしました。
 
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温泉大好きの皆さん、いかがでしょうか?

先日のブログでふれた光雲の高弟・米原雲海がらみの情報です。『北日本新聞』さんの記事から。  

「清宵」高岡に“里帰り” 光雲弟子・米原雲海の木彫像

 高岡市の美術品収集家、荒俣勝行さん(70)が所有し、3月まで国登録美術品として東京国立近代美術館に預けられていた木彫像「清宵(せいしょう)」が高岡に“里帰り”し、24、25の両日、同市で行われる「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」(北日本新聞社後援)で展示される。高村光雲の高弟、米原雲海(1869-1925年)が1907年に制作し、東京と西欧で高く評価された作品で、荒俣さんは「優しい表情が何よりの魅力。多くの人に見てもらいたい」と話している。

 国登録美術品制度は、優れた価値を持つ作品に、美術館で広く公開の機会を設けるために国が実施している。登録されると、文化庁の推奨する全国の美術館で展示される。

 「清宵」は稚児天神像で、東京勧業博覧会で1等、日英博覧会で金賞となった雲海の出世作。文化庁の調査員は「どの方向から見ても欠点がない」と評価した。雲海は岡倉天心の教えを受けており、美術史上の価値も高いという。

 荒俣さんは2001年に県内の古物商から入手した。文化庁による鑑定を受け、翌年、国登録美術品に選ばれた。島根県立美術館に5年、その後、東京都国立近代美術館に5年預けたが、「手元に置き、県内で公開したい」との思いからことし3月に登録を取りやめ、作品を引き取った。

 土蔵造りフェスタでは、同市木舟町の国重要文化財「菅野家」に展示し、24日は午後1時から、25日は午前11時から見学できる。「清宵」のみ、両日とも午後6時まで。入場には菅野家の観覧料が必要。
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「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」は高岡市で恒例のイベントだそうです。土蔵造りの街並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている山町筋(やまちょうすじ)で「土蔵の家で所蔵のお宝展示」などが行われるとのこと。その一環として雲海の木彫が観られるようです。
 
高岡というと高岡銅器が有名で、彫刻と因縁浅からぬ土地柄、そういうつながりもあるのでしょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月23日

昭和8年(1933)の今日、光太郎・智恵子、正式に入籍しました。
 
二人が結婚披露宴を行ったのは大正3年(1914)暮。それ以来、世間の習慣に束縛されたくないということで、事実婚の状態でした。フランスでは事実婚は今も珍しくないそうで、光太郎の敬愛していたロダンとローズ・ブーレもそうでした。
 
日本でも智恵子と縁の深い平塚らいてうと奥村博なども大正元年(1912)から昭和16年(1941)まで事実婚状態でした。らいてうは長男の兵役に際し、「私生児」として不利益を被らないようにと入籍を決意したそうです。
 
光太郎の場合は、智恵子の統合失調症が関係しています。自分に万一のことがあった場合の財産分与などを考えてということだったそうです。

宮城・女川から2件ニュースが入っています。
 
まず『日本経済新聞』さんから。 

津波の記憶を石碑に 宮城・女川町の中学生、福岡で募金

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生たちが「1000年後の命を守ろう」と、町内の津波到達点21カ所に津波の恐ろしさを伝える石碑を建てる計画を進めている。必要な資金約1000万円は、一口100円の募金で広く集める。地元だけでなく、作文コンクールへの応募が縁でつながりができた福岡市など各地を訪れ、協力を呼びかけている。
 
 「女川町では津波でたくさんの命が失われました」。7月下旬の日曜日。買い物客が行き交う福岡市天神で、女川町立女川中学3年の阿部由季さんがマイクを握った。「1人でも多くの命を守るため、石碑を建てようと考えています」。同級生の神田七海さんも「ご協力をお願いします」と声を張り上げた。
 
 女川町はリアス式海岸の入り江に面し、津波が陸地を駆け上がった高さ(遡上高)は最高43メートルに達したとされる。家屋の約8割が流失し、人口約1万人のうち約8%が死亡・行方不明になった。
 
 震災の翌月に再開した女川第1中学校(現在は女川中学校に統合)に入学した阿部さんらは、社会科の授業で防災について話し合った。自分たちで考えた対策の1つが「いのちの石碑」で震災の記録を残し、次の世代に伝えることだった。
 
 計画では、町内に21カ所ある浜の津波到達地点に、高さ2メートル、横幅1.3メートルの石碑を1基ずつ建てる。碑には生徒の「夢だけは 壊せなかった 大震災」との句を刻む。高台への避難路も整備。水や食料も備蓄して避難訓練を毎年行うという。
 
 賛同した県内の業者が石材を寄贈したが、加工・設置には1基当たり約45万円、計約1000万円が必要。そこで、かつて女川町の住民が100円ずつ集めて海岸に高村光太郎の歌碑を建てたことに倣い、「100円募金」の開始を決めた。
 
 福岡での募金活動の契機になったのが、阪神大震災を機に設立された「夢みるこども基金」(福岡市中央区)の作文コンクール。「私のかなえたい夢」をテーマに「保育士になって震災をこどもたちに伝えたい。震災に遭って夢が増えました」とつづった阿部さんが最優秀賞に輝いた。神田さんも優秀賞だった。
 
 これが縁で同基金が今夏、2人を福岡市に招き、入賞した他の小中学生と一緒に募金活動をした。基金の古市悟事務局長は「子供たちが復興の中心になることに共感した。支援の輪が広がってほしい」とエールを送る。
 
 石碑は成人式を迎えるまでに完成させる計画。神田さんは「福岡でもみんなが協力してくれた。この気持ちを大切に活動を続けたい」と話す。すでに地元や、修学旅行先の東京でも街頭に立った。募金は銀行振り込みでも受け付ける。詳細は「いのちの石碑プロジェクト」のホームページ。
 
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平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいていることを感じました。
 
もう一件、8月9日に行われた「女川光太郎祭」の報道です。『石巻かほく』さんから。 

仮設商店街で「光太郎祭」 詩を朗読 作品に、古里思う 女川

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第22回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であり、約70人の住民らが参加した。

 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表(千葉県香取市)が「高村光太郎、その生の軌跡」と題して講演。「どんなに偉大な人でも伝えなければ、忘れ去られてしまう。光太郎の思いを女川の地で後々まで語り継ぐ活動をしてほしい」と呼び掛けた。

 献花した後、小学生ら7人が光太郎の詩を朗読した。文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が「観自在こそ-光太郎の底を貫く東方の信仰」をテーマに講話した。

 東日本大震災で女川町は壊滅的な被害を受けた。参加者は光太郎の作品に震災前の豊かな自然と風景を思い浮かべながら復興に向けて進むことを誓った。

 女川のことを記した紀行文や詩を題材にした光太郎の文学碑は1991年、女川港に建てられた。光太郎祭はその翌年から、三陸の旅に出発した8月9日に合わせて開催している。震災で三つあった文学碑のうち二つは倒壊し、一つは行方不明になっている。

 
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地方紙ですと、緊急性のないイベント報告等はかなりあとになって報道されるケースがあり、この記事も最近出ました。
 
当方についても記述がありますが、一番言いたかったことをズバリ書いて下さっており、感謝いたします。
 
とにかく女川をはじめ、被災地の元気を1日も早く取り戻してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月22日

昭和21年(1946)の今日、総合花巻病院長・佐藤隆房の夫人・雪江にあてた書簡に俳句「秋晴れて林檎一萬枝にあり」をしたためました。
 
気がつけば8月も下旬、東北ではそろそろ林檎も色づいていることでしょう。

テレビ東京系にて昨日オンエアの「開運!なんでも鑑定団」。
 
新聞の番組欄では「高村光雲に意見する天才弟子!入魂の傑作に仰天鑑定!」とのことだったので、観てみました。
 
依頼人は川越市在住のご婦人。亡くなったご主人は島根県安来市のご出身で、近所に光雲の高弟・米原雲海が住んでおり、雲海にもらったと伝えられる木彫の鑑定依頼でした。
 
鑑定に入る前の解説的な映像では、雲海だけでなく光雲についても詳しくふれ、よく作ってあるな、と感心しました。
 
雲海についてはこのブログでも以前に書いたことがあります。
 
ところが鑑定の結果、雲海の作ではなく、雲海の弟子の木山青鳥という彫刻家の作品でした(銘も入っていました)。
  
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若干、拍子ぬけというか、羊頭狗肉の感は否めませんでした。それでも80万円と、そこそこの鑑定金額ではありました。
 
木山青鳥という彫刻家については当方、全く存じませんでしたが、雲海の弟子であれば、光雲の孫弟子ということになるわけですね。ちなみに雲海は養子に入って米原姓になる前は木山姓で、青鳥は甥だそうです。
 
光雲の弟子は、光雲自身の書いたものなどでその系譜は分かっていますが、孫弟子ともなるとなかなかすぐには名前が出てきません。先日のブログでご紹介した宮城石巻の高橋英吉も、光雲の弟子・関野聖雲に師事していますから、孫弟子になります。
 
そのあたりの系譜についても、少し調べてみようかな、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月21日

昭和29年(1954)の今日、3ヶ月ぶりに入浴しました。
 
最晩年、中野のアトリエ時代の話ですが、日記に記述があります。
 
光太郎、温泉は大好きでしたが、入浴自体はあまり好まなかったようで、普段は行水程度で済ませていたようです。花巻郊外太田村山口の山小屋時代も、村人が厚意で立派な風呂桶を作ってくれましたが、水を汲んだり沸かしたりが面倒で、また自分一人でもったいない、という感覚もあり、あまり利用しませんでした。

テレビ放映情報です。 

きらり!えん旅~日野美歌 福島・二本松市

NHKBSプレミアム 2013年8月22日(木)  19時30分~20時00分

歌手・日野美歌さんが福島県二本松市を訪れ、リンゴ農家が震災後初めて取り組んだリンゴ酒、44回目のロードレース大会、仮設工房で復活した隣町浪江町の焼物を楽しんだ。

番組内容
歌手・日野美歌さんが福島県二本松市を訪れた。震災後ほとんど売れずに廃棄していたリンゴを生かせないかと農家が挑戦した発泡リンゴ酒を味わう。7月7日、44回目のロードレース大会が開かれた。地元の果物などが並ぶ給水所が参加者に人気。隣町浪江町からの避難者たちが仮設の工房で復活させた大堀相馬焼を楽しむ。旅の最後に日野美歌さんはコンサートを開き、被災者を思い自ら作詞した「桜空」などを心を込めて熱唱した。

出演 日野美歌
語り 冨永みーな


この番組は震災の復興支援のため、東北を中心に被災地からいろいろと情報が発信されています。昨年は同じ二本松を由紀さおりさんが訪れ、智恵子生家の裏山にある光太郎詩碑の丘でロケが行われ、地元の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷氏がご出演されました。
 
今回は智恵子がらみのネタがあるかどうかわかりませんが、番組の最後で流れる日野さんのコンサートで流れる「桜空」。「歌凛」のペンネームで日野さん自身が作詞された曲です。動画サイトで聴いてみましたが、「さよなら告げず 空の彼方あなたは帰らない」など、ぐっとくる歌詞のてんこ盛りです。福島で「空」といえば智恵子の愛した「ほんとの空」。そのあたりで智恵子がらみの話になることを期待します。
 
ちなみに「きらりえん旅!」、9月5日のオンエアは、八神純子さんで女川です。
 
もう一点、今日8月20日オンエアのテレビ東京系、「開運!なんでも鑑定団」。新聞の番組欄はこうなっていました。
 
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同番組の公式サイトで予告動画を見ると、詳しくは出ませんでしたが、どうやら光雲、またはの弟子の誰かの作品が出るようです。
 
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【今日は何の日・光太郎】 8月20日

昭和16年(1941)の今日、龍星閣から詩集『智恵子抄』が刊行されました。
 
その後、現代までに様々な版が出版されましたが、オリジナルの『智恵子抄』が出たのが72年前の今日です。 
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秋田からニュースが入りました。地元紙『秋田魁新報』さんの報道で、8/15のブログでご紹介しました詩「一億の号泣」に関してです。
 
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少し前に花巻の記念会から情報は得ていましたが、いいタイミングで発表されたと思います。
 
まだまだ日本各地、特に光太郎が足かけ8年暮らした東北にはこういうものが眠っている可能性があります。「うちにもこういうものがある」という方、情報をお寄せいただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月19日

明治32年(1899)の今日、光雲の養母・悦が亡くなりました。
 
悦は光雲の師匠、高村東雲の姉。光雲は徴兵忌避のため、子供のいなかった悦の養子となりました。明治初期は養子であっても長男は徴兵対象外でした。

コンサート情報です。 

第八回邦楽器とともに―新しい日本歌曲の夕べ― 新作歌曲を揃えて

【日時】2013年8月30日(金)18:00開場、18:30開演
【会場】津田ホール(東京・千駄ヶ谷)
【料金】全席自由3,500円
【後援】日本作曲家協議会、日本現代音楽協会、邦楽ジャーナル
 
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プログラムの中に、光太郎関連で以下があります。トリのようです。
 
「荒涼たる帰宅」
 詩:高村光太郎、曲:田丸彩和子、歌:小畑秀樹
 篠笛・尺八:設楽瞬山、薩摩琵琶:岩佐鶴丈
 
「一般社団法人 波の会日本歌曲振興会」さんは、日本における芸術歌曲の一層の普及、振興を図るという理念のもと、日本歌曲の創作、演奏及び普及に関する事業を行っているそうです。
 
「荒涼たる帰宅」作曲者の田丸彩和子さんのHPはこちら
 
当方、ぜひ聴きに行きたいのですが、当日は岡山に行っておりますので残念ながら欠礼いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月18日

昭和10年(1935)の今日、渡航したまま20年近く音信が途絶えがちだった弟、道利を神戸に迎えに行きました。
 
光太郎は長男、道利は次男です。さらにその下の三男・豊周の回想によれば、道利ははじめ軍人志望だっったのを光雲に反対され断念、東京外語学校を卒業したものの定職に就かず、見かねた光太郎が画廊・琅玕洞の店主に据えたものの、店自体が長続きせず、その上結婚も光雲に反対されて、大正の中頃に半分ヤケになって渡欧したそうです。
 
欧州では何か執筆をして糊口をしのいでいたようですが、詳細は不明。結局、フランスの慈善病院のようなところに入院、日本大使館から「送還するので引き取ってほしい」的な連絡が高村家にあったとのこと。
 
その道利は昭和20年(1945)に事故死しますが、非常に謎の多い人物です。

イベント情報です。 

乙女の像建立60周年記念講座

期 日 : 平成25年8月29日(木) 
会 場 : 十和田市視聴覚センターAV研修室(十和田市文化センター2階)
時 間 : 19:00~20:30
料 金 : 
無料

  : 米田省三氏(十和田市教育長)

 
主催は「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さん。「平成25年度元気な十和田市づくり市民活動支援事業」の対象事業となっているようです。
 
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当方、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の岡山展開会式が翌30日なので、こちらには行けませんが、紹介だけさせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月17日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに三河島のトンカツ屋・東方亭の主人が訪れました。
 
東方亭は戦前から戦中にかけ、光太郎がよく通った店です。武田麟太郎の短編小説「好きな場所」(昭和16年=1941)によれば、はじめ光太郎は店では正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。どこまで真実かわかりませんが、国策協力を余儀なくされていた時期に、肩書きなしの一個人に戻れる数少ない場所だったのはまちがいないでしょう。
 
店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、光太郎は彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

女川光太郎祭でご一緒させていただいたギタリスト・宮川菊佳氏からCDを2枚いただきました。
 
どちらも「花巻夜曲/花巻ブルース」。1枚は大地穂(おおちすい)さんの歌、もう一枚は今福充さんの歌です。
 
作曲が宮川氏ということで、宮川氏が自主製作なさったようです。ともに定価1,500円とパッケージにありました。
 
作詞は高橋雅郎氏。光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に暮らしていた頃の太田村長です。平成5年(1993)頃に作られたようです。
 

 花巻夜曲001
 
花巻くまちの 中原に  北上川の 流れあり
岸辺はるかに うずをまく  ぬれているよな あのひとみ
 
いで湯のまちに 湯げかおり  恋の花咲く 花の里
河鹿の声に 夢破れ  去りしあの人 今いずこ
 
賢治を生んだ 花巻に  詩人光太郎 山に入り
智恵子の愛を 詩にうたう  文化の里が よみがえる
 
  
 花巻ブルース000
 
詩(うた)のふるさと 花巻に  幼馴染のあの女(ひと)と
北上川辺の 道行けば  恋のさくらが 胸に咲く
 
詩(うた)のふるさと 花巻の  思い出おおい あの女(ひと)と
花城(かじょう)の跡を  訪ね見る  愛のたんぽぽ 足に咲く
 
詩(うた)のふるさと 花巻に  別れがつらい あの女(ひと)と
湯の街並木を 送りゆく  涙こぼれる 星の夜
 
お求めは宮川氏まで。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月16日

大正3年(1914)の今日、光雲の東京大正博覧会の出品鑑査員・審査官としての任務に対し、金85円が支給されました。

【今日は何の日・光太郎】 8月15日

昭和20年(1945)の今日、花巻の鳥谷ヶ崎神社で終戦の玉音放送を聴きました。
 
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鳥谷ヶ崎神社 戦前絵葉書
 
8月10日の花巻空襲で、逗留していた宮澤家も焼け出された光太郎は、元花巻中学校長の佐藤昌宅に厄介になっていました。その佐藤宅からほど近い鳥谷ヶ崎神社で、敗戦の放送を聴いたのが68年前の今日でした。
 
そしてその時の感興を謳った詩が翌日作られ、翌々日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
 
  一億の号泣001
 
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来る
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
 
画像は鳥谷ヶ崎神社に、戦後立てられた「一億の号泣」詩碑です。

戦時中には誠意高揚のための詩を大量に書き殴っていた光太郎ですが、この「一億の号泣」も、まだその延長上にあります。
 
その後しばらく経ってから、「日を重ねるに従つて、/私の眼からは梁(うつばり)が取れ」(「終戦」・昭和22年=1947)、戦時中の自己を「乞はれるままに本を編んだり、/変な方角の詩を書いたり」(「おそろしい空虚」・同)と分析できるようになりました。
 
左に偏った人々はこれを「言い訳」と評します。逆に右に偏った人々は「変節」と捉えます。「不思議なほどの脱卻のあとに/ただ人たるの愛がある。」(「終戦」・「卻」は「却」の正字)という光太郎の言を、もう少し素直に受け止められないものでしょうか。
 
いずれにせよ、今日は終戦記念日。今日行われた全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」を心に刻みつけたいものです。

8月10日、女川光太郎祭の翌日。北川太一先生の教え子の皆さんである北斗会の方々がチャーターされたマイクロバスに便乗して帰って参りました。
 
北斗会の方々は、北川先生のご講演があるということもありますし、多くの方が女川光太郎の会の中心だった故・貝(佐々木)廣さんと面識がおありで、そのため昨年・今年と多数女川光太郎祭にいらしていただいています。
 
バスに乗せていただく代わりに、帰りに二本松に寄り、いろいろとご案内しました。智恵子の生家、智恵子記念館、「樹下の二人」詩碑、大山忠作美術館など。
 
智恵子生家・記念館に着いて、地元で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一さんの携帯に電話、すると熊谷さん、お仕事の合間に来て下さり、展示の詳しいご説明等なさってくださいました。1013
 
その中で、当方も初めて知ったのですが、智恵子の肖像写真として最も有名な右のショットについて、興味深いお話を伺いました。
 
ちなみにこの写真の初出は明治45年(1912)6月5日の『読売新聞』。「新しい女(一七)長沼智恵子」という記事に使われました。その後、同じ年10月の雑誌『新婦人』に口絵として大きく載りました(当方、こちらは持っています)。この時智恵子、数え27歳、前年暮れに光太郎と出会っています。
 
今まで、この写真がどこで撮影されたかなど、まったく考えたこともありませんでしたが、熊谷氏曰く、バックの障子や柱、壁の感じから、どうやら生家の縁側で撮られたものと考えられる、とのこと。実際にその場所でこのアングルから見ると、たしかにそのように見えました。
 
となると、他にも長沼一家が写った写真は複数あり、それらを含めて、地元の写真技師が撮影したということなので、原板的なものがどこかに残っていないかなどと思いました。情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご一報いただけると幸いです。
 
さて、智恵子生家のすぐ近くに戸田屋さんという商店があります。食料品から日用雑貨、土産物まで売っているお店です。今回同行された文治堂書店の勝畑耕一氏が気づいたのですが、その店内に、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏の筆跡が残っていました。

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智恵子を顕彰する集いとし000て毎年10月に行われている「レモン忌」の第一回が平成6年に行われた(この年は10月ではなく9月)際の寄せ書きで、戸田屋さん店内の壁、高いところに貼ってありました。
 
当方、戸田屋さんは何度も訪れていますが、全く気づいていませんでした。
 
その上、戸田屋さんのおかみさんが貝さんのことをよく覚えていらっしゃり、我々一行が女川からの帰りであると知って、驚いていました。
 
人と人とのつながり、というのは本当に不思議なものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月14日

明治42年(1909)の今日、徴兵検査を受けました。結果は「咀嚼に耐えず」との理由で不合格でした。
 
軍医総監だった森鷗外が裏で手を回してくれたらしい、とのことです。
 

当方、8月8日、女川光太郎祭の前日に現地入りしました。宿を石巻に取ったので、仙台から小牛田(こごた)経由で東北本線、石巻線と乗り継ぎ、石巻駅に着きました。
 
女川光太郎の会の佐々木さんを待つ間、駅前を散策しました。すると、駅前ロータリーに彫刻が一つ。
 
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題して「母子像」。よくある地元の現代作家の作品かな、と思って説明板を見ると、昭和16年(1941)の作です。「意外に古いな」と思いつつ、作者名を見ると「高橋英吉」。記憶の底に引っかかる名前ですが、思い出せません。
 
その後、ロータリーの逆サイドにある「ロマン海遊21」という施設に行きました。1階は物産館のような感じで、いろいろと地のものや土産物等が並んでいました。地元で刊行された出版物のコーナーもあり、下記の書籍を購入しました。
 
こういう郷土史的な出版物を手に入れる(もちろん光太郎や智恵子にからむものですが)を手に入れるのも旅の醍醐味の一つです。
 
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『石巻圏20世紀の群像(上巻)文化・学術編』。平成13年(2001)ですから震災前の刊行です。
 
地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』に連載されたコラムの単行本化で、地元出身だったり、この地域を訪れたりした文化人を紹介するものです。光太郎に関しても4ページにわたって載っていたので、買いました。
 
買う前に立ち読みで光太郎の項を読んでしまったのですが、女川光太郎の会に関する記述があり、最後には「余談だが」と前置きの上、光太郎と同じ東京美術学校彫刻科に学んだということで、「高橋英吉(1911~42)」の名が記されていました。高橋は石巻出身でした。後で気がつきましたが、高橋の項も別に立てられていました。
 
「なるほど、やはり地元の彫刻家か。しかしやけに短命だったんだな」と思いつつ、駅前ロータリーに戻り、バッグから別の書籍を取り出しました。少し前のこのブログでご紹介した、姫路市立美術館学芸員の平瀬礼太氏のご著書「彫刻と戦争の近代」です。まだ熟読しておらず、道中読みながら来たので、その続きを読み始めました。
 
すると、「戦場に斃れた彫刻家たち」という項に、またもや「高橋英吉」の名が。この奇遇にはさすがに驚きました。やけに短命だと思ったら、戦死していたのですね。
 
曰く、
 
一九一一年宮城県石巻に生れた高橋英吉は東京美術学校で木彫を学び、一九三六年の文展鑑査会に「少女像」を出品して初入選、新文展でも入選するが、一九四一年に応召、一九四二年十一月にガダルカナルで戦死した。
 
「東京美術学校で木彫を学び」とあるので、光太郎の後輩ですし、もしかすると光雲の教えを受けているかも知れません。さらに高橋の絶作となった不動明王像について報じる当時の新聞記事も載っていました。
 
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これを読むと、戦場でたまたま持っていた針を使って彫ったものとのこと。造形作家としての執念のようなものを感じます。
 
しかし、たまたま彫刻の実作を目にし、十数分後に購入した書籍に名前があって、その数分後に読んだ書籍にも記述があり、不思議な縁を感じました。これはこのブログで紹介せよ、というメッセージかと思い、今日の記事を書いている次第です。
 
ちなみに『石巻圏20世紀の群像』に載っていた高橋の写真(前列右端)です。
 
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さて、千葉に帰ってから、『高村光太郎全集』別巻の人名索引を見ましたが、残念ながら「高橋英吉」の文字は見あたりませんでした。光太郎と直接の関わりはなかったか、あっても深いものではなかったのでしょう。
 
しかし、その名前が記憶に引っかかっていたのは確かです。そこでネットで調べてみたところ、平成22年(2010)にテレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に高橋作の木彫4点が出品されていたことが分かりました。この回のオンエアは確かに見た記憶があり、そこで覚えていたようです。
 
さらに調べると、今年3月17日のNHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられていました。ただ、こちらは存じませんでした。
 
もうすぐ終戦記念日です。高橋のような前途有望な若者を死に追いやった戦争……。二度と繰り返してはならないと、つくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月13日

昭和28年(1953)の今日、雑誌『群像』掲載の座談「現代詩について」を西銀座の料亭・出井(いづい)で行いました。
 
座談の類は『高村光太郎全集』には収録されていませんが、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』、当方編集の「光太郎遺珠」に掲載されています。この座談は『高村光太郎資料』第三巻で読めます。
 
他の出席者は伊藤信吉、金子光晴、三好豊一郎。「出井」は関西割烹の名店で、現存します。

8月9日、女川光太郎祭が始まる前に、女川と隣接する石巻の街を歩いてみました。
 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』に寄せた紀行文「三陸廻り」は石巻から始まっています。下記はその際の光太郎自筆の挿画です。
 
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市街地の南、北上川河口の脇に立つ日和山から見た風景です。
 
さらにこちらは戦前の絵葉書。
 
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そして8/9に撮影した画像です。
 
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光太郎が82年前にここから同じように風景を見たんだなと思うと感慨深いものがありました。
 
「三陸廻り」の中では、日和山から見た石巻の街をこう記します。
 
 日和山から見下した石巻と湊町と仲の瀬とはぎつしりつまつてまるで空地のない建てこみ方だ。家と倉庫と鰹節工場と造船所と魚市場と檣柱と旗と煙突と、魚類の吐く息と鋼鉄の鳴る音と。坂路に立つて俯瞰図をスケツチしてゐると洋服姿のインテリ百姓らしい若者が通る。
 
上の三枚の画像ともに右手にある島が「仲の瀬」通常は「中瀬」と表記。現在は石ノ森萬画館が建っています。
 
さらに光太郎、日和山にある鹿島御児(かしまみこ)神社に詣でたことを記しています。そこにも行ってみました。
 
 
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震災で被害を受け、本殿を解体するそうです。義援金として賽銭を入れてきました。
 
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その後、山を下りて石ノ森萬画館へ。昨年はまだ閉鎖中でしたが、今年は再開し、家族連れなどでにぎわっていました。「サイボーグ009」の企画展をやっており、懐かしく拝見しました。
 
 
上が昨年、下が今年の写真です。
 
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中瀬に架かる橋も、昨年はまだひどい状態でしたが、今年はきれいになっていました。
 
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着実に復興は進んでいます。
 
しかし、街を歩くと、まだまだこんな建物も残っています。
 
 
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日和山から見た中瀬とは逆側の光景。
 
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元は民家や事業所が立ち並んでいたはずですが、ほとんど更地と化しています。
 
女川同様、石巻もまだまだ復興途上です。具体的な支援もなかなか難しいと思いますが、せめてそういう現状であるということは、頭に留めておいてほしいものです。
 
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千葉蒼玄氏書・復興支援絵葉書
 
【今日は何の日・光太郎】 8月12日

昭和26年(1951)の今日、光雲の師匠・高村東雲の孫に当たる高村晴雲が花巻郊外太田村山口の山小屋を訪れ、旧交を温めました。
 
おそらくこの時に贈られたとみられる晴雲作(?)の観音像が花巻の記念館に保管されています。

去る8/9(金)は、第22回女川光太郎祭でした。
 
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一昨年の大震災で亡くなった方々への黙祷に始まり、前座で当方の記念講演。なぜ女川で光太郎祭が開かれているのか、その経緯をあらためてご紹介し、かように人々を魅了する光太郎の人間像を簡単にお話しさせていただきました。来年以降、連作詩「暗愚小伝」を元に、さらに深く光太郎の人間像について述べようと思っています。
 
その後、女川光太郎の会会長の須田様のごあいさつ。須田様は昨年の『朝日新聞』さんの全国版で大きく取り上げられました。
 
さらに光太郎遺影への献花、地元の方々による紀行文や詩の朗読と続きました。
 
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朗読の際には、女川を愛するギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏をして下さいました。皆さん、すばらしい朗読でした。
 
その後、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生による特別講演「(観自在こそ)-光太郎の底を貫く当方の信仰-」。当方もお手伝いをさせていただきました。長らくこの会の運営に携わってこられ、一昨年の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの無私の精神に絡め、光太郎や高村家のバックボーンだった観音信仰についてのお話しでした。
 
さらにアトラクションで、やはり女川をこよなく愛するオペラ歌手・本宮寛子さんの歌。場所が場所なのでア・カペラですが、「この道」、そして「ある晴れた日に」。こういう手作り感が女川光太郎祭のいいところでもあります。
 
それにて閉会し、その後、きぼうの鐘商店街内の佐々木釣具店にて「貝さんを偲ぶ会」が行われました。東京から駆けつけた北川先生、先生の教え子の北斗会の皆さんもご満悦のご様子でした。
 
来年以降も女川光太郎祭は続きます。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月11日

昭和28年(1953)の今日、『東京新聞』に水谷八重子主演の演劇「智恵子抄」の予告記事が載りました。

先ほど、2泊3日の行程を終え、女川から帰って参りました。
 
詳細は明日からレポートいたします。今日は女川の現状のみ。
 
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もとの繁華街があった海岸一帯は、横倒しになったビルなどまだそのままですが、地盤のかさ上げ工事が始まっていました。
 
半ば海中に水没していた光太郎文学碑二基も陸上に引き上げられ、移動されていました。
 
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やはり碑面は損傷が激しい状態です。特に両端に配してある光太郎筆のイラストは金属板でしたので、傷が目立ちます。
 
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下図は女川町の復興推進課が出した将来構想イメージ図です。

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このような美しい町の姿を取り戻すため、今日も工事関係者の皆さんが忙しく立ち働いていました。当方が訪れた午前8:00には、引き上げられた碑の傍らにて皆さんで準備運動。炎天下、頭の下がる思いです。「よろしくお願いします」と心の中でエールを送りました。
 
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昨年よりも復興の進んだ様子があちこちで見受けられましたが、元の町の姿には遠く及びません。そういう意味では「被災」はまだまだ続いています。
 
微力ながら支援を続けていきたいと考えています。皆さんも、それぞれに出来る形でのご支援をよろしくお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月10日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤賢治生家が空襲で炎上、命からがら助かりました。
 
花巻ではこの終戦5日前の空襲で、47名の尊い命が絶たれました。光太郎と親交の厚かった佐藤隆房医師の総合花巻病院では、病院をあげて怪我人の救護に奮闘、後に光太郎はその敢闘をたたえる「非常の時」という詩を作って、病院に贈りました。

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女川光太郎祭、並びにその後の懇親会・「貝さんを偲ぶ会」、無事終わりました。

女川の皆さんの心の中に、光太郎の、そして光太郎祭を長らく続けて来られ、一昨年の震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの魂が受け継がれていることを実感しました。
詳しくは帰ってからレポート致します。

【今日は何の日・光太郎】 8月9日

昭和6年(1931)の今日、紀行文「三陸廻り」執筆のため、およそ1ヶ月の旅に出ました。


このことを記念して、平成4年から女川光太郎祭が開かれています。

今日から2泊3日で、宮城県の女川に行って参ります。このブログでたびたび紹介しています「女川光太郎祭」が、今年で22回目。明後日開催されます。
 
もともと昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を1ヶ月ほど旅したことにちなむイベントでした。しかし、一昨年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けた女川。光太郎祭の中心となって活動されていた貝(佐々木)廣氏が亡くなり、その追悼や町の復興のため、という側面も出てきたイベントです。
 
こちらのリンクをご覧下さい。NHKさんの「東日本大震災アーカイブス」の中のページです。

昨年3月に放送された、貝(佐々木)氏が光太郎顕彰に力を注いだことなどを語る、奥様・英子さんの証言、現在の光太郎文学碑の様子などが動画で見られます。平成3年(1991)の、女川港に建てられた光太郎文学碑除幕の時の貴重な動画も含まれています。

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現在の光太郎祭は、廣氏の意志を継いだ英子様主導となり、今年は英子様のお店・佐々木釣具店の入っている仮設商店街・きぼうの鐘商店街の集会所で開催されます。日時は8/9(金)、午後2時より。当方、単独で1本、北川太一先生とのコラボで1本、計2本の講演をこなします。
 
お時間のある方、ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月8日

昭和63年(1988)の今日、池袋西武アート・フォーラムで、「生誕100年記念 智恵子紙絵展」が開幕しました。
 
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光太郎顕彰活動に取り組んでいることで、各地の美術館や文学館の学芸員さんと知遇を得ました。4/2の連翹忌にも、毎年多数ご参加いただいています。
 
現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」など、光太郎が関係する企画展を開催して下さった館の学芸員さん、光太郎と関連の深い作家の個人美術館等の学芸員さんなどなど。
 
昨日、このブログでご紹介した吉川弘文館さん刊行の『彫刻と戦争の近代』をお書きになった平瀬礼太氏も姫路市立美術館の学芸員さんです。
 
平成22年(2010)、同館で「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」という企画展がありました。白滝は光太郎より10歳年上の画家で、東京美術学校西洋画科に学んだ光太郎の先輩です。光太郎と同時期にイギリス、フランスに留学、彼の地で一時期共同生活をするなど、いろいろと光太郎の世話を焼いてくれました。
 
その白瀧と、さらに白瀧と同居していたやはり画家の南薫造両名に連名で宛てた光太郎の絵葉書2通が、「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」に展示されました。どちらも明治41年(1908)、パリからロンドンの白瀧・南に送られたもので、『高村光太郎全集』等に未収録でした。
 
禿頭で体格の良かった白瀧を「入道殿」、小柄だった南を「アンフアン兄」(enfant=仏語で「小僧」)とあだ名で呼び、伝法なべらんめえ口調で書いた珍しい葉書です。また、パリでアフタ性口内炎を患い抜歯したことや、それまでの光太郎資料に名が見えなかった建築家の日高胖(ゆたか)の名も記されるなど、興味深い内容です。
 
後に図録でその存在を知り、同館にその内容を問い合わせたところ、対応して下さったのが平瀬氏。こころよく協力して下さり、大きく拡大したカラーコピーを送って下さいました。おかげで本年4月刊行の『高村光太郎研究34』所収の拙稿「光太郎遺珠⑧」で全貌を明らかにできました。
 
さて、『彫刻と戦争の近代』。たまたま『日本経済新聞』さんの書評欄に載っているのを目にし、まず平瀬氏のお名前に気づいて驚き、ついで評を読んで「これは買わなければ」と思い、取り寄せた次第です。
 
ちなみに書評は以下です。書評だけでなく、著者紹介も兼ねた記事ですね。
 
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最後に地方美術館の学芸員としてのご労苦も語られています。
 
当方の存じ上げている地方美術館・文学館の学芸員さんは皆、日々いろいろなご労苦との闘いのようです。予算の獲得、行政との折衝、施設設備の問題などなど……。
 
そうした中で頑張ってらっしゃる皆様には本当に頭の下がる思いです。あらためてそんな皆さんにエールを送りたい気持ちです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月7日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外大沢温泉の山水閣さんに宿泊しました。
 
大沢温泉さんは花巻での当方の定宿で、たびたびこのブログでも取り上げていますが、光太郎お気に入りの温泉一つでした。

今日は68回めの広島原爆の日です。この後、長崎原爆の日、そして終戦記念日と続き、この時期はあの戦争を振り返るイベントが続きます。
 
先頃、当時の世の中が彫刻家に何を求め、彫刻家たちがどのように戦争と向き合っていたのか、そういった点に関する考察が書かれた書籍が刊行されました
平瀬礼太著 平成25年7月1日 吉川弘文館刊 定価1,700円+税
 
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦時体制下、彫刻界ではどのような活動がなされていたのか。材料不足や表現活動の制限に不自由さを感じながらも、戦勝記念碑やモニュメントなど、戦争に関連した作品の創作を続けていた彫刻家たちの苦難の歴史を辿る。戦後、戦争イメージが、平和のシンボルに姿を変えながら現代まで残存している動向などにも言及し、近代日本彫刻の変容を描く。
 
目次(詳細項目略) 000
 近代彫刻の変容―プロローグ
 戦争と彫刻
  近代日本の彫刻と戦争
  芸術と社会
 戦争の時代
  戦争の時代への突入と彫刻
  彫刻制作への圧力
  傷痍軍人と彫刻
 日米開戦の衝撃
  変転相次ぐ彫刻活動
  盛り上がる彫刻界
  銅像の行方
  突き進む彫刻
 戦後へ
  敗戦とともに
  混乱の中で
 まだ終わらない戦争―エピローグ
 
光太郎についても随所に記述があります。
 
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
 
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
 
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
 
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
 
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
 
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
 
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月6日

昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。

 
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。

今朝になって気づきましたが、本日、13時27分からNHK総合テレビで放映の「スタジオパークからこんにちは」が、「アンコール特集 渡辺えり」です。少し前に放送されたものの再放送で、当方、本放送は見逃したのですが、えりさんのお父さんと光太郎の交流に関する話も含まれていたとのこと。ご覧下さい。
 
さて、話は変わって、檜書店さんという出版社が刊行している月刊誌で『観世』というものがあります。その名の通り、能楽観世流の機関誌のようなものではないかと推察します。
 
その『観世』の今月号に、「観世寿夫と『智恵子抄』」という記事が載っています。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、早速取り寄せました。
 
著者は宗教学者の山折哲雄氏で、同誌の連載「能を考える」の第十七回。6ページにわたって掲載されています。
 
題名にある「観世寿夫」は観世流のシテ方でしたが、昭和32年(1957)に新作能「智恵子抄」を作り、上演しています。構成・演出は映画監督の武智鐵二。観世寿夫自身も光太郎役で出演しています。
 
初演は昭和32年ですから光太郎没後ですが、生前からこの話が進んでおり、光太郎の日記に武智の名と能楽「智恵子抄」に関する記述があります。また、それなら、と、能面のデザインも光太郎が手がけようとし、そのためのスケッチも残っています。ちなみにこの能面のスケッチ、現在開催中の千葉市美術館の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で展示中です。ただ、光太郎デザインの能面は結局実現しませんでした。
 
さて、『観世』の記事。観世寿夫を祖とする「銕仙会」に残る能楽「智恵子抄」の録音を、山折氏が聴いたことが書かれています。
 
曰く、
 
観世寿夫の声をきいているうちに、『智恵子抄』の言葉の一つひとつがまるで能舞台の上に這いのぼってくるような光景がみえはじめ、それがまぼろしのごとく揺らぎはじめていることに気がついた。起伏に富む現代詩の言葉が能の詩章の海にほとんど融けこんでしまっている。その両者のあいだをへだてる障壁が、それと気づかせないうちに取り払われていたのである。光太郎の詩の言葉が謡のリズムのなかに吸いこまれてしまったのか、謡の調べが詩の言葉の流れに融解してしまっているのか、それが判然としない…。
 
要するに何の違和感もなく、光太郎の詩句が謡曲として成立しているということですね。
 
そして山折氏、この新作能の背景には、謡曲「安達原」が色濃く影響していると指摘しています。それはそのとおりでしょう。
 
「安達原」は有名な鬼女伝説を元にした能の演目で(観世流以外では「黒塚」)、その舞台となったのがまさに智恵子の故郷、二本松の旧安達地区です。
 
平安時代の『拾遺和歌集』には平兼盛の作として、この安達ヶ原の鬼女伝説をモチーフにした次の歌が載っています。
 
陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
 
そして光太郎はそれを受けて、詩「樹下の二人」の冒頭に、詞書のように次の短歌を添えています。ある意味、本歌取りのようです。
 
みちのくの安達が原の二本松松の根方に人立てる見ゆ
 
「樹下の二人」は、この後、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と続くのです。
 
この「樹下の二人」、能「智恵子抄」でも使われています。山折氏によれば、観世寿夫は先述の光太郎短歌の背後に、謡曲「黒塚」があることを読み取っていたはず、というのです。それはその通りでしょう。
 
話は変わりますが、今月28日(水)に、国立能楽堂で行われる「能楽座自主公演」の演目に、「舞囃子「智恵子抄」」の文字が見えます。
 
当方、能にはそれほど詳しいわけでもなく、これが観世寿夫作曲のものなのかどうか、判断できません。詳しい方、ご教授いただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月5日

昭和30年(1955)の今日、ラジオで日米対抗水泳大会の中継を聴きました。

新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

千葉市美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。早いもので、開幕から1ヶ月が過ぎました。
 
いろいろな方のブログ等で、おおむね好意的にご紹介いただいており、ありがたいかぎりです。
 
昨日、『朝日新聞』さんの千葉版に紹介記事が載りました。
 
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それからやはり昨日、記事自体は7/17に載ったようですが、『日本経済新聞』さんのサイトにも、紹介がアップロードされました。
 
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もう一点。「インターネットミュージアム」というサイトがあり、そちらでは動画入りで紹介されています。
 
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彫刻は動きませんが、カメラが動き、実際に観に行ったようなバーチャル体験が出来ます。
 
しかし、バーチャルはあくまでバーチャル。実際にご覧いただきたいのはもちろんです。
 
千葉展の後、岡山井原、愛知碧南と巡回しますが、これだけの規模の光太郎展、首都圏では次はいつ開催されるかわかりません。二度と開かれない、ということはないように願いたいものですが、さりとて毎年のように開かれる、というのもありえません。
 
まだご覧になっていない方、ぜひお越し下さい。また一度足を運ばれた方も、二度、三度と繰り返し観ることで、その都度新たな発見があるものです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月3日

昭和11年(1936)の今日、『東京朝日新聞』に、評論「一彫刻家の要求」の第1回が掲載されました。
 
このあと、4日・5日と3回にわたって掲載されたこの評論は、前年公布された「帝国芸術院官制制定の件」による美術界の混乱に対する苦言です。
 
曰く、
 
帝国芸術院は政府の美術行政上の諮問機関だといふ事であるが、上から下に問ふだけの諮問機関では役に立たぬ。諮問されなければ黙つて居る事となるし、諮問するのは美術の表面しか分らない素人の役人風情であるから、このままでは帝国芸術院の機能は甚だ遅鈍な間の抜けたものとなるにきまつてゐる。……
 
手厳しい意見です。

昨日ご紹介した森まゆみさん著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』に関し、『読売新聞』さんに記事が出ています。 

森まゆみさん 編集の視点で「青鞜」考察

 明治の末、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らが創刊した雑誌「 青鞜 (せいとう ) 」をテーマにした『「青鞜」の冒険』(平凡社)を、作家の森まゆみさん(59)が出版した。
 
 地域誌の編集人を務めた経験を踏まえ、雑誌編集の視点から同誌を見つめ直した。
 「長年の宿題を果たした感じです」
 東京・千駄木で1911年、産声をあげた「青鞜」に著者は親近感を抱いてきた。同じ地域で84年、女性の仲間2人と地域誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、25年間続けたからだ。
 
 「女性の文芸振興や地位向上と、地域の魅力の掘り起こしと、それぞれの雑誌の内容は違います。でも女の人が集まることの面白さ、難しさなど、似ていると思うことがありました」
 
 本作は、<元始、女性は太陽であった>と高らかに唱えた「青鞜」の思想面より、経営面や誌面の出来栄えを探った点が興味深い。創刊号は、1冊25銭で1000部。地元のそば屋の広告や、読者が重なりそうな雑誌と互いに交換広告を掲載する努力もしていた。
 
 「『青鞜』の人々も、初期は苦労して広告を集めた。私たちと同じく地域に支えられていました。あの時点で女だけで雑誌を作ったのは冒険です。今のレベルから見れば習作のような掲載作にも、当時の女の悩みや暮らしが表れている」
 
 一方で、同誌が創刊1年で出版や販売の業務を外部の会社に任せた点には厳しい。「雑誌は原稿を書き、集めるだけでなく、広告取りや購読料の授受、発送、配達こそ大切です。雑誌なんて自分が売る気にならないと売れないんだから……」
 
 「谷中・根津・千駄木」は2009年に94号で終刊した。「雑誌の中で、色々な新しい提案ができた。“小所低所”に徹して身の回りを変える。大きなデモや声高に意見を上げるより、小さな地域を変えれば、全体がしっかりしてくると思う」
 
 100万人に5人しか発症しないとされる自己免疫疾患「原田病」に07年にかかり、目を患った。だが、東日本大震災後は被災地を訪ねて現地の声を聞き、『震災日録――記憶を記録する』(岩波書店)も出版した。「震災で言葉を失ったなどと男は言うけれど、女はその翌日だって米をとがなくてはならない。震災後も考えていることは変わりません。被災地との地域間交流を大切にしてゆきたい」
 
 朗らかな笑い声が、人をひきつける。
 
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記事の中で、平成19年(2007)に難病にかかられた由、記述がありました。地域雑誌『谷根千』休刊の陰にはこうした事情もあったのですね。
 
『谷根千』では、平成2年(1990)刊行の第25号に、今回のご著書の原型とも言うべき特集記事「平塚らいてうと「青鞜」-千駄木山で生まれた女の雑誌」が掲載されています。
 
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版元の「谷根千工房」さんももはや存在しませんが、古書サイト等で見かけることがあります。併せてお買い求めを。
 
今回のご著書にしても、上記の『谷根千』にしても、智恵子の描いた『青鞜』の表紙絵を用いた装丁。つくづくこの表紙はすばらしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月2日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で開催された稗貫郡PTA講演会で講演をしました。

新刊です。
 
智恵子が創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の、その誕生(明治44年=1911)から終焉(大正5年=1916)までを追った労作です。もちろん智恵子にも随所で触れています。 

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること

森まゆみ著 平成25年6月27日 平凡社   定価1900円+税
 
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女性による女性のための雑誌『青鞜』の歩みを、平塚らいてうや伊藤野枝らの生き方とともに、また100年後に著者自身が営んだ地域雑誌『谷根千』を引合いにしながら丹念に追った意欲作。
(平凡社さんサイトから)
 
雑誌の立ち上げに高揚したのも束の間、集まらない原稿、五色の酒や吉原登楼の波紋、マスコミのバッシング……明治・大正を駆け抜けた平塚らいてう等同人たちの群像を、同じ千駄木で地域雑誌『谷根千』を運営した著者が描く。
(帯から)
 
類書は他にも刊行されていますが、それらと違うところは、上記紹介文にあるとおり、「編集者」としての視点で描かれていることです。
 
 
著者の森まゆみさんは、かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていました。今日、一般的になった「谷根千」という呼称はここから生まれたものです。その際のご経験が、本書の記述に生かされているようです(実はまだ熟読していません。すみません)。
 
ちなみに『谷中根津千駄木』では、谷中に生まれ、千駄木で暮らした光太郎もたびたび取り上げて下さいました。
 

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 そういえば、雑誌『青鞜』が産声をあげたのも、千駄木です。社員の一人、物集和子の自宅が最初の事務所。ここは不忍通りから団子坂を上がりきった右側、森鷗外の観潮楼のはす向かいです。

ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】002 8月1日

昭和54年(1979)の今日、六耀社から『高村光太郎彫刻全作品』が刊行されました。
 
B4判350ページ、定価五万円の大著です。現存するものはもちろん、焼失したものや、着手したただけ、あるいは構想のみで未完に終わったものも含め、この時点で把握されていた光太郎の彫刻作品全てのデータベースです。
 
千葉市立美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の図録作成の際にも、大いに利用させていただきました。
 
現在でも時折古書店のサイト等で売りに出ています。

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