2013年07月

昨日の続きです。
 
南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その当日まで、光太郎は5ヶ月間、智恵子を見舞いませんでした。
 
この五ヶ月の空白を巡り、昨日紹介したような手厳しい意見があるのはある意味仕方がないでしょう。
 
しかし、光太郎を擁護するわけではありませんが、光太郎自身は次のように述べていますので、ご紹介します。
 
チヱ子をも両三度訪ねましたが、あまり家人に会うのはいけないとお医者さんがいうので面会はなるたけ遠慮しています。
昭和10年(1935)3月12日 中原綾子宛書簡
 
これを裏付けるように、智恵子の付き添い看護にあたった姪の宮崎春子の回想にも次の一節があります。
 
はじめは、身内の看護はかえつていけないからというわけで、試験的につけるということであつたが、たいへん結果が良かつたので、院長先生はじめ伯父も喜んでくれ、「春子さんについてもらつて安心した」と言つてくれた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
要するに病院の方針、というわけです。
 
しかし、五ヶ月はあまりに長い……。
 
結局、答えは見つかりません。
 
この点について先哲諸氏はどう捉えているのか、いくつかご紹介します。
 
五ヶ月もの長い間、光太郎が智恵子を見舞いに訪れなかったのは、理解に苦しむところです。智恵子を興奮させないようにとの配慮からであったのか、それとも心の交流が不可能なほどに智恵子の人格荒廃が進行していたのか、今となっては確かめるすべもありません。
(『智恵子抄の光と影』 上杉省和 平成11年(1999) 大修館書店)
 
この五ヶ月の空白を、人は光太郎の愛の在り方を含めて、様々に詮索します。病状は刻々春子から報じられたに違いありません。五月の母の訪問が、智恵子にどんな結果をもたらしたか。光太郎が案じていた智恵子の興奮がどんな風に起こり、どんなふうに続き、それが結核の昂進もふくめて、どんな重篤な症状を引き起こしかねなかったのか。この時期にも医師は近親者の来院を押さえたのか。危篤は突然に起こったのか。実際の病状の変遷が記録されていない以上、恣意な想像は無意味でしかありません。
『智恵子相聞-生涯と紙絵-』 北川太一 平成16年(2004) 蒼史社)
 
結局、無理に答えを見つける必要もないのかもしれません。
 
繰り返しますが、南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その日の様子を光太郎は次のように記します。
 
百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛隣の情の訴でもある。(略)最後の日其をひとまとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した表情であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。
(「智恵子の半生」 昭和15年(1940))
 
「其をひとまとめに自分で整理して置いたもの」の中に、例の「くだものかご」の紙絵も入っていたわけです。あらためてそれを見た光太郎の胸中はいかばかりか……。
 
そう考えると、「これは何の果物だろう」などと、脳天気に見ることはできない作品なのです。
 
さて、その後、太平洋戦争000が勃発。昭和20年(1945)4月には、駒込林町の光太郎アトリエは空襲で焼け落ち、多くの彫刻作品は灰燼に帰しました。
 
しかし、智恵子の残した紙絵は、そうなることを予想していた光太郎の機転で、花巻、茨城取手、山形の三カ所に分けて疎開させており、無事でした。自身の彫刻は焼けるに任せた光太郎も、智恵子の紙絵は事前に保護策を講じていたのです。そのおかげで、現代の我々も、智恵子遺作の紙絵を実際に見ることができるわけです。
 
こうした点も踏まえ、「五ヶ月の空白」の意味を捉えることも重要なのではないかと思われます。
 
そして、こうした点を踏まえ、皆さんには智恵子の紙絵の本物を見ていただきたいと思います。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、千葉市美術館さんでは8/18(日)まで。8/30(金)から、岡山県井原市田中美術館さん。その後、11月には愛知県碧南市藤井達吉美術館さんへと巡回されます。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月31日

昭和29年(1954)の今日、映画会社・新東宝が『智恵子抄』映画化を光太郎に申し入れましたが、断っています。

昨日、千葉市美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、三度目の観覧です。6/29(土)、オープン初日、関係者によるオープニングレセプションがあり、一度。7/7(日)、当方も喋った関連行事の講演会があり、一度。そして昨日は講演会の日等にいらっしゃれなかった元群馬県立文学館の学芸員の方がいらっしゃるということで、ご案内いたしました。何度見てもいいものです。
 
昨日は特に智恵子の紙絵をしっかり観ました。先日のこのブログでご紹介しましたが、『日本経済新聞』さんのサイトで今回展示されている紙絵に触れており、自分の中で答えの出ていない問題がクローズアップされてきたためです。
 
『日経』さんで取り上げているのは「くだものかご」と題された紙絵です。
 
イメージ 1
高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。

 
しかし、ある意味、この紙絵は「何の果物かな」と脳天気に見られるものではないのです。
 
ご存じない方のために概略を書きますと、昭和6年(1931)、光太郎が三陸旅行中に智恵子が統合失調症を発症し(もっと早くに発症していたという説もありますが)、翌年には自殺未遂、同9年(1934)には九十九里にいた妹夫婦(智恵子の母・センも身を寄せていました)のもとに転地療養、しかし病状は悪化、同10年(1935)に南品川のゼームス坂病院に入院します。一連の紙絵は入院中、おそらく同12年(1937)から13年(1938)にかけて制作されたようです。そして智恵子の死は13年10月。直接の死因は肺結核でした。
 
さて、果物かごといえば、かつては病気見舞いの定番でした。では、この果物かごは光太郎が持参したものなのでしょうか。しかし、残念ながらどうもそうではないようなのです。
 
毎週一回か二回、かならず伯父さまのいいつけで銀座の千疋屋から季節の果物、それに鉢植えの花を届けられた。化粧籠に盛られたすばらしいゴールデン・デリシヤス、水々しいアレキサンドリア、さまざまな名も知らぬみごとな蘭花、シクラメン、ゼラニユームのいくつもの鉢、ざくろの木、等々。神田の万惣からも西瓜やりんごなど届いた。それを室内に運び入れた時の伯母の嬉しそうな優しい表情がわすれられない。一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
宮崎春子は智恵子の姪。看護婦資格を持ち、ゼームス坂病院入院後に智恵子の付き添いとなりました。
 
「一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。」とありますが、一番の楽しみは光太郎本人の見舞いではなく、こうして「届けられた見舞品」だったというのです。
 
光太郎、実はあまりゼームス坂病院に足を向けませんでした。智恵子が亡くなった日には枕元にいましたが、なんとそれが五ヶ月ぶりの来院でした。
 
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく又恢復してくれればいいと念じてゐます、 
(智恵子の母・セン宛光太郎書簡)
 
智恵子が九十九里で療養していた頃は、毎週のように見舞いに訪れていた光太郎が、なぜ同じ東京で五ヶ月も智恵子を見舞わなかったのでしょうか。しかも結核は重篤で、五ヶ月ぶりに見舞ったその日に智恵子は亡くなったのです。
 
この点を手厳しく批判する向きもあります。
 
すでに「人間界の切符を持たない」古女房をそう足しげく見舞えという方が無理かもしれない。だが、『智恵子抄』を純愛詩集として読む人は、それが五ヶ月も妻を病院に放ったらかしにしていた男の手になるものだということを忘れないほうがいい。
(『詩人の妻 高村智恵子ノート』 郷原宏 昭和58年(1983) 未来社)
 
智恵子「東京市民よ、集まれ! 今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどいさまです……五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました。遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類い希なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ!  これは智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! (略) そして五ヶ月ぶりにやってきた光太郎の目の前で智恵子は、すなわち私は死んでいくのであります。けれども、詩人によればこんな私でさえもこんなにも、綺麗に死なせてくれたのであります。
智恵子抄 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白く明るい死の床で (略) 」
(「売り言葉」 『二十一世紀最初の戯曲集』野田秀樹 平成15年(2003) 新潮社)
 
長くなりましたので、続きは明日。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月30日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『日曜日』掲載のため、文学を愛好した精神科医・式場隆三郎と対談しました。

現在、千葉市美術館さんで「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が開催されていますが、8月30日(金)から、次の会場・岡山県井原市の田中(でんちゅう)美術館さんに移ります。
 
その田中美術館で、詳細情報が発表されました。
 
イメージ 1

イメージ 2


関連行事として、9月29日(日)に記念講演会があります。講師は巡回の3館目になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館学芸員の土生(はぶ)和彦氏。ご期待下さい。
 
西日本在住の方などで、「千葉は遠いのでちょっと……」という方、ぜひ井原の方へお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月29日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養中の智恵子の見舞いに訪れました。
 
智恵子が九十九里にいたのはこの年5月から12月の半年余りでしたが、毎週のように光太郎は見舞いに訪れたそうです。ただ、正確な日付が特定できる日は意外と少ないので今日を選びました。
 
明日はそのあたりを書いてみようかと思っています。

今週、テレビ放映で十和田湖が相次いで紹介されます。 

発見!体感!緑輝く渓流 奥入瀬川紀行

2013年7月31日(水)  22時00分~23時00分 NHKBSプレミアム
 
美しい渓流で知られる青森県の奥入瀬川。河口から源流までを俳優の藤本隆宏さんが旅する。絶品のカニに舌鼓。山の秘湯を体感。緑輝く奥入瀬渓流の絶景を心ゆくまで堪能する


番組内容
青森県を流れる奥入瀬川。森の中を縫うように続く渓流の美しさで全国に知られる。俳優の藤本隆宏さんが、河口から十和田湖までを旅する。まずは漁師さん絶賛のカニ料理に舌鼓。野鳥の楽園では珍しい鳥を発見。開拓にかけた人々の知られざる歴史にも触れる。さらに、本州一の透明度を誇る赤沼の自然を体感。山の秘湯で疲れを癒やし、最後は、達人の案内で、緑に輝く奥入瀬渓流の絶景を心ゆくまで堪能する。奥入瀬の夏の魅力が満載。

出演者 藤本隆宏

 


 

土曜スペシャル「涼しい湖畔を探索!湖ぐるり一周!ふれあい旅2」

2013年8月3日(土)  18時30分~20時54分 テレビ東京1
 
山梨・山中湖を一周!!世界文化遺産・富士山を一望できる露天風呂やスケルトンカヌー、グルメを堪能▽北海道・洞爺湖湖畔の牧場で酪農体験&希少動物観察!!▽秋田・十和田湖

番組内容
暑さが厳しいこの時期、心地よい湖の風を感じながら湖畔をぐるりと歩けば涼しさ満点!絶景はもちろんのこと、その土地ならでは名所や名湯、旬の味覚もご紹介します。 巡るのは、山中湖、十和田湖、洞爺湖の3つ。スピード満点のボートツアーを体験したり、展望台から湖を一望できる絶景を堪能したり、湖畔の丘上にある牧場で酪農体験をしたり、貴重な動物を観察したり…。豊かな自然を存分に楽しみます! また、湖畔には立ち寄り湯のある施設も複数存在。温泉で休息をはさみながら進んでいくため、ゆったりと旅を楽しむことができます。 湖畔を一周したからこそ味わえる、スケール感満点で最高のひととき。ぜひ、夏の旅のご参考にいかがですか?
 
出演者  山中湖 野村真美&藤田朋子  十和田湖 TIM&田代さやか
  洞爺湖 アンガールズ
 
どちらの放映でも、十和田湖畔の裸婦像(乙女の像)、取り上げられるといいのですが……。
 

【今日は何の日・光太郎】 7月28日000

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋で、ネズミに布団をかじられました。
 
山小屋生活に入って初めての夏。いろいろ苦労も多かったようです。この次の年の冬には、こんな短歌も作っています。
 
わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり
 
毒物を置きて鼠にあたへむとしつつ厳しき寒夜を感ず
 
画像は明治29年(1896)、数え13歳の時の光太郎作木彫手板です。

宮城県牡鹿郡女川町。一昨年の東日本大震災000で、甚大な被害を受けた町です。今でも時折、復興関連の報道などで取り上げられています。
 
ここ女川町で、震災前から毎年8月9日に、「女川光太郎祭」というイベントが開かれ続けています。昭和6年(1931)8月、『時事新報』の依頼で紀行文を書くことになった光太郎は、この地を含む三陸一帯を一ヶ月ほど旅して歩きました。それを記念して、光太郎の精神を受け継ぐといった意味合いです。
 
一昨年の震災の日、、中心になって活動されていた貝(佐々木)廣氏は、津波に呑まれて亡くなりました。町自体も、港に近い繁華街は壊滅、今もみなさん仮設住宅にお住まいです。しかし、途絶えることなく光太郎祭が続けられています。当方、昨年の第21回光太郎祭に参加いたしましたが、本当に頭の下がる思いです。
 
今年も8月9日、第22回女川光太郎祭が開催されます。
 
震災前は一貫して、光太郎文学碑の建つ海岸公園で行われていましたが、震災のあった一昨年は女川第一小学校、昨年は仮設住宅内の坂本龍一マルシェと、会場が移りました。今年は元の繁華街から西へ少し行った高台にあるきぼうの鐘商店街内に新しくできた集会所が会場になるそうです。
 
今年から、当方、講演の講師を頼まれました。おそらく永続的にやっていくことになると思います。
 
それ以外にも、恒例になっている、高村光太郎記念海会務局長・北川太一先生のご講演も予定されています。北川先生、ご高齢のため、いったんは退かれたのですが、やはり亡くなった貝氏の御魂に応えるためにも、とお考えなのでしょう。お体の許す限りは、女川に行かれるおつもりのようです。
 
詳細な日程はまだですが、午後2時から当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 -連作詩「暗愚小伝」をめぐって ①」、午後3時から北川先生によるご講演「(観自在こそ)―光太郎の底を貫く東方の信仰―」です。今月初めに千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関連行事での記念講演会同様、当方が助手(聞き手)を務めます。手前味噌ですが、意外と千葉での講演が好評だったので、同じ形でやります。
 
その他に(というと失礼ですが)、地元の皆様による光太郎詩の朗読、ご常連のギタリスト・宮川菊佳氏、オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクションなども計画されています。
 
一年ぶりの女川。昨年は更地と化した元の繁華街に横たわるビルに驚きましたが、一年間でどれだけ復興が進んでいるのか、この目で見てきます。都合のつく方は、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月27日

昭和30年(1955)の今日、夕食に銀座竹葉亭のウナギの蒲焼きを4串食べました。
 
この日の午後、北川太一先生が持参されたものです。この店も、先日ご紹介した中華料理「好々」同様、現存します。

【今日は何の日・光太郎】 7月26日

大正4年(1915)の今日、天弦堂書房から評論『印象主義の思想と芸術』が刊行されました。
 
光太郎が単独で著したものとしては、その前年に刊行された詩集『道程』に続き、2冊目の書籍です。文庫判250ページほど。当時の定価で50銭です。

当方、カバーなしの裸本を一冊持っています。画像は扉と奥付です。
 
イメージ 1   イメージ 2
  
少し前に古書店のサイトでカバー付きが売りに出ていたのですが、12,000円。そのくらいしてもおかしくありません。というか、相場から考えるとむしろ安いような気がしました。しかし12,000円という金額は、絶対評価としては安い金額ではありません。そう思っているうちに売れてしまいました。
 
目次を見ると、第一章は印象主義の概観。その後、二章から八章まで、代表的な作家一人ずつを論じています。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ。さらに後期印象派―ゴッホ、ゴーギャン、マチス―などについての簡単な記述もあります。
 
光太郎が紹介される際、「彫刻家、詩人」とされることが多くあります。たしかに光太郎は自分では「私は何を措いても彫刻家である」と述べていますし、好むと好まざるとに関わらず、詩人としての名声も高かったのは事実です。
 
しかし、筑摩書房版『高村光太郎全集』を見ると、この「印象主義の思想と芸術」を含む評論の類が非常に多い事に気づきます。その内容も美術や文学など多岐にわたるのですが、それぞれに異彩を放つものです。といって、途方もない論旨を展開しているわけではなく、ある意味、当たり前のことを当たり前に書いていながら、それが当たり前に感じられず、妙に納得させられる、そういう評論が多いのです。
 
もう少し、「評論家」としての光太郎にスポットが当たってもいいのでは、と感じます。
 
さて、『印象主義の思想と芸術』、のちに戦時中の評論集『造形美論』に収められた他、戦後には「筑摩叢書」の一冊として再刊されています。
 
ところがそれ以前に、大正11年に天弦堂版の紙型をそのまま使って、三徳社という出版社から再刊された記録があります。同社からこの年12月刊行の吉江孤雁『近代神秘主義の思想』の巻末広告に、同社の刊行物のラインナップとして『印象主義の思想と芸術』が入っています。
 
ただ、現物が確認できません。実際に刊行されたのか、広告のみ先行し、結局は刊行されなかったのか、不明です。
 
三徳社は、大正6年(1917)に中村徳治郎によって創業、他社の古い紙型によって旧刊書をしばしば再生した出版社だそうです。のちに「白楊社」と改称したということですが、ネットではその時期が大正10年(1921)となっているページがあります。しかし、国会図書館のデジタルデータでは同12年(1923)の刊行物も「三徳社」として登録されています。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

昨日に引き続き、季節外れのタイトルで申し訳ありません(笑)。
 
一昨日のブログでNHKさんの「にほんごであそぼ 元気コンサートin福島」のDVDをご紹介しましたが、もう一点、DVDを入手したのでご紹介します。  
東映ビデオ 4500円+税/ COLOR/ 95分/

注目の若手女優・佐津川愛美 主演美しく広大な自然広がる福島県を舞台に、思春期の少女の成長を描く感動ストーリー!

【解説】
思春期の不安と苛立ちの真っ只中にいる少女が、一人の視覚障害者の少年と出会い、それを通じて成長する姿を広大な自然が広がる福島県を舞台に描く。そして、福島県出身で「深呼吸の必要」などの代表作を持つ詩人・長田弘の詩が映画の核となって人々の心を繋いでいく。誰もが経験する子供から大人へ変わっていく瞬間を切り取った心に染み入る作品が誕生した。
主人公・桃子を演じるのは映画『蝉しぐれ』『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』での演技で高く評価された、佐津川愛美。視覚障害を持った少年という難しい役どころを見事に演じたのはTVドラマ「仮面ライダー響鬼」「龍馬伝」で人気を博し、演技に定評がある栩原楽人。鈴木砂羽、美保純、鶴見辰吾、国広富之、池内万作ら実力派が脇を固める。監督は『千年火』がベルリン国際映画祭で【見逃してはならない3本】として高い評価を得た瀬木直貴。

【ストーリー】
思春期の不安と苛立ちを抱える女子高生・桃子は、自分のことを厳しく管理しようとする母とぶつかり、毎晩のように仲間と夜の街で遊び過ごしていた。そんなある日、桃子はラジオから流れてきた詩を聴き、心を奪われる。それは長田弘の「最初の質問」という詩だった。その後、詩の朗読をバイト先の先輩から頼まれた桃子は断りきれずに盲学校まで行き、そこで一人の少年と出会う。偶然にもその少年は桃子と同じラジオを聴いていて、そのことをきっかけに二人は急速に距離を縮めるが・・・。

【公開日】2008年11月公開

イメージ 1  イメージ 2
  
映画のDVDで、昨秋発売された(映画自体は平成20年(2008)の公開)のですが、こういうものがあるとは最近まで知りませんでした。
 
舞台は福島県会津地方(2008年公開の映画ですので震災前です)。ひょんなことから盲学校で詩を朗読するボランティアを引き受けた、佐津川愛美さん演じる主人公の不良(になりかかっていた)少女が、栩原楽人さん演じる視覚障害の少年や両親(鈴木砂羽さん、鶴見辰吾さん)との関係を通じ、成長していく物語です。
 
朗読される詩は、福島が舞台ということで福島市出身の詩人・長田弘氏の作品がメインですが、「あれが阿多多 羅山/あの光るのが阿武隈川」で始まる光太郎の「樹下の二人」も取り上げられています。
 
ハンディのある登場人物を扱う、となるといろいろ微妙な問題を含みますが、この映画はケレン味なく描けていると思います。「音」への依存度の高い視覚障害者にとって、「朗読」というのはこういう位置づけなんだというのが新鮮でした。
 
桜などの福島の風景も美しく、おすすめです。是非、お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月25日

明治42年(1909)の今日、上野精養軒で開かれた『スバル』談話会に出席しました。
 
留学から帰朝した光太郎の歓迎会を兼ねた集まりで、与謝野鉄幹、森鷗外らが出席しました。

季節外れのタイトルで申し訳ありません(笑)。
 
一昨日、福島市公会堂で開催された宇宙飛行士・山崎直子さんの講演会につき、オープニングに出演したシャンソン歌手モンデンモモさんがブログに書かれています。
 
イメージ 1
 
 
画像は「道程」を歌うモモさん。当方がモモさんのiPadで撮影しました。
 
ところで曲のタイトルを「道程」としましたが、正確には「道程~冬が来た」です。一種のメドレーで、最初にヘ長調(F)・♩=75・グランディオーソで「道程」。中間部でヘ短調(Fマイナー)に転調、♩=135と倍速に近いアップテンポで「冬が来た」が挿入され、ダルセーニョ。また「道程」に戻り、途中からCodaに入って終わり、という構成です。
 
要するに「道程」の途中に曲調を変えて「冬が来た」が挿入されているということです。
 
  冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
 
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
 
この「冬が来た」。「道程」とほぼ同じ時期の作品(「道程」(雑誌発表形)は大正3年=1914の2月、「冬が来た」は前年12月)です。
 
「道程」ほどではありませんが、光太郎作品の中では有名なものの一つですね。教科書等にも採用されていると思います。
 
そこで、NHKラジオ第2放送でオンエアされている「NHK高校講座 国語総合」で、この「冬が来た」が扱われます。講師は都立国分寺高等学校教諭・渡部真一氏、今週土曜日(7/27)午後8:10~8:30です。
 
ちなみに「理解度チェック」というページも発見しました。
 
イメージ 2
 
 
設問3つに回答し、「決定」を押すと正解と解説、正解者の割合などが表示されます。ぜひ挑戦してみて下さい。
 
しかし、自作の詩がこういう使われ方をしていると知ったら、空の上の光太郎は苦笑しそうな気がします(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月24日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエに神田淡路町の中華料理店「好々(ハオハオ)」の料理人に来てもらい、出張料理を堪能しました。
 
ちなみにこの店は現存します。

昨日、福島から帰ってきたら届いていました。  

にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島

昨年12月28日、福島県文化センターで開催された「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」の模様で、今年1月6日にテレビ放映されたもののDVD化です。
 
【収録内容】000
●オープニング
 ♪小さき者へ
 ♪ええじゃないか日本
●オペレッタ「セロ弾きのゴーシュ」
●みんなでじゅげむ
●にほんご名文組曲
 ♪こころよ
 ♪すずめのこ
 ♪雲
 ♪やせがえる
 ♪でんでらりゅうば
 ♪なせばなる
 ♪私と小鳥と鈴と
 ♪道程
●みんなでうたう四季の歌
 ♪朧月夜
 ♪茶摘み
 ♪旅愁
 ♪冬景色
●もちづくし
 侭田亀治郎「糯尽」より
 狂言「業平餅」より
 井上ひさし「薮原検校」より
●元気でいこう! ごもじもじ
●エンディング
 ♪小さき者へ
 ♪さよなら

【出演】
コニちゃん、野村萬斎、神田山陽、おおたか静流、うなりやベベン、子どもたち、ほか

【ゲスト】
坂本龍一、藤原道山、福島大学附属小学校合唱部のみなさん

【演奏】
松田拓之、大宮臨太?、坂口弦太郎、山内俊輔(以上、NHK交響楽団より)、高橋希(ピアノ)

【特典映像】
振り付けのラッキィ池田によるコンサート前説 + 坂本龍一の事前レコーディング風景
 
先週土曜のブログでご紹介した坂本龍一さん作曲の「道程」も収められています。
 
それ以外にも、冒頭部分ではおそらく二本松の智恵子の杜公園展望台から撮った映像と、安達太良山の麓で撮った映像に乗せ、光太郎の「あどけない話」の一節が紹介される他、「特典映像」では坂本龍一さんによるピアノ/キーボード伴奏の収録風景も。ここでは「道程」が中心に扱われており、伴奏だけ聴いていると、3拍子の曲ながら、ジャズナンバーのようです。
 
やはり子供向け、と侮るなかれですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月23日

昭和4年(1929)の今日、朝日新聞社において開催されたミスコンテスト「現代女性美」審査会に審査員として参加しました。
 
これは『アサヒグラフ』誌上の企画でした。この時代、ミスコンテストといいながら写真審査のみ。下の画像が選考風景ですが、光太郎、真剣に写真に見入っています。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 5
 
イメージ 4
審査終了後の座談会の模様がこの年8月7日発行の『アサヒグラフ』に載っており、「光太郎遺珠」⑤に収めてあります。8名の「女性美代表」のうち3名の写真も出ていますが、画像が粗くてよくわかりません。
 
ただ、その一人が、のち歌人として名が知られる斎藤史(ふみ)。右はその後しばらくたってからの写真ですが、確かに美人ですね。
 
ちなみに日本初のミスコンは明治41年(1908)。なんと、この時の審査員には光雲も名を連ねています。
 
この時の賞品はダイヤモンドの指輪だったそうです。一等賞は九州出身の末弘ヒロ子。お姉さんのお孫さんはジャズピアニストの山下洋輔さんです。
 
義兄が勝手に応募したとのことで、今でもよく聞く話ですね。しかし、ヒロ子嬢、これがもとで通っていた学習院女学部を退学させられます。そういう時代だったのですね。

昨日、朝一番で花巻に向かい、継続中だった調査を完了させ、大沢温泉さんに一泊、今朝、福島に向かいました。福島市公会堂で開催の、「宇宙飛行士山崎直子氏講演会 ~将来への夢と希望の実現に向けて~」のためです。
 
イメージ 1
 
000昨日のブログにも書きましたが、山崎さんがかつて光太郎の詩「道程」に支えられたという縁で、「道程」など光太郎の詩に曲を付けて歌われているシャンソン歌手(なぜか今日は『シンガーソングライター』と紹介されていました)のモンデンモモさんがオープニングセレモニーにご出演。共にオリジナル曲の「道程」と「花見山」を歌われました。
 
「花見山」は福島市にある公園の名前です。当方、実際に行ったことはありませんが旅番組で取り上げられているのを見たことがあります。約5ヘクタールの小高い山に、桜をはじめ様々な花が植えられていて、福島を代表する花の名所だそうです。驚くのは、そこが個人の土地であり、所有者の方が善意で一般に無料開放なさっているということ。すばらしいことですね。
 
で、モモさん、その花見山を訪れての感動を曲にしたというわけです。
 
その後、山崎さんのご講演。スクリーンに宇宙での貴重な画像を映しつつお話をなさり、非常にわかりやすい内容でした。地元の小中学生が学校単位で多数聴きに来ていたので、その子供たちにもわかりやすいように、というご配慮が随所に感じられました。おかげで理数系オンチの当方も興味深く聴くことが出来ました。
 
光太郎のお話も出ました。中学2,3年生の時の担任の先生が「道程」を黒板に書いて、熱く語られたこと。その時はあまり心に響くものはなかったそうですが、後に実際に宇宙に行かれるまでの苦しい訓練の時期(実に10年以上)などに、この詩が支えになったことなど。
 
山崎さん以外にも、この詩に多かれ少なかれ影響を受けたという人は多いのではないでしょうか。およそ100年前(正確には99年前。したがって来年は「道程」100周年です)に書かれた詩が、今も多くの人を支えているということに、あらためて光太郎のすごさを感じます。
 
終了後、緞帳をおろしたステージでの記念撮影。中央が山崎さん。後列にはモモさんとピアノの砂原さんもいらっしゃいます。

001

 
その後、山崎さんと、連翹忌のことなどお話しさせていただきました。お渡しした名刺にこのブログのURLも書いてありますので、ご覧いただけるのではないかと期待しております。
 
ところで、今日は福島ではいろいろな動きがありました。やけに警察車両が目立つな、と思っていたら、天皇皇后両陛下が来県、飯舘村の居住制限区域を視察なさって、今夜は飯坂温泉に泊まられるそうです。それからいわき市ではプロ野球のオールスターゲーム第3戦が開催されています。
 
東北は、まだまだ復興途上です。ぜひこの夏休みには足を運んでいただき、復興支援をお願いしたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月22日

昭和27年(1952)の今日、山形・米沢に建てられた詩人・森英介の墓標の文字を揮毫しました。
 
森英介(大6=1917~昭26=1951)は米沢出身の詩人。生前に(正確にはぎりぎり間に合わずなくなりましたが)刊行された唯一の詩集『火の聖女』には、光太郎が序文を寄せています。この詩集は活字工として働いていた森が自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、森はその直後に胃穿孔で急逝してしまいました。
 
翌年に建てられることになった墓標の文字を依頼された光太郎は、哀惜の意を込めて正面に刻まれた「森英介之墓」、向かって左側面の「智応院正行日重居士」(戒名)を揮毫しました。
 
当方、10年ほど前に開通間もない山形新幹線に乗ってこの墓標を見に行きました。市内相生町の善立寺というお寺にひっそりと佇んでいました。今もそのまま残っているのではないかと思います。おそらく地元の方もほとんど光太郎の文字がここにあるというのはご存じないのではないでしょうか。

003  004

福島の地方紙『福島民友』さんの記事です。  

“夢実現までの努力”語る 22日、山崎直子さん講演会

 福島ゾンタクラブ主催の「宇宙飛行士山崎直001子講演会」は22日午後1時30分から、福島市公会堂で開かれる。同市教委、福島民友新聞社などの後援。
 同クラブが毎年開催している学校支援事業の一環で、記念講演会は初めて。当日は山崎さんが「将来への夢と希望の実現に向けて」と題して講演。宇宙飛行士としての夢を実現するまでの努力などを紹介するほか、夢を持つこと、その夢を実現するまでの努力の大切さなどを訴える。
 定員は1千人。小中学生、高校生は無料だが、入場整理券が必要。大学生と一般は1000円。チケットは、中合、岡崎陶器店、あきたや楽器店で取り扱っている。問い合わせは白川明美実行委員長(電話024・542・4041)へ。
(2013年7月4日 福島民友おでかけニュース)
 
山崎直子さんといえば、2010年、スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗、向井千秋さんに続き、日本人2人目の女性宇宙飛行士として脚光を浴びました。その頃、山崎さんを支えた座右の銘の一つが、光太郎の詩「道程」の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だったことが報じられたのを記憶されている方も多いことでしょう。
 
才色兼備の女性に愛され、あの世の光太郎も光栄と感じているのではないでしょうか。
 
さて、もうお一方、光太郎をこよなく愛する才色兼備の女性。このブログにたびたび登場していただいている、シャンソン歌手のモンデンモモさん。「道程」などの光太郎の詩にご自分で曲を付け、歌われています。「モンデン」は本名で、漢字で「門田」、れっきとした日本人なのですが、よく「何人ですか?」と聴かれ、そういう場合、「宇宙人です」と答えています。山崎さんとは違った意味で凄い女性です。
 
明日の福島での講演会では、その宇宙飛行士と宇宙人のコラボが実現します。どのタイミングになるのかよくわからないのですが、同じ福島公会堂のステージでモモさんが自作の「道程」を歌われるとのこと。
 
モモさんに聞いた話では、山崎さんのお知り合いの方が、山崎さんと「道程」の関連から、「こんなものがありますよ」と、モモさんのCD(ちなみにその制作には当方も関わっています)を差し上げたとのことで、その縁で今回のコラボが実現しました。
 
当方、モモさんのお供で福島に行って参ります。あわよくば来年以降の連翹忌に、山崎さんに入らしていただこうという目論見ももちろんあります。
 
さて、花巻での調査がまだ途中です。そこで、方角が「同じなので、今日は朝一で花巻に行き、調査。例によって大沢温泉さんに一泊、明日の朝、福島に向かいます。講演会の様子は帰ってきてからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月21日

明治16年(1883)の今日、光太郎のすぐ上の姉・うめが幼くして歿しました。
 
この年3月に生まれた光太郎はまだ赤ん坊です。したがって、光太郎にはうめに関する直接の記憶はありませんでした。うめは享年数えで5歳。利発な子供だったということです。

注文していたCDが届きました。  
2013.06.26 発売¥2,286+税/WPCL-11429001

1. ええじゃないか日本 
2. 山のあなた 
3. すずめのこ 
4. やせがえる 
5. 夏は来ぬ 
6. ことわざしりとり 
7. なせばなる 
8. 雲 
9. 浜辺の歌  
10. きりぎりすの山登り 
11. 道程 (高村光太郎「道程」より) 
12. 故郷  000
13. 竹 
14. キックキックトントン (宮沢賢治「雪渡り」より) 
15. 冬景色 (文部省唱歌) 
ボーナストラック  「元気コンサート in 福島」より
16. さよなら
17. 元気でいこう!ごもじもじ 
18. もちづくし (侭田亀治郎「糯尽」 狂言「業平餅」 井上ひさし「薮原検校」より)
 
NHKEテレ(旧NHK教育テレビ)で放映中の子供向け番組「にほんごであそぼ」の最新CDです。

子供向けCDと侮るなかれ。「道程」は坂本龍一さんの作曲です(他に「すずめのこ」「やせがえる」「なせばなる」「もちづくし」も)。さらにそれぞれの曲のピアノ伴奏も坂本さん自身が務めています。
 
「坂本龍一」というネームバリューでありがたがるわけではありませんが、やはりひと味違いますね。例えば「道程」。歌詞として使っているのは有名な冒頭の二行「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だけ。それを不思議なメロディーに乗せて、2回リフレインしています(歌っているのは同番組に出演している子役)。したがって1分30秒の短い曲です。くどくど作らずサビの部分だけ、という感じですが、一度聴いたら忘れられないきれいな、しかし不思議なメロディーです。
 
ボーナストラック3曲は、昨年12月28日、福島県文化センターで開催された「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」のライヴ録音です。この時は、坂本さんや尺八奏者の藤原道山さんなどがゲスト出演、「道程」も演奏されたそうです。その模様は今年1月6日にテレビ放映されたのですが、見逃しました。
 
その「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」もDVDとして発売されましたので、早速注文しました。届いたらまたレポートします(ネタは小出しにするのがブログを長く続ける秘訣です)。
 
さて、奇しくも「道程」「福島」というキーワードで、来週月曜日、7月22日午後1時半からイベントがあります。宇宙飛行士の山崎直子さんの講演会です。会場は福島市公会堂。明日はそちらをご紹介します(ネタは小出しにすべし。くどいようですが)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月20日

昭和48年(1973)の今日、NHK総合テレビで放映の光太郎智恵子を描いた「銀河テレビ小説 生きて愛して」が、最終回を迎えました。
 
「銀河テレビ小説」は昭和40年代から平成のはじめまで、NHK総合テレビで放映されていた夜の帯ドラマです。一定以上の年代の方には懐かしいでしょう。「生きて愛して」は昭和48年(1973)6月1日から7月20日までのオンエア。智恵子役が大空真弓さん、光太郎役が片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)さんでした。他に渡辺美佐子さん、水沢アキさんなどが出演されていました。

002

 
ちなみに仁左衛門さんの次女・片岡京子さんは、平成12年(2000)に津村節子さん原作の「智恵子飛ぶ」が新橋演舞場で舞台化された際、智恵子役を演じました。ただし、元々智恵子役をやる予定だった女優さんが身内の不祥事で急遽降板してしまったための代役でした。光太郎役は平幹次郎さん、のち近藤正臣さん(京都公演)でした。
 
時を隔てて親子で光太郎・智恵子を演じるというのも不思議な縁ですね。

朝と夕方、愛犬(柴犬系雑種・9歳)の散歩をしています。やけに暑い日は涼を求め、雨の日は多少なりとも雨を避けるため、裏山を歩くことがあります。戦国時代には山城があったという小山で、舗装されていない山道があり、ちょっとした森林浴気分が味わえます。
 
裏山の一角にヤマユリが群生している場所が二カ所ほどあり、このところ満開です。香りも強烈です。
 
イメージ 3

イメージ 1
 
さて、例によって……
 
【今日は何の日・光太郎】 7月19日

昭和16年(1941)の今日、詩「百合がにほふ」を書きました。
 
   百合がにほふ
   
どうでもよい事と
どうでもよくない事とある。002
あらぬ事にうろたへたり、
さし置きがたい事にうかつであつたり、
さういふ不明はよさう。
千載の見とほしによる事と
今が今のつとめとがある。
それとこれとのけぢめもつかず、
結局議論に終るのはよさう。
庭前の百合の花がにほつてくる。
私はその小さい芽からの成長を知つてゐる。
いかに営営たる毎日であつたかを知つてゐる。003
私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。
 
この年12月には太平洋戦争が勃発します。すでに中国との戦争は泥沼化しつつある時期。そういう時期であることをうかがわせる内容ですね。
 
さて、この詩は翌年4月に刊行された詩集『大いなる日に』に収録されており、また、草稿も残されているのでこういう詩だというのはわかっています。しかし初出掲載誌が不詳です。残された草稿の欄外には<「皇楯」へ>というメモが書かれています。『皇楯(みたて)』は軍人会館図書部刊行の雑誌。国会図書館には所蔵がなく、日本近代文学館や石川武美記念図書館(旧:お茶の水図書館)などに少部数の所蔵があり、調べてみましたがこの詩が載った号はありませんでした。おそらく昭和16年(1941)夏に刊行された号に載ったと思われます。
 
というわけで、この「百合がにほふ」の載った『皇楯』の情報を求めています。ご存じの方はご教示下さい。

追記 昭和16年(1941)9月1日発行の『皇楯』第2巻第9号に掲載を確認し、現物を入手しました。

現在、千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。そのポスターやチラシには光太郎の木彫「蟬」が使われています。
 
今回、「蟬」の木彫は3点展示されており、ポスター等に使われているのは、便宜上「蟬3」というナンバーが降られています。こちらは高村家の所有です。
 
他の「蟬」は買われて日本各地に散り、そ無題2のうち「蟬4」とナンバリングされているものは、新潟県佐渡島の渡邉家が購入しました。大正15年(1926)のことです。今でも渡邉家の方が大切に保存なさっていて、今回の企画展で久しぶりに公開されました。
 
大正時代の渡邉家のご当主は渡邉林平。「湖畔」と号し、与謝野鉄幹の『明星』や『スバル』に短歌を発表、その縁で光太郎と知り合いました。単に知り合っただけでなく、お互いに気が合ったようで、佐渡と東京と、離れていながらお互いの家を行き来したりもしていました。
 
そんな関係で、渡邉家にはこの「蟬」以外にも、光太郎筆の油絵(早世した湖畔の娘の肖像)や書幅、書簡なども多数残っています。ちなみに「蟬」は湖畔の弟で、出版社を経営していた芳松の発注です。それらは平成19年(2007)、新潟市会津八一記念館で開催された企画展「会津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」でまとめて公開されました。
 
さて、過日、湖畔の弟、芳松のご子息・和一郎氏から書籍を5冊もいただきました。『渡邉湖畔年譜』、『渡邉湖畔遺稿集』、『佐渡びとへの手紙 渡邉湖畔と文人たち』上中下の5冊です。和一郎氏、連翹忌にもご参加いただいておりますし、千葉展の初日・オープニングレセプションにもいらして下さいました。
 
イメージ 2
 
光太郎はもちろん、与謝野夫妻や会津八一などとの交流のようすが生き生きと描かれています。全て新潟での自費出版ということで、簡単に手に入るものではありません。ありがたい限りです。
 
特に「蟬」が再び日の目を見たときのくだり。芳松は早くに亡くなり、「蟬」や関連する書簡は久しく土蔵にしまい込まれていて、しまい込まれたことも忘れられていたとのこと。
 
同じような例は他にもいくつかあります。まだまだ日本のどこかに光太郎の彫刻も眠っているのかもしれません。

2020年追記 京都から5点めの「蝉」が見つかり、2020年、富山県水墨美術館さんでの企画展「画壇の三筆」にて展示されます。

さらに追記 同展、コロナ禍のため中止となりました。残念です。

2021年追記 同展、2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

 
【今日は何の日・光太郎】 7月18日

昭和51年(1976)の今日、6月から開催されていた東京セントラル美術館の「高村光太郎―その愛と美―」展が閉幕しました。
 
この時点ではまだ「蟬4」の存在は一般に知られていませんでした。

昨日までのブログで福島・川内村天山祭りについて書きましたが、川内村に行く前に、同じ福島の小野町にある「丘灯至夫(としお)記念館」さんに行きました。
 
川内村と同じく、磐越自動車道の小野ICで下り(川内村は、本来、常磐自動車道の常磐富岡ICで下りるのが早いのですが、原発事故のため常磐自動車道は事故から2年以上たった今も広野IC~常磐富岡IC間が通行止めです)、車で5分ほどの場所です。
 
「記念館」という名称ですが、正確には「小野町ふるさと文化の館」の一角で、町立図書館さんの二階です。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
故・丘灯至夫氏は小野町出身の作詞家。代表作は舟木一夫さんの歌う「高校三年生」。「あーかーいーゆうーひがー校舎をそーめーてー」です。メロディーがぱっと浮かぶ人はある程度の年齢でしょうね。ちなみにこの曲のリリースの時点では当方は生まれていません。したがって、当方としては同じ丘氏の作品でも、「ハクション大魔王」や「昆虫物語 みなしごハッチ」のテーマソングの方が身近に感じられます。これらも十分古いのですが(笑)。
 
さて、それ以外の丘氏の代表作に、二代目コロムビア・ローズさんが歌った「智恵子抄」があります。昭和39年(1964)のリリースで、ローズさんはこの年の「紅白歌合戦」にこの曲で出場しています。そのあたりは昨年、このブログに書きましたのでご参照下さい。


 
で、作詞の丘氏の記念館が出身地の小野町にできたわけです。落成は平成5年(1993)。丘氏はまだご存命でした。その後、小野町名誉町民となられたのが同13年(2001)、亡くなったのは同21年(2009)。そして翌年に展示スペースを増設して、記念館がリニューアルされました。
 
展示パネル類。やはりご当地ソングということで、「智恵子抄」が大きく扱われています。
 
イメージ 3
 
二本松出身の日本画家・大山忠作氏の描かれた安達太良山の絵との合作です。ちなみに大山氏も「智恵子抄」がらみの絵をたくさん描いていて、二本松駅前にはそれらを展示する大山忠作美術館ができています。
 
館内には丘氏の代表作がBGMとして流れていましたが、「智恵子抄」もしっかり流れていました。「東京の空 灰色の空 ほんとの空が見たいという……」。丘氏も、大山氏も既に空の上に行ってしまいました。昨日までこのブログで扱っていた草野心平も。そして、もちろん智恵子も。みなさん、空の上から福島を見守って下さっていることでしょう。しかし、その空が原発事故のために「ほんとの空」ではなくなってしまいました……。
 
話は飛びますが、もうすぐ参議院議員選挙。憲法改正やらTPPやらが取りざたされていますが、被災地復興が今ひとつ選挙の争点になっていないような気がします。かたや未だに福島第一原発では汚染水の処理がうまくいかない現状。福島の空の上から、丘氏や智恵子たちは、どんな思いでそれを見ているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月17日

昭和23年(1948)の今日、高知県香我美町(現・香南市)岸本で、光太郎が揮毫した岡本弥太詩碑「白牡丹図」が除幕されました。
 
イメージ 4

上記画像、20年近く前に高知まで行って撮ってきました。

そろそろ次のネタに行こうかと思っていましたが、ニュース検索を見ていたところ、先日の川内村天山祭りについて報道がありましたのでご紹介します。  

帰還2年目「天山祭り」 川内で開催、喜びかみしめ

 川内村名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平を顕彰する村恒例行事第48回「天山祭り」は13日、同村で開かれ、参加者が心平をしのぶとともに、原発事故前と同様に村で行事を行えることへの喜びをかみしめた。
 原発事故後、実行委主催の同祭り開催は昨年に続き2回目。同祭りは心平の蔵書が収蔵される「天山文庫」での開催が恒例だが、今回は雨天のため、いわなの郷体験交流館で開かれた。
 村民をはじめ、県内外から集まった心平ファンら約200人が来場。「高田島神楽舞」が村の伝統芸能の神楽舞、村婦人会が川内甚句などを披露した。
 心平自身による詩の朗読が収録されたCDも流され、参加者はあらためて心平の詩の魅力に触れた。
(2013年7月14日 福島民友ニュース)
 
イメージ 1
  

草野心平の業績 川内で学びたい●ひ孫のスペイン人来訪

 川内村で13日、詩人の草野心平(1903~88年)をしのぶ「天山祭り」が開かれ、心平のひ孫のスペイン人女性(31)が初めて出席した。会場に飾られた心平の写真に「おじいちゃんそっくりな顔」と語った。
 スペイン南部のセビリアに住むマリアデルカルメンさん。今年5月に来日した。祖母にあたる、心平の長男の妻が東京・神楽坂で開いているバーを「メリー草野」の名前で手伝っている。フラメンコダンサーだった、心平の長男の娘がスペイン人男性と結婚して生まれたのがメリーさんだ。
 来日は5回目だが、福島で原発事故が起き、「日本にいる親類たちが大丈夫なのか、ものすごい不安だった」という。心平の出身地であるいわき市と、心平ゆかりの川内村を間近で見て「不安は減ったが、まだ状況を理解できない」と話す。
 心平は、川内村の寺の住職の招きでモリアオガエルの平伏(へ・ぶす)沼を訪れたのがきっかけで、1年のうち数カ月を川内で過ごしていた。天山祭りは村民やファンとの交流行事として始まり、心平の死後も続き、今年で48回目。集まった約200人にメリーさんは紹介された。
 祭りでは心平の詩が朗読された。メリーさんは「母親から昔、『草野心平』について名前を聞かされたが、どんな人物かまでは知らなかった。これだけの人たちが今も集まるのに驚いた。心平の業績をこれから学んでいきたい」と語った。   (岡本進)
 
イメージ 2
 

メリーさん、この後、村内の小松屋旅館さんで開かれた懇親会にもご参加下さいました。どさくさに紛れて千葉市美術館の「彫刻家 高村光太郎展」のチラシを差し上げてきました。
 
記事の中で「おじいちゃん」とあるのは心平の長男・故草野雷(らい)氏。「長男の妻」とあるのは、草野智恵子さん。奇しくも「智恵子」さんです。智恵子さんもメリーさんともども今回川内にいらっしゃいました。
 
心平や、ついでに(笑)光太郎が国境を越えて世界の人々にもっと知られる橋渡しになっていただければと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月16日

昭和23年(1948)の今日、岩手花巻で「花巻賢治子供の会」を主宰、賢治の童話劇を上演していた照井登久子が作成した光太郎点字詩集の表紙を揮毫しました。

イメージ 3
 
 

一昨日、福島県川内村の草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」に行って参りました。今日も川内村ネタで行きます。
 
もともと草野心平と川内村の縁は、蛙。蛙をモチーフにした詩をたくさん書いた心平が、樹上に産卵するというモリアオガエルに興味を持ち、その生息地である川内村を訪れたことに始まります。
 
先日の天山祭りでは、心平の肉声の録音による詩の朗読が流されました。宮沢賢治の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、そして心平自身の詩「ごびらっふの独白」。「蛙語」で書かれています。
 
  ごびらっふの独白 001

 

るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。

くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。

なみかんた りんり。

なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。

けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。

きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。

じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。 002

ぷう せりを てる。

ぼろびいろ てる。

ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる

ける ありたぶりあ。

ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。

いい げるせいた。

でるけ ぷりむ かににん りんり。

おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。

びる さりを とうかんてりを。

いい びりやん げるせえた。

ばらあら ばらあ。
 
この詩は昭和23年(1948)に刊行された心平の詩集『定本蛙』に収められていますが、その扉は光太郎の揮毫です。
 
まず光太郎には書けない詩ですね。光太郎は自分にはない心平のこの種の才能を高く評価していました。
 
この詩には「日本語訳」もついています。003
 
幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。 
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
侏羅紀の先祖がやつてくれた。
考へることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもつとも永い歴史をわれわれがもつてゐるといふことは 平凡であるが偉大である。
とおれは思ふ。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言わば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。
 
さて、一昨日。天山祭りとその後の懇親会の間が一時間以上空いていましたので、村有数のモリアオガエル繁殖地である平伏沼(へぶすぬま)に行ってみました。
 
蕭々と降る雨の中、村の中心部から7~8㎞はあったでしょうか、延々と続く山道を「ほんとにこの道でいいのかな」と思いつつ運転しました。これ以上車で行けない、というところに駐車し、熊でも出そうな森の中をさらに200㍍ほど歩きました。
 
やがて眼前に沼が。意外だったのは、沼といいつつ水が無いことです。
 
イメージ 3
 
木の下に発泡スチロールの容器が100個ほども置いてあるでしょうか。中を見ると……。
 
イメージ 4
 
これがモリアオガエルのオタマジャクシなんですね。心平の魂を受け継ぎ(笑)、元気に育ってほしいものです。
 
親ガエルは盛んに鳴いていましたが、その姿は見えませんでした。また、特徴的な樹上の卵胞も、それらしきものは見えましたが、よくわかりませんでした。雨も降っていましたし、もう日暮れが近づいていましたので。
 
モリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物に指定されているのは、ここと、岩手県にもう一カ所だけだそうです。原発事故に右往左往する我々人間を見て、蛙たちは、そしてあの世の心平や光太郎は、どう思っているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月15日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が大量の睡眠薬を服用しての自殺未遂がありました。
 

昨日は、第48回天山祭りにお招きいた002だき、福島川内村に行って参りました。川内には昨秋の心平忌日「かえる忌」でお邪魔しましたが、天山祭りへの参加は今回が初めてでした。
 
原発事故による全村避難は昨年解除され、帰村宣言が出されましたが、まだ帰れない村民の皆さんも多く、また、村へ向かう道路もまだ復旧工事中の箇所もありました。ただ、復興への歩みはゆっくりながらも進んでいるようです。
 
天山祭りとは、川内村名誉村民にして、隣接するいわき市出身の詩人・草野心平の遺徳を偲ぶ集いです。元々は心平が蔵書3,000冊を寄贈して出来た「天山文庫」、その落成記念に始まったもののようですが、生前の心平自身がこの祭りに参加、お酒やイワナ、山菜などに舌鼓を打ったとのこと。
 
心平没後はその遺徳を偲ぶ集いとなりましたが、堅苦しいものではなく、心平自身が参加していた当時と同じように、郷土芸能などの披露が続けられています。
 
昨日は福島浜通りは終日雨のため、本来の会場である天山文庫前でなく、少し離れた「いわなの郷体験交流館」という施設で行われました。参加者100名以上だったと思います。
 
話は変わりますが、光太郎は稀代の雨男。生前から何かあるときは必ず雨(冬場は雪)でした。亡くなった4月2日も、4月にも関わらず季節外れの大雪を降らせました。今もその神通力は健在。4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です(もちろん今年も)。
 
というわけで、昨日は当方が光太郎を連れて行ってしまったための雨かな、などと思っております。すみませんでした(笑)。
 
さて、昨日の式次第は以下の通りでした。
 
開祭の言葉(川内村教育長 秋本正氏)003
実行委員長挨拶(石井芳信氏)
村長挨拶(遠藤雄幸氏)
かわうち草野心平記念館館長挨拶(晒名昇氏)
来賓紹介
郷土芸能披露(高田島神楽舞)
献花
草野心平肉声CDによる朗読
詩の朗読(いわき市立草野心平記念文学館長 粟津則雄氏/『歴程』同人 松尾真由美氏)
鏡開き・献杯
懇親会
アトラクション
おひらき
 
その後、村内の小松屋旅館様で懇親会。心平のご遺族を含む30名ほどが集まり、それぞれに心平への思いなどを語りました。当方、生前の光太郎がお世話になった御礼等申し述べました。
 
イメージ 2

イメージ 3
 
川内村では天山祭り以外にも、秋には心平の忌日の集いとして「かえる忌」が行われています。今年は10/26(土)の開催だそうです(当方、講演を依頼されました)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月14日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに電気冷蔵庫が届きました。
 
これも心平の配慮です。心平が筑摩書房にかけあって、未払いの印税をもぎとって来て(笑)購入しました。以下、心平著『わが光太郎』より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

昨年の今頃もブログに書きましたが、昨日から当方の暮らす千葉県香取市佐原地区で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
巨大な人形を冠した10台の山車(だし)が江戸風情の残る佐原の町を練り歩いています。
 
山車には精巧な木彫が施され、中には東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明の家系が関わったものもあります。また、人形も地元では光雲が絶賛したという言い伝えも。
 
イメージ 1
 
祭りは日曜日までの3日間。その期間が忙しいという方は、通年で山車を観られる「山車会館」という施設もあります(月曜休館)。
 
江戸の職人技にご興味のおありの方、ぜひお越し下さい。
 
といいつつ、当方、昨日はあまりの暑さに観に行く気になれず、今日は福島川内村での草野心平を偲ぶ「第48回天山祭り」に行って参ります。明日、日曜は佐原の祭りを観に行こうと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月13日

明治43年の今日、光太郎の経営する画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、画家・柳敬助の個展が開幕しました。
 
柳敬助と光太郎が知り合ったのはニューヨーク。一説には荻原守衛を光太郎に紹介したのが柳とのこと。双方帰国後も交友が続き、柳の妻・八重は日本女子大学校の卒業生だったこともあり、智恵子を光太郎に紹介する橋渡しをしました。

千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」。おかげさまで好評をいただいているようです。
 
新聞各紙などでもご紹介くださっています。
 
『朝日新聞』さんのサイト【朝日新聞デジタル】で、「彫刻家・高村光太郎展」という記事が載っています。ただし、全文を見るには会員登録が必要です。
 
イメージ 1
 
また、『日本経済新聞』さんのサイトでは、「アートレビュー」というコーナーで「高村智恵子「くだものかご」」という記事が閲覧できます。
 
企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」では、智恵子の紙絵の本物が展示されており、それを受けての掲載ですね。
 
イメージ 2
高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。
 
「あなたはどう見ますか。」と問いかけていますが、『日経』さんではその答えを募集しています。
 
日本経済新聞朝刊「NIKKEI ART REVIEW」に読者の感想や専門家のひのひと言を掲載します。作品の感想は、〒100-8779 日本郵便銀局留め日本経済新聞社 生活情報部「アートレビュー」係、またはart-review@nex.nikkei.co.jpまで、名前、住所、職業、生年月日を記載の上、お寄せください。掲載者には図書カード2000円分を郵送します。応募締め切りは2013年7月22日到着分まで。
 
2000円めあてに当方も応募してみようと思っています(笑)。みなさんもいかがですか?
 
【今日は何の日・光太郎】 7月12日

明治22年(1889)の今日、光雲が東京美術学校教諭に昇進しました。
 
それまで「雇(やとい)」だったのが「教諭」に。さらに翌年には「教授」となり、同時に帝室技芸員にも任ぜられます。

昭和12年(1937)に作られた光太郎の詩に「わが大空」というものがあります。
 
  わが大空002
 
こころかろやかに みづみづしく
あかつきの小鳥のやうに
胸はばたき
身うちあたらしく力満つる時
かの大空をみれば
限りなく深きもの高きもの我を待つ
ああ大空 わが大空
 
こころなやましく いらだたしく
逃げまどふ狐のやうに
胸さわだち
身の置くところも無きおもひの時
かの大空をみれば
美しくひろきものつよきもの我を待つ
ああ大空 わが大空

昭和18年(1943)に刊行された光太郎の詩集『をぢさんの詩』に収録されていますし、光太郎が手元に残した草稿も現存するので、詩の内容はわかっていました。
 
草稿の欄外には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」という書き込みがあり、東京音楽学校(現・東京芸大)に歌詞として提供したと読み取れます。しかし、長らく初出発表誌が不明で、結局は作曲されないままお蔵入りになったのかと思われていました。
 
ところが、一昨年、国立国会図書館の近代デジタルデータで公開された当時の音楽教科書(師範学校、高等女学校、実業女学校用)の中に、この「わが大空」の楽譜が掲載されていました。
 
しかし、現代では忘れ去られてしまった曲なわけです。
 
作曲は故・松本民之助。坂本龍一氏の師にあたり、子息の松本日之春氏も作曲家として活躍中です。当方、たまたま日之春氏のインストゥルメンタルのCDアルバムを持っています。エスニックサウンド的な不思議な曲が並んでいます。そして弟子が坂本龍一氏。するとやはり師匠も一筋縄ではいきません(笑)。
 
この「わが大空」も、これが本当に1930年代の作曲か、というような曲調です。他にも光太郎作詞の歌曲は複数あるのですが、大半は軍歌調の平易なメロディーです。ところがこの「わが大空」は現代音楽のはしり、といった感じです。
 
イメージ 2
 
4分の3拍子、♩=108という速めの指定で、一、二番とも変イ長調(A♭)で始まり、中間部でロ長調(B)に転調、再び変イ長調に戻って終わる構成になっています。
 
だいたい、変イ長調(A♭)というとフラット4つで演奏しにくいので、もう半音下げてト長調(G)にした方がずっと簡単です。転調してロ長調(B)に変わりますが、今度はシャープが5つ。これも半音下げれば変ロ長調(B♭)となりフラット2つで済みます。そうしないところに何らかのこだわりがあるのでしょうが、こだわる理由がよくわかりません。
 
まあ、歌う方は固定ドでなく移動ドで捉えるのがほとんどですので、キーが何であろうがそれほど影響はないのかもしれませんが、それにしてもダブルシャープも多用しており、楽譜が煩瑣です。
 
それ以外にも一、二番で旋律、リズムに違いもありますし、二部合唱で作られていて、二つのパートでかなりポリフォニック(リズムや歌詞の配置に違いがあること)になっていますし、和音の構成も一筋縄ではいかず、さらに各パートとも音域が広い作りになっています。
 
ピアノ伴奏は前奏と間奏の部分しか掲載されていませんが、それだけでも凝った作りになっているのがわかります。全体としてはどれほど凝った伴奏になっているのだろう、などと思ってしまいます。
 
というわけで、歌曲としてのクオリティーは非常に高いのですが、はっきりいうと、当時の師範学校、高等女学校、実業女学校の生徒が、この曲をしっかり合唱できたわけがありません。それほど難易度の高い曲です。そうした点が、この曲が忘れ去られてしまった原因の一つだろうと思われます。
 
昨日も書きましたが、楽譜は当方刊行の冊子『光太郎資料』の今秋発行号に掲載します。ご入用の方はご連絡下さい。
 
それから、この「わが大空」、レコード化された記録が見あたりません。もしその辺りの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。
 

【今日は何の日・光太郎】 7月11日001

昭和2年(1927)の今日、白根・草津・信州別所などを回った9日間の旅から帰りました。
 
以前のこのブログにも書きましたが、信州別所は当方父祖の地です。ここは「信州の鎌倉」ともいわれ、鎌倉時代の堂宇や仏像などが数多く残っています。特に珍しいのが安楽寺というお寺にある八角三重塔(国宝)。現存する近世以前の木造の塔で八角形になっているのはこれが唯一の例だそうです。
 
一見、四重に見えますが、一番下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)で、内部構造は三重です。
 
さて、光太郎、この旅の途上で購入したこの塔の絵葉書を、詩人の宮崎丈二に送っています。
 
御はがき忝く拝見、此間中からかけ違つてばかり居ておめにかかれずに居ます。
初夏の暑さで頭を悪くしたのと山恋しさに堪へないのとで三日から白根山方面の山を歩き、二三の温泉へも入浴して昨日かへりました。おかげで心身一新した感があり、此夏十分に働けさうです。いづれ又。
高村光太郎
 
父祖の地なので、子供の頃から何度も行った場所ですが、ここを光太郎も訪れたんだなと思うと感慨深いものがあります。

先週、隣町・成田でパソコンの楽譜作成ソフトを購入してきました。
 
当方が年2回刊行しています冊子『光太郎資料』の中に、光太郎作詞だったりする歌曲等を紹介する項があり、そのために必要だからです。
 
4月にそれまで使っていたデスクトップのパソコンが壊れ、新しく買い換えたのですが、楽譜作成ソフトなど標準装備されているわけもなく、壊れたパソコンにインストールしていたものをもう一度インストールしようとしたら、OSが異なるので不可。
 
話は変わりますが、デスクトップのパソコンが壊れたため、一部の方のメールアドレスがわからなくなっています。yahoo!さんのメールアドレスに送って下さっている方は大丈夫なのですが、NTTさんのメールアドレスに送っていただいている方で、最近、当方からメールが来ないな、という方、メールいただければ幸いです。
 
閑話休題。楽譜作成ソフトの話でした。この手のアプリケーションソフトはネットからダウンロードすればよい、とお考えの向きもいらっしゃるでしょうが、広く知られたメーカーのごく当たり前のソフトならともかく、特殊なアプリケーションとなると、ウイルス感染の危険性などが気になり、ダウンロードで入手する気になりません。結局買い直しました。
 
それにしても、入手するのに苦労しました。
 
以前使っていたソフトは地元の家電量販店で購入したので、今回も行けばあるだろうと思って行ってみたら売っていません。しかたなく、日を改めて地元より大きい成田の家電量販店2軒を回りましたが、やはりありません。そこでショッピングモールに入っている大きな楽器店に行って、ようやく見つけました。しかし、棚に並んでいる箱をレジに持って行くと「店には在庫がありませんので、メーカーさんから取り寄せになります」とのこと。
 
需要と供給のバランスという経済の原則が働いているのですね。都会ならともかく、地方ではこの手のものの需要がないのでしょう。まぁ、取り寄せ、といっても3日ほどで届いたのでよかったのですが。
 
早速、楽譜作成を始めました。以前使っていたデスクトップが壊れる前に作りかけていたデータが使えたので、助かりました。曲は昭和12年(1937)に作曲された光太郎作詞の二部合唱「わが大空」。松本民之助の作曲です。
 
イメージ 1
 
いろいろと面白い背景もあり、その辺りの解説を交えて当方刊行の冊子『光太郎資料』に掲載します。次号は10月初めに刊行予定です。
 
せっかくですので、明日はその解説の部分を換骨奪胎してブログに載せようと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月10日

大正11年(1922)の今日、『時事新報』に光太郎の書いた森鷗外の追悼文「頭の良い厳格な人―鷗外追悼―」が掲載されました。
 
鷗外は前日、9日に亡くなっています。数え61歳。6日には有名な遺言を認(したた)めました。曰く「余ハ石見人(いはみじん)森林太郎トシテ死セント欲ス」。「林太郎(りんたろう)」は本名です。遺言に従って、その墓標にはただ「森林太郎墓」とのみ刻まれました。

一昨日の千葉市美術館での講演会においで下さった宮城在住の朗読家・荒井真澄様から花巻のお土産をいただきました。先日、花巻に行かれたそうで、現地で手に入れられたものをお持ち下さいました。ありがたいことです。
 
イメージ 1
 
『花日和』夏号(2013/6)。花巻で発行されているタウン誌のようなものです。
 
この中に「シリーズ先人紀行 高村光太郎」3ページ掲載されています。
 
イメージ 2
イメージ 3
 
5月に仮リニューアルオープンした高村光太郎記念館の紹介も。新聞を除き、きちんとした印刷物で紹介された先駆けではないかと思われます。
 
調べてみましたところ、花巻市役所のサイト内で紹介がありました。PDFで全文が読めます。ぜひご覧下さい。
 
光太郎以外にも宮澤賢治についても記述があります。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月9日

明治40年(1907)の今日、留学先のロンドンで、カーライル博物館を訪れました。
 
スコットランド出身の歴史家・評論家トーマス・カーライルの旧宅を一般公開していたもので、かの夏目漱石もイギリス留学中にここを訪れ、帰国後の明治38年(1905)に「カーライル博物館」という紀行文を発表しています。

千葉市美術館において開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事としての講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」、つつがなく終了しました。
 
ご来場下さった皆様、ありがとうございました。
 
150名定員のところ、140名ほどのお申し込みということで、抽選にはならず良かったと思いました。せっかくお申し込みいただいても抽選ハズレでは申し訳ありませんので……。
 
当方が把握しているだけでも、県内はもとより都内や神奈川、埼玉、さらには岩手、宮城、長野、愛知、大阪、兵庫など、遠方の皆様にもおいでいただきました。ありがとうございます。また、各地のお土産をいただき、恐縮でした。
 
花巻の記念会様からは、ご来場の皆様にまでお土産ということで、花巻で新たに作られたクリアファイルが配られました。太っ腹です(笑)。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 

やはり高村光太郎記念会事務局長にして、晩年の光003太郎と親しく接せられた北川太一先生のお話がメインということで、脇で聞き手を務めつつもいいお話だな、と感じ入っておりました。
 
講演に先立って、昨夜、かつて平成11年(1999)に北川先生が雑誌『日本古書通信』に三回にわたって寄稿された「光太郎凝視五十年」上中下を読み返したのですが、改めて感動しました。昨日のお話でも触れられた戦時中や終戦直後の知識人が「高村光太郎」をどう捉えるか、というお話-先生の御同窓だった故・吉本隆明をはじめ-など、昨日のお話以上に詳しく描かれています(必要な方はご連絡下さい)。
 
さて、これで肩の荷が一つ下りましたが、企画展はまだまだ開催中です。今後も関連行事として、学芸係長さんによる市民美術講座「光太郎・そのあゆみ」(7/20(土)、8/10(土)-申し込み不要)などが予定されています。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月8日

昭和30年(1955)の今日、一時重篤に近かった結核が小康となり、4月から入院していた赤坂山王病院を退院しました。

一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
イメージ 1

イメージ 2
  
鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
イメージ 3

イメージ 4
 
特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
イメージ 5
 
企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日、神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観に行って参りました。
 
003
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
 
昨日と今日が一般下見展観。実際に出品物を手に取ってみることができるのです。出品物の内容は目録に写真入りで掲載されているのですが、やはり手に取れるというところが魅力なので、行ってきました。
 
実は初めてでした。昨年は何だか忙しかったようで行きませんでしたし、その前までは平日に行くということは不可能でした。
 
イメージ 3
 
入り口のクロークでカバンを預け(出品物の盗難防止のため)、エレベータで文学関連の並んでいる4階へ。会場内は撮影禁止ですのでお見せできませんが、目録に載っている出品物が所狭しと並んでいました。
 
光太郎関連は、詩集『道程』初版や、草稿、識語署名入り献呈本、書簡などでした。そういったものは当方も持っているのですが、それでもやはり数十年前に光太郎が実際に手にしたものだと思うと、感慨ひとしおでした。また、毛筆の文字などは、写真ではよくわからない筆勢などが感じられ、やはり本物は違う、と思いました。
 
ちなみに文学関係の全ての出品物のうち、入札開始価格が最も高いのは石川啄木の書簡三通となぜか旧制盛岡中学の入学席次表のセット。600万円です。次いで中原中也から小林秀雄宛の書簡1通・400万円、夏目漱石の草稿11枚・280万円、正岡子規の書簡・250万円と続きます。ただし、入札開始価格なので、実際にはどうなるかわかりません。
 
また、今年は入札開始価格を設定せず、「ナリユキ」と記されているものがかなりありました。光太郎の署名本もそうなっています。これらは価値の判断が難しい、ということなのかなと思われます。
 
光太郎関連以外で個人的に最も興味深かったのは、価格としてはそれほどではないもの(といっても25万円)ですが、木村荘太の書簡でした。
 
木村荘太は光太郎と親しかった画家の木村荘八の兄で、明治末には智恵子と知り合う前の光太郎と、吉原の娼妓・若太夫を巡って恋敵となりました。その後、平塚らいてうから『青鞜』の編集を引き継いだ伊藤野枝(辻潤の妻、しかしアナーキスト・大杉栄と不倫恋愛中)に横恋慕(複雑な人間関係です)、そのあたりを戦後になって『魔の宴』という自伝小説に書いています。
 
木村の書簡は2通セットで、1通が伊藤野枝宛(恋文)、もう一通は大杉栄宛でした。「なんでこんなものが残っているんだ?」という感覚でした。ご存知の方はご存知の通り、大杉と野枝は大正12年(1923)、関東大震災のドサクサで、憲兵大尉・甘粕正彦に殺害されています。
 
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の恩師です。甘粕自身も東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治と親しかったりと、なんとも複雑な人間模様というか人間曼荼羅というか……。ついでに言うなら木村荘太は『魔の宴』刊行直後に成田山公園で縊死。その前から成田郊外の遠山村に住んでいたのですが、なんと近くには光太郎の親友だった作家の水野葉舟も移り住んでいました。あちこちでつながります。
 
さて、明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観。会場内には明治大正昭和の名だたる文豪にまつわるお宝が所狭しと並んでいました。それらの文豪達の相関図的なものを描いてみると、とんでもないことになるのでは、などと思いました。改めて明治大正昭和という時代の凄さを感じました。
 
さて、明日は千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、講演です。遠方からお越し下さる方もいらっしゃり、ありがたい限りです。お気を付けてお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月6日

昭和28年の今日、杉並の浴風園病院で診察を受け、正式に結核と診断されました。

岩手から入ったニュースです。 

詩人三田循司に光 詩歌文学館

 小説家の太宰治らと親交があった花巻市出身の詩人三田循司の書簡やノートなどの遺品が3日、親族から北上市本石町の日本現代詩歌文学館に寄贈された。同館は若くしての戦死が惜しまれた岩手の詩人の作品に光を当て、太宰をはじめとする文人との交友を物語る資料として保管し、研究に役立てる。

 三田は1917年生まれで、東京帝国大文学部に進学。友人の戸石泰一らと同人誌「芥」を創刊して詩を発表し、太宰を訪ねるようになる。太宰の紹介で評論家で詩作も著した山岸外史に師事。学徒動員で同大を繰り上げ卒業して出征し、1943年に戦死した。太宰には三田の記憶と死をつづった短編「散華」がある。

 寄贈したのは奥州市水沢区の佐々木比子さん(55)で、資料は段ボール箱2箱分のノートやはがきなど。佐々木さんの母で三田の妹綾子さん(85)が保管し、太宰生誕100年の2009年に同館で特別公開された物も含む。綾子さんが高齢になったことから、保存のために同館を頼った。

 三田は大卒後すぐに出征したために作品が少なく、ノートなどは貴重。三田の詩を評した太宰からのはがきには「文学でも人間でも『素朴な感動』を忘れてはいけません」という激励の言葉があり、太宰の側面の一つの前向きな人間性が感じられる。また「散華」の中でも触れられている三田の遺稿集出版の打ち合わせについて書かれたはがきもある。

 このほか三田の弟悊の遺品の一部も提供。花巻市とゆかりの深い詩人で彫刻家の高村光太郎や宮沢賢治の弟・清六さんからのはがきもあり、文人とのつながりの数々を示す。

 同館では09年の特別展示の際に一度資料の目録を作成しており、再度本格的に整理しての展示を計画している。佐々木さんは「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」と依頼。同館の豊泉豪上席主任学芸員は「三田は『散華』の主人公とも言え、本名で登場している。調べていけばこれまで知られていなかった側面も発見されるだろう」と話し、寄贈に感謝していた。
 
イメージ 1
 
三田循司・悊(せい)兄弟の遺品で、太宰や光太郎などに関するものが、北上市の日本現代詩歌文学館に寄贈された、という内容です。
 
一連の資料は平成21年(2009)に見つかり、地元では大きく報道され、日本現代詩歌文学館や盛岡市の啄木賢治青春館で公開されました。
 
イメージ 2
 
上記画像はその時の『岩手日報』さんの記事です。当方のコメントも載っています。
 
というわけで、新発見ではないのですが、一括して寄贈されたというところにニュースバリューがあります。これは考えてみれば、大変なことです。売れば売ったでかなりの金額になるものですから。特に太宰の書簡ということになると、その市場価格は光太郎のそれの比ではありません。太宰は短命だったため、残っている絶対数が少ないので。こういったものがわけのわからない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうそれっきりです。そうではなく、日本国民共有の文化遺産、という考え方にたどり着いてほしいものです。
 
そういうことを考えると、「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」というご遺族のコメントには本当に頭が下がります。
 
先週、花巻に行って、宮沢賢治の妹の婚家から出てきた光太郎書簡について調査して参りました。こちらも花巻の記念会に寄贈されたものです。これもすばらしいことです。
 
花巻の記念会では、こうした寄贈に頼るのではなく、かなり市場に出たものの購入も進めています。特に光太郎花巻時代の草稿など。ところが狙ったものが抽選やら先着順やらで手に入らないケースも多いとのこと。
 
あるべき場所にあるべきものがある、という状態が望ましいとつくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月5日

昭和15年(1940)の今日、河出書房から『芸術論第二巻 芸術方法論』が刊行されました。光太郎の評論「素材と造型」が収められています。
 
イメージ 3
 

【今日は何の日・光太郎】 7月4日無題1
 
昭和29年(1954)の今日、十和田湖畔の裸婦像のモデルを務めた藤井照子が結婚の報告に訪れました。
 
十和田湖畔の裸婦像。顔は智恵子の面影、とよくいわれますが、制作に際してはモデルを使っています。
 
は昭和28年(1953)10月21日、十和田湖での除幕式で撮影されたものです。
 
右が光太郎、左がモデルを務めた藤井照子。久しぶりの再会を喜ぶショットです。
 
というわけで……でもないのですが、今日は十和田湖ネタを。 
 
まず、ニュース検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

「湖畔の乙女」13日に最後の合唱

 十和田市などの音楽愛好家らでつくる「湖畔の乙女」を歌い継ぐ会(五十嵐明子代表=東京在住)は13日、十和田湖畔休屋の乙女の像の前で「湖畔の乙女」「奥入瀬大滝の歌」(いずれも佐藤春夫作詞、長谷川芳美作曲)を歌う集いを開く。十和田湖を訪れる観光客のためにバスガイドによって歌われるなど、長年親しまれてきた歌を後世に残そうと、2004年に始まった集いは、10回目の区切りの今年が最後となる。

 二つの歌は、乙女の像の建立を祝い、彫刻家・高村光太郎の友人だった文豪・佐藤春夫が本県に2編の詩を寄託し、当時三本木高校の音楽教師だった長谷川芳美さん(故人)が曲をつけて誕生した。

 1953(昭和28)年の除幕式で同校の生徒らによって披露され、湖畔の乙女は10年後にレコード化も実現。東京・新宿の歌声喫茶で歌われるなど全国的な愛唱歌となった。

 集いは、二つの曲が本県に関わる音楽資料の保存活動を行っている県音楽資料保存協会に登録されたのを機に、長谷川さんの教え子らが中心となって始めた。十和田湖のシンボル・乙女の像は今年が建立60周年で、“還暦”に当たる。歌う集いも当初目標とした10年の節目を達成し、参加者の高齢化などを理由に今回を歌い納めにするという。

 同会事務局の藤田みつさん(80)=十和田市=は「よく10年間続けられたと思う。これからも歌い継がれることを祈りながら、湖に向かって歌声を響かせたい」と話す。

 集いの参加は申し込み先着45人で、8日締め切り。参加費はバス代などを含め千円。13日は十和田市役所前に午前8時45分に集合し、バス内で練習しながら現地に移動。午前11時から行われる「十和田湖湖水まつり」の開会式で合唱を披露する。

 申し込みは、はがきかファクスで、同会事務局の藤田さん方(郵便番号034―0031、十和田市東3の5の32、電話兼ファクス0176-23-2356)へ。同会は、会員有志合唱団と十和田フィルハーモニー管弦楽団の演奏で2曲を収録したCDを作製、1枚千円で販売している。


 
記事にあるとおり、「湖畔の乙女」の方は全国区の歌になりました。レコードは本間千代子さんの歌でリリースされています。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
活動されてきた皆様、お疲れ様でした。今後は地元のアマチュア合唱団などでレパートリーとして歌い継いでほしいものです。
 
 
十和田湖、といえば昨年6月にオンエアされたものの再放送ですが、テレビ放映も近々あります。  

「いい旅・夢気分「大人気!初夏の青森 新緑の奥入瀬と旬のご馳走」

2013年7月7日(日)  11時30分~12時30分 BSジャパン
 
今注目の観光地・青森へ!奥入瀬渓流では涼やかな新緑と水のせせらぎに癒されます。十和田湖畔の名湯は風情満点。レトロな街並みの弘前では話題の「奇跡のりんご」を紹介。

番組内容
緑の風を感じる青森の旅!奥入瀬渓流では涼やかな新緑が見ごろ。水のせせらぎに癒されます。十和田湖では人気のクルージング。船上からの景色は風情満点。夜は十和田湖温泉郷で宿泊。源泉かけ流しの名湯は価値あり。翌日は田舎館村へ。名物の田んぼアートは圧巻!洋館の町・弘前は異国情緒満点。話題の「奇跡のりんご」を使ったフレンチ、有名カフェや高級ホテルも注目のブナコの器作りにもチャレンジします。

出演者 川合俊一、松本明子、中島史恵  
   ナレーション  大和田伸也

裸婦像が紹介されるといいのですが。

閲覧数が15,000を超えました。ありがとうございます。
 
さて、千葉市立美術館では「彫刻家高村光太郎展」開催中ですが、千葉には市立でなく県立の美術館もあります。ただ、耐震改修工事のため、今年1月から再来年3月までの予定で閉館中です。
 
そこで、同美術館では収蔵作品のうち、主だったもので移動美術館を開催することになりました。例年も行っているそうですが、例年より多くの会場で行うとのこと。
 
光太郎の「手」も巡回します。「手」は現在開催中の千葉市美術館での企画展に出品されていますし、先頃仮オープンした花巻の高村光太郎記念館にも並んでいます。
 
ご存じない方のために書きますが、ブロンズの彫刻は同じ原型から作られたものが複数個存在する場合があります。「手」もそうです。国内に10点くらいはあるのではないでしょうか。このあたり、微妙な問題を含みますので余り詳しくは書けませんが、浮世絵でも初刷り、後刷りがあるように、ブロンズでも誰がいつどこから型を取ったか、という点で価値に差異ができます。
 
閑話休題。移動美術館、日程は以下の通りです。
 
7/6~21 栄会場 県立房総のむら
8/3~18 野田会場 県立関宿博物館
8/25~9/8 館山会場 県南総文化ホール
9/14~29 香取会場 県立中央博物館大利根分館
10/5~27 東金会場 東金文化会館
2014/1/31~2/16 銚子会場 銚子市市民センター
同2/22~3/19 大多喜会場 県立中央博物館大多喜城分館
 
ただし、会場ごとに作品の入れ替えがあるというので、「手」が全ての会場に並ぶかどうか不明です。
 
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3
 
【今日は何の日・光太郎】 7月3日

明治42年(1909)の今日、およそ3年半の留学の旅を終え、駒込林町の実家に戻りました。
 
パリからいったんロンドンに渡り、日本郵船の阿波丸に乗ったのが5/5、神戸に上陸したのが7/1です。神戸まで光雲が迎えに来ており、東京に向かう汽車の車中で、光太郎を中心に銅像会社を設立する計画を語りました。
 
当時の銅像というと、立体写真的なものでしかなく、功成り名遂げた者の自己顕示、もしくは周囲のごますりのため、景観などは無視して街頭のあちこちに乱立していました。いわば一種のブームで、光雲のプランは確かにタイムリーで十分に採算のとれるものでしたが、光太郎はそんな職人仕事は恥ずべきもの、という感覚でした。
 
この後、ロダンに代表される新しい彫刻を日本に根付かせるための、光太郎の苦闘の日々が始まります。

光太郎関連でいろいろといただきものがありまして、ありがたい限りです。ご紹介させていただきます 。

文芸誌『虹』 第4号

連翹忌にもご参加下さっている詩人無題の豊岡史朗氏主宰の文芸雑誌です。
 
光太郎関連として豊岡氏の「高村光太郎論 詩集『典型』」、同じく「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」が掲載されています。
 
「高村光太郎論 詩集『典型』」は、主に連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)にスポットを当て、敗戦にともなう光太郎の自己省察-戦争責任に関し-を剔抉しています。
 
曰く「「戦争詩」を書いたことにうしろめたさを感じた詩人たちも数多くいたはずですが、過ちを軍部や時代状況のせいにせず、自らを反省し、誤謬の真の原因を究明しようと孤独な思索の日々を送る光太郎のすがたは、際立って鮮烈な印象をあたえます。」
 
そのとおりですね。
 
「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」は安曇野碌山美術館訪問記。光太郎にも触れています。
 
ご入用の方はコメント欄等からご連絡下さい。仲介いたします。

 
もう1件。

002 000
 
国際交流基金さん刊行の雑誌です。
 
日本の書籍等を海外に紹介するもので、英文で書かれています。ロシア語版もあるようですが、当方、入手したのは英語版です。
 
2ページにわたり「Takamura Kōtarō and Iwate」という記事が載っています。執筆はエッセイスト・独文学者の池内紀(おさむ)氏。
 
詩「報告」などをひきつつ、光太郎の花巻郊外での山小屋暮らしを紹介しています。外国の皆さんの眼には、光太郎の生き様はどのように映るのか、興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 7月2日003

明治35年(1902)の今日、東京美術学校彫刻科を卒業しました。
 
卒業制作は若き日の日蓮をモチーフにした塑像「獅子吼」。首席にはならず、第二席だったとのこと。
 
卒業はしたものの、9月からは研究科に残り(徴兵猶予の意味合いもあったようです)、さらに明治38年(1905)には西洋画科に再入学しています。

画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。

先週土曜日に開幕した千葉市美術館の「彫刻家高村光太郎展」。地元紙『千葉日報』さんに報じられました。

 
イメージ 1
 
 
右下の画像が今回の図録です。
 
A4判222ページ。巡回各美術館の担当学芸員さんと、名古屋のデザイン会社・株式会社アーティカルの小島邦康氏による力作です。
 
目次は以下の通り。003

ごあいさつ 主催者
伯父光太郎 思ひだすことなど 高村規
高村光太郎の造型―立体感と詩精神― 北川太一

図版
 Ⅰ 高村光太郎
 Ⅱ 周辺作家
 Ⅲ 高村智恵子
 
高村さんのこと 平櫛田中
高村光太郎の彫刻 木本文平
木彫家・高村光太郎 土生和彦
 
資料
高村光太郎自筆文献抄 藁科英也編
作家略歴
高村光太郎年譜
高村光太郎彫刻展覧会歴
高村光太郎総計関係文献目録
出品目録
 
これで1,800円ですので、非常にお買い得です。
 
ちなみに当方、年譜・展覧会歴・文献目録の部分を書きました。
 
それから館内で無料配布されている館の広報誌「C’n SCENE NEWS」第67号。こちらでは3ページにわたり今回の企画展の話と、同時開催の所蔵作品展「高村光太郎の周辺」についての記事があり、読みごたえがあります。
 
イメージ 3
 
会期は、8/18(日)まで。第一月曜日の今日と8/5のみ休館。金・土は20:00まで開館しています。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月1日

明治23年(1890)の今日、光太郎の弟で、後に鋳金の道に進んで人間国宝となった豊周(とよちか)が誕生しました。
 
イメージ 4
 
左から弟・道利、妹・しづ(双子です)、光雲、光太郎。光雲に抱かれているのが豊周です。

豊周は家督相続を放棄した光太郎、渡欧したまま音信不通となった道利に代わり、高村家を嗣ぎました。

↑このページのトップヘ