2013年06月

というわけで、いよいよ昨日から千葉市美術館「生誕130年彫刻家高村光太郎展」が始まりました。
 
夕方からオープニングレセプションということで、関係者の顔合わせ的な会があり、行って参りました。もちろん早めに行って、実際に企画展も観て参りました。
 
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初日から(初日だから?)かなりの盛況でした。といって、展示物がよく見えないような混雑ではなく、じっくりと観て回ることができました。
 
久しぶりに観る木彫の数々(展示方法に工夫が凝らされており、「蟬」がずらっと3匹、「桃」や「柘榴」は真上から観ることもできました)、複製でない智恵子の紙絵(その数65点)など、やはり本物は違う、という感じでした。
 
ブロンズでも詩人尾崎喜八の結婚記念に贈ったミケランジェロの模刻の聖母子像や、光太郎の祖父・中島兼吉のレリーフなど、あまり展覧会に並ばないものも多く、大満足でした。まるで久しぶりに旧友に遭ったかのような感覚で、なぜか涙が出そうになりました。不謹慎なようですが、心の中で「兼吉さん(かねきっつぁん)、おひさしぶりっす。変わりはなかったかい?」みたいな(笑)。
 
光太郎智恵子と縁の深い作家……光雲やロダン、荻原守衛、佐藤朝山などの作品も並び、そちらも興味深く拝見しました。
 
会場の一角ではNHKプラネット中部が制作した15分の解説映像の放映も。的確な解説のあいまに、北川太一先生や高村規氏(光太郎令甥)が登場、それぞれの思いを語られていました。観に来られた方は皆、興味深そうに見入っていました。
 
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早速、ネットで調べますと他の方のブログやツイッター等で「良かった」的な記述がありました。ありがとうございます。
 
館の皆様、その他大勢の皆様のおかげで、実にいい展覧会が仕上がったと思います。当方も少しだけ力をお貸ししましたが、力をお貸しできたことを光栄に存じます。
 
来週、7月7日の日曜日には、北川太一先生と当方による講演が予定されております。花巻に出かける前に北川先生から送られてきた草稿を元にレジュメを作成、プロジェクタで投影する画像等も集め、準備万端です。
 
そちらの方もおかげさまで定員に近い人数のお申し込みがあったとのこと。当方からご案内差し上げた方々も、かなり申し込んでくださり、ありがたい限りです。ご期待下さい!
 
千葉市美術館。千葉市中央区役所の7・8階です。都心からは若干時間がかかりますが、ぜひぜひ足をお運び下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 6月30日

昭和27年(1952)の今日、河出書房から『現代短歌大系』第三巻が刊行され、光太郎短歌62首が掲載されました。
 
光太郎は短歌でも独自の境地に達し、味のある作品を数多く残しています。「蟬」などの木彫を包む袱紗(ふくさ)や袋にその木彫を歌った短歌を書くこともあり、今回の「彫刻家高村光太郎展」でも、それらが複数展示されています。

各地からいろいろご案内やら図書のご寄贈やらが続いております。ありがたいことです。順次ご紹介していきます。

まずは、福島・川内村からのご案内。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」です。 

天山祭り2013

川内村には、過去から現在まで、さまざまな催しがおこなわれています。2011年3月の原発事故以来、催しの開催には困難が多くはございますが、川内村を愛していただいてる皆さん、村のみんなとともに、再び楽しい時間を持てるよう、今後も適時、イベント開催をしていく予定です。ご期待ください。 

今年も、天山祭りの日取りが近づいてきました。草野心平先生を偲ぶ川内村ならではのお祭りです。
48回目の、天山祭りとなります。
 
 時 : 平成25年7月13日(土) 
      午後2時開祭(終了時間午後4時30分)
 所 : 天山文庫前庭(雨天の場合はいわなの郷「体験交流館」)
 催 : 天山祭り実行委員会000
 催 : 川内村観光協会
 援 : 福島民報社・福島民友新聞社
 賛 : 行政区長会・婦人会
参加費 : 一人 500円
 
祭り次第(案)
(1)開祭の言葉
(2)実行委員長挨拶
(3)村長挨拶
(4)かわうち草野心平記念館館長挨拶
(5)献花
(6)詩の朗読・心平さんCDによる朗読
(7)鏡開き・献杯
(8)懇親会
(9)アトラクション
   子どもじゃんがら念仏踊り
    (いわき市小川町)
(10)おひらき
 
 
昨年のポスターです。          
 
会場の天山文庫は、以下のようなところです。川内村HPより引用させていただきます。
 
人間の誇り得る所産「天山文庫」
「蛙の詩」で知られる詩人・故草野心平氏「モリアオガエルの生息地があれば教えて欲しい」と、ある新聞に投書したのが、昭和25年のこと。それに応えて、長福寺の先代住職、故矢内俊晃和尚が早速招聘の手紙を送りました。
そして昭和28年8月、先生は川内村を初めて訪れました。以来、先生と村民との親交は深まり、先生の蔵書3000冊を村に寄贈されたのを機に文庫建設の話がもちあがりました。
そして村民一木一草を持ち寄り村あげての労働奉仕によって建てられたのが、今の天山文庫です。
天山文庫の名は中央アジアを越えて、東洋と西洋を結ぶ「シルクロード」にそびえる天山山脈になぞらえ、みちのくと中央の交流、人と人との出会いを大切にしたいという熱意を込めて、先生が命名したものです。
昭和35年、川内村名誉村民に推載された心平先生。85年という生涯を全うした今、そしてこれからも、先生の遺業は村民の心から消えることなく、語り継がれていくことでしょう。
昭和41年7月16日の文庫落成を記念して、毎年行われる天山祭り。この日は、村内はもとより、県内外から心平先生を偲んで多くの人々が集まってきます。
心平先生の写真を囲みながら青竹を二つに割った器に、色とりどりの山菜料理、今朝つりあげたばかりのいわなの焼魚を肴に盃を傾けます。
村の伝統芸能である獅子舞、浦安の舞、神楽舞が披露され、笛や太鼓で川内甚句も飛び出します。
 
足を運ぶのも復興支援。当方も行って参ります。みなさんもぜひお越し下さい。
 
ぜひお越し下さい、といえば今日から千葉市美術館において「彫刻家高村光太郎展」です。こちらもぜひお越しください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月29日

昭和32年(1957)の今日、東宝映画『智恵子抄』が封切られました。熊谷久虎監督、主演は原節子さん、故・山村聰さんでした。

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先ほど、2泊3日の行程を終え、花巻から帰って参りました。
 
昨日は、旧太田村の高村山荘近くにある旧高村記念館にこもり、まる1日、寄贈された図書等の分類整理を行いました。
 
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旧記念館の看板 草野心平筆です。
 
山荘近くにお住まいの方の蔵書だったもので、その方が脳溢血で倒れ、蔵書が花巻の記念会に寄贈されたのですが、かなり膨大な量で、リストもなく、入手経路等もほとんど不明のものです。
 
先月、新たな記念館のオープンの際に行ったときにも少しその作業をやったのですが、今回は完全に分類整理し、リストを作成するつもりで行きました。
 
調べてみると、かなり貴重なものも含まれていました。
 
まず光太郎から島崎藤村の三男、蓊助(おうすけ)にあてた葉書が4通。既に『高村光太郎全集』に収録されているものですが、貴重なものです。
 
さらに光太郎の識語署名入りの著書が2冊。これも珍しいもの。このあたりは新しい記念館に展示されてもおかしくないものです。
 
その他、光太郎の蔵書だったもの。光太郎宛の献呈署名が入っている書籍がけっこうありました。中には『念ずれば花ひらく』で有名な仏教詩人・坂村真民からのものもありました。
 
また、昭和20年から27年にかけての雑誌が山のようにあり、どうも光太郎の元に送られてきたものだと思われます。光太郎の山小屋にはこういう若い詩人の著書や雑誌類がたくさん送られていて、光太郎は、特に手元に残す必要がないと思ったものは村の人々にあげてしまったりしていました。
 
そういったもののの分類は終わり、リストまで作成し終わるつもりでいましたが、時間が足りませんでした。最後の頃は頭もクラクラしてきましたし。あと半日あれば終わっていたのですが、結局途中で断念、また近いうちに行って最後の仕上げをします。この書籍類、いずれは新しい記念館で何らかの形で活用されるとのことです。
 
ちなみに頭のクラクラ、かなりひどかったのですが、花巻の記念会の方に車で宿(大沢温泉)に送っていただき、ゆっくり温泉につかったら治りました。大沢温泉、すばらしい(笑)。
 
新しい記念館、といえば、先月の仮オープン以来、閑古鳥が鳴いていないかなどと心配していましたが、あにはからんや、けっこう団体のお客さんがお見えだそうです。実際、昨日もこちらの昼食休憩の時に大型バスが一台。なんと智恵子のふるさと・福島安達の農業関係の団体様でした。ありがたいことです。
 
さらに新しい記念館、といえば、ホームページがリニューアルされました。ご覧下さい
 
ご覧下さい、といえば、いよいよ明日から千葉市美術館において企画展「彫刻家高村光太郎展」が始まります。こちらもぜひご覧下さい。当方、明日は午後から観に行き、夕方から館主催のオープニングレセプションに出席いたします。
 
花巻から帰ってきましたところ、図録が届いていました。担当学芸員さん曰く「自分の葬儀の時には今回のポスターと図録を棺に入れてほしいほどの出来」。たしかに実に立派なものです。こちらもぜひお買い求め下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月28日000

昭和20年(1945)の今日、花巻市桜町に建っていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑を初めて訪れました。
 
碑文はかつて昭和11年(1936)に、花巻の関係者からの依頼で光太郎が「雨ニモマケズ」の後半を書いたもの。後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎が碑面に訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むというちょっと変わった訂正がされました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。そのことに是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎がその改変をした」という記述を見かけます。
 
光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。確かにこの碑でも「ヒリ」となっていますが、それは花巻の関係者から送られた原稿の通りに光太郎が書いただけで、光太郎はこの改変には一切関わっていませんのでよろしくおねがいします。

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昨日から花巻に来ています。

昨日はまず花巻病院内にある財団法人高村記念会さんにお邪魔しました。

花巻病院と言えば、宮澤賢治の主治医だった佐藤隆房医師が院長でした。佐藤医師は宮澤家ともども戦災で焼け出された光太郎の花巻疎開に関わり、さらに宮澤家が空襲に遭った後は、自宅の一室を光太郎に提供したりもしました。

光太郎が郊外の太田村に移ってからも何くれとなく世話をしたり、光太郎没後には財団法人高村記念会を立ち上げ、花巻での顕彰活動を推進したりしました。

そうした経緯で病院内に高村記念会の事務局があるのです。ちなみに事務局の外にある花壇は宮澤賢治の設計によるものです。

さて、事務局で最近花巻で新たに出てきた光太郎書簡を見せていただき、その後寄贈してくださったお宅のご婦人のもとに行き、お話を伺いました。

昭和21年(1946)のもので、原稿用紙二枚。封筒も残っていました。宛先は宮澤賢治の妹の婚家です。『高村光太郎全集』第12巻に収録されている光太郎日記と内容が一致し、貴重なものです。

来春刊行予定の『高村光太郎研究』内の当方の連載、「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。

その後、駅近くの 西公園へ。光太郎が講演を行ったこともある旧花巻町役場が移築されていたり、光太郎も利用した花巻電鉄の車両「デハ3」が静態保存されたりしており、興味深く拝見しました。
今日はこれから高村山荘方面に行き、寄贈された資料の整理、リスト作成です。

【今日は何の日・光太郎】 6月27日

昭和22年(1947)の今日、確定申告の書類を記入しました。

【今日は何の日・光太郎】 6月26日
 
昭和52年(1977)の今日、成田市の三里塚記念公園に、光太郎の詩「春駒」を刻んだ碑が建立、除幕されました。
 
碑陰記は草野心平、碑面のブロンズパネルは西大由氏の制作です。
 
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  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
 
手元に当地の「高村光太郎詩碑建立委員会」刊行の『春駒』という冊子があります。この碑の建立の経緯や、除幕式当日の模様などが記録されています。
 
収録されている当時の成田市長による建立趣意書から。建立の前年に書かれたものです。
 
 成田市三里塚一帯は、近代畜産発祥の地として古くから牧場が開かれ、その広大な原野に数々の名馬をうみ、緑濃い自然、春の桜花の見事さは年ごとに多くの人々をひきつけました。
 詩人・彫刻家高村光太郎もまたこの地を熱愛した一人です。ことに「生涯かけたたつた一人の親友」と呼んだ小説家水野葉舟がそのはなやかな文壇生活をすて、付近駒井野に移り住んで以来いくたびかこの地を訪れ大きな自然の風物にみずからの詩心を養いました。
 大正十三年四月に書かれた詩「春駒」には、晴朗な三里塚の風景とそこに躍動する若々しい春駒の姿がいま目の前に見るようにいきいきと歌われています。
 しかし、その三里塚は新東京国際空港建設に伴い相貌を一変、かつて若草をけたてて馬たちが疾駆した牧場は大滑走路に変わり、緑深かった平原に巨大な建造物が建ち並び、ほとんど昔日の面影をとどめません。しかも歴史の焦点はここに結ばれ、長い歳月の中で数多くの紛争がくりかえされ、人々は試練の場をくぐりぬけてまいりました。
 いまこそ人間精神のみずみずしい回復を心から祈らずにはいられません。そのことの一つのささやかな着手として、成田市、地元有志はもとより想いをおなじくする者あい集い、ありし日の三里塚の自然とその自然を深く愛した芸術家の心に応えるとともに消えゆく三里塚の面影を未来に残す証として「春駒」詩碑建立を企てました。
 碑はかつての自然を最もよくとどめる旧御料牧場本部前の景勝の地を選び、詩は作者の筆跡を展大して青銅に鋳造、巨石にはめこまれる予定です。
 おそらく碑前にたたずみ詩を読むものは、この国のかがやかなりし自然と心篤かりし人々への限りない回想にさそわれ、未来への明るく力強いはげましを受け取るにちがいありません。
 この企てに多くの方々の御賛同を得、是非とも実現いたしたく別記ごらんの上、貴台の御力添えをお願い申し上げる次第であります。
 
  昭和五十一年十二月
 
高村光太郎詩碑建立準備委員会代表 成田市長 長谷川録太郎
 
なかなかの名文なので、結局全文引用してしまいました(笑)。
 
続いて除幕式での、当会顧問北川太一先生のご挨拶から。
 
 葉舟を「たつた一人の生涯かけての友」と呼んだ光太郎も、しばしばこの地を訪れましたが、詩「春駒」は葉舟がここに移った直後、大正十三年四月十日に作られ、十三日の朝日新聞に発表されています。おそらく、ここで新生涯を始めることになった葉舟とともに、この春のおおらかにもすがすがしい牧野に立って、深い感動にうたれたのでしょう。震災後最初の光太郎の詩が、このようにして生まれたのでした。詩を読み、眼を閉じると、たてがみをなびかせて野を駆ける若駒のひづめの音や、汗ばんだ馬のいきづかいまできこえてくる様です。
 この詩を契機に光太郎には動物に材料を得た猛獣篇をはじめとする力強い詩の展開が始まり、一方葉舟はさまざまな経緯はありましたが、結局後半生をここにおくって、細やかで美しい自然や人間の記録を残すことになるのです。
 
半月ほど前のこのブログにも書きましたが、この周辺、いいところです。ぜひお越しください。
 
今日から2泊3日で花巻に行って参ります。

「明治古典会七夕古書大入札会」。
 
昨年の今頃もこのブログに書きましたが、一種の年中行事です。7/5(金)~7/7(日)の3日間、神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つです。
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
さて、今年の出品目録がネット上にアップロードされました。
 
光太郎関連も毎年のように肉筆原稿や書簡、署名入りの書籍などが出品されており、今年はどんなものが出ているかな、とわくわくしながら見てみました。
 
すると、詩集『道程』のカバーなしが1点、詩稿が3点(全て複数の詩が書かれたもの)、色紙が一点、葉書が10枚で1組(既に存在・内容を知られているもの)、そして一番驚いたのが識語署名入りの著書2冊です。
 
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すべて詩人の高祖保にあてたものです。一冊は随筆集『某月某日』(写真中央)、もう一冊は詩集『をぢさんの詩』(写真右)です。ともに昭和18年(1943)の刊行。画像はおそらく表紙裏の見返しの部分でしょう。
 
葉書も1枚ついています。官製葉書の様式や住所氏名のゴム印などから判断し、おそらく同じ時期のものです。今のところ高祖宛書簡は滋賀の彦根市立図書館に収蔵されている1通(「光太郎遺珠」⑦所収)しか確認できていませんので、文面は不明ながら新発見です。
 
高祖は『をぢさんの詩』の編集作業をやってくれた詩人で、光太郎が書いた同書の自序には高祖に対する謝意が述べられています。また、戦後になって高祖の追悼文(昭和20年=1945・戦病死)も光太郎は書いています。
 
このあたりについてはいずれまた項を改めて書きます。
 
そして今回出てきたのがその高祖に宛てた長い識語入りの『をぢさんの詩』。その識語もなかなか味のある文章です。
 
ところで最低入札価格ですが、「ナリユキ」となっています。今年の明治古典会七夕古書大入札会では、このように最低入札価格を設定していない出品物が結構あります。どのくらいの値がつくのか興味深いところですが、できればどこかの公共機関で手に入れ、自由に閲覧できるようにしてほしいものです。特に光太郎に興味があるわけでもなく幅広く集めていて、自分の蒐集品は絶対公開しない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうおしまいですから……。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月25日

明治45年(1912)の今日、光太郎の手を離れた神田の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、田村俊子と智恵子による「あねさまとうちわ絵」展が始まりました。
 
数年前、神奈川近代文学館に特別資料として寄贈された木下杢太郎関連の資料の中に、この展覧会の案内が印刷された木下宛の書簡(「光太郎遺珠」②所収)が含まれていました。これを見つけたときの驚きは、新資料発見の五指に入ります。
 
曰く、
    ◎『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会
長沼ちゑの『うちわ絵』と田村としの『あねさま』の展覧会を来る二十五日から二十九日まで五日間琅玕洞で開催いたします
 ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。
 極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。
(以下略)

一昨日から昨日にかけ、京都に行って参りました。無題1
 
目的は京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」の拝観でしたが、少しだけ観光もしてきました。
 
当方の乗った夜行バス、京都着は午前6時過ぎ。この時間ではさすがに美術館は開いていませんので、館の空く9時半までの時間をつぶさなければなりません。
 
さて、光太郎といえば智恵子。智恵子といえば福島。福島といえば今年は「八重の桜」。というわけで(強引ですが)、それ関係の場所を巡りました。
 
まず、現在「八重の桜」で展開中の戊辰戦争が終わり、明治になってから八重が暮らした新島邸
 
京都御所の裏にたたずんでいます。
 
こちらも内部の拝観には時間が早かったので、門の外から見ただけでしたが、趣のある建物でした。
 
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鴨川べりに出て、コンビニでパンとコーヒーを買って朝食。その後、まだ時間が早いので下鴨神社さんまで足を伸ばしました。ここは福島や光太郎との縁はないとは思うのですが、一度行ってみたかったので。
 
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さらに、京都国立近代美術館さんに近い金戒光明寺さんに行きました。ここは以前にも行ったことがあるのですが、幕末に京都守護職・会津藩本陣が置かれたところです。

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以前のブログにも書きましたが、「八重の桜」での金戒光明寺でのシーン(外観)は、当方の暮らす千葉県香取市にある観福寺さんというところで撮影されました。さすがに本家(笑)の方が立派です。
 
本堂に上がると、参拝者が自由に書くノー000トが。見ると、その前の日の日付で「福島から来ました。最後まで諦めなかった会津様を見習い、諦めずにがんばろうと思います」という書き込み。日本全体では被災の記憶が薄れつつあるようで、閣僚のトンデモ発言なども飛び出していますが、まだまだ被災地での被災は続いています。ほんとうにがんばってほしいものです。
 
金戒光明寺さんでは、以前に行ったときには足を踏み入れなかった会津藩士の墓所にも行きました。本堂でもここでも、手を合わせつつ心の中で「福島の復興を見守っていてください」とお願いして参りました。
 
ちょうど9時半くらいになったので、京都国立近代美術館さんに行き、「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観ました。
 
昨日書き忘れましたが、光太郎以外にも岸田劉生、清宮彬、バーナード・リーチ、石井柏亭・鶴三兄弟、硲伊之助、柳敬助、高村豊周など、光太郎の周辺にいた人物の作品も多く、興味深く拝見しました。
 
長谷川昇という画家の作品も一点。こちらは東京美術学校で彫刻科を卒業したあと西洋画科に再入学した光太郎の、西洋画科での同級生で、会津出身です。
 
というわけで、今回の京都行は、京都にいながら福島を偲ぶ旅でもありました。また近いうちに福島にも行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月24日

昭和14年(1939)の今日、銀座三昧堂ギャラリーで開催されていた、南洋パラオで暮らしていた異端の彫刻家・杉浦佐助の個展が閉幕しました。

光太郎は図録に推薦文を書いています。

昨夜、居住地域から夜行バスに乗って、京都に行って参りました。
 
京都国立近代美術館で開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観るためです。帰りは新幹線を使い、先ほど帰って参りました。
 
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今月初めのこのブログでご紹介しましたが、光太郎の水彩画とされる作品が一点、出品されています。光太郎顕彰の世界ではその存在が知られていなかったものです。
 
芝川照吉(明治4=1871~大正12=1923)は、企画展の副題にもあるとおり、青木繁や岸田劉生を援助した実業家で、そのコレクション総数は1,000点以上だったそうです。しかし、関東大震災や、没後の売り立て(競売)で散逸、最後に残った180点ほどが京都国立近代美術館に寄贈されました。今回の展覧会はそれを中心に、関連作品をまじえて構成されています。
 
絵画以外にも工芸作品が多く、同館自体が京都という土地柄上、工芸の収集、展示に力を入れているということもあり、館としてはうってつけだったようです。
 
さて、光太郎の水彩画。「劇場(歌舞伎座)」と題された八つ切りのあまり大きくないものです。制作年不明とキャプションに書かれています。「印象派風」というと聞こえはいいのですが、はっきりいうと何が何だかさっぱりわからない絵です。かろうじて歌舞伎の定式幕が描かれているのが判然とするので、「歌舞伎座」という副題が納得出来るという程度です。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、画像も送っていただいたのですが、本当に光太郎の作品なのか半信半疑でした。今日、実際に作品を見てもまだ半信半疑でした。

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数年前に大阪の阪急文化財団逸翁美術館でもそれまで知られていなかった光太郎の絵画が出ましたが、こちらは日本画で、与謝野晶子が自作の短歌を書き、絵を光太郎が担当したもの。来歴もはっきりしていましたし、絵も類例があるものなので、即座に間違いないと思いました。
 
しかし、今回の水彩画は、芝川照吉のコレクションという点で来歴は大丈夫だろうと思いつつ、類例がないことが気にかかっていました。
 
そう思いつつ、企画展会場の最後にさしかかると、芝川没後の大正14年(1925)に開かれた売り立て(競売)の目録がパネルに拡大コピーされて展示してありました。「おっ」と思い、詳しく観ると、最後の辺りに今回の水彩画と思われるものもちゃんと載っていました。
 
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上記はその売り立て会を報じた新聞記事です。

これで少なくとも大正末の時点ではこの作品が光太郎作と認定されていたことは間違いないのでしょう。また、売り立ての「後援」に、光太郎と親しかった画家・石井柏亭が名を連ねています。これはこの作品が間違いない一つの証左になりそうです。さらに、他の出品物はやはり岸田劉生やら青木繁やらのもの。いけないものはまざっていないようです。
 
というわけで、今回の水彩画も間違いないものだろうと思いますが、まだ確定はできにくいところがあります。もう少し調べてみるつもりではありますが。
 
明日も京都レポートを。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月23日

大正4年(1915)の今日、浅草山谷八百善で開かれた、北京移住のため離日する陶芸家・バーナード・リーチの送別会に出席しました。
 
今日観てきた芝川コレクションにもリーチの作品が多数含まれていました。

過日、昭和9年(1934)に智恵子が療養した九十九里を訪れ、帰ってからネットでその近辺についてもう一度調べました。
 
すると、智恵子に関しいろいろと情報を載せている「阿多多羅山」というサイトがあり、それにより意外な事実がわかりました。以下、抜粋させていただきます。

海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化した智恵子は、昭和九年一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
 
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
 
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にありました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた田村別荘のあった場所だそうです。当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち際が見えたと言われています。
 
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
 
 その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。
 
  光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。

 
驚きました。九十九里いわし博物館での爆発事故は、同じ千葉県内ということもあり、記憶に残っていましたが、その時亡くなった方が智恵子顕彰の活動をされていたとは存じませんでした。さらに、過日見てきた標柱ができた翌日に事故に遭われていたとは……。
 
ちなみに爆発事故を報じた当時の報道の抜粋です。 

千葉・九十九里のいわし博物館で爆発 1人死亡1人重体 

 30日午前8時57分ごろ、千葉県九十九里町片貝、町立の「九十九里いわし博物館」で爆発が起きた、と隣接する町役場から119番通報があった。山武郡市消防本部によると、鉄筋コンクリート平屋建て約800平方メートルの屋根の一部が吹き飛び、壁が崩れた。同館の臨時職員で、同町西野の川島秀臣さん(63)が全身に大やけどを負って旭中央病院に運ばれたが重体。同じく同館臨時職員で、同県東金市求名の永田征子さん(66)とみられる女性1人ががれきの下から発見されたが、全身を強く打っており死亡した。
  同町役場によると、開館は午前9時で、爆発が起きた時、館内には8時半に出勤した職員2人がいたという。
 現場は町の中心部。隣にある九十九里町役場では、「ドーン」という大きな音がして、席に座っていた職員たちもビリビリという震動を感じた。職員が驚いて見に行くと、博物館から白い煙が上がり、20センチほどのコンクリート片が駐車場などに散乱していた。
 
 
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最初は爆発の原因がわからなかったのですが、続報によれば……
 
爆発を引き起こしたのは、横浜・川崎の湾岸地域から千葉県にかけての関東平野南部地域に広がる「南関東ガス田」の天然ガス。千葉県警は、地表にわき出た天然ガスが文書収蔵庫のコンクリート床の亀裂から室内に入り充満、引火して爆発したとみている。
 
とのことです。
 
9年前の事故ですが、改めてご冥福をお祈りいたします。

ちなみに在りし日の田村別荘、こんな感じでした。最後の画像は取り壊された直後。この時点ではサボテンの木が残っていましたが、もうありません。


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【今日は何の日・光太郎】 6月22日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像建造のための十和田湖視察を終え、花巻郊外太田村山口の小屋に帰りました。

【今日は何の日・光太郎】 6月21日

昭和9年(1934)の今日、九十九里浜で療養していた智恵子のもとに、光雲から貰ったメロンを送りました。
 
『高村光太郎全集』第21巻に、以下の書簡(はがき)が掲載されています。
 
昭和9年6月21日 千葉県山武郡豊海村真亀 田村別荘内 斎藤様方 長沼せん子様 駒込林町二五より
 
 今日父の家からメロンを一個もらひましたので小包でお送りしました。包は大きいけれど中は一個だけです。二十三日頃が喰べ頃です。東京は又晴天となり真夏のやうです。それでも此頃はおかげで彫刻が出来るので助かります。
 
宛名の「千葉県山武郡豊海村真亀」は、現在の山武郡九十九里町。「斎藤様」は智恵子の妹・セツ夫妻。「長沼せん子」は智恵子の母です。
 
統合失調症が悪化した智恵子は、この年5月から12月まで、セツ夫妻が住んでいた九十九里で、斎藤一家、母・センと療養生活を送りました。光太郎はほぼ毎週、東京から九十九里に見舞いに訪れていたそうです。
 
そして79年前の今日、九十九里にメロンを送ったとのこと。
 
だから、というわけではありませんが、一昨日、九十九里町に行って参りました。隣接する東金(とうがね)というところに光太郎とは無関係の用事があり、それを済ませてからついでに行った次第です。
 
同じ千葉県内でも、九十九里町は生活圏ではありません。九十九里浜の北端あたりは時折行くのですが、九十九里町はかなり南の方なので、めったに行きません。考えてみると、数年前に二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行でガイド役をやって以来の訪問でした。
 
東金の台方ICから東金九十九里道路に乗り、東へ。まずは九十九里ICで下りる直前にある今泉PAに寄りました。ここには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。
 
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制作は日展作家の久保田俶通氏。光太郎・智恵子それぞれの単体の像は日本各地に結構ありますが、二人を群像にしたものはこれが唯一です。
 
今泉PAを後に、九十九里ICで下りると、目の前は国民宿舎・サンライズ九十九里です。その裏手に、昭和36年(1961)建立の「千鳥と遊ぶ智恵子」碑があります。
 
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光太郎の肉筆を拡大して石に刻んだもので、地元の文学愛好者や草野心平の骨折りで建てられました。建立当初はこの碑から九十九里浜が望める位置関係だったのですが、その後、碑と海岸線の間に九十九里波乗り道路が出来てしまい、残念な状況です。現在は碑の近くからトンネルをくぐらないと浜にたどり着けません。
 
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一昨日は風が強く、海もだいぶしけていました。
 
さらにサンライズ九十九里前の県道を南下し、真亀川にかかる橋を渡った大網白里町に、智恵子が療養していた「田村別荘」がかつて移築・保存されていました。しかし、地元でのさまざまな行き違いから、平成11年(1999)に突如解体されてしまいました。これも残念です。
 
さて、今回の九十九里行きは、この「田村別荘」が移築される前、もともと立っていた場所を探訪しようと思い立ってのことでした。恥ずかしながら、その元の場所をこれまで確認していませんでした。
 
少し前に、他の方のサイトで県道沿いのテニスコート付近、という情報を得ていましたので、碑の近くの適当なところに車を駐めて歩き、探してみました。民家の軒先では魚の干物制作中。さすが九十九里浜です。
 
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すると、サンライズ九十九里のはす向かい辺りにテニスコートがあり、そこに標柱が立っていました。
 
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以前は碑の近く、県道の東側を一生懸命探して見つからなかったのですが、逆に県道の西側でした。
 
ここだったのか……と、感慨深いものがありました。

平成30年(2018)追記 この標柱も無くなってしまいました。
 
その後、ちょうど昼時だったので、近くの海鮮料理店に行き、昼食。焼肉店のように各テーブルにコンロがあり、自分で頼んだものを焼くシステムになっている店でした。当方が頼んだのは本蛤(はまぐり)何とかセット(笑)。
蛤×4、イワシ2尾、ホタテとサザエが一つずつ。さらに別メニューで焼きおにぎりも注文しました。
 
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これで2,000円ちょっと。安くはありませんが、十分元は取れる内容です。とにかく美味。満足して帰って参りました。
 
帰ってから、さらにネットで調べたところ、他の方のサイトで意外な-ある意味感動的な-記述を見つけました。明日はそのあたりを書こうと思っています。

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
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先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
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菊水館
 
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左奥が山水閣・右手が自炊部
 
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混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

一昨日、「智恵子講座’13」のため福島・二本松に行きました。はるばる大阪から高村光太郎研究会所属の西浦基氏もおいでくださいました。
 
午前中でそちらが終わり、午後、西浦氏が二本松は初めてだというので、当方の車にて二本松の光太郎・智恵子ゆかりの地をざっとご案内しました。
 
これから二本松方面に光太郎・智恵子探訪に行かれる方、参考になさってください。
 
まずは「智恵子講座」会場の二本松市交流センターに近い二本松駅前からスタートしました。
 
平成21年に建てられた銅像「ほんとの空」。智恵子がイメージされています。すぐ近くには、昭和51年に作られた「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」を刻んだ詩碑。
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その後、車で北上、二本松城址へ。ここには昭和35年に建立された詩碑があります。
 
もともとあった「牛石」という大きな石にブロンズのパネルがはめ込んであり、1枚は「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」、もう1枚に駅前の詩碑と同じ「あどけない話」のワンフレーズ。さらに草野心平の筆になる碑陰記もついています。
 
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その近くには、蓮の花が咲く池があり、ほとりには立派な藤棚があります(もう藤は散ってしまっていますが)。説明版によれば、この藤は智恵子の生家の庭にあったものを移植したとのこと。
 
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ちなみに、この日のNHK大河ドラマ「八重の桜」。帰ってから録画で見ましたが、サブタイトルが「二本松少年隊の悲劇」。史実かどうかわかりませんが、綾瀬はるかの八重がかつて射撃を教えた二本松藩士の子供たちによる二本松少年隊が薩長軍に撃破されるというストーリーでした。
 
そうした戊辰の頃にも思いをはせながら、二本松城址を後にし、旧安達町エリアへ。
 
こちらでは智恵子の生家、智恵子記念館、裏手にある智恵子の筆跡を刻んだ「熊野大神」碑、さらに裏手にある「樹下の二人」碑、そして長沼家菩提寺の満福寺にある長沼家の墓所などを廻りました。

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この辺りの画像は、以前に訪れたときのものです。
 
そして西浦氏が宿を取られた安達太良山中腹の岳温泉へ。当方も日帰り入浴させていただき、帰途につきました。
 
二本松、何度行ってもいい場所です。是非、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月18日

明治34年(1901)の今日、智恵子の妹・セツが誕生しました。
 
昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が身を寄せたのが、九十九里に住んでいたセツのもとでした。

昨日は福島県二本松市、二本松市民交流センターにおいて行われた「智恵子講座’13」の第3回で、講師を務めて参りました。
 
今年度は年間テーマが「高村光太郎に影響を与えた人達」ということで、昨日の第3回で、当方が与えられたテーマが「岡倉天心と東京美術学校」でした。質疑応答を含め、2時間ほどしゃべって参りました。
 
岡倉天心は東京美術学校校長として、一介の町の仏師であった光雲を教員として取り立てたり、横山大観ら後進を育てたり、その運営に大きく貢献した人物です。
 
天心以外にも、光太郎在学前後の東京美術学校は多士済々。教員や学生で、名をなした人々がたくさんいます。アーネスト・フェロノサ、橋本雅邦、菱田春草、後藤貞行、石川光明、板谷波山、本山白雲、長沼守敬、黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治、岡本一平……。もちろん、光雲、光太郎親子。美術家以外でも、森鷗外も専任外教員として教壇に立っていました。
 
昨日はノートパソコンとプロジェクタを持ち込み、それらの人々の作品などを紹介し、併せて美術学校在学中の光太郎についての概略を説明いたしました。はからずも、明治中期から末期の日本美術界の概要、という感じになりました。ただ、少し前にそういう発表はすまい、などと書いておきながら、スクリーンに映した画像頼みの内容になってしまったいたのではないかな、と反省しきりです。

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聴きに来てくださった方は、約30名。ありがたいことです。
 
「智恵子講座’13」は、以下の通り今年度、あと4回の開講です。1回ごとの申し込みも出来るそうですので、よろしくお願いいたします。連絡先は二本松市油井八軒町の熊谷さん 0243-23-6743です。
 
10/14 (月・祝)10:00~ 「ロダンと荻原碌山」 久慈伸一氏(福島県立美術館学芸員)
11/17(日) 10:00~ 「与謝野鉄幹と水野葉舟」 澤正宏氏(福島大名誉教授)
12/15(日) 10:00~ 「草野心平と宮沢賢治」 小野浩氏(いわき市くらしの伝承郷館長)
  〃     13:00~ 「高村光太郎を語るつどい」 閉講式 文集配布
 
【今日は何の日・光太郎】 6月17日

昭和62年(1987)の今日、光太郎に私淑した彫刻家・高田博厚が歿しました。

新刊です。正確に言うと、平成22年(2010)にハードカバーで刊行されたものの文庫化ですが。 

『文士の料理店(レストラン)』 

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2013年6月1日 嵐山光三郎著 新潮社(新潮文庫) 定価670円

「松栄亭」の洋風かきあげ(夏目漱石)、「銀座キャンドル」のチキンバスケット(川端康成)、「米久」の牛鍋(高村光太郎)、慶楽」のカキ油牛肉焼そば(吉行淳之介)、「武蔵」の武蔵二刀流(吉村昭)──和食・洋食・中華からお好み焼き・居酒屋まで。文と食の達人厳選、使える名店22。ミシュランの三つ星にも負けない、名物料理の数々をオールカラーで徹底ガイド。『文士の舌』改題。(裏表紙より)
 
長大な詩なので全文は引用しませんが、大正11年(1922)に発表された光太郎の詩で、「米久の晩餐」という作品があります。浅草で今も続く牛鍋屋・米久さんで、詩人・尾崎喜八と牛鍋を食べた時の光景を詩にしたものです。
 
この書籍によれば、米久さん、メニューは牛鍋のみ。畳敷きの大広間に一、二階合わせて三百席。食事時ともなればもうもうとわき上がる湯気の中、ものすごい喧噪だとのこと。

光太郎の「米久の晩餐」にも、自分たちだけでなく、周囲の客やアマゾン(女中さん)の様子、会話が生き生きと活写されています。光太郎曰く、「魂の銭湯」。
 
本書では、カラー画像もふんだんに使っており、非常に食欲をそそられます。

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レポする嵐山氏の筆も、光太郎に負けず劣らずあますところなくその魅力を紹介しており、思わず行きたくなってしまいます。
 
さらに森鷗外や夏目漱石など光太郎と縁のあった人物や、光太郎の項ではないものの、光太郎も足を運んだ銀座資生堂パーラーなども取り上げられています。
 
是非お買い求めを。
 
ちなみに嵐山氏には、同じく新潮文庫に『文人悪食』『文人暴食』というラインナップもあります。「文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている」というコピーの『文人悪食』では、やはり光太郎が取り上げられています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月16日

大正15年(1926)の今日、父・光雲が東京美術学校名誉教授となりました。

昨日は横浜みなとみらいホールにて、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」を聴いて参りました。
 
とてもいい演奏会でした。
 
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もちろん吉川さんの演奏がメインで、曲間に吉川さんご自身が『智恵子抄』収録詩の朗読をなさったり、光太郎智恵子についての解説をなさったりという構成でした。
 
曲目は以下の通り。
 
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直接、智恵子に関わる曲はありませんでしたが、既存の曲の組み合わせでもたしかに『智恵子抄』の世界がうまく表現されていたように感じました。
 
吉川さんのフルートはもちろんすばらしく、伴奏のお二人(キーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さん)の演奏も非常に工夫されていました。特にパーカッションは、いろいろな楽器……というより道具? を使って、効果音のような音を奏でていたのが面白く感じました。時に鳥のさえずり、時に虫の声、そうかと思えば川のせせらぎ、九十九里の波の音、などなど。
 
さらに曲間の吉川さんのMC。通り一遍の解説でなく、よく調べているな、と感心いたしました。数年前に発見された光太郎の短歌「北国の/女人はまれに/うつくしき/うたをきかせぬ/ものの蔭より」を引用されて、智恵子が時折、造り酒屋だった実家の杜氏たちが歌っていた酒造りの歌などを口ずさんでいたことに結びつけるなど。この短歌、一般にはほとんど知られていないはずですので。また、太陽が赤いという固定観念に異を唱える光太郎の評論「緑色の太陽」の話、智恵子の恩師・服部マスの話など、ずいぶんお調べになったのがわかりました。実際、二本松にも行かれたというお話でした。
 
それにしても、平日の昼間にもかかわらず、440席ほぼ満員でした。吉川さん、「こころに残る美しい日本のうた」と冠したコンサートはこれまでも定期的に続けてこられたようで、コアなファンがいらっしゃるようでした。「智恵子抄」だから、というお客さんがどの程度だったのか、興味のあるところですが。
 
いつも同じことを書いていますが、こういう形でも光太郎・智恵子の世界を広めていただけるのは、本当にありがたいことです。
 
当方も明日は二本松に参り、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’13」にてしゃべって参ります。このところ、月に1~2件、この手の仕事が入っています(もっと増えるといいのですが……)。与えられた場で光太郎・智恵子の世界を無題1広めて行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月15日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像制作のための現地視察で、十和田湖に向けて花巻郊外太田村の山小屋を出発しました。
 
画像は一昔前のテレホンカードです。
 
裸婦像に関しては、また折を見て詳述します。
 

光文社さん刊行の女性週刊誌『女性自身』。今週号に光太郎がらみのコラムが載りました。
 
書評欄的なページが1ページあり、上3分の2は新刊紹介、下3分の1が「私の読み方」というコラムになっています。このコラムで『智恵子抄』が取り上げられています。普段、手に取ることのない雑誌ですのでよくわかりませんが、おそらく、毎回違う人が、ご自分に影響を与えた書籍などを紹介されているのだと思います。
 
で、今週号は、藤沢久美さんによる「「愛される幸せ」を教えてくれた本 詩集『智恵子抄』高村光太郎」。
 
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取り上げられているのは、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)刊行の新潮文庫版『智恵子抄』です。
 
コンパクトなスペースながら、効果的に引用もしつつ、『智恵子抄』の魅力を語られています。感心したのは、単なる書評に終わらず、ご自身の体験に照らされつつ、評を展開なさっている点。こうしたコラムではそれが大事なのではないでしょうか。
 
当方、藤沢久美さんという方を存じませんで、ネットで調べてみました。すると、Wikipediaには「実業家、経済評論 家、キャスター。法政大学大学院客員教授、シンクタンク・ソフィアバンク副代表、社会 起業家フォーラム副代表。」という肩書きが。バリバリのキャリアウーマンさんですね。
 
そういう方でも(というと失礼かもしれませんが)、優れた芸術を身近に置いてご自分の人生に生かされているというのはすばらしいことだと思います。「人生を豊かにする」――芸術の効用ですね。
 
これまた失礼な言い方かもしれませんが、女性誌もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思いました。
 
ちなみに光太郎は生前、よく女性誌に執筆していました。『婦人公論』、『婦人之友』、『女性日本人』、『婦人画報』、『主婦の友』などなど。いずれ当方刊行の冊子『光太郎資料』で、そのあたりをまとめてみたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月14日

昭和20年(1945)の今日、疎開先の花巻で到着直後にかかった肺炎から恢復、明日床上げする旨の葉書を、親交のあった婦人に書きました。

乃木坂のTOTOギャラリーで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」。
 
花巻郊外旧太田村山口地区に光太郎が暮らした小屋・高村山荘について取り上げています。企画展会期は6/22(土)までです。
 
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リンクして刊行された、中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
「毎日新聞」さんに関連する記事が載りました。

読書日記:著者のことば 中村好文さん

2013年06月11日 東京夕刊
 ■中村好文 小屋から家へ(TOTO出版、2310円)
 
 ◇「不便で粗末」から学ぶ
 普段着のように居心地がいい住宅を手掛けて30年。建築家であり、世界の名建築や旅に関するエッセーでも知られる筆者が今回テーマに選んだのは「小屋」。鴨長明や彫刻家の高村光太郎、建築家のル・コルビュジエら、著名人ゆかりの小屋を文章や自筆のイラストで解説。「住まいの原型」だと考える素朴な魅力に焦点を当てた。
 「家との違いを聞かれると難しい。私が考える小屋の条件は狭いこと。間取りで言えばワンルーム。質素な素材で造られているのもポイントです」
 異色なものとしては1962年、太平洋横断の単独航海に成功した堀江謙一さんのヨット「マーメイド号」が登場する。「洋上の小屋。子供の時からあこがれた」。米国の博物館に保存されていると知り、交渉して内部を見学させてもらった。マーメイド号に搭載された食料や日常品を、詳細に描いたイラストが楽しい。
 「小屋好き」は年季が入っている。幼い時にはミシンの台を新聞紙で覆って自分用の「巣」を作り、大人になると国内外の有名無名の小屋を見て歩いた。
 8年前には長野県に、自分や事務所のスタッフが過ごすための小屋を構えた。ガスや水道はなし。たるにためた雨水を風呂に使い、料理は炭火を入れた七輪で。五感をフル稼働させて暮らすうち<生活の知恵がじわりじわりとわき出してくる>。便利さが人間の能力を退化させることに気付くくだりは説得力がある。
 自身が設計した小屋や小住宅も本書で紹介。家と住み手の個性が重なった爽やかな暮らしが浮かぶ。
 本書は元々、東京・乃木坂「TOTOギャラリー・間」で22日まで開催する中村さんの個展に合わせて企画された。会場で注目されているのは原寸大で造られた「ひとり暮らしの小屋」。記者が訪れた日も、中に入ってじっくりと見て回る人が目に付いた。
 「自分と心静かに向き合える場所。小屋にはそんな良さがあると思う。だからこそ、忙しい現代人に魅力的に映るのかもしれません。家は住む人の精神が表れるもの。不便で粗末な小屋暮らしから私たちが学べることは多いのです」


 
【今日は何の日・光太郎】 6月13日

大正3年(1914)の今日、作品を出品していた三笠会主催の「第一回歌箋展覧会」が閉幕しました。
 
……という内容が『高村光太郎全集』別巻の年譜に記載されているのですが、詳細がはっきりしません。三笠会とは何なのか、会場はどこだったのか(おそらく東京だとは思いますが)、などなど。有名な銀座のレストラン・三笠会館が出来るのはもっと後ですし。
 
ただ、翌月一日から十日まで、京都寺町通竹屋町南入の佐々木文具店芸術品展覧会場で同じ「歌箋展覧会」が開かれており、どうも巡回展だったようです。
 
京都展については主催の佐々木文具店が発行した『睡蓮』という小冊子で概要がわかります。それによれば、光太郎他27名の文学者の短歌・俳句が出展されています。『睡蓮』は、それらを活字で載せています。ちなみに『高村光太郎全集』未収録の短歌・俳句がかなり載っており、これを入手したときは快哉を叫びました。ただし、文庫本より小さい28ページの小冊子で4万いくらという値段でした。

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 しかし、「歌箋」がどういう状態のものなのか(便箋のようなものか、あるいはよくある短冊や色紙、扇面の類か)、出品作が27名の自筆なのかなどはやはり不明です。
 
さらに佐々木文具店についても詳細なことがわかりません。
 
「歌箋展覧会」「三笠会」「佐々木文具店」について情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
 
ただ、国会図書館に所蔵されている当時の新聞のデータを調べたところ、6月の東京?での「歌箋展覧会」を報じた記事があるようですので、近いうちに行って調べてみようと思っています。 
 
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大阪市の映画館、シネ・ヌーヴォさんで表記のイベントが開催中です。

5月25日~6月21日まで、1950~60年代の中村登監督作品を24本、入れ替えつつ1日に3~6本上映しています。
 
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このブログでもたびたび紹介してきました昭和42年(1967)公開、岩下志麻さん主演の「智恵子抄」もラインナップに入っています。
 
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6月7日に1回目の上映が終わってしまいましたが、今日から4日間、以下の日程で再上映されます。

2013年6月12日(水) 11時50分~  13日(木) 10時00分~  14日(金) 13時35分~  15日(土) 16時40分~
 
急なご紹介で申し訳ありません。昨日、ネットで調査中に知ったもので……。関西方面の方、ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月12日

平成13年(2001)の今日、宮沢賢治の弟・清六が歿しました。
 
賢治の8歳下の実弟として、明治37年(1904)に生まれた清六は、昭和20年(1945)に空襲で東京を焼け出された光太郎を花巻に招き、その後も何かと光太郎のために世話を焼いてくれました。また、光太郎と一緒に賢治全集の編集にも当たりました。

小学館発行の雑誌『サライ』7月号。昨日発売されまして、早速買ってきました。
 
今月29日から始まる千葉市美術館の企画展「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の記事が6ページにわたり載っています。
 
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感心したのは「詩魂を以て木と青銅に生命を刻む」というコピーです。このライターさん、なかなかよく光太郎の精神を理解しています。
 
今後もこうした雑誌、あるいはTV等でもどんどん紹介していただきたいものです。また、いろいろな方のブログで「ぜひ行かなくちゃ」みたいな記述を見かけます。ありがたい限りです。
 
昨日、図録の最終原稿がメールで届きました。出品目録もついており、結局、光太郎作品は千葉では木彫15点、ブロンズ32点が並びます。その他に智恵子の紙絵が65点。光太郎素描や遺品、荻原守衛他周辺作家の作品も出品されます。
 
巡回で岡山井原の田中美術館、愛知碧南藤井達吉現代美術館も廻りますが、点数的には最初の千葉が最多です。以前のブログで井原と碧南には智恵子の紙絵が出ない、的なことを書いてしまったような気がしますが、井原で43点、碧南で26点出ることになりました。
 
この機会を是非お見逃しなく。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月11日

明治45年(1912)の今日、雑誌『文章世界』に詩「青い葉が出ても」が掲載されました。
 
はなが咲いたよ000
はなが散つたよ
あま雲は駆けだし
蛙は穴からひよつこり飛び出す
やあれやあれ
はなが散つたよ
青い葉が出たよ
青い葉が出ても
とんまな人からは便りさへないよ
女だてらに青い葉が出ても
やあれ青い葉が出ても
ちよいと意地を張つたよね
 
今ひとつ何が言いたいのかよくわからない詩ですが、どうも智恵子の姿が見え隠れするような気がします。
 
智恵子には故郷・二本松での縁談が持ち上がったと光太郎に告げ(ブラフの可能性も出て来ました)、この1ヶ月後には「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」で始まる有名な詩「人に」(原題「N――女史に」)を書いています。
 
ちなみに画像は我が家の紫陽花です。

朗読のイベント情報を見つけました。

第4回  柴川康子 「語りの会」003

期 日 : 2013年 6月12日(水) 14日(金)
会 場 : 江東区清澄庭園 「涼亭」
料 金 : 
各回 800円  
定 員 : 各回 20名

時間と演目
 12日(水)
  14:00~14:30 宮澤賢治 虔十公園林・雨ニモマケズほか
  15:30~16:00 宮澤賢治 林と思想ほか/高村光太郎 道程全文ほか
  18:00~18:30 加島祥造「老子・タオ」より 「荘子」より
  19:00~19:30 加島祥造 「離思」序詩ほか 画帖より
 14日(金)
  14:00~14:30 加島祥造「老子・タオ」より 「荘子」より
  15:30~16:00 加島祥造 「離思」序詩ほか 画帖より
  18:00~18:30 宮澤賢治 林と思想ほか/高村光太郎 道程全文ほか
  19:00~19:30 宮澤賢治 虔十公園林・雨ニモマケズほか
 
*演目は変更になる場合がございます。予めご了承ください。
*14:00と16:00の会は別途入園料がかかります。
(一般、中学生150円 65歳以上70円)
問い合わせは emputy@nifty.com
 
光太郎を取り上げていただけるのはありがたいことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月10日

明治41年(1908)の今日、ロンドンを発ち、留学の最終目的地、パリへ向かいました。
 
昨年のこのブログにも書きましたが、従来、どんなルートでパリに渡ったか不明でした。しかし、新たに見つけた昭和17年(1942)の「海の思出」という散文によれば、イギリスのニューヘヴンからフランスのディエップに至る航路を使ったとのことでした。

成田市に「三里塚記念公園」という000場所があります。「三里塚」という地名で、一定以上の年代の人はピンと来るかと思いますが、空港の近くです。先日、隣町・成田市に買い物に行った際、市街地から少し足を伸ばして立ち寄ってきました。
 
このあたり一帯は江戸時代には幕府が直轄していた馬の放牧場でした。明治に入り、文明開化の流れの中で牧羊が始められ、光太郎が生まれた明治16年(1883)には宮内省直轄化、同21年(1888)には宮内省御料牧場となりました。
 
その後、空港建設のため昭和44年(1969)に閉鎖されるまで存続しました。
 
閉場後は敷地の一部が記念公園として整備され、皇室の方々がお泊まりになった貴賓館(写真上)、明治期に植えられた日本では珍しいマロニエ(栃)の並木(写真下)などが遺されています。当方が訪れたとき、ちょうどマロニエの白い花が咲いていました。秋には子供のこぶし大の実がなります。
 
大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟がこの付近に移り住み、光太郎も何度かこの辺りを訪れており、同じく大正13年には御料牧場の馬を謳った「春駒」という詩も作っています(またのちほど紹介します)。
 
公園内にはその春駒の自筆原稿をブロンズに拡大鋳造した詩碑、葉舟の短歌を刻んだ歌碑も立っています。葉舟の歌碑は、もともと最晩年の光太郎が揮毫を依頼され、一度は引き受けたのですが、健康状態がそれを許さず、代わりに窪田空穂が筆を執りました。
 
また、公園として整備された際に建てられた小さな記念館には、葉舟や光太郎にかかわるミニ展示もなされています。
 
もう一人、光太郎と縁の深い人物として、明治末に吉原河内楼の娼妓・若太夫を奪い合った恋敵・木村荘太(作家。画家・荘八の兄)も大正期にこの付近に移り住んでいました。記念館には荘太に関わる展示もあります。
 
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生活圏内なので、何度もここには行きましたが、今回、新たに一昨年から一般公開が始まった貴賓館裏手にある戦時中の防空壕を見せていただきました。以前はこんなものが遺っていたことすら知りませんでした。
 
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御料牧場ということで、やんごとなき方々のために作られたものです。したがって、一般の防空壕とは比較にならないほどのとんでもなく堅牢な造作になっており、コンクリートは厚さ70㌢、直撃弾を喰らった際の爆風逃がしなども整備されています。防空壕というより、シェルターです。ちなみに施工は今も続く大手建設会社・間組です。
 
しかし、戦時中にやんごとなき方々が御料牧場にいらしたというはっきりした記録もないそうですし、実際には成田には空襲はありませんでしたので、この壕は使用されずじまいでした。
 
防空壕といえば、光太郎のすぐ下の弟・道利は戦時中に誤って防空壕に転落した怪我が元で亡くなりましたし、光太郎自身も東京のアトリエを焼け出されて疎開した花巻の宮澤賢治生家でも空襲に遭い、宮澤家の皆さんの機転で、光雲の遺品や身の回りの品々、賢治の遺品なども防空壕に入れたおかげで無事だったという逸話があります。壕の中を歩きながらそんなことを思い出し、改めて光太郎の生きた激動の時代に思いをはせました。
 
というわけで三里塚記念公園。ぜひ一度、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月9日

昭和42年(1967)の今日、丸の内ピカデリーで開かれていた松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)の完成記念特別披露公開が最終日を迎えました。

新刊を取り寄せました。3ヶ月ほど前の刊行でしたが。

アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から

甲南大学人間科学研究所叢書 心の危機と臨床の知14 川田都樹子・西欣也編
2013/3/15 平凡社発行
定価 2800円+税
 
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治療法の一分野として幅広く実施されているアートセラピーの、臨床研究の成果のみならず、その歴史学的側面を考察し、高村智恵子やジャクソン・ポロックの事例を含めて、多角的に紹介する。


神戸の甲南大学さんに設置された人間科学研究所スタッフによる編著です。テーマは「アートセラピー」。芸術を媒体に使用する精神療法です。
 
第1部「近代日本のアートとセラピー」中の、「高村智恵子の表現-芸術の境界線(木股知史)」、「「治す」という概念の考古学-近代日本の精神医学(三脇康生)」、「アウトサイダー・アート前史における創作と治癒(服部正)」で、智恵子の紙絵や智恵子の主治医だった斎藤玉男について述べられています。
 
精神を病んだ智恵子は昭和10年(1935)から亡くなる同13年(1938)まで、南品川のゼームス坂病院に入院していましたが、そこの院長だったのが斎藤玉男です。この時代はまだ芸術療法という概念も曖昧で、作業療法に近い位置づけでした。それでもゼームス坂病院の実践は当時としては、ある意味画期的だったとのこと。
 
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とかく智恵子の紙絵やその終焉の様子などは、文学的、ドラマチックに捉えられがちですが、こうした科学の目を通してのアプローチも重要なのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月8日

明治45年(1912)の今日、埼玉県百間村(現・宮代町)の英文学者・作家の島村盛助に宛てて、駒込林町25番地に完成したアトリエへの転居通知を送りました。
 
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本文は自刻木版です。同一の版を使った転居通知は同月6日付で作家の生田葵山にも送られています。
 
日付を特定できませんが、この頃、アトリエが竣工したと言えます。同じく日付を特定できませんが、アトリエの新築祝いに、智恵子がグロキシニアの鉢植えを持って訪れたのもこの頃です。
 
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横浜でのコンサート情報です。以下、『産経新聞』さんのサイトから。 

フルート奏者の吉川さん「智恵子抄」の世界に挑戦 福島に思いはせ14日に横浜でコンサート

 日本の美しい旋律を演奏し続ける横浜市在住のフルート奏者、吉川久子さんが14日、詩人・高村光太郎が妻、智恵子との愛をつづった詩集「智恵子抄」をテーマにしたコンサートを開く。智恵子は光太郎と暮らした東京から故郷・福島を思い続けた。吉川さんは演奏を通じて、東日本大震災に伴う福島第1原発事故から2年以上が過ぎても避難生活を続ける被災者へ思いをはせたいと意気込む。(渡辺浩生)
 
 吉川さんは7年前からコンサート「こころに残る美しい日本のうた」を毎年開催。東日本大震災直後の一昨年4月には、岩手県出身の宮沢賢治を題材にチャリティー演奏会を実施し、被災者の心の支えとして当時注目された代表作「雨ニモマケズ」も朗読した。
 今年、「智恵子抄」に着目したのも、故郷に戻れぬ福島県の被災者を「忘れてはならない」という思いがあるからだ。
 「智恵子は東京に空が無いといふ」(あどけない話=智恵子抄に収録)。智恵子は東京になじめず、福島県中部の名山、安達太良山(あだたらやま)の上の「ほんとの空が見たい」と言い続けた。 智恵子の心は時代を超えて被災者とも通じている-。5月、智恵子の故郷、同県二本松市を訪ねた吉川さんは、「同じ青空を見上げて」そう感じた。
 コンサートでは、智恵子や福島にちなんだ唱歌・童謡の演奏や詩の朗読を通じて光太郎と智恵子の愛の世界、智恵子の望郷の念を表現する。キーボードは海老原真二氏、パーカッションは三浦肇氏が担当。
 14日午後1時開場、1時半開演。横浜みなとみらいホール小ホール。申し込み・問い合わせは「心に残る美しい日本の曲を残す会事務局」((電)03・5540・8675)まで。
 

このコンサートについて検索してみたところ、いろいろとヒットしました。イベント情報的なサイトから。 

吉川久子フルートコンサート『こころに残る美しい日本のうた』 智恵子抄の世界に遊ぶ

期 日 : 2013年 6月14日(金)
会 場 : 横浜みなとみらいホール小ホール
時 間 : 1時開場  1時半開演
料 金 : 全席自由 2,500円

「東京に空がない」という詩の一節で知られる『智恵子抄』は、詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子との愛を綴った詩集。 
 
大正三年に結婚した二人でしたが、洋画家だった智恵子は東京に馴染めず、油絵もなかなか評価されず悩んでいました。そんなおり、実家の破産も重なり、昭和六年頃から精神を病みはじめ、昭和十六年に七年にわたる闘病生活のすえ五十二歳で旅立ちます。 
『智恵子抄』には、二人が共有した時代の愛と喜び、生活の変転、人の世の悲しみが詠われています。

第八回を数える今回の「こころに残る美しい日本のうた」は、フルート奏者の吉川久子が、かつて映画や舞台にもなり、多くの人々に感動をあたえた『智恵子抄』に挑戦し、現代にも通じる光太郎と智恵子の愛の強さ、愛の深さを音の世界で表現します。 

[出演]
吉川 久子/フルート
東京生まれ、鎌倉育ち。横浜在住。ソリストとしてクラシックは勿論、幅広い楽曲を優雅に親しみやすく奏でるフルート奏者。リラックスタイムを演出するコンサートは大好評で、「マタニティーコンサート」の草分け的存在。1993年、秋篠宮紀子妃殿下のご臨席を仰ぎ、フルートの音を披露。コロンビア ミュージックエンターテインメント、エム・アイ・シー、キングレコードから多数のCDアルバムも発売されている。チェコフィルハーモニー六重奏団等、海外アーティストとの共演も多く、高い評価を獲得している。
 
海老沢 真二/キーボード
関西にて、フォークヂュオ「紙ふうせん」のサポートキーボーディストとしてプロ活動を開始。上京後、岡村孝子、あみん、森口博子、森公美子、喜多郎、TOSHI(XJpan)等々、様々なアーティストのコンサートツアーサポート、レコーディングセッションに参加。喜多郎ワールドツアーにも数年にわたり参加する。その他、中国人アーティストとのコラボレーション等様々なジャンルで活動。吉川久子の新譜「アニマ」にもアレンジャー、プレーヤーとして参加している。
 
三浦  肇/パーカッション
打楽器奏者として数々のオーケストラに参加。スタジオワークからライブ演奏まで、幅広いフィールドで活躍を続ける一方、ドラム教室を開催。後進の指導を通じ、打楽器の魅力を広く伝えている。吉川久子の新譜「アニマ」にも参加している。 

後援:横浜市文化観光局・神奈川新聞社・TVK(テレビ神奈川) 

チケット取扱:みなとみらいホールチケットセンターにて発売
チケット予約:ビー・ビー・ビー株式会社内「心に残る美しい日本の曲を残す会」
事務局 担当:榎本 ☎03-5540-8675 FAX.03-5540-8501
 
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何とか都合をつけて聴きに行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、最晩年を過ごした中野のアトリエで、十和田湖畔の裸婦像原型からの石膏取りが始まりました。

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昨日は、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)に行き、こちらで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」を観て参りました。
 
中村好文氏は建築家、TOTOさんは住宅設備機器メーカーとして有名ですね。
 
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まず、3階の第一会場に入ると、小屋の形をしたブースが7つ。子どもの頃、近所の空き地に友達と作った「秘密基地」を彷彿とさせ、これだけでワクワクしました。それぞれのブースで、中村氏があこがれ影響を受けてきた古今東西の7つの「小屋」をひとつずつ紹介しています。
 
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そのうちの一つが「高村光太郎の小屋」。光太郎が昭和20年(1945)から27年(1952)までを過ごした花巻郊外の高村山荘です。
 
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中に入ると、中村氏による小屋の解説文、図面、イラスト、そして阿部徹雄撮影の小屋内部の写真がパネルで貼り付けられています。さらに、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館作成の美術映画「高村光太郎」(おそらく現存する唯一の光太郎本人が写っている動画)から、小屋に関わる部分の抜粋がモニタで放映されていました。
 
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他には「鴨長明の方丈」、「H・D・ソローの小屋」、「猪谷六合雄の小屋」、「立原道造のヒアシンスハウス」、「堀江謙一のマーメイド号」、「ル・コルビジェの休暇小屋」。その紹介の仕方も均一でなく、それぞれに工夫がされていて面白いと感じました。
 
中庭にはこの企画展のために作られた、理想の小屋「Hanem Hut」。
 
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さらに4階の第二会場では、かつて中村氏が設計制作したさまざまな小屋の紹介も。
 
近年足を運んだ中でもトップクラスの非常に面白い企画展でした。それだけ面白い上に入場無料、写真撮影可。申し訳ない気さえしますので、ここでガンガン宣伝いたします。
 
さて、この企画展とリンクして刊行された中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
その中に中村氏と、ファッションデザイナーの皆川明氏の対談が収められており、光太郎の小屋にからめて次の一節があります。
 
中村 僕は、小屋的な建物を見たり、そこに入ったりすると、「こういう場所こそが人のすまいの原型なんだ」という想いに取りつかれてしまうんです。おもに住宅の設計をしているので、無意識のうちに「住宅ってなんだろう?」ということをいつも考えているらしく、魅力的な小屋を見かけたり、足を踏み入れたりすると、その問いかけに対してひとつの答えを得た気がするんです。
 
皆川 なるほど。たとえばどんなときに感じました?
 
中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
 
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。
 
中村 モノが少ないと、そこに日常生活だけでなく、精神生活が入り込む余地があるってことかな。実際問題として、床面積に限りがあると持ち込めるものも決まってきてしまうので、自分にとって本当に必要なものはなんなのか? と考えることを、建物のほうから要求されるということはありますね。
 
さて、「中村好文展 小屋においでよ!」は乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)を会場に、6月22日まで。ぜひ足をお運びください。ついでに花巻郊外の光太郎が暮らした高村山荘自体にも。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月6日

昭和46年(1971)の今日、「高村光太郎詩の会」会報77号(最終号)が発行されました。
 
同会は光太郎と交流のあった詩人・風間光作が主宰し、昭和38年(1963)に結成されました。
 
その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術に006も造詣の深い作家でした。
 
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。

さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
 
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
 
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
 
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
 
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
 
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
  (中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
 
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
 
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
 
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
 
という一節もあります。
 
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
 
 高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
 
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
 
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
 
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
 
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
 
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
 
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。

 
【今日は何の日・光太郎】 6月5日

昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
 
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当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
 
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。

こんな企画展が開催中です。 

夏目漱石の美術世界展

2013年5月14日(火)~7月7日  東京芸術大学 大学美術館
 
近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867~1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。 漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。 この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。 私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。
 
また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。 漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。 本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。 当時流行したアール・ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。
 
漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。
(チラシより)

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過日このブログでご紹介した雑誌『芸術新潮』の今月号が、この企画展とリンクしています。
 
「序章 「吾輩」が見た漱石と美術」「第1 章 漱石文学と西洋美術」「第2 章 漱石文学と古美術」「第3 章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』」「第4章 漱石と同時代美術」「第5 章 親交「」の画家たち」「第6 章 漱石自筆の作品」「第7 章 装幀と挿画」という筋立てで、古今東西のさまざまな作品が並んでいます。
 
光太郎とも縁の深かった作家の作品も数多く出品されています。荻原守衛、岡本一平、南薫造、岸田劉生、斎藤与里、石井柏亭などなど。光太郎の作品が出ていないのは残念です。
 
漱石は自作の中にさまざまな美術作品をモチーフとして効果的に使っていること、また、津田青楓ら同時代の画家と親交があったこと、そして橋口五葉による自作の装丁が非常にすばらしいこと、さらに「文展と芸術」という有名な美術批評を書いていることなど、美術にも造詣が深いというのが定評です。
 
絵画などの漱石自身の作品も残っています。しかしこちらは漱石の孫である夏目房之介氏によれば「相当にレベルが低いといわざるをえない」。『芸術新潮』ではむちゃくちゃな遠近法や、むやみに色を塗って破綻している点などを酷評しています。しかし、そこには孫としての暖かな眼差しもまぶしてありますが。
 
一昨日、NHKEテレで放映された「日曜美術館」も、「絵で読み解く夏目漱石」と題してこの企画展にリンクした内容でした。ちなみに同番組とセットで放映される「アートシーン」では、先月のこのブログでご紹介しました中村好文氏の「小屋においでよ!」展が紹介されました。こちら、明日、行ってくるつもりです。
 
ところで評論「文展と芸術」について、光太郎が承服できかねる旨を発言し、漱石に噛みつきました。今回の企画展でも、『芸術新潮』でも、「日曜美術館」でもその点に触れられていないのが残念でした。明日はその辺りを書いてみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月4日

昭和26年(1951)の今日、銀座資生堂ギャラリーで「高村智恵子紙絵展覧会」が開幕しました。

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東京での初の紙絵展で、この時から「切絵」「切紙絵」などと言われていた智恵子の作品が、光太郎の発案により「紙絵」の呼称で統一されることになりました。

大阪・堺発の新着情報です。 

「町家歴史館 清学院」で河口慧海がインドから持ち帰った白檀の香木で高村光雲が彫った大黒天像を初公開

 仏教の原典を求めて日本人で初めてヒマラヤを越えてチベットに入った、堺出身の河口慧海(1866年から1945年)が、インドから持ち帰った白檀(びゃくだん)の香木で、近代彫刻界の巨匠・高村光雲(1852年から1934年)が彫った「荒作大黒天(あらづくりだいこくてん)」を、「町家歴史館 清学院」で初公開します。
大黒天像は、大阪府大東市在住で新潟県妙高市・赤倉温泉出身の北村哲朗さんが所蔵されているもので、慧海は大正末頃から戦前にかけて毎年夏になると、赤倉温泉で朝晩湯につかりながら、仏典の研究を続けたと言われています。赤倉温泉で慧海は、彫刻界の巨匠・高村光雲や日本画家の松林桂月(1876年から1963年)とも親しく交わりました。
今回公開される大黒天像は、慧海や光雲と親交のあった北村さんの祖父、故北村岩次郎氏が、二人に依頼して、慧海がインドから持ち帰った白檀の香木を使って光雲が彫ったものです。慧海が名付けた「荒作大黒天」という銘にふさわしく、鑿(のみ)痕も荒々しい個性的な作風です。
同時に、慧海が赤倉温泉で揮毫(きごう)した直筆の扁額「観自在」や、河口慧海と高村光雲、松林桂月の交友をしのばせる写真パネル等も展示します。
 
展示名称 小さな特別展示 「河口慧海と高村光雲」
 
開催期間 平成25年6月1日から6月30日(火曜休館)

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河口慧海。文中にもあるとおり、日本人で初めてチベットに入った僧侶です。戦時中、光太郎が河口の坐像(戦災で消失)などを制作していたことは知っていました。制作中の写真も残されています。

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しかし、寡聞にして光雲ともつながりがあるのは存じませんでした。
 
今回展示される光雲作の大黒天、きれいに仕上げる通常の光雲彫刻と大きく異なり、粗彫りのままです。類例が全くないわけではありませんが、このレベルの粗彫りは非常に珍しいものです。江戸時代の円空の作品を彷彿とさせますね。
 
また京都/堺でセットにして観てこようかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月3日

大正11年(1922)の今日、智恵子の妹・ミツが歿しました。

その遺児・春子は智恵子の父・今朝吉の養女となり、のちに看護婦となって晩年の智恵子を看取ります。

先頃、京都と大阪の堺に行って参りました。京都では大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫などを観、堺では与謝野晶子の命日・白桜忌のつどいに参加して参りました。
 
ところが、その京都と堺から、また新たな情報が舞い込んできました。
 
まずは京都。
 
京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」に、光太郎の水彩画が出品されているとのこと。

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以下、文化庁さんのサイトから抜粋させていただきます。
 
 芝川照吉という名のコレクターをご存じでしょうか。その人物が,わが国近代美術を代表する青木繁や岸田劉生を世に送り出した張本人だということを知れば,いやが上にも興味がそそがれるにちがいありません。
 そしてこの「芝川コレクション」には,当初1000点を超える作品が集結していましたが,このたび遺族の手元に残された現存する178点が,京都国立近代美術館に一括収蔵の運びとなりました。
 それら貴重な作品群を,関西でははじめて公開する記念の展覧会を開催いたします。
 青木繁が没した翌年(1912年),坂本繁二郎,正宗徳三郎らが中心となって青木繁の遺作展の開催と『青木繁画集』の刊行が計画されました。この時それらの実現に向けて,全面的に資金援助したのが芝川だったのです。そしてこれらの事業を主宰した人たちから,お礼として青木の作品を譲り受け,とりわけ代表作《女の顔》は,芝川家ご遺族の手によって今日まで残された貴重な作品といって過言ではありません。
 さらに本コレクションの核を成す岸田劉生を中心とする草土社の画家たちの作品も見逃せません。岸田劉生が芝川照吉を描いた《S氏の像》(1914年)頃から,ふたりの親密な関係がはじまり,東京国立近代美術館が所蔵する重要文化財の《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年)もコレクションに含まれていたのです。
 
というわけで、そのコレクションの中に、光太郎の水彩画が含まれていたわけです。題名は「劇場(歌舞伎座)」。制作年は不明、23.5×35.4センチの小さな絵です。
 
イメージ 1
 
当方、つてを頼って画像データを入手しました(さすがにこのブログでは転載できませんが)。不思議な絵です。これだけがポッと出てきて「光太郎作の水彩画だ」と言われても、信用できません。しかし、芝川コレクション自体の来歴がしっかりしているので、信用できると思います。
 
この芝川コレクション、国立国会図書館のデジタルデータに当時の図録が納められており、光太郎の名も目次に載っています。ところが光太郎の作品が載っているページが欠損しており、どんなものか以前から気になっていました。
 
ただ、芝川コレクション全体は膨大なものだったようなので、今回の水彩画以外にも光太郎作品が入っていた可能性もあります。しかし、大正12年(1923)の関東大震災などで失われてしまったものも多いとのこと。残念です。
 
さて、今回の「芝川照吉コレクション展」。光太郎の水彩画以外にも、光太郎の近くにいた作家の作品が数多く含まれています(出品リスト)。岸田劉生、柳敬助(光太郎の親友・妻、八重を介して智恵子が光太郎に紹介されました)、石井鶴三、高村豊周(下記参照)、富本憲吉、石井柏亭、奥村博(平塚らいてうの「若いツバメ」)、清宮彬、バーナード・リーチなどなど。会期は6月30日まで。
 
これはまた京都に行かなければならないなと思っています。
 
さらに大阪・堺からも新着情報が。明日、紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月2日

昭和47年(1972)の今日、光太郎の弟で、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周(とよちか)が歿しました。
 
ほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、光太郎没後は連翹忌などその顕彰活動に奔走しました。また、光太郎に関するたくさんの回想録は、すぐ身近にいた立場からのもので、非常に貴重なものです。光太郎同様、文才にも恵まれ、歌会始の召人に任ぜられた他、四冊の歌集を遺しました。

今日は新潟に行ってきます。先月のブログでご紹介しました新潟市新津美術館さんのイベント「シーズン&アート第29章 「高村光太郎-安達太良山と智恵子」を聴きに行って参ります。
 
『道程』、『智恵子抄』を、元NHKアナウンサーの方が朗読し、文芸評論家の方が解説、二期会会員のソプラノ歌手さんが、ピアノ伴奏で朗読にあわせて歌曲『智恵子抄』より「あどけない話」や「レモン哀歌」などを歌うとのこと。楽しみです。
 
似たようなコンサートが今月、目黒と横浜であいついで開催されますのでご紹介します。 

柿の木坂にて

日 時・会 場  2013年6月19日(水)19:00開演 18:30開場 めぐろパーシモンホール 小ホール
出演/曲目
安田由香里 <ソプラノ>
 ハイドン:オラトリオ「天地創造」より “今や野の新緑が”
 ヘンデル:オラトリオ「セメレ」より “朝のひばりはわれと共に歌い”
 ベネディクト:みそさざい
 ピアノ:守谷温子

岩井奈美 <メゾ・ソプラノ>
 チマーラ:郷愁 ストルネッロ
 ビゼー:オペラ「カルメン」より “ハバネラ”
 サン=サ-ンス:オペラ「サムソンとデリラ」より “愛の神よ 私を助けに来ておくれ”
 團 伊玖磨:五つの断章 野辺 舟唄 あかき木の実 朝明 希望
 ピアノ:内藤典子

木村洋子 <語りと音楽>
<演目>高村光太郎:智恵子抄より
「晩餐」「夜の二人」「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」「同棲同類」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」
<演奏>J.S.バッハ:フランス組曲Ⅴ ガボット G線上のアリア 平均律Ⅵ プレリュード  他
<構成・音楽・演出>藤堂叶倫
 
料 金 2,800円 (全席自由・税込)  申 込 JILAチケットセンター Tel:03-3356-4140

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もう1件。 

La fontaine~雨の歌~

日 時・会 場 2013年6月22日(土) 14:00開演 13:40開場 青葉区民文化センター フィリアホール
出演/曲目
久保田華代子 <メゾ・ソプラノ>
 サン=サーンス:オペラ「サムソンとデリラ」より
  “春は目覚めて” “愛の神よ!私を助けにきておくれ” “あなたの声に私の心は開く”
 ヴェルディ:オペラ「仮面舞踏会」より “地獄の王よ、急ぎたまえ”
 ピアノ:長澤恵美子

高井洋子 <クラリネット>
 バーンスタイン:「ウェストサイド物語」より “マリア”
 バーンスタイン:クラリネットとピアノのためのソナタ
 ピアノ:冨田珠里亞

星野真貴 <ソプラノ>
 ドニゼッティ:オペラ「ドン・パスクヮーレ」より “あの目に騎士は”
 プッチーニ:オペラ「ラ・ボエーム」より “私が街をあるけば” 他
 ピアノ:天野正子

高柳なおみ <ピアノ>
 ドビュッシー:映像 第1集より 1. 水の反映 3. 動き
 ショパン:スケルツォ 第2番 変ロ長調 作品31

岩井奈美 <メゾ・ソプラノ>
 モーツァルト:静けさはほほえみ
 モーツァルト:オペラ「イドメネオ」より “私の罪ではない”
 團伊玖磨:「五つの断章」 野辺 舟歌 あかき木の実 朝明 希望
 小林秀雄:飛驒高原の早春(はる)
 ピアノ:尾崎克典

大河内由佳 <ソプラノ>
 トスティ:理想の女(ひと)
 蒔田尚昊:〈智恵子抄〉より 「あどけない話」 他
 ピアノ:井川由紀
料 金 3,500円 (全席自由・税込)  申 込 JILAチケットセンター Tel:03-3356-4140

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この手のイベント、何もないときは何もないのに、あるときは集中してあるという感じです。今月もあちこち出かけますので、両方行くのは厳しいかな、と思っています。光太郎を取り上げていただけることがありがたいですし、心は凄く動くのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月1日

昭和24年(1959)の今日、雑誌『婦人画報』第537号に、詩「若しも智恵子が」が掲載されました。
 
「若しも」は「もしも」と読みます。この時光太郎、数えで67歳……とは思えませんね。
 
   若しも智恵子が

 若しも智恵子が私といつしよに100
 岩手の山の源始の息吹につつまれて
 いま六月の草木の中のここに居たら、
 ゼンマイの綿帽子がもうとれて
 キセキレイが井戸に来る山の小屋で
 ことしの夏がこれから始まる
 洋洋とした季節の朝のここに居たら、
 智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
 両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
 やつぱり二十代の声をあげて
 十本一本のマツチをわらひ、
 杉の枯葉に火をつけて
 囲炉裏の 鍋 (なべ ) でうまい 茶粥 (ちゃがゆ ) を煮るでせう。
 畑の絹さやゑん豆をもぎとつてきて
 サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。
 若しも智恵子がここに居たら、
 奥州南部の山の中の一軒家が
 たちまち真空管の機構となつて
 無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

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