2013年04月

週に1~2冊、古書店から目録が届きます。通販用の在庫カタログといった位置づけです。今ほどインターネットが普及していなかった時代には、地方在住者としては非常にありがたいものでした。昨今は古書店もネット販売を取り入れているところがほとんどですが、紙の目録もまだまだ役に立つものです。
 
先日、本郷の森井書店様から届いた目録。80ページ中の約50ページがカラー版で、近代作家の肉筆ものなどが多数載っており、見ているだけでも楽しいものです。
 
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ちなみに上の画像は表紙ですが、上から順に横光利一の草稿、岡本かの子・一平合作の短冊とかの子の草稿、永井荷風の書簡です。
 
残念ながら、どうしても必要なものは載っていなかったので注文しませんが、「ほう」と思ったものが何点かありました。
 
まず、識語署名入りの龍星閣版『智恵子抄』。

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見返しに短歌「わが為事(しごと)いのちかたむけて成るきはを智恵子はしりき知りていたみき」がペン書きで書かれています。「光」の署名も。この短歌は『智恵子抄』に収められた「うた六首」の中の一つ、有名な作品です。筆跡的に光太郎のもので間違いありません。
 
本自体は、函がしっかりついていますが、重版なので、この識語署名がなかったら1,000円ぐらいのものです。しかし、この識語署名があることによって売価380,000円。妥当な値段かな、と思います。ここまでしっかり有名な短歌が書かれているという点では、識語署名というより、一つの書作品に近いといえるでしょう。美術館や文学館の企画展などで展示されてもおかしくないものです。
 
有り余るほどの資産があれば購入するのですが、そうもいきません。どなたか心ある方の手元に行ってほしいものです。
 
他にも数点、「ほう」と思うものがありましたが、ブログのネタかせぎのため、明日に回します。
 
【今日は何の日・光太郎】4月30日

昭和30年(1955)の今日、結核のため、赤坂山王病院に入院しました。
 
7月には小康状態となり、退院していますが、もはや手の施しようはなかったようです。

今日の新聞に、推理作家の佐野洋さんの訃報が載っていました。

佐野洋氏死去 推理小説界の重鎮

2013.4.28 00:58  
 名物批評コラム「推理日記」の連載などで知られた、作家で推理小説界の重鎮、佐野洋(さの・よう、本名・丸山一郎=まるやま・いちろう)氏が27日午後9時25分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く。
 「短編の名手」といわれ、読売新聞記者時代の昭和33年、推理作家デビュー。39年、「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年から月刊誌「小説推理」に名物批評コラム「推理日記」を39年間連載し、日本推理作家協会理事長も務めた。
 平成9年、日本ミステリー文学大賞。21年に菊池寛賞受賞。代表作に「事件の年輪」など。
 
当方、佐野氏の著書を一冊持っています。光文社文庫の「歩け、歩け」(2007/1/20)。
 
裏表紙の紹介文から。007
 
娘が着メロに入れてくれた昔の唱歌「歩くうた」が、老父との思い出を甦らせた。
ふとしたことで知った、子供時代の父の身に起きた事件とは?(表題作)
読後、深く心に残る人生の機微。単行本未収録作9編を収録。
 
モチーフに使われている「歩くうた」が、昭和15年(1940)に作られた光太郎作詞の国民歌謡です。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月29日

昭和23年(1948)の今日、新たに作られた盛岡美術工芸学校の開校式への祝辞を書きました。

隔月刊の美術雑誌『花美術館』の今月号。
 
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青森在住の彫刻家・田村進氏からいただきました。
 
巻頭特集は画像でご覧の通り、竹久夢二ですが、後半の「今日まで、そして明日への芸術」と題する現代作家を紹介するページに、田村氏も取り上げられています。
 
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氏の近作、「レリーフ習作・巨星高村光太郎」の画像、紹介も。
 
曰く「本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。」。
 
氏とは電話で何度かお話しさせていただきましたが、光太郎が十和田湖畔の裸婦像を作った頃、青森で会ったことがあるとのこと。光太郎が没してから生まれた当方にとっては、うらやましいかぎりです。
 
また、本号が通巻30号ということで、アーカイブ的なページもあり、一昨年の第18号の巻頭特集が「光太郎・智恵子」だったため、その際の監修をされた北川太一先生の短文も載っています。

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ちなみに「老彫刻家」とは長崎の「平和祈念像」などで有名な北村西望です。
 
この雑誌、巻頭特集には日本人美術家を一人ずつ(光太郎・智恵子は二人でセットでしたが)を取り上げています。荻原守衛、佐藤忠良、岸田劉生など、光太郎とも縁の深い作家も何度も取り上げてくれています。
 
ある意味、地味な雑誌ですが、作りはほぼ全ページカラーでぶ厚く、その意味では豪華です。こういう真面目な雑誌がしっかり続いていってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】4月28日

昭和8年(1933)の今日、日本女子大学校刊行の『家庭週報』第1175号に散文「おわびとお礼と」が掲載されました。
 
この年除幕された同校創立者、成瀬仁蔵の胸像に関し、完成までに14年もかかった経過が述べられています。

中国地方からもニュースが入っています。

宇部ときわ公園で「風を感じる」彫刻展-扇風機で作品動く演出も

 ときわ公園内のときわミュージアム分館(湖水ホール内、宇部市沖宇部)で現在、彫刻展「風を感じる あれ?彫刻が動いた展」が開催されている。

 「風を感じる」をテーマに3月30日に始まった同展は、これまでに彫刻展「UBEビエンナーレ」に出品した彫刻家の大隅秀夫さんや村中保彦さん、大井秀規さんの作品のほか宇部市が所蔵する彫刻など約30点を展示する季節に合わせた企画展。館内には扇風機を設置し、風を受けて回ったりゆらゆらと揺れたりする彫刻や自動で動く作品なども並ぶ。

 石に鉄やチタンなどの金属を組み合わせた大隅秀雄さんの作品と、壁や床までいっぱいに展示する村中さんの作品は、風に揺れる様子が楽しむことができ、大井さんの作品は石彫刻を鑑賞し、風を感じることができるという。 

 
宇部市の所蔵作品では、久保田后子市長が「大好き」(同ミュージアム学芸員の三浦梨絵さん)だという荻原守衛の「女」や高村光太郎の「手」など代表作品を中心に展示する。

 三浦さんは「作品を見ていると、彫刻は私たちに話しかけてくることが分かる。今回は、難しく作品を解釈するというよりも日常とは違う世界に入ったような気持ちになってもらえる。同園へのピクニックついでに寄ってもらい、レジャー気分を高めてもらえれば」とも。

 関連企画として、5月4日にはワークショップ「風と遊ぶ彫刻 ゆらゆらカラフルモビール」を実施。村中さんを講師に、アルミ板などを使い動く彫刻を制作する。参加には事前の申し込みが必要。参加費は600円。4月26日締め切り。

 開館時間は10時~16時。入場無料。4月26日までと5月7日~6月14日の平日は随時入館を受け付ける。問い合わせはときわミュージアム(TEL 0836-37-2888)まで。6月16日まで。
 
山口県宇部市は、「緑と花と彫刻のまち」を標榜、同市所蔵の野外彫刻作品は国内屈指のコレクションということです。野外彫刻以外にも、光太郎や碌山、それに続く近・現代の彫刻家群の作品を豊富に所蔵しています。
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こういう町おこしの方法もあるんですね。

【今日は何の日・光太郎】4月27日

大正8年(1919)の今日、岐阜県恵那郡岩村町で、光雲の代作として光太郎が作った「浅見与一右衛門銅像」が除幕されました。

 
この像は戦時中に金属供出のために失われ、現存しませんが、当時の台座と、昭和60年(1985)に地元出身の彫刻家が新たに作った浅見翁の銅像を現在も見ることができます。


昨日に引き続き、福島二本松周辺での各種イベント等の報道です。

夫や家族の生涯解説 二本松で「智恵子講座」開講

 詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子の出身地・福島県二本松市で顕彰活動を行っている智恵子のまち夢くらぶの「智恵子講座2013」は20日、同市の市民交流センターで開講した。 
 智恵子の夫・高村光太郎に影響を与えた人をテーマに12月まで7回の講座を開く。県北地方を中心に郡山、白河、田村、南相馬各市から30人が受講している。 
 初回は夢くらぶの本多長幹事があいさつした後、熊谷健一代表が「父高村光雲と家族」について講話した。光太郎の「私は何をおいても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある」との言葉から、彫刻の大家だった光雲の生涯、親子の葛藤などを説明した。 
 次回は5月19日で「第九回智恵子生誕祭~好きです智恵子青空ウォーク」として他の参加者も募り、智恵子の生家やゆかりの地を巡る。 
 問い合わせは熊谷代表 電話0243(23)6743へ。 
福島民報社
 
昨年からこのブログでも何度かご紹介していますが、二本松で地道に続いている講座です。6月には当方も講師を務めます。

常設作品展示替え 大山忠作美術館

 福島県二本松市の大山忠作美術館は常設展の展示替えをした。故郷への思いを込めた大作や初公開作品など36点を11日から9月29日まで公開する。
 同美術館は所蔵作品を半年に1度入れ替えている。第8期の今回は、安達太良山とススキを背景にした「智恵子に扮(ふん)する有馬稲子像」など、初期から晩年までの作品を並べた。初展示の書「花」や小品の「桜」など、展示期間の季節に合わせた作品もある。
 入館料は一般400円、高校生以下200円。時間は午前9時半から午後5時(入館は午後4時半)まで。問い合わせは同美術館 電話0243(24)1217へ。
福島民報社
 
JR二本松駅前にある、日本画家・大山忠作の美術館です。こちらには智恵子をモチーフとした絵画が何点かあります。 

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こちらは以前同館で入手したクリアフォルダとポストカードです。
 
いつもいつもオチの一言はこれですが、「ぜひ足をお運びください」。
 
【今日は何の日・光太郎】4月26日

昭和33年(1958)の今日、花巻郊外高村光太郎山荘敷地内に立つ光太郎詩碑「雪白く積めり」の銅板プレート(高村豊周・西大由制作)が完成、花巻に届けられました。

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しばらくニュース検索の結果をご紹介しないでいたら、溜まってしまいました。特に福島二本松周辺での各種イベント等の報道が多くあり、まとめてご紹介します。

道の駅「安達」下り線オープン 地場産品の直売人気

 二本松市米沢の国道4号下り線沿いに5日オープンした「道の駅『安達』智恵子の里下り線」は、初日から大勢の利用客でにぎわい、地場産品の農産物直売場や土産物売り場などが活気であふれた。
 オープンに先立ち行われた完成式では、三保恵一市長らと先着500人の利用者も加わった大テープカットが行われ、関係者らが新たな観光拠点の誕生を祝った。同市のトランペット奏者でNoby(ノビー)の愛称で知られる長屋伸浩さんの演奏も披露された。
 施設内には、にほんまつ未来創造ネットワーク(安斎文彦会長)による「合戦場のしだれ桜」など市内の桜の名所写真19点と桜マップが展示され、利用者へ春の観光情報を発信していた。
 また、風船で犬などに模したバルーンアートプレゼントや、奥の松酒造(同市)の甘酒試飲なども家族連れに好評を博した。
(2013年4月6日 福島民友トピックス)
 
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「万燈桜」ライトアップ 道の駅「安達」智恵子の里下り線

 二本松市米沢の道の駅「安達」智恵子の里下り線の入り口にあり、桜の名所となっている「万燈桜(まんとうさくら)」のライトアップは25日まで行われる。同下り線オープン記念の一環で、期間中は「万燈桜まつり」も開催される。
 同所で11日に点灯式が行われ、三保恵一市長があいさつした後、スイッチを押して点灯。高さ約15メートルで樹齢約270年の高く伸びた枝ぶりが美しい1本桜が、幻想的に映し出された。ライトアップの時間は午後6時30分から同11時まで。
(2013年4月13日 福島民友ニュース)
 

あぶくま抄(4月16日)

 二本松市米沢の4号国道沿いに「万燈[まんとう]桜[ざくら]」がある。福島市との境に近い。推定樹齢270年のエドヒガンの一本桜は今が花盛り。5日にオープンした道の駅「安達」智恵子の里下り線のシンボルだ。
 昔、この地に住む旭長者が無病息災を願い、一万の塚を築き、灯明をともした伝説に由来する。残雪の安達太良山を背景に咲く姿は、多くの人に愛されてきた。国土交通省と二本松市は道の駅整備に際して、万燈桜の保護と景観に配慮した。駐車場の面積を予定よりも狭くし、桜の周囲を芝生広場にした。
 道の駅「安達」は東北地方で初、4号国道でも唯一、上下線両方にある。既設の上り線に次ぐ下り線の完成は当初の計画から2年遅れた。着工目前に大震災があった。直後は、浜通りからの避難者が上り線にあふれた。災害時の一時避難や情報発信の役割が一層高まった。下り線の駅は、停電の際に補う太陽光発電設備を備える。
 休憩だけでなく、特産品の買い物や周辺の観光、歴史・文化に触れようという人々でにぎわう。いざというときは、避難所としての機能を発揮する。地域を災害から守ろうと祈った旭長者の思いを継ぐように、万燈桜が見守る。

「春らんまん号」出発 二本松の桜の名所など巡回

 二本松市内の桜の名所などを巡回する臨時バス「春らんまん号」は6日、運行をスタートした。28日までの土、日曜日の計8日間、1日8本のバスを運行し、春の観光シーズンを迎えた同市内を巡る。
 コースはJR二本松駅前を出発点に本町から亀谷坂(坂の駅露伴亭)、智恵子の生家を経て、霞ケ城公園や大隣寺を巡って駅前に戻る。料金は大人(中学生以上)が170~520円、子どもは90~260円。1日フリー乗車券は大人(同)500円、子ども250円(乳幼児無料)。1日フリー乗車券の提示で、同市の大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割り引きされる。
 問い合わせは福島交通二本松営業所(電話0243・23・0123)か二本松観光協会(電話0243・55・5095)へ。JR二本松駅前の発車時刻次の通り。
 午前=10時10分、11時、11時40分▽午後=0時30分、1時15分、2時10分、2時50分、3時35分
(2013年4月7日 福島民友ニュース)
 
他にも二本松周辺の報道がありますので、明日ご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】4月25日

明治44年(1911)の今日、築地精養軒で行われた親友で画家の柳敬助、橋本八重の結婚式に出席しました。

柳夫妻はこの年、光太郎と智恵子の出会いのきっかけを作りました。

4/22(月)に安曇野市穂高の碌山美術館で行われた碌山荻原守衛の命日「碌山忌」のレポートです。
 
午後から館の庭で地元の皆さんによるコンサートがありましたが、そちらは欠礼いたしました。4時頃に「碌山友の会」の方などが車を出してくださり、4㎞ほど離れた場所にある守衛の墓参に行きました。
 
その後、5時から研究発表ということで、学芸員補・濱田卓二氏による「荻原守衛と片岡当(まさ)の交友-岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」が行われました。
 
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守衛は、はじめ画家を志し、明治32年(1899)に上京、画塾・不同舎に通うため、明治女学校の敷地内にあった草庵で1年半ほど暮らします。
 
一方の片岡当は守衛より一つ年上。守衛が東京で暮らしていた頃、明治女学校に在学しており、ここで二人の交流が始まったとのこと。
 
守衛は明治34年(1901)に留学のため渡米。しかし、苦労の連続でした。その時、折れそうになる心を救ったのが片岡当からの手紙で、それを読んで一念発起、再び頑張ることができたそうです。そんな縁で守衛は恩人の井口喜源治に宛てた手紙の中で、当を「岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」と紹介していたわけです。
 
その後、明治37年(1904)にロダンの「考える人」を見て彫刻に転向、同39年(1906)にニューヨークに来た光太郎と知り合い、やがて意気投合します。
 
相前後して帰朝した守衛と光太郎、共に手を携えて新しい彫刻を日本に根付かせるつもりでいましたが、明治43年(1910)、守衛は急逝。光太郎の衝撃はいかばかりであったことか……。
 
その一端を示すのが、穂高からやはり親友だった陶芸家のバーナード・リーチに送った以下の葉書です。
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殴り書きのような文字、そして文面からは、同志を失った悲しみと、そして怒りも感じられます。
 
片岡当はその頃、郷里岡山で教員をしていたそうですが、守衛の死を新聞で知り、日記にその衝撃を記しています。勤務先の学校でその記事を目にして涙を流したこと、自宅に保管してあった守衛からの来翰21通(現存せず)を引っ張り出して感懐にふけったことなどが記されています。
 
当は、翌年には穂高の守衛の墓に詣で、守衛の実家の人をして「あんな女性が奥さんになってくれていたらよかった」と言わしめたとのこと。その後、官吏と結婚し京城に渡り、終戦後に帰国。昭和36年(1961)に亡くなったそうです。
 
こうした経緯はすでに知られていたことだそうですが、濱田氏の発表では、岡山市内の当の実家のあった辺りの様子、当の日記の問題のページの画像などが提示され、また、明治女学校内にあった守衛の暮らした草庵の場所等も特定したり、興味深いものでした。
 
サプライズがありました。当のお孫さんにあたる岩田圭二氏が西東京市からいらしていました。氏の話によれば、当はその晩年に守衛が好きだったと、近親者にもらしていたそうです。
 
ドラマチックですね。
 
研究発表のあと、館内のグズベリーハウスという建物にて、「碌山を偲ぶ会」が催されました。山田理事長、所館長をはじめ館の皆様や、荻原家の現当主の方、守衛研究者の仁科惇先生、先ほどの岩田氏、「碌山友の会」の皆さんなど、約30名ほどでしたか、飲んで食べて、守衛について語り合いました。当方も簡単にスピーチ。
 
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長野県出身のシンガーソングライター、三浦久氏も参加されており、ずばり「碌山」という曲の入ったCDアルバムをいただいてしまいました。ありがとうございます。

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8時過ぎにお開きとなり、それから愛車を駆って千葉に帰りました。さすがに自宅に帰り着いたのは日付が変わってからになりましたが、有意義な2日間でした。
 
碌山忌、碌山を偲ぶ会、参加は自由のようです。当方、他に何もない限り毎年参加することになりそうです。ぜひ皆さんも足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月24日

平成16年(2004)の今日、福島県立美術館で企画展「高村光太郎展」が開幕しました。

同展はその後、東京の損保ジャパン東郷青児美術館(7/7~8/29)、広島のふくやま美術館(10/1~11/28)を巡回しました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の命日・碌山忌に参加のため、1泊2日で長野に行って参りましたのでレポートいたします。
 
21日(日)の朝、長野に向けて出発しました。昨年は電車で行ったのですが、どうも車で行った方が早いし、現地で動きがとれると考え、今年は自家用車で行きました。観測史上もっとも遅い雪だったそうで、中央道から長野道に入ったあたりではまだ雪が降っていました。

昼過ぎに安曇野の碌山美術館に到着000。この日は記念講演ということで、午後1時半から光太郎の令甥・髙村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」がありました。

氏は光太郎の実弟で、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周(とよちか)のご長男です。
 
豊周はほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、のちに鋳金の道で人間国宝にも選ばれました。家督を継いだため、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の155番地の光雲邸に住み、氏は現在もここで生活なさっています。
 
光太郎も明治45年(1910)に同じ林町の25番地にアトリエを建ててもらって独立するまでここで暮らしていました。
 
アトリエ竣工後は光雲邸は「155番地」、光太郎アトリエは「25番地」と、お互い番地で呼び合っていたそうで、氏も光太郎を「25番地の伯父さん」と呼んでいたそうです。
 
題目の通り、幼少年期から青年期にかけての光太郎の思い出がいろいろと語られ、聴衆は興味深げに聞き入っていました。
 
碌山忌自体は翌日の22日なので、当方、この日は長野に1泊しました。安曇野から1時間ほどの上田市にある別所温泉に宿を取っておきました。
 
別所温泉、光太郎は昭和2年(1927)の7月に白根、草津などとともにこの地を訪れています。ただ、どの宿に泊まったなどの詳細は不明です。
 
以前のブログにも書きましたが、当方にとっては、麓の塩田という地区に父親の実家があり、子供の頃から慣れ親しんだ温泉です。
 
ゆっくり温泉につかり、翌日。碌山美術館には16時からの守衛墓参に間に合えば良いと思い、別所から塩田、隣接する青木村、旧武石村などにある寺社仏閣、城跡などを探訪しました。当方先祖の墓参りも致しました。塩田は鎌倉時代に北条氏によって栄え、戦国時代にはかの武田信玄も居留した地です。「信州の鎌倉」と呼ばれ、平安末から鎌倉にかけての寺社仏閣が数多く残されており、木造三重の塔や茅葺きの堂宇、変わった形の神社建築など、歴史遺産の宝庫です。また、旧武石村には当方の先祖(真田家に仕えていたそうです)が開いたという山城の跡があり、ここは今回初めて訪れました。

また、塩田の一角にある信濃デッサン館さんも観て参りました。光太郎と縁のあった画家、村山槐多の作品などが展示されています。
 
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千葉ではとっくに散ってしまった桜や連翹も真っ盛りでした。しかし、雪と花が同時に見られるとは思っていませんでした。
 
15時過ぎに安曇野に到着、守衛の墓参に参加、その後は学芸の方による研究発表と、「碌山を偲ぶ会」という懇親会です。そちらはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎】4月23日

昭和29年(1954)の今日、筑摩書房から刊行の『現代日本文学全集24 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治』の口絵用に、「いろはにほへと」と揮毫しました。

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【今日は何の日・光太郎】4月22日

明治43年(1910)の今日、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛が新宿中村屋にて没しました。

というわけで、今日は碌山忌。守衛の故郷・信州安曇野の碌山美術館で昨日からイベントが開かれています。

昨日は記念講演会で、光太郎の令甥・髙村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」がありました。

当方、昨日朝に千葉を立ち、自家用車にて現地入り。講演会を聴いた後は安曇野からひと山越えて上田市の別所温泉に宿泊しました。

今日も碌山美術館で、研究発表「荻原守衛と片岡当の交友ー岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」や地元の皆さんによるコンサート、守衛の墓参などが行われます。

このあとまたひと山越えて行って参ります。しかし昨日は季節はずれの雪。路面凍結に気を付けます。

詳しくは帰ってからレポートします。

昨日、目黒区駒場の日本近代文学館に行って参りました。
 
先月ご紹介した同館で開催している講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」を聴講するためです。
 
全6回の講座の1回目で、題は「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」。講師は上智大学教授の小林幸夫先生でした。光太郎、鷗外、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子を語られ、非常に興味深い講座でした。
 
親子ほど年の違う二人の交流、主に二つの出来事が扱われました。
 
まず、光太郎が東京美術学校在学中だった明治末の話。鷗外が非常勤の講師として美術学校の「美学」の授業を担当しました。どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。その最後の講義の日、頓狂な質問をした級友がこっぴどく怒られたエピソードを、光太郎は後々まで繰り返し語っています。
 
さらに大正に入ってから、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎を自宅に呼びつけて叱責したとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いています。光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。
 
今回の講座ではそういう話は出ませんでしたが、光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な光太郎が徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。軍医総監だった鷗外が、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。
 
微笑ましいといえば微笑ましい交流ですね。
 
小林先生もおっしゃっていましたが、「文豪」たちのこうした人間的な側面が垣間見えるところに、文学のある種のおもしろさがあるような気がします。
 
同館では、講座とは別に企画展も開催中です。題して「花々の詩歌」。

 
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「文豪」たちの「花」を題材にしたさまざまな作品-主に自筆資料-が並んでいます。夏目漱石が相思相愛だったとも伝えられる大塚楠緒子の死に際して詠んだ有名な句「あるほどの菊なげ入れよ棺のなか」の短冊や、有島武郎が心中の直前に作った短歌「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあじさいの花」の短冊など、見応えのあるものばかりです。
 
それらにまじって、大正期に第二次『明星』のために光太郎が描いた花々のカットも4点展示されています。チラシの右上に載っています。
 
会期は6/8(土)まで。



今日、明日と、信州安曇野の碌山美術館に行って参ります。光太郎の親友だった彫刻家碌山荻原守衛の命日、碌山忌と、記念講演で光太郎の令甥、高村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 


【今日は何の日・光太郎】4月21日

明治45年(1912)の今日、上野竹の台陳列館において第10回太平洋画会展覧会が開幕しました。智恵子が油絵「雪の日」「紙ひなと団扇絵」を出品しました。
 
どちらの作品も現存が確認されていません。どこかから出てこないものでしょうかね……。

6/29(土)を皮切りに、全国3つの美術館を巡回で行われる企画展「彫刻家・高村光太郎展」。当高村光太郎連翹忌運営委員会が「協力」という立場で関わらせていただくため、たびたびこのブログでご紹介しています。
 
最初が千葉市美術館さん、最後が愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さん、と、ここまではこのブログでもご紹介しました。そして間に入る2館目、いまだ館自体や運営母体である自治体のホームページ等では発表されていませんが、その近隣の美術館ネットワークのページ、それから千葉市美術館に連なる千葉市教育振興財団さんのページで名前が出ていますので、こちらでも紹介します。
 
岡山県井原(いばら)市立田中(でんちゅう)美術館さんで、会期は8/30(金)~10/20(日)、「井原市制60周年記念 秋季特別展」という副題がつきます。
 
「田中」と書いて「たなか」ではなく「でんちゅう」。こちらは光太郎の父・光雲の弟子で、光太郎とも親しかった彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の個人美術館です。
 
平櫛の代表作、「鏡獅子」などの彩色木彫は、画像などでご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。
 
ちなみにこちらでは平櫛にあてた光太郎書簡を三通所蔵しており、かつて、筑摩書房の『高村光太郎全集』補遺作品集である「光太郎遺珠」に収録させていただきました。
 
さて、企画展「彫刻家・高村光太郎展」。まとめますと以下の日程で行われます。
 
6/29(土)~8/18(日) 千葉市美術館
8/30(金)~10/20(日) 井原市立田中美術館
11/1(金)~12/15(日) 碧南市藤井達吉現代美術館
 
来月初めには詳細をお伝えできると思いますが、最初の千葉市美術館さんでの関連行事で、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生と当方で対談形式の講演的なことを行います。
 
当初予定では、現存する光太郎彫刻のほとんどが一堂に会するはずでしたが、残念ながら個人蔵の木彫の数点が出品されないことになりました。残念ですが、こればかりは仕方ありません。それでも約20年ぶりの大規模な企画展です。ぜひともお近くの会場に足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月20日002

昭和8年(1933)の今日、日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立33回記念式典において、光太郎作の同校創設者・成瀬仁蔵の胸像が除幕されました。
 
以前にも書きましたが、依頼されてから完成までに14年もかかっています。光太郎、恐ろしいこだわりでした。

画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。

この像は井原でも展示予定です。

朗読系のDVDを入手しましたのでご紹介します。
 
昨年、テレビ東京系で約半年間、月曜から木曜の深夜に放映されていた「乃木坂浪漫」のDVDです。この番組は、アイドルグループ乃木坂46さんのメンバーが日替わりで出演、日本文学の名作の一節を朗読するというコンセプトでした。
 
光太郎作品は2回取り上げられ、5/9には斉藤優里さんの出演で「道程」、6/20には斎藤ちはるさんの出演で「智恵子抄」のサブタイトルで放映されました。いずれDVD化されて販売されるだろうと思っていましたら、先月、千葉・幕張メッセでDVDの販売イベントがあったとのこと。
 
感心すべきなのかどうなのか、出演しているメンバーの人気による売れ残りを防ぐための方策なのでしょう、内容を指定してのバラ売りではなく、全102種類を5枚ずつランダムに袋に入れて販売、という方式をとったとのこと。
 
そこで現在、ネットオークションではたくさんバラで出品されていまして、それで購入しました。光太郎を扱った2枚だけを入手できたので、ラッキーでした。
 
#23 斉藤優里 「道程」 収録作品「冬が来た」「レモン哀歌」
#47 斎藤ちはる「智恵子抄」 収録作品「あどけない話」「亡き人に」
 
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若い人たちに興味を持ってもらうためには、こういうのもありかな、と思います。
 
【今日は何の日・光太郎】4月19日

昭和25年(1950)の今日、盛岡市の川徳画廊で「智恵子切抜絵展覧会」が開幕しました。
 
この時点ではまだ「紙絵」という呼称は使われていませんでした。 

一昨日ネットに、昨日には新聞紙上で、俳優の西沢利明さんの訃報が出ました。 

俳優の西沢利明氏死去

時事通信 4月16日(火)17時47分配信
 西沢 利明氏(にしざわ・としあき=俳優)11日午前3時8分、肺がんのため東京都世田谷区の病院で死去、77歳。北海道出身。葬儀は近親者で行った。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。
 特撮テレビドラマ「宇宙刑事ギャバン」で銀河連邦警察のコム長官役を演じたことで知られ、「ラ・マンチャの男」などの舞台や数々のドラマで活躍した。
 
西沢さん、昭和40年代にキングレコードから出た朗読のアナログレコード、「朗読日本詩歌全集」で光太郎詩12篇の朗読を担当なさいました。
 
当方、後にCDで復刻されたものを持っています。
 
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久しぶりに聴いてみました。きびきびと歯切れのよい朗読です。バックに流れる寺島尚彦とリズムシャンソネット+αさんの伴奏もいい感じです。
 
人は亡くなっても、このように声が残る-ある意味不思議な感じです。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月18日

昭和57年(1982)の今日、NHK教育テレビ(現・NHKEテレ)で放映された「新日曜美術館」に、彫刻家・舟越保武が出演。「師を語る」と題して光太郎について語りました。

たまたまネットで見つけました朗読関連のイベントを2つご紹介します。まちがいなく今年のイベントです(数年前のイベントのページにたどり着き、これから開かれると書いてしまいまったことがありますので)。
 
『北海道新聞』さんのページから。函館でのイベントの記事です。 

読み語り会「花音」発足 函館の犬童さん、安沢さんら 26、28日に記念公演

 司会・ナレーション業の「オフィスK」(函館市柳町)スタッフとして活躍している犬童いづみさんと安沢智子さんが中心となり、読み語り会「花音(かおん)」が発足した。26日と28日に市民会館大会議室で創設公演を開き、小説や詩など文学作品の朗読を披露する。

 「花音」は、犬童さんと安沢さんが講師を務める道新文化センターの朗読講座の受講生29人が会員。講座で身につけた技術を生かし、施設や学校、ホームパーティーなど、さまざまな場に出向いて朗読や語りのボランティア活動に取り組むのが目標だ。

 創設公演は、会のお披露目として開催する。26日は午後6時半から7人が高村光太郎の「智恵子抄」などを、28日は午後1時半から6人が夏目漱石の「夢十夜」などを読む。

 「花音」代表に就いた犬童さんは、「朗読は、声を通して作品世界をより生き生きと伝え、リアルに感じてもらうことができる」と話し、多くの来場を呼びかけている。

 入場無料。問い合わせは犬童さん(電)090・3115・9830へ。(内田晶子)
(04/15 16:00)


もう一点、やはり北海道札幌の話し方教室、オフィス スウィングさんのページから。 

月替わりの中国茶を飲みながら、耳で味わう文学はいかがですか?昼の部には、ゲスト朗読者として安藤千鶴子さんを迎えます。夜の部の作品に一部違いがありますので、ご承知おきください。

必ずご予約のうえ、お一人で、ご友人とご一緒に、お気軽にお越しください。

★ 日時  5月14日(火) 昼の部 午後2時~4時 夜の部 午後6時40分~8時40分 

★ 主な予定作品                 朗読
1 <漢詩>杜甫「春夜喜雨」(中国語朗読)    李 強
2 (昼の部)「一切は智恵子」     安藤千鶴子
      (高村光太郎「智恵子抄」ほかより)
  (夜の部)太宰治「葉桜と魔笛」       山口 成子
3 藤沢周平「うぐいす」            五十嵐和子
4 清少納言「枕草子」日本語&中国語    李強・山口成子
   
★ 会場  中国茶専門店 楼蘭(ろうらん)
   札幌市中央区南3条西9丁目(狸小路) 
   地下鉄東西線「西11丁目駅」3番出口から徒歩5分 
★ 会費  1,000円(中国茶・菓子つき) 
★ ご予約・お問い合わせ  必ず、事前にお申し込み願います。
  オフィススウィング  電話&FAX 011-631-5016  
  楼蘭  電話&FAX  011-231-3918 (月曜日定休)

たまたまどちらも北海道でのイベントです。北海道にはそういう素地があるんでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎】4月17日

平成4年(1992)の今日、福島県安達町(現・二本松市)に智恵子記念館が完成、開館式が行われました。

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画像は記念館に併設の智恵子生家です。

岩手県花巻市のHPから、『広報はなまき』がPDFで閲覧できます。
 
その4月15日号、光太郎関連情報が満載です。
 
まず「高村光太郎130周年」と題し、見開き2ページで光太郎と花巻、賢治のつながりなどの紹介。それから以前のブログでご紹介した太田地区にある光太郎記念館新装に関して詳しく書かれています。

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続いて、次のページに各種イベントの案内

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日付順に、市内矢沢地区にある宮沢賢治記念館での特別企画展「高村光太郎と宮沢賢治」。4月27日(土)から8月7日(水)だそうです。
 
それから5月15日(水)は、光太郎が過ごした山小屋周辺での「高村祭」。昨年初めて参加させていただきましたが、地元の人々による朗読や、講師を招いての記念講演などがあります。今年の講師は渡辺えりさんです。昨年は雨だったため、近くの屋内運動場での開催となりましたが、本来、新緑の森の中、光太郎詩碑の前で行われるイベントです。
 
そして翌16日にも渡辺さんの講演会。こちらは午後6:30~7:30、花巻駅近くの文化会館大ホールでの開催です。
 
以前のブログにも書きましたが、渡辺さんのお父上が光太郎と交友があり、渡辺さんは子供の頃、家に飾ってあった光太郎の写真を見てご自分のおじいさんだと思いこんでいらしたとのこと。一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさいましたので、そのあたりのお話が聞けることと期待しています。
 
是非、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月16日

昭和3年(1928)の今日、東京会館で光雲喜寿の祝賀会が催され、智恵子ともども壇上に並びました。

この際の模様を、後に詩「のつぽの奴は黙つてゐる」(昭和5年=1930)で自嘲的に描いています。

本日もいただきもののご紹介です。
 
福島二本松の現代詩研究会様より雑誌『現代詩研究』第70号。
 
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「編集後記」で光太郎について触れられています。
 
続いて花巻の財団法人高村記念会様より「高村記念会山口支部報」。
 
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4月2日の連翹忌当日、花巻の太田地区にある高村山荘周辺で行われた詩碑前祭のレポートです。こうした地域に根ざした活動には本当に頭が下がります。
 
それから、きたる5月15日(水)の高村祭の案内も掲載されています。開始は午前10時。講演の講師は女優の渡辺えりさんとのこと。
 
送っていただいた皆さん、ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎】4月15日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町に日本初の画廊、琅玕洞(ろうかんどう)を開店しました。
 
光太郎と交友のあった新進の画家の作品を並べたりした、時代の先端を突き抜けたこの試みは世間には受け入れられず、ちょうど1年後の明治44年(1911)の今日、琅玕洞は閉店しています(後に知り合いに譲渡、コンセプトを変更して再オープンされました)。
 
名目上の店主は光太郎の次弟、道利でした。ちなみに今日、4月15日はその道利(と双子の妹・しづ)の誕生日でもあります。

今日もいただきもののご紹介ですが、ともに新聞関連です。
 
まず、花巻の財団法人高村記念会様より、『岩手日日』さんの4月3日号。
 
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花巻での連翹忌などの様子が報じられています。
 
記事の内容自体は4/6のブログでご紹介しました。
 
当方、ネットで内容を見たのですが、やはり新聞そのもので見ると、また感じが違いますね。
 
続いて福島県川内村のかわうち草野心平記念館からいただきました、4月6日の福島民報さんの記事です。
 
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先日のブログで東京の連翹忌の様子がなかなか報道されない、と書きましたが、福島の地方紙で報道されていました。これは全く存じませんでした。
 
ただ、記者の方がお見えになったわけではなく、参加者どなたかからの伝聞で書かれたようで、若干、事実と異なる部分があったります。まぁ、何はともあれありがたいことです。
 
お送りいただいた皆様、ありがとうございました。
 
まだまだいろいろなものが届いており、順次、ご紹介します。順不同となりますことご了承ください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月14日

昭和28年(1953)の今日、前後3日間にわたりNHKラジオで『ロダンの言葉』が放送され、光太郎も録音で出演しました。

今朝起きて、パソコンのスイッチを入れたところ、立ち上がりませんでした。何度繰り返しても同じ。7~8年前に買ったもので、数年前から怪しかったのをだましだまし使っていましたが、とうとうおしゃかになってしまいました。
 
といって、パソコンがないと仕事にも何にもなりません。しかたなく、早速家電量販店に行って、新しいパソコンを買いました。新しい、といっても古い型のようで、OSもwindows7、エクセルやワードもインストールされていません。しかしそれ(本体とマウス、キーボードのみ)で26,800円。安くなったものです。
 
まだ設定がうまくいっていないのですが、とりあえずインターネットは使えるようになりましたので、ブログも更新できます。まぁ、最悪の場合はケータイから更新と考えていましたが、ケータイでは字数も限られるし、入力が面倒です。
 
閑話休題。
 
昨日は雑誌『歴程』をご紹介しましたが、おなじように連翹忌終了後、いろいろなものが届いています。ありがたい限りです。
 
本日ご紹介するのはやはり雑誌で『季刊 詩的現代』第4号。群馬で発行されている同人詩誌です。連翹忌ご常連の方が、「知り合いがこんな雑誌を出してるよ」ということで送ってくださいました。

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「特集 『道程』からの百年」という約40ページの特集が組まれていて、この雑誌の同人の方々でしょうか、7名の皆さんがそれぞれに『道程』を論じられています。
 
今年は光太郎生誕130年の節目の年ですが、来年は『道程』刊行からちょうど100年。ついでにいうなら光太郎智恵子が結婚披露宴を行ってからもちょうど100年です(入籍はずっと後)。
 
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため
 
およそ100年経っているとは思えないみずみずしさをもって、今を生きる我々にも迫ってくる詩だと思うのですが、どうでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】4月13日

昭和20年(1945)の今日、空襲により、駒込林町のアトリエが焼失しました。

当方刊行の『光太郎資料』や連翹忌関連の資料(当日配布したものの残部)などをあちこちに発送しました。
 
だからというわけでもないのかも知れませんが、逆にあちこちからいろいろな資料が届きます。ありがたいことです。
 
先日、雑誌『歴程』№583が届きました。この中に執筆されている伊武トーマ氏から戴きました。
 
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「十一月十七日、かえる忌、雨……」という題のエッセイで、昨秋の草野心平忌日・かえる忌の模様のレポートです。
 
こちらには当方も参加させていただきまして、文中には当方の名も。その際に当方が持参した光太郎揮毫の「雨ニモマケズ」碑拓本にからめ、次のように書かれています。
 
……道程の詩人の「僕の前に道はない。僕の後に道は出来る。」、目の当たりにしている賢治の「雨ニモマケズ風ニモマケズ」、まだ耳に残っている心平さんの「どこまでつづくまっ暗な。電燈ひとつついてやしない底なしの。くらあい道を歩いてゆく。」…。《光太郎・賢治・心平》この三巨星の有名なフレーズが一つの空間となり詩的宇宙の扉が開かれ、胸の奥底から熱いものが迸った。
 
『歴程』は昭和11年(1936)、草野心平が創刊した雑誌ですが、光太郎とも因縁浅からぬものがあり、その創刊号をはじめ、戦後の復刊を含め、光太郎の文筆作品がたくさん載りました。
 
時を超え、その同じ『歴程』誌上にこうして賢治も含め、ゆかりの深い詩人達の名が連なるのは感慨深いものがあります。
 
【今日は何の日・光太郎】4月12日

昭和31年(1956)の今日、『東京新聞』夕刊に光太郎追悼記事「高村光太郎の生き方-伊藤、今泉氏に質問したいこと」が掲載されました。

「伊藤」は詩人の伊藤信吉、「今泉」は美術史家の今泉篤男。ともに光太郎に私淑していた人々です。

イベント情報です。

朗読劇「レモン哀歌」

期 日 : 2013年4月14日(日)
会 場 : めぐろパーシモンホール(小ホール) 東京都目黒区八雲1-1-1
      TEL:03-5701-2924 東急東横線・都立大学駅より徒歩7分
時 間 : 開場/19:00 開演/19:15
料 金 : 
¥2,500(全席自由/前売り・当日共)
 
出演:雨宮裕樹、金久保茉由、戸村健太郎、中村マリ、舟津大空
 
高村光太郎とその妻智恵子の生涯と、明治から昭和にかけて残された文学作品、芸術作品を題材に、有名な『智恵子妙』など詩の朗読も取り入れた作品です。

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出演者の方のブログがこちら
 


ところで、この手のイベント情報などは気をつけないといけない、と思いました。
 
過日、薪能「智恵子抄」が開かれる旨、御紹介しましたが、地元の方からご指摘があり、見つけたインターネットサイトが数年前のものだとのこと。たしかにどこにも「2013年」と書いてありませんでした。こういうこともあるんですね。曜日が一緒だったので、すっかり今年と思ってしまいました。



【今日は何の日・光太郎】4月11日

明治36年(1903)の今日、智恵子が日本女子大学校普通予科に入学しました。

昨日は武者小路実篤の命日でした。武者小路はご存じの通り白樺派の中心人物の一人で、同人だった光太郎とも縁の深かった人物です。
 
しかし、意外なことに光太郎から武者小路本人に宛てた書簡は、現在のところ一通しか確認できていません。もう一通、武者小路の古稀祝賀会宛を確認していますが、住所が「新しき村」東京支部の新村堂内になっており、武者小路本人に宛てたものではありません。
 
どうも武者小路は手元に古い物を残さないたちだったようで、遺品の中に本人に関わる資料が少なく、昭和60年に調布に武者小路実篤記念館ができた際にも、収蔵品の数は多くなかったそうです。代表作『友情』の初版本すら遺品には入ったいなかったとのこと。したがって、来翰類も本人が処分してしまっていたと推定されます。
 
ただ、どこかからごっそりまとめて出てくる可能性も捨てきれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。
 
さて、唯一確認されているものは調布の武者小路実篤記念館所蔵のはがきで、昭和23年(1948)5月、花巻郊外太田村山口の山小屋から送られたものです。
 
おてがみいただきました。あの変な詩を快く受け入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月■手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。
 
文中の「■」は染みのため判読不能の文字です。
 
「あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された詩「人体飢餓」と推定されます。「穣さん」は武者小路の娘婿。当時日本読書購買利用組合に勤務しており、光太郎が編集に当たった『宮沢賢治文庫』の出版に関わっており、太田村の小屋も訪れました。
 
さて、最も注目されるのは「やつと板彫とか帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る」。
 
太田村の山小屋での7年間での、光太郎の彫刻らしい彫刻は一点も確認されていません。確認できているものはわずかに、詩集『典型』の題字の自刻木版、山小屋の便所の壁に彫った「光」一字(これらは「彫刻」というより「書」の延長といえます)、没後に山小屋の囲炉裏の灰から見つかった粘土の「野兎の首」程度です。
 
本当に板彫りや帯留めを作っていて、確かにそれと確認できるものが見つかれば、大ニュースです。花巻周辺のどこかに残っている可能性も高いので、今後に期待します。
 
ところで、山小屋時代の光太郎の短歌に次の作があります。
 
太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは
 
現存が確認できている「蝉」の木彫は4点。すべて戦前のものです。本当に山小屋でも蝉を彫っていたのでしょうか? 残された日記や書簡、周辺人物の回想等を読む限り、どうもそうではない気がしてなりません。結局、光太郎の詩歌はすべてがドキュメントではない証左と言えるのではないでしょうか。
 
といいつつ、山小屋時代の蝉が見つかる可能性も皆無ではありませんが……。

追記 光太郎と交流のあった詩人・竹内てるよの回想に、山小屋で「蝉」を見たということが書かれていました。また、京都の骨董商さんで、5点目の「蝉」が出てきました。

余談になりますが、6月29日から千葉市立美術館で開かれる企画展「彫刻家・高村光太郎展」。担当学芸員の藁科氏と連絡を取りつついろいろ進めていますが、先日、ポスター及びチラシの原案が送られてきました。現存する「蝉」のうちの一点をドーンと大写しにした構図で、なかなか今までにない斬新なものです。ご期待下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】4月10日

昭和32年(1957)の今日、新宿大曲の観世会館で、武智鉄二構成演出、観世寿夫節附・作舞による新作能「智恵子抄」が上演されました。 

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結局、実現しませんでしたが、光太郎、この能のために自作の面を作ろうと、スケッチを残しています。

昨日に引き続き、イベント情報です。
 
たまたまネットで情報を得ました。広島の劇団・天辺塔さんの公演です。 

アステールプラザ芸術劇場シリーズ [レジデンスコレクション]天辺塔本公演「売り言葉」「赤鬼」

作:野田秀樹  演出:中村房絵

2013年4月26日(金)19時~『赤鬼』
 〃 4月27日(土)14時~『売り言葉』    19時~『赤鬼』
 〃 4月28日(日)11時~『売り言葉』    15時~『赤鬼』

場所 アステールプラザ多目的スタジオ(広島市中区加古町4-17)

料金 2300円(当日:2800円) 2公演通し券:4000円
2公演通し券は天辺塔事務局(&天辺塔メンバー、出演者)のみの扱いです。ご希望の方はそれぞれの公演の日時をご指定ください。*日時指定・全席自由・消費税込み、未就学児の入場不可

出演 「売り言葉」 船木めぐみ  「赤鬼」 恋塚祐子、新名基浩、村田遼太郎、武田宜裕(INAGO-DX)

若手演出家コンクール2012優秀賞受賞の中村房絵が、野田秀樹作品に挑む本作。「売り言葉」「赤鬼」と2作品連続上演。「売り言葉」は、天辺塔看板女優【船木めぐみ】の久々の本格復帰となる一人芝居。“怪物女優”の異名を取る彼女の演技にご注目を!! 「赤鬼」は、再演のリクエストが高かった作品。客演に劇作家としてもめざましい活躍をみせる【武田宜裕】を迎え、演出・キャストも新たにお贈りします。中村房絵ワールドを是非ご堪能下さい!!

チケット取り扱い
 *天辺塔事務局 08030507565  teppentoe2000@softbank.ne.jp
 *エディオン広島本店プレイガイド
 *アステールプラザ TEL:082-244-8000 FAX:082-246-5808
 *CoRich(こりっち)舞台芸術!【オンライン予約】
主催:天辺塔/(財)広島市未来都市創造財団 アステールプラザ
 
 
演劇「売り言葉」。野田秀樹さん作の、智恵子を主人公とした一人芝居です。2002年に大竹しのぶさんの出演、野田さんの演出で公演が行われました。翌年に新潮社から出版された野田さんの脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められ、その後、全国のアマチュア劇団等でも取り上げられ続けています。
 
当方、大竹しのぶさんが演じたもののテレビ放映を見ましたが、徐々に壊れていく智恵子の内面がよく表されているなと感じました。
 
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お近くの方、ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月9日

昭和51年(1976)の今日、白樺派の仲間だった武者小路実篤が亡くなりました。

光太郎と武者小路との交友は晩年まで続き、武者小路は昭和31年(1956)の光太郎の葬儀では葬儀委員長を務めました。

信州安曇野の碌山(ろくざん)美術館でのイベントです。4/2の高村光太郎連翹忌にて、チラシを戴きました。
 
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4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の命日、碌山忌です。
 
昨年も行った参りましたが、午後から地元の方々によるコンサート、16:00から守衛の墓参があります。そして17:00から研究発表とのことで同館学芸員補・濱田卓二氏による「荻原守衛と片岡当(まさ)の交友-岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」があります。
 
その後は「碌山を偲ぶ会」。懇親会のようなものだと思います。昨年はこちらには参加しませんでしたが、今年は参加しようと思っています。
 
22日の碌山忌に先立ち、前日の21日(日)には「碌山忌記念講演会」というわけで、光太郎の令甥・髙村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 
2泊してついでに近くにある光太郎とも縁の深い人々の記念館等も回ってこようと思っています。
 
皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】4月8日

昭和20年(1945)の今日、雑誌『週刊少国民』に詩「神潮特別攻撃隊」を発表しました。

4/2の連翹忌間際になって届いた資料3点、御紹介いたします。寄贈下さったみなさん、ありがとうございました。また、御紹介が遅れ、申し訳ありませんでした。 

『永瀬清子研究年報』 第8号

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岡山県赤磐市教育委員会熊山分室/赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会事務局様より。
 
同市出身で光太郎とも縁のあった女流詩人、永瀬清子に関する昨年1年間に出た文献、行われたイベント等の紹介がメインです。
 
【散文】の項で、当ブログを御紹介いただいております。
 

『東京文芸』 第5号


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東京文芸の会様より。同会は俳人の松島光秋氏が主宰されており、『東京文芸』は隔月刊誌です。氏には『高村智恵子 その若き日』『高村光太郎の青春像』など、光太郎関係のご著書もあります。
 
で、この第5号には拙文「高村光太郎「連翹忌」に寄せて」を掲載していただきました。
 

 『高村光太郎研究(34)』

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都立高校教諭の野末明氏が主宰する高村光太郎研究会の年刊機関誌です。
 
当会顧問・北川太一先生の「しかも科学はいまだに暗く-賢治・隆明・光太郎-」が巻頭に。昨年の女川光太郎祭でのご講演を元にされたものです。
 
再三御紹介しています当方の連載「光太郎遺珠」も収録。一年間で新たに見つけた光太郎作品の集成です。
 
今回は信州大学附属図書館様、東海大学文学部日本文学科出口智之教授のご協力で、彫刻家の石井鶴三にあてた書簡を多数、姫路市立美術館様のご協力で明治末にパリからロンドン在住の画家白滝幾之助と南薫造にあてた絵葉書2点、大阪の逸翁美術館様のご協力でやはり明治末に描かれた絵画2点などを収録しました。
 
また、昨秋の高村光太郎研究会での発表を元にした拙文、「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」も載っています。
 

それぞれ、ご入用の方は仲介いたしますので、ご連絡下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】4月7日

明治45年(1912)の今日、早稲田大学文学社主催の装飾美術展覧会が閉幕しました。光太郎は塑像「紫朝の首」を出品しました。

4/2は東京だけでなく、光太郎の第二の002故郷ともいえる岩手・花巻でも連翹忌が催されています。場所は、光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さん。

晩年の光太郎が足かけ8年過ごした地ということもあり、花巻にはまだ当時の光太郎を知る方もかなりご存命、花巻の財団法人高村記念会様を中心に、そういう方々の手で花巻連翹忌が続けられています。
 
今年の「天声人語」は別として、東京の連翹忌の様子はなかなか報道されませんが(在京各紙にご案内を出したのですが……)、花巻の連翹忌は地方紙に取り上げられています。
 
『岩手日報』さんの「風土計」。『朝日新聞』さんの「天声人語」にあたる欄でしょうか。 

風土計 2013.4.2

「さあさ田植だ、田植だ田植だ」。高村光太郎の「田植急調子」は1947年に書かれた。花巻・山口で山中独居を始めて2年目の春
▼村の老若男女のにぎやかな農作業を花巻弁で活写する。「のんでくって うんとねて、みりみりかせいで あははと笑へぢや」。きょうは光太郎命日の連翹(れんぎょう)忌。花巻市出身の朗読家谷口秀子さん(東京)から頂いた朗読CDを聴いてみる
▼詩ができた当時、粗末な山小屋で光太郎は自省の日々を送る。戦争賛美の作品を世に送り続けた自らを「暗愚」と呼び「醜を天日の下に曝(さら)すほかない」とまで記した。だが、描いた田植え風景に陰りはなく、喜びと明るさに満ちている
▼光太郎が他界する前年の55年、家族付き合いがあった谷口さんは母と東京の病床を見舞った。その時、朗読を頼まれたのが「田植急調子」だった。読み終えると光太郎は「方言はこれでいいですか」と尋ねたという
▼陽光降り注ぐ花巻の春に深い思いがあったに違いない。「手植えや小昼(こびる)の情景が鮮やかに浮かぶ」と谷口さん。朗読ではカッコウの声も楽しい。沈思の中で生まれた詩は働くことの賛歌、働く者への応援歌に聞こえる
▼各職場に配属された新人の皆さんは緊張に身を硬くしていることだろう。でも大丈夫、「みりみりかせいで あははと笑ふ」日は遠からず来るから。
 
 
『岩手日日新聞』さんでは、連翹忌と、それに先立つ高村山荘敷地内での詩碑前祭も記事にして下さいました。  

「光太郎先生」の足跡回想 花巻で法要、追悼座談会も (04/03)

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせ2日、花巻市双葉町の松庵寺(小川隆英住職)で「連翹忌(れんぎょうき)法要」が行われた。市民ら約30人が参列して遺影に手を合わせ、花巻の地に大きな足跡を残した偉人を回想。終了後は同寺で追悼座談会も開かれ、ゆかりの市民や熱心なファンが、思い思いに故人をしのんだ。

 連翹忌は今回で58回目。光太郎がかつて生活した山小屋=同市太田=の管理などに当たっている高村記念会の主催。法要では一人ひとりが焼香し、法話に耳を傾けた。

 小川住職は「光太郎先生は詩『松庵寺』で、戦禍に遭ったこの寺に触れておられる。『すっかり焼けた松庵寺は 物置小屋に須弥壇(しゅみだん)をつくった二畳敷のお堂でした』という部分は、焼けた寺に残された小屋に作られたお堂」などと、同寺と光太郎の縁を紹介。花巻で質素な生活を送った約7年間については「光太郎先生は、あの山小屋生活で最高の芸術と感動を手にしたのではないか」などと分析した。

 終了後は追悼座談会が開かれ、それぞれが記憶するエピソードや思い出話を披露。「光太郎さんの近所に住んでいた友人が配給米を届けたら、小屋脇のクリの木に『登って(実を)採っていきなさい』と言ってくれた」「宮沢賢治さんの童話劇などに取り組んでいた児童たちに『賢治子供の会』と、名前を付けてくれたのが光太郎さんだった」などの逸話が、次々と飛び出していた。

 光太郎は1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失。同年5月に花巻の宮沢清六さん(賢治の弟)方へ身を寄せ、11月から約7年にわたり山小屋で生活した。  

偉人の思いに心重ね 詩碑前祭〜地元児童が作品朗読

 高村光太郎をしのぶ連翹忌法要に先立ち2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で、詩碑前祭が開かれた。参加者が遺影が置かれた詩碑前で線香を上げたほか、地元児童が光太郎が残した詩を朗読。花巻ゆかりの詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。

 地元子供会のメンバー11人をはじめ、高村記念会山口支部員ら約70人が参加。照井康徳支部長が「きょうは光太郎先生の58回忌。先生がこの地の7年間で残したものを花巻、太田に伝え、引き継いでいきたい」とあいさつした。

 続いて子供たちが「山のひろば」「案内」「山からの贈物」などを朗読。「うしろの山つづきが毒が森。そこにはカモシカも来るし熊も出ます。智恵さんこういうところ好きでしょう」(案内)ほか、光太郎独特の感性と妻・智恵子へ寄せる愛情があふれる作品が、参加者の感動を誘っていた。

 花巻市立太田小学校の高橋妃香瑠さん(6年)は「上手に朗読できた」とにっこり。佐藤陽さん(同)は「『案内』という詩が好き。展望台から見える風景のように描いている所がすごいと思う」と話し、光太郎の作品からイメージを広げている様子だった。

 同詩碑前では、光太郎が花巻に疎開した5月15日に「高村祭」が開かれる。
 
当方、立場上、花巻の連翹忌には参加できませんが、こちらも末永く続けてほしいものです。
 
5月15日の高村祭の件も書いてありますが、今年は翌16日に女優の渡辺えりさんの講演会が花巻で開かれるとのこと。渡辺さんと云えば、お父様が光太郎と交流があり、東京の連翹忌のご常連です。今年は朝ドラの「あまちゃん」の撮影でお忙しかったのか、ご参加いただけませんでしたが……。
 
詳細が入り次第、お伝えします。もちろん当方、高村祭ともどもお邪魔いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月6日

大正8年(1919)の今日、詩話会編『日本詩集』の出版記念会に出席しました。

第57回連翹忌、会の様子は昨日のブログにてアップしました。ご高覧下さい。
 
いろいろな方々にいろいろと語っていただいたりしていただくのと別に、会場内に展示スペースを設けました。展示したものは主に二種類。
 
まずは光太郎直筆のもの。2月のブログで御紹介した短冊、それから新たに見つけた草稿や書簡の類を並べました。新発見の方は、この日刊行になった『高村光太郎研究(34)』中の「光太郎遺珠⑧」で詳細に紹介しております。

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また、現物は手に入らなかったものの、画像を入手できたものはコピーを展示しました。
 
それからもう一種類、この一年で世に出た光太郎智恵子関連の書籍や楽譜(先週高山佳子様から届けていただいた合唱曲「ほんとの空」など)、CD、DVD、新聞記事、それからさまざまな講演や公演、イベントや展覧会のチラシ、パンフレットの類も展示しました。主にこのブログでその都度御紹介してきたものです。
 
一年間に発行されたものだけで、結構な量になりました。それだけ光太郎智恵子への関心が高いということがわかります。この状態を維持、いや、発展させていきたいと思っています。光太郎智恵子を誰も取り上げないという事態にはならないようにしていきたいものです。
 
ちょっと変わり種として、青森在住の彫刻家、田村進様の制作されたレリーフの巨大画像も展示しました。田村様から送られてきたプリントアウトしたものを両面テープで貼り合わせ、パネルに入れました。
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原画は昭和25年(1950)の1月に雑誌『アサヒカメラ』に載った濱谷浩撮影の光太郎肖像写真です。田村氏はこれをもとにブロンズのレリーフを作成なさったとのこと。

 
繰り返しになりますが、いろいろな分野の方が光太郎智恵子を取り上げて下さっている現状、これをもっともっと発展させていきたいと思っております。ご協力、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月5日

明治25年(1892)の今日、智恵子の妹、ミツが誕生しました。

智恵子の最期を看取った姪・春子の母にあたります。

4/2は光太郎の命日、連翹忌でした。東京日比谷松本楼様では、午後5時半開会で、第57回連翹忌の集いを開催しました。
 
開会宣言のあと、黙祷を捧げました。もちろん光太郎に。そして東日本大震災で亡くなられた方に、という意味も込めました。連翹忌の関係者で、震災によって亡くなった方もいらっしゃいますので。それから当方の勝手な判断ですが、この一年に震災とは関係なく亡くなった連翹忌関係者の方もいらっしゃったので、そういう方への追悼の意味も込めさせていただきました。
 
続いて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生のご挨拶。
 
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続いて高村光太郎の令甥で、現在の高村家当主にして高村光太郎記念会理事長の高村規氏による乾杯のご発声。その後、しばしの歓談の時間を取りました。
 
続いて、東北を中心に活動なさっている水墨画家の一関恵美様、ピアニストの齋藤卓子様による、光太郎智恵子をイメージしてのアクションペインティングをご披露していただきました。
 
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斎藤様の奏でるベートーヴェン「月光」、ドビュッシー「月の光」に乗せ、一関様がその場で描かれました。会場からは大きな拍手が。
 
お二人とは昨年知り合ったのですが、早速、今回の連翹忌で大きなお仕事をお願いしてしまいました。快くお引き受け下さり、ありがたい限りでした。
 
その後は恒例のスピーチを何人かの方にお願いしました。主にこの一年間で光太郎智恵子がらみのイベントや出版をなさった方、これからなさる方にお願いしました。
 
名古屋の作曲家で、連作歌曲「智恵子抄」を発表なさった野村朗様。
 

今年、全国3つの美術館巡回で行われる「彫刻家・高村光太郎展」に関し、碧南市藤井達吉現代美術館の木本館長。
 
4/21~22、光太郎の親友だった荻原守衛の碌山忌関連で、信州安曇野碌山美術館長の所賛太氏。
後ほどまた御紹介しますが、4/21には高村規氏のご講演があります。
 
花巻の高村記念館リニューアルに関して、花巻高村記念会の高橋卓也氏。
 
光太郎の詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

 
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福島県川内村で、原発事故にもめげず草野心平関連の顕彰活動を続けられているかわうち草野心平記念館長・晒名昇氏。
 
宮城県女川町で、津波の被害にもめげず女川光太郎祭を続けられている佐々木英子様。

 群馬県立土屋文明記念文学館から、県立高校に異動になったという高村光太郎研究会の佐藤浩美さん。
 
そして、今回、新たに連翹忌にご参加いただいた方を代表し、岩手紫波町からお越しの畠山宏樹氏。お母様が「町の小さな文化館」というコンセプトで、「権三ほーる」という施設を運営なさっているそうです。畠山氏には、晩年の光太郎と縁のあった藤原嘉藤治について語っていただきました。
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ご参会の方全員に光太郎智恵子に対する思いを語っていただきたいのですが、そうもいかず、午後8時、閉会となりました。
 
来年以降も同じく松本楼様で連翹忌のつどいを執り行います。もっともっと、光太郎智恵子を敬愛する皆さんの輪を広げていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月4日

昭和31年(1956)の今日、東京青山斎場にて光太郎の葬儀が執り行われました。

棺の上には生前の光太郎が愛した連翹の花が一枝。これが「連翹忌」命名の由来となりました。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第57回連翹忌の集いを開催しました。ご参会の皆様に助けられ、つつがなく終える事が出来ました。ありがとうございました。
 
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詳しくは明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月3日

昭和40年(1965)の今日、銀座資生堂ギャラリーで開かれていた高村光太郎賞受賞者と選考委員による展覧会、「第三回連翹会展」が閉幕しました。

【今日は何の日・光太郎】4月2日

昭和31年(1956)の今日、高村光太郎が数え74歳の生涯を閉じました。
 
というわけで、今日、4月2日は第57回連翹忌です。
 
光太郎の故郷、東京では日比谷の松本楼様で、第二の故郷とも言える岩手・花巻では松庵寺様で、それぞれ光太郎を偲ぶ集いが開かれます。
 
東京では昨年を上回る70名程のご参加申し込みがありました。詳しい様子は明日以降レポートいたします。
 
別件の用事やお体の都合によりご参加できない方も含め、光太郎を敬愛する皆さん、それぞれの場所で光太郎に思いを馳せて下さい。よろしくお願いいたします。
 
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今朝の朝日新聞さんの「天声人語」。新装成った歌舞伎座のこけら落としにからめ、連翹忌の話題を枕に使っています。朝、新聞を開いて驚きました。この記念すべき日に、ありがたいかぎりです。
 
 春を彩る黄色い花、レンギョウの名をもらった「連翹忌(れんぎょうき)」はきょう、高村光太郎の命日をいう。彫刻家で詩人の光太郎は九代目市川団十郎にほれ込んでいた。「明治の劇聖」と呼ばれた人で、東京の歌舞伎座をゆるがぬ存在にした立役者である▼「団十郎は決して力まない。力まないで大きい」と光太郎は称賛した。若い頃、団十郎の舞台に入りびたったというから、初代の歌舞伎座に通ったのかもしれない。時は流れて、五代目となる歌舞伎座がきょう、こけら落としの幕を開ける。光太郎も喜んでいよう▼ 

昨日は福島二本松の安達文化ホールで、多摩童謡友の会合唱団・多摩ファミリーシンガーズさんによる「東日本大震災復興支援コンサート ほほえみをあなたに」が開催されました。指揮者の高山佳子様からのメールでは盛会だったとのことで、良かったと思います。
 
ネットで報道されていないかな、と思い調べてみましたが、残念ながら現時点では見つかりませんでした。
 
しかし、別件で以下のニュースを見つけました。福島の地方紙・福島民報さんの報道です。

「二本松市民の歌」できた 声高らか披露式 郷土愛、心のよりどころ

 二本松市は23日、「二本松市民の歌」を制定し、同市コンサートホールで披露式を行った。平成17年12月に一市三町の合併により誕生した新・二本松市の歌として初めて作られた。
 市民の郷土愛を育み、一丸となって東日本大震災の発生前より素晴らしいまちを築くため、心のよりどころにするのが目的。
 歌詞は公募し、寄せられた70点の中から朝倉修さん(札幌市)の詩が採用され、郡山市出身の作曲家湯浅譲二さんが補作して曲をつけた。三保恵一市長は「幅広い世代に愛されるような明るい曲になった」と紹介した。湯浅さんは「寿泉堂病院長だった父は『二本松少年隊』の歌を作詞した。父とともに見た安達太良の峰や阿武隈の清流は、幼いころの原風景として残っている」と作曲した思いを語った。
 披露式では、同市出身のテノール歌手樋口達哉さんが独唱、二本松一中合唱部が二部合唱、あだたら混声合唱協会が混声四部合唱でそれぞれ歌い上げた。
 「二本松市民の歌」はCDに収め、近く市内の学校や公民館、各種団体などに配布するほか、市住民センターを通して個人にも貸し出す。


■二本松市民の歌    作詞 朝倉修   補作詞 湯浅譲二   作曲 湯浅譲二

一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
  四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
  ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
  生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
  ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
  文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
  ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある  
( 2013/03/24 11:55 )
 


リフレインの「ほんとの空が ここにある」。いいフレーズですね。
 
二本松のみならず、福島、いや、東北、そして日本全体が胸を張ってそういえるようであってほしいと思います。

さて、話は変わりますが、明日は光太郎の命日。東京日比谷松本楼様では第57回連翹忌を開催いたします。
 

遠くは岩手や四国などから、ご参加申し込みくださった方は約70名。お気をつけてお越しください。

【今日は何の日・光太郎】4月1日

明治28年(1895)の今日、数え13歳の光太郎が、第四回内国勧業博覧会の審査員だった光雲に連れられて京都に行きました。

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