2013年02月

6月29日(土)から千葉市美術館を皮切りに開催される企画展「彫刻家・高村光太郎展」図録のために略年譜等を作成中ですが、やはり光太郎の彫刻は少ない、と思いました。
 
作成中の略年譜には、その年に作ったと判明している彫刻も載せているのですが、空白の年が結構あるのです。当方、光太郎の生涯で、彫刻をあまり作らなかった時期が3回あるととらえていました。
 
1回目は海外留学から帰国した明治末~大正初期。この時期は光雲を頂点とする旧い日本彫刻界と対立、作っても発表する場がない状態で、彫刻より油絵に専念していました。
 
2回目は智恵子の統合失調症がひどかった時期。すなわち智恵子が発症した昭和6年(1931)から智恵子の死の13年頃(1938)。
 
3回目は戦時による物資欠乏から戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活の時期。
 
ところが一概にそうともいえないと感じました。智恵子の統合失調症がひどかった時期も、年に2,3作を作っている年もあります。逆に智恵子が亡くなってすぐの昭和14、15年(1939,1940)の方が、年に1作ずつしか記録がありません。また、別に身辺に重大な問題はなかったのに、昭和3年(1928)には1作、翌4年(1929)にはなし。
 
これはどういうことなのかな、と思いましたが、どうも展覧会に発表したり、注文を受けて販売したりしなかったので記録に残っていないのではないかと考えています。少し前の【今日は何の日・光太郎】に書いた日本女子大学校から依頼された成瀬仁像の像も、完成までに14年かかる中で、「毎年一つずつ作っては壊ししていた」的なことを書いていますし、有名な「蝉」の木彫も「10個ぐらいは作った」と書いています。しかし残っている「蝉」は4つ程です。
 
結局、作るだけ作って何処にも発表したり販売したりせず、手元に残っていた彫刻が結構あったのではないかと推定されます。しかし、それらは昭和20年(1945)4月の空襲で、アトリエと共に灰になってしまったわけでしょう。
 
かえすがえすも残念です。
 
さて、図録用に略年譜と共に「参考文献目録」も作成中です。明日はそのあたりについて。
 
【今日は何の日・光太郎】2月28日

昭和4年(1929)の今日、叢文閣から『ロダンの言葉』正続の改装普及版を刊行しました。

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昨日のブログで御紹介しましたが、6月29日(土)から、3館巡回で企画展「彫刻家・高村光太郎展」が開催されます。

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最初に行われる千葉市美術館から依頼を受け、図録の一部を執筆することになりました。現在、鋭意作成中です。
 
まずは光太郎の略年譜。北川太一先生編の『高村光太郎全集』(筑摩書房)別巻に、100ページを超える詳細な年譜が載っており、そこから抜粋させていただいています。また、それだけでなく、『全集』別巻は平成10年の刊行なので、その後に判明した事実も織り込んでいます。
 
たとえば光太郎は大正元年夏に千葉の犬吠埼に行っていますが、その日付は不明でした。それが数年前に見つけた編集者の前田晃にあてた書簡から、9月4日に帰京したことが判っています。
 
また、同じ年の秋には文展(文部省美術展覧会)の評を「西洋画所見」の題で『読売新聞』に連載しています。従来は11月16日に掲載された第11回で完結と思われており、『全集』第6巻には第11回までしか収録されていませんでした。しかし、これも数年前、11月17日に掲載された第12回を見つけ、これが間違いなく最終回と判明しました。今度の年譜には「1912 明治45・大正元 11/1~17 全12回にわたり、『読売新聞』に文展評「西洋画所見」を連載。」と書きます。『全集』のみを見て「16日だろ」「12回じゃないぞ」と言わないで下さい。間違いではありませんのでよろしく。ちなみにこの「西洋画所見」、第8回で夏目漱石の文展評を「陳腐だ」とこきおろしていることで有名です。
 
他にも昨年のブログでレポートしましたが、海外留学中、アメリカからイギリスに渡航する際に乗った船がホワイトスターライン社の「オーシャニック」と判明したのでそれも書きましたし、他にも従来の年譜になかった講演会の記録なども載せました。
 
と、まぁ、いろいろ新事実も織り込んでいるのですが、それもこれも元にさせていただいた北川太一先生の労作の年譜があってこそのことであります。

 
まだ先の話ですが、是非ともご来場の上、図録もご購入下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】2月27日

明治39年(1906)の今日、海外留学の最初の目的地、ニューヨークに到着しました。

ブログ掲載に関し、こちらも正式発表を待っていましたが、先週発表されましたので御紹介します。
 
ほぼ今年いっぱい行われる3館巡回の企画展で、あと2館は西日本、中部日本なのですが、そちらの当該館からはまだ正式発表がないので、皮切りに当たるもののみ御紹介します。  

期 日 : 平成25年6月29日(土)~8月18日(日)
会 場 : 千葉市美術館
時 間 : 10:00~18:00 金土は20:00まで
休 館 : 第一月曜日(7月1日、8月5日)
料 金 : 一般 1000円(800円) 大学生 700円(560円) 小・中学生、高校生無料
      ( )内団体料金

近代日本の彫刻家を代表する存在である高村光太郎(1883-1956)の生誕130周年の節目を迎えて開催される本展覧会では、彼の彫刻家としての原点ともいえる木彫作品を重視するとともに、彼が参照したロダン(1840-1917)をはじめとするヨーロッパの彫刻家、佐藤朝山(1888-1963)や藤川勇造(1883-1935)などの同時代の日本の彫刻家たちの作品と妻・智恵子(1886-38)が制作した紙絵を併せて展示することによって、光太郎の造形世界について再考を試みます。
 
同時開催 高村光太郎の周辺
「彫刻家・高村光太郎展」展の開催に合わせ、当館の所蔵作品のなかから、彼と関わりのあったアーティストたちの作品を中心にご紹介します。

(同館HPより)
 
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今回の企画展の特色は、とにかく「彫刻家」としての光太郎にこだわること。したがって、今までの企画展でよく並べられていた著書や筆跡などの類は並びません。そのかわり、若き日の習作に始まり、現存する光太郎彫刻の
ほとんどすべてが並ぶ予定です。
 
特筆すべきは木彫の作品。これもほとんどが出品予定です。今までの企画展ではブロンズの作品は必ず出品されていましたが、木彫はあまり出品されませんでした。ブロンズは同じ原型から鋳造した同一のものがたくさんあるのに対し、木彫は一点のみということも理由ですし、「木」というある意味あえかな素材であり、また、施されている着色が経年による劣化で薄く成りつつあるという問題もあるためです。
 
同じ理由で、光太郎木彫を持っている美術館等も、常設展示では出していません。先日、北川太一先生との雑談の折、そういう話題になり、「ああいう木彫をじかに見て啓示を受ける若い人もいるだろうに、もったいないね」とおっしゃっていました。その通りだと思います。でも、保存という観点から見ればしょうがないのでしょう。
 
しかし、今回はほとんどの木彫が出品されます(残念ながら平成14年(2002)に七十余年ぶりに所在が確認された「栄螺(さざえ)」は出品されません)。図録もものすごいものができそうです(当方も一部を担当します)。
 
この機会にぜひ、光太郎彫刻の世界をご覧下さい。他の2館についても、正式発表があり次第、御紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】2月26日

大正12年(1923)の今日、帝国ホテルで開かれた「与謝野寛先生生誕50年記念晩餐会」に出席、発起人代表としてスピーチしました。

昨日のブログで御紹介した岩手花巻の高村記念館リニューアルの件、『読売新聞』さんの岩手版で昨日報道されました。

花巻歴史民俗資料館、光太郎記念館に衣替え

 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が戦中戦後に暮らした花巻市に5月、新たに高村光太郎記念館がオープンする。生誕130年を迎えるのを機に市が同市太田の花巻歴史民俗資料館を記念館に刷新する。
 
 高村光太郎は、太平洋戦争末期、親交のあった宮沢賢治(1896~1933)の弟・清六氏(1904~2001)の家があった旧花巻町(現在の花巻市)に疎開。戦後は旧太田村(同)のあばら家に移り、7年間、農耕自炊の生活を送りながら創作活動を行った。
 
 太田地区には、そのあばら家が「高村山荘」として保存されており、近くには光太郎を顕彰する国内唯一の記念館が財団法人高村記念会(花巻市)によって運営されている。しかし、展示スペースは78平方メートルと狭く、所蔵する資料を展示しきれていない。空調設備もなく、資料の傷みも懸念されていた。
 
 そのため、財団が昨年、資料館の活用を市に要望し、展示品の「十和田湖裸婦像原型」など美術品5点(評価額6000万円相当)や、記念館整備資金として500万円の寄付を申し入れていた。
 
 市によると、現在の記念館は冬は営業していないが、新しい記念館は通年営業とし、光太郎の花巻での暮らしをメーンテーマに、彫刻や絵画、詩などを展示する。現在の歴史民俗資料館の展示品は市博物館に移す。
 
 光太郎が花巻に疎開した5月15日に行われる「高村祭」に合わせてプレオープンし、15年に全体の整備を終える計画という。事業費は未定。
 
 5月時点の展示スペースは現記念館の3倍弱にとどまるが、最終的には、資料館の収蔵庫も展示室に改装し、現在の6倍ほどの広さになる計画。市は「公の施設として記念館を設置し、国内唯一の記念館として存在価値を高めていきたい」としている。
 
2013年2月24日 読売新聞)
 
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公式発表がありましたら、詳細を御紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎】2月25日

大正8年(1919)の今日、智恵子の母校、日本女子大学校から創立者・成瀬仁蔵の胸像制作を依頼されました。

完成、除幕されたのは昭和8年(1933)。実に14年かかりました。

このブログで時々触れていますが、花巻市郊外太田地区に、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、光太郎が暮らした山小屋が「高村山荘」として保存されています。
 
その山荘からほど近いところに、光太郎の遺品や彫刻、書画を展示する「高村記念館」があります。開館は昭和41年(1966)。花巻の財団法人・高村記念会が管理運営しています。
 
当方も、なんやかやで10回ほど行ったと思います。非常に素朴で味わい深い館です。夏場は開け放した入口からオニヤンマが迷い込み、館内を飛び回っていました。
 
しかし、建物自体が老朽化し、また、展示も充分とは云えないということで、今年、これも近くにある現在の花巻市歴史民俗資料館を新たな高村記念館とし、全面的にリニューアルされることになりました。
 
当方、昨秋には花巻の高村記念会から聞いていましたし、協力要請もあったのですが、正式発表がまだ、ということでこのブログでも触れずにいました。
 
しかし、正式発表はまだなのですが、2月19日の花巻市議会での議員説明会の議題にのぼり、それを受けて地元紙に報道されてしまいました(「されてしまった」というのも変ですが……)。また、花巻市議会議員さんや大沢温泉さんのブログなどにも掲載されています。
 
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詳しくはやはり正式発表があってからご紹介しますが、差し支えない範囲を今日書きましょう。
 
まず、今年はプレオープンということで(5月15日の花巻高村祭の日に合わせるそうです)、来年には周辺環境等の整備、本格オープンは再来年です。展示スペースはかなり広くなり、企画展等も開催できるスペースを設けるとのこと。そして、現在は冬期間閉鎖ですが、やがては通年開館を考えているとのことです。
 
これを機に、多くの皆様にご来館いただきたいと考えています。
 
先程書いた通り、詳細は正式発表があってからまた書きます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月24日

昭和55年(1980)の今日、晩年の光太郎と交流があり、光太郎没後10年間開催された彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」選考委員も務めた彫刻家・本郷新の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。

一昨日、昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。  

佐々木一郎展~岩手の雪に魅せられて~

期 日 : 平成25年1月26日(水)~3月24日(日)
会 場 : もりおか 啄木・賢治青春館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-25
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎月第2火曜日 ただし、第2火曜日が祝祭日の場合は開館
料 金 : 無料

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盛岡出身の画家、佐々木一郎(大正3年=1914~平成21年=2009)の展覧会で、同館でシリーズとして行っている企画展「発掘・盛岡ゆかりの画家シリーズ」の一環です。

佐々木は、岩手大学教授や岩手美術協議会会長等を歴任、戦後、花巻郊外太田村在住の頃の光太郎と交流がありました。その関係で、光太郎日記(『高村光太郎全集』第12巻・13巻)に名前がよく出てくるほか、光太郎からの書簡も数多く残っており、『高村光太郎全集』第21巻に収録されています。
 
この企画展では、佐々木の作品以外にそうした光太郎からの書簡、光太郎が書いた岩手県立盛岡美術工芸学校開校式祝辞などが展示されているようです。
 
と、一昨日から3連発で各地の企画展で光太郎作品も展示されているものを御紹介しましたが、まだまだこの手のものはあるかも知れません、光太郎がメインでないと、なかなか情報を得るのが困難です。今後開催予定のものを含め、情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。

 
【今日は何の日・光太郎】2月23日

昭和28年(1953)の今日、芝・伊皿子の松で、雑誌『中央公論』掲載のための座談「敗けた国の文化」(『高村光太郎資料』第三集)を行いました。

他の出席者はバーナード・リーチ、柳宗悦、濱田庄司、石川欣一でした。

昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。   

期 日 : 平成25年1月26日(土)~3月24日(日)
会 場 : 神奈川県立近代美術館葉山館 神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
時 間 : 午前9時30分から午後5時
休 館 : 月曜日(ただし祝日および振替休日の場合は開館)
料 金 : 一般 900円(団体800円)20歳未満・学生 750円(団体650円)65歳以上 450円
      高校生 100円


「保存、修復という作品の知られざる部分に光をあてることによって、近代日本美術の問題点を探り、新たなる発見を浮かび上がらせようとする展覧会」だそうで、岸田劉生、藤田嗣治、松本竣介などを中心に明治期から昭和前期までの約60名による油彩画、水彩画、約170点が並んでいるそうです。
 
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光太郎の作品は大正2年の油絵「上高地風景」1点。また、約60名ということで、光太郎と交流のあった画家の作品も数多く展示されています。黒田清輝、岸田劉生、藤田嗣治ら有名どころもいれば、あまり観る機会の多くない村山槐多、柳敬助、南薫造らの作品も並んでいるそうです。
 
別件ですが「上高地」ということで、先月のブログで御紹介したBSフジのテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」、再放送があります。2013/03/01(金)22:00~22:55 です。見逃した方はぜひご覧下さい。光太郎・智恵子のエピソードが約3分間あります。
 
【今日は何の日・光太郎】2月22日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村人の好意で初めて電灯がともりました。
 
光太郎がこの小屋に入ったのが昭和20年(1945)の秋ですから、約3年半、電気のない生活を送っていたのです。

あちこちの美術館、文学館等での企画展。ちょぼちょぼと光太郎作品も展示されています(またはこれからされます)。いくつかご紹介します。

 

期 日 : 平成25年2月23日(土)~4月14日(日) 
会 場 : 兵庫県丹波市立植野記念美術館 兵庫県丹波市氷上町西中615番地4
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)
料 金 : 一般 300円 大学・高校生 200円 小学生100円
 
 
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「ある銀行家の日本画コレクション」というのは、「長谷川コレクション」ということで、調べてみましたところ、山形銀行、殖産銀行の関連のようです。山形美術館に300点近くが寄贈され、同館の常設展示で入れ替えをしながら並べられているようです。
 
丹波の企画展はその中からのセレクトのようで、001光太郎の色紙「牛」が含まれています。
 
昭和12年(1937)10月31日に、山形の長谷川吉三郎(元山形銀行頭取)に宛てた書簡(『高村光太郎全集』第14巻)にこの作品について書かれています。
 
拝啓、其後御無沙汰に打過ぎ居りました。夏の暑さなどに遮られ、のびのびとなつて居りました色紙を今日の日曜日に書きましたゆゑ不出来ながら明朝小包にてお送りいたします。文字の方は拙詩“牛”の中の一行に有之、デツサンの方はコンテにて描きました。彫刻の方も追々着手の運びといたします。
 
詩「牛」は有名な「道程」と同じ大正3年(1914)の作。115行もある大作で、これも意外と有名な作ですね。
 
「コンテ」は素描用の画材で、クレヨンに近いものです。したがって厳密には日本画ではありません。他の出品作は富岡鉄斎、川合玉堂、川端龍子などのバリバリの日本画で、その中でこの光太郎色紙は異彩を放っています。チラシによれば夏目漱石の画も出品されるようです。
 
3/19を境に出品作の入れ替えだそうで、「牛」がその前なのか後なのか、それとも全会期通しで並ぶのか、わかりかねます。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】2月21日

昭和28年(1953)の今日、来日した陶芸家バーナード・リーチと久しぶりに再会、旧交を温めました。

名古屋在住の方から情報をいただきました。

TIAA全日本作曲家コンクール入賞記念 野村朗作品リサイタル 

期 日 : 平成25年3月9日(土) 
会 場 : 電気文化会館 ザ・コンサートホール 名古屋市中区栄2-2-5 地下鉄伏見駅下車
時 間 : 午後2時開場 午後2時30分開演
料 金 : 2,000円(全席自由) 
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野村氏は名古屋音楽短期大学作曲専攻卒。平成24年度東京国際芸術協会主催の第12回全日本作曲家コンクールの歌曲部門で入選、ということで、それを記念してのリサイタルだそうです。
 
その際の受賞作品が光太郎の詩に曲をつけた「千鳥と遊ぶ智恵子」。それを含む「連作歌曲「智恵子抄」」がプログラムのメインのようです。演奏者の皆さんも名古屋音大の卒業生だそうです。
 
興味のある方はどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎】2月20日

平成14年(2002)の今日、青山スパイラルホールで上演された智恵子を主人公とする、野田秀樹作、大竹しのぶ出演の一人芝居「売り言葉」が千秋楽を迎えました。

光太郎と交流のあった岡山の詩人、永瀬清子に関する紀行の2回目です。
 
清子の生家を後にし、イベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」が行われる赤磐市くまやまふれあいセンターに着きました。
 
敷地内にはやはり清子の詩碑がありました。
 
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また、清子の詩に出てくる花々を集めた「詩006の庭」という花壇もありました。季節が季節ですので、ほとんど花は咲いていませんでしたが、唯一、紅梅だけが花を咲かせていました。
 
そういえば、昨日書き忘れましたが、この日、2月17日の清子の命日は「紅梅忌」と名付けられているそうです。
 
さて、会場内に入り、いよいよイベントの開幕です。
 
司会は山陽放送パーソナリティーの遠藤寛子さん。まずは地元の方々による清子作品の朗読、合唱でした。ステージ上の幔幕も、清子の詩にちなむ、地元の方々作成の「諸国の天女」。
 
続いて第10回永瀬清子賞表彰式。これは県内の小中学生が対象で、小学校低学年の部、同高学年の部、中学校の部に分かれ、今年は応募総数476点。そのうちの入賞者の表彰と、自作の詩の朗読がありました。
 
こういう地域密着の企画を織り込むというのも、大事なことだと思いました。連翹忌ではなかなかこのあたりが難しいところです。
 
休憩を挟んで、H氏賞を受賞されたことのある詩人の山本純子氏による講演。講演というより、朗読講座といった内容でした。
 
テキストには清子の詩、自作の詩、それから谷川俊太郎や草野心平などの詩が使われました。光太郎の詩が使われなかったのがちょっと残念でした。
  
イベントの始まる前と終わった後、いつもいろいろとご案内やら資料やらを送って下さる清子のご息女・井上奈緒様や、永瀬清子の里づくり推進委員会の白根直子様とお目にかかれたのも幸いでした。
 
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また、白根様の労作、『詩人 永010瀬清子の生涯』も手に入り、早速、帰りの新幹線車中で拝読しました。こちらには、昭和9年(1934)の第1回宮沢賢治友の会の写真も掲載されており、光太郎も映っています。
 
というわけで、なかなか有意義な岡山行きでした。
 
街をあげて、まあはっきり言えばあまり有名ではない詩人の顕彰活動をしっかりと地域密着で行っているという点に頭が下がりました。
 
ただ、一昨日のブログに書いたとおり、1泊2日の1日目が空振りだったのが痛かったのですが、今年中にまた別件で岡山に行く機会がありますので、その時にはついでにそちらに寄り、また収穫を得たいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】2月19日

昭和38年(1963)の今日、講談社から『日本文学全集40 高村光太郎・宮澤賢治集』が刊行されました。

さて、岡山永瀬清子紀行です。
 
永瀬清子は明治39年(1906)2月17日、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)に生まれました。亡くなったのは平成7年(1995)2月17日。なんと、誕生日と命日が一緒という偶然です。というわけで、昨日の2月17日にイベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」があったわけです。
 
光太郎とは、一昨日の【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、昭和9年(1935)、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、そこで知り合いました。その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。その後、昭和15年に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いています。
 
詩集『諸国の天女』より、表題作です。007
 
  諸国の天女
 
諸国の天女は漁夫や猟人を夫として
いつも忘れ得ず想つてゐる、
底なき天を翔けた日を。
 
人の世のたつきのあはれないとなみ
やすむひまなきあした夕べに
わが忘れぬ喜びを人は知らない。
井の水を汲めばその中に
天の光がしたたつてゐる
花咲けば花の中に
かの日の天の着物がそよぐ。
雨と風とがささやくあこがれ
我が子に唄へばそらんじて
何を意味するとか思ふのだらう。
 
せめてぬるめる春の波間に
或る日はかづきつ嘆かへば
涙はからき潮にまじり
空ははるかに金のひかり
あゝ遠い山々を過ぎゆく雲に
わが分身の乗りゆく姿
さあれかの水蒸気みどりの方へ
いつの日か去る日もあらば
いかに嘆かんわが人々は
 
きづなは地にあこがれは空に
うつくしい樹木に満ちた岸辺や谷間で
いつか年月のまにまに
冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる。
 
その後も光太郎との交流は続き、戦後、清子が中野のアトリエを訪れたりもしました。清子の随筆集『かく逢った』(昭和56年=1981 編集工房ノア)の巻頭にはその時の様子が書かれています。
 
さて、昨日、岡山市内のホテルをチェックアウト、せっかく来たのだからと、日本三名園の一つ後楽園と、岡山城を歩きました。 

 
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当方、岡山は山陽自動車道を車で通過したことはありましたが、ちゃんと行ったのは初めてです。
 
その後、岡山駅から山陽本線に乗り、永瀬清子の里、赤磐方面に向かいました。
 
下りるべき駅は熊山駅ですが、そこは通り過ぎ、次の和気駅で下車。せっかく来たのですから、温泉に行かない手はありません。鵜飼谷温泉という温泉があり、入ってきました。よく行く花巻の大沢温泉と同じ、アルカリ性の泉質で、肌がすべすべになりました。
 
寄り道はこの辺にして、いざ永瀬清子の里へ。
 
熊山駅に戻り、改札を出ると大きな案内板。なんと、永瀬清子の詩碑や生家があるではありませんか!
詩碑は会場へ行く途中、生家は会場の近くです。それは存じませんでした。
 
駅近くの吉井川にかかる橋を渡ると、詩碑がありました。昭和23年(1948)作の「熊山橋を渡る」と言う詩の一節が刻まれています。 
 
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さらに歩くこと20分。松木の集落に入り、案内板にしたがって生家を目指すと、生家の直ぐ手前に和気清麻呂の墓がありました。隣の「和気駅」の「和気」は「和気氏」の「和気」だったのですね。
 
さて、生家。
 
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「大永瀬」といわれた素封家の一族で006、かつては立派な家だったことが窺えます。しかし現在は痛みが激しく、「永瀬清子生家保存会」という団体が募金をつのり、維持、修理を行っているそうです。
 
清子はここで生まれ、父親の仕事の都合で幼い頃ここを離れますが、戦争の関係で昭和20年(1945)にここに戻り、同40年までここにいたそうです。以前に赤磐市の永瀬清子の里づくり推進委員会様から、『全集』未収録の光太郎から清子宛書簡4通の情報をいただき、「光太郎遺珠」に掲載しましたが、その4通はここに届いたものです。そう思うと感慨深いものがありました。
 
庭には復元された井戸もありました。
 
水屋の壁には復元に芳志を寄せた方のお名前が。その中には詩人の新川和江氏、日高てる氏のお名前も。
 
清子は女流詩人の草分け的存在でもあり、後の女性詩人たちからも敬愛されていたのがよくわかります。
 
そろそろ「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」の時間なので、会場のくまやまふれあいセンターを目指しました。
 
田圃の畦道をショートカットで歩きます。よくみるとそこここに野ウサギの糞。すごいところです。だいたいコンビニの一軒もありません。それこそSLが黒煙を吐いて走っていても何の違和感もないでしょう。
 
さて、会場に到着。続きは明日書きます。

 
【今日は何の日・光太郎】2月18日

嘉永5年(1852)の今日(旧暦ですが)、浅草で光太郎の父、高村光雲が誕生しました。

黒船来航の前年です。

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岡山を後にして、東京に向かう新幹線のぞみに乗りました。

昨日、岡山に来て、瀬戸内海沿岸の瀬戸内市牛窓というところに調査に行きました。しかし目的の施設が開いておらず、空振り。今年中にまた岡山を訪れる用件があるので、また出直します。

昨夜は岡山市内に宿泊、今日は赤磐市というところに行きました。光太郎と交流があった永瀬清子という詩人に関するイベントがあり、参加しました。

山あいののどかな里でいいところでした。

詳しくは帰ってレポートします。

【今日は何の日・光太郎】2月17日

明治40年(1907)の今日、智恵子の末弟・修二が誕生しました。

一昨日、「伊藤信吉没後10年記念展」を観に行った高崎の群馬県立土屋文明記念文学館へは、自家用車で行きました。もう一カ所、お目当ての場所があったためです。
 
群馬県立土屋文明記念文学館を後にし、前橋インターから関越自動車道に乗り、南下。埼玉県に入ってしばらく走り、東松山インターで関越道を下りました。そのまま更に一般道を南下、目指すは東武東上線の高坂駅です。
 
高坂駅から西にのびる通りは、「彫刻通り」と名付けられ、光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚(明33=1900~昭62=1987)の作品が32体、配されています。なぜここに、というと、昭和57年(1982)に、高田が東松山市で講演と彫刻展を行ったことがきっかけだそうで、おそらく当時の教育長で、やはり光太郎と交流のあった田口弘氏の尽力があったのではないかと推測されます。同市の新宿小学校には、田口氏の尽力で、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

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彫刻群の設置は昭和61年(1986)、高坂駅西口の区画整理に伴ってことでした。
 
ただ光太郎と交流があった彫刻家の作品群、というだけでなく、ずばり「高村光太郎」像があるので、今回、足をのばしたわけです。以前からそれがあるというのは知っていましたが、なかなか機会がなく、延び延びになっていました。新宿小の石碑は以前に見に行ったのですが、その時には高坂駅前の彫刻の存在を知りませんでした。当方、やはり子供の頃、東松山に3年余り住んでいたのですが、離れて数十年経つと疎くなります。
 
さて、こちらが光太郎像。

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昭和34年(1959)の作です。晩年の光太郎の肖像ということでしょう。何だか古代ギリシャの哲人の像、といっても通用しそうです。

ここの作品には、高田の一言がそれぞれの台座に刻まれています。曰く、
 
日本の彫刻界で彼のように聡明確実な腕を持った者は一人もいなかった。 その上彼の世間を相手にしない孤高な魂はそれに気品を与えた。彼は木盆にヴェルレーヌの、 「われは選ばれたる者の怖れと喜びを持つ」を原語で自ら彫りつけていた。
 
光太郎本人をよく知る高田の言ということで、興味深いものがあります。
 
ちなみに「ここの」、と書きましたが、同じ原型から鋳造された光太郎像は、岩手花巻の花巻北高校校庭にもあります。こちらは昭和51年(1976)の設置。光太郎詩「岩手の人」の一節が台座に刻まれています。
 
岩手の人 沈深牛の如し。両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり。地を往きて走らず、企てて、草卒ならず、つひにその成すべきを成す。

同校と光太郎に直接の関連はありませんが,光太郎の精神に共鳴した同校卒業生父兄らによって建立されました。

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さらにもう一点、屋内展示ですが、信州塩尻の古田晃記念館にもこの光太郎像が収蔵されています。古田晃は筑摩書房の創立者で、やはり光太郎と交流がありました。
 
探せばまだ全国の美術館等のどこかにある016のかも知れません。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。
 
高坂駅西口の高田博厚彫刻群。宮沢賢治もいました。
 
こちらも凛とした感じですね。
 
さて、今日、明日と1泊2日で、岡山に行ってきます。
 
1/16のブログで御紹介しましたが、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子関連のイベントに参加します。他にもやはり光太郎と交流のあった詩人・高祖保の関係で、調査をして参ります。我ながら自分のフットワークの軽さに感心しています(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】2月16日

昭和9年(1935)の今日、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。
 
その場にいたのが、光太郎や草野心平。そして永瀬清子も。なかなかすごい偶然ですね。

昨日、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館で「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」を観て参りました。
 
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伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身の詩人。詩人としても有名ですが、実際に交流のあった他の詩人たちの研究、評論の分野でも有名です。
 
企画展では伊藤自身の詩業についての展示もありましたが、他の詩人たちとのつながりを強調した展示もありました。そのコーナーは詩人ごとに分類されています。すなわち島崎藤村、光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、草野心平、中野重治。
 
光太郎のコーナーでは、伊藤の書いた光太郎に関する草稿、光太郎から伊藤宛の書簡、光太郎の著書、光太郎に関する伊藤の著書など20点近くが並んでいました。
 
「ほう」と思ったのは、伊藤の書いた句幅2点。
 
  歎けとて秋海鳴りの九十九里   智恵子の昔をしのびて
 
  木枯らしや太田村の小屋を如何に吹く  花巻、光太郎山荘
 
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九十九里や花巻の山小屋を訪れるにしても、光太郎と直接関わりのあった氏にしてみれば、特別な感懐があったのでしょう。
 
展覧会は3/17(日)まで。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】2月15日

昭和28年(1953)の今日、ヴェルハーレン著・光太郎訳の詩集『天上の炎』が創元文庫のラインナップに加えられました。

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本物のピカソ、やってくる 埼玉・川越の中学校

 本物のピカソやルノワール、人間国宝らのアート作品が、16日から2日間、川越市今福の市立福原中学校体育館で展示される。人間国宝美術館(神奈川県湯河原町)と真鶴アートミュージアム(同県真鶴町)による「出張美術館」の一環。
 なかなか美術館に足を運ぶことがない人や子どもたちが本物に触れる機会をつくり、震災や不況の中にある日本を元気にしようと、両美術館が昨年から始めた企画。今年は福島県郡山市の専門学校とともに同校が選ばれた。
 展示するのは、両館が所蔵する絵画、彫刻、陶器など約100点。ピカソやルノワール、シャガール、コローら海外の有名画家の作品に加え、国内からも棟方志功、岡本太郎、高村光雲、梅原龍三郎、東山魁夷、平山郁夫、横山大観、北大路魯山人、草間彌生らによる超一級の芸術作品がそろう。
 16、17日の午前9時30分~午後4時。学芸員の説明もある。16日午後(時間未定)には、東京芸術大学の北郷悟副学長が来校し、作品を解説する。
 入場無料。駐車場が狭いため公共交通機関の利用を呼びかけている。問い合わせは同校(049・243・4140)。
朝日新聞デジタル 2013-02-09

お近くの方、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
 
川越は江戸時代、特産のサツマイモのキャッチコピーを「九里四里(栗より)美味い十三里」とし、江戸から川越までの距離、13里(約50㎞強)がサツマイモの別名となりました。都心から50㎞強、池袋から東武東上線で約40分、以外と近いところです。当方、子供の頃、2年余り住んでいました。蔵作りの古い街並みがいい感じです。
 
都内の方もどうぞ足を運ばれてみて下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】2月14日

昭和16年(1941)の今日、『読売新聞』に15回にわたって掲載された座談「新女性美の創造」が最終回となりました。光太郎の他に宮本百合子、豊島与志雄などが参加しました。

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左から3人目、光太郎

昨日のブログにて、今年4月2日(火)の第57回連翹忌のご案内を掲載しました。
 
そもそも「連翹忌」とは何ぞや? 歴史をひもといてみます。
 
高村光太郎は、昭和31年(1956)4月2日、東京中野の中西利雄のアトリエで亡くなりました。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像制作のため、花巻郊外太田村山口の山小屋から上京したのが昭和27年(1952)秋。裸婦像完成後はまた山に帰るつもりでしたが、健康状態がそれを許さず、ごく短期間、山に帰った以外、(そうした際に少し前のブログに書きましたSL・C-61 20号機を利用した可能性があります)結局は中野のアトリエが終の棲家となりました。
 
葬儀は4月4日、青山斎場に於いて行われました。白屏風の前に置かれた棺の上に、光太郎の甥で写真家・高村規氏撮影の肖像写真と、コップに挿した連翹の花が並べられた簡素な祭壇は、十和田湖畔の裸婦像台座を設計した建築家、谷口吉郎の意匠でした。梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、武者小路実篤、そして草野心平が弔辞を読み、同日、落合火葬場にて荼毘に付されました。
 
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弔辞を読む草野心平
 
なぜ、連翹の花なのか。生前の光太郎が中西家アトリエの窓の下に咲く連翹を見て、中西夫人に「あの黄色い花は何て言う花なんですか」と問い、夫人が「あれは連翹という花ですよ」と教えたところ、「かわいらしい花ですね」と言ったとのこと。
 
まさに3月末から4月はじめに咲き始める花です。我が家の庭の連翹(かつての連翹忌で光太郎の親友だった水野葉舟のご子息、元建設大臣の水野清氏が御持参されたものを持ち帰り、庭に挿しておいたら根付きました)は、昨年、3月下旬になっても咲かず、やきもきしていましたが3月31日に咲きました。2日には剪って、まず駒込染井霊園の高村家の墓に供え、残りを連翹忌会場・日比谷松本楼に飾らせていただきました。
 
さて、翌昭和32年(1957)4月2日、一周忌の法要を中野のアトリエで執り行うこととなりました。草野心平の書いた案内状が現存しています。
 
  連翹忌 御案内          
 
今年もまた連翹の咲く季節が巡つてきました。四月二日は故高村光太郎の一周忌ですが、この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。その第一回の会合に是非御出席願ひあげます。
 場所 中野区桃園町四八 中西家アトリエ(電話 38 七四〇二)
 時  一九五七年四月二日午後五時半
 会費 三百円(当日御持参乞ふ)
  (高村豊周家から色々御寄付があります)
右 発起人一同
 
この時から「連翹忌」の名称が使われ始め、これが第一回「連翹忌」ということになりました。記録によれば参加者47名。今にして見れば錚々たるメンバーです。席上、詩人の佐藤春夫が黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
 
れんげうにかなしみのいろあらたなり きみゆきてよりひととせをへぬ
 
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼に会場が落ち着き、今日に至っています。日比谷松本楼は、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店です。
 
一昨年は東日本大震災直後ということもあり、東北方面からの参加が不可能、計画停電等の心配もあり、集まりは中止となりました。しかし、募った参加費のうち一部を東北への義援金として回し、それをもって第55回連翹忌としました。また、特に声かけはありませんでしたが、足が確保できる人は三々五々、駒込染井霊園に墓参に行きました。当方も連翹の花を供えに行きました。
 
昨年は2年ぶりの集まりとなり、57名が参加。2年ぶりということで、久闊を序する姿が会場のあちこちで見受けられました。
 
光太郎へ、そして女川光太郎の会事務局長であった故・貝廣氏をはじめとする東日本大震災で亡くなられた方々へ黙禱を捧げ、義援金の報告等が行われました。その後、高村光太郎記念会事務局長・北川太一氏の御挨拶、同理事長の高村規氏の発声による乾杯と続きました。
 
その後、しばしの歓談の後、一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさった渡辺えり様率いる劇団「おふぃす三○○」の皆様による光太郎詩「旅にやんで」「葱」「月にぬれた手」の朗読の後、恒例のスピーチをお願い致しました。
 
まずは震災の関係もあり、東北の皆様にそれぞれの地の現状等を語っていただきました。
 
さらに一昨年に開催された光太郎関連行事のご報告ということで、鎌倉笛ギャラリーの山端通和様には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展について、群馬県立土屋文明記念文学館の佐藤浩美様には、企画展「『智恵子抄』という詩集」についてご報告いただき、光太郎・智恵子に関する著書を新たに刊行された(刊行される)方々にも一言いただきました。
 
また、生前の光太郎を知る、鋳金家で人間国宝の斎藤明様には、光太郎に関する貴重な思い出をご披露いただきました。
 
今後も、光太郎・智恵子を敬愛する皆様のネットワークの総本山として、連翹忌を続けて参ります。新たな方々の御参加もお待ちしております。皆様方のお力で、光太郎・智恵子を敬愛する人々のネットワークをさらに拡げていただきたいものです。ご参加お申し込み、お待ちしております。
 
【今日は何の日・光太郎】2月13日

昭和54年(1979)の今日、十和田湖畔の裸婦像台座や光太郎葬儀の祭壇を設計した建築家・谷口吉郎の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。

今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第57回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 



第57回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成25年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山弘明
 
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 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 

ごあいさつ

 新しい年度の連翹忌も、もう間近になりました。この一年を顧みても随分沢山の出来事が、世界のあちこちで起こりました。世情の混迷のみならず、自然現象の異常も数え切れないほどです。いつもお目にかかる皆さんの身辺にお変わりのないことを、心からお祈りしております。

 しかしそんな時でも、今年で生誕百三十年を数える高村さんへの関心はますます強く深く、昂まっております。この集まりを推進する委員の人々の新資料発掘や研究会の研究誌続刊の努力は勿論、次々に公刊される印刷物や音楽などの公演、展覧会の開催等々はこれからも続くでしょう。花巻の高村記念会は新しい再生を迎えようとし、青森の彫刻家田村進氏によって力ある光太郎像も誕生するはずです。

 これは私ごとですが、あの東日本大震災の三月を含めて未だに運動不自由ななか、初めて女川に運んで下さった仲間の皆さんに感謝します。その私も数え年で八十九歳です。四月二日には是非お目にかかって、たくさんのお話をお聞きするのが楽しみです。

平成二十五年二月吉日
                               北川太一

【今日は何の日・光太郎】2月12日

明治44年(1911)の今日、浅草「よか楼」で開かれた「パンの会」に出席しました。
 
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昨日のブログで御紹介しました坂本富江さんの 『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』 原画展と講演会が、『産経新聞』さんの城北版下町版に報道されました。 

板橋区職員が自費出版した「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」の講演会開催

~智恵子の足跡を訪ね歩いた17年を語る~

高村光太郎の妻・智恵子ゆかりの地を自ら訪ね、感じた様子を文章と絵でつづった書籍「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版した板橋区職員の坂本富江さん(63)。2月9日、その著書にまつわる講演会が、板橋区立赤塚図書館(赤塚6丁目)で開催された。
坂本さんは、中学生の時に高村光太郎の詩「道程」に感動し、「智恵子抄」を読み、智恵子の人物像にひかれ、休日や休暇を利用しては、智恵子の故郷の福島県安達町(現:二本松市)や、縁のある地である青森、岩手、千葉、長野、山梨、東京など30箇所以上を約17年に渡り訪ねた。水彩画や油絵で現地の様子を描き、訪れて感じた智恵子への思いを書きつづった原稿用紙は約500枚、スケッチブックで16冊に及び、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版。
講演では、出版の経緯や智恵子の人物像やエピソードの紹介、縁の地を訪れた感想や旅でのハプニングを語り、スライドショーでは、旅先で撮影した数々の写真とともに、その時の様子なども紹介した。
板橋区在住の坂本さんは、板橋区に勤務し、保育園園長で定年退職。現在は、くらしと観光課いたばし観光センターで再任用職員として勤務している。
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【今日は何の日・光太郎】2月11日

明治44年(1911)の今日、光太郎が経営していた神田淡路町の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、画家・濱田葆光(しげみつ)の個展が開幕しました。

昨日、板橋区の赤塚図書館に行って参りました。昨年刊行された『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江さんによる同書の原画展と、講演会が目的でした。
 
原画展は2/7から同館の視聴覚室で開催され、昨日の正午まででした。中央のテーブルにはスケッチブックが置かれ、自由に手に取ってみることが出来ました。たった2日半の開催ではもったいない気がしました。もっと多くの皆さんに見ていただきたいと思います。
 
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書籍としてた印刷されたものを見るのもいいのですが、やはり自筆のものだと作者の筆遣いや息吹、その場の空気などが感じられ、また違った良さがありました。
 
原画展は正午で閉幕、同じ会場に椅子を並べて午後2時から坂本さんの講演会が始まりました。定員30名で募集したのですが、申し込みが多く、40名に殖えていました。

訪れた地でのエピソードや、昔、光太郎智恵子がそこでどうしたのかといったお話があり、会場の聴衆は熱心に聴き入っていました。
 
坂本さん、始まる前は「緊張しちゃって、どうしましょ」とおろおろされていましたが、どうしてどうしてなかなか堂に入ったお話ぶりで、感心しました。
 
後半はコンピュータのスライドショーをスクリーンに映してのご説明。やはり訪れた地の画像が写されました。当方もほぼ同じ場所を訪れていますので、その意味では懐かしく拝見しました。
 
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ついでに例によって4/2・連翹忌の宣伝をさせていただきました。営業も大事な仕事です。
 
こういうと失礼かも知れませんが、意外と手軽に出来る感じですので、各地で光太郎智恵子顕彰を行っている皆様、イベントの際には坂本さんにお声がけなさるのもよいかと思います。
 
別件です。ブログの閲覧数が9,000件を突破しました。ありがとうございます。
 
昨日、光太郎と縁があったかも知れない蒸気機関車C61-20号機、「おいでよ銚子&佐原号」について書きましたところ、昨日だけで500件以上の閲覧がありました。普段の10倍以上です。
 
暮れに光太郎が送った鉄道荷札、光太郎も乗った花巻電鉄について書いた時も閲覧数が跳ね上がりました。やはり鉄道ネタは強し、です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月10日

明治35年(1902)の今日、雑誌『白虹』に、現在確認されているもっとも古い詩「なやみ」が掲載されました。

当方の住む千葉県香取市には、JR成田線という路線が走っています。今日から3日間、その成田線佐原~銚子間をSLが運行します。運行されるのはC61-20号機です。
 

 
 
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既に試運転が行われており、日曜日に犬の散歩がてら、佐原駅まで見に行きました(途中で冬眠から醒めた蛇を踏みそうになりました。千葉はもう春です)。当方、鉄道マニアではありませんが、古いものは大好きなので、その雄姿を見て心が躍りました。その時は停車していましたが、水曜日に、たまたま帰省していた娘と旧市街の古民家レストランに昼食を食べに行って店を出たところ、汽笛が聞こえたので、踏切まで行ってみました。すると、どんぴしゃりのタイミングで黒煙を吐きながら走ってくる姿。ますます心が躍りました。
 
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さて、「もしや」と思い、調べてみたところ、ズバリその通りでした。何がその通りかというと、もしかしたら光太郎が乗ったかもしれないということです。正確に言うと、機関車には一般人は乗れませんから、光太郎が乗った客車を牽引したかもしれない、というべきですね。
 
C61-20号機、昭和24年(1949)に完成、同46年(1971)までの間、青森機関区や仙台機関区に配属されていました。その間、東北本線で運行されていたということです。
 
一方、光太郎は昭和20年(1945)から同27年(1952)まで花巻郊外の太田村山口の山小屋で暮らしていました。その間、たびたび盛岡や秋田、山形などに出向いており、そうした際にこのC61-20号機の牽引する列車に乗った可能性があります。不思議な縁を感じました。
 
さて、C61-20号機、13時53分に佐原駅を出発、15時47分に銚子に着きます(おいでよ銚子号)。翌朝、10時37分に銚子を出発、佐原着は12時30分です(おいでよ佐原号)。佐原から銚子はC61-20号機が牽引、銚子にも佐原にも転車台がないため、銚子から佐原は最後尾に連結されたDE10型のディーゼルカー(これもかなりレトロです)が先頭になって牽引します。
 
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とっくの昔に乗車券は完売しているようですが、沿線で見ることは可能でしょう。光太郎と縁があるかも知れない蒸気機関車を見に、ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】2月9日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋の近くに住む駿河重次郎翁のために、「金剛心」の書を揮毫しました。

2/6に放映されたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で扱われた、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙。
 
これを大きく取り上げている書籍とCDがありますので、今日はそれを紹介します

キッス キッス キッス

 渡辺淳一著  平成14年10月10日 小学館発行 定価1500円+税
 
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「失楽園」などで有名な作家、渡辺淳一氏の著書です。もともとは雑誌連載だったものに加筆修正を加えて単行本化されました。366頁ある大著です。表題は島村抱月から松井須磨子への手紙の一節です。
 
光太郎から智恵子への例の手紙の他、主に近代の文学者の「恋文」19通を取り上げています。改めて目次を見てみましたら、光太郎を含め、柳原白蓮、芥川龍之介、谷崎潤一郎と、「探検バクモン」で取り上げられる「恋文」と4通がかぶっています。「探検バクモン」のスタッフさんは、もしかしたらこの本から想を得たのかも知れません。
 
他に光太郎、智恵子と縁の深かった平塚らいてう、与謝野晶子、佐藤春夫、変わったところでは山本五十六、お滝(シーボルトの妻)、そして渡辺淳一さん自らの手紙も紹介されています

【芸術…夢紀行】シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム

 北川太一先生監修  平成7年3月16日 芳賀書店発行 定価3,260円
 
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問題の手紙が画像入りで紹介されています。この書籍、画像の豊富さでは他の追随を許しません。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです

作家が綴る心の手紙 愛を想う 死を想う

 平成21年10月15日 アスク発行 定価28,980円(税込)
 
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朗読CD12枚組と解説書から成るセットです。近現代の文学者66名、210通余の手紙が収められています。光太郎に関しては第7巻「詩人たちの筆に込めた想い」で、例の手紙をはじめ、九十九里で療養中の智恵子に送った手紙、智恵子死後に難波田龍起、水野葉舟、更科源蔵に宛てた智恵子に関する手紙が収められています。第7巻の朗読者は元男闘呼組の高橋和也さん。他の巻では杉本哲太さん、平岳大さん、余貴美子さんが朗読を務めていらっしゃいます。
 
他の収録作家のうち、森鷗外、与謝野夫妻、北原白秋、宮澤賢治、八木重吉、田村俊子、村山槐多、中原中也といったところが光太郎智恵子と縁の深かった人々です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月8日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋で、配給の砂糖を受け取り、久しぶりに砂糖入りの紅茶を飲みました。

昨夜、1/31のブログで御紹介しましたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」を観ました。
 
「相手の心をつかむ秘策を、文豪の恋文を手がかりに大解剖!」ということで、夏目漱石、光太郎、斎藤茂吉、谷崎潤一郎、柳原白蓮、芥川龍之介の書いた手紙が扱われるとのことで、30分番組で6人は多いな、と思っていましたら、前後編2回に分け、茂吉以下の4人は来週だそうで、昨夜は漱石と光太郎が扱われました。
 
光太郎に関しては、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙でした。この時智恵子は早く亡くなった日本女子大学校時代の友人・旗野八重の妹・澄子を訪ね、その実家、新潟に滞在していました。この8ヶ月後に、上高地での婚約となるわけです。ちなみに旗野家は一族に歴史地理学者・吉田東伍や政治家の市島春城を輩出した名門です。智恵子は大正5年(1916)にも旗野家を訪れています。
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大正5年(1916)、旗野家別荘での智恵子(前列左端)
後列中央、旗野澄子
 
かなり長いのですが、手紙の全文を紹介しましょう。昨夜のオンエアをご覧になった方、こういう手紙だったんだな、と参考になさってください。『高村光太郎全集』第21巻に掲載されています。
 
 今、廿六日の御葉書を見ました さつき手紙を書きましたが又書きます
 どうかそんなに私の事を心配せずに居て下さいまし
 早くお帰りになつて下さつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのをもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから あなたは なさるだけの事を静かになさつて 本当に帰つても残り惜しくなくなつたらお帰りなさい あなたの御都合といふのは多分絵の事だと考へて居ます
 今度こそは絵が拝見出来る訳ですね。大きなのをやつて居るのですか。寒い国では乾く事も遅いんでせうね。
 ゆふべは それはそれは大変な夢をみました。書いてもいゝでせうか。いゝとしませう。それは あなたが殺人犯になつたんですよ。そしてあなたを多くの人が高い台の上へ載せて 青空の下で焼き殺さうといてるんですけれど 火がないので水で殺すといつて あなたを其の台の上へのせたまま あなたの衣服を残らず取つちまつたんですよ 其でもあなたは 何だか少し笑つてゐた様です
 私は其の姿が美しくて美しくて堪らないで見つめてゐました。其のうち 何処からか血が出て来て あなたの乳の処を流れるんです 私は驚いて見てゐるうちに あなたは手をのばして木の枝によりかかつたまま 石像のやうになつて死んでしまつたんです 其れからあとは何だか活劇があつた様ですが覚えてません。これであなたの死んだ夢を二度見たんです。
 三四日前の晩には 私があなたであなたが私だつた夢をみました そして私は女の心理を始めて本当に理解した様におもつた事があります。私のこれまで経験しなかつた心持ちを 私のあなたが感じてゐたんです。其の夢は大変長いんですが 衣服の模様まで明瞭に記憶してゐます。これは今に お話して上げませう。
 其の時、女でゐた私が、男のあなたに 帽子(洋服でゐたんですよ。西洋の事なのです)を、其も駝鳥の羽毛の大きな黒いののついてゐる非常にいい形の帽子を買つて貰つた時の嬉しかつた事といつたら何にも譬へられない程なのです。私はあんな種類のうれしさも女でなくては感じられないんだらうと思ひます あんまり嬉しいので、いきなりあなた(あなたは背広の洋服へ変な外套をきてたんです)に抱きついて接吻したんです、そしたらあなたが怒つたんです。だけど直き葉巻をくはへながら笑つてました。
 随分まだ面白いんです。此のつづきが。それはお楽しみにして置きませう。
 東京は大変な寒さです。
 私は三十日に一寸小田原へ行つて来ようかとおもつてます。みかん畠を画きに。若し私の不在中にあなたが帰京なされたら、まあゆつくり休んでゐらつしやい。おからだ大切に、
   二十八日夕
   光
   ちゑ子様

 
番組では、この中の智恵子が「殺人犯になった」というくだりにスポットを当てていました。「智恵子は当時、女性としては珍しい洋画家で進歩的な女性」で「常識にとらわれない感性を持つ智恵子への手紙」だから、あえてこういう内容を書き送り、智恵子の気を惹こうとしたのかもしれない、としていました。
 
司会の爆笑問題のお二人やゲストの光浦靖子さんは「この夢は本当に見たのか」とコメントし、同じくゲストの美輪明宏さんは「智恵子も「平凡の凡」な男はつまらない」と感じていたはず、とおっしゃっていました。このあたりはうなずけますね。
 
ただ、智恵子の新潟行きを「姿をくらました」とか、それを光太郎が必死で探した、としていたのには疑問が残ります。
 
まあ、総じて面白い作りになっていました。
 
見逃した方、2月11日(月) 25時45分~26時17分=2月12日(火) 1時45分~2時17分再放送があります。また、先程も書きましたが来週は斎藤茂吉、谷崎潤一郎、柳原白蓮、芥川龍之介の書いた手紙が扱われるとのこと。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】2月7日

昭和3年(1928)の今日、詩「ぼろぼろな駝鳥」が書かれました。

歌舞伎俳優の十二代市川團十郎さんの訃報が駆け巡りました。
 
光太郎は、十二代團十郎さんの曾祖父に当たる九代團十郎のファンで、青年期にはよく舞台を観に行っていましたし、2度、彫刻を手がけています(残念ながら2点とも現存しません)。
 
一度目は東京美術学校(現・東京芸術大学)在学中の明治37年(1904)。当時の日記に記述があるのですが、油土を使ったレリーフでした。
 
二度目は昭和12年(1937)から翌13年(1938)にかけて。この時は粘土の塑像でした。しかし、未完成に終わっています。光太郎曰く「それから九代目團十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。團十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまつた。今もそのままになつてゐるが、これはもう一度必ず作り直す気でゐる。」(「自作肖像漫談」昭和15年=1940『高村光太郎全集』第9巻)。しかし、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろともこの像も焼けてしまいました。
 
二度目の像を作っている最中に書いた散文や詩も伝わっています。
 
まず散文「九代目團十郎の首」(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終つたわけである。彼は俳優といふ職業柄、明治文化の総和をその肉体で示してゐた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。
(中略)
 私は今、かねての念願を果たさうとして團十郎の首を彫刻してゐる。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたつてゐた。私の脳裏には夙くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取つてしまつてゐた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。
(後略)

さらに「團十郎像由来」という詩(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第2巻)も書かれました。
 
   團十郎像由来
 
 不動の剣をのみこそしないが001
 おびただしい悪血をはいたわたくしは
 おこさまのやうに透きとほつてしまつた
 精神に於けるオオロラの発光は
 わたくしを青年期高層圏の磁気嵐に追つた
 明治文化の強力な放電体
 九代目市川團十郎にばつたり出あつた
 巨大な彼の凝視に世紀のイデアはとほく射ぬかれ
 腹にこたへる彼のつらねに幾代の血の夢幻は震へ
 彼のさす手ひく手に精密無比の比例は生れ
 軽く浮けば有るか無きかの鷺娘
 山となれば力の権五郎
 一切の人間力の極限を
 生きの身に現じたこの怪物は
 無口なやさしい一個の老人
 品川沖に絲を垂れ
 茅が崎の庭でおでんをくふ
 わたしは捉へ難きものに捉へられ
 茫茫として春夏秋冬を粘土にうもれ
 あの一小舞台から吹き起る
 とめてとまらぬ明治の息吹を
 架空構築にうけとめようと
 新らしい造血作用を身うちに燃やして
 今は絶体絶命の崖の端まで来てしまつた
 
「昭和」に入って「明治」を懐かしみ、「明治」を代表する人物の一人して、九代團十郎を作ろうと思ったようです。
「平成」も25年。「昭和」の名優がまた一人亡くなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月6日

昭和16年(1941)の今日、JOAKラジオ(現・NHK東京)で、光太郎作詞の歌曲「歩くうた」が柳兼子の歌で放送されました。

柳兼子は白樺派の美学者・柳宗悦の妻です。

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
 
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
 
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
 
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
 
さて、かつて連翹忌に001ご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
 
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
 
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
 
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
 
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
 
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
 
したがって、以下のケースが考えられます。
 ・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
 ・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
 
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
 
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
 
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
 
 
【今日は何の日・光太郎】2月5日

昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。

昨日のブログ、【今日は何の日・光太郎】で、明治39年(1906)、カナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアンで海外留学に旅立ったこと、そして節分にちなむアセニアン船上で詠んだ短歌を紹介しました。
 
他にもアセニアン船上での短歌がいくつかありますので御紹介します。すべて『高村光太郎全集』第11巻所収です。
 
 いと安く生ひ立ち稚児(ちご)のこころもて今日あり国を出づと言ひける
 
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉(よ)きにかあるべき
 
 おほきなる力とあつきなぐさめと我に来(く)たかき空を見る時
 
 地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
 
 大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
 
 西を見てひがしに及ぶ水の団(わ)とほかに真青(まさを)の大空と有り
 
 悪風は人あるゆゑに大法(たいはふ)をいしくも枉げずわが船に吹く
 
 大海(おほうみ)のふかきに墜ちしからす貝真珠となりぬ祝(ほ)ぎぬべきかな
 
 山国に生ひて山見ず波まくら二旬かつ経ぬ山見てけるよ
 
これらは翌明治40年(1907)の雑誌『明星』に掲載された他、大正4年(1915)の2月5日(明日ですね)に刊行された『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』にも採られています。この書籍は詩集『道程』版元の抒情詩社から出たもので、刊行には光太郎の意志はあまり介在しておらず、版元が光太郎のために刊行してあげたという面が強いそうです。また、光太郎単独の歌集ではあまり売れそうにないので、晶子をセットにしたとのこと。何だか抱き合わせ販売のようですね。
 
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光太郎自身はアセニアン船上の歌以前の短歌には、与謝野鉄幹の添削が激しく入っており、純粋に自分の作ではない、という意識があったようです。
 
アセニアン船上の歌のうち、もっとも有名、かつ光太郎自身も自信作だった歌は、以下のものです。
 
海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明日はこの歌に関していろいろと。
 
【今日は何の日・光太郎】2月4日

昭和61年(1986)の今日、銀座鳩居堂画廊において、光太郎の書作品を集めた展覧会「高村光太郎「墨の世界」展-没後三十年を記念して-」が開幕しました。

今日は節分です。ということは明日から暦の上では春、ということになりますね。実際、当方の住む千葉県北東部ではだいぶ暖かくなり、昨日は18℃にもなりました。日なたではオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。今朝は犬の散歩中、近くの道ばたに水仙が咲いているのも見つけました。
 
【今日は何の日・光太郎】2月3日

明治39年(1906)の今日、横浜からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。
 
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この海外留学で、世界最先端の芸術に触れ、光太郎芸術のバックボーンが形成されてゆきます。彫刻はもちろん、帰国後、かなり熱を入れた絵画もそうです。そういった造形芸術だけでなく、ヴェルレーヌやマラルメ、ボードレールといったあたりから、詩の上でも大きく影響を受けました。
 
留学前の詩はまだまだ習作のようなもので、文学活動の中心は与謝野鉄幹、晶子の新詩社での短歌でした。
 
光太郎がアセニアンの船上で作ったという節分にまつわる短歌も伝わっています。
 
 あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母います地より吹く風
 
もともと節分会は「追儺(ついな)」という宮中の儀式が元になっているということで、この字をあてています。「やらふ」と訓読みにしているのは節分会の別称「鬼やらひ」から。「鬼は外」とばかりに日本から追われるようだ、というところでしょうか。
 
他にもアセニアン船上での短歌はいくつかあり、翌明治40年(1097)の『明星』に掲載されました。
 
明日はそのあたりから。

昨日から、青森県の十和田湖で「十和田湖冬物語2013」というイベントが開かれています。
 
以下、社団法人十和田湖国立公園協会さまのサイトから。

十和田湖冬物語2013

 十和田湖冬物語特設会場で開催される北東北最大級の雪祭。
期間中は【津軽三味線ライブ】等のステージイベントの他、青森・秋田の地産品の数々が味わえる【ゆきあかり横丁】、【かまくらBar】、【酒かま蔵】【雪の大型すべり台】、【十和田湖畔温泉足湯】、赤ちゃん用の授乳スペース・キッズスペースが人気の【あったかこどもハウス】といった施設が目白押し!
夜には冬花火も上がり、冬の十和田湖畔を盛り上げます

ご家族で、カップルで、ご友人で、冬の十和田湖を存分にお楽しみ下さい!
スタッフ一同、お客様のお越しを心よりお待ちしています☆

※ イベントの内容が変更になる場合がございます。

開催期間:2013年2月1日(金)~24日(日)
開催時間:平日15:00~21:00 / 土日祝11:00~21:00
駐 車 場:約600台(無料)
開催場所:十和田湖畔休屋 (十和田湖冬物語特設会場)
住   所:〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486

【雪のゲート】
雪と光のゲートがお客様をお出迎え致します。

【乙女の像ライトアップ】
冬物語期間中は雪灯籠(スノーランプ)が設置され、幻想的な雰囲気に湖畔を彩ります。

【冬花火】
お客様から最も人気のあるイベントの一つが冬花火♪
凛と静まりかえった夜空に咲く大輪の花火は必見です!


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昨年には原発事故の風評被害で観光客が減少し、遊覧船の会社が経営破綻というショッキングな報道がありました。逆風にめげず、がんばってほしいものです。
 
と、紹介しておきながら申し訳ないのですが、当方、今月はあちこち出かける機会が多く、こちらはパスするつもりです。もしかして、会期終わり頃に余裕があったら行って来るかも知れません。
 
【今日は何の日・光太郎】2月2日

昭和22年(1947)の今日、明治末の新詩社時代からの親友だった作家、水野葉舟が歿しました。

新刊紹介です。といっても、1ヶ月ほど経ってしまっていますが。 

『梅酒』

幸田真希 マックガーデン 2012年12月30日 定価571円+税

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帯に書かれたコピーから。
 
元書店員激賞!! 「私はこんな漫画が売りたかった!!」

所在なく夜の町に佇む少女・ゆえに声をかけたのは、ごく平凡な公務員・古畑。
けれど古畑と過ごす穏やかな時間は、ゆえにとってかけがえのないものとなっていった。
「私、古畑さんと、どうなりたいんだろう…」――。
俊英の贈る珠玉の短編集。

『月刊コミックアヴァルス』という雑誌に掲載された短編集です。表題作「梅酒」が、『智恵子抄』に収められている「梅酒」をモチーフにしています。向田邦子さんの短編小説にでも出てきそうな話です。
 
「たった一つの詩が…別れの悲しみについて綴ったものが、ずっと後に新しい出会いを生むことがあるんだ。それってすごい。」というセリフがなかなかいいと思いました。
 
  梅酒001
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。
 
【今日は何の日・光太郎】2月1日

明治21年(1888)の今日、智恵子のすぐ下の妹、セキが誕生しました。

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