2013年01月

近々放映されるテレビ番組の情報を2件、御紹介します。 

探検バクモン「男と女 愛の戦略」

地上波NHK総合 2013年2月6日(水) 22時55分~23時25分
 
男と女、深遠なる愛の謎を解け!相手の心をつかむ秘策を、文豪の恋文を手がかりに大解剖!恋愛学の権威が語る驚きの理論!美輪明宏が繰り出す必殺奥義!愛の方程式の解は?

番組内容
男と女…それは、いにしえより人類を悩ませ続ける永遠のテーマ。この大いなる未解決問題に挑む。その手がかりを、言葉の達人・文豪が残した手紙に求めて大激論! 夏目漱石に学ぶ「超遠距離恋愛を乗り越える方法」。愛の詩人・高村光太郎が教える「相手の気を引く高等戦術」。そして、恋愛を科学する早大教授が、驚きのモテモテ理論を次々披露。さらに、美輪明宏が必殺の恋愛奥義を繰り出す。悩めるアナタに贈る愛の経典!

出演者
ゲスト 美輪明宏 光浦靖子 早稲田大学教授…森川友義 サヘル・ローズ
司 会 爆笑問題(太田光・田中裕二)
語 り 木村昴

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先程、予告編を見ましたが、光太郎、漱石以外に斎藤茂吉、谷崎潤一郎、柳原白蓮、芥川龍之介が扱われるそうです。
 
また、当方が独自に入手した情報によれば、1/28のブログの【今日は何の日・光太郎】で御紹介した光太郎から智恵子への長い手紙が扱われるとのことです。
 
爆笑問題さん関連では、以前にTBSラジオの「爆笑問題の日曜サンデー」中の「27人の証言」でも光太郎を取り上げて下さり、昨年は書籍になりました(当方の「証言」も載っています)。不思議とご縁を感じます。
 

日本人は何を考えてきたのか 第12回「平塚らいてうと市川房枝」

地上波NHKEテレ 2013年2月2日(土)24時50分~26時20分=2月3日(日)0時50分~2時20分 
 
「元始、女性は太陽であった」。雑誌「青鞜」で宣言した平塚らいてう。婦人参政権の獲得を目指した市川房枝。法政大学教授の田中優子さんが女性解放運動の歩みをたどる。

番組内容
「元始、女性は太陽であった」。雑誌「青鞜」で高らかに女権を宣言した平塚らいてう。平塚と共に新婦人協会を設立し、婦人参政権の獲得を目指した市川房枝。2人は太平洋戦争へ向かう時代の激流に飲み込まれていく。市川は総動員体制に協力し、戦後、公職追放されるが、その後、参議院議員として活躍する。平塚は、戦争の反省から平和運動に力を入れていく。法政大学教授の田中優子さんが2人の女性解放運動の歩みをたどる。

出演者
出演 法政大学教授…田中優子,WAN理事長…上野千鶴子 
司会 伊藤敏恵アナウンサー

再放送です。本放送は1/27にあり、放映直前に気付いたのでブログに御紹介できませんでした。
 
当方、本放送を観ました。1/11のブログで御紹介した長野県上田市の「らいてうの家」でのロケもありました。
 
光太郎・智恵子の名前は出てきませんでしたが、光太郎が作った日本女子大創設者・成瀬仁蔵の胸像、智恵子がデザインした雑誌「青鞜」の表紙が大きく映りました。
 
それにしてもあの市川房枝ですら戦時中は戦意高揚の運動に関わり、戦後の公職追放にあっていたというのは意外でした。
 
ぜひご覧下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】1月31日

明治44年(1911)の今日、日本橋浜町31番地の下宿を引き払いました。
 
光太郎29歳、親がかりの生活からの脱却を目指して、前年12月に下宿生活を始めましたが、2ヶ月足らずで挫折しています。しかも本人は信州に旅行中。母、わかに依頼して下宿を引き払っています。さらにこの年5月1日には北海道移住を企てて東京を発ちますが、これも無計画で、確認されている限り遅くとも20日にはすごすご帰ってきています。こういう人間くささも光太郎の魅力ではありますが。

1/27(日)の「神戸新聞」さんに以下のコラムが載りました。「朝日新聞」で言えば「天声人語」のような欄でしょうか。 

正平調 

武庫川にほど近い西宮市の住宅地で、レモンがいっぱいなっている002。数日前、本紙阪神版に載った写真である。なんてみずみずしい色だろうと目が留まった◆段上町2の安井進治さん宅だ。阪神・淡路大震災で自宅が全壊し、両親が亡くなった。その翌年、更地になった所にレモンの苗木1本を植えた。実を付けるまでレモンは年月がかかるというが、なるほど実が枝をしならせ始めたのは、かれこれ5年ほどたってのこと◆秋になった実は、年の瀬には黄色く変わる。1月になると香りはいっそう強くなって、近くを通るだけで気づくほどになるそうだ。まるであの日の記憶を呼び覚ますように被災地で香りを放つ…と想像がつい膨らんでいく◆高村光太郎の「レモン哀歌」を重ねてしまう。息を引き取る前に愛妻はレモンを口にする。その「数滴の天のものなるレモンの汁」でかすかな笑みが浮かぶ。そんな別れの詩から、あの香りと味には生きる力をかきたてる何かがあると感じる◆大震災といえばヒマワリが象徴だ。少女の命が奪われた神戸市東灘区の民家跡に咲いたのが、この花。見かけた近くの男性が少女の名をとって「はるかのひまわり」と名付けた。やがてその種が、震災の教訓を伝えるシンボルとして全国に広がる◆明るいヒマワリが復興を語る花なら、かぐわしいレモンは復興への香り。そんな想像を膨らませながら、黄色い実を見続ける。2013・1・27
 
西日本で「大震災」といえば18年前の1月に起きた阪神淡路大震災なのですね。いまだ震災の記憶をとどめるものがこのように残っていることで、記憶の風化を防ぐことにもなっているのでしょう。
 
東日本大震災からもうすぐ2年。こちらの傷跡はまだまだいたるところに残っています。この記憶も風化させないようにしていきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月30日

昭和28年(1953)の今日、中央公論社から刊行された『高村光太郎選集』全6巻が完結しました。

仙台レポートの3回目、最終回です。
 
宮城県美術館を後にし、一旦仙台駅まで戻りました。土産物を買い、地下鉄に乗って長町へ。ピアニスト齋藤卓子さん、朗読の荒井真澄さんによるコンサート「楽園の月」を聴きに行きました。会場は昨年5月にやはりお二人で「シューマンと智恵子抄」の公演をなさった古民家カフェ「びすた~り」さんです。「シューマンと智恵子抄」の時と同じく一関恵美さんの墨画の展示もあります。
 
少し早めに着いてしまったので、周辺を散策しました。かの広瀬川では白鳥がいました(それにしても仙台は雪深かったな、と思っていたら、昨日は当方の住む千葉県北東部でも8㌢の積雪となりました)。
 
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さて、会場に着きました。やはり眼鏡が曇って何も見えません。受付で出迎えてくださった一関さんが一関さんだと気づきませんでした(笑)すみません。
 
荒井さんのMCで始まった「楽園の月」、まずは一関さんのスピーチ。会場内に並ぶご自身の作品や、講師として教えた福祉施設の皆さんの作品などについてのご説明や、昨年、斎藤さん共々訪れたパリでのエピソードなどを披露されました。
 
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また、どの時点で作品の「完成」とするか、といったお話もされました。福祉施設の皆さんはそのあたりの見極めが非常に上手いそうです。このあたり、彫刻にも関わる話だな、と思いながら聴いていました。光雲に代表される伝統的な木彫では「こなし」といって、作品の最後の仕上げに物凄くこだわります。そうした立場に立つと、ロダンの様な荒々しいタッチは「こなれていない」と見え、未完成のものにしか見えないそうです。一昨日、昨日と書いた佐藤忠良の彫刻などは、仕上げまでかなり丁寧に為されており、柔らかさにつながっているような気もしました。この点についてはまた、折を見て書きたいと思います。
 
さて、いよいよ斎藤さんのピアノ。今回はショパンとドビュッシーです。前回(昨年5月の『シューマンと智恵子抄』)は、どうしても荒井さんの朗読を中心に聴いたため、正直、ピアノの方にはあまり意識が向きませんでした。しかし今回は、荒井さんの朗読は曲間にされることが多く、ピアノにも集中できました。個人的にフランス近代物は大好きで、しかも名手・斎藤さんが目の前で弾かれているわけで、至福のひと時でした。ピアノもオーストリアのベーゼンドルファー。昨年11月にモンデンモモさんのコンサート「モモの智恵子抄2012」があった原宿のアコスタディオさんもベーゼンドルファーでした。その時に伴奏を務めた砂原嘉博さんに「べードルには88鍵より多い鍵盤のタイプがあるんですよ」と教わりました。びすた~りさんのべードルがまさにそれで、88鍵プラス低音に4鍵、全て真っ黒な鍵が足されているタイプでした。
 
光太郎はショパンに関してはほとんど言及していませんが、ドビュッシーについては同時代の人間ということもあったのでしょう、高く評価していました。ロマン・ロランの書いた「クロオド デユビユツシイの歌劇-ペレアス、メリザンド-」の翻訳(明治44年=1911『高村光太郎全集』第17巻)も手がけていますし、親友だった陶芸家バーナード・リーチのデッサンやエッチングを褒めるのにドビュッシーを引き合いに「其の優雅な美しさを持つ或作品にはドビユツシイの「アラベスク」の美を思はせるものもある」(「リーチを送る」大正9年=1920『全集』第七巻)と書いています。また、昭和8年(1933)に岩波書店から刊行された『岩波講座世界文学7 現代の彫刻』(『全集』第五巻)の中では、ロダンの出現にからめ、19世紀後半のフランスの芸術界を評して「フランスそのものが自分の声を出しはじめたのである」とし、「音楽に於けるドビユツシイ、詩に於けるマラルメ、皆その意味に於いてフランス再発見の声である」と書いています。
 
荒井さんの朗読は、曲の合間にヴェルレーヌやボードレール、島崎藤村など。これまた美声に聞き惚れました。ドビュッシーとヴェルレーヌ、ボードレールも因縁浅からぬものがあり、光太郎もちゃんとその点を押さえています。
 
「ペレアス エ メリザンド」で近代音楽界の大家となつたクロオド ドビユツシイは、其の以前既に近代詩人の詩に作曲してゐた。(中略)マラルメ、ヹルレエヌ、ボオドレエルに次いでは、ピエル ルイ等がドビユツシイに最も多く作曲された詩人である。
(「詩歌と音楽」明治43年=1910『全集』第8巻)
 
ふと、外を見るとまた雪。「雪見酒」ならぬ「雪見ピアノ」もいいものだな、と思いました。そして終演。
 
次は「雪見風呂」です。当初の予定では仙台郊外の秋保温泉に行くつもりでしたが、時間の都合もあり、市内の温泉入浴施設に行きました。それでも凄い雪のため、あちこちで立ち往生したり事故を起こしたりしている車があり、仙台駅に戻ったのはぎりぎりの時間でした。しかし、やはり雪のため新幹線も遅れており、結局は余裕でしたが。仙台名物牛タンの駅弁を食べながら、帰途に就きました。
 
というわけで、有意義な仙台行でした。今後ともお三方のご活躍を祈念致します。

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お三方が活動されている「アクテデュース」さんのHPから。
左から齋藤卓子さん 一関恵美さん 荒井真澄さん。
 
【今日は何の日・光太郎】1月29日

大正15年(1926)の今日、ロマン・ロラン友の会結成。光太郎も参加しています。

仙台レポートの2回目です。
 
宮城県美術館の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」。彫刻の数々の後には絵画や忠良が装幀した書籍などが並んでいました。そして、最後に並んでいたのが忠良の蔵書で、光太郎訳の『ロダンの言葉』2冊でした。
 
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どちらも叢文閣から刊行された普及版で、1冊は昭和4年(1929)の版、もう1冊は同12年(1937)の版でした。内容的には同一なのですが、昭和4年の版が表紙が取れてぼろぼろになってしまったので、新たに12年版を購入したとのこと。ぼろぼろになるまで読み込んだということです。実際、開かれていた頁にも線が引かれていました。また、忠良がこの2冊を宮城県美術館に寄贈した際の添え書きも一緒に展示されており、そこには「小生にとつての彫刻出発の一種の原点にもなつた本」と記されていました。
 
こうした後進の彫刻家への影響という点では、一人忠良のみではありませんでした。光太郎の弟・豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)に、以下の記述があります。
 
 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
  雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。
 
 忠良は昭和9年(1934)に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、同14年(1939)に卒業しています。今回展示された『ロダンの言葉』普及版は昭和4年と12年の版ですから 、この頃買ったものと推定されます。
 
 さらに、企画展ではなく常設の佐藤忠良記念館(県美術館に併設)には、忠良が入手した参考作品ということで、ロダン本人のデッサンも展示されていました。
 
 ロダン・光太郎・忠良、このように芸術の精神が受けつがれ、血脈となっていくのですね。
 
 最後に、今回の企画展図録に載ったノンフィクション作家・澤地久枝さんの文章から。
 
 佐藤さんの彫刻に心安らぐのは、粘土をこねて形を造ってゆくとき、佐藤さんはモデルの生命の源泉を手にくみとっていて、血の通う形ができてゆくからではないのだろうか。
 人も自然も、佐藤さんの作品では呼吸をし、むこうから語りかけてくるみたいだ。自然と私たち人間のいとなみの、ギリギリのところにある真実とでもいうべきもの、佐藤忠良作品に私が心から感動するのは、生命を愛する人の祈りが伝わってくるから。
 
 同じことは血脈を共有するロダンにも、光太郎にも云えるのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】1月28日

大正2年(1913)の今日、智恵子に宛てた長い手紙を書いています。夢の中で智恵子が磔(はりつけ)にされる話などが書かれました。
 
謎めいた、しかし面白い手紙です。いずれ稿を改めて御紹介しようと思います。

宮城県美術館で開催中の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観て参りました。
 
午前5時半に千葉の自宅を出て、東京駅発8時12分の東北新幹線・はやぶさ1号に乗り込みました。朝が早かったし、途中停車駅があるとアナウンスや速度の変化で目が覚めますが、大宮を出たらあとは仙台までノンストップということで、爆睡しました。
 
ふと目を覚ますともう福島県内で、車窓から外を見て、驚きました。銀世界! 青森や岩手ならいざ知らず、南東北でもこの状況か、と思いました。
 
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9:48、仙台に到着。仙台では傘が必要なくらい雪が降っていました。
 
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路線バスに乗り、一路、宮城県美術館へ。
 
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入り口から玄関まで、職員の方が雪かきをしてくださっていました。館内に入ると、眼鏡が曇ってしばらく何も見えませんでした。後で訊くと、気温はマイナスだったそうです。
 
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さて、じっくり時間をかけ(途中で昼食もとりつつ)、本館の企画展と、常設の佐藤忠良記念館の展示を観ました。
 
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「書は人なり」とよくいいますが、改めて「彫刻も人なり」と思いました。
 
昨秋、上野の国立西洋美術館の企画展「手の痕跡」展で、ロダンの作品をまとめて観ましたが、そこで感じたのは「激しさ」でした。作品となった人物の表情、ポーズ、人体の部分部分の力の入り具合、躍動感、高揚感、そして作品のタッチ、どれをとっても「激しさ」を感じ、それがロダンという作者の人となりの反映のように思われました。
 
今回、佐藤忠良の作品からはロダンのような「激しさ」とは逆の、春の日差しのような穏やかさのようなものを感じました。乱暴な言い方で、反論もあるかも知れませんが、ロダンを「動」とすれば佐藤は「静」。しかし、「静」といっても、「止まっている」という感じではありません。「止まって」いたらマネキン人形です。しかし、佐藤の彫刻は「静」の中に「動」を感じます。佐藤自身「具象でモビールをやってみているような感じ」と述べていますが、まさにその通りです。例えば座っている女性の像でも、ただ漫然と弛緩したポーズをとっているわけではありません。座りながらも爪先を軽く立て、そこに軽い緊張感-「激しさ」ではなく抑制された-が感じられるのです。
 
「見る人に説明するようには作らない」というのが佐藤のポリシーだったようです。雄弁にがなりたてるのではなく、さりとて寡黙に口をつむぐのでもなく、抑制された自己主張。こういう部分に作者の人となり、さらには「東北人の典型」といった解釈を与えるのは安易でしょうか?
 
今年また、光太郎彫刻をまとめて観る機会があります。その時に自分でどう感じるのか、それから皆さんがどう感じるのか、興味深いものがあります。
 
続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎】1月27日

昭和10年(1935)の今日、日本語におけるソネットなどの定型、押韻詩を試みる文学運動、マチネ・ポエティック社が結成され、光太郎も参加しています。

仙台に来ています。 

宮城県美術館で彫刻家佐藤忠良の企画展を見終わりました。

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今は晴れていますが、午前中に着いた時は結構雪が降っていました。さすが東北。

夕方から斎藤卓子さんのピアノ、荒井真澄さんの朗読のコンサートです。同時開催中の一関恵美さんの墨画も楽しみです。

詳しくは帰ってからレポートします。


【今日は何の日・光太郎】1月26日

昭和17年(1942)の今日、美術評論集『造型美論』が刊行されました。

明日、1/26(土)は仙台に行って参ります。
 
2件、用事があります。
 
まず一件目、宮城県美術館で開催中の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観て参ります。
 
佐藤忠良(ちゅうりょう)は明治45年(1912)、宮城県生まれの彫刻家。光太郎より一世代あとです。光太郎ら一世代前の彫刻家によって目を開かれ、具象彫刻で一境地を開きました。昭和33年(1958)から全10回限定で行われた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」の第3回(昭和35年=1960)入賞者です。そんな関係で、連翹忌にもご参加いただいたことがあります。一昨年3月に亡くなり、昨年は一周忌と生誕百年が重なったため、佐藤忠良記念館を併設する宮城県美術館にて同展開催の運びとなりました。
 
他の方のブログで、忠良の蔵書で光太郎が訳した「ロダンの言葉」が展示されているなどといった記述を見つけました。その他には、直接、光太郎と関わる展示はあまりないようですが、光太郎の開いた日本近代彫刻の歩みが、次の世代にどのように受けつがれたのか、少し注意して観てこようと思っています。
 
ちなみに会期は2/24(日)まで。関連行事の目玉は昨年11/23に終わってしまいましたが、忠良の娘で、女優の佐藤オリエさんの講演会「父 佐藤忠良を語る」でした。
 
余談になりますが、佐藤オリエさんは、昭和45年(1970)に、TBS系の昼ドラ「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎役は故・木村功さん)。
 
実は佐藤オリエさんの講演会が終わってから、佐藤忠良展が開かれていたことを知り、ブログに載せるタイミングを逸していました。
 
もう1件。昨年5月のこのブログで御紹介した「シューマンと智恵子抄」の朗読・荒井真澄さん/ピアノ・齋藤卓子さんによるコンサート「楽園の月」が太白区長町の古民家カフェ「長町遊楽庵 びすた~り」さんで行われます。昨年同様、一関恵美さんの墨画展も同時開催ということです。素敵なお三方にお会いできるのが楽しみです。
 
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帰ってきましたら、詳しくレポート致します。
 
【今日は何の日・光太郎】1月25日

大正15年(1926)の今日、ロマンロラン著、高田博厚訳の評伝『ベートオヱ゛ン』が刊行されました。

光太郎が装幀・題字を担当しました。

サッカーJリーグ2部(J2)のチームで、茨城県水戸市をホームタウンとする「水戸ホーリーホック」というチームがあります。
 
2013シーズンに向けてのクラブスローガン発表という報道があり、光太郎の名が挙げられました。
 

同クラブホームページから。

2013シーズン クラブスローガン決定のお知らせ

この度、水戸ホーリーホックの2013シーズンのクラブスローガンが決定いたしましたので、下記の通りお知らせいたします。

2013シーズン 水戸ホーリーホック クラブスローガン】

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■意味

詩人で彫刻家の高村光太郎の詩「道程」より、「僕の前に道はない、僕のうしろに道はできる」を引用しました。
『みち』には色々な意味があります。一つには、『道(みち)』があります。ホーリーホックの歩んでいく後ろに確固たる道を作っていく。もう一つに、『道(どう)』があります。柱谷監督の3年目、『サッカー道』を極めて、素晴らしいサッカーを展開します。さらに『未知』。J2でJ1経験の無い最古参のチームになりました。今シーズンこそは、J1という未知の旅を実現させたいと思います。
J1という険しい目標に挑戦するためにも、「サッカー道」ともいうべき、サッカーの本質を追究しながら、未知の世界に挑む「道程・みちのり」を、今年のスローガンとしました。
■デザイン
昨年度のスローガン『たつ』に引き続き、茨城県出身の書家 川又 南岳氏に揮毫いただきました。
<川又 南岳氏プロフィール>
1937年 茨城県常陸大宮市生まれ。1975年に第7回日展初入選。以後、ドイツ・ハンブルグ国立工芸美術博品館作品買い上げ、中国・北京市歴史博物館で書画展を開催するなど、国際的評価も高い。茨城大学教授退官後も、画家や陶芸家とのコラボレーション活動を展開。2006年秋篠宮殿下ご臨席のもとに行われた「まなびピアいばらき」開会式での大筆を用いた揮毫や、2007年の自民党党大会において安部晋三元首相と共同での「美しい国、日本」揮毫など、多方面で精力的な活動を続ける。
 
水戸と光太郎には直接のつながりはありませんが、「道程」を作った頃の日本美術界に果敢に戦いを挑んでいた光太郎の姿と、2部の厳しい条件の中で1部昇格を目指す同クラブの姿には重なる部分があるといえるかもしれません。
 
同チーム、知っている選手はあまりいませんが、1部昇格を目指してがんばってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月24日

昭和16年(1941)の今日、日本青年詩人連盟が結成され、その顧問に就任しています。

今週発売の『週刊ポスト』に「ニュースを見に行く! 現場の磁力 「光太郎・智恵子」と上野精養軒の時代」という記事が載りました。
 
実は今週の『週刊ポスト』は、月曜日に歯医者の待合室で手に取っていたのですが、グラビアページばかり見ていて気付きませんでした(笑)。昨日、ネットで気づき、今日、慌てて買ってきました。
 
筆者は作家の山藤章一郎氏。大正3年(1914)12月22日、上野の精養軒で光太郎と智恵子の結婚披露宴が行われたことを軸に、同じ年の東京駅落成やJTBの開業などにも触れています。光太郎・智恵子に関しては、津村節子氏の小説『智恵子飛ぶ』や光太郎の詩篇などを引用しつつ、簡潔に二人の生涯をたどっています。当時の世相とからめながら展開する書き方が面白いと思いました。
 
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『週刊××』の類。新聞広告や電車の中吊りなどで、どぎつい見出しがやけに目立ちますが、こういうまじめな記事ももっともっと載せてほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月23日

昭和26年(1951)の今日、花巻の大沢温泉に宿泊しています。

昨年のブログで御紹介した、坂本富江さんのお書きになった『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』
 
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その原画展と坂本さんの講演会が開催されます。
 
以下、会場の板橋区立赤塚図書館さんHPから。

<スケッチで訪ねる《智恵子抄》の旅 原画展と講演会> 

日時:原画展 2013年2月7日(木)午前11時から午後5時
          2013年2月8日(金)午前11時から午後5時
          2013年2月9日(土)午前10時から12時
    講演会及びスライドショー
          2013年2月9日(土)午後2時から午後3時30分
場所:視聴覚室
講師:坂本 富江 (板橋区くらしと観光課 観光センター職員)
講演会定員:30名(申込先着順・入場無料)
お申込:1月19日(土)より、カウンターまたはお電話にて承ります。
 
高村光太郎の妻・智恵子ゆかりの地を訪ね、長年にわたり描き続けたスケッチや油絵の作品を展示いたします。
最終日には著者の坂本富江さんによる講演会及びスライドショーを開催します。

板橋区立赤塚図書館は、東武東上線下赤塚駅北口下車、徒歩15分 または、東武東上線成増駅下車、北口から赤羽駅西口行バス「赤塚庁舎」下車 だそうです。
当方、早速申し込みを致しました。皆様もふるってご参加ください。

【今日は何の日・光太郎】1月22日

明治32年(1899)の今日、前日から一泊で、弟の道利と共に横須賀に軍艦見物に行っています。

昨日、お年玉付き年賀はがきの当選番号が発表されました。まだ家族に来た分は調べておりませんが、当方宛で4枚、4等(下2けた-お年玉切手シート)が当たりました。うち1枚は、花巻の財団法人高村記念会からいただいたもの、2枚は高村光太郎研究会でご一緒させていただいている方々からのものでした。ありがとうございます。
 
お年玉付き年賀はがきといえば、当方、光太郎が出したお年玉付き年賀はがきを1枚所有しています。
 
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 昭和26年(1951)のもので、花巻郊外太田村の山小屋から岩手県立美術工芸学校長だった美術史家の森口多里にあてたものです。ただし、3月10日の日付となっており、年賀状ではなく、あまった年賀はがきを使ったものでしょう。
 
文面は以下の通りです。
 
おてがみにより別封でお祝のことばをお送りいたしました。
今冬は小生肋間神経痛のため外出不能で引籠つてゐますが、昨年は今頃黒沢尻の貴邸で誕生祝のたのしい御馳走をいただいた事を思ひ出します。ああいふことは思ひ出してもたのしいです。
今年はここの炉辺でじつとしてゐる外ありませんが、ビタミンやホルモンのせいだらうと思ふので春になればなほるに違ひないと考へてゐます。
 
お祝のことば」は、『高村光太郎全集』第11巻所収の「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」。このころの日記に関連する記述があります。光太郎は既にこの時点では結核に冒されています(本人は対外的には頑強に否定していましたが)。そのための「肋間神経痛」や「引籠」です。「誕生祝のたのしい御馳走」についても、近年の調査で詳細がわかりました。長くなりますので、いずれ光太郎の誕生日の頃のブログで御紹介します。しかし、3月10日でも「春になれば」と書いているあたり、厳しい北国の環境がうかがえます。
 
調べてみましたところ、初のお年玉付き年賀はがきは、この前年の昭和25年(1950)用として発売されたそうです。当時の1等商品は足踏みミシン。時代を感じますね。
 
ところで、今年の当たり番号を確認していて思ったのですが、年々、賞品は豪華になっているものの、当たる本数が減っているようです。以前は下2けたも3本あったはずですが、今は2本。いつから2本になったのでしょうか?下3けたの当たりがなくなって久しいし、下4けたも以前は2本だったと思いますが、今は1本だけ。豪華賞品でなくてよいので、もっと本数が多く当たってほしいと思うのは当方だけでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎】1月21日

明治45年(1912)の今日、大森の料亭富士川で開かれた青鞜社新年会に智恵子も参加しました。
 
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中央・智恵子 右から二人目・平塚らいてう

【今日は何の日・光太郎】1月20日

昭和38年(1963)の今日、故・風間光作が主宰する「高村光太郎詩の会」が発足しました。
 
風間は光太郎と交流のあった詩人です。昭和18年(1943)に刊行された詩集『山峡詩篇』の題字を光太郎が書いたりしています。
 
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左から 椛沢佳乃子 風間光作 光太郎 藤島宇内
                  
 
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昭和38年1月20日午後2時、「高村光太郎詩の会」の発足式が、駒込染井霊園の高村家墓所前で行われました。参加者は16名。続いて2月には初の例会が行われ、北川太一先生や、岩本善治の研究で知られる磯崎嘉治氏なども参加しています。
 
同会はその後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

高崎市にある群馬県立土屋文明記念文学館にて、本日より3/17(日)まで、「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」が開催されます。
 
伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身。室生犀星や萩原朔太郎と縁の深かった詩人ですが、一時、群馬に住んでいた草野心平や光太郎とも交流があり、特に戦後は何度か光太郎詩集の編集に携わったり、光太郎没後は『高村光太郎全集』の編集にも関わったりしています。
 
晩年は同館の初代館長に就任。そんなわけで同館には光太郎がらみの資料も数多く収蔵されています。光太郎から伊藤宛の書簡も多数。今回の展示ではどういったものが並ぶかまだよくわかりませんが、折を見て行ってきて、レポートします。
 
YOMIURI ONLINEから。

詩人・伊藤信吉 没後10年展...高崎で19日から

 前橋市出身の詩人伊藤信吉(1906~2002年)の没後10年記念展が、19日から高崎市保渡田町の県立土屋文明記念文学館で始まる。伊藤が収集した方言や昔話など群馬に関わる資料を多く展示することで、伊藤の業績を親しみを持って地元の人たちに知ってもらうのが狙いだ。
 伊藤は、旧元総社村(現前橋市)生まれ。萩原朔太郎に師事し、詩作を始めた。県庁職員として5年間勤務したが、20歳代前半で退職。その後、プロレタリア文学運動に関わった。1931年、製本中に当局に押収されそうになった「中野重治詩集」を、1冊だけ座布団の下に隠し守ったという話が有名だ。
 文学評論も手がけ、朔太郎、室生犀星、高村光太郎などの全集編集にも携わった。89歳で県立土屋文明記念文学館の館長に就任し、「群馬文学全集」(全20巻)の編集・監修をするなど、晩年も精力的に活動した。
 展覧会には、伊藤がライフワークとして収集した群馬の方言や昔話、わらべ歌の資料が多く展示される。五十音順に清書した自作の方言台帳や、知人に方言の意味や使い方を問い合わせた手紙、裏紙に書かれたメモなどだ。
 唯一、校歌を作詞した地元の前橋市立元総社南小の校歌碑のために揮毫(きごう)した書や、児童らに宛てた手紙も初公開。朔太郎や犀星、草野心平らからの手紙も展示される。
 展覧会のポスターやチケットは、伊藤の著書を装丁するなど親交があった画家の司修さんがデザインした。
 同館学芸係の江夏(こうか)俊江さんは「伊藤の故郷への愛を感じ取ってもらえればいい。特に若い人に来てもらいたい」と話している。
 3月17日まで。一般400円、大学・高校生200円、中学生以下無料。
2013年1月15日 読売新聞)
 
同館ホームページから。

第79回企画展「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」

会期 平成25年1月19日(土)~3月17日(日)
開館時間 9:30~17:00(観覧受付は16:30まで)
休館日 火曜日
観覧料 一般400円(320円) 大学・高校生200円(160円) 中学生以下無料
 ※( )内は、20名以上の団体割引料金
 ※障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料

後援 朝日新聞前橋総局 毎日新聞社前橋支局 読売新聞前橋支局 上毛新聞社
   桐生タイムス社 NHK前橋放送局 群馬テレビ エフエム群馬 ラジオ高崎

 伊藤信吉(いとうしんきち、1906-2002)は、元総社村(現・前橋市)に生まれ、89歳で当館初代館長に就任しました。萩原朔太郎(1886-1942)や室生犀星(1889-1962)に師事。アナーキズム系の詩人とも交わり、プロレタリア文学運動に関与。その活動を離れてからは、『島崎藤村の文学』を皮切りに近代文学の評論で地歩を固め、多くの全集編さんにも携わり、現代の文学に大きな影響を与え続けています。
 当館では亡くなった翌年に追悼展を開き、その生涯と全業績を紹介いたしました。今回の没後10年記念展では、伊藤信吉の故郷への思いに光を当てます。伊藤は故郷を愛し、育った村で使われていた方言や昔話、わらべ歌の収集もしました。
 本展では自筆資料、書簡、写真、遺品、未公開資料を含め約200点を展示します。
 空っ風を愛した伊藤が巻き起こした文学の風を感じていただければと思います。

主な展示構成006
1. 上州は“風”の文学
2. 近代詩の目撃者 ~評論家 伊藤信吉~
3. 郷土を愛して ~詩人 伊藤信吉~

関連行事
※①~④申込方法(参加費無料)
 事前に電話もしくは受付カウンターにてお申し込みください。

 TEL.027-373-7721

①ワークショップ「風と遊ぼう」
講師 群馬県立歴史博物館職員
1月20日(日)
13:30~14:00(かざぐるま作り)
14:30~15:10(ミニ凧作り・変わり凧作り)
定員 各回親子30組(要申込/両回申込可)
対象 4歳(小学校3年生までは保護者同伴)~一般
・子どもを対象とした簡単な工作ですが、大人の方も参加できます。

②シンポジウム
パネリスト 東谷 篤氏(城北中・高等学校教諭)
      岡田芳保氏(詩人・当館元館長)
      篠木れい子(当館館長)
コーディネーター 藤井 浩氏(上毛新聞社論説委員長)
演題「伊藤信吉 その素顔と魅力」
2月17日(日)14:00~15:30
定員 150名(要申込)
★オープニングに伊藤が唯一作詞した前橋市立元総社南小学校の校歌をビデオでご紹介。
 全校児童による合唱です。

③ワークショップ「ことばで遊ぼう」
講師 高橋静代氏(わらべ歌)
   小林知子氏(紙芝居)
2月24日(日)10:30~11:40
定員 80名(要申込)
対象 0歳~一般
・赤ちゃんから大人の方までを対象としたワークショップ。わらべ歌や上州弁の紙芝居をお楽しみください。

④記念講演
講師 澤 正浩氏(福島大学名誉教授)
演題 「伊藤信吉の晩年の仕事を中心に」
3月17日(日) 14:00~15:30
定員 150名(要申込)

⑤ギャラリートーク(申込不要/要観覧料)
企画展担当者による展示解説
1月19日(土)、2月9日(土)、3月9日(土)
各回13:30~14:00


【今日は何の日・光太郎】1月19日

昭和59年(1984)の今日、美術史家の今泉篤郎が歿しました。

今泉は晩年の光太郎と接し、その回想録を筆記したり、没後の「高村光太郎賞」の選定に功績があったりしました。
 
閲覧数8,000を超えました。ありがとうございます。

一昨日、新春恒例の「歌会始の儀」が皇居・宮殿「松の間」で開かれました。今年のお題は「立」。天皇、皇后両陛下や皇族方に加え、国内外から寄せられた1万8399首から選ばれた入選者10人、選者らの歌が披露されました。
 
入選者の中で、福島県郡山市の郵便事業社員・金沢憲仁さんの作品は、光太郎の『智恵子抄』に関係するものでした。
 
 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む
 
金沢さんのコメントです。
 
「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。
 
こういうところでも光太郎作品のオマージュがなされるのは嬉しいことですが、原発事故による「ほんとの空」の消失が題材であるわけで、手放しでは喜べません。複雑な気持です。
 
歌会始といえば、昭和39年(1964)、光太郎の実弟、豊周が「召人」として参加しています。「召人」は広く各分野で活躍し貢献している人々から選ばれ、今年は歌人の岡野弘彦氏でした。豊周は鋳金の分野で人間国宝でしたが、『露光集』(昭35=1960)、『歌ぶくろ』(同41=1966)、『おきなぐさ』(同44=1969)、『清虚集』(同48=1973)の四冊の歌集を上梓するなど、短歌の分野でも大きな足跡を残しています。血は争えませんね。
 
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 『露光集』 扉(左)      口絵(右)
 
 
短歌といえば、光太郎も明治末の『明星』時代から、晩年まで断続的に多くの短歌を作りました。いずれ、光太郎と短歌に関しても折を見てこのブログで書こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月18日

明治44年(1911)の今日、上野精養軒で開かれた雑誌『スバル』と『白樺』の関係者会合に出席しています。

「道程」三題、その3です。
 
本日深夜(正確には明日未明)、地上波NHKEテレ(旧教育テレビ)で、下記の放映があります。

10min.ボックス(現代文)「道程(高村光太郎)」 

2013年1月17日(木) 25時40分~25時50分=1月18日(金) 1時40分~1時50分
 
この回は、朗読にこだわる。同じ作品でも、解釈の違いが朗読にあらわれる。様々な人にこの詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらう。
  • 出演者 加賀美幸子
「10min.ボックス」は、題名の通りの10分間番組で、中高生向けに作られたものです。「道程」に関しては平成19年頃に制作されたと記憶しています。これまでに何度もくり返し放映されており、当方、地デジ放送になる前に録画したものを持っています。
 
調べてみたところ、NHKさんのサイトでも観ることができることがわかりました。観ることができてしまいますので、ネタばらしをしてもいいでしょう。
 
番組ナビゲータは大ベテランの加賀美幸子アナ。ナレーションは肥土貴美男アナ。前半は光太郎の評伝で、幼少期から留学、智恵子との出会いを経て「道程」制作までが描かれます。
 
後半に入り、「それぞれの道程」と題し、「この春、北海道から上京したばかりの大学一年生」「就職活動中の大学四年生」「三十一歳 夫婦」の三組が、「道程」を朗読、それぞれの思いを語ります。
 
続いて「詩がたどった「道程」」ということで、大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に初めて発表された時は102行にわたる大作であったこと、それが10月に詩集『道程』に収められる際にはバッサリとカットされ、9行の短い詩になったことが語られます。
 
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当方手持ちの『道程』初版 残念ながらカバー欠です
 
最後は40人の中学生(だと思います。学校名等明示されませんが)による群読でしめくくられます。
 
バックに流れるイメージ映像等も美しく、よく作られています。深夜ですが、ぜひ、録画して御覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】1月17日

昭和13年(1928)の今日、詩「手紙に添へて」を作りました。

「道程」三題、その2です。
 
昨日の【今日は何の日・光太郎】でふれましたが、昭和20年(1945)の昨日、詩集『道程』再訂版が刊行されました。
 
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文庫判の小さな詩集です。
 
オリジナルの詩集『道程』は、大正3年(1914)の刊行です(来年、2014年は詩集『道程』刊行100年、光太郎智恵子結婚100年ということになります。ちなみに今年、2013年は光太郎生誕130年です)。
 
その後、昭和15年(1940)には詩集『道程』改訂版が刊行されました。そして同20年の昨日、再訂版が刊行されたというわけです。
 
改訂版には、翌年刊行された詩集『智恵子抄』と重複する詩篇が多く、それらをすべて削除して再訂版が編まれています。そして削るだけでなく、昭和5年(1930)までの詩篇を収録しています。オリジナルの詩集『道程』と重なる詩篇は18篇。重ならないものが45篇。それでも『道程』の名を冠しています。これは『道程』と名付ければ売れる、というようなせこい考えではないでしょう。光太郎にとっては、自分の詩業をまとめたものは、自分の「道程」なんだという考えだと思います。
 
興味深いのは、昭和5年(1940)のものまでで止めていること。その後は戦争に関わる詩が多くなるのです。さらに戦時中には全篇戦争詩の『大いなる日に』、『記録』、そして年少者向けにこれも戦争詩を多く含む『をぢさんの詩』と三冊の戦意高揚の詩集を矢継ぎ早に出した光太郎ですが、この『道程』再訂版には戦争詩といえるものは含まれていません。光太郎の精神史を考える上で、非常に興味深い事項です。
 
さて、別件です。
 
昨年末に、岡山県赤磐市から御案内を戴きました。
 
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赤磐市出身の詩人・永瀬清子(明39=1906~平7)は、光太郎や草野心平と交流があり、その著書、詩集『諸国の天女』の序文を光太郎に依頼しています。そんなわけで光太郎と書簡のやりとりがあって、全集未収録の光太郎から永瀬宛の書簡4通に関して御遺族の方から情報提供を頂き、「光太郎遺珠」に掲載させて頂きました。
 
赤磐市では永瀬の顕彰活動をいろいろと行っており、その一環のイベントです。期日がまだ先なので、もう少し後に御紹介しようと思っておりましたが、申し込みの締め切りが今月21日月曜日の当日消印有効でした。そこで慌てて御紹介する次第です。
 
当方、参上致します。岡山には他にも調査すべきポイントがあるもので、併せて行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月16日

昭和31年(1956)の今日、雑誌『地上』掲載の丸山義二との対談「春を告げるバツケ」を行っています。

昨日は、当方の住む千葉県北東部でも雪が積もりました。館山などの南房総ほどではありませんが、比較的温暖な地域で、東京や神奈川で雪になっても、この辺は雨、ということが多いのですが、昨日は積もりました。
 
雪がやんでから、犬の散歩に出かけました。「雪やこんこ」の歌の通り、「犬は喜び庭かけまわり」の状態でした。我が家の犬は先日9歳になりましたので、そろそろ老犬の仲間入りですが、大はしゃぎでした。一面真っ白になった近くにある会社の駐車場をぐるぐる歩き回っていました。
 
と、一昨日に『毎日新聞』さんに掲載された記事を思い起こしました。

山は博物館・味な道内ハイク:手稲山 日本初のスイス式山小屋 スキー客に愛され90年 /北海道

1月13日(日)11時19分配信002
 札幌市街地の西にある手稲山(1023メートル)。標高550メートル付近に丸太造りの山小屋「手稲パラダイスヒュッテ」が建っている。北海道大学が1926年に日本初のスイス式山小屋として建設した。今あるのは当時の設計図に基づいた94年の建て替えだが、当時の雰囲気をそのまま伝え、山スキーの拠点として愛され続けている。【去石信一】

 ヒュッテは静かな林の中にある。扉を開けると風除室、その奥が居間だ。右側にテーブル、左側は流しや物置があり、中央のまきストーブが赤々と燃える。2階は広い板の間で30人が寝られる。
   ◇  ◇
 スキーは大正時代に人気になり、手稲山は北大生にとってスキー登山の格好の場所だった。軽川駅(現JR手稲駅)が利用されたが日帰りには遠く、林業用の粗末な小屋に宿泊。北大山スキー部OBの在田(ありた)一則・元北大教授(71)は「西洋のスキー教本や映画に登場する丸太造りの山小屋にみんなあこがれた」と話す。
 その中、北大スキー部創立15周年を記念して山小屋建設の話が持ち上がり、札幌で設計事務所を開いていたスイス人が協力。2階建てが完成した。雑誌「山と雪」3号(30年)によると、北大の学生と職員は1泊10銭、その他は15銭。週末の軽川駅はスキー客でにぎわったという。
 これを契機に北大や鉄道会社が札幌・定山渓を中心にした山々に10年で18棟の山小屋を建て、西洋で言われた「ヒュッテン・ケッテ」(山小屋の鎖)が実現。スキーで泊まり歩くのが冬の醍醐味(だいごみ)となった。札幌鉄道局や定山渓鉄道は盛んにツアーを組み、日本山岳会北海道支部の高澤光雄・元副支部長(80)は「切符を売るためだったが、戦争に備えて体を鍛えるため、国も奨励した」と指摘する。
   ◇  ◇
 現在、ヒュッテは北大山スキー部OBらが年間を通して週末だけ小屋番し、宿泊者を受け入れる。取材で訪ねた昨年末、67~71歳の3人がビールを飲みながら山談議し、現役北大生約10人も山小屋の夜を楽しんだ。その時訪れたOBの
倉持寿夫さん(71)は、新雪を歩く楽しさを高村光太郎の詩「道程」に例え、「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできるところ」と話した。
 北大生は無料。学外者も10~4月は610円、5~9月は490円で宿泊できる。在田さんは「どんどん泊まって山小屋生活の素晴らしさを楽しんでほしい」と願う。戦後建設も含め、定山渓付近に9棟が現存している。
 
北海道の山中と千葉の駐車場を一緒にしては怒られるかも知れませんが……。
 
本当に偶然ですが、元々、今日の【今日は何の日・光太郎】も「道程」ネタです。もともとそのつもりでいました。
 
【今日は何の日・光太郎】1月15日

昭和20年(1945)の今日、青磁社から詩集『道程』再訂版が刊行されました。
 
明日は「「道程」三題・その2」ということでこの『道程』再訂版について書きましょう。

光太郎、上高地から下山(大正2年=1913 10月)してすぐ(同12月)、次の詩を発表します。
 
   
 
 山の重さが私を攻め囲んだ
 私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
 山に向かつた010
 山はみじろぎもしない
 山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
 たまらない恐怖に
 私の魂は満ちた
 ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
 底の方から脈うち始めた私の全意識は
 忽ちまつぱだかの山脈に押し返した
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
 又あの狂つた種牛だ
 又あの流れる水だ
 私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
 其処に満ちた
 みちはじけた
 山はからだをのして波うち
 際限のない虚空の中へはるかに
 又ほがらかに
 ひびき渡つた
 秋の日光は一ぱいにかがやき
 私は耳に天空のカの勝鬨をきいた
 山にあふれた血と肉のよろこび!
 底にほほゑむ自然の慈愛!
 私はすべてを抱いた
 涙がながれた
 (『高村光太郎全集』第2巻)
 
智恵子との婚約を果たし、高揚した気分が伝わってきます。
 
上高地の夢のような日々は、光太郎にとって智恵子とのかけがえのない思い出となったようです。昭和16年(1941)に刊行された詩集『智恵子抄』には、上高地がらみの詩が三篇採られています。
 
まずは智恵子との幸福な日々を思い返した一篇。大正14年(1925)の作です。
 
   狂奔する牛
 
 ああ、あなたがそんなにおびえるのは
 今のあれを見たのですね。
 まるで通り魔のやうに、
 この深山のまきの林をとどろかして、
 この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して、
 今はもうどこかへ往つてしまつた011
 あの狂奔する牛の群を。
 今日はもう止しませう、
 画きかけてゐたあの穂高の三角の尾根に
 もうテル ヴエルトの雲が出ました。
 槍の氷を溶かして来る
 あのセルリヤンの梓川に
 もう山山がかぶさりました。
 谷の白楊が遠く風になびいてゐます。
 今日はもう画くのを止して
 この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
 又好きな焚火をしませう。
 天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
 あなたもしづかにおすわりなさい。
 あなたがそんなにおびえるのは
 どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
 ものおそろしくも息せき切つた、
 血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
 けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
 いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、
 もつと多くの事をこの身に知つて、
 いつかは静かな愛にほほゑみながら――
 (『高村光太郎全集』第2巻)

続いて、智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇。

   或る日の記
 
 水墨の横ものを描きをへて
 その乾くのを待ちながら立つてみて居る
 上高地から見た前穂高の岩の幔幕
 墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド012
 作品は時空を滅する
 私の顔に天上から霧がふきつけ
 私の精神に些かの條件反射のあともない
 乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
 このお化屋敷の板の間に波をうつ
 私はそれを巻いて小包につくらうとする
 一切の苦難は心にめざめ
 一切の悲歎は身うちにかへる
 智恵子狂ひて既に六年
 生活の試練鬢髪為に白い
 私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
 そこにあるのは写真であつた
 そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列
 (『高村光太郎全集』第2巻)

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この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。

して、智恵子の臨終を謳った絶唱。

   レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた013
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 (『高村光太郎全集』第2巻)
 
この「山巓」は上高地を指す、というのがもっぱらの解釈です。泣けますね。
 
しかし、厳しい見方をすれば、ここで上高地を連想しているのはあくまで光太郎であって、いまわの際の、しかも既に夢幻界の住人だった智恵子がどうだったかはわかりません。
 
以上、長々と上高地がらみで書きましたが、とりあえず終わります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月14日

昭和25年(1950)の今日、盛岡少年刑務所で講演しました。

これを記念して毎年7月に同刑務所で高村光太郎祭が開かれています。

昨日から引き続き、上高地での光太郎智恵子を追いかけます。
 
智恵子没後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた「智恵子の半生」(『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス 倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。
 
テレビ放送「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」で、俳優の小野寺昭さん一行も苦労していた約20㎞の山道を、智恵子は身軽に登って来たそうです。「恋」する女のパワーでしょうか。
 
それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃肋膜を少し痛めているらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。
 
「ウエストン」はウォルター・ウェストン。イギリス人宣教師で、「趣味としての登山」という概念を日本にもたらした人です。上高地にある彼のレリーフをご存じの方も多いでしょう。
 
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光太郎画 木立と山(上高地風景) 大正2年(1913)
 
光太郎と智恵子が上高地で夢のような日々を送っていた時、下界ではちょっとした騒ぎが巻き起こりました。写真週刊誌ならぬ『東京日日新聞』に、次の記事が載ったのです。
 
美くしい山上の恋 洋画家連口アングリ
 
信州鎗ヶ岳の麓の上高地温泉、此附近には文士の窪田空穂氏や美術学校の生徒などがゐる、或日の事此美術家の群が遊びにいつて麓の道を見下してゐると一人の美人が二人の強力に荷物を背負はせ乍ら登つてくる、其姿がいかにもいたいけである、どこからどこへこの美人はゆくのであらう、近くなつたら手を引いてやつて山中には珍らしい美人から感謝の言葉を戴かうと思つてゐると今度は山上から一人の青年が強力を連れてとぼとぼと下りてくる、と下から美人、上から青年、ハタと視線が合うと握手して手を引き乍ら俄に元気づいて温泉の方へ向つて上つていつた。美術家連は唖然として狐につまゝれたよう、此男女こそは誰あらう彫刻家の泰斗高村光雲氏の息高村光太郎氏と青鞜社員で女流洋画家の長沼智恵子である。二人が相愛の仲は久しいもので今では「別居結婚」をしてゐる仲ぢやもの、二人して日本アルプスの大景に接し乍ら文展の製作を急がうと、その企てから智恵子が早く滞在してゐる、光太郎氏を訪ふたものと知れた――と岡焼からの便りがあつた。
 
光太郎は「智恵子の半生」で次のように書きます。

 
当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。(中略)
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。 所謂 ( ) 洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。
 
結局はこの記事が決め手の一つになり、二人は結婚するわけで、何が功を奏するかわかりませんね。
 
この上高地での記憶は、光太郎にとって忘れがたいものだったようで、後々まで詩の中にくり返し謳われます。明日はそのあたりを。
 
【今日は何の日・光太郎】1月13日

明治17年(1884)の今日、光太郎の祖母、すぎが歿しています。

昨夜、1/8のブログで紹介したテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」。を観ました。
 
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戦前の絵葉書 日本アルプス上高地 徳本峠
 
大正2年(1913)7月から10月にかけ、光太郎は上高地の清水屋に滞在。9月には智恵子も来て、一緒に画を描いたそうです。光太郎の絵はこの年10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開かれた生活社主催の展覧会に出品されました。
 
二人で下山したのが10月8日。二人が結婚披露宴を行ったのは翌大正3年(1914)ですので、婚前旅行です。やるなぁ、という感じですね。光太郎と智恵子、上高地で結婚の約束を結んだとのことです。
 
さて、番組ですが、俳優の小野寺昭さんとイラストレーターの中村みつをさんが、山岳ガイドの方の案内で、麓の島々から徳本峠を経由、上高地までの約20㎞の山道を歩くというものでした。
 
番組冒頭近く、上高地の歴史を紹介するあたりで、光太郎・智恵子もここを歩いたとの説明がありました。二人にふれるのはこれだけかな、と、ちょっとがっかりしましたが、さにあらず。途中の岩魚止でかつて営業していた山小屋での小休止の際、かたわらに立つ桂の巨木にからめ、光太郎・智恵子と上高地について約3分間、紹介がありました。
 
光太郎も智恵子も、見事に色づいた上高地の桂の木について書き残しています。番組では下記の二人の文筆作品を紹介していました。よく調べているな、と感心しました。ただし、「歌人の高村光太郎」と言っていたのはいただけません。
 
光太郎
徳本峠の山ふところを埋めていた桂の木の黄葉の立派さは忘れがたい。彼女もよくそれを思い出して語った。
「智恵子の半生」昭和15年(1940) 『高村光太郎全集』第9巻
 
智恵子
絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木。清らかに美しく、強くやさしい魂への、最後の思慕愛執も、いつか溢るゝ感謝となり、愛の個性は姿を消し。
「病間雑記」大正12年(1923) 『高村光太郎全集』別巻
 
他にも光太郎、智恵子と上高地については、いろいろとありますので、明日はその辺を。
 
【今日は何の日・光太郎】1月12日

昭和21年(1946)の今日、宮澤賢治の弟・清六を介し、花巻町役場より戦災見舞金80円を受け取っています。

昨日、智恵子も関わった雑誌『青鞜』に関する朝日新聞の報道を御紹介しました。
 
今回、『青鞜』をまとめて入手、公開したのはNPO法人平塚らいてうの会さんです。
 
同会は、女性の自立、平和・協同・自然を愛したらいてうの志を受け継ぎ、その顕彰活動を行っている団体です。
 
本部は東京小石川ですが、同会が運営する「らいてうの家」という記念館が、長野県上田市にあります。
 
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上田といっても、旧真田町(かの真田家の故地です)だった区域で菅平に近い四阿(あずまや)高原という、雪深いところです。したがって11月中旬から4月中旬までは冬期間閉鎖の措置になっています。
 
当方、一昨年の秋にお邪魔いたしました。一昨年は『青鞜』創刊100周年という節目の年で、そのあたりに的を絞った展示-智恵子にもふれる-がなされていたためです。実は上田は当方父祖の地で、祖父母が存命中にはよく行っていました。ただ、父祖の地は同じ上田でも別所温泉に近い塩田平という地区で、少し離れています。
 
さて、千葉から自家用車で行くか、公共交通機関で行くか迷ったのですが、久しぶりにローカル列車の別所電鉄にも乗ってみたいなと思いましたので、結局公共交通機関を利用しました。らいてうの家に行くには上田駅から路線バスのつもりでした。ところが上田駅に着いて、バス停でいくら探しても四阿高原行きがありません。観光案内所で訊いたところ、やはり四阿高原方面のバスは存在しない、とのこと。仕方なくタクシーで行きましたが、山道を30分以上、かなりの料金でした。次に行く時は自家用車で行こうと思いました。
 
さて、ようやくたどり着くと、針葉樹の森に囲まれたコテージ風の小さな建物。エントランスには智恵子がデザインした『青鞜』創刊号の表紙を用いた大きなガラス絵。いい感じです。
 
光太郎顕彰活動をしている者である旨をお伝えすると、歓待していただきました。昨日も御紹介した折井美耶子氏はじめ、スタッフの方が細かく展示の説明をしてくださいました。らいてうの遺品、『青鞜』関連の資料の数々など、非常に興味深く拝見しました。今回入手された『青鞜』もこちらに収蔵されるのではないのでしょうか。
 
さらには、「私たちはこれからお昼ご飯なんですが、よろしかったらご一緒にどうぞ」と、ご馳走になってしまいました。秋と言うことで栗ご飯やら、郷土料理やら、非常にありがたくいただきました。
 
ここでしか手に入らない智恵子デザインの『青鞜』表紙絵をあしらったクリアファイル、一筆箋、それかららいてう関連の書籍を買い求め、その後は上田駅前に一泊。祖父母と伯父の墓参をし、別所温泉に浸かって帰りました。
 
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らいてうの家、交通の便は良くありませんが、非常にいいところです。すぐ近くにリゾートホテルもありますので、そちらを予約して行かれるのもいいかと思います。ぜひ足をお運び下さい。ただし、先述の通り11月中旬から4月中旬までは冬期間閉鎖。今は開いていません。また、東京本部の方でも、いろいろとイベント等を開催しています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月11日

昭和20年(1945)の今日、光太郎の弟、道利が防空壕に転落した事故が元で歿しま

今朝の朝日新聞に、以下の記事が載りました。智恵子が表紙の絵を描いた雑誌『青鞜』に関するものです。 

雑誌「青鞜」の原本49冊、都内の古書店で発見

朝日新聞デジタル 1月9日(水)18時22分配信
 
【杉原里美】女性運動家の平塚らいてう(1886~1971)が1911年に創刊した雑誌「青鞜(せいとう)」の原本49冊が東京都内の古書店で見つかった。原形をとどめた原本が大量に見つかったのは初めてという。

 「元始、女性は太陽であった」で有名な「青鞜」は、与謝野晶子や伊藤野枝など当時の女性文化人が参画した文芸誌。1916年までに計52冊刊行された。

 創刊号は1千部が発行され、最盛期は3千部にのぼったが、完全な形の原本はなく、ほかの号も隅を裁断して合本したり、穴が開いたりした原本しか見つかっていなかった。NPO法人「平塚らいてうの会」が調査したところ、女性関連の雑誌を収集する都内の古書店で発見し、購入した。2010年にあった古書の入札会に出品されていたものを同店が落札したという。
 
ネット配信のものは抜粋でして、記事そのものはこちらです。
 
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記事中にあるNPO法人「平塚らいてうの会」の折井美耶子氏からいただいた年賀状に、この件が書かれていました。「復刻とは違う味わいがあります」とのこと。その通りでしょう。
 
それにしても『青鞜』ほどの有名な雑誌でさえ、ほぼ完全な形で残っていたものが今まで見つかっていなかったというのは少し意外でした。
 
NPO法人「平塚らいてうの会」は、長野県上田市で「らいてうの家」という記念館を運営なさっています。当方、一昨年にお伺いし、大変お世話になりました。そのあたり、明日、書いてみようかなと思っています。
 
ちなみに朝日新聞、今回の記事の隣には与謝野晶子の、全集等未収録を含む短歌103首の直筆原稿の発見の記事が載っています。数日前には夏目漱石の全集等未収録作品の発見も報じられました。漱石、晶子レベルでもまだ埋もれていた作品が見つかるのですね。
 
光太郎に関しても、当方、最近また埋もれていた書簡をけっこうたくさん入手しました。いずれ「光太郎遺珠」にて公表いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】1月10日

昭和54年(1979)の今日、講談社から津村節子、高村規編『智恵子から光太郎へ』が講談社文庫ATの一冊として刊行されました。

智恵子晩年の紙絵写真50余葉、津村氏による智恵子評伝が掲載されています。
 
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12/30のこのブログで御紹介しました園 子音(その しおん)監督作品の映画「希望の国」の原作本です。 
 2012/9/19 園子音著 リトルモア 2012/9/19 定価1500円+税

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「原作」といっても、映画と同時進行で執筆されたもののようで、著者は園氏ご自身。いわゆる映画の「メイキング」的な内容と、シナリオ風に描かれた園氏の脳裏に展開する物語の舞台「長島県大葉町」での出来事が混在するいっぷう変わった構成になっています。
 
帯に印刷されたコピーから。
 
約何万人が死んだ、苦しんだ。 文学なら、映画なら、正確に数え上げろ! たった一つの何かを無視するな!
 
映画『希望の国』原作“半ドキュメンタリー”小説 鬼才、園子音監督のもとに、福島の思いが集まり、やがて、原発事故に揺れる家族の物語が生起する。
 
「皆が想像できる単純な物語を更に深めたい」決意した園子音は福島に何度も何度も通う。描くべき人々は、すべてその道中にいた。小野泰彦も、智恵子も、洋一も、いずみも、鈴木健も、めい子も、ミツルも、ヨーコも、犬のペギーも、役所の志村も、加藤も、警官も、自衛官も……。みんな、福島から生まれた。これは映画『希望の国』をつくる、園子音という映画監督の物語――
 
大谷直子さん演じる主人公の妻・智恵子。認知症となり、あどけない童女のようという設定ですが、高村智恵子がある種のモデルです。さらに書籍によれば園氏の母君が実際に認知症ということで、そのイメージも投影されているそうです。
 
作中、「原発」を「戦争」に置き換え、もはやどうにもな003らない状況に陥りながら戦争推進の詩を書き続けた光太郎を批判する一節があります。その点に関してはグウの音も出ませんが、同じ項で、ある別の詩人を、戦争推進に必死で抵抗したと紹介しています。確かにその詩人は、一般には権力におもねる詩文を書いていないという評価が定着しているようですが、櫻本富雄著『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)によれば、その詩人もちゃんと(?)戦争推進的な詩文を書いていますし、ある文学者大会で述べたそうした演説の内容もちゃんと残っています。もっとも光太郎のように積極的であったかは何とも言えませんが。
 
話がそれますが、ご寛恕の程。一部の文学者に関しては、戦時中に書かれた戦争推進的な内容の作品を抹殺し、全集等にもあえて収録しない、という風潮があります。それが当人の意志であったり、没後であれば熱心なファンの仕業(とあえて表現します)であったりします。結果、「誰々は戦争推進の作品を一切書いていない。すばらしい」ということになっているのです。それでいいのでしょうか?
 
我々光太郎顕彰者は、そうした方針は採らず、たとえとんでもない内容のものであっても無視せず、すべてを明らかにしようとしております。過ちは過ちとして隠蔽したりせず、それをどのようにカバーしていったのか、そういう点を明らかにすることこそ重要なのではないのでしょうか。
 
逆に戦時中の詩文をことさらに取り上げ、「これぞ大和魂の真骨頂」と賛美する愚か者がいるのにも困りものですが……。
 
【今日は何の日・光太郎】1月9日

昭和27年(1952)の今日、光太郎の住む花巻郊外、太田村山口の山小屋で、マイナス10.4℃を記録しました。
 
もっと寒い日もあったようですが、とりあえず、「今日」の出来事、ということで……。

近々放映されるテレビ番組の情報です。 

BSフジ・181 2013年1月11日(金) 22時00分~22時55分 
 
小野寺昭が、秋と冬の二つの季節を感じられる徳本峠へ!そこには奇跡の絶景が…。

番組内容
徳本峠と書いて、とくごうとうげ、と読む。そう答えられる人は、相応の登山のキャリアがある方かもしれない。この峠は標高2135メートル、北アルプスの南部、百名山の穂高連峰を望む稜線の途中にあり、まさに知る人ぞ知るといった山深き場所。だが車道が開通する以前は、日本有数の観光名所・上高地へ至るメインルートでもあった。この峠を通過するルートは「徳本峠越え」と呼ばれ、かつては芥川龍之介、高村光太郎・智恵子夫妻など、多くの著名人も足跡を印していた。そして何よりも、明治中期、ウオルター・ウェストン、上條嘉門次らによる近代登山の幕開けを告げた、歴史的な道であったことを忘れてはならない。そうした背景から登山者の間では、“一度は登っておきたい道"とさえ言われている。今回、その古典的ルートをゆくのは、番組ナレーター・小野寺昭。しかし上高地までは、山麓の宿場からなんと20キロに及ぶ長き道。そこで小野寺は、自著のイラストも手掛け、登山家でもある画家の中村みつをさんにパートナーを依頼。さらにこの道を知り尽くした地元ガイド石塚聡実氏も加わり、このロングルートにチャレンジ。  季節は、登山口が秋、峠が冬という厳しい時期。想像以上の苦しい登山となりながらも、アルプスの黎明期を彩った人々の息使いを感じながら2日間を歩きとおした。 そこで出会ったのは、赤と白、二つの季節がひとつのフレームに同居する、この時期だけの奇跡の絶景だった…。

出演者 ナレーター:小野寺昭

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どの程度、光太郎・智恵子に触れるのか、何とも言えませんが……。光太郎・智恵子と上高地についても、いずれ機会を見つけてこのブログで書こうと思っています。
 
それから、有料のCS放送で3件。すべて昨年にも放映されたものですが、またオンエアがあります。

2013/01/11(金)18:00~20:15 【衛星劇場】 松竹映画「智恵子抄」
2013/01/13(日)4:00~5:00 【フジテレビONE】もっと温泉に行こう! #38「花巻編」
2013/01/13(日)8:00~8:30 【旅チャンネル】山崎まゆみの混浴秘湯めぐり Part2 #1 青森・酸ヶ湯温泉
 
松竹の「智恵子抄」は暮れに集中的に何回かオンエアされましたが、とりあえず1/11で一旦途切れるようです。
 
「もっと温泉に行こう!」と「山崎まゆみの……」は、昨年、たまたまスカパー!無料キャンペーンの日に放送されたので、当方、見ることができました。けっこう繰り返し何度も放映されていますが、通常は有料で、契約していないと見られません。
 
【今日は何の日・光太郎】1月8日

昭和29年(1954)の今日、赤坂の料亭・山の茶屋で佐藤春夫、田村剛、谷口吉郎、安部能成と対談「自然の中の芸術」を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像をめぐる座談会で、雑誌初出は同年3月1日発行の『心』第7巻第3号。文治堂書店刊行の『高村光太郎資料』第3巻に収められています。
 
『高村光太郎全集』では1対1の対談は網羅されていますが、3人以上での座談は収録されていません。文治堂さんの『高村光太郎資料』第3巻および当方編集の「光太郎遺珠」がそれを補っています。

NHK大河ドラマ「八重の桜」がスタートしました。綾瀬はるかさん演じる福島・会津藩士の娘、山本八重(後の新島八重)が主人公です。
 
1回目のオンエアは、おもに八重の少女時代の話でしたが、すでに芯の強い、ある意味頑固な、しかし柔軟に新しい物に興味を示す性格が描かれています。生まれ育った地域は少し離れています(八重は会津、智恵子は中通り)が、同じ福島県の女性ということで、智恵子にも通じる一面を感じます。
 
当方、幕末もの、特に新選組やらの敗者の視点から描かれたものは大好きですし、戊辰戦争では二本松藩も関わってきますから、一年間観つづけたいと思っています。
 
昨年のこのブログでちらっと紹介しましたが、福島の出版社・歴史春秋社刊行の『ふくしま女の時代』という書籍があります。近代福島出身の女性19人の簡潔な評伝が載っており、智恵子、そして八重も扱われています。改めて八重の項を読んでみました。大河ドラマのネタバレになるので詳しい事は書きませんが、まさに波瀾万丈の生涯です。智恵子も智恵子で波瀾万丈ですが、それ以上ですね。
 
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他の17名もそれぞれに凄い生き方をした女性達です。目次から抜粋します。「日本で最初の女子留学生-鹿鳴館の名花- 大山捨松」、「世界を舞台に歌一筋に生きた名プリマ・ドンナ 関屋敏子」、「困窮のなかから名作『洟をたらした神』を生み出した 吉野せい」、「中国人留学生の母とよばれる 服部マス」、「貧困者の救済と教育に身を捧げた行動の人 瓜生岩子」……。
 
福島には何かしらこういうスーパーウーマンの生まれる土壌みたいなものがあるのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】1月7日

光太郎、昭和22年(1947)の今日、自己の戦争責任とそれまでの生涯を振り返る20篇の連作詩「暗愚小伝」のタイトルを思いつきました。
 
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「暗愚小伝」についてはまた稿を改めて詳しく書こうかなと思っています。

昨日の朝日新聞「天声人語」欄に、光太郎の名が。ありがたいことです。
 
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元日の「西日本新聞」でもそうでしたが、やはりこの季節、「旬」の詩人というイメージが定着しているのでしょう。
 
同じことを以前にも書いた記憶がありますが、「高村光太郎? 誰、それ?」ということにならないようにしていきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月6日

昭和56年(1981)の今日、千葉県立美術館で企画展「高村光太郎、その芸術」が開幕しました。
 
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この項目、時には光太郎没後の事項も採用します。何せ365件のエピソードを見つけなければいけないもので……。

【今日は何の日・光太郎】1月5日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで中西利雄夫人・富江にこの年初めての買い物を頼みました。


頼んだのはゴボウ、人参、玉ネギ、ジャガイモ、トイレットペーパーでした。
 
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昭和27年(1952)から同31年(1956)まで、光太郎がその最晩年を過ごしたのは、東京中野に今も残る水彩画家・故中西利雄のアトリエでした。このアトリエを借り受けた光太郎は、花巻郊外の山小屋から上京、十和田湖畔の裸婦像をここで制作しました。
 
光太郎は、裸婦像完成後は再び山に帰るつもりでいましたが、健康状態がそれを許しません。昭和30年(1955)には赤坂山王病院に入院した時期もありましたし、それ以外の時もベッドで過ごすことが多くなります。それでも頼まれれば原稿や書を書き、死の数日前まで日記に書の展覧会を開きたい旨の記述を残しています。
 
そんな光太郎を支えたのが、故・草野心平や北川太一先生ら「年下の友人達」。心平は出版社に掛け合い、印税を前借りして電気冷蔵庫の購入に奔走したりしました。
 
また、中西家の人々も、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれました。中西利雄ご子息の利一郎氏は今でも連翹忌に御参加いただいており、その頃の思い出を語ってくださったことがあります。
 
日常の必要な物の購入は、主に中西夫人に託されました。その際に光太郎が書いた膨大なメモが、現在も中西家に残っています。一昨年、群馬県立土屋文明記念館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」に出品された他、利一郎氏の許可を得て、当方により一昨年から『高村光太郎全集』補遺作品集「光太郎遺珠」にその全貌を掲載しています。量が多いので、一昨年は昭和29年(1954)のもの、昨年は昭和30年(1955)のもの、今年4月発行予定のものには日付が入っていない時期不明のものを載せ、それで完結する予定です。
 
便箋や包装紙の裏等を利用したもので、時に図入りで詳細な指示等も書かれています。当時の光太郎の嗜好、需要や健康状態などの細かな生活の断面が垣間見える貴重な資料です。
 
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意外と光太郎は肉食系だったようで、「ソテー用豚肉」とか「ビフテキ用牛肉」「ベイコン」などの文字が目立ちます。また、面白いなと思つたのは、現在でも販売されていたり、当方が子供の頃こんなものがあったっけな、と懐かしく思えたりする商品名が書かれていることです。
 
「サリドン」「ビオフェルミン」「龍角散」「浅田固形アメ」「フジヤプラムケーキ」「あけぼの鮭かん」「モノゲン」「ライオン歯磨チューブ入り」「ミツカン酢」「味の素」「ヤマサ醤油」「アリナミン錠」「小岩井バター」「ミューズ石鹸」「明治オレンジジユース」「渦巻蚊遣二箱(金鳥)」……。

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こういうものを読むと、光太郎、歴史上の人物という感覚ではなく、非常に身近に感じます。

今年も年賀状をたくさんいただきました。ありがとうございます。特に昨年から肩書きが変わったもので、昨年までいただいていなかった方々から新たにいただくようになり、感謝しております。
 
当方からの年賀状は、ここ数年、干支と光太郎がらみの画像を使用しています。初めてそうしたのは3年前。寅年だったので、光太郎の塑像「虎の首」(明治38年=1905)の画像を使いました。一昨年の卯年は同じく光太郎の木彫「兎」(明治32年=1899)、昨年の辰年は光雲作の「沙竭羅(さがら)竜王像」(明治36年=1903)。こちらは現在でも浅草寺で見ることが出来ます。
 
そして今年は巳年ということで、蛇に関わるものを探したのですがなかなか見つからず、結局、明治43年(1910)の『スバル』2年2号に掲載された与謝野晶子を描いた戯画「SALAMANDRA」を使いました。古代エジプトの女神風の晶子が口から蛇を吹き出しています。画像は1/1のブログに載せました。
 
「年賀状」。一般に広く行われるようになったのは、やはり郵便制度の普及による明治以降のようですが、古くは平安時代にすでに貴族階級の間に行われていたとのこと。大手町の逓信総合博物館さんのページです。
 
ちなみに同館には光太郎の葉書も所蔵されており、以前に調査させていただきました。
 
さて、光太郎が書いた年賀状。『高村光太郎全集』や「光太郎遺珠」に何通か掲載されていますし、当方、実物も何度か拝見しました。
 
下の画像は『高村光太郎全集』第21巻に掲載されている、大正4年に鋳金家の川崎安に宛てたものです。
 
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はじめは木版かと思っていましたが、『スバル』の仲間だった木下杢太郎に宛てた同じデザインの物を神奈川近代文学館で拝見したところ、版画ではなく墨書でした。文字の周りを墨で黒く塗りつぶす「籠書き」と言われる筆法です。短歌を書いた短冊などでもこの手法を用いた物が残っています。光太郎の並々ならぬ造形感覚が見て取れますね。
 
その後、同じデザインの年賀状が続々見つかりました。宛先は森鷗外、前田晃(編集者)、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)。木下宛も含め、それらはすべて明治44年(1911)のものです。そこで、『全集』所収の川崎安宛も消印の見誤りで、やはり明治44年のものなのではないかと思っております。
 
それにしても、100年以上前の年賀状がしっかり残っている、というのも考えてみればすごい話です。よくぞ保存しておいてくれた、と思います。
 
さて、当方からの年賀状。来年以降も干支と光太郎がらみで行きたいと思っています。お楽しみに。
 
【今日は何の日・光太郎】1月4日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエに詩人の宮崎稔親子が年始の挨拶に来ました。

宮崎の妻・春子は智恵子の姪。看護婦の資格を持ち、品川のゼームス坂病院で智恵子の身の回りの世話をし、その最期を看取りました。その後、光太郎が間に入って宮崎と結婚しました。

「満目蕭條」という語で、冬の厳しい美と、自分の生き方を重ねた光太郎。
 
一昨日(元日)の西日本新聞さんにはこんなコラムが載りました。
 
冬に題を求めた詩を高村光太郎はいくつも書いた。〈きつぱりと冬011が来た〉で始まる「冬が来た」はよく知られている。そのなかで〈冬よ/僕に来い、僕に来い〉とも書いている
▼「冬が来る」と題した詩もある。〈冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る〉で始まる。「冬の奴(やつ)」という詩にはこんな一節も。〈ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。/おれの面皮をはぐ。〉
▼木々を裸にし、万物に生地をさらさせる冬が、光太郎は好きだった。人の心の風景からも飾りものをはいでいく決然とした寒さを愛した。精神を研がせ、鍛えてくれる厳しさを友とした
▼今冬の日本列島は12月から震えた。冬が来るのも、寒気が厳しさを増すのも、早かった。冬将軍に抱かれて迎える新年は気分がいっそう締まる。暖房の効いた家から抜け出し、澄んだ冷気に洗われながら光太郎の詩を口ずさみたくなる
▼空の下で身一点に感じることができれば万事において文句はない、と書いた詩人もいる。寒空の下で身一点に感じるものがあれば、正月と向き合う心の背筋が張る。モノがあふれる現代では、そぎ落としたい精神のぜい肉を誰しも少なからずまとっている
▼光太郎は「冬の言葉」と題した詩で〈冬が又(また)来て天と地とを清楚(せいそ)にする。〉ともつづった。詩人に倣って構えていえば、新年がまた来て天と地とを清楚にする。そして、人には皆、正月はきっぱりとやってくる。
=2013/01/01付 西日本新聞朝刊=
 
「人には皆、正月はきっぱりとやってくる。」その通りですね。皆さんはどのようなお正月をお過ごしでしょうか。テレビでは被災地の正月の風景がよく流れています。
 
あらためて、今年一年が良き年であることを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月3日

明治34年(1901)の今日、鎌倉で与謝野鉄幹率いる新詩社の集いに参加。由比ヶ浜で焚火をして20世紀の迎え火としました。

【今日は何の日・光太郎】1月2日010

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外の山小屋で書き初め。「清浄光明」「平等施一切」「満目蕭條」などの言葉を書きました。
 
光太郎は明治16年(1883)の生まれ。当然のように、現代の我々よりも筆と硯に親しんだ世代です。
 
特に戦後、花巻郊外大田村山口の山小屋に籠もってからは彫刻を封印し、書の世界にその造型美の表現者としてのエネルギーを傾けました。
 
日記によれば1月2日の書き初めは恒例の習慣となったようです。その他、折に触れて書いた書は、今も花巻近辺にたくさん残っています。
 
「満目蕭條」。「見渡す限り、物さびしいさま」という意味の四字熟語ですが、光太郎はマイナスのイメージで捉えません。
 
昭和7年に書かれた「冬二題」という散文(『高村光太郎全集』第9巻)には、「満目蕭條の美」という一節があります。
 
 冬の季節ほど私に底知れぬ力と、光をつつんだ美しさを感じさせるものはない。満目蕭條といふ形容詞が昔からよく冬の風景を前にして使はれるが、私はその満目蕭條たる風景にこそ実にいきいきした生活力を感じ、心がうたれ、はげまされ、限りない自然の美を見る。私はまだ零下四〇度などといふ極寒の地を踏んだ経験がなく、パミイル高原のやうな塩白み果てた展望を見た経験がないから、冬の季節の究極感を語る資格を持たないやうにも思ふが、又考へると、さういふ強力な冬の姿に当面したら、なほさら平常の感懐を倍加するのではあるまいかといふやうな気がする。木枯の吹きすさぶ山麓の曠野を行く時、たちまち私の心を満たして来るのは、その静まりかへつた大地のあたたかい厚みの感じと、洗ひつくしたやうな風物の限りないきれいさと、空間に充満するものの濃厚な密度の美とである。風雪の為すがままにまかせて、しかも必然の理法にたがはず、内から営々と仕事してゐる大地の底知れぬ力にあふと、私の心はどんな時にもふるひ立つ。百の説法を聴くよりも私の心は勇気をとりかへす。自然のやうに、と思はずにゐられなくなる。葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果実。実に巧妙に微妙に縦横に配置せられた自然の風物。落ちるのは落ち、用意せられるものは用意せられて、何等のまぎれ無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美の中での美であらう。彼らは香水を持たない。ウヰンクしない。見かけの最低を示して当然の事としてゐる。私はいつも最も突き進んだ芸術の究極境は此の冬の美にある事を心ひそかに感じてゐる。満目蕭條たる芸術を生み得るやうになるまで人間が進み得るかどうか、それはわからない。此は所詮人間自身の審美の鍛錬に待つ外はないにきまつてゐる。ただ物寂びた芸術、ただ渋い芸術、ただ厳しい芸術、さういふ程度の階段に位するものなら求めるに難くない。古来、真に冬たり得た芸術が一体何処にあるだらう。
 
冬の厳しさに、自己の進むべき芸術精進の道の厳しさを重ね合わせています。こういうところも光太郎の魅力の一つだと思います。

平成25年、2013年となりました。新年明けましておめでとうございます。
 
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今年も当ブログをよろしくお願いいたします。
 
今年から、試みとして、「今日は何の日・光太郎」という項を設けることにしました。NHKラジオ第一で、朝、現在も放送されているのでしょうか。歴史上の「その日」にあった出来事をいくつか紹介するコーナーがあって、何度かカーラジオで聞きました。それをパクらせていただき、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介していきたいと思います。
 
では早速。
 
【今日は何の日・光太郎】1月1日

昭和31年(1956)の今日、光太郎最後の詩三編が発表されました。『中部日本新聞』等に「開びゃく以来の新年」、NHKの放送で「お正月の不思議」、そして『読売新聞』に「生命の大河」
の三編です。
 
こんな調子でとりあえず、365日、続けてみたいと思います。ブログの内容はこれまで通り、新着情報の紹介など、行き当たりばったりに考え、必ずしも【今日は何の日・光太郎】と関係なく進めていきます。
 
ただ、折角ですので今日は最後の詩・三編の中から一つ紹介しましょう。
 
  開びゃく以来の新年010
 
一年の目方がひどく重く身にこたえ、
一年の味がひどく辛く舌にしみる。
原子力解放の魔術が
重いつづらをあけたように
人類を戸惑いさせてゆるさない。
世界平和の鳩がぽつぽつとなき、
人類破滅の鎌がざくざくひびく。
横目縦鼻の同じ人間さまが
まさかと思うが分らない。
度胸を定めてとそを祝おう。
重いか軽いか、ともかくも、
開びゃく以来の新年なんだ。
 
というわけで、今年もよろしくお願いいたします!

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