2012年12月

大晦日となりました。本年もいろいろとお世話になり、ありがとうございました。
 
思えば4月に「連翹忌運営委員会代表」という肩書を拝命、光太郎顕彰に専念することとなり、北川太一先生から名跡を引き付いた冊子「光太郎資料」を2回刊行するかたわら、各地で行われたイベント等にお邪魔いたしました。花巻、仙台、石巻、女川、二本松、川内村と、やはり東北が多かったのですが、その他群馬、長野、和歌山、福岡にも。東京や横浜は調査もあったため数えきれず……。
 
おそらく来年もそうなると思います。ありがたいことにすでに講師依頼なども数件舞い込んできています(日程さえ合えば何処へなりとも参上いたします)。
 
そうした中で、多くの方から励ましのお言葉、「光太郎資料」送付に対する過分なる御礼の御手紙等いただきました。また、各地でのイベントの御案内、新しく世に出た書籍・雑誌等の御恵贈にもあずかりました。ありがとうございます。
 
それ以外にも古書店の目録やら、註文した書籍などもあり、そんなこんなで、当方の自宅兼事務所には郵便物が多く届きます(郵便屋さんには『この家は一体何なんだ?』と思われているかも知れません)。最近は宅配業者さんのメール便なども多いのですが、やはり郵便が主流です。
 
郵便といえば切手。皆様方から届いた郵便物に貼られていた切手を切り取り、使用済み切手を収集している団体-公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)様に寄附しました。以前は個人名で送っていたのですが、今回、「高村光太郎連翹忌運営委員会」名義で送りました。すると先週、その団体から御礼状が届きましたので、ご報告いたします。
 
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こちらでは使用済み切手を集めて換金、日本人保健医療スタッフをアジア・アフリカや東日本大震災被災地に派遣する一助としています。皆様から寄せられた郵便物に貼られていた切手が、こういうところに役立っています。
 
今月分の寄附団体として、JOCS様のサイトにて高村光太郎連翹忌運営委員会も名前を載せていただきました。

今後もこれは継続していこうと思っております。
 
今日も早速、宮城の荒井真澄様より来春行われるピアノコンサート・墨画展のご案内をいただきました。かわいらしい切手が貼ってあり、次回寄付に向けての第1号です。
 
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ピアノコンサート・墨画展は、5月のこのブログで御紹介した「シューマンと智恵子抄」のお三方(朗読・荒井真澄さん/ピアノ・齋藤卓子さん/墨画・一関恵美さん)のユニットによるものです。また改めて御紹介します。
 
さて、ブログの方ですが、5月に開設以来、243日間、今日まで1日も休むことなく更新し続けました。閲覧いただきありがとうございました(やはり鉄道ネタの日は閲覧数が多いということがわかりました)。行き当たりばったりで、内容の薄い時も多いのですが、新着情報の紹介という意味ではそれなりに機能したかと思います。来年も休まず更新していきますので、よろしくお願いいたします。

今日は新宿に出かけてきました。映画鑑賞のためです。
 
希望の国」。園 子温(その しおん)監督作品。大手配給会社のものではないので、当方生活圏では上映していません。
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物語の舞台は、「東日本大震災から数年後」の「長島県大葉町」という架空の町です。M8.3の大地震に見舞われ、津波による被害、そして福島の教訓が生かされることなく、再び起こった稼働中の原発のメルトダウン。
 
夏八木勲さん演じる酪農を営む主人公・小野泰彦の暮らす家の敷地内に、「半径20㎞」のラインが引かれ、ラインの内側だった隣家の人達は半ば強制的に避難させられます。主人公の家屋部分は「半径20㎞」外なので、当初は放っておかれたものの、やがて届く「強制退避命令」、牛たちの「強制殺処分命令」。息子夫婦は避難させたものの、思い出深い家を捨てられず、以前から認知症だった妻・智恵子は環境の変化に弱いこともあり、小野は智恵子ともども退去せず残ります。しかし、避難を勧めるため家にやってくる役場職員に申し訳ないという思いも。そして小野の下した決断は……。




今すぐにでも、日本のどこかで起こりうる話です。日本中の原発のほとんどが運転停止中ですが、運転停止であって廃炉ではありません。各原発の核燃料が撤去されたわけではなく、それらが漏れ出さないという保証はないのです。
 
パンフレットには「すべて福島で現実に起こっていることに基づいて『希望の国』は制作しました」とあります。ロケはその福島や、津波に襲われた町のシーンでは、実際に津波の被害の大きかった石巻が使われていました。
 
あどけない童女のような、大谷直子さん演じる妻の「智恵子」は、「高村智恵子」をイメージしています。ラスト近く、立ち入り禁止区域内にある夫婦の思い出の場所で、雪の中、盆踊りを踊るシーンは、九十九里浜で千鳥と遊んでいた「高村智恵子」とオーバーラップします。
 
「高村智恵子」はまがりなりにも夫・光太郎に最期を看取られ、病院のベッドでその一生を終えましたが、映画の「智恵子」は……。
 
大手配給会社の作品ではなく、上映館が限られていますが、ぜひとも御覧いただきたい映画です。くり返しますが、今すぐにでも、日本のどこかで起こりうる話です。他人事ととらえてほしくないものです。

昨日のこのブログ、普段より閲覧数が明らかに多かったのですが、理由がよくわかりません。
 
もしかしたら鉄道ネタだったので、いわゆる「鉄ちゃん」の皆さんが検索ワード的な部分からご来訪下さったのかな、と思い、今日は二匹目のドジョウを狙ってみます。
 
先月くらいでしたか、こんなものを手に入れました。
 
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古い絵葉書です。写っているのは花巻電鉄。光太郎がよく利用した路線です。
 
七年間の厳しい山小屋生活での一番の妙薬は、ある意味山の出で湯でした。花巻は温泉の宝庫です。光太郎は昭和20年(1945)6月、肺炎が恢復した後に西鉛温泉で一週間湯治したのを皮切りに、鉛温泉、大沢温泉、志戸平温泉、花巻温泉、台温泉など、花巻温泉郷と呼ばれる数々の温泉によく足を運んでいました。
 
そうした際や、花巻市街に用事があって出かける際などに使われたのが花巻電鉄です。花巻電鉄は花巻市街から花巻温泉方面への鉄道線(花巻温泉線)と、西鉛温泉行きの軌道線(鉛線)の二系統がありました。
 
山小屋のあった山口地区から最も近かった駅(といっても4㌔㍍ほどありました)が、軌道線の二ツ堰駅。ここから光太郎曰く「夢の話みたいな可愛らしい電車」(「花巻温泉」昭和三十一年 『全集』第十巻)に乗りました。実際、軌道線の車両は、なんと幅1㍍60㌢しかなかったそうです。
 
当方、「鉄ちゃん」ではありませんので、詳しいことはよくわかりませんが、絵葉書に写っている車両は「デハ3」というタイプで、現在、JR花巻駅近くに静態保存されています。見るからに縦長で、変わった形ですね。そこで「馬面電車」「ハーモニカ電車」などと呼ばれて親しまれていたそうです。
 
場所は大沢温泉。当方が花巻に行く際に定宿にしているところで、光太郎もよく宿泊しました。鉛線の駅があったとのことです。
 
そうそう、花巻電鉄といえば、こんなものも手に入っています。
 
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交通公社などが作成した正式な物ではなく、盛岡の旅館が配っていたもののようですが、東北本線、大船渡線など岩手県内を走っていた路線のポケット版時刻表です。「昭和24年9月15日改訂」とあり、もろに光太郎が太田村山口に住んでいた時期のものです。
 
最後のあたりに花巻電鉄も載っています。
 
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意外と本数が多いのに驚きました。花巻電鉄は昭和44年(1969)には廃線となり、現在は路線バスとなっていますが、花巻高村記念会の高橋氏に聞いた話では、高村山荘行き路線が廃止になるとのこと。ある意味、淋しい話ですね。
 
当方生活圏の千葉県銚子市にはわりと有名なローカル線、銚子電鉄が走っています。経営危機をいろいろな奇抜なアイディアで乗り越え、頑張っています。当方、「鉄ちゃん」ではありませんが、鉄道の旅は大好きです。がんばってほしいものです。
 
さて、本日も鉄道ネタ。閲覧数がどうなるか楽しみです(笑)。

最近、こんなものを手に入れました。
 
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「鉄道荷札」。宅配便などのなかった時代、鉄道で荷物を発送する際につけたタグです。年配の方にはなつかしいものかもしれません。当方は、子供の頃、こんなのがあったっけなとうっすらとした記憶がある程度ですが。
 
太田村山口の住所になっていますので、戦後昭和20年(1945)から27年(1952)までのものです。
 
宛先の「長沼重隆」は、英文学者・翻訳家。アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの研究、翻訳などを行っていました。同じくホイットマンの翻訳を手がけた光太郎とは戦前から交流があり、光太郎は長沼の訳書の紹介文などを書いています。また、戦後の日記や書簡に長沼の名が散見されますし、長沼宛の書簡も何通か確認できています。
 
ここまではこの荷札を手に入れる前から、当方の脳内データベースにありました。そこで改めて長沼について調べてみると、昭和26年(1951)10月27日付の光太郎からのこんな葉書が『高村光太郎全集』第15巻に載っていました。
 
おてがみいただきました、 長い間拝借してゐたので、ご返却いたさうと思つてゐながら、ついのびのびになつてゐました、 ヰロリの煙がひどいため、大分くすぶりましてまことに申しわけございませんがおゆるし下さい。拙訳「自選日記」の貴下蔵本もその前拝借いたし居りますので、これも同封御返却申上げます。ひどい古本になつてすみません。 ここは書留小包の発送がむつかしいので近日花巻にまゐつて発送の事御諒承下さい。
 
これに先立つ昭和21年の書簡では、ホイットマンの原著と、光太郎訳の「自選日記」(大正10年=1921刊)を長沼から送られて借りた旨の記述があり、「長い間拝借していた」というのはこれらを指すと思われます。光太郎、自分の出版物を借りていますが、おそらく空襲で焼けてしまい、手元になかったと推定されます。
 
そして興味深いのは、上記はがきの宛先住所が、荷札に書かれた「新潟市医学町二CIE図書館内」と同一であること。その前年に送られた長沼宛の葉書では同じ新潟でも別の住所になっています。となると、上記はがきで返却のため「花巻にまゐつて発送」と書かれている、まさにその際に使われたのが、この鉄道荷札なのではないかと思われます。荷札に年月日の記載がないので確証はありませんが、そうそう何度も鉄道便を使っていないと思います。
 
ちなみに「CIE図書館」は、戦後、GHQ幕僚部の一つ、民間情報教育局が全国23カ所に作らせた開架式の図書館です。
 
このように、パズルのピースがはまっていくような感覚。これがこの手の研究の一つの醍醐味ですね。ただ、まだ不確定要素が多いので、もう少し調べてみます。

昨日の朝日新聞社会面に「祈 新春 被災地より、一足お先に」という記事が大きく載りました。曰く、
 
東日本大震災から2度目の年越しがやってくる。震災の年だった1年前は出すのを控えた年賀状を、この年の瀬はしたためる人たちがいる。被災地から寄せられた年賀状を紹介する。
 
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11月の草野心平「かえる忌」でお目にかかった福島川内村の遠藤村長のものも載っています。
 
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また、詩人の和合亮一氏のものも。和合氏とは震災前に一度、二本松で行われた智恵子命日の集い「レモン忌」でご一緒させていただきました。震災後は氏のツイッターで発信された詩がかなり取り上げられましたね。
 
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光太郎の「道程」へのオマージュにもなっています。
 
その他、女川、二本松など光太郎・智恵子ゆかりの地からのものが。
 
先日も書きましたが、もうすぐ「一昨年の大震災」と書かねばならなくなります。今回の衆議院選挙では争点になりませんでしたが、被災地復興、喫緊の課題として新政権には取り組んでほしいものです。

今日はモンデンモモさんプロデュースのミュージカルを観に、杉並公会堂に行って参りました。演目はドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの「モモ」。「時間」に追われる忙しい日々の中で、心の余裕を失ってしまった近代人を批判する内容です。
 
今年から光太郎顕彰活動に専念するようになり、「時間」に追い回されることはあまりなくなりましたが、かつて、毎日4時半に起床し、日の出前に出勤していた当時を思うと、あの頃はああだったんだなあ、とつくづく思いました。
 
杉並は午後からで、午前中は千駄木に寄り道しました。お目当ては、先月、リニューアルオープンした文京区立森鷗外記念館です。
 
東京メトロ千代田線の千駄木駅で降りると団子坂です。
 
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この坂を登り切って、右に曲がると光太郎のアトリエがありました。曲がらずに直進すると道の左側に森鷗外記念館です。ここはかつて鷗外の住んでいた「観潮楼」のあった場所。光太郎のアトリエとは彼我の距離です。光太郎アトリエ同様、昭和20年に空襲で焼失してしまいました。
 
戦後、焼け跡は児童公園となりましたが、昭和37年(1962)には区立本郷図書館、平成18年(2006)からは鷗外記念室となりました。そして今年、鷗外生誕150年を記念して建物を建て替え、先月、森鷗外記念館としてリニューアルオープンしたというわけです。
 
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地上二階、地下一階で、地下が展示スペースとなっており、鷗外の一生をコンパクトに紹介するようになっていました。タッチパネルを使ったモニターなど、「ほう」と思わせるものがあります。館内撮影禁止なので、画像をお見せできないのが残念です。
 
光太郎と鷗外、単にご近所というだけでなく、浅からぬ縁があります。光太郎在学中の東京美術学校(現・東京芸術大学)で鷗外が教鞭を執っていた時期もありますし、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』に光太郎はたびたび寄稿していました。その他にもいろいろと。
 
しかし、どうも光太郎の方で鷗外を敬遠していたらしいのです。忌み嫌っていたわけではないのですが、文字通り「敬して遠ざける」という感じでした。そのあたり、いずれまた書きます。
 
そのためか、期待していたほど光太郎に関わる資料の展示がありませんでした。だいたい、確認されている光太郎から鷗外宛の書簡も5通だけですし(うち4通は同館所蔵)、内容的にも観潮楼での歌会への誘いを断るものなどです(歌会に積極的だった石川啄木などは展示で大きく取り上げられていました)。
 
しかし、光太郎と鷗外、いろいろと面白いエピソードがありますので、先述の通り、いずれ書きますのでよろしく。

当方の住む千葉県は、比較的温暖な地です。そんなわけで、北国の人には怒られてしまうかもしれませんが、今朝の寒さは尋常ではありませんでした。清冽な空気はすがすがしいのですが……。
 
光太郎は生涯、冬を愛した詩人でした。題名だけとっても、それと判る詩がたくさんあります。
 
「冬の詩」(一昨年でしたか、黒木メイサさん、松田龍平さん出演のユニクロのCMに使われていましたね)、「冬が来る」、「冬の朝のめざめ」、「冬が来た」、「冬の子供」、「冬の送別」、「鮮明な冬」、「冬の言葉」、「冬」、「雪の午後」、「深夜の雪」、「師走十日」、「吹雪の夜の独白」、「雪白く積めり」、「氷上戯技」、「堅冰いたる」……。
 
光太郎はあちこちで「夏の暑さには弱く、冬になると生き返る」的な発言をしていますし、年譜を概観すると、実際に夏場には文筆作品の発表が少なく、秋から冬に多いという傾向があります。ちゃんと統計を取ったわけではなく、ざっと見てのことですが(研究テーマに困っている方、こんなのはいかがですか?)。
 
さて、「冬」の詩を一つ。昭和2年(1927)、光太郎数え45歳の作品です。
 
  冬の奴
 
 冬の奴がかあんと響く嚏をすると、
 思はず誰でもはつとして、
 海の潮まで一度に透きとほる。
 なるほど冬の奴はにべもない顔をして、
 がらん洞な空のまん中へぎりぎりと、002
 狐色のゼムマイをまき上げる。
 冬の奴はしろじろとした算術の究理で、
 魂の弱さを追求し、追及し、
 どうにもかうにもならなくさせる。
 何気なく朝の新聞を読んでゐても、
 凍る爪さきに感ずるものは
 冬の奴の決心だ。
 ゆうべまでの心の風景なんか、
 てんで、皺くちやな蜃気楼。
 ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。
 おれの面皮をはぐ。
 おれの身を棄てさせる。
 おれを粉粉にして雪でうづめる。
 冬の奴は、それから立てといふ。
 
 おれは、ようしと思ふ。
 
さて、寒さにめげず、「ようし」と思って活動しましょうか!
 

昨日に引き続き、「旬」の光太郎詩を。
 
   クリスマスの夜
 
 わたしはマントにくるまつて002
 冬の夜の郊外の空気に身うちを洗ひ
 今日生まれたといふ人の事を心に描いて
 思はず胸を張つてみぶるひした
 
 ――彼の誕生を喜び感謝する者がここにも居る
 彼こそは根源の力、萬軍の後盾
 彼はきびしいが又やさしい
 しののめの様な女性のほのかな心が匂ひ
 およそ男らしい気稟がそびえる
 此世で一番大切なものを一番むきに求めた人
 人間の弱さを知りぬいてゐた人
 人間の強くなり得る道を知つてゐた人
 彼は自分のからだでその道を示した
 天の火、彼
 
 ――彼の言葉は痛いところに皆触れる
 けれども人に寛濶な自由と天真とを得させる
 おのれを損ねずに伸びさせる
 彼は今でもそこらに居るが
 いつでもまぶしい程初めてだ
 
 ――多くの誘惑にあひながら私も
 おのれの性来を洗つて来た
 今彼を思ふのは力である
 この土性骨を太らせよう
 飽くまで泥にまみれた道に立たう
 今でも此世には十字架が待つてゐる
 それを避けるものは死ぬ
 わたしも行かう
 彼の誕生を喜び感謝するものがここにも居る
 
 暗の夜路を出はづれると
 ぱつと明るい灯(ひ)がさしてもう停車場
 急に陽気な町のざわめきが四方に起り
 家へ帰つてねる事を考へてゐる無邪気な人達の中へ
 勢のいい電車がお伽話の国からいち早く割り込んで来た
 
大正10年(1921)の作。『高村光太郎全集』第1巻に収録されています。品川の蛇窪に住んでいた親友・水野葉舟の家で催されたクリスマスの帰途の心象です。光太郎がイエス・キリストをどう捉えていたかがよくわかりますね。
 
しかし、光太郎はキリスト教徒ではありませんでした。
 
 宗教のことになると僕は大きなことはいえないが、それでも学生時代、思案余つて植村正久先生の門を叩いたことがある。当時僕はどうしてもクリスチヤンになることが出来なかつた。即ちキリスト教に入れなかつた。友達はすらすらと入つて、心の安心を得て勉強しているのに、僕は生来下根の性なのか、いつまでたつても、入ることが出来ない。悶々としている。そこで僕は植村先生の家を訪ねた。
「先生、僕はどうしてもクリスチヤンになれないんですが、何かいゝ方法はないでしようか」(笑)
「君は今何をやつている?」「美術学校で美しいものを創ろうとしています」
「自然を見て美しいと思うか」「思います」
「じや、誰がいつたいその美しい自然をつくつたのか」
 僕はわからなくなつてしまい「自然が創つたんでしよう」といつたが、もう一度帰つてよく考えて来いといわれ、すごすごとひきかえしたことである。
 植村先生は造化――つまり神が造つたんだと気づかせたかつたのでしよう。しかし僕にはできなかつた。僕は長いことかゝつてそれを考えたけれども、どうしてもクリスチヤンになることは出来なかつた。キリスト自身のいうことは皆受けいれられないことはないが、伝説のところにくると、ひつかゝつて。どうしても入れない、今でもそうだ。
(「炉辺雑感」昭和28年=1953 「光太郎遺珠⑧」掲載予定)
 
植村正久は、プロテスタントの牧師。内村鑑三らとならび、明治大正を代表する伝道師の一人です。先述の水野葉舟は植村により洗礼を受けています。それが「友達はすらすらと入つて、心の安心を得て勉強している」です。しかし光太郎はどうしても入信できませんでした。
 
だからといって、光太郎は無神論者というわけでもなかったと思います。彼にとっての「神」は自らの内なる「美」。
 
……とにかく美の後に何かあるんだということは、植村先生にいわれたから、いつまでも考えていた。美は向こうにあるのではなく、自分にある。自分が美をもつている人はお堀の穢い水を見ても美と感じられる。
(同)
 
彫刻や絵画による造型の美、詩で追い求めた言葉の美、常に光太郎の指針はそこに「美」があるかないかでした。
 
宮城県歌人協会会長だった佐久間晟氏、すゑ子夫妻は戦後、光太郎の住む岩手花巻郊外の太田村山口の山小屋を訪れた際「美しくないことはしない方がいいですね」という光太郎の言に触れ、感動したそうです。当方、佐久間夫妻から直接うかがいました。
 
こういうところも光太郎の魅力の一つだと思っています。

このブログ、高村光太郎を中心に、その周辺に関し、色々と書いていますが、詩についてあまり書いていないような気がしています。そこで、今日明日あたりは時候にそった光太郎作の詩について書いてみましょう。
 
まず今日は天皇誕生日ということで、今上天皇の皇太子時代に関する詩を。

  皇太子さま
 
 ぼくらの皇太子さま。003
 あたしたちの皇太子さま。
 この前の馬上のお姿にくらべると
 なんといふ御成人ぶり。
 りつぱな皇太子さま。
 明かるい皇太子さま。
 おそれおほいけれど
 お友だちのやうな皇太子さま。
 皇太子さまも運動がお好き。
 ぼくらも好き。
 あたしたちも好き。
 皇太子さまのやうに健康で
 みんなと仲よく勉強して
 またこんどお写真を拝むまでに
 もつと大きくなりませう。
 皇太子さまが赤坂離宮に
 毎日たのしくおいであそばすと思ふと
 ぼくらもたのしい。
 あたしたちもうれしい。
 皇太子さまばんざい。

昭和21年(1946)1月8日作。同年2月3日発行『週刊少国民』第5巻第4,5合併号に発表された詩です。『高村光太郎全集』第三巻に収録されています。
 
発表誌が年少者向けの雑誌ですので、このような詩になっています。同日、同誌編輯部の和田豊彦に宛てた書簡(『全集』第14巻)には「皇太子さまの詩、同封しました。先だつてのおてがミにより、低学年生にもわかるやうにと書きました」とあります。
 
この詩が書かれた昭和21年(1946)といえば、太平洋戦争が終わった翌年。世の中の価値観が一変した時期です。もう少し後の5月には食糧メーデープラカード事件というのがあり、天皇を揶揄する「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが問題になったりもしています。その時期にこういう詩を書いているところに興味深いものがあります。
 
何も光太郎はがちがちの体制派、右翼というわけではありません。たしかに戦時中には大政翼賛会に関わり、国民を鼓舞する詩をたくさん書きましたが、戦後になってしっかりとそのあたりは自己省察をしています。しかし、だからといって、「朕はタラフク食ってるぞ」の方向には行かないのです。
 
この時期にあえて皇室への敬意を表出していることを、「蛮勇」と見るか「英断」と見るか、そこは読む人の解釈ですね。当方、左右両翼日和見主義ですので論評は差し控えます。
 
ただ、光太郎、この「皇太子さま」を書いた2日後には、暴走していった軍部や政府を厳しく糾弾する詩も書いています。
 
  国民まさに餓ゑんとす
 002
 国民まさに餓ゑんとして
 凶事国内に満つ。
 台閣焦慮に日を送れども
 ただ彌縫の外為すべきなし。
 斯の如きは杜撰ならんや。
 斯の如くして一国の名実あらんや。
 必ずしも食なきにあらず、
 食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
 さきに台閣農人をたばかり
 為めに農人かへつて餓ゑたり。
 みづから耕すもの五穀を愛す。
 騙取せられて怒らざらんや。
 農人食を出さずして天下餓う。
 暴圧誅求の末ここに至り、
 天また国政の非に与せず、
 さかんに雨ふらして大地を洗ひ
 五穀痩せたり。
 無謀の軍をおこして
 清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
 国民軍を信じて軍に殺さる。
 われらの不明われらに返るを奈何にせん。
 国民まさに餓ゑんとして
 凶事国内に満つ。
 国民起つて自らを救ふは今なり。
 国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
 出でて万機を公論に決せよ。
 農人よろこんで食を供し、
 国民はじめて生色を得ん。
 凶事おのづから滅却せざらんや。
 民を苦しめしもの今漸く排せらる。
 真実の政を直ちに興して、
 一天の下、
 われら自ら助くるの民たらんかな。

やがて、こうした怒りは、そうした軍部や政府に荷担して戦争推進に一役も二役もかった自分に向けられて行きます。それが翌年発表された連作詩「暗愚小伝」です。
 
当方、こういうところに光太郎の人間的魅力を感じます。戦時中、戦争推進の詩を書きながら、戦後になると掌を返したように「あれは軍の命令で仕方なくやったことだ」と開き直ったり、何事もなかったかのように民主主義を謳歌する詩を書いたり、あまっさえ同じような詩を書きながら光太郎らを糾弾したりした詩人のいかに多かったことか。
 
光太郎は、公的には戦犯として罰せられなかった自分を、自分で罰しました。その結果が「自己流謫(るたく)」と名付けた不自由な山村での独居自炊。「流謫」=「流刑」です。
 
しかし、結局、「戦時中、戦争推進の詩を書きながら、戦後になると掌を返したように「あれは軍の命令で仕方なくやったことだ」と開き直ったり、何事もなかったかのように民主主義を謳歌する詩を書いたり、あまっさえ同じような詩を書きながら光太郎らを糾弾したりした詩人」は、今ではその名さえ忘れられつつあります。世の中、そういうものですね。
 
教訓。「人を呪わば穴二つ」。
 
何だか話が予想外の方向に進んでしまいました。乱筆御免。

先日、ロダン作の彫刻「カレーの市民」について書いたところ、大阪在住の研究者・西浦氏から、試作が残っている旨、お手紙と画像をいただきました。
 
ロダンは一つのモチーフについて、いろいろと制作を重ねるタイプでした。以前にも書きましたが、有名な「考える人」も元は「地獄の門」の一部だったものを独立した一個の彫刻にしたものですし、大きさの違うバージョンがあったりします。
 
「カレーの市民」も、発注から除幕まで10年かかっており、その間に、着衣にしてみたり、裸体像にしてみたり、単体で6人を作ってみたりといろいろと試作を重ねたとのこと。
 
気になったので調べてみたところ、日本の静岡県立美術館のロダン館に「カレーの市民」単身像の試作が展示されていることが判りました(専門の方は「何だ、知らなかったのかよ」とおっしゃるかも知れませんが、当方、まだまだ勉強中でして……)。しかも配置を工夫し、間を歩けるようにしてあります。
 
以前から一度行ってみようとは思っていましたが、ますます行きたくなりました。
 
ちなみに下の画像は、昭和2年にアルスから刊行された光太郎の著書『ロダン』の口絵に載った「カレーの市民」です。
 
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原型なのか、試作なのか、ともかく完成して鋳造されたものではありませんね。

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感謝と祈り込め企画展 仙台・福島美術館1年9ヵ月ぶり再開

河北新報 12月20日(木)9時15分配信
 東日本大震災で被害を受け、休館していた福島美術館(仙台市若林区土樋)が19日、約1年9カ月ぶりに展示を再開した。企画第1弾として、縁起物にちなんだ掛け軸などを集めた「震災復興『めでた掛け~再会』-感謝と祈りをこめて」を開催している。来年3月3日まで。

 「めでた掛け」は同美術館の新春恒例の企画展で、今回は掛け軸や工芸品など約60点を展示。募金をした人に贈った「七福絵はがき」に使われた掛け軸が中心で、折り鶴を折る子どもを描いた絵などが来場者を和ませている。常設展では伊達政宗の書状や高村光雲の仏像などが飾られている。

 再開に合わせ、収蔵品の中から「福」の意味を持つ昆虫や鳥の図柄を選んで作ったしおり、シールなどの「七福グッズ」も販売している。期間中は座談会や茶会、紙切り遊びなどの催しも行う。

 美術館は当初、修繕費の約1300万円を調達するめどが立たなかったが、全国から約765万円の募金が寄せられ再開にこぎつけた。12月19日は1年前に初めて募金が寄せられた日という。
 学芸員の尾暮まゆみさんは「募金を頂いた全国の方には感謝の言葉しかない。今後、大地震が起きて私たちのような小さい美術館が被害を受けたら、支援していきたい」と話した。
 
 入館料は一般300円、学生200円。高校生以下、70歳以上、障害者は無料。連絡先は同美術館022(266)1535。


 
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「福島美術館」と言っても、福島県の「福島」ではなく、仙台で社会福祉法人を運営されていた故・福島禎蔵氏のコレクションが中心ということで「福島」だそうです。
 
追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。
 
昨年の大震災から1年9ヶ月。復興もある程度進んできているのでしょうが、まだまだこれからですね。
 
ところで「昨年の」と書きましたが、もう年の瀬ですので、あと2週間足らずで「一昨年の大震災」と書かねばならなくなります。やがては「平成23年の」と書くようになり、そして人々の記憶が風化していくのでしょうか……。

昨日は、ロダン作の彫刻「カレーの市民」にからめ、作者の意図と展示の方法といった点について述べました。せっかくの作者の意図が反映されないような展示の仕方は避けてほしいものです。
 
同様に、作者の意図と出来上がった作品との間に齟齬が生じるケースがもう一つあります。「鋳造(ちゅうぞう)」に関する問題です。
 
一口に「彫刻」といっても、大まかに分けて二種類の作り方があります。二種類、という点を強調した場合、「彫刻」ではなく「彫塑(ちょうそ)」といいます。「彫」と「塑」に分かれるということです。
 
一つは、材料となる木や石を彫って作る方法。余計な部分をそぎ落として行くわけで、マイナスの方向にベクトルが向きます。これが「彫」。出来た作品は「彫像」と呼びます。
 
もう一つは「塑」。粘土を積み重ねて作る方法です。こちらはゼロの状態からどんどんプラスしていくわけです。出来た作品は「彫像」に対して「塑像」と呼びます。
 
そう考えると、全く逆のプロセスですね。ロダンにしても光太郎にしても、「彫」、「塑」、両方に取り組んでいます。ただ、ロダン、というかミケランジェロやベルニーニなど西洋の「彫」は主に大理石であるのに対し、光太郎や光雲など日本の「彫」は主に木を使うという違いはあります。
 
「彫」の場合は、通常、最初から完成まで、作者自身の手で行われます。ただし、光雲の場合、弟子が大部分を作り、仕上げだけ光雲が担当、それで「光雲作」のクレジットが入るということもあったそうです。もちろん弟子にも代価が入るのですが。光太郎は弟子は取らない主義でしたから、そういうことはなかったようです。
 
ところが「塑」の場合は、作者が手がけるのは粘土で原型を作るところまでというのが通例です。その後、石膏で型を取り、金属(ブロンズなど)を流し込んで(これを「鋳造」といいます)完成となるのですが、鋳造は専門の鋳金家が行うのが普通です。光太郎の弟、豊周(とよちか)は人間国宝にも指定された鋳金家で、大部分の光太郎塑像の鋳造を手がけています。
 
光太郎に対しての豊周のように、気心の知れた鋳金家が仕事をしてくれれば、作者の意図がかなり反映された鋳造になるのでしょうが、作者の死後に無関係の鋳金家によって鋳造されたものなどはその限りではないようです。
 
高村光太郎研究会から年刊刊行されている『高村光太郎研究』第33号に載った大阪の西浦基氏の「彫刻に燃える-ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と-」によれば、ロダン彫刻にそういうケースがあるとのこと。
 
下の画像は氏からいただいたフランスのロダン美術館にある「接吻」の写真です。
 
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男の右の掌は、女の腿にしっかりと密着しています。ところが、日本に来ている「接吻」のブロンズ(ロダン死後の鋳造)では、この掌が浮いていて、指先だけが触れているようにしか見えないというのです。作のモチーフがモチーフだけに、この手の位置は重要な意味を持ちます。それが反映されていない鋳造では……。
 
もっとも、市場に出回っているブロンズの塑像の中には、原型から型を取ったのではなく、既に出来たブロンズからさらに型を取り、鋳造した粗悪なものもあるとの話を聞いたことがあります。当然、細部は甘くなりますね。そういうインチキにだまされないようにしたいものです。

昨日に引き続き、「彫刻」と「視点」の問題を。
 
「カレーの市民」。ロダンの代表作の一つで、1895年(明治28年)に序幕された6人の群像です。「カレー」はフランス北部、ドーバー海峡に面した都市です。
 
光太郎の「オオギユスト ロダン」(昭和2年=1927 『高村光太郎全集』第7巻)から、像の背景と制作時のエピソードを以下に。
 
彼が「地獄の門」の諸彫刻に熱中してゐる間にフランスの一関門カレエ市に十四世紀に於ける市の恩人ユスタアシユ ド サンピエルの記念像を建てる議が起つた。其話をカレエ市在住の一友から聞かされ、いろいろの曲折のあつた後、雛形を提出して、結局依頼される事になつた。ルグロやカザンの骨折が大に力になつたのだといふ。十四世紀の中葉、カレエ市を包囲した英国王エドワアドⅢ世が市の頑強な抵抗に腹を立てて、市を破壊しようとした時、残酷な条件通り身を犠牲にする事を決心して市民を救つた当年の義民の伝を年代記で読んだロダンはひどく其主題に打たれた。犠牲に立つた者は一人でなくして六人であつた。ロダンは一人の銅像の製作費で六人を作る事を申出で、十年かかつて「カレエの市民」を完成した。
 
さて、下の画像は大阪の西浦氏からいただいた、フランス・カレー市庁舎前に設置された「カレーの市民」の写真です。台座の高さが低いのがお判りになるでしょうか。
 
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再び光太郎の「オオギユスト ロダン」から。
 
ロダンは此群像をカレエ市庁の階段の上の石畳へ置いて通行する者と同列の親密感を得させたいと考へた。
 
いわゆる英雄や偉人の肖像とは違い、街を救った義民の群像ということで、高い台座の上に見上げる形でなく、見る人の目線の高さに配置する事をロダンは望んだというのです。彫刻自体も、6人の中には、頭を抱えて苦悩するポーズの人もいます。見る人に「あなたたちと同じ普通の人なんだよ」というメッセージを放っているわけです。
 
こうしたロダンの考えのもと、現在のカレー市庁前の「カレーの市民」は、画像のように低い台座に設置されているのです。
 
しかし、完成当初はそうしたロダンの考えは容れられず、1924年(大正13年)までは、通例に従って高い台座上に設置されていたとのこと。「芸術の国」、フランスでさえそうだったのですね。
 
「カレーの市民」、同じ型から12基が鋳造され、世界各地に散らばっています。おおむねロダンの意図通り、低い位置での展示が為されているようです。さらにアメリカでは、これが「ロダンの真意だ」と、6人をバラバラに配置し、その間を人が歩けるようにした展示をしている所もあります。当方、よく調べていないので、本当にそれがロダンの真意かどうかは判りません。詳しい方はご教授いただけるとありがたいのですが……。
 
12基のうちの一つは、上野の国立西洋美術館前庭にあります。多くは語りませんが、ここのものは「高い台座」の上に「鎮座ましまして」いらっしゃいます。多くは語りませんが……。

昨日はテレビ東京系の番組「美の巨人たち」で取り上げられた、17世紀イタリアバロック期の彫刻家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「アポロンとダフネ」に関して書きました。
 
同番組の中では、2次元の芸術である絵画と、3次元の造型である彫刻、どちらが優れているか、といった話も出て来ました。それは一長一短、単純な比較は出来ないものだと思います。
 
しかし、一ついえることは、2次元だからといって、3次元を感じさせない絵画ではだめなのでしょうし、3次元なのに2次元的な(平板な)彫刻ではもっとだめだということです。
 
ところで、3次元の彫刻には、2次元の絵画にはない特質、というか恐ろしさといった部分があるように思います。
2次元の絵画は、2次元であるが故に、よほど変な角度から見ない限り、その見え方にそれほど差異は生じないと思います。もっとも、遠くから見るか、近くで見るかという問題はありますが。モネの「睡蓮」などはいい例です。
その点、彫刻は360度、どの角度から見るかによって全く見え方が異なるわけです。また、360度だけでなく、上から見下ろすか、自分の目線と同じ高さで見るか、下から見上げるか、そういうことまで考えると、視点の位置は上下左右全方向が存在します。彫刻を中心にした球体の内側に自分がいる、というイメージでしょうか。
 
先日、第57回高村光太郎研究会で、大阪の研究者・西浦氏との雑談中、田辺市立美術館での「詩人たちの絵画」展に話が及びました。氏も見に行かれたそうです。同展には光太郎の有名な彫刻「手」が出品されていました。
 
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そこで、西浦氏曰く「あの『手』は長野の碌山美術館に展示されているものと較べて一回り小さい感じがした」とのこと。ご存じない方のために補足しますが、ブロンズの彫刻は同じ型から鋳造したものが複数存在します。「手」も全国に散らばっています。しかし、サイズの違うものはないはず。そこで即座に否定したのですが、氏はどうも納得いかなかったようで、田辺市立美術館、碌山美術館双方に問い合わせたそうです。結果、やはりサイズは同一。高さ39㌢、幅28.7㌢、奥行き15.2㌢だとのこと。
 
これは、展示方法の相違による視点の違いで、大きさが異なって見えるのだと思われます。碌山美術館では目線とほぼ同じ高さに展示してあり、しかも間近に見られるので、大きく見えます。しかし、田辺では上から見下ろすような角度での展示だったので、やや小さく見えたということなのでしょう。
 
そう考えると、彫刻の展示というのはある意味恐ろしいものがあります。展示の方法によって、視る者の視点を限定してしまうことがありえるからです。それを逆手に取ったのが昨日のブログに書いたベルニーニの「アポロンとダフネ」なのです。
 
ミケランジェロなどもこの手を使っているようです。有名な「ダビデ」。目線と同じ高さで見ると、やけに頭がでかい。しかし、下から見上げると遠近法の魔術で、そう感じられないというのです。逆に言えば正しいサイズで頭を作ったら、下から見上げた時に変に小さく見えてしまうということです。
 
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この「視点」の問題、ロダン彫刻にも存在します。明日は西浦氏からいただいた海外のロダン彫刻の写真にからめて考察してみます。

閲覧数が7,000件を超えました。有り難うございます。
 
さて、地上波テレビ東京系で、土曜の夜に「美の巨人たち」という番組を放送しています。BSではBSジャパンで、1ヶ月遅れぐらいで日曜の夜の放映です。毎回、一人の作家の一つの作品に的を絞り、ミニドラマ的なものも交えつつ紹介しています。地味な番組ですが、コアなファンが多いようで(当方もその一人ですが)、平成12年に放映開始で、そろそろ長寿番組の仲間入りですね。
 
光太郎についてもこれまでに3回取り上げられました。平成13年(2001)7月には木彫の「鯰」、同19年(2007)12月には「手」、昨年(2011)11月には「十和田湖畔の裸婦像」。光雲の「老猿」も、平成19(2007)年6月に扱われました。今後、ぜひ智恵子や光太郎の弟・豊周についても取り上げて欲しいものです。
 
先週土曜日のオンエアは、17世紀イタリアバロック期の彫刻家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「アポロンとダフネ」。ギリシャ神話に題を取ったもので、全能神ゼウスの息子、アポロンが、川の神の娘、ダフネに恋をしますが、これを嫌って逃げるダフネと、追いすがるアポロンの姿を刻んだものです。逃げるダフネの体は半分月桂樹に変化(へんげ)しています。
 
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大理石の彫刻ですが、「超絶技巧」という点では舌を巻く様な作品でした。何しろ、薄い月桂樹の葉まで(それも何枚も)一つの石から掘り出しているのです。番組の中で、同じことを現代の彫刻家に依頼してやってもらっていましたが、見事に(笑)失敗していました。
 
特に興味深かったのは、「展示」に対する作者の意図でした。
 
この彫刻は、完成後にどこにどのように置かれるかがあらかじめ判っていて、ベルニーニはその空間構成を考えて作っているとのことでした。例えば、壁際に置かれることが判っていたので、壁側に当たる面は粗彫りのままの箇所が残っているとか、展示場所に入ってきた人に、はじめはアポロンの後ろ姿だけが見えるようにし、やがて近づくと逃げるダフネの姿が眼に入るようにしてある、といった点です。ベルニーニは、こういう作り方で「物語性」を彫刻に持たせていた、という結論に達していました。「なるほど」と思わされました。
 
しかし、光太郎はベルニーニに対して、高い評価は与えていません。『高村光太郎全集』増補版全21巻別巻1、全体を通してベルニーニの名前は1回しか出て来ませんし、その1回も「ベルニニ、カノヷ、ジエロオム、マクモニイ、降つて現今の新海竹太郎氏あたりの彫刻については生死でも口にする外何も言ふ気になれない」(「言ひたい事を言ふ」大正3年 『高村光太郎全集』第4巻)と、とりつく島もありません。
 
「超絶技巧」といえば、光太郎の父・光雲の木彫。薄い月桂樹の葉をも石から掘り出すベルニーニに負けず劣らず、一本の木から観音像の持つ蓮の花まで掘り出していました。
 
しかし、光太郎はこの手の「超絶技巧」には否定的なのです。
 
薄いものを薄く彫つてしまふと下品になり、がさつになり、ブリキのように堅くなり、遂に彫刻性を失ふ。これは肉合いの妙味によつて翅の意味を解釈し、木材の気持に随つて処理してゆかねばならない。多くの彫金製のセミが下品に見えるのは此の点を考へないためである。すべて薄いものを実物のやうに薄く作つてしまふのは浅はかである。
(「蝉の美と造型」 昭和15年(1940) 『高村光太郎』全集第5巻)
 
ここには「具象」から「抽象」への発展といった考えが垣間見えます。ただ、光太郎は完全に「抽象」へは進みませんでしたが。
 
また、「物語性」についても、光太郎は若い頃は積極的に自作に取り入れていましたが、後に方向転換します。
 
若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。
(「自分と詩との関係」 昭和15年(1940) 同第8巻)
 
しかし、どうしても吐き出したい「胸中の氤氳」をどうするか。そこで「詩」です。
 
私はどうしても彫刻で何かを語らずには居られなかつたのである。この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、その頃ついに短歌を書く事によつて自分の彫刻を護らうと思ふに至つた。その延長が今日の私の詩である。それ故、私の短歌も詩も、叙景や、客観描写のものは甚だ少く、多くは直接法の主観的言志の形をとつてゐる。客観描写の欲望は彫刻の製作によつて満たされてゐるのである。かういふわけで私の詩は自分では自分にとつての一つの安全弁であると思つてゐる。
(同)
 
この点についてはまた別の機会で述べましょう。
 
さて、大阪の研究者・西浦氏から、また海外の写真等をいただきました。今日のこのブログの内容に関わりますので、その辺を明日。

福島二本松の智恵子のまち夢くらぶさんから、今年行われた「智恵子講座’12文集」をいただきました。このところ毎年送っていただいていますが、いつもながらに頭の下がる思いです。
 
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今年の活動記録、主宰者の熊谷氏、講師を務められた方々、参加者の皆さんなどの文章などが載っています。
 
いろいろなところで同じことをしゃべったり書いたりしていますが、こういう地方の顕彰活動のもつ意義、力というのは大きなものです。その意味では東京出身の文化人はあまりにも多く、東京で光太郎顕彰、といっても難しいものがあります。
 
特に昨年から今年にかけ、福島のみなさんは原発事故の被害で大変な思いをされています。そうした中でも文化的な活動を続けるということに、人間の崇高さを感じます。
 
さて、来年の活動計画も掲載されていましたので、抜粋して御紹介します。予定でしょうから、変更の可能性もあるかと思いますが。
 
 高村光太郎連翹忌出席 4/2 (ありがとうございます)
 智恵子講座’13 全7回 4/21~12/15 (おそらく当方も講師をやらせていただきます)
 智恵子のふるさと二本松探訪 岩代エリア名木巡り 4/21
 第9回智恵子生誕祭 「好きです智恵子青空ウォーク」 5/19
 第9回研修旅行 信州上高地 7/21・22
 智恵子純愛通り記念碑 第5回建立祭 9/15
 高村智恵子レモン忌出席 10/6 (主催は「智恵子の里レモン会」…他の団体です)
 智恵子のふるさと二本松探訪 東和エリア里山巡り 10/14
 
再来年(平成26年)11月にはパリ研修旅行も計画なさっているとのことです。
 
今後もがんばってほしいものです。

国会図書館での調査で、面白い資料を発見しました。
 
昭和25年(1950)11月3日の『山形新聞』に載った記事です。
 
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『高村光太郎全集』別巻の年譜に依れば、この年10月30日から11月3日まで光太郎は山形を訪れています。講演会を2回行った他、山形県総合美術展覧会の評、この評は11/1~3の同じ『山形新聞』に掲載されている事が以前から判っており、『高村光太郎全集』第19巻に収録されています。
 
さて、今回発見した記事は、その山形を訪れていた光太郎の元に、東京から舞踊家の藤間節子が訪ねてきた、というものです。
 
藤間節子(後に黛節子と改名)は、大正10年(1921)生まれの舞踊家。昭和24年、帝国劇場にて『智恵子抄』をモチーフにした舞踊を制作、発表しました。『智恵子抄』がこの手の舞台芸術で取り上げられた嚆矢です。
 
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『山形新聞』の記事によれば、構想したのは昭和18年。戦時中や戦後すぐの混乱期という時代背景もあったのでしょうか、すぐには実現しませんでした。そのあたりを受け、この記事には光太郎は次の談話を載せています。
 
藤間さんは一生懸命であるということは立派なことです、この人ならと私は自分の作品の舞踊化をゆるしたのですが、それから七年間もかかつて振付けを作り上げたというまじめさにはうたれます
 
さらに記事には藤間から光太郎にレコードが贈られ、早速、「試聴会」が開かれたとの記述もあります。「ヴィクター版レコード『千鳥と遊ぶ智恵子』ほか二曲」となっていますが、こうしたレコードの存在は把握して居らず、今後、調査してみます。
 
ただ、前年の帝国劇場でのリサイタルのプログラムによれば、小村三千三(みちぞう)作曲とした上で、

 A 浜辺…………千鳥とたわむれる智恵子
 B ひたむき……智恵子のひたむきな苦悶、憧れ、そして沈思
 C 切紙細工……童心にかえつた智恵子の住む世界は

との解説があり、三つの舞踊から為っていたことがわかります。おそらく、この伴奏音楽をレコード化したものと考えられます。
 
また、12月1日に藤間に宛てて書かれた書簡が『高村光太郎全集』第15巻に収められていますが、そちらにもこのレコードに関する話が載っています。以前にこれを読んだ時は、意味がよくわからなかったのですが、今回の記事で疑問が氷解しました。
 
こういう具合に、新しく発見した資料が、以前から判明していた資料の謎解きの鍵になるということが、時々あります。そういう時は非常に嬉しいものですね。

カミーユ・クローデル。
 
昨日御紹介した「ロダン翁病篤し」に名前があったロダンの弟子の一人だった女性です。1864年の生まれ。この名前が出てくると、当方、胸を締め付けられる思いがします。
 
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光太郎が昭和2年(1927)に書き下ろしで刊行したアルス美術叢書『ロダン』から。
 
クロオデル嬢は詩人クロオデルの同胞、嬢自身もロダンの弟子となつて優秀な彫刻を作つてゐる。書くことを許せ。彼女の美はロダンの心を捉へ、一時ロダンをして彼女の許へ走らしめた。ロダン夫人は後年当時の苦痛を思出してはよくロダンに述懐した相である。「でもお前を一番愛してゐたのさ、だつて今だに其処にゐるのはお前ぢやないか、ロオズ、」と其度にロダンは慰めた。クロオデル嬢は巴里の北二十五里程あるシヤトオ チエリイの近くから出て来てロダンの弟子となり、直ぐ才能を表はして「祖母」で三等賞を取つたりしたが、後にロダンと別れてから健康を害し、ヸル エヴラアルに閉囚せられてゐたといふ。ロダンの一生に於ける悲しい記憶の一つである。
 
光太郎は婉曲に書いていますが、「健康を害し」は「精神を病んで」という意味です。
 
19歳の時に42歳のロダンに弟子入りし、激しい恋に落ち、ロダンの子供を身ごもります。しかしロダンには内妻ローズ・ブーレが既にいました。結果、中絶。
 
光太郎は「優秀な彫刻を作つてゐる」と好意的に表しています。実際、ロダンの作品の助手としても腕をふるっていましたが、彼女単独の作品は、同時代のフランスでは「ロダンの猿まね」という評もありました。
 
そうしたもろもろが積み重なって、精神に破綻を来したのです。
 
これは彼女の代表作の一つ「分別盛り」。
 
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左の男性はロダン。よく見るとその背後から覆い被さる老婆が男を連れて行こうとしています。この老婆がローズ。そして右の取りすがる女性がカミーユ自身です。悲しい彫刻です……。
 
彼女が入院したのはかなり劣悪な環境だった病院でした。そこで「ロダンが彫刻のアイディアを盗みに来る」との妄想にとりつかれていたとのこと。実に30年の入院を経て、恢復することなく、1943年、歿。
 
ある意味、智恵子を連想させませんか?
 
光太郎にはロダンのように三角関係的な話は表だってはありませんが、巨大な才能の前につぶされてしまった才能、という意味ではロダンとカミーユ、光太郎と智恵子は相似形を形作っています。
 
芸術の世界とは、かくも恐ろしい物なのですね……。

一昨日の国会図書館での調査で見つけた、『高村光太郎全集』等未収録の作品を御紹介します。
 
大正6年(1917)2月2日の『東京日日新聞』に載った談話です。内容はロダンに関して。ロダンはこの年11月に亡くなりますが、その前から何度か重病説が報じられ、これもその時のものです。
 
ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た
 
『ロダンは千八百四十年巴里の生れで本年十一月十四日で満七十七歳になる。工芸学校に入学し、昼はルーブル美術館に、夜は図書館に通ひ、尚動物彫刻の大家バリに学んで刻苦精励し十七歳で卒業し、一人前になつて芸術家といふよりは職人の生活に入つた。
 在学中三度まで美術家の登竜門なるボザー(官立美術学校)の入学試験を受けたが、三度まで素描で落第し終に断念したが、晩年この事を人に語つては「あの時落第したのは実に幸福だつた」と述懐した。彼の職人生活はかなり長く具に辛酸を嘗めた。
 其間の仕事といふのは噴水の装飾とか壁縁の装飾の石膏細工であつたが、その下らない仕事こそ後年立派な果実を結ぶ根を養つたのであつた。廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し翌年彼の有名な「鼻の潰れた男」をサロンに出して美事に刎られた。
 それは無論出来の悪い為では無く当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した、
 普仏戦争の最中白耳義に出稼ぎし白耳義にはその当時の作品が沢山残つてゐる。卅六歳の時までその国に滞在して、問題の作品「黄銅時代」を作り掛けたのも其頃だつた。「黄銅時代」は等身大の男の立像で、人間の精神の覚醒を象徴したので足一本に半年も費やした苦心の作だつたが、仏国へ帰つてサロンに出品すると一旦授賞を決定され間も無く取消された。といふのは余りに真に迫つてゐた為、生きてゐる人間の身体に型をあてて取つた詐欺的の作品といふ誤解を受けたからだ。
 其うち彼の真の技倆を認める人が多くなつて、四十歳の時同一の物をサロンに再び出して三等賞を受け先年の寃が雪がれた上政府に買上られ、今はルクサンブール美術館にある。この時代から彼の製作の速力は増大し、毎年多数の傑作を産んで其名声は漸次世界的になつた。続いて出たのが『聖ジヨンの説教』『アダム』『イヴ』ポルトロワイヤル庭園にあるユーゴーの記念像等である。
 装飾美術館のダンテの門を飾るべき『フランチエスカの群像』『三人の影』『思想』等をも作つた。ダンテの門は中止になり、『思想』は彼の希望に依りパンテオンの前に安置されたが、これはダンテの神曲の中の地獄へ落ち行く人から思ひ付いたもので彼の代表作と呼ばれてゐる。
 文豪バルザツクの記念像を頼まれ、似てゐないといふので刎ねられたこともあつた。その頃から彼の作風は一転化を来たして大まかな綜合的な芸術となりだんだん単純に静かになつて来た。彼には女弟子クローデル、男弟子エミール・ブールデルの他に余り有名な弟子はない。』
 

00311月にロダンが亡くなった際にも、光太郎の追悼談話があちこちに掲載されましたが、重病説の時に語った談話は今回が初めての発見でした。
 
ロダンの生涯が簡潔に、しかし押さえるべき点はきちんと押さえた上で語られています。途中に出てくる「ダンテの門」というのは「地獄の門」、「思想」というのが「考える人」です。
 
「廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し」とありますが、それは事実婚ということで、その時点では入籍していません。もちろんそれは光太郎も知っていました。
 
二人が入籍したのは、この談話が掲載される直前の1月29日。その点に関する記述がないため、この時点では光太郎もそれは知らなかったようです。前年に軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後健康に不安を抱え、同じく病気がちとなったローズとの入籍を果たしたのだそうです。しかしそれもむなしく、ローズは2月14日に歿し、ロダンの健康もすぐれません。結局、先に書いたとおり、ロダンはこの年11月に亡くなります。
 
事実婚というのは、フランスではさほど珍しいことではなかったようです。サルトルとボーボワールなどもそうでした。
 
実は光太郎と智恵子もそうです。結婚披露宴は大正3年(1914)の12月でしたが、入籍したのは智恵子の統合失調症がのっぴきならぬところまで行ってしまった昭和8年(1933)です。これは自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障といった意味合いもあったようです。光太郎、ロダンの真似をしたというわけではないのでしょうが、おそらく頭の片隅にはロダン夫妻の事はあったと思います。
 
光太郎とロダン、他にもたどった軌跡に奇しくも共通点があります。それは先の談話の最後に書かれている「女弟子クローデル」について。そのあたりを明日のブログに書きましょう。

昨日は久しぶりに国会図書館に行って参りました。久しぶり、といっても2ヶ月ぶりくらいですが。


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国会図書館などに調査に行く場合には、「今日は○○と××について調べる」などと、あらかじめ計画を練っていかないと時間が無駄になります。
 
昨日はまず、昨日のこのブログで小沢昭一さんの訃報にからめて紹介した光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)、に関する調査から始めました。
 
今年4月から年2回、当方が刊行している冊子『光太郎資料』で、「音楽、レコードに見る光太郎」という項を設けており、まずは「歩くうた」を扱っているからです。今までに、当時出版された楽譜や、当時発売されたレコード(徳山璉などの歌唱)、戦後になって他の歌手がカバーしたレコード・CDなどについて紹介しました。
 
そうした調査の中で、当時の厚生省が歩くことを広く国民に呼びかけていたらしいことが判り、その裏付け調査をしておこうと考え、調べてみました。すると、確かにそういう記述のある書籍が見つかりました。また、大毎東日映画部が「歩け歩け」という映画を制作していたことも判り、そちらの調査もしてきました。
 
詳しくは来年4月刊行予定の『光太郎資料』第39集に書きますので、ご入用の方はお声がけください。
 
続いて、当たりをつけておいた光太郎の文筆作品-少し前のブログで長々と書いた「海の思出」のように、埋もれていた文筆作品-の探索。こちらについてはまた明日のブログでご報告します。
 
それにしても、国会図書館に行くと、いい運動になります。同館は図書館といっても、通常の図書館のように開架で本がずらっと並んでいるわけではなく、ほとんどが書庫にしまわれている状態です。古い資料はデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧する仕組みになっていますが、それほど古くない物は、現物を書庫から出してもらって閲覧する仕組みです。
 
雑誌以外の書籍の受け取りと返却、複写は本館2階、雑誌に関しては受け取り、返却は新館2階、複写は新館1階。デジタルデータの複写受け取りも新館1階。さらに昨日は新聞系の調査も行ったので、新館4階にも行き、合間に本館6階の食堂で食事、喫煙は本館と新館の間の2階喫煙室。本館も新館も広い建物で、さすがに4階や6階に上がる時にはエレベータを使いますが、1階と2階の間は階段を使った方が早いので、エレベータは使いません。昨日は朝から夕方までいましたが、おそらくキロメートルの単位で歩き回っているんじゃないかな、などと思いつつ過ごしました。当方は普段から犬の散歩で毎日歩いていますので大丈夫ですが、年配の方には優しくないシステムです。
 
しかし、国会図書館は進化しています。一番大きいのはデジタルデータで古い書籍をすぐに見られること。以前は古い物でも現物を書庫から出して貰って閲覧したり、マイクロフィルムやマイクロフィッシュで閲覧したりというのが中心でした。そうすると、出して貰ったり、必要なページを複写して貰ったりするのにも、1件あたり早くて十数分かかり、待ち時間が非常に長かったのです。カウンターの前に総合病院の薬局のような電光掲示板があって、自分の番号が点灯すると、書庫から目的の本が到着あるいは複写完了、というシステムでした。そこで、長い待ち時間の対策として、家から文庫本を持ち込んで読むということをしていました。図書館に自分の本を持ち込んで読書、考えてみると馬鹿馬鹿しい話でした。
 
現在は、やはりデジタル化されていない書籍の受け取りや複写にかかる時間は短縮されたわけではありませんが、待ち時間にパソコンでデジタルデータの調査が出来ます。そちらの複写はパソコンから申し込めます。また、調査しているうちにパソコンに「申し込んだ書籍が届きました」「複写が完了しました」といったメッセージが届くシステムにもなっており、非常に便利です。
 
ただし、あちこち歩き回らなければ行けない、というのは昔のままです。欲を言えば、すべての資料がデジタル化され、自宅にいながらにして閲覧も複写もすべて自分のパソコンで出来てしまうようになればさらに便利です。無理な話だとは思いますが……。

小沢昭一さんの訃報が報じられました。また一人、昭和の名優が逝ってしまいました……。
 
小沢さんといえば、俳優としての活動以外にも、歌の方面でも活躍なさいました。
 
当方、小沢さんのCDを1枚持っています。
 
「昭一爺さんの唄う 童謡・唱歌」 平成20年 日本コロムビア 定価2,000円
 
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昔なつかしの童謡、唱歌23曲が収録されており、その中に、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」が収められています(もちろん小沢さんの歌で)。この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。
 
何はともあれ、小沢さんのご冥福をお祈り申し上げます。

昨日紹介した『大正の女性群像』、大判の本で、写真等も豊富に使われ、大正の女性文化を目で見て理解するには格好の資料です。
 
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智恵子はどんな服装、髪型をしていたのだろうかなどと思いを馳せると、楽しいものがあります。
 
それにしても、「大正」というと、昨日も書いた通り、「明治」の閉塞性に風穴があいた時代ということはいえると思います。そのためこうした庶民文化的な部分も一気に花開いたように感じます。
 
それはそれでその通りなのでしょうが、それだけではなかったのが「大正」です。『大正の女性群像』、こうした華やかな部分だけでなく、「負」の部分も忘れていません。すなわち、「女工哀史」に代表される低賃金労働や搾取、「からゆきさん」と言われた海外での売春婦、そして関東大震災……。
 
昨日も書きましたが、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか。原発事故やら政治的空白やら、「負」の部分が強調される時代であってはならないと思います。

昨日のブログで、吉本隆明氏の著書『超恋愛論』を紹介しました。
 
その中の「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」という定義。やはり光太郎智恵子を想起せずにはいられません。
 
そこで思い出したのが、先月、生活圏の古書店で購入した以下の書籍です。
 
『大正の女性群像』昭和57年(1982)12月1日 坪田五雄編 暁教育図書
 
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内容的には主に二本立てです。「人物探訪」の項で、大正期に名を馳せた各界の女性を扱い、「女性史発掘」の項で女性一般についての説明。どちらも豊富な図版、写真が添えられ、ビジュアル的にも豪華な本です。
 
「人物探訪」の項で扱われているのは、もちろん智恵子、そして平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子、柳原白蓮、田村俊子、相馬黒光、九条武子、岡本かの子などなど。
 
それぞれに名を成した女性たちですが、程度の差こそあれ、それぞれの人生が激しい恋愛に彩られています。
 
ここにはやはり「大正」という時代の雰囲気がからんでいるのでしょう。ある意味閉塞的だった「明治」が終わって迎えた「大正」。「昭和」に入って泥沼の戦争の時代になるまで、束の間、新しい風が吹いた時代だと思います。
 
その「大正」に、光彩を放った女性たち。強引な考えかも知れませんが、彼女たちも一人では埋もれてしまっていたのではないでしょうか。吉本氏曰くの「男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」である激しい恋愛を経て、それぞれの輝きにたどり着いているような気がします。
 
その結果が決して幸福とはいえない人生につながってしまった女性もいるかも知れませんが……。
 
さて、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか……。

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
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今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、大阪在住の研究者、西浦基氏から、写真その他の貴重な資料をいただきましたので御紹介します。
 
氏は精力的に海外にも出かけられている方で、以前の『高村光太郎研究』に、フランスのロダン美術館などのレポートを寄稿なさったりしています。今年はスイス、イタリア、フランスを廻ってこられたとのことで、そのうち特に、光太郎が海外留学の末期に旅行で訪れたスイスのルセルンでは、光太郎が泊まったホテル(ホテルクローネ)なども訪れられたそうです。詳細は恐らく『高村光太郎研究』に載ると思いますので、以下、氏からいただいた写真のみ紹介します。

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光太郎、スイスでも船に乗っています。
 
 今日は滊船(サルウン ボオト)に乗つて十人余りの旅客と共に「キヤトルス キヤントン」の湖を縦断して、フリユウレンの村に上陸した。
(「伊太利亜遍歴」 明治45年=1912)

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「「キヤトルス キヤントン」の湖」は、ルツェルン湖。ドイツ語名はVierwaldstätterseeで、「4つの森の州(カントン)の湖」の意味だそうです。
 
光太郎のこの旅は、スイス経由でイタリア各地を約1ヶ月で回っています。昭和29年に書かれた「父との関係」によれば「帰国する前にイタリヤを見たいと思つて、クツク会社のクーポンを買つた。そしてクーポン通りにイタリヤを見物して歩いた。」とのこと。「クツク会社」はイギリスの旅行代理店、トーマス・クック・グループ。この旅行についても詳細を調べるようにと、北川太一先生から宿題を出されています。
 
当方、日本国内では光太郎の足跡を辿る旅をさんざんやりましたが、まだ海外では故地を巡るということをしていません。こちらもいずれ、とは思っています。

昨日まで全8回にわたり、11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にての当方の発表、「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」、昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号に載った光太郎の随筆「海の思出」の検証について書きました。
 
その間に、別件でお手紙をいただいたり、光太郎がらみのテレビ放送があったりしまして、今日はその辺を御紹介します。
 
11/17に福島・川内村で行われた草野心平の忌日・かえる忌に関し、かわうち草野心平記念館長・晒名昇氏から『読売新聞』さんの記事コピーが届きました。翌日の全国版に載ったそうです。
 
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また、川内村では来年から米の作付けを再開するという記事も同封してくださいました。明るい話題ではありますが、「農家がどれだけ作付けを再開するかは不透明」「作っても売れるのか、という不安が残る」という記述もあり、手放しでは喜べませんね。
 
さらに、福島在住のかつて草野心平が刊行していた詩誌『歴程』の伊武氏から、今年7月の天山祭(やはり心平を偲ぶ催し)について書かれた『歴程』のコピーをいただきました。ありがたいことです。
 
福島といえば、「智恵子抄」。
 
11/29には、テレビ東京系の「木曜8時のコンサート~名曲にっぽんの歌~」に、二代目コロムビア・ローズさんがご出演。昭和39年(1964)のヒット曲、「智恵子抄」を披露されました。ローズさん、アメリカ在住で、時々帰国なさるとのこと。連翹忌にもご参加いただきたいものです。
 
翌30日には、BSジャパンの「小林麻耶の本に会いたい<本に会える散歩道 日比谷>」。評論家・山田五郎さんのナビゲートで、日比谷界隈の文学散歩でした。その中で約7分にわたり松本楼さんでのロケ。大正元年にこの松本楼を舞台に作られた詩「涙」の解釈と、作品に登場する氷菓(アイスクリーム)のレポートでした。松本楼の小坂哲瑯社長もご出演なさいました。昔ながらのアイスは、山田さん曰く「正しいバニラアイス、This is vanilla iceだね」。ただ、毎年ここで連翹忌が開かれているという話がなかったのが残念でした。
 
同番組、明日12/7の22:30~23:00で、再放送されます。見逃した方は是非ご覧下さい。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にての当方の発表、題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号に載った光太郎の随筆「海の思出」の検証でした。その内容を延々紹介して参りましたが、今回で一区切りです。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。『海運報国』という船舶関連の雑誌に載った文章なので、一種のリップサービスかな、と思いましたが、既知の光太郎作品にあたってみると、どうもそれだけではなさそうです。
 
△東京の自動車は危険で、あれに乗るには戦闘準備をしてゐないとならないので嫌い。汽車は酔ふから嫌い。汽船は動けば動くほどいゝ気持になつてきて、ちつとも酔はないのです。
(「〔生活を語る〕」『詩神』第2巻第6号 大正15年=1926)
 
  若し此世が楽園のやうな社会であつて、誰が何処に行つて働いても構はず、あいてゐる土地なら何処に棲んでも構はないなら、私はきつと日本東北沿岸地方の何処かの水の出る嶋に友達と棲むだらう。そこで少し耕して畠つものをとり、少し漁つて海つものをとり、多く海に浮び、時に遠い山に登り、さうして彫刻と絵画とにいそしむだらう。船は私のなくてならない恋人となるだらう。私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
(「三陸廻り」『時事新報』 昭和6年=1931)
 
『海運報国』の発行元、日本海運報国団は、光太郎がこういう考えの持ち主だと知って、執筆を依頼したのかもしれません。
 
さて、長々と「海の思出」に書かれた内容を検証して参りましたが、既知の作品や年譜に載っていない新事実は以下の通りでした。
 
幼少年期        ・小学校で蒲田の梅園に遠足に行ったこと
               ・十四歳頃、江ノ島に一人旅をしたこと
渡米(明治39年=1906)   ・ヴィクトリア経由であったこと
渡英(同40年=1907)    ・ホワイトスター社の「オーシャニック」に乗船したこと
渡仏(同41年=1908)    ・ニューヘブン~ディエップ間の航路を使ったこと
 
一篇の随筆を新たに見つけただけで、これだけの新事実が判明しました。ここまでたくさん判明するのは珍しいケースですが、新発見の短い書簡一つにも、新事実が含まれているというのはよくあるケースです。まだまだ埋もれている光太郎作品はたくさんあると考えられ、その発掘にさらに精を出したいと思います。
 
さて、以上、「海の思出」に「書かれていたこと」ですが、「書かれていないこと」にも注目してみたいと思います。
 
「書かれていた」思い出は、明治末の留学時代のことがメインで、ほんの少し幼少年期の話でした。たしかに留学の際には四年ほどの間にぐるりと地球を一周、その移動の大半が船に乗ってのことでしたので、いつまでも記憶に残っていても不思議ではありません。しかし、光太郎の人生に於いて、もう一回、長い船旅をしたことがあります。
 
それは昭和6年の夏。『時事新報』に載った紀行文「三陸廻り」の執筆のためのもので、宮城の石巻から岩手の宮古まで、少しは陸路を使っていますが、そのほとんどを船で移動しています(この旅で女川との関わりができたわけです)。しかし、「海の思出」では、この時の話には一切触れていません。
 
確かに留学時代のように、大洋を渡った001わけではありませんが、それなりに長い距離ですし、何より「海の思出」が書かれた昭和17年の時点から考えれば、11年しか経っていません。それなのに40年近く前の留学の話がメインなのです。これはどういうことでしょうか。
 
「書かれていないこと」についての考察は、とかく恣意的になりがちで、えらい学者先生には怒られるかも知れませんが、あえて考えてみると、三陸旅行中に智恵子の統合失調症が顕在化したという事実を無視できません。光太郎にとって、三陸旅行はつらい記憶を呼び覚ますものでもあったので、「海の思出」に書かなかった(または書けなかった)のではないか、と思えてしかたがありません。いかがでしょうか?
 
以上、「海の思出」に関するレポートを終わります。

明治42年(1909)、光太郎は、ニューヨーク、ロンドン、パリでの3年余の留学を終える決意をし、3月から4月にかけ、締めくくりにイタリアを旅行します。パリから陸路、スイス経由でイタリアに入り、ヴェニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを廻ってルネサンス期の芸術作品などを見た光太郎、それらの持つ圧倒的な力に打ちのめされます。
 
先の高村光太郎研究会で、大阪在住の研究者・西浦氏から光太郎が廻った各所の写真等をいただきました(今年、行かれたそうです)。後のブログでその辺りも紹介しようと思っています。
 
さて、光太郎。5月にはいったんロンドンに渡り、テムズ河口から日本郵船の船に乗って、帰国の途に就きます。到着地は神戸港でした。「海の思出」には以下のように書かれています。
 
 日本に帰る時は盛夏の頃ロンドンから郵船の松山丸とかいふ小さな汽船に乗つたが、事務長の好意で愉快な航海をした。
 
この一節を読んで、「あれっ?」と思いました。既知の光太郎作品や年譜では、この時に乗った船の名が、「松山丸」ではなく、すべて「阿波丸」となっているからです。よくある光太郎の記憶違いなのだろうと思いました。「盛夏の頃」というのも間違いで、正確には5月15日です。同様に、船名も単なる間違いだろうと思いました。『高村光太郎全集』第21巻に収録されている、親友だった水野葉舟にあてた書簡は帰国の船中から書かれたもので、「阿波丸船上より」とか「五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。」と書いてあるので、まず「阿波丸」で間違いないと思ったのですが、一応調べてみました。
 
すると、この当時、日本郵船には「松山丸」「阿波丸」ともに就航していたことがわかりました。ただし、「松山丸」は3,099トンの小さな船で、一方の「阿波丸」は6,039トンと、「松山丸」の倍位の大きさでした。
 
明治34年(1901)10月、東洋堂刊の『風俗画報増刊乗客案内郵船図会』によれば、欧州航路の説明として、「此航路に供用する汽船は悉く六千噸以上の双螺旋大汽船にして。電気燈、煽風機等諸般の設備其の他の結構。総て最新式に拠れり。」とあります。「松山丸」は明治18年(1985)の建造ですから「最新式」とは言えませんし、何より「六千噸以上」の条件に当てはまりません。
 
また、昭和59年 海人社刊『日本郵船船舶百年史』によれば、欧州航路に就航した船の中に、「阿波丸」の名はありますが、「松山丸」の名はありません。
 
やはり「松山丸」と書いたのは光太郎の記憶違い、従来通り「阿波丸」に乗ったと断定してよいでしょう。
 
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この点を高村光太郎研究会で発表したところ、北川太一先生から「何もないところから『松山丸』という実在の船の名が出て来るというのも考えにくいので、もしかしたら、他の時に他の場所で『松山丸』という船に乗ったのかもしれないから、調べるように」と、宿題を出されてしまいました(さらにイタリア旅行についても宿題を出されています)。参りました(笑)。
 
ちなみに「阿波丸」。太平洋戦争中に米潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。やはり船名使い回しで、光太郎が乗ったのはⅠ世、大戦中に撃沈されたのはⅡ世です。余談になりますが、明治45年(1912)、東京市長・尾崎行雄から贈られ合衆国ワシントンポトマック河畔に植えられた桜6,040本を運んだのが、光太郎の乗った「阿波丸」Ⅰ世です。同じ「阿波丸」でも、Ⅰ世は日米友好のシンボルを運び、Ⅱ世は米軍により撃沈。皮肉なものですね。
 
9/12のブログに書きましたが、現在、横浜港に保存されている「氷川丸」。「阿波丸」と同じく日本郵船の船です。ただ、「氷川丸」の方が20年ほど新しく、総排水量も11,622トンと「阿波丸」の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い見て来ました。なかなか面白いものがありました。皆さんも横浜にお立ち寄りの際にはぜひ行ってみてください。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。次回、この一言をめぐる考察を書き、このレポートを終えさせていただきます。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポート。あと少しです。
 
明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
「オーシャニック」での船旅でのエピソードを、「海の思出」に光太郎はこのように書きます。
 
私と同じ船室に居た若いフランスの男に君の住所は何処かとたづねたら、「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」と答へた。
 
まるで映画のワンシーンのようですね。「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」なかなか言えるセリフではありませんね。映画といえば、こんなエピソードも。
 
驚いたのはその船に乗つてから初めて知り合つた米国の男女が一週間の航海のうちに恋愛成立、上陸したらすぐ結婚式をあげるのだと一同に披露したことであつた。一同は大にそれを祝つた。
 
映画の「タイタニック」を彷彿させます。もっとも、あちらのディカプリオとケイト・ウィンスレットは例の氷山衝突事故のため、永遠の別れを余儀なくされましたが……。
 
さて、「タイタニック」といえば、光太郎が乗った「オーシャニック」と同じ、ホワイトスター社の船です。処女航海(結局、これで沈没してしまうのですが)は明治45年(1912)。光太郎が「オーシャニック」で渡英した5年後です。この2隻、単に同じホワイトスター社の保有というだけでなく、かなり密接な関係があります。
 
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すなわち、前回のこのブログで書いた「オーシャニック」の基本理念、「豪華な設備と乗り心地のよさ」を発展させていったものが「タイタニック」なのです。また、「タイタニック」のクルーの中に、「オーシャニック」のクルー経験者が4人います。マードック1等航海士、ライトラー2等航海士、ピットマン3等航海士、ムーディ6等航海士の4人です。特にライトラー2等航海士とピットマン3等航海士は、光太郎が乗船した明治40年の時点で、「オーシャニック」に乗っていたようです。
 
「タイタニック」は氷山との衝突による沈没という悲劇的な末路をたどりましたが、「オーシャニック」もその末路は哀れでした。
 
華やかな名声に包まれたこの客船には、短い寿命しかなかった。一九一四年、第一次大戦が勃発するや、仮装巡洋艦に改装され、第一〇巡洋船隊に配属されて作戦行動に出る。ところが、大型商船に無経験な海軍士官が艦長になっていたせいか、悪天候のなかでシェトランド諸島の島で座礁沈没、わずか一五年の生涯を閉じてしまう。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
諸行無常、盛者必衰ですね……。
 
「海の思出」、この後は明治41年(1908)の渡仏に関する短い記述が続きます。
 
 英仏海峡はニユウヘブン――ヂエツプを渡つた。至極平穏な数時間で、私はその間にドオデエの「サフオ」を読み了(おは)つた。海峡の現状を新聞で読むと感慨無きを得ない。
 
何気なく書いてありますが、ニユウヘブン(ニューへブン・英)――ヂエツプ(ディエップ・仏)間の航路を使ったというのも、今まで知られていた光太郎作品や年譜には記載されていませんでした。ちなみにここには現在も航路が通っています。
 
「海峡の現状」は、この「海の思出」が書かれた昭和17年(1942)に、「ディエップの戦い」という連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦が行われたことなどを指していると思われます。
 
さらに「海の思出」は、留学の末期(明治42年=1909)にイタリア旅行に行って訪れたヴェニスの記述をへて、同じ年の帰国に関して記されます。そちらは次回に。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートの5回目です。
 
前回、明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の画期的な船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
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では、「オーシャニック」、どこが画期的だったのでしょうか。
 
この当時、大西洋を最速で渡った船に「ブルーリボン賞」という賞が与えられる制度がありました。ホワイトスター社の船も、何度か受賞しています。しかし、「最速」にこだわるあまり、乗り心地や乗客の利便性を後回しにする傾向も見られました。
 
当時、スピードが速いと人気のあったドイツ客船は、高速という誉れの蔭に、船体振動という恥部を隠していたわけである。船旅の快適さを考えた振動軽減への配慮よりも、とにかく海象のいかんにかかわらず、蒸気圧を最大に上げて、フルスピードで航海する。そして一時間でも早く目的地に到着するというのが、船会社側のやり方であった。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
2~3時間を短縮するために多大の犠牲を払い、その短縮された時間を到着したニューヨークやマージー川(※リバプール)で錨を降ろして(入港待ちをして)過ごすのは無駄なことだったのである。(中略)ニューヨークへの到着は、暗くなってからだと意味がなかった。乗客は入国手続きを待つために、翌日まで船内に留まることになったからである。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
ホワイトスター社のイズメイ社長は、こうした風潮に疑問を持ちます。また、コストの問題もありました。
 
ドイツのライバルに勝つためには、二三ノットを出す必要があるが、これには建造費が割高になることから計画を変え、機関の出力を二万八〇〇〇馬力(KWDG=ドイツ船籍の客船、カイザー・ウィルヘルム・ディア・グロッセは三万一〇〇〇馬力)に抑えた。こうして、スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような大型船、という新しいコンセプトに到達した。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
そうしてエンジンにかかるコストを抑えた分を、内装に回したのです。
 
上等級の船客設備などは、スケールの大きさと豪華さでは、当時で群を抜くと評判を得る。ドーム付き天井の一等食堂は、両舷の大スカイライトから採光されていたり、図書室は念の入った装飾で、人びとを驚嘆させるに充分なものだった。スティアレジ客室のスペースも、他社船よりゆったりしたものだった。(中略)オセアニックは、その豪華な設備と乗り心地のよさで、〈大海原の貴族〉と称えられるようになる。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
速力の不足は、船室と公室の水準が非常に高いことで、補って余りあるものだった。(中略)2本の大変背の高い煙突は、優雅で堂々とした印象をかもし出した。そして速力を追求することだけが大西洋航路客船の目指す絶対目標ではなく、乗客は高水準の船旅や到着時間の確実性をも同じくらい熱望していることを、この船は示して見せたのである。出力に余裕があるために、単調ともいえるほどの定時運転で大西洋を横断できたのであった。ホワイトスター・ラインにおいては、この船は完全な「1週間船」だった。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
こうした「オーシャニック」の特徴は、「海の思出」や既知の作品「雲と波」に語られる光太郎の回想と一致します。
 
ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。これは又「アゼニヤン」の時とは雲泥の相違で毎日好晴に恵まれて、まるで湖水でも渡るやうな静かな海であつた。(「海の思出」)
 
 大洋を渡るのは二度目になるが、前の時とは違つて今度は出帆の日から今日まで実に静かな美しい海を見つづけた。前の時にはこんなにやさしいあたたかい趣が大洋にあらうとは夢にも思はなかつた。
(略)
 今度の航海の愉快な事は非常だ。全く此の大きな船が揺籃の中に心地よく抱かれてゐる様だ。此の親しむ可くして狎るべからざる自然のTendernessとCalmnessとは僕の心をひどく暖かにして呉れた。と共に又自然の力の限り無く窮り無い事を感ぜしめられる。(「雲と波」)
 
ホワイトスター社では、この船の成功に自信を得て、速度より乗り心地の追及をさらに進めます。その結果、ブルーリボン賞とはほとんど無縁となりますが、このコンセプトが船客には支持されました。特に富裕層は同社の船に好んで乗船したそうです。
 
ここで疑問に思うのは、渡米の際には特別三等の「アセニアン」で経費削減を図った光太郎が、渡英の際にはなぜこんな豪華客船に乗ったのかということ。その答えは昭和29年に書かれた「父との関係―アトリエにて―」にありました。
 
父の配慮で農商務省の海外研究生になることが出来、月六十円ばかりの金がきまつてくる事になつたので、六月十九日に船に乗つて大西洋を渡り、イギリスに移つた。
 
諸説ありますが、明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると60円は240,000円。そして光太郎が「オーシャニック」で利用したのは2等。1等は目玉の飛び出る様な金額だったようですが、2等ならそれほどでもなく、利用可能だったのだと思われます。
 
長くなりましたが、明日はもう少しだけ「オーシャニック」の話と、続く渡仏、さらに帰国直前のイタリア旅行中の話を。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。
 
幼少年期、渡米に続いて書かれているのは、明治40年(1907)に、アメリカからイギリスに渡った際の話です。
 
最大の収穫は、渡英の際に乗った船が判ったことでした。
 
これまでに見つかっていた光太郎の文筆作品では、明治40年、渡英の船内で書かれた「雲と波」という比較的長い文章があり、航海の様子などは詳細に記されていました。しかし、肝心の船名は書かれていませんでした。また、昭和29年(1954)に書かれた「父との関係-アトリエにて-」という文章でも渡英に触れていましたが、船名の記述はなし。ただ、「ホワイト スタア線の二万トン級」とだけは書かれていました。「ホワイトスター」は、イギリスを代表する船会社で、明治45年(1912)には、かのタイタニックを就航させています。
 
さて、「海の思出」。
 
大西洋を渡つたのは一九〇七年の晩秋頃だつたと思ふが、この時は二萬トンからある「オセアニヤ」とかいふホワイト・スタア線の大汽船で、ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。
 
と、船名が書かれていました。やはり船会社はホワイトスター社とのこと。そこで早速調べて見ましたが、同社の船には「オセアニア」という船名はありませんでした。しかし、よく調べてみると、同社の主要な船は「タイタニック」(Titanic)のように、すべて「~ic」で終わる名前を付けています。これをあてはめると「オセアニア」(Oceania)ではなく「Oceanic」となるはず。こう思って調べてみると、「Oceanic」、確かにありました!
 
まず、明治4年(1871)に就航した同社最初の大西洋横断船。ところが、これは渡米の際に乗った「アセニアン」と同じくらいの3,707トンしかなく、時期的にも古すぎます。しかし、洋の東西を問わず、船名は同じ名前を使い回す習慣があり、「Oceanic」にもⅡ世がありました。こちらは明治32年(1899)の就航。光太郎が渡英した同40年(1907)にも現役で航行していました。総トン数も17,272トン。光太郎曰くの「二萬トンからある」に近い数値です。
 
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ところで「Oceanic」の片仮名表記ですが、当たった資料によって「オセアニック」「オーシアニック」「オーシャニック」といろいろでした。いずれにせよ、「Ocean=海」の派生語ですので、ここからは「オーシャン」に近い「オーシャニック」と表記します。
 
さて、「オーシャニック」。ホワイトスター社のみならず、大西洋航路全体として見ても、画期的な船でした。画期的ゆえに、同社では記念すべき大西洋航路の初船と同じ「オーシャニック」の名を冠したのです。その画期的な部分が、「海の思出」や「雲と波」の光太郎の記述と合致します。どこがどう画期的だったのかは明日のこのブログで紹介します。

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