2012年09月

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

今日は神田神保町・東京堂書店さん6階の東京堂ホールで開催された講演会「与謝野夫妻の評伝を書き終えて」を聴きに行ってきました。
 
講師は与謝野夫妻研究の第一人者、逸見久美氏。北川太一先生とも旧知の間柄で、講演会終了後ご挨拶に行ったら「北川先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃっていました。
 
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今回の講演は、逸見氏のご著書『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念ということで、版元の八木書店さんの主催でした。
 
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労作です。それから同じ八木書店さんからは『与謝野寛晶子書簡集成』というご著書も出されています。
 
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どちらのご著書にも大変お世話になりました。というか、最近また光太郎と与謝野夫妻がらみの新資料が続々見つかってきましたので、現在進行形でお世話になっています。
 
光太郎の本格的な文学活動の出発点は与謝野夫妻の新詩社から。寛のプロデューサー的な才能はかなり高かったようで、今日のご講演でも、「現在、晶子の名が高く、寛がかすみがちだが、寛あっての晶子である」という趣旨のご発言がくり返されました。そういう意味では光太郎も寛のプロデュースにうまく乗った一人なのではなかろうかと思います。
 
というふうに、光太郎と縁の深い与謝野夫妻ですが、当方、与謝野夫妻についてどれだけ知っているかというと、その知識は貧弱です。そういうことではいかんな、と思い、今日のご講演を拝聴しに行きました。光太郎だけに詳しい専門馬鹿では駄目ですね(といって、光太郎についてすべてを知っているかと問われれば答は「否」ですが)。せめて光太郎と近しい間柄だった人々に関しては、ある程度押さえておく必要があります。だから昨日はリーチ展にも行きました。「木を見て森を見ず」にならぬよう、光太郎を取り巻いていた環境をしっかり把握したいと思っております。
 
さて、今日のご講演で特に面白く感じたのは、逸見氏が与謝野夫妻の書簡を求め、日本各地を歩かれたくだり。1回の調査で百通を超える書簡が見つかり、現地に数週間滞在して調査なさったとか、コピー機のない時代で、すべて筆写したとか、筆写にあたって寛の字は読みやすいが晶子の字は実に読みにくいとか、御労苦がしのばれました。当方も似たような経験をしておりますので、尚更です。しかし、光太郎に関しては既に北川太一先生がほとんどやりつくされていますので、当方はその落ち穂拾い。あらためて北川先生も昔はそういう御苦労をされたんだろうな、と感じました。
 
落ち穂もまだまだたくさん残っています。今日も午前中、駒場東大前の日本近代文学館さんに寄ってから講演に行きましたが、やはり落ち穂がありました。いずれ「光太郎遺珠」にて紹介します。
 
ついでに言うなら来週は横浜の神奈川近代文学館さんに落ち穂拾いに行って参ります。

8/25のブログで紹介した高島屋横浜店さんにおいて開催中の「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」に行って参りました。
 
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図録(\2,000)
 
当方、リーチの作品をまとめて観たのは初めてで、感動しました。素朴な作品が多いのですが、それが稚拙とか凡庸というわけではなく、温かみやしっかりと個性を感じさせるものでした。
 
ゴテゴテした装飾過剰に陥らず、外連味(けれんみ)や奇をてらうといったこともなく、「用の美」の精神が具現されていると感じました。光太郎も「用の美」の重要性をよく説いていました。ただし、光太郎の場合、戦時中の戦闘機などの機能美にそれを見ていたこともあるのですが……。
 
逆に、奇抜といえば奇抜なアイディア-たとえばアルファベットや数字を絵付けする-も秀逸だと思いました。それが違和感なく調和しており、しかし日本の陶芸家がこれをやると外連味と感じられるのかも知れません。
 
平日にもかかわらず会場はにぎわっていました。NHKさんの「日曜美術館」で取り上げられた影響もあるかも知れません。「これ、テレビでやってた作品だね」などと話しながら見ている老夫婦もいらっしゃいました。当方もテレビで得た知識が理解や鑑賞の手助けになりました。
 
にぎわっていたのはテレビの影響だけではないでしょう。もちろん、横浜という大都市だということもあります。しかし、美しいものを見たい、という欲求があるからこそ人が集まるのでしょう。そういう欲求が持てるのも人間の特権の一つだと思います。
 
忙しさに追われて日々を送っている皆さん、たまには美術館に足を運びませんか? 
 
リーチ展、以下の日程になっています。
 横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
 大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
 京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

9/17のブログで御紹介した和歌山県田辺市立美術館の「詩人たちの絵画」展。
 
連翹忌に御参加くださっている学芸員の三谷氏から、図録、チラシ、招待券まで戴いてしまいました。誠に恐縮です。

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図録
 
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 チラシ
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図録に関しては「稚拙なものでお恥ずかしい」などとお手紙にありましたが、どうしてどうして美しい出来です。信濃デッサン館長の窪島誠一郎氏の巻頭言も読みごたえがありますし、全体にコンパクトながら要所要所がよくまとまっています。
 
出品されているのは以下の人々の作品です。
 
高村光太郎   木下杢太郎  佐藤春夫 中川一政 西脇順三郎 村山槐多 片山敏彦 富永太郎 小熊秀雄 難波田龍起 立原道造 
 
光太郎作品は、「庭」(油絵・明治43年=1910)、「室内」(同・明治末)、十和田湖畔の裸婦像のためのデッサン(昭和27年=1952)、そして彫刻の「手」(大正7年=1918)です。

光太郎は明治42年(1909)に海外留学から帰ってしばらくの間、父・光雲を中心とする旧態依然の彫刻界との対立から、彫刻制作より絵画の方に情熱を傾けていました。「庭」「室内」ともにその時期の作品です。彫刻制作から離れての代償行為とか余技といったレベルではなく、西洋で学んだ美の表現の在り方がきちんと反映されており、いい絵だと思います。
 
他の出品作家の作品も、図録で見て、それぞれに個性的で面白いと思いました。村山槐多や難波田龍起は絵画が本職ですので当然ですが、西脇順三郎や立原道造が、ここまで玄人はだしの絵を描いているとは知りませんでした。
 
お近くの方、是非お越しください。
 
当方、今回はパスするつもりでしたが、今、予定表を見ながら、かつて紀伊田辺駅前で食べたマグロ海鮮丼を思い出し、非常に心が動いています(笑)。

誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

昨日まで、著者名の取り違えや誤植といった件について書きました。人間のやることですし、笑ってすまされるようなミスならいいのですが、中には笑ってすまされはしない、義憤を感じるものもあります。
 
下の画像は、10数年前に刊行された書籍の表紙です(部分的にモザイクをかけてあります)。

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お気づきでしょうか? 問題の箇所を拡大してみましょう。

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ついでに裏表紙からも。
 
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「高村光太郎」とすべきところが「室生犀星」。あまりに低レベルのミスで、話になりませんね。さすがに中身は「高村光太郎」となっていますが、表紙は書籍の顔。それがこういうことでいいのでしょうか?
 
この書籍は、小学校の教員向けに国語の授業の進め方の実践例を紹介するもので、この手の書籍の版元としては最大手の某出版社から出ています。「最大手」ですよ、「最大手」。個人経営の街の古書店が目録で著者名を取り違えるのとは影響力が違いますね
 
これはあんまりだ、と思い、この出版社に手紙を送ったのですが、なんのかんのと理由をつけて、訂正されていません。いまだにこの社のオンラインショップでも堂々と訂正されないまま販売されているようです。しかも、この点で突っ込まれるのを警戒しているのでしょうか、他の出版物は鮮明な画像で表紙を紹介しているのに、このシリーズのみぼやけた画像になっています。こういうのを「姑息」というのでしょう。
 
それにしても、中身の部分を書いた人、監修者として名前を挙げられているえらい先生は、何にも言わなかったのでしょうか? その辺からの抗議があったとしても無視なのでしょうか
 
この社には「出版社」または「出版者」としての良心、矜恃、心意気、誇り、気骨といったものが感じられません。まぁ、ないでしょうが、仮に執筆依頼が来たとしてもお断りします。「渇しても盗泉の水を飲まず」といったところですね。
 
ところで、光太郎自身も誤植には悩まされていました。そうした場合に光太郎が執った措置を次回は御紹介します。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログに名前を挙げました「神保光太郎」。同じ「光太郎」ということで、「高村光太郎」と取り違えられる事がある詩人です。山形出身ですが、埼玉での生活が長かったそうです。
 
神保の方は明治38年(1905)生まれなので、明治16年(1883)生まれの光太郎より20歳ほど年下ですが、二人は交流がありました。『高村光太郎全集』をひもとくと、随所に名前が出てきます。そういう意味では9/4のブログに書いた「光太郎梁山泊」の一員ですね。
 
数年前、高村光太郎から神保光太郎あての(ややこしいですね)それまで知られていなかった葉書を入手しましたのでご紹介します。
 
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昭和17年(1942)12月のものです。
 
この間は無事な御様子を見て安心しました、今度は実に御苦労な事であつたとまつたく感謝します。大きな仕事をして来られたわけです。あなたの風貌に何となく幅が出来たことを感じました。風邪のやうでしたが、出来れば二三日でも入湯されればいいと思ひます。伊香保ならばよい家を御紹介しますが少々寒すぎるでせう。やはり伊豆がいいでせう。夫人にもよろしく。
「おいこら」で夫人を驚かせないやうに願ひます。いづれまた、
 
「実に御苦労な事」というのは、神保が約1年、報道班員として南方戦線に従軍したことを指します。
 
光太郎の筆跡、決して流麗な達筆というわけではありませんが、独特の味わいがあります。この筆跡を見るとほっとするような温かさというか……。
 
さて、情報提供のお願いです。平成18年(2006)の明治古典会七夕古書台入札会に、やはり高村光太郎から神保光太郎宛の書簡20通と原稿が出品されました。最低落札価格は30万円。とても手の出る代物ではなくあきらめましたが、ある意味、あきらめきれません。虫のいい話ですが、ともかく内容を知りたいと思っています。これの行方をご存じの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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追記 大妻女子大学さんでこちらを購入されたこが判明しました。ありがとうございました。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

先週、成田市立図書館さんに行き、昔の銅像写真集『偉人の俤』を調べたことを書きました。
 
その際、ついでに開架の棚を見たところ、書誌情報関連の書籍や古い雑誌の復刻版などがそれなりに充実しているのがわかりました。しかし、その時には光太郎書誌に関するリストを持って行かなかったので、昨日、また行ってきました。
 
書誌情報関連の書籍というのは、簡単にいえば「何々という書籍/雑誌に誰々の書いた文章が掲載されている」という類のものです。
 
以前にも書きましたが、当方、まだ世に知られていない光太郎文筆作品の集成をライフワークとしています。そうして見つけたものは、「光太郎遺珠」の題名のもと、年一回公表しています。現在は高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』の中の連載とさせていただいております。
 
さて、昨日の調査、やはりそう簡単には未知のものは見つ000かりません。「ああ、これはリストに載っている」「この復刻版は時期がずれてて光太郎作品は載ってないな」という連続です。しかし、あきらめかけた頃、書架の片隅である書籍を見つけました。かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち杉並けやき出版発行。題名を見ただけで「これは使える!」、ピンときました。
 
古書目録というのは、古書店が発行している在庫目録です。デパートなどで行われる古書市の出品目録として、何軒かの古書店が合同で発行する場合もあります。この手のもの、当方の自宅には月に10冊位が送られてきます。詳しい記述があるものは、書籍の題名や著者、刊行年、価格などの基本情報以外に、「誰が序文を書いている」とか「誰が装幀した」といったことまで書かれており、貴重なデータベースです。
 
たとえば最近届いた府中の古書かつらぎさんの目録。有島生馬の小説集ですが、島崎藤村が序文を書いているという情報が載せられています。

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この手の情報は非常にありがたいものです。実際、こういう記述が決めてで購入し、新たに発見した光太郎の文章なども少なくありません。
 
余談になりますが、売り上げが伸びなくて困っている、という古書店様。基本的なことしか書いていない目録では限界がありますよ。面倒でもこういう工夫が必要だと思います。
 
さて、「序文検索―古書目録にみた序文家たち」。こうした古書目録に載った「誰が何という本に序文を書いている」という情報の集成です。500ページ近い大著で、約1,600人・約12,000冊の書籍がリストアップされています。素晴らしい! 編集には気の遠くなるような労力が必要だったことでしょう。
 
光太郎に関しても、70冊以上の書籍が紹介されていました。大半はすでに知られているものでしたが、数冊、未知のものが含まれていました。今後、各地の図書館や古書店のサイトにあたり、どんなものか突き止めたいと思っています。確実に未知のものであれば「光太郎遺珠」に登録していきます(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)。
 
ちなみに帰宅してから調べたところ、同じシリーズで「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」という書籍もあり、やはり成田市立図書館さんに所蔵されているとのこと。こちらも期待できます。
 
光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨に至るまで、できうる限り収集し、次の世代へと引き継いでいきたいとというのが当方の基本スタンスです。今後も草の根を分けてでも探し出すつもりでおります。

新着情報です。
 
まずはイベント系。二本松市で行われている「智恵子講座’12」。先日、詩人の木戸多美子さんが講師を務められた第4回に行って参りましたが、あまり間をおかず第5回が開催されますのでお知らせします。 

智恵子講座’12 第5回

期 日 : 2012年10月8日 (祝)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時 間 : 午前10時~
料 金 : 1,000円
内 容 :
 「闘病別離期を中心に」 講師 小野浩氏(元いわき市立草野心平記念文学館学芸員)
 
全7回のうちの5回目で、希望する会だけの参加も可能とのことです(参加費1,000円)。申込先は智恵子のまち夢くらぶの熊谷さん。tel/fax0243-23-6743。1週間前ですから来月はじめまで申し込み受付中のようです。
 
今回は当方、別件の用事があり、欠席いたします。
 
 
続いてテレビ放映。CS放送です。十和田湖が扱われるようです。 

山崎まゆみの混浴秘湯めぐり Part2 #1

CS362 旅チャンネル

2012年9月26日(水) 25時00分~25時30分 (正確には9月27日(木)午前1時00分~1時30分)
再放送 9月29日(土)9:30 ~ 10:00  10月8日(月)26:00 ~ 26:30
 
「青森県・酸ヶ湯温泉」 温泉 混浴秘湯 伝統的な湯治場や野趣溢れる野天風呂の混浴温泉をご案内 広さ160畳のヒバ千人風呂 出演:山崎まゆみ(温泉エッセイスト)

番組内容

日本人がこよなく愛し、その文化を育んできた「温泉」。その原風景ともいえる「混浴」という習慣。この番組では、「だから混浴はやめられない」(新潮新書)等の著作で知られる、温泉エッセイスト山崎まゆみが、伝統的な湯治場や野趣溢れる野天風呂の混浴温泉をご案内。さらにその地に伝わる歴史や文化を体験し、温泉を介した人との出会いを楽しみます。 第1話「青森県・酸ヶ湯温泉」今回は300年の歴史を誇り、160畳もの広さを誇る混浴のヒバ千人風呂で有名な温泉、青森県の酸ヶ湯温泉を訪れます。酸ヶ湯温泉は海抜900メートルの高さにあり、雲上の霊泉とも称され、その豊富な温泉の湧出量や効能、さらには清純な環境が認められて国民温泉第1号として指定を受けたほどの名湯。そんな酸ヶ湯温泉の魅力を八甲田の自然や十和田湖の美しさを交え、たっぷりとご紹介いたします。


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無料放映の期間に当たっているようです。衛星放送受信用アンテナが必要ですが、観られる環境の方、ぜひどうぞ。

今日も新着情報をお届けします。
 
テレビ放送です。 

にほんごであそぼ

NHKEテレ1 2012年9月24日(月) 7時30分~7時40分  再放送17時15分~17時25分 
 
楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につける番組。今回は、僕の前に道はない「道程」高村光太郎、文楽/風の又三郎、山陽 旬、うた/「鉄道唱歌」「ええじゃないか日本」

番組内容
日本語の豊かな表現に慣れ親しんで、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることをねらいとしている。今回は、僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、文楽/どっどど どどうど どどうど どどう「風の又三郎」宮沢賢治、ひこうき山陽 しゅんしゅん旬~秋~/きりぎりす、絵あわせかるた/こころよ では いっておいで「心よ」八木重吉、うた/「鉄道唱歌」「ええじゃないか日本」。

出演 神田山陽,豊竹咲甫大夫,鶴澤清介,おおたか静流,うなりやベベン,桐竹勘十郎 ほか

こちらの番組、過去の放映がCDやDVDになっており、光太郎作品を含むものもあります。

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CD 「にほんごであそぼ 名文しりとり」  詩「冬が来た」収録
平成18年(2006) NHKエデュケーショナル/ワーナーミュージックジャパン ¥2,400

 
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DVD 「にほんごであそぼ コニちゃん満腹」 詩「あどけない話」収録
平成17年(2005) NHKエデュケーショナル/NHKエンタープライズ ¥2,857+税
 
子供の頃から、自然な形で日本の優れた文学作品に触れるということも、大切なことだと思います。
 
 
もう一件、「高村智恵子」をキーワードにしたニュース検索でひっかかりました。

長寿者:「いつまでもお元気で」 萩市長、高村さん100歳祝う /山口

毎日新聞 9月15日(土)14時14分配信
 敬老の日(17日)を前に、萩市の野村興児市長は14日、100歳になったばかりの高村智恵子さん=同市平安古=を訪ね、お祝い金と果物を贈呈した。
 同市の長寿者は、106歳の小橋ツルさん=同市玉江浦=を最高に、100歳以上が44人(14日現在)。65歳以上の人は約1万9000人で、高齢化率は35・39%。
 高村さんは長男の龍夫さん(74)とかずえさん(74)の3人暮らし。子供3人、孫5人、ひ孫8人がいる。100歳の誕生日の11日は、家族に囲まれてお祝いをしたという。
 健康の秘訣(ひけつ)は、テレビを見たり、月3、4回のデイサービスで趣味の絵を描くこと。刺し身や肉が好物という。耳が遠いほかは元気で、野村市長が「誕生おめでとうございます。いつまでも元気でいてください」と話しかけると、「ありがとうございます」と手を合わせていた。【川上敏文】
〔山口版〕
 
いい意味で笑いました。高村智恵子さん、これからもお元気で。
 
ちなみに本物の(?)高村智恵子は明治19年(1886)生まれ。昭和13年(1938)に満52歳で亡くなりました。存命なら今年で126歳ですね。
 
ちなみに今年は大正に換算すると大正101年です。もはやご存命の明治生まれの方はすべて100歳以上なんですね。いつまでもお元気で。

二本松ネタで2~3日まかなおうと思っていましたが、新着情報がいろいろありますので、そちらを。
 
ニュース検索結果から。 

日枝神社例大祭:「火伏の神輿」伊勢佐木町を練り歩く /神奈川

毎日新聞 9月16日(日)13時22分配信
 「お三さま」と呼ばれ親しまれる日枝神社(横浜市南区山王町)の例大祭が15日、横浜市中区のイセザキ・モールなどで始まった。16日まで。
 初日は、西郷隆盛像などで知られる高村光雲氏(1852~1934年)が彫刻を施した「火伏(ひぶせ)の神輿(みこし)」を、白装束の氏子たちが担いでイセザキ・モールを練り歩いた。関東大震災と横浜大空襲で被害をまぬがれたことから「火伏の神輿」と呼ばれ、普段は県立歴史博物館に展示されている。
 16日はいずれもイセザキ・モールで、町会が所有する「平成神輿」を担いで練り歩く「町内大神輿渡御」(午後1時)、高さ約3・7メートルの「千貫神輿」をトレーラーでけん引する「大神輿奉安」(同5時)などが予定されている。
 伊勢佐木町1・2丁目商和会副理事長の津田武司さん(73)は「(平成神輿は)150~200人の担ぎ手を必要とする。それだけの迫力があるので、ぜひ見てほしい」と話している。【山下俊輔】

9/13のブログで紹介した光雲作の神輿についてですね。
 

「詩人たちの絵画」展:高村光太郎作品など60点--田辺 /和歌山

毎日新聞 9月16日(日)15時16分配信
 田辺市立美術館(田辺市たきない町)で15日から「詩人たちの絵画」展が始まった。文学と美術の双方に才能を発揮した近代日本の詩人11人の作品約60点を展示。11月4日まで。
 高村光太郎「庭」(油彩、1910年)▽木下杢太郎「自画像」(水彩、11年)▽佐藤春夫「下里風景」(油彩、制作年不詳)▽小熊秀雄「夕陽の立教大学」(油彩、35年)▽西脇順三郎「伊太利旅行(イタリーの麦畑)」(油彩、60年代)--などを展示。明治から昭和にかけての近代日本の文学と美術の結びつき、絵画表現の豊かな広がりが展望できる。10月20日午後2時からは、同館学芸員や市立図書館司書による「詩の朗読会」も開かれる。
 月曜(9月17日、10月8日を除く)と9月18日、10月9日は休館。観覧料600円(学生と18歳未満は無料)。問い合わせは同館(0739・24・3770)。【野原隆】
 
同館は平成20年(2008)、企画展「智恵子抄 光太郎・智恵子と佐藤春夫」を開催しました。そのご縁で学芸員の方には連翹忌にご参加いただいております。

 
それから、たまたまネットサーフィン(死語?)中に見つけたのですが、福岡で舞台公演があります。
★第一部『愛ガ咲ク コンサート』
  第二部『智恵子抄』(高村光太郎への愛を一生貫き、罵り、叫び、崩れていった、女の半世)
●一般¥3000 学生¥2000 (全席指定)
 ★10/7(日)14時/18時 ふくふくホール(福岡市中央区荒戸3-3-39)
 ★10/13(土)14時 E ternity (福岡市博多区中洲3-7-7 ロックハリウッドビル)

 
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当方、10/13のチケットを購入しました。福岡まで行ってきます。
 
成田からANAで福岡空港まで飛びますので、実は意外に早く着きます。平成20年(2008)に和歌山田辺の企画展「智恵子抄 光太郎・智恵子と佐藤春夫」を見に行った時も、羽田から南紀白浜に飛んだので、十分日帰り可能でした。
 
当方、福岡は初めてです。学生時代に関門海峡まで車で行き、対岸を観て「あれが福岡か、いつか行くぞ」と思っていたのが、約30年ぶりに果たせます。 

今日は二本松に日帰りで行って参りました。新幹線で行くより安いし早いので、車で行きました。
 
朝10時から智恵子の生家近くで「第4回智恵子純愛通り記念碑建立祭」。遅れてはいけないと思い、早くに家を出たところ、あまりに早く着きすぎてしまいました。そこで、久しぶりに智恵子生家とそれに附属して建てられている智恵子記念館、智恵子の実家長沼家の墓所のある満福寺さん、生家裏手にある「樹下の二人」詩碑に行きました。
 
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智恵子生家
 
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「ほんとの空」
 
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長沼家墓所
 
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智恵子献納の花立て
 
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「樹下の二人」詩碑
 
さて、肝心の建立祭。主催者挨拶のあと、昭和39年(1964)、二代目コロムビア・ローズさんが歌ってヒットした「智恵子抄」を全員で歌いました。小学生もすらすら歌える、というのが驚きでした。さすがご当地。指揮は6月の「智恵子講座」で講師を務められた二本松在住の児童文学者・金田和枝先生。ちなみに今日がお誕生日だったそうです(さすがにここでは女性の年齢は公表しませんが)。

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碑への献花、小中学生を含む地元の皆様の詩の朗読、地元のハーモニカサークルの発表など、1時間ほどのプログラムでした。

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午後は二本松市民交流センターに会場を移し、第4回「智恵子講座」。今回の講師は二本松在住の詩人、木戸多美子氏。光太郎・智恵子の結婚後、智恵子の統合失調症発症までの二人の文筆作品をメインに、詩人らしい鋭い感性でお話をされました。

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いつも書いていますが、こういう地域に根ざした活動というのは非常に大切なことだと思います。連翹忌は毎年4月2日に東京で行っていますが、単に東京を会場にしているというだけで、東京の人々が光太郎の地元だから、という理由でご参加いただくことがありません。そう言う意味で、花巻、女川、二本松、こういう地域に根ざした活動を、今後も盛り上げていっていただきたいものです。

福島二本松で発行されている雑誌『現代史研究』69号を、主宰者であり「智恵子のまち夢くらぶ」会員の渡辺元蔵氏より頂きました。氏のレポート「光太郎智恵子ゆかりの旅行-花巻と十和田の旅-」が掲載されています。

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「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で、今年7月15,16の2日間、花巻、十和田を巡られたそうです。
 
明日は同じく「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で、午前10時から「第4回智恵子純愛通り記念碑建立祭」。午後からは「智恵子講座’12」の第4回(講師は詩人の木戸多美子さん)ということで、行って参ります。
 
「智恵子純愛通り記念碑」というのは、智恵子生家前の約2キロを「智恵子純愛通り」と愛称を付け、智恵子没後70年の顕彰事業として平成20年(2008)に建立されたものです。揮毫は光太郎の令甥・高村規氏です。 
 
こうした地域に根ざした活動、大切なことだと思います。

少し前に戦時中の金属供出で失われてしまった光太郎、光雲作の銅像について書きました。
 
そもそも上野の西郷さんの原型(木型)が鹿児島に運ばれ、そこで空襲により焼失した、という話の流れからそちらに行ったもので、あまり下調べもせずに書きました。
 
書きながら、光雲作の以前にご紹介した長岡護全像以外の光雲作の銅像の数々はどうなっているんだろう、と疑問がわき、そこで、調べてみました。ネットで調査してみると、昭和3年に刊行された『偉人の俤(おもかげ)』という書物があることを知りました。これは、明治から昭和初年に国内に建造された銅像700基余りを、ほぼ網羅した写真集です(すべて、ではありません。大正7年(1918)の浅見与一右衛門像などは漏れています)。そして、平成21年に復刻版が刊行されており、さらに「資料編」もついているとのこと。この本にあたればかなり詳しいことがわかりそうだと気付きました。
 
当方生活圏の図書館に所蔵されていればと思い、まず成田市立図書館のHPを調べました。成田市立図書館はこれまでもけっこうマニアックな(笑)書籍が収蔵されていて、非常に助けられています。案の定、ありました。
 
そこで早速、昨日、行って調べて参りました。その結果、やはり光雲作の銅像もかなり戦時供出されていることが判明しましたので紹介します。
 
① 西村勝三像 明治39年(1906)
 
西村勝三(天保7年(1837)~明治40年(1907))は、日本で初めて本格的な靴を製造した実業家です。その功績をたたえ、向島の西村家別邸に建てられました。

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当方所蔵の古い絵葉書です。
 
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こちらは『偉人の俤』から。
 
 
② 坂本東嶽像 大正12年(1923)
 
東嶽坂本理一郎(文久元年=1861~大正6年=1917)は秋田県選出の代議士。郷里の秋田県仙北郡美郷町千屋に建てられた像です。
 
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以前に地元の方から送っていただいた資料のコピーです。
 
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こちらはやはり『偉人の俤』から。
 
この2体は『偉人の俤』資料編によれば、やはり戦時供出で現存せず、ということになっています。
 
ただ、坂本東嶽像は現在、秋田の仙北に現存しています。岐阜の浅見与一右衛門像のように、戦後に新たに別人が作ったのでしょうか。または、やはり光雲作・愛媛の広瀬宰平像は、供出されたものの、原型が保存されており、それを使って復刻されています。そのパターンでしょうか。情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。
 
その他、無くなった理由が不明ながら無くなった銅像もあります。

 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年
 
さらに、残っているかどうかも不明、というものも。

 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年
 
このあたりに関しても情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。

同じブロンズでも、寺院に寄進され、露座として境内にある光雲作の仏像類は、かなりの程度こちらで情報を把握しています。それらは現存するものも多く、いずれ見て歩こうと思っております。

近々行われるテレビ放映とイベント等の情報です。
 
まずはテレビ放送。8/25のブログで紹介した「東と西の出会い 生誕125年バーナードリーチ展」が取り上げられます。 

日曜美術館「東と西を越えて バーナード・リーチが旅した日本」

NHKEテレ 2012年9月16日(日) 9時00分~9時45分 再放送9月23日(日)20時~20時45分

20世紀を代表するイギリスの陶芸家、バーナード・リーチ。日本で陶芸に出会い、日本各地を旅しながら「東洋と西洋の美の融合」に挑んだ。リーチの魅力と心の旅路を辿る。

番組内容
20世紀を代表するイギリスの陶芸家、バーナード・リーチ。若き日に日本で陶芸に出会い、柳宗悦ら民藝運動の中心人物たちとの交流を通して、陶芸の道を歩んでいった。志したのは「東洋と西洋の美の融合」という壮大なテーマ。92歳で亡くなるまで、何度も日本を訪れて地方の工房を旅し、名もなき職人たちと寝食を共にしながら、自らの境地を深めて行った。リーチの旅の軌跡をたどりながら、傑作の数々を堪能する。

出演 兵庫陶芸美術館館長…乾由明,陶芸家…舟木伸児,陶芸家…濱田友緒,
司会  千住明,森田美由紀


もう一件、CS放送ですが、こんな番組もあります。無料放映期間です。 

もっと温泉に行こう! #38「花巻編」

CSフジテレビNEXT 2012年9月20日(木) 23時00分~24時00分

#38「花巻編」今回訪れるのは、岩手県花巻市に位置する花巻温泉。奥羽山脈の渓谷沿いに湧き出る花巻温泉郷は、かの文豪、宮沢賢治や高村光太郎も愛した温泉地。

番組情報
今回訪れるのは、岩手県花巻市に位置する花巻温泉。広大な面積を誇るバラ園が隣接し、色鮮やかな花びらが大自然の景色を彩る。国内でも珍しい立って入浴する浴槽や、風情あふれる渓谷沿いの露天風呂など、さまざまな種類の浴槽を楽しめる。周辺に広がる県立自然公園の移りゆく四季を眺めながら、ゆったりと楽しみたい温泉だ。

続いてイベント系情報を2件。
 
まずはニュース検索で網にかかりました。 

「お三の宮日枝神社」で秋まつり-市内最大の神輿の巡行も /神奈川

「お三の宮」(おさんさま)として市民に親しまれている「日枝神社」(横浜市南区山王町5)の「例大祭」が9月14日~16日の3日間にわたり開催される。(ヨコハマ経済新聞)

 日枝神社は「横浜関外総鎮守」といわれ、寛文年間(1661年~1673年)に、当地では「吉田新田」開墾者として知られる吉田勘兵衛が江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)から分霊してまつったのが創建とされている。

 勘兵衛は摂州能勢郡(現在の大阪府能勢町付近)出身で、江戸へ出て一代で財を成した材木商。「釣鐘型」をした横浜の入海が埋立てに適している点に注目し、幕府の許可を得た後、新田開発事業に着手。地元の村民達の協力のもと、11年余りの歳月と多くの資金を投じて完成させた。この新田開発が後の横浜発展の礎になったとも言われている。

 日枝神社の例大祭は「かながわのまつり五十選」に選ばれている祭事。15日は、13時から伊勢佐木町1・2丁目で、彫刻家・高村光雲作の火伏神輿(ひぶせみこし)行列をおこなう。16日には、市内随一の大きさの「千貫神輿(せんがんみこし)」(高さ約3メートル70センチ)が氏子町内を巡る大神輿渡御(とぎょ)のほか、子供神輿・山車巡業、大神輿奉安を実施。例大祭の期間中は、町内大中神輿、火伏神輿、獅子頭を有隣堂横に展示する。

 伊勢佐木町1・2丁目地区商店街振興組合の石田隆さんは「高村光雲作の神輿『火伏神輿』は、関東大震災・横浜大空襲と2度の苦難を乗り越えたことから、災難よけの神輿としてあがめられています。15日は雅楽の生演奏を先導に、白装束の担ぎ手約30人が厳かに行列します」と話す。
 
 
もう一件、8/23のブログで紹介した朗読系の公演が大阪でおこなわれます。 

僕等の図書室~みんなで読書会~(ぼくとしょ2)

 <大阪公演>
【日程】2012年10月2日(火)
【時間】18時半開演/18時開場 
【会場】シアタードラマシティ
【演出】板垣恭一 【音楽】日野悠平
【上演演目】E「走れメロス」、D「沖田総司」、A「三銃士」、B「智恵子抄」
【出演】村井良大、滝口幸広、中村龍介、井深克彦、大山真志、井澤勇貴
【チケット料金】4,800円(全席指定)
※本公演は3歳未満のお子様のご入場はお断りさせていただきます。

【チケット一般発売日】
9月15日(土)より下記プレイガイドにて発売開始
梅田芸術劇場・イープラス・チケットぴあにて取り扱い

【公演演目】
(A)三銃士ムライ      出演:村井良大 with 井深克彦、井澤勇貴
(B)ユキヒロの智恵子抄   出演:滝口幸広 with 中村龍介、大山真志
(D)かっちの沖田総司    出演:井深克彦 with 村井良大、中村龍介
(E)まぁくんの走れメロス  出演:大山真志 with 滝口幸広、井深克彦

 
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他にも問い合わせ中のイベント等有ります。やはり芸術の秋ですね。詳細が入り次第ご紹介します。

閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
 
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館、日本郵船歴史博物館、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館、日本郵船歴史博物館では海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしましたが、日本郵船歴史博物館の方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船が所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船の船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

光雲の彫刻にも、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しないものがあります。
 
長岡護全銅像
 
明治39年、熊本の水前寺公園に建てられた像です。画像は当方手持ちの古絵葉書です。

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 長岡護全(もりまさ)は熊本の名門、細川家の出で、日露戦争遼陽の会戦で戦死。名門の出ですので、軍神的な扱いを受けたのでしょう。光雲が中心となり、白井雨山、水谷鉄也ら光太郎とも関わる彫刻家が手がけています。
 
この像も戦時中に供出、現存していません。ただ、ネットで調べたところ、跡地に写真が展示されているとのことです。

他にも光雲作で供出されてしまい、現存しないものがあると思われます。光太郎のものはかなりわかっているのですが、光雲のものは消息不明のものが少なくありません。情報をお持ちの方はお知らせ願います。

戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介、最後です。
 
赤星朝暉胸像
 
昭和10年(1935)の作。千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられました。赤星朝暉は同校の初代校長です。
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『高村光太郎 造型』春秋社 より
 
例によって光太郎の言から。
 
 松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵へやが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやつてみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。
(「回想録」昭和20年(1945)『高村光太郎全集』第10巻)

 翁は偶然の因縁で、私と同番地の地所内に住居を持つて居られ、そこから松戸の園芸学校へ通つて居られたらしく、あとで思へば、この特色ある面貌には時々往来であつてゐたやうに思ふ。翁が松戸の高等園芸学校の校長さんをやめられたので、学校の校庭に記念の胸像がたてられたわけである。幾年頃であつたか、今忘れてしまつたが、これは学校へ行つて調べればすぐ分ることである。
 翁は近所に居られることとて、よくポーズに通つてくれた。もう七十歳を超えて居られたと見えたが、頑丈な体格を持ち、色の浅黒い、いかにも土に関係の深さうな、特異な相貌をしてゐた。かん骨が高く、眼は凹んでまろく、大きく、鼻がとがり、口も大きく、あごは四角に張つて肉がついてゐた。その二重まぶちのまろい大きな眼が奥の方で光つてゐるさまは、ちよつと戦国時代の野武士をおもはせて愉快だつた。私はこの顔の食ひ入るやうな皺の線條にドナテロ風の食慾を感じて、徹底的にその実在性に肉薄した。これまで作つてゐた都会の文化人等とはまるで違つた人間族の代表がそこに出来上つたやうに感じた。像が出来上がる少し前に翁は物故せられたやうであつたが、この像のきびしさを松戸の学校のお弟子さん達はどう見たか、少々突つこみ過ぎたやうにも感じた。しかし気持は悪くないので、後年、朝鮮徳寿宮の美術館で毎年行はれる日本美術の展観の時、一年間の契約で原型の石膏型をかしたことがある。それでその年の館の図録の写真にこの胸像が出てゐる。今ではそれもこの作品のかたみとなつたわけである。校庭にあつたブロンズの胸像を軍へ献納する時、学校から問合せがあつて、原型が保存されてゐるなら、献納する。原型がもはや無くて、かけがへがないなら、献納しないといつて来た。その時には、まさかアトリエが焼けると思はなかつたので、原型は現存してゐるから献納せられよと返事を出した。それで皆なくなつた。
(「焼失作品おぼえ書き」昭和31年(1956)『高村光太郎全集』第10巻)
 
 この像も、岐阜の浅見与一右衛門像同様、戦後になって再建されています。

 再建は昭和26年(1951)ということで、光太郎存命中ですが、光太郎の書いたものの中に、再建云々の記述は見当たりません。昭和26年といえば、光太郎は花巻郊外太田村山口の山小屋で隠棲中。光太郎と無関係に進められたのではないかと思われますが、詳しいことがわかりません。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。
 
2014/03/03追記 再建された像は、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟に建てられた像の原型を使ったものでした。
 
 松戸は同じ千葉県内で、それほど遠くありませんので、そのうちに調査にも行ってみようかとも思っています。
 
 さて、もう一篇、この像に関する光太郎の言を。
 
間もなく、智恵子の頭脳が変調になつた。それからは長い苦闘生活の連続であつた。その病気をどうかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作つた。これも精神異状者を抱へながらの製作だつたので思つたよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思ひ出しても戦慄を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になつてしまつた。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。
(「回想録」昭和15年(1940)『高村光太郎全集』第9巻)
 
 なんとまあ、この像を作っている時はこういう状態だったわけです。その意味でも、光太郎にとっては思い出深いものだったのでしょうが、現存しないということで、非常に残念ですね。
 
 明日は同じく戦時供出でなくなった光雲の彫刻を紹介します。

昨日の続きで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた光太郎作の青沼彦治像についてです。
 
こちらは像の序幕記念の絵葉書。袋付き5枚セットのものを入手できました(仙台の古書店から送られてきた目録で発見しました)。像の下の方に移っているのが青沼彦治本人でしょう。残念ながら像が大写しになっているカットがありませんでしたが、意外と珍しいものだと思います。

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この像も、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。場所は古川駅から1㎞程北の荒雄公園というところです。すぐ近くに吉野作造記念館があります。当方、2年前の冬に行って参りました。

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岐阜の浅見与一右衛門像同様、やはり像は無くなっても翁を顕彰する気運は無くならず、昭和41年(1966)に工事が行われ、台座の基底部は野外ステージに転用、主柱部分に新たにレリーフを作ってはめ込んであります。

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注目すべきは主柱の裏側。大正14年(1925)建立当時の石製銘板が遺っていました。「監督 高村光雲  原型 高村光太郎  鋳造主任 高村豊周」の文字が刻まれています。

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さて、青沼家には、供出前にこの像を撮影したフィルムが残っており、ビデオテープにコピーされ、像の近くにある吉野作造記念館に所蔵されています。
 
当方、2年前にここを訪れた際、見せていただきました。動画として残っているというのは珍しい例です。しかし、動画といっても銅像を撮影したものですから、動きはありません。ただ、写真では見られない背部なども写っていたように記憶しています。
 
他にも光太郎作品で戦時供出されたものがあります。明日も続けます。

昨日に引き続き、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介です。
 
青沼彦治像

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『青沼彦治翁遺功録』より
 
大正14年(1925)、これも光雲の代作ということで、光太郎が制作。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられました。青沼彦治は慶応2年(1866)の生まれ。やはり酒造業を営んでいた素封家でした。地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、銅像建立を発願しました。除幕式は大正14年(1925)11月7日。青沼翁はまだ存命中でした(昭和11年=1936歿)。上の画像で像の右に立っているのが光太郎。左に座っているのが光雲、その後ろはおそらく鋳造を担当した光太郎の弟・豊周(とよちか)です。
 
後年、光太郎はこの像について「古川から入つたところにある荒雄村に、青柳とかいう人の銅像があつて、これも代作として原型を僕がやつたものだが、これは戦時中に供出してしまつたらしい。これはつまらないもので、なくなつてよかつた。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。自作でありながら手厳しい評です。
 
この像について述べた光太郎の文章は、長らくこれしか見つかっていませんでしたが、3年程前に、昭和11年、地元で非売私刊で出された『青沼彦治翁遺功録』という書籍に寄せた序文を見つけました(「光太郎遺珠」④収録)。少し長いのですが紹介します。
 
 わたくしは平素、青沼彦治翁に親炙してゐた者ではなく、先年亡父光雲が、翁の寿像を製作した時、その助手として働いたため、製作の前後に僅かに翁に接する光栄を得たに過ぎない者である。因つてただ、一彫刻家の目に映じた、翁の特徴についてのみその一端を語る事としたい。
 翁は決して長身の方ではなく、むしろ小柄であり、且つ肥満しても居られなかつた。さうかといつて鶴のやうに痩せても居られず、程よき比例を全身の均衡に持つて居られたので、すらりとした姿勢が、遠くから望見する時、ともすると長身のやうにさへ見えた。一方の肩が稍撫で肩になつてゐるのが、翁の特徴で其が又大変懐しみある温容となり、いかにも謙虚な魂を示して居られた。しかも第一公式の羽織袴の時の端然さは、まるで仕舞でも舞はれるかと思ふ程であつた。
 翁の相貌で誰でもすぐに気のつく事は、頭蓋の人並み以上に大きい事とその方形なる事と、前額の隆い事であつた。整然とした、鼻梁と、秀でた眉と、確乎たる頤との関係は、どうしても蒙古系の骨格とは思はれなかつた。
 殊にその二重瞼のいきいきした、聡明な眼光と、愛嬌ある、口唇とは、翁の動いてやまざる精神の若さを表現してゐた。特に異例なのは、耳朶の大きくて強くて張つて居られた事である。かなり多くの肖像製作に従事したわたくしも、翁ほどの大きな、耳朶は見た事は曾つてなかつた。僅かに亡父光雲の耳が此に拮抗し得られるかと思ふ(耳で名高い羽左右衛門の耳は、大きいけれども薄く、故大倉喜八郎翁の如きは、想像以上に小さかつた)。
 翁はいかにも物静かな、応対ぶりで会話をせられたが、いつの間にか中々熱心に、細かく周到に話題の中心に迫つてゆくのが常であつた。翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。
 亡父は耳が相当に遠かつたし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
 其を思へば、感旧の哀しみに堪へ難いが、しかし父はその製作により、翁はその巨大な功績のかずかずによつて、永久に吾等の間に記憶せられる。翁の遺徳の大なるに聯関して、直ちに亡父の遺作を想起し得る事は、不肖わたくしのひそかに慰とするところである。
 昭和十一年七月

実際には光太郎の作なのですが、あくまで光雲の名で創られていますので、この文章もそういう内容になっています。それにしても、肖像彫刻を創る際に光太郎が対象をどのように捉えていたのかが端的に表されていて、その意味では一級の資料です。また、翁と光雲の噛み合わない会話のくだりなどは、読んでいて微笑ましいものですね。
 
長くなったので、一旦切ります。続きは明日。

昨日、光雲が制作主任であった上野の西郷さんの銅像について書きました。
 
西郷さんの銅像は戦時供出をまぬがれ、上野公園に現存しています。しかし、光雲作、光太郎作の銅像の類のうち、残念ながら供出されてしまったものも少なくありません。
 
それらについて御紹介すると同時に、情報等ございましたらご提供のお願いです。
 
まずは光太郎作品から。
 
浅見与一右衛門銅像
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『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』より
 
大正7年(1918)、光雲の代作ということで、光太郎が制作。現在の岐阜県恵那郡岩村町に立てられました。浅見与一右衛門は天保14年(1843)の生まれ。岩村で酒造業と庄屋を兼ねた素封家で、維新後は岐阜県議会議長、衆議院議員などを務めました。また、岩村電車を開通させるなど、地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、喜寿の記念に銅像建立を発願しました。除幕式は大正8年(1919)4月27日。浅見翁はまだ存命中でした(大正13年=1924歿)。
 
後年、光太郎はこの像について「銅像の代作では、木曽川のへりの村の村長さんのものがある。有徳な村長さんで、村中の人が金を出して作つたものだが、それがとても猫背のフロツクコートを着て膝のとび出したズボンをはき、シルクハツトを持つているところをこさえたものである。モデルのとおりにこさえたけれど、そんなに悪くない作のはずだ。だが村では不評判だつたことだと思う。父は、もう少しおまけした方がいいなどと言つたものだ。なにこういうところがかえつておもしろいのです、と言つてそのまま鋳金した。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。
 
「村長さん」というのは光太郎の勘違いなのではないかと思われます。上記の浅見翁経歴は、平成19年、地元で刊行された『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』に依りましたが、県議会議長、衆議院議員という記述はあっても村長という記述はありません。ネットで調べても同様です。

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このあたり、詳しくご存知の方は情報をいただければ幸いです。
 
この像が、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。

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また、やはり「有徳の人」だったということで、地元で像を再建しようという運動が起こり、昭和60年(1985)、岩村町出身の彫刻家、永井浩氏によって新たな像が創られました。おそらく元々の像の写真等を参考にしたのでしょう、同じポーズで創られています。

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当方、3年前の夏に岩村を訪れました。旧中山道の宿場町、恵那から山中に入ったところで、浅見家をはじめ古い街並みが残り、風情のある場所でした。当方の住む千葉県香取市同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 
他に岩村城跡や歴史資料館など、見どころも多いので、一度行かれる事をお勧めします。
 
次回も同じように供出されて現存しない光太郎彫刻について御紹介します。

先日紹介しましたNHK総合テレビで放映の「歴史秘話ヒストリア」、昨日オンエアされました。
 
光雲が制作主任となって、上野に作られたおなじみの銅像が取り上げられましたが、光雲とか東京美術学校という話にはなりませんでした。少し残念でしたが、銅像の場合、「誰が作ったか」より「誰を作ったか」が重きをなすことが多いので、しかたがないでしょう。
 
ただ、顔の制作の際、「光雲が」という主語は抜けていましたが、弟の西郷従道の顔を参考にした、というエピソードは紹介されていました。
 
下の画像は、やはり古い絵葉書。銅像の完成後、西郷さんの故郷・鹿児島に据えられた原型の木型です。

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少し後の時代になると、銅像の類は粘土で原型を作る塑像が一般的になりますが、この時期(西郷像は明治25年=1892)、原型は木彫で作られていました。これが残っているのであれば、鹿児島まで見に行こうと思っていたのですが、残念ながら太平洋戦争中に空襲で焼失してしまったそうです。
 
光太郎の彫刻もそうですが、戦災で焼失したものは少なくありません。また、金属供出といって、武器制作のため、全国の銅像が次々と鋳つぶされました。渋谷のハチ公もしかり。現在のハチ公は2代目です。光雲や光太郎の作った銅像にも、供出されてしまったものがあり、原型も空襲で焼けてしまったため、今では写真でしか見られないものもあります。
 
そうかと思うと、昨日のニュース、今朝の新聞で報道されていましたが、なんと、十和田湖の湖底から旧日本軍の飛行機が引き上げられたとのこと。
 
何とも複雑な思いです。

先日、『水滸伝』にからめて、光太郎の周囲は多士済001々、ということを書きました。それは、現在製作中の冊子『光太郎資料38』で、そういった感じの内容の部分があり、そこからの連想なのです。
 
『光太郎資料』。元々は北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期で刊行されていたものです。結局、36号で休刊という形になっていました。初期の頃はガリ版刷りで、先生が高校に勤務されていた頃の教え子の方々、北斗会の皆さんがお手伝いなさって作られていました。
 
内容は多岐に亘り、一度目の『高村光太郎全集』の補遺、没後年譜、索引類、同時代の光太郎評、その他さまざまな光太郎関連資料が載せられていました。それらの成果は後に文治堂書店から刊行された『高村光太郎資料』全六巻や、二度目の『高村光太郎全集』、それから『連翹忌五十年』という書籍などに反映されています。
 
その伝統ある『光太郎資料』の名跡をお譲り頂き、幸い「好きにやってよい」というお墨付きも頂きましたので、もちろんアドバイスを賜りながらですが、本年4月に『光太郎資料37』を刊行いたしました。内容としては、以下の通りです。
 
 よろこびを告ぐ 『光太郎資料』の新生について  北川太一
 「光太郎遺珠」から   欧米留学をめぐって
 光太郎回想・訪問記   高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿 大悟法利雄
 光雲談話筆記集成    『明治会見記』より
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  月寒牧場(北海道・札幌)
 音楽・レコードに見る光太郎  歩くうた(一)
 高村光太郎初出索引(一)
 編集後記
 
メインは「「光太郎遺珠」から」。以前にも書きましたが、二度目の『高村光太郎全集』完結後、さらに見つかった光太郎作品を「光太郎遺珠」として紹介し続けています。しかし、年1回、見つかったものから順にどんどん載せていますので、内容的にはバラバラです。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介するものです。
 
さて、『光太郎資料38』を今、製作中です。とりあえず、年2回の刊行ということにしました。編集の手間だけを考えれば季刊程度は可能なのですが、非売ですので、制作費や郵送料等すべて持ち出し、出せば出すほど赤字という状態となり、年2回が限界です。そこで、1回は連翹忌に合わせて4月2日、もう1回は智恵子の命日、レモン忌に合わせて10月5日の発行と設定しました。次号のラインナップは以下の通りです。
 
 「光太郎遺珠」から        新詩社・『スバル』・パンの会・そして『白樺』
 光太郎回想・訪問記       「魔の宴」(抄)その一 木村荘太
 光雲談話筆記集成        『漫談 江戸は過ぎる』より(一)
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  十和田湖とその周辺(青森)
 音楽・レコードに見る光太郎   歩くうた(二)
 高村光太郎初出索引(二)
 編集後記
 
前振りが長くなりましたが、メインの「「光太郎遺珠」から」で、新詩社、雑誌『スバル』や『白樺』、そしてパンの会関連の新資料をまとめました。そこで関わってくる人々がやはり多士済々、錚々たるメンバーなので、梁山泊に思い至ったのです。
  
この38号は連翹忌の御案内を差し上げている方には当方から発送します。また、37号もそうしましたが、光太郎と関連のありそうな全国の文学館、美術館、大きな図書館などにも勝手に送ります。この「勝手に送る」というのが北川先生の頃からの伝統でして、それを踏襲しています。
 
それ以外に37、38とも、欲しいという方はご連絡ください。送料のみ頂く形でお分けいたします。

先日、久しぶりに新刊書店に行きました。長距離の移動中、車内で読むための書籍を買うのが目的でした。
 
そういうための書籍としては、光太郎関連から離れた推理小説、時代小説、そして歴史小説を選びます。今回は歴史小説、北方謙三氏の『岳飛伝』第二巻を買いました。中国の通俗小説『水滸伝』を元にした北方氏の連作「大水滸伝シリーズ」の最新刊です。

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この連作は、90年代末に『小説すばる』で連載が始まった『水滸伝』全19巻、その続編の『楊令伝』全15巻、そしてその続編として『岳飛伝』が現在も連載中で、つい最近単行本の2巻目が発売されました。さらに言うなら、流行の言い方を使ってシーズンゼロ(メインの話の前史)的な『楊家将』全2巻、『血涙』全2巻もあり、膨大な量になっています。このシリーズが実に面白い。カビの生えた言い方ですが「血湧き肉躍る」という表現がぴったりします。
 
当方、その他の歴史小説としては、新選組もの、武田家や真田家に関するものなどが好きで、よく読んでいます。共通点としては、「群像ドラマ」であるということ。これがどういうことかというと、一人のカリスマ的なヒーローを描いたものではないということです。もちろん、中心になる人物はいるのですが、その周囲に実に多彩な人々が集まって、すごい人物相関図が出来上がっているというパターンが好きなのです。
 
新選組で言えば、局長・近藤勇の元に、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助、島田魁、山崎蒸……武田家で言えば、武田信玄の元に、山本勘助、真田幸隆、真田昌幸、馬場信春、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、武田信繁、高坂昌信、武田勝頼…… 。
 
そうした意味での圧巻は北方氏の描く『水滸伝』の連作です。腐りきった北宋を倒すため、城塞・梁山泊に集まった108人の英雄、豪傑が描かれます。武術に長けた者、用兵を得意とする者、知略で勝負する者、諜報活動に命をかける者、その他一芸に秀でた者……。武に長けた者たちも、槍、剣、弓、棒、戟、体術、斧など、それぞれ得意とする武器が異なったり、一芸に秀でた者たちは、物流、造船、鍛冶、土木工事、医術、建築、馬の飼育、はては書や印鑑製作、料理など、実に多彩な分野でそれぞれの得意技を生かして活躍したりています。まさに多士済々ですね。
 
さて、長々こんな話を書いてきましたが、その意図はもうお判りでしょうか。当方が言いたいのは、「すぐれた人間の元には、すぐれた人間が集まる」ということで、これは光太郎の世界にも当てはまります。
 
光太郎がリーダーとか統領という訳ではありませんでしたが、光太郎の周囲にも、きら星の如く実に様々な分野の人々が集まりました(光太郎自身がマルチな才能の持ち主だったこともあるのですが)。
 
彫刻の荻原守衛・高田博厚、詩人の草野心平・宮澤賢治、画家の岸田劉生・梅原龍三郎、小説家では森鷗外・武者小路実篤、歌人では与謝野夫妻・石川啄木、脚本家に小山内薫・岸田国士、編集者の松下英麿・前田晁、美術史家である今泉篤男・奥平英雄、女優の花子・水谷八重子。その他にも版画彫師の伊上凡骨、チベット仏教の河口慧海、歌舞伎役者の市川左団次、舞踊家の藤間節子、大倉財閥の大倉喜八郎、歌手の関種子、建築家の谷口吉郎、青森県知事津島文治(太宰治の実兄)、朗読の照井瓔三、日本女子大を創設した成瀬仁蔵、バーナード・リーチや詩人の黄瀛(こうえい)など、外国人も。そういう意味では智恵子もそうですし、北川太一先生もそうです。『高村光太郎全集』の「人名索引」を眺めれば、さながら梁山泊の面々のようです。
 
かえりみるに、現在、連翹忌に関わっていただいている皆さんも多士済々。北川太一先生の元にやはりきら星の如く、色々な分野の方々に集まっていただいております。実は、連翹忌の参加者名簿を繙く都合がありまして、見てみたところ、そのように感じました。ここもさながら梁山泊だな、と思ったわけです。
 
しかし、まだまだ世の中には独自に光太郎・智恵子・光雲を追究してらっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、これからこの世界に入りたいという方もいらっしゃるでしょう。そういう方々のネットワーク作りに貢献できれば、と思っております。

明後日、NHK総合テレビで放映の「歴史秘話ヒストリア」は、西郷隆盛を扱います。 

歴史秘話ヒストリア「のんびり犬と暮らしたい~上野のシンボル西郷さん」

 NHK総合 2012年9月5日(水) 22時00分~22時45分 の放送内容
 
上野のシンボル・西郷さん。明治維新のヒーローの願いは犬とのんびり暮らすこと?そして西郷さんが愛した温泉とは。西南戦争で散ったラストサムライ西郷さんの秘話。

番組内容
上野のシンボル、西郷さん。のほほんとした着流し姿の銅像でおなじみ、明治維新のヒーローの願いは、犬とのんびり暮らすこと? 近年見つかった史料から解き明かされる、西郷さんの知られざる愛犬生活とは? さらに温泉も楽しんでいた頃、突如起きた最大の悲劇、史上最大の国内戦・西南戦争。相棒たちに見せた優しさとは? ラストサムライ・西郷さんが、なぜ今も多くの人に慕われるのか。その大いなる愛の秘密に迫る。

出演者 キャスター 渡邊あゆみ

先週オンエアの予告編では、上野の銅像が映っていました。

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この像は、明治25年(1882)、光雲が主任に任じられ、東京美術学校が制作にあたりました。有名な薩摩犬「ツン」は、後藤貞行が中心になっての制作です。除幕は明治31年(1898)。今でも上野のランドマーク的存在ですね。上の画像は明治時代の絵葉書、様式からして明治39年までのものです。
 
西郷像をメインに扱うわけではなさそうですので、光雲や後藤の話などはあまりないかとは思いますが、紹介しておきます。

7月に刊行された『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』。
 
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お書きになった坂本富江さんから、「あちこちの新聞などで御紹介いただいています」というお知らせがありましたので、「それならブログで紹介しますので、コピーでもお送り下さい」と申しましたところ、昨日、届きました。各紙とも、非常に好意的に紹介しています。
 
6/24(?) 陸奥新報     
6/30  岩手日報
7/10  福島民報
7/26  山梨日日新聞
8/7   都政新聞
8/11  読売新聞(都民版)
8/28  東京新聞(夕刊)
 
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その他にも、ネット上でもいろいろ報じられています。
 
智恵子の足跡のある所をくまなく扱われているので、地方紙も積極的に取り上げて下さっているようです。無論、書籍として素晴らしいものであるという前提条件がありますが。
 
是非、お買い求めを。
 
また、他の近刊などで「ここにこんな風に紹介されてるよ」という情報が有れば、ご提供いただければ幸いです。

昨年、平成23年(2011)は、昭和16年(1941)に『智恵子抄』が刊行されて70周年ということで、イベントや特集記事的なものがぽつぽつありました。
 
そんな一つ、朝日新聞の福島版では12月13日から一週間、「「ほんとの空」を探して」と題する特集記事を組み、各界で活躍中の方々の談話等が載りました。
 
ラインナップは次の通りです。
 
(1)驚嘆の人気 世代超え/愛の詩集 (12/13)    岩下志麻さん/新潮社さん
(2)権威に反発 自由求め/光太郎の素顔 (12/14)  加藤剛さん
(3)自然と対峙 孤独紡ぐ (12/15)         二本松市文化課さん/和合亮一さん
(4)自立への気概空回り (12/16)          大島裕子さん
(5)守り抜いた命の芸術 (12/17)          北川太一先生
(6)どっしりとして森厳 (12/19)          山本隆一さん
(7)言霊は世代を超えて (12/20)          モンデンモモさん/高村規さん
 
第一回に昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」で智恵子を演じた岩下志麻さんがご登場です。光太郎役の故・丹波哲郎さんのエピソードも語られています。丹波さんのマネージャー氏曰く、数多くのテレビ、映画にご出演なさった丹波さんが、いちばんお好きだった作品が「智恵子抄」とのこと。
 
そして、岩下さん、DVD化されていないのを残念がられています。「(丹波さんの)ご仏前で見せてあげたい」そうです。
 
DVD化、当方も切に望みます。
 
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松竹「智恵子抄」 完成記念特別披露公開 丸の内ピカデリー 昭和42年6月3日~9日 チケット袋

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