2012年07月

ロンドンオリンピックが盛り上がっています。柔道の松本薫選手の金をはじめ、日本選手のメダル獲得数がじわじわと増えてきていますね。
 
さて、オリンピックと光太郎の3回目。
 
『高村光太郎全集』の第13巻に載っている昭和27年(1952)7月19日(土)の光太郎日記には、「夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく」の記述があります。その後も何回か同様の記述が続いています。現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。
 
昭和27年(1952)の夏季オリンピックはフィンランドのヘルシンキでの開催。昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。レスリングフリースタイルバンタム級で石井庄八選手が金メダルを獲得しています。当時は「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。
 
この前年、昭和26年(1951)にはサンフランシスコ講和条約の調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中でのヘルシンキ五輪。自らの戦争犯罪を自ら断罪する意味合いもあって、花巻の山小屋生活を続けていた光太郎は、どのような思いでラジオを聴いていたのでしょうか。
 
この頃の光太郎の動静を見てみましょう。この年3月には、青森県から十和田湖畔に建てるモニュメントの制作を依頼され、6月には現地を視察、7月には東京中野の中西利雄アトリエを借りて制作にあたることが決定、10月には7年ぶりの帰京。そして完成するのが十和田湖畔の裸婦像です。

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(十和田湖畔の裸婦像……最近入手した昔の絵葉書です)
 
日本の国際社会への復帰と時を同じくし、光太郎自身も彫刻界に復帰するのです。講和条約の締結・発効、オリンピックへの復帰などの世相と無関係ではないでしょう。
 
裸婦像完成後は、また花巻に帰るつもりでいた光太郎(家財道具も住民票もしばらくは花巻に残したままでした)ですが、宿痾(しゅくあ)の肺結核がそれを許しません。中野のアトリエで静かに息を引き取ったのは上京から4年後の昭和31年(1956)4月2日。この日を「連翹忌」として現在まで光太郎・智恵子を偲ぶよすがとし、集まりが続けられています。
 
ちなみに4年といえば、オリンピック。つまり光太郎の没した昭和31年(1956)も、オリンピックイヤーですね。この年は11月から12月にかけ(南半球ですから)メルボルンでオリンピックが開催されました。光太郎、空の上から日本人選手の活躍を一喜一憂しながら見守っていたのかも知れません。

昨日、ベルリンオリンピック関連の光太郎の発言を紹介しました。
 
その後、気になって調べてみましたところ、オリンピックと光太郎の関連がいくつか出てきました。
 
まず、現在、ロンドンオリンピックが開000催中ですが、ロンドンでのオリンピックは3回目。前回は終戦後の昭和23年(1948)。そして、最初にロンドンでオリンピックが開催されたのは明治41年(1908)。短期集中型でやっている今のオリンピックとは違い、会期が半年にも及んでいました。開会式が4月27日、閉会式が10月31日です。半年も続いていたというのは、どんなものだったのか、ちょっと想像がつきません。 
 
さて、明治41年といえば、光太郎はちょうどロンドン滞在中でした。
 
光太郎は、明治35年(1902)に東京美術学校彫刻科を卒業した後も研究科に残り、明治37年(1904)にはロダンの「考える人」を写真で見て激しい衝撃を受けます。根底から勉強し直そうと、翌38年(1905)には東京美術学校西洋画科に再入学(教授に黒田清輝や藤島武二、同級生に藤田嗣治や岡本一平。すごいメンバーです)。しかし「君は彫刻に専念すべきだ」という、彫刻科教授岩村透の勧めで、明治39年(1906)から、3年あまりにわたる留学に出ます。
 
まず目指したのはニューヨーク。1年あまりの滞在の後、大西洋を渡ってロンドンに向かったのが明治40年(1907)6月。ちなみに最近見つけた「海の思出」という散文があるのですが、それによればこの時の航海は、後にかのタイタニック号を保有するホワイトスターライン社の船、おそらくオーシアニック号での航海でした。
 
それから翌41年(1908)6月、パリに移るまでのまる1年、ロンドンに滞在します。最初のロンドンオリンピックはこの年4月27日が開会式。まさに光太郎がいた時期です。
 
ただ、この当時書かれた作品、後に往時を回想して書かれた作品等をざっと調べましたが、残念ながらオリンピック関連の内容は発見できませんでした(細かく探せばあるかも知れません)。光太郎の住んでいたチェルシーと、メイン会場だったホワイトシティ・スタジアムは直線距離にして2㎞ほどだったのですが。
 
もっとも、日本人選手の参加もありませんでしたし(日本人選手の参加は大正元年=1912のストックホルム大会から)、この時点ではまだオリンピックというもの自体が一般的でなかったのかも知れません。
 
光太郎とオリンピックの関わり、まだあります。明日も続けます。

ロンドンオリンピックが開幕しました。日本選手の活躍に期待したいものです。
 
オリンピックと言うことで、光太郎にもオリンピックがらみの発言があったことを思い出しました。
 
昭和16年(1941)1月24日から2月14日にかけ、『読売新聞』の婦人欄に連載された座談会「新女性美の創造」です。

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光太郎や宮本百合子など、出席者は総勢七名。上の画像では左から三人目が光太郎です。
 
この中で昭和11年(1936)に行われたベルリンオリンピックに関する話題が出ています。その部分のみ抜粋してみましょう。
 
高村「僕はこの間の「美の祭典」を非常に喜んで見ました。やはりあゝいふのは僕らの参考になります。さつき体操の話が出ましたがこれも勿論よいものですが、あの飛込みは素晴らしいものだ。第一水泳の人の身体は違ふ。」
吉田「水泳の人は非常に調和の取れた身体ですね。」
高村「前畑さんなどは普通では肥りすぎてゐるやうにいはれるけれども、僕などの立場から見ると実に美しいものですね。」
竹内「前畑さんは丁度理想的な寸法で決して肥りすぎてはをりません。あの人がドイツから帰つて来た日に私、宿舎へ行き、身体測定をしました。すると前畑さんに戦いを挑んだドイツのゲネンゲル女史と同じ格好をしてゐる。寸法でいひますと身長が一六〇糎(センチ)、胸の周りが九〇.二糎、これを身長との割合にすると五六.五になります。それから目方はあの人は五八瓩(キログラム)です。」
 
光太郎が見たという「美の祭典」は、ベルリンオリンピックの模様を記録した映画です。まだテレビがなかった時代、動画でオリンピックの様子を知るには、映画で見るしかなかったのですね。
 
ちなみに当方、昨夜はテレビでBS放送の柔道と地上波の女子サッカーを行ったり来たりしながら観ていました。さしもの光太郎も70年後にこんな便利な時代になっているとは思いもよらないでしょう。
 
「前畑さん」は、「前畑がんばれ!」の連呼で有名な水泳の前畑秀子選手です。昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200㍍平泳ぎで銀、4年後のベルリンオリンピックの同じ200㍍平泳ぎで、日本女性初の金メダルを獲得しました。同じ座談会によれば当時の日本女性の平均は身長150センチ、体重53キロだったそうですから、やはりかなり立派な体格だったようです。
 
「ゲネンゲル女史」は、ベルリンで前畑と死闘を演じたマルタ・ゲネンゲルです。
 
この部分の光太郎以外の発言者「吉田」は体育研究所技師・文部省体育官を務めていた吉田章信。「竹内」は竹内茂代。女医です。
 
この「新女性美の創造」、一昨年刊行の『高村光太郎研究(32)』所収の「光太郎遺珠⑥」に掲載しました。
 
オリンピックの歴史をひもとくと、この座談会が開かれた前年の昭和15年(1940)は第二次世界大戦のあおりで東京オリンピックが幻と化し、次の昭和19年(1944)もロンドン大会の予定だったのが中止。戦後になってようやく仕切り直しのロンドン大会が昭和23年(1948)に開かれました。ただし敗戦国である日本の復帰はさらに後、昭和27年(1952)のヘルシンキ大会からでした。
 
明日はその辺りを書こうと思っています。

昨日のブログで桑田佳祐さんの「声に出して歌いたい日本文学<medley>」が収録されたアルバム「I LOVE YOU -now & forever-」を紹介しましたが、yahoo!のニュース検索でこれがらみが1件ヒットしていますのでご紹介します。 

桑田佳祐スペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』【music.jp】が収録曲にちなんだ「自由研究」を大募集

リッスンジャパン 7月25日(水)20時24分配信
 
 7月18日にソロワークスの集大成といえるスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』をリリースした桑田佳祐。7月24日にスマートフォンでAndroidシングル、着うたフルの配信を開始する【music.jp】で、収録曲にちなんだ「自由研究」と題した投稿企画がスタートした。

『I LOVE YOU -now & forever-』に収録されている楽曲の好きな曲、思い出の曲にちなんだ投稿を大募集する「自由研究」。それぞれ絵画部門、感想文部門、写真部門を設けており各部門の優秀作品の方にはプレゼントが用意されている。

応募期間は7月24日(火)~8月31日(金)まで、桑田佳祐の楽曲と共に、楽曲にちなんだ絵を描いたり、感想文を描いたり、写真を撮影して応募しよう。

【Androidシングル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)000
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
・祭りのあと
・波乗りジョニー
・明日晴れるかな
・銀河の星屑

【着うたフル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・Kissin' Christmas(クリスマスだからじゃない)
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『汚れつちまつた悲しみに……』『智恵子抄』『人間失格』『みだれ髪』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(中)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『蜘蛛の糸』『蟹工船』『たけくらべ』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(下)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『一握の砂』『吾輩は猫である』『銀河鉄道の夜』を収録。

絵心のある方、文才のある方、写真を趣味している方、挑戦されてみては如何でしょうか?

桑田佳祐さん。日本を代表する歌手の一人ですね。彼がリーダーだったサザンオールスターズのデビューが1970年代末頃ですから、かれこれ30年以上のキャリアです。
 
サザン時代を含め、ソロ活動に入ってからもたくさんのヒットを飛ばしてきましたが、その凄いところはその地位に安住しないことだと思います。成功するかどうかはともかく、常に新しいことへの挑戦を続けている姿には頭が下がります。また、平成22年には食道がんと診断されたものの、不死鳥の如く復活。その姿にも頭が下がりました。
 
さて、そんな桑田さんの、これもまた新しいことへの挑戦の一つだったと思います。平成21年に発表した「声に出して歌いたい日本文学<medley>」。18分42秒もの長い曲です。歌詞は日本近代文学史上に燦然と輝く作品群から採っています。すなわち中原中也「汚れつちまつた悲しみに……」、太宰治「人間失格」、与謝野晶子「みだれ髪」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、小林多喜二「蟹工船」、樋口一葉「たけくらべ」、石川啄木「一握の砂」、夏目漱石「吾輩は猫である」、宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、そしてわれらが高村光太郎「智恵子抄」から「あどけない話」。メドレーですので、途中で曲想がどんどん変化します。バラードあり、アップテンポあり、エスニックなアレンジも混ざり、聴くものを飽きさせません。
 
シングルCDでは平成21年に「君にサヨナラを」のカップリングとして発売されました。
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楽譜としては、翌年2月に発売された楽譜集「ギター弾き語り 桑田佳祐Songbook改訂版」に掲載されました。他の曲がだいたい4頁前後なのに対し、この曲だけ堂々の18頁。当方、ベースギターを嗜んでおりますので、CDに併せて弾いてみましたが、いや、疲れました(笑)。

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さて、この「声に出して歌いたい日本文学<medley>」を収録したCDアルバムが発売されました。過去にソロで発表した曲に加え、新曲も収録したスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』。

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完全生産限定盤は3枚組で¥3,600。通常盤は2枚組で¥3,300です。

是非お買い求め下さい。

yahoo!ニュース検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

原発事故への思いを演劇で、福島の高校生が横浜で公演へ/神奈川

7月25日(水)16時30分配信
 福島県の高校生が震災や原発事故に対する思いを演劇の形で描く「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」が31日、横浜市神奈川区のかなっくホールで上演される。事故に翻弄(ほんろう)され葛藤を強いられながらも、わが町への愛情を失わない「今の気持ち」が、ひたむきに表明される。

 タイトルの「ほんとの空」とは、詩人の高村光太郎が「智恵子抄」で「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」と記した福島の空。だが、2012年の福島の高校生は、自らの故郷に「ほんとの空」を見いだせないでいる。

 公演するのは、福島県郡山市の県立あさか開成高校演劇部の約20人。作品の舞台は高校、主人公は演劇部の部員たち―と、自分たちの姿を重ね合わせた。「智恵子抄」を題材に芝居をつくるうちに仲間内から「本当の空のリアリティーがない」と異議が上がる、といった筋書きには、高校生の真情がにじみ出ている。

 線量計の警告音が鳴り響き「そこ線量が高いからこっち来い」と声を掛け合う場面や「マスクをしないのは意地だ」との独白。土地に根差す者ゆえの切実な言葉は、震災後に重ねた即興劇の中で部員たちが紡ぎ出したという。部長の高校2年、円谷風香さん(17)は「反原発がどうとかではなく、悩みながら今も私たちが福島にいる、ということを伝えたい」と話す。

 横浜市中区の「横浜ふね劇場をつくる会」が彼らを横浜に呼んだ。今年3月11日、東京・新宿で上演された同作品を、事務局長の一宮均さん(61)が見たのがきっかけ。「私たち横浜の人間は、震災を『過去のこと』と考えてしまってはいないか」と警鐘を鳴らす。

 午後7時開演。料金は2千円、高校生以下は500円。8月1日には上演台本を用いた高校生向けワークショップもあり、参加者を募集している。問い合わせは、一宮さん電話090(1262)5520。
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今回初めて知りましたが、今年3月にも同じ公演が渋谷の笹塚ファクトリーで行われたようです。
 
残念ながら当日は都合で行けません。
 
この手のイベントを考えてらっしゃる方々、お早めにお知らせいただければ幸いです。宣伝やら後援やらでお役に立てることもあるかと存じます。金銭的な援助は不可能ですが。

女川とも関連が深い、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」について紹介します。
 
監修を北川太一先生が務め、台本は作家の山本鉱太郎氏。楽譜の「監修者の言葉」に書かれた北川先生の言によれば、このお三方で、果てしない討論をくり返し、生まれたものだということです。
 
初演は平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールでした。光太郎役は高橋啓三氏、智恵子役は本宮寛子氏。オペラとしては破格の登場人物二人だけという設定です。2幕7場、約1時間半の大作です。

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楽譜は平成3年(1991)10月に刊行されています。

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同じ平成3年(1991)10月には詩碑竣工記念という事で、女川町生涯教育センターで開催された「オペラ智恵子抄鑑賞会」でも上演されました。光太郎役は佐藤光政氏、智恵子役はやはり本宮寛子氏。
 
本宮寛子氏はこの辺りが機縁で、連翹忌の常連となって下さいました。今年5月の花巻光太郎祭で、ご一緒させていただいたのはこのブログでも書きました。
 
その後、何度か公演を重ね、平成18年(2006)10月14日には、日暮里サニーホールでの「光太郎・智恵子フォーラム」の一環として上演。この時は光太郎役が佐藤光政氏、智恵子役は津山恵氏でした。
 
また、昨年5月28日には、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の関連行事の一つとして上演されました。光太郎役に江原実氏、智恵子役に山口佳子氏という配役でした。
 
今年五月から始めたこのブログでも、リアルタイムで渡辺えりさんの演劇、荒井真澄さんと齋藤卓子さんの朗読などの公演の情報をお伝えしました。やはりドラマチックな光太郎・智恵子の世界ということで、色々な分野の表現者の方々が表現意欲をそそられるのでしょう。
 
今後ももっともっと色々な方が、もっともっと色々な分野で光太郎・智恵子の世界を表現してほしいものです。

昨日に続き、宮城県女川町がらみで、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を紹介します。 

「まち むら」第83号 平成15年9月30日 公益財団法人あしたの日本を創る協会発行


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2頁にわたり、作曲家・仙道作三氏の「台風の中の女川・光太郎祭」というエッセイが掲載されています。発行された頃の連翹忌で、仙道氏か故・貝廣氏に頂いたのではないかと思います。記憶があやふやです。

このエッセイでも述べられていますが、仙道氏と女川のつながりは深かったそうです。まず、平成3年に行われた女川の詩碑の除幕式に際し、碑に刻まれた光太郎短歌「海にして……」に混声四部合唱の曲をつけられました。同じ年10月には詩碑竣工記念という事で、女川町生涯教育センターで「オペラ智恵子抄鑑賞会」。これは北川太一先生の監修で、平成元年(1989)に作曲されたものです(明日のブログでさらに詳しく解説しましょう)。

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女川で光太郎がらみのイベントがある時には台風に見舞われることが何度かあったようで、「オペラ智恵子抄鑑賞会」の時も台風、仙道氏が「まち むら」に執筆された年の光太郎祭も台風。他にも何回か光太郎祭の日が台風だったというのを北川先生からお聞きした記憶があります。
 
今年はどうなることでしょうか。

宮城県女川町がらみの記事を書きましたので、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を引っ張り出して読んでみました。 

「詩をめぐる旅」伊藤信吉著 昭和45年12月15日 新潮社発行

  
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光太郎とも親交のあった詩人、故・伊藤信吉氏の著作です。主に近代の詩を取り上げ、その題名のとおり、日本全国に点在するそれぞれの詩の故地、いわば「歌枕」を訪れてのレポートです。60篇ほどの詩が取り上げられ、各篇4頁、光太郎に関しては「千鳥の足あと」(千葉・九十九里浜)、「国境の工事現場」(群馬/新潟・清水トンネル)、「冬の夜の火星」(東京・駒込台地)、そして「濃霧の夜の航路」(宮城/岩手・三陸海岸)です。女川の詩碑にも刻まれた「霧の中の決意」について論じています。
 
   霧の中の決意
  
  黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
 
 輪舵を握つてひとり夜の霧に見入る人の聴くものは何か。
 息づまるガスにまかれて漂蹰者の無力な海図の背後(うしろ)に指さすところは何か。
 方位は公式のみ、距離はただアラビヤ数字。
 
 右に緑、左に紅、前檣に白、それが燈火。
 積荷の緊縛、ハツチの蓋、機関の油、それが用意。
 霧の微粒が強ひる沈黙の重圧。汽角の抹殺。
 
 小さな操舵室にパイプをくはへて
 今三点鐘を鳴らさうとする者の手にあの確信を与へるのは何か。

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光太郎がこの詩を作ったのは、正確には女川ではなくもう少し北に行ってから、宮城・気仙沼から岩手・釜石にかけての8時間の夜間航海中のことだそうです。
 
北川太一先生は、近著「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」で、こう述べられています。
 
 釜石で改めて推敲されたという詩「霧の中の決意」は、この時光太郎が置かれていた時代と環境の中での、 深い思いに誘います。(中略)霧は実際に光太郎が三陸の海で経験したことですが、ここで自分自身にも、この詩を読む人にも問いかけているのは、自分たちが今置かれている状況、世界が戦争にまきこまれてゆこうとする、濃霧のような時代の到来の中での、生きるための決意だと言っていいでしょう。今この美しい三陸の自然や人の中にいて、その裏側で日々の身辺に確実に襲って来る、混沌とした世界。その道を歩むために、何が必要なのか、それを支える確信をどうしたら持つことができるのか。それが光太郎が問いかける問題、みずからが考え続ける問題だったに違いありません。(中略)奉天郊外で満州事変が起こったのは光太郎が三陸から帰った直後の九月十八日、翌日その第一報が臨時ニュースで放送されました。中国との十五年戦争の発端となった事件です。単に夜の海だけでなく、周囲に渦巻く世界の情勢は、どんなに光太郎の心を強く占めていたことでしょう。これらの詩を理解するためにも、夜の海での感想の底に流れる思いを感じ取るためにも、その状況を無視することは出来ません。
 
震災、原発事故、先の見えない経済不安、政治の混乱。混沌とした時代という意味では平成24年(2012)の現在も同じです。今、この時期に、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。
 
さらに光太郎に限っていえば、この時期に大きな転機を迎えざるを得なくなります。「詩をめぐる旅」から伊藤氏の言を拝借します。
 
 ガスの海で高村光太郎が崩れのない意志の歌を発想していたとき、東京本郷駒込の留守宅で異変が突発した。智恵子夫人に、精神分裂症の最初の兆候があらわれたのである。旅の途次でそのことを知らされた高村光太郎が、どれほどのショックを受けたか。愛する者が、事もあろうに精神分裂症に陥るとは! 高村光太郎と智恵子夫人の生活は、このとき音もなく暗転した。崩れのない「霧の中の決意」の詩。崩れはじめた智恵子夫人の脳髄の生理。この対照は悲劇的である。このような運命の翳りを、私どもはいかにして振払うことができるか。「三陸廻り」は高村光太郎にとって忘れることのできない旅であり、「霧の中の決意」はいわば『智恵子抄』の外篇として、二人の愛の生活を前後・明暗に境界づける詩だったのである。
 
混沌とした時代の不安、それに追い打ちをかけるような個人としての悲劇。この後、光太郎は戦争の波に翻弄され、戦後はそうした自らを恥じ、悔い、花巻の山小屋で「自己流謫」-自分で自分を流罪に断ずる処罰-を科します。
 
くり返しますが、今、この時期の我々が、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。

昨日に続き、女川の話を。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。たしか平成6年頃、8月の暑い盛りだったと思いますが、この碑を見に行きました。2泊3日の行程で、光太郎・智恵子の故地を巡る気ままな一人旅。1日目は二本松周辺を中心に廻り、夜になって女川に着きました。そして2日目、朝の清澄な空気の中、海岸公園で碑を見ました。
 
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中央には高さ2㍍、幅10㍍のおそらく日本最大といわれた巨大な碑。5面のプレートを配し、真ん中は明治39年、渡米に際して創られた光太郎の短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」の光太郎自筆筆跡を拡大したもの。その両脇に紀行文「三陸廻り」の女川の項が北川太一先生の筆で。さらにその外側2面は紀行文「三陸廻り」に付された光太郎自筆の挿画が、それぞれ拡大されて刻まれています。石の形は港町・女川を象徴するように、舟のようなシルエットのものを選んだとのこと。

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その真下に小さな碑が一つ。巨大な碑の中央に刻まれた光太郎短歌が独特の筆跡で読みにくいということへの配慮でしょうか、同じ短歌が活字で刻まれていました。

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公園内の少し離れた場所に、女川での体験をもとにして書かれた二つの詩を刻んだ詩碑が二つ。片方は詩「よしきり鮫」、もう一方は詩「霧の中の決意」。それぞれ光太郎が手許に残した控えの原稿から複写されたものです。

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同じ場所に4基も光太郎関連の碑が建てられたのは、ここ女川と、花巻の山小屋周辺だけです。花巻の方は、色々な碑が後から後から追加されたのに対し、女川の碑は4基同時に建立。しかも特筆すべきは1,000万円近くの建立費用の全てが、地元の個人、企業、学校等からの寄附で賄われたことです。この中には町内十数カ所に置かれた募金箱に入れられたいわば「浄財」も含みます。このような形で作られた石碑というのも非常に珍しいと思います。
 
平成18年(2006)10月14日と15日の2日間にわたり、光太郎没後50年記念・智恵子生誕120年記念ということで、東京荒川区の日暮里サニーホールにおいて「光太郎・智恵子フォーラム」が開催されました。北川太一先生の基調講演、荒川区長・西川太一郎氏、彫刻家・峯田敏郎氏、画家・長縄えい子氏、高村光太郎研究会・織田孝正氏によるパネルディスカッション、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」公演など、盛りだくさんの内容でした。さらに「プレゼンテーション」と銘打ったタイムテーブルもあり(当方が司会でした)、7人の方がご発表なさいました。その中のお一人が女川・光太郎の会事務局長だった故・貝廣氏。「光太郎祭15回を開催して」という題でのご発表でした。「こんなに大きな石碑を作ったんですよ」ということで、マイクを握られたまま、ステージ上を走り回られていた姿が今も目に浮かびます。

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ネット上で検索してみますと、震災後の女川の惨状を撮影した画像等も見られます。廃墟と化したビル、土台だけ残った住宅、草すら生えていない荒れ地、それらにまじって無惨にも横倒しになった10㍍の光太郎碑の画像も眼にしました。その後、どこまで復興が進んでいるのか、いないのか、来月9日の女川・光太郎祭に参加し、見てきたいと思います。

宮城県牡鹿郡女川町。昨年三月の東日本大震災で20㍍を超える津波に襲われ、激甚な被害に見舞われた地です。俳優の中村雅俊さんの故郷でもあるそうです。
 
この地で平成4年(1992)から毎年、「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。
 
北川太一先生の近著『光太郎智恵子 うつくしきもの「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(このブログ6月24日の項参照)に詳しく書かれていますが、昭和6年(1931)夏、光太郎は『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、約1ヶ月の行程で三陸地方を旅しています。女川にもその際に立ち寄りました。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。地元有志の方々が中心となって立ち上げた「女川・光太郎の会」が設立母体です。碑については明日のブログで詳しくご紹介します。

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翌平成4年(1992)から毎年8月9日(光太郎が三陸へ旅立った日)に、その海岸公園を会場にして「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。ほぼ毎年、北川太一先生によるご講演があったり、地元の方々による合唱や朗読、連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さん、シャンソン歌手・モンデンモモさん、ギタリスト・宮川菊佳さんらのアトラクションなどで、おおいに盛り上がっていたとのことです(当方、女川には行ったことがありますが、光太郎祭には参加したことがありません)。

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平成14年(2002)には、それまでの北川先生のご講演の筆録が一冊の本にまとまりました。約400頁の堂々たるものです。

「高村光太郎を語る-光太郎祭講演-」北川太一著 平成14年4月2日 女川・光太郎の会発行

非売品ですが、時折古書店サイト等で見かけます。是非お読み下さい。

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これらの活動の中心となって獅子奮迅の活躍をなさっていた女川・光太郎の会事務局長の貝(佐々木)廣氏。やはり連翹忌の常連でしたし、他のイベント等でもご一緒させていただいたことがありました。ものすごい行動力と、繊細な気づかいの心を持ち合わせた方でした。「でした」と、過去形にしなければならないのが残念です……。
 
震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、北川先生をはじめ、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすらと横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、やがて、ご遺体発見の報。ショックでした……。
 
テレビやネットで女川の惨状を見るにつけ、心が痛みました。しかし、事実を認めたくなくて、女川には足が向きませんでした。自分の中では、女川は豊かな緑に囲まれた美しい港町、そこに行けば貝氏が元気な笑顔で迎えて下さる街、そのままの姿で取っておきたいという思いでした。
 
昨夏、数えてみれば20回目の女川・光太郎祭。例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思つていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。

さて、今年も第21回の女川・光太郎祭が開催されます。女川・光太郎の会の皆さん、さらには北川先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんの集まりである北斗会の方々のお骨折りです。
 
期日は例年通りの8月9日(木)。会場は女川の仮設住宅だそうです。15:00から北川先生のご講演。会場を移し、18:30から石巻グランドホテルにて懇親会。当方、北斗会の皆さんが手配して下さいまして、当日朝7時に池袋から貸し切りバスが出ますので、それに便乗します。帰着は翌10日の夕方です。お近くの方、そうでない方も御都合のつく方は、ぜひご参加ください。連絡をいただければ取り次ぎは致します。

yahoo!のテレビ番組検索で1件ヒットしていますので、紹介します。 

「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 第5話「智恵子抄」高村光太郎

BS日本映画専門ch(255ch) 2012年7月23日(月)25時00分~25時28分=24日(火)午前1時~ 
 
元々は地上波日本テレビ系で平成20001年(2009)に深夜ドラマとして放映されていたものです。ブレイクする前の吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、それから最近色々なドラマでちょくちょく見かける田中哲司さんらが出演しています。
 
古風な日本女性といった感じの長女(吉瀬美智子さん)、自由奔放な次女(紺野まひるさん)、病弱な文学少女の三女(高橋真唯さん)の三姉妹が、父(田中哲司さん)が遺した11冊の近代文学作品を通して亡き両親の愛の形を確かめる、というストーリーです。11冊の近代文学作品に入りこんだ三姉妹の「妄想」によってドラマが進みます。全話、女性の監督が起用され、女性ならではの視点で映像が創られています。

第五話が「智恵子抄」。次女の紺野まひるさんが「妄想」の中で智恵子を美しくも妖しく演じています。
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ちなみに他のラインナップは以下の通り。

 第1話 与謝野晶子「みだれ髪」
 第2話 夏目漱石「虞美人草」
 第3話 堀辰雄「風立ちぬ」
 第4話 泉鏡花「外科室」
 第6話 坂口安吾「白痴」
 第7話 江戸川乱歩「お勢登場」
 第8話 太宰治「女生徒」
 第9話 樋口一葉「にごりえ」
 第10話 芥川龍之介「藪の中」
 第11話 夢野久作「瓶詰地獄」
 
さて、今回のオンエアはBS日本映画専門ch(255ch)ですので、契約していないと見られない有料放送ですが、DVDボックスが発売されていますので、ぜひお買い求めになり、御覧下さい。お勧めです。

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深夜ドラマとしてはかなり視聴率も取りましたし、続編が期待されていたのですが、この後、吉瀬さんや紺野さんがブレイクしてしまったので、このキャストではもう無理でしょう。
 
『智恵子抄』や、光太郎・智恵子の生き様、どしどしドラマ化してほしいものです。

閲覧数が2,000を超えました。ありがとうございます。
 
ロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍紹介のとりあえず最終回です。

荻原守衛と日本の近代彫刻-ロダンの系譜

昭和60年(1985)4月6日 埼玉県立近代美術館編・発行 定価記載無し

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埼玉県立美術館さんでの同名の企画展図録です。メインは碌山荻原守衛ですが、守衛と交流があり、やはりロダンの影響を受けた光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎ら、そしてロダンそのものの作品も出品されました。収録されている論考、中村傳三郎氏「荻原守衛と日本の近代彫刻」、三木多聞氏「ロダンと近代彫刻」、坂本哲男氏「中村屋をめぐる美術家たち-荻原守衛と相馬黒光を中心に」、伊豆井秀一氏「日本における「近代彫刻」」の四編、短いながらもそれぞれに的を得た感心させられるものです。 

日本彫刻の近代

 平成19年(2007)8月23日 淡交社美術企画部編 淡交社発行 定価2,476円+税

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東京国立近代美術館他二館での同名の企画展(こちらは当方も見に行きました)の公式カタログです。図録としての部分はもちろん、解説が非常に充実している厚冊です。昨日紹介した芸術の森美術館編「20世紀・日本彫刻物語」同様、およそ百年の日本近代彫刻を概観、さらに平成の彫刻まで扱っています。光太郎に関しては、ロダンとの関わりも触れられていますが、塑像より木彫の方に重きが置かれているかな、という感じです。
 
やはり少し古いものですのですし、美術館の企画展図録、カタログですので、古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売をご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

昨日、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れましたので、もう少し。
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
昭和30年代には新潮文庫に正続2冊、少し前までは岩波文庫に『ロダンの言葉抄』というラインナップがあったのですが、絶版となって久しい状態です。筑摩書房発行の『高村光太郎全集』第16巻に全文が収録されていますが、手軽に読みたい場合、最近のものとしては以下の書籍が刊行されています。 

ロダンの言葉 覆刻

 平成17年(2005)12月1日 沖積舎 定価6,800円+税

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写真製版により、正続2冊をそのまま覆刻したものです。続の方はオリジナルからの覆刻のようですが、正の方は昭和4年(1929)刊行の普及版からの覆刻のようです。金原宏行氏の解説がついています。 

 平成19年(2007)5月10日 講談社文芸文庫 講談社 定価1,300円+税

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正の方のみ収録されています。湯原かの子氏の解説、光太郎の略年譜、著書目録がついています。
 
前回も紹介しましたが、光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「兄がロダンの言葉を集めて、ああいう形式で本にまとめることをどこから思いついたか、考えてみると、少し唐突のようだが僕は「論語」ではないかと思っている」「文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。」とのことです。
 
是非ご一読を。

一週間前に行ってきた練馬区立美術館の<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」で講演された日本大学芸術学部美術学科教授の髙橋幸次氏から、同大学の「芸術学部紀要」の抜き刷りということで、玉稿を頂きました。有り難い限りです。まだ昨夕届いたばかりで、熟読していませんが、読むのが楽しみです。

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第45号抜刷 ロダン研究Ⅰ-「ロダンの言葉」成立の前提- 平成19年3月
第47号抜刷 ロダン研究Ⅱ-ジュディット・クラデルとフレディック・ロートン- 平成20年3月
第48号抜刷 ロダン研究Ⅲ-バートレットのロダン:高村光太郎のルドルフ・ダークス- 平成20年9月
第50号抜刷 ロダン研究Ⅳ-モークレールのロダン- 平成21年9月
第51号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(上)- 平成22年3月
第52号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(下)- 平成22年9月
第53号抜刷 ロダン研究Ⅵ-コキヨのロダン- 平成23年3月
第54号抜刷 ロダン研究Ⅶ-マルセル・ティレルのロダン- 平成24年3月
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「上野の美術学校では、主だった学生はみなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的にではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の根本で人々の心を動かした。」「あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響の範囲は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている」とのことです。身内による身びいきという部分を差し引いても、ほぼ正確に当時の状況を物語っていると思われます。

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画像は当方手持ちの正続2冊をスキャンしたものですが、劣化防止の為パラフィン紙で覆ってあります。そのため白っぽい不鮮明な画像になっています。すみません。
 
原典としては、ロダンの母国フランスで『ロダンの言葉』という書籍があったわけではなく、色々な人が筆録したロダンの談話などの集成です。
 
髙橋氏の「ロダン研究」は、その「色々な人」-主にロダンの秘書-について、原典にあたりつつ、それぞれのロダンとの関わりや、光太郎がどのように取り上げているかなどが論じられているようです。
 
当方、文学畑の出身ですので、こういう美術史に関わる研究紀要の類を目にする機会はそう多くありません。しかし、この分野での「事実」の追究の仕方には常々感心させられています。自戒を込めてですが、文学畑の論考はどうも「事実」の追究に甘さがあり、恣意的な言葉尻の解釈に終始してしまう場合が多いと感じています。そういう意味で、髙橋氏の「ロダン研究」、熟読するのが楽しみです。
 
こうした紀要の類は、発行元に問い合わせるか、あるいは国会図書館等でも蔵書がある場合があり、国会図書館では「論文検索」で調べる事ができますし、うまくいくとネット上でPDFファイルで閲覧が可能です。

昨日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車を見に行ってきました。
 
まずこちらは「寺宿」という町内の山車に施された彫刻です。これが光雲と東京美術学校で同僚だった石川光明の家系の仕事です。

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こちらは「荒久(あらく)」という町内の山車で、山車の上部に据え付けられる巨大な人形。活人形(いきにんぎょう 「生人形」とも表記)という種類のもので、作者は三代目安本亀八。同じ亀八の作品、「下中宿」の菅原道真は、光雲に激賞されたという話も。その菅原道真をいただいた「下中宿」の山車、今日は行き会えませんでした。夜8:45~のNHK総合の関東甲信越ニュースではばっちり映っていました。

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他の山車にも幕末から明治、大正、昭和初めの職人達の精魂込めた仕事が為されています。
 
こうした木彫や人形をじっくり見たいという方のために、「水郷佐原山車会館」という博物館があります。山車の実物が展示されている他、祭りの歴史を紹介するコーナーや古い写真パネルなど、興味深い展示になっています。彫刻や工芸の歴史に興味のある方は、必見です。
 
また、周辺の古い街並みも非常に風情があります。是非一度お越しあれ。

昨夜、地上波TBS系で始まった木曜ドラマ9「ビギナーズ!」を見ました。藤ヶ谷太輔さん主演の青春ドラマです。主人公達の在籍する警察学校の校長「高村光太郎」が、鹿賀丈史さん。光太郎と何か関係のある設定かと思っていましたが、第1話見る限り、そういうエピソードはありませんでした。今後、そういう展開になるかも知れません。
 
さて、同じ地上波TBSで、現在、昼間に「浅見光彦~最終章~」というドラマの再放送を、1日に2本ずつ放映しています(関東地区以外ではどうだかわかりませんが)。5/14のブログでも紹介しましたが、内田康夫原作の人気推理小説のドラマ化で、今回再放送中のものは連ドラ枠で平成21年(2009)に放映されたものです。探偵・浅見光彦役は沢村一樹さん。来週17日(火)のオンエアは、「第8話 エキゾチック横浜編」「最終話 草津・軽井沢編」の2本です。時間は13時55分~15時50分。このうち「最終話 草津・軽井沢編」は、光太郎彫刻の贋作を巡る事件という設定の「「首の女」殺人事件」(昭和61年=1986)を原作としています。原作では福島岳温泉、島根県などを舞台としていますが、なぜか草津や軽井沢が舞台に変更されています。
 
こちらはDVD化もされています。

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さて、これも以前のブログで書きましたが、今日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われます。間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車(だし)が出ます。天気が心配ですが、暇を見つけて見に行ってきます。

2日続けて既に他の雑誌等に発表された文章が「転載」されている例を紹介しました。「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。
 
具体例を挙げましょう。
 
『高村光太郎全集』第19巻には「ツルゲーネフの再吟味」という短い文章が載っています。これは昭和11年(1936)、六芸社から発行された『ツルゲーネフ全集』新修普及版の内容見本(広告的な冊子)から採録したものです。ところがその後、遡ること2年、昭和9年(1934)に発行された『ツルゲーネフ全集』のオリジナル版の内容見本を発見しました。こちらにも光太郎の「ツルゲーネフの再吟味」が掲載されています。
 
それだけなら、『高村光太郎全集』の解題を訂正すればいいだけの話です。前回紹介した「天川原の朝」などと同じパターンです。ところが、オリジナル版と新修普及版、それぞれを読み比べてみると、オリジナル版の方が長いのです。つまり新修普及版の内容見本に転載(というか再録)する際に、オリジナル版の内容から一部をカットしているわけです。こうなると、優先されるのはカットされる前のオリジナル版の方ということになります。そこで、平成18年(2006)発行の「光太郎遺珠」②に全文を掲載しました。
 
こういう例は他にもあります。
 
昭和28年(1953)6月1日発行の『女性教養』第173号という雑誌をネットで入手しました。光太郎の「炉辺雑感」という長い散文(講演の筆録)が載っており、当方作成のリストに載っていなかったからです。さて、手許に届いて早速読んでみましたところ、読み進めていくうちに、「あれ、これ、読んだことあるぞ」と気づきました。出てくるエピソード-その昔、キリスト教に興味を持ちながらどうしても入信に踏み切れなかった話、花巻の山小屋での農作業の話など-が記憶に残っていました。「ちっ、転載か」と思い、調べてみると、『全集』第10巻所収の『婦人公論』第37巻第6号に載った「美と真実の生活」という題名の講演会筆録と内容がかぶっています。ところがこれも、今回入手した『女性教養』の「炉辺雑感」の方が長いのです。『婦人公論』の「美と真実の生活」は、『女性教養』の「炉辺雑感」を換骨奪胎し、7割程の長さに圧縮してあることが分かりました。不思議なことに、両方とも昭和28年(1953)6月1日発行です。まあ、実際に店頭に並んだのは奥付記載の発行日通りではないかも知れませんが。これなどはちょっと変わったケースです。「炉辺雑感」、来年4月発行予定の『高村光太郎研究34』に所収予定の「光太郎遺珠」⑧に掲載予定です(「予定」ばかりですみません)。

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また、「転載」の結果、ほとんど別の作品に変わってしまっている、という例もあります。
 
よく知られている有名な詩「道程」。たった9行の短い詩ですが、大正3年3月、雑誌『美の廃墟』に発表された段階では102行もある長い詩でした。それが8ヶ月後に詩集『道程』に収められた段階ではばっさりと削られ、たった9行に。こうなるとほとんど別の作品といっていい程の改変です。詩の場合、あまりに変えられたものは『全集』第19巻に「初出・異稿」として改変前のものもまとめて載せられています。散文でもこういうケースがあり、転載された前後で、同じ題名で内容的にも同じ、しかし細かな言い回しを含め、100カ所以上の異同などというものもあります。こうなると、次に『全集』が編纂される際には双方を掲載しなければならないかもしれません。
 
このように基礎テキストの校訂すらまだまた途上の状態です。しかし、光太郎程の人物が書き残したもの、出来る限り完全に近い形で次の世代へと受けついでいく努力は続けていきたいと思っています。

昨日は、既に他の雑誌等に発表された文章が転載されている例を紹介しました。今日は逆のパターンです。すなわち、既に『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に収録されているものの、その内容や情報が転載されたものに基づいている場合です。
 
具体例を挙げましょう。
 
昭和17年(1942)に書かれた「天川原の朝」という散文があります。その前年、真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇で出撃し、還らぬ人となった「軍神」岩佐大尉(没後二階級特進で中佐)の生家(群馬)を訪ねたレポートです。

『全集』では第20巻に掲載されています。そして『全集』第20巻の解題では、昭和17年5月31日発行『画報躍進之日本』第7巻第6号が初出となっています。しかし、さかのぼること約2ヶ月、同年4月6日発行の『読売新聞』に同じ「天川原の朝」が掲載されていることが、新たにわかりました。こうなると、『全集』の解題を訂正しなければなりません。

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こういう例はいくつかあり、判明したものは「光太郎遺珠」に記録、公にしています。
 
それぞれ作品名、『全集』解題での初出誌、新たに判明した掲載誌の順です。
・訳書広告ヹルハアラン『明るい時』大正10年(1921)12月1日『白樺』第12巻第12号  同年11月10日『東京朝日新聞』
・山本和夫編『野戦詩集』昭和16年(1941)4月20日『歴程』第14号    同年2月26日『読売新聞』
 
これらは内容的には同一ですので、初出掲載誌さえ訂正すればよいものです。
 
ただし、それすらもさらに訂正されるべき場合があるかも知れません。例えば「天川原の朝」にしても、4月6日に『読売新聞』に掲載されるより前に、他のマイナーな雑誌などに発表されている可能性も皆無ではありません。

それを言い出すと、現在登録されている初出掲載誌の情報は、ほとんど全て「推測」でしかないということになります。我々は「現在判明している初出誌はこれです」というスタンスで作品の解題を書いています。でも、それはあくまで「現在判明している」であって、確定ではないものがほとんどです。例外は、光太郎自身が書簡や日記、散文等で「いついつに『○○』という雑誌に発表した「××」という作品で……」のようなコメントをしっかり残している場合のみです。それすらも光太郎の勘違いがあったらおしまいです。まぁ、そこまで問題にしたらきりがありませんが……。
 
学者先生達はとかく「出典を明らかに」とのたまいますが、現在判明している典拠はこのように推測に過ぎぬ不確定なものであるということを認識してほしいと思います。それがどんなに有名な作品であっても、です。例えば「明治43年(1910)4月、我が国で初めての「印象派宣言」が世に出た。『スバル』第2年第4号に掲載された「緑色の太陽」である。」などという文言を目にすることがありますが、こういう場合も『スバル』に載った「緑色の太陽」が他の雑誌からの転載ではないとは断言できません。軽々に「初出」の語を使うのは避けるべきでしょう。
 
自戒を込めてここに書き記します。
 
「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。明日はそのあたりを。

一昨日、練馬区立美術館さんに講演を聴きに行く途中、江東区の東京都現代美術館さんに寄り道しました。こちらには美術図書室という施設があり、古い美術関係の蔵書が充実しているからです。
 
目当ては『芸術新聞』という古い新聞。その名の通り、美術や音楽、文学や演劇など、芸術全般についての記事が載った新聞です。昭和18年(1943)初め頃の号に、光太郎の「われらの道」という詩が載っているかも知れないと考え、調査してみました。
 
「われらの道」は、光太郎の詩集『記録』に収められたので、内容は分かっています。しかし、初出-雑誌等に初めて発表された状況-が不詳です。光太郎の手許に残された控えの原稿には「芸術新聞へ」のメモ書きが残されています。
 
さて、収蔵庫から出していただいたのは、マイクロフィルム。国会図書館では所蔵品のデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧するシステムになっていますが、他館ではまだそうしたシステムが不十分で、古い書籍や新聞雑誌等、写真撮影したマイクロフィルム(リールになっているもの)やマイクロフィッシュ(シートになっているもの)を専用の機械で閲覧するという方式が多く採られています。
 
事前に書誌情報として「欠号多」という文字を眼にしていましたので覚悟はしていましたが、やはり「われらの道」、発見できませんでした。ちょうど掲載された号が脱けているのだと思います。普通に考えれば、数十年前の特殊な分野の新聞がきっちり揃っていないというのも仕方のない話でしょう。まあ、あきらめずに探索は続けます。
 
そのままだと癪にさわりますし、まだ時間もあったので、開架コーナーから総目録的なものを取り出し、知られていない光太郎作品の掲載がないかどうか調べました。6/7のブログにも書きましたが、特定の雑誌の執筆者、記事の題名等の索引がしっかりしているものは重宝します。
 
さて、『東京美術学校校友会雑誌』『工芸』などの雑誌の総目録を調べましたが、目新しいものは見つかりません。ところが、『美術新報』という雑誌の総目録を見ると、持参した当方作成のリストに載っていない光太郎作品が記されています。題名は「美しい生命」。しかし、大喜びはできません。こういう場合、落とし穴があることがわかっているからです。
 
ともあれカウンターに行き、該当する明治43年(1910)の号を含む合冊(復刻版でした)を出してもらい、当該ページを見てみましたら、題名のあとに「高村光太郎氏(早稲田文学)」とあります。「やはりな。」と思いました。この時期の特に美術系雑誌は、他の雑誌に載った記事の転載が非常に多いのです。そこで、持参したリストで『早稲田文学』を調べてみました。しかし、「美しい生命」という題名の作品は載っていません。しかし、この時点でも大喜びはできません。まだまだ落とし穴があることがわかっているからです。

 
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当該ページをコピーし、そろそろ時間なので東京都現代美術館を後に、練馬区立美術館へ。講演を聴き、帰宅。『高村光太郎全集』を引っ張り出し、『早稲田文学』所収の作品を調べます。すると明治43年(1910)7月の第56号に載った「ENTRE DEUX VINS」という作品の一部が、コピーしてきた「美しい生命」と完全に一致することが判明しました。「やはりそうか。」と思いました。予想はしていましたが、少し悔しいものです。
 
特に古い美術系雑誌では、こういうふうに他の雑誌や新聞、書籍などから記事を転載し、さらに題名を変えてしまうというケースも結構多いのです。試みに手持ちのリストでページを繰ってみますと、備考欄に「転載」の文字がたくさん入っています。例えば明治45年(1912)の『読売新聞』に載った「未来派の絶叫」という文章は大正7年(1919)の『現代之美術』という雑誌に転載、同じ『読売新聞』に大正14年(1925)1月掲載の「自刻木版の魅力」という文章は同じ年5月の『詩と版画』という雑誌に転載、大正2年(1913)7月の『時事新報』に載った「真は美に等し」という文章は翌月の『研精美術』という雑誌に転載、というように枚挙にいとまがありません。そして、転載の際に題名が変えられることも多く、混乱することがあるのです。初めてこのケースの落とし穴にはまった時は、腹立たしいやら喜んでいた自分が情けないやらでした。以後、こういう落とし穴があるということを肝に銘じ、注意しています。
 
光太郎以外の書き手についてはよく知りませんが、この頃の美術系雑誌ではこういうこと(転載、題名の改変)が半ば当たり前のように慣習化していたのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけるとありがたい限りです。
 
ただ、逆のケースもあるので注意が必要です。明日はその逆のケースを紹介します。

昨日拝聴して参りました、日本大学芸術学部髙橋幸次教授のご講演からのインスパイアで、光太郎彫刻の空間認識といったことについて述べてみたいと思います。
 
まず有名な十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)について。これは昭和28年(1953)の作。光太郎はこの像を造るため、7年間の山居を切り上げて上京しました。智恵子の顔をもつ、といわれています。
 
この像の除幕式で述べた「裸婦像完成記念会挨拶」(『全集』第11巻)には、こんな一節があります。
 
造形的には群像になりますから、像ばかりでなくて、像と像の間に出来るいろいろな空間が面白い。それで、それを考慮して、いろいろなシンメトリカルな穴が出来るわけです。それが面白いわけです。
 
また、『東奥日報』に載った「高村氏制作の苦心語る"見て貰えば判ります"像の意味は言わぬが花」という談話(「遺珠」③)では、以下の通りです。
 
あの像は全体がこういう(手で形を示して)ピラミツド型になつていて上へ行つて交叉している気持なんです。それを中途で切つた辺が頭になつていて、二人の中間のあたりが、ちょうど将棋の駒みたいなかつこうを形づくつている。彫刻は空間を見るんですネ。像が一人のときは真中が主になるが、二人以上の群像になると、二人の間にできるスキ間に面白味があるんですよ。

図にしてにると、下の画像のようになるでしょうか。写真は『高村光太郎彫刻全作品』(穴沢一夫他編 六耀社 昭和54年=1979)からスキャンさせていただきました。
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この隙間というか、余白に注目するという考え方は、書道でもよく行われます。光太郎が特に晩年、書の制作に意欲を燃やしたのも、あながち無縁ではないでしょう。

続いて平成14年(2002)、実に70余年ぶりに見つかった栄螺(さざえ)の木彫です。

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これについても、少し長いのですが、光太郎自身の言葉を引用してみましょう。出典は昭和20年(1945)の「回想録」(『全集』第10巻)です。
 
 実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて、針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 
こういう光太郎の空間認識を意識して、光太郎の彫刻を見ると、また違った見え方になります。画像ソフトでいたずらしてみました。参考にしてみて下さい。写真は平成2年(1990)に茨城県近代美術館他で行われた企画展「高村光太郎・智恵子-その造形世界」の図録からスキャンさせていただきました。
 
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ただし、「白文鳥」の木彫は2体をどういう向きに並べるべきなのかはよくわかりません。
 
結局、光雲たち草創期の近代彫刻家には、こういう意識が欠如、あるいはあっても不十分だったということではないのでしょうか。専門の方の御意見を伺いたいものです。
 
今日の内容が、みなさんがどこかで光太郎彫刻を目にする時の一助となれば幸いです。

今日は練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参りました。本日まで開催の日本大学芸術学部美術学科さん(N)と練馬区立美術館さん(N)の共同企画展「N+N展2012」の関連行事です。
 
「N+N展2012」は「触れる」というテーマのもと、日本大学芸術学部美術学科教職員の皆様による作品を展示していました。最近の美術界の傾向として、視覚だけに頼るのではなく、もっと五感(五官)を駆使すべしという流れがあるそうで、こちらのテーマも「触れる」ですから、自由に触れられる作品が多く展示されていました。
 
そして講演は「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。講師は同大教授の髙橋幸次氏。パワーポイント等使いながら、非常にわかりやすいお話で、1時間40分ほど、あっという間でした。
 
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光太郎は昭和3年(1928)の時点で、既に五感(五官)すべてが「触覚」に帰結する、という趣旨の発言をしていることをご紹介されました。そう考えると、光太郎は時代を突き抜けていたといえるかも知れませんね。
 
それから有名な「手」の彫刻を実例に挙げての光太郎の空間認識。当方、あの彫刻の画像を名刺に使ったりしていながら、今までそういう見方をしたことがなかったのですが、てのひらの部分に空間が設定されており、それを包み込みながら回転運動、そして人差し指が指す天を目指してあがってゆくイメージがあるとのこと。確かにそう見えます。
 
下の画像は平成19年(2007)、新潟市の会津八一記念館で行われた企画展の図録の表紙です。「手」が使われているので載せさせていただきました。おわかりになるでしょうか。

 
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あのロダンの「考える人」も、実はものすごいねじり、ひねりが入ったポーズです。自分でやってみるとわかりますが、右の肘を左の膝に置いています(このあたり、ミケランジェロの影響を指摘する説もあります)。こういうイメージ、いわば「視覚で触る」というようなイメージですね。それを光太郎も意識している、と、こういうわけです。
 
実にいい勉強になりました。
 
確かに光太郎は他にも様々な彫刻で、空間認識を大事にしているな、ということに思い当たりました。明日はその辺を書いてみようと思います。

昨日と今日は、以前のこのブログで紹介した明治古典会七夕古書入札会の一般公開でしたが、昨日も今日も他に所用があり、結局行きませんでした。
 
さて、先日、石川光明やら大熊氏廣やら、明治の日本近代彫刻草創期の彫刻家の話題を書きましたので、手持ちの資料の中からそのあたりに関するものを引っ張り出しました。暇をみて読み返したいと思っています。 

明治の彫塑「像ヲ造ル術」以後」

平成3年(1991)3月30日 中村傳三郎著 文彩社 定価4000円+税

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書き下ろしではないのですが、結果的に明治期の彫刻の編年体的通観がなされています。それにしても、帯がいいですね。内容もさることながら、この帯に惹かれて購入したことを覚えています。 

平成6年(1994)3月1日 田中修二著 吉川弘文館 定価6,214円+税

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『明治の彫塑』がどちらかというと編年体で書かれているのに対し、こちらはどちらかというと紀伝体です。高村光雲、後藤貞行、大熊氏廣の三人について、一章ずつ費やして論じています。後藤貞行はやはり東京美術学校に奉職した彫刻家で、動物彫刻を得意とし、「楠木正成像」の馬、「西郷隆盛像」の犬を手がけています。他に、石川光明、米原雲海ら同時代の彫刻家、朝倉文夫、荻原守衛ら次の世代の彫刻家にも触れています。
 
明日はやはり以前のこのブログで紹介した練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参ります。午後3時からなので、午前中は調査。日曜は国会図書館さん、駒場の日本近代文学館さんが休みですので、木場の東京都現代美術館さんに行きます。美術館でも、図書館のように図書の閲覧サービス等を行っているところがあり、東京都現代美術館さんもその一つです。

昨日、yahoo!のテレビ番組検索でヒットした情報をお伝えします。
 
実は、オンエアの日付を昨日と勘違いし、昨日、慌てて載せたのですが、よく見てみると来週でした。

木曜ドラマ9「ビギナーズ!」 第1話

地上波TBS系 2012年7月12日(木) 21時00分~22時06分
 
俺たち、ヒーローになる予定っ!絶対服従24時間監視下の全寮制警察学校を舞台に今注目度No.1の若手キャストが集結した青春ラブコメドラマ!

番組内容
幼い頃、白バイでマラソンの伴走をする警察官だった父の姿を見て育った志村徹平(藤ヶ谷太輔)は、マラソンランナーになる事が夢だったが、父親の失職・失踪と自身のケガをきっかけに自堕落な生活の一途をたどり、地元では名の知れた不良になってしまう。 そんな徹平が幼馴染の雄一の強い誘いも影響して、高校卒業後、なんと警察官になる道を選ぶ。 奇跡的に採用試験に合格した徹平はこの夏警察学校に入校することになるが…


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どこが光太郎関係だ? と思ったら、出演者の欄に、以下の記述がありました。

出演者
志村徹平…藤ヶ谷太輔(Kis-My-Ft2) 立花団司…北山宏光(Kis-My-Ft2) 桃江比呂…剛力彩芽
山根省吾…柄本時生 杉山清貴…小柳友 石岡太一…石井智也 新島千晶…岡本あずさ
福原陽子…水沢エレナ 峰百合…青山倫子 恩田雄一…森廉 桃江明美…河合美智子
高村光太郎…鹿賀丈史(特別出演) 福田清志…柳沢慎吾 桃江好則…宮川一朗太
志村恭一郎…国広富之 竜崎美咲…石田ひかり 桜庭直樹…杉本哲太

「何だそりゃ?」と思って番組公式サイトを調べたところ、鹿賀丈史さん演ずる「高村光太郎」は警察学校の校長という設定でした。まさか、単なる同姓同名というだけの設定でもないとは思いますが……。


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とりあえず来週からのオンエアをチェックしてみたいと思います。

追記 結局、風間さんが演じた「高村光太郎」は光太郎と何の関わりもなかったようで……もしかすると、全何回かの中でちょっとだけでも光太郎がらみのエピソードはあったのかもしれませんが……。

本日も香取市(旧佐原市)ネタです。佐原と光雲の間接的なつながり、ということで、昨日は佐原の大祭についてご紹介しました。もう一つ、似たような例があるので今日はそちらを。
 
JR佐原駅の改札を出て、まっすぐ南に行きますと、500㍍ほどで小高い山にぶつかります。山の上には諏訪神社。山の手前、右側は公園になっており、こちらに建っているのが下の画像の銅像です。
 
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我が国で初めて実測による日本地図を作成した、伊能忠敬の銅像です。
 
忠敬は元々は九十九里の生まれでしたが、醸造業だった佐原の伊能家に養子として入り、傾いていた家業を盛り返し、また、佐原本宿の名主としても、天明の飢饉の際に私財をなげうって窮民救済にあたったなどといわれています。そしてその名を一躍有名にした実測地図作成。これが実は隠居後の仕事だったというのですから驚きです。佐原旧市街には、現在も残る忠敬の旧居、平成10年に開館した伊能忠敬記念館などがあり、佐原観光の拠点になっています。
 
というわけで、地元の誇りというわけで、古くから顕彰活動が行われていまして、この銅像は大正八年、忠敬没後百年を記念して当時の佐原町有志が中心となって建立されました。
 
この像の作者は、大熊氏廣。安政三年生まれの彫刻家で、日本近代彫刻の草創期を担った一人。靖国神社に建つ「大村益次郎像」(明治26年=1893)など、我が国最初期の銅像の作者です。
 
もっとも、光太郎はこの大村益次郎像に対しては非常に手厳しい文章を残しています。曰く「大熊氏廣氏作の大村益次郎像は九段靖国神社前に日本最初の銅像として今日でもその稚拙の技を公衆に示してゐる。(中略)本来塑像家としての素質無く、その作るところ殆ど児戯に等しい観があつて、何等の貢献をも日本彫刻界に齎(もたら)してゐない。」(「長沼守敬先生の語るを聴く」昭11=1936『全集』第7巻)。
 
草創期なんだからある意味仕方がないじゃないかと思いますが、どうでしょうか? ちなみに光太郎、勘違いしています。大村像完成より古い明治13年に、金沢兼六園に建てられた「日本武尊像」が日本初の銅像という説が有力です。参考までに光雲が関わった皇居前広場の「楠木正成像」は明治29年(1896)、上野の「西郷隆盛像」は同30年(1897)の竣工です。
 
さて、大熊は「東京彫工会」とう組織に所属していました。元々は例の石川光明ら、牙彫(げちょう=象牙彫刻 廃仏毀釈のあおりで木彫の注文が激減したため外国人向けに作られ、一世を風靡 光明は一時期牙彫に専心)の人々が中心になって作られた団体ですが、光雲も参加しています。
 
というわけで、大正8年(1919)頃、次のような会話が交わされていたかもしれません。
 
大熊 「今度、下総の佐原という町に伊能忠敬翁の銅像を造ることになりました。」
光雲 「ほう、佐原ですか。先頃亡くなった石川光明先生の先々代の頃、あそこの祭りの山車を何台か手がけたと聞きましたな。」
大熊 「なるほど。そうだ、山車といえば、活人形の安本亀八さんが、佐原の山車の人形を作るとも聞いていますぞ。」
光雲 「そいつは楽しみですなあ。」
 
こんな想像をすると、何とも楽しいではありませんか。
 
しかし、佐原の伊能忠敬像、説明板には忠敬の業績ばかりで、作者大熊の名が記されていません。一般に銅像というもの、「誰が作った」より「誰を作った」の方ばかり注目されている嫌いがあるように思われます。「渋谷のハチ公の作者は?」と訊かれて「安藤照」とパッと答えられる人はまずいないでしょう(現在は二代目ハチ公で照の子息、士(たけし)の作)。かくいう当方も、今、ネットで調べて書いています(笑)。
 
日本彫刻史をしっかり押さえるためにも、こうした風潮には釘を刺したいものです。

以前にも書きましたが、当方、千葉県香取市在住です。その中でも平成の大合併で香取市となるまでは佐原市といっていた区域で暮らしています。ここは千葉県の北東部に位置し、成田や銚子にも近い水郷地帯です。
 
もともとは古代に香取神宮の門前町としてその発展を始めましたが、江戸の昔には利根川の水運、水郷地帯特産の米を利用しての醸造業などを中心に商都として栄え、「小江戸」と称されました。日本で初めて実測による地図を作成したかの伊能忠敬も、佐原で醸造業を営んでいました。
 
しかし、明治に入り、鉄道網の整備と共に水運が廃れ、佐原の街の発展もかげりを見せます。そのおかげ、というと語弊がありますが、太平洋戦争時には空襲をまぬがれました。銚子には空襲がありましたし、成田では空襲はなかったものの、撃墜されたB29が炎上しての火災があったそうです。そのおかげ(こちらはほんとにそのおかげです)で、旧市街では江戸期から戦前の商家建築が多数残り、平成8年、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 
それまではさびれた街でしたが、もともと営業していた店は息を吹き返し(幕末に建てられた店がそのまま営業しています)、廃屋になりかけていた古民家もおしゃれなカフェやレストランなどにリニューアル、現在では休日ともなれば都心方面からのバスツアーなど、観光客の皆さんでにぎわっています。昨年の震災で受けた被害からも徐々に復興してきました。ただ、まだ足場を組んで修理中の建物も多いのですが。
 
余談になりますが、佐原では古い街並みを利用しての映画、テレビなどのロケもよく行われています。後のブログでも書こうと思っていますが、昭和42年公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)のロケも行われたのではないかと思っています(確証がないのですが)。
 
というわけで、古来から佐原には文人墨客の滞在、来訪が多くありました。近代でも有名どころでは、芥川龍之介にその名もずばり「佐原行」という小品がありますし、与謝野晶子、若山牧水、柳原白蓮、新村出(かの『広辞苑』編者)なども訪れています。あまり有名ではありませんが、光太郎の彫刻のモデルを務めたこともある歌人・今井邦子の夫も佐原にゆかりの人物です。実は佐原、古い街並み保存などの方面には力を入れていますが、文人との関わりなどの方面はまだまだ光を当てていません。
 
近隣の銚子や成田には光太郎、智恵子の足跡が残されています。しかし佐原と光太郎には、今のところ深い関わりは発見できていません。今後、佐原に住んでいた誰々に宛てた書簡などが出て来る可能性も皆無ではありませんが、おそらくないでしょう。大正元年に光太郎と智恵子は銚子の犬吠埼で「偶然に」出会っていますが、この頃の東京から銚子へのルートとしては佐原経由の成田線がまだ開通しておらず、もう少し南の八日市場・旭経由の総武線で往復し、佐原は通っていないと思われます。
 
ただ、間接的なつながり-光太郎というより光雲との-はいくつかあります。その一つが来週末に行われる「佐原の大祭・夏祭り」です。先日のブログに書いた佐原の骨董市が行われる八坂神社の祭りです。
 
佐原の大祭は夏と秋の二回、それぞれ3日間ずつ行われます。夏と秋では異なる地区が担当します。旧市街中心を流れる小野川を境に夏は東岸の「本宿」(旧市街の中でもより古くから発展していた地区)、秋は西岸の「新宿」(旧市街の中では比較的新しく発展した地区)が担当です。基本的には山車(だし)の引き回しをする祭りです。江戸期に繁栄していた頃、佐原の商人達がこぞって豪勢な山車を作らせ、その妍(けん)を競いました。

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山車の命は上部に据えられる巨大な人形と、山車全体を覆う木彫です。
 
まず、木彫の方では、先のブログで紹介した、東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の家系が関わっています。来週末に行われる夏祭りでは本宿地区10台の山車が出ますが、そのうちの4台に石川系の木彫が施されています。それぞれ江戸後期から幕末に作られたもので、「寺宿」「船戸」(本宿の中のさらに細かな町名です。以下同じ)の山車には、光明の先々代、豊光の門人であった石川常次郎の彫刻が、「下新町」の山車(こちらは秋ですが)にはやはり豊光の門人であった石川三之介の彫刻が施されています。また、詳細は不明とのことですが、「仁井宿(にいじゅく)」の山車にも石川系の彫刻が入っているらしいとのことです。佐原の商人達は、当時の江戸の有名な宮彫師(神社仏閣の外装などを手がける職人)であった石川一派に依頼したというわけです。どれも非常に精緻な木彫で、江戸の職人の水準の高さがよくわかります。
 
残念ながら高村一派の木彫が入った山車はありません。光雲は、自分の地元の駒込林町の祭礼で使う御輿(みこし)の木彫などは手がけていますが、あくまで地元だからであって、やはり御輿や山車の彫刻は仏師としての仕事の範疇から外れるのだと思います。
 
それから人形。佐原の山車には一部の例外を除き、歴史上の人物や神話の神々などの巨大な人形が据え付けられています。夏祭りで出る山車のうち、「下仲町」の人形・菅原道真(大正十年)、「荒久(あらく)」の人形・経津主神(ふつぬしのかみ=香取神宮の祭神 大正九年)の作者は、三代目安本亀八(かめはち)。これらの人形はとてつもなくリアルな「活人形(いきにんぎょう)」という種類のもので、これは幕末から明治、大正にかけて見世物小屋などで展示されることが多かったということです(一番下のリンクで画像が出ます)。光雲は活人形の祖、松本喜三郎を賞賛する文章を残しており、昭和四年に刊行された『光雲懐古談』に収められています。さて、「下中宿」の菅原道真。町内の人が書いた説明板には光雲がこの人形を見て絶賛した旨の記述があります。ただし、今のところ出典は確認できていません。
 
いずれ光雲の書き残したもの(多くは談話筆記)も体系的にまとめようと思っていますので、そうした中で調査してみたいと思います。
 
というような光雲との間接的なつながりのある祭りです。来週末の13日(金)から15日(日)の3日間。重要伝統的建造物群を背景に練り歩く山車を見るだけでもいいものです。タイムスリップしたような感覚も味わえます。十数年前までは、八坂神社に見世物小屋の興業が出ていました。さすがにそれは無くなりましたが、情緒溢れるレトロな雰囲気は昔のままです。といって、静かな祭りではなく、山車をその場でドリフトさせる「「の」の字回し」(平仮名の「の」のような動きということです)などの勇壮な曲引きもあったりしますし、山車に乗る「下座連(げざれん)」の人達の笛や太鼓の演奏も見事なものです。これも音楽史、民俗史的に貴重なもののようです。
 
是非、お越しください。
 
以下のサイトを参照させていただきました。
 
国指定重要無形民俗文化財 佐原の大祭
 
『生人形師 三代目 安本亀八展~日本人形の極致~』水郷佐原山車会館  

新刊情報です。 

スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡

坂本富江著 牧歌舎 平成24年7月10日 定価1,800円+税

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これも楽しみにしていた書籍の一つです。著者の坂本様から6月下旬に刊行予定と御案内を頂いておりましたが、少しずれ込んだようです。昨日届きました。
 
著者の坂本様は、若かりし頃の智恵子も所属していた太平洋画会の後身、太平洋美術会の会員(智恵子に惚れ込むあまり入会されたそうです)。高村光太郎研究会や福島の智恵子の里レモン会の会員でもあられます。
実は当方、タイトルの「スケッチで訪ねる」という文言から、勝手に単なる画集のようなものだろうと思いこんでいました。しかし、さにあらず。確かに坂本様のスケッチもたくさん載っていますが、それだけでなく、光太郎・智恵子ゆかりの地を訪れたレポートがびっしり書かれています。思わず一気読みしてしまいました。
 
画像でお判りになるかと思いますが、帯には渡辺えりさんの推薦文が掲載されています。曰く、「坂本さんのスケッチは温かく、まるで智恵子を抱きしめているように思える。智恵子自身が、故郷の山や川や植物を坂本さんと一緒に描いているようだ。」なるほど、その通りです。
 
驚いたことに、全ページカラー刷りの豪華な造りです(鉛筆スケッチはともかく、水彩でのスケッチはカラーでなければしょうがないといえばそれまでですが)。収められたスケッチは150点近く。その点数の多さもさることながら、訪れられた場所も実に多方面にわたっていて、その御労苦に頭が下がります(なんと、17年分のご成果だそうです)。定番の二本松、犬吠埼、十和田湖などはもちろん、智恵子が短期間暮らしていた雑司ヶ谷周辺や、1ヶ月程入院していた九段坂病院、人里離れた福島の不動湯温泉(光太郎直筆の宿帳が今も残っています)などなど。
 
そして文章を読むと、いろいろな場所で体当たり的取材を敢行されているバイタリティーにも感心させられました。さらに行間から滲み出る智恵子への愛惜の思いの深さ……。素晴らしい!
 
肝心のスケッチは、150点近くも収められていながら決してゴテゴテせず、全編を通して何というか、一つの統一された流れを感じました。時々、全ページカラー刷りというと「飲み屋街のネオンか?」と突っ込みたくなるようなけばけばしい書籍がありますが、この本はそういうことはまったくありません。表紙や見返し、年譜のページなど、智恵子が好きだったというエメラルドグリーンが非常に効果的に使われ、爽やかな感じです。さすがに絵心のある人は違いますね。羨ましい限りです。
 
是非とも第二弾「スケッチで訪ねる光太郎の旅」を出していただきたいものです。

昨日に続き、骨董市ネタです。
 
数年前のことでした。市に参加しているある店の店頭に、額に入れられた「光太郎の葉書」が並んでいました。葉書ですので表裏になっていますが、裏面(文面)の方がこちらに向けてあり、表面(宛名面)の方はコピーで横に並べてあります。
 
山梨出身のマイナーな詩人・野沢一(はじめ)にあてたもので、『高村光太郎全集』には2通、山梨県立文学館所蔵のものが掲載されています。実際に同館でそれを見たこともありました(細かな文面までは頭に入っていませんでしたが)。そこで、「野沢宛か、あってもおかしくないな。」と思いました。書かれている内容も野沢の質問に対しての解答になっており、筋が通っています。筆跡も問題なさそうです。
 
値段を訊いてみると、「額付きで5万円」とのこと。まあ、妥当な値段です。さすがに財布に5万円は入っていませんし、こんな所ではカード払いなど不可能です。しかし、会場になっている神社の近くにコンビニがあったので(今は閉店してしまいましたが)、そこのATMから下ろせば何とかなります。その時点では、もう半分以上買う気になっていました。
 
もう少し確認しようと、店主に頼み、額から出して貰い、手に取ってみました。すると、額のガラス越しの時には感じなかった違和感。形的には見慣れた光太郎の筆跡ですが、どうにも筆跡に力がないのです。うまくいえませんが、光太郎の筆跡に接した際に感じられるオーラのようなものが漂ってこない、ということです。この時点で、だいぶ疑いが濃くなりました。
 
裏返して宛名面を見てみると、更におかしなことが。消印がないのです。消印がないということは、投函されていないということですね。なぜ投函されていないのか、と考えれば、答えはこれが偽物だから、です。
 
消印がないからといって、一概に偽物とは言えません。実際、消印がない本物も存在します。直接手渡したか、他の何かと一緒に封書や小包にして送ったかであれば、消印はなくてもおかしくはないので。しかしこの葉書は筆跡が弱すぎる。結局買うのはやめました。
 
逆に、消印が押してある偽物も見たことがあります。というか、現在も他の方のブログで、我が家の家宝です、みたいに紹介されています。これはどうみても筆跡が違うし、内容もおかしいし、何より光太郎の住所が間違っています。ここまで来ると程度が低すぎてすぐわかります。ただ、どうして消印が押してあるのかは謎ですが。
 
家に帰って、調べてみたところ、例の葉書に書かれていた内容は、現存する野沢宛2通の内の1通と同じでした。誰かが未使用の古い葉書に光太郎の筆跡を巧妙に真似て、書き写したということでしょう。偽物は今までに何点か見ましたが、筆跡を真似る技術では、これが一番でした。ある意味、すごい才能です。でもいかんせん、書かれた文字に「力がない」。それでも形はそっくりです。こういう才能をもっと他の部分で使うことはできないのでしょうか……。悲しくなります。
 
手前ミソになりますが、だまされなかった自分の眼力をほめたくなりました。テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」という番組、よく見ているのですが(ちなみに5月のオンエアで光雲の弟子筋にあたる木彫家の作品が出ており、興味深く拝見しました)、「鑑定士」と称する人がよく「力がない」ということを言っています。この経験をするまで、「ほんとかよ」と思っていました。しかし、わかるものなんですね。実感しました。

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昨日、当方の暮らす市内の神社で月に一度の骨董市があり、行ってきました。
 
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骨董市ですから、焼き物やら刀剣やらが主なのですが、とりあえず当方、だいたい毎月行っています。一部の業者が古書籍や「刷り物」といわれる一枚物の印刷資料等を持ってきていることがありますので。
 
結局昨日は何も買わず帰りましたが、時々買うのが、光太郎、智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書、特に戦前の発行と思われるモノクロのものです。先月は会津磐梯山のものを買いました。こうした骨董市だけでなく、古書店の店頭やネット販売や目録販売などでも気がつけば買っています。ネット販売や目録販売では結構高めの値段ですが(一枚数千円するものもあります)、骨董市などでは一枚100円くらいが相場ですし、宝探し的雰囲気が味わえて面白いものです。
 
光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで、ちょっとしたものを書く時に挿画として使えます。また、今は失われてしまった建造物などの画像は、結構貴重だと思います。
 
こうした古い絵葉書を使って、当方が刊行しています冊子『光太郎資料』にて光太郎たちの故地を紹介しています。『光太郎資料』については、後ほどのこのブログで紹介いたします。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された「第72回企画展 『智惠子抄』という詩集」の際には、当方手持ちの書籍やらポスターやらいろいろなものを出品物としてお貸ししたのですが、大正元年に光太郎と智恵子が「偶然」出会った銚子の犬吠埼や、大正2年に二人が一夏を過ごした上高地、昭和9年に智恵子が療養のために滞在した九十九里の絵葉書も当方のお貸ししたものが出品されました。ただし、あくまで光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで彼らの目に映った風景と若干異なるかも知れません。それでも、現在の姿より往時に近いものであることは確かでしょう。
 
さて、例によってお願いです。風景だけでなく、光太郎や光雲の彫刻(主に銅像)の絵葉書も集めているのですが、特に以下のものを探しています。もしお持ちの方で、譲っていただけるとか、画像を提供していただけるという方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。
 
光太郎彫刻 
 宮城県 青沼彦治像(光雲代作) 志田郡荒雄村公園 大正14年(1925)
  除幕記念の袋入り5枚組のものを入手しましたが像が大写しになっているものがありません。
 千葉県 赤星朝暉胸像 千葉県立松戸高等園芸学校 昭和10年(1935)
 岐阜県 浅見与一右衛門像(光雲代作) 恵那郡岩村町 大正7年(1918) 
 
光雲彫刻
 秋田県 坂本東嶽像 仙北郡千屋村浪花字一丈木 大正12年(1923)
 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年(1908)
 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年(1911)
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年(1906)
 愛媛県 広瀬宰平像 新居郡中萩村字中村 明治31年(1898)
 
参考:屋外彫刻調査保存研究会ページhttp://www4.famille.ne.jp/~okazaki/zenkokuchousa1.htm

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