大正元年(1912)夏、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼のある千葉県銚子市。

昨年から市のサイト上で「銚子市デジタルアーカイブ」の運用が始まっています。

銚子市デジタルアーカイブについて

化石、土器、民俗資料など銚子の文化財や標本をネット上で公開する「銚子市デジタルアーカイブ」の運用を4月1日から開始しました。博物館がない、展示スペースや学芸員が足りないなどの理由からなかなか公開できなかった貴重な資料が、いつでもだれでも閲覧できるようになります。

銚子ジオパークミュージアムの目玉資料でもある「千葉県指定天然記念物犬吠埼産出のアンモナイト」。デジタルアーカイブでは、自分でカーソルを操作して360度見ることができます。

開始日時  令和4年4月1日(金曜日)
公開資料数 約1万点

デジタルアーカイブはこちらから
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違っていたらごめんなさい、ですが、その後、閲覧できるデータを増やしているようで、先頃、ネット全体をキーワード「高村光太郎」で新着情報の調査中に、このアーカイブに辿り着きました。

調べてみて仰天しました。銚子出身の詩人で、光太郎と交流の深かった宮崎丈二関連の資料がごっそり(なんと1,239件)市に寄贈されていたためです。

大半は宮崎が手元に残した原稿(コピー機のなかった時代、出版社等に送るのと別に自分で手控え用に残したのでしょう。光太郎も同じように詩稿を遺しています)、それから画家としても名を成した宮崎ですので、絵画でした。それ以外に、光太郎を含むビッグネームからの来翰も。

ただ、光太郎からのものは、担当者の方が題名を誤っていまして、「高村光太郎が宮崎丈二に宛てた書簡」とすべきところを逆に「宮崎丈二が高村光太郎に宛た書簡」としてしまっています。ついでに言うなら「宛てた」が「宛た」。まぁ、あまりに膨大な点数なのでデータ入力も半端ないでしょうから、いたしかたありますまい。
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光太郎書簡は3通。封書は封筒と便箋を別にカウントしています。全て『高村光太郎全集』に既収で、以前には同市にあった青少年文化会館というホールのロビーに設けられていた郷土の偉人コーナー的なスペースに展示されていて、現物を拝見したこともあるものでした。

それから、宮崎が光太郎について書いた様々な原稿など。光太郎の原稿(「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」 雑誌『河』第6年第59号 昭和7年掲載)というのもありますが、これも宮崎が手元に残した手控えらしく、光太郎の筆跡ではありませんでした。
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これ以外にも、題名に「光太郎」と入っていませんが、やはり宮崎の光太郎に触れた詩文原稿が複数ありました。

光太郎以外のビッグネームからの宮崎宛来翰、送り主は、室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助ら錚々たる面々。さらにはパリから高田博厚。これには驚きました。

また、宮崎関連資料でないところでは、光太郎智恵子が大正元年(1912)に宿泊した暁鶏館犬吠埼灯台等の古写真、「まちなかの文化遺産」ということで「犬吠の太郎」こと阿部清助の墓の画像なども見られます。

この手のデジタルアーカイブ、国立国会図書館さんをはじめ、図書館さん等で手持ちの貴重資料等のそれを公開している例は少なくないようですが(台東区立図書館さんなど)、市町村としてやられている例は珍しいのではないでしょうか。今後、こういった取り組みがさらに広がってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長らくの間ちゑさんをおねがひいたし お蔭さまにて大層健康を取り返し 此度帰京の運びと相成候事まことにうれしき事とよろこび居申候 御たんせいの段ありがたく存上候 ちゑさんより皆々様目下無事の事承りよろこび候 小生つねづね御無沙汰のみいたし居り申訳無之 せめてこの五月にはちゑ子ともども参上いたし度き事に存居候 ちゑさんもなほ当分は静かに生活いたして再び健康をそこねぬやうにと用心いたし居候間 此段御安心被下度候


大正9年(1920)3月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

前年に湿性肋膜炎(おそらく結核性)を発症した智恵子は東京で入院後、8月頃郷里二本松に帰り、この年3月まで実家の長沼家に滞在していました。そこで長々と智恵子を預かってもらった礼状です。

五月にはちゑ子ともども参上」は智恵子の父・今朝吉の三回忌法要にあわせて実現し、この際の体験が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で謳われることになります。