光太郎の父・高村光雲の関連で3件ほど。

まず、京都から企画展の情報です。

帝室技芸員の仕事 彫刻編

期 日 : 2019年8月24日(土)~11月17日(日)
会 場 : 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入三丁目337-1
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 一般800円/大学・高校・中学生500円/小学生300円
休 館 : 下記参照


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 当館所蔵作品のうち、帝室技芸員による作品を一堂に展示する「帝室技芸員の仕事」シリーズ。今回は石川光明(1852~1913)と高村光雲(1852~1934)の作品を中心に、彫刻分野の帝室技芸員による名品をご覧頂きます。
 帝室技芸員制度は、宮内省(現在の宮内庁)が技術と人柄に優れた当代の美術工芸家を選出し「帝室技芸員」に任命する作家の顕彰制度で、その拝命は作家にとって大変な名誉でした。
 光雲と光明は、帝室技芸員制度が発足した明治23年(1890)、ふたり同時に第一回帝室技芸員に任命されています。光雲が仏師として修業を積み生涯木彫一筋で制作を続けた一方、光明は牙彫を中心に木彫や彫漆にも取り組みました。ふたりはそれぞれ異なる姿勢で制作に取り組みながらも互いに敬意を払い、ともに近代彫刻界の発展に貢献しました。

 この度の展示では、光雲・光明の作品に加え、竹内久一(1857~1916)や山崎朝雲(1867~1954)の作品もご紹介します。作品が持つ気品と迫力、そして人物や動物の描写に発揮された妙技を味わって頂ければ幸いです。また、煙管筒のような小品も多数展示致します。精巧な彫りを作品の間近でどうぞご覧ください。
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というわけで、光雲作の木彫がある程度まとめて展示されます。同館では平成23年(2011)にも「室技芸員series3 彫刻 高村光雲と石川光明」という企画展を開催、その際には、光雲作品は約30点出ました。今回もそれに近いのではないかと思われます。


続いて、新潟県上越市からの展示情報。状況をわかりやすくするため、「上越妙国タウン情報」というサイト、「上越タウンジャーナル」というサイトから引用させていただきます。

高村光雲作 木造毘沙門天像 埋蔵文化財センターで初公開

謙信公祭が近づくなか、かつて春日山城跡の毘沙門堂に安置されていた木造毘沙門天像が、上越市春日山町の埋蔵文化財センターで展示されている。
一般公開は初めてということ。
木造毘沙門天像の大きさは約40㎝。作者は上野公園にある西郷隆盛像などを手がけた仏師、高村光雲。光雲は昭和3年、米沢にあった本物の毘沙門天像が火災の被害を受けたため、その修理を担当したが同時に分身として作ったのがこの像。なかには本物の像のかけらが収められているという。
毘沙門天像は昭和5年、旧春日村に寄贈され、春日山城跡の毘沙門堂に安置され、その後、盗難などの防犯面から春日地区町内会長連絡協議会が保管、現在は埋蔵文化財センターが保管している。協議会では元号が令和になったことにあわせ今回はじめて一般公開した。
木造毘沙門天像は今月30日までの展示。時間は午前9時から午後5時まで入場は無料。

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春日山城跡毘沙門堂にあった彫刻家高村光雲作「木造毘沙門天像」初公開

新潟県上越市春日山町1の同市埋蔵文化財センターで、かつて春日山城跡の毘沙門堂に安置してあり、明治・大正を代表する彫刻家の高村光雲(1852〜1934)が制作した「木造毘沙門天像」が2019年8月19日から展示されている。一般公開は初めてで、期間は8月30日まで。
郷土の戦国武将、上杉謙信は仏教を守護する四天王の一つ毘沙門天を敬い、自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗には「毘」の一字を用いていた。また、出陣前に毘沙門天を安置した毘沙門堂に籠もり、戦勝祈願を行ったといわれている。
上越市によると、謙信が祈願した毘沙門天像は上杉家の移封に伴い会津を経て米沢に移されたが、火災で被害を受けていた。このため1928年、上野公園の西郷隆盛像などを制作した著名な彫刻家で仏師でもあった高村光雲が修理を担当し、その際、像のかけらを体内に収めた分身像を制作。1930年に当時の春日村に寄贈され、翌年に建設された毘沙門堂に安置された。
その後、1969年のNHK大河ドラマ「天と地と」の放送で多くの観光客が春日山城跡に訪れるようになったことから、盗難防止のため、青銅製の像と入れ替え、像は所有者の春日地区町内会長連絡協議会が保管していた。数年前からは埋蔵文化財センターの特別収蔵庫で保管している。
展示は8月24、25日に開催される第94回謙信公祭にあわせて実施。像は木像で大きさは約40cm。左手にやりを持ち、よろいで身を固め怒りの表情をしている。
所有する春日地区町内会長連絡協議会の清水栄一会長は「元号が令和になったこともあり、特別に展示することにした」と話している。開館時間は午前9時〜午後5時。入場無料。

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上越市埋蔵文化財センターさんのサイト等には詳細な情報が出ていません。


最後に、信州善光寺さん。『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環として、3月に告知された仁王門の写真コンテスト、光雲曾孫の写真家・髙村達氏らによる審査が終わり、入賞作が同寺のサイトにアップされています。

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なるほど、素晴らしい作品ばかりです。

同寺では、近々、仁王像開眼100周年の記念法要があるはずなのですが、まだ具体的な日程等不明です。詳細がわかりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

妙な所が戦場になつちやつて、ぼくらの近所はひどかつたですよ。電信柱に足がぶら下つてたりね、往来に靴が落つこつてる、見ると中身があるんだ。気味が悪くつてね。ぼくもいつやられるか、と思つてね。

対談「わが生涯」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

戦時中の回想です。ぶら下がっていた脚の印象はかなり強かったようで、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれた「わが詩を読みて人死に就けり」という詩にも描かれました。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

「必死の時」は昭和17年(1942)作の詩。「年代が合わないじゃないか」という指摘がありますが、乞われて揮毫したと考えれば符合します。実際、この詩を書いてくれという需めがけっこうあったようで、揮毫も現存します。

こうした事態を弾き起こした責任の一端は自分にもあると考えて、戦後7年間、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送ったわけです。