出版社・思潮社さん創業者の小田久郎氏が亡くなっていたことが先月末に報じられました。

『朝日新聞』さん。

小田久郎さん死去 思潮社創業者003

 詩の出版社「思潮社」を創業し、戦後日本の詩壇史に大きな影響を与えた小田久郎(おだ・きゅうろう)さんが昨年1月18日、肺炎で死去した。90歳だった。今月28日発売の詩誌「現代詩手帖(てちょう)」4月号で同社が公表した。
 1956年に思潮社を創業し、59年に「現代詩手帖」を創刊。谷川俊太郎さんや故大岡信さんらを積極的に起用した。95年、詩壇の歩みを綿密に書きとめた「戦後詩壇私史」で大佛次郎賞。2021年、戦後日本の詩と詩壇への貢献に対し、歴程賞を贈られた。

もしかすると記事にある『戦後詩壇私史』等で光太郎に触れられていたかも、と思ったのですが、その辺り、当方、寡聞にして存じませんで、訃報の紹介はいたしませんでした。

ところが、『日本経済新聞』さん(4月6日(木)の掲載でした)に載った氏の追悼記事に、光太郎の名。やはり『戦後詩壇私史』で光太郎の「道程」(大正3年=1914)に言及されていたそうで。

思潮社創業者・小田久郎さん「現代詩」背負って立った人

 昨年1月に90歳で亡くなった「思潮社」の創業者、小田久郎さんは、いつも朗々とした声で語る人だった。
 東京・市谷砂土原町の社屋に小田さんを初めて訪ねたのは34年前。当時58歳の小田さんには、現代詩の出版を背負って立つ自信と気力があふれていた。刊行開始から20年余りを経た「現代詩文庫」発刊の経緯や、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」グループの詩人の仕事を、豊富な逸話と交えて語り出す座談に、駆け出しの文芸記者は魅了された。
 以来、取材などで会うたびに話したのは、いつも詩人と現代詩の話題ばかりだったが、退屈したことがなかった。その訳は、小田さんがその後、齢を重ねても、現代詩の歴史と現在を、いつも我がこととして、受け止め続けてきたからではなかったか。
 現代詩の今を、他人事にはしない姿勢は、思潮社で働く編集者が常々感じていた。看板雑誌「現代詩手帖」の編集長を1960年代に務めた詩人の八木忠栄さんは、小田さんを「貫徹の人だった」と回想する。「現代詩をリードするという意識が常にあって、中心となる企画の決定をするのは、常に小田さんだった」という。柔らかな企画を提案しても、はねられ、悔しい思いをしたこともあった。
 同時に、「新しい詩人を育てないといけない」という意識を強く持っていた。「荒地」の詩人や、大岡信、谷川俊太郎、飯島耕一といった同世代の詩人と並走するとともに、若い編集者を年下の詩人の担当にして、新世代のフォローアップを欠かさなかった。
 「小田さんは、現代詩の流れを更新しよう、という意識をいつも抱いていた」と振り返るのは、2010年から5年間、「現代詩手帖」の編集長を務めた亀岡大助氏さんだ。新しい世代の詩人を取り上げる特集や詩集のシリーズを、21世紀になってからも、次々と送り出していった。
 小田さんの次男で思潮社専務の小田康之さんには、今も忘れられない父の言葉がある。
 「売れる本は作るなよ」。90年代の初め、思潮社で仕事を始めたころに言われて驚いた。売り上げを第一に考える現在の出版界から見れば、ナンセンスにさえ聞こえるかもしれない。しかしそれは、売り上げだけを目的にするのでなく、自社にしか作れない本を作れ、という信念の表れだった。「あれだけ多くの詩集を世に出し続けた出版人は、かつていない。ギネスブックものではないか」。そう語るのは、60年もの親交のある詩人の井川博年さんだ。
 戦後の詩壇の変遷を体験に基づいてたどった著書「戦後詩壇私史」で、小田さんは「現代詩手帖」を創刊した59年ごろの心情を、高村光太郎の詩の一節を借りて表している。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」
 戦後から現代へ至る詩の道を華やかに歩いた詩人は数あれども、その裏で、長きにわたりその道を整備し続けた人は、小田さんをおいてほかにいなかった。
(客員編集委員 宮川匡司)
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なるほど、光太郎の精神を受け継がれての数々の業績だったか、と、粛然とさせられました。

ところで、詩誌『現代詩手帖』をはじめ、このブログサイトでご紹介してきた複数の新刊詩集等で、思潮社さん刊行のものも少なくありません。平田俊子氏『戯れ言の自由』和合亮一氏『QQQ』平岡敏夫氏『平岡敏夫詩集』など。それらの奥付を見てみますと、「発行人 小田久郎」の文字。詩誌『歴程』等を通し、多くの詩人を世に送り出した当会の祖・草野心平や、さらに遡って『明星』で光太郎を含む若い才能を育てた与謝野鉄幹などを彷彿とさせられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ふいと出て来たので又出直さうと思つてます 今日は一旦帰るでせう


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

ふいと出て来た」先は、千葉銚子の犬吠埼。今年1月に廃業した老舗旅館・暁鶏館に宿泊し、絵を描くためでした。しかし気乗りがしなかったのでしょうか、すぐ帰ろう、と書いています。

ところがそこに、智恵子が現れます。二人の恋愛問題で煮え切らない態度の光太郎に業を煮やしたのでしょうか。

光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

結果、滞在を9月4日まで延ばし、光太郎も智恵子への愛を貫く決意を固めました。