現在、都内竹橋の東京国立近代美術館さんでは、光太郎の父・光雲の代表作「老猿」も展示されている「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が開催中ですが、「文化財」つながりで2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。地元紙『岩手日日』さんから。

有形文化財登録へ 花巻・旧菊池家住宅西洋館 文化審答申

 国の文化審議会(佐藤信会長)は、17日に開かれた同審議会文化財分科会で、登録有形文化財(建造物)に、花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を登録するよう文部科学大臣に答申した。老朽化を理由に一度は解体の話が持ち上がったが、関係者の尽力で保存がなされ、今に伝えられる大正期の洋風住宅。関係者は今後の保存活用に向けた活動の弾みになると答申を喜ぶ。
 旧菊池家住宅西洋館は、花巻出身で全国各地の農業試験場長などを務めた菊池捍(まもる)が1926年に建てた木造一部2階建ての自宅。
 瓦ぶきの半切妻屋根で、長い板材を横に重ねた外壁と縦長窓を並べた外観に、正玄関と通用玄関があり、生活空間と応接空間を分ける武家屋敷の間取りを持ちながらも、洋風天井で全て開戸、しっくい壁と、和洋折衷の独特な雰囲気を醸し出す。宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられている。
 2005年には老朽化から取り壊しの話が持ち上がり、保存運動が活発化した。07年には市の建造物評価委員会が「保存すべき建物」と結論づけ、市民有志の守る会が発足したが、市の財政支援が見込めないことから解散。盛岡市の医師が10年に購入し、市文化財保護審議会委員で長年調査や保存運動に携わってきた木村清且さん(72)に管理を託した。
 屋根瓦や内装を改修して活用方法を探り、21年には建物の継続的な保存・活用とゆかりの先人の顕彰活動を目的に発足した市民有志で組織する保存・活用委員会(木村清且委員長)が、一般公開と先人を紹介する展示を企画した。
 木村さんは文化財として認められたことを受け、「やっとここまできたという気持ち。先人が生きた証しであり、賢治の世界に迷い込んだような建物。先人の思いを掘り下げ、歴史をくみ上げて賢治の世界を醸し出すようなまちづくりにつなげたい」と話している。
 同市内の登録有形文化財(建造物)は花巻温泉旧松雲閣別館(湯本)が登録されており今回の登録を含め2件、県内では102件となる。
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同じ件でIBC岩手放送さん。

賢治の寓話の舞台にも 旧菊池家住宅西洋館(花巻市)など国登録有形文化財に

 大正時代に建設された花巻市の旧菊池家住宅西洋館など岩手県内で2件が新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 花巻市御田屋町にある旧菊池家住宅西洋館は、1926(大正15)年に建設された洋風建築が特徴で、宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられています。
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 部屋は和室主体となっていますが洋風の天井で、全て開き戸と和洋折衷の貴重な建造物とされています。
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 明治前期に建設された遠野市の旧高善旅館は民俗学者・柳田國男が定宿としていて、通り土間など遠野の典型的な町屋として貴重な建造物とされています。
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 2階には床構え付の客室もある近代和風旅館のつくりです。今回の2件を含め、岩手県内の登録有形文化財は102件となります。

旧菊池家住宅西洋館、おそらく昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎がこの家を訪れ、ピアノ演奏を聴いたというので、一昨年にお邪魔しました。確かに面白い建築でした。

『岩手日日』さんの記事にあるとおり、花巻市内では登録有形文化財(建造物)指定は、花巻温泉旧松雲閣別館に続き、2件目。こちらは光太郎が何度も宿泊した建物で、市内2件の指定がいずれも光太郎がらみの建造物ということになり、喜ばしい限りです。

松雲閣別館の方は、今一つ活用が為されていないようですが、旧菊池家住宅西洋館の方は、さまざまな機会に利用し、町おこしに貢献していただきたいものです。

ところで、今回の答申では、智恵子の故郷・福島二本松市街の「檜物屋酒造店旧店蔵」も登録されました。「文庫蔵」と「仕込蔵」の2件です。檜物屋酒造店は明治7年(1874)の創業。智恵子の祖父・長沼次助が油井村に長沼酒造を興したのは明治16、17年(1883、84)頃。同じ酒造業同士、つながりはあったでしょう。
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上の画像は、かなり後になりますが昭和12年(1937)の『大日本職業別明細図』から。この時点では長沼酒造は破産しているのですが、なぜかまだ智恵子の弟・啓助の名で出ています。

ちなみに檜物屋酒造店さんは健在で、銘酒「千功成」は数々の賞に輝いています。公式サイトでは「智恵子の里は 酒の里 ほんとうの空 ほんとうの酒」と謳ってくださっています。
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もう1件、杉並区さんのサイトから。

4年度の区指定文化財が決まりました(5年3月15日)

 区では、昭和58年度から文化財指定を行っています。令和4年度は、歴史資料1件、考古資料1件を指定しましたのでご紹介します。

(1)【区指定有形文化財(歴史資料)】尾崎喜八関係資料(ガラス乾板附ネガフィルム)747点
本資料は、大正末期から昭和戦前期にかけて杉並区に住んだ詩人・尾崎喜八が杉並区内外の風景・人物などを撮影したガラス乾板とネガフィルムです。
 同資料からは、尾崎の嗜好や生活環境、交友関係などが窺えると同時に、カメラが希少な時期に撮影された区内外の写真は全体として貴重であり、農村の面影を残す当時の区内の自然や生活風景も収められています。
 写真を自らの創作の背景を説明する手段としても利用した尾崎の乾板は、尾崎自身や作品の理解に資する資料であり、詩人・尾崎喜八を考察する上で欠く事の出来ない貴重な資料です。
【所在】郷土博物館(杉並区大宮1丁目20番8号)

昨年12月から先月にかけ、杉並区立郷土博物館さんで開催された企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」で一部が展示された、尾崎喜八撮影の古写真が区の文化財に指定されたとのこと。同区在住当時の尾崎が撮った戦前の写真が中心でしょう。ビジュアル的に当時の様子をつかむには、写真は最適ではありますが、写真を文化財指定するという区の英断には頭が下がります。
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気になるのは「杉並区内外の風景・人物などを撮影」となっていること。となると、尾崎は駒込林町の光太郎アトリエでも数葉の写真を撮影しており、それも含まれるのかな、と思いました。

この写真も尾崎の撮影です。
駒込林町アトリエ
また、光太郎のポートレートも。
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ともに昭和8年(1933)2月のものです。

それから、下記は尾崎一家と光太郎。
喜八撮影
これには尾崎自身が写っており、当時、セルフタイマーというものは無かったのではないかと思われ、そうすると他の人物の撮影ということになりますが、どうなのでしょう。カメラの歴史に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

また、4月2日(日)日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いに、尾崎令孫の石黒敦彦氏もご参加下さり、写真の一部をご持参、展示して下さるそうなので、訊いてみようかとは思っております。

さて、文化財指定。

形有るものはすべていずれその形を失うものではあります。だからと言って、失われるに任せるのではなく、少しでも失われるまでの時間を延ばすことは可能なわけで、そうした意味では文化財指定は有効な手段の一つでしょう。

そして、指定して終わりではなく、先述しましたが、指定後の有効活用も重要ですね。今回指定されたもろもろも、そうなっていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

あゝ彫刻が作りたい。


明治43年(1910)10月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

「じゃあ、作れよ」とツッコミたくなりますが、ことはそう簡単ではありません。前年に欧米留学から帰ってからの光太郎、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

光太郎の生涯にたびたび訪れた、彫刻制作空白の時期、その最初のものです。