新刊、400ページ超の労作です。

日本人美術家のパリ 1878-1942

2023年2月8日 和田博文著 平凡社 定価5,000円+税

19世紀後半から20世紀前半にかけ、黒田清輝や藤田嗣治など多くの日本人美術家がパリを訪れた。彼らの活動の記録から、当時の美術界の動向や異国の地での葛藤を明らかにする。

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目次

プロローグ 「芸術の都」パリへ
Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会
 1 洋画の曙――黒田清輝と久米桂一郎
 2 ラファエル・コラン――印象派の陰に隠れた外光派
 3 天真道場から東京美術学校西洋画科・白馬会へ
 4 日清戦争後の帝国意識と、美術に要請された競争力
 5 一九〇〇年パリ万国博覧会が開幕する
 6 鏡としてのナショナル・ギャラリー――和田英作の「素人」意識
 7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術
 8 オテル・スフローのパンテオン会、グレの巴会
 9 カンパーニュ・プルミエール街、マダム・ルロワの下宿
 10 模写で行う名画展覧会、裏返される裸体画
 11 ルノワールと山下新太郎、ロダンと荻原守衛
 12 イタリアの教会芸術、イギリスの水彩画
Ⅱ ポスト・インプレッショニスムと第一次世界大戦
 1 パリの白樺派と、幻に終わったロダン展覧会
 2 ルノワールとポスト・インプレッショニスム
 3 マティス、セザンヌ、ゴッホ、モネと、アヴァンギャルドの擡頭
 4 アカデミーからアトリエへ――満谷国四郎と安井曾太郎
 5 クローズリー・デ・リラ、シテ・ファルギエール、テアトル街
 6 ルーヴル美術館の採光、カモンド・コレクションの開場式
 7 ブルターニュで追体験するゴーギャン、ヴェトイユで想起するモネ
 8 ヨーロッパの美術館――イタリア、イギリス、スペイン
 9 東京の美術館建設問題と裸体画問題
 10 第一次世界大戦勃発とパリからの避難者
 11 戦時ヨーロッパからの通信――黒田重太郎・長谷川昇・寺崎武男
 12 リヨンで模写した青山熊治、赤十字に志願した川島理一郎
Ⅲ 「黄金の二〇年代」と日本人のコレクション
 1 第一次世界大戦後のパリと、日本人美術家数の増加
 2 公文書が語る美術家数の変化、クラマールの中山巍と小島善太郎
 3 サロン・ドートンヌで日本部が開設される
 4 カモンド・コレクションの印象派、ペルラン・コレクションのセザンヌ
 5 模写で探る画家の秘密、模写が可能にした展覧会
 6 オテル・ドルーオの競売、松方幸次郎のコレクション
 7 児島虎次郎が蒐集した大原美術館の収蔵品
 8 遠ざかる印象派と、晩年のモネを訪ねた正宗得三郎・黒田清
 9 フォービズムの波と、マティスの深い色彩
 10 佐伯祐三、愛娘と共にフランスに死す
 11 石黒敬七が日本語新聞を創刊する――『巴里週報』『巴里新報』Ⅰ
Ⅳ エコール・ド・パリ、モンパルナスの狂騒、日本人社会
 1 エコール・ド・パリと、その周縁の美術家たち
 2 モンマルトルからモンパルナスへ――「芸術の都」の中心地
 3 単独者への道――パリの美術家・美術学生七万人の中で
 4 ルーヴル美術館が藤田嗣治の作品を所蔵する
 5 日本人美術家数の増加と、日本人同士の交流
 6 在巴日本美術家展覧会――『巴里週報』『巴里週報』Ⅱ
 7 ツーリズムの季節と、日本イメージ――『巴里週報』『巴里新報』Ⅲ
 8 福島コレクションのピカソ、ドラン、マティス
 9 内紛と分裂――巴里日本美術協会(福島派)と仏蘭西日本美術家協会(薩摩派)
 10 ブルターニュの長谷川路可、プロヴァンスの林倭衛
 11 ヴェネツィアとフィレンツェ――中世のルネサンス美術
Ⅴ 世界恐慌から一九三〇年代へ
 1 恐慌前夜――好景気と   絵画価格の高騰
 2 ロマン・ロランの胸像を制作した高田博厚、ドランと画架を並べた佐分真
 3 システィーナ礼拝堂で大の字になった佐伯祐三、列車に乗り遅れた岡田三郎助
 4 モンパルナスから日本人美術家の姿が消えた
 5 異郷の日本人の光と闇――貧困と客死
 6 ローマとベルリンの日本美術展覧会――横山大観・速水御舟・平福百穂
 7 パリの日本現代版画展――ジャポニスム脱却の試み
 8 ルオーがパリの福島繁太郎宅で、自作に筆を入れる
 9 フランスの個人コレクション、日本の個人コレクション
 10 美術館問題、西洋近代絵画展覧会、模写の活用
 11 日本の美術界の衝撃――エポック・メーキングな福島コレクション展
 12 シュールレアリスム、巴里・東京新興美術同盟、巴里新興美術展覧会
Ⅵ 戦争の跫音とパリ脱出
 1 スペイン内戦、ドイツ軍の無差別爆撃、ピカソの「ゲルニカ」
 2 武者小路実篤の絵行脚、伊原宇三郎のゴッホ所縁のイーゼル
 3 欧州旅行の発着点ナポリ、有島生馬が見た日伊文化交流
 4 一九三〇年代末の巴里日本美術家展覧会と長期滞在者
 5 ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア
 6 第二次世界大戦勃発と、ルーヴル美術館の美術品避難
 7 パリ陥落と日本人の脱出、パリに留まった日本人
エピローグ 二〇一二年のパリから
パリ在留日本人数と日本人美術家等数(1907~1940年)
関連年表
主要参考文献
人名索引

Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会」中に「7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という項がある他、随所で光太郎に言及されています。

また、光太郎と同時期に留学していた面々や、日本で光太郎と交流の深かった美術家たちにも触れられています。

パリというトポスにおける編年体的な俯瞰の方法で、流れがつかめますし、流れの中での光太郎の位置づけという意味では、眼からウロコの部分もありました。一人の作家を「点」で捉えるのではなく、その作家を含む「線」を意識することの重要さを改めて感じています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのににも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。


明治42年(1909)1月(推定) 水野葉舟書簡より 光太郎27歳

光太郎のフランス、パリへの認識がよく表されています。