紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かいた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐
多の現存する油彩は30点弱とされてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
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 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。
教師だった父の転勤で高知や京都に移り住み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水
辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
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 9月1日まで。第1期(~8月12日)
と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


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当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。