7月13日(土)、村民体育センターで行われた、当会の祖・草野心平を顕彰する第54回天山祭り会場を後に、千葉の自宅兼事務所に向かいましたが、帰りがけ、少し寄り道をしました。

洞秀山泰亨院長福寺さん。村はずれの山の麓にありました。

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昭和28年(1953)、「モリアオガエルを見てみたい」という心平が新聞に書いた文章を読んだこちらの矢内俊晃住職が、川内村の平伏(へぶす)沼がモリアオガエルの繁殖地だと心平に教え、招きました。これが以後、昭和63年(1988)に心平が亡くなるまで続いた心平と川内村との縁の始まりでした。

昭和53年(1978)撮影の矢内住職と心平。

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そうした関係で、同寺には心平揮毫の石碑などが建っているというので、拝見しておこうと思った次第です。

山門脇の駐車場に愛車を駐め、降り立つと、心平碑ではありませんが、目の前に「東日本大震災被災物故者供養塔」。調べてみましたところ89名という決して少なくない数が川内村の震災による死者数として記録されていました。山間部なので津波の被害はなかった川内村ですが、いわゆる関連死などなのでしょうか。線香を手向けさせていただきました。

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山門には、レトロな自転車が。昭和55年(980)に亡くなった矢内住職の愛車だそうですが、あえてそのままここに置いてあるとのこと。

山門をくぐり、山の斜面を本堂目指して登って行くと、ほどなく碑が。

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「長福寺雨蕭々 心平」。光太郎のそれもそうですが、心平の筆跡、かなり遠くからでもそれとわかります。昭和34年(1959)の建立だそうです。

近づいてみて、驚きました。『歴程』同人の山本太郎の添え書きもある、という情報は事前に得ていたのですが、山本以外にも錚々たるメンバー。心平を中心とした寄せ書き的な書をそのまま碑に写したもののようです。

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鳥見迅彦。詩集『けものみち』(昭和30年=1955)の題字を光太郎が揮毫しています。

會田綱雄。昭和32年(1957)、詩集『鹹湖』で、第一回高村光太郎賞を受賞しました。心平との縁は中国南京で知り合ったことがきっかけでした。

島崎蓊助(おうすけ)。藤村の三男で、光太郎と書簡のやりとりをしていました。新潮社で『島崎藤村全集』編集に当たり、同書付録の『藤村研究』に光太郎が「夜明け前」雑感(昭和25年=1950)を寄稿した際に橋渡しをしたと推定されます。光太郎再帰京後の昭和28年(1953)には、新宿のバーで光太郎、心平、蓊助の三人で呑んだことも。

山本太郎。昭和54年(1979)、筑摩書房から刊行された『智恵子紙絵』の編集に当たり、光太郎智恵子への頌詩を寄せました。父は版画家の山本鼎。東京美術学校、新詩社、パンの会などで光太郎と縁が深い人物でした。村山槐多のいとこにあたります。母は光太郎の盟友・北原白秋の妹でした。

以上、『歴程』同人です。それ以外にも、心平の長女・碧、そして矢内住職などの名も刻まれていました。

なぜかは知らねど、涙が出そうになりました(笑)。

碑の前を過ぎ、さらに斜面を上がると本堂や鐘楼。

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その裏手が墓地になっており、そちらにも心平の筆跡が残されているというので、行ってみました。

やはり『歴程』同人で、昭和50年(1975)に亡くなった画家の辻まことの墓です。妻の良子も合葬されているようです。

辻の父はアナーキスト・辻潤。やはり光太郎とも交流がありました。大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を潤が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、潤が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には潤の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

ちなみにまことの母は関東大震災のどさくさで憲兵大尉・甘粕正彦に殺された伊藤野枝です。野枝は智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』の発行を平塚らいてうから受け継いだ人物でした。

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辻の墓と対を為すように、先述の會田綱雄の墓もありました。こちらは事前に存じておらず驚きました。會田の死は心平より遅く平成2年(1990)。したがって、こちらは心平の筆跡ではありませんが、ここに墓があるというのは心平と無関係ではあり得ないでしょう。

この2基にも線香を手向けさせていただきました。


長福寺さんを後に、帰路に就きました。

川内村、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故による全村避難から8年。8割方の世帯が帰還したそうです。実際、久しぶりに訪れてみて、以前にゴーストタウン的だった一角に、住民の方々の姿が見え、復興が進んでいる様子が垣間見えました。こんなの以前はなかったんじゃないかな、という施設も散見されました。

しかしまだまだ復興途上。ぜひ皆様、足をお運びいただき(訪れるだけでも復興支援となります)、心平や光太郎、そして2人を取り巻く人々に思いを馳せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。

雑纂「岩波文庫版「高村光太郎詩集」はしがき」より
 
昭和29年(1954) 光太郎72歳

交流の深かった美術史家・奥平英雄が編集にあたり、現在も版を重ねる岩波文庫版『高村光太郎詩集』が刊行されまして、それに寄せた文章の一節です。

もはや自らの生命の火が消えかかっていることを認識していた光太郎、やはり自らの来し方には手厳しかったといえるでしょう。