昨日の『スポーツ報知』さんから。

八村塁、バキバキに割れた携帯の画面でNBAを夢見た高校時代…担任の手記

 NBAドラフトで日本人初の1巡目指名を受けた八村塁(21)が在籍した宮城・明成高で2、3年時に担任を務めた佐藤祐子教諭(47)が、スポーツ報知に手記を寄せ、スター候補の素顔を明かした。八村は、ジャケット裏地の左側に父の故郷である西アフリカ・ベナンをモチーフにした柄、右側には母の故郷・日本の富士山が描かれたものを着用。家族への感謝を胸に夢舞台を迎えた。
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 初めて塁と会ったのは入試の時でした。私は試験監督で面接を担当。中学3年生の彼に、「将来の夢は何ですか?」と聞きました。真っすぐな目で、「アメリカに行くことです。アメリカでプロのバスケットボール選手になりたいと考えています」と答えたことを、今でも鮮明に覚えています。2、3年生と担任をしましたが、常に「NBAに行きたい」と。夢がブレることはありませんでした。
 彼の休憩時間は全てNBAの動画。昼食を食べて少し余った時間など、ちょっとの空き時間はバキバキに割れた携帯電話の画面を食い入るように見て、「バスケは最高! 本当に楽しい」と言っていました。ゴンザガ大で最後の試合を終えた時は、「昨日負けて全部終わりました。終わって気づいたのは、僕はこのチームが大好きだったんだなって。今まで人生の中でこれ以上ないくらい泣きました」と連絡が来ました。ある賞を受賞した時に、「おめでとう。忙しいから返信はいらないよ」と送っても、「ありがとうございます! 本当にうれしいです」と。忙しいのにきちんと返信をくれる律義な子です。
 英語の勉強はよく頑張っていました。成績は良かったのですが、話すことはなかなかできなくて。昼食を早く食べて米国人の先生と毎日勉強していました。米国へ行って少したった頃、彼から「先生、初めて英語で夢を見ました!」とメールが。最初は「なかなか話せない」と聞いて心配でしたが、やっと英語が身についてきたと実感したようで、うれしかったんだと思います。
 4人きょうだいの長男で家族思いの一面もあります。家庭科の裁縫の授業では、作ったきんちゃく袋を、「一番下の妹にプレゼントとする!」と張り切って。器用な方ではないから、刺しゅうはクラスの女子生徒に手伝ってもらいながら、大きな手で一生懸命作っていました。妹さんの誕生日が近かったので、手紙を添えて送りました。後日「手紙の字が汚すぎてビックリした!って妹に笑われました」と、うれしそうに報告してくれました。
 県の高校総体翌日の遠足は朝から土砂降りでしたが、フリーサイズなのに上半身までしかないカッパを着て、誰よりも楽しそうにジェットコースターに乗っていました。素直で正直で愛嬌(あいきょう)があって。彼がバスケの活動で休みの日には、クラスメートが「今日は塁がいないんだ。寂しい~」って。みんなの人気者です。
 「常に自分のためとは思わず誰かのため、人のためにプレーをして、子供たちの英雄になってほしい」と話したことがあります。「僕も、そう思い続けたい」と言っていました。米国へ出発する時には、高村光太郎の「道程」という詩と、「一意専心」という四字熟語を贈りました。「僕の後ろに道は出来る」ことを実現できる人であってほしい。あなたがパイオニアになってほしいという思いを込めて。今でも覚えてくれているようです。新しい世界を切り開いていく塁であってほしいと願っています。

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日本人初となる、米プロバスケットリーグNBAドラフト会議での1巡目指名を勝ち取った、八村塁選手。ぜひ大暴れをしてほしいものですし、彼の切りひらいた「道」、彼一人で終わることなく、後に続く人がでてきてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

西洋楽  概してフランス音楽。

アンケート「わが好む演劇と音楽」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎がその3年半にわたる留学中、パリに滞在していたのは明治41年(1908)から翌年にかけて。

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その頃、フランスで活躍していた作曲家というと、クラシック系では以下のあたりでしょうか。サン・サーンス、フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラヴェル……。プーランクらフランス6人組はまだ少年時代でした。

ベルリオーズは既に没していましたが、光太郎、後にその楽曲を題材とした「ラコツチイ・マアチ」(大正10年=1921、原題「ベルリオの一片」)という詩も書いていますし、他の作品でもいろいろ言及しています。フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルも光太郎文筆作品にその名が現れますし、サン・サーンスはそれプラス、光太郎は彼の肖像写真の絵葉書を使ったりもしました。パリ滞在中はオペラなども時折観たというので、彼等の作品などに接していたのでしょう。

クラシックではなくシャンソンですと、ロートレックの絵のモデルにもなったブリューアン。光太郎は明治44年(1911)の「雪の午後」という詩に、彼の名を挙げ、その歌の歌詞を引用しています。俗語をそのまま取り入れ、簡単には訳せないような……。おそらく、どこかのカフェかキャバレーでその歌に接し、パリからレコードを持ち帰ったのではないかと推定されます。