最近の新聞各紙から、光太郎智恵子がらみの記事を紹介いたします。

まず、4月12日(金)の『東奥日報』さん。

十和田湖遊覧船が今シーズンの運航開始

 昨年11月から冬期間の運航を休止していた十和田観光電鉄(青森県十和田市)の十和田湖遊覧船が12日、湖畔休屋で運航を再開した。初日は台湾人観光客や招待客らが双胴船「第3八甲田」に乗り込み、雪残る山々のパノラマ、青みを増す初春の湖水に見入った。
 再開したのは休屋を発着し、御倉半島と中山半島を巡る約50分のコース。招待客が乗った午前11時45分発の53便ではセレモニーを行い、観光シーズン開幕を祝った。船は湖畔の「乙女の像」や、湖上に浮かぶ「恵比寿大黒島」といった名所近くを周遊した。
 別便で遊覧した台湾人の施正忠さん(50)は「雪のある景色がとても美しい。満足している」と笑顔をみせた。十鉄によると、2018年度の乗船客は、欠航が多かった影響で前年比約9千人減の11万人。うち外国人観光客は1万1千人と1割を占める。
 同社の白石鉄右エ門社長は「今年の目標は12万人。船の魅力を国内、外国のお客さまに合わせて伝えていきたい」と意欲を語った。
 19日からは休屋~子ノ口航路も再開し、11月まで1日最大18便を運航する。料金は大人1400円、子ども700円(団体割引あり)。

イメージ 1

イメージ 3 イメージ 2

カルデラの外輪山にあたる湖周囲の山々には、まだ雪。これから桜の季節なのでしょう。ぜひ足をお運びください。


お次は『福島民友』さん。翌4月13日(土)の記事です。

「桜生かし」まちづくり 二本松で全国シンポ、意見交わす

 全国の桜の保存団体や樹木医らが集う「全国さくらシンポジウム」は11、12の両日、二本松市で開かれた。県内外から約700人が参加し、「ほんとの空に さくら舞う」をテーマに桜を生かしたまちづくりや地域の振興について考えた。
 シンポジウムは、桜の名所づくりや花を核に自然豊かな地域づくりに取り組む日本花の会(萩原敏孝会長)と、同市の行政、観光団体などでつくる実行委員会の主催。本県では1988(昭和63)年の三春町に次いで2度目。
 芥川賞作家の玄侑宗久さんが「桜~『無常』と『あはれ』の花」と題して記念講演した。玄侑さんは、日本人が桜を好む理由について「物事の両極端を受け入れるのが日本人の心情。すぐに散りゆく無常さと花開いた際の『あはれさ』を1本の木で体験できる」と語った。
 パネル討論も行われた。日本花の会の和田博幸さんを進行役に、にほんまつ観光協会長の安斎文彦さん、県樹木医会の鈴木俊行さんらが桜を核にした二本松の魅力発信、桜の保存活動などについて意見交換した。
 最終日の12日は、参加者が二本松の桜の名所などを巡った。
010

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採った復興の合い言葉「ほんとの空」を冠した「全国さくらシンポジウム」関連です。


同じく4月13日(土)の『日刊ゲンダイ』さん。ネットで見た記事ですが、紙面に掲載されたのかどうか。とりあえず引用させていただきます。

雄星に大谷に佐々木 なぜ岩手が“怪物”を3人も輩出できたのか

 単なる偶然なのか、それとも必然なのか。
 先日、岩手・大船渡高校の佐々木朗希(3年)がU18高校代表合宿で高校生史上最速の163キロをマーク。新たな怪物誕生にメディアは大騒ぎした。佐々木が誕生した岩手は大谷翔平(エンゼルス)と菊池雄星(マリナーズ)の出身地。わずか10年で3人の“怪物”を輩出したことになる。
「岩手の人沈深牛の如し 両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり 地を往きて走らず企てて草卒ならず ついにその成すべきを成す」
 詩人の高村光太郎は著書「岩手の人」で、岩手県民をこう表現した。牛のように慌てず一歩一歩前に進み、事を成し遂げる気質をつづったのだ。
■県民性、食文化、部活動
 県民性研究の第一人者で、㈱ナンバーワン戦略研究所所長の矢野新一氏は「普段は物静かながら、何かの瞬間に大きな力を発揮する傾向がみられる」と、こう続ける。
「岩手の県民性を実証する企画をテレビでやったことがある。リンゴをたくさん入れた紙袋を持ち、信号待ちしているときに、わざと転んでリンゴをこぼす。すると、のんびり信号待ちしていた人たちが一斉に走って来て、散らばったリンゴを拾い始めたのが印象的でした。岩手では外国人観光客のために作ったおもてなし対策の『10手』が盛り上がっている。何かの目標に向かって一生懸命になり、力を発揮する。長い冬は家にこもるという生活から時代が変化し、県全体に活気が出てきている点も見逃せない」
 食生活にもヒントがありそうだ。
 2016年度の総務省家計調査によると、岩手はわかめ、こんぶの消費量が全国1位。魚介類もよく食べる。ほうれんそう、大根が1位で、にんじん、ごぼうも上位。果物消費もトップだ。さらに、東北に限れば豆腐の消費量も1位。かつては多くの家庭で豆腐作りをやっていた名残という。
 横浜創英短期大学名誉教授の則岡孝子氏(管理栄養士)がこう言う。
「岩手の人たちはオールマイティーの栄養素を食事から取り入れているのでしょう。海のもの山のもの、寒い地域のものなど、栄養バランスが優れていると思います。スポーツ選手の筋肉の発達において、魚介類、豆腐などに含まれるタンパク質と、魚介類などに含まれるビタミンB6、B12を合わせて取ることで、よりタンパク質の代謝が良くなる。ビタミンB6、B12は体に保存できないだけに、タンパク質と一緒に摂取できるのはプラスです。野菜や果物はビタミンや食物繊維、海藻類は食物繊維やヨウ素が多く含まれるため、新陳代謝が高まり、より多くのエネルギーを発揮する効果がある。さらにカルシウム、鉄分が骨や体の成長を促します」
 スポーツへの関心も高い。
 岩手は全国高体連加盟登録状況によると、体育系の部に登録する生徒の加入率(平成30年8月)が60.8%で全国1位。男子中学生100人あたりの軟式野球部員は全国2位。男子高校生100人あたりの硬式野球部員数は全国5位だ(17年度)。
 岩手県教育委員会事務局・保健体育課統括課長の清川義彦氏は「中高の部活動はもちろん、スポーツに取り組む子供、指導者が一生懸命取り組むという土壌ができつつあるのではないか」と分析。岩手県内の高校野球の監督は、「昔から根気強く、純朴で真面目な生徒が多い。寒い時季にも熱心に運動に取り組み、競技力を高め、体をつくっていく取り組みが積み重なった結果だと思う」と話す。
 さまざまな要素が重なった結果、ダイヤモンドの原石が誕生したようなのだ。

 イメージ 5

こちらは光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)が引用されています。この詩、岩手のスポーツ界が語られる際によく使われます。今年、釜石市などで開催されるラグビーW杯関係で『岩手日報』さん、平成28年(2016)の岩手国体にからめて『盛岡タイムス』さん、同年、競歩でリオ五輪に出場した花巻出身の高橋英輝選手を紹介する『岩手日日新聞』さん、やはり大谷選手がらみの『岩手日報』さん一面コラム「風土計」

なぜ岩手に”怪物”が現れるのか、ということで、いろいろ考察されていますが、当方は、歴史的に見て、やはり「蝦夷(えみし)」のDNAが色濃く残っているからではないかと考えます。平安時代の阿弖流為(アテルイ)はもちろん、源義経をかくまって鎌倉と対立した奥州藤原氏にも蝦夷の血が流れていましたし、下って室町時代のコシャマインや江戸時代の沙牟奢允(シャクシャイン)などのアイヌの首長ら、まつろわぬ人々のエネルギーというか、血に刻まれた反骨心というか、そういったものが21世紀になっても形を変えて現れているように思われますが、どうでしょうか。そうした岩手人の魂を光太郎は詩「岩手の人」に表したようにも思えます。


最後に昨日の『東京新聞』さん。一面コラム「筆洗」で、ノートルダム大聖堂の火災を取り上げ、光太郎に触れて下さいました。

筆洗 4/17

 「宿命」。古い塔内の暗い片隅の壁にそう深く刻まれていたそうだ。どうやら中世の人間が書いたものらしい▼その文字を見つけたのは作家のビクトル・ユゴーである。「宿命」の言葉に刻んだ人間の悲痛さを感じ取ったという。どういう人間が書いたのか。そこから着想を得て執筆したのが宿命に翻弄(ほんろう)される人々を描いた小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一年)。塔とはパリのノートルダム寺院である▼ユゴーが見た言葉も消えうせたか。世界遺産ノートルダム寺院の大聖堂の大火である。尖塔(せんとう)や屋根が崩落するなど、甚大な被害が出た。市民の悲痛な顔。「宿命」と呼ぶには受け入れがたい現実である▼<あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、あなたにさはりたいばかりに、あなたの石のはだに人しれず接吻(せっぷん)したいばかりに>。パリ時代、大聖堂に毎日通ったという高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」。荘厳なる美と歴史。十二世紀着工の大聖堂はパリ市民のみならず、人類全体の宝であった。それが失われた▼修復工事中の失火が原因とみられている。フランス革命にも二度の世界大戦にも難を逃れた大聖堂が失火で炎上したとはなんという皮肉な宿命なのか▼喪失感の中にも再建の声が出ている。人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。再建と復活。それが大聖堂のこれからの宿命と信じる。


人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。」そのとおりですね。


【折々のことば・光太郎】

雪中生活の鮮新さ、小屋を取り巻く潮騒のやうな風声の物凄さ、皆生れて初めての体験です。この王摩詰が詩中の天地に、今日の場合、安全に生きてゐられるありがたさと済まなさとを痛感してゐます。勉強あるのみ。

散文「消息 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳


太平洋戦争が終結し、この年の秋、光太郎は鉱山の飯場小屋を譲り受けて、花巻郊外太田村に住み着きました。当初は、青年時代から絶えず希望していた、人里離れた自然に囲まれての生活の実現という、ある意味無邪気な夢想という面があり、そこで、王摩詰が語られています。王摩詰(王維)は唐代の詩人。西安郊外の輞川(もうせん)に隠遁し、芸術三昧の生活を送りました。

そして迎えた初めての厳冬。万年筆のインクも凍るマイナス20℃の寒さ、胸の高さまで積もる豪雪、吹雪の夜にはあばら屋の隙間から舞い込んで寝ている布団にうっすらと積もる雪……。それがやがて、戦時の翼賛活動で多くの若者を死に追いやったという反省に、光太郎を誘って行くのです。