4月2日(火)、東京日比谷公園松本楼様では、当会主催の第63回連翹忌の集いを催しましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも独自に花巻としての連翹忌他が開催されています。ちなみに花巻では「回忌」のカウント法なので、「64回忌」と、こちらよりプラス1になります。

今年は同地でかなり報道されていますので、ご紹介します。

まず、午前中、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、詩碑前祭。例年は、その名の通り、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」を刻んだ光太郎詩碑の前で地元の方々が詩の朗読などをなさり、詩碑に献花などがなされるのですが、何と今年は大雪だったそうで、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの開催となったそうです。

まず『岩手日報』さん。

高村光太郎先生に思いはせ 花巻で詩碑前祭

 詩人で彫刻家高村光太郎(1883~1956年)の第六十四回忌詩碑前祭は命日の2日、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれた。1945(昭和20)年から7年間、旧太田村山口で山居生活を送った光太郎の遺徳をしのんだ。
 地元の顕彰団体、高村記念会山口支部(照井康徳支部長)主催で住民ら約60人が参加した。
 地域の小中学生9人が詩「山からの贈り物」「案内」などを朗読。支部会員も「雪白く積めり」「大地麗し」「道程」などを趣深く読み上げ、光太郎と住民との交流の拠点となった旧山口小校歌を参加者全員で歌い、焼香した。
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続いてIBC岩手放送さんのローカルニュース。

ゆかりの地・花巻で64回忌…高村光太郎の遺徳を偲ぶ/岩手・花巻市

4月2日は詩人で彫刻家の高村光太郎が73歳で亡くなった命日です。ゆかりの地・花巻では六十四回忌が開かれ、地域の人たちがその遺徳を偲びました。
「道程」や「智恵子抄」などの詩集で知られ、彫刻家としても活躍した高村光太郎は、1945年5月、戦火を逃れて東京から花巻に移住しました。7年間を過ごした地、花巻市太田では、毎年、命日の4月2日に詩碑前祭が開かれています。六十四回忌のきょうは生憎の雪で、会場を初めて高村光太郎記念館の中に移して行われました。参加者が朗読した詩の中には、光太郎が花巻の雪景色を初めて目にした際の作品もありました。
「雪白くつめり。雪林間の路をうづめて平らかなり。ふめば膝を没して更にふかくその雪うすら日をあびて燐光を発す」
「わたしらも今70歳ですから、あと3つで先生が亡くなった歳に近くなるんですよね、それで今度新しい『令和』を迎えて、感無量なところがございます。詩の朗読会を通じて先生のことを理解していただければなと思います」(高村光太郎記念会・照井康徳さん)
参加者たちは合わせて10の詩に親しみ、当時に思いを馳せて故人を偲んでいました。

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午後からは、花巻市街の松庵寺さんに会場を移し、連翹忌法要。

岩手朝日テレビさんのニュース。

高村光太郎の命日 花巻の寺で法要

4月2日は詩人や彫刻家として活躍した高村光太郎の命日です。
これに合わせてゆかりのある花巻市の寺では法要が行われました。
詩集「道程」などで知られる高村光太郎は1945年に宮沢賢治の弟・清六の家に疎開し、戦後7年間を花巻市で過ごしました。
法要は光太郎が妻・智恵子の命日に訪れていたという松庵寺で毎年行われていて、今年は地元の関係者やファンなどおよそ20人が出席しました。
厳かな雰囲気の中、参列した人たちは光太郎の遺影を前に焼香して手を合わせました。
最後に小川隆英住職が光太郎が松庵寺で詠んだ詩を紹介し参列者全員で先人をしのびました。


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とおっしゃるのは、生前の光太郎をご存じの、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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同じく松庵寺さんの小川住職


NHKさんでは、詩碑前祭・法要ともに報じて下さいました。法要を先に、詩碑前祭を後にと、時間的な順序は逆でしたが。

高村光太郎の命日に花巻市で法要

詩人で彫刻家の高村光太郎の命日だった2日、戦時中に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
高村光太郎は、昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失ったあと、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開し7年間を過ごしました。
73歳で生涯を閉じたのは東京ですが、花巻市双葉町の松庵寺では毎年、命日に、光太郎が好きだった花の名前から「連翹忌」と呼ばれる法要を営んでいます。
2日も長年のファンなどおよそ20人が集まり、住職から昭和20年に光太郎が作った「松庵寺」という詩について、「妻の智恵子や母をしのんでこの寺でおつとめし、優しい心がうかがわれる」と説明を受けるとその人柄に思いをはせていました。
毎年、レンギョウの花を手向けている倉金和子さんは、「50回忌から続けています。光太郎先生は山の中で1人で苦労したと思うので生きている限りは続けたい」と話していました。
また、光太郎が疎開暮らしをした山荘近くにある「高村光太郎記念館」には、市民や子どもなどおよそ50人が集まりました。
そして、雪深い花巻での暮らしをつづった詩、「雪白く積めり」などを朗読して光太郎をしのびました。

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盛岡放送局の上原アナ。直接は存じませんが、年に数回花巻や盛岡に泊まるたび、テレビを通じ流れてくるそのシブ~いお声に魅了させられています(笑)。

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詩碑前祭・連翹忌法要、ともに末永く続けて行っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

此の狩野派流の課程には中々意味の深いところがある。いきなり自由画式に放任しないで、古画の伝統に十分親炙させるといふのは、つまり絵画の持つ絵画性といふものを何時の間にかのみ込ませようとする方法と見るべきである。広く言つて其の造型性、造型性の中の絵画性、何故絵画が絵画であり得るかといふ要因を言説に拠らず、古画への直接の見参によつて了会させようといふのである。
散文「姉のことなど」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

明治25年(1892)、光太郎10歳の時に早世した6つ上の長姉・さく(咲子)の思い出を語る文章の一節です。さくは狩野派に絵を学び、15歳にして「素月」の号を許されていました。