昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

順を追ってレポートいたします。
千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。
まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。
予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。




建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。
その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。


巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。
そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。
さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。
続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・髙村豊周令孫の髙村達氏(写真家)の音頭で、献杯。


しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。


菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。
詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。


同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。
さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。




最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。
本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。
昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。


単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。
そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。
来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。
繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。
よろしくお願いいたします。
【折々のことば・光太郎】
私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。
散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。
昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。
今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。